#旧今井家住宅
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2024.06.30(日)
茅の輪をくぐり身を清め、今年もあと半分、家族共々無事にすごせるように祈願してきた。
その後福井駅前の「芝寿し」で「夏の野菜たっぷり弁当」を購入し、越前古窯博物館 旧水野家住宅へ出向いてお弁当を食し、陶ふうりんに癒されたそんな梅雨の一日。
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【かいわいの時】天保八年(1837)二月十九日:大坂町奉行所元与力大塩平八郎決起(大阪市史編纂所「今日は何の日」)
難波橋を渡った大塩軍は、二手に分かれて今橋筋と高麗橋筋に進みます。森鴎外の『大塩平八郎』には次のように描写されています。
方略の第二段に襲撃を加へることにしてある大阪富豪の家々は、北船場に簇(むら)がつてゐるので、もう悉く指顧の間にある。平八郎は倅格之助、瀬田以下の重立つた人々を呼んで、手筈の通に取り掛かれと命じた。北側の今橋筋には鴻池屋善右衛門、同く庄兵衛、同善五郎、天王寺屋五兵衛、平野屋五兵衛等の大商人がゐる。南側の高麗橋筋には三井、岩城桝屋等の大店がある。誰がどこに向ふと云ふこと、どう脅喝してどう談判すると云ふこと、取り出した金銭米穀はどう取り扱ふと云ふこと抔(など)は、一々方略に取り極きめてあつたので、ここでも為事(しごと)は自然に発展した。只銭穀の取扱だけは全く予定した所と相違して、雑人共は身に着つけられる限の金銀を身に着けて、思ひ/\に立ち退いてしまつた。鴻池本家の外は、大抵金庫を破壊せられたので、今橋筋には二分金が道にばら蒔まい���あつた。(七、船場)
この時の模様は、被害に遭った商人側でも詳細な記録が残されており、たとえば、三井文庫所蔵の史料「天保七年 浪速持丸長者鑑」(写真=コメント欄)には、焼き打ちされた商家に赤線が引かれています。ランク順に並べてみると
鴻池善右衛門(総後見)、三井呉服店(行事)、岩城呉服店(行事)、米屋平右衛門(東小結)、鴻池他治郎(西小結)、鴻池正兵衛(西前頭)、米屋喜兵衛(西前頭)、日野屋久右エ門、炭屋彦五郎、米屋長兵衛、甥屋七右衛門、和泉屋甚治郎、鴻池徳兵衛、長崎屋与兵衛、米屋与兵衛、泉屋新右衛門、紙屋源兵衛、小西佐兵衛、越後屋新十郎、よしの屋久右衛門、大庭屋甚九郎、昆布屋七兵衛、さくらいや八兵衛、平野屋喜兵衛、某
など、25商(店)の名前があがっています。今橋筋、高麗橋筋の商家は軒並み焼き打ちに遇っています。肥後橋の加島屋久右衛門(西大関)はコースから外れていたため難を逃れたようです。
(写真)「天保七年 浪速持丸長者鑑」1837(公益財団法人 三井文庫蔵) 相撲の番付表のように商人をランキングした表で、大塩の乱で被害を受けた商家に赤線が引かれている。三井、鴻池などが被害にあっていることがわかる(三井広報委員会)。
また、諸家の記録から、事件当日の様子や対応策、その後の復旧策を見てみると
(鴻池家)加島屋某筆とされる『天保日記』(大阪市立中央図書館所蔵)では天保八年(一八三七)二月十九日、火見台から望見して「鴻池本宅黒焰大盛二立登、其恐懼シキ事不可云」、幸町別邸めざして落ちのび、そこで加島屋某らが「鴻池於隆君・勝治・和五郎」らと無事出あうところが生々しくえがかれている。和泉町の鴻池新十郎家の記録 『北辺火事一件留』(大阪商業大学商業史資料館所蔵)でも、鴻池本家当主の善右衛門が土佐藩邸、長音は泰済寺、そのほか瓦屋町別荘などへ逃げ、鴻池深野新田農民をガードマンとして急遽上坂させるなど、その被害状況や防衛対策が丹念に記録されている。
(三井呉服店)三井では、同日三郎助高益(小石川家六代)が上町台地の西方寺に避難し、「誠に絶言語、前代未聞之大変にて」と、 ただちにレポを京都に送り、木材・釘・屋根板・縄莚などをすぐ仕入れ、はやくも三月八日に越後屋呉服店大坂店の仮普請完成=開店している様子が詳細に記録されている。(コメント欄参照)
(住友家)住友家史『垂裕明鑑』には、大塩事件のまっただなかで、泉屋住友が鰻谷(銅吹所その他)から大坂城にむけて鉛八千斤(弾丸)を三度にわけて必死で上納運搬したこと、事件による住友の被害として、「豊後町分家、別家久右衛門・喜三郎掛屋敷の内、備後町・錦町・太郎左衛門町三ケ所延焼」に及んだこと、そして住友の親類の豪商としては、「鴻池屋善右衛門、同善之助、平野屋五兵衛、同郁三郎」家などが軒並み“大塩焼け”で大きな被害をこうむったこと等々が、 生々しく記されている。
三井家では、享保の大飢饉の後に起きた江戸における打ち毀し(1733年)に衝撃を受け、以後、食料の価格が暴騰すると近隣に米や金銭を配って援助したり、また飢えた人々に炊き出しをしたりするなど、三都(江戸・京都・大坂)において施行を継続しています。それが、大塩平八郎の乱では標的にされ、襲撃された大坂本店は全焼、銃撃による負傷者まで出るほどであったと伝えています(三井広報委員会)。
儒学者の山田三川が見聞きした飢饉の様子や世間の窮状を日記風に書き留めた『三川雑記』には、乱の前に大塩は鴻池・加島屋・三井の主人らと談じ、富商十二家から五千両ずつ借りれば六万両となり、これで何とか八月半ばまでの「飢渇」をしのげると、「しばらくの処御取替」を依頼していたとあります。同意した加島屋久右衛門は襲われず、三井と鴻池は反対したため焼き打ちに遭ったとも言われています(山内昌之)。
ただし、『浮世の有様』の天保八年雑記(熊見六竹の筆記)には、この話は「或説」として取り上げられており、それによると、「十人両替へ被仰付候処、町人共御断申上候筋有之」とあります。三井はもちろん、鴻池や加島屋にも記録はなく、風評の域を出ないものと思われます。
(参考文献) 中瀬寿一「鷹藁源兵衛による泉屋住友の “家政改革”-大塩事件の衝撃と天保改革期を中心に-」『経営史学/17 巻』1982 三井広報委員会「三井の苦難(中編)」三井グループ・コミュニケーション誌『MITSUI Field』vol.39|2018 Summer 山内昌之「将軍の世紀」「本当の幕末――徳川幕府の終わりの始まり(5)大塩平八郎の乱」文芸春秋2020 山田三川『三川雑記』吉川弘文館1972 矢野太郎編『国史叢書 浮世の有様』1917
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山梨県富士河口湖町にある中国資本ホテルが「あなたの家の木のせいで富士山がよく見えない」という理由で隣人宅のヒノキを無断で伐採、さらに除草剤を注入した事件。 週刊現代は2024年2月に『「富士山が見えないから切った」…中国資本のホテルが隣人宅のヒノキ23本を無断伐採した、「身勝手すぎる言い分」』でいち早く詳報した。 その後、器物損壊の罪に問われた実行犯の中国人男性に対し、甲府地裁は12月2日、求刑通り罰金30万円の判決を言い渡した。 「この件は本来、隣人とのトラブルなので内々の話し合いで収めたいと考えていました。ところが、ホテル側からは誠意ある対応が一度もなく、あまりにも倫理観が欠如していたため告発を決意しました。被害発生から3年近く経ちますが、まずは実行犯に対する処分が決まって安心しました」 こう安堵するのは、被害者の井上さん(仮名)だ。 2021年10月、敷地内の雑木林の一部を伐採する工事作業完了の挨拶のためにKホテルを訪れたときに撮影 2022年1月、敷地内の枝が無断で伐採されていることに気づき、事情を聞くためにKホテルを訪れたときに撮影 まずは前代未聞の事件を振り返る。複数の事業を営んできた井上さんは、終の棲家として富士山を一望できる高台の土地を購入して別荘を建築した。敷地の背後にはインバウンド向けのホテルがあり、HPでは「富士山の眺望」をアピールしていた。 「もともと富士山が見える客室は数室だけで、宿泊者から不満が出ることもあったようです。別荘の建築を始めると、ホテル側から『あなたの土地の雑木林が邪魔をしていてホテルから富士山を見ることができない。ホテルの眺望を良くするために木を切ってくれないか』と打診があり、プライベートを守るために一部だけ残して雑木林を伐採しました。ところが、富士山の眺望にこだわるホテル側はプライベートを守るためのヒノキの伐採も求めてきたのです。 先方の求めに対し、『では、そちらが塀を立てるなど代替案を出してくれないか』と伝えたところ、『プライバシー保護のために別途塀を立て、その費用を負担することもやぶさかではない』という趣旨の提案がありました。ところが、費用は一部しか負担できないというのです。そもそもヒノキの伐採に応じる義務はありません。そこで、『それだと難しいですね』と提案を断ると、まさかの出来事が起きました」(井上さん) ホテル関係者が「内部告発」 なんと、ホテルの関係者が井上さんの別荘の敷地内に不法侵入し、勝手にヒノキの枝を伐採してしまったのだ。非常識な行動は伐採だけではなかった。伐採された木の根元には直径2センチほどの穴があけられており、木を腐らせるためにグリホサートという除草剤が流し込まれていた。多数の事業を手掛け、法令遵守を徹底してきた井上さんにとって予想もしない事態だった。 枝をバッサリ切られてしまったヒノキ 根本には直径2センチほどの穴があけられており、除草剤が流し込まれていた 伐採および除草剤注入があったのは、2021年の年末から翌年の年始にかけて。ちょうど工事業者などの出入りがない時期だった。 「いくらなんでもやりすぎ。さすがにひどい」と心を痛めたホテル側の関係者からは「ホテルの眺望をよくするためという理由で経営者が従業員らに命じてヒノキを伐採させたのを現地で確認した」という情報提供があった。また、防犯カメラの映像を確認すると、経営者がヒノキの枝を片づける男性に謝礼を渡している姿も写っていた。 井上さんはホテルを訪れて『どういうことか?』と尋ねた。だが、ホテル側は『知りません。何のことだかわかりません。おたくが自分で切ったんでしょう』の一点張りだった。 河口湖にあるKホテル。近くには有名女優の別荘も建つ 前代未聞の行為に及んだホテルは富士河口湖町の別荘地にあるK。開業はコロナ渦の2020年12月。経営母体はAという中国籍の男性が代表を務めるM社で、Kホテルのほか、ジャパニーズウィスキー専門のウイスキー博物館や日本語学校を運営している。 「もともと中国資本のホテルとは知りませんでしたが、のちにその事実を知りました。その後、ホテルの中国人経営者から『会いたい。話がしたい』との要望があり、恐怖を感じていた私に代わって、代理人が面会しました。 経営者は通訳を通じて『仲良くしたい』『隣人としてちゃんと付き合いたい』と一方的に話すだけであり、こちら側が『切ったんですよね』と聞いても『私は知らない』『やってない』と否定するだけ。誠意の欠片もありません。それどころか、彼の側近は『私たちは日本の警察には捕まらない』と豪語していました」(井上さん) 「経営者から依頼された」実行犯が法廷で証言 Kホテルの経営者であるA氏からは、その後も謝罪はおろか、誠意ある対応は何ひとつなかった。 「枝を切られ、除草剤を注入されたヒノキは23本。しばらくすると朽ち果てました。仮に倒れて周囲に被害が出てしまった場合、所有者である私の責任になります。そこで、除草剤を注入されたヒノキはすべて処分しました。 一方で、ホテルは何事もなかったかのように営業を続け、インバウンド客で賑わっていました。やりたい放題は許されるのか。やり場のない怒りをどこにぶつければいいのか途方に暮れました」(井上さん) 除草剤によって腐り、倒れてしまったヒノキ 井上さんは除草剤によって腐ってしまったヒノキ23本を処分することになった 困り果てた井上さんは、2023年1月に被害届と告訴状を富士吉田署に提出。不安を抱えながら捜査の進展を待った。ようやく事態が一歩進んだのは、被害発生から2年半以上過ぎた頃だった。井上さんの代理人が明かす。 「実行犯グループのうち主犯のRという中国人男性が今年9月4日に器物損壊罪で逮捕されました。RはAの旧知の人物であ���、Kホテル建設時には造園の仕事を担当していた。その後、残りの実行犯2人も逮捕されました。 Rは当初、容疑を否定していましたが、『Aからの依頼を受け、犯行に及んだ。他人の土地だとわかっていたが、無断で侵入し、毒を入れて木を切った。ほかの2人には私が指示した』と容疑を認めました。 なお、主犯のRが『依頼されたのは自分だ。2人は自分に指示されただけであり、他人の敷地だと知らなかった』と主張したこともあり、残りの実行犯2人は不起訴となり釈放されました。 公判にはRの妻も出廷し、『私が責任をもって更生させます』と情状酌量を求めていました」 実行犯逮捕の翌日に「日本脱出」 Rは80万円で無断伐採と除草剤注入を請け負ったという。伐採を断らなかった理由について、Rは次のように明かした。 「依頼者とは数年前に知り合い、何度か内装の仕事を受注していた。依頼者から『すでに施工完了した内装の未払い分の代金と伐採費用を一緒に支払う』といわれた。伐採を断ると未払いの施工代金が支払われない可能性があった。さらに依頼者から『何かあったら自分がすべての責任を取る』といわれ、伐採してしまった」 Rらの行為は許されるものではないが、A氏に金銭で依頼された実行犯であり、首謀者はA氏だ。 「Aの動きは早かった。実行犯の逮捕を受け、Aは妻子を置いて翌9月5日に出国し、現在も行方がわかりません」(井上さんの代理人) Kホテルからの富士山の見晴らしは良くなっていた(2024年3月下旬、ホテルを取材した際、記者が撮影) A氏の自宅は千葉県松戸市内の高台にある豪邸だ。近隣住民が言う。 「以前はパチンコ屋を経営する在日の方が住んでいましたが、3年ほど前に2億円で売りに出され、Aさん一家が引っ越してきました。お年寄りから子どもまで大人数で暮らしているようです。日本の常識が通用しないところがあり、引っ越してきた当初、ゴミ捨てをめぐるトラブルなどが相次ぎました。ご主人も奥さんも日本語をあまり話せません。通訳を介さないとやりとりできないので大変でした。そういえば、ご主人はしばらく見かけませんね」 インターホンを押すと、女性が対応したが、何を聞いても「日本語がわからない」と繰り返す。代わりに出た女性も「(Aは)海外に行っている。河口湖のホテルの件は何もわからない。弁護士に連絡してくれ」と話すのみだった。
「私たちは日本の警察には捕まらない」…隣人のヒノキを無断伐採した《富士山が見える中国資本ホテル》の実行犯が逮捕、実刑判決も中国人経営者は「国外逃亡」(週刊現代) | 現代ビジネス | 講談社(1/4)
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役者紹介🚃💨🍩🍗
どうも、らびです。ビアゲ編も書き足したぞ。34期の皆さんは最後まで読んでくれると嬉しいな
【栞編】
今回のキーワードとなる「環状線」にちなんで、おそらくこの中で最も環状線を知ってるであろう私が、皆さんに似合いそうなオススメの大阪環状線の駅を書いていきたいと思います。被っても知らん。
〇園堂香莉
大阪城公園
お散歩してそう。あの辺はお散歩にちょうどいいですからね、自然も綺麗でお城もあるし。かなりオススメです。古墳好きな人はお城も好きなんでしょうか
〇近未来ミイラ
寺田町
あの、ほんま、この駅ってなんも無…簡素で素朴なエリアなんですよね。素朴な舞台が好きなみーらのセンスと近しいものがあるような気がしなくもない。それにしてもほんまに何も無いこの駅。でもみーらなら独自の着眼点で何かを見出せそう
〇たぴおか太郎
大阪
キディランドもユザワヤもありますからね。間違いなく大阪駅でしょう。それはそうと、あそこのちいかわらんどって絶対にもっと広くするべきだと思いませんか?
〇錫蘭リーフ
福島
オフィスカジュアル的な衣装がとても似合ってるのでオフィス街でおなじみのこの駅で。でもほんまにあのオシャレなオフィス街歩いてそうなんだよな
〇帝京魂
京橋
京橋怖いよな。特に夜なんて怪しげな人が沢山いるし…でもこの辺色々ラーメン屋さんとかあるイメージですね。でもあんまり知らない。京橋怖いので
〇森々仙入
西九条
ユニバが似合いそう。ということでユニバに繋がってる西九条駅をチョイス。ユニバのクルーにいそう。私もユニバ行く時にしか使ったことないので西九条に何があるかが分かりません。
〇箏
福島
中之島の近くでもあるのですが、中之島のあたりは景色が美しいですねー。川沿いにおしゃれな建物が沢山立ち並んでいて緑も多くて…そんな景色がルーベにピッタリではないかなと
〇苔丸
弁天町
駅に隣接して空庭温泉という大型温泉施設があります。温泉だけでなく写真スポットやらレストランやらが沢山融合していて楽しい場所なので是非
〇響夜
芦原橋
ここには教習所があります。ここの教習所はなかなか難易度が高く、普段から千日前筋など大都会を走ります。ここに最狂のドライバーなびやをブチ込んだら一体どうなるんでしょうか。
〇ミル鍋
桃谷
この辺はオシャレなお家が多いですからね〜お金持ちの凝りに凝った家がちらほらあります。建築巡りしても楽しそうです。
〇あろハム権左衛門
福島
福島には美味しい飲み屋が沢山あるので、オーストラリアのパーリーで初手ジントニックをキメたあろハムならやっていけるでしょう。
〇アリリ・オルタネイト
玉造
住宅街のイメージなので街にいるネコちゃんと触れ合いますね。あと近くの空堀商店街には猫カフェがいくつかある。オススメです。
〇〆切三日前
天満
商店街があって美味しい飲食店が沢山あります。かなりオススメ。市場もあるから芋も売ってるかも…新鮮な食材が勢ぞろいしてます
〇黒井白子
森ノ宮
森ノ宮には実は漫才劇場があります。ここでよくお笑いライブがやってるんですよねしかもなかなか豪華!あと普通に劇場もある。演劇も観れてピッタリやん
〇中森ダリア
鶴橋
コリアタウンあるからね、間違いない。鶴橋は少々治安が悪いのですが、あのゴチャゴチャ感はアウトロー好きのひらりなら問題ないでしょう。
〇きなこ
桜ノ宮
環状線で春にここを通ると川に沿って桜がいっぱい咲いててすごい綺麗なんですよね。雰囲気的に桜が似合いそうだなぁと思ってのチョイスです
〇暁レミエル
天王寺
放課後の天王寺にいそう〜〜JKが似合うのでJKが沢山いる天王寺です。画材屋さんもあるよ。あとアクセスが良い!でも阪大からは遠い
〇肆桜逸
大阪
都会の眩しさに圧倒されてほしいです。ちなみに大阪駅には「LUCUA1100」って建物があるのですがこの読み方ご存知ですか?
〇埖麦
天王寺
めっちゃ放課後天王寺にいそう2。高校生が似合うからかな。この辺の高校生は放課後天王寺のフードコートやらでたむろしてます。いそう
〇紫苑
新今宮
カオスと混沌の街、新今宮———。こんな場所になつめを突っ込んだらどうなってしまうのでしょうか…そのカオスさを見てみたいですね。でも新今宮に行くのはオススメしません。どっちやねん。オススメしろよ。
〇水琴冬雪
大阪城公園
カメラをやっているので。何と言っても景色が綺麗で撮りごたえのある場所なのではないかなと思います。春は梅や桜が沢山咲いててカメラマンも多いですよ
【BE YOU AGAIN 編】
BE YOU 「揚げ」INということで、みなさんにオススメの揚げ物を書いていきたいと思います。みなさんにオススメのと言いつつも、みなさんを揚げ物に例えると、みたいな趣旨になっているかもしれません。
東愛莉
ごまだんご
おさげ髪がよく似合うので。両手に持ってて欲しい
大良ルナ
ハムカツ
ピンク色がよく似合うので。頬張っててほしい
児
カキフライ
独特の雰囲気がありつつも魅力的である
うみつき
白身魚のフライ
サッパリしている、ぽい
統括のフォーニャー
チーズホットグ
キラキラしているから
緒田舞里
エビフライ
みんな大好きで華がある
白
大葉の天ぷら
爽やかだが渋さもある
埖麦
ポテトフライ
若者のジャンキーな雰囲気がぽい
岡崎仁美
竜田揚げ
唐揚げではなく竜田揚げ
雨々単元気
ししとうの天ぷら
辛いやつに当たって良い反応しそう
舞原の絞り滓
オニオンリング
めっちゃなんとなくやけど、ぽい
じゃがりーた三世
串カツ
中身が全然わからない
オーム
コロッケ
声の雰囲気がコロッケの中身の感触に近い感じがするので
テキストを入力
ごぼうのの唐揚げ
細い
縦縞コリー
唐揚げ
唐揚げバカ
大福小餅
揚げパン
甘党すぎるから
叶イブ
チュロス
甘くて可愛いものが似合う
アリリ・オルタネイト
揚げ春巻き
グローバルな感じがするからです
はぜちかきつ
カツ
王道。似合う。
おや…役者紹介の様子がおかしいぞ…
▶︎役者紹介が団員紹介に変化した!
という訳で34期の皆さんには真面目なやつを書いていきたいと思います。
◯たぴおか太郎
稽古日誌とかコラ画像の感じとか見ていたら一見激ヤバな狂人だと思いきや、誰よりも優しくて気遣いの天才で努力家な素敵な方です。なすかさんがいないと成立しなかった事、沢山あるかと思います。あとセンスも大好き。今度の公演も楽しみにしています!
◯岡崎仁美
もはや友達。いっぱい遊びに行ってるもんね〜☺️時にはズバッと厳しい意見も言い場を締める役割は、下手したら嫌われ役になってしまう可能性もあるのに、それが出来るのは普通じゃないです。すごい。ヌピというデカい柱が無くなってしまうことは少し不安もあります。引退しても遊びに行きましょうね!
◯水琴冬雪
オムニに出てなかった私にとっては感謝してもし足りない人です。「らびはもうオレンジ班だからねー」って終礼に入れてくれた事にも大入りを書いてくれた事にも助けられました。嬉しかったです。今役者を出来ているのもベガさんのおかげだと思っています。宣美も、最後にまたベガさん脚本の担当が出来て良かったです。
◯緒田舞里
色んな意味でこうなりたい人。活動内容の特性上でしょうか、ちゃうかを楽しいとは思いつつもその下にはずっとしんどさもあって、でも外公終わりに色々お話しした時にそんな自分がなんかもう色々成仏しました。ありがとうございます。まりおさんは、「この人にそう言ってもらえるなら」と思わされる位偉大で、でもどんな人にも寄り添える素晴らしい先輩です。こうありたいと思う人です。
◯肆桜逸
絶対稽古場作業場吹田にいて欲しい。この人がいれば絶対その場が面白くなるからです。今年入ってから急激に仲良くなった気がします。インターネットの話するの楽しいですね😃引退しても吹田支部(旧)しましょうね。俺は吹田が大好きなんだよ!!
◯児
もう奇怪な動きをしたり美声を響かせてるこたちさんの姿が稽古場から無くなると思うと寂しいですね。自分の中でがっころの演出を出来た事は色んな意味で大きかったと思っていて、その点ではめちゃくちゃ感謝しています。次の公演も楽しみです。
◯らっしー
座長になるべくしてなった方ですね。らっしーさんのホワッとした雰囲気はちゃうかに安寧をもたらしていることでしょう。個人的には私服がカッコよくてめっちゃ好きです。進撃の巨人の服もかっこいいと思ってます。本当です。
◯統括のフォーニャー
なんでも肯定してくれる優しいネキ。個人的にはもっとお話ししてみたかったし、役者ももっと見てみたかったなと思っています。全然関わりの強い訳でもない私が言うのもなんですが、強くてしたたかな方だなと思っています。
◯舞原の絞り滓
外公で共演できて嬉しかったです。もっとお話ししたいと思ってたので。横から聞こえるまほろさんのクソデカ声、いまだに恋しいです。だーがーしかーし‼️まだまだ知らないこともあると思います。願わくばまたその機会があらんことを…
◯じゃがりーた三世
結局この人のことを何も分からないまま引退してしまいそうです。本当不思議な方です。なんでそんな、後輩にもめちゃくちゃ敬語なんですか…?でも時々芯食ったことを言うので怖い。
◯アリリ・オルタネイト
ボス。舞美のね。猫みたいにフラッとどっかに行ったかと思えばフラッと戻ってきて頼りになる人。かっこいい。よくよく考えたらめちゃくちゃハイスペックなことを思い出してすげぇ…となるやつを何回もやってます。
34期、フォーエバー
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【有志演奏会 in 気仙沼 DAY1】団員レポート
今回の有志演奏企画は気仙沼市にて、2月3日から4日の二日間にかけて行われました。
演奏に参加したメンバーは15名、引率や事務局も併せると22名という大所帯での活動になりました。
それでは1日目の活動報告からはじめていきます!
2月3日、1日目の活動は移動から始まりました。こちらは朝10時ごろに出発した仙台組の写真。まずは福島組との集合地点、道の駅大谷海岸に向けて出発です!
道中でも楽しんでいるようです。こちらは福島組、南三陸さんさん商店街での写真ですね。我妻姉弟とキャプテンはカニ汁休憩中。
およそ2時間の移動が終わり、気仙沼市にある道の駅、大谷海岸に到着しました!ここではみんなで昼食タイムです
福島組・仙台組が集結し、近くの砂浜で記念撮影です。
腹ごしらえもしたところで、ここからは気仙沼の震災遺構をめぐる研修へと出発します。
語り部の方と合流して、まずは杉ノ下地区の慰霊碑へ。
団員たちが訪れたのは、震災当時杉ノ下地区の避難所として指定されていた11mの高台です。多くの住民の方が避難していたこの場所には、想定をはるかに超える約18mもの津波が押し寄せ、地区全体で93名の方が亡くなりました。慰霊碑は、遺族会の方々が2012年に建立したものです。
続いて向かったのは、岩井崎にある「龍の松」です。龍の松は、潮吹き岩でも知られる岩井崎にある一本松です。津波被害をうけてなお、姿を変えて立ち続けたこの松は、気仙沼復興のシンボルの一つです。
階上地区で最後に向かったのは「命をすくったケヤキ」です。住宅が一軒ある岬に生えるこのケヤキには、津波から逃れてきた住民の方々が梯子を上ってしがみつき、8名の命を救いました。ケヤキは明治三陸大津波の際に植えられたものだそうです。
ここでは今回企画を支援してくださったLAFFOO関西支部さんと私たちを繋いでくれた、足利さんともお会いしました。
階上地区から移動して、今度は旧阿部家住宅「命のらせん階段」を見学しました。こちらは1960年のチリ地震を教訓として東日本大震災の4年前に設置された、私設の垂直避難場所です。日ごろから訓練が行われていた結果、震災当日は30名が避難できました。
いよいよ1日目の研修も大詰め。最後に向かったのは「気仙沼市復興祈念公園」です。
犠牲となった方々の名前が刻まれた碑を見学した後、改めて1日を過ごした気仙沼湾を望みます。
さて、3時間を超える研修を終えて向かったのは練習会場!
今回は気仙沼湾に面する施設、「気仙沼市まち・ひと・しごと交流プラザ」の音楽スタジオをお借りして、翌日の本番に向けて練習しました。
移動の疲れも見せず、真剣に練習に取り組みます。
練習のあとは、腹ごしらえですよね!ホテルに荷物を預けて、宣伝で協力してくださった、「アンカーコーヒー」さんで夕食です!
英気を養ったところで、1日目は終了、次の日はいよいよ本番です。
2日目の様子は後半に続きます!
東北ユースオーケストラ有志演奏係 Tb.福澄茉音
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【海外文轩】杨秋生小说 | 走出Google Map 的魔咒
Original 杨秋生 海外文轩 2023-12-04 08:07 Posted on 美国
她竟然在Google Map 的街景图里看到他。
她是个自雇会计师,那段时间她每天固定要去两个地方,中间有一个小时的空档。两个地方蛮近的,如果办完第一件事回家,大概也只能休息10分钟,又得出门了。她就想,不晓得两个地方附近有没有什么公园,或者有树荫可以遮蔽烈阳的地方?就趁那个空档时间走完每天规定自己的一万步。
于是她利用Google Map 的卫星图一路寻找看看。
她发现那儿附近有一片新兴的住宅区,外围规划了弯弯曲曲的步道,步道边上种了一棵又一棵苍苍郁郁长得相当繁茂的树,正合她的心意。但卫星图是从空中俯瞰往下照的,看不出实地走过住家的模样,于是将卫星图转为街景图。这一转,清晰的马路与房舍立刻映入眼帘,真实地让人身历其境。她的手指不断地顺着像是新开发的社区步道一段一段滑过去,整个社区规划得极好,房子设计也很新颖。滑着滑着,她居然看到一个年轻的妈妈牵着一个小女孩,像是正在过马路。她像发现了新大陆似地,兴致一来,重新回到原始设定地图,找了一个公园,再转换成街景,竟然看到一群年轻人正在公园聚会,如此传真,她似乎都能感受到公园里热闹的气气氛了。

