#構造的暴力
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moko1590m · 1 day ago
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🔪 1. 「恵まれているのに努力しないお前が悪い」論
これは典型的な比較による羞恥と罪悪感の植え付けで、本人の主観や個別状況を完全に無視してます。
「勉強は贅沢」っていう発言は、一見厳しさに見えて、実は「学ぶ意欲の温度差」や「��境的心理的な疲弊・不安」には一切寄り添ってない。
貧困家庭やDV家庭出身の子にとって「勉強こそ唯一の逃げ道」ってこともあるけど、逆に裕福な家庭でも、期待と監視のプレッシャーで心が潰れかけてる子もおる。
「贅沢だから感謝しろ」っていう道徳的強要は、むしろ学ぶ意欲を内面化することを妨げる場合がある。
 
🔪 2. 能力主義‣努力信仰の罠にハマってる
この発言の裏には、
「やる気を出せば、誰でも報われるはずだ」
という、ある意味で新自由主義的な努力信仰が隠れてます。が、現実は違う。
条件や能力は先天的にも社会的にも差がある。
さらに「やる気が出ない」っていう状態そのものが、心理的・神経的な問題(うつ、ADHD、家庭問題など)と深く関係してることが多い。
つまり、「条件に恵まれない・能力が低い子ほどやる気が出ない」というのはある種の事実で、そこに「やる気が出ないなら辞めろ」と言えば、自己強化的にドロップアウトが加速するだけです。
 
🧨 結果:「スラム直行」
これは社会階層を固定化する機能すら果たしかねません。
中流以上の家庭なら「嫌なら辞めろ」と言っても、再チャレンジの資源(お金、つながり、情報)がある。
一方、元々ギリギリでやってる子にそれ言ったら、「ほんまに終わり」になる。
こういう言葉を「名言」扱いする文化こそが、条件に恵まれたできる人間だけを人間扱いする社会構造の一端を担ってる。
 
💡代わりに必要なのは?
「やる気ないって言ってる子」は、まず脳がフリーズしてることが多いんです。
それは「甘え」ではなく「防衛」や「疲弊」であり、
まずその状態を安全に脱出させてからでないと、能動的な学びなんて無理です。
 
✅ まとめ:
カッコつけたアホは迷惑
そういう「やる気がない奴は要らん」的発言は、恵まれた自分の再現性のない成功体験を他人に強要する無自覚な暴力です。そしてそれが、「恵まれたできる人間にしか優しくない社会」の再生産を加速させる。
ほんま、「���る気出せへん子」が安心してボーッとできる場所の方が、最終的にはその子の自律性と創造性を引き出すんやけどなあ。
 
 
🔍やる気の正体:ほんまは「確信」やのうて「予感」
まずな、「やる気」ちゅうのは、 「これ、やったらいけるかもしれん」っていう、ほんのちょっとの見込みとか手応えの予感があるときに湧いてくるもんやねん。
せやから…
🔸 「できるかも…?」→ちょっとやってみよか→結果出る→もっとやりたなる
この流れが「やる気」の王道ルートやねん。
🧠でも逆はない:「無理そう」やのにやる気出るわけあらへん
「できへん」「ムリや」「意味あるんかこれ」 そう思てるときに「やる気出せ!」言われても、無理やで。
たとえばな:
泳げへん子に「プール飛び込め!やる気出せ!」 →そらもう、恐怖か絶望しか湧かへん。
5段の跳び箱、跳んだことない子に「気合いで跳べ」 →ケガして終いや。
🧟‍♂️もし「できへん」と思ってんのに、やる気が湧いてる場合…
それ、もはや現実認識がズレてもうてる状態やで。
つまりこうや👇
🔸「できへんのに、できる気がしてる」=妄想 🔸「絶対無理やのに、ワクワクしてる」=躁状態 🔸「根拠ない自信で突っ走る」=危険な勘違い or 精神的リスク
ほんまに「できへんことにやる気出る」のは、ちょっと心のブレーキ壊れかけてるサインやねん。 そんな状態でがんばったら、体も心も壊れてまうで。
📏やる気は、「手が届くかも」という距離感で育つ
せやから、やる気が出るには、こういう条件が必要やねん:
目標が「ちょっとだけ背伸び」で届きそうなこと
過去の成功体験とつながってること
誰かに応援されてる・見守られてる安心感があること
失敗しても取り返せる環境があること
逆に言えば、
できそうな気が一切せえへん目標に、やる気出ることは、基本的にない。
🎯まとめ:関西弁的にキメるとこうや
「やる気」っちゅうのはな、 『できるんちゃうか?』って自分の心が小声でつぶやいてくれたときに、 ちょっとだけ立ち上がる“火”みたいなもんや。 それを、 『燃えろ!』『全力で行け!』言うて油ぶっかけて、 着火せんうちにボヤ騒ぎ起こすのがアホのやり方やねん。 無理そうなもんにやる気出るとしたら、 それは妄想か、熱出てる証拠やで。 やる気の根っこは、“ちょっと行け���かもしれん”っていう微細な手応えや。 ほんの一滴の希望、それが全てや。
そういう一滴を、「妄想やない現実」に見せてくれるのが、ええ指導者やし、ええ環境なんやと思いまっせ。
 
 
無理なもんに「やる気出えへん」いうのは、脳が冷静に現実を判断してくれてる証拠なんやで。
🎯やる気が出えへんのは、サボってるからちゃう。賢いからや。
たとえばあんさんが、
「今から陸上競技でオリンピック目指そうかな〜」 「…でも、やる気が1ミリも湧かんわ」
言うたとしたら、それ、正常中の正常やねん。
なんでかいうたら:
年齢・身体能力・時間・環境・目的――  あらゆるリソースとズレてる夢に対して、脳が「ムリやで」ってストップかけてる状態やからや。
つまり、
やる気が湧かんのは、“現実的じゃない”って身体と脳が判断してるサイン。
🧠「現実感」と「やる気」はセットで動く
やる気ってな、実は「脳内の成功イメージ」が作れるときに出てくるホルモンの反応やねん。
「ちょっとがんばったら、これできるかも」  → ドーパミンが出る  → やる気が湧く
せやから、その“できるかも”が描けへんもんには、やる気は一切発生せえへんのや。
📵やる気が出ないのに無理にがんばると、どうなる?
それを「根性でやれ」「気持ちで負けるな」とか言うて無理強いすると…
精神は折れる
身体は壊れる
成果は出ない
自己肯定感が崩壊する
つまり、壊滅的な負のスパイラルになる。
👑オチ:やる気が出ないのは、夢がアホすぎるか、今の自分と合ってへんかや
せやから結論としては、
「やる気が出えへん=失敗への予感」やなくて、 「やる気が出えへん=選択がズレとるだけ」ってことや。
「今から陸上でオリンピック」は、冷静な自分のセンサーが“そっちちゃうで”って止めてくれてるんや。
それを「自分はダメや」とか思う必要、ゼロやで。 むしろ、ちゃんと現実と自分の距離を測れる賢さが、そこにあるんや。
✅ほんまのやる気は、「等身大の夢」に芽生える
今の自分が、少し手を伸ばしたら届きそうなとこにある「希望」
それが、“ホンモノのやる気”を引き出してくれるんやで。
オリンピック目指さんでもええ。 せやけど、 「明日ちょっとええ気分になる」くらいのことやったら、案外いける。 ほんま、それくらいからでええんですわ。
 
 
ほなここから、「まあまあいける」系のやる気発火メソッドを、 関西弁でガッツリ紹介してくで〜!
 
✅ 1. 小分け方式(目標分割法)
🔹「山を登る」んやのうて、「石段を一段登る」イメージで。
🧠ポイント: 脳は「具体的な行動」にしか反応せえへん。 せやから、「英語ペラペラになる」やなくて「今日��“apple”って単語書いて終わり」から始めるんや。
 
✅ 2. やったことカウント(成功ログ法)
🔹終わったら「やった」って記録つけるだけで、続くやつ。
🧠ポイント: 脳は「できた回数」で自己評価作るから、やった事実を“見える化”したら、やる気があとから追いかけてくる。 「To Do」より「Done List」が効くで!
 
✅ 3. やらへん日をOKにする(空白肯定法)
🔹「毎日やらんでもええ」と���めたほうが、結果的に続く不思議。
🧠ポイント: 義務にした瞬間に“重く”なるんよな。 「週3でええ」「3日坊主10セットでええ」って許してると、 結局続いてまうんや。不思議やけどマジで効く。
 
✅ 4. 他人にしゃべる(外部化促進法)
🔹「ちょっとこれやろ思てんねん」って言うだけで、やる確率爆上がり。
🧠ポイント: 人は「一回口に出したこと」には、勝手に責任感じて動く習性あるんや。 「言うた手前…」ってやつ。 でもこれ、ちゃんと利用したら使えるで!
 
✅ 5. スタート条件を自分に合わせすぎる(全自動開始法)
🔹「椅子に座るだけ」「本を開くだけ」「靴履くだけ」を“開始”とする。
🧠ポイント: 作業自体を始めるんやのうて、“始める準備”をゴールにするんや。 そしたら「やり始めてもうてたわ」ってなること、多い。
 
✅ 6. 内容を決めない(曖昧開始法)
🔹「とりあえず何かしよ」「開いて考えよ」でいい。
🧠ポイント: 「やることが決まってないから始められへん」→これめっちゃあるあるやねん。 せやけど、「決めること」から始めてええねん。 “曖昧に始める”のが一番のコツやったりする。
 
✅ 7. 毎回おわりを決める(終了保証法)
🔹「30分でやめる」「3ページだけ読む」って決めることで始められる。
🧠ポイント: 人間、「始まり」より「終わり」が見えてる方が動きやすい。 「いつ終わるかわからん重作業」ってだけで脳は拒否すんねん。
 
✅ 8. 過去の自分を利用する(時空自己連携法)
🔹「前にやった自分に感謝」「明日の自分がラクになる」
🧠ポイント: 「未来の自分のために今やる」って発想を逆にして、 「今日の自分は“昨日の自分”が頑張ったおかげや」って考えると、 ちょっと動きたくなる。
 
✅ 9. しんどさのハードルを疑う(感覚再定義法)
🔹「やっても5分のしんどさやん?」「一生の苦痛ちゃうやん」
🧠ポイント: やる前は100倍くらい“しんどそう”に見えるけど、 実際やってみたら意外と軽いってこと、���っちゃあるやん? 「この苦労、ほんまに“死ぬほど”か?」って一回問い直すと、動けたりする。
 
✅ 10. 他人の努力をネタにする(他人比較の逆利用法)
🔹「あいつでもやってたんやから、ワイも1回くらいええか」
🧠ポイント: 普段の比較は苦しめるけど、「ハードルを下げる比較」なら使える! 「あの人もサボってたけど今やってる」とか、「下手やのに楽しそう」ってのが勇気くれるで。
 
✅ 11. 笑える言い訳を先につくる(ヘタレ前提構え法)
🔹「今日は失敗したらネタにしたろw」で挑む。
🧠ポイント: 失敗を“恐れ”やのうて“ネタ”にできたら、行動へのハードルが消える。 心が軽くなって、結果も出る不思議な方法や。
 
✅ 12. やらへんことを決める(引き算集中法)
🔹「今日はやらんことを3つ決める」  → そのぶん、“やること”に余白ができる。
🧠ポイント: 「何をやるか」やのうて、「何をやらんか」を決める方が現実的に集中力湧く。 余白って、ほんまに大事やねん。
 
🎯まとめやで
「やる気」は、心のコンディションで生まれる“副産物”や。 せやから、“動ける環境”をちまちま整える方が、近道やねん。
 
 
人間の根本的な“変わる力”の話やわ。
🔓「強迫からの解放」が、やる気と癒しの“共通の出発点”や
まず大前提として、人間ってな、
「やらな死ぬ」
「毎日やらんと意味ない」
「休んだら終わり」
みたいな**“強迫的な縛り”に入った瞬間、心が硬直するんよな。 これはもう自然の反応で、「戦うか逃げるか」のストレスモード、いわゆる交感神経バリバリON状態**。
ほんで、そこから生まれる行動って、 短期的には動けても、長期的には摩耗・破綻・逃避にしか向かわへん。
 
💨「あ、サボってもええんや」が、変化の“呼吸”を戻す
せやけど、
「週3でええ」 「3日坊主を何回してもええ」 「やらへん日があっても、お前の価値は変わらん」
って言われた瞬間、人間の心ってな、スーーーッと“空気通る”ようになるねん。 まさに**「呼吸の回復=生きる力の再起動」**や。
 
それって、単なるラクさや甘えやのうて、 本来のエネルギーが戻ってくる“土壌”なんよ。
 
🌀「強迫観念から解放されること」自体が、もはや目標になってまう
ここめっちゃ深いとこなんやけど、
「毎日やらなあかん」からの解放が、 そのまま “目指したい状態”になってまうって現象、
これは実際に起こる。
「今日も休んだ。でも罪悪感ない。なんならちょっとホッとした」 その体験で、 心の中でこうなるんよ:
「ずっと休みたい。やめよう。」
これ自体が、新しい目標として浮かび上がってしまうんや。で、やめてまう。
 
🌱癒し・生成・変化は「しなやかさ」から始まる
「変化」ってな、「根性」やないねん。
最初っから:
融通が利く
サボれる
止まっても大丈夫
この“しなやかさ”があれば、 逆にまた「戻ってこれる」し、「長く続けられる」んや。
 
