#皇大神宮御分霊社
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shintani24 · 11 months ago
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2024年7月26日
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8月15日に終わった戦争などない 「平和報道は9月にシフトを」(朝日新聞)
毎年8月にメディアにあふれる風物詩的な戦争・平和報道は、半ば揶揄を込めて「8月ジャーナリズム」とも呼ばれてきた。加害性の視点の欠如や、内容の定型化も指摘されて久しい。そもそも「8月15日=終戦日」という日本の常識自体が内向きの8月ジャーナリズムの産物で、国際的には非常識であり、世界との対話を阻んでいる――。そんな刺激的な議論を世に問うたのが、佐藤卓己・上智大教授(メディア史)だ。それなら本来の終戦日はいつなのか。先の戦争が人々の「記憶」ではなく「歴史」に変わりつつあるいま、私たちはそれをどう論じていけばよいのか。8月ジャーナリズムは乗り越えられるべき過去の遺物なのか。疑問をぶつけた。
「終戦の日」は8月ジャーナリズムの産物
 ――今年も8月を迎えます。8月15日をピークとした日本メディアの戦争・平和報道「8月ジャーナリズム」は、他者の存在と降伏の事実を忘却したものだと指摘し続けてきました。
「1945年8月15日に終わった戦争は存在しないからです。日本が連合国にポツダム宣言受諾を伝えたのは8月14日ですが、15日は、どの前線でも戦闘が続いていました」
「『終戦』は相手国のある外交事項です。米戦艦ミズーリ号で降伏文書に調印した9月2日が国際法上の終戦日であり、翌3日をロシアも中国も対日戦勝日としています。交戦国ではなく、あくまでも『臣民』に向けた昭和天皇による終戦詔書の放送、いわゆる『玉音放送』があったに過ぎない日を節目としていること自体、極めて内向きの論理に基づいています」
「そもそも、千島列島や旧満州は8月15日以降もソ連軍の侵攻を受けており、終戦どころではない。放送局が破壊され物理的に『玉音』体験が困難だった沖縄も同じ。ゲリラ戦を続けていた残存在沖日本軍が降伏文書に調印したのは9月7日で、アジア各地の日本軍が降伏したのも9月2日以降です。『8.15=終戦記念日』は、沖縄や外地の邦人、南方の戦地に取り残された兵士らの記憶を捨象し、周縁化することで成立しているのです」
「8月15日が終戦日と明記されたのは1963年の閣議決定で、その正式名称『戦没者を追悼し平和を祈念する日』が決まったのは、連合国軍総司令部(GHQ)が廃止されてから30年も経った1982年です。今ではそのことを知らない人がほとんどでしょう」
「創られた記憶」に基づくエモい報道
 ――「8.15=終戦の日」という日本人の「記憶」自体、8月ジャーナリズムの産物だとも指摘しています。
「8月ジャーナリズムが確立されたのは戦後すぐではなく、多くの新聞が終戦10年特集を組んだ1955年です。この時の紙面に掲載された、玉音放送を流すラジオの前でうなだれたり泣き崩れたりする国民を写したとする新聞写真は、実は撮影日時や状況が不確かなものや、『やらせ』も含まれていました。宮城(皇居)前でひざまずく人々の姿を伝える1945年8月15日の記事も、見てきたように書かれているものの、多くは予定稿に基づくものでした」
「また日本人の多くは、あの日を『じりじり照りつける太陽の下』の出来事として記憶しています。『暮しの手帖』の花森安治は『あの日は誰でも知っているように日本じゅうがたいへんな晴天で(略)非常に暑かった』と書いています(『一億人の昭和史』第4巻)。ですが、東北は曇りだったし、北海道の一部は雨でした」