Google Map卫星图
她像着了魔似地,打入自己家的门牌号码,想看看自己家在Google Map里是什么样子?
她看到了她那辆看起来像新的一样的丰田卡罗拉孤伶伶地停在车道,靠马路的白色围牆上攀爬着开得正盛的亚当玫瑰,衬托着翠绿的草坪十分美丽。
她不由想起他。
自从她对隔壁街道一家白围牆上攀爬着美丽的亚当玫瑰赞口不绝后,他便将前院靠马路的草坪产去一大片,搭上矮围牆,每隔几尺种上一棵带着仙气的亚当玫瑰。几年下来,玫瑰越开越盛,那道花牆成为他们那条街最美丽的风景,见证着他们的爱情。
她以为她已将他封尘在记忆的深处里了,而面对着Google Map 里她家的屋子,一切如此真实,彷彿触手可及。她忍不住将手按在她称之为「爱庐」的精致屋子,不停地放大、放大、放大,想看能不能在窗口边捕捉到他的身影。
寻找他的身影的念头像一块石头,丢入她已然平静的心湖,激起一圈又一圈的涟漪。过去的记忆瞬间翻江倒海而来,一股极为难受的情绪堵住胸口,眼泪掉了出来。
她自来是没有什么方向观念的,往往转个弯,就不知道东南西北。而他的脑袋就是一个GPS,根本不需要任何的帮助,一定能够顺利找到目的地。