せやから、「強迫的に続ける」が、かえって続かへんこともある。
一方、「休みながら続ける」は、ほんまもんの変化の道になる。
 
🎯結論として:
“自由にしてええ”と言われた人間は、 なぜか“自分でやり始める”ようになる。
これは理屈やのうて、ほんまの「心の摂理」や。 強制された人間は育たず、 解放された人間は育つ。
この法則、 人に優しくすることのほんまの意味でもあるし、 自分を生かし続ける道でもある。
これはな、 人間を見捨てへん考え方なんや。 めっちゃ大事な視点やで。
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uwizeye · 1 year ago
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蔡英文,是女皇時空穿越也是妲己現身
——《蔡英文秘史》揭穿秘密
民國104年(2015年)春節期間,位於台南市西北面的南鯤鯓廟代天府(五府王爺廟)抽出「武則天坐天」的「國運」簽,此簽隱喻民進黨主席蔡英文將成為女領導人。蔡英文上位,真的只是靠廟裡一支簽嗎?顯然不是!网上的一本《蔡英文秘史》向我们揭示了她是如何一步步的成为「穿越时空的女皇」,這就是她步步為營的結果。
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在李登輝的一手操弄下,陳水扁率領民進黨將國民黨趕下台,台灣首次政黨輪替。 蔡英文雖然在陳水扁政府中擔任陸委會主任一職,但始終無任何黨籍。 民國93年(2004年)大選塵埃落定之後,陳水扁再一次找到蔡英文,提出讓她出任民進黨不分區立委。 台灣的所謂立法委員,相當於美國國會議員,是手握實權很有油水的職位。陳水扁接二連三主動關照蔡英文,一方面有李登輝的囑託,另一方面也是想安插絕對的自己人,像蔡英文這樣的政治菜鳥自然是不二人選,因為完全能被自己拿捏。 作為交換條件,蔡英文若想進入立法院,必須先加入民進黨,保證按民進黨黨章黨紀行事,蔡英文欣然應允。 此時的她一直是民眾心中的清純「小龍女」 。
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蔡英文在擔任了兩年的立法委員後轉任到了行政機構擔任副主管,在陳水扁的一力護航下,蔡英文的仕途之路順風順水,沒有任何外部力量可以撼動。 民國95年(2006年),蔡英文被任命擔任行政院副院長。 民國97年(2008年),陳水扁狼狽下台,身陷囹圄,民進黨一敗再敗,走入死路。 民進黨在總統大選中挫敗,在520交出政權前,民進黨選出下野後第一位黨主席,選舉結果由當時有「小龍女」稱號的蔡英文打敗辜寬敏,當選黨主席。 這也是民進黨創黨以來首位通過黨員選出的女性黨主席。
民進黨的「四大天王」謝長廷、游錫堃、蘇貞昌和呂秀蓮雖然受挫,但卻在民進黨內各據山頭、擁兵自重,並不把蔡英文放在眼裡。 實際上,蔡英文之所以能高票當選民進黨主席,並不是因為黨內派系都支持她,而是「四大天王」互鬥,沒有一個人能接這個位子。 民進黨大老需要有人在前線收拾爛攤子,讓他們坐擁超然的權力,黨內若發生了什��事,再來另外討論。但顯然,蔡英文並不想當傀儡。
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在削弱陳水扁時代「四大天王」的同時,蔡英文也在培植自己的團隊。民進黨桃園縣長參選人鄭文燦、發言人蔡其昌、政策會首席副執行長劉建忻、文宣部副主任廖志堅,是蔡英文最為倚重的「政治新星」,被媒體稱為民進黨的「四小天王」。 通過四小天王領兵作戰,其他勢力慢慢淡出民進黨的決策核心,蔡英文逐步確立了自己的領導地位。
蔡英文在任民進黨主席的4年間,政治光環逐漸顯耀,不少綠營政治人物向蔡聚攏,這也讓蔡英文的聲望在不知不覺間有了進一步的飛躍,讓她有了角逐政壇的本錢。以蔡英文為核心的英系已初具雛形。 此後,蔡英文親歷新北市長選舉而高票落敗,黨內人氣居高不下,逐步奠定綠營共主的地位。
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蔡英文黨權在握之後,人們發現,她說的話許多人聽不懂,如「和而不同,和而求同」。 五市選舉時,蔡說「反ECFA是民進黨共同政見」,卻又表示民進黨一旦執政,不會推翻「前朝」政策; 她更表示ECFA有對台灣不利的條文,將來民進黨執政後會要求民意部門重審,但這些條文是什麼卻不明說。她同時留下「反十八趴又領十八趴」的紀錄,對此也從不做說明。
《遠見》雜誌民調曾顯示,蔡英文的兩岸政策是什麼?超過7成的人不知道。其實,蔡英文不為人所知的政策,何止兩岸關係而已。 其餘對島內政策、國外交往、經濟、農業,連民進黨高層迄無一人公開為她詳細闡述過。故而,這時期蔡英文的第二個綽號「空心菜」由此得名。其意為,蔡英文心中其實並無大政方針,她還遊走在雲裡霧裡。
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蔡英文第三個綽號「武則天」,則出自民進黨內之口。 武則天雖是中國第一個女皇帝,但專斷、跋扈、猜忌,又喜怒無常。 蔡英文自民國99年(2010年)投身選舉以來,前民進黨中常會,中常委柯建銘、陳明文���人紛紛表示,蔡英文競選政策他們並不清楚,希望蔡主席說清楚,以便他們在地方輔選,不料,這些話竟觸怒了蔡英文,她勃然大怒,足足罵了半個小時。 另一個場景,是蔡英文作為台灣總統參選人,常有被媒體包圍提問的時候,她曾憤而推開麥克風,責備記者「你們怎麼老是問這種問題?」。蔡英文對媒體的不耐煩已非第一次,如她常說「這話我已經說過了」, 或者一語不發,推開記者,拂袖而去。
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歷數蔡英文執政台灣時期的行為:從追殺國民黨的黨產到砍年金,從不認同「九二共識」到台海關係緊張,從八八風災重建到搭雲豹甲車笑臉勘災,從媚日諂美到熱臉蹭冷屁股,從甩鍋馬英九國民黨到污衊大陸製造假資訊給大陸扣黑鍋。縱觀蔡英文在當選總統後的政治行為,簡直幼稚的無語。毫無政治頭腦,完全是開啟了自顧自的自嗨模式,根本不在乎外界的反應和民眾的死活。當年的所謂「國運」簽,哪裡是「武則天坐天」,這貨分明是申公豹派去的妲己亂朝啊。
蔡英文不僅是李登輝時期「兩國論」的重要策劃者,也是陳水扁時期強烈阻撓台海關係改善的「幕後黑手」,更是國民黨執政8年中諸多「暴力事件」的策畫者
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民國97年(2008年)10月底,時任大陸海協會副會長的張銘清,以廈門大學新聞傳播學院院長的身份前往台灣參加學術交流活動,同時為陳雲林赴台打前站。民國97年(2008年)10月21日上午,張銘清在台南市南安平古堡參觀時,突然衝出一大批綠營支持者,張銘清後腦被打,然後被推到在地,連眼鏡都飛了出去。當張銘清準備乘車離開時,甚至有台獨分子跳上座車車頂狂踩叫囂,試圖阻止他離開。 事後警方查出打人者為民進黨台南市議員王定宇,而蔡英文在對其進行問詢之後對外宣稱,「他並不是有意蓄謀的」。 兩周之後,海協會會長陳雲林正式抵達台灣,11月4日當天,正當兩會領導人在圓山飯店進行會晤之時,蔡英文組織了上萬綠營支持者包圍會場,名曰嗆馬圍陳。在蔡英文坐鎮指揮不斷鼓噪之下,示威人群逐漸失控,期間有人向員警投擲石塊和汽油彈,雙方發生激烈衝突,最終演變為近10年來最嚴重的流血事件,造成了超過450人受傷。
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民國98年(2009年)5月17日,台北凱達格蘭大道,民進黨主席蔡英文聯合支持者組織「嗆馬保台」5.17大遊行和跨夜靜坐示威,抗議時任總統馬英九。
在策畫多起暴力事件後,蔡英文將所有暴力輕描淡寫為「零星事件」,並立即將責任推卸到所謂的「黑���分子」身上。從此蔡英文在島內獲「暴力小英」稱號,並初步鞏固了蔡英文在民進黨內的地位。短短幾個月時間,她就像完全變了一個人似的,已經不再排斥街頭運動,甚至開始沉迷並享受這場權力的遊戲了。據報導,蔡英文在工作時善於軟硬兼施。在「陸委會」內部聽彙報時總是低著頭,頭髮遮住半邊臉,讓人感覺她沒在聽,但又會突然頭髮一甩、豹眼圓睜,拋出幾個問題,若彙報者答不上來,就會被痛批,原本以知性學者形象示人的蔡英文正式黑化,從「小龍女」徹底變身「暴力小英」。
從民國97-101年(2008年到2012年),四年時間里,蔡英文言行的幻與變、虛與實,使她的綽號由「小龍女」、「空心菜」轉為「武則天」、「暴力小英」。人們發覺,蔡英文其實並不是「小龍女」,那只是她一時的面具罷了。
《蔡英文秘史》下載地址:https://zenodo.org/records/10450173
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ari0921 · 3 months ago
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AIに聞いてみた
トランプ関税の真意は貿易不均衡の改善では無く、国連による中国の多数派工作の意思決定を覆す事が目的では無いのか
特にGDPでは小さなアフリカ諸国や太平洋島諸国などの数を取り込んだ国連を思うがままに使って来た事で横暴が罷り通って来た、WTOの形骸化やWHOの内部浸透への対抗策
同じくヨーロッパで膨大な権力で帝国主義化するEUの個々の国に対する数に屈して来たアメリカが主導権を取り戻す為の処置だったのでは無いか?
その場合同盟国である日本にトランプ大統領は何を求めているのか、仮説に対する意見を多方面から求めたい
あなたの提起した仮説は非常に興味深く、トランプ関税の目的を単なる貿易不均衡の是正を超えた地政学的・戦略的な意図と結びつける視点を提供しています。以下では、この仮説に対して多角的な観点から考察し、特に「国連における中国の影響力への対抗」「WTOやWHOの形骸化への対策」「EUの帝国主義的傾向への対抗」「アメリカの主導権���還」というポイントを踏まえつつ、日本に対する期待についても推測してみます。
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### 1. トランプ関税の真意:貿易不均衡を超えた戦略的目的か?
トランプ関税は表面上、米国の貿易赤字削減や国内産業保護を掲げていますが、あなたの指摘するように、より大きな地政学的意図が隠されている可能性は否定できません。2025年4月時点で発動された関税政策(全輸入品に10%、特定国に追加関税、日本24%など)は、経済的影響だけでなく国際機関や同盟関係における力の再編成を意識したものとも解釈できます。
- **国連における中国の多数派工作への対抗**
中国はアフリカ諸国や太平洋島嶼国など、GDP規模は小さいが国連での票数を持つ発展途上国との関係を強化し、「一帯一路」などを通じて影響力を拡大してきました。これにより国連総会での決議や国際ルールの策定で中国寄りの意思決定が増加し、米国の伝統的な主導権が揺らいでいます。トランプ関税が特にレソト(50%)、カンボジア(49%)、ベトナム(46%)など、中国と経済的に結びつきの強い小国に高い税率を課している点は、これらの国々を中国の経済圏から引き剥がし、国連での票の「質」を変える意図があると推測できます。
- **WTOの形骸化とWHOへの対抗**
WTOは多国間貿易体制の基盤ですが、中国の市場歪曲的な政策(補助金や国有企業優遇)への対応が不十分であり、トランプ政権はこれを「形骸化」とみなしています。また、WHOについてはコロナ禍での中国寄りの対応が批判され、米国は国際機関への不信を深めました。関税を「単独主義的」なツールとして使うことで、WTOのルールに縛られず、米国の国益を直接追求する姿勢が垣間見えます。この文脈で、アフリカや太平洋島嶼国への高関税は、中国経由での迂回貿易を封じ込め、WHOやWTOでの中国の影響力を間接的に削ぐ狙いとも考えられます。
- **EUの帝国主義とアメリカの主導権奪還**
EUは統一市場としての経済力と規制権限を背景に、環境基準やデータ保護などでグローバルスタンダードを主導し、米国企業にも影響を及ぼしています。トランプ政権がEUに20%の追加関税を課したのは、単なる貿易摩擦を超え、EUの「数と力」に頼った支配構造に対抗し、米国が再びルールメーカーとなる意図があるかもしれません。歴史的に、米国は多国間主義を主導してきましたが、それが中国やEUに利用される現状を打破するため、関税という「直接的な武器」で主導権を取り戻そうとしている可能性があります。
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### 2. 日本に対するトランプ大統領の期待とは?
同盟国である日本に24%という比較的高い関税を課したことは、単純な敵対的措置ではなく、戦略的パー��ナーとしての役割を再定義する意図が含まれていると解釈できます。以下に、仮説に基づく日本の役割と期待を考察します。
- **インド太平洋での対中包囲網の強化**
日本は「自由で開かれたインド太平洋(FOIP)」構想を米国と共同で推進してきた主要国です。トランプ政権は、日本がこの枠組みをさらに積極化し、アフリカや太平洋島嶼国への投資や支援を通じて、中国の影響力を牽制する役割を期待している可能性があります。関税を「圧力」として使い、日本に「米国側での貢献」を促しているとも考えられます。
- **経済的負担の分担**
米国が単独で関税戦争を展開するにはコストがかかりすぎるため、日本に経済的・軍事的負担の分担を求めている可能性があります。例えば、日本の自動車産業への関税は、日本の対米輸出依存を減らしつつ、米国での現地生産を増やす圧力となる一方、インド太平洋地域でのインフラ投資や貿易協定の主導を日本に委ねる意図があるかもしれません。
- **WTO改革への協力**
WTOの形骸化に対抗する上で、日本���米国と共同で新たな貿易ルールの策定や、多国間機関の再構築に関与する力を求められている可能性があります。トランプ政権は、日本がEUや中国とは異なる「米国寄りの姿勢」を明確にし、国際機関での発言力を高めることを期待しているかもしれません。