「記憶のウソは『8.15』だけではありません。8月6日も、国民的な平和反核運動の起点となるのは戦後すぐではなく、独立回復で原爆報道の統制が解かれた後、1954年の第五福竜丸事件以降です。広島市生まれの私の記憶では、被爆者への差別はかなり後々まで残っており、被爆体験は完全に自由な語りの中にあったわけではなかった。しかし、放射能雨や放射能マグロの恐怖とともに、広島と長崎という地方都市の悲劇が突如、国民的な原水禁運動の『起源』に据えられたのです」
「8月前半に集中する戦争回顧の報道をつぶさに調べてみると、いかに『創られた記憶』が多いかに、驚きます。通常の報道をする際には当たり前の真偽の検証すら不十分という点で、8月ジャーナリズムは『ジャーナリズム』の名にも値しないものが少なくありません。昨今、ネット上の『エモい』記事に対する批判が高まっていますが、伝統芸能化した8月ジャーナリズムの多くも、残念ながらそれに陥ってしまっている」
「戦後長らくメディアが作り上げた『記憶』は、引用や孫引きが繰り返されることで、国民の集合的記憶=体験として歴史化していく。それはもはや『神話』と言えます」
「8月革命論」と「記憶の55年体制」
 ――その「神話」が浸透・定着したのには、戦後の政治・思想空間が大きく作用していたようですね。
「戦後憲法に深く共感した政治学者の丸山真男は、1945年8月15日に日本が国体の呪縛から解放され、人民主権への変革が起きたとする『8月革命論』を唱えました。一方、保守派は天皇の御聖断によって戦争が終結し国体も護持されたという物語を信じてきた。これらは正反対に見えて、左右のイデオロギーが背中合わせにもたれかかる心地よい均衡であり、双方が『降伏』に目を背けることで一致した『記憶の55年体制』とも言うべきものです」
「『8.15』を境に日本に『自由なる主体』が生まれたというのは、明らかに虚妄です。丸山はそれを承知のうえでその虚妄に賭け、8月ジャーナリズム最大のイデオローグとして戦後言論界に君臨しました」
「しかし、戦前と戦後の断絶を設定する『8.15神話』は、両者の連続性を隠蔽する効果をもたらしてきました。その意味で、8月ジャーナリズムは『戦争の記憶』ではなく、『戦後の忘却』の上に存在しているのです」
「戦前」と「戦後」の断絶史観、世界と乖離
 ――世界との対話を阻む障害となっている8月ジャーナリズムではなく「9月ジャーナリズム」を展開すべきだと提唱しています。
「私はメディア論の学者なので、報道や言論の『内容』だけでなく『効果』に関心があります。内容の真偽や善悪を問題にするジャーナリズム論に対し、効果の程度や射程を問題にするのがメディア論です」
「終戦の日に首相や天皇が反省の弁や世界平和を口にしても、靖国神社に閣僚が参拝する報道とともに伝われば、本心では反省していないと世界からは見られます」
「8.15終戦記念日は、周辺国との歴史的対話を困難にしてきました。いくら私たちが戦後の象徴たる平和憲法にコミットする姿勢を示しても、その前提となる内向きの『あしき戦前』と『良き戦後』の断絶史観は外国と共有されていない。外部の他者に開かれていない空間で、いくら自己反省を繰り返しても、対話なきゲームです。『8.15』をリセットタイムとする日本史において、『戦後』は世界史との経路を遮断され、その記憶は自閉化されています」
「本当に世界史への接続を考えるなら、7月7日(盧溝橋事件)や12月8日(真珠湾攻撃)を国家的記念日にしてもよいでしょう。でも、そんな試みはほぼありません。だったら、8月ジャーナリズムを9月にシフトし、世界標準の終戦日である2日、サンフランシスコ講和条約と日米安保条約の調印日である8日、そして満州事変が勃発した18日まで、新学期の教室でも議論できるものにすべきです」
「もっと言うなら、私の提唱する9月ジャーナリズムは、8月29日から始まります。何の日かご存じですか?」
 ――……。
「日韓併合記念日です。この日を国恥日としている朝鮮半島だけでなく、戦後しばらくは日本人もみな覚えていましたが、今やすっかり忘却されています。9月1日の関東大震災後の朝鮮人虐殺も、植民地支配を背景にしたものです。戦争と平和についてさらに広く考えるなら、米同時多発テロが起きた『9.11』や、戦後70年の節目だった安保法制の成立日(9月19日)も射程に入れてもよいでしょう」