Google Map街景图
他宠着她,只要她想到那里,他就开车带她去。后来她上班,他陪着她从家里到公司好几趟,确定她记住了来回的路线,才让她自己开车去上班。
她顺势依赖着他,感觉她是世界上最幸福的人。
日子就像他脑袋中的GPS,轨道从来没有出错过,而命运却让她错过了所有的轨道。
那年夏天,热浪来袭,夜里她忽然惊醒,屋外像有什么窸窸窣窣的声音,听起来像风吹着叶子的声音,也有一点像刚下起豆大雨珠的声音。床边他的位子是空的。她想应该已经是深夜了,夜里有时他睡一觉会醒来,便起身到书房打开电脑做点事,累了,再回来睡个回笼觉。她一时也睡不着,下了床,穿过走道,打算也到书房。走到一半,却看到紧邻餐厅的家庭间有着微弱的灯光透出来。
家里的灯都是可调整亮度的,调到那么微弱的光线,感觉上很不寻常。
她悄悄走过去,停在门口,伸个头往里望——她清楚地看见他坐在沙发上的一角发着呆。原来他并没有开灯,而是外头满月的光透过偌大的玻璃窗照了进来。分明是夏天,月光却带着寒气,让他看起来像冰雕出来似的。
她一下子什么事明白了。
他喜欢小孩子,她也是。
虽然他是独生子,即使婆婆没事就要叨上几句,可是他从来不催她,给她最大的自由选择。
她太爱他了,婚后倒是一心准备着迎接属于他们两个的新生命。
可是,一个月又一个月,他们都错过机会。
送子娘娘似乎忘了他们的存在,五年过去了,婆婆的脸越来越难看,说出的话也越来越恶毒,连他都缓和不了,他们只好约着去看不孕症医生。
妳动过卵巢巧克力囊肿的切除手术吧?
当医生这样问她的时候,她的心一震。
那是好久以前的事了。
青春期时候,她每个月到了固定时间都痛不欲生,需要请假,妈妈带她去看医生,检查出两侧卵巢都有大到必须开刀切除的巧克力囊肿。医生信誓旦旦地说,经痛、经期不规则、经血量增加、骨盆疼痛都是不可避免的,有可能日后会导致经血逆流引起骨盆腔炎,甚至蔓延到腹膜引起致命腹膜炎,只有开刀一途。腹腔镜手术伤口很小,复原也快,刀到病除,不影响卵巢功能的运作,仍具有生育能力。那时光听到肿瘤都吓到了,若还会引起腹膜炎,更令人不安,既然还能生育,便顺了医生的建议。
妳的卵巢功能已经衰退得很严重了,妳知道吗?
眼前医生推了推鼻樑上的眼镜,试着用最温柔的语气对她说。
她看到他的脸刷地像诊疗室的牆壁一样白。
那怎么办?他急切地问。
只有人工受孕了。医生说。
她像掉入地狱,有种被欺骗、不得超生的感觉。当年开刀的时候,医生分明告诉她,她仍将拥有生育能力啊。医生说的是事实,可是没告诉她,生育的机率却是非常非常低。
回家的路上,两人都没说话。
他们转往中医诊疗,期待经由中医治疗或许可以自然受孕。
她一喝中药就干呕,呕至眼泪都流出来。每次婆婆来看她干呕都以为她怀孕了,她也想这样欺骗自己。
日子变成只剩下羞辱和痛苦,没有欢愉。
拖了一年,她感觉虚耗的不只是珍贵的适孕黄金期,一直引以为傲如鱼得水的悠然自适,滋养着对方的婚姻,不知不觉紧绷起来。她觉得自己像一只随着水温加高的水煮青蛙。他们自来无所不谈,没事就爱腻在一起;尤其睡前总喜欢说说笑笑打闹嬉戏一番再相拥安心睡去,而现在,两人总是各怀着心事安安静静地躺着。有时她想挨过去贴着他温暖的身子,却觉得一道无形的牆卡在两人中间。她好想和他说说话,却找不回熟悉亲密的感觉,疏离感越来越强,让她觉得他似乎越来越陌生了,话到唇边,就让棉被覆盖着,重重地压在身上沉沉睡去。他的个性原本就温和随和不挑剔,很容易就会忽略他的感受。生活一路下来都是以彼此习惯的方式进行,被医生宣判无期徒刑后,她感觉即是两人摸得到相互的身体,却触及不到彼此的灵魂。有时她不免想,他们完美的婚姻,会不会只是她一厢情愿的幻觉,自始至终她是活在灵魂伴侣美满婚姻的幻觉里?而真正的他,心灵已经走远了?
他们又回去看不孕症医生。
妳的卵巢更老化了,再不做人工受孕,最终只能借卵了。医生凝重地提出警告说。
她的心跌到又深又黑的井里,冰透的水在她的鼻尖沉浮。
借卵?那生出的孩子就不是她和他的骨肉了!不行,绝对不行!
于是,他们开始了更痛苦的身心煎熬的周期。
不同医院求诊,飞行里数足够绕地球一圈,7次取卵,4次移植、流产,超过三百针,身心具是千疮百孔,无止无尽的幻灭⋯⋯
她轻悄悄地走回卧房,斜靠枕上,空洞的眼神,空了的灵魂,如一座暗黑的没有生命的凋像。
他一直到天亮都没有回到床上来。
她听到车库门开启又关掉,她才走出卧室。
他从来都不会这样的,一股蚀心痛楚席捲而来。她走到书房,将书架上所有的孕妇须知、育儿书全都扫进侧院的回收桶。
她颓坐地上,感觉人生走到了尽头。
她需要新鲜空气。
关上门,离开让她窒息的屋子,独自走到沿溪林荫步道。
她家离这个健行步道很近,穿过几条短短的马路就到了。
如果没有特别的事,他们每天清晨都会走一趟。沿路每一栋房子,甚至每一棵树都如此熟悉,她不需要去寻找记忆,闭着眼睛她似乎都能看到她与他手牵着手的影子在前面引领着着她。
很快地进入长长步道中最美的一段,两侧虽然多是杂树,却也长得枝叶繁茂,高大参天,形成绿色天然拱门。健行的人并不多,幽静的林荫小路苍郁凉爽,一扫夏日燠热与烦躁。
一阵风吹来,阳光透过枝叶隙缝洒下来,叶子泛着金光,岁月如此静好。她怔怔地站在那儿,竟有着恍如隔世的感觉。
穿过绿木拱门是另外一番粗放的风景,走着走着就听到了溪水的声音。
干旱了几年,经过冬天与春天两季十多次的大气河侵袭,干涸了的溪水满了上来。走到溪水汇集处,一对绿头野鸭子悠游水中。最早她看到有着亮丽颜色,成双成对形影不离的野生绿头鸭子,还误以为是鸳鸯。后来才知道旧金山湾区只要有溪流,几乎就能看到绿头鸭子。她每次看到水中成双鸭子相守相随不离不弃,心情都特别好,总要看着鸭子远去了才继续前行,他便站在旁边静静地伴着她。
他们两个都是喜欢宅在家的人,结婚几年还老爱腻在一起。即使他在书房里忙着上班时间没有做完的工作,她也不会自个儿看电视。她买了一个比较精致的复古沙发躺椅,听着他忙着敲键盘的熟悉声音,觉得很安心,拿本书在旁边读着。
他们也有过不愉快的时候,意见相左,又称不上吵架或者抬杠的时候,就是沉默相待。两人都不说话,还背对背待在同一个房间里看书。彼此都知道,这样的冷战,说穿了,就是一种惩罚,对自己,也是对对方。熬上几天,他开始露出受苦的表情,她就没有办法拗下去,随便找个什么理由对着空气自言自语,他就极力高声回答,震碎了卡在彼此之间稀薄的玻璃牆。
她要的就是这么一小块,彼此相知相爱的方寸之地。
而今天早上的不告而别,已不是斗嘴或者冷战的级别了,带着决绝的意味。
原来婚姻不能只有爱。
她意识到她一直守护的方寸之地,已经崩裂了。看着她仍然视为鸳鸯的绿头鸭子,酸甜苦辣的心情瞬间翻腾,那撕心之感千回百转,她只觉柔肠寸断,痛楚难当。
再走几步,只见一只白鹭鸶孤独地伫立溪中。
她一直很喜欢体态轻盈纤细优雅的白鹭鸶,一直以为白鹭鸶就像鸳鸯一样,一定是成双成对的。后来才知道白鹭鸶孤眠在草泽之间,卓然特立在潺潺泉石之上,有着怡然独立的特质,而非总是双宿双飞。

形单影只白鹭鸶
特立独行的白鹭鸶总那么优雅孤高不群,像正在思考的哲学家。她每次看到经久站立不动的白鹭鸶,都很想知道牠在想些什么?见白鹭鸶溪边孤影,就会心生怜悯——为什么牠们喜欢离群索居,而不是双宿双飞?永远显得如此孤单,正如现在的她。
她落寞地独行,走着想着,不知不觉已远离林荫,右边出现广袤平原,极力望去目之所及是平缓起伏的层层山脉,充满原始风味;而左边是一大片如竞技场上斗得你死我活,充满不眠不休竞争的高科技谷歌公司。
两边呈现着完全迥异的面貌,她站在分岔点,突然觉得就像她走在婚姻的分界线上,一边是只能拼命,和婆婆、和命运竞赛,近乎绝望的挣扎,无止无休令人喘不过气;一边是自然风光,是她习惯的回归自然的悠然天地。
她该回到婚姻继续与婆婆、命运纠缠?还是自我放逐?
他是个无可挑剔的温和男人,但她知道他骨子里最深处有种不轻易妥协的别扭,除了对她。十年婚姻最初的甜蜜与相依在后来求子屡战屡败的挫败磨下来,所有的温柔与温情消耗殆尽,她曾从他的眼睛看到愤怒、哀伤、挣扎与绝望。站在分岔口,她意识到他们最终走到了婚姻的分界点。
未来他会选择哪一条路?
事情是怎么发生的,到现在她都没有办法理清楚。
只记得从步道回去后就决定放他一条生路。
是谁说的?以不爱为爱。
当她跟他谈起离婚的事情的时候,她感觉到他全身颤慄不已——其实她自己也是。她的内心充满了恐惧——对即将失去他的恐惧、对未来的日子里头没有他的恐惧。她的泪水已经急涌上来,可是她没有让一滴眼泪掉下来。是的,她会失去他,将来的日子里,再也不会有他⋯⋯