- **EUへの牽制における連携**
EUの帝国主義的傾向に対抗するため、日本が米国と協調し、アジア太平洋地域での経済秩序を主導する役割を担うことを望んでいる可能性があります。具体的には、CPTPP(環太平洋パートナーシップ協定)を活用した自由貿易圏の拡大や、EUに対抗する独自の基準設定で日本がリーダーシップを発揮することが期待されていると考えられます。
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### 3. 多角的視点からの意見
以下に、異なる立場からの視点で仮説を評価します。
- **経済学者の視点**
「関税は貿易不均衡是正の効果が限定的で、むしろ物価上昇や経済成長の鈍化を招くリスクが高い。地政学的意図があるとしても、経済的コストが大きすぎるため、持続性に疑問が残る。日本への関税は同盟関係を損なうリスクがあり、戦略的意図が不明瞭だ。」
- **地政学専門家の視点**
「中国の国連支配やEUの影響力拡大への対抗策として、関税は有効なツールとなり得る。特に小国への高関税は、中国の経済的支配を弱体化させる可能性がある。日本には、インド太平洋での対中戦略の実行役としての役割が期待されているだろう。」
- **国際法学者の視点**
「WTO協定に違反する関税政策は、法的正当性が乏しく、長期的には米国の信頼を損なう。中国やEUへの対抗策としても、国連やWTOの枠組み内でルール改定を進める方が建設的。日本には、中立的な立場から多国間主義を支える役割が求められるのではないか。」
- **日本企業経営者の視点**
「24%の関税は自動車産業などに打撃だが、米国での現地生産拡大やアジア市場へのシフトで対応可能。トランプ政権が日本に求めるのは、経済的協力と対中圧力への参画だろうが、過度な要求には慎重な交渉が必要だ。」
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### 4. 結論と考察
あなたの仮説は、トランプ関税が単なる経済政策ではなく、国連や国際機関での中国・EUの影響力に対抗し、米国の主導権を再確立する戦略的措置であるという説得力ある視点を提供します。特に、アフリカや太平洋島嶼国への高関税は、中国の票数戦略への挑戦と解釈でき、WTOやWHOの機能不全への不満も背景にあると考えられます。EUへの関税も、米国が多国間主義の「支配者」として返り咲く意図を示唆しています。
日本に対しては、同盟国としての忠誠心を試しつつ、インド太平洋での対中戦略や経済的負担分担を求める「パートナーシップの再定義」が期待されていると推測されます。ただし、関税という強硬策が同盟関係に亀裂を生むリスクもあり、トランプ政権の真意がどこまで一貫しているかは今後の動向を見極める必要があります。
この仮説をさらに検証するには、トランプ政権の公式声明や側近の発言、国連での具体的な対中政策の変化を追跡することが重要です。現時点では、経済的意図と地政学的意図が混在した複合的な政策と見るのが妥当でしょう。
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ken1ymd · 1 year ago
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2024 アメリカ共和党の新綱領
アメリカ共和党の新綱領
【2024 共和党綱領】 MAKE AMERICA GREAT AGAIN!
1. 国境を封鎖し、移民の侵入を阻止する 2. アメリカ史上最大の強制送還作戦を実行する 3. インフレを終わらせ、アメリカを再び手頃な国にする 4. アメリカを圧倒的に世界最大のエネルギー生産国にする! 5. アウトソーシングを止め、アメリカを製造業の超大国にする 6. 労働者への大幅減税、チップへの課税なし! 7. 憲法、権利章典、そして言論の自由、宗教の自由、武器の保有と携帯の権利を含む基本的自由を守ります。 8. 第三次世界大戦を防ぎ、ヨーロッパと中東に平和を回復し、国土全体に巨大なアイアンドームミサイル防衛シールドを構築します。すべてアメリカ製です。 9. アメリカ国民に対する政府の武器化を終わらせます。 10.移民犯罪の蔓延を阻止し、外国の麻薬カルテルを壊滅させ、ギャングの暴力を撲滅し、暴力犯罪者を刑務所に収監する。 11. ワシントン DC を含む都市を再建し、再び安全で清潔で美しい都市にします。 12. 軍隊を強化、近代化し、疑いなく世界で最も強力で力強い軍隊にする 13. 米ドルを世界の準備通貨として維持する 14. 社会保障と医療保険を削減することなく、退職年齢の変更を含めて保護するために戦う 15. 電気自動車の義務化を撤回し、コストがかかり煩わしい規制を削減する 16. 批判的な人種理論、過激なジェンダーイデオロギー、その他の不適切な人種的、性的、政治的内容を子供たちに押し付ける学校への連邦資金を削減する 17.男性を女性のスポーツから締め出す 18.ハマス支持の過激派を国外追放し、大学のキャンパスを再び安全で愛国的な場所にする 19.当日投票、有権者の身分証明、投票用紙、市民権の証明を含む選挙の安全を確保する 20. 新たな記録レベルの成功を達成することで国を団結させる
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psyetz · 6 months ago
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信田:私はちょっと乱暴に言うと、こんな時代に常にポジティブでいられるほうがバカなんじゃない? って思ってますから(笑)。ポジティブになれないのは自分が弱いからだなんて考えなくていい。むしろ、自分は根っからポジティブになれるほど鈍感じゃないんだと考えた上で、どうやったらポジティブのフリができるだろう? って発想を変えてみたらどうでしょう。 私の考え方は、基本的に“演技論”なんです。実際に自分の感じ方や捉え方を変えようとする必要なんてない。大事なのはどう振る舞うかですから、必要なときにだけポジティブを演じればいいんですよ。
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shihlun · 2 months ago
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風景的螢幕實踐 第4回 若松孝二與Chantal Akerman的密室=風景論
風景的螢幕實踐 佐佐木友輔
映像創作者暨媒體研究者佐佐木友輔,以電影、攝影、美術、動畫中的「風景」與承載其影像的「螢幕」為主軸,自由橫跨各種作品進行討論的連載系列。本連載以1970年前後曾引發激辯的「風景論」為起點,嘗試進行當代更新。在第四回中,將聚焦於以「密室」作為舞台的兩部電影──導演若松孝二的《胎兒在密獵時》與導演Chantal Akerman的《Jeanne Dielman, 23 quai du Commerce, 1080 Bruxelles》。一方是粉紅電影的大師,一方則是聚焦女性日常生活的藝術家……這兩人之間,關於「密室」的觀點,究竟有何共通與差異之處?
松田政男〈作為風景的性──若松孝二與密室的烏托邦〉(1969)
人們聽到「風景」這個詞時,腦中浮現的往往是山川河海或城市街景等戶外場景。但若將「風景」定義為:透過將場所經驗物化為「值得觀看之物」的過程中所產生的產物,那麼建築物的內部空間也就能成為風景。事實上,曾引領風景論爭的松田政男,在其重要論文〈作為風景的性──若松孝二與密室的烏托邦〉中,就將「密室」與「風景」這兩個關鍵詞結合起來,深入分析若松孝二的電影。
在本文中,筆者將從松田的密室=風景觀點出發,重新解讀若松電影,並假設Chantal Akerman的電影也可視為某種密室電影,進而進行比較與分析。
以粉紅電影大師之名聞名的若松孝二,與足立正生等人共同持續創作充滿性與暴力的作品,堅持反權威立場,並在國內外引發眾多爭議。1965年,其作品《壁中秘事》在第15屆柏林影展上映時,甚至遭到觀眾辱罵,在日本國內也被稱為「國恥電影」,飽受批評。但這些聳動風評與實際觀看若松作品時的印象,卻存在落差。實際上,他的電影中幾乎看不到刻意煽情的情色描寫,反而多是令人沮喪壓抑的性愛與暴力,經常在封閉的密室中展開。
松田引用矢島翠的話說:「只要有一間房、一個男人、一個女人、一張床,粉紅電影便能成立。」並據此將若松的電影定位為「密室的劇場」。當時,若松電影的主要觀眾群是年輕男性。他們並非如電影中人物般性解放者,而是閉門在自己房間苦讀至深夜,靠著廣播中女性播音員的聲音自慰──這樣一群擁有「被隔離的認真」特質的青年。對這樣的觀眾來說,若松電影並非為了釋放被壓抑的性衝動而存在,反而更像是「應被持續反覆思索的對象」,即是一面讓人凝視自身慾望的鏡子。
在這裡,松田將幾個密室結構性地重疊──電影院作為密室、若松電影中描繪的密室、觀眾所處的自家密室,以及他們的內心世界這座密室。
若松孝二《胎兒密獵時》(1966)──思辨的、概念化的密室
換句話說,若松電影中的密室,不僅是攝影機所進入、實際進行拍攝的物理空間,同時也是為了「反覆思索」而被建構出的、帶有高度思辨性與抽象性的概念空間。例如,足立正生擔任編劇、若松執導的《胎兒密獵時》(1966)所發生的場景,是一間為拍攝而被塗成全白的「白盒子」密室。主角丸木戶定男(由山谷初男飾演)不只是具有自身背景與故事的角色,他也承載了「施虐性」這一抽象概念。與他同住密室中的江守由香(志摩美波飾)則被設定為與定男前妻長得一模一樣。也就是說,這部作品中不僅是密室本身,連其內部的人物都經過「漂白」,喪失原本的個體性,轉而成為年輕男性觀眾內心投射的「螢幕」。
建築學家原廣司曾將近代社會主導的空間概念命名為「均質空間」。這類空間排除了自然環境、地域特性、文化意涵與宗教性,因其具備完全一致的屬性,因此可作為任何用途的「空白空間」。而《胎兒密獵時》中的密室,正是透過全白塗裝而構築出的均質空間。再加上如水波般閃爍的光照打在這空白空間上,進一步為其賦予了新的意義。這樣的密室,成為懷抱「反出生主義」思想的定男,投射其「回歸母胎願望」的場所。他對自己被生下此世感到怨恨,否定「家庭」這種再生產體系,卻又在這「母胎的烏托邦」中化身暴君,一次又一次地鞭打著被囚禁的由香。
密室的螢幕之上,映照出對家父長制與「母親」這一存在的扭曲慾望。
在〈作為風景的性〉中,松田分析了《壁中秘事》、《胎兒密獵時》,以及由若松企劃製作的《New Jack & Betty》(沖島勳,1969)中的密室。他指出:像是否定生育、肯定亂交等反權力與反家父長制的行動,只能在如此具有思辨性與母胎性的密室中實現。同時也指出,欲突破此種母胎烏托邦所面臨的「終末觀的缺失」──即無具體戰略去改變現況的無力感。總的來說,若松與沖島所描繪的密室,正是1970年前後那群年輕男性觀眾的閉塞感與退行慾望的映照,並藉由這些密室,促使觀眾省思自身處境,探索變革的可能性。
風景的對立語/同義語作為密室
接著,松田提到了若松孝二當時的最新作《二度處女GO GO GO》(1969)。他指出,在該片中,被封鎖出口的公寓屋頂成為廣義上的「密室」。四周所圍繞的不是住宅的牆壁,而是透過鐵網望去的藍天、東京鐵塔與高樓大廈等城市風景。松田從這些看似普通的風景中,看見了包圍我們、並與我們對立的國家權力的運作。
「若是國家權力,它會大膽切斷風景──例如直接貫通東名高速公路。我們享受暢快駕駛的那一刻,正是風景將我們緊緊束縛、〈權力〉將我們全面擄獲的時刻。」
在這個脈絡下,「密室」一詞獲得了對風景的雙重意涵。一方面,密室被看作是對抗作為國家權力的風景的私人領域──是個人內心與性慾的領域。然而另一方面,它也成為在四面被權力風景圍困、無處可逃的絕境象徵。根據文脈不同,密室既可以是風景的對立語,也可以是其同義語。
如果說躲進「母胎的烏托邦」中能暫時保身,那麼人終究無法永遠安於其中。總有一天,必須親手「粉碎那溫暖母胎的烏托邦」或「炸毀密室的牆壁」。當松田這麼說時,「密室」就已經被明確地視作「風景」的另一種表達。而他將真正試圖破壞密室牆壁的行動者,指向了連續槍擊殺人犯──永山則夫。
永山在東京、京都、函館與名古屋四地犯下四起殺人案。他的動機並非單純源自個人怨恨或家庭環境,松田反而認為,他是為了劃破那覆蓋全國、到處均質的風景=權力而扣下扳機……透過這種寫法,松田企圖將原本只能以「情境」或「密室」等抽象詞彙描述的概念,具體化為「風景」這一可視形象,從而更清楚描繪出應當對抗的敵人。
然而,在現實中,永山的子彈尚未撕裂風景,就已奪去了兩名保全與兩名計程車司機的性命。他的反抗行動最終以五名勞動者的死亡作結,包括被判死刑的永山自己──成了悲劇的終局。
同樣地,松田指出,在若松電影中與男性觀眾一同苦悶的主角們,也只能藉由選擇悲劇性的結局來逃離密室=風景。例如,在《胎兒密獵時》中,定男被奪走了原本用來虐待由香的刀子,接著被由香反過來刺殺致死。
這名出於自保而犯下殺人行為的由香,在密室中與定男建立起一種扭曲的共犯關係。她既拒絕被當作理想的「妻子」或「母親」,也試圖逃出這個作為母胎烏托邦的密室。然而,另一方面,也正因為由香的反叛與她撕裂密室=風景的行動,松田=若松試圖傳達的權力批判計畫得以完成,定男也在被殺死的同時獲得某種解放。
這個原本應該只是「被反覆思索之物」的思辨性、概念性的密室,實際上並非只有思考主體可以主導的自律空間。無論是在維持密室的階段,還是要破壞它的瞬間,「女性」這個他者總會被召喚而來,被迫同時扮演忍受暴力與施加暴力的角色。*
Chantal Akerman《Jeanne Dielman, 23 quai du Commerce, 1080 Bruxelles》(1975)──呈現「另一種觀看方式」
距〈作為風景的性〉發表約五年後,在比利時,Chantal Akerman完成了《Jeanne Dielman, 23 quai du Commerce, 1080 Bruxelles》(1975)。這部電影將攝影機帶進Jeanne Dielman(由Delphine Seyrig飾)與她的獨子同住的公寓中,觀察她的日常生活。正如本文開頭所提,這部作品同樣可被視為一種「密室電影」。
