#旧笹井特別出張所
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generalwonderlandpeace · 1 year ago
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xf-2 · 5 years ago
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第二次世界大戦で奇跡の生還を遂げ「戦艦大和の語り部」として講演活動などをしてきた八杉康夫氏が1月11日広島県福山市内で死去した。92歳。誤嚥性肺炎だった。
 著書『戦艦大和最後の乗組員の��言』(2005年 ワック)は筆者の手になる聞き書きである。その生涯と言葉を振り返りたい。
八杉氏は福山市の豆腐店に生まれた。1943年、「街を颯爽と歩く水兵さんにあこがれて」15歳で海軍に志願。秀才の集まる横須賀砲術学校を2番で卒業。17歳で憧れの大和乗務員に抜擢された。
 担当は艦橋最上部での敵機の偵察。「司令官ら偉い人たちの居る場で狭い階段で最敬礼の連続でした」。
 敗色濃厚となった1945年4月7日、「天一号作戦」と呼ばれる沖縄海上特攻に呉港から出撃する。「温存されていた大和を使わないまま敗戦になれば国民の批判を受けることを軍部は恐れたのです。燃料は片道分と言われましたがそれは嘘で、十分に積んでいたはずです」
 乗り込む前夜、母まきゑさんと呉市の旅館で食事をし、当日は港近くまで送られた。「『長い間ありがとうございました』と敬礼し踵を返すと『あんた、元気でな』と言われましたが振り返りませんでした。これで会えないと覚悟していました」。
壮絶な少尉の割腹自殺と救助を拒否した高射長
 隠密行動のはずだったが米偵察機マーチンがさっと上空をかすめた。「すぐに察知されていたんですね」。いよいよ、敵機は近い。
「艦橋最上部で5メートルもあるニコン自慢の測距儀のレンズを覗くと米機の編隊で真っ黒だった。自慢の45センチ(内径)の主砲を撃つタイミングを今か今かと測っていると編隊はさっと雲上に消えたのです。真上から攻撃された大和は高射砲で応じましたが300機以上の米機はまるで雲霞(ウンカ)の大群。魚雷、250キロ爆弾などが次々と命中し為すすべもありません。大和は結局、主砲は一発も撃てませんでした」。当時、日本のレーダーはお粗末で基本は目視だが、運悪くこの日は空一面に雲が広がっていた。
 ちぎれた手足や首が転がり甲板は血の海。地獄絵図の中、八杉少年は衝撃的な光景を目の当たりにする。可愛がってくれた保本政一少尉が傾く甲板で軍服をはだけ、持っていた���刀で割腹自殺したのだ。「血がホースの水のように吹き出し、少尉は倒れました。私は震えて立ち尽くしました。前夜、褌をアイロンして届けると『ありがとう、明日は頑��れよ』と言われました。彼が秘密の上陸を母に密かに知らせてくれたから母に会えたのです」
 八杉少年は横転した大和の艦橋が海面に接する直前に海に飛び込むが大和が沈没し大渦に巻き込まれる。「洗濯機に放り込まれたように水中をぐるぐる回り、人にバンバン当たりました。息ができず苦しくてもう駄目だと思った時、水中がバアーッと黄色く光ったのです」。弾薬庫に引火した大和が水中で大爆発した。その勢いで運よくぽっかりと水面に浮かんだ。
 空を見上げるとアルミ箔のようにきらきらと光っていた。「きれいだなと思っていたらそれが落ちてきました。砕け散った大和の鉄片だったのです。近くで漂っていた人は頭を真っ二つに裂かれました」。重油の海で力尽きた仲間が次々と沈んでいった。
 沈みかけて思わず「助けてー」と叫ぶと偶然近くを漂っていた川崎(勝己)高射長が「そうれ」と丸太を渡してくれた。「自慢の髭は油まみれでオットセイのようでした。『お前は若いのだから頑張って生きろ』と大和が沈んだ方向へ泳いで消えました。私は高射長、高射長と叫び続けました、川崎さんは救助を拒み、大和が沈められた責任をお取りになったのです」。
 4時間の漂流の末、八杉少年は駆逐艦、「雪風」に救助された。「赤玉ポートワインを飲まされ重油をゲーゲーと吐きました。引き揚げてくれた若い男は『お前、よかったなあ』と泣きながら私の顔を叩いていました」
 雪風が到着した佐世保は一面、桜満開の快晴だった。「『畜生、これが昨日だったら』と全員が男泣きしました」。40キロ以上飛翔する主砲弾が編隊の中で炸裂すれば米軍機10機くらいは一度に落とせたはずだった。
広島では自爆攻撃訓練
 大和の沈没は国家機密。生還者は佐世保にしばらく幽閉された。そして広島へ戻り、母にも再会できたが山中で米軍撃退の「肉薄攻撃」と呼ばれる「自爆攻撃」の訓練に明け暮れた。「棒の先の爆弾を戦車に踏ませるんです。部下は銃の扱いも知らない頼りない兵隊ばかりでした」。
 ある朝、空が光ったかと思うとものすごい風が吹いてきた。原爆だった。すぐに広島市内の現地調査を命じられた。水を求める少年に「後でやるからな」と去った。「水を与えるな」が命令だった。「人生、あれだけは心残りです」。
 音楽の才能の豊かだった八杉氏は戦後、NHKラジオの『のど自慢』のアコーディオン伴奏なども担当した。神戸で修業し、ピアノの調律師として生きたが、被ばくが原因で階段も上がれないような疲労に襲われることもあった。結婚もしたがすぐに離婚された。ヤマハの技師長にまで出世したが、退社後は楽器工房を営んだ。
みつかった戦艦大和
 1980年代に「大和探し」が始まった。調査三回目の1982年5月、指南役になり鹿児島県坊ノ岬沖に沈む大和をNHKスタッフらと探し当てた。戦後長く沈没位置は徳之島沖とされていた。「大和はそこまで到達しないうちに沈んだ。おかしい、という説はありましたが、毎年、徳之島で慰霊祭をやってきた地元出身の有力代議士の力でそのままになっていたんです」。
「潜水カメラの影響でしゃれこうべ(頭蓋骨)が浮かび上がって一回転し、スーッと沈んでいった時は船上の全員が涙を流しました。実は自衛隊の対潜哨戒機が上空から場所を教えてくれたんです」。その後、日本船舶振興会の笹川良一氏などが大和を引き揚げようという計画を立ち上げたが八杉氏は「仲間はあそこで静かに眠らせたい」と反対した。
名作『戦艦大和ノ最期』の嘘を著者に認めさせる
 朗らかな人柄だが事実には厳しかった。名著とされた吉田満の『戦艦大和ノ最期』には救助艇の「初霜」について海面から兵隊が這い上がると艇が沈むため、「ここに総指揮および乗り組み下士官、用意の日本刀の鞘を払い、犇(ひし)めく腕を手首よりバッサバッサと斬り捨て、または足蹴にかけて突き落す」とある。
 だが八杉氏は「初霜は内火艇と言って羅針盤の磁気に影響するため乗る時は軍刀を持ち込めない。そもそもそんなことする必要もない。艇にはロープが多く積まれ、引き揚げなくてもロープにつかまらせて引っ張ればいい。それにそんな事実があれば幽閉されていた佐世保では『ひどい奴だ』とその話題で持ちきりになったはず。そんな話題は全くなかった」。
 筆者は子供の頃、『戦艦大和ノ最期』を読み、這い上がる兵隊の手首を斬り落としたという場面は衝撃的で鮮明に覚えている。八杉氏に会ってそれが嘘と知り、少しほっとしたが迷惑千万だったのは書かれた当人だ。実名は出していないが旧海軍関係者にはすぐに誰かわかる。兵隊の腕を切り蹴り落としたとされた初霜の総指揮は松井一��中尉。戦後、東京で弁護士をしている松井氏に筆者も会い取材したこともある。松井氏は訴訟も検討したそうだが吉田氏は五十代で早逝した。
 作品では大和艦上で兵隊たちが議論していた時、臼淵磐大尉が「進歩のない者は決して勝たない。負けて目覚めることが最上の道だ。日本は進歩ということを軽んじすぎた。(中略)敗れて目覚める、それ以外にどうして日本が救われるか。(中略)俺たちはその先導になるのだ。日本の新生に先駆けて散る。まさに本望じゃないか」と演説している。この「名言」に八杉氏は鋭く疑問を呈した。「戦後民主主義教育を受けなくてはあり得ない。あの時は全員が『見ておれ、アメ公め』と燃えていたんです。敗れた自分たちが愚かだった、反省して国を再建しよう、なんて発想が出るはずもない」と。
 吉田満氏は東京帝大出身。大和には��測士として乗り込み、九死に一生を得た。「頭のいい吉田さんは鬼畜米英から戦後民主主義にさっと切り替えて、あたかも大和の乗組員が話したかのようにしたのでしょう」。八杉氏が吉田氏に会って問い糺すと相手はフィクションと認めた。「フィクションならどうして実名で書くんですか」と畳み掛けると黙ってしまったという。『戦艦大和ノ最期』は三島由紀夫、河上徹太郎、小林秀雄ら当代一流の文壇人が「ノンフィクションの最高傑作」とこぞって絶賛した。若い吉田氏は「あれは作り事でした」とは言えなかったのだろう。だが名作の影響は大きい。「徳之島」も吉田氏の著作が根拠だった。
 八杉氏は後年、『男たちの大和』の作家辺見じゅんにも「それは嘘です。そうお書きになるなら小説になさい」などと厳しく指摘した。
 2005年に『男たちの大和』が角川映画になった際は、反町隆史ら出演俳優らに、高射砲の撃ち方などを実技指導した。その時は「娯楽映画だから主砲をぶっ放したのは仕方がないかな』と笑っていた。
 感動的な講演を続け、川崎高射長の場面では必ずしゃくりあげた。一年半前、久しぶりに福山市内の施設で会った時は認知症も進み、いつも「粟野先生」と呼んでくれていたダンディな八杉氏が筆者が誰か判別も付かずショックを受けた。
「敗戦の象徴」の生き証人はいつもこう訴えた。「平和は向こうから歩いてはこない。自ら掴み取るのです」。
粟野仁雄(あわの・まさお) ジ���ーナリスト。1956年、兵庫県生まれ。大阪大学文学部を卒業。2001年まで共同通信記者。著書に「サハリンに残されて」「警察の犯罪」「検察に、殺される」「ルポ 原発難民」など。
週刊新潮WEB取材班編集
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kkagneta2 · 6 years ago
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逆の関係
長身女性もの。14k文字。
妻の美雪と出会ったのは高校の入学式だったろうか、出会ったというよりも姿を見た程度ではあったが、今でもあの時の衝撃を忘れることはない。スクールバスから降り立って、上級生に案内されて、体育館にずらりと並んだ生徒たちの中でひときわ突き抜けた、――周りは高校一年生の女子なのだから、遠目からでも胸から上が丸ごと見えてしまっているほどに背の高い女生徒、――もう心臓が張り裂けそうでならなかった。あまりにも現実離れしている。見間違い? それとも台に乗っている? いやいや、何度目を擦っても一人だけ浮いたように胸から上が出てしまっている。他の女子がちょっと大きめの160センチだとしても、明らかに190センチは超えている。……
残念なことに美雪とは違うクラスであったから、心配されるほどに落胆してしまったのだが、嬉しいことに彼女と声を交わしたのはそれから2、3日もしなかった。
ちょっとここで、話を分かりやすくするために説明しておきたいことがあるので、回り道を許していただきたい。私たちの高校では、クラスは分かれるけれども、実のところ授業はそれとは関係なく、選んだ先生の元に生徒が行って、そこで授業を受けると云う、要は大学みたいな授業の受け方なのである。だから毎時間、本来の教室に教科書やらを取りに戻りはするけれど、だいたいあっちへ移動して、こっちへ移動して、それが終わればここへ移動して、……と云うように、学生からすると面倒くさいだけのシステムを、私はこなしていた。
で、私は最初の週の木曜日、うっかり教室を間違えてしまって、微妙に食い違った席順に違和感を覚えながら座っていたのであるが、チャイムが鳴る少し前、目の前に黒い人の気配を感じて目を上げると、――彼女が居た。
「あ、あの、……」
と鈴のような綺麗な声が私にかかる。
「は、はい?」
ときっと変な声を出してしまっていただろう。何せ目線よりもずっと上に彼女のスカートと裾の切れ目が見えるのである。それに、天井を見るように顔を上げると、「美雪」と云ふ名にふさわしい綺麗で大人びた顔つきが見え、私は必死で歯が震えるのを抑えていた。
「もしかして、間違えてませんか? そこ私の席だと思うんですけど、……」
「あれ? えっと、もしかして、次は化学ではない?」
「そうですね。次はここ古典になってます」
ペロリと彼女が席順等々を記している紙を見せてくれる。
「えっ、あっ、ほんとうだ。……ご、ごめん。通りで変だと思った。……」
と、私は立ち上がった。――のだが、立ち上がった感覚がまるでしなかった。私の眼の前には彼女の豊かな胸元があったし、ぐいと見上げないと彼女と目が合わせられないし、私の腰と彼女の太ももの腹がだいたい同じ位置に来ているし、……要は���った状態で人を見上げる時の景色が、そこには広がっていた。――
「いや、ごめんね。どうぞ」
と足早に過ぎようとしたのであるが、焦りが顔に出てしまっていたのか、
「くすくす、……次からは気をつけてね」
と、柔らかな笑みを浮かべられた彼女に、私は手を振られながら教室を後にした。
ただただ恥ずかしかった。一目惚れをした相手に笑われて、第一印象が肝心なのにこれでは、……と思って、次の授業中泣きそうになっていた。
ところが話はこれだけではないのである。明くる日、教室を移動していると廊下に彼女の姿が見えたので、自然私は隠れるように次の授業の教室に入ったのであるが、なんとそこに彼女が、扉の上に頭をぶつけないよう身をかがめて入って来た。しかも私の横の席に座ってくるのである。私は窮屈そうに横へ放り出されている彼女の足の筋と肉の織りなす芸術に見とれつつも、教科書と、ノートと、筆記用具を取り出す彼女を眺めていた。――と、その時、ひらひらと、扇のように大きな手が右へ、左へ。
「こんにちは。今日は間違えてませんよね?」
とくすくすと笑ってくる。
「たぶんね。誰もここに来なかったら、大丈夫だろう」
この時の私はなぜか冷静だった。それでも彼女のくすぐったい笑いに顔を赤くしてはいたが、……
「ふふ、そうなってからは遅いんじゃありません?」
「ま、でも、同じ教科書を出しているあたり、間違ってはいないんだろうな」
「ですね、――」
とチラリと時計を見た。
「自己紹介、……しましょうか」
「だな。でも、その前に、俺に敬語なんて必要ないんだけど?」
いえ、これは癖なので、……と云ってから彼女は自分の名前を云い出した。旧姓は笹川と云う。私はどこそこの中学校から来た者で、地元はあそこで、今はスクールバスで通っている身で、家で飼っている兎がたいへん可愛くて、……などなど意外にも自身のことをたくさん喋る。
「へえ、笹川さんはあの辺りから来たんだ。俺もお爺ちゃんがあそこらへんに住んでるから、よく行くよ」
「それなら、すれ違ってるかもしれませんね。――ところで、笹川〝さん〟はやめてください」
「笹川さんが敬語をやめたらね」
「うぅ、……橘さんのいぢわる。ひどいです。……」
とわざとらしく手を目元にやるので、私はその見た目とは反対のお茶目っぷりに声を出して笑った。
  この日が契機となって、私たちは週に一度だけ、それも10分だけある休み時間のみではあるが、よく話をしたものだった。私の緊張も次第に溶けていって、一ヶ月もすれば、ごく自然に美雪の前で振る舞えるようになっていた。が、彼女の長身ぶりは半端なものではなく、毎回教室をかがんで入ってくるし、普通のボールペンやらシャーペンがミニチュアサイズに見えてしまうし、相変わら��私の頭は彼女の胸元にしか辿り着いてないし、何より足を前に伸ばせば前の席からかかとが出てしまうのには、驚きで目を見開いてしまった。すると美雪はハッとなって足を引っ込めるのであるが、その仕草がまたいじらしくて、辛抱するのも限界であったかもしれない。
当然、彼女の身長については様々な憶測が飛び交っていた。180センチだの190センチだの、はたまた2メートルは超えているだの、何度聞いたことか。一応男子で180センチはある同級生が居たから、わざと並ぶように立ってもらい、それを色々な角度から見て目算で美雪の身長を見積もると云う方法をやったことがある。が、彼女は話している時には下を向くのと、体を使って話そうとするから上手くはいかなかった。それでもなんとか見てみると、182センチの男子生徒の頭の天辺が、彼女の顎程度にしか辿り着いてないのである。ということは、彼女が小顔であることを考慮すると190センチと、もう少しあるぐらい、とにかく190センチは超えている、――という結論に至った。
私はこの話を馬鹿らしいと思いながら聞いて、その実どれほど心を踊らせていたか。たった一ヶ月前には中学生であった女子高生が、男よりも遥かに高い、190センチを超える身長を持っている。……これだけ分かれば、もう夜のおかずには困らない。しかもめちゃくちゃかわいい、奥ゆかしい、麗しい、……
より私の心を踊らせたのは、中学生時代から美雪の友達だと云う女子の話であった。聞くと彼女は小学生の時にすでに180センチ以上あり、ランドセルが背負えないからトートバッグか何かを持って通学していたと云う。それで中学に入ると、身長の伸びは鈍くはなったが、身体測定のたびに先生を驚かせていたから190センチ以上と云うのは確かだと思う。色々あるけど、すごいのはプールの授業の時で、水深1メートル10センチだったから、みんな胸元に水面が来ていたんだけど、彼女だけ股のあたり、――腰にも水面が届いてなかった。笹川は背が高いけど、本当に恐ろしいのは足の長さなんだよ。君も座ってると別にあの子があんなに背が高いとは思わないでしょ? と云うのである。
たしかにその通りである。私は当時、美雪と基本的に話をすると云えば、互いに座ったまま声を交わすことだったから、しばしば目が合ってしまって顔が赤くなるのを感じたものだった。彼女の上半身は普通の、……少し大柄かな? と思う程度、……恐らく原因は豊かな乳房にある、……裸を見ることの出来る今だから云えるが、背が高いとは云っても、少なくとも私よりは細い。……いや、やっぱり胸はちょっと大きすぎるかもしれない。……
それで、だいたい彼女の身長は190センチ台だということが分かったのであるが、あまりにもはっきりしないものだから、なぜか私に白羽の矢が立ったのであった。恐らく私があまりにも楽しげに美雪と話していたからであらう。
「あー、わかんね。たちばなー、お前聞いて来てくれよ」
「えっ、何で俺なんだよ」
「だ��て俺たちっていうか、1年の男子の中で、笹川と一番仲が良いのってお前じゃん?」
「それは、まあ、自負してるけど、……だけどこういうのはコンプレックスになってるかもしれないから、良くはないだろ」
「けどお前も、もっと仲を縮めたいだろう? ならいつかは聞かなくちゃいけないから、ほら、ほら、行くぞ」
「あ、ちょっと、まっ、………」
と、俺は昼休みの時間、まだ食べ終えていない弁当を尻目に連れ出されてしまった。
とは云っても、他人のコンプレックスになってるかもしれない事柄に口を出すのはご法度であるから、もぐもぐと色鮮やかな弁当を食べている美雪の前に立たされた私は、頭が真っ白になっていた。ニヤニヤと笑いながら見てくる友人には、今思い出しても腹が立つ。
「あ、……」
「うん? どうしました?」
「あ、いや、なんでもない。あー、……こ、今度の日曜にユニバでも行かないか?」
なぜ、デートの誘いになったのかは、私自身も分からない。ニヤニヤと笑っていた友人は口を開けて止まっているし、彼女の周りに居た女子数名もパントマイムのように動きが止まっているし、そもそもの話として教室中がしいんと静まりかえってしまった。なんでこんなことを云ったんだ、今すぐにでも教室から出て行きたい、……そんな思いがあって、誤魔化すように頬を爪でかいていたけれども、美雪だけは、あの柔らかい笑みを浮かべていた。嫌味も嫌悪も全くない、今でも私だけに見せるあの、純粋に好意に満ちた笑みを。