亚当玫瑰
他离开后,她生了一场大病,姊姊来看护她,直骂她傻。
傻呀,她自己也知道。
她对他有深深的眷恋,她相信,即使他离开,对她仍然深深地眷恋着。
她在这个屋子里已经住了五年,他搬离开后,她原本是想卖掉这栋房子的,生怕触景生情,但是她最后还是选择留下房子,不只是因为屋子里一物一角都载满了她与他的回忆,她舍不得把这些甜蜜的感觉,从她的生命中剔除开来,最终淡忘成为模煳的记忆。在她的心底,她没有真正的放掉他,或许,还期盼着他会回来看看她?
他离开后,她才发现屋子显得特别宽广而空旷。一到夜晚,整个屋子寂静无声。偶尔一阵风吹过来,她似乎都可以听到松针落地的声音。她有时候会想,如果他死了,她还可以带着他栽种过的玫瑰花去墓园看他。而他只是离开,她却可能永远再见不到他。但她又不希望他死掉,至少知道他在一个不知道的地方好好地活着。
冬天夜晚来得早,窗外的景色一暗,她就心慌。她把家里所有的窗帘关得密密严严的,再把全家的灯都打开,到处亮亮的。
她只能呆呆地坐着,哪儿都没有地方去。
那时她没换床,还深深地眷恋着他留在床上的气味,躺在加州特大号床,那熟悉的气味帮她度过了无尽的孤独黑夜。
而后来,她每次看着那空着的半张床,就像看见一个黑洞,她似乎就要掉进黑洞里头去了。
她终于将那张床也丢了,买了一张单人床,空间一下子大了许多。她买了一张大椅子,衣服脱下来也不拿去洗,就堆在椅子上,带点乱糟糟的味道,看起来像是有两个人住着似的。
她对各式各样的气味非常敏感,衣服被太阳晒过的味道,是一种居家安心的感觉;电锅里的饭快要煮好的时候,总让黄粱一梦变得真实起来。他的枕头套才不过几天就会飘出淡淡的油味来,她一边叨,一边也觉得有着熟悉的气味,生活充满了流动的气息。
气息随着他远离的时日久了也渐渐淡下来,连捕捉记忆都开始觉得困难。她思念他到再也没有办法遏止的狂乱的地步的时候,她就拿出纸笔来写信,一封又一封没有办法投递的信。
最初她有时会想,哪天下班回家时,他会不会出现在他们曾经拥有最美丽的回忆之处?屋子里的这个女人,曾是他最深深的爱恋?
偶尔走过他们常去的咖啡馆,有几次她以为看到了他。事后总忍不住嘲笑自己,世界上至少有一半的年轻人会像他那样穿着牛仔裤,上面着上一件看似随意却相当讲究的T 恤。
时间久了,她其实也知道,他是不会来的,也不可能不期而遇的,但是她就是不肯放掉这个念头。他曾经如此爱着她,他怎么可能就舍她而去呢?她还相信着他坚贞的爱情,就如同太阳每天早上一定会从东方升起,会照亮她的窗台。
她有一回,相信她是哭着睡着的。她做了一个梦,梦见她在海边,忽然见到他从远方奔过来,一路哭喊着:贝贝被海浪卷走了,贝贝被海浪卷走了!
贝贝是他们刚开始尝试着要孩子的时候,为孩子先取的名字。
她惊醒过来,吓出一声冷汗,心脏砰砰跳个不停。她不知道为什么会做这样的梦?有好长一段时间这个梦一直如影随形地跟着她,从来没有离去过。她只觉得痛,痛到没有办法再痛了,反倒在深渊里一点一点慢慢苏醒活过来。
她终于相信他是不会出现在她的世界里了,那已经是很久很久以后了。
她突然悲哀起来,世界上像她这样在空等中打发一辈子的女人有多少?她是不是就这样终其一生地等待永远不会再回来的爱情,日复一日、年复一年,直到头发斑白,眼睛再也看不清前面的路⋯⋯
往事一幕一幕清晰如昨,她整个陷在google map 里——听说他其实住得并不远,就在隔壁城市,她发了疯似地,开始一条一条马路寻找。地图、卫星图,街景图来回切换,彻夜未眠,无止无休地滑着地图。
终于那辆她熟悉得不能再熟悉的宝蓝色第八代的雪弗兰跑车,就出现在离她家只有三里路的一个小小社区里的一栋康斗的车道前——那绝不会有第二辆。
她将街景放大,是了,是他的车子,虽然车牌经过处理一片模煳,但她一眼就认出车尾右边保险杠他贴上的Keep Tahoe Blue贴纸。原来他真住得这么近!她的眼泪掉了下来——咫尺却天涯!
看来驾驶座车门是开的,她猜想应该是他刚坐上驾驶座上,将公事包放在乘客座,左脚还在车外尚未收回车内的那一瞬间,被谷歌拍摄街景的车瞬间拍下。她赶紧将地图放大,偏偏谷歌是从车子的背后微右的角度拍摄的,虽看得到车门是打开的,却无法看到她想像中还露在车外的左脚,而后车窗深深的树影与绚丽阳光经过光学透镜的折射,半幽深半模煳,将他与她完全隔了开来!
她决定亲眼去看看。

海的尽头
她将街景图转回地图,起身,拿了纸笔,准备画出一张自己看得懂的地图,决定天一亮,她就要去寻找那栋精致的小屋。
她对于看地图一直有着极端的困难,她自小没有东南西北的概念,只有前行、右转、左转与往回走的观念,不认路,却记得每段路的建筑和地标。去哪儿,她都会画一张从家里出门一路只往前行、右转与左转属于她自己的地图。他老是笑她画的地图和日本人一样,连警察画出的案发现场地图都只有主要建筑,没有东南西北、没有街名。一瞬间,她的眼角热了,视线也模煳起来——他们的生活中曾经有过这么多的甜美记忆。曾经一起经历、拥有过的时光一旦变成记忆,她就往往卡在真实与虚幻之中,不知身在何处?不知何去何从?
她一边对着手机的地图,方向转来转去地画着,一边想着,我会看到他从门口出来,坐上爱车,微开的车窗仍然流溢出来着断人衷肠的二胡乐曲吗?
他头发长了还没去理发店修剪吗?
想着想着,她的心脏怦怦跳得厉害。
三里路,像开了一辈子。
她将车停在路口的转角处,隐身在路边的大树干后面,时不时瞥一眼。
终于,车库门打开了,他提着惯用的公事包从里头走了出来。
她的手湿了,没办法去抹额头滴下来的汗。经过眼角,流到唇边,咸咸的。
远远地看他,身形没什么变,但带着些微疲倦的面容上有着愉悦的光彩,很奇怪的组合。她想着,从来没有看过这样的他。才不过几年,就变出一个她从来没有见过的样子!
哔哔两声,车灯闪了几下,他打开驾驶座,坐上车,将公事包放到乘客的座位上,所有的动作还是和以前一个样子。
她的心剧烈地跳动起来,真想从大树后头奔过去,从后头用双手紧紧地环抱着他——她从来没有像现在这个时候这样后悔让他离开!
咫尺天涯,曾经如此亲密,竟成陌路。
一个绑着马尾巴脸上浮着笑意的年轻女人从灯已灭了的微暗的车库走出来。与其说她是女人,不如说她更像个女孩子。纤细的身材,长手长脚,像她年轻的时候。连绑着的还在晃动的马尾巴、宽松的纯棉浅蓝色格子衬衫、帅气的牛仔裤都一样,有几秒钟,她以为是她和他到了另外一个平行宇宙。
他对着马尾女孩(应该是他新娶的太太吧?)露出她已久违的怜爱表情。他说了些什么,只见马尾女孩低下头,双手摸着扁平的小腹,浅浅地笑着,眼角漾满幸福。
她的心像是受到很大的撞击,几乎要跌坐在地上。
心,一点一点往最深处痛起来。她撇过脸,地上有了豆大的水滴。
她慌乱地奔离,差一点就被路边凸出来的一块树根绊倒,大拇趾痛彻心扉。
她头上发热,身子却觉得很冷,那冷,就像有一次他们到密西根,去看人家冰钓,她好奇央求人家让她摸一下冰块缺口的水有多冰?那冰,冰到心脏都要停止跳动了,瞬间一股像被火烧似地感觉直窜手掌。冰与火在那一刻没有了界线。
她想起他们陷入深深恋情的时候,她与他最喜欢的一首汉乐府《上邪》,两人高兴起来眼里只有对方,轻轻地吟着:
上邪!我欲与君相知,长命无绝衰。
山无陵,江水为竭,冬雷震震,夏雨雪,天地合,乃敢与君绝。
文字错落相间,读起来特别有味道,注入了忠贞不二、澎湃热血,像是用生命铸就的爱情。20年,她从青春豆蔻走到充满疑惑的不惑,心头守着的不就是这一纯美情爱吗?
他,人早已走远,她还在反反覆覆地追思着过去。
她到现在都跨不过去这个坎,她不知道他是怎么跨过去的?
她的心好痛,整个人像被劈成两半,灵魂都没有了安置处。意识到了原来她是用整个生命去爱他;而曾经这么爱她的他,自己却只是他生命的一部分。
踽踽独行,阳光将她的影子拉得老长,孤独地像个寂寞的灵魂。她呆呆地站在那儿,意识到属于她最刻骨铭心、最重要最精华的人生已成了过去——他在她的生命中将永远缺席了。
她反复思索,当时二话不说还他自由,到底是不是她真正的心意、真正的爱?她对他这样深刻的爱,他知道吗?她总是一次又一次地回想那天夜里他一个人呆坐在窗边的景象,现在想起来也许事情并不是突然发生的,恐怕是一点一点已经埋伏在他们各自的心底了。
她连他的车从她旁边驶过去,她都没有发现。
她曾读过一段话:平静地接受消失与死亡是一种沉静的修行。
很多事情,只能靠幻想安慰自己吧,贪图变成真实,绝对会变成一种灾难。
回到车上,她打开引擎,车子缓缓前行,最后停在步道入口的路边。
她下了车,进入阳光尚未渗入树林的那段步道。
树荫有点深,她快步走着。旁边稠密的杂树林里是没有晨曦与黄昏的,只有白天与黑夜。在阳光不足的浓密树林里,一切都不透明,显得有些阴森而鬼魅,让她一时分不清过去、现在与未来。她的思绪与记忆虚实交错,彼此折叠着。
她越走越快,想快速穿过这段向来最爱的林荫小道。
终于听到水声,她的心稍稍平静下来。经过大气河与炸弹气旋的夹击,泛滥溢出去的溪水特别澄澈,绿树倒影清晰可鉴,像是反过来生长似的。白云在水里缓缓地移动着——折射着相同的景象。
溪水如镜,她停伫下来,发现溪水之上与溪水水下如此相像,虚实难分。
曾经生活过、拥有过的,到底算实,还是算虚呢?
她忽然觉得那段相倚相靠的日子远去了,远到像是上辈子的事情了。
她继续向前行,走到更宽的湍急处,好几棵被风吹倒的树七横八斜地卧在水中,溪底落叶枝枒交缠。
原来大自然有自己的消长,她忽然了悟了。
小径没有终点,走着走着,穿过从前走过的分岔点,继续前行,两边再也没有房舍。
她看到了海,左前方。
她沿着小径向左弯过去,沿着海边步道走,出现了湿地。

海陆交界湿地
她忽然发现,以前一直以为的“海的尽头”是在岸边眺望大海极目最终之处,而现在站在海与陆地的交会之处,才意识到大海与陆地的交界湿地,才是大海的尽头。一大片一大片的沼泽地与小池塘、水道上都可看到各种水鸭子、加拿大雁、鹭鸶、鹈鸪或悠游或栖息其间。振翅高飞的鸟在海阔天空中自由飞翔。水中映着白云,点点水鸟、鹭鸶觅食——原来生命可以如此丰富而缤纷。
海的尽头,原来近在眼前,正是生命的源头!
她一直以为她的悲哀,就像海看不到尽头一样,现在她忽然明白了,她的心底涌上一股热直冲眼角,鼻头酸了起来。
向死而生,就是重生,她忽然懂了⋯⋯
(文中插图由作者提供)
~完~
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■旧赤星鉄馬邸
建物公開の情報を得たので吉祥寺へ。 設計は日本近代建築の父と称されるアントニン・レーモンド。 1934 (昭和9) 年竣工の白亜のモダニズム建築である。 邸内に入ると個人宅なのにかなり広く感じた。 増築部を差し引いても宿泊施設ぐらいの規模である。 しかも天井が高く開口部が多い。 この日は今にも降り出しそうな天気だったが、 晴れていたら 室内に光が溢れてもっと綺麗だろう。
長らく修道施設として使われていたので 居室はかなり改装されている。 往時を偲ばせるものは作り付けの家具類で、 これらは全て妻ノエミ・レーモンドが手掛けたもの。 可愛らしくもあるが収納力が高く実用的な造りだ。
RC造なのに建物に直結する形で蔵があったのは意外だった。 しかも内装は木材で、同時期に建てられたものである。 モダニズム建築と言えども昭和初期は蔵を置くのが 慣例となっていたのだろうか。

2階の書斎は唯一、竣工時のままの姿で残されている。 壁には無数の小さな円窓が等間隔に開いていて そこから柔らかい光が差し込む趣向であった。 この意匠は玄関の庇にも使われている。 もう一つの見どころは階段室で、 螺旋を描く階段に沿って 並べられたステップや手すりが美しい。 こちらも壁面のスリットガラスから外光が入る。 そして広大な庭に出るとタイル貼りの噴水まであった。