戦没者追悼と歴史的対話、記念日の分離を
 ――8月ジャーナリズムは内容的にも、被害や受難の語りに偏重してきたと言われています。
「8月6日や9日、あるいは空襲や引き揚げ、特攻や玉砕の体験は、紛れもなく悲劇の記憶です。それを前提にする限り、報道やドラマの内容が『犠牲』に偏るのは避けられない。侵略や植民地支配の加害性を見つめなくてはいけない、といくら主張しても戦災者には響かないし、この語りの傾向を変えるのは難しいでしょう。お盆の8月15日は、戦前から慰霊と供養の日としても定着していまし��。宗教的追悼と政治的議論を同時に行うことは、ふつうの人にはなかなかできることではない」
「だから私は、終戦の日を二つに分け、8月15日を『戦没者を追悼する日』、9月2日を『平和を祈念する日』にすべきだと訴えています。8月15日はこれまで通り死者に祈りを捧げ、9月2日は戦争責任や加害の事実に冷静に目を向け、諸外国と歴史的対話をする日にする。政教分離の観点からもそれがよいでしょう。その意味では、9月ジャーナリズムは8月ジャーナリズムの全否定の上にあるわけではなく、その内向きさと情緒性を省みたうえで、理性的で対話的な新たなジャーナリズムを構築する試みです」
歴史対立踏まえ、未来志向のジャーナリズムへ
 ――戦後生まれが人口の85%を超え、戦争の記憶の継承が課題です。「新しい戦前」というきな臭い言葉も飛び交っています。
「今は『記憶の歴史化』の潮目です。平均寿命に近い80年という時間の経過は、生存者の反証を物理的に不可能にします。そのため、『戦争の記憶』は『記憶の戦争』の中で再編されていく。それは、事実関係よりも表現の効果に人々の関心が向けられていく時代に、今後は突入するということです」
「すでに近年、終戦や戦争をめぐる『歴史のポリティクス』は過熱しています。中国は従来、靖国参拝問題などで歴史カードを切れる8月15日を重視してきましたが、日中の経済力が逆転した2010年代以降、改めて9月3日を抗日戦争勝利記念日と明確に定めました。ロシアも昨年、9月3日を『軍国主義日本に対する勝利と第2次大戦終結の日』と名称変更し、ウクライナを支援する日本を強く牽制しました。歴史戦や情報戦という不穏な言葉を使うのは適切ではないでしょうが、私たち自身が内向きな『記憶の55年体制』に閉じこもっている限り、こうした他国の功利的な歴史利用に対峙することはできません」
「情緒的で紋切り型の8月ジャーナリズムがもたらしてきたものは、現代の戦争や安全保障問題に対するイメージの貧困化です。日本人は『豊かで平和な戦後』において、米国の核の傘の下、周辺国との敵対性を無視することができました。しかし、国家利害の対立が深まるなか、現実に目を背けることは、あまりに反政治的です」
「外交とは、敵対性を討議性へと開く技術です。歴史の対立が存在することを前提に、それならどのような対話が可能なのか、私たちは模索し続ける必要がある。戦争の記憶の問題にメディアが果たす役割とは、本来そうした未来志向のものでなければならない。だからこそ、他者と向き合うための9月ジャーナリズムが必要なのです」(聞き手・石川智也)
佐藤卓己 さとう たくみ 1960年生まれ。上智大教授、京大名誉教授。専門はメディア史、大衆文化論。著書に「『キング』の時代」「言論統制」「八月十五日の神話」「輿論と世論」など。
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広島原爆の日の式典、周辺での「平和運動」を締め出しへ 公園一帯で「入場規制」、プラカードやのぼりは禁止(東京新聞)
8月6日の広島市の平和記念式典で、原爆ドーム周辺を含めた平和記念公園の全域に入場規制を広げる市の方針が波紋を広げている。メイン会場から離れたエリアも手荷物検査を受けないと入れず、プラカードやのぼりの持ち込みを禁止。安全対策を理由とするが、法的根拠はなく行きすぎた表現規制との懸念も。背景には近年の平和行政の変質も指摘される。(山田雄之、山田祐一郎)