そんな美雪だったから、当然デートには行くことになったのであるが、私としては出来るだけその時の事は思い出したくない。それまで恋愛の「れ」の字も味わったことのない小僧が、いきなり女性とデートだなんて、――しかもほとんど自分の理想と云っても良いほどの体と性格を持っているのだから、それはそれはひどい有様だった。
まず、会話が上手く続かない。彼女が頑張って話題を振ってくれるのを感ずる度に、逃げ出したくなった。実は友人数名がこっそりとついてきていたらしく、あの後かなり揶揄されたのもきつい。それに、歩幅が違いすぎて、始終小走りでなくては彼女についていけなかったのが、何よりも情けなくてつらい。
それほどまでに、彼女の足は長いのである。具体的に云えば、彼女の膝下と私の股下がおおよそ同じなのである。裸足であれば言い過ぎなのであるが、あの日美雪は底のあるブーツを履いており、並んでいる時にこっそりと比べてみたところ、足の長さが倍くらい違う。目線を落とすとすぐそこに彼女の豊満なお尻、……が見えるのはいつものことなのであるが、あの日はタイツかストッキングで包まれた彼女の膝が、ほんとうに私の足の付け根と同じ位置にあった。
デート後半になると、私が息をきらしながら遅れてついてくるので、美雪はとうとう手を繋ごうと提案した。承知した私の手を包む彼女の手の暖かさは、初夏であってもやさしく、一生忘れられない。……が、却って大変であった。彼女は意外��力が強く、疲れて足取り重くなった私の手をしっかりと握って引っ張るものだから、感覚としては無理やりマラソンをさせられているのに似る。グイグイと他の客をかき分けて行く彼女に、けれども手の心地よさを味わいたい私は、無理でもついていくしかなかった。
その様子がどんなものであったかを知ったのは次の日であった。勝手についてきた連中が写真を撮っていたと云うので、見せてもらったところ、――いや、もう忘れたい。お姉ちゃんに無理やり連れてこられた小学生の弟が、手を繋がれてやっとのことで歩いている様子が、……あゝ、今でも時折その写真は見ることがあるのだが、まさに大人と子ども、……周りの人々にそういう風に見られていたと云うだけでも、私はもう我慢できなくなる。違う写真には、私が疲れて下を向いていた時の様子が映し出されていたのであるが、それもむくれてしまった子どものように見える。……私は美雪に嫌われたと思った。せっかくデートに誘ったのに、こんな情けない男と出歩くなんてと、思っていた。
が、彼女は彼女でかなり楽しんだらしい。明くる日のお昼休みにわざわざこちらの教室にまで出向いて、昨日は楽しかったです、お誘いありがとうございました、ところで次はどこに行きましょう? 金曜日に言い合いっこしましょうか。では、ほんとうに昨日はありがとうございました。と云って、呆気にとられているうちに出ていってしまった。
  美雪とはそれからどんどん心を寄せ合って行った。とは云っても、私も彼女も非常な奥手で、弁当を一緒に食べることすら一年はかかった。キスをするのには丸ごと二年はかかった。お互い奥手過ぎて告白というものをせず、自然の成り行きにまかせていたせいなのだが、だからこそ初キスの耽美さは際立っていた。それは私たちが高校3年生に上がる頃だっただろうか、すっかり寒さが和らいで、桜もほとんど散っていたから4月ももう後半と云った頃合いだらう。どうしてキスなどと云うものをしようと思ったのかは分からない、それすらも成り行きに任せていたから。だが、確かに憶えているのはどんどん近づいてくる彼女の唇である。
確か、キスをしたのは階段の踊り場であった。ベタな場所ではあるが、学校の中であそこほど気分を高めてくれる所はなかろう。奥手な私たちにはぴったりな場所である。階段を二段か、三段上がったところで美雪は私を呼び止めた。
「優斗さん、……あ、そのままで。……」
相変わらず「さん」付けはしていたが、その頃にはすっかり、私たちは下の名で互いを呼び合っていた。
「どうした?」
と云っているうちにも美雪は近づいてくる。――不思議だった。いつもは下から見上げる美雪の顔が今では、――それでも彼女は私を見下ろしてはいたが、まっすぐ目の前に見える。
「……目を閉じてください」
いつの間にか頬を、顔を、頭を彼女の大きな手で包まれていた。薄目を開けてみると、もう目の前まで彼女の顔が近づいてきている。あっ、と思った時には唇と唇が触れ合っている。……
頬から暖かい手の感触が無くなったので、目を開��と、顔を赤くしてはにかむ美雪と目が合った。きっと私も同じような顔をしていたに違いないが、その時はもう目の前に居る女性が愛おしくて愛おしくて、このまま授業をサボって駆け出したい気持ちに駆られた。
「さ、早く行きましょう。もう予鈴が鳴りましたよ」
と一息で私の居た段を飛び越すと、こっちの手を取ってくる。
「ああ、そうだな。……」
私はそれくらいしか言葉を発せられやしなかった。
それからの一年間は、美雪との勉強に費やした。もっとも私は教えられるばかりではあったが、そのおかげで、受験はお互い無事に突破できて、お互い無事に同じ大学へ通うことになった。残念ながら大学時代は一つの事を除いて特筆すべき事がまるでない。全くもって平々凡々としたキャンパスライフだった。
さて、その「一つの事」なのであるが、それは何かと云うと、ついに彼女の身長が判明したのである。大学二回生の時の健康診断の時だったのはよく憶えている。私は長い行列に並ぶのが面倒で飛ばそうかと思っていたのだが、朝方下宿先へとやってきた美雪に、それこそ姉弟のように引っ張られる形で、保健センターへと向かった。レントゲンこそ男女別だったものの、血圧身長体重を測る列に並ぶ頃には、私はまた美雪の後ろにひっついて歩いていた。
彼女は相変わらず女神のような存在だった。後ろに居る私は云うまでもないとして、列に並ぶ誰よりも頭二つ三つは突き抜けている。みんな、彼女からすれば子どもである。誰も彼女には敵わない、誰しもが彼女の弟妹でしかない。ただ私だけが彼女の恋人であった。
事が起こったのは私が身長を測り終えた時である。美雪は私を待っていてくれたのだが、ちょうど私たちの間には微妙な段差があって、胸元にあった彼女の診断結果が見えてしまっていたのである。苦い顔をしながら眺めていたから、横から来た私に気が付いていなかったのかもしれない。だが普段は気が付かなかったところで何も見えない。彼女の胸元と云えばちょうど私の頭の天辺なのだから、背伸びをしなければ、何があるのかも分からない。――が、とにかく、その時の私には、小さいカードに刻まれた下から二つ目の数字がなぜかはっきりと見えた。そこには198.8と云う数字が刻まれていた。余裕があったから私のカードを見てみると、167.4と云う数字が刻まれているからきっとそれは身長で、なら彼女の身長は198.8センチ、……もうあと2センチも大きくなれば2メートル、……2メートル、2メートル、………
胸の高鳴りは、しかし保健センターの職員に邪魔をされてしまって、その後教科書を買いに行くと云う美雪に引っ張られているうちに消えてしまった。が、その日私の頭の中にはずっと198.8と云う数字がめぐりにめぐっていた。あの時の、高校生の時の、190センチ以上は確実にあるという話は確かであった。美雪の身長は198.8センチ、多少の違いはあるとしても、成長期を終えようとしている女の子の身長が、そう違うことは無いはずである。ならば、少なくとも高校に入学した時の美雪の身長は195センチはあったはずである。なるほどそれなら182センチの男子が並んだところで、顎までしか届かなかったのも頷ける���扉という扉を〝くぐる〟のも頷ける。自販機よりも背が高いことも頷けるし、電車の荷物棚で体を支えるのも頷けるし、私の下宿先の天井で頭を打ったのも頷ける。私はとんでもない女子高校生と、あの日出会い、あの日お互いを語り合い、そして、あの日恋に落ちたようである。
結婚をしたのは私たちが特に留年することもなく、大学を卒業したその年であった。恥ずかしながら美雪と初めてしたのは初夜だった。服を脱いで、下着一枚となり、私の前であの大きな乳房を隠そうと腕をもじもじさせる彼女の姿は、いつもと打って変わって、まだ年端のいかない少女のものであった。私はゆっくりとブラジャーを取って眺めた。カップの左下にあるタグには65P と云う英数字が並んでいた。天は美雪に何もかもを与えていた。体も頭脳も美貌も境遇も、何もかもを彼女は持っていた。P カップのブラジャーは途方もなくいい匂いがした。私は実際に彼女の乳房に包まれたくなった。美雪は私を受け入れてくれた。乳房のあいだに辛うじて見える私の頭を撫でてくれた。力の入らない私の背を撫でてくれた。私は彼女の恋人でも弟でもなかった。ただの赤ん坊であった。私はいつしか彼女をこう呼んでいた。
「まま、……」
と。――
一度やってしまえば美雪も私も枷が外れたのか、週に一度とか、月に一度のペースではあるけれども、性行為に勤しんだ。殊に嬉しかったのは彼女が私の様々な要望を答えてくれることであった。もうすでにお分かりの通り、長身女性そのものを性癖として持つ私はずっと昔からそういうプレイをしたくしてしたくてたまらなかった。時には男が床でするように、彼女の太ももにモノをこすり付けたり、時には壁際で圧迫されながら素股、――と云ってもほとんど膝のあたりにしか届かなかったが、彼女の乳房の匂いを嗅ぎながら情けなく太ももで扱かれたり、時には上から押さえつけられるようなキスと手コキだけで射精に至ったり、様々な長身プレイを楽しんだ。
特に、私が気に入ったのは美雪の腕力に任せたプレイだった。先にチラリと出てきたのであるが、彼女の力は強い、……いや、強すぎる。もう何度、ひょんなことで体を浮かされたか。朝眠気にかまけて眠っていたら、ふわり。電車で倒れそうになったら、ふわり。性行為の時に「だっこ」と云ったら、ふわり。重くはないのか? と聞くと、優斗さん軽いんだもん、全然重くないよと云う。私も身長こそ167センチで止まっているが、体重は55キロあるから決して軽くは無いはずである。それを軽いと云って、ふわりと持ち上げられるのは驚異的であるとしか言いようがない。
一度、遊びだからと云って、握力計を握らせたことがあった。3000円ほどの玩具のような握力計ではあったが、100キロまで測れると云うので、さすがにそのくらいあれば良いかと思って買ってきたのである。案の定、美雪は全力を全く出してくれなかった。デジタル表示を見ながら、ちょうど25キロか30キロほどで測定を止めて、手渡してくる。ちゃんとして、と云っても笑ってごまかされる。��局その日は諦めて、また機会があればと思って、それっきりになっていたのであるが、数カ月後のある日、部屋の片付けをしている時に件の握力計が出てきたので、そう云えばあの時自分が測ってなかったなと思って握ってみると、なぜかスカスカする。握力計だから、握ると手応えがあるはずだが、……? と思いながらもう一度握る���、やはりスカスカする。不思議に思って適当にボタンを押していると、100、28、31、27、……と云った数字が出てくる。2つ目以降の数字はまさにあの日美雪が出した結果であった。と、云うことは最初の100と云う数字は一体、……? あの日以来、自分はこの握力計には触っていない。それにこの壊れた取手の部分も気になる。……そこで私はある結論に至り、背筋を寒くした。美雪を怒らせてしまったら、一体どうなる。……? 本気で手を握られでもしたら、……? 私の股間は熱くなる一方であった。
だが、彼女の力の強さを実感するに従って、漠然とした物足らなさが私を襲っていた。美雪にその力を存分に発揮させて、己の無力さを味わいたい。行為に到る時、彼女はどこか一歩引いたような風采(とりなり)で私を痛めつけるのである。それは本来美雪の性癖がそっちでは無いからでもあるし、まさか夫にそういうことをするわけにはいかないと云う思いもあるのであらう。赤ちゃんごっこはそこを上手くついてはいるが、やはり彼女にはその力でもって、私を嬲ってほしい。もっともっと、私を蔑んでほしい。……
とは云っても、美雪は完璧な良妻賢母である。何時に家に帰ろうとも起きていてくれて、しかも笑顔で迎えてくれるし、ご飯は物凄く美味しいし、家事は何一つ抜かり無く行うし、夫への気遣いはやりすぎなほどである。私はとんでもない女性を嫁にもらったようであった。毎日が幸せで、毎日が楽しく、充実している。――
  だが、そんな私と美雪のしあわせな結婚生活は終わりを迎えようとしていた。なぜなら、……
「パパ! パパ! 居るよね、聞いて聞いて!」
と娘の詩穂里が、〝腰を折り曲げながら〟書斎に入ってくる。全てはこの娘とのいびつな関係が原因なのである。――
詩穂里が生まれたのは結婚してすぐのことであった。まさかこんなに大きな女性から生まれたとは思えない、小さな可愛らしい存在に、私たち夫婦は胸を打たれた。授乳のためにさらに大きくなった美雪の乳房から母乳を飲む姿は、天使のようにも思える。
詩穂里はすくすくと成長した。それこそ退院時にはすでに同年代の子よりも一回りほど大きかったのだが、美雪が痛がっても母乳を求め続けた結果、離乳期はもとより幼稚園に入る頃には、一人だけ小学生が紛れたかと思うほど、娘は大きくなっていた。妻は、私もそんな感じだったから、別にいじめられていなければ気にするでもない、と云うので見守っていたのであるが、詩穂里とその組の集合写真を見てあろうことか、私は明らかに娘��、――それもまだ小学生にも至っていない女の子に向けるべきでない欲望が芽生えるのを感じた。美雪が撮って見せてくれる写真や動画もまた、かわいいかわいいとは口で云いながらも、その実私はその、他の子と比べて倍はあろうかと云う体格をした娘に股間を固くしていた。
小学生に上がった娘は相変わらず大きかった。他の子と比べるのは云うまでもないが、小学三年生になる頃には男の先生と比べても遜色なくなっていた。その時にはもうすでに身長160センチ近かったであろうか、気がついた時には私も詩穂里に背の高さで追いつかれつつあった。小学生のまだあどけない顔つきが日を追う毎に高くなって行く。……私はこの年になって久しぶりに、負けて悔しいという感情を抱いていた。
結局負けたのは詩穂里が小学四年生のときであっただろうか、立った時にやたら目線が合うかと思いきや、次の週には少し上から、次の月には娘ははっきりと私を見下ろしていた。そしてあろうことか、
「あれ? パパなんか小さくない?」
と云って、自身の頭から手をすっと横へずらしてくる。その手は明らかに数センチは私の上をかすめていった。
「ふふん。パパに勝っちゃった。ほめてほめて!」
「あ、あぁ、……よくやった。……」
私の声はかすれ声となっていた。
「ダメよ。そういうことしちゃ。パパだって意外と気にしてるんだから。ほら、ごめんなさいは?」
「あ、……えと、ごめんなさい」
詩穂里は美雪の云うことは聞くと云った風で、そこには妻の背の高さに対する尊敬の念が含まれているらしかった。
次の年、つまり詩穂里が小学5年生となった時、娘の身体測定の結果を見た私は愕然とした。そこには182.3センチという数字が並んでいた。180センチオーバーの小学5年生、……それが我が娘だなんて信じられやしなかった。
もうその頃には詩穂里は私よりも頭一つ以上は大きく、親子三人で出かけると決まって間に挟まることになる私のみすぼらしさは計り知れなかったことであろう。方や2メートルまであと一歩の美女、方や小学5年生にして180センチを超えた美少女。しかもヒールのあるブーツを履くので、外では二人の身長差はなくなる。……私は小人になった気分で、両者に手を引かれてついていくしかなかった。いや、小人と云うよりは囚われた宇宙人と云った方が正しいか。ある時、公衆の面前で、いきなり詩穂里が手を上げて、
「ほら、お母さんも」
と云うので、美雪も手を挙げる。私はあっさりバンザイの格好になったのであるが、肩に痛みを感じるや、次第に地から足が浮く感覚がする。――
そういう時がもう何度もあった。それに、二人とも、私の耳が自分たちの口の30センチは下にあることを利用して、コソコソとこちらをチラリと見つつ話をするのである。そして大概の場合、私は二人に挟まって、前からは美雪が、後ろからは詩穂里がという風にどんどん圧迫してくるのである。二人の長身美女に挟まれて身動きの取れない男、……想像したくもないが、一体どのように傍からは映っているのであろう。
そんな娘との関係が歪になり初めたのは、このペースで身長が伸び続ければ190センチも軽いと思っていた矢先のことであった。これは私たち夫婦の落ち度なのであるが、どうも夜の営みと云うものを見られたらしい。とは云っても、そんなに重いものではなくて、ただ妻に持ち上げられて背中をぽんぽんと、……要は赤ちゃんをあやすように抱っこされていた光景を見られたらしかった。
だが、小学5年生の女の子にとっては衝撃だったのであろう。明くる日、ちょうど折り悪く土曜日だったから、昨晩の余韻に浸りつつ、ソファに寝転がって本を呼んでいたところ、突然、
「パパ」
「ん? どうした?」
「ちょっと立って」
とニヤニヤと笑いながら云ってくる。手を伸ばして来ていたので、掴んで立ち上がると、
「そのまま立っててね」
と云われる。相変わらず小学生らしからぬ圧倒的な体つきであった。私の背は娘の肩までしか届いていなかった。目線は彼女の胸元であった。神々しさを感じていると、詩穂里は唐突に脇の下に手を入れてきた。そして、気がついた時には、――私は彼女と目が合っていた。
「え、……うわ! しほ、下ろしてくれ!!」
とジタバタと、地につかぬ足を動かすが、娘には何の抵抗もなっていないようである。そもそも私を持ち上げるのに全然力を使っていないようであった。無邪気な声で、
「あははは、パパかるーい」
と私を上下させながら云う。
「や、やめてくれ!!」
「ふふふ、わたし昨日見ちゃったよ。たかいたかいしてあげよっか」
「やめろ、たのむ、詩穂里!!」
「えー? やだ」
私の叫び声を他所に、詩穂里はさらに手を上へ。
「ほーら、たかいたかーい」
「うわああああああ!!!」
脇腹に感じる激しい痛みもあったが、それ以上に、天井に頭をぶつける恐怖の方が強かった。私はとにかく手も使って暴れたが、妻譲りの怪力を持つ娘には全くもって通じていない。
「ふふん、どう? もう一回?」
「や、やめて、……やめてくれ」
「やだ。それ、たかいたかーい!」
それが幾度となく繰り返された。小学生の娘にたかいたかいをされる恐怖と屈辱に私は涙を流しそうにもなっていた。――と、その時、折良く野暮用から美雪が帰ってきたらしく、部屋に入ってくる。
「あら? 二人とも何やってるの?」
「パパにたかいたかいしてあげてるの!」
「そう、ならもっとしてあげてね」
「美雪、……助けてくれ。……」
「優斗さん、実は楽しんでるでしょう? 私はまだやらないといけないことがあるから、もうちょっとしほの相手をしてあげて。大丈夫、怪我しないように手加減はしてくれるから、ね? しほちゃん?」
「うん! じゃあパパ、もう一回行くよー?」
――全く、私はとんでもない女の子を娘に持ってしまったようである。小学生なのに、背は私よりもう30センチ近くは高い、顔は可愛い、力は怪力、……それに生まれつきのサディスティックな性質。……この時、詩穂里にたかいたかいをされながら、私は美雪では満たされ得なかった何かが自分のなかに満ちていくのを感じた。
そして、その感覚は以来、続くことになった。と、云うのも、詩穂里はこの日以来、しばしば私を相手にたかいたかいやら、美雪のように抱っこをして背中をぽんぽんと叩いてくれたりするのである。彼女からするとごっこ遊びの一種なのであろう。体つきこそ大人顔負けなのに、心��小学生のままである。
そう云えば、家族三人で海に出かけた時は特にひどかった。私は沖に出る二人について行ったのであるが、あっという間に足が底につかなくなってしまった。見かねた美雪に引っ張られて抱きかかえられたものの、それに嫉妬した詩穂里に、
「ほら、パパおいでおいで」
と無理やり妻の柔らかい体から引き剥がされる。そして、
「もう、小さいのに無理して出てきて、溺れたら困るでしょ?」
と云う。もはや子供扱いだったが、さらに、
「なら、溺れないように詩穂里お姉さんと一緒に特訓しよう! ほら、まさとくん、手は離さないからゆっくりと浮いてごらん?」
と、本当に泳ぎの練習が始まってしまった。極めつけには、妻と娘よりも私が先にバテてしまって、注目を浴びる中、詩穂里の胸に抱きかかえて海から上がったのである。
