#本当はアニメーションさせたいけど流石にその気力と時間がないので誰か動かしてほしい(他力本願)
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asaka-lucy-dr-rc · 2 years ago
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生存組×レベルアップダンス(スーパーマリオRPG)
DR Survivors’ Level Up Dance (Super Mario RPG)
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artetpensee · 2 years ago
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『君たちはどう生きるか』
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全てが謎なまま上映開始した『君たちはどう生きるか』ですが、『千と千尋の神隠し』以上のハイスペースで観客を動員していると聞いて驚いています。
徹底的なネタバレ対策が講じられた本作を、「ネタバレされる前に観たい」という人が多いのでしょうか。
私もそのうちの1人で、上映開始5日後に観てきました。そして自分でも不思議なのですが、初めてジブリ映画で涙が出たのです。
アニメーションの美しさ
あまりに当然のことでつい言及し忘れてしまいそうなので敢えてはじめに書きますが、私が感動した理由の1つはアニメーションの美しさです。
冒頭で主人公・眞人が階段を移動するときの描写や、建物に燃え移った炎の躍動感はそれだけでも観客に「映画を観に来て良かった」と思わせるでしょう。
冒頭部分を除くと、監督の若かりし頃の作品で見られるような、誇張された迫力あるアクションは本作ではあまり見られません。
しかし、コップで水を飲む動作、弓を射る動作、���を漕ぎ出す動作、パンにバターを塗る動作など、人が深く考えずに普段から行っている動作が、アニメーション表現のテンプレートを用いることなく極めて写実的に描出されていることで、「動作の美しさ」に対する純粋な感動を覚えます。
アニメにありがちな相槌や独り言のような台詞が一切排除されている点も、この動作の写実性を補強していると思います。
背景美術も非常に���麗でした。
パラレルワールドに存在する墓の島には、ベックリンの絵画『死の島』を想起させる黒々とした巨大な杉がそびえ立ち、中央には先史時代の支石墓のようなものが鎮座していました。
実在する美術が組み合わされた墓の島は、死の恐ろしさを強く感じさせながらも人を引き込むような魅力を併せ持っており、眞人を迷い込ませる説得力がありました。
このように監督の頭の中にストックされているモチーフが見事に再構築されており、「ジブリの世界」を十分に満喫することができました。
眞人の成長の物語
物語の柱となるのが、主人公・眞人の成長です。タイトルである『君たちはどう生きるか』という問いに対する答えを眞人が見つけていく物語だと捉えることも可能でしょう。
生と死の間の世界で命の偉大さに触れ、少女時代の母と冒険を繰り広げることで精神的な成長を果たす眞人は本作品の見どころの1つだと感じています。
主人公が直面する「生」と「死」の存在
先述の通り、物語の冒頭シーンの迫力は、多くの観客に強烈な印象を残すことだろうと思います。
母が入院する病院の火事の知らせを聞いた主人公・眞人が獣のように階段を駆け上がり、人混みを掻き分けて家事現場に向かうシーンです。炎の描写はビデオ映像を見る以上に肉眼で見るそれに近く、母の「死」を眞人にも観客にも強烈に刻みつける場面でした。
次の場面では数年の時が流れ、眞人は父の再婚相手であるナツコと出会います。
ナツコはすでに夫との間の子を宿していました。ナツコは自己紹介もそこそこに眞人の手を取り、自らの腹を触らせます。
父が経営している飛行機工場とともに疎開してきた眞人は、ナツコの実家に暮らすことになります。
母が炎の中に消える悪夢を見て、夜中に部屋からこっそりと起き出した眞人は、仕事から帰ってきた父と出迎えたナツコが深いキスをかわしているところを目撃します。眞人はそれがどういう意味なのか分からないほど子供ではなく、しかしナツコににこやかに接することができるほど大人でもありませんでした。
眞人はナツコとのやり取りでは礼儀正しいながらも必要最低限の会話のみに留め、今は亡き実母の存在を求めつづけているように見えました。
母の「死」で頭がいっぱいだった眞人は、継母の出現によって「性」に限りなく近いところにある「生」を意識し始めることになります。
ジブリの世界で描かれる「命の営みの尊さ」
パラレルワールドに引き込まれたナツコを追って眞人がたどり着いたのは、現実世界の "下"にあると言われる、生と死の間にあるような世界でした。
そこで窮地に立たされた眞人を救ったのは、死の世界に住むキリコという女性でした。その世界の構成員のほとんどは幻か実体を持たない生命体で、殺生ができるのは自分だけなのだとキリコは眞人に話します。
眞人はキリコとともに魚を獲り、生命体に分け与えた残りを調理して食べ、眠ります。
食事や睡眠など人の生活の根幹を成す部分が丁寧に描かれていた場面です。また、それまでは他人に心を開かなかった眞人の表情が一気に豊かになる場面でもあり、個人的にとても心に残りました。
眞人がキリコの家のテラスに出ると、まるでサンゴの産卵のように、白い風船のような生命体が夜空いっぱいに昇っていました。キリコによるとこの生命体たちが "上" に行くことで、現実世界で新たな命として誕生するのだそうです。
数えきれないほどの生命体たちを見ているとき、眞人の脳裏にはナツコの赤子の存在があったことでしょう。
その幻想的な光景は、命の営みもまた生活の根幹を成す要素であり、命は尊いということを眞人と観客に語りかけているようでした。
亡き母への未練との訣別
序盤の眞人は母親のことを非常に恋しがっており、フロイトのエディプス・コンプレックスをも想起させました。
生と死の間の世界を出発した後、眞人はパラレルワールドでようやく母親に出会えるのですが、母は母でも少女時代の母だったのです。
実は母親も若い頃に眞人同様パラレルワールドに迷い込んだことがあり、そのときの母親と現在の眞人が時空を飛び越えてパラレルワールドで出会っている、ということになります。
「ヒミ」と名乗る少女時代の母と眞人はナツコを探すための冒険に出ます。
冒険の過程で眞人とヒミは、親子の愛情とは別に同年代の友達同士のような絆を築いていきます。
これによって眞人は「母親」という自ら理想化してしまっていた存在を俯瞰して見ることが��きるようになり、ナツコのことを新しい自分の母親として受け入れます。そして、今までは同年代の友達を作らず距離を置いていましたが、友達を作るために心の扉を開ける決心をします。
この物語をエディプス・コンプレックスになぞらえるならば、エディプス・コンプレックスは定義上では男性の近親相姦的願望は父親によって抑圧されるか同年代の異性の他人を関係を持つことで解消されるとされていますが、
「実の母親が同年代の友人となることでコンプレックスと訣別する」
という回答は斬新で面白いと思いました。
原始的な感情としての「平和の希求」
私が『君たちはどう生きるか』に最も心を動かされたポイントは、
「善い人でありたい」
「平和な世界を作りたい」
という極めてピュアなメッセージ
です。
眞人が迷い込んだパラレルワールドは、自分の母の大叔父が造った世界であったということが判明します。
天才の大叔父が造り上げた世界で、眞人は生の尊さや自然の美しさを目にします。同時に、パラレルワールドの住民の僅かな「悪意」によって、パラレルワールドの均衡が崩れ世界が瓦解する瞬間にも立ち合います。
そして、自分が元いた世界では世界中を巻き込んだ戦争が繰り広げられています。
以上の経験を踏まえた上で、眞人は大叔父との問答の中で「平和を目指すこと」「そのために自信が悪意を持たないこと」を誓うのです。
このシーンを見たとき、私は自身の奥底にあった何か強い感情が揺さぶられるのを感じました。
「平和」という言葉を口にするのは、大抵は太平洋戦争を振り返るまさに今の時期や、ニュースで遠い国の争いを見たときや、ミサなどで祈りを捧げるときなどで、今まで平和とは理性で以て考え話し合う対象であると捉えていました。
しかし、眞人の言葉によって引き摺り出された私の感情は、理性とは程遠い原始的なものでした。
安心していたい、大切な人を守りたい、未来を守りたい、そのために悪いことはしたくない……誰しもが持っているこのような強い気持ちに、今まで経験してきたどんな平和学習などよりもこの作品が鋭く迫ってきたのは、戦争の時代を知っている監督の気持ちの強さと表現力の賜物だと思います。
誰しもが持っている平和を望む本能に語りかけてくる本作品は、多くの人の涙を誘うのではないかと思います。
終わりに
『君たちはどう生きるか』ぜひ観てください。動員数を増やして、監督に次回作を作らせてください。
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sasakiatsushi · 6 years ago
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ジョナス・メカス論(『(H)EAR』より)
 ジョナス・メカスのフィル���を見ると、いつも強く感じることがある。それは、いま目の前に映っている光景が、まぎれもなく現実に起こったことだということ、それが過去のある時点にまちがいなく存在していたのだという、不意打ちの確信にも似た思いである。  『リトアニアへの旅の追憶』でも、『ロスト・ロスト・ロスト』でも、『時を数えて、砂漠に立つ』でも、その思いは何度となく僕を襲い、次第に激しい振動となって、やがては身体そのものに揺さぶりをかけてくる。僕にとってメカスを見るという体験は、映写の間中、不断に強度を増していく、この揺さぶりに身をさらすということである。そうだ、これはかつてほんとうに起こったことだ……  メカスの作品は、ほとんどが一種のドキュメンタリー映画と呼べるものなのだから、そんなことは当たり前だと思われるかもしれない。だが僕が言いたいのはそういうこととは少し違う。ちょっと回り道をしながら、もう少し詳しく説明してみよう。