◆物議を醸した「園内での禁止行為」
広島市は5月、平和記念式典で、入場規制エリアを昨年まで対象外だった原爆ドーム周辺を含む公園全体に広げる「安全対策」を発表した。当日午前5〜9時に入場規制し、6カ所のゲートで手荷物検査を行うとした。
広島市の平和記念公園で、松井一実広島市長(左から5人目)から説明を受けるG7首脳ら=2023年05月
これに加えて物議を醸したのが園内での禁止行為。「式典の運営に支障を来す」としてマイクや拡声器のほか、プラカードや横断幕の持ち込み、はちまきやゼッケンの着用まで禁じ、従わなければ退去を命令することがあるとした。
規制強化の理由としたのは昨年の式典の際、原爆ドーム周辺で市職員に活動家の集団が腕を組んでぶつかるなどした「衝突事案」だ。5人が暴力行為法違反の疑いで逮捕、起訴された。
松井一実市長は記者会見で「参列する市民の安全を最優先に考えての措置」と強調。「原爆ドームや供養塔の周辺で毎年、慰霊に関する行事をしている団体もあると思うが」と問われると、「今までのような集会はできなくなるかと思いますね」と淡々と応じた。
◆「核廃絶の思いを自由に伝えたいと考える人は多い」のに
被爆者たちの受け止めはさまざまだ。広島県原爆被害者団体協議会の箕牧(みまき)智之理事長(82)は「こちら特報部」の取材に「騒動を起こす人がいることも事実。犠牲者を追悼するために厳粛に式典を行いたい。規制は仕方ない」と理解を示す。一方、もう一つの県被団協の佐久間邦彦理事長(79)は「祈る場所は必要以上に制限されるべきではない。反戦や核廃絶の思いを自由に伝えたいと考える人は多い」と話した。
6月上旬、日本ジャーナリスト会議(JCJ)広島は「ゼッケンなどの着用禁止は表現の自由に抵触する。取り消すべきではないか」と市長あての質問状を出した。JCJ広島幹事の難波健治さん(76)は「そもそも式典を巡る問題は騒音だった。いつのまにか安全の問題にすり替わった」と強調する。
◆「条例は関係なく法的根拠はない」
どういうことか。会場周辺のデモで拡声器が使われたことを受け、市が2019年に参列者に行ったアンケートでは、音が聞こえたという人の約6割が「式典に悪影響がある」と回答。市議会は21年、議員提案された「市民の理解と協力の下に、厳粛の中で行う」と定めた市平和推進基本条例を賛成多数で可決した経緯がある。ただ「厳粛」の具体的な規定はなく、県弁護士会などは「市民の表現を萎縮させる」と懸念を示していた。
公園からの退去などを市民に強制できる根拠はあるのか。市の市民活動推進課の担当者は取材に対し、手荷物検査や禁止行為による退去命令について「条例は関係なく法的根拠はない」と断言。「安全な式典にするための必要最小限の規制。表現の自由を制限するとは思わず、あくまでご協力いただくもの」と述べた。プラカードなどを使って平和や核廃絶を訴えたい人については「規制終了後や公園外でしてほしい」と話した。
◆「ここまであからさまな表現の自由の制限は…」
デモの音量に対する「騒音規制」の問題だったはずが、いつの間にか目的が「安全対策」にすり替わったという今回の出来事。広島大の田村和之名誉教授(行政法)は「別の場所から大音量が発せられる可能性があり、騒音問題の解決になるのか疑問だ」と話す。
「式典が安全に行われることに異論はないが、論理の飛躍だ。差し迫った危険の発生が具体的に予見されるわけでないのに、短時間とはいえ拡声器やプラカードといった表現活動を禁止するのは言論の自由や集会の自由の制限に当たる」と憲法違反を指摘する。その上で「ここまであからさまな行政による表現の自由の制限は最近、目にしたことがない」とあきれる。
松井市長は5月の会見で、衝突事故の再発防止のため、式典会場外の区域も式典会場と位置付けて規制する考えを説明した。田村さんは「式典として使用実態がない場所は自由利用が原則であり、市長の説明は詭弁だ」と批判。都市公園法の原則に反し、正当な理由なく住民の公共施設利用を拒んではならないとする地方自治法にも違反するとした上で「屋外の平和公園で式典を行う以上、騒音は避けられない。行政が必要以上に規制すれば、異を唱える人を排除することになる」と危ぶむ。