公衆の面前で、小学生の娘に抱きかかえられる父親、……もうたまらなかった。私は妻よりも娘の方にすっかり好意が移ってしまった。まだ未発達な詩穂里の乳房を感じながら、その力強さと、その優しさに酔いしれていた。この時はまだ、あんなことになるとは思ってはいなかった。
あんなこと、と云うのはそれから実に一年が経った頃合いの出来事である。詩穂里は小学6年生、春の身体測定では身長はほとんど妻と変わらない193.4センチだと云う。顔つきもどこか妻に似て、おしとやかである。もう私では背伸びをしても娘の肩に届かない。寝る時は湯たんぽにしかなっていない。普段はほとんど子供をあやすような甘い声しかかけられない。
そんな中、私はある日曜日、大学の同級生とちょっとした遊びに出かける予定があって、支度をしていたのであるが、いざ出かけようと自室の扉を開こうとした時、向こう側から勢いよく詩穂里が入ってきた。当然、屈んで扉をくぐる。
「パパ、どこへ行こうとしてるの?」
いつもとは違うトゲトゲしい調子に、私は相手が娘だと云うのに怖かった。
「いや、ちょっと友達とな。……」
「へえ、そう」
「あ、遊びに行くから、……」
「ふぅん? そうなんだ。わたしとの約束よりもパパは友達との遊びを優先させちゃうんだ」
約束、……たしか先週か先々週に詩穂里と一緒に、――思い出した時には遅かった。私は壁際に追い詰められていた。
「ま、まって、それはまた来週、来週に行こう、な?」
「パパ」
「だ、だから今日は、家でおるすば、……」
「パパ?」
「は、はい」
私を追い詰めた詩穂里はどんどんと近寄って来て、一人の小さな男をその体でもって潰そうと云わんばかりに密着してくる。彼女の胸と壁に挟まれた頭に激痛が走り、私は呻き声をあげる。
「やっぱいいや、行ってもいいよ。許してあげる。でもそのかわり、わたしはずっとこうしてるから」
「うがああああ!!」
「あ、思いついた。じゃあ、こ��しよう。このままパパがわたしから逃げられたら、約束のこと無しにしてあげる。でも、出来なかったら。……」
「あ、ひっ、うああ!!!」
と私は詩穂里の体を跳ね除けようとしているのであるが、それは約束云々と云うよりも、この激痛から逃れられたい一心からであった。
「ふふ���、よわいよわいパパ。小学生の娘にも勝てないなんて、……ほら、頑張って、頑張って」
と詩穂里は馬鹿にしたように云う。そのうちにもどんどん彼女の力は強くなっていく。
「ね、パパ、今日はさ、わたしと一緒にいけないことしようよ。お母さんには内緒で。あと10分で逃げられなかったら、そうしようね」
と、その「いけないこと」を暗示するように、太ももを私の股間にこすりつける。
もうどうしようもなかった。気がついた時には私は手を取られてバンザイの格好をしていたし、娘の太ももに座るようにして足は宙に浮いていた。抵抗する気なぞ、とうに消えていた。
結局、その日は本当に美雪には適当を云って、大学の友人には子どもが熱を出したと云って、詩穂里とホテルへ向かった。……この先は云うまでもなかろう。彼女の初めてとは思えない手付きや言葉遣いで、私の娘に対する長年の欲望は全て搾り取られてしまった。行為の最中、私に主導権はなかった。ただひたすら、歳の離れた実の娘のなすがまま、存分に嬲られ、痛めつけられ、挙句の果てにはその余りの神々しさに彼女をこう呼んだ。
「まま、……」
と。――
  「パパー? 聞いてるー? 今日ねー、――」
と詩穂里は私の眼の前に腰掛けた。つい数週間前に中学生になったばかりの彼女はもう妻よりも大きい。私からすると二人とも巨人のように見えるのであるが、明らかに詩穂里の頭の方が、美雪よりも高い位置にある。少し前に、とうとうお母さんよりも大きくなっちゃった! と、はしゃいでいたのは記憶に新しい。
――その時、嬉しいことを思い出した。娘は今日、身体測定だと云って家を出ていっていた。
「久しぶりに身長測ったんだよ! 聞きたい?」
「あ、ああ。……」
グイと近づいてくる、詩穂里は、誰にも聞こえぬと云うのに、私だけに伝わるよう耳打ちをする。
「2メートルと、7センチ、……だよ!」
「2メートル、2メートル、7センチ、……2メートル、2メートル。……」
「そんな何度も云わなくていいじゃん。もう、パパはお馬鹿さんだねぇ」
と、云いながら詩穂里は私の体を抱きしめる。
「ね、約束、覚えてる?」
「も、もちろん」
「良かった。ほら、おいでまさとくん」
と私の顔を豊かになりつつある胸元に抱き寄せる。私は彼女に体をすっかり預けて、その甘い匂いに頭をとろけさせた。
「まま、……」
「んふふ、また今夜しようね、まさとくん」
だらりと垂れた私の体を愛おしく抱きしめながら、詩穂里は子守唄を歌った。それは鈴のように美しく、よく通る音色だった。
 (おわり)
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ronpe0524 · 4 years ago
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大変だった2020年も終わりますね、な12月(2020年12月の日記)
■2020/12/1 火曜日。前日に寝落ちし、朝4時ごろに目覚める。はー。音声配信の編集とか、図書館に返却する本を読んだり、仕事したり、キン肉マン読んだり、ラジオ聴いたり。ジミソスタイルで2時間いろいろやりまくる。あー僕モテの原稿まではできなかった。週一ぐらいが定着してきた出勤日。忙しいので集中して仕事できるのは良い。お昼は会社近くの丸亀製麺。かけのランチセットっていうのが、うどん+天ぷらorおにぎり2品で500円という価格。安い。かけ並とあなご天だけで550円はいく気がするんですけど。釜揚げ半額券ももらってしまった。次回は釜揚げを食べよう。小林賢太郎、演者としては引退とのこと。もちろんラーメンズはまた観たかったけど、僕らの世代はラーメンズやKKP、ポツネンのとても良い時期が観れたので本当にラッキーだったと思う。作り手として、まだまだ面白いものを見せてくれるだろう。なんとなく森博嗣の引退宣言を思い出す。帰宅して、娘といっしょに夕飯食べて、英語の勉強とかさせて、風呂に入れて寝かせる。今日は寝落ちしないだろう、と思ったら甘かった。見事に寝落ちしてしまった。
■2020/12/2 水曜日。寝落ちしても起きることができれば深夜に映画とか見れるのだが、起きたらも5時だった。娘が起きるのは6時15分。もうほとんど何もできないじゃないか。見たい映画やドラマは山のようにあるがぜんぜん進まない。お昼、近所の図書館へ行き、帰りに中華料理屋でランチ。麺もの+ご飯ものセットのランチ680円を食べたら、麺もご飯もフルサイズでもうお腹いっぱい。夜は娘を寝かせてからMOVIX昭島へ。『ばるぼら』鑑賞です。
■2020/12/3 木曜日。お昼は自転車で最寄りのかつやへ。どっさりベーコンとチキンカツのやつを食べたかったのにもう販売が終わっていた。残念。しょうがないのでカツカレーを食べた。うまかった。帰りに昭島の書店に寄って、週末に娘が読む『鬼滅』4巻を買おうとしたら4巻どころか『鬼滅』のコミックスがぜんぜんない。またこんな状態になっているのか。Amazonをチェックしても週末には間に合わない入荷だ。困った。オンライン試写で『ハッピー・オールド・イヤー』視聴。上映後トークも楽しい。今年最後の「京浜ネバーランド」をアーカイブで聴く。��たより読まれてたぞ。Netflix『LUDO~4つの物語~』を見る。
■2020/12/4 金曜日。ひたすら地味な仕事を自宅で。夜、娘の寝る準備をしてからMOVIX昭島へ。『サイレンと・トーキョー』を観る。Disney+『マンダロリアン』S2E6を見る。
■2020/12/5 娘は土曜登校日。この時間を使って僕はイオンシネマむさし村山へ。雨だけどがんばって自転車で行く。『魔女がいっぱい』鑑賞。楽しい映画だ。映画を観終わり、モールの同じフロアの書店へ。『鬼滅』4巻あった!がしかし、書店のレジはすごい列。娘の下校に間に合うか不安になったが、レジ数も処理するスピードもハンパなくて、10分も並ばず買えた。娘とミートソースパスタでランチ。パルメザンチーズを大量に使い娘はご機嫌だ。午後は昭島のいちょう並木に遊びに行こうかと思っていたが、午前中に雨が降ってしまったのでやまておく。娘は動画を見たり、勉強したり、レゴで遊んだり。僕はオンライン試写で『この世界に残されて』を見たり、オンライン試写で『透明人間』を見たり。夜は娘を寝かせてからMOVIX昭島へ。『アーニャは、きっと来る』鑑賞。
■2020/12/6 娘と実家へ遊びに行くのんびり日曜日。お昼はスシローへ。娘もけっこうお寿司を食べれるようになって楽しいようだ。配信アーカイブで阿佐ヶ谷スパイダース『ともだちが来た』Aバージョンを見る。近年の阿佐スパで一番面白かったかもしれない。トークも含めて堪能。夕飯までご馳走になり帰宅。FC東京はACLベスト16で敗退。残念。娘を寝かしつけながらまた寝てしまった。。
■2020/12/7 月曜日。結局朝まで寝てしまったので睡眠はたっぷり。たっぷりすぎるだろう。なぜ途中で起きるジミソスタイルをできなかったのだ。悔やまれる。娘を学校へ送り出し、会社のPCを立ち上げるがOfficeのupdateが走り仕事にならない。このupdateがぜんぜん終わらない。なぜだ。2時間以上待っていたが状態変わらず。11時からのMeeingでエクセルを使いたいので一応Googleスプレッドシートで資料を準備。他の人はどうなのかと同じチームの人たちに連絡したけどこの状況は僕だけのようだ。ITに詳しい人から「PC再起動してみたら」とのアドバイス。更新がやり直しになったらヤなので我慢していたのだけど、やってみたら不具合解消。あー良かった。2時間ぐらいはなんだったんだ。夜、娘を寝かしつけながら根矢涼香さんのYouTubeラジオを聴く。最近観た��画の感想とか素晴らしい。娘が寝てからラロッカさんとSkypeで東京支部の音声配信収録。自分たち的には楽しく話せたつもりなのですがどうでしょうか。すべりこみフィルメックス・オンライン『風が吹けば』視聴。
■2020/12/8 火曜日。オンラインのMeetingだらけで疲れた。京都ヒストリカ映画祭 ヒストリカワールド『モスキート』視聴。オンライン試写『声優夫婦の甘くない生活』視聴。
■2020/12/9 水曜日。午前中にあったチームのMeetingがカメラありだった。寝ぐせとかなおしておいて良かった。水曜は娘のスケジュールがちょっと余裕あり。楽だ。寝る準備ができてから僕はイオンシネマむさし村山へ。『ザ・プロム』鑑賞。BS録画『名探偵ポアロ』E36を見る。
■2020/12/10 木曜日。週に一度の出勤日である。オフィスは静かで仕事に集中できる。サブモニタが使えるのも良い。電車通勤も混雑してない時間だし、動画やラジオに使える貴重な時間なのでとくに苦でもないのだ。帰宅して娘の夕飯準備、急いで英語の宿題やピアノをやらせ、風呂に入れさせたり。なんとか20時からのオンライン試写『ビルとテッドの時空旅行 音楽で世界を救え!』を見る。京都ヒストリカ映画祭 ヒストリカワールド『義理の姉妹』視聴。スターチャンネルEX『ラヴクラフトカントリー 恐怖の旅路』S1E2を見る。あードラマをさぼっていたのでなんとか見ていかないと。
■2020/12/11 金曜日。寝坊!6:15には起きなきゃなのですが起きたら6:45!急いで娘を起こして準備させる。なんとか学校に行く時間には間に合ったけど娘が動画見たりする時間が作れず申し訳ない。午前中から凄まじい量のSWとMCU情報が。もう情報だけで追いきれない。しかしこれだけいろいろなMCU作品が開発されているのにMCU版X-MENの情報が出てこないのは、やはりX-MENの途中合流はかなり難しいのだと思う。作品の特性上急に合流するようなものではないし、歴史も含めてのX-MENだと思う。合流するにはマルチバースを使うしかない気がするんですけどね、これもについても。昨夜見た『ラヴクラフトカントリー』E2について町山さんのPodcastを聴く。エピソードごとにこれだけの解説をしてもらえるのは本当にありがたい。無料だし。それだけ解説する要素がある作品ということでもあるけど。お昼はマックのハッピーセット。おまけのためであります。キム・ギドク死去の報に驚く。問題のあった人物だとは思うけどやはり作品は面白い。何か一作見たくなりU-NEXTで『悪い男』を見る。Disney+『マンダロリアン』S2E7を見る。本当に面白い。S2最終エピソードの監督のみTBAとなっているけど誰なのだろうか。大物がくるのだろうか。
■2020/12/12 土曜日。娘と吉祥寺の眼科へ。その後、娘を習い事に送るため中央線に乗ったのだが、人身事故があったとのことで三鷹で止まってしまった。1時間以上止まるだろうとのことなので三鷹駅で降りてお昼を食べる。1時間後に駅に戻ったが、まだ電車は復旧してないし、復旧したとしてもとても乗れるような状態ではない。しょうがないのでタクシーに並び目的地である国立へ向かう。このタクシー代は家庭の経費から出るのだろうか?とドキドキ。そして映画を予約していたのだけど間に合わなくなってしまった。悔しい。そのまま娘を国立で待つことにしてDAZNでFC東京戦などを見ていた。娘と合流し帰る。お腹がすいてしまった娘にミスドを食べさせてから帰る。映画が観れなかったことがダメージを受ける。その日は娘を寝かしつけながら寝てしまいましたとさ。
■2020/12/13 日曜日。娘と実家へ遊びに行く休息日。ラテンビート『ラテンビート 家庭裁判所 第3H法廷』を見る。夕飯までご馳走になり帰宅。夜はWOWOWメンバーズオンデマンド『ターミネーター:ニュー・フェイト』を見たり、僕モテYouTubeを見たり。
■2020/12/14 月曜日。在宅勤務の日々。夜は出かけさせていただきキノシネマ立川で『ミセス・ノイズィ』鑑賞。土曜に観れなかったのでややムリをしてでも鑑賞。「女ふたり映画のばなし」に感想を送れなかったのが残念だ。スターチャンネルEX『ペリー・メイスン』S1E2を見る。
■2020/12/15 火曜日。ボーナスが出ましたよ。去年と今年の前半は入院で休職とかをしてしまったので、フルでボーナスが出るのは久々である。僕の手元にくるのはわずかではあるが。いろいろ見たいものが集中している。とても忙しい。そんな感じで忙しいのに寝落ち。マジかー。
■2020/12/16 水曜日。昨夜寝落ちしたせいで早起き。ジミソスタイルで活動開始。オンライン試写にて『AWAKE』視聴。娘を送りだしてから僕も会社へ。週に一度の出勤日。何が楽しみかと云えばお昼に丸亀製麺に行くことである。会社のカフェテリアは知り合いにあってもろくに会話もできないだろうから行かない。夜はNetflixで『Mank / マンク』を見る。吹替で。
■2020/12/17 木曜日。夜、娘が寝てからMCTOS『Mank / マンク』回に参加。参加者多くて嬉しいな。僕とラロッカさんが告知した効果もあるだろか。作品によるものだろうか。Netflix『クイーンズ・ギャンビット』E7を見る。これで完走だ。
■2020/12/18 金曜日。休暇をもらって午前中は病院へ。定期検査。本当は歯のクリーニングもやる予定であったが口腔外科が混みあっていたので日を改めることに。早く終わったので川越へ。川越スカラ座にて『無頼』鑑賞。なんか贅沢。レッドアロー号でびゅーんと西武新宿へ移動。紀伊国屋でプレゼント用の書籍を買ってからロフトプラスワンへ。年末恒例モテデミー賞!僕モテイベントにはじめて関係者で入れてもらえましたよ。ありがたい。控室で執筆陣の皆さんに挨拶して名優に『無頼』関係の裏話をいろいろ聞く。あと駒木根さんは僕が買っていった「USムービーホットサンド」にとても興味を持ってくれていた。是非買っていただきたい。そしてモテデミー。人数をしぼった観客+配信というスタイル。でもこうやって今年も開催できて本当に良かった。僕が準備しておいた2020年振り返り資料も使っていただいて感謝です。ほげやまさんとか、ラムネさんとかい久々に会えたり。次の僕モテイベントは来年の夏ぐらいだろうか。その頃にはどうなっているだろう。スターチャンネルEX『ペリー・メイスン』S1E3を見る。Disney+『マンダロリアン』S2E8を見る。これで完走。こりゃ��ごい。
■2020/12/19 土曜日。娘が習い事に行ってる間に『ミッドナイト・スカイ』鑑賞@シネマシティ、『燃ゆる女の肖像 』@キノシネマ立川、とはしご。 娘を迎えに行って帰宅。そして寝落ち。もう体力が続かない。。
■2020/12/20 めずらしく娘と二人でお留守番な日曜日。のんびり過ごす。午後はキンザザの収録に参加させていただき、とある切り口で2020年映画ベスト10を話しましたよ。こんなのは僕しかやってないだろうという切り口。来年の配信をお楽しみにー。夜は年賀状の宛名を書く。こちらもお楽しみにー。スターチャンネルEX『ラヴクラフトカントリー 恐怖の旅路』S1E3を見る。BS録画『名探偵ポワロ』E38を見る。
■2020/12/21 月曜日。まだまだ在宅勤務の日々。お昼に映画秘宝を買いに出かける。夜は配信で映画を見ていたが途中で寝落ち。もー。
■2020/12/22 火曜日。ぜんぜん映画を観に行く時間が取れないので映画を観に行くために午前半休。MOVIX昭島で『ワンダーウーマン 1984』鑑賞。午後からは在宅で仕事。ミーティングからのミーティング。もう予想はしていましたが夜は寝落ちしてしまった。。
■2020/12/23 水曜日。週に一度の出社日で、楽しみは完全にランチの丸亀製麺です。これで今年も丸亀納めでしょう。今日は義母がきてくれて娘を見てくれていた。僕も娘と寝落ちしたいで良いわけである。イタリア映画祭2020(オンライン)『地中海』を見る。イタリア映画祭は結局これ1本しか見れなかった。見たいのは5本ぐらいあったのですが。スターチャンネルEX『ラヴクラフトカントリー』S1E5を見る。スターチャンネルEX『ペリー・メイスン』S1E6を見る。
■2020/12/24 木曜日。クリスマスイブですが普通に在宅仕事ですね。夜はジミソラジオが特別編成で生放送。おたよりも読まれたぞ。さらに「明石家サンタ」も最後まで見る。というか「明石家サンタ」を楽しんでいるグッチーズ降矢さんのツイートを追う、という方が正しい。スターチャンネルEX『ラヴクラフトカントリー』S1E6を見る。スターチャンネルEX『ペリー・メイスン』S1E7を見る。
■2020/12/25 金曜日。わが家にもサンタが来たらしく、プレゼントはSwichのゲーム「マインクラフト」。サンタさん、DLもできるんですね。助かります。終業式を終えて早々に帰宅した娘にお昼ごはんを準備。ペロリと食べた娘はさっそくマイクラを開始。普段ゲームをほぼやらない娘にとってはちゃんとやるはじめてのゲームでしょう。「ピース」モードという最も安全な設定にしてスタート。木材を集めて家を作ったりしております。しばらくは僕も夜な夜な素材集めとかに協力するでしょう。夜はケンタッキーだ。娘がトッピングをやったケーキも食べてお腹いっぱい。気持ちよく寝落ち。
■2020/12/26 土曜日。早朝に起きれたのでジミソスタイルでオンライン試写『ミッション・マンガル 崖っぷちチームの火星打上げ計画』を視聴。午前中は娘を習い事に送り、僕は上石神井へ。松屋で濃厚オマール海老ソースのチキンフリカッセ定食をがっつり食べてから、ナツノカモ「カモの観察会2020師走」へ。この観客が少人数の落語会が「生で観る」楽しさを今年も継続させてくれていた。演劇も音楽LIVEも行けなくなる中で。ナツノカモ氏の連載もZINEにまとまるそうで、そちらも楽しみだ。娘を迎えに行き、そこから実家へ。実家に���泊りである。なんと実家にもサンタが来ていたようで(マジか!)、プレゼントは「L.O.L. サプライズ!」というやつです。人形やら何やらがやたら小分けに入っていて、それを開けていくのが楽しい、的なアメリカのおもちゃ。そりゃ娘は興奮しておりましたね。夕飯をご馳走になり、娘を寝かせてからMCTGM『ワンダーウーマン1987』回に参加。これまた楽しい回となりました。