●《それは=かつて=あった》
 映画というものは、アニメーションやCGといった人工的な映像でない限り、必ずその時、ムービー・キャメラが向けられていた現実を、丸ごと含み込んだ形で成立する。たとえ何らかのフィクションが演じられていたとしても、そこで誰かが何者かの振り=演技をしており、また多くの場合、虚構の外側にいて、それを演出している者や、演技に加わることなくそれを見ている者=撮影者がいたという現実が、そこには織り込まれているのだ。これもまた、当然のことと言っていいだろう。すべての映画はドキュメンタリーである。この認識はある意味で正しい。  だが、逆に言うと、記録映画と呼ばれているものだって、厳密には生の映像そのものとは違う次元を不可逆的に持ってしまっている。その理由は次の三つの点に集約されるだろう。第一に、キャメラがそこにあるということ、自分がいま映されていると意識すること自体が、たとえ普段と同じ行為を行っているとしても、被写体に何らかの影響を及ぼさずにはおかないだろうということ。第二に、例えば隠し撮りのような、被写体がキャメラの存在に気づいていない場合でも、ムービー・キャメラの矩形のフレーミングが−−撮影者の意図はどうあれ−−そこに意味(もしくは見る者それぞれが独自の意味を見出すような契機)を生じさせてしまうということである。第三に、映像が光学的な技術によってフィルムに焼き付けられたもの(ビデオでも同じことだ)である以上、どこまでいってもそれは結局、現実そのものではなく、その似姿に過ぎない、ということである。  すべての映画はドキュメンタリー映画である。そしてまた,すべての映画はドキュメンタリーではありえない。この背反する二つの定義に��み撃ちされるようにして、映画というものは成り立っている。リュミエール兄弟とジョルジュ・メリエスの対立などない。そこにあるのは映画の二面性ではなく、単に物語ることや、擬装することの有無に過ぎない。映画と現実は不可分の、相互に嵌入し合うような、曖昧な(と、敢えて言っておく)関係を保っており、完全に重ねることも、切り離すこともできないのだ。  以上のことを踏まえた上で(いずれも常識に属することではあるが)話を戻せば、僕が捕らわれた「これは現実に起きたことだ」という思いは、メカスのフィルムが、時に「日記映画」とも呼ばれる、彼が過ごしてきた日常をランダムに、いや、ほとんど絶え間なく(この言葉は正確ではない。だがこの点については後で触れよう)記録したもの、つまりはドキュメンタリーであるから、という理由によるのではない。また、かといって、すべての映画が、ある意味では「現実に起きたこと」であるという、ありふれた事実の再確認が、メカスを見ることによって、他の数多の映画の場合よりも強力に引き起こされたということでも、むろんない。それはメカスの映画以外には成し得ることのない、比類なく衝撃的な、そして感動的な体験なのである。
 ところで、いささか唐突だが、ロラン・バルトは、写真についての有名な書物『明るい部屋』の中で、次のように書いている。
 絵画や言説における模倣と違って、「写真」の場合は、事物がかつてそこにあったということを決して否定できない。そこには、現実のものでありかつ過去のものである、という切り離せない二重の措定がある。……それゆえ「写真」のノエマ(=本質を志向するもの)の名は、次のようなものとなろう。すなわち、《それは=かつて=あった》……つまり、いま私が見ているものは、無限の彼方と主体(撮影者または観客)とのあいだに広がるその場所に、そこに見出された。それはかつてそこにあった。がしかし、ただちに引き離されてしまった。それは絶対に、異論の余地なく現前していた。がしかし、すでによそに移され相異している。(花輪光訳・以下同)
 もちろん、バルトが語っているのは、あくまでも写真に関してであって、映画については全く事情が異なると、はっきりと述べている。彼によれば、明確な違いが少なくとも二つある。まず,写真は過去のある瞬間を凍結したものだが、バルトはこれを逆転して「その瞬間には、どれほど短い瞬間であっても、ある現実もののが目の前でじっと動かずにいた」のだという。  この考え方はおもしろい。だが映画の場合は、瞬間の映像が連なって動くことによって、その神聖なる停止(バルトは”ポーズ”と呼ぶ)は押し流され、否定されてしまう。もうひとつ、既に確認したこととも繋がるが、映画では「二つのポーズ、つまり俳優自身の《それは=かつて=あった》と役柄のそれとが混ぜ合わされている」ので、「現前」とその喪失との二重措定を、純粋に抽出することがむつかしくなってしまっている。以上の二点ゆえに、映画は、写真のように《それは=かつて=あった》を刻印、いや、生産することができないと、バルトは述べている。「なるほど映画においても、写真の指向対象は依然として存在して���るが、しかしその指向対象は、横すべりし、自己の現実性を認めさせようとはせず、自己のかつての存在を主張しない。それは私にとりつかない。それは幽霊ではないのだ」  バルトの写真論は、僕にとって頷けるところも、そうでないところもある(少なくとも−−たぶん誰もがそうだと思うが−−ある部分はあまりにナイーヴに感じられる)。だが、もちろんここはそうした問題を子細に検討する場所ではない。ただ、僕が主張したいことは、僕がメカスのフィルムから受ける強度の揺さぶりが、バルトの言う写真の《それは=かつて=あった》と、極めてよく似ている、ほとんどそっくりだ、ということなのである。  くりかえすが、バルトは写真と映画を厳しく区別していて、両者の機能は本質的に異なるとまで言っている。しかし、こうしたバルトの理解に一点、変更を加えざるを得ないような、いわば映画の特異点として、メカスのフィルムは存在しているのではないかと、僕は思うのだ。では、それは一体、どのようにして可能になるのだろうか?
●現実が明滅する
 リトアニアから弟のアドルファスとともにニューヨークにやってきたジョナス・メカスは、最初のうち、英語が全く話せなかった。知っている単語を大声で発音しても、誰にも通じなかったのだ。母国では詩人として活動していた彼は、言葉を使えない代わりに、借金をしてボレックスの一六ミリ・キャメラを手に入れる。NYに着いて二週間後のことだった。そして、それ以後、メカスはどこへ行くのにもボレックスを携えて、後に彼が「日記・ノート・スケッチ」と名付けることになる膨大なフィルム断片=集積を、ひたすら撮り続けるようになった。これが、良く知られたフィルムメーカー=ジョナス・メカス誕生のエピソードである。それはもはや神話といってもいいかもしれない。一九四九年、メカスは二五、六才の青年だった。  メカスのフィルムの、どれでもいい、ほんのわずかでも見たことのある人なら、誰もが覚えていることだろう。あの非常に独特な映像のありさまを。ほとんど全編が手持ちによる、ブレなどまったく気にしていない乱暴なキャメラ・ワーク。音楽でいうならスタッカートの連続のような、きわめて短い−−そしてアタックの強い−−ショットの連なり。時に軽やかに、時に目眩がするほどに、めまぐるしく移り変わるイメージ。それはあまりにも通常の映画とは形態が異なっているので、予備知識なしに見たとしたら、ひどく驚かされることはまちがいない。はたしてこんなものを映画と呼べるのか?  ボレックスは一六ミリのムービー・キャメラの中でも、一コマ単位での露光(俗に言うコマ撮り)ができることで、いわゆる「実験映画」の作り手からは重宝がられている機種である。メカスもこの機能をフルに使って、自分のフィルムを撮る。いくぶん比喩的な言い方になってしまうが、シャッターを一定時間、ジーッと押すのではなく、カチカチ、カチカチとやるわけだ。生活の中にキャメラを持ち込んだメカスは、あらゆるものにレンズを向けた(メカスに会うということは、彼に撮られるということを意味する)が、それは多くの場合、カチカチ、カチカチだった。だから前節で「絶え間なく」と書いたのは、やはり正確ではない。イメージは持続することなく、飛び飛びになっているのだから。  なぜこんなことをするのか? もしかすると、メカス自身がどこかで明確な理由を語っていたかもしれないが、残念ながら僕は知らない。ただ、それはたぶん、要するにボレックスにそういう機能が付いていたから、なのだろうと思う。何を馬鹿なと思われるかも知れないが、おそらく事実はそうなのだ。たとえば、文盲の者が拾った辞書に古語が載っていたとして、周りの誰ひとりとして、そんな言葉を話していなくとも、現に辞書にあるのだから躊躇なくそれを使った、ということなのではないか。少なくとも、ある時期までのメカスにとって、映画とは他者とのコミュニケーションのツールだったのだから、ボキャブラリーをフルに活用しようとしたのは、むしろ当然のことだろう。しかし、僕が強調しておきたいのは、メカスがコマ撮りならコマ撮りというものを、映画の「表現」の新しい手法として”発見”したのではなかった、そしておそらく今もそうではない、ということなのである。 「ヴィレッジ・ヴォイス」誌に連載していたコラム<ムービー・ジャーナル>の六五年一月九日付けの記事の中で、メカスは「逆説を一つ」と言い置いてから、次のように続けている。
 映画は、たとえ最も観念的で、抽象的なものであっても、その本質は具体的である。動きと光と色の芸術である。偏見や先入観を捨てさえすれば、純粋に視覚的で動美学的な体験の具体性、光と動きの”リアリズム”、純粋な目の体験、映画という物質がわかる。画家が絵という物質や絵具を意識するようにならなければならなかったように、彫刻家が、石や木や大理石を意識しなければならなかったように、映画も成熟してくると、映画という物質−−光や動きやセルロイドやスクリーンを意識しなければならなくなった。 (『メカスの映画日記』飯村昭子訳・以下同)
