#留守番する犬と猫
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本日は北陸新幹線佐久平駅近くのイオンモールとフォレストモール佐久平という隣接する大きなショッピングモールに行って来ました。買い物ついでに近くの公園で当然歩きのリハビリです。

風がとっても冷たい日でしたが、カアちゃんは頑張ります。我が家周辺よりも真っ平でとても歩きやすいそうです。機会(チャンス)があればその環境をしっかり生かすこともリハビリの極意ですね。

そんな日に留守番する我が家の「娘たち」は、こんな風に寛いでいたんでしょうね。たぶん・・・。(2025/2/22)
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柴犬が大好きすぎる猫、半日ぶりに会うとこうなる。 フミ宅、Q宅へ行った日のハチ家。 実はQ宅へ行く事が決まったのは割と急だったため、家でお留守番をしていた猫達は予定より ... via YouTube https://www.youtube.com/watch?v=Pky3xI871W8
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フェリウェイを待合室で使った感想
暴れる猫ちゃんが減った気がします❗️
スタッフみんながそう感じているので、事実だと思います😁
ダ��元というか、猫ちゃんに病院でリラックスしてね❗️という方法が他にないので、
使い始めたんですが、無駄にはなってないようです。
24時間コンセント🔌に挿しっぱなしなので、
待合室と診察室は、充満しているはずで、
怖いょ〜という気持ちを和らげてくれているのかなと思います。
あー、猫語が分かればね🌀
本当のところは❓と聞いてみたいところですが😌
もちろん、おうちでも使えます‼️興味がある方はどうぞお気軽にお尋ねください。
ちなみに、犬用もあります。
分離不安、お留守番時に問題行動してしまう、落ち着かない、ストレスを感じがちなコに。
お留守番の時間を短くとか運動時間を増やすなど、
ガラリと生活を変える事は難しいと思いますので、寄り添いつつ、
こういうものも併せて使うといいことがあるかもしれません。

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「もしも」に役立つ猫手帳好評
02月01日(木)00:02掲載
カテゴリー:社会・経済
飼い主の緊急時など、残された「家族」のために ペットの家族化が進んでいる。飼い主の身に「もしも」のことがあった場合、家に残されたペットの面倒をみてもらえるよう、「ねこHELP手帳」などを開発したイラストレーターのオキエイコさん(本名、荻野朱加さん)と夫信寛さんが東愛知新聞社を訪れた。2月1日から、新バージョンのバインダー式手帳を一般販売する。 岐阜市の家に2匹の猫がいる。動物愛護センターから引き取った。ある時、猫を飼う一人暮らしの友人がつぶやいた。「自分が猫より先に亡くなったら残されたらと思うと寝られない」。3人の子どもがおり、母子手帳を持っている。「猫にも手帳があったら」。そう考えて開発を始めた。 「ねこ活はじめました」(KADOKAWA)などの著書があり、SNSで猫好きと交流している。アンケートを繰り返し、手帳の内容を固めていった。2022年7月に「ねこHELP手帳」(A6判48㌻、カバー付き1056円)をリリースした。 大好評で、多くの人が買い求めたが「日記を毎日書きたい」「1冊で多頭分をまとめたい」「ページを増やしたい」などの要望があったため、改良を決意。バインダー式にして写真も飾れるような手帳を新たに作った。 バイブルサイズでピンクと水色の2種類。カバーは動物福祉を考えて合皮にした。表には猫のイラストと「家で大切な家族(ねこ)が待っています」「私になにかあったらこの手帳を開いてください」とある。 開くと「家の猫を助けるために、どうか手を貸してください」の文字と署名欄。そして自身の代理人の連絡先、飼い主のプロフィルを書く欄があり、自身と猫のこと、生育環境などについて詳細に書き込むページが続く=別表。 中央には猫の豆知識のコラムを載せた。「猫を飼ったことのない人でも分かってもらえるように」と朱加さん。このコーナーも含め、藤井動物病院(横浜市)の藤井康一院長の監修を受けた。 そして日記のコーナーがあり、猫の様子や通院記録などを自由に書ける。「HELP手帳」に比べ、自由に書けるスペースを大きくした。項目は「食欲」「うんち」「おしっこ」「病院」「爪切り」など。バインダー式なのでいくらでもページを増やせる。 さらに新たに加わったのが緊急時の伝言メモだ。ビニール製でジッパーが��いており、手帳から取り外せる。中のシートに、手帳本体に書いた伝言メモの一部を書き写し、キャリーやケージに取り付けられるようにした。助けてくれる人が猫の情報を入手しやすくする工夫だ。また、箱には猫の耳をつけた。 8~10月、クラウドファンディングで「ねこヘルプ手帳」を先行販売したところ、1冊5000円(早期割引あり)の値段にもかかわらず、957人が購入し、538万9000円を売り上げた。若者より、生活にゆとりがあり猫を家族として大事に育てている層が買っているらしい。 母子手帳と同じで、一度買えば終わりと思っていたが、リピーターが相次いだ。朱加さんによると、手帳を自慢していたら友達にせがまれてまた買ったケース、自分用と離れた家族用に送るケースなどがあったという。 犬版の製作も検討 「動物病院や愛護センターなどに配りたい」と朱加さん。今後は、リクエストの多い犬用も作る予定だ。 能登半島地震では、ペットも被災した。ボランティアが支援に向かっている。最近はペットとの同行避難が提唱され始めたが、まだ十分に浸透していない。「避難で一時的に猫を預ける場合にもきっと役立ちます」と朱加さんは話す。 朱加さんが運営する会社のECサイト=QRコード=で。基本パック(5500円、税込み)に「フリーメモ」「日記30日分セット」などのオプションが買える。サイトでは前の手帳や「どうぶつヘルプマーク」「家ねこステッカー」なども販売中。 「ねこヘルプ手帳」に記入できる項目(抜粋) かかりつけ動物病院(診察券番号も)▽飼い主の体調情報▽猫関連の消耗品(キャットフードの銘柄や購入先)▽猫がいつも過ごす部屋の間取りレイアウト▽猫関連の知人の連絡先▽代理人以外で頼れる人の連絡先▽一緒に暮らしている動物▽自由記述欄▽飼っている猫の名前、性別、生年月日、毛と目の色、猫種、首輪の有無、性格▽普段の食生活、食事時間▽血液型、体重、抗原検査結果、病歴、投薬、不妊・去勢手術、血統書、ペット保険、マイクロチップ▽かみ癖、ほえ癖、車慣れ、留守番の可否、猫砂の種類、家の中での過ごし方▽各種ワクチン歴▽寄生虫予防薬歴▽血液検査歴▽アレルギーの有無▽体重の記録▽ブラッシングや爪切り、シャンプーなどの頻��やこだわり▽好き嫌い(子ども、男性、女性、エアコン、掃除機、抱っこ、その他)▽落ち着ける空間 【山田一晶】
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猫達へのクリスマスプレゼント…となるかはさておき、年始の帰省に備えて新しいキャリーリュックを購入。キャスター付きハードキャリーで帰省していたけど、エレベーターのない5階に住んでいると下に運ぶだけできついので、今回は大きめで型崩れしないリュックを選択。 前から見ていたリュックだけど、カーキーかブラックしかなく悩んでいた所、数日前にブルーを発見して即買いw 実際の色合いは派手目なブルーではなく、グリーン寄りの落ち着いたブルーで理想通り♪ 試しに年始の実家行き組の大地と海を入れて背負ってみたけど、抜群の安定感!中で方向転換出来るくらいの余裕もあるようで一安心。 飛行機ではリュックは手荷物扱いになっちゃうけど(リュック以外の手荷物がある為/猫は航空会社が用意するハードキャリーに移し替え)、そんなに急がないから別に良いやって事になりました。 #cat #neko #猫 #ねこ #茶トラ #黒猫 #新しい物はすぐチェック #黒猫一番乗り #茶トラはホテルで留守番 #ケージにもなる中型犬対応バックパック #brixtoncarrybackpack #耐荷重15kgまで #という事は #猫3匹でも大丈夫 https://www.instagram.com/p/B6eq49nhF2i/?igshid=f4gaejih837m
#cat#neko#猫#ねこ#茶トラ#黒猫#新しい物はすぐチェック#黒猫一番乗り#茶トラはホテルで留守番#ケージにもなる中型犬対応バックパック#brixtoncarrybackpack#耐荷重15kgまで#という事は#猫3匹でも大丈夫
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2023.01.07.
シブについて

猫は気まぐれな生きものだから。
猫はマイペースだか���。
猫は干渉されるのが嫌いだから。
猫は段ボール箱に入るのが好きだから。
そんな勝手なイメージがあったのですが、
猫にもいろいろなタイプがいるわけで、
どうやらシブは今のところ、
私たちが勝手に思っていた、
猫のイメージとは大きく違っていて、
彼の性格は実に興味深いのです。
時計を見るわけでもないのに、
実に規則正しい。
ひとりにされることを嫌がり、
私たちと同じ空間に居たがる。
どんなにグッスリ眠っていても、
仕事から帰宅したマコさんが、
ギンちゃんを停める音で必ず起きて、
(他の車の音ではまったく起きない)
マコさんが玄関を開けるのを、
いつも同じ場所で正しい姿勢で待つ。
(この姿はまるで忠犬ハチ公)
毎朝同じ時間に「起きて~」と鳴き続ける。
夕方の決まった時間に
必ず私の膝の上で寝て、
夜は決まった時間に
マコさんの膝の上でくつろいでから寝る。
段ボール箱にはまったく入らない。
日中のお留守番係を全うしている。
サッカーが上手い。
垂直飛びがすごい。
マコさんみたいに身長が高い。
私みたいによく落ち込む。

昨年の11月。
東京で��宿泊出張が続いたんです。
最初は2泊3日の出張で、
シブは初めて3日間のお留守番です。
ペットシッターさんに、
ご飯とトイレとお水のケアはお願いしたものの、
警戒心の強いシブは、
最後までシッターさんには近づかず、
謎の遠吠えをしていたらしく(笑)。
出張から戻りギンちゃんを駐車した瞬間から、
シブの鳴き声が外まで聞こえてきて、
思わず涙・・・。
その涙が乾く暇もなく、
1週置いてすぐ東京に4泊5日の出張。
前の晩、シッターさん用に、
シブのご飯などを準備している様子を見て、
「またひとりでお留守番するんだ」
と気付いたシブは、
前の晩から超スネスネお怒りモード。
早朝、私たちが出掛ける際には、
ずっと背中を向けたまま、
オモチャに猫パンチで八つ当たり。
スネスネマックスの背中には哀愁が漂い、
パンチ、パンチの連続!
時々こちらをチラリと見ては、
すぐに八つ当たりパンチ!パンチ!