■2020/12/27 実家でのんびり過ごす日曜日。午後はキンザザのイシヤマらとオンラインで今年の海外ドラマについて話す。僕は『マンダロリアン』『クイーンズ・ギャンビット』『ある家族の肖像/アイ・ノウ・ディス・マッチ・イズ・トゥルー』パートに参加。うまいこと編集されて来年配信となると思いますのでお楽しみにー。そしてオンラインはしごってことでペップさんたちの年末恒例映画ランキング会に参加。オンラインとはいえこの会にはじめて参加できて、久々に見れた顔もあり嬉しかったなぁ。夕飯までご馳走になり帰宅。スターチャンネルEX『ペリー・メイスン』S1E8を見る。これで完走。けっこう面白かった。
■2020/12/28 月曜日。娘はもう冬休みなわけですが、僕はまだまだ仕事です。娘に宿題をやらせたり、お昼やおやつを準備したりしつつ在宅仕事。マイクラで水に落ちた娘を助けたりもしましたよ。夜は娘の寝る準備をしてからMOVIX昭島へ。『ソング・トゥ・ソング』鑑賞。
■2020/12/29 火曜日。いよいよ仕事納めであります。在宅だとあまり実感ありませんけどね。夜はオンライン試写で『スタントウーマン ハリウッドの知られざるヒーローたち』を見る。今年は本当にオンライン試写にお世話になりました。
■2020/12/30 冬休み突入の水曜日。娘とマイクラ���やったり家でのんびり過ごす。配信アーカイブで「THA BLUE HERB YEAR END LIVE : FUCKIN' 2020」を見る。リキッドには行けなかったけど、配信で見れて嬉しいな。夕方には娘を風呂に入れ、早めの夕飯を食べてもらい、僕は下高井戸へ向かう。がしかし、笹塚まで行ったところでチケット完売を確認。残念無念。娘にも協力してもらって、できる限りのことをやって向かったのだがダメだった。けっこう心が折れそうになったが代わりの映画を観に行こうと渋谷に向かう。するとチートイツさんからDMが。下高井戸シネマで僕が観ようと思っていた作品のチケットを取っていたからゆずりますよ、と。なんて優しいんでしょう。さすがに悪いし、すでに移動していたので気持ちだけ受け取りお礼の返信をしましたが、なんか元気出てきましたよ。ありがとう。代案としてヒュートラ渋谷で『その男、東京につき』鑑賞。これで2020年の映画納めだ。BS録画『名探偵ポワロ』E39を見る。スターチャンネルEX『ラヴクラフトカントリー』S1E7を見る。
■2020/12/31 さぁ大晦日だ。HBO作品のスターチャンネルEXでの提供が年内で終わってしまうとのことで『ラヴクラフトカントリー』S1E8、E9、E10を連続で見る。これで完走だ。後から町山さんのPodcastもじっくり聴きたい。娘とマイクラやったり、映画ベスト10をまとめたり。夕飯に海老天そばを食べ、紅白歌合戦を見る。頑張って起きてた娘、なんとか嵐とLiSAは見れた。22時半ごろに撃沈を確認。僕は紅白見たり、ジミソラジオを聴いたり、「女ふたり、映画のばなし」の配信を見ながら年越し。大変だった2020年もこんな感じで終わり。まだまだ��が見え��い状態ですが、2021年も皆さんよろしくー。
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penkick · 6 years ago
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宮崎駿監督「自分に与えられたフィールドとチャンスにおろそかになってはいけない」
1月28日、笹川記念保健協力財団主催の「ハンセン病の歴史を語る 人類遺産世界会議」で、映画監督の宮﨑駿氏が「全生園で出会ったこと」と題する講演を行った。
ハンセン病の原因となる「らい菌」の感��力は弱く、国内での新規感染者は毎年数名程度という状態が続いている。一方、かつて国が患者を強制隔離していたことから、治療法が確立されてからも、元患者やその家族に対する差別や偏見が解消されずに残ってきた。今も多くの元患者が全国の療養所で暮らしている。
(左から)佐川さん、宮崎監督、平沢さん「全生園」は、このうち東京都東村山市にある「国立ハンセン病療養所多磨全生園」のこと。同所の近くに住む宮崎監督は、散歩や通勤途中など、折に触れて「全生園」を訪れ、平沢保治さん(88歳、多磨全生園入所者自治会前会長)、佐川修さん(84歳、同自治会会長)ら入所者との交流を続けてきた。講演などを滅多に行わない宮崎監督だが、平沢さんと佐川さんからの依頼を受け、登壇を決めたという。
入所者の平均年齢が80歳を超える中、「全生園」の敷地や建物を「人権の森」として残していく構想を提唱している宮崎監督。「全生園」との関わりや、創作活動において大きな影響を受けたことを語った。講演の内容と、その後の記者団との質疑応答の内容をお送りする。
”おろそかに生きてはいけない”と思った
BLOGOS編集部こんなことは初めてなんですが、朝、ズボンぐらいは折り目のついたものにしようとして、慌てて履き替えたものですから、いつも入れている財布からハンカチからライターから、全部忘れてきました。車の中で気がついて、今さら戻るわけにもいかなくて(笑)。それで、「全生園」へ入所する時には私物を全部提出して、それからお仕着せを着て入院するんだっていう話を思い出しました。
僕は、全生園から急いで歩けば15分ぐらいのところに住んでいます。50年前に女房とトラックを借りて引っ越しをしたんですけど、所沢街道を通って、右手に立派な生け垣が続いているところに差し掛かって、そこが全生園だってことを、初めて知ったんです。その角を曲がって、自分の住む秋津の方に向かったんです。
その頃もハンセン病についてそれなりに知ってはいたんです。伝染性は極めて弱いとか、特効薬があるかとか。でも、なにせ新婚ホヤホヤで、仕事の方にも夢中でしたから、ほとんど関わることもなく、20年ぐらいが経っちゃいました。
今から20数年前ですけども、後に『もののけ姫』という映画になる、日本を舞台に時代劇を作る企画を立ち上げていました。
原作はもちろんないわけで、主人公が刀を下げた侍ではないとしたら、どういう形になるか。貴族でもなかったらどういう映画が作れるだろうかと。それで参考になったのは、一遍上人の時宗という宗教改革を��いた『一遍上人絵伝』でした。
それを見ますと、ありとあらゆる生業が出てきます。例えば、お寺・神社の周りには、乞食やハンセン病の人がいます。その他、得体の知れない、唐傘を差して一本歯の高下駄を履いている男たちとか、本当に不思議な人達がいっぱい出て来るんです。時代劇で見てきた世界とは全然違う、本当の民衆の姿が描かれているなと思いましたよ。
なんとかして、この人達が登場する映画を作れないか、と。主人公にする上では、それなりに活動する能力を持っていないと映画になりませんので、謎に満ちている「エミシ」という人々ですね。
それから、『一遍上人絵伝』を見て興味を持っていました、”たたら者”っていう、朝鮮半島を経由して入ってきた、製鉄をする人々です。中国地方の山の中で、砂鉄と炭を求めて、山から山へ移って行く集団ですが、その人達が作った鉄が色んな人間を経て、里に降りてくる。農具になり、あるいは武器になり、ということだったらしいんです。
で、たちまち行きづまりました。そうすると、ノートを持ってウロウロ歩き回るしかないわけです。そのうちに、家から15分のところにある「全生園」の前に来たんです。『一遍上人絵伝』の中にあったハンセン病の人達のことを考えると、そこで私が踵を返して帰ることは出来ないのではないかと思って、初めて中に足を踏み入れました。
なぜそれまで入らなかったのかというと、それは大変な、惨憺たる運命に生きている人達に出会った時に、自分がどういう顔をしていいか分からないという、恐れが大きかったからなんです。
冬の日でしたけど、全生園の裏の方から入っていきましたら、すごい桜の並木が見えました。桜の見事な巨木が実に生々しくて、衝撃を受けてその日はそのまま帰ってしまいました。
それから何度か訪ねて行くうちに、資料館にも入ったんです。当時はまだ古い資料館(旧「高松宮記念ハンセン病資料館」)でした。療養所で使われていた、お金に代わる、ブリキで作った通貨など、色々な生活雑器が大量に保存されていました。大変な衝撃を受けました。
そのあと、何度も資料館へ行くようになるんですが、その度に、”おろそかに生きてはいけない”という風に思いました。”おろそかに生きてはいけない”、というのは、今、自分がぶつかっている作品をどういう風に作るかということを、真正面からキチンとやらなければいけない、そういうことだと思います。
実際、『もののけ姫』にはハンセン病の人も出しました。それは”無難な線”ではなくて、当時”業病”と言われたハンセン病を患いながら、それでもちゃんと生きようとした人達のことを、はっきり描かなければいけないと思ったんです。
しかし、本当のことをいいますと、これを患者のみなさんが見た時に、どういう風に受け取るかということが、ものすごく恐ろしかったんです。平沢さんや佐川さんに見てもらうのがとても怖かったんです。でも、とても喜んでもらったんで、本当に僕は救われた思いがしました。
生きてきた人たちの巨大な記念碑をずっと残しておきたい
今、戦前からあった建物がボロボロになって取り壊されています。��れを残したいと思いまして、わずかですけど、僕も少しはカンパできますからとお話をしたんです。 それから色々な方がお金を出し合って、「山吹舎」(昭和3年に入所者によって建てられた独身男性のための寮。昭和52年まで使用されていた)をきちんと直して後世に伝えようということになりました。学校もあったんですけど、シロアリに食われていて、これは直しようがないと取り壊されてしまいました。僕が他の仕事でうつつを抜かしているうちに壊れちゃったんです。あと、「少年少女舎」っていうのもあるんですけど、今やもう残骸のようになっています。これも消えていくしかないのかなと思います。 資料館は素晴らしいものです。2007年に「国立ハンセン病資料館」として新しくなった時、中身が随分薄まったなと思ってたんですけど、その後、色々な努力によって、また前の雰囲気が出ています。あの場所にいくと、粛然とした気持ちで出て来るような。無駄に生きてはいけない、おろそかに生きてはいけないという気持ちになる。そういう場所だと思います。 いずれ厚生労働省は全生園をただの公園にでもしてしまうんじゃないかという気がしています。全部とは言わないけれど、記念の場所を作らなければいけない時期が来ているんじゃないかと思います。何かの記憶があそこに残っていくことが、とても大事なことなんじゃないかなと思います。大きな緑が残ったということも良いことだと思いますが、同時に、生きるということの苦しさと、それに負けずに生きてきた人たちの巨大な記念碑をずっと残しておきたいと、本当に思います。 
質疑応答
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BLOGOS編集部
講演終了後、別室で記者会見が行われた。予め主催者側から質問は講演に関するもののみ、という申し送りがあったにもかかわらず、講演や会見の機会が少ない宮崎監督とあって、詰めかけた大勢の記者から「憲法改正」「原発」「普天間基地移設問題」に関する質問が飛び出した。 -ハンセン病療養所を世界遺産として残すということについてはどういうお考えでしょうか。もう一点は、富国強兵の中に、このハンセン病隔離政策が行われてきたという歴史について。それと、3.11から間もなく5年ですけども、原発再稼動についてどう思いますか。 宮崎:療養所は全国にいっぱいありますよね。それをどういう風にするかっていうのは、それぞれの人が知恵を出し合って、俺のとこさえ残せばいいっていう風じゃない視点で、何か残していくことは必要だろうと思います。それも、そこで多くの人が苦しみながら生きたっていうことだけじゃなくて、人間が善意で間違えるってことがあるんだってことを。「らい予防法」が一度出来てしまうと、廃止させるまでに本当に長い戦いをせざるを得なかったっていう教訓のためにも、どこか残すべきと思います。 富国強兵策については、本当に難しい要素があって、簡単に切り捨てられない部分があるんです。というのは、隔離政策で、貧しいとはいえ、寝るところと食べるものを提供しなかったら、多くの人が行き倒れで死んでいたんですよ。だから、「らい予防法」が出来たことも功罪があって、そこは考えなければいけないことなんじゃないかと思うんです。「らい予防法」のせい���、酷いことになったというだけではなく、救った部分もあるんだと思うんですよね。 ハンセン病に関しては全世界で克服出来るような、医療的な成果も出ているわけですけど、中国ではまだ患者数が分かっていないですよ。そういう部分もいっぱいありますから、まだケリがついた話じゃありません。 ですから、やっぱり人は何度も同じ過ちを繰り返す。繰り返すけど、それを忘れないようにするために、「全生園」を残せるなら、残して欲しいです。 -改憲の流れについて、戦争に向かっているという雰囲気について、日本外国特派員協会の会見でおっしゃっていたんですが、それについて話していただけないでしょうか? 宮崎:21世紀に入って、いままでの枠組みでは考えられないようなことが世界中で起こり始めているんだと思います。それこそ、ゲルマンとスラブと、イスラムと。イスラムの中でもISと、そういう葛藤がはっきり形を見せてきた時期だと思いますね。 今、僕らの中に「鎖国していればいいんじゃないか」っていう気分が、日常の中や職場の中に、濃厚に出てきています。僕にも出てきているんですよ。「隅のほうで静かにしていよう」って。さらに「20世紀の人間で、21世紀についてはなかなかわからん」ってこの頃、口走るようになってしまっているんですけど、本当に新しいレベルの葛藤と矛盾が噴出しつつある世界に居合わせているんだから、なるべく目を開けて、道を誤らないようにやっていくしかないと思っているんですけどね。 -改憲についてはどういうお考えですか? 宮崎:それは僕、反対に決まっているじゃないですか(笑)。家内の父親は、懲罰的な招集を受けて大陸に行ってましたから。思想犯で1年3ヶ月捕まってますんでね。 ですから亡くなった義理の母は、子供5人の留守家族で、本当に苦労したんですよ。そういう人達がいっぱいいるわけです。その人達の目の黒いうちは、「平和憲法をやめよう」なんて言えないんですよ。僕は家で絶対言えませんね。だから、僕は憲法を変えるのに反対です。もし世界で変えなきゃいけないとしても、一番最後で良いと思っています。 -もうすぐ3.11から5年経ちますけども、原発再稼働について一言。 宮崎:原発を使わなくて済むような、しかし石油に依存しないで済むような。何か違う発想でやらないと、石油を巡ってISと揉めていても、これは先行きがないなという感じはしますね。でも僕は、原発は再開しないで頑張るべきだと思っています。 -作品の中にハンセン病の患者さんを登場させることに対しての迷いについて、お伺いしたいなと。それも含めて登場させた理由をお答えいただければと思います。 宮崎:主人公(アシタカ)は、村に突然やってきた「タタリ神」っていう、鉛の玉を打ち込まれた化け物から村の娘達を守るために闘うわけですけど、その結果、腕に大変なアザを持つことになった。そのアザは生きていて、コントロール出来ない力と、蝕んでいくものを持っている。非常に非合理なものを抱え込まざるを得ないという運命を主人公に与えたわけです。 それは、ハンセン病と同じなんですよ。ですから、そういう主人公を作ったり、タタラ場の人たちを描きながら、ハンセン病を出さないわけにはいかなくなったんです。その時、本当にためらいました。 でも、彼らに相談はしませんでしたから、映画を観てくれた時にどういう反応があるかっていうのは、本当に恐ろしい覚悟で作りましたので、さっき一緒に並んでいた方々が、映画を観て、とても喜んでくれた時には、本当に肩の荷が降りたような気がしたんです。でも一方で、それで安心していいんだろうかっていう思いもあります。 主人公のアザは完全には消えずに、映画は終わっています。そのアザと共に、主人公の少年は生きていく。 映画では描ききれませんでしたけども、実は中国地方の斐伊川は、たたら者が砂鉄を取って流していた結果、どんどん川底が上がって天井川になってしまった川ですね。今そこを訪ねてみると、とてもキレイな川ですけども、そういう風に人間が作り変えてきた自然のシンボルみたいなものがあるんですよね。 そういう、良いの悪いのと、簡単にケリがつけられない部分で、人は生きて行かざるを得ないし、美しいモノには美しいと感じるし、醜いものには醜いと感じる。もっと深い知恵と、もっと多くの知識を持たないと、楽園はとても作れないにしても、継続可能な国土を作ることも、人生を作ることもなかなか難しいんだろうと思います
-全生園の建物や緑を残すのは、とても大切なことだと思うんですが、悲惨な体験をされた患者、回復者の方々のですね、建物だけでは分からない体験とか記録とかそういうものを、残し伝えていくっていうのは、なかなか大変なことだと思うんです。 宮崎さんが作品に取り上げたのは、ハンセン病を語るために取り上げたわけではないと思うんですけども、映画を含めどういう風にそういう経験を語り伝えていくかっていうのも、また1つの課題ではないかと思うのですが、どのようにお考えでしょうか? 宮崎:資料館に学会員が赴任して以来、様子が変わってきました。今まで出したくないと言っていた映像が随分出て来るようになったんです。写真集も出ていますし、少しずつ開かれつつあるように思います。そこが一番物語っているんで、一般論として語るよりも、行けば誰でもそれを見ることが出来るようになっていることですね。 それから定期的に色々展示をやっていますけども、本当に胸を打たれるような展示がいくつもありますから。特に、社会復帰出来るようになった人達も、生涯が終わるような年頃になっています。その人達がどういう風にやってきたか、本当に感動的に生きた人達の話がいくつもあります。 同時に、生きるのが苦しかったという話の中には、何もそれはハンセン病だけじゃなくて、都市に集まってきて、そこで暮らさなくてはいけなかった多くの若者達が味わった孤独や無力感みたいなものとそっくりですから。この都市生活というものの中に持っている、大きな黒い泡のようなものを感じて。それはハンセン病じゃなくても、僕自身も青春の時によく感じていたものなので、そこら辺も含めて、あそこの資料館は、非常によく努力されていると思います。だから、展示が変わるたびに観に行っています。 -沖縄県で政府が対立していて、さらに工事がドンドン進められようとしています。それについてのお考えと、今後どうすればいいでしょうか。 宮崎:僕は止めなさいといいます。要するに沖縄に基地が多すぎるってことですね。 その次の問題は、日本のどこにも基地を作らせる場所がないってことなんです。 それからもう1つ。中国はISの問題の方が大事で、海軍で東に出て来る能力は今持っていません。しばらくは持たないと思います。だから、中国海軍が増強しているから云々、というのは当たらない。新しい航空母艦を造ったからって、あんなもん全く役に立ちません。自信を持って言います。むしろ、あそこで危機感を煽る事自体が滑稽です。 むしろ、コントロール出来ていない軍隊のほうが危険でね。中国軍はコントロール出来ていないですよ。だからパイロットがミサイルを見せびらかして接近してくるとか、本当に国際的感覚が欠けているんですよ。よその国の軍隊の悪口を言ってもしょうがないんですけど、一緒に共同演習でもしてルールを教えていかないと、つまらないことで戦端が開かれてしまう危険が出てきたってことは確かだと思います。 でも、辺野古の海は残しておいたほうがいい。沖縄の人のためにも。それでも埋めるやつは埋めるだろうと思うんですけど。そこから先の戦いは、極めて政治的な判断と、粘り強さが必要なんだと思います。 -社会全体として、ハンセン病に限らず、原発事故も含めた負の問題。これに蓋をしてしまうような感覚がどうしてもあるような気がしています。抽象的な質問なんですが、社会としてはこういう問題に対して、どのように求めていくべきというか…。 宮崎:手分けしていくしかないんです。僕は原発が無くなってもいいと思いますけど、署名を集めるために、仕事を放り出していくわけにはいかないんです。 ハンセン病についてもそうです。ハンセン病について先頭に立ってやることは出来ないです。今、平沢さんとか佐川さんは、自分の残された時間をそれに賭けようと思ってやっています。 それぞれに偏見を持たないで、出会ったらそれについて賛同いたしますとか、幾ばくかのカンパはしますってことは出来るかもしれないけど、僕らはジャーナリストじゃないんだから、なんでもかんでも手を広げてね、この世にある問題全てに関わるというのは不可能です。 「おろそかに生きてはいけない」というのは、自分に与えられたフィールドについて、僕の場合は映画を作るってことですけど、そのフィールドについておろそかに生きてはいけないという意味です。そうすると、家庭生活は入っていないのかって、家内に言われそうですけど、それも少しは入っているという(笑)。 やっぱり自分に与えられたフィールドとチャンスに対して、おろそかになってはいけないということだと思います。