 「ニュー・アメリカン・シネマ」(米のインディペンデント映画作家による実験映画、個人映画を総称してメカスが用いた言葉。彼のいわゆる「ニュー・シネマ」とは別物)の運動家としてのメカスの功績については、いくら強調してもし過ぎるということはないが、彼自身のフィルムは、多くの「実験映画」の試みとは、実のところかなり位相が異なっているのではないかと思う。  何らかの意味での「実験映画」へと向かう心性には、次の二つのモメントがある。自己表現の探究、そして映画という形式自体の発展・進化である。誤解を恐れずに言えば、メカスはそのどちらにも興味がない。彼のフィルムには、メカスの「内面」は映っていない。より正確に言えば、メカスはフィルムに「内面」など決して移りはしないと言う真実に忠実である。あるのは、ボレックスというキャメラと、カチカチカチカチだけだ。それは徹底して、あっけないほどに具体的なのである。  また、メカスは映画というものを、さまざまな技法の束として捉え、やみくもにその先に進もうとするような、一種の進歩史観には与していない。彼の姿勢は、たとえば「拡張映画」といったような概念とは、ある意味では逆立するものだとさえ言っていい。映画は通常、一秒に二四コマの映像の連続から成っているが、メカスはそれはただの慣習に過ぎず、ムービー・キャメラと映写機のメカニズムからすれば、幾らでも変更が可能なのだという、単純極まりない原理に従っただけなのだ。  つまり、メカスのフィルムが革新的であることは疑いないが、しかしそれは映画という種に突然変異が起きたのではない。ただ単に、もともと潜在していた能力を露にしただけということなのである。だからこそ「成熟」であって「進化」ではないのだ。  ここでようやく、前節末尾のクエスチョン・マークに立ち戻ることができるように思う。映画とは言うまでもなくムーヴィング・ピクチャー、すなわち動く写真である。一定以上のスピードで写真が移り変わった時、網膜に受ける残像効果によって、実際には分断されたものでしかないイメージが、あたかも連続的に動いているかのような錯覚を与える、ということである。こんなことは確認するまでもないことだが、ではプロセスを逆さまに考えてみよう。ノーマルに動いている映像が、次第に速度を落とし始める。やがてそれはぎくしゃくした動きとなり、次第に紙芝居のようなものになって、ついには静止してしまう。そこにあるのはただ一枚の写真である。そこには確かに、ロラン・バルトが言う《それは=かつて=あった》が映っている……。  メカスのフィルム、それはむしろ、写真と映画の中間点に属しているのではないだろうか。むろんそれはムービー・キャメラで撮られ、映写機で再生されるのだから、映画と呼ばれるべきである。だが、それはいわば、写真の記憶を残しているのだ。バルトが写真のテーゼとしていたのは、止まることなく流れていく時間から、瞬間を抜き出すという「奇跡」である。時間は原理上、微分できないのに、ただ写真に撮るだけで、ありえざる無時間へと投げ込まれることになる(そこでは露光時間も抹消されてしまう)。それを永遠と呼ぶのはロマンチック過ぎるかもしれないが、時間が流れていないのだから、それもあながちまちがいではない。  おそらく、コマ撮りにも二種類あるのだ。運動へと向かうものと、静止へと向かうもの。それは一見、同じもののように思えるが、実は正反対なのである。メカスのフィルムは明らかに後者だ。たとえば石の写真を見ることと、それを��々と撮った映画を見ることは根本的に違う。ムービー・フィルムは−−現像処理でコマ延ばしでもしない限り−−まったく同一のイメージを記録することは不可能だ。それでも映画が写真を志向するとするなら、逆説的ではあるが、限りなく映像の持続を縮減していき、だが肉眼で把握できなくなるまでにはすることなく、連続写真がムーヴィング・ピクチャーへと至る境目に、いわば後ろ向きに到達するしかない。そう、メカスのフィルムは、めくるめく映像の奔流であるかに見えながら、実は一つ一つのイメージは止まりかかっているのである。  メカスのフィルムは、言うなれば映画の現像学が始まる以前に留まっている。カチカチ、カチカチという仕草によって、《それは=かつて=あった》が生まれては、また消える。写真的な無時間=神聖なる停止を、時間芸術である映画が欲望するという倒錯的な事態が、そこでは演じられているのだ。こう言い換えてもいいかもしれない。そこでは常に/既に過ぎ去ったものでしかない「現実なるもの」が明滅しているのだ、と。しかし、これだけではまだ十分ではない。語らねばならないことが、あともう少しだけ残っている。
●キャメラになった男
 メカスは<ムービー・ジャーナル>の一九七〇年六月二五日付けのコラムで、エド・エムシュウィラーの作品に触れて、こう書いている。
 カメラが人間のようになればいい、と彼が思っているわけではない。そうではなくてエムシュウィラーの本当の願いは自分がカメラになることなのだ! この男は狂っている。(略)彼はカメラになりたがっている。自分自身の道具になりたがっている。彼はカメラが盲目であることを承知している。カメラはすべて盲目である。カメラに世界をこのように見させているのはエムシュウィラーである。世界をこのように見る必要があるのは彼である。
 これはほとんどメカスその人のことを語っているように、僕には思える。「自分がカメラだと思いこめるのは気狂いだけだ」。メカスもまた、完璧な気狂いである。彼とボレックスはもはや一体化している。それは、メカスがどんな時にもキャメラを手離さないという表面的な事実よりも、もっとはるかに積極的な意味を帯びている。メカスがキャメラを通してものを見ているのではない。メカスが見ているものと、キャメラのレンズが対峙しているものが同じであるかどうかは、さしたる問題ではない。以外に思うかもしれないが、メカスとキャメラの一体化は、見ることの水準にはないのだ。  ここにはもうひとつ重要な指摘がある。それは「カメラはすべて盲目である」という断言だ。キャメラとは、目の代用物ではない。それは光が通過する機構でしかない。フィルムが露光されて初めて、それは映像を生産することになる。キャメラは何も見ていない。それは現実の光景を映像に転写するだけである。メカスとキャメラの一体化は、このことに関係している。つまりそれは、ある何かをそのままの姿で留めること、保持していくこと、要するに「記憶」の水準に属しているのである。ここでメカスのフィルムが「日記」と名付けられていることが、きわめて重要な意味を持ってくる。  メカスのフィルムは、最初の長編の『樹木の大砲』や、演劇を記録した『営倉』といった、やや特殊な成立背景を持つものを除いて、基本的にすべて「日記・ノート・スケッチ」に属している。そこから抜粋、編集して独立した一個の作品の形にしたものが、たとえば『リトアニアへの旅の追憶』であり、『ロスト・ロスト・ロスト』なのである。しかし、とりあえず完成したものとされているからといって、それぞれの内容が不変ということではない。そこには、いつでも手を加えることが可能だし、事実、そうされてもいる。つまり、実際には、膨大なフィルムのロールがあるだけなのであり、それはいま、こうしている間にも、絶えず増え続けているのだ。それは「日記」かもしれないが、ページが束ねられていないのだ。僕たちがその全てを読む=目にすることは決してないだろうし、メカス自身にさえ、もう一度、最初から全部を見直すことは不可能かもしれない。  その中には、同じ場所が、同じイメージで収められている。それはかつてそうであったものであり、今は別のものとなってしまっているものだ。圧倒的な量の「かつて」の集積。それはやはり「記憶」と呼んで��いのではないだろうか。ただ、それが人間の記憶と異なるのは、時の流れによって喪失してしまったり、何かを塗布されたり、美化されたりしない、ということである。それはただ、そこにある。ムービー・キャメラを持った時から、メカスはかれ自身のものとは別の、ジョナス・メカスという名のキャメラの記憶を育んできたのである。  映像の断片による記憶。それは歴史とは違う。歴史とは、整然と垂直に構成されているものだが、記憶はもっと茫然とした、海のような広がりとして、静かにたゆたっている。メカスのフィルムには日付が付けられているものが多いが、そんなものはただの記号にしか過ぎない。いまやこう言ってしまってもいいと思うのだが、それは時間から切り離されたところに、じっと佇んでいるのだ。  永遠という語を、いささかの恥ずかしさもなく、ここでもう一度使いたい。それは永遠の領域に属している。やがて、ある時、それはふたたび取り出され、まばゆい光を得てスクリーンに映しだされる。何百、何千の《それは=かつて=あった》が明滅する。そして僕はまた、身体の内側から激しく揺さぶられることになるのである。
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megane-tatata · 6 years ago
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マンガにおけるメガネの描き方のいろいろ
今自分が滞在しているロンドンでは、大英博物館にて「マンガ展」が開かれています。 マンガにおいて、メガネは非常に重要なツールだなと思ってたのですが、せっかくなのでちょっとここで振り返ってみたいと思います。
手塚治虫が仰って曰く、漫画とはその描くところの描写において、「省略」「変形」「誇張」の三大要素を持ち合わせているのが特徴だそうです。 そして、メガネは中でもその3つが高い次元で行われているアイテムとして、漫画のキャラデザインの中で非常に大きな役割を担っています。
その一方で、マンガにおけるメガネは、非常にジレンマを抱えた存在です。
マンガ(特に日本のマンガ)では「目」が表情を語るためのツールとしてものすごい大きな位置付けにあるのに、メガネはその辺りに余計な描写を入れる「邪魔な存在」のはず。 でも漫画家たちはその障壁を物��もせず、むしろ逆手にとってメガネを「表情や印象を付与するツール」として活用するため、様々な描写を発明していきます。
さて、ぱっと見て7つほど見つけたものを、一緒に振り返ってみましょう。 トレンドの変遷の一方で、それぞれが今尚手法として生きているのが、非常に興味深いです。
1)目が入るようにでっかく描こう