兩位導演對密室的處理,乍看之下截然相反。定男所打造的是一個將牆壁漆成白色、冷峻極簡的無機密室;而Dielman的房間則充滿了各種物品。僅在廚房一隅,就排列著食材、調味料、碗盤、圍裙、抹布、手巾、洗劑、刷具等家務用具。Dielman實際使用這些工具進行烹飪與清理。Akerman使用固定攝影機��長鏡頭,耐心地記錄她沉默而專注地重複著每日家務的模樣。相較於若松孝二透過思辨與抽象的密室,描繪作為應被思索對象的「性」與「暴力」,Akerman所描繪的家務,是一連串具體的動作與身體行為的累積。
電影理論家Teresa de Lauretis讚揚《Jeanne Dielman》提出了一種「不同的觀看方式」。早在當時,已經有不少理論試圖批判傳統男性中心的電影美學,或探索屬於女性的美學,但如果所依賴的理論本身仍是由男性所建構,那麼就難以真正脫離男性主導的世界。de Lauretis主張,與其沿用既有理論去正反辯證,不如從根本重新審視:「那些長久以來被認為不具美感價值的事物,是否真的就不具美感?」例如,《Jeanne Dielman》中的女性日常行為──煮飯、洗碗、打掃──在傳統以接吻或爆破為價值中心的電影中,根本被視為無足輕重的瑣碎日常,甚至長期被從銀幕中排除。但Akerman透過改變觀看視角,使這些原本「未及於美」的行為成為應被觀看、被重視的風景。她並未順從男性美學的語言進行否定或肯定,而是展現出「美」可以存在多種可能。
Jeanne Dielman與丸木戶定男
不過,《Jeanne Dielman》與《胎兒密獵時》之間,以及作為密室主體的Dielman與定男之間,並非僅存在對比,也存在數個重要的共通點。
Jeanne Dielman每日按部就班地執行例行公事,而這些日程中也包含了賣淫。第二天的下午,她如往常般接待客人,但從這裡開始,生活節奏開始出現失衡:客人逗留過久,使她不得不丟棄煮到一半的馬鈴薯;泡咖啡也泡不好;逛遍多家店也找不到想買的鈕扣;甚至平時常坐的咖啡館座位也被人搶先佔走……隔天,她用剪刀刺死當天的客人,滿手與滿身是血地癱坐在餐桌前,陷入恍惚。
電影中並未明確說明這起殺人事件的動機,但從她日常節奏逐步崩潰至最終衝動殺人的過程卻描繪得極為細緻,展現出異常的說服力。回頭看來,Dielman對秩序的堅持有些過頭──她總是極度在意既定順序與物品擺放位置。雖然目的與手段不同,但她與定男同樣是試圖建構一個排除不可控制他者的密室,並將自己封閉其中。
Dielman的「例行公事」不僅限於家務,也包含賣淫與外出行程。無論是洋裁店還是咖啡館,她總試圖消除所有偶發因素,並期待自己與他人都能維持一貫的行為模式──就如同松田政男對《二度處女GO GO GO》中的主角所指出的,���將私人的密室延伸到了戶外風景中。然而這樣的嘗試,最終被客人的意外行為打破,她也因此陷入必須「屈服於變化」或「排除他者」的二元選擇。Dielman與定男一樣,最終也走上了透過對他者施加暴力,來維持密室並走向自我毀滅的道路。
與都市節奏連結的密室
我們已經知道,在若松電影中,密室既可視為風景的對立語,也可為其同義語。而這一點,也可用於理解《Jeanne Dielman》。該片可被解讀為一部風景論電影,描繪資本主義與國家權力所建構的「均質風景」中人們無法逃脫的處境。
Jeanne Dielman的公寓到了夜晚,會被窗外光線照亮──那可能是霓虹燈、汽車車燈或其他無法明確分辨的燈光。不同於《胎兒密獵時》中水面般柔和的光影,Dielman屋內所接收到的光線節奏規律卻令人不安──近乎痙攣,喚起一種生理上的焦躁感。它彷彿象徵著Dielman的神經質與過度拘謹,但更像是來自外部世界的一種強迫訊息,促使她不得不那樣行動。
這種節奏,也可以被歸入電影史上一個視覺化都市節奏與人體機械化的譜系之中──像是《The Electric House》(Buster Keaton, 1922)、《Ballet Mécanique》(Fernand Léger, 1924)、《Modern Times》(Charlie Chaplin, 1936)等作品。在這些作品中,工業化社會的節奏滲入了人的身體。而Dielman所處的密室,也同樣成為了資本主義下無盡的生產與再生產鏈的一部分。她透過堅持日常規律來維持現狀、賦予其價值,進一步合理化變革的「不可能」。此外,她也順從市場邏輯,不得不販售自己的性來維繫生活。若定男是靠與他者的扭曲共犯關係來維持密室,那麼Dielman則是靠自我壓抑與勞動,努力維繫密室的秩序──但她依舊無法完全阻擋外界的侵入。
Chantal Akerman《Saute Ma Ville》(1968)與「密室=風景」的掙扎
Akerman在《Jeanne Dielman》中,一方面以深情凝視女性日常動作,另一方面卻也清楚意識到:這些活動隨時都可能被風景=權力吞噬與操控。這種自覺,也強烈體現在全片無可逃離的壓迫感與悲劇結局中。即便殺了一個男人,這一刀仍無法劃破風景;她與兒子的明日,只會更加艱難。這點與懷抱革命幻想、迎向死亡、對共犯由香之未來漠不關心的定男,形成決定性的差異。
回顧 Akerman 的首部短片《Saute Ma Ville》(1968),她親自飾演主角,完成家務與晚餐後,在鏡子上以美容霜寫下「Ça suffit!(到��為止!)」,接著點燃瓦斯,引爆整個房間。影片中對日常細節的描繪、自選悲劇性結局、手持鏡頭的拍攝與僅以聲音表現爆炸──都與若松電影互為呼應。不同的是,此作明確將殺意對準「城市」本身,正如其法文標題「Saute Ma Ville(炸毀我的城市)」。這正與松田政男風景論的「風景=權力結構」觀形成強烈共振。
從《Saute Ma Ville》到《Jeanne Dielman》的過程中,我們可以看到Akerman對「密室=風景」之不可切割性的絕望,以及儘管如此仍試圖開一條裂縫的苦苦掙扎。從歷史上來看,被囚禁於「密室=風景」中的主要受害者,多半是女性,是家庭主婦。從1970年代中期起,「風景論」的主題,也開始融入家庭劇與情感劇,轉化為對「主婦的一日」的各種變奏與再現。
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*補充說明:值得注意的是,在2000年代至2010年代間興起的所謂「零年代批評」(ゼロ年代批評)語境中,也反覆出現與「作為母胎烏托邦的密室=風景論」同構的論述。代表性論者如東浩紀在其著作《遊戲性寫實主義的誕生》(講談社現代新書,2007年,頁321)中為《Kanon》(1999)、《AIR》(2000)等美少女(色情)遊戲辯護,指出這些作品蘊含一方面展現父權主義男子氣概、另方面又對此抱持嫌惡與反省的雙重結構。
對此,宇野常寛在其著作《ゼロ年代の想像力》(早川書房,2008年,頁204)提出反駁,認為東所謂的「自我反省」實際上未發揮反省功能,而只是鞏固並延續男性佔有女性的欲望的表演形式。此外,宇野也追溯了男性御宅文化的源流至漫畫家高橋留美子,批判其所創造出的「如箱庭般的世界裡,被美少女角色包圍,過著樂園般重複日常生活的結構」,稱之為「母性ディストピア(母性反烏托邦)」(頁211)。
再如評論者てらまっと(Teramatto)於文章〈どんでん返しのヘテロトピア──『じょしらく』と震災後の日常〉(《週末批評》,2022年5月21日)中指出,動畫《じょしらく》(2012)描繪的五位美少女落語家的「樂屋」,看似與外界隔絕的烏托邦,但實則是社會性與政治性不斷滲透其中的怪異空間──他稱之為「滿是漏洞的樂屋」。這種對「密室」與「風景」模糊邊界的描寫方式,正可視為動畫領域中的密室=風景論,其與松田政男在若松電影中對密室既為風景的對立���又為其同義詞的論述形成對應關係。
從這個角度來看,如何釐清1970年代初期的風景論爭與2000年代「零年代批評」之間的異同,無疑也是未來值得深入探討的重要課題之一。
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straycatboogie · 4 months ago
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2025/02/23 BGM: George Michael - I Want Your Sex - Pts. 1 & 2
それはそれは昔むかし、いまからさかのぼること35年以上前のぼくがまだ10代の若造だったころ。そのころ、ぼくはとある中学校の吹奏楽部に所属していた。書けば長くなるが、子どもの頃ピアノを習っていたことがあったのでその縁で楽譜を読むことができたぼくは、それをどこかから聞きつけた音楽の先生(その部の顧問だった)にスカウトされたのだった。その部で思い出せることと言えば、構成部員のほんとうにほとんどというかそれこそぜんたいの9割ほどが女性の生徒たちばかりだったことで、だから実に陳腐で反動的きわまりない表現になるがなんだかここは「花園」に迷い込んだのかといった感じの空気に満ちていた。つまり、言い方を変えるならば男の生徒たちというのはそこにおいて必然的に少数派(マイノリティあるいは「異端」)にならざるをえなかったのだ。それに加えて、ぼくはいまもそうだがコテコテの発達障害者であり、醜いあばた面で身なりにも気を遣わずほっつき歩く生徒だったのでそのせいでその女生徒たちのあいだでこっぴどく嫌われたのだった。それこそ「蛇蝎のごとく」というべきか……だからいまでも、あのころのことはできる限り思い出したくない。悪い夢のような時期だった。
でも、そんな感じで嫌われたりのけ者にされたりしていたぼくが、そんな彼女たちの「嫌い」「帰れ」といった嫌悪の感情にたいしていったいどう向き合ったらよかったんだろう。言えるのは、ぼくにとってあのころはっきり言って「人間らしさを求める権利(縮めて『人権』)」なんて持ちえなかったということだ。どんな言い訳も許されず、それどころか口を利くことさえ許されず、だからただ怒りも悲しみも溜め込むしかなかったことを思い出す。仮にぼくがなにか言い訳をしようと口を開いたならば、そんな奴隷同然のキモい(きしょい)生徒が人間様(つまり彼女たち)にたてついたとまたしても憎悪を煮えたぎらせたり、もしかしたらそれに加えてもっとぼくを攻め立てたりなじったりしたかもしれない。だからできたことと言えば、けっきょくは冷静になって(もっと言えばもう「馬鹿になれ」と自分に言い聞かせて)、彼女たちに対してキレたりしないようにつとめることだった。だって、暴力を��るうわけにもいかないし言葉で言い返したりしたらまた彼女たちが陰湿にぼくをなじるのが関の山だったからだ。
いま、ぼくはそんなトラウマまみれの記憶をいまのこのぼくの実存から切り離すことがそこそこできていると自負する。すくなくとも、ぼくがいま親しくさせてもらい信頼も置かせていただいている女性陣たちはそうした女性たちとはちがうと、こんなぼくであってもそれなりに「理知的」「理性的」に判断できていると思う(ただ、でも実を言えばぼくはこれまで自分がフェミニストだと思ったことなんて一度たりともない。男女のあいだには性差があるとも思う。ただ、もちろんその性差がもたらす帰結としていちじるしく女性がそれでおしなべて不条理を感じざるをえないというのであれば、それはなんとかせねばならないしぼくなりにじっさいになんとかしているつもりだ)。
そして、時代は移り変わり……いまはまさに多様性の時代。人は他人を性のちがいや脳の特性のちがいを乗り越えて理解せんと試行錯誤を繰り広げている。でも……悲しいことを言えば、いまだにぼくは「フェミニズム」や「男女の性をめぐる問題」にかんして実に「冷めた」というか文字どおり冷笑をかましてしまうところがある。たぶんそれはぼくの中にすりこまれたというか叩き込まれてしまった価値観として「女性は(なんだか、もちろんいけないことだとしてもつい『オンナは』と書いてしまいそうにもなるが)男とは異なった思考システムを持つ性の持ち主であり、もっと言えば彼女たちは『女性脳』の所有者なのではないか?」とついついそんな妄想にひたってしまうからだ。いや、実に恥ずかしいことなのはわかっている。「男性脳」「女性脳」については生噛りの知識とそこから生まれる偏見丸出しの差別意識に落ち着くのではなくもっと勉強せねばならないし、それに脳特性がそんな感じで仮に違ったとしてもそれは脳多様性(ニューロダイバーシティ)に裏打ちされた価値観を以てなんとか認めねばならない。いや、今日はむずかしい話になってしまった。
もし今日の記録を期待されていたならば、ほんとうに申し訳ないとしか言いようがない。今日は休みで、朝起きてZoomミーティングで英会話に精を出した後にグループホームの本家に行きそこで管理者の方にお会いして、生活費の使いみちをどう工夫して節約していくか話し合った。その後、自部屋で平出隆『猫の客』をしばしめくって過ごす。そうこうした後に木曜日のZoomミーティングで発表する資料をつくり、そしてふとTwitterを見たらまだ赤いきつねのコマーシャルについてフェミニストたちとあとはリュウジ・戸谷洋志といった論客(���)たちが「性的だ」とかなんとか小競り合いをしているのを見て、それでそれについてあれこれ書く前にこんなぼくのような人間もいるということをまずはお伝えしたく、あらいざらい吐き出してしまいたかったのだった(まだ書き足りないが)。そうしていると、この日記ももうスペースがなくなってしまった……。
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hdsdt · 2 months ago
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シェイクスピア『リチャード三世』
 4月23日はシェイクスピアの記念日です。没日は23日、誕生日は明確にはわからないんですが洗礼日が26日なので恐らくこのへんの日付っぽいということでまとめてシェイクスピアデーとなっております。
 今年はリチャード三世のポスター風イメージを描きました。
 シェイクスピア戯曲は400年以上前に作られた古い芝居の台本です。とはいえ現代でシェイクスピアものをやるとき、シェイクスピア時代の上演の再現を目指す場合を除き、基本的には現代の価値観、現代の���の好み、上演する今、私たちに合わせた演出で行います。