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shibaracu · 5 years ago
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◆当て字◆漢字◆コトバ◆日本語
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◆当て字◆漢字◆コトバ◆日本語 楽しいことばかり 日本語好きで漢字 コトバを何時も探している。 当て字が気になり調べてみると趣向の凝った楽しい作者がズラリ。 日本人て本当に馬鹿だと思う。 楽しむことに生命を欠けている。 これが日本人の縄文人の素晴らしさ。 平安時代からコトバには徹底してこだわっている。 洒落を生み出し俳句や短歌や和歌も。 五・七・五 から始まったと言っても過言では無かろうか。 学者で���ないので総て私の私見です。 楽しい生活は言葉から始まる。 みなさんも楽しい時間を過ごして下さい。 ◆基本用語集|漢字文化資料館 https://kanjibunka.com/kanji-faq/faq-other/word/ 音読みも意味(訓読み)も同じなのに、字体だけが異なる漢字がいくつか存在する場合、標準的な字体(正字)に対して、それとは異なる字体のことを「異体字」といいます。たとえば「島」「嶋」「嶌」は、いずれも音読みは「トウ」で意味(訓読み)は「しま」なので、正字 ... ◆漢字Q&A|漢字Q&Aカテゴリー|漢字文化資料館 https://kanjibunka.com/kanji-faq/new-faq/ 『大漢和辞典』を発行する大修館書店が、漢字・漢詩漢文などに関する情報を提供するサイト。 漢字Q&A. 漢字にまつわるさまざまな話題をQ&Aの形でご紹介します。 ◆当て字 - Wikipedia   https://ja.wikipedia.org/wiki/当て字 当て字(あてじ、宛字、充て字)とは、字の本来の用法を無視して、当座の用のために異なる語の表記��転用した漢字などの文字。字を当てるのではなく、代わりとなる字を充てるので、「充て字」と表記されることもある。   ◆当て字変換ツール http://bit.ly/A5sBu8■ ローマ字で入力 ◆当て字変換で遊ぼう! | 止まない雨も朝の来ない夜もないっ! https://ameblo.jp/tsune-tune/entry-11240821452.html 2012-05-04 08:05:00. テーマ:: くだらないこと. たまたまサイトで見つけたものです・・・リンクは こちら から 「当て字変換 漢字上等」というものですが、 自分の名前を入力すると 暴走族風・宝塚風・お子様風・難読文字に変換します。 http://isop.bunsekishi.com/ateji/atejiindex.htm   ◆漢字で遊ぼう - 漢字で遊ぼうは、カタカナを当て字したり、漢字を変えたりする所です。(例)アメリカ→飴理架高校教師→変態教師 小泉総理→恋済み層離 http://mikle.jp/thread/75348/ 漢字で遊ぼうは、カタカナを当て字したり、漢字を変えたりする所です。 (例)アメリカ→飴理架高校教師→変態教師 小泉総理→恋済み層離   ◆「夜露死苦」的な当て字めっちゃ集めました 読める気がしない「当て字・当て読み 漢字表現辞典」 (2/6) https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1909/06/news116_2.html 2019/10/06  日本語の漢字表記は当て字の宝庫です。「本気」と書いて「マジ」と読ませたり、「クラブ」を「倶楽部」と書いたり、例を挙げればきりがありません。ごく当り前に用いられている「時計(とけい)」や「大和(やまと)」だって当て字です。もとからあった日本のことばに外来の文字である漢字を当て���ものが定着した訓読みも、当て字の一種と言うことができるでしょう。  そんな当て字の数々を、現代の新聞、小説、広告、漫画、J-POPの歌詞などから収集した辞典があります。笹原宏之編『当て字・当て読み漢字表現辞典』です。ページを開いて眺めるだけで、漢字を用いた自由な表記の文化を味わうことができます。   ◆当て字(あてじ、宛字)http://bit.ly/zdZyti 字の本来の用法を無視して、当座の用のために異なる語の表記に転用した漢字などの文字。 当て字は、「(当座の)字を当てる」という日本語の表現に由来した概念であり、通例は漢字の転用について言う。   ◆当て字 漢字 : 言葉のコレクション資格講座 http://kotoba.livedoor.biz/archives/cat_1511760.html 2007/05/20 文部科学省が後援する漢字能力検定試験に完全準拠した講座が「がくぶん」にあります。 クイズやパズル ... 夫婦 当て字. 夫婦は当て字 日本語 言葉 ことば 新聞なんかを読んでいてもよく思うんですが、当て字って多いですよね。 柳葉魚で何と ... ◆言葉のコレクション資格講座 http://kotoba.livedoor.biz/ 2019/08/21 コンテンツツーリズムの意味 旅行・観光業界で頻りに言われるコンテンツツーリズム。 アニメの聖地巡礼をはじめ、歌枕の地を訪れたり、アイドルゆかりの場所を訪ねたりするのもコンテンツツーリズムの一環です。 ◆漢字部屋   http://f9305710.hide-yoshi.net/henkanji.html 凄い漢字   12周年! 註1.典拠は欄の一番下に< >で表示しています。 註2.大漢和、漢語大字典、中華字海のどれにも載っている字はそれらだけを典拠とします。 (例えば<康>という表示がなくとも康煕字典に載っていることもあります) 註3.略記(左記)にある以外の出典は略さずに書きます。 ◆第13回当て字-魚詞母海蕎袋- | 日本のことば遊び - ジャパンナレッジ https://japanknowledge.com/articles/asobi/13.html 無理に読んで 英語の話から始めます。 ghotiと書いて何と読むか。fishと読むのです。enoughのghがf、womenのoがi、nationのtiがshと同じ発音です。これは、イギリスの劇作家・批評家のバーナード・ショウ(1856-1950)が言い出したとも、ショウがだれかから教えられて言ったのが広まったとも言われていますが、ほんとうのところは、皮肉屋で挿話が多いショウのことにされたのではないしょうか。 英語には綴り字のとおりに読まない語がかなりあります。それを用いた遊びです。 同じ字を雨(あめ)雨(さめ)雨(だれ)と雨(ぐれ)るなり(柳多留・三三) ◆読みより漢字の字数が多い熟字訓 - 漢検一級 かけだしリピーター ... https://blog.goo.ne.jp/eric_henderson/e/2687f3a2b6f2a14b3e888daea713574b 2016/07/17 28-1 を受検できないことが判明した6月の初旬以降、あまり漢字には触れておらず、こんなことでは 28-2 が思いやられるということで、今朝は少し熟字訓に目を通していました。そんな中から、きょうは「読みの文字数より漢字の文字数の方が多い熟字訓」という変なテーマで30問ほどご紹介します。(結構あるものですね。)  どれも「漢検 漢字辞典」の見出し語かつ巻末索引に載っているものですから全問正解といきたいところです。   ◆日本語における外来語の事例集 http://bit.ly/xlsueG 日本語は外来語の多い言語だといわれている。 日本語のなかに英語から作られた和製英語もある。近年の外来語の氾濫、またお年寄りなどにとって意味がつかめないなどの影響を顧みて、国立国語研究所の「外来語」言い換え提案はその名の通り、日本語での表現を模索・提案している。   ◆DQN(ドキュン)http://bit.ly/yDDsMy 日本で使われるインターネットスラング・蔑称の一つである。 ヤンキー(不良)など、粗暴そうな風貌をしている者や実際に粗暴な者、また非常識で知識や知能が乏しい者を指すときに用いられる。 この言葉はテレビ朝日系で1994年から2002年まで放送されていた『目撃!ドキュン』という番組に由来する。 この番組に出演する一般人にいわゆる元ヤンキーが多く、時として非常識な行動が多々見られたことから、インターネットスラングで非常識な人物を指す蔑称としての「ドキュン」という言葉が生まれた。   ◆インターネットスラング http://bit.ly/vLaEvh インターネットスラングは、文字通りインターネットで使用されるスラング(隠語)であり、主としてインターネット利用者の間でのみ通用する特殊な言語表現である。 ただし スラングの常として発祥が不明確で、パソコン通信時代から使われている言葉も少なくない。  ・インターネット・スラング集 http://bit.ly/zmHsQr  ・ネットスラング/ネット用語/同人用語の基礎知識 http://bit.ly/tY3X7r   ◆知っていますか?この言葉の本当の意味 | マイナビニュース https://news.mynavi.jp/article/20130424-a308/ 2013/04/24 どこかおかしい、調べてみると意味が間違っている言葉づかいって意外に多いものですね。そこで、今回はきちんと辞書にも載っているのに、本当の意味とは違ってしまったおかしな日本語を集めてみました。 ■生命保険は本当なら生活保障保険 みなさんご存知のように、生命保険とは、いざという時に困らないように経済的な生活保障金を積み立てていく保険のことですよね。では、この生命保険という使い方、どっかおかしいと思いませんか? ◆【素敵の語源・由来】 大正頃から「素敵」の当て字が見られるようになるが、「素敵」が一般化したのは昭和に入ってからで、それまでは「素的」が多く使われていた。 素敵の語源には、「でき��ぎ(出来過ぎ)」の倒語「すぎでき」が変化した語とする説と、「すばらしい」の「す」に接尾語の「てき」が付いたものという説がある。    もしかして: [言葉] 「素敵」の漢字は当て字 検索結果 ウェブページから抽出された強調スニペット 【素敵の語源・由来】 大正頃から「素敵」の当て字が見られるようになるが、「素敵」が一般化したのは昭和に入ってからで、それまでは「素的」が多く使われていた。 素敵の語源には、「できすぎ(出来過ぎ)」の倒語「すぎでき」が変化した語とする説と、「すばらしい」の「す」に接尾語の「てき」が付いたものという説がある。   ◆「すてき」どう書く | 毎日ことば https://mainichi-kotoba.jp/enq-109 「素敵」表記が6割を超えました。「すてき」は4分の1強。語源がはっきりせず漢字との関係も明確ではありませんが、「素敵」が一般には主流のようです。また選択肢になかった「ステキ」も一定の支持がありそうでした。 「すてき」という言葉の表記について伺いました。 目次    「素敵」が6割を占める    「素」の字も根拠は曖昧だが    現状は「素敵」が優位    「当て字」だが十分に定着か   ◆「素敵」という熟語には、どうして「敵」という漢字が使われているのですか? https://kanjibunka.com/kanji-faq/mean/q0374/ 「素」という漢字は、「素顔」「素手」「素材」のように「もとのままで、手を加えない」という意味で使われます。それが「素敵」となると「もとのままの敵」となって、なんのことやら意味不明、混乱するのももっともです。 「すてき」は、江戸時代も後半になってから使われ始めたことばですが、その語源は、「すばらしい」の「す」に「的」がついたもの、という説が有力です。と言われてもピンと来ない人も多いでしょうが、江戸の終わりから明治にかけての時期には、泥棒のことを「泥的」、官僚のことを「官的」というような俗語があって、それと似たような用い方をされたものなのでしょう。 となると「すてき」とは「す的」なのであって、「素敵」は当て字だ、ということになります。事実、「すばらしい」を「素晴らしい」と書くことから生じたのでしょうか、「すてき」を「素的」と書く書き表し方もあって、昔はこちらの方が「素敵」よりも優勢だったといいます。つまり、「素敵」に「敵」が使われているのには、きちんとした理由は全くない、ということになるのです。 ただし、現在では「素的」はほとんど使われません。そこで、「素的」はなぜ「素敵」にとって代わられたのか?という疑問が生じてきます。その答えはわかりませんが、結果として「ぜいたくは素敵だ」「大胆素敵」などといったことば遊びの名作(?)が生まれたことを考えると、そこには、日本人のステキな遊び心が働いていたのかもしれません。   ◆「最も画数の多い漢字は何か」。巷間、問われることの多い命題に関して考えてみよう。 実は『当て字・当て読み 漢字表現辞典』には、当て字に限定せず、漢字のこれはという表現を意識的に盛り込んでみた。漢字表現の広がりを押さえ、かつそこから当て字の位置を確かめるためであった。   ◆最も画数の多い漢字は何ですか? https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13137462318 2014/10/2801:14:10 https://iwiz-chie.c.yimg.jp/im_siggZjOfJ04TQDJdJCFdogpVbw---x320-y320-exp5m-n1/d/iwiz-chie/ans-343344597 一般的には 「たいと、だいと、おと��」(84画)【写真右上】 ですが、存在が怪しい漢字でもあります。 他に 「龍」を4つ書く 「テツ、テチ」(64画)【写真右中】や 漢字を7つ合わせた 「おういちざ」(79画)【写真右下】 などもあります。 一番多いのは、「雷」を4つ合わせた漢字「ホウ、ビョウ」(52画)【写真左上】 の旧字体【写真左下】です。 画数は(128画)です。   ◆「子ども」は「子供」で統一します 文科省「差別表現でない」と公文書で使用 https://www.j-cast.com/2013/09/01182664.html?p=all 2013/9/1   「子ども」と「子供」、書き方としてはどちらになじみがあるだろうか。ここ数年、差別助長を防ぐため「障害者」の表記を「障がい者」に見直す動きが広がっているが、実は「子供」も「差別的な印象を与える」として長らく敬遠されてきた。   行政でも「子ども手当て」「子ども・子育て支援法」など「子ども」が優勢だが、ここにきて文部科学省が「子供」表記の統一に乗り出した。 「子供」のイメージは「お供え物」「お供する」   文科省が2013年6月下旬、公用文中の「子ども」の表記を「子供」に統一した、と複数の新聞が報じた。同省の公文書では常用漢字を使うのが原則だが、「こども」については漢字の「子供」ではなく「子ども」が多用されてきた。「供」という字が「お供え物」「お供する」などを連想させ、差別的な印象を与えるというのがその理由だ。   ◆「子供」か「子ども」か。 「こども」という語は、本来、「こ(子)」に、複数を表す接尾語「ども」がついたものである。 「宇利波米婆 胡藤母意保由‥(瓜食めば、子ども思ほゆ‥)」(万葉集巻5・802)と山上憶良の歌にもあるほど、古い語であるが、のち、「しにをくれじとたどれ共、子どものあしにあめのあし、おとなのあしにをひぬひて」(浄瑠璃、賀古信教)のように単数複数に関係なく用いられるようになった。   その表記としては、「子等、児等、子供、児供、小供、子ども、こども」などいろいろな形が見られたが、明治以後の国語辞典類では、ほとんど「子供」の形を採り、「小供」は誤りと注記しているものもある。 その後、「子ども」の表記も生まれたが、これは、「供」に当て字の色彩が濃いからであろう。   ◆日本語って難しい 犬かい http://bit.ly/ydvMpm    はじめに    誤用    疑問    私の主義と迷い 【はじめに】 インターネットで、誰もが気軽に発言できる場が増えたからか、疑問に感じる日本語の表現をよく見かけるようになりました。わざと誤った使い方をしているのか、間違っていても気にしていないだけなのか、知らなくて間違えているのか、いろいろなケースがありそうですが、いずれにしても日本語の乱れが目立つようになったと感じています。もしかしたら、書き直すことが困難なサービスが増えたからかもしれません。 さて、「誤用」では、よく見る表現で、それはおかしいのではないかと思うものを挙げました。「疑問」は、その言葉を使う上で疑問に思っていることを書きました。「私の主義と迷い」では、自分の頭にある方針や、決めかねて迷っていることを載せています。これは、私が勝手に思って実行していることを書いただけなので、別に従う必要はありませんし、納得してもらいたいわけでもありません。 なお、常用漢字の音訓外という言葉が出てきますが、「常用漢字表の音訓として認められていない漢字の読み」ということです。また、全角や半角といった言葉は正確ではありませんが、便宜的に使用しています。 私は、使おうと思った言葉が本当に正しい表現なのかが気になって、いつも辞書を引いています。 そんなわけで、私を物知りな人だと思う人もいるようですが、私はちっとも物知りではありません。 むしろ、知らないことが多すぎるために、辞書を引いているのです。   ◆普段、射す光 | メリシャカ! 2010年11月10日 http://merry-shaka.com/?eid=617&target=comment 先日テレビのクイズ番組を見ていると、斎藤孝さんが興味深いことを仰っていました。 私たちが使っている言葉は、読み方で漢字の当て字が意外と多いそうです。   「普段」という漢字も実は当て字で、昔は「フダン」という言葉は別の意味ある漢字で書かれていたそうです。   皆さんは答えが分かりますか?   ちなみに私は「蒲団」と書くのではないか?と思いました。が、結果不正解。 正解は・・・ 「不断」と書くそうです。   ◆北海道のアイヌ語地名解説 http://bit.ly/A74nKH 本州の人にとって北海道の地名は読めないものや面白い音読みのものが多いでしょう。 それは北海道の地名が、そのほとんどがそこで生活してきたアイヌ民族がつけた地名で、後から入ってきた和人がその発音に漢字を当てはめたからです。 ここでは、ほんの一部ですがその地の意味を解説します。