手塚治虫自身が太い縁の大きなメガネを愛用しているからか、彼は太めの大きなメガネをかけたキャラをよく描いています。 大きなメガネの中であれば、他のキャラと同様な目の描写ができ、また一方で「メガネ」を前面に押し出し誇張した表現によって、強く相手にイメージを与えることに成功しています。下の自画像以外にも、この「誇張された大きなメガネ」は、彼の漫画のキャラクターに個性を与えるツールとして用いられてきました。
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(引用:https://tezukaosamu.net/jp/character/459.html)
そしてこれは、後の世でも同様に漫画家たちに採用されています。 1980年代、鳥山明の作品である「Dr.スランプ アラレちゃん」では、主人公の則巻アラレが、本人と不釣り合いなほど大きなメガネをかけており、「アラレちゃんメガネ」というフレーズの流行の元となりました。 また、彼女の破天荒な性格、異次元の怪力と言ったキャラとギャップを生むメガネの存在が、どことなく「抜け感」のような可愛さをもたらすことに貢献しています。
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(引用:http://lineup.toei-anim.co.jp/ja/tv/arale/)
興味深いのは、90年代末にリメイク版で出てきた「Dr. スランプ」でのメガネは、より太い縁の、いわゆる「黒縁」感のあるフレームになっている点です。時代が進み、より細かい描写が可能になる中で、鳥山チームは「メガネ」の印象をもっと強くするため、あえて太くする方向を採用し、「誇張」の要素を際立たせることとなりました。
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(引用:http://lineup.toei-anim.co.jp/ja/tv/arale_2nd/)
2)小さいメガネにして、目に重ねないようにしよう
一方で、「邪魔なので目立たないところに置こう」というのは最初の「変形」を用いたメガネの表現だったのかな、と思っています。 ここではメガネは「鼻眼鏡」みたいな感じでちょこんと乗っていたのが印象的。長谷川町子がこの手法を取り入れており、「メガネ」の印象と、目による表現を両立させることに成功しました。
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(引用:http://www.sazaesan.jp/charactors.html#content)
ご覧のように、もはやメガネであることを忘れてしまうほど、ひょいっとつけられたメガネ���
しかし、顔の表現とぶつからない位置にメガネを置くという手法は、おそらく老眼鏡等の現実のメガネ像から採用されたもののせいか、世代の面ではなかなか幅広く使うには難しく、同じサザエさんの中でも、カツオの親友中島くんは普通に目を中に入れた形で描写されるなど、手法としては万能感に乏しい手法だった、と言えるかもしれません。
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(引用:http://www.sazaesan.jp/charactors-7.html#content)
3)レンズを目にしちゃおう
さて、そんな中、藤子・F・不二雄はさらに別の方法を取り、「メガネ」を完全に「省略」「変形」「誇張」することで、メガネを一つ高い次元に昇華することに成功しています。 メガネキャラといえば誰もが思い浮かべる「ドラえもん」ののび太くん。彼の代表作とも言えるこの作品においてメガネをよく見ると、実は非常に不自然な描写なのです。
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(引用:https://www.tv-asahi.co.jp/doraemon/news/0292/)
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(引用:https://doraeiga.com/2019/news/)
比較のためにご覧いただくと、スネ夫・ジャイアンの目は黒目の周りに白目があり、ドラえもんもまた同じ構図で描かれています。 一方でのび太を見ると、メガネの中が白く、黒目が中に。そう、実はメガネの中が全部「目」になっているのです。
もはや目じゃねーか、と思う中、藤子先生はテンプルを描くことでメガネであることを維持しています。つまり、ここで初めてメガネはマンガの三大要素である「省略」「変形」「誇張」を極めて高次元に実践することに成功したのです。
4)目を描くのをやめよう
一方、逆転の発想により、「メガネを優先し、むしろ目の方を省略しよう」という発明も行われています。
中でも代表的作品はちびまる子ちゃん。主人公の親友たまちゃん、クラス委員丸尾くん、主人公のおばあちゃんなどが、メガネの奥が見えない子として描かれています。
(引用:https://www.fujitv.co.jp/b_hp/maruko/character/school.html)
さて、この方法は、表情を一番表現できる「目」を省略することによって、本人の感情を表現しづらくしてしまうデメリットとの隣り合わせでした。
しかし、漫画家によってはこれを逆手に取り、「表情の読めない人=マッドな性格」の表現として用いるようになります。 これを高い次元で行ったのは、「テニスの王子様」の乾。乾汁や異次元のデータ解析に基づく理論的テニス等、常軌を逸した取組から「こいつ何考えてるんだ?」と思わせてしまう彼のキャラに、「目の描かれないメガネ」は大きく貢献していると言えるでしょう。
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(引用:https://tenipuri-miya.com/乾貞治/ テニスの王子様2巻, 著者: 許斐剛)
5)フレームレスにしよう(現実のメガネの採用)
一方で、フレームが邪魔なら描かなければいいじゃない、ということで、フレームレスのメガネで、レンズの輪郭だけ描く方法も採用されました。
同じくテニスの王子様では手塚国光がこの手法で描かれています。 「油断せずに行こう」の口癖からもわかるように寡黙で冷静な手塚部長。しかしながら、曲者揃いの部員をまとめ上げるリーダーシップを持った、意志の強い彼を表現する上では、目を描かないわけにはいきません。 一方で��目の周りで邪魔にならない最低限の存在感にするために、このフレームレスのメガネは非常に有用でした。 目をしっかり描く中で、多少目に重なっていても気にならない。線は最悪欠けていてもなんとかなる(後述の「省略メガネ」にも通じる要素)。
また、現実のフレームレスのメガネ(ツーポイントとか)は、非常にクールな印象を与えるもので、これは現実の印象をこちらに持ってきた、とも言えるような気がしています。逆をいえば、このメガネは「クールなイケメン」でのみ成り立つスタイルとも言え、ある意味諸刃の剣でもありました。
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(引用:https://tenipuri-miya.com/手塚国光/#more-957)
6)フレームの一部をなくそう(新たなメガネの創造)
さて、最近そこかしこで考察が行われているので、特段書き足す要素はないのですが、これも重要なメガネの一つの進化形態と言えるスタイルを紹介します。
上で散々書いてきましたが、まあ結局目を描く上では若干邪魔なメガネ。まして90年代以降の少女漫画に代表されるように、日本の漫画は表情を描くために「目を大きく描こう」という全体的な流れがあり、必然的にメガネはどうしても面倒な存在だったのです。
見て、この目(「神風怪盗ジャンヌ」の主人公より採用)。顔の半分ぐらいある、もはやどうなってるのか謎な顔です。 この辺りが目の大きさでは極致とも思えるのですが、ここにメガネ当てたら、顔の中でのごちゃつき感が半端ない中、この中でどうメガネ要素を入れるかが、ある意味課題となっていました。
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(引用:http://www.toei-anim.co.jp/tv/jeanne/)
そこで取り入れられたのが、「アンダーリム」に代表される「縁をあえて描かない」メガネでした。2000年以降、なぜか爆発的にこのメガネが用いられるようになり、「メガネキャラ=アンダーリム」ぐらいのノリでマンガ界ではメジャーになります。
「スラムダンク」以降のバスケ漫画では久々の大ヒットとなった「黒子のバスケ」。その中で「全コートから3ポイントを打つ」というチート技で一躍女子の心を奪った緑間真太郎も、このメガネをしています。小暮くんの丸メガネからおよそ15年の年月を経て、メガネも大きく変わりました。
そして、それまでクソほどマイナーだったこのフレームが、逆輸入のような形で実際にも販売され、結構な注目を集めることとなりました。 コスプレ会場だけではなく、結構おしゃれなメガネとして使われるようになったアンダーリム。マンガの影響の大きさを感じさせます。
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(引用:http://tv.kurobas.com/goods/2017/05/entry_2825/)
ちなみに、この「省略」はさらにエスカレートし、近年では、目を描きたいがためにテンプルを省略した「なぜか大事な部分ががっつりない」メガネ描写まで生まれています。
メガネであることは残しつつ、目を描くためには省略どころか「削除」してしまう。
2010年代を代表するアニメとして名高い、「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。(あの花)」ですが、作中で連鎖する片思いの一番端っこという悲しすぎるポジションにある「つるこ」のメガネも、この削除スタイルで描かれています。