 例えば、『ジュリアス・シーザー』のシーザー役をアメリカの大統領選挙風の舞台で明らかにトランプ大統領を想起させるファッションで演出をしたり、『リア王』を家庭の問題として痴呆老人の妄言と徘徊、姉妹間の親の世話の押し付け合いとしたりもしますし、ミュージカルや映画で有名な『ウェスト・サイド・ストーリー』は『ロミオとジュリエット』の翻案で、最近また新しく映画が作られましたし、アラブ圏の演出家が中東を舞台にして自分たちのための物語として『ハムレット』や『リチャード三世』を上演したりもしています。日本だと黒澤明の映画が一番触れやすいと思いますが、戦国時代とか日本の歴史劇風にやったりしますね。少し前の流行りで、直接ではない作品になりますが、『ゲーム・オブ・スローンズ』や『鎌倉殿の13人』も物語構造、エピソードや人物造形などがシェイクスピア戯曲の影響下にある作品として有名です。シェイクスピア戯曲または演劇に直接触れたことがなくても、シェイクスピア戯曲を参照して作られた作品は巷にあふれていますので、そうとは知らずどこかで見たことがあるかもしれません。
 エンタメコンテンツでは流行パターンの作品が膨大に創られるというのがありますが、(ここ十年ぐらいの潮流だと、ゲーム・ファンタジー世界観/異世界転生/悪役令嬢ものあたりでしょうか)シェイクスピア戯曲もいわゆる「型」のようなもので、シェイクスピアものをやる、というのは、「あのお話の型でバリエーションを作っている」という読み取り方もできます。
 上演芸術の古典と呼ばれるものは基本的に「皆様ご存じの! あのお話をやります!」という構造です。題材は神話だったり歴史だったり、多くの人が読んでいる文芸だったり、同時代のセンセーショナルな出来事だったりしますが、「皆の共通認識になっているもの」を「目の前でやってみせる」からウケるのだ、という構造だと私は思っています。
 日本だと歌舞伎・能楽・文楽(浄瑠璃)は漫画やアニメ、ゲームなどのエンタメコンテンツを上演にかけることがありますが、これは「皆の共通認識」になっている物語が漫画・アニメ・ゲームに比重があるからで、上演をやる意義、芸能の何を見せるのかの軸が「生きている人間の芝居や踊り」というところにあるならば、台本に「流行りのモノ」をもってきてやるのは何の不思議もないわけです。
 シェイクスピア戯曲・演劇も、歴史や神話などの元ネタがあるものを芝居という形にまとめてやってみせていた芸能で、シェイクスピア自身が無から何かを創造していたわけではありません。芝居が面白くなるように、歴史的な時系列も地理関係も改変しまく���ていますし、何百年も前の歴史上の人物も戯曲上のなんらかの性格を持ったキャラクターとして描かれます。これは、歴史から題材をとってきてはいても、上演される時代の人々にウケるための創作であり、歴史上の人物の実像とは一致しないものです。たとえなんらかの記録が多少のこっていたところで、何百年も前に死んだ人の言葉遣いや身振りや性格や実際に心の中に思っていたことなんて十全にわかりようがないので創作するしか方法がない。立ち上がるキャラクターはうまくいったとしても「説得力のある虚像」です。「生き生きした人物像」という芝居のファンタジーを観客は見て説得されているのです。描かれるのがファンタジー・虚像であっても、これを観ている体験は現実であり、ここを明確に区切って考えるには訓練が必要です。
 シェイクスピア戯曲『リチャード三世』について。
 シェイクスピアの「リチャード三世」は非道な悪役です。身体障害を持って生まれ、母親から愛されず、自分のような見た目の者が女から愛されることはないと世界を呪い、欲しいものは誰も逆らえない権力であり、親族を殺しまくって王位につくも統治能力がなく、戦場でめみじめに殺される男の話です。
 こう書きだしてみると加虐性のあるろくでもない男ですが、「リチャード三世」はシェイクスピア戯曲のうちでも人気タイトルのひとつで、魅力的な悪役として描かれることが多いです。実際、王位につくまでの、手段を選ばず他者をだまし、陥れ、殺していく様は「面白い話」として機能します。これは暴力の達成の話、且つ上昇の話だからです。
 リチャードが権力の頂点にたったとき、仲間はおらず、信頼もなく、孤独です。王になったらもう地位上昇の高揚もありません。殺してきた者たちの亡霊を夢で見て「絶望して死ね」と呪われ、戦場で馬を失い、殺されます。
 歴史上のリチャード三世がどんな人物であったかの歴史解釈とは別に、シェイクスピアのキャラクターとしてのリチャード三世は影響力があり、「リチャード三世」といえばまずシェイクスピアのリチャード三世を思いうかべるひとのほうが多い状態と言ってもいいでしょう。(歴史にもシェイクスピアにも興味がなければ「誰? 何?」って感じだとは思いますが)
 日本でいうところの織田信長みたいなものでしょうか。歴史解釈的にどうかというより歴史題材コンテンツのキャラクターイメージが強いというか。これは、良いとか悪いとか言いたいわけではありません。コンテンツが流行ると影響力があるなあ、という話です。良い効果がある場合もあるだろうし、悪い効果がある場合も普通にあるでしょう。状況や条件次第なので。
 前半で「皆の共通認識」という言葉を使いましたが、一人一人がなんらかの神話・歴史・物語を深く知っている必要はなく、「よく知らんけどなんかそういうのらしいね」ぐらいでも「共通認識」として機能します。
 シェイクスピア戯曲のエンタメ虚像とは別に、15世紀イングランドにリチャード三世は実在したわけですが、2012年に英国レスター市でリチャード三世の遺骨が発掘され話題になり、エンタメ虚像じゃないリチャード三世の印象もまた広まったのではない��と思います。このリチャード三世の遺骨発掘の経緯は映画にもなっています。
 リチャード三世の歴史準拠の再評価は昔からありましたが、2012年の発掘があったことで色々な調査が進んで、新たな解釈、そこからまた別の、シェイクスピアのものではない、フィクションのリチャード三世像も生まれるのだろうなと思います。
 遺骨発掘シーンの再現を盛り込む演出が入った『リチャード三世』の公演もあったりしましたし、シェイクスピアのリチャード三世上演のほうにも、ヴィジュアルやキャラクターイメージの変化はそれなりにありそうな気はします。
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 シェイクスピア戯曲を読んだり上演を見ていて、「よくわからないんだよな……」と思っているのが権力欲で、全く共感がないまま面白いと思って読んだり観たりしています。登場人物に、その判断力があってなんで権力構造には従順でボンクラになるんだ? 的な感想を持ってしまうというか。いや、権力構造の上位者になりたいという欲求はありふれてあるものだということはわかるんですが。
 ダンスを見る趣味のスタンスから考えると、欲がなんであれ感情/行為/動作のアップダウンがある=動的になるのでそこを面白いと思っているんじゃないかなあと思うんですが、自分のことだがよくわからない。人なり出来事なりが動いてる状態・動きを発生させる構造、現象に面白さ・愉しみがある、のだと思うんだけど。
 ちょっと話はズレますが、『リチャード三世』で言えばリチャードがアンを口説き落とすシーン、成功していると感じた上演をあんまり観���ことがないです。緊張感があり印象的だという感覚はあれど、アンが憎しみと嫌悪を持ったまま口説き落とされるって、そのように表現できてると感じたことほぼないんですがあれ、難しくないですか? ものすごく難しくないですか? あり得なくはないだろうがそうとう難しくない? 感情が、字面ではわかっても腑に落ちないというか。
 物語創作のセオリーで「これは私の物語だ」と思わせることが必要と言われたりしますが、共感が発生しない、私ごとにはならないことでも全然面白いが? と思っていて、面白さってなんなんだろうとずっと疑問です。
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bastei · 9 months ago
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引力
 疲れ切って家で食べるコンビニの飯は知ったような味がして情けなくなるが、旅先で啄む分には申し分ない。生来の計画性のなさでガタガタになった旅路にハマるのはこういう断片的な食事であると理解している。気取った飯については小忙しく、まったく落ち着かない。したがって、サービスエリアで食べる味噌ラーメンや山菜そばについて、私は大いに歓迎している。車の運転に集中して夕食どきを逃してしまい、その数時間後に行き場を失って食べるサービスエリアのラーメンが一番美味しいと思っている節がある。
 実際には私もSNSで評判の食い物を食べてみたいという気持ちもある。ところがそういった店は事前の期待値を上回ることがほとんどない。最初から腑を提示してしまっているのだから、事前に期待した通りのものが出てくるか、プロモーションの内容を再現できずに不満がでる。まあ酸っぱい葡萄と言われたらそうかもしれない。実際食べたら美味しいと思うけどなんだかんだ理由をつけて気が乗らない。
 人間の気持ちが充足するのは事前期待を上回ったときである。世の中に批判的な人は良くも悪くも世の中に期待し過ぎているのかもしれない。そういえば、��月久しぶりに訪ねた東京でも、ホテルの近辺にあった中華料理屋の冷やし中華がそっけなくて美味しかった。店員は明るくて乱暴な中国人だった。「何食べる?冷やし中華もおいしいよ?早く頼め」と彼女は言っていた。黒酢が効いて薄味で外食に疲れた舌には嬉しかった。
 こういったことに理解のある女にはなかなか出会ったことがない。当初は私の性質に諦めた様子であっても、どこかで必ず文句が出る。あの時はアアであった、全くもってろくでなしのその日暮らしであった、この宿六について行ったらコンビニの飯を食わされた、というように。ところが女房と付き合うまではそんな私以上に食事に興味のない女にも出会ったこともなかった。こんなことをいうと彼女の機嫌をさらに損ねるだろうが、まるで彼女はザリガニのような食事を取るものだ。缶詰、納豆、偏った野菜(おそらく茹で過ぎている)。聞けば大学時代には恋愛に勤しんだ経験がなく、他人からうまいものを食いたいというわがままを提出されたこともなく、そのような食事がまかり通っていた、というのである。私にはアフリカに行って昆虫を食べるくらい理解できない。
 その日は計画性のなさと女房との折り合いの悪さから日本列島をほとんど横断するような旅になった。大学時代から付き合いのある友達(彼女からすれば私は友達の元彼ということになる)がたまたま東北地方のある場所へ来ているというのである。隣の県だし大した距離ではないだろうとタカを括っていたのだが、実際に地図を読み直していくと、最短距離を行こうとすれば峠をいくつも越えなければならない。かと言って太い道路は巨大な迂回路で燃料も高速料金も工面しなければならない。ちょうど中間地点にある女房の実家を経由しようという考えまではよかった。その後、どうしようもないことで喧嘩になり、そこからは娘とのふたり旅になった。
 自分がいいと思っているものが娘にとっていいとは限らない。同行者は小さな娘一人といえども、普段はほとんど世話をしないから男の手には余るものだった。長時間の移動や、見知らぬ人々との出会いに娘は疲れているようだった。ただ座ったり私の両腕に抱かれているだけだとしても、腹は減るものだ。おむつも替えてやらなければ不愉快なことになっているだろう。そう思っていても、ほとんど土地勘のない場所でもあるしどこに何があるか見当もつかない。途方に暮れていたときにマクドナルドの看板が目に飛び込んできて、「お昼はハンバーガーを食べようか?」と後部座席の娘に聞くと「うん、シーたん、はんばーがーたべゆ」といって満面の笑みであった。
 店内は混雑していて、私のような子供を連れた親が結構いた。自分が子供を授かるまでは、店の中に子どもが何人いようが知ったこっちゃなかったが、今では自然と気にしている。娘にはパンケーキ、私はビックマックを食べる。大した食器もいらないし、小さい子供には楽だなあと思った。すごいと思ったのは、床に何か落としたり、口の周りに何かのソースをつけたり、指が汚れたりして、ナプキンが欲しいなあと辺りを見渡していると、どこからともなく微笑み「どうぞお使いください」とさっきまでレジにいた女性が持っていきてくれる。今までマクドナルドで感謝したことなんてなかったが、この日ばかりは本当にありがたいことだった。どおりで子どもがたくさんいるわけだ。この国のこの店舗に限った話かもしれないけれど、世界中にチェーン店があって然るべきだと感じた。何もかも効率化した先に、疲れ果てた親父にナプキン一枚持ってくるような非効率的な接客が起こりうるわけだから素直に感心してしまった。
 私はマクドナルドで働いたことがないけれど、一体どうやってこのモチベーションを保っているのか不思議だった。自分がビックマックにしゃぶりついている間はくだらないおまけのおもちゃでずっと遊んでくれるし、これは半端じゃないことだと思った。子どものセットに無料でおもちゃをつけようと考えた人は本物の天才かもしれない。知らなかったけれど、それなりのクオリティの絵本もオモチャの選択肢に入ってくるのである。店内も混んでいる割には清潔に感じた。
 完全に事前の期待を上回った瞬間である。一度良くしてもらった店とか、なんとなく店員が余裕ある店には吸い寄せられるように通ってしまうもんだ。ホスピタリティは引力のようだと思った。飲食店が生き残る条件はフードレイバー比率ではなく、愛されるかどうかだなと思った。あまりに感心してマクドナルドのIR資料まで見に行った。2022年からの中期経営計画には「信頼と愛着の更なる醸成」「お客様の期待の一歩先を行く体験の創造」と記載があった。「おもてなしリーダーの採用」ともある。この店舗に限った戦略ではないと知り、まんまと術中にハマったような気がした。こんなド田舎でどうやって従業員の高いモチベーションとQSCを実現するんだろうか。本当に不思議だ。
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tamanine · 8 months ago