これでもほんの一部です。 小川や小さな沢、山の頂にも名前が付いているのでそれは膨大な数になるので省略します。 引用図書:「北海道地名誌.NHK北海道本部編,北海教育評論社,昭和50年発行」               「アイヌ語地名と現日本人.白糠地名研究会編,現代史出版会.」   ◆「前」という漢字が末尾につく言葉。「当たり前」はもとは「当然」の当て字だったの?http://bit.ly/y0anou 問題:「前」という漢字が末尾につく言葉は「大辞泉」で調べると200語弱ありました。 一丁前、腕前、男前、御前(おまえ、おめえ)などは、よく耳にしますね。 ■昔の地名にもよく使われました。肥前(佐賀、長崎)、備前(岡山)、羽前(山形)、越前(福井北部)、陸前(宮城、岩手)などですね。千日前(せんにちまえ)、蔵前(くらまえ)、弘前(ひろさき)、松前(まつまえ)など訓読みでも使われます。   ◆芥川龍之介の小説「あばばばば」からの読み問題。「朦朧」はなんと読むの? http://bit.ly/yRbBt6 問題:芥川龍之介に「あばばばば」という妙な題名の小説があります。題名に惹かれて読んでみると、たわいのない話ではあります。でも、なんとなく心に残るところがありました。ご賢察どおり、「あばばばば」は幼児をあやす言葉です。Wikipediaにも項目が立っていましたので、あらすじはそちらをごらんください*4。全文は青空文庫のほうをごらんください*1。   ◆あばばばば - Wikipedia http://bit.ly/w1wR2M   ◆芥川龍之介 あばばばば http://bit.ly/ADgURu  青空文庫作成ファイル   ◆韓国語 - Chakuwiki http://bit.ly/ui2Zco 哀号っていうのは発音から日本人が当て字したんだけどね。 そもそも現代韓国語の漢字音はフランス語と同様、2重母音は必ず融合させるから「哀」を「アイ」とは読まないはず・・・・ 「哀号」を韓国語で読めば「エーホー」 必ずしも嘆き悲しむ時ばかりではない。もっと軽く頻繁に使われるらしい。 最近だと、金英男氏再開劇の時に崔桂月さんが涙を流しながら言っていた。 「あれま」くらいの意味でも使います。もっと深い意味でも使います。 ・哀号  http://bit.ly/w9y3hD 1.人の死を悲しみ大声で泣き叫ぶこと。 2.朝鮮語の感嘆詞。(この場合「哀号」は当て字であり、本来漢字表記は存在しない。)→アイゴー ・アイゴー (아이고) 朝鮮語の感嘆詞。 元々は朝鮮語固有の語であるため、本来漢字表記は存在しない。 古い書籍などでは漢字で哀号と書かれているものもあるが、日本で作られた当て字である。 哀号を朝鮮語読みにすると애호(エホ)になる。   ◆夫婦 当て字 : 言葉のコレクション資格講座 http://kotoba.livedoor.biz/archives/30106408.html 2005/08/11 新聞なんかを読んでいてもよく思うんですが、当て字って多いですよね。 柳葉魚で何と読むかご存知ですか? 「ししゃも」なんです。なんとなく頷けるような気がします。 以前の記事に中国では「美しい」を意味する漢字に「柳」を当てるという話をしましたが、ししゃもも確かに形がスマートで美しい?かな(笑) 夫婦でめおとと読みますが、これなんかも当て字なんです。 ◆一颯(いぶき)と子供の名前を付けようとしてるのですがこの漢字は http://bit.ly/wIygle ●これは楽しく考えさせられた。 一応季語では風一颯(読み不明)って使うみたいですけど。 過去質問でも由来不明という結論でした。 また、ヒットする名前では読みは名付け本からとなっていました。
…最初に名付けた方に聞いてみたいですね。   ◆日本人にとって漢字には、当て字で意味など無い、、、はず。 http://amba.to/wNcQ07 漢字と日本人/高島俊男著(文春新書)2 日本語と漢字の出会いは不幸であったという著者の主張はかなりショッキングである。 日本人の多くは日本語を使ってコミュニケーションをしていると思うが、 文字を書く上で日本語表記に漢字が使われている事に疑問を持つ人は少ないだろう。 漢字が支那から伝わったことは知識として知っている人は多いと思うが、 日本語に適していないと考えた事のあるひとはもっと少ないのではないか。   ◆60歳からの視覚能力 http://bit.ly/AbBsB0 文字を読んで眼が疲れない、記憶力、平衡感覚の維持のために 図は土屋道雄「誤字辞典」からの例で、永井荷風の作品中に見られた誤字の一部です。 「誤字辞典」には多くの作家、論客の作品から誤字の例をあげられていますが、特に多いのが永井荷風のものです。  永井荷風の誤字例が多く見られるのは、たまたま著者が荷風の作品に親しんでいたためなのか、荷風が誤字の多い作家だったためかはわかりません。  校正の名人といわれた神代種亮という人物が荷風とは親しかったそうですが、この人物は作家の作品に誤字を発見すると指摘した手紙を送りつける癖があったということですから、当時荷風の作品がとくに誤字が多いとはみなされていなかったようです。   ◆中学生くらいで逆転!?「英語と日本語を同時に学ぶ」効果とは https://gentosha-go.com/articles/-/22070 2019/07/06 - 2020年開催の東京オリンピックが近づき、日本全体が国際社会に対応しようと日々変化しています。政府主導で英語教育の方針も毎年のように刷新されていますが、その一方で、「英語が話せる日本人」はまだまだ少数です。そこで本記事では、英語保育園(プリスクール)を経営する中山貴美子氏が、英語と日本語を同時に学ぶ重要性について解説します。   ◆第29話 心配いたしました。 - So-net http://www005.upp.so-net.ne.jp/kenji99/b029/b029.htm 日本に「漢字」というものが伝わって来たのは西暦三世紀頃だとされている。この時すでに日本語すなわち「やまと言葉」は完成しており、日常の会話に使うべき語彙には事欠かなかったと考えられている。 この時代、漢字を持ってきた中国博士たちは、日本の知識人と共に、ありとあらゆるやまと言葉に一つ一つ漢字を当てていった。ほとんどは「意味の合う漢字」を探し、これに「やまと言葉でフリガナをつける」という作業になった。これがいわゆる「訓(くん)」である。元の「中国読み」は「音(おん)」と呼ぶ。「呉」「漢」「唐」「宗」あわせて漢字の在庫は充分すぎるほどあった。 ◆生きている化石 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/生きている化石 生きている化石(いきているかせき、英: living fossil)とは、太古の地質時代に生きていた祖先種の形状を色濃く残している生物をさす。生きた化石と言われることが多い。地層の中から発見される化石と同じ姿で現代にまで生息していることから、このような呼び名が付いた。 殆どの近縁種が絶滅してしまった分類群を指す遺存種(いぞんしゅ、英:relict species)と混同されやすいが、遺存種は祖先種の形状を残していないものも含むため、定義が異なる。遺存種のうち、生きている化石のように祖先種の形質を色濃く残しているものはごく一部である。 ◆ことばの話1740「言語道断」http://bit.ly/xvWDjr   ◆熟字訓 - Wikipedia http://bit.ly/yI4jGj 熟字訓(じゅくじくん)は、日本語において漢字の単字単位ではなく熟字単位で訓読み(訓)を当てたもの。 単字に分解してもそれぞれに熟字訓の要素は現れない。 また、読みの方でも分節不可能なものが多い。   よく使われる言葉が熟字訓になっている場合が多い。訓には和語ばかりでなく外来語が使われることがある。 例えば「煙草」を「たばこ」と訓読みする。熟字が漢語文法に則って作られていることが前提であり、字音や字訓を利用しつつも漢字本来の意味や熟字構造を無視して和語や外来語に漢字を当てる当て字とは異なる。   ◆訓読み   https://ja.wikipedia.org/wiki/訓読み 訓読み(くんよみ)とは、日本語において、個々の漢字をその意味に相当する和語(大和言葉、日本語の固有語)によって読む読み方が定着したもの。一般にひらがなで表記される。字訓(じくん)または単に訓(くん)ともいう。漢字の中国語における発音に由来する「音読み」と対照される。   ◆音読み   https://ja.wikipedia.org/wiki/音読み 音読み(おんよみ)とは、日本語における漢字の字音による読み方である。 音読みの種類 音読みには呉音・漢音・唐音(宋音・唐宋音)・慣用音などがあり、それぞれが同じ漢字をちがったように発音する[2]。たとえば、「明」という漢字を呉音では「ミョウ」と、漢音では「メイ」と、唐音では「ミン」と読む。 漢音は7、8世紀、遣唐使や留学僧らによってもたらされた唐の首都長安の発音(秦音)である。呉音は漢音導入以前に日本に定着していた発音で、通説によると呉音は中国南方から直接あるいは朝鮮半島(百済)経由で伝えられたといわれるが、それを証明できるような証拠はない。唐音は鎌倉時代以降、禅宗の留学僧や貿易商人らによって伝えられたものである。   ◆義訓    https://ja.wikipedia.org/wiki/義訓 義訓(ぎくん)とは、訓読みの一種であり、漢字に固定化した訓ではなく、文脈に合わせて個人的あるいはそれに近い狭い領域においてその場限りの訓を当てることをいう。義訓が固定化され広く用いられると熟字訓となる。 上代日本語 日本語の最古の記録である上代日本語の時代から義訓は用いられている。特に『万葉集』など上代文献での漢��の使い方を指すことが多い。「暖(はる)」「寒(ふゆ)」「金(あき)」「未通女(おとめ)」「数多(あまねし)」「間置而(へだたりて)」など。   ◆中古日本語 - Wikipedia  https://ja.wikipedia.org/wiki/中古日本語 中古日本語(ちゅうこにほんご)とは、上代日本語と中世日本語の間に位置する、日本語の発展における一段階である。平安時代中期に用いられた。日本語の文語体の基礎となる言語である。 平安時代の初期(10世紀)に日本語を記したものは漢文・変体漢文と訓点資料(漢文訓読を記号・文字で記した資料)・古辞書を除いて残存資料に乏しく、実態ははっきりしない。一方平安時代末期(11世紀末ころ〜12世紀)には中期とは異なる現象が現れ始め、「院政期」と呼ばれる。院政期は後の鎌倉時代と似た特徴を持ち、「院政鎌倉時代」と一括して考えることがある。従って「中古日本語」という時は平安時代の中期を中心に、初期も含めるが、院政期を除いて考えるのが一般的である。そして院政期は「中古」に対して「中世前期」と呼ばれる。   ◆近世日本語 - Wikipedia  https://ja.wikipedia.org/wiki/近世日本語 近世日本語(きんせいにほんご)とは、中世日本語と現代日本語の間に位置する、日本語の発展における一段階である。この時期は、中世日本語の多くの特徴が消失する時期であったとともに、現代日本語という形態への移行期でもあった。近世日本語が使用された期間は、17世紀から19世紀中期までの約250年であり、享保または宝暦頃を境に、上方語優勢の前期と江戸語優勢の後期に分けて考えられる。また、政治史で見ると一般的には江戸時代に相当する。
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mashiroyami · 7 years ago
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Page 88 : 地下
 それぞれが黒の団と対峙している傍ら、圭はエアームドに乗りバジルを追っていた。ピジョットは逞しい翼で強まりつつある雨中を翔るが、決してエアームドを突き放すようなスピードではない。圭はもっとピジョットに近付くように指示すると、鋼の鳥は従順に加速した。ピジョットの隣までやってくると、顔に襲いかかってくる雨と風圧に耐えながら圭は声を張り上げる。 「おい! どこに連れて行くつもりだ!」  バジルはちらと圭を見やり、しかし無視して更に速度を上げさせた。挑発されているような感覚だった。この野郎、と思ったのはエアームドも同じか、ピジョットに遅れをとらないよう羽ばたく。  威嚇も兼ねて五月雨を抜くことも考えたが、慣れない不安定な空中では思うように動ける自信を持てなかった。エアームドは鋼に覆われた身体をしているために、雨水で滑りやすくなっている。これだけの雨風、煽られながらがむしゃらに刀を振ったところでバジルには掠りもしないだろう。ただ、雨自体は、決して圭にとって不利な状況ではない。水を操る彼としてはむしろ好条件なくらいだ。それに、バジルの力は空中ではうまく発揮できないことも、圭は知っている。  知っているのだ。  リコリスでクロと再会した際に表情を柔らげた時のように、バジルに出会った時にも戸惑いと同時に無意識に懐かしさを抱いていた。口に出して言うつもりは毛頭無いが、言語による疎通が可能な今、話をしたい気持ちも無いわけではないのが、正直なところだった。  彼らはセントラルの端が見える位置までやってきた。首都は、中心部を円形に囲むような深い川でセントラルと郊外を大きく分断している。川は周囲を白いコンクリートで固められており、架けられている橋の遙か下まで掘り進められている。どんなに大雨が降ろうとも、地上まで溢れることはまず決して無いと断言できる。  ピジョットは徐々に高度を下げていったが、川の傍まできたところでその傾斜を急なものにした。地下、つまり川を囲む白いコンクリートの壁沿いに滑るように高度を一気に下げていく。臆することなくエアームドは後を追う。前のめりに落ちることのないよう圭はエアームドにしがみ付き、息を呑んでバジルの背を見つめた。一体バジルはどこに連れて行くつもりなのか皆目検討もつかぬままである。  雨の日はやはり水流が激しく、近付くにつれて轟々と流れる音が鼓膜を引っかく。殆ど川の水面まで来ると、川の一部も流れ込んでいる壁の横穴が見えてくる。四角く切り取られた巨大な穴はピジョットやエアームドが飛行しているままでも通り抜けられるような大きさだった。当然だが、簡単に人の出入りできるような場所ではない。しかし、ピジョットは躊躇することなくその穴へと飛び込む。多少たじろぎながらも、行こう、と圭は声をかけた。頷いたエアームドも暗闇へと身を投じる。  外から見ると真っ黒く口を開けているようだったが、中はぽつりぽつりと白い明かりが規則正しい間隔で壁に設置されていた。濁流のような水の音はあっという間に背後へ遠ざかっていく。穴の中を流れる水は外に比べれば幅が狭いせいか穏やかで、奥に進むほど顕著になっていった。雨もなければ、自然による横殴りの風もない。静かな廊下だった。ささやかな水の音と鳥ポケモン達の羽ばたきが不安定に反響する中、やがて大きな空間へと出た。道の中央を流れていた水流は巨大な部屋に入ったと同時に左右に分かれ、部屋を囲うように走っていく。  壁には今までの道と似た白電灯がともっているが、それで照らしきれないほど天井が高いことが、音の感覚でわかる。先程は音がちらばってはすぐ跳ね返るような騒がしさだったが、今は音がまるで吸い込まれていくかのようだった。あの真っ暗なおぞましさすら感じさせるような見えない天井に吸収されて、戻ってこない。部屋には部屋を支えている巨大な円柱がいくつも設けられており、そこにも明かりが設置されている。途方も無く天井までが高い部屋だが、奥行きも深いものだった。どれだけ目を凝らしても、点々と照明が黒の中に佇んでいるばかりで、まるでその端が見える気配はない。首都の地下にこのような空間があったとは露も知らなかった圭は、悪寒に包まれたような静かで圧倒的な空気感に狼狽える。  ピジョットは減速し、遂に猛勇な鉤爪が地を捉えた。羽ばたきが止んで、バジルの地面に降り立った音がした。エアームドも倣うようにゆったりと止まり、圭は鋼の背中から降りる。足元で薄い水の音が跳ねた。水流は遠くなっても、水気は満ちていた。  全身が雨でずぶ濡れになっているため、圭はその水を少しでも払うように頭を振って、腕で顔を擦る。それから、仄かな灯りの下、正面に立ちじっと圭を窺っているバジルを見た。彼はボールを取り出す。続いて彼の手元から赤い光が伸びた。ピジョットを包み込んで、水の滴る鳥獣は光の中へとその姿を消す。バジルの周囲が急に侘しくなる。出会い頭に見せた痛烈な殺気は潜んでいた。バジルの雰囲気はどこか弛緩していて、まるで敵ではないような隙だらけの懐だと圭は思った。それでも、圭もエアームドにボールも向ける。赤い光が薄暗闇の中で瞬いて、エアームドは呆気なくボールへと戻っていった。  静寂の中にぽつりと佇む。  二人きりで立って、急に圭はどうしたらいいのかわからなくなった。込み上げる懐かしさをぐっと堪える。煌めいた思い出など無い。それに、バジルは黒の団で、圭の敵だった。そしてバジルがなんのためにここに連れてきたのかも、圭には検討がついていた。 「……久しぶりだな」  言葉が分かる。何を言っているのかが解る。記憶の彼よりも声音が低くなっている。  先にそう言われてしまって、圭は頷くしかなかった。 「元気そうだ」 「……まあな」 「それは良かったな」 「皮肉のつもりかよ」 「別に」  バジルの顔は仮面でも付けたように無表情のままで、素っ気ない言動だけれど、多分、バジルの胸にも積もる話があるだろうことがなんとなく圭には嗅ぎ取れた。元々多くを語らない淡々とした人物だ。記憶の中の彼の人格が、そのまま変わらず成長して今に至っているのならば。 「……ずっと、聞きたいことがあった」  声が暗闇に吸い込まれる。見えない天井の中へと消えれば、しなやかな沈黙が流れていく。 「どうして黒の団を出て行ったのか」  途端、圭の丸い瞳がすっと細くなる。  単刀直入に聞いてくる。仏頂面とは裏腹に、性急な心持ちなのかもしれない。オレンジの瞳を縁取る睫毛が下を向く。雨水を吸い込んで、刀の形に浮き出た上着に触れ、布越しに五月雨の鞘を、柄を、確かめた。 「笹波白にどう唆された」 「関係ない」  即座に切り捨てた。 「理由なんてなんだっていいだろ」圭は素っ気なく答える。「そっちからしてみれば、どうであろうと裏切り者であることに変わりない。お前だって、今俺をここに連れてきたのは、人目につかない場所で俺を殺すため、だろ」 「……」 「全部覚悟していた」  言いながら、圭は自分の身を固めているかのような思いだった。覚悟とは、自分で使いながら聞こえの良い言葉だった。脳が、神経が、耳が、指先が、冴えていく。カンナギ襲撃時のような衝動に肉体が突き動かされるばかりの暴力的感覚とは色の異なる、しんと痺れのような緊張感に圧迫されていく。  バジルはひりひりとした圭の威嚇に、目を伏せ、右手を自身の胸の前へと突き出した。袖が引かれて、その腕につけられた黒い腕輪が顔を出す。 「俺はお前達が憎いよ」 「はっ」  圭は鼻で嘲笑した。こんな笑い方、いつからしていなかっただろう。 「それでいいじゃん。余計な言葉は要らない」  冷めた声。涸れた亀裂。  一切の震えはなかった。圭は腰元に手を当て、姿勢を低くする。 「五月雨!」 「創樹」  刀を抜くのと同時に圭が叫ぶと、刀身に淡い光が走る。襲いかかる鋭い枝を真正面から捉えると、まとめて切り落とした。矛先を失った枝は勢いも殺され、その横を走り抜けるように圭は間合いを詰めた。足下は水が敷かれており、一つ蹴るたびに水音が響く。しかし、バジルに近付こうと一歩先をいくたびに不思議と、地が、柔らかい。元はコンクリートで固められたはずの場所が、短い叢で覆われているのに気付く。  初動を遮られたバジルだが、動じない。地に手をついて、音や掌に伝わる感覚から、右手から圭の位置を、速度を、そしてその周囲の草花を把握する。足下に広がる即席の草原に警戒したのか、圭が助走を���けて跳んだのが、バジルには手をとるようにわかった。