もはや���「守破離」の「離」の域に達した、「マンガの中だけのメガネ」がここに生まれたのです。
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(引用:http://maemukinegative.blog35.fc2.com/blog-entry-1785.html)
※なお、アンダーリムなどについて深く知りたい方は、近添真琴さんのブログがおすすめです。 (参考:http://blog.livedoor.jp/chikazoemakoto/archives/8255332.html)
7)「横切りメガネ」(京アニの新技)
そして最後は、ukkahさんのブログで紹介されていた、気鋭のアニメクリエイター集団、京都アニメーション(京アニ)による新たなメガネ描写の提案です。 (参考:https://ukkah.hatenadiary.org/entry/20131122/p1)
敢えて目にぶつける。「境界の彼方」における栗山未来のメガネは、太めの縁が目にがっつりかぶさるという、メガネが最も避けてきた構図を敢えて取り入れる異色のスタイルとして、キャラデザに用いられています。 京アニは他の作品でも、このある意味禁断とも言える「横切りメガネ(命名:ukkahさん)」を積極的に用いるようになりました。
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(引用:http://anime-kyokai.com/sp/character/)
この、禁忌に触れる挑戦的なメガネは、しかし一方でどこか受け入れられる雰囲気を持っています。
これはなぜ起きたのか。決して目の表現を諦めたふうではないのに、敢えて目にぶつけるこのデザインは何を意図しているのか。
よくある可愛さの表現の中に「上目遣い」があります。ぶりっ子系の女の子がよくやるやつ。 実はこのメタファーじゃないか、というのが僕が唱えている仮説です。
メガネの枠よりちょっと上を見るような印象を与える、「上枠が目に重なる」描写。それは、顔のパーツパーツはそのままの大きさ・位置バランスの中で、メガネという存在だけで「上目遣い」の印象を与え、可愛さをさらに強調しているのではないだろうか。
ついにメガネを使って目そのものだけでなく、目線まで表現するようになった、この表現技法は非常に注目すべき新技術であると言えるでしょう。 先日の放火事件で、多くの才能あるアニメーターと貴重な原画を失った京アニ。亡くなった方の冥福を祈るだけでなく、これだけの革新的技術をもたらすだけの類い稀なるクリエイティビティが、今後どうか再び我々に新たな感動をもたらす力強さを取り戻してくれることを願うばかりです。
さて、一気に語ってきたこの「マンガとメガネ」談義。最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。 背景にある「メガネの持つ意味」からも大きな影響を受けているマンガにおけるメガネについては、さらに色々掘り下げていけたらいいな、と思っています。
(おまけ) ちなみに個人的に好きなメガネキャラは、BLEACHの石田雨竜。 彼のメガネは、下の表紙のように下側に凸のある五角形が基本なのですが(彼モデルのメガネもそのデザインを採用)、実写版映画ではただの四角いメガネが用いられていて少し残念だったりします。 …と思っていたら、作中でも四角眼鏡になるシーンが散見され、TITE先生のライブ感すげぇ…と思う次第です。。。
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(引用:https://www.shonenjump.com/j/rensai/bleach.html)
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cinema-note · 6 years ago
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今年もポケモン映画の季節がやってきました! ポケモン映画は、シリーズ公開20周年を記念して、2017年から『劇場版ポケットモンスター キミにきめた!』、『劇場版ポケットモンスター みんなの物語』と、アニメシリーズに準拠しない作品が公開されてきました。 そして2019年。20周年記念のフィナーレを締めくくったのは『ミュウツーの逆襲 EVOLUTION』でした!
『劇場版ポケットモンスター みんなの物語』の本編上映後に流れた予告で震え上がったのを覚えてますね・・・ 21年目にして、これをリメイクするとは思いもしませんでしたね〜!オリジナルが良すぎるのでリメイクするひつようあるのかな?とも思ってましたし(笑) 『劇場版ポケットモンスター キミにきめた!』のテーマが「原点回帰」ということもあり、いろいろな条件やタイミングが揃って、今回リメイクという形になったのかもしれませんね。
不安だったのが、全編3DCG上映ね。私は、アニメはセル画やデジタル派なので、時代��沿った表現方法とはいえ、これは大丈夫なのか?と全体的にややマイナス評価の視点での鑑賞となりました。
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リサ
今回は思い出補正もうんと入っていると思うので、かなり厳し目の感想になるかもしれません。
ミュウツーの逆襲 EVOLUTION
監督 湯山 邦彦 榊原 幹典 脚本 首藤 剛志 出演者 松本 梨香 大谷 育江 うえだ ゆうじ 飯塚 雅弓 市村 正親 山寺 宏一 小林 幸子 公開 2019年 製作国 日本
あらすじ
全世界に告ぐ– 原点にして、最高峰。
「清らかな心と、会いたいと強く願う気持ち」その二つをもつ冒険者の前にだけ姿を現すという幻のポケモン・ミュウ。 全てのポケモンの”はじまり”と言われ、世界中のポケモン研究者が行方を追うなか、ついに一人の科学者がミュウの化石を発見し、それを元に神をも恐れぬ禁断の行為に手を染めてしまう。
「ここはどこだ・・・わたしは誰だ・・・」 最強のポケモンをつくりたいという人間のエゴによって、この世に生み落とされた伝説のポケモン。 その名もミュウツー。 存在する理由も分からないまま、最強の兵器としての実験を繰り返されるミュウツーは、その心の中に、自分を生み出した人間に対する憎悪の念を宿していく 。
「これは、わたしを生み出した人類への、逆襲だ!」 ついに、あの完全不朽の名作がフル3DCG映像で、2019年夏、世界中にSTRIKES BACK!!
1999年に公開となった『ミュウツーの逆襲』のリメイク版。 監督は湯山邦彦と榊原幹典の共同。 前作は全編2Dアニメーションでしたが、本作は全編3DCGで描かれています。
「原点にして最高」のオリジナルを超えるのは難しかったか・・・
いやー、オリジナルが完成度高かったので、なかなか厳しい結果となりました! 正直本作に関してはリメイクする必要あったか?と。みんなにこの名作をみてもらいたいなら、オリジナル版を再放���なりなんなりしたほうがよっぽど反響があったような気がしますね・・・
ストーリーの流れに大きな変化はありません。びっくりするくらいそのままなんですよ。
私は、「アイ」が登場しないじゃないか!おい!!!と思っていたのですが、アイはオリジナル版じゃなく、完全版に登場するキャラクターだったんですね。 アイというキャラクターは、本作のミュウツーというキャラクターを描く上でかなり重要な役割を持つんです。 彼女がいることで、ミュウツーの心理描写が深まり、ストーリーにより説得力が生まれるんですよ。彼も、ただ一方的にサトシたちに喧嘩を吹っかけている悪役ではないと、わかるわけです。
そんな重要なキーパーソンであったアイすら本作には登場しないって、ただオリジナル版を焼き増ししただけってことになりますよね・・・
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リサ
もう・・・どういうこと!?!?ここまでくると、ただ最新の技術でリメイクしたかっただけなんじゃないかって勘違いしてしまいますよね(笑)
確かに、最新のCGはすごかったです。特に皮膚や毛並み。 ピカチュウや他のポケモンたちの皮膚や毛並みの作り込みがかなり細かくて、かわいらしさとリアルさが3DCGで絶妙に表現されていました。 バトルの迫力もオリジナル版に比べると迫力が増していて、引き込まれたなあ。
まあでも本作のキモはバトル描写じゃないんですよ。 つまり何が言いたいかというと・・・
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リサ
ごめんなさい!!!!オリジナル版をみて!!!!!できれば完全版!!!!
オリジナル版との大きな変化はなし
人間の「最強のポケモンをつくりたい」というエゴによって生み出されたミュウツー。 自我を持ち、発信することができるミュウツーは、自分の存在意義に対して疑問を持ちます。存在意義を与えてくれた人間(サカキ)と行動を共にしますが、利用されていたことを知ると、ミュウツーは怒り、人間に「逆襲」することを決めるのです・・・
より強いコピーを生み出す技術を手に入れたミュウツーは、ポケモンのコピーを生み出し、オリジナルのポケモンを持つトレーナー(人間)たちに戦いを挑みます。 どちらが強いか、どちらが本物か、ミュウツーは己の存在意義を「戦いでの勝利」に求めてしまったのです。
オリジナル版との大きな変化はなし。正直、じゃあなんで今更リメイクしたの?と思わないでもないですよね〜 『劇場版ポケットモンスター キミにきめた!』は、大きなストーリーの流れは原作(アニメ無印版)と変わらないけれど、そこにオリジナル要素をかなり盛り込んでいて、オリジナルで作った意味があったわけです。(評価は別として。) しかし今作は、本当に大きなストーリーの変化もない。しかも、完全版が本当に完全で最高だったのに、完全版の追加要素は丸々カット。
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リサ
これはねえ・・・いただけませんね!!