せつなかったですー。
5日間会わなかったら忘れられちゃうかも。
とか、
ヘソを曲げて無視されちゃうのかな。
とか、
仕事をしながらも、せつなくてせつなくて。
出張先で見守りカメラを観ると、
いつもの時間に、いつもの場所で、
「起きて~」と鳴いていて、
また次の日も
「起きて~」と鳴いていて。
ウルウルウル・・・。
シッターさんが来ても、
炬燵に隠れたまま出てこずに、
弱々しい声で「��ー」と鳴いていて。
せつなくてせつなくて参りましたね~。
それでも。
5日ぶりにようやく帰宅したら、
シブはいつも通り、
膝に乗って抱っこにゴロゴロ。
いつも通りご飯を食べてお水を飲んで、
私たちを安心させてくれたんです。
すごいな。シブ。
私なら1週間ストライキするかもです。

そんなシブですが、
イタズラもたくさんしますよー。
隙あらばイタズラ。
団地の皆さんにご迷惑がかかりそうな時は、
「鬼さんが来るよー!」
と、注意するようにしていて、
そうすると意外と諦めます。
私よりずっと聞き分けが良い。
あとは、
窓から鳥を見ることが大好きで、
寝ている&イタズラしている以外の時間は、
ずっと窓から外を見ています。
団地の前に電線がいっぱいあるので、
たくさんの鳥がシブに会いに来てくれて、
本当にありがたいです。
(電線いっぱい↓)

穏やかでユニークで賢いシブ。
人間ふたりをいつも助けてくれて、
笑わせてくれて、泣かせてくれて、
こんなにありがたい存在って、
他にあるかしらん。
毎日が感謝の連続なのであります。
つづく。

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お見送りも各々☺️ 昨日、新潟市へ出発となり、行ってくるよーとファミリー各々に声を掛けて出掛けます。 ちゃー子さんは、なにかミャー♪と訴えてのお見送り。 ゴローさんは、床に落ちてたけれど、声をかけると振り向いて、掛けよってくる。 トーたん🐢と一緒に、行ってらっしゃい👋してる。 源ちゃんは、声を掛けるとチラッと見て、また寝た(笑) 梅子さんは、日除けテントの奥でくつろぎ中。 🐻もんちゃんは、物置の影に小穴を掘って、そこで、マッタリ中。 昨日は、午前中は構内作業で、もう暑くて暑くて… 汗がボタボタ顎から垂れる垂れる。 流れる汗が目に入る⤵️ 34℃になったシドさん地方。 お外にお留守番する梅子さん 🐻もんちゃんが気掛かりでしたが、新潟市へ出発前に一旦、着替えに帰宅すると、日除けテントの所は心地よい風が吹き抜けてたので、ちょっと安心。 それでも出掛けてる間は、熱中症ならないかな? もんちゃん絡まって動けなくなってないかな? なんて心配で… 新潟に入ると気温が23℃🌡️! もうね 肌寒いんですよ💧 こんなに違うかーと驚きました。 今日は最高気温22℃ 1時間に15ミリの大雨の予報だったのが、今朝、みたら、28℃ ☀️晴れって普通の天気に変わってました(笑) 工事内がアチコチ工事で通行止めだったり、設備が使えなくて別の施設にまで出向いてから荷降ろしになったりするみたいで… 予定表なんてのも来ないから、行ってみないと良く分からないので、今日は面倒な仕事になりそう。 #黒い親子はマック #保護犬を家族に #保護犬 #里親 #わんこのいる生活 #わんこのいる暮らし #いぬすたぐらむ #似た者同士 #親子 #ロミオゴロー #ねこ #猫のいる暮らし #さばしろ #保護猫 #保護猫を家族に #ロミオチャトラ #ちゃー子さん #トーたん #くさがめ #ハチワレ https://www.instagram.com/p/CTNnHL2h9Px/?utm_medium=tumblr
#黒い親子はマック#保護犬を家族に#保護犬#里親#わんこのいる生活#わんこのいる暮らし#いぬすたぐらむ#似た者同士#親子#ロミオゴロー#ねこ#猫のいる暮らし#さばしろ#保護猫#保護猫を家族に#ロミオチャトラ#ちゃー子さん#トーたん#くさがめ#ハチワレ
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インコの魅力♡
最初はとにかくペットが飼いたいなぁとずっと思っていて、ワンちゃん猫ちゃんは無理だなー と諦めていたんだけど、インコなら飼えると言うことに気づいてしまったのです。(小さいケージで飼える、匂いが全くしない、お留守番ができる)

(↑ココちゃん生後5ヶ月頃)
実際に飼ってみるまでは、インコにも犬猫と同じように、個性があって、ちゃんとコミュニケーションが取れる動物とは思っていませんでした。
今ではすっかりインコの魅力にハマってしまってます♡
寂しがりやで、人を愛して、無邪気で真っ直ぐでピュアで、いろんなことを彼らなりに理解していて思いやりがあって、賢くて。もしかしたら、他の動物もそうかもしれないけれど、インコはとにかく無邪気でピュアなところが私は一番好きかな♡遊んでいる姿を見ているだけで心癒されます
ココ & ソラ(羽衣セキセイ) 3才の時のムービー♡ ココちゃんがどれだけ小さいかわかりやすいね↓
vimeo
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2021/09/05(日) 今日は心太&仁(🐩シンタ&🐕ジン) 先日心太の病院へ行った時、、 いつもは仁🐕も連れて行くのですが、初めてひとりでお留守番🏡 病院から帰ってきたからのふたり🐩🐕の様子です わんこの方が人間より絆が強い💕 ──────────────★ ■我が家の🐶んこ 紹介 🐩心太(シンタ) 2006年11月3日 14歳 #マルシュナ #シュナマル & #シニア犬 🐕仁(ジン) 2008年11月3日 #雑種犬 #譲渡犬 #シニア犬 ■わんちゃん•ねこちゃん•全て動物は家族 犬 犬猫譲渡会 #雑種犬 #譲渡犬 #犬は家族 #わんこは家族 #雑種犬同好会 犬を飼うということ #犬好きの人と繋がりたい #保護犬 #保護犬を家族に #保護犬を家族に迎えるという選択肢 猫 #雑種猫 譲渡猫 ねこは家族 にゃんこは家族 猫を飼うということ 猫好きの人と繋がりたい 保護猫 保護猫を家族 保護猫を家族に迎えるという選択 #happydog bestfriends myfamily cutedog #dogsofinstagram #doglovers dogtruefriend cutecat catsofinstagram catsofinstagram catlover #애완견 #멍스타그램 #保護わん妄想イラスト部 ■スポーツ、その他 #ゴルフ #テニス #ヨガ #パーソナルトレーニング #ダンス #kーpop 大好き #NIKE 大好き ■仕事 静岡市 ストレッチ専門店 静岡県初のストレッチ専門店 #ストレッチ専門店 😁 #ストレッチ #パートナーストレッチ 静岡のストレッチ専門店 #静岡市 静岡駅 静岡駅南口 ■関連 オフィシャル→ @e_bodyconditioner スタッフ→ @stretch_shizuoka_ebc_etsuko (ストレッチ専門店 e-Bodyコンディショナー) https://www.instagram.com/p/CTcU_hThd2-/?utm_medium=tumblr
#マルシュナ#シュナマル#シニア犬#雑種犬#譲渡犬#犬は家族#わんこは家族#雑種犬同好会#犬好きの人と繋がりたい#保護犬#保護犬を家族に#保護犬を家族に迎えるという選択肢#雑種猫#happydog#dogsofinstagram#doglovers#애완견#멍스타그램#保護わん妄想イラスト部#ゴルフ#テニス#ヨガ#パーソナルトレーニング#ダンス#kーpop#nike#ストレッチ専門店#ストレッチ#パートナーストレッチ#静岡市
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かつてなく老いた涙目の短歌のために
「目は口ほどに物を言うからな」の一言で自分の言葉を信じてもらえなかったら憤慨するだろうけれど、同時に、「じゃあしかたない」とも思ってしまうかもしれない。ことわざを本気で使ってくる人を相手取るとき、そのことわざの力強さに対して自分の正直な心の力は、頑張っても引き分けか根比べ競争に持ち込めるかくらいのものかもしれない。そんなことでいいのか。「口」を信用することなく、「目」に権威を求めてしまうのはなぜだろうか。
わたしの視野になにかが欠けていると思いそれは眼球めだまと金魚を買った
/斉藤斎藤『渡辺のわたし』
「わたし」=「それ」=「作中主体」が「視野になにかが欠けていると思い」、「眼球と金魚を買った」。眼球の有無は「わたしの視野」の信頼にかかわるだろうか。
「わたしの視野」の信用問題。それは「わたしの視覚」の問題には回収されないだろう。「わたしの視野」を再現すること、報告すること。それは、語りの問題でもある。「わたしの語り」あるいは「わたしについての語り」。
「わたしの視野になにかが欠けていると思い」 「それは眼球めだまと金魚を買った」
と語る者がいる。一人称の「わたし」と��人称の「それ」を使い分けながら〈わたし=それ〉について語��者。あたかも三人称の「それ」に言及するように一人称の「わたし」について語ることのできる、「わたし」でも「それ」でもない語り手。
その語り手は眼球を使って〈わたし=それ〉を見たのだろうか。うーん。語り手として、わたしたちは見たことも聞いたこともないことを語ることができるけど。
それはメタ視点の〈わたし〉だろうか。メタ視点の〈わたし〉と思いたがる態度は、なんとしてでも〈わたしの視点〉を死守しようとする心に由来しないだろうか。もしも、〈わたしの視点〉が〈わたし〉の意識の圏内になかったら、どうするのか。〈わたしの盲点〉が無意識の視点として〈わたしの視点〉になりかわるとき、目が口ほどに物を言い始めるチャンスだ。目だけではない。様々な物たちが物を言い始める。指、髪、鼻、表情、性器、身長、体重、性別、世代、口癖、言い間違い、ファッション、スマホの機種、アクセサリー、食生活、インテリア、嗜好品、社会階層、家庭環境、トラウマ。〈わたしの視点〉を死守する心が〈わたしの盲点〉を前にして挫折するどころか〈無意識のわたしの視点〉をそこに見出すとき、〈わたし〉は言っていないことを言っていて、思っていないことを思っている。ヤバすぎる。無意識の解釈は信頼できる人や権威ある人にやってもらいたい。と、わたしは思うだろう。「と、わたしは思うだろう」と回収する〈わたしたち〉の法。
こんなにインクを使ってわたしに空いている穴がわたしの代わりに泣くの
深ければ深いほどいい雀卓がひそかに掘りさげていく穴は
/平岡直子「鏡の国の梅子」(同人誌『外出』2号)
〈わたし〉の個別性は〈わたしたち〉の法に抵抗できるはずだ。という主張は、きっと何度も繰り返されてきた。〈私性〉はしょせん共同体の一員としての制限された〈わたし〉のことだ、と言ってみたところで、かつての「共同体の一員」たちのなかにも、そのような意味での〈私性〉に回収されない〈この・わたし〉たちが次々と発見されるはずだ。それが本来の意味での〈私性〉だ。話は決まっている。その都度、うまく解釈を施せば、法文を変える必要はない。解釈できないものについては、例外事項として扱えばいい。例外的な〈わたし〉たち。動物、魔法使い、「ミューズ」、など。「穴」はどうしようか。
さいころにおじさんが住み着いている 転がすたびに大声がする
はるまきがみんなほどけてゆく夜にわたしは法律を守ります
/笹井宏之『てんとろり』
あるいは、〈わたし〉など言葉の遊戯の一効果にすぎない、と言ってみたとして。それが〈わたしたちの言葉の遊戯の法〉ではない、と言い切れるだろうか。ヴァーチャル歌人・星野しずるの作者・佐々木あららは次のように語る。
Q.これ、そもそもなんのためにつくったんですか?
僕はもともと、��物衝撃の技法に頼り、雰囲気や気分だけでつくられているかのような短歌に対して批判的です。そういう短歌を読むことは嫌いではないですが、詩的飛躍だけをいたずらに重視するのはおかしいと思っています。かつてなかった比喩が読みたければ、サイコロでも振って言葉を二つ決めてしまえばいい。意外性のある言葉の組み合わせが読みたければ、辞書をぱらぱらめくって、単語を適当に組み合わせてしまえばいい。読み手の解釈力が高ければ、わりとどんな詩的飛躍でも「あるかも」と受けとめられるはずだ……。そう考えていました。その考えが正しいのかどうか、検証したかったのが一番の動機です。
/佐々木あらら「犬猿短歌 Q&A」
読み手の解釈はそんなに万能ではないだろう。「わりとどんな詩的飛躍でも」、〈わたしたち〉に都合よく「あるかも」と解釈できるだろうか。現在、そのようなことは起きているだろうか。「わからない」「好みではない」「つまらない」「興味がない」「時間がない」といったことはないだろうか。それが駄目だという話ではない。〈理想の鑑賞者〉という仮想的な存在を想定した読者論はありうるが、短歌はそれを必要としているだろうか。AI純粋読者。
「雀卓がひそかに掘りさげていく穴は」「穴がわたしの代わりに泣くの」
「わたし」は泣いていないのだとして。「穴」があるかも。泣いているかも。
誰の声?
「なんでそんなことするんだよ」で笑いたいし、なんでそんなことするんだよ、を言いたい。〈なんでそんなことをするのかが分かる〉に安心するのは、それがもう「自分」だからだ。「自分」のように親しい安心感なんて、いくつあったっていい。 でも〈なんでそんなことをするのかが分かる〉でばかり生を満たしているとどうだろう、人はそのうち、AI美空ひばりとかで泣くことになるんじゃないか。
/伊舎堂仁「大滝和子『銀河を産んだように』」
やさしくて、人を勇気づけてくれる言葉だ。そう思う。
「雀卓がひそかに掘りさげていく穴は」「穴がわたしの代わりに」「AI美空ひばりとかで泣くことになるんじゃないか」
「わたし」の代わりに泣いているのは何だろう。〈わたしたち〉の法はその涙を取り締まれるだろうか。「泣くことになるんじゃないか」は「泣くな」ではない。「じゃないか」の声の震えは何だろう。もしかして、泣いてるんじゃないのか?