バジルは顔をあげる。余計なものを削ぎ落とした、燃え滾る朱い両眼。両手に持って振り上げられた五月雨の、ぎらりと睨むような刀身の光が空中をまっすぐに輝き、バジルに向けて躊躇も無く力の限り振り下ろされた。だが、動きがあまりに大振りだった。バジルは横へ避け、右手の人差し指を持ち上げた。圭の足下から細い蔓草が束のように茂り、小柄な圭にせり上がって、バジルの右手が握られた途端、身体に絡まり付こうとする。ざわりといくつも這ってくる草はしかし弱々しい類のもので、抵抗するように、圭は五月雨を足下に突き立てる。 「水柱!」  圭の周囲、ごく僅かの至近距離に細い水の柱が勢いよく突き上がった。土砂降りに当てられたかのように草は萎れて、圭から離れて水没していく。水が解かれたと同時に初動と同様の硬い枝が今度は真上から突き刺さらんとするばかりに走ってくる。視界が悪く、どこに何の植物が潜んでいるのか、把握しきれない。後方へ跳ぶように回避すると、横に視線を伸ばす。気配。バジルの身体は既に接近しており、防ぐ前に横腹に打撃が入った。靴の素材は硬く痛みは骨にまで響くようだった。圭の身体は床に転がり、しかし五月雨を握る手は緩めない。じんとした痛みに僅かに表情を歪めている端から、叢はくすぐるように茎を伸ばし圭に忍び寄る。得体もしれない植物だ。なんの毒が仕込まれているかもわからない。圭は起きあがって飛び退くと、その先の地面も柔らかく、周到な準備に舌を巻きそうになる。  と、頭がぐらり、或いはふらり、と浮かんだような感覚が降りかかる。  痺れ粉の類だとすぐにわかった。微量だが、この敷き詰められた叢の何かが花粉のように周囲にまき散らして、空気に忍び肺に入り、身を硬直させる。だがまだ十分に身体は動く感覚があった。鼻の奥に力をいれて喉を締め圭は目の前を見据える。バジルは右手を翳し、様子を窺っている。  圭は刃先を後方へと向けて、そのまま引きずるように走り出した。切っ先が叢に当たり、走り際に柔らかさを裂いていく。右足に絡みつこうとするように茎が伸びても、圭は即座に振り解くように力強く走るので、バジルは目を見開いた。咄嗟の判断でバジルは腰に下げていたホルダーを開いて刃の太いナイフを取り出すと、下から突き上げてくるような五月雨に応戦した。  金属と金属がぶつかりあう音が異様なまでに地下フィルターに響きわたり、余韻は遙か遠くまで引き延ばされる。二つのぶつかった衝撃は二人の身体を痺れさせる。両者引かなかった。長い刀身を持つ五月雨は持ち上げるには当然重く、うまく受け止めさえすれば上から押し込むようなバジルのナイフでも止められた。急接近した二人は互いに睨みつけあう。バジルはナイフを五月雨に滑らせて、圭が前のめりになる。流させた五月雨に当たらないようバジルは身体を捩り、そのまま切っ先を相手の顔に向けた。体勢を崩された圭はしかし頭を振ってその道を避け、寸で、顔の隣を刃が切り裂いていく。背中、互いに振り返ったところで、バジルの右手が自身に誘うかのように内側に動いたのを見て、圭は背後に勢いよく迫る枝の存在に気がついた。同時に五月雨を後ろに振るうと削る確かな感触が伝わってきた。そのまま、回転するように五月雨を前へ、バジルの腹を横に一閃する動き。バジルはまたナイフで受け止めて、二度目の金属音がこだました。  四方八方に意識を集中させていなければ、どこかしらから抉られてしまいそうだった。光が不十分であり人工的な弱々しい植物群ではバジルの力は完全には発揮されないが、それでも、この一つの方向に囚われないあらゆる方向から多発的に攻撃を仕掛けてくるのが、彼の戦い方だった。しかし、これだけの広範囲、これだけの量の植物を掌握している事実に圭は顔を歪める。  連続的に仕掛けるか。しかし、完全に動きを封じられるほどでなくても、筋肉を硬直させようとする地味な痺れがじわじわと圭の身体を疼いている。刃の長さでいえばリーチは圧倒的に自分が長く、至近距離での戦闘なら、と踏んでいた圭もバジルのナイフを突き返すことができず、むしろ押されていた。  圭の額に脂汗が滲む。  その時だった。バジルは後ろに気配を感じて、その場を咄嗟に離れた。圭から間合いをとり、しかし視線は圭から外れて、まだ距離のある地下フィルターの朧気な光に目を向ける。  ほとんど闇の中で、光に照らされて姿を現したのは、女性だった。いや、その背後にもう一人いる。バジルとほぼ同程度の年齢とみられ、大きな団子をつくった髪型に、ボーダーのタンクトップの上に黒い袖の短いシャツを羽織り、ホットパンツの下からは異常なまでに長い羚羊のような足が伸びている。圭もバジルも思わぬ人間の登場に目を丸くした。 「ココ・ロンド」  先にその名を呼んだのは、バジルの方であった。圭は驚きに言葉を失ったまま、彼女、ココを見つめる。  ココは溜息混じりに、圭やバジルを含めて周囲を見回し、今の状況を確認した。 「随分やってくれてるじゃない。こんな地味なところで。何かをしようとしているとは、種を見つけた時から思っていたけど」 「……いつここに気付いた」 「あんた達が気付かないうちに。急に音がしたからもしかしてと思ったけど……また懐かしい奴まで」  薄暗闇の中でも際立つような、明るい茶色の瞳が圭を射抜く。  圭にとってもあまりにも想定外であり信じられない心持ちだったが、これ以上の助太刀は考えられなった。五月雨を構え直し、ココと挟み込むようにバジルを睨みつける。 「調べてみようとする前にくるとは思わなかったけど。で、どうする。三対一、数ではそっちが不利だ」 「……」 「無駄な怪我は、お互い作りたくないでしょ」  静かなバジルに呼応するように、鬱蒼とし生長を続けていた叢の茎が、一斉に萎えつつあった。 「君からも言ってやりな」  ココは隠れるように彼女の後ろに控えている存在に声をかける。陰に潜んでいたかのような黒い髪が輪郭を露わにし、それとは裏腹の金色の獣の瞳が瞬いた。  バジルがその顔――ブレットの顔を確認すると、明らかに狼狽した。  獣の双眸は下を向いて、後ろめたさを引きずっているかのような雰囲気だった。嘗てバハロ近辺で発作に倒れたクロを助けようとしたブレットは、後を追ってきたバジルと戦い、そして敗れた。そういえば、あの日も夕立のような凄まじい雨が降っていた。当時の一挙手一投足が鮮明に思い出せるほどその記憶はまだ新しいが、互いに随分と遠い過去のようでもあった。 「ペンダントだけ残っていたのは引っかかっていたが、本当に生きていたとはな」 「……僕も、まさか、もう一度会えるとは思ってませんでした」  ブレットは怯えているような震える声を出して、勇気を出して顔を上げる。 「バジルさん、この場は……これで収めてください。あなたと無闇に戦いたくないです」  切実な懇願だった。刃物のような沈黙が誰もの胸をすり減らす。  バジルは右手にはめたブレスレットに視線を落とし、その疼くような淡い淡い濃緑の光を一瞥した。 「……決して逃げるな」ぼそりとバジルが呟く。「そうだろう」  バジルを除いた誰もが身体を堅くした。圭は改めて五月雨をバジルに向け、ココはいつでも走り出せるよう一歩踏み出して、ブレットはまだ割り切れない表情を浮かべながら体勢を低くとる。  対してバジルは薄く嘲笑し、右手に持っていたナイフを元のホルダーに収め、ポケットに入れていたボールを取り出した。「創樹」呟いてから、暗い空洞に白い閃光が弾け、彼のポケモン、ピジョットが再び顔を出す。  彼���の足下にびっしりと敷き詰められた叢が、瞬く間に死んだように枯れていく。そもそもこのような人工的な閉塞空間は、バジルが用意したものの、彼にとって最良の環境とは言い難かった。光が届かず養分も足りなければ伸びる草木も細く弱々しい。相手が三人、それも誰もが近距離戦を得意とする面子だった。状況が最悪など、バジルにとっては火を見るよりも明らかであった。  軽やかにピジョットに乗ると、最後に圭と視線をぶつけ合う。 「甘かったのは俺の方だった」  冷たい顔つきだった。熱気を帯びた圭に断罪のような氷の刃を突き立てる。 「次は容赦しない」  痛々しい火花が散り、ピジョットの翼が広がる。風が巻き起こり、水を含みしなっていた圭の上着もぶわりと大きくはためいた。  羽ばたく音が遠のいていく。エアームドを出してその背中を追おうなどと圭は考えなかった。研ぎ澄まされていた闘争心は既に萎えていた。疲労感が後から全身に圧し掛かってくる。異様な感覚だった。確かに懐旧の情を抱いていたのに、後から考えれば圭自身も不思議に思うほど迷いなく刃を向けていた。  羽音が彼方に吸い込まれて完全に聞こえなくなるまで、誰も動かなかった。 「……圭、久々」 「おう」  煮え切らないような空気の最中、思い出したように二人は会話を交わす。圭は五月雨を鞘に収め、肩の力を抜く。尖りきった雰囲気でバジルを圧倒しようとしていたココは、ふっと脱力したかのように笑った。 「あんた、いつのまにアーレイス語身に着けたの? やるねえ。というか、真弥がセントラルにいるのは噂で知っていたけど、圭までいるなんて思わなかった」 「俺も来たのはつい最近だよ。クロもいる」 「クロ? ……そう」  ココは隣にいるブレットに一瞥をくれる。ブレットは唇を引き締めてその言葉を聞いていた。 「……そいつ、誰だっけ」  つられるようにブレットを見ながら、圭は眉間に皺を寄せる。会話の様子を見るにバジルとも関係が深いようだったが、圭はその存在を思い出せないでいた。萎縮したブレットの肩を、ココは守るように力強く叩く。 「ブレットよ。ブレット・クラーク。まあ、覚えてないのも無理ないかもしれないけどさ。元、出来損ないの」 「今も出来損ないですよ」  縮こまっているブレットはそっと苦笑した。 「……ああ。なんか、いたような気もするようなしないような」 「あ、その言い方、全然思い出せてないでしょ」 「ま、そのうち思い出せるだろ。……でも、大丈夫なのかよそいつ」 「何が?」 「どっちにしろ黒の団だったんだろ。けど、俺はよく覚えてないってことはその後に団を出た奴……そんな近くに置いて、裏切ったらどうするんだって話」  戦闘の熱を引きずっていて、圭の神経は未だ尖っていた。ブレットに向ける視線は疑念と敵意を籠めている。一瞬だけココは不思議そうな顔をしてから、そんな圭を吹き飛ばすように豪快に笑い始めた。地下フィルターに明るさが差し込む。 「平気よ。この子、あのバジルに立ち向かったからね。黒の団の裏切り者、ね」 「……ふーん」  圭は疑いを拭わない。真正面から痛い視線を受けるブレットは身体を硬直させるのみだった。  しかし、この場でブレットをとやかく言っている場合ではない。圭は肩を落とす。こうしている間にも、見えない所で刻々と状況は移り変わっているはずだった。 「まあそれは後でいいや。それより他を探しにいかなきゃ……真弥さんが見つけられたのかわからないし」  圭は鞄からポケギアを取り出す。ぎこちない手つきで通話を選択しても、まるで反応しない。電波が届いておらず、ここがセントラルであるにも関わらず地下の閉塞空間だということを、遅れて思い出す。 「なに、はぐれたってわけ」 「つうかバラバラにされたんだ。……今回の目的は俺じゃなかったんだろうな。俺じゃなくて、他だ。いくら数でこっちが有利でも、あの様子じゃ本来バジルが逃げるはずがないだろ。バジルはただの時間稼ぎだった。クロはそんなに心配しなくても大丈夫か……いや、わからないな。あいつ、黒の団に誘われてるって前言ってたし」 「は? まさか」  ココは顔を歪めた。 「本気らしい。団にとっては今でも特別なんだろうな……とにかく、真弥さんに連絡とってみる。ここじゃ電波が届かないみたいだから、俺は外に出るよ」 「あ、待ってよ」  その前に、とココは左手に腕時計のように巻き付けていたポケギアを差し出した。 「ポケギア持ってんなら、連絡先。交換しておいた方が、何かと後で便利でしょ」 「ああ……そうだな」  改めて連絡先を登録する。ココのポケギアは圭よりも真新しく傷が少ない。型は同じだが深い赤色をしていた。小さな機械にまた一つ繋がりができて、それも相手は嘗て今後会うことはないだろうと踏んでいた人間で、こうして唐突とはいえ再び繋がったことに、二人とも不思議な気分で画面を見つめる。 「北区にある真弥さんの家にいる。ただ今日はこんな状態だ、どうなることかわからないけど……落ち着いたらまた連絡する」 「了解」  圭は息をついて再度心を引き締める。が、思い出したように顔を上げると、ココの腕を掴み、女性にしては随分背の高いココの身体が前のめりになったところを、身体を伸ばし、耳元に口を寄せる。 「考えておいてほしいんだ」圭は囁く。「黒の団を倒したい。……協力してくれないか」  ココが目を見開き言葉を失っている間に、圭は手を離し、その身を翻す。枯れた叢を走り抜け、その途中でエアームドを出すと、地下フィルターの狭い出入り口の光へと向かっていった。
 地下フィルターの外は相変わらず雨��降り続けていた。それも、地下に入った時よりもずっと勢いは増しており、バケツがひっくり返ったかのような土砂降りだった。その気配は、長い通路を進むうちに大きくなっていく雨音から容易に感じ取れた。川に通ずる出入り口を抜けると、その水嵩が増しており、濁流となって波まで立てている荒々しい川の様子に圭は圧倒された。まるで狂った獣だと思った。激しい水音の塊の中に、雄叫びのような雷の音まで飛び込んでくる。  ポケギアの画面に視線を移すと、電波の強さを示すアンテナが三本表示されていた。真弥に連絡をとろうと選択をしている間に、先に真弥から通話が飛び込んできて、慌てて選択する。 「真弥さん! 今どこ!?」 『お、圭の方は無事だったか。こっちは東区だ』  昨晩まで散々聴いてきた声なのに、何故だか随分と懐かしかった。 「そっか……バジルはとりあえずなんとかなった。そっちの状況は?」 『流石。ラーナーは回収した。黒の団に捕まってたけどね、無事だよ。けど、かなり憔悴してる。エーフィとブラッキーも今は使えないから、あまり動けない。クロは屋外だ。東区と南東区の間にある、高層ビルにいる』  ラーナーの無事に胸を撫で下ろしたした直後、真弥の発言に耳を疑った。 「なんでそんなことわかるんだよ」 『ノエルは非常に優秀な人材だ、とだけ言っておくよ。まあそれはいいとして、加勢にいってやった方がいい。通話が変に切れたんだけど、その音がな……あいつのポケギア、多分破壊されたね』  圭は息を止める。同時に、別れる直前に不敵に笑う女の顔が蘇る。周到に用意されていた作戦。あまりにも円滑に分断させられた流れ。恐らく時間稼ぎだったバジル。嫌な予感がした。 『俺も行けそうなら向かうけど、期待はするな』 「……了解。探しに行く」  真弥のアパートで落ち合うことを約束した後、通話を切り、エアームドに場所を指示した。  痛いほどの量の雨が降り頻る。逸る感情を抑えて、泥沼のような予感がただの杞憂であることを、今は祈る他なかった。 < index >
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generalwonderlandpeace · 9 months ago
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xf-2 · 6 years ago
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最初の特攻を命じたことによって、「特攻の産み親」と呼ばれることになった大西瀧治郎中将は、天皇が玉音放送を通じて国民に戦争終結を告げたのを見届けて、翌16日未明、渋谷南平台の官舎で割腹して果てた。
特攻作戦を採用した責任者といえる将官たち、前線で「おまえたちだけを死なせはしない」と言いながら特攻を命じた指揮官たちの中で、このような責任のとり方をした者は他に一人もいない。
そして、ひとり残された妻・淑恵さんも、戦後、病を得て息を引き取るまで33年間、清廉かつ壮絶な後半生を送っていた。
最初の慰霊法要に駆け込み、土下座した貴婦人
終戦の翌年、昭和21(1946)年3月のある日、全国の有力新聞に、
〈十三期飛行専修予備学生出身者は連絡されたし。連絡先東京都世田谷区・大山日出男〉 との広告が掲載された。
空襲で、東京、大阪、名古屋はもちろん、全国の主要都市は灰燼に帰し、見わたす限りの廃墟が広がっている。
連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は昭和21年1月、「公職追放令」を出し、旧陸海軍の正規将校がいっさいの公職に就くことを禁止した。日本の元軍人が集会を開くことさえ禁じられ、戦犯の詮議も続いている。広告を見て、「戦犯さがし」かと疑う者も少なからずいたが、呼びかけ人の大山のもとへは全国から続々と連絡が寄せられた。
戦争が終わってこの方、掌を返したような世の中の変化で、生き残った航空隊員には「特攻くずれ」などという侮蔑的な言葉が投げかけられ、戦没者を犬死に呼ばわりする風潮さえもはびこっている。そんななか、大勢の戦友を亡くして生き残った者たちは、戦没者に対し、
「生き残ってすまない」
という贖罪の気持ちをみんなが抱いている。それは、はじめから陸海軍を志した、いわばプロの軍人も、戦争後期に学窓から身を投じた予備士官も、なんら変わるところがない率直な感情だった。
「十三期飛行専修予備学生」は、大学、高等学校高等科、専門学校(旧制)を卒業、または卒業見込の者のうち、10万名を超える志願者のなかから選抜された5199名が、昭和18(1943)年10月、土浦、三重の両海軍航空隊に分かれて入隊、特攻戦死者448名をふくむ1616名が戦没している。呼びかけに応じて集まった予備学生十三期出身者たちの意思は、
「多くの戦没者同期生の慰霊こそ、生き残った者の務めである」
ということで一致した。そして、同期生たちが奔走し、GHQ、警察、復員局の了承をとりつけて、ふたたび10月30日の新聞に、
〈十一月九日、第十三期飛行専修予備学生戦没者慰霊法要を東京築地本願寺にて行ふ〉
と広告を出し、さらにNHKに勤務していた同期生の計らいで、ラジオでも案内放送が流れた。
昭和21年11月9日、国電(現JR)有楽町駅から築地まで、焼跡の晴海通りを、くたびれた将校マントや飛行靴姿の青年たち���粗末ななりに身をやつした遺族たちが三々五々、集まってきた。築地本願寺の周囲も焼け野原で、モダンな廟堂の壁も焦げている。寺の周囲には、機関銃を構えたMPを乗せたジープが停まって、監視の目を光らせている。焼跡のなかでその一角だけが、ものものしい雰囲気に包まれていた。
広い本堂は、遺族、同期生で埋め尽くされた。悲しみに打ち沈む遺族の姿に、同期生たちの「申し訳ない」思いがさらにつのる。読経が終わると、一同、溢れる涙にむせびながら、腹の底から絞り出すように声を張り上げ、「同期の桜」を歌った。
歌が終わる頃、一人の小柄な婦人が本堂に駆け込んできた。「特攻の父」とも称される大西瀧治郎中将の妻・淑惠である。
大西中将は昭和19(1944)年10月、第一航空艦隊司令長官として着任したフィリピンで最初の特攻出撃を命じ、昭和20(1945)年5月、軍令部次長に転じたのちは最後まで徹底抗戦を呼号、戦争終結を告げ���天皇の玉音放送が流れた翌8月16日未明、渋谷南平台の官舎で割腹して果てた。特攻で死なせた部下たちのことを思い、なるべく長く苦しんで死ぬようにと介錯を断っての最期だった。遺書には、特攻隊を指揮し、戦争継続を主張していた人物とは思えない冷静な筆致で、軽挙を戒め、若い世代に後事を託し、世界平和を願う言葉が書かれていた。
昭和19年10月20日、特攻隊編成の日。マバラカット基地のそば、バンバン川の河原にて、敷島隊、大和隊の別杯。手前の後ろ姿が大西中将。向かって左から、門司副官、二〇一空副長・玉井中佐(いずれも後ろ姿)、関大尉、中野一飛曹、山下一飛曹、谷一飛曹、塩田一飛曹
昭和19年10月25日、マバラカット東飛行場で、敷島隊の最後の発進
淑惠は、司会者に、少し時間をいただきたいと断って、参列者の前に進み出ると、
「主人がご遺族のご子息ならびに皆さんを戦争に導いたのであります。お詫びの言葉もございません。誠に申し訳ありません」