作品自体のテーマはとても良いんですよ。 コピーとして生まれた自分の存在意義とは何か、なぜ自分は生きていて、なんのために生きているのかを問いかける物語。 コピーとして生まれたから劣っているのか?オリジナルだから素晴らしいのか?そんなことはないんじゃないか、どちらにもそれぞれに存在意義があって、どちらも生きていることには変わりはないんじゃないか、そんなことを問いかけている、非常に哲学的な物語なのです。
かなり大人向けのテーマで、オリジナル版の公開当時は話題になっていましたね。子どもに付き合って一緒に行った親のほうが感動して泣く、なんて話をよく聞きましたし、我が家も母が号泣していました(笑)
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リサ
よく考えると、本作がオリジナル版のコピーっていうのもおもしろいですね。 コピーと本物、どちらも中身は同じで、どっちもいいってか・・・?まあ、まあそうなんだけども(笑)
3DCGにして本編を描く必要性とは?
と、まあ、テーマはとてもおもしろいし、挑戦的でよかったんですけど、それってオリジナル版で十分描かれているんですよ。 オリジナル版を超えることができなくても、リメイク版にはリメイク版のいいところがある・・・というのがまあオリジナル版とリメイク版の折り合いの付けどころだと思いますが、今作に限っては、折り合いの付けどころがない・・・ないんですよ・・・
強いてあげるとすれば映像なわけですが、わざわざ3DCGにして本編を描く必要性がないというか、2Dアニメだからこそ生まれる色彩やタッチの温かさみたいなものが、より作品をいいものにしているんですよね・・・ 特にそれを感じたのが、ポケモンたちが涙を流すシーン。
このシーン本当に大好きで、何度みても泣けてくるのですが、アニメでの涙の描写が素晴らしいんですよ。とっても美しい。 瞳を潤ませるって、アニメの方が映えると思うんですよね。CGだと、涙をリアルに描写するから、瞳の中の涙は透明になるのですが、アニメだと、瞳の中の涙は白で描かれるため、より泣いていることが伝わるんですよね。 このシーンだけは、アニメの方がより想いが伝わってきたなあと思ってしまいました。
あとはサトシが石化してしまって、ピカチュウが大泣きするシーン。世の中の大人が泣いた伝説のシーンなのですが、今回かなり演出が大げさで、ちょっとくどいかなと感じてしまいました。あそこまで感動的に仕上げるとちょっと引いてしまう・・・ 大谷育江さんの演技はうますぎて、びっくらこきました(笑)
リメイクなりに頑張っているのがわかればまだ評価の死骸もあるのですが、ほんとうにきれいそっくり3DCGで作り直しました、という感じで、私としてはイマイチでしたね。
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リサ
いっそのこと、デジタル版のアニメでそっくりそのまま描き直す方向で開き直るか、オリジナル版の再放送とかでよかったと思なあ・・・
懐かしさに感動
散々違いがないと文句を言いつつも、キャストやキャラクターに大幅な変更がなかったのは安心しました。 今のアニポケをみている人からしたら、カスミやタケシって誰?何?って思うかもしれませんが。
タケシがシチューをコトコト煮ていたり、相変わらずお姉さん大好きで泣けた。なんなら女性を口説くタケシの耳をひっぱるカスミの図も20年ぶりにみられて、笑いながら泣きそ���になりました。 うえだゆうじさんと飯塚雅弓さんの演技や声質が、変わっていなかったのもよかったな〜 市村正親さんのミュウツーもよかったし、山ちゃんのミュウもよかった。
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リサ
よかったと思ったり、泣きポイントが「懐かしい」と感じるポイントばっかりでしたね(笑)
総評
評価
ストーリー
(3.0)
キャラクター
(3.0)
キャスト
(5.0)
演出
(2.5)
映像・音響
(5.0)
総合評価
(3.5)
良かった点
大幅なキャスト変更がない
3DCGのバトル描写
悪かった点
リメイクした意味や意図がわからない
オリジナル版観ればよくないかね・・・?
まとめ
正直、ストーリーやキャラクターの評価が難しかったです。 オリジナル版のストーリーやキャラクターは最高なので★5つなのですが、リメイク版で考えるとイマイチなんですよね。 リメイクした意図が伝わらないので、オリジナル版がやっぱり最高だわ!と思ってしまうのってちょっと残念。
実は本編序盤にポケモンのテーマ曲が流れて、「ミュウツーの逆襲 EVOLUTION」ってタイトルが出てくるところでちょっと泣いちゃったんですけど、それってもうただの思い出補正なんですよね〜 あとになって、自分もリメイクで感動するような歳になってしまったのか、って複雑な気持ちになりました(笑)
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リサ
ぜひ!ぜひぜひ!オリジナル版も観てください!
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oshimatakuromemo · 7 years ago
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Ogaki Mini Maker Faire 2018
Date: 2018/12/01(Sat.)~12/02(Sun.) @ソフトピアジャパンセンタービル
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準備
僕が岐阜県で開催れるものづくりの祭典Ogaki Mini Maker Faire(以下OMMF)に出展したのは今回で二度目で、前回は2016年に開催された時にIAMASの学生として出展しました。前回の出展では、自己紹介的に自分の制作した楽器をずらーっと並べて展示しましたが、今回はもっとターゲットを絞って、今年メインに制作した「NB-606」という作品を展示しました。
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▲今年のメインの出展物「NB-606」
NB-606は車のウィンカーの点滅のずれに着目した作品で、ビジュアルは楽しそうですが体験自体は大変地味な作品です。今までもMaker Faireで展示してきましたが、来場者の反応は賛否別れます。面白いと思う人は何度も体験して着眼点の面白さを受け入れてくれますが、ウィンカーのタイミングのずれに面白さを見出せない人は全く受け入れられません。作品としては、今までウィンカーのずれという現象に面白さを感じなかった人たちに面白さを気づかせる作品にならないといけないですが、まだ作品の強度がそこまで到達していません。これからの課題です。 作品の体験が地味ということもあり、今回の展示ではプレゼンテーションのイベントに参加しました。ブースでの体験だけで判断するのでなく、作品が作られる背景を知って���らうことでNB-606で目指した「グルーヴとは何か?」の議論が深まると期待しました。
今回の展示では新しいグッズとして、Tシャツとステッカーの開発を行い、会場で物販ができるCommercial Makerという立場で出展しました。Commercial Makerは展示するだけのMakerと違って出展料に1万円かかるため、これまではMakerとして出展していました。ただダン&レイビーの「スペキュラティヴ・デザイン」※1ではお金を使う体験の効果を説明しており、「購入できるプロダクト」というのは作者のコンセプトに消費者が賛同することが可能です。例えば、フェアトレードされたコーヒー豆を選んで買う人は公正な取引きが行われる未来像に賛同して少し高いフェアトレードのコーヒー豆を購入していると言えます。つまり、買う側の人間も企業の提供するサービスを消費するだけの受け身の存在ではなく、「何を買うか」と選択することを通して主体的に社会形成に関われるということです。反対に売る側の人間は、買う側の人間が選択できる多様な未来像を提供することを意識して製品開発に臨むべきでしょう。 この考えからできる限り僕の作品は「買える・使える状態」を目指して開発しています。今回の展示では販売する楽器を準備できませんでしたが、Tシャツやステッカーを購入して僕の活動自体を応援できる状態を目指しました。
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▲オリジナルTシャツとステッカー
これまでのオリジナルTシャツはライブシャツをイメージしてユニクロの黒シャツにシルクスクリーンでPLAY A DAYのロゴを印刷していましたが、少し男性的なイメージが先行していたので、今回からはZineで描かれている女の子や子供のイラストをメインに配しました。デザインにあたってはデザイナーの丹羽彩乃さんにお願いしました。 ステッカーもこれまではシルバーの紙に印刷した小さなステッカーがありましたが、今回はユーモア商品として僕のマルチステッカーを作りました。とてもマニアックで誰がターゲットかわからない商品ですが、そんなPOPでありながら狂気溢れる雰囲気もPLAY A DAYのイメージにあるので、コンセプト商品として販売しました。
さらに当初はライブパフォーマンスの出演は考えていなかったのですが、OMMFの運営側からライブへ誘っていただきました。あまり人からライブに誘われること自体が少ないので、今回もライブに出演することにしました。 ライブの内容を考えるなかで、ものづくりの祭典ということでフルカラーLEDやプロジェクションによる派手なパフォーマンスが多いと予想しました。僕は以前からMaker Faireに蔓延る「目立ったもん���ち」の雰囲気に問題意識を抱えていました。私たちはDIYの「ものづくりを通して自らの生き方を内省する態度」をもっと大事にすべきです。 私たちの世界は様々なものによって構築されているからこそ、ものを作ることは世界を作り変えることであり、個人の手の届く範囲でものを作ることは自らの生き方を自ら作り変えることなのです。これがDIYの基本態度であり、Maker Faireでも意識されるべきです。NB-606という地味な体験の作品を展示した意図も、僕のMaker Faireに対する問題意識が反映されています。一見するとなんの役に立たないものも、ものを作る行為を通して作者本人の世界を作り変える点で役に立っているのです。 そうした考えから、シンプルな仕組みを用いて見た目には地味だけど聴覚的に複雑に感じるパフォーマンスを目指しました。具体的には、生活の中でゴミとして扱われる空き缶をモータで共振させて高音を鳴らすシステムを会場内に複数個設置することで、空間内の共鳴や観客の聴く位置によって音が複雑に変化すると考えました。
当日
展示場所はサウンド・自作楽器系があつまるブースの近くで、隣のブースはサーキットベンディングで有名なKaseoさん※2でした。Kaseoさんとは昨年の秋に岐阜のFab施設「スケッチオン」で開催されたKaseoさんのトークイベント※3で出会いました。反対側の隣のブースはIAMASの現役生が運営するクラブ系のプロジェクトNxPC※4でした。NxPCは僕がIAMASの学生だったころに樽見鉄道でのライブ※5や地下駐パーティーなどの色んな機会をいただきました。またKaseoさんの隣はゲームボーイのサーキットベンディングで有名な谷浦朋文a.k.a世紀マ3さん※6でした。谷浦さんとはKD Japonでの共演以来、サウンドパフォーマンスプラットフォーム※7などで一緒に活動することが多い仲良しさんです。スケッチオンでのKaseoさんのトークでもお会いしました。そんな良く知った人たちに囲まれて幸せな展示を行いました。