ころんだという事実だけ広まって誰にも助けられないだるま
もう顔と名前が一致しないとかではなく僕が一致してない
あたらしいかおがほしいとトーマスが泣き叫びつつ通過しました
/木下龍也『つむじ風、ここにあります』
機関車のためいき浴びてわたしたちのやさしいくるおしい会話体
/東直子『青卵』
ナレーションのような声によって、か��いそうなものがユーモラスに立ち上がる。ナレーターの「僕」もなんだかかわいそう。「だるまさんが転んだ」という遊びはだるまを助ける遊びではない。そもそも、鬼に自分から近づいていくような酔狂な者たちは、自身がだるまである自覚があるのか。いや、このゲームにだるまは存在するのか? 助けるに値しないだろ。「顔と名前が一致しない」は、通常、自分以外の誰かに向けられる言葉だが、歌を読み進めていくとそれが「僕」に向けられた言葉であることが判明する。読者はそれに驚くだけではない。「顔と名前が一致しない」という言葉に含まれる攻撃性が「僕」自身に向けられることで、途端に空気がやわらぐのを感じて、ホッとする。笑う。あ、よかった、大丈夫だった。「僕が一致していない」と言う「僕」のユーモラスなかわいそうさは、このような言葉のドラマによって作られている。お前、かわいそうだな、でも大丈夫そうだ。〈立てるかい 君が背負っているものを君ごと背負うこともできるよ/木下龍也〉。アンパンマンとトーマスのキメラが泣き叫んでいるらしい。「ためいき」の向こう側で。「ためいき浴びてわたしたちのやさしいくるおしい会話体」。こちらだって、くるおしい。
「ためいき」の向こう側に、言葉が無数の涙を作れてしまうとして。〈わたしたちの言葉の遊戯の法〉を超えたところに涙を作れてしまうとして。〈わたし〉の涙は計算不可能な可能性の中で生じた一効果なのだとして。涙に理由はないのだとして。やっぱり、本当に泣いている〈わたし〉もいるでしょう? 泣いている〈わたし〉を助けてあげたい? 「なんで泣いているんだよ」。
止まらない君の嗚咽を受けとめるため玄関に靴は溢れた
/堂園昌彦『やがて秋茄子へと到る』
アガンベンの直感はこうである。すなわち、法にとって「思考不可能」なはずの生〔=既存の法では取り扱えない種類の「生」〕、この「生」は法にとって法の空白をなしてしまうものであるが、しかも仮にそこで留まれば、「生」は単なる法外・無法として放置されるはずであるが、しかしそういうことは決して起こることはなく、法は、「生」が顕現するその状態を例外状態や緊急事態として法的に処理しようとする。ここまでは、よい。その通りである。しかし、アガンベンは続けて、そのように「生」が法に結びつけられると「同時」に、「生」は法によって見捨てられることになると批判したがっている。今度は、「生」は、法的に法外へと見捨てられ、あまつさえ無法な処置を施されると言いたがっている。しかし、その見方は一面的なのだ。主権論的・法学的に過ぎると言ってもよい。というのも、「生」の側から言うなら、今度は、「生」が法外な暴力を発揮して、「生」を結びつけたり見捨てたりする法そのものを無きものとし、ひいては統治者も統治権力も無力化するかもしれないからである。そして、疫病の生とは、そのような自然状態の暴力にあたるのではないのか。
/小泉義之「自然状態の純粋暴力における法と正義」『思想としての〈新型コロ��ウイルス禍〉』、161-162頁、〔〕内注記は平
実状に合わせて、法文書の中に例外事項をひたすら増やし、複雑にすること。その複雑な法文書を読み解ける専門家機関を作ること。それを適切に運用すること。そういった法の運用では〈わたしたち〉の生を守ることができないような事態に直面したとき、法よりも共通善が優先され、法が一時的に停止される。「例外状態」。法の制約から解放された権力が動き出すだろう。法が停止した世界において、それでも法外の犯罪(という語義矛盾)を統制するため。法の制約から解放されたのは権力だけではない。〈わたし〉たちだって法外に放り出されたのだ。「ホモ・サケル」。そこには、〈わたし〉ならざる者たちが、〈わたしたち〉の法を無力化しながら、跋扈することのできる世界があるだろうか。(穂村弘が「女性」という形象の彼方に夢見た世界はそういうものだったかもしれない。*注1)
法外に流されている暴力的な涙はあるだろうか。理由のない涙の理由のなさをテクストの効果に還元して安心しようとするテクスト法学者を、その涙が無力化するだろうか。涙する眼は、見ることと知ることを放棄する。両眼視差と焦点を失いながら、けれどもたんに盲目なのではない涙目の視点。
それは哀願する。まず第一に、この涙はどこから降りてきたのか、誰から目へと到来したのかを知るために。〔…〕。ひとは片目でも見ることができる。目を一つ持っていようと二つ持っていようと、目の一撃によって、一瞥で見ることができる。目を一つ喪失したり刳り抜いたりしても、見ることを止めるわけではない。瞬きにしても片目でできる。〔…〕。だが、泣くときは、「目のすべて」が、目の全体が泣く。二つの目を持つ場合、片目だけで泣くことはできない。あるいは、想像するに、アルゴスのように千の目を持つ場合でも、事情は同じだろう。〔…〕。失明は涙を禁止しない。失明は涙を奪わない。
/ジャック・デリダ『盲者の記憶』、155-156頁
涙目の視点。
振り下ろすべき暴力を曇天の折れ曲がる水の速さに習う
噴水は涸れているのに冬晴れのそこだけ濡れている小銭たち
色彩と涙の国で人は死ぬ 僕は震えるほどに間違う
価値観がひとつに固まりゆくときの揺らいだ猫を僕は見ている
ゆっくりと鳥籠に戻されていく鳥の魂ほどのためらい
/堂園昌彦『やがて秋茄子へと到る』
「振り下ろすべき暴力」などないと話は決まっている。合法の力と非合法の暴力とグレーゾーンがあるだけだ。倫理的な響きをもつ「べき」をたずさえた「振り下ろすべき暴力」などない。語義矛盾、アポリア。けれども、「法外の犯罪」などという語義矛盾した罪の名を法的に与えられるその手前、あるいはその彼方での〈わたし〉たちの跋扈を、「振り下ろすべき暴力」という名の向こうに想像してみてもいい。
語義矛盾のような〈わたし〉��語義矛盾のような言葉を聞くことができる。「世界の変革者であり、同時に囚獄無き死刑囚である人間」(塚本邦雄)。
短歌に未来はない。今日すらすでに喪っている。文語定型詩は、二十一世紀の現実に極微の効用すらもちあわせていない。一首の作品は今日の現実を変える力をもたぬのと同様に、明日の社会を革める力ももたない。 私は今、その無力さを、逆手にもった武器として立上がろうなどと、ドン・キホーテまがいの勇気を鼓舞しようとは思わない。社会と没��渉に、言葉のユートピアを設営する夢想に耽ろうとももとより考えていない。 短歌は、現実に有効である文明のすべてのメカニズムの、その有効性の終わるところから生れる。おそらくは声すらもたぬ歌であり、それゆえに消すことも、それからのがれることもできぬ、人間の煉獄の歌なのだ。世界の変革者であり、同時に囚獄無き死刑囚である人間に、影も音もなく密着し、彼を慰謝するもの、それ以上の機能、それ以上の有効性を考え得られようか。 マス・メディアに随順し、あるいはその走狗となり、短歌のもつ最も通俗的な特性を切り売りし、かろうじて現実に参加したなどという迷夢は、早晩無益と気づくだろう。
/塚本邦雄「反・反歌」『塚本邦雄全集』第八巻、28頁
「現実を変える力」を持たぬ「世界の変革者」は、通常の意味では変革者ではない。有罪と裁かれる日も無罪放免となる日も迎えることはない。ということは、その「変革者」は囚獄の中にも現実の中にも生きる場所を持たない。そんな人間いるのか。もしも批評家がその変革の失敗を裁くことでその人間に生きる場所を与え、歴史に刻むならば、その失敗がそもそも不可能な失敗であったことを見落としてしまうだろう。なんて無意味なこと。けれども、目指されていた変革も失敗の裁きもなしに、まったく別の道が開かれることがある。そういう想像力は必要だ。
短歌に未来はない。今日すらすでに喪っている。
マス・メディアに随順し、あるいはその走狗となり、短歌のもつ最も通俗的な特性を切り売りし、かろうじて現実に参加したなどという迷夢は、早晩無益と気づくだろう。
これらのメッセージを、塚本邦雄がそう言っているのだから、と素朴に真に受けてはならないだろう。マス・メディアに随順するのか、塚本邦雄に随順するのか、そういった態度。
筋肉をつくるわたしが食べたもの わたしが受けなかった教育
/平岡直子「水に寝癖」
洗脳はされるのよどの洗脳をされたかなのよ砂利を踏む音
/平岡直子「紙吹雪」
「そうなのよ」「そうじゃないのよ」と口調を真似て遊んでいると「砂利を踏む音」にたどり着けない。どんな人にも「わたしが受けなかった教育」があるし、なにかしら「洗脳はされる」。だからなんだよ。今、口ほどに物を言っているのは何。「砂利を踏む音」。くやしい。
リリックと離陸の音で遊ぶとき着陸はない 着陸はない
/山中千瀬「蔦と蜂蜜」
気付きから断定、発見から事実確認、心内語的つぶやきから客観的判断へと、フレーズの相が転移するリフレイン。「リリックと離陸の音で遊ぶとき」、その「とき」に拘束されて、ある一人の人が「着陸はない」と気づいた。気づいてそう言った。けれども、二度目の「着陸はない」からは、「とき」や〈気付きの主体〉の制約を受けないような、世界全体を視野におさめているかのような主体による断定の声が聴こえてくる。聴こえてきた。
「着陸はない」世界に気づいた主体が、一瞬にしてその世界を生ききった上で、振り返り、それが真実であったと確かめてしまった。一瞬で老いて、遺言のような言葉を繰り出す。事実と命題の一致としての真理は、その事実を確認できる主体にだけ確かめることができるのだ。〈わたしたち〉にとって肯定も否定もできない遺言。「だってそうだったから」で提示される身も蓋もない真理は「なんで」を受け付けない。
世界の真理がリフレインの効果によって、身も蓋もない仕方で知らされること。説明抜きに、真理を一撃で提示するという暴力からの被害。それは、爆笑する身体をもたらすことがある。自身の爆笑する身体に「なんで爆笑してるんだよ」とツッコミをしようと喉に力を込めながら、その声を捻り出すことはできずに、ひたすら身体を震わせて笑う。「アッ」「ハッ」「ハッ」「ハッ」と声を出しながら息を吸う。呼吸だけは手放してならないのは、息絶えるから。「着陸はない」と二度繰り返して息絶えてしまうのは、歌の主体だけなのだ。
もちろん、「着陸はない⤵︎ 着陸はない⤵︎」のような沈鬱な声、「着陸はない⤴︎ 着陸はない⤴︎」のような無邪気な声を聞き取ってもいい。「着陸はないヨ」「着陸はないネ」「着陸はないサ」のように終助詞を補って聞くこと。リフレインの滞空時間が終わるやいなや一瞬にして息絶えてしまうような声が〈わたしたち〉に求められていないのだとしたら。
「終」助詞というのは、近代以後の命名だが、話し言葉の日本語の著しい特徴であって、話し相手に向かって呼びかけ、自分の文を投げかける働きの言葉である。だから見方によれば、文の終わりではないので、自分の発言に相手を引き込もうとしている。さらに省略形の切り方では、話し相手にその続きを求めている、と言えよう。このように受け答えされる文は、西洋語文が、主語で始まって、ピリオドで終わって文を完結し、一つ一つの文が独立した意味を担っているのとは大きな違いである。
/柳父章『近代日本語の思想 翻訳文体成立事情』、91頁
近代に、西洋の文章を模倣するように、「〜は」(主語)で始まって「た。」(文末)で終わる〈口語文〉が作られた。それ以前には、日本語文には西洋語文に対応するような明確な〈文〉の単位は存在しなかった。句読点にしても、活字の文章を読みやすくするための工夫(石川九楊、小松英雄の指摘を参照)と、ピリオド・カンマの模倣から、近代に作られた。