土下座して謝罪した。淑惠の目には涙が溢れ、それが頬をつたってしたたり落ちていた。
突然のことに、一瞬、誰も声を発する者はいなかった。
われに返った十三期生の誰かが、
「大西中将個人の責任ではありません。国を救わんがための特攻隊であったと存じます」
と声を上げた。
「そうだそうだ!」
同調する声があちこちに上がった。十三期生に体を支えられ、淑惠はようやく立ち上がると、ふかぶかと一礼して、本堂をあとにした。これが、大西淑惠の、生涯にわたる慰霊行脚の第一歩だった。
生活のために行商を。路上で行き倒れたことも
同じ年の10月25日。港区芝公園内の安蓮社という寺には、かつて第一航空艦隊(一航艦)、第二航空艦隊(二航艦)司令部に勤務していた者たち10数名が、GHQの目をぬすんでひっそりと集まっていた。
関行男大尉を指揮官とする敷島隊をはじめとする特攻隊が、レイテ沖の敵艦船への突入に最初に成功したのが、2年前の昭和19年10月25日。三回忌のこの日に合わせて、一航艦、二航艦、合計2525名の戦没特攻隊員たちの慰霊法要をやろうと言い出したのは、元一航艦先任参謀・猪口力平大佐だった。安蓮社は、増上寺の歴代大僧正の墓を守る浄土宗の由緒ある寺で、住職が猪口と旧知の間柄であったという。
神風特攻隊敷島隊指揮官・関行男大尉。昭和19年10月25日、突入、戦死。最初に編成された特攻隊4隊(敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊)全体の指揮官でもあった。当時23歳
昭和19年10月25日、特攻機が命中し、爆炎を上げる米護衛空母「セント・ロー」
寺は空襲で焼け、バラックの一般家屋のような仮本堂であったが、住職は猪口の頼みに快く応じ、特攻隊戦没者の供養を末永く続けることを約束した。この慰霊法要は「神風忌」と名づけられ、以後、毎年この日に営まれることになる。
遺された「神風忌参会者名簿」(全六冊)を見ると、大西淑惠はもとより、及川古志郎大将、戸塚道太郎中将、福留繁中将、寺岡謹平中将、山本栄大佐、猪口力平大佐、中島正中佐……といった、特攻を「命じた側」の主要人物の名前が、それぞれの寿命が尽きる直前まで並んでいる。
生き残った者たちの多くは、それぞれに戦没者への心の負い目を感じつつ、慰霊の気持ちを忘れないことが自分たちの責務であると思い、体力や生命の続く限り、こういった集いに参加し続けたのだ(ただし、軍令部で特攻作戦を裁可した事実上の責任者である中澤佑中将、黒島亀人少将は、一度も列席の形跡がない)。
東京・芝の寺で戦後60年間、営まれた、特攻戦没者を供養する「神風忌」慰霊法要の参会者名簿。当時の将官、参謀クラスの関係者が名を連ねるなか、淑惠は、亡くなる前年の昭和51年まで欠かさず列席していた
十三期予備学生の戦没者慰霊法要で土下座をした大西淑惠は、その後も慰霊の旅を続けた。特攻隊員への贖罪に、夫の後を追い、一度は短刀で胸を突いて死のうとしたが、死ねなかった。ずっとのち、淑惠は、かつて特攻作戦渦中の第一航空艦隊で大西中将の副官を勤めた門司親徳(主計少佐。戦後、丸三証券社長)に、
「死ぬのが怖いんじゃないのよ。それなのに腕がふにゃふにゃになっちゃうの。それで、やっぱり死んじゃいけないってことかと思って、死ぬのをやめたの」
と語っている。
大西瀧治郎中将(右)と、副官・門司親徳主計大尉(当時)。昭和20年5月13日、大西の軍令部次長への転出を控えて撮影された1枚
暮らしは楽ではない。夫・大西瀧治郎はおよそ金銭に執着しない人で、入るにしたがって散じた。門司は、フィリピン、台湾での副官時代、大西の預金通帳を預かり、俸給を管理していたから、大西が金に無頓着なのはよく知っている。淑惠もまた、金銭には無頓着なほうで、もとより蓄えなどない。
家も家財も空襲で焼失し、GHQの命令で軍人恩給は停止され、遺族に与えられる扶助料も打ち切られた。
昭和3年2月、華燭の典を挙げた大西瀧治郎(当時少佐)と淑惠夫人
自宅でくつろぐ大西瀧治郎、淑惠夫妻。大西が中将に進級後の昭和18年5月以降の撮影と思われる
焼け残った千葉県市川の実家に戻って、淑惠は生きるために商売を始めた。最初に手がけたのは薬瓶の販売である。伝手を求めて会社を訪ね、それを問屋につなぐ。次に、飴の行商。元海軍中将夫人としては、全く慣れない別世界の生活だった。
昭和22(1947)年8月上旬のある日、薬瓶問屋を訪ねる途中、国電日暮里駅東口前の路上で行き倒れたこともある。このとき、たまたま日暮里駅前派出所で立ち番をしていた荒川警察署の日下部淳巡査は、知らせを受けてただちに淑惠を派出所内に運び、近くの深井戸の冷水で応急手当をした。
「質素な身なりだったが、その態度から、終戦まで相当な身分の人と思った」
と、日下部巡査はのちに語っている。柔道六段の偉丈夫だった日下部は、元海軍整備兵曹で、小笠原諸島にあった父島海軍航空隊から復員してきた。後日、淑惠が署長宛に出した礼状がもとで、日下部は警視総監から表彰を受けた。だが、その婦人が誰であるか知らないまま8年が過ぎた。
昭和30(1955)年、日下部は、元零戦搭乗員・坂井三郎が著した『坂井三郎空戦記録』(日本出版協同)を読んで坂井の勤務先を知り、両国駅前の株式会社香文社という謄写版印刷の会社を訪ねた。日下部は、昭和19(1944)年6月、敵機動部隊が硫黄島に来襲したとき、父島から硫黄島に派遣され、そこで横須賀海軍航空隊の一員として戦っていた坂井と知り合ったのだ。
香文社を訪ねた日下部は、そこに、あの行き倒れの婦人がいるのに驚いた。そして、この婦人が、大西中将夫人であることをはじめて知った。日下部は淑惠に心服し、こののちずっと、淑惠が生涯を閉じるまで、その身辺に気を配ることになる。
淑惠が、坂井三郎の会社にいたのにはわけがある。
淑惠の姉・松見久栄は、海軍の造船大佐・笹井賢二に嫁ぎ、女子2人、男子1人の子をもうけた。その男の子、つまり大西夫妻の甥にあたる笹井醇一が、海軍兵学校に六十七期生として入校し、のちに戦闘機搭乗員となった。
笹井醇一中尉は昭和17(1942)年8月26日、ガダルカナル島上空の空戦で戦死するが、戦死するまでの数ヵ月の活躍にはめざましいものがあった。ラバウルにいたことのある海軍士官で、笹井中尉の名を知らぬ者はまずいない。
その笹井中尉が分隊長を務めた台南海軍航空隊の、下士官兵搭乗員の総元締である先任搭乗員が坂井三郎だった。笹井の部下だった搭乗員はそのほとんどが戦死し、笹井の活躍については、坂井がいわば唯一の語り部となっている。
坂井は、海軍航空の草分けで、育ての親ともいえる大西瀧治郎を信奉していたし、
「敬愛する笹井中尉の叔母ということもあり、淑惠さんを支援することは自分の義務だと思った」
と、筆者に語っている。
坂井は淑惠に、両国で戦後間もなく始めた謄写版印刷店の経営に参加してくれるよう頼み、淑惠は、実家の了解を得て、夫の位牌を持ち、坂井の印刷店のバラックの片隅にある三畳の部屋に移った。日暮里で行き倒れた数年後のことである。
だが、坂井には、別の思惑もある。淑惠が経営に関わることで、有力な支援者を得ることができると考えたのだ。坂井の謄写版印刷の店は、福留繁、寺岡謹平という、大西中将の2人の同期生(ともに海軍中将)ほかが発起人となり、笹川良一(元衆議院議員、国粋大衆党総裁。A級戦犯容疑で収監されたが不起訴。のち日本船舶振興会会長)が発起人代表となって株式会社に発展した。
出資金は全額、坂井が出し、名目上の代表取締役社長を淑惠が務めることになった。会社が軌道に乗るまでは、笹川良一や大西に縁のある旧海軍軍人たちが、積極的に注文を出してくれた。淑惠は、香文社の格好の広告塔になったと言ってよい。
「裏社会のフィクサー」の大西に対する敬意
淑惠には、ささやかな願いがあった。大西の墓を東京近郊に建て、その墓と並べて、特攻隊戦没者を供養する観音像を建立するというものである。
苦しい生活のなかから細々と貯金し、昭和26(1951)年の七回忌に間に合わせようとしたが、それは到底叶わぬことだった。だが、この頃から慰霊祭に集う人たちの間で、淑惠の願いに協力を申し出る者が現れるようになった。
大西中将は、まぎれもなく特攻を命じた指揮官だが、不思議なほど命じられた部下から恨みを買っていない。フィリピンで、大西中将の一航艦に続いて、福留繁中将率いる二航艦からも特攻を出すことになり、大西、福留両中将が一緒に特攻隊員を見送ったことがあった。このときの特攻隊の一員で生還した角田和男(当時少尉)は、
「大西中将と福留中将では、握手のときの手の握り方が全然違った。大西中将はじっと目を見て、頼んだぞ、と。福留中将は、握手しても隊員と目も合わさないんですから」
と述懐する。大西は、自身も死ぬ気で命じていることが部下に伝わってきたし、終戦時、特攻隊員の後を追って自刃したことで、単なる命令者ではなく、ともに死ぬことを決意した戦友、いわば「特攻戦死者代表」のような立場になっている。淑惠についても、かつての特攻隊員たちは、「特攻隊の遺族代表」として遇した。
「大西長官は特攻隊員の一人であり、奥さんは特攻隊員の遺族の一人ですよ」
というのが、彼らの多くに共通した認識だった。
そんな旧部下たちからの協力も得て、昭和27(1952)年9月の彼岸、横浜市鶴見区の曹洞宗大本山總持寺に、小さいながらも大西の墓と「海鷲観音」と名づけられた観音像が完成し、法要と開眼供養が営まれた。
昭和27年9月、鶴見の總持寺に、最初に淑惠が建てた大西瀧治郎の墓。左は特攻戦没者を供養する「海鷲観音」
その後、昭和38(1963)年には寺岡謹平中将の筆になる「大西瀧治郎君の碑」が墓の左側に親友一同の名で建てられ、これを機に墓石を一回り大きく再建、観音像の台座を高いものにつくり直した。
墓石の正面には、〈従三位勲二等功三級 海軍中将大西瀧治郎之墓〉と刻まれ、側面に小さな字で、〈宏徳院殿信鑑義徹大居士〉と、戒名が彫ってある。再建を機に、その隣に、〈淑徳院殿信鑑妙徹大姉〉と、淑惠の戒名も朱字で入れられた。
この再建にあたって、資金を援助したのが、戦時中、海軍嘱託として中国・上海を拠点に、航空機に必要な物資を調達する「児玉機��」を率いた児玉誉士夫である。児玉は、海軍航空本部総務部長、軍需省航空兵器総局総務局長を歴任した大西と親交が深く、私欲を微塵も感じさせない大西の人柄に心服していた。大西が割腹したとき、最初に官舎に駆けつけたのが児玉である。
昭和20年2月、台湾・台南神社で。左から門司副官、児玉誉士夫、大西中将
児玉は、昭和20(1945)年12月、A級戦犯容疑で巣鴨プリズンに拘置され、「児玉機関」の上海での行状を3年間にわたり詮議されたが、無罪の判定を受けて昭和23(1948)年末、出所していた。
巣鴨を出所したのちも、淑惠に対し必要以上の支援はせず、一歩下がって見守る立場をとっていた。「自分の手で夫の墓を建てる」という、淑惠の願いを尊重したのだ。だから最初に墓を建てたときは、協力者の一人にすぎない立場をとった。
だが、再建の墓は、大西の墓であると同時に淑惠の墓でもある。児玉は、大西夫妻の墓は自分の手で建てたいと、かねがね思っていた。ここで初めて、児玉は表に出て、淑惠に、大西の墓を夫婦の墓として建て直したいが、自分に任せてくれないかと申し出た。
「児玉さんの、大西中将に対する敬意と追慕の念は本物で、見返りを何も求めない、心からの援助でした。これは、『裏社会のフィクサー』と囁かれたり、のちにロッキード事件で政財界を揺るがせた動きとは無縁のものだったと思っています」
と、門司親徳は言う。
鶴見の總持寺、大西瀧治郎墓所の現在。墓石に向かって左側に海鷲観音と墓誌、右側には遺書の碑が建っている
大西瀧治郎の墓石右横に建てられた遺書の碑
墓が再建されて法要が営まれたとき、淑惠が参会者に述べた挨拶を、日下部巡査が録音している。淑惠は謙虚に礼を述べたのち、
「特攻隊のご遺族の気持ちを察し、自分はどう生きるべきかと心を砕いてまいりましたが、結局、散っていった方々の御魂のご冥福を陰ながら祈り続けることしかできませんでした」
と、涙ながらに話した。
「わたし、とくしちゃった」
淑惠は、昭和30年代半ば頃、香文社の経営から身を引き、抽選で当った東中野の公団アパートに住むようになった。3階建ての3階、六畳と四畳半の部屋で、家賃は毎月8000円。当時の淑惠にとっては大きな出費となるので、児玉誉士夫と坂井三郎が共同で部屋を買い取った。ここには長男・多田圭太中尉を特攻隊で失った大西の親友・多田武雄中将夫人のよし子や、ミッドウェー海戦で戦死した山口多聞少将(戦死後中将)夫人のたかなど、海軍兵学校のクラスメートの夫人たちがおしゃべりによく集まった。門司親徳や日下部淳、それに角田和男ら元特攻隊員の誰彼も身の周りの世話によく訪ねてきて、狭いながらも海軍の気軽な社交場の趣があった。
「特攻隊員の遺族の一人」である淑惠には、多くの戦友会や慰霊祭の案内が届く。淑惠は、それらにも体調が許す限り参加し続けた。どれほど心を込めて慰霊し、供養しても、戦没者が還ることはなく、遺族にとって大切な人の命は取り返しがつかない。この一点だけは忘れてはいけない、というのが、淑惠の思いだった。
大西中将は生前、勲二等に叙せられていたが、昭和49(1974)年になって、政府から勲一等旭日大綬章を追叙された。この勲章を受けたとき、淑惠は、
「この勲章は、大西の功績ではなく、大空に散った英霊たちの功績です」
と言い、それを予科練出身者で組織する財団法人「海原会」に寄贈した。大西の勲一等の勲章は、茨城県阿見町の陸上自衛隊武器学校(旧土浦海軍航空隊跡地)内にある「雄翔館」(予科練記念館)におさめられている。
昭和49年、大西瀧治郎を主人公にした映画「あゝ決戦航空隊」が東映で映画化され、淑惠は京都の撮影所に招かれた。大西中将役の鶴田浩二、淑惠役の中村珠緒とともに撮られた1枚
淑惠は、毎年、この地で開催されている予科練戦没者慰霊祭にも、欠かさず参列した。
「こういう会合の席でも、奥さんはいつも自然体で、ことさら変わったことを言うわけではない。しかし短い挨拶には真情がこもっていて、その飾らない人柄が参会者に好感をもたれました。大西中将は『特攻の父』と言われますが、奥さんはいつしか慰霊祭に欠かせない『特攻の母』のようになっていました」
と、門司親徳は振り返る。
昭和50(1975)年8月、淑惠は最初に特攻隊を出した第二〇一海軍航空隊の慰霊の旅に同行し、はじめてフィリピンへ渡った。
小学生が手製の日の丸の小旗を振り、出迎えの地元女性たちが慰霊団一人一人の首にフィリピンの国花・サンパギータ(ジャスミンの一種)の花輪をかける。特攻基地のあったマバラカットの大学に設けられた歓迎会場では、学長自らが指揮をとり、女子学生が歌と踊りを披露する。警察署長が、慰霊団の世話を焼く。
予想以上に手厚いもてなしに一行が戸惑っていたとき、突然、淑惠が壇上に上った。
「マバラカットの皆さま、戦争中はたいへんご迷惑をおかけしました。日本人の一人として、心からお詫びします。――それなのに、今日は、こんなに温かいもてなしを受けて……」
涙ぐみ、途切れながら謝辞を述べると、会場に大きな拍手が起こった。
淑惠は、翌昭和51(1976)年にも慰霊団に加わったが、昭和52(1977)年6月、肝硬変をわずらって九段坂病院に入院した。この年の4月、二〇一空の元特攻隊員たちが靖国神社の夜桜見物に淑惠を誘い、砂利敷きの地面にござを敷いて夜遅くまで痛飲している。
「こんなお花見、生まれて初めて……」
77歳の淑惠は、花冷えのなかで嬉しそうに目を細め、しみじみつぶやいた。
九段坂病院5階の奥にある淑惠の病室には、門司親徳や、かつての特攻隊員たちも見舞いに駆けつけ、人の絶えることがなかった。児玉誉士夫は、自身も病身のため、息子の博隆夫妻に見舞いに行かせた。香文社時代の同僚、遠縁の娘など身近な人たちが、献身的に淑惠の世話をした。日下部淳は、警察の仕事が非番の日には必ず病院を訪れ、ロビーの長椅子に姿勢よく座って、何か起きたらすぐにでも役に立とうという構えだった。
昭和53(1978)年2月6日、門司親徳が午前中、病室に顔を出すと、淑惠は目をつぶって寝ていた。淑惠が目を開けたとき、門司が、
「苦しくないですか?」
とたずねると、小さく首をふった。そして、しばらくたって、淑惠は上を向いたまま、
「わたし、とくしちゃった……」
と、小さくつぶやいた。子供のようなこの一言が、淑惠の最期の言葉となった。淑惠が息を引き取ったのは、門司が仕事のために病室を辞去して数時間後、午後2時24分のことであった。
「『とくしちゃった』という言葉は、夫があらゆる責任をとって自決した、そのため、自分はみんなから赦され、かえって大事にされた。そして何より、生き残りの隊員たちに母親のようになつかれた。子宝に恵まれなかった奥さんにとって、これは何より嬉しかったんじゃないか。これらすべての人に『ありがとう』という代わりに、神田っ子の奥さんらしい言葉で、『とくしちゃった』と言ったに違いないと思います」
――門司の回想である。
淑惠の葬儀は、2月18日、總持寺で執り行われた。先任参謀だった詫間(猪口)力平が、葬儀委員長を務め、数十名の海軍関係者が集まった。納骨のとき、ボロボロと大粒の涙を流すかつての特攻隊員が何人もいたことが、門司の心に焼きついた。
こうして、大西淑惠は生涯を閉じ、その慰霊行脚も終わった。残された旧部下や特攻隊員たちは、淑惠の遺志を継いで、それぞれの寿命が尽きるまで、特攻戦没者の慰霊を続けた。戦後すぐ、芝の寺で一航艦、二航艦の司令部職員を中心に始まった10月25日の「神風忌」の慰霊法要は、元特攻隊員にまで参会者を広げ、平成17(2005)年まで、60年にわたって続けられた。60回で終わったのは、代のかわった寺の住職が、先代の約束を反故にして、永代供養に難色を示したからである。
大西中将の元副官・門司親徳は、「神風忌」の最後を見届け、自身が携わった戦友会の始末をつけて、平成20(2008)年8月16日、老衰のため90歳で亡くなった。昭和と平成、元号は違えど、大西瀧治郎と同じ「20年8月16日」に息を引き取ったのは、情念が寿命をコントロールしたかのような、不思議な符合だった。
大西夫妻の人物像について、門司は生前、次のように述べている。
「大西中将は、血も涙もある、きわめてふつうの人だったと思う。ふつうの人間として、身を震わせながら部下に特攻を命じ、部下に『死』を命じた司令長官として当り前の責任のとり方をした。ずばぬけた勇将だったとも、神様みたいに偉い人だったとも、私は思わない。だけど、ほかの長官と比べるとちょっと違う。人間、そのちょっとのところがなかなか真似できないんですね。ふつうのことを、当り前にできる人というのは案外少ないと思うんです。軍人として長官として、当り前のことが、戦後、生き残ったほかの長官たちにはできなかったんじゃないでしょうか
奥さんの淑惠さんも、無邪気な少女がそのまま大人になったような率直な人柄で、けっして威厳のあるしっかり者といった感じではなかった。でも、人懐っこく庶民的で、人の心をやわらかく掴む、誠実な女性でした。長官は、そんな淑惠さんを信じて後事を託し、淑惠さんは、つましい生活を送りながら、夫の部下たちやご遺族に寄り添って天寿を全うした。
正反対のタイプでしたが、理想的な夫婦だったんじゃないでしょうか。いまの価値観で見ればどう受け止められるかわかりませんが……」
そう、現代の価値観では計り知れないことであろう。責任ある一人の指揮官と、身を捨てて飛び立った若者たち。そして、自決した夫の遺志に殉ずるかのように、最期まで慰霊に尽くし続けた妻――。
「戦争」や「特攻」を現代の目で否定するのは簡単だ。二度と繰り返してはならないことも自明である。しかし、人は自分が生まれる時や場所を選べない。自らの生きた時代を懸命に生きた人たちがいた、ということは、事実として記憶にとどめておきたい。
旧軍人や遺族の多くが世を去り、生存隊員の全員が90歳を超えたいまもなお、全国で慰霊の集いが持たれ、忘れ得ぬ戦友や家族の面影を胸に、命がけで参列する当事者も少なくない。彼らの思いを封じることは誰にもできないはずだから。
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