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▲僕のブース
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▲Kaseoさんのブース
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▲谷浦朋文a.k.a世紀マ3さんのブース
初日はプレゼンテーション・イベントに参加しました。3月のMTRL KYOTOで行なったプレゼン資料をベースにOMMFバージョンに改良しました。プレゼンの機会を重ねることで作品のプレゼン資料が充実していくことを体感したので、今後もプレゼンの機会があれば積極的に参加したいです。 プレゼンブースでは当初お客さんが一人も居なかったので不安でした��、プレゼン前になると10人ほどが聞いてくださいました。プレゼンではNB-606の問題意識から制作過程、考察まで述べ、さらに先に述べたMaker Faireの「目立ったもん勝ち」への問題提起も行いました。初めはコンセプトが理解されるか不安でしたが、プレゼン後の質疑応答ではいくつか質問があり手応えを感じました。質問の中身としては「ウィンカーの制御は厳密に行なっているのか?」「車の台数は難題が適切か?」という質問でした。 初めの質問に対しては、アナログの電子回路を用いているため厳密にウィンカーの点滅をコントロールすることはできないと答え、ボタンを押して体験するたびにウィンカーの点滅パターンが変わることを説明しました。 二つ目の質問に対しては、人間は「3つ以上の現象は同時に処理できない」との考えと、Roland社のリズムマシーンTR-808へのオマージュとなるように車のカラーリングを4色とし、現状では車の台数は4台で設計している旨を説明しました。現象の同時処理については、クワクボリョウタさんが「10番目の感傷」を設営するなかで影が3つ同時に交差しないように配置しているとの話を聞いて、鑑賞者を作品に導入したり混乱させたりする際に意識するようになりました。今回の作品では、3台のウィンカーが点滅するまでは音と光の関係性を把握できるものの、4台同時に動作すると追えなくなり鑑賞者は音を頼りにグルーヴを感じることになります。 今回のプレゼンイベントでは来場者から質問が出たのは僕が初めてだったそうです。そういった意味では作品のコンセプトがうまく伝わったようで良かったです。
OMMF2018の2日目は午前中からオープンしました。昨日に比べて午前中は来場者が少ないので、このタイミングに他の出展ブースを見にいきました。 今回の展示ではIAMAS関係者が多く出展しており、同級生のブースもありました。エムノ※9はハードウェアデザイナーの宮野有史とソフトウェアデザイナーの松野峻也からなるユニットです。エムノとは今年の大阪で開催されたMakers Bazaar Osaka 2018※10で販売していた「CHAKUYO-BAKO」の改良版を展示していました。今回の展示品では、新しく購入した光造形式3Dプリンターでケースを出力したそうです。制作の様子はエムノのホームページ(https://emno.work)で見ることができます。
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▲エムノ
また特別支援学校内で3Dプリンターなどを使って教員や当事者が自ら自助具を作る活動を支援する団体「教材自作部」※11の展示もありました。教材自作部は同級生の篠田幸雄さんが運営する団体です。今回の展示では音符の形と音の長さを体験する道具が新たに展示されていました。 障害福祉施設への出入りを繰り返すうちに、障害に合わせた製品への多様なニーズがあることに気づき、それらのニーズを叶える手段としてデジタルファブリケーションに着目したそうです。例えばハサミのデザインについて考えると、障害者によって握力の個人差が大きくあり、個人の身体性に合わせた製品開発は一般企業では対応できません。そこで様々な握力に調整可能なハサミを開発して、製造データを共有すれば、障害者個人に合わせた道具が入手できるようになるのです。 決してキャッチーな活動ではありませんが、個人的な気づき(障害者のたようなニーズと手段としてのデジタルファブリケーション)を起点とした篠田さんのものづくりは、僕の考えるDIYの態度「ものづくりを通して自らの生き方を内省する態度」を実装した良い活動です。実際の現場に足を運びながら新しい作例を生み出す教材自作部の活動に今後も注目していきたいです。
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▲教材自作部
またIAMASの後輩たちも多く展示していました。全部は紹介できませんがいくつか紹介すると、僕の一つ下の学年で卒業した加藤明洋さんの「TRUSTLESS LIFE」※12はブロックチェーンをテーマにしたボードゲームです。ブロックチェーンの技術への理解はもちろん、ブロックチェーンが普及した際の「信頼」をベースにした身の振り方などが体験できるそうです(ちょっと難しくて、僕はシステムをすぐに理解できませんでした。)。最近はいろんなデジタル系コンペで受賞していて1日目もISCAの展示で神戸に行っていたそうです。今後も活躍して欲しいです。
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▲加藤明洋さん(卒業後にすごくヒゲが伸びてた…)
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▲TRUSTLESS LIFE
IAMAS在校生の展示ではヒョロ・ちび・wifeの「ブンブンビンビンブン」※13という作品がありました。この作品では3人の在校生が制作に関わっており、それぞれが得意なプログラム・音響・アニメーションを組み合わせたものです。 アニメーションの中ではベルトコンベアに��シトウが流れており、映像の中の作業員はシシトウ以外のものを取り除く作業をしています。時々ピーマンが流れてくるので、鑑賞者はボタンを押して作業員にピーマンを取り除く命令を出します。ループアニメーションの中に鑑賞者がインタラクティヴに関わるシステムはUnityで制作しているようです。 自身もIAMAS在籍時は他の分野の学生とコラボして活動していたので、��の自分と重ねて見ていました。また作品コンセプトを伝えるために小冊子を用意しており、これも自分がZIneを作っていることと重なり印象的でした。展示も謎な人型パネルがあって奇妙でした。
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▲ブンブンビンビンブン
2日目はNxPC Lab.のパフォーマンスイベントがあり出演しました。当初はミニマルな展示で運搬する道具も少ないと思っていたのですが、パフォーマンスの機材を準備していたら結局いつもと同じ量の道具になってしまいました。
今回は道具の量を減らすためにプラレールと洗濯台という2つのメイン機材を使いませんでした。その代わり、最近実験している空き缶をモーターで擦ってドローンを鳴らすシステムを持参しました。劇場空間では地味なパフォーマンスだったかもしれませんが、今回は非常にリラックスした良い状態でパフォーマンスできました。決して適当に演じた訳ではありませんが、余計な力が入っておらず、淡々とシステムを組んだ今回のパフォーマンスは、自分自身も観客の視点に近い客観的な聴覚に基づいてパフォーマンスできたように感じたのです。 今回のようなドシンとした態度は、IAMASというホームグランウンドも関係しているかもしれませんが、夏から新しいパフォーマンスを模索して挑戦を続けてきた一つの現れかもしれません。今後、自分はどんなパフォーマンスができるようになるのか楽しみです。
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▲NxPCでのパフォーマンスの様子
展示を終えて
OMMF2018を終えて、抽象度の高い作品を意識して展示しましたが、来場者からの反応が鈍く、「本当にこれで良かったのだろうか」と思う時間が多かったです。勢いや目立つことが優位な社会背景を受けて、Maker Faireへの問題提起のつもりで展示しましたが、他の展示を見ていると来場者を笑顔にする展示の方が素晴らしいようにも思えるのです。 しかし、そのように考える時間の中でも確かに届く瞬間があると嬉しいものです。とある女性は体験自体は地味でもNB-606が「日常の中のささやかな風景」に着目して綺麗に展示していることに感動したと感想を言ってくださいました。また別の来場者は、僕のZIneを見て彼女の企画するイベントへの参加を誘ってくださいました。今回の展示を通して、少ない人数ではありますが、僕の活動が誰かに届いている感触を確かめることができました。 ブース展示という環境の中では短い時間でコンセプトや面白いポイントが伝わる方が強いですが、少しづつでも粘りつよく活動を継続することが大切でしょう。石の上にも3年!ということですね。
また今回の展示で印象的だったことは、隣のブースのKaseoさんがずっと展示ブースで立っていたことです。僕は来場者の少ない時間帯は他の展示へフラフラしていたので、Kaseoさんの一人でも多くの来場者��コミュニケーションを取ろうとする態度から反省することも多くありました。Kaseoさんは長い休憩時間の時は展示物に布をかけて休んでいることを明示していて、展示しているか・していないかわからないよりは良いと思いました。今後のMaker Faireでは僕も真似しようと思います。終
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▲布がかかった展示ブース
参考URL 1.スペキュラティブ・デザイン https://boxil.jp/beyond/a4954/
2.Kaseo https://www.iamas.ac.jp/ommf2018/maker/455/
3.美術室の壁穴#2 http://oshimatakuromemo.tumblr.com/post/166044509759/
4.NxPC http://nxpclab.info
5.CLUB TRAIN 2016 https://www.facebook.com/events/1245851155487028/
6.谷浦朋文a.k.a世紀マ3 https://www.iamas.ac.jp/ommf2018/maker/554/
7.サウンドパフォーマンス・プラットフォーム2018 https://www.iamas.ac.jp/activity/spp2018/
8.Fab Meetup Kyoto vol.24 https://mtrl.com/kyoto/events/180328_fab-meetup-kyoto-vol-24/
9.エムノ https://www.iamas.ac.jp/ommf2018/maker/497/
10.Makers Bazaar Osaka 2018 http://makersbazaar.jp
11.教材自作部 https://www.iamas.ac.jp/ommf2018/maker/541/
12.加藤明洋 https://www.iamas.ac.jp/ommf2018/maker/534/
13.ヒョロ・ちび・wife https://www.iamas.ac.jp/ommf2018/maker/518/
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cinemastylenews · 8 years ago
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『心が叫びたがってるんだ。』 実写化決定!出演者&公開日&ビジュアル解禁!