言文一致体=口語体が生み出されてから100年が経つ。けれども、句読点をそなえた〈口語文〉を離れるやいなや、「着陸はない」が「。」のつく文末なのか終助詞「ヨ・ネ・サ」を隠した言いさしの形なのか、いまだに判然としないのが日本語なのだ。
ところで、近代の句読点や〈文〉以前に、明確な切れ目を持つ日本語表現として定型詩があったと捉えられないだろうか。散文のなかに和歌が混じる効果。散文の切れ目としての歌、歌の切れ目としての散文。
句読点も主語述語も構文も口調や終助詞も関係なく、なんであれ31音で強制的に終わること。終助詞を伴いながらも、一首の終わりに隔てられて、返される言葉を待つことのない平岡直子の歌の声。「着陸はない 着陸はない」のリフレインの間に一気に生ききって、どこかに居なくなってしまう声。
老いについての第一の考え方は、世論においても科学者の世界においても広く共有されている目的論的な考え方で、それによれば、老いとは生命の自然な到達点で、成長のあとに必然的に訪れる衰えである。老いは「老いてゆく」という漸進的な動きから離れて考えることはできないように思える。〔…〕。飛行のメタファー〔上昇と下降〕はまさに、老いをゆっくりと少しずつ進んでゆく過程として性格づけることを可能にする。それは、人生の半ばに始まり、必ずや直線的に混乱なく進むとは限らないとしても、段階を順番に踏んでいくのである。〔…〕。第二の考え方は老いを、漸進的な過程としてだけでなく、同時に、また反対に、ひとつの出来事として定義する。突然の切断、こう言ってよければ、飛行中の事故アクシデント。どれほど穏やかなものであったとしても、すべての老化現象の内には常に、思いもよらなかった一面、破局的な次元が存在するだろう。この、思いもよらなかった出来事としての老化という考え方は、第一の図式を複雑なものにする。老化について、老いてゆくというだけではどこか不十分なのだと教えてくれる。それ以上の何か、老化という出来事が必要なのである。突然、予測のつかなかった出来事が、一挙にすべてを動揺させる。老いについてのこの考え方は、徐々に老いてゆくことではなく、物語のなかでしばしば出会う「一夜にして白髪となる」という表現のように、その言葉によって、思いがけぬ、突然の変貌を意味することができるとすれば、瞬時の老化と呼びうるだろう。〔…〕。かくして、その瞬時性において、自然なプロセスと思いもよらぬ出来事の境界が決定不能になるという点で、老いは死と同様の性格をもつだろう。人が老いて、死んでゆくのは、自然になのか、それとも暴力的になのか。死とは、そのどちらかにはっきりと振り分けることができるものだろうか。
/カトリーヌ・マラブー『偶発事の存在論』、76-80頁、〔〕内注記は平
徐々に老いてゆくことと瞬時に老いること。それはたんに速度の問題なのではない。同一性を保ちながら徐々に老化することと、他なる者になるかのように突如として老化すること。衰えること、老成すること、年齢に見合うこと、若々しいこと、老けていること、大人びていること、子供っぽいこと。幼年期から���経験や思考の蓄積からスパッと切れて無関心になってしまうこと、来歴のわからない別の性格や習慣を持つこと。長期にわたって抑え込まれていたものの発現や変異、後から付け加えられたものの混入や乗っ取り。
自分の周りで生きている人々が老いてゆく過程に、私たちは本当に気づいているだろうか。私たちはたしかに、ちょっと皺が増えたなとか、少し弱ったなとか、体が不自由になったなと思う。しかし、そうだとしても、私たちは「あの人は今老いつつある」と言うのではなく、ある日、「あの人も老いたな」と気づくのである。
/カトリーヌ・マラブー、前掲書、80-81頁
内山昌太の連作「大観覧車」では、肺癌を診断された「父」の、余命一年未満の宣告をされてから死後までが描かれる。
父のからだのなかの上空あきらかに伸び縮みして余命がわたる
巨躯たりし父おとろえてふくらはぎ一日花のごとくにしぼむ
父も死に際は老いたる人となり寝室によき果物を置く
壊れたる喉をかろうじて流れゆくぶどうのひとつぶの水分が
/内山昌太「大観覧車」(同人誌『外出』三号)
「父も死に際は老いたる人となり」。あっという間の出来事だったのではないか。おそらく、「父」はもともと老人と言ってもいい年齢だった。けれど、「死に際」に「老いたる人」となったのだ。
定型と技巧を惜しみなく使って肉親の死を描くこと。「死」は定型と技巧かもしれない。「かもしれない」の軽薄さを許してほしい。定型の両義性。自然であり非−自然であるもの。なんであれ31音で強制的に終わることは人間が作り出した約束事に思われるかもしれないが、それは〈わたしたち〉が自由に交わせる約束よりは宿命に近いだろう。約束は破ることが可能でなければ約束ではない。あるいは、破られる可能性。偶然と出来事。宿命に対する技巧とは約束を作ることだろう。そこに他者がいる。あるいは〈わたし〉が他者になる。
〈作品化することは現実を歪めることである〉という考え方がある。事実と表象との対応に着目する立場。もしも〈父のふくらはぎが「一日花のごとくにしぼむ」かのように主体には見えた〉〈見えたことを「一日花のごとくにしぼむ」とレトリカルに書いた〉とパラフレーズするならば、作品は現実を歪めていないと言える。「見えた」「書いた」のは本当だからだ。けれど、そんな説明でいいのだろうか。また口よりも目を信用している。「一日花のごとくにしぼむ」を現実として受け入れられないだろうか。作品をそれ自体一つの出来事として。
「しぼむ」という動詞の形。活用形としては終止形だが、テンス(時制)やアスペクト(相:継続、瞬時、反復、完了、未完了など)の観点から、「タ形」(過去・完了)や「テイル」(未完了進行状態・完了結果状態などさまざま)と区別して「ル形」と分類される形である。西洋文法に照らし合わせるなら、「不定形」あるいは「現在形」だ。(日本語では���明日雨が降る〉のように「ル形」で未来を表現することもある)。
「しぼんだ」(過去・完了)や「しぼんでいる」(現在・進行)と書かれていれば、〈主体の知覚の報告〉として読めるかもしれない。時制についても、相についても、語り手の位置に定位した記述として読める。けれども「しぼむ」はどうだろう。西洋文法において「不定形」とは、時制・法(直接法、仮定法、条件法など)・主語の単複と人称といった条件によって決められた形(=定形)ではない、動詞の基本的な形のことである。
この不定形的な「ル形」を、助動詞や補助動詞を付けずに、剥き出しにして「文末」にすること。そのような「ル形」の文末は、語り手の位置に定位した時制や確認判断を抜きにした、一般的命題、あるいは出来事そのものの直接的なイメージを差し出すことがある。
柳父章によれば、近代���前にも「ル形」の使用はわりあい多いという。けれども、それは標準的な日本語の用法ではなかった。古くは和文脈の日記文でよく使われていた。漢文体や『平家物語』でも一部使われている。そして、「おそらく意識的な定型として使われたのは、戯曲におけるト書きの文体」(97頁)である(*注2)。日記文やト書きは、原則として読者への語りを想定しない書き物であるため、語法が標準的である必要がないのだ。
文末が「ル形」で終わる文体は、脚本とともに生まれたのだろうと思う。脚本では、会話の部分と、ト書きの部分とは、語りかけている相手が違う。会話の部分は、演技者の発言を通じて、結局一般観客に宛てられている。しかし、ト書きの部分は、一般観客は眼中にない。これは演技者だけに宛てられた文である。〔…〕。 文法的に見ると、ト書きの文には、文末に助動詞がついてない。〔…〕。 すなわち、ト書きの文末には、近代以前の当時の通常の日本文に当然ついていたはずの、助動詞や終助詞が欠けている。「ル形」で終わっているということは、こういう意味だった。 逆に考えると、まともな伝統的な日本文は、ただ言いたいことだけを言って終わるのではない。読者や聞き手を想定して、文の終わりには、話し手、書き手の主体的な表現を付け加える。国文法で言う「陳述」が加わるのである。「ル形」には、それが欠けているので、まともな日本文としては扱われていなかった、ということである。
/柳父章、前掲書、99−100頁
このような来歴の「ル形」は、その後、西洋語文の「現在形」や「不定形」の翻訳で使われるようになり、より一般化した。それをふまえた上で、読者を想定した日本文の中で「ル形」を積極的に使ったのは夏目漱石だった。歌に戻ろう。
巨躯たりし父おとろえてふくらはぎ一日花のごとくにしぼむ
「しぼむ」のタイムスパンをどう捉えるか。ある時、ある場所で、「一日」で「しぼむ」のを〈見た〉のだろうか。おそらくそう見えたのだろう。けれども、他方で、この歌は「その時、その場」の拘束から逃れてもいる。「しぼむ」には「文の終わり」の「話し手、書き手の主体的な表現」が欠けているのだ。ト書きを読めば、ある時ある場所に拘束されずに、何度でもそれを上演し体験できる。それに似て、この「しぼむ」は読者に読まれるたびにそこで出来事を起こすだろう。
「しぼむ」について、今度は「話し手、書き手」の位置ではなく、「言葉のドラマ」を参照しよう。
「巨躯たりし父おとろえてふくらはぎ一日花のごとくに」
「ふくらはぎ」と「花」は決して似ていない。「花」と言われると、人は通常〈咲いている花〉を思い浮かべるだろう。「一日花」は一日の間に咲いてしぼむ花のことだが、だからこそ、咲いているタイミングが貴重に切り取られるのではないか。「ふくらはぎ」と〈咲いている花〉は形状がまったくちがう。にもかかわらず、〈ふくらはぎ・一日・花の〉のように、「が」や「は」といった助詞を抜きに、似ていないイメージ・語彙が直接に連鎖させられている。意味的にもイメージ的にも、この段階では心許ない。結句にいたっても、「ごとくに」に四音が割かれており、一首全体が無事に着陸する望みは薄いだろう。〈ふくらはぎ・一日花の・ごとくに〉と言われても、「ふくらはぎ」はまったく「花のごとく」ではないのだから。
最後の最後で、「しぼむ」の突如の出現が一首に着陸をもたらす。「突如」として「着陸」が訪れる。「花のごとく」なのは「ふくらはぎ」ではなくて、それが「しぼむ」ありさまであったことが、最後に分かる。
うまく着陸したからといって、〈ふくらはぎ・一日花の〉における語と語の衝突の記憶がすぐに消えてなくなることはない。でなければ、「しぼむ」がこのように訪れてくれることはない。衝突事故をしても着陸すること。「ふくらはぎ」にまったく似たところのない、異質なものとしての「花」が、助詞抜きで直接的に連鎖させられることによって生じる読者の戸惑い。その戸惑いが、結句未満の最後の三音で解消されるという出来事。
「話し手、書き手」から遊離した「言葉のドラマ」の中の「しぼむ」は、もちろん書き手の感性の前に現れた「しぼむ」でもあっただろう。〈見えたことを「一日花のごとくにしぼむ」とレトリカルに書いた〉は間違いではない。「父」と〈わたし〉のドラマを「言葉のドラマ」へと還元して、蒸発させてしまってはいけない。それは単純化だ。「社会と没交渉」になってたったの二歩で「言葉のユートピアを設営」してしまうような、一般論として振りかざされる「作者の死」は心が狭い。
靴を脱ぎたったの二歩で北限にいたる心の狭さときたら
/平岡直子「視聴率」(同人誌『率』9号)
内山の作品には、「老い」について「ル形」を使いながら〈語り手=書き手の声〉を聞かせる作品が他にもある。
読点の打ちかたがよくわからないまま四十代、中盤に入る
/内山晶太「蝿がつく」(同人誌『外出』二号)
「ル形」の効果だろうか。歌の語り手はあきらかに書き手だが、仮に書き手である内山昌太が嘘をついていたとしてもこの歌は成り立つだろう。歌のなかでの語り手=書き手=〈わたし〉は「内山昌太」から遊離している。だからといって架空のキャラクターを立てる必要もない。〈書き手の声〉が〈書くこと〉について語っているという出来事が確認されれば、ひとまずはいい。