◆広島の平和行政が変質していないか
2023年度に差し替えられる前の平和教材の「はだしのゲン」のページ
近年、広島の平和行政を巡っては平和団体が懸念を示す問題が相次いできた。広島市教委は、平和学習教材に引用掲載してきた漫画「はだしのゲン」や、1954年にビキニ環礁で米国の水爆実験で被ばくした「第五福竜丸」の記述を2023年度から削除。市民団体が実施したオンライン署名では、約半年間で削除に反対する声が5万9000筆以上寄せられた。
昨年6月には広島市の平和記念公園と、旧日本軍の真珠湾攻撃を伝える米パールハーバー国立記念公園が姉妹協定を締結。同年9月の市議会で市幹部が、米国の原爆投下の責任議論を「現時点では棚上げにする」と答弁し、被爆者団体などから批判を受けた。今年の式典を巡っても、パレスチナ自治区ガザへの攻撃を続けるイスラエルを招待する方針を表明。ウクライナ侵攻以降、招待していないロシアへの対応との違いを「二重基準」と会見で指摘された松井市長が声を荒らげて否定する場面もあった。
「根拠やプロセスを説明しないという松井市長の政治姿勢が年々、顕著となっている」と指摘するのは広島市立大の湯浅正恵教授(社会学)。「行政は法律や条例の規則に基づいて政策決定をするべきなのに、納得できる説明がない状況が続いている」。7月には突如、来年以降の式典招待国の基準も見直す考えを示した松井市長。湯浅さんは「近年にない特殊な状況」と受け止める。
◆「アメリカのご希望に沿う岸田首相、追従する広島市」
平和記念公園で記念撮影に納まるG7首脳ら=2023年5月
「核兵器廃絶をめざすヒロシマの会」は先進7カ国(G7)広島サミット後の昨年7月、「広島市平和行政の変質を問う声明」を発表し、現状への危機感を訴えた。
共同代表を務める森滝春子さん(85)は「広島市の平和行政の変質は、原爆被害が見えなくなることを望む米国に沿った岸田首相の政策に、市が追従していることによって起きている」と危ぶむ。「G7の広島ビジョンも米国の核の傘の下での核抑止論を肯定する内容。その場所に広島が利用された」と批判する。
今回の入場規制が原爆被害の実相を伝える上での悪影響を及ぼすのではないかと懸念する。「世界や��本から原爆被害者を悼みに来るのに、法的根拠なく入場を厳しく規制すれば、近づかない方がいいという人が出るかもしれない。被爆者が減る中、マイナスの効果しかない。それを止められないのは歯がゆい思いだ」
◆デスクメモ 前に公園内の韓国人原爆犠牲者慰霊碑に足を運んだ。日本は米国の原爆の被害者だが、アジアとの関係では加害者でもある。立場の違いも含め原爆の実相を知り、犠牲者を悼み、核なき世界を願う場と思ってきた。戦後79年の夏空に「NO WAR」と掲げられる公園であってほしい。(恭)
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tenshitsukinuke · 1 year ago
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てん し つき ぬけ
👼 「天 使 突 抜」 ⛩️って〜どんな天使⁉️
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📝「 天 使 突 抜 」 の由来 -----
「天使」と言えば、羽根の生えたかわいい神の使いのエンジェル を想像してしまいますが、︎ この「天使突抜」の 天使 はそんなロマンチックな話しではなく、日本の歴史的な話しになりますーーー それは、牛若丸(源義経)と武蔵坊弁慶が、平安時代末期 1176(安元2)年に出会った京都のとある神社 → 平安遷都 の 794(延暦13)年に創社の 『 天使の宮 』 = 『 五條天神宮(ごじょうてんしんぐう) 』の 由緒ある歴史的な名前から きています〜!?