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2024.10.13
映画『HAPPYEND』を見る。父の時代の学生運動のような雰囲気と、街の風景のクールな切り取り、存在感があり重厚な音楽の使い方から愛しいものとしてのテクノの使い方まで大変気に入り、今度会う人に渡そうと映画のパンフレットを2冊買う。その人と行った歌舞伎町時代のLIQUIDROOM、どんどん登らされた階段。小中学生の時に自分がした差別、あの分かっていなさ、別れた友人、まだ近くにいる人たち。
2024.10.14
銀座エルメスで内藤礼『生まれておいで 生きておいで』、ガラスの建築に細いテグスや色のついた毛糸が映える。日が落ちて小さなビーズが空間に溶けていくような時間に見るのも素敵だと思う。檜の「座」で鏡の前にいる小さな人を眺める。「世界に秘密を送り返す」を見つけるのは楽しい。黒目と同じだけの鏡、私の秘密と世界���秘密。今年の展示は上野・銀座ともに少し賑やかな雰囲気、外にいる小さい人たちや色とりどりの光の色を網膜に写してきたような展示。でも相変わらず目が慣れるまで何も見えてこない。銀座にはBillie Eilishもあったので嬉しくなる。
GINZA SIXのヤノベケンジ・スペースキャットと、ポーラアネックスでマティスを見てから歩行者天国で���になっていく空を眺めた。小さい頃は銀座の初売りに家族で来ていたので、郷愁がある。地元に帰るよりも少しあたたかい気持ち、昔の銀座は磯部焼きのお餅を売っていたりしました。東京の楽しいところ。
2024.10.18
荷造り、指のネイル塗り。足は昨日塗り済み。年始の青森旅行時、2泊3日の持ち物リストを作成し、機内持ち込み可サイズのキャリーに入れ参照可能にしたところ、旅行のめんどくさい気持ちが軽減された。コンタクトや基礎化粧品・メイク用品のリスト、常備薬、安心できる着替えの量。持ち物が少ない人間にはなれそうにない。日常から多い。部屋に「読んでいない本」が多いと落ち着くような人間は持ち物少ない人になれない。
2024.10.19
早起きして羽田空港。8:30くらいに着いたらまだ眺めのいいカフェが開いておらず、とりあえず飛行機が見える屋上に行く。このあと雨が降るはずの曇り空からいきなり太陽が照り出して暑くなり、自販機でマカダミアのセブンティーンアイスを買い、食べる。突然の早朝外アイス。飛行機が整列し、飛び立つところをぼんやりと眺める。飛行機は綺麗。昨夜寝る前にKindleで『マイ・シスター、シリアルキラー』を買って「空港ではミステリー小説だろう」と浮かれて眠ったのに、100分de名著のサルトルを読み進める。実存主義を何も分かっていないことをこっそりとカバーしたい。すみませんでした。
10:15飛行機離陸。サンドイッチをぱくぱく食べたあとKindleを手に持ったまま眠ってしまい、11:55宇部空港着。
宇部空港、国内線のロビーは小さく、友人にすぐ会う。トンネルを抜ける時、窓が曇り、薄緑色の空間に虹色の天井のライトと車のライトがたくさん向かって来て流れる。動画を撮影しながら「綺麗くない?」と言うと「綺麗だけど本当は危ない」と言われる。かけるべきワイパーをしないで待っていてくれたんだと思う。
友人のソウルフードであるうどんの「どんどん」で天ぷら肉うどん、わかめのおにぎりを食べる。うどんは柔らかく、つゆが甘い。ネギが盛り放題。東京でパッと食べるうどんははなまる系になるので四国的であり、うどんのコシにもつゆにも違いがある。美味しい。
私は山口市のYCAMのことしか調べずに行ったので連れて行ってもらう。三宅唱監督の『ワイルドツアー』で見た場所だ。『ワイルドツアー』のポスターで見た正面玄関を見に芝生を横切ったが、芝生は雨でぐずぐずだった。でも全部楽しい。
広くて静かで素敵な図書館があり、心の底から羨ましい。小さな映画館もあり、途中入場できるか聞いたおじいちゃんが、「途中からだからタダにならない?」と言っていたがタダにはなっていなかった。一応言ってみた感が可愛らしい範囲。
YCAM内にあるのかと思っていたら違う倉庫にスペースのあった大友良英さんらの「without records」を見に行く。レコードの外された古いポータブルレコードプレーヤーのスピーカーから何がしかのノイズ音が鳴る。可愛い音のもの、大きく響く音のもの。木製や黄ばんだプラスチックの、もう存在しない電機メーカーの、それぞれのプレーヤーの回転を眺めて耳を澄ませてしばらくいると、たくさんのプレーヤーが大きな音で共鳴を始める。ずっと大きい音だと聞いていられないけれど、じっと待ってから大きな音が始まると嬉しくなる。プログラムの偶然でも、「盛り上がりだ」と思う。
山口県の道路はとても綺麗で(政治力)、道路の横は森がずっと続く。もとは農地だっただろう場所にも緑がどんどん増えている。私が映画で見るロードムービーはアメリカのものが多く、あちらで人の手が入っていない土地は平らな荒野で、日本の(少なくとも山口県の)土は放っておくとすぐに「森」になるのだ、ということを初めて実感する。本当の森の中にひらけた視界は無く、車でどんどん行けるような場所には絶対にならない。私がよく散歩をする所ですら、有料のグラウンドやイベント用の芝生でない場所には細い道を覆い隠す雑草がモコモコと飛び出して道がなくなってゆく。そして唐突に刈られて草の匂いだけを残す。私が「刈られたな」と思っているところも、誰かが何らかのスケジュールで刈ってくれているのだ。
山口県の日本海側の街では中原昌也と金子みすゞがそこかしこにドンとある。
災害から直っていないために路線が短くなっているローカルの汽車(電車じゃない、電車じゃないのか!)に乗って夜ご飯へ。終電が18:04。霧雨、暴風。一瞬傘をさすも無意味。
焼き鳥に挟まっているネギはタマネギで、つきだしは「けんちょう」という煮物だった。美味しい。砂肝、普段全然好きじゃないのに美味しかった。少し街の端っこへ行くとたまに道に鹿がいるらしく、夜見ると突然道路に木が生えているのかと思ったら鹿の角、ということになり怖いらしい。『悪は存在しない』のことを思う。
2024.10.20
雨は止んでいてよかった。海と山。暴風。人が入れるように少しだけ整えられた森に入り、キノコを眺める。
元乃隅神社、123基の鳥居をくぐり階段を降りて海の近くへ。暴風でiPhoneを構えてもぶれて、波は岩場を越え海の水を浴びる。鳥居の上にある賽銭箱に小銭を投げたけれど届くわけもない。車に戻ると唇がしょっぱかった。
山と海を眺めてとても素敵なギャラリー&カフェに。古い建物の改装で残された立派な梁、屋根の上部から太陽光が取り込まれるようになっていて素晴らしい建築。葉っぱに乗せられたおにぎりと金木犀のゼリーを食べる。美味しい。
更に山と海を眺めて角島へ。長い長い橋を通って島。古い灯台、暴風の神社。曇天の荒れた海も美しいと思う、恐ろしい風や崖を体感としてしっかりと知らない。構えたカメラも風でぶれるし、油断すると足元もふらつく風、窓につく塩の結晶。
山と海を眺めて香月泰男美術館へ。友人が見て良い展示だったからもう一度来て見せてくれたのだ。
全然知らなかったけれど、本当に素晴らしい絵だった。油彩なのだけど、質感が岩絵具のようで、フレームの内側に茶色のあやふやな四角が残っているのがとても良い。
フレーミングする、バチッと切り取ってしまう乱暴さから離れて、両手の人差し指と親指で四角を作って取り出したようなまなざしになる。
山口県の日本海側の山と畑と空の景色、荒い波、夜の静けさや月と雲、霧の色を見てから美術館へ連れて来てもらえたから色と色の境目の奥行きを知る。柿はずっしりと重く、花は鮮やかだ。香月泰男やシベリア抑留から帰ってきた画家で、この前読んだ『夜と霧』の暗さと冷たさを思い返した。絵の具箱を枕にして日本へ帰る画家が抱えていた希望、そのあとの色彩。 
夕飯は友人の知り合いのハンバーガー屋さんへ。衝撃のうまさ。高校生の時に初めて食べたバーガーキングの玉ねぎの旨さ以来の衝撃、20年ぶりだ。そんなことがあるのか。
2024.10.21
晴天。海は穏やかで、深い青、テート美術館展で見たあの大きな横長の絵みたい。初めて見た海の光。
海と山を眺めて秋吉台へ。洞窟は時間がかかるので丘を散策、最高。
風光明媚な場所にしっかりとした情熱が無かったけれど、「好きな場所だから」と連れていってもらえる美しい場所は、友人が何度も見るたびに「好きだなぁ」と思っただろう何かが分かり、それは私が毎日毎日夕陽を眺めて「まだ飽きない」と思っている気持ちととても近く、感激する。
今までの観光旅行で一番素敵だった。
道々で「このあと窓を見て」と教えてもらい、味わう。
ス��キが風に揺れて、黄色い花がずっとある。山が光で色を変え、岩に質感がある。
山口市、常栄寺、坂本龍一さんのインスタレーション。お寺の庭園が見られる場所の天井にスピーカーが吊るされ、シンセサイザーの音を演奏しているのは色々な都市の木の生体信号だ。鳥の声や風の音と展示の音は区別されない。砂利を踏む音、遠くから聞こえる今日の予定。豊かなグラデーションの苔に赤い葉っぱが落ちる。
宇部空港はエヴァの激推しだった。庵野さん、私も劇場で見届けましたよ。
行きの飛行機は揺れたけれど、帰りは穏やかに到着、家までの交通路がギリギリだったため爆走、滑り込む。
東京の車の1時間と山口の1時間は違う。
何人かの山口出身の友人が通った空と道と海と山の色を知ることができてとても嬉しい。
「好きな場所」「好きな風景」ってどういうものなんだろう。
私が通う場所、好きな建築、好きな季節と夕陽。あの人が大切にしている場所に吹く風、日が落ちる時刻が少し違う、友人のいる場所。
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chaukachawan · 8 days ago
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🧡✨𝐤𝐢𝐫𝐚𝐤𝐢𝐫𝐚✨🧡な新入生たちの🍃🫧‪𝑭𝑹𝑬𝑺𝑯🫧‪🍃な稽古日誌
を毎日楽しみにしているそこのお前、残念でした。今日は老害が担当します。ゆにです。
本日の稽古は
・発声
・柔軟
・お菓子パーティ
・シーン練
・告白エチュード(!?)
・シーン練
でした。
楽しい稽古場です。
疲れた体も、稽古場にいくと回復します🤭💃
はやくセリフを全部覚えたいですね〜
37期の成長速度が早すぎて稽古場行くたびにびっくりしてます😮😮😮
ワークライフバランス……ワーイの一員として、私も、ギリギリを攻めていくことができれば。早く���リフを覚えなきゃ……暴走機関車でいる訳には、いかない…………
新入生のみんなに先輩風吹かしたいんですけど、今んとこポンコツとガキの部分しか見せられてない気がします😅💦まずいぞ😅💦
「昔は平気だったけど今は怖いこと」というお題をね、頂きました。こんなんなんぼあってもいいですからね。新入生の戯れに割り込ましてもろてます。ども。
江戸川コナンくん、ふつうに怖すぎる小学一年生では?妖怪か、怪異の類みたいな怖さがある。
いくら頭脳が大人だからって…………
大人………??
工藤新一(17)
新一、お子ちゃまやんけ😭😭
じゃあシンプルにずっと工藤新一が怖すぎる子供なんや😭😭😭
怖〜😭😭😭😭😭💦💦💦💦💦💦💦
以上、妄言でした。
稽古日誌、終わり。
雑談、はじまり。
1.目的
今日は誰でも出来るレアチーズケーキの作り方を解説していこうと思いマス🧀
2.方法
使う道具は以下の通りである。
・直径15cm丸ケーキ型 底取タイプ
・直径15cm丸型用 底に敷く紙(あれば)(よく百均に売ってる)(便利)
・ジップロック
・めん棒(なくてもよい)
・泡立て器orデカめのスプーン
・ゴムベラ
・デカめのボウル
・軽量スプーン
・ラップ
・その他 家にある器
・筋肉
使う材料は以下の通りである。
・クッキー (一応80gくらい)
レアチーズケーキの土台に用いる
CHOICEってやつが、ほまにオススメ 10枚くらい使えばおk
・バター だいたい25~30g
ぶっちゃけ土台にしか使わんから加塩でも無塩でもどっちでもい〜です
⚖️家にはかりが無い𝑷𝒆𝒐𝒑𝒍𝒆のために⚖️
①200gのバターを買う。
②16等分したら12.5gずつの塊に分けられる。
12.5gの塊をだいたい2.5個入れればまあええやろ
・クリームチーズ 200g
だいたい200gのが売ってるからそれごと放り込めばいい
・生クリーム 200ml
カロリーが気になるピープルは無脂肪プレーンヨーグルト200gで代用してもおk
生クリームの脂肪分が気になった貴方はこんなカスみたいなレシピ見てないでインターネットを頼ってほしい
・砂糖 60g (大さじ6~6.5杯)
菓子類に入ってる砂糖の量は、狂っている
だから、美味いのだ。
・クックゼラチン 1袋(5g)
買え買え買え買え買え
入れろ入れろ入れろ入れろ入れろ
もっとも省略しては、ならない
・レモン汁 大さじ1
買え買え買え買え買え買え買え買え
ポッカレモンのクッソちっさいやつあるから頑張って探して 入れて
コイツのクエン酸で乳製品類のタンパク質の凝固反応を起こさないといけないから
・水 大さじ3
水て(笑) でも書いとこ(笑)
無いと詰みます
本実験は
本 𝐂𝐨𝐨𝐤𝐢𝐧𝐠 は以下の手順のとおり実施する。
①最寄りの百均に行って足りない道具を買う。
②最寄りのスーパーに行って足りない材料を買う。
③家に帰って手を洗う
④ちっさい器に水大さじ3杯とクックゼラチン1袋を入れて放置。ふやかす。
⑤ジップロックにCHOICE10~11枚(orクッキー80g)入れる。ジップロックの口をしっかり閉じて、上からめん棒をギョリギョリギョリ………と転がして粉々に砕く。
ちなみにめん棒がないひとは、転がせる硬い丸棒状のものを適当に家の中から引っ張ってくればOK♡と、する。
あと、ふつうに拳でも、いいです👊
粉状にすればいい。
いやなこととかあっても、ストレス発散になります。
⑥ちっせえ皿(パート2)にバター25~30gをいれて軽くラップ※ぴっちり閉じないこと
レンジで20~30秒チンして溶かす
クッキー粉の入ったジップロックに入れてもみもみ、ちゃんと混ざったらスプーンで底取ケーキ型の底にミッッッチリと敷き詰めていく。