旧赤星邸のあらましを参照して頂くとわかるが、 実業家・赤星鉄馬が所有していたのは僅か10年である。 現存する多くの「旧〇〇邸」は紆余曲折を経ているものが多く、 特に戦中戦後は接収される運命にあった。 更に関東大震災後に新築した建物となると 最初の所有者が住んでいたのが15年以下というのも少なくない。 例を挙げると旧前田家本邸は15年、旧朝香宮邸は14年、 旧原邦造邸(原美術館/解体済)に至っては7年である。
赤星邸も昭和19年に陸軍が接収し、戦後は進駐軍のものになった。 昭和31年からはカトリック・ナミュール・ノートルダム修道女会が 所有し、長らく修道施設として使われていたが、 シスターの減少により閉鎖され、令和3年武蔵野市に寄贈された。 令和4年10月には国の登録有形文化財となり(増築部を除く)、 建物の耐震診断の結果を踏まえ、一定期間に一般公開されている。
もし赤星家が戦後もこの建物を所有していたら 果たして建て替えずにいただろうか。 却って所有者が変遷する事で運良く残ったのかもしれない… などと考えながら、降り出した雨の中を駅へと急いだ。 5月14日探訪。
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"Kill them with kindness" Wrong. CURSE OF MINATOMO NO YORITOMO
アイウエオカキクケコガギグゲゴサシスセソザジズゼゾタチツテトダ ヂ ヅ デ ドナニヌネノハヒフヘホバ ��� ブ ベ ボパ ピ プ ペ ポマミムメモヤユヨrラリルレロワヰヱヲあいうえおかきくけこさしすせそたちつてとなにぬねのはひふへほまみむめもやゆよらりるれろわゐゑを日一国会人年大十二本中長出三同時政事自行社見月分議後前民生連五発間対上部東者党地合市業内相方四定今回新場金員九入選立開手米力学問高代明実円関決子動京全目表戦経通外最言氏現理調体化田当八六約主題下首意法不来作性的要用制治度務強気小七成期公持野協取都和統以機平総加山思家話世受区領多県続進正安設保改数記院女初北午指権心界支第産結百派点教報済書府活原先共得解名交資予川向際査勝面委告軍文反元重近千考判認画海参売利組知案道信策集在件団別物側任引使求所次水半品昨論計死官増係感特情投示変打男基私各始島直両朝革価式確村提運終挙果西勢減台広容必応演電歳住争談能無再位置企真流格有疑口過局少放税検藤町常校料沢裁状工建語球営空職証土与急止送援供可役構木割聞身費付施切由説転食比難防補車優夫研収断井何南石足違消境神番規術護展態導鮮備宅害配副算視条幹独警宮究育席輸訪楽起万着乗店述残想線率病農州武声質念待試族象銀域助労例衛然早張映限親額監環験追審商葉義伝働形景落欧担好退準賞訴辺造英被株頭技低毎医復仕去姿味負閣韓渡失移差衆個門写評課末守若脳極種美岡影命含福蔵量望松非撃佐核観察整段横融型白深字答夜製票況音申様財港識注呼渉達良響阪帰針専推谷古候史天階程満敗管値歌買突兵接請器士光討路悪科攻崎督授催細効図週積丸他及湾録処省旧室憲太橋歩離岸客風紙激否周師摘材登系批郎母易健黒火戸速存花春飛殺央券赤号単盟座青破編捜竹除完降超責並療従右修捕隊危採織森競拡故館振給屋介読弁根色友苦就迎走販園具左異歴辞将秋因献厳馬愛幅休維富浜父遺彼般未塁貿講邦舞林装諸夏素亡劇河遣航抗冷模雄適婦鉄寄益込顔緊類児余禁印逆王返標換久短油妻暴輪占宣背昭廃植熱宿薬伊江清習険頼僚覚吉盛船倍均億途圧芸許皇臨踏駅署抜壊債便伸留罪停興爆陸玉源儀波創障継筋狙帯延羽努固闘精則葬乱避普散司康測豊洋静善逮婚厚喜齢囲卒迫略承浮惑崩順紀聴脱旅絶級幸岩練押軽倒了庁博城患締等救執層版老令角絡損房募曲撤裏払削密庭徒措仏績築貨志混載昇池陣我勤為血遅抑幕居染温雑招奈季困星傷永択秀著徴誌庫弾償刊像功拠香欠更秘拒刑坂刻底賛塚致抱繰服犯尾描布恐寺鈴盤息宇項喪伴遠養懸戻街巨震願絵希越契掲躍棄欲痛触邸依籍汚縮還枚属笑互複慮郵束仲栄札枠似夕恵板列露沖探逃借緩節需骨射傾届曜遊迷夢巻購揮君燃充雨閉緒跡包駐貢鹿弱却端賃折紹獲郡併草徹飲貴埼衝焦奪雇災浦暮替析預焼簡譲称肉納樹挑章臓律誘紛貸至宗促慎控贈智握照宙酒俊銭薄堂渋群銃悲秒操携奥診詰託晴撮誕侵括掛謝双孝刺到駆寝透津壁稲仮暗裂敏鳥純是飯排裕堅訳盗芝綱吸典賀扱顧弘看訟戒祉誉歓勉奏勧騒翌陽閥甲快縄片郷敬揺免既薦隣悩華泉御範隠冬徳皮哲漁杉里釈己荒貯硬妥威豪熊歯滞微隆埋症暫忠倉昼茶彦肝柱喚沿妙唱祭袋阿索誠忘襲雪筆吹訓懇浴俳童宝柄驚麻封胸娘砂李塩浩誤剤瀬趣陥斎貫仙慰賢序弟旬腕兼聖旨即洗柳舎偽較覇兆床畑慣詳毛緑尊抵脅祝礼窓柔茂犠旗距雅飾網竜詩昔繁殿濃翼牛茨潟敵魅嫌魚斉液貧敷擁衣肩圏零酸兄罰��滅泳礎腐祖幼脚菱荷潮梅泊尽杯僕桜滑孤黄煕炎賠句寿鋼頑甘臣鎖彩摩浅励掃雲掘縦輝蓄軸巡疲稼瞬捨皆砲軟噴沈誇祥牲秩帝宏唆鳴阻泰賄撲凍堀腹菊絞乳煙縁唯膨矢耐恋塾漏紅慶猛芳懲郊剣腰炭踊幌彰棋丁冊恒眠揚冒之勇曽械倫陳憶怖犬菜耳潜珍
“kill them with kindness” Wrong. CURSE OF RA 𓀀 𓀁 𓀂 𓀃 𓀄 𓀅 𓀆 𓀇 𓀈 𓀉 𓀊 𓀋 𓀌 𓀍 𓀎 𓀏 𓀐 𓀑 𓀒 𓀓 𓀔 𓀕 𓀖 𓀗 𓀘 𓀙 𓀚 𓀛 𓀜 𓀝 𓀞 𓀟 𓀠 𓀡 𓀢 𓀣 𓀤 𓀥 𓀦 𓀧 𓀨 𓀩 𓀪 𓀫 𓀬 𓀭 𓀮 𓀯 𓀰 𓀱 𓀲 𓀳 𓀴 𓀵 𓀶 𓀷 𓀸 𓀹 𓀺 𓀻 𓀼 𓀽 𓀾 𓀿 𓁀 𓁁 𓁂 𓁃 𓁄 𓁅 𓁆 𓁇 𓁈 𓁉 𓁊 𓁋 𓁌 𓁍 𓁎 𓁏 𓁐 𓁑 𓀄 𓀅 𓀆
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三,魔都新上海
上世纪九十年代初,在开发浦东,振兴上海的热潮带动下,大量中资、外资、人才、技术、劳动力源源不断从全国各地涌入上海。仅仅用了十年时间,上海就有1400座高楼在城市各处拔地而起,同时完成了百万居民大动迁的壮举。仅仅过了二十年,浦东的国民生产总值就翻了60多倍。从而彻底改变上海的城市面貌和产业结构。开发浦东有效带动了上海经济的整体发展,再现了东方明珠的璀璨光芒,上海又成为人们心目中充满活力的魔幻之都。
上海再次从一只落毛的凤凰变成一只金凤凰,连老上海的别称"魔都"也登堂入室地进入官方的话语体系。"魔都"一词并不新鲜,它出自于上世纪二十年代日本作家之手。不过在我们生活的那个年代,大家对这个别称都未曾耳闻,据说这个词直到21世纪初才又重新流行起来,现在俨然成为新上海的代名词。但是上海的"魔性"究竟在哪里?答案似乎千奇百怪,不过也有不少的共识,这个共识就是上海的魔性确实有点邪乎,凡是跟上海沾上边的,自然而然都会带着不少的魔性:外滩的老上海,浦东的新上海,大街小巷那些数不尽的美食,看不尽的橱窗,耀眼夺目的霓虹灯,时髦的红男绿女。一双高跟鞋,一件华美的旗袍穿在上海女人身上,恍如又回到那花开茶靡的旧时光。一个普普通通的爱情故事,因为发生在"十里洋场"的老上海,就会变得格外的緾绵悱恻,动人心弦。一幢老公寓,因为楼里曾住过几个文化名人,就受到万人追捧,疯癫痴狂。一条旧弄堂稍加改造,便能迎来八方游客。一部电视剧《上海滩》风靡全国,四十年后的另一部电视剧《繁花》照样也能红遍大江南北。如果上海没有点魔性的话,那是绝对办不到的事情。从这点就可以看出,上海犹如一口古井,只要稍微用力淘几下,就能淘出汩汩泉眼,流出来的尽是些老上海的绝代风华,其它地方很难有这般的魔法。
在外人眼里,"魔都"魔性十足,但是上海人并不会被这个"魔"字搞得晕头转向。因为除了浦东陆家嘴那些超现代化建筑群之外,上海的"魔性"兜兜转转还是老上海那点仅存的带着腐败气息的家底,对此大家早已习以为常,就像对自己衣橱里挂着的那几件出客穿的衣服一样的了如指掌。反而是那些外来游客被这些压箱底的旧货弄得晕头转向,每天都有一批批网红景点打卡人,迈着"朝圣"的步子,涌向外滩、新天地,田子坊、张园、文化名人街、武康大楼,为的就是想沾点旧上海的华丽气息。
魔性的反面是乏味,一日三餐,朝九晚五,上有老,下有小,买菜、做饭、补习、看病、上网、娱乐、聊天、吃饭、睡觉,这一切都乏味的叫人生厌,简直没一丁点魔性可言。其实这才是普通人眼中的上海,这才是上海人过得真实生活。
不管是魔性还是乏味,对我来说都不重要。我是来探亲访友的,是追忆那段逝去的旧梦而来的,凡是跟我的过去重叠的,有联系的人和事,凡是能勾起我回忆的点点滴滴,我都会满心欢喜地徜徉其中,沉醉在美好的旧时光里。我希望一只大饼里能找到一段回忆,一块路牌能想起一个画面,一个微笑能看到自己童年的影子,甚至一句轻柔细语都能让我想起某个人。
我在上海的行程相对比较固定。早晨,去母亲那里请安,陪她一起吃早餐,接着我们有一个上午的时间聊天,临近中午,我们就带母亲外出吃午饭,吃完饭便把她送回家休息。接着就是我们俩的自由时间,大多数情况是漫无目的的逛街。晚上再陪母亲一起吃晚饭,然后就是去外滩、南京路步行街散步,一直到溜酸双腿才回到酒店休息。这些看似单调的生活还十分的有趣,远比那些不知从什么地方冒出来的千年古镇,欧洲小镇,来的更加的真实。
在这期间我还陪太太去了一趟宁波扫墓。在宁波我仅呆了三天就先回到上海。到家之后,我发现母亲的脸色带着倦容,还略带着点忧伤。于是我就问她,"妈——是不是我离开的那几天你没睡好觉?"
她摇了摇头。
"那是为什么?"我见她迟迟疑疑的样子,接着又问道。
母亲终于开了口,说:"几天前,张惠芬(医院里的老同事)女儿打电话来,说她妈妈被送去医院看急诊。医生诊断是严重的营养不良,需要输血。"
我漫不经心答了一句,"那就输血呗。"
"嗨——你说得倒是轻巧。医院没血,要她们家属到外面去买血,才能救得了她的命。"母亲脸涨得通红,说话也有点激动。
"后来怎么样了?"
"血买来的,人却走了—— "弟弟在一旁插话道,见我们俩都没说话,他接着又说道:"以后再也没有张阿姨来的电话。老妈的生活又少了一个念想—— "
我心里一阵发紧似的难受。母亲过去知根知底的老朋友差不多凋零殆尽,剩下的十根手指都数的过来,二个年龄相仿的同班同学,几个过去医院里的老同事。虽然母亲还结识一些早晨做操的新朋友,但远没有那些老朋友来得情好甚笃。这些老人当中,年龄最小的都上了80岁年纪,其中有好几个竟然还是独居寡居的老人,纵然她们的退休工资都不低,但还是孤身只影,晚景萧疏。相比之下,母亲算是最好的,不光有钱,弟弟对她的照顾真是无微不至。
早就听说如今的医疗体制,已经远远偏离了"救死扶伤,治病救人"的初衷,不过实地走了一趟,还是颇为吃惊。母亲除了老年人常有的基础性疾病和眼睛白内障之外,身体并无大碍。虽然如此,我还是趁这次回家的机会,陪她去了一次医院,给做个眼底检查。
上海第一人民医院的眼科算是同行翘楚,眼科门诊部在医院的七号大楼。那天早上,我们很早便来到医院。当我们走近这栋大楼的时候,眼前尽是行色匆匆看病的人,空气中弥漫着紧张和忙碌的气息。几个穿黑制服的保安,神情严肃地站在大楼的入口处,虎视眈眈审视着每一个来人。进门先要过安检,人和物品分开检查,乍一看还以为我们这些人不是来看病的,倒是像来探监的。进入大厅,接下来就是排队挂号,排队测眼压,排队看病,排队做各种检查,反正一踏进这栋大楼,等待着的就是排不完的队伍。来看眼疾的老人特别多。这些人当中有子女陪的情况稍微好一些,折腾人的排队可以由子女们代劳。那些上了年纪的老夫妻,或者独自一个来看眼疾的老人,一个个像是无头苍蝇似的东奔西跑,那样子看了让人心酸不已。本来这把年纪的人腿脚都不灵便,现在又加上眼睛不好使,更是苦了他们,光医生诊室外面的一台签到机,就能把这些老人折腾个半死,要不是有好心人帮忙的话。签完了到,就算是排上看医生的号,不过也不要开心得太早,接下来医生开的一大堆的检查才是重头戏。活到这把年纪还这么折腾,真让人扼腕叹息。走廊上到处是等着就诊的病人,呻吟声,抱怨声,吵架声此起彼伏。有病人跟病人互相抱怨的,有医生跟病人吵架的,更离谱的是一顿大吵大闹之后,居然还引来了二名警察。一名年轻的女医生一脸无辜的哭诉,一名男子还在用上海话骂骂咧咧,全然不顾等在一旁的病人。这哪像是在看病啊,简直比过去的菜巿场都不如。
等母亲做完一大堆检查,我们拿着一叠检查报告,再去找医生的时候,医生早就逍遥自在去吃午饭了,更气恼的是这个医生下午还不看门诊。我们明天再要来一趟,当然不用再挂号,也不用做一大堆检查,不过还得像探监似的过一次安检。
从医院出来,我这才理解了为什么像上海这么发达的城市,居然还有老人会因严重的贫血而去世。在这里看病,钱当然重要,但这个对老人不友好的医疗服务才是最要命的,它足以让人望而却步,很多人就这样小病拖成大病,大病在家等死。看到医院里被病痛折磨的哼哼唧唧的老人,让人不禁想起在餐馆里胡吃海喝,威风八面的退休老人,真有冰火二重天的感觉。
老人不值钱,可是上海对有历史价值的老建筑却不遗余力地加以保护。我岀生的那家医院,我曾经服务过的单位,甚至连我家的旧宅的门口都被钉上一块"上海优秀历史建筑"的标牌。我心里不禁纳闷想,"这些空无一人的所谓的‘优秀历史建筑’,难不成都要搬进建筑博物馆里去展览?"直到有一天跟一个亲戚聊天的时候,才恍然醒悟过来。
有一天,我们心血来潮,想去一趟北外滩,在那段江堤上散散步。5月初的上海,晚上6点,天空还有一抹夕阳的余晖。我们从外滩往北走,穿过外白渡桥,上海大厦,然后向右拐,进入东大名路,没走几分钟,便来到了北外滩航海公园。公园里正在举办一个"咖啡文化节"活动。沿着北外滩的堤岸,摆着上百家的摊位,一家紧挨一家,左右两边,绵延数百米,沿途音乐声振耳欲聋,倒也吸引不少的游客。出了这个活动区域,堤岸上的游人明显减少。
此时天色渐暗,华灯初上。我们沿着堤岸的步道悠闲散步。我们的右手边是浦东,对岸尽是一幢幢鳞次栉比的高楼大厦。无数的灯光映照在黄浦江面上,波光粼粼,美仑美奂。我们的正前方是一条宽阔的滨江步道,绵延近2公里。左手边是枝叶茂盛的绿树带,有供人休憇的长椅,有供人骑车的专用道,还有一幢幢现代化的建筑——写字楼、酒店和住宅。不过形成鲜明对比的却是堤岸上的行人少的可怜,甚至有的路段前后左右就我们两个人,行走在江堤上,冷清清,阴森森,只有从旁边大楼里投下的灯光,给我们壮了不少的胆。其实不光是北外滩,其它地方也能看到这等的画面,巨额投资却收益甚微,是好大喜功,还是决策有误?带着这样的疑虑,我便问了那位亲戚。
只见他微微一笑,说:"现在看似冷冷清清,等万邦来潮的时候再拆,再建,你说还来得及吗?"
这话听得我一头雾水,我只能机械地回答:"来不及——是来不及——真的来不及——"原来一切的一切都在下一盘大棋,一盘叫人啼笑皆非的大棋。一切都着眼于子虚乌有的以后,我还有什么可说得呢?
同陌生人聊天,远比同熟人说话来得开心。有一次,我们在四川北路上闲逛,忽然我想要吃汤圆,于是我们便来到了有汤圆之王的"四新食苑"。一跨进店门就觉得很亲切,只见店堂宽敞明亮,里面清一色摆放紫红色八仙桌,现在很少看到像这种样子的店铺。我们点了4只黑洋沙馅的大汤圆,一碗冷馄饨和一碗冷面。
正当我们吃在兴头上,忽然从桌子的另一边飘过一个男声,"我可不可以坐在这里?"我不用抬头看,光听那彬彬有礼的腔调,准知道他是个上海人。
"随便坐—— "我用上海话回答道,还是埋头吃我的汤圆。
这人坐定后又接着说:"一个人吃4只大汤圆,蛮结棍的。"
这时我才抬头打量了他一下。这个男人70岁左右,带着一副眼镜,头戴一顶遮阳帽,上身穿一件白色衬衫,显得精明能干。我回道:"很久没吃了,4只还嫌不够吃。"
这时一名女服务员走了过来,接过他递上的小票。他接着又开口说:"我也是长远没吃了,不过撑死只能吃2只,一甜一咸,舒舒服服。"
我卟哧一笑,"我吃4只,而且都是甜的。"
"看得出,你不住在上海,一上来就想煞煞卜卜吃一顿。"
"你是从哪里看出来的?"
"吃2只是我们这帮拆迁户的最爱,想吃了,一部地铁过来吃2只,解解馋。吃4只大多数是回乡探亲的,特别是从外国回来的朋友—— "
我哈哈大笑了起来,"难不成我们都是从西伯利亚来的饿狼?"
"哎——侬勿要笑。阿拉心里都清爽,现在有本事的上海人都一个个往外跑,没本事的要么拿着拆迁补偿住在乡下头,逍遥自在地享清福,要么头胫伸得老长苦巴巴的等待拆迁。"
"是啊,四川北路怎么变得这么的冷清,横滨桥以北稍微还有点人气,不过跟以前相比简直是天差地别。"
"现在好好的上海都是外地人的天下,阿拉上海人都快成阿乡了。"说完他也呵呵笑了起来。
听了这话,我实在笑不岀来。上海的现状虽没他说的那么夸张,但也反映出一个事实,很多土生土长的上海人都搬离了市区。其实我们无论行走在市区的哪条马路,还是去购物中心,给人的第一印象就是人怎么这么的少,上海不就是以人多而闻名天下的吗?人潮带来钱潮,钱潮又吸引人潮,正向循环才能欣欣向荣,一个人口净流出的城市是不会兴旺发达的,老上海是如此,大上海也是如此,可是新上海却反其道而行之,市中心留下一个个人口黑洞,晚上黑灯瞎火,行经其地如过鬼街,让人毛骨悚然。
这次我还专程去看了一下我家的旧宅,那里早已人去楼空,门口的墙上被钉了一块"优秀历史建筑"的标牌,这里会不会成为另一个"田子坊""新天地"呢,谁也说不清。不过名字倒是现成的"上海方舟",这里曾有过一段让人难以释怀的历史。反正老上海就剩这么点家底,改头换面,修修补补,聊胜于无。但对我们曾经生活居住在这里的人,仿佛永远踏不进老上海霓裳缤纷的花样年华。
一回到上海,我们就对上海人的文明素养刮目相看。在公共场合大家都能主动给孕妇和老人让座。行驶的车辆基本做到礼让路人。无论我们去什么地方办事,都能感受到暧心的服务,真是既高兴又感概。记得有一次我们在路边等红绿灯,忽然刮来一阵大风,把太太的帽子吹落在了地上,说是迟,那时快,只见太太旁边的一位妙龄女子,马上朝帽子飞去的方向走了几步,然后俯身捡起了帽子,交还给太太。还有一次我们在南京西路王家沙排队买菜包子,当时门口大约有三四十个人在排队,由于一长溜的队伍有碍来来往往的行人,于是有人建议队伍靠墙一字排开。不料在移动队伍的时候,排在太太后面的一位老太太竟然插队排在我们的前面。过了几分钟,那位插队老太的老伴来到队伍中间,一看到这情景,便厉声厉气地叫他的老伴排在原来的位置,我们连忙解释说,这纯粹是一件小事,不用介意。可是那位老先生却执意不肯,弄得我们非常不好意思。这些点点滴滴的事情虽小,甚至小到不足挂齿,但是在我们眼里却是一个不小的进步。相信只要大家持之以恒做对的事情,上海一定会变得越来越可爱。
作为全球第二大经济体,上海取得不凡的成绩。城市的外表光鲜亮丽,高楼大厦到处都是,道路宽畅整洁,生活便利,科技进步,物质丰富,文明礼貌。不过我们谈来谈去总觉得缺少些什么,缺些什么呢?在我看来缺的正是底层视角。我见过坐在淮海路上怀抱婴儿讨钱的母亲,七浦路人行天桥上残疾人的乞讨,那些无助的老人,外卖小哥、宾馆服务生、马路清洁工、出租司机、形形色色外来打工人员,这些在夹缝中讨生活的人跟这个城市格格不入,他们支撑着上海的光鲜亮丽的外表,可他们的生活并不光鲜,
我每天都在上海的大街小巷里转悠,难免碰到,看到许许多多来上海讨生活的外来打工的男男女女,他们过着城市里最低层人的生活。对于他们来说,生活永远伴随着沉重的脚步,疲劳的身躯,无神的眼神,邋遢的工装,伛偻的背影。他们在社区食堂狼吞虎咽扒饭的样子,不禁让我想起金根和月香——张爱玲的小说《秧歌》里的一对恩爱夫妻。金根和月香都是老实巴交的乡下人。金根在乡下务农,月香在上海有钱人家帮佣。有一年金根来上海探望在上海做帮佣的月香,月香就给丈夫炒了一碗饭。然后,月香坐在水盆边用一只旧牙刷刷鸭掌,金根就躲在月香的背后,一边四处张望,一边心虚扒饭。这一幕就像电影一直烙在我的脑海里。上海有无数像金根和月香这样的年轻人,为了今后能有一个体面的人生,勤奋奔波,起早贪黑,没日没夜,可是他们的付出跟他们的回报相比,实在不成比例。从他们身上可以看到,老上海和新上海似乎也没多大区别,只是换了一波人而已。上海依旧是一个富人的乐园,穷人的战场的社会。
上海是复杂多样的,是多棱镜,也是万花筒。诺大的一个城市,上海人看到繁花尽落,时光不再。外地人的眼中是五光十色,浮华绚丽。外国人欣赏的是前卫时尚,多彩多姿。其实来到上海的每个人看到的都只是一个剪影,唯有我们上海人的那一份,还带着对旧时光的思念和眷恋。
如今的上海跟我们渐行渐远。但是我们这些曾经的上海人,永远不会忘记童年在弄堂里长大的集体记忆;永远𣎴会忘记夏日的浪漫,月明风清,江水潺潺,在黄浦江堤岸上,谱写过一曲又一曲你我的爱情歌谣。我们曾在这里生活过,在这里成长,甚至从这里走向世界。对于深爱这座城市的我们,旧时光如同一桢桢时代的画面,上面不仅有我们美好的瞬间,更有我们青春飞扬的岁月。
我喜欢的上海,城市的弄堂小路,小巷深处,有孩子们的戏嬉,有老人们的聊天,偶尔从楼上传来几声咳嗽,几声欢笑,几声任性的埋怨,几声嗲里嗲气的撒娇,夹杂着锅碗瓢勺的磕碰声,炒菜做饭的声音。弄堂里飘散着饭香,菜香和咖啡的醇香,还有抒情的老歌,沪剧、越剧、黄梅戏……。
我喜欢的上海,城市的犄角旮旯里,都能用上海话跟人聊天,聊那些久远而又熟悉的故事。能在犄角旮旯里看到浮华繁盛,红尘迷离的老底子,它们静静处在那里,一副不愿被人打扰的样子。
我喜欢的上海,城市是有温度的,有人情味,有烟火气,有记忆的,有历史感的,所到之处,都能感受得到它的温暖。在这里每栋房子背后都藏着故事,那怕最拥挤的"72家房客"的石库门,都有令人心动的悲欢离合。弄堂口有大饼油条粢饭糕,豆浆馄饨小笼包。菜市场里人声鼎沸,夹杂着讨价还价,付钱找钱时的逗乐打趣。街头路边能碰到抬头不见低头见的老邻居,老相识。
我喜欢的上海,城市稍微有点拥挤,却不失舒适与宁静,妩媚与浪漫。城市稍有些嘈杂,却溢漾着温情和友善,老人跌倒有人扶,孕妇上车有人让座,路人有难有人帮。这里看得见的是干净整洁,而看不见是无处不在的暖暖情谊。
我喜欢的上海,城市的灯光不过于璀璨,霓虹不过于耀眼,上海从来不是靠这些才让人心醉神迷的,五光十色中透着淡雅从容的上海才叫人着迷,恍如梦中。
我喜欢的上海,城市有故事,有灵魂。故事里是形形色色的冒险和刺激,洋派和摩登,精致和优雅,浪漫和多情,淑女和绅士,时尚和前卫,传统和海派。灵魂深处彰显出开放包容,五彩缤纷,精彩纷呈的底色。
有人说现在的上海是如此的开放文明,如此的现代摩登,如此的快捷便利,如此的干净整洁,如此的美食飘香,如此的多姿多彩。可是你在其他城市,其他地方同样能找到如此如此,这般这般的生活。上海是独特的,是无可复制的,更是无可替代的,它的独特性不仅深深烙在上海的历史中,也成为全球华人记忆里最华丽的篇章。
飞机从浦东机场起飞,望着越来越远去的城市,我又想起搁在心里盘桓不去的疑问,这是一道"什么是故乡?"的答题。阳光从飞机舷窗斜斜的照了进来,眼前是一片广阔无垠的湛蓝天空。此时,我才隐隐约约找到了心中的答案,故乡,就是一个曾经居住过,现在依然余温尚存的地方。
经过一夜的飞行,当飞机披着霞光,抵达悉尼机场的时候。我终于明白了,一个能安放自由灵魂的地方,就是我的家,也是我的故乡!
下次我再回上海,或许就没那么多的感伤。
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2024建築レビュー#1
建築レビュー#1(設計者:Flores & Prats) 発表者 :遠藤 (M1)
「Flores & Prats」を取り上げた。