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--- 目 次 ---
(1)端的に 「天使突抜」の 要 約
(2)詳しい 「天使突抜」の 解 説
2-1)五條天神宮 と 少彦名命(すくなひこなのみこと)
2-2)豊臣秀吉 の 京都都市大改造
2-3) 天正の地割 の 町割変更 による 縦割り通りの新設
2-4) 天正の地割 による 「天使突抜」 の誕生
(3) ✍️オマケ📝【天正地割の副産物「路地」】
(4)📝参考までに--- 建物疎開、京都の空襲
4-1)建物疎開 の犠牲による 道路幅拡張 の歴史
4-2)京都の空襲 と 原爆投下候補地
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(1)端的に 「天使突抜」の 要 約
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✍️端的に『天使突抜(てんしつきぬけ)』を説明すると、次の① ② ③ になりますーーー
① 『 天 使 』 →
「天使の宮(五條天神宮)」を指す。
その「天使」とは、主祭神:「少彦名命(すくなひこなのみこと、すくなびこなのみこと) 」 の 別名・通称名。
〒600-8459 京都市下京区松原通西洞院西入ル天神前町351番地 に鎮座する、794年 平安遷都時に創社した洛中古参の神社。なお、当時の「五條通」は、現在の「松原通」。
また 中世以来、度々火災に遭い規模の縮小を余儀なくされ、現在の社殿は近時の再建で、1888(明治21)年に今の 幣殿 を再建、 1933(昭和8)年10月に本殿をはじめとした各建造物を改築し、現在に到ります。
② 『 突 抜 』 →
近世(安土桃山〜江戸時代)の京都市中の道路形態の一種。大路や小路の間に新しく通した南北の道路で、あいだに寺社や邸宅などがあって分断されるものを言う。
③ 『 天 使 突 抜 』 ▶︎▶︎▶︎
時は、16世紀末 安土桃山時代…豊臣秀吉が実施した 京都都市大改造事業の一環で、正方形街区を南北縦割りの短冊形=長方形街区に分断して、新たに通りを増やす「天正の地割(てんしょうのじわり)」政策により、「天使の宮」の当時 広大な境内の真ん中を分断して、南北を通る道「天使突抜通(現:東中筋通)」を新しく建設し、その辺りの町名を「天使突抜○町目」としたことによる。
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(2)詳しい 「天使突抜」の 解 説
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✍️ もう少し詳しく知りたい方や興味のある方は、少々長くなりますが、以下の説明をご覧くださいーーー
⏱️ 時はさかのぼり〜平安遷都の西暦794年に始まり、16世紀末 豊臣秀吉の安土桃山時代の頃になります。
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2-1) 五條天神宮 と 少彦名命(すくなひこなのみこと)
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「五條天神宮」は、794(延暦13)年の平安京遷都の際に桓武天皇の命により、弘法大師・空海によってこの地に 大和国宇陀郡(奈良県)から 天神(あまつかみ)を勧請(かんじょう)されたと伝わる洛中最古社。創建当初から「天使の宮」や「天使社」とよばれ、鎌倉時代初期に「五條天神宮」に改められました。
「五條天神宮」のご祭神は、次の3柱です。
①主祭神:「少彦名命(すくなひこなのみこと、すくなびこなのみこと)」
②配祀神(はいししん):「大己貴命(おおなむちのみこと)」 = 「大国主命(おおくにぬしのみこと)」
③配祀神:「天照皇大神(あまてらすすめおおみかみ)」 = 「天照大御神(あまてらすおおみかみ)」
農耕、病気退散の神、疫神、厄除け、医道の祖神、医薬、禁厭(きんようorきんえん、まじないの意)の神様として、古くから広く崇敬されてきました。
ちなみに、神話をもとにして、我が国の「薬祖神」として崇められているのは、「少彦名命(すくなひこなのみこと、少名毘古那など11通りの書き方がある) 」と 「大己貴命(おおなむちのみこと、大国主命など合わせて6つぐらいの異名がある)」である。二神が力を合わせて国を治め、人々や家畜の病気の治療法を定め、獣や昆虫の害をはらうまじないを教えたと言われています。