結局のところ、「読点」は適切に打たれたのかわからない。「三十代」「四十代」という十年のサイクルは規則的に進むが、内山はそこに不規則性、あるいは規則の曖昧さを差し込もうとしている。不規則はどこから生まれるのか。規則が明文化されているかどうか、規則がカッチリしているかどうか、ではない。規則を使うとき、従うときに、不規則が生まれる。「使う」「従う」といった行為。そこには、うっかりミスや取り違え、愚かさや適当さがある。
内山自身による先行歌がある。
ペイズリー柄のネクタイひとつもなく三十代は中盤に入る
/内山晶太『窓、その他』
「四十代、中盤」や「三十代は中盤」というふうに、「◯十代」と「中盤」の間に何かを差し込もうとする手がある。
十年のサイクルについて、あらかじめ目標を立てるのであれ、後から反省するのであれ、「◯十代」という表記はその十年の全体を一挙に指示する。自動的で、明快で、有無を言わせない〈十年の単位〉に対して、「中盤」という曖昧な幅を当ててみること。
「三十代中盤」や「四十代中盤」という表記であったなら、「中盤」は〈十年〉の中の一部として回収されてしまうかもしれない。けれど、「三十代は中盤に入る」、「四十代、中盤に入る」という表記によって、徐々に進行しながら曖昧にその意味や価値を変質させていく、一様ならざる時間の幅へと〈十年〉が取り込まれていくかのようだ。「中盤」っていつからいつまでなんだ。きっと、サイクルごとに「中盤」の幅は伸び縮みするだろう。3年、5年? 8年くらい中盤で生きる人もいるのかな。
眠ること、忘れることを知らないで、昼的な覚醒を模範とする精神には、決して捕捉されることのない曖昧な時間。その時間のうちに〈十年の単位〉を巻き込んで、一身上の都合から伸び縮みするリズムの個人的な生を主張する視点。〈君の死後、われの死後にも青々とねこじゃらし見ゆ まだ揺れている/大森静佳〉と好対照だ。というのは、「リズムの個人的な生」の主張は、それを意識すればその都度タイムリミットのように減っている〈十年〉への不安とペアなのだから。
「中盤に入る」は淡々とした地の文の語りのようでもありながら、規則的に進行する〈十年〉のテンポに従うことのない「中盤」の速度を確保しようとする〈わたし〉の主体的な決意の言葉のようでもある。歌から聞こえてくる声が、三人称視点的な叙述なのか一人称的な心内語やセリフなのかの微妙な決定不可能性は、〈十年の単位〉について社会に語らされている主体と「中盤」を能動的に語っている主体のせめぎ合いに似る。
十年のサイクルは自然的な所与なのか、社会的な構築物なのか。絶対に無くなる時間の宿命を約束と取り違えること。それから、その約束を破ってしまうこと。二重のうっかりだ。だから、うっかりと変な歳のとり方をする。年齢相応じゃない。うっかりはポエジーだろう。
二つのタイプの老化、漸進的な老化と瞬時の老化は、常に強く絡み合っており、互いに錯綜し、巻き込み合っている。だから、常になにがしかの同一性が、毀損した形であっても存続し、人格構造の一部分が変化を超えて持続するのだと言う人もいるだろう。そうだとしても、どれだけ多くの人が、死んでいなくなってしまう以前に、私たちの前からいなくなり、自らを置き去りにしていくことだろう。
/カトリーヌ・マラブー、前掲書、93−94頁
〈わたし〉という語り手はうっかりと〈わたし〉から離脱してしまうことがある。深い意味もなく。身も蓋もないものの神秘を生み出しながら。その神秘を新たに〈わたし〉の神秘へと統合できるのか、そうではないのか。
君の死後、われの死後にも青々とねこじゃらし見ゆ まだ揺れている
/大森静佳『てのひらを燃やす』
「ねこじゃらし見ゆ」を受ける視点。それは「君」でも「われ」でもなく、「君の死後、われの死後���に、「まだ揺れている」と言うことのできる語り手の視点だ。語り手の案内を受けて導かれた読者の視点だ。読者の〈わたし〉はいったいどこに案内されたのだろうか。「まだ揺れている」と語る「われ」ならざる〈わたし〉はどの〈わたし〉で、「それ」はどこにいるのか。
この歌の視点について、ひとつ現実的に想像してみよう。
現実に、ある時ある場所で、「君」と「われ」が青々としたねこじゃらしを見ている。会話はなく、ねこじゃらしが揺れるのをぼうっと見ている。注意して観察しているのではなく、なんとなく、その青々とした緑色の揺れるのが目に入るがままだ。受動的で反復的な視覚体験によって、体験の主体は動くモノの側に移っていく。ねこじゃらしが揺れれば〈揺れ〉を感じ、こすれれば〈こすれ〉を感じるような体験のあり方。その時、ねこじゃらしの「青々」や「揺れ」は、「君」や「われ」が見ていようが見ていなかろうが、それとは独立に持続する運動のように現象するだろう。
持続するそれは「われ」の主観から独立してイデアルに永続するナニカというよりは、「われ」が〈意識的に見る主体=見ていることを意識する主体〉ではない限りにおいて成立するかりそめの現象だ。その現象に身を任せている間、「われ」は変性意識的な状態かもしれない。意識の持続は、見ていることの自覚ではなく、「ねこじゃらし」の「揺れ」の運動と一致する。「われ」の肉体も〈君とわれ〉の関係もそっちのけで、ねこじゃらしが揺れる。
魂がそのように「われ」から遊離していきながら、やっぱり振り返る。「われ」から遊離した、ほとんど死後的な魂の視点は振り返る。きっと、そうでなくちゃ困るのだ。振り返る視線によって、「君」と「われ」が「視野」に入る。「視野」に入れるという肯定の仕方だ。というのは、ねこじゃらしを見ている限り、「君」と「われ」は互いに「視野」に入らないはずなのだ。
〈君とわれ〉というペアの存在が、「君」も「われ」もいつか死ぬという身も蓋もない事実を絆帯として、常軌を逸した肯定をされてしまった。
「君とわれの死後にも」ではなく「君の死後、われの死後にも」と書き分けられている。「君」と「われ」のどちらが早く死ぬか、死ぬまでにどのような関係性の変化があるか、どのような経験の共有があるのか。そういったことに関心を持つ生者の視点はない。その視点があるならば、たとえば次の歌のように二者の断絶が描かれてもいい。
その海を死後見に行くと言いしひとわたしはずっとそこにいるのに
/大森静佳『カミーユ』
断絶の構図を作らずに、〈、〉で並列させられる形で肯定される関係は何だろう。生前から死後までを貫くような、〈君、われ〉の関係の直観。〈君とわれ〉の「君の死後、われの死後」への変形。その変形による肯定は、〈君とわれ〉の圏内においてはナンセンスだ。〈「君」が死んでも、「われ」が死んでも、ねこじゃらしは変わらず揺れているだろうね〉ならば、それは〈君とわれ〉の相対化だ。それで心身は軽くなるかもしれな��。その軽さに促されるように〈生〉のドラマは展開するかもしれない。けれども、生前から死後までを貫く二者の並列関係の肯定にはなりえない。
〈生前から死後までを貫く二者の並列関係〉はナンセンスなフレーズだ。だからこそ、その肯定は常軌を逸している。ナンセンスな肯定が、常軌を逸した視点から、すなわち、「われ」の魂が遊離して別の生の形をとっている間にだけ持続するかりそめの語り手の視点からなされた。
語り手の視点を「死後の視点」と一息に言ってはならない。そう言ってしまうなら、語り手の位置の融通無碍な変化を見落とすことになる。「君の死後、われの死後にも青々とねこじゃらし見ゆ」から��まだ揺れている」の間には、語り手の視点にジャンプがある。山中千瀬の「着陸はない 着陸はない」のリフレインと似た効果がこの歌の一字あけにおいても生じているのだ。
「君の死後、われの死後にも青々とねこじゃらし見ゆ」という言い切りの裏には、〈見えるだろう〉という直観が働いている。〈直観の時〉があり、〈時〉に拘束された「言い切り」がある。
直観された真実がそのままで場を持つことは、しばしば難しい。けれどもこの歌において、その直観は、一字あけのジャンプを経て、「まだ揺れている」を言うことのできる死後的な主体によって確認されることで場を持つことになる。「まだ〜ている」においては、「ル形」とは異なり、明らかに主体による確認判断が働いているだろう。直観を事実として確かめることのできるような不可能な主体へのジャンプ。
歌が立ち上げる〈不可能な声〉がある。
直観した時点から、それを確認する時点へのジャンプ。そこには、他なる主体の声になるかのような突如の変化と、同じ一つの〈歌の声〉の持続の、二つの運動の絡み合いがあるだろう。一首は一つの声を聞かせる。言葉を強引に一つの声へと押し込めることによって、通常では不可能なことを言うことができる。通常では、ナンセンス、支離滅裂、分裂した声、破綻した言葉のように聞かれてしまうかもしれないものたちが、一つの歌となるときに、〈不可能な声〉を聞かせてくれる。どうして〈不可能な声〉を使ってまで〈君とわれ〉を視野に収めたのだろうか、という問いから先は読者に任せた。
わたしたちに不可能な声が聞こえてくるとき。
「それは眼球めだまと金魚を買った」 「穴がわたしの代わりに泣くの」 「はるまきがみんなほどけてゆく夜」 「僕が一致してない」 「機関車のためいき浴びてわたしたちのやさしいくるおしい会話体」 「振り下ろすべき暴力」 「着陸はない 着陸はない」 「ふくらはぎ一日花のごとくにしぼむ」 「まだ揺れている」
どんな声でも「あるかも」と思えるように解釈することができるのだとして、わたしたちはどんな声でも、なんであれ聞いてきたのではない。いくつかの不可能な声を聞いてきた。
「不可能な短歌の運命」を予告しつつ、あらかじめそれを過去のものにするために。不可能なものの失敗がそれを過去へと葬ったあとで、そのナンセンスな想起が不可能なものを橋やベランダとして利用できるようにするために。
/平英之「運命の抜き差しのために(「不可能な短歌の運命」予告編)」
2年前に僕はこんなことを書いていた。短歌を書くことも、文章を書くことも、僕にはほとんど不可能なことだった。なにが不可能だったのか。
分母にいれるわたしたちの発達、 くまがどれだけ昼寝しても許されるようなわたしたちの発達、 しかも寄道していてシャンデリア。 青空はわけあたえられたばかりの真新しくてあたたかな船。 卵にゆでたまご以外の運命が許されなくなって以来わたしたちは発達。 教科書ばかり読んでいたのでちっとも気のきいたことを言えなくてごめんなさい。 まったく世界中でわたしたちを愛してくれるのはあなただけね。 ベランダから生きてもどった人はひとりもいないっていうのにさ。 〔…〕
/瀬戸夏子「すべてが可能なわたしの家で」(連作5首目より、一部抜粋)
ベランダから生きてもどった人はひとりもいないっていうのに、ベランダから生きてもどろうとしていた。それが僕の抱えていた不可能なことだった。
*注1 穂村弘「〔…〕。それでたとえばフィギュアスケートだったら、スケート観よりも実際に五回転できるってことがすごいわけだけど、短歌においては東直子とかが五回転できて、斉藤斎藤が「いや、俺は跳びませんから」みたいな(笑)、「俺のスケートは跳ばないスケートですから」みたいなさ。僕は体質的には、本当は自分が八回転くらいできることを夢見る、跳べるってことに憧れが強いタイプでね、だから東直子を絶賛するし、大滝和子もそうだし、つばさを持った人たちへの憧れがとくに強い。だからある時期まで女性のその、現に跳べる、そしてなぜ跳べたのか本人はわからない、いまわたし何回跳びました? みたいな(笑)、「数えろよ、なんで僕が数えてそのすごさを説明しなきゃいけないんだよ」みたいな、そういうのがあった。」 座談会「境界線上の現代短歌──次世代からの反撃」(荻原裕幸、穂村弘、ひぐらしひなつ、佐藤りえ)、『短歌ヴァーサス』第11号、112頁