今回は、3つの作品を取り上げて、レビューしていく。
Flores & Pratsは、男女2人組のバルセロナに拠点を置く建築スタジオである。
2人ともミラーレンス事務所出身の建築家で、現在も教授を勤め、デザインと学術を結びつけている。

彼らのコンセプトは、デザインと実践を学術活動に結びつけること、
リサーチからアウトプット、フィードバックまで研究の一環として行うことである。
また、彼らは古い建物の改修と新しい公共スペースの創出に重きを置いている。
彼らのホームページには彼らが重視している「研究プロセス」が作品とともに掲載されていて、研究に対する姿勢が表れている。

まず、カサルバラゲール文化センターを挙げる。この建築は、イタリアのパルマの中心部にある宮殿を展示コンサートセンターとして改修した事例である。カサルバラゲールは、イタリアのパルマの中心部にある宮殿で、1300年代から1500年代、そして1700年代と何世紀もわたって成長してきた家族の家である。

まず、彼らは屋根を完全に再建している。
歴史的な梁の一部を再利用した木製梁構造により、柱のない空間を実現している。

また、何世紀にも渡って成長した宮殿は、複雑な形の動線になっていたため、そこに、回遊動線、開口部、中庭を設計し、これまで閉鎖されていたエリアにアクセスし、部屋を活性化させている。

コンクリートで作られた新しいコミュニケーションコアにより、アクセスが良好になっただけでなく、天窓としても機能し、各階に光を落とします。自然光は動線を示す役割も果たしている。

上部からみると、古い宮殿に新しいコアが挿入され、「スキマ」的なデザインを感じた。

また、曲線を用いた内部のデザインにも「間」的な魅力を感じる。
この事例では、ボリューム感で差をだしているにも関わらず、新旧を同等に扱っているように感じる。時間の積層をする建築において、古い部分を大切に守るのではなく、また新しい部分を際立たせるのでもなく、新旧は並行的に考えるべきなのではないか。時間は常に進み続けることから、並行的に考えることで、新しいものが古くなった時にまた新しいものを加えることが可能になると考える。

次に挙げるのは、プロビデンシアハウスである。
こちらも同様に改修で、バルセロナにある裏庭付きの長屋の改修事例である。

既存の家は、奥行きと高さが狭いため、それらを拡張していくことから改修計画が始まった。
彼らは、観察から新しい住民が家の中心部分で作業をしていることが多いことを発見し、3階建の大きな採光井戸を設計した。

この採光井戸は、建物の真ん中にあり、
動線と採光のどちらをも担う。

また彼らは、平面的にも壁の角度を操作し、特徴的なデザインをしている。


以上のような操作は、奥性を強め、
様々な居場所を創出している。

さいごに、バルセロナのテラサにある社会住宅の111号館を挙げる。
コミュニケーショ、関係性、親しみやすさを促進するというアイディアを探求し、実験している施設である。

プロジェクトの中心は、3本の木と噴水のある大きなスペースで、それを見下ろすバルコニーとテラスに囲まれている。
この共同パティオでは、さまざまな背景や文化を持つ人々が話し合う社交の場である。