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■初共演!今、最も旬な俳優が集結!主演・中島健人、ヒロイン・芳根京子、石井杏奈、寛一郎 主演は、大人気グループ「Sexy Zone」のメンバーで、本作が主演映画4作目となる中島健人。他人に本音で向き合うことが苦手なやる気のない少年、坂上拓実(さかがみ たくみ)役を演じ、今までの積極的で明るいイメージとは異なる新たな役柄に挑戦します。幼い頃のある出来事が原因で、喋ると腹痛に襲われてしまうヒロイン成瀬順(なるせ じゅん)役には、NHK連続テレビ小説「べっぴんさん」にヒロインとして出演中の若手実力派女優芳根京子。「べっぴんさん」(4月1日放送終了)以降、初となる長編映画への出演となります。また、拓実と付き合っていた過去を持ち、自身の心ない一言で拓実を傷つけた���とを後悔し続けている、仁藤菜月(にとう なつき)役には、E-girlsのメンバーで『四月は君の嘘』など話題作にも出演。女優としても活躍をしている石井杏奈。また野球部のピッチャーで将来を期待された選手だったが肘を故障、負い目から周囲に素直になれない田崎大樹(たさき だいき)役には、先日、俳優デビューが発表されたばかりで、その独特の雰囲気で将来を期待される寛一郎。 監督には自身のオリジナル脚本による初の劇場長編映画『ニライカナイからの手紙』で一躍注目を集め、その後、『近キョリ恋愛』『君に届け』などを手掛けた熊澤尚人。高校生を主人公にした青春映画で数々のヒット作品を生み出してきた熊澤監督のもとで、今をときめく若手4人がそれぞれどのように演じていくのか、乞うご期待です! ━…━…━…━…━…━ ■言葉を封印された少女がミュージカルの主役に抜擢!!クラスメイトの少年との運命の出会いが少女を変えていく。 コミュニケーションが苦手で本音を言えない、やる気のない少年・坂上拓実は高校3年生のある日、担任から「地域ふれあい交流会」の実行委員に突然任命され戸惑う。一緒に任命されたのは、全く接点のないクラスメイトの成瀬順。幼い頃に何気なく発した言葉によって家族がバラバラになってしまったことが原因で、喋ろうとすると腹痛が起きてしまい、コミュニケーションは筆談のみ。クラスメイトからは変わった子だと思われている。担任から出し物としてミュージカルを提案され、ヒロインを演じることになった順は、拓実からのある言葉をきっかけに<今まで心に閉じ込めてきた想い>を歌にして伝えると決心するのだが・・・ ━…━…━…━…━…━ ■“ここさけ現象”再び!? 世代を超えて人々の心を掴んだ名作。 2013年8月に劇場公開されたアニメ『劇場版 あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』は、興行収入ランキング7週連続トップ10入りの大ヒットを記録、実写ドラマもOAされ大反響を呼ぶなど、日本中に“あの花現象”を巻き起こした。その名実ともにヒットメーカーとなった監督・長井龍雪、脚本・岡田麿里、キャラクターデザイン・田中将賀(『君の名は。』のキャラクターデザインも担当)のチームによる感動青春群像劇『心が叫びたがってるんだ。』。2015年9月19日から公開された本作は、青春時代に誰もが経験したことがあるもどかしい気持ちや、言葉の大切さ、音楽の素晴らしさに多くの人々が共感し、口コミが拡がり、最終興行収入11億円を超える大ヒット。原作・原案を持たず、テレビシリーズ発でもない、完全オリジナル劇場用アニメーション作品が興収で10億円を突破するのは、スタジオジブリ作品・大友克洋作品・細田守作品に次ぐ、史上4番目のケースという快挙!(2015年11月時点) 第39回日本アカデミー賞優秀アニメーション作品賞も受賞しました。また、このたび『あの花』『ここさけ』ほか、数々の大ヒットアニメを世に送り出すとともに原作窓口でもあるアニプレックスが制作・配給を手掛けます。 ━…━…━…━…━…━ ■中島健人コメント トラウマで言葉を封印してしまった少女(成瀬順)と本音を言わない物静かな青年(坂上拓実)が「心に閉じ込めてしまった本当の気持ち」を、ミュージカルを通して伝える姿に感銘を受け、演劇をやりたい順の心の言葉に拓実がメロディーを添えたことによって順が変わっていく姿に心を打たれました。 大人気のアニメが原作でしたので、お話を頂いた時に思わず身も心も叫びました。プレッシャーもありますが、作品を最大限リスペクトし原作ファンの皆様、そして本当の気持ちを誰かに伝えたいと思う全ての方々に観て頂けると嬉しいです。 順役の芳根さんを始め、素敵なキャストの皆さんと心を一つにし、 最高の作品ができるよう楽しみながら頑張りたいと思います。 ━…━…━…━…━…━ ■芳根京子コメント 『心が叫びたがってるんだ。』という作品を初めて知ったのは、オファーを頂いてからでした。 撮影現場の合間に原作のアニメを拝見し、「うまく伝えられないことも、歌にすれば伝えられる」という深いメッセージにとても感動し、思わず涙が止まらずにメイクさんに怒られてしまったのが思い出深いです。(笑) 私自身も昔から言いたいことを言えるタイプではなかったので、“成瀬順”というキャラクターに共感する部分も多く、彼女を演じさせていただくことをとても光栄に思います。 言葉をしゃべれないというシンプルゆえに表現の難しい役柄ではありますが、髪の毛もばっさり切って精一杯順ちゃんを演じ切りたいと思います!! ━…━…━…━…━…━ ■石井杏奈コメント 台本を読ませていただいた時、温かい気持ちに包まれました。 この物語の中で生きている全員が、どんな時でもキラキラしているように思えて、演じる楽しみが芽生えました。 今、チアダンスやミュージカルの練習をしています。素敵なクラスメイトと、素敵な作品を作り、共に青春を送れるよう全力で挑みます。そしてリアルな気持ちが映像を通して、 皆さんに伝わりますよう、最後まで駆け抜けます! 『ここさけ』、よろしくお願い致します! ━…━…━…━…━…━ ■寛一郎コメント 言いたいことが言えないこの世の中、僕自身も心が叫びたがっています。 多分、皆さんも何かしら心が叫びたがっているのではないでしょうか。 若者のトラウマを克服する青春群像劇。 僕も、この映画と一緒に成長していきたいです。同世代の方に、是非観ていただきたいです! ◇◆◇◇◇◆◇◇◇◆◇ 【作品情報】 『心が叫びたがってるんだ。』 ■監督:熊澤尚人 ■脚本:まなべゆきこ ■出演:中島健人、芳根京子、石井杏奈、寛一郎 ■配給:アニプレックス 7月22日(土)全国ロードショー 情報提供:アニプレックス (C)2017映画「心が叫びたがってるんだ。」製作委員会(C)超平和バスターズ
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