*注2 柳父章『近代日本語の思想 翻訳文体成立事情』では、ト書きの比較的初期の用例として1753年に上演された並木正三『幼稚子敵討』の脚本から引用している。参考までに、以下に孫引きしておく。 大橋「そんなら皆様みなさん、行ゆくぞへ。」 伝兵「サア、おじゃいのふ。」 ト大橋、伝兵衛、廓の者皆々這入る。 …… …… 宮蔵「お身は傾城けいせいを、ヱヽ、詮議せんぎさっしゃれ。」 新左「ヱヽ、詮議せんぎ致して見せう。」 宮蔵「せいよ。」 新左「して見せう。」 ト詰合つめあふ。向ふ。ぱたぱた と太刀音たちおとして、お初抜刀ぬきがたなにて出る。 『日本古典文学体系53』岩波書店、1960年、112頁 本文で言及できなかったが、ト書き文体と口語短歌について考えるなら、吉田恭大『光と私語』(いぬのせなか座、2019年)を参照されたい。
【主要参考文献】 ・短歌 内山昌太『窓、その他』(六花書林、2012年) 大森静佳『てのひらを燃やす』(角川書店、2013年) 大森静佳『カミーユ』(書肆侃侃房、2018年) 木下龍也『つむじ風、ここにあります』(書肆侃侃房、2013年) 木下龍也『きみを嫌いな奴はクズだよ』(書肆侃侃房、2016年) 斉藤斎藤『渡辺のわたし 新装版』(港の人、2016年/booknets、2004年) 笹井宏之『てんとろり』(書肆侃侃房、2011年) 瀬戸夏子『そのなかに心臓をつくって住みなさい』(私家版歌集、2012年) 塚本邦雄「反・反歌」(『塚本邦雄全集』第八巻、ゆまに書房、1999年)(初出��『短歌』昭和42年9月号、『定型幻視論』に所収) 堂園昌彦『やがて秋茄子へと到る』(港の人、2013年) 東直子『青卵』(ちくま文庫、2019年/本阿弥書店、2001年) 平岡直子 連作「水に寝癖」(『歌壇』2018年11月号) 平岡直子 連作「紙吹雪」(『短歌研究』2020年1月号) 山中千瀬『蔦と蜂蜜』(2019年) 同人誌『率』9号(2015年11月23日) 同人誌『外出』二号(2019年11月23日) 同人誌『外出』三号(2020年5月5日) 『短歌ヴァーサス』第11号(風媒社、2007年)
・その他書籍 石川九楊『日本語とはどういう言語か』(講談社学術文庫、2015年) 沖森卓也『日本語全史』(ちくま新書、2017年) カトリーヌ・マラブー『偶発事の存在論 破壊的可塑性についての試論』(鈴木智之訳、法政大学出版局、2020年) 小泉義之「自然状態の純粋暴力における法と正義」(『思想としての〈新型コロナウイルス禍〉』、河出書房新社、2020年) 小松英雄『古典再入門 『土佐日記』を入りぐちにして』(笠間書院、2006年) ジャック・デリダ『盲者の記憶 自画像およびその他の廃墟』(鵜飼哲訳、みすず書房、1998年) 柳父章『近代日本語の思想 翻訳文体成立事情』(法政大学出版局、2004年)
・ネット記事 伊舎堂仁「大滝和子『銀河を産んだように』 」 佐々木あらら「犬猿短歌 Q&A」 平英之「運命の抜き差しのために(「不可能な短歌の運命」予告編)」
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お留守番がいいこすぎる猫と犬はお出迎えも超可愛かった/近況報告【保護猫/ダックス】 保護猫ななこ物語です(hogonekonanako) 猫のななこと愛犬プルートと娘との日常動画です。 全てのコメントひとつひとつ大切 ... via YouTube https://www.youtube.com/watch?v=Lm4WFZOJpDc
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分離不安症
「一人になると強い不安を感じ、不安に耐えきれず問題行動を起こしてしまう」
言葉の説明は簡単なんですが、症状はとっても複雑です(´ω`)
ネットで調べても一般的なことしか書いてないし、精神安定剤などの薬物療法ばかりが頭に残る書き方にも疑問を感じてたんですが、以前、とある獣医さんがすごくハッとする事を言ってたんです。
要約すると…
犬は元々群れで生活する生き物だから、常に誰かと一緒にいて当たり前。
むしろ一人になることがないんだから、不安になって当たり前だよね!と。
そっか〜!
納得です( ´∀`)なので、うちのコ分離不安がひどくて〜は決して特別なことではないし、
6時間大人しくお留守番できる方が当たり前じゃないんです。
5分もスマホを触らずにはいられない人間が増えてる中!
むしろペットたちはえらいです。
1匹で朝から晩まで、人が帰って来るまで、ケージの中に大人しくいるなんてつまらなすぎますね。
人の気配もしないし、部屋が真っ暗になると不安が募ります。
まずは、ペットの気持ちになってみる、そしたら何かいい解決案が浮かぶかもしれません。
病気について調べる前に、
環境が病気を作り出すことがあるので、ぜひ心の声を聞いてあげてください。
分離不安症は、猫ちゃんもあるのかもしれませんが、わんちゃんの方が多く相談を受けます。
もしかすると、猫ちゃんは単独行動も出来るし、群れを作って生活もする、二刀流だからでしょうか?

写真は、私の大好きなケン太君。
おっきくてがっしりした体は、本当に抱き心地が良いいんです♡
それを後輩にも確認してもらっているところです。
満場一致(笑)
大型犬、飼いたい!前田
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10年後のルームシック・ガールズエスケープ TOUR at 心斎橋BIGCAT/福岡DRUM Be-1
相変わらずGWは引きこもりですよ。柚葵夜です。 有休も合わせて10連休を満喫しておりますイェイ さて、今日も今日とてライブの感想ぶちまけ大会です! 今回は友人氏も一緒でした!(福岡のみ) ただし、友人氏は仕事の関係で途中から!残念! (今度は初っぱなから見れますように!!!!!!!) てなわけで、早速行きます!(雑) (記憶違いはご愛敬!) ↓4/14 大阪BIGCAT↓ 年齢も相まって耳を守ろうと今回から耳栓装着しました。違 和 感。 初っ端SisterJudy→モンタージュガールはやばいってぇ~~~~~~~~ 必殺コンボで即死だよぉ~~~~~~~ なーにしてくれちゃってんだあああああ(辞世の句) アンノウンでめちゃめちゃ声出した。これでもかってくらい声出した。 すごく楽しかったけどすごくすごく寂しくなった。けど結局楽しかった!!!!💢💢💢💢💢(キレ気味)(キレるな) ゲノゲノゲは記憶を吹き飛ばす曲(いつもの) undo聞けた!!!!ああ!!!!きけたよ!!!!!! 次は耳栓外して聞くね!!!!!!!? 鼓膜ぶち破るほど焼き付けてやる!!!!!!! 日常と地球の額縁の2サビかな?シノダさん歌詞間違えちゃってニッコーってしてた。ふふふ。 テンションアガり過ぎちゃったかな? あとどれだったかの曲の最初のギターフレーズを外したかなんかでもニッコーてしてた。ふふふふ。 アンハッピーでお口ふにゃふにゃだった!シノダさんマジ今日はどうした!?wwwww シノダさん「アレとコレの次は風と花です」←エッッッッッッッッモ シ「次の曲やろうかな」 フロア「いぇーい」(やや小さめ) シ「やっぱやめようかな」 「えぇー」(さっきより大きめ) シ「おっ、じゃあやっぱやろうかな!」 「いぇーい!」(だんだん大きくなる) シ「んー、やっっぱやめようかな」 「えぇー!?!?」(今までで一番大きな声) シ「(びっくりしたあとめちゃめちゃニッコリ)」 この掛け合い楽しかったwwww やっぱり声出しっていいなあ! 【MC】 一番最初のMCで、というか一言目で?ここにいる全員をぶっ倒して? 討伐して?殲滅して?帰りますみたいなこと言ってててちょっと笑った。 シノダさん節だぁ~w カラノワレモノのあとのMCで、この曲(カラノワレモノ)がこんなに足腰に、骨身にくる曲になるとは……(苦笑)から始まって、 10年の間に色んなことがあったしあなた達もあったでしょうと言ってくれた。 この10年の間にやっとライブに来れた、来れる身分になった人もいるでしょう、って。 そして、同じ時期にデビューして頑張ろうねって言い合ったバンドはやめちゃったり、 もう一生会えない人が居たり…ポツポツ語ってくれる言葉でもうダメだったよ。 そっからの泡色の街で追い打ちかけられて泣かざる負えなかったし、 後ろの人も鼻すすってたから多分泣いてたんだろうな。 柵前の人も何度か俯いてタオルを目元にあててるような感じだったから泣いてたんだろうな。 【アンコMC】 一番最初に大阪来たのいつ?って、シノダさんとゆーまおさんが話してたんだけど、 だんだんシノダさんのスマホデビューの話になってまとまりがなくなり…… しびれを切らしたガラシさんが「もうやだ!!!!」って中々のボリュームで言ってたの面白かったけどびっくりしたw ガラシさん「最近というか昨日(名古屋公演)もシノダを正論で切りまくったからもうこんなことしたくない!」 笑いすぎたのか何なのかちょっとガラシさん顔赤かったんだよなあw珍しくw んでさあ、アンコの曲入るってときにギターのカポどこですかってスタッフさんに尋ねてたけど、 バッチシ目の前のマイクスタンドに挟まってんだよなあw シ「しかも今からやるのカポいらんし(つけたのを外しつつ)」 ガ「僕がすべて悪いんです(正論でぶった斬ったから)」 シ「やめて。罪を被らないで!w」 あとアンコで持ってきた水一気飲みしてたよシノダさん。 水一気飲みとかそうそう見ないよ!?w 500mLですよ!?0.5Lですよ!?w *ちなみにのスマホデビューの話* メンバーの中で最後までガラケーだったシノダさん。 電池パックがパンパンになってカバーが閉まらなくなってテープで留めてたらしい。 しかも、充電無くなるのもバカ早いからもうケーブル繋ぎっぱ。 んで、そんな中でTwitterやってるんもんだから、上げる画像の画質が悪いとディスられてたらしい。モヤがかかってるってw そしてとうとうシノダさんがiPhoneに変えるときに人に動画撮られてたらしいw 歴史的瞬間か!?w ↓4/28 福岡DRUM Be-1↓ あの、あの、ダブルアンコはやばいって(最初からクライマックス) シノダさん「ファイナルだしね!」 って叫んでシャッタードールやるのはまじでさーーーーーーー?????? はーあ????????? これだからヒトリエが好きなんよ!!!!!!! ちなみにあとで知ったんだけどヒトリエさんダブルアンコすることなかなかないんだって! そらそうだ!予定に無いないもの! まじで貴重も貴重すぎたな!? これだから(2回目)ライブに行くのやめられないな!? はじめてのBe-1! フロアが段状になってて見やすかったが、やっぱり位置的にガラシさんが見えず。(シノダさん側大好きマン) 音がはちゃめちゃによかった! 耳栓、やっぱりチキって装着しました。 でも今日は右のスピーカー側だけ。全然耳鳴りしなかった快適。これが私の最適解。 必殺コンボは今日も必殺。 それが終わってからの「福岡~」ってちょっと覇気なく?(笑)言ってからのトーキー! ジャズマスー!って叫んだのどこだっけかな忘れちゃったな アンハッピーで、「そこであんたが笑ってたんだ」のところでニヤァ…っしてるのがさあ……… もう…もう……………!!!!!!!!!!!!(語彙力喪失)(大阪でもしてたかも?) シ「ちょっと声が小さいと思うので練習をしたいと思います。 僕がイェーって言ったらイェーって返してください。 山!っつったら川!って返してください」 からのコーレス シ「…!…!犬!」 フロア「猫ー!」 笑ったw どっかの曲のシノダさんがまあバチバチに治安悪くて(笑) 曲中に地獄へ落ちろポーズ(首を親指で横切って真下に落とすやつ)みたいなのやってたんだけどどれやったかなあw るらるら、大阪ではラスサビのテンポがちょっとテンションアガって早くなっちゃったのかな?って思ったけど、 福岡でもやってたな!?あれわざとか!?でもそういうのも好きですね。いいぞもっとやれ。 シノダさん「楽しくないツアーなんてなかった…いや、1つだけあったな…2019年…でもあれがなったら今がないわけで…」 みたいなこと言っててもうだめだったよ。 そっからの泡色の街はやっぱりだめだったよ。 涙が止まらなかったよ。 