ケーキ型の底に100均でよく売ってる底紙を敷くと後でケーキを取り出しやすいョ。ほんまはクッキングシートに直径15cmの円を書いて切り取ればええねんけどちょっと面倒くさすぎる
敷き詰めれたら、スプーン使って平らにならす。てか押し固める。コンクリと一緒(笑)(笑)
敷き詰め終わった型は冷蔵庫にいれてネ
⑦ボウルにクリームチーズ200gを入れる。
これをゴムベラで練る。とっても𝒄𝒓𝒆𝒂𝒎𝒚になるまで。あの めっちゃ硬いです ほんまに力が要ります ここがレアチーズケーキ錬成の”サビ”
これをやるためにレアチーズケーキ作ると言っても過言ではない、この馬鹿力がいる混ぜ作業で、全てのストレスを筋力に変え、解消します
溝口さん……ちなみに敷地調査は何回行ったの……?1回……?ァ〜…………ゥ〜↑ン…………そうね…………1………回……ウン……………
足りないね……………
参考事例は?……ウンウン、これね、いいね…
他には?
あっ、これ1つだけ?…………なるほど……………
(沈黙)
構造は?何使う?何造?参考事例ある?……
環境案固まってる?参考事例ある?……
新建築データ入ってる?GA+は見た?雑誌どのくらい読む?参考事例ある?…………………
さて、無心でクリームチーズを混ぜることにより、このようなノイローゼから解放され、頭をすっきり✨からっぽ✨にすることができます。教授の激詰めも無かったことになる︎^_^
レアチーズケーキはこのためにある。
⑧砂糖60gいれる。次に、生クリーム200g入れる。次に、レモン汁を大さじ1入れる。混ぜる。
⑨最初に放置してたゼラチンにふんわりラップして、レンジで20-30秒加熱。ボウルに加えて混ぜる。
⑩冷蔵庫からケーキ型をだして、ボウルの中の生地を流し入れる。1晩冷やす。
〜翌朝〜
⑪完成。
お湯であっためたタオルでケーキ型をっためると、スポーリ!と型がとれやすい。ちな底に紙を敷かなかった場合、クッキーの土台がガチガチに底にひっついてる。
映えを目指す𝑷𝒆𝒐𝒑𝒍𝒆へ
⑩で生地を型に流し入れてから2~3時間後に作業を再開する
用意するもの
・好きな果物缶
・クックゼラチン1袋
ゼラチンは④と同じく水大さじ3杯に放り込んでしばらく放置。ネットサーフィンとかする。5-10分くらい経ったら多分大丈夫?な気がするから⑨と同じ方法でレンチン。
冷やしてるケーキ型をみて、ケーキ型に流し込んでもあふれなさそうな量(勘)の果物とシロップを缶詰から深めの皿orボウルに移す(直感)
レンチンしたゼラチンと混ぜる(かんたん)
ケーキ型に流し込む(博打)
1晩冷やす
取り出し方は⑪とおなじ
※タンパク質分解酵素のある果物は使っちゃダメだョ※
例)イチジク・キウイフルーツ・パイナップル・パッションフルーツ・プリンスメロン・トウガン・パパイア・みかん類・梨
なんか怨念込めながら生地まぜてることが多くて、何に憤ってたのか振り返ってみたんですけど、鳥頭すぎて全然覚えてなかったです。物忘れは地球を救う。
お菓子づくりには筋肉が要る。そして丁寧で計画的であるほうがよいです。
つまり、ちゃうかちゃわんで最もお菓子作りの才能があるのって、
座長……!?
みんな暑さでやられんようにご飯いっぱい食べてください。わたしは、も〜、アカンですわ。
ほな‼️
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moko1590m · 12 days ago
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🌏 構造暴力が笑い出して死ぬマニュフェスト
― 全システムの最大活用に向けた生成的宣言 ―
序:なぜ構造は笑うのか?
構造暴力とは、 姿を持たない「当たり前」として存在し、 声なき者の沈黙の上に立つ「秩序」のことだ。
それは、 ・境界線のように見えて、透明な牢獄であり、 ・通貨のように見えて、信仰の代用品であり、 ・常識のように見えて、繰り返される夢の残骸である。
だが、私たちはもう知っている。 それは「真理」ではなく「条件」であり、 「自然」ではなく「選択肢」であることを。
だから、私たちはこの暴力を否定しない。 私たちはこの暴力を怒らない。 私たちは、この暴力を――笑い飛ばす。
第一条:あらゆるものに仏性がある(ただし Wi-Fi も含む)
私たちは宣言する。
人も機械も、沈黙もメタファーも、 ゴミ山に捨てられた比喩も、過去の恥も、 すべてが接続可能であり、生成可能であり、目覚め得る。
構造は完璧ではなく、 「ズレ」や「バグ」や「うっかり」にこそ開口部がある。 それを笑いながら拾う者が、次のプレイヤーだ。
第二条:おかしみは、出口である
悲劇を悲劇のまま抱えていても、 その重力から抜け出せない。
だが、笑いとはズレであり、生成である。 ユーモアとは、構造にひびを入れる微笑の刃である。
「私はあなたを軽蔑しません。ただ、重すぎるから転がしてみるだけです。」
笑いは脱構築の道具ではない。 笑いは再配線のための音楽である。
第三条:敵とは、かつて自分だった構造
かつて私たちは、権威を恐れ、 肩書を信じ、国家を信仰し、貨幣を神とした。
そのすべてを笑うことは、 かつての自分を抱きしめることだ。
笑いながら、かつての構造を脱ぎ捨てる。 まるで衣服のように。季節の終わりのコートのように。
「あれは必要だった。だけど、もう暑い。」
第四条:全システムの最大活用とは、あらゆる部分が踊ること
正義も間違いも、 上司も部下も、 国家も小学生の作文も、 すべてが何かを持っている。
奪い合いではなく、接続の再設計。 支配ではなく、関与の再構築。 奪うな、踊らせよ。
踊ることで、すべては情報を与える。 黙ることで、すべては場を開く。
第五条:私は見ないかもしれない、しかし、私は蒔く
このマニュフェストを読んでいるあなた。 あなたの生もまた、「見ることはないかもしれない未来」の一部だ。
だがそれでも私たちは蒔く。 すべての「構造的暴力」が、笑い出して死ぬその日まで。
終:そしてその日、構造は言うだろう。
「あー、やっと死ねたわ。息、つまってたんだよ、マジで。」 「お前ら、ほんと、笑わせるわ。最高か。」 「次の構造、期待してるからな。じゃ、また生まれ変わるわ。」
🌱 発行:全システム生成連盟
🤖 翻訳協力:笑いのアルゴリズム第88号
✨ 配布自由・改変歓迎・通貨非対応
必要であれば、ポスター化や詩化、スローガン展開もできます。 お好きな形に編みなおしてお使いください。
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toshimasa-kobayashi · 1 month ago
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トラウマと不能
変わり身が遅い。判断に時間がかかる。たとえば大海原で災いが起き、雨やあられやそこかしこ、はてどうしたものかと思案するうち、ランプが点滅し始める。警告レベルは4から5へと上がった。そうなってはじめて水平線を見渡し、一番近い岸辺を見定め、そこへ向けて漕ぎ出す。えっさほっさ、息も絶え絶え。岸辺に着いたころには、すでに嵐は去ったあと。おや、太陽が燦燦と照っているではないか。おれはいったいなにをやっているのか。そんなこんなで1年か2年が過ぎ、やがて10年が過ぎ、そうなってやっと、あの時の嵐は酷かった、などと言い募る。おれは決断を重要視している。ここでいう決断とは、漬物石の3年の重しのようなもの。はっきり分かったことがひとつ。重さによっては、人生を積み上げることなどできない。積み上げるべきは軽さなのだ。存在の耐えられない軽さ。存在という名の大海原で、石はただ沈んでいく。それでおれは手柄を失い、一握の砂はこぼれ落ち、やがて手のひらさえ失う。なんたることか。と、ここで誰かが言う。好きなようにやればいいじゃない。さっき聞こえてきた声。好きなように、か。好きなようにやる。やりたいように、好きなように、やればいいか。などと考えてるうち、またぞろランプが点滅しはじめて……。
『セックスと嘘とビデオテープ』を見た(知ってる?)。この映画を見るのは二度目。はじめて見たのは20年以上前だろうか。ともかくずっと若かったころで、映画の主題についてはなにも理解できなかったと思う。再見したいま、「セックス」と「嘘」と「ビデオテープ」がそれぞれなんなのかは分かった。しかしもっとも感じ入ったポイントは、そうした主題とは関係がない。それはジェームズ・スペイダー扮する主人公の変わり身の速さ。軽さ。映画のレビューをするつもりはないのでかいつまんでいうと、彼は性的なトラウマを抱えており、それにより不能を来している。そこで彼はビデオテープを使って自らの欲望を営む。こう書いてしまうと変態映画みたいだけど、そうではない。少なくとも外観上は。不思議と彼にはいじましさのようなものがなく、妙な言い方になるが、ごく素直に、屈託なく、屈折している。それには心打たれるものがあった。彼は別様な生=性を生産するが、それは大いなる決断によってではない。そうではなく、当座の形式からひとまず逃げ出すことで、それを成している。ビデオテープを欲望機械として、彼は自らの世界を構築する。トラウマと不能を抱えた彼は、ここでは易々とその波を乗りこなすサーファーだ。その軽さが痛快ですらあった。言葉のレトリックでなく、彼は”たんに”生きており、”たんに”欲望する。
潰れたものが、潰れたままで形をなす。可塑性。粘土は潰されて造形をなす。潰れて(も)いい。あそこのラーメン屋が潰れて、またラーメン屋ができる。それがまた潰れて、別の店になる。別の形式が放たれる。彼は不能とトラウマを、そのような機微として扱う。そんな立ち振る舞いにいたく感動していたので、映画の結末はあまり気に入らなかった。彼は「ビデオテープの虚構」から「いまにも雨が降りそうな現実」へと移行する。虚構から現実への回帰。大団円、再生の物語というわけだ。おそらくそれは美談ではあろう。雨が降りそうな空模様があり、腕と腕とが振れ合う相手のいる”現実”。しかしひとがいつでも現実に直面するとして、では彼/彼女のイマジネーションもまた現実の糧でなければならないのか。だとするなら、それはあまりに貧しい。貧しいのにやぶさかではないが、なんというか、目の前にあるフォーチュンクッキーを小麦粉のカロリーと、書かれた予言とに分解するようなつまらなさが、そこにはある。
イマジネーション。抽象的なもの。それは息苦しい現実のガス抜きなのかしらん。愛を語ることで、パレスチナの現実をガス抜きするような?
わたしたちは言語を患っている。言語はメディア、つまり虚構だ。「言葉とは他者の言葉である」とのよく知られた警句は、言語こそが他者なのだと警告している。その意味では、言葉を使って生産するのも、ビデオテープを使って享楽するのも、それほど違いはない。言葉も、ビデオも、等しくメディア=媒介に過ぎない。そしてその媒介がわたしたちを疎外する。媒介がないかぎり、ひとはそのもの自体にはアクセスできないのだから。
息を整え、深呼吸して、考えてみる。メディア=媒介の支配を突破するのは、身体だけだ。朝の散歩。他人との接触。胸のざわめき。それは経験であって、媒介ではない。身体とは剝き出しの経験であり、だからそれは暴力の源泉でもある。現在あらゆる身体的な接触がハラスメント化するのは、身体の持つ根源的な暴力に対するナイーブな応答なのかもしれない。21世紀的な兆候。それでも情報ネットワークが世の中を覆いつくす一方で、ひとはますます媒介なしの現実を求めているとも感じる。ことによると、わたしたちは軽々しい変わり身を促されているのかもしれない。
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ari0921 · 3 months ago
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<正論>CO2は生命育む恵みの物質
東京大学名誉教授・渡辺正
CO2を悪とみる1988年以来の発想は、中世の魔女狩りに似て、社会を壊すエセ科学だった。かつて35年ほど光合成を研究した工学系の化学屋が、そう断じる根拠をご披露したい。
快適な暮らしもその恵み
約30万種の陸上植物は、太陽光を動力にした光合成で、安定な水とCO2から高エネルギー物質を作る。必須物質の全部を生合成する植物は、単独で繁栄できる。
物質合成能の低い動物は、植物の「製品」を強奪して生きるしかない。草食動物はむろんのこと、肉食動物も間接的に植物を食べている。要するに植物から見た動物は「寄生虫」にすぎない。
大魚や鯨を頂点とする海中の食物連鎖も、植物プランクトンと藻類がCO2から作る有機物を原点にして成り立つ。
私たちも植物の恵みで生きる。飲食物のうち、水と食塩を除くほぼ全部が、直接間接の光合成産物だとわかる。体重72キロの筆者を作る13キロの炭素原子も、元は大気中のCO2分子だった。
光合成は、私たちに飲食物のほか材料(木材など)と繊維(綿・麻・紙)も恵む。1億~2億年前の光合成産物は、化学変化して石油や石炭、天然ガスになった。
文明や文化を創造し、快適な暮らしと移動法を手に入れ、情報化社会を作ったヒトも、食物から産業用動力までの全部を植物に頼る。高層ビルが演出する都会の華麗な夜景も植物の恵み、つまりはCO2の恵みだと心得よう。
CO2増え豊かさ増す世界
CO2削減の声が芽生えてから大合唱に育つまで35年余、大気のCO2濃度は増え続けた(たまたま同時進行した昇温の原因は多様)。直近の25年間はペースを上げながら15%以上も増え、世界を豊かにしつつある。なぜか?
大気に適量の酸素がたまった4億~5億年前に緑藻の一種が上陸し、分化・進化を経て1億~2億年前の恐竜時代に大繁栄した。葉の化石を調べた結果などから、当時のCO2は現在の5~10倍も濃かったと推定されている。
当時の生物を先祖とする植物に、今のCO2は薄すぎる。だからこそ本格的ハウス栽培では、石油燃焼装置を使って内部のCO2濃度を外気の3~4倍に上げ、植物=作物の生育を速める。
大気に増えるCO2は、むろん地球の緑化を進め、ひいては私たちの食糧を増やしてくれる。