ここでも
歪んだ形の壁や、切れ込み、テラスの方向が、
各住戸からの視線が抜け、豊かな空間を作り出している。

また、階の自転車の飛び出しなどの暮らしのはみ出しが、共有スペースから意図せず見え「間」がデザインされている。
彼らの作品は、日光の入り方を主に、簡単な操作をしているが、独特な切れ込みや挿入により、奥性のある豊かな空間を作り出している。
また、入念なリサーチ、スケッチと模型によるスタディが細やかなデザインになっている。
加えて、改修の事例が多く、その中で、既存はできるだけ残しつつ、挿入する部位のデザイン性があることから、彼らは既存と新築を同等に扱い、改修しているのではないかと考えられる。
均質空間が増加し、利便性や環境性が求められすぎている現代社会のなかで、
彼らの空間にはデザインによる空間の強さを感じることができ、とても魅力的である。
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9歳の子ひとり避難、家に残った母 東京大空襲80年「逃げなかった」人たち 防空法と市民に広がった同調圧力 #きおくをつなごう #戦争の記憶
3/24(月) 18:05配信
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戦時中、日本各地で行われた空襲。実は空襲をまえに、あえて“逃げずに”家に残った人たちが数多くいた。人々をそうさせたのは「火を消せ」と国民に強いたある法律だった。しかし「油の火の玉」と当時の人たちが形容する焼夷弾の炎は、そもそも消せるようなものだったのか?当時の焼夷弾の炎を実験で再現した。そして、空襲を経験した人たちの証言を集めると、市民が“逃げなかった”背景には、現代にも通じる“同調圧力”があったことが浮かび上がってきた。 (TBS報道局社会部 平木場 大器)
【写真をみる】豊田さんが描いた、空襲時に火に囲まれながら逃げる様子の絵/「焼夷弾の防火は最初の30秒が最も大切」などと書かれた当時の資料/専門家監修のもとで行った消火実験の様子
「吹雪のように火の粉が」 猛火迫るなか、家に残った母親

東京大空襲で焼けた賛育会病院の旧本館
東京・墨田区の病院。 去年、初めて撮影された部屋がある。
すすで覆われた壁や天井… 80年前の東京大空襲で焼かれ、黒焦げのままで遺されていた。 当時、病院周辺は焼け野原となったが、鉄筋コンクリート造りだった病院は建物が残った。 焼け焦げた病院の大部分は修復されたが、屋上にあったこの小部屋だけは、当時の状態のままになっていたのだ。

9歳の時に東京大空襲を経験した豊田照夫さん(89)
1945年3月10日の東京大空襲。 1600トン以上の焼夷弾で街は炎に包まれた。 一晩でおよそ10万もの命が奪われた。
豊田照夫さん(89)は当時住んでいた墨田区の自宅で東京大空襲を経験した。

空襲時に火に囲まれながら逃げる様子の絵
豊田さんが描いた当時の様子の絵では、建物の窓から火が吹き出している。
●東京大空襲を経験 豊田照夫さん(89) 「廊下は風と吹雪のように火の粉が来ているんですよ。窓が全部真っ赤なんですよ。外の家が燃えている」
地下室に避難したという豊田さん。 地下室から見た光景が、今も脳裏に焼き付いて離れない。
「(出入り口に)マンホールみたいに小さい扉があって、それが開いたのを下から見たらキレイなお月さんが、真っ赤なお月さん…」 「外の家が燃えている。それがその部屋に写って天井も真っ赤に見えた。それがマンホールの穴から月に見えた」
マンホールのような丸い扉の先に見えたのは、燃えさかる周囲の炎を反射した天井だった。それが丸い形に切り取られ、真っ赤な満月のように見えたのだ。
当時9歳だった豊田さんは、当初一人で地下室に避難しなければならなかった。 母親が家に残ったからだ。
●東京大空襲を経験 豊田照夫さん(89) 「焼夷弾が落ちたりするとそういうのを消したりする役目があって、働ける人はそういうものをやらないといけない。(火を消しに)行かないよっていうそんなことは、まかり通らない世の中なんですよ」
その後母親は、近所の人に、ただならぬ事態だと声をかけられてやっと、豊田さんのところへ来たという。
●東京大空襲を経験 豊田照夫さん(89) 「(近所に)関東大震災を経験した人がいたんですよ。その人が『関東大震災よりもひどいから、先に私は避難します』。うちのお袋はそれを聞いて、そんなにひどいんだ ったら迎えに行かなきゃってなって私を迎えに来た」
ようやく駆けつけた母親と一緒に逃げるも、火に囲まれてしまった。

逃げる途中で水をかぶる様子の絵
●東京大空襲を経験 豊田照夫さん(89) 「既に火の粉なんかもずっと舞っているから、だから上から(水を)かぶれと言って、うちのおふくろもかぶってましたけど」
豊田さんと母親は近くの公園に避難し、生き延びることができた。 しかし、街には恐ろしい光景が広がっていた。
●東京大空襲を経験 豊田照夫さん(89) 「道路の真ん中で、自動車が逆さまになってひっくり返ってる。路地のところで人がハイハイする人形のような格好で炭になっている。上着なんか全部燃えちゃってなくなって、炭になるというのは異様なもので」
逃げるな火を消せ 国民に消火を強いた「防空法」とは

防空法を広めるためのポスター
火を消さなければならないことは、実は「防空法」という法律で決まっていた。 防空法を広めるためのポスターには威勢の良い言葉が躍る。 「必勝を期して戦(たたか)へ」。 「焼夷弾の防火は最初の30秒が最も大切」 防空法では、逃げることが禁じられ、消火活動が義務づけられていたうえ、罰則まであったのだ。

防空法に詳しい早稲田大学法学学術院・水島朝穂名誉教授
専門家は防空法が作られた目的は「市民を戦争に参加させるため」だと語る。
●早稲田大学 水島朝穂名誉教授 「市民がどこにいても焼夷弾から逃げないで、そこにとどまって火を消すことが前線における兵士たちの戦いと同じなんだと。火の中に市民を突撃させると、そういう性格に末期の方ではなっていったように思います」
陸軍の幹部は国会でこう述べている。
●佐藤賢了陸軍省軍務局軍務課長(1941年11月の衆議院の防空法改正委員会での発言) 「空襲を受けた場合、実害そのものはたいしたものではない。戦争継続意思の破綻になるのが、もっとも恐ろしい」
また、焼夷弾の炎は「簡単に消せる」と盛んに伝えられた。 国が各家庭に配布した、空襲への備えなどが記載された冊子にはこう書かれている。
●時局防空必携 「焼夷弾も心掛けと準備次第で容易に火災とならずに消し止め得る」
焼夷弾の炎は消せるのか? 当時の消火を再現 火たたき棒でたたいて…

竹と縄で作られた火たたき棒で消火を試みるも消えず
焼夷弾の中にはゼリー状のガソリンが入れられていて、 火がつくとガソリンが飛び散り、家の壁や柱にへばりついて燃え続けるようになっていた。
これに対して、当時は焼夷弾の火は、バケツの水、竹や縄でできた火たたき棒などで消せるとされていた。
当時の消し方で、“焼夷弾の火”は消せるのか?専門家監修のもと、実験を行った。 木の板に布をまきつけてガソリンを染み込ませ、焼夷弾の中身が床などにへばりついた状況を再現。
点火すると瞬く間に激しく燃え上がった火。
資料を元に作った火たたき棒を水につけ、叩いたり、こすったり。 3分以上、巻きつけた布がちぎれるほど繰り返すも、火を完全に消し切ることはできなかった。

続いて、バケツの水をかけてみるが、計8回かけても消えなかった。
●火災に詳しい 東京理科大・松山賢教授 「ガソリン自体が水を弾いてしまうことが起こりますので、水をかけて消火するというのは、消せる状態には程遠いんじゃないかなと。(ガソリンを)固めたことによって、なかなか消えにくいというところにプラスされて、継続的な燃焼が起こり得る」

水に浸っても燃え続ける火
ゼリー状のガソリンに見立てた布は、水に浸ってもなお燃え続けていた。
●実験を監修 東京理科大・桑名一徳教授 「ガソリンは蒸発した気体に火がつくことで燃えるんですけども、その蒸気が色々なところにありますから、火を完全に消すことができれば消える。しかし、火が少しでも残っているとそこから蒸気に燃え移って燃え続けますので、いつまで経っても火を消すことができない」
実際に焼夷弾の火を消そうとした、小林暢夫さん(94)。 ”油の火の玉”をまえに、「何をしても消えなかった」と証言した。

当時のバケツリレーのやり方を記者に教える小林さん
●空襲で消火活動を経験 小林暢夫さん(94) 「バケツリレーをして水をかけて、火たたき棒で消す。でも消えない。油脂焼夷弾だから。防空演習をやっていたのとは全く違う。油の火の玉だから。古い木造家屋の塀なんかに当たると、すぐにバンって燃え出す」「本当に怖さだね。何やったって消えないんだから」
それでも逃げなかった理由 隣組による“同調圧力”

隣組の集合写真
消えない炎。 それでも人々が火を消そうとした理由を、小林さんが語ってくれた。
●空��で消火活動を経験 小林暢夫さん(94) 「何事か危険な状態になれば、自分で真っ先に逃げようというそういう意識はあるんだろうね。あるんだろうけども、表には出せない。隣組は。みんなで共同体だから。それは戦争中、特にそうさせられたわけだ」
「隣組」。お互いを助け合う地域の組織で、配給や防空訓練などの役割があった。 しかし、その助け合いの結びつきが、逆に“同調圧力”を生んだと専門家は見ている。

当時のバケツリレーの様子
●早稲田大学 水島朝穂名誉教授 「法律がただ禁止しているだけじゃない。隣組とか自治会とか生活圏における社会的な圧力、これが構造的に働いて人々はいわば“逃げなかった”」
そして、もし現代に「防空法」のようなものがあったら―。 「隣組」の役割が、現代では「SNS」に置き換わって、市民たちが空気に流されて行動してしまうのではないかと指摘する。
●早稲田大学 水島朝穂名誉教授 「SNSが当時あったら、うちのお父さん一生懸命火を消しているのに『あの家のお父さん子供を連れて逃げてるよ』というのを動画で撮って晒したらどういうことになります?大変なことでしょう。(当時は)SNSというツールがなかっただけで、もし今同じような仕組みができて、国家が『市民はそこに留まって協力しないと駄目だぞ』みたいなことを、仮にやったとしたら。みんながお互いを監視し合って『あの家逃げたぞ』とやって晒したりすることが起きたら。同じような機能を果たすんじゃないでしょうか」
“同調圧力”が漂う状況のなかで、 人々は逃げられなかったのではなく、逃げなかったのだ。
空気に抗い“逃げた”人も 日本刀を振りかざして…