【アンコール】 アンコで登場したときシノダさんの手にはコーラが(!) そしてイッキしだすシノダさん。 が、できなかった! そしてゲップがマイクに乗らないようにタオルで必死に口を押さえるシノダさん。 ゆーまおさん「彼は当分喋れそうにないのでー(代わりに僕が喋ります)」 しばらくして落ち着いた後、 シ「飲んでる途中で頭の中にバチバチって閃光が…これはやばい!危険!って…」 シ「キンキンに冷えてたし、めちゃくちゃしみる歯があることがわかった」 ゆ「液体でめちゃくちゃしみるのはやばいね」 シ「なんでここに来てまで虫歯の話をしてるんだ…」 ※なんでコーラ飲む流れになったの?※ ガラシさん「いや、僕は止めたんだよ?」 シ「なんか…東京のあとでめちゃくちゃ拡散されてトレンドにものって…後戻りできないなって…」 【やってて楽しかった曲】 シ「やってて楽しかった曲ってなに?」 ゆ「(曲名は忘れたけど、単純に楽しかったじゃなくて曲の深い部分を語っていくゆーまおさん)(だいぶ長く語っている)」 シ「僕はただ単純に楽しかった曲を聞きたかったんだけどなあ」 ゆ「(若干ぽかんとしつつ)だったらるらるらかな!」 シ「るらるらかー!いいよね。でも今回のセトリで日常と地球の額縁のあとにこれやるからるらるらが待ってんのかーってなってしんどかった(笑)」 聴いてる側からしてもそのセトリはしんどい(笑) (でも楽しかった!) ガラシさんが自分たちでバンド組んで、福岡で対バンできたのがすごくいい思い出だなあって話したあと、 じゃあアンコ行こうかってときにゆーまおさんがシノダさんが飛行機おいてかれた話を思い出してまたちょい長くなっちゃって、 ガ「対バン良かったねってきれいな話で終わらせたかったのにゆーまおが掘り返すから…」 ガ「そのシノダがおいてかれた話はノイズなんだよ」 うーん、回を重ねるごとに切れ味が増していくなあガラシさんw ↓以下、MCで感情がぐちゃぐちゃになった限界オタクの掃き溜め↓ …って思ったんですけど、書いていたら先のレポ含めてえらいことになりそうだったので、 一旦ここら辺で区切ります!ではでは! 20230504
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お空に旅立っていったるりこちゃん

我が家の愛犬るりこは、昨年十月の終わりから、突然朝ご飯を食べず、散歩に行こうとしなくなった。その前に、ドイツ在住の次女が三年ぶりに一時帰国し、私たち家族はるりこも一緒に次女のスケジュールに合わせ、東京に行ったり、山梨に来たり、こちらでも諏訪にお出かけしたり、最後は次女を羽田まで見送りに行き、そして山梨に帰ってきたのだ。
その翌日から、るりこはご飯をあまり食べず、散歩にも行きたがらなくなった。きっと疲れたのだろうとしばらく様子を見ていたが、だんだん一日二食から一食が普通になり、痩せ細ってきて、散歩も抱えて連れ出し、途中地面に降ろして歩かせる、というようになってきた。
それでもわりあいよく歩く日もあったり、二食食べることもあった。年齢も十三歳と、犬として決して若いわけではないので、そんなものかとも思ったが、東京でかかっていた獣医の先生に相談してみた。
その先生はいつも、「るりこちゃんは、本当に賢くて、家族思いで、いい子だ」と言ってくださっていた。日頃の様子を伝えると、「十三歳というのは、人間で言えば八十歳ぐらいの大変なお歳です。一度今の状態を知るために、近くのお医者さんにかかって、検査してみてください」とのことだった。その先生は普通の獣医さんでもあり、エネルギーヒーリングと言って、遠隔からも治療をしている先生なのだ。
るりは八歳ぐらいから、よく吐くようになったり、散歩中に突然怯えたようになって歩けなくなったりして、どこの獣医さんに行っても原因のわからない症状に悩まされていたが、その先生に出会ってから回復することができた。
近所の獣医さんに行く。血液検査とレントゲンを撮りましょうとのことで、その前にまずはと聴診器で心臓の音を聴くと、「雑音がありますね」と初めてのことを言われた。レントゲン検査の結果は、心臓に雑音があるものの、肥大まではしていない。喉に腫瘍があり、悪性のものか良性のものかは、もっと大きな病院で検査してみないとわからない。血液検査の結果は、貧血がある。腫瘍が原因かもしれないが、そのほかの数値に異常は見られない。もっと大きな病院で検査をするなら紹介します、とのことだった。
しかし、病院にかかるというのは、犬に大変なストレスを与える。とりあえず家に帰り、休ませることにする。
るりこは保護犬だった。保護犬というのは、一度保健所に入れられて殺処分になる前に、ボランティアさんに助けられて保護された犬で、ボランティアさんは家で犬を保護しながら飼い主を探すのだ。私は犬が飼いたいなと思った時に保護犬の存在を知って探してみると、月に一度江戸川河川敷で、犬と人間のお見合い大会が開かれているということで見に行った。
私には欲しい犬の条件があって、茶色くて鼻の黒い女の子が欲しいと思っていたら、まさにそのまんまのるりこがいたのだ。彼女はその時生後四ヶ月ぐらい、お転婆な感じで、そばに寄った私には見向きもせず、熱心に地面にいる虫か何かをほじくり返していた。私はその時実家の母とふたりでそこに行った。「ね、この子がかわいいよね、この子がいいよね」母と私の意見は一致した。昔飼っていた子にそっくりなのだ。違うのは、前の子は男の子だったこと、るりこの方が耳が長く垂れ下がっていることだ。前の子は、私が小学六年生から二十九歳になるまで生きていた。
保護犬はその場ですぐ譲渡してもらえるのではなく、申し込んで、いろんな質問に答えて、この人はちゃんとした飼い主になれそうだと判断されたら、譲渡してもらえる。どんな家に住んでいますか、家族構成は、留守番は週に何時間何日させますか、犬を飼ったことがありますかなどなどの質問に答えて紙を送ったが、一向に返事がこない。もうだめかと思っていたら、譲渡会から電話があり、前飼っていた犬は最期はどうなったのですかと質問されたので、私と母の膝の上で息を引き取りました、と答えた。その数日後その答えが決めてとなって、るりこは我が家に来ることとなった。
ボランテイアさんが保護中につけた仮の名前はルーだったのだが、うちの娘たちの名前はみな子がつくので、る~子? でるりこにした。
さて、当時高二、中二、小五の子どもたちに加えて、もうひとりやんちゃな子どもが増えたのと同じで、畳や布団の上でオシッコをしたり、当時私たちは畳の上で低いちゃぶ台で食事をしていたのだが、るりこはなんとか私たちのおか��を取ろうとしたり、家具の足やパソコンのコードをかじったりと、ただでさえめちゃめちゃなうちの中がますますめちゃめちゃになった。しかしそれ以来、るりこは我が家の中心的存在になり、家族全員が惜しみのない愛情を彼女に注ぎ、彼女もそれに十分応えてくれた。
るりこをお医者さんに連れて行って、検査や入院となるとケージに入れられてしまう。彼女は何よりもケージに入れられるのを嫌がった。それは保健所で殺処分されそうになった時の怖い体験が蘇ってしまうからだろうと思うと、それだけは避けたかった。私たちはできる限り、家族でできる手当をしていくことにした。
翌週、遠隔ヒーリングの先生の診察日になった。るりこの前にiPadのカメラを開いて置いて、先生からるりこが見えるようにする。「るりこちゃんはよく頑張っているね」とヒーリングを受けると、その日はよく食べたり、歩いたりした。
ある朝、おしっこに外に出るというので出してやると、いつまで経っても戻ってこない。庭に出て探す。見つからない。まさかどこかで倒れているのでは、と夫や息子も呼んで探すと、ほとんどご不在の隣家の縁の下にうずくまっていた。抱き上げると、うっすらカビの匂いがした。
次第にるりは、喜びの表現の尻尾振りはしなくなり、家族の誰かが家に帰ってくるたびに上げていた喚声を上げなくなり、知らない人が来ても吠えず、大好きな石拾いもしなくなった。それでも私たちは、るりがいつもより多く食べた、歩いたと言っては一喜一憂し���いた。
また遠隔の先生の診察の日になった。「るりこちゃんは、自分がいなくなってあなたたち家族を悲しませたくないと頑張っています。でもあんまり無理をしないでねと言ってあげてくださいね」先生はつまり、るりこの最期の日がそう遠くないと、遠回しにおっしゃったのだ。
るりこは一日のほとんどを寝て過ごした。喉の腫瘍は大きくなってきていたが、苦しいとか痛いとかは無いようだった。自然療法の本に書いてあった、心臓病にいいという、柿のへたを煎じた水も作って置いておくとよく飲んだ。その他にも、犬にもお灸がいいと聞けば、やってくれるところを探して連れて行き、お灸の道具も買い、家でも見よう見まねにやってみる。るりこは特に嫌がりもせず、されるがままだった。友人宅の猫ちゃんを診てくれるという評判の気功の先生にもかかると、だいぶ身体がらくになったように見えた。
食事はずっと手作りのものを与えていて、昆布だしの野菜スープに、ご飯、鶏のささみ、ゆで卵、納豆などをあげていた。栄養が行き届いていたのか、毛の艶がとてもよかった。犬の飼育の本を見ると、年取った犬にはささみより、高タンパクの豚肉の方がよいと書いてあったのでそうしてみると、よく食べるようになった。しかしそれも次第に食べなくなってきたので、お刺身に火を通したものにするとまた食べるようになった。
我が家ではここ数年、ミキという、お粥にすり下ろしたさつまいもを入れて発酵させた飲み物を作り続けていて、これにやはり自家製の甘酒を入れたものが彼女のお気に入りで、日に三回ぐらい小さな盃に入れて飲ませていた。だんだん食事が摂れなくなり、ミキと柿のへたの煎じ水と普通の水ばかり飲むようになってきた。
我が家には連日のようにはた織りのお客さまがいらしては、みな「どうしたの、るりこちゃん、元気が無いわね」と頭を撫でていった。散歩も抱いて連れて行き、私たちが焚き木拾いをしているそばで、日向ぼっこをして待っているようになった。
私は頭の隅で、現在のるりこの様子をドイツにいる娘たちには伝えなくてはと思いながらも、いざ「るりこちゃんの調子が最近ね・・」と言いかけただけでもわっと泣き出してしまいそうで、連絡しないままで過ごしてしまっていた。
るりこは自分の寝床から、日に何度も数メートル離れた自分の水が置いてあるところまで歩いていたのが、よろめくようになったので寝床の横に水を置いてやった。
その日は大寒波の予報で、東京からはた織りのお客さまの予定だったのがキャンセルになった。私は時間に余裕ができたので、いつもより念入りにるりこの耳を掻いてやると、気持ちよさそうに頭を傾けた。
朝の散歩の後、食事やミキをあげても受け付けず、水しか飲まない。水は何度も大量に飲んだ。外へ抱いて連れて行けば、なんとかよろめきながらもオシッコをした。夜になり、寝る前のオシッコに連れて出る。よろよろになり、オシッコをしようとすると倒れてしまうので、起こして身体を支えてやると、やっとこさする。寒い外から戻ったので、お灸をじっくりとしてやると気持ちよさそうにした。
夫と私の布団を敷く。るりこはいつも布団を敷けば真っ先にやってきて、乗っかっているのだが、ここ数日はしんどそうなので、抱いて布団の中に入れてやる。
お風呂から出て日記を書いていると、るりこの視線を感じた。「ママ、早く来て」と言っているように感じて、一緒にお布団に入る。息子は外のテントに行ってしまい、夫はお風呂に入っている。
「るりこちゃん、今まで一緒に子育てしたね。みんな大きくなったね。るりこちゃんがいてくれたおかげで、みんないい子に育ったよ、ありがとう」るりこは普段より早い息をしながらもじっと私の目を見て話を聞いているようだった。「るりこちゃん、この次生まれ変わったら、たくさん赤ちゃんを産むといいよ。」るりこは保護犬だったので、不妊手術をしないと譲渡してもらえなかったので、やむなく手術をしたのだった。「そうだこの次は、うちの子たちの誰かのうちの子に生まれておいでよ。私おばあちゃんになって、またあなたに会えたら嬉しいよ。ね? いい子ちゃん、かわい子ちゃん」日に何回も、そして夜寝る前には必ず「いい子ちゃん、かわい子ちゃん」と言ってきた。いったい今まで何千回そう言ってきたことだろう。でも言っても言っても伝えきれないほどいい子でかわいい子だったのだ。「明日の朝も、一緒に元気に起きようね、おやすみ」ふとるりこが悲しそうな顔をしたように思った。あ