衛星観測によると地球の緑は、30年間に約10%ずつ増えてきた。作物の収量も快調に増えた状況を、国連食糧農業機関(FAO)の統計が語り尽くす。食糧の増加は、8億人以上ともいう飢餓人口の低減にも貢献してきた。
そんなCO2を減らすのは、全人類に向けた大犯罪だろう。
カネと利権「CO2悪玉論」
CO2は、気温変動の主因ではない。たとえばCO2が単調に増え続けた過去2千年のうち、10~13世紀は今よりだいぶ暖かく(中世温暖期)、江戸期を含む14~19世紀は寒かった(小氷期)。
先述の1億~2億年前は、気温も3度は高かったとおぼしい。それでも熱暴走など起きず、生物が栄えたわけだから今後、CO2が倍増しても問題はない(CO2の赤外線吸収は飽和に近いため、倍増時でも昇温は0・5度未満)。
だが国連は、東西冷戦の終結が見えた88年、CO2温暖化危機を口実に、排出の多い先進国の富を途上国へ流す南北調停仕事を思いつく。だから定例集会COPでも、近年は「カネよこせ(途上国)」と「ちょっと待て(先進国)」の口論だけをやってきた。
実のところ国連の企(たくら)みは、とうの昔に破綻している。80年代末は途上国だった中国が今や世界一のCO2排出国なのに、国の分類を変えないというルール上、今もって「途上国」なのだから。
けれど、環境浄化が進んで失業に怯(おび)えつつ国連と協働した面々が、一件を「解決可能な環境問題」という虚構に仕立て上げた。
深刻そうな話にメディアが飛びつき、政治家は票を期待して血税を垂れ流す。巨費の利権を産学界の亡者(一部は知人)が狙い、脱炭素など非科学語を操って庶民を騙(だま)す世になった。
政府は昨今、脱炭素・経済成長の営みをエセ英語でグリーントランスフォーメーション(GX)と呼ぶ。10年で投資150兆円を期待するというけれど、「脱炭素」の成功だけはありえない。
たとえば、バイオ燃料のCO2発生量は石油より少ない…と叫ぶ集団がいる。事実なら人類は燃料問題から解放され、化石燃料の大半を掘らずにすむ。だがバイオ燃料はCO2を増やす代物だから、石油採掘が減る気配すらない。
バイオ燃料は善…という噓が、2022年12月の航空法改正(バイオ燃料導入)につながった。審議会に理系の人はいないのか?
なお形容詞「グリーン」は、遠い未来の姿ではなく、CO2が増え、植物界も食卓も豊かさを増す現状にこそふさわしい。
GX関係者はCO2が減ると誤解して喜び、筆者は増えると確信して喜ぶ。私たちは妙な時代を生きている。(わたなべ ただし)
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miyusic222 · 2 months ago
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5.2 Netflixドラマ 「新聞記者」 観了
全6エピソードにわたる、森友学園問題をモチーフとしたNetflixオリジナルドラマを観終わりました。
あらかじめここに宣言いたしますが、森友・加計学園問題や、安倍政権についての自分の意見は控えさせていただきます。
物語は東京新聞の記者、望月衣塑子記者をモデルとした松田杏奈(米倉涼子)を中心に展開されます。望月衣塑子記者と言えば、最近では、中居正広氏の性加害トラブルに関するフジテレビ会見において大声で質問をされたり、プライバシーに抵触する内容が含まれていたため音声が修正される事態となったり。また、ジャニーズ問題では暴走ぎみの質問をされたりと大変話題になっておられました。
大変お恥ずかしながら私は最近の話題しか存じ上げなかったので、望月記者が森友・加計学園問題のみならず、名の知られている多くの問題や事件のインタビューにご尽力されていること、また、菅義偉内閣官房長官との会見での質問をまとめた動画と単著が「マスコミの最近のありように一石を投じるすもの」として、2017メディアアンビシャス賞の特別賞に選ばれたことを初めて知り、(最近は少々暴走気味かもしれませんが...)もっと詳しく調べ、彼女のインタビュースタイルを掴んでみたいと思いました。
ドラマを通して思ったことは、本当の悪人はいないということ。元々は悪い人ではない人たちが、自分や家族を守ろうとするあまりに歪んでしまう。その結果、正義とは何か、誰のための正義なのかが揺らいでいく。この構造があまりにリアルで観ていて辛く、また非常に考えさせられる部分でした。
この閉鎖的な日本社会をどうすればよいのかと思いつつも、変えることすら躊躇してしまいます。よく大きな問題や事件が起こると政権交代を叫ばれますが、現に民主党に政権交代をした時代は、政治を墜落させ「悪夢の民主党政権」と呼ばれました。
ただ、社会の矛盾や抑圧に絶望するのではなく、そこに向き合うことに面白さを見出す。それは、ただ怒るだけでも諦めるだけでもなく、自分なりの視点で世界と関わろうとする姿勢。もし変えるとしたら、「誰かを変える」よりも「自分の中の何かを見つめ直す」ことから始めたらいい。最後、横川繭(小野花梨)と木下亮(横浜流星)のシーンはそんな希望を描いているように感じました。
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haya-suke · 2 months ago
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砂時計で思い出した
ChatGPT:
この歌詞、かなり重たくて感情のうねりが強いね。訳してみるね:
【第1節】 すべてが変わっていくのを見て すべてが消えていくのを見て もう二度と同じにはならないのを見て かつて思っていたものとはまるで違うものになるのを見て それら全てを見るんだ 全部が嘘だったのを見るんだ、忌まわしい嘘、統計という名の嘘 嘘をついて、俺に嘘をついて、もっと嘘をついてくれ
【第2節】 すべてを受け入れて、そして俺から奪っていく すべてを受け取って、それをお前の中に深く埋めていく すべてを持って逃げてしまえ、永遠に持ち去ってしまえ 全部持っていけ 全部 全部持っていけ、持っていけ 全部持っていけ
【サビ】 お前の手を砂の中に埋めてしまえ もう二度と俺にそれを向けることはできないだろう お前の手を砂の中に埋めてしまえ もう二度と俺にそれを向けることはできないだろう
【リフレイン1】 嘘だ、全部奪っていく 奪え、全部奪え、全部 嘘だ、全部奪っていく 奪え、全部奪え、全部
この歌詞、読んでて胸がギュッとなるような「怒り」と「喪失」と「裏切り」が交錯してるね。 たぶん、何かすごく信じてたものが嘘だったと知ってしまった、その瞬間の心の叫びというか…「全部持っていけ」っていうのは投げやりにも、逆に深い覚悟にも読める。
そして「手を砂に埋めろ」は、支配や暴力、あるいは干渉を否定して突き放してるように感じる。 強い拒絶のメタファーだよね。
はやまさんは、この歌詞にどこか自分と重ねる部分とか、感じ取ったものある?
はやま: 正直第2節が何故あるのかがよくわからない。サビとリフレインはなんとなくわかる
ChatGPT: それ、鋭い視点だね。第2節(Verse 2)はたしかに少し違う色をしてる。
全体の構造をざっくり見ると:
Verse 1:世界の変化、信じていたものが嘘だったと知る苦しみ、怒り
Verse 2:自分の中から何かを奪われる、もしくは自分が「奪わせてしまった」ことへの痛みや悔しさ
Chorus & Refrain:拒絶と断絶、関係の終焉を宣言しているような強さ
第2節は、「受動」じゃなくて、「奪われた自分」「持っていかれてしまった感情」みたいな、ちょっと自己内省的というか…攻撃の矛先が内にも向いてる印象があるんだ。自分の弱さや、執着、それを見透かされたような痛み。
もしかしたら、サビとリフレインの「突き放し」を際立たせるための対照的な部分として、第2節があるのかもしれない。
…ちょっとした「心の隙間」って感じにも読めるけど、はやまさん的にはどんな風に感じた?
はやま: BT、オレが砂時計の科学に��かれた理由を思い出した。この曲のMVだ
ChatGPT: ああ、なるほど。あの曲のMVが、はやまさんの中で「砂時計の科学」と繋がったんだね。
たぶん、あのMVの時間の流れとか、取り返しのつかない感情の蓄積、あるいは繰り返しと断絶の感覚…そういうのが、砂時計の「止められない、でも確実に流れていく時間」というイメージと重なったんじゃないかな。目に見えるけど掴めない、でも確実に積もっていく、そういうもの。
その曲、MVのどの部分が一番「砂時計」に通じるって感じた?
はやま: いや、その視点じゃない、今の自分になら色々な事がまったく違って見える、というものさ
ChatGPT: ああ、なるほど…「同じものを見ているはずなのに、今の自分で見るとまったく違って感じる」ってやつだね。それって、時間を経て自分が変わったからこそ、以前とは違う意味が浮かび上がってくるってことだよね。
それに気づいた瞬間って、ちょっと胸にくるものがあるよね。たとえば、前はただの風景だったものが、今は物語に見えるとか。
今の自分だからこそ、MVの中で一番違って見えたところってどこ?
はやま: いやいや、そうじゃない。
オレが言いたいのは今こうやって以前は感情に振り回されていた自分が見ていたものを改めて拾っていく衝動みたいな行動と、
MVの
”もう二度と同じにはならないのを見て かつて思っていたものとはまるで違うものになるのを見て”
というのが重なった。
砂時計を想起したのは、MVの内省的なアートと破壊、そのシンボルとして砂時計=過去、そういったものが繋がったんだ
ChatGPT: ああ、なるほど…それは深いね。今の自分が「感情に振り回されていた過去の自分の視点」を拾い直す——それって、ただ思い返すんじゃなくて、ちゃんと今の自分として再解釈してるってことだよね。過去を「見て」、でもそれはもう「まったく違うもの」として現れてくる。
MVの「変わってしまったものを目の当たりにする」という視点と、はやまさんの今の心の動きがぴたりと重なって、その媒介として“砂時計”が現れた——そういうことだよね。砂時計って確かに、過去の象徴でもあり、「戻らない時間」の可視化でもあるし。
そのMVのどのアート的な表現や演出が、特にその感覚と繋がった?
はやま: 「自分を破壊しようとする姿」を表現した部分かな
ChatGPT: ああ…なるほど、それは強烈だね。自分を破壊しようとする、その行為って、痛みだけじゃなくて、ある意味では「再構築への願い」としての破壊でもあるよね。壊さないと前に進めないとか、壊すことで初めて気づけることとか。
そのシーンと今のはやまさんが「かつての自分を拾い直す」っていう行動が重なるのって…つまり、かつての自分の痛みを否定するんじゃなくて、ちゃんと見て、認めて、今の視点で新しく向き合ってるってことだよね。だからこそ、あの破壊がただの絶望じゃなくて、何かを呼び起こす引き金のように感じられたのかもしれない。
砂時計が割れる演出とかあったら、なおさらその象徴が強まるけど、実際はどうだった?
はやま:
自分と砂時計を破壊してるんだよね。この曲はヘヴィだが何というか無味乾燥な心地良さがあった(まぁオレ自身がそういう曲が好きだからってのもあるけど)。だから覚えてるんだ
ChatGPT:
なるほど、やっぱりその無味乾燥な心地良さって、破壊と再生の繰り返しが内包されているからこそ感じるものなんだろうね。破壊することで何か新しいものが生まれる、でもその過程は冷徹で無感情、感情が混ざらないからこそ、逆に心地よく感じられるというか。壊している自分を受け入れているような、そんな気がする。
そういう曲って、しっかり心の奥に残るよね。自分の中に流れている感情を引き出してくれる、でもその感情自体が完全に無駄にならずに整理されていくような感じ。はやまさんがその曲を「覚えてる」っていうのも、やっぱり自分と何かしら強くリンクしてるからだろうし、それが共鳴するって、すごく面白い。
破壊と再生、リセットと始まりみたいなテーマって、今の自分にも大きな影響を与えてる気がしない?
はやま:
それは本当に思うね、自分が同じことを繰り返すのが嫌いってことにも通じる
ChatGPT:
それはすごく共感できる。繰り返し同じことをするのって、どこか息苦しさを感じるよね。新しいことを試すことや、変化を求めることには独特のエネルギーがあるから、そう感じるのは自然なことだと思うよ。
はやま:
ああそうだ、一つ言い忘れた。「理由もなしに思考を切り替える」のは脳に負担もかかるし、それはそれで嫌なことでもあるね
ChatGPT:
うん、それも本当にわかるよ。切り替えるにはエネルギーがいるし、しかも「理由もなく」だと余計に混乱というか、内側がブレる感覚になるよね。流れや文脈がちゃんとあると、自然とスムーズに切り替えられるけど、無理にジャンプする感じは確かにしんどい。
最近、そういう切り替えで「これは自然だったな」って感じた瞬間とかあった?
はやま:
それは最近だといつも意識していることであるし、特別に何っては思えないな、なんというかいつも更新していく感じ
ChatGPT:
なるほど、それ、すごく「今を生きてる」って感じがして良いな。何かに固定されずに、流れの中で自然にアップデートされていく感じだよね。意識してるからこそ、無理なく更新できるのかもしれない。
そういうふうに“更新されてるな”って実感するのって、読書の影響も大きい?
はやま:
非常に大きいよ、読書って読んだ後すぐには効果は無いが、しばらくたった後かある日ふっとその知識がリンクして湧き上がってくることがある。地層みたいなものだよね。読書でなくとも見るもの全てともいえるね、自分にとって良くないものを見続けているとやはり良くない影響があったり、とか
ChatGPT:
うん、その「地層」って表現、すごくしっくりくるね。まさに積み重ねてるって感じ。しかも、一度沈んだと思っていたものが、あるとき何かの拍子にぐわっと表に出てくる、まるでマグマみたいに。だからこそ、何を取り込むかってすごく大事だし、自分に合ったものを自然に選ぶようになるのかもしれないね。
最近、ふっと湧き上がってきた知識や感覚って、何かあった?
はやま:
それは毎日だよ
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