八王子空襲で家族全員で逃げた尾股重利さん
しかし、終戦間際には、防空法や同調圧力に抗う人もいた。 終戦の2週間前。450人が亡くなった八王子空襲。
尾股重利さん(2015年の取材時84)は、空襲が始まると家族全員で避難を始めた。 八王子市内が焼夷弾の炎に包まれる中、市外へと繋がる橋を渡ろうとした。
●尾股重利さん(取材時84) 「浅川橋を渡ろうとしたら群衆がいっぱい集まっちゃって、行けなくなっちゃって。『みんな逃げるな、火を消せ』って言うんですよ。でもね、あれ火なんか消せる状態じゃないです。バケツで消えるような火なんかじゃないですよ。皆さん右往左往どっち行くか、逃げると殺すぞと(言われて)舞い上がっていた」 「火を消せ」と行く手を阻む人たちに向かって、尾股さんの父親が日本刀を振りかざして、何とか逃げたという。
●尾股重利さん(取材時84) 「科学的な炎だから水ぐらいで消えるものじゃないですよ。それで油を含んで噴出すんだからもうたまったもんじゃない。非現実的な話。命を生きながらえる方が大切だと思った。火を消すより。わが命を守るのが第一だと思いましたね」
命を繋いだのは周りの目を振り切る勇気だった。
※この記事は、JNN/TBSとYahoo!ニュースによる戦後80年プロジェクト「#きおくをつなごう」の共同連携企画です。記事で紹介した防空法や東京大空襲についての情報を募集しています。心当たりのある方は「戦後80年 #きおくをつなごう」サイト内の情報募集フォームにご連絡ください。
また、企画趣旨に賛同いただける方は、身近な人から聞いた戦時中の体験談や写真を「#きおくをつなごう」をつけてSNSに投稿をお願いいたします。
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2025.04.09(水)
所用で有休をとったので、昼から陽気に誘われて福井市中心部の足羽山(あすわやま)にある足羽神社へ出かけた。笏谷石(しゃくだにいし)の愛宕坂を上ったところに建つ神社の境内に、樹齢約380年の「しだれ桜」が今や満開に花を咲かせていた。やはりこのしだれ桜はいつ見ても美しい。
愛宕坂を戻り5、6分ほど歩くと桜並木が続く足羽川堤防に着く。風は北風でもありやや冷えるかなという程度で、平日にもかかわらずどちらも多くの人で賑わっていた。
土曜日に訪れた万葉の里「味真野苑(あじまのえん)」では水芭蕉と旧谷口家住宅の「彩りを紡ぐ“織り・藍の二人展”」を見学、それと日帰り温泉ができる国民宿舎 鷹巣荘(たかすそう)の近くの「水分神社(すいぶんじんじゃ)」(「みくまり」とは呼ばないようです)でも桜が咲いていて、ちらほらと参拝者も来ていた。この神社の湧水、知る人ぞ知る「ふくいのおいしい水」なんです。
西東 みなみにきたか 糸桜(哥川 かせん)
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2025/3/10 22:00:07現在のニュース
大阪ガス、NTT西日本が準決勝進出 JABA東京スポニチ大会(毎日新聞, 2025/3/10 21:58:46) 大阪ガス、NTT西日本が準決勝進出 JABA東京スポニチ大会(毎日新聞, 2025/3/10 21:58:42) 震災でアパート流され、山林火災で自宅全焼…大船渡の男性「戻ってくるつもりで前向きたい」([B!]読売新聞, 2025/3/10 21:57:55) 政府「対象となる男系男子は存在」 与野党が養子縁組による旧皇族復帰案協議([B!]産経新聞, 2025/3/10 21:51:08) 電車と接触、死亡したのは10代の小学生男児か 広島のJR呉線(朝日新聞, 2025/3/10 21:46:59) 「電気拷問で火傷だらけに」独裁国家による女性迫害訴え 外国人女性が新宿で街頭活動 3・8 国際女性デー([B!]産経新聞, 2025/3/10 21:45:49) 東南アジアの最大手ホテル、日本・アメリカに照準 マイナーが高級型で - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2025/3/10 21:45:44) 「春の祭典」SXSW開幕 トランプ2.0どう響く? あす正午から生配信 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2025/3/10 21:37:11) 福岡で景気討論会 九州経済、半導体と訪日客で好循環 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2025/3/10 21:37:11) 列島覆う山火事リスク 50年に一度の干ばつ 衛星・気象データでみる「大船渡」 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2025/3/10 21:37:11) 備蓄米入札開始、外食が利用前向き スーパーはブレンド - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2025/3/10 21:37:11) 日本スキー場開発、4スキー場で冬来場者が上場以来最多 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2025/3/10 21:37:11) 三井住友FG、大企業向け営業は「銀証一体」で 体制再編 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2025/3/10 21:37:11) 牧野フライスにMBKなど複数の買収案、ニデックに対抗 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2025/3/10 21:37:11) 大川原化工機事件 公文書毀棄容疑の元捜査員再び不起訴 - 日本経済新聞([B!]日経新聞, 2025/3/10 21:37:11) 120年前に提案のパズル解法、ついに解決 日米チームが証明(毎日新聞, 2025/3/10 21:36:45) Jリーグ目指す、ヴィアティン三重 JFL今季初戦は引き分け(毎日新聞, 2025/3/10 21:36:45) Jリーグ目指す、ヴィアティン三重 JFL今季初戦は引き分け(毎日新聞, 2025/3/10 21:36:40) 世界初の女子専用スタジアム、広がる可能性 ビジネス価値ある資産に:朝日新聞([B!]朝日新聞, 2025/3/10 21:33:21)
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1.電力 石川県で、約4,700戸の停電が発生。現在の停電は、送電線や変電所によるものはなく、配電設備の損傷によるもの。北陸エリアでの供給力は確保できている状況。 北陸電力では、災害対策本部を設置し、3,600人体制で、情報収集及び復旧に向けた作業を実施。また、中能登町以北において、他社応援部隊(関西、中部、東京、東北、北海道、中国、四国、九州)を含め、現在、人員約1,000人規模で対応。 七尾市、志賀町は、ほぼ全域復旧済み。能登町、穴水町は、道路損壊、土砂崩れの影響を受けた一部の地域が残るのみ。一方、輪島市、珠洲市は、配電設備の被害が甚大であり、道路損壊により作業が難航。このため、停電の続く避難所を優先して、配電線復旧重点工事に加え、電源車での代替供給を開始済。6日から、能登町、穴水町、輪島市、珠洲市との電力供給に関するミーティングを開始し、現場のニーズを踏まえ、順次対応中。 北陸電力によれば、土砂崩れ等により復旧作業のための立入が困難な箇所、及び地震・津波・火災により甚大な被害を受けた地区の一部を除いて、1月中に概ね停電から復旧する見通し。立入困難な箇所についても、道路等の作業現場へのアクセス改善に応じて、順次復旧作業を実施。 北陸電力管内の七尾大田火力発電所(石炭、1号50万kW・2号70万kW)では、地震により稼働中であった1号・2号が停止。 ○東北電力管内 停電解消済 ○北陸電力管内 石川県 約4,700戸(輪島市 約2,600戸、珠洲市 約1,800戸、能登町 約120戸、穴水町 約70戸、志賀町 約10戸、七尾市 約10戸 他) 2.ガス 都市ガスについて、現時点で、ガス製造事業者、一般ガス導管事業の被害・供給支障については解消。 ガス小売事業(簡易ガス)については、住宅崩壊等により復旧困難な場所を除き、供給再開。 熱供給事業については、現時点で、供給支障はなく、被害情報もなし。 LPガスについて、七尾基地では、輸入や国家備蓄基地からの受入設備について、本年2月末の応急的復旧を目標として補修作業中。限定的な出荷(在庫分)や代替基地からの振替出荷により対応。 3.高圧ガス・火薬類 高圧法及び石災法に係る設備について、現時点で、大きな被害情報なし。 現時点で、鉱山及び火薬関係での被害情報なし。 4.製油所・油槽所、SS 油槽所については陸上出荷を再開済み。出荷再開の目処が立っていない油槽所1か所について、近隣油槽所からの応援配送を実施。 SSの稼働状況(七尾市、志賀町、穴水町、輪島市、能登町、珠洲市)。 ◆営業可能(給油・配送可能):56件 ◆営業停止(給油・配送不可):13件 5.物資 関係事業者・業界団体と連携し、被災地・避難所への物資の供給を継続。毛布、携帯トイレ、消臭剤、カセットボンベなど、必要な物資を石川県の拠点に集積し、順次、トラックで輪島市・珠洲市・穴水町・能登町等の被災自治体へ発送。 防寒物資(石油ストーブ・ジェットヒーター等)や燃料等の集積と避難所への供給を強化。 避難所の感染症対策として、消毒液等の衛生用品の調達も実施。 自衛隊と連携し、コンビニやスーパーの商品等の支援物資の避難所への輸送も実施。 6.工業用水 富山県の工業用水道事業において、漏水により 供給支障(受水企業1社)が発生。1月22日(月曜日)から工業用水以外の水に切替えて営業を再開。復旧工事の時期は調整中。 7.製造業、中小企業 石川県を中心とした北陸三県に加え新潟県などの幅広い地域における産業の主要な生産拠点を持つ企業と地場の企業、それらから影響を受けうるセットメーカーなどに対し被害情報等を収集。建物や設備の損傷等の被害が多数発生しているが、被災地域域外のサプライチェーンにも影響を及ぼしうる業種については、約9割が生産を再開又は再開の目処が立っている状況である一方、繊維、工芸品、印刷製造業については、2割強の企業において生産再開の目処が立っていない状況。 1月11日(木曜日)、今回の能登半島地震が、地域を指定しない激甚災害「本激」に指定された。 災害救助法の適用を受けた新潟県、富山県、石川県及び福井県の県又は適用地域(47市町村)に対し、1月4日(木曜日)までに、 (1)中小企業関係団体等による特別相談窓口の開設 (2)災害復旧貸付の実施 (3)セーフティネット保証4号の適用 (4)既往債務の返済条件緩和等への柔軟な対応の要請 (5)小規模企業共済災害貸付の適用等の初動措置 を発動。 <災害救助法の適用地域>(1月25日13:00時点) ・新潟県(14市町村) 新潟市、長岡市、三条市、柏崎市、加茂市、見附市、燕市、糸魚川市、妙高市、五泉市、上越市、佐渡市、南魚沼市、三島郡出雲崎町 ・富山県(13市町村) 富山市、高岡市、氷見市、滑川市、黒部市、砺波市、小矢部市、南砺市、射水市、中新川郡舟橋村、中新川郡上市町、中新川郡立山町、下新川郡朝日町 ・石川県(17市町村) 金沢市、七尾市、小松市、輪島市、珠洲市、加賀市、羽咋市、かほく市、白山市、能美市、河北郡津幡町、河北郡内灘町、羽咋郡志賀町、羽咋郡宝達志水町、鹿島郡中能登町、鳳珠郡穴水町、鳳珠郡能登町 ・福井県(3市町村) 福井市、あわら市、坂井市 8.その他 経済産業省では、1月1日(月曜日)16:10に災害連絡室を設置。 1月1日(月曜日)23:22に、経済産業省非常災害対策本部を設置。1月2日(火曜日)以降、1月16日(火曜日)までに、計9回の本部会議を開催。 1月17日(水曜日)に、被災中小企業・小規模事業者等支援本部を開催。 1月25日(木曜日)より、小規模事業者持続化補助金(災害支援枠)の1次公募開始予定。 1月2日(火曜日)以降、経済産業省、経済産業局及び産業保安監督部の職員を、石川県庁及び被災自治体等へ派遣。1月25日(木曜日)時点、30名(延べ114名)派遣済み。 担当 大臣官房広報室長 加賀 担当:栗原、山岡、小西、佐々木、隈江 電話:03-3501-1511(内線 2276) メール:bzl-kokunai-houdou★meti.go.jp ※[★]を[@]に置き換えてください。
令和6年能登半島地震に伴う被害について(1月25日(木曜日)13:00時点) (METI/経済産業省)
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旧幕臣たちは、いわゆる三つの選択肢のなかから自らの身の振り方を決めることが迫られる。すなわち主家とともに駿河へ移住するか、朝臣(ちようしん)として新政府に所属するか、武士身分を捨て帰農・帰商するかという三つである。 駿河への移住、つまり静岡藩士になったのは、明治四年(一八七一)八月時点で一万三千七百六十四名である(『静岡県史資料編16近現代一』)。もちろん、当主のみの人数である。一方、朝臣になったのは約五千名、帰農・帰商したのは約四千五百名(うち三千名以上がのちに静岡藩に帰籍)という数字があるが(原口清『明治前期地方政治史研究上』、一九七二年、塙書房)、時期によって変動も生じており、必ずしも正確ではないかもしれない。 実際には前記の三つの選択肢以外にも別の行動があった。一般によく知られているのが、本誌の特集テーマにもなっている戊辰戦争(ぼしんせんそう)への参加、つまり関東・奥羽・北越・蝦夷地へ脱走して新政府軍との抗戦を続けるというものである。 (中略) 基木的には三つ、もしくは四つの進路を選んだ旧幕臣たちであったが、時間の推移とともにその進路は変更された。一度分かれた流れが、先に行って合流するかのように、帰農・帰商した者や脱走・抗戦した者が結局は静岡藩に帰参する場合が少なくなかったのである。農業や商業に失敗し、困った挙げ句、静岡藩に泣きついて帰参を許してもらうというパターンである。奥羽や箱館で敗北、新政府に降伏した者たちも、赦免(しやめん)後は静岡藩に引き渡された。箱館戦争降伏人には、その後、静岡・沼津の藩校で教鞭をとったり、他藩への御貸人(かしびと)となるなど、静岡藩で有能さを発揮した者もあった。 明治三年に静岡藩の静岡病院医師坪井信良(つぼいしんりぬう)がつくった「示帰参朝臣連」という題の漢詩がある(宮地正人『幕末維新風雲通信』、一九七八年、東京大学出版会)。本領安堵(ほんりょうあんど) 説を妄信し朝臣になって東京に留まったものの、新政府の方針変換によって禄を失い、家財を売り尽くし食うことにも困り果て、藩士への扶持米を増加したと聞いて、家族を引き連れ静岡藩への帰参を希望しているという元旗本たちの存在を皮肉った内容である。一度は徳川家を見限って白ら去ったものの、今度は旧主家にすり寄ってくるその白分勝手な態度を辛辣(しんらつ)に批判したものだった。同じ帰参者であっても、箱館戦争からの復員兵たちは好意をもって藩内に迎えられた一方、帰農・帰商や朝臣からの帰参者は白眼視されたに違いない。 周縁の人びとのその後 幕臣といっても大身の旗本から微禄の御家人までピンからキリまである。下級の旗本や御家人は核家族といってもよかったであろうが、大きな知行地を持つ領主としての旗本の場合、当主とその家族のみならず、家臣・奉公人を多数抱えており、小さな藩と同じだった。知行所の維持・経営が不要となった静岡藩士は、移住前に家臣を解雇し、身軽になった。 五千石を領した蜷川親賢は、数十人いた家臣たちに暇を出し、家族のほか、家来二名と下男・下女数名、合わせて二十数名で移住した。駿河国では大変な住宅難が引き起こされていたが、蜷川家は庵原(いはら)郡の農家で住居を借りることができた。それは江戸の家財を整理し多額の現金を有していたから可能だったことらしい。明治五年時点の戸籍には、家族六名、家臣とその家族八名(二家分)が記されていたというので(坂井誠一『遍歴の武家』、一九六三年、吉川弘文館)、廃藩にいたるまで家臣を雇っていた。 いち早く新政府に帰順した元旗本には、家臣たちからなる兵隊を「官軍」に参加させ関東・奥羽に出兵したり、江戸市中の警備を担当させたりした者もあった。朝臣となった彼らは、本領を安堵されたこともあり、しばらくは家臣を雇用し続けることができたのであるが、明治二年十二月の禄制改革によって家禄(かろく)が蔵米(くらまい)で支給されるようになると、所領とともに家臣たちをも手離していった。静岡に移住した者と朝臣になった者の「喪失」の時問差は、わずか一年ほどにすぎなかった。 旗本の家臣、すなわち陪臣(ばいしん)たちのその後も、すぐに解雇された者ばかりではなく、主家とともに静岡へ移住したり、主人とともに官軍・賊軍として戦ったりと、さまざまであった。江戸に進駐した新政府軍の指揮下に入り、市中取締隊長の任にあたったほか、下野での戦闘や上野戦争にも参加した経歴を持つ、旗本大久保与七郎の家来、匝瑳胤常(そうさたねつね)(郷輔・六郎)という人物は、その後、東京府の府兵局掛、権典事(ごんみてんじ)などをつとめ(『市中取締沿革』、一九五四年、東京都)、官吏として生き、士族の身分も得たらしいが、報いられるところが少ないことに不満を抱いていたのだろう、明治三十一年、陳情書を政府に提出、戊辰時の功績を根拠に持ち出して叙位を求めている(国立公文書館蔵)。 旗本小出家の家臣である大島貞薫(おおしまよさだか)・貞恭父子が洋学者としての能力を買われ陸軍兵学寮(りくぐんへいがくりよう)で地位を得たように、新政府のなかで活躍した者は極めて少なかった印象である。主家の零落とともに職を失ったその他多くの旗本家臣たちは、その後どのようになったのだろうか。 徳川幕府という巨大な組織に身を置いたのは、正規の旗本・御家人だけではない。士分とはされない、代官手代(だいかんてだい)のような本来庶民身分の者もいたし、幕末に加わった陸軍の兵卒や海軍の水夫たちも膨大に存在した。能役者・絵師・碁将棋士など幕府から禄をもらっていた御用達町人(ごようたしちょうにん)も一時は朝臣に組み入れられたが(静岡に移住した者もあり)、のちに平民籍とされた。 その後を生きた旧幕臣たちの背後には、周縁にいた者たちの後の人生も多様な形で広がっていたのである。 《歴史読本2013年3月号「幕末戊辰戦争全史:特集論考:岐路に立った旧幕臣・樋口雄彦」》
人文パイプぶろぐ: 岐路に立った旧幕臣
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