時折るりこの息づかいを感じながら、いつの間にか眠ってしまった。と、突然るりこが「クオーン」と鳴いた声にびっくりして飛び起きた。この何ヶ月も彼女の声を聞いたことはなかったのだ。隣の夫も驚いて起き上がった。「あかりをつけて」夫がすぐ電気をつけてくれた。「るりこちゃんが息をしていない! 大変すぐお姉ちゃんたちに電話しなきゃ、私の携帯取って!」家族ラインに電話すると、次女はすぐに出た。「何、ママ?」「るりこちゃんが、るりこちゃんがね・・」一旦止まったに見えた呼吸がまた少し始まって、口を動かしていた。舌が普段より白いと思った。「外からおさむを呼んできて!」夫が走っていく。長女は電話に出ない。るりこの口の動きが止まる。私を見ていた目の光がすーっと消えていく。夫と息子が駆け寄ってくる。夫が自分の携帯で長女に電話すると出る。「今るりこちゃんがね・・・」私はわっと泣き出してしまうと、全てを察した長女も泣き出す。「もっと早く帰ればよかった」彼女はビザの更新のタイミングで近いうちに帰ると言っていたが、日にちを定められずにいたのだ。
夜明け近くにお姉ちゃんたちとは電話を切り、夫と私と息子で、るりこの身体を囲むようにして眠った。起きてるりこを見ても、眠っているようにしか見えなかった。私は半日ずっと泣いていた。
次の次の日、長女がベルリンから戻ってきた。彼女は二年間るりこに会っていなくて、もしるりこの最期の姿を見なければ一生後悔するからと、急遽飛行機を取って来たのだ。るりこはいつもの場所に愛用の毛布を敷いて、私が織った布を顔だけ出して被っていた。目は開けたまま優しい顔して横たわっていた。長女と私はるりこの前で抱き合って泣いた。「なぜもっと早く言ってくれなかったの」と責められるかと思ったが、二年の間に成長した娘は、自分が嘆くよりもむしろ私を慰めてくれた。
去年ねこちゃんを亡くした人が、庭にコンポスト葬をしてもらってとてもよかったと聞いていたので、やってくれる人を紹介してもらった。環境整備士と言って、植木屋さん的な仕事の傍ら絵画や彫刻などもなさっている人で、連絡を取ったら早速訪ねて来て下さった。
「お庭のどこに埋葬しましょうか」「できるだけ家族のそばで、今後建物を建てる心配のない場所で」玄関のデッキを降りてすぐ横の場所に決まった。ここなら毎日通る場所だ。コンポスト葬というのは、落ち葉や炭の粉と一緒に身体を埋めて、できるだけ早く土に戻す方法で、匂いも消して他の動物に掘られたりもしないようにする。そばに木が生えていた方が木が養分を吸って、早く分解するとのことだ。
友人たちが次々とお花を持って、弔問に来てくれた。「人の気持ちのわかるワンちゃんでした」と泣いてくれる人もいた。東京からも「若月るりこ様」と花が届く。「死んで初めてその人の価値がわかると言うけれど、るりこはすごいねぇ、次々とお花が届いて」と家族でも感心した。
外は雪が降り、るりこは静かに眠っている。寝息でかけた布が静かに上下しているような錯覚に陥る。毛皮もつやつやで、手足も柔らかく、肉球もぷにぷに触ってしまう。
埋葬の日になった。空は晴れている。お昼過ぎから環境整備士さんの男女二人が来てくださり、まず土地の神様にニ礼八拍する。土用の期間なので本来は土には触らない期間なのだそうで、そのため神様にお���りをする。近所のるりこをかわいがってくれていた友人も来てくれた。
夫や息子も手伝って穴を掘る。穴の中に縦にも横にも、たくさん稲藁を刺す。通気をよくするためだという。突き出している稲藁はハサミで切り、穴の底に厚く落ち葉を敷く。
友人と家に入り、最期のお別れをする。友人は数年前に自分の犬を亡くした時のことと重なり、さめざめと泣いている。私たちもこれが最期と思い、るりこの身体を撫でさする。毎日触るのが気持ちよかった、濃いカステラ色のビロードのような耳。もうこれも土に還してしまうのだ。
毛布の四隅を持って、るりこの身体を庭に運ぶ。身体だけそっと落ち葉の上に下ろす。自然と胎児のような形になる。家族みんなで、落ち葉、炭の粉、土を繰り返しかけていく。穴がすっかり塞がったら、さら炭と稲藁の切ったものをすき込んだ土を盛り上げる。てっぺに環境整備士さんの女性が用意してくださっていた、大きな松ぼっくりのついた松の枝と赤い実の枝を束ねた飾りを刺して、埋葬は無事に済んだ。
今まで撮ったるりこの写真を、長女がパソコン上に家族共有のアルバムを作って集めてくれた。あんな時もこんな時もあったねと、家族で泣き笑いしながらるりこと歩んだ日々を振り返る。いつの間にかるりこはうちの子どもたちの年齢を追い越し、年長者として子どもたちを見守ってくれていた。夫や私のことも常に気遣いしてくれていた。散歩の時もるりこは先頭を歩いていても、常に後ろを振り返り振り返り、家族が全員ちゃんとついてきているかなとチェックしていた。
私たち家族とるりこと一緒に車で旅をしたことのある九州の友人は、「あれは犬の格好はしていたけど、犬じゃなかったね。若月家の護衛隊長やっていたね」本当にそうだった。いつでも私たちのことを守ってくれていた。
るりこがいなくなった今も、私たちは朝の焚き木拾いに出かける。常に阿吽の呼吸で一緒に歩いていた子の身体はないけれど、この大地に空気に溶け込んだるりこの息吹をそこここに感じ、私は不思議な安心感に包まれている。るりこと過ごした十三年と十ヶ月は、あっという間ではなく、とても長く深い時間だった。そしてそれは今も続いている。
るりこちゃん、ありがとう。家事や育児にてんてこ舞いしていたママのところに、助けにきてくれたんだね。神さまがるりこちゃんのことを私たち家族に貸してくれたんだね。賢いあなたにはまた次の使命があるから、お空に帰っていったんでしょう。どんな大変なことでも、るりこちゃんならできるよ、きっと。でももし疲れたら、うちに来て休んでね。ママたちはいつでも歓迎するよ。るりこちゃん、本当にありがとう。いつかまたきっと会おうね。
山梨に大雪が積もった。積もる前に、長女がドイツに帰国するのを送るため、東京に出発した。るりこのお墓が心配になり、ひとり山梨に残っている息子に聞くと、不思議とお墓の上にはあまり雪は積もっていないのだという。そこだけ温かいのだろうか。るりこの温かい気持ちがまだそこにあるのかもしれない。
2023年2月
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おなかすいたね
本日のメインディッシュは"キャスト紹介〜偏見を添えて〜"でございます。お好みで山葵と合わせてお楽しみください。
握飯子
劇場の舞台に立ったときのかっこよさがやばすぎて震えた。さすが演劇人と言いたくなるような典型的自由人(いい意味で)。
この人への偏見:許嫁がいそう。
杏仁アニー
アニメに出てくるレベルの頼れる先輩。笑顔がとても素敵。辛いことがあったときに話を聞いてもらいたい人ランキング第一位。
この人への偏見:少女漫画好きそう。
田中かほ
あの素晴らしき舞台を創り給うた大道具チーフ。この度はご迷惑をおかけいたしました、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
この人への偏見:よくプリン作ってそう。
君安飛那太
よくモンスターを飲んでいるらしい。僕はモンスターはどうしても美味しくなくて飲めないけどレッドブルならギリいけるから何かあったらレッドブルを飲んでる。でも飲む度にお腹壊してるから健康と引き換えに翼を授かってることになる。
この人への偏見:ZONeは認めてなさそう。
坪井涼
一言一言にセンスがあり、いつも密かに感心している。一緒にいるだけで笑顔になれるような人。ここだけ聞くと超理想の彼氏。
この人への偏見:ボクシング強そう。
一宮仁
34期の音楽枠。初めて体験稽古で一緒に演技した同期。名前を呼ぶ度にボカロを歌いたくなる。そしてプロセカをやりたくなる。まふゆかわいい。
この人への偏見:妹がいっぱいいそう。
緒田舞里
34期の母親枠。みんなを引っ張っていってくれるんだろうなと信頼している。この度はお世話になりました。くすぐったがりでごめんなさい。あと濡らしてごめんなさい。
この人への偏見:お化け屋敷好きそうだけど入る度に泣いてそう。
梅本潤
本作の舞台監督様。京都府民であることを前面に出してくるスタイル。曰く、奈良県は鹿の方が人間よりも多いとのこと。でも僕のところは邪馬台国説あるんで。
この人への偏見:夜な夜なウインクの練習のしてそう。
えどいん
ちょっとQuizKnockの山本さんに似てる。群馬県出身なところとたまにリズムに乗れてないところはこうちゃんに似てる。おまま。
この人への偏見:将来エジプトに旅行してそう。
ε
もうすぐ日本を追放されるらしい。なかなか芸名をオミクロンにしてくれない。遊び心に溢れていてすごく楽しい。
この人への偏見:お土産でチョコ渡してきそう。
ふぉにゃ
34期の癒し枠の1人。フォーニャーと呼ぶかふぉにゃと呼ぶかその時の気分で決めてる。ふぉにゃにゃにゃにゃ。いつか本家を聞きたい。
この人への偏見:実は猫より犬が好きそう。
亜臨界橋本濃度
突然振り子の実験をはじめてそれに乗っかって2人で変な騒ぎ方をした。THIS IS RIKEIって感じする。名前からも化学の匂いするし。
この人への偏見:朝は結構寝ぼけてそう。
雑加厚成
ありがたきめずらしき理学部の先輩。一挙手一投足に優しさが表れている。本当に聞き上手であることないことないことないこと喋ってしまいそうになる。というか喋ってる。
この人への偏見:家でヘビ飼ってそう。
たぴおか太郎
34期のヤバい枠の1人。会話をすれば20秒毎に狂言を宣う。初対面でも5分話せばボロが出る。自ら幸運を引き寄せるだけの魅力がある。
この人への偏見:8.6���バズーカ好きそう。
岡崎仁美
34期の癒し枠の1人。ふわふわぽわぽわしていてすごく可愛い。もうアイドルを目指すといいんじゃなかろうか。
偏見:男から貢がれてそう。
水琴冬雪
ぼく。34期のまとも枠。オムニに参加できなかったことをずっと根に持ってる。なんで必修で19コマあるんだこんちくしょう。
この人への偏見:あんまり人の話聞いてなさそう。
夕暮児
34期のヤバい枠の1人。なんの前触れもなく奇行を繰り出す。いつも元気で突然エチュードを繰り出したりする。何かいい事でもあったのかい?
この人への偏見:ツインテール好きそう。
佐々木モモ
体験稽古でご一緒してから上手いなあとずっと尊敬している。すっごく親しみやすくてつい頼りすぎてしまう。いつか徹底的に高校物理を教えこみたい。
この人への偏見:目薬さすの怖がってそう。
中津川つくも
最初に色々と舞台監督の仕事を教えてくださった。ノリは良いけどやることはやる立派な職人。いつかこんなふうになりたい。
この人への偏見:怒らせたら1ヶ月口聞いてくれなさそう。
黍
我らが偉大なる演出様。演出には頭を上げるなという教育を受けてきたのでちゃんとその教えを守っている。しかし頭を上げようとも思わないほど優しく素晴らしい演出家。おだんごたべたい。
この人への偏見:いつか緑に髪染めてそう。
アリリ・オルタネイト
34期の留学生枠。そのくせ僕らよりも日本語がうまい。この間は日本の文化を教えてあげた。ちゃんと毎朝OS-1飲んでるだろうか。
この人への偏見:コンビニで愛を求めてそう。
以上、敬称略でお届けいたしましたが、いかがだったでしょうか。さて、明日は本番ですね。演技中に肉離れなど起こさぬよう、しっかり休むことと致しましょう。
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