👉 3柱あるご祭神の内の主祭神である「少彦名命」の異名である「天子」の呼称は、当時は 神の子孫であるとした天皇 を示す言葉で 混同しないようにと配慮されて、神の使いを表す『天使』に呼び名を言い換え、創建当初から「天子の宮」ではなく「天使の宮」または「天使社」と呼ばれ、その近辺の住人達からは「お天使さま」とも呼ばれていたようです。
👉 ちなみに、794年「天使の宮」創建のほぼ半世紀後に生誕された「菅原道真(845〜903)」 の霊を祀った天神(てんじん)とは別モノですが、本殿の背後にある境内社の中に 菅原道真 を祀る「筑紫天満宮」(洛陽天満宮二十五社順拝 第3番)と、菅原道真と縁の深い ご祭神:十川能福(そごうのうふく)の「福部(ふくべ)」神社 及び ご祭神:渡会春彦(わたらい はるひこ)の「白太夫(しらだゆう)」神社が鎮座しています。
それは、北東方角100m強程の離れた 西洞院通仏光寺 菅大臣町に位置する、菅原道真 の生誕地「菅大臣神社」(洛陽天満宮二十五社順拝 第1番、菅公御霊地三社)が鎮座していることと、関係しているのかも知れません。
平安時代後期の 久寿年間(1154-1156)には「祇園社(現在の京都市東山区にある 八坂神社の旧称)」の末社でしたが、その後 平安から鎌倉時代初期に天皇家の支配下になり、少なくとも南北朝時代の1390年に再び「祇園社」の末社に戻ったといわれています。
👉 鎌倉時代初期の第82代・後鳥羽天皇(在位: 1183-1198)の支配下にあった「天使の宮」は、「五條天神宮」と改められました。
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👉 なお、清水寺への参詣道としてもにぎわった「五條大路(五條通)」は、豊臣秀吉の京都大改造までの呼称で、以降は「松原通」と呼ばれるようになり 今に至ります。
源義経(1159-1189)とその主従を中心に書いた作者不詳の軍記物語『義経記(ぎけいき)』によると、平安時代末期の 1176(安元2)年6月に 源義経(牛若丸)が 武蔵坊弁慶(?-1189)と出会った場所として描かれています。
それに取材した 謡曲「橋弁慶」でも弁慶は五條天神に丑の刻参りに訪れた際に五條大橋に現れる牛若丸の存在を聞いて橋へと向かったとされ、また その様子は京都では有名な「祇園祭・後祭」の「くじ取らず」の山鉾巡行 一基目の「橋弁慶山」でも描かれ、おなじみの光景となっています。
👉 当時「天使の宮」の東側を通る 西洞院通(旧:西洞院大路)には「西洞院川」が流れていました。牛若丸と弁慶の立合いがあったのは、天使の宮から約1.2km離れた五條大橋(現:松原橋)ではなく、この西洞院川に架かっていた橋という伝承もあり、確証はありませんが、この説の方が自然なのではと思われます……
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2-2) 豊臣秀吉 の 京都都市大改造
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✍️ それから 時は16世紀末の 豊臣秀吉 の安土桃山時代にワープしますーーー
1582(天正10)年に 明智光秀 が謀反を起こし、京都 本能寺に滞在する主君・織田信長を襲撃した「本能寺の変」後、羽柴秀吉はいち早く行動をおこし、戦国の騒乱に終止符を打ちました。
秀吉は、1585(天正13)年に関白職を 受け、1586(天正14)年に豊臣の氏を賜り太政大臣に就任し、政権を確立すると同時に、戦国時代からの荒廃した京都の町の復興のため、かつての平安京の「条坊制」の特長を残しつつ、京都の地形並びに治水対策、商業を含めた街の活性化・繁栄のための街区の町割区画整備 等を考えた綿密な計画のもとに、下記の主な①から⑤の京都大改造の事業に取りかかり敢行しました。
👉 これにより 現在の京都の基盤を築きあげ、今日の京都を形づくったのは、天下人となった 豊臣秀吉 だったのてす。
① 「聚楽第(じゅらく���い、じゅらくてい)」の造営を 1586(天正14)年 に開始し、その周辺に「大名屋敷町」を建設しました。
② 「御所の修築」を 1589(天正17)年 から行い、その周辺に「公家屋敷町」を配置しました。
③ 「寺町・寺之内」の「寺院街」を 1590(天正18)年 に造成して、主に「寺町通」沿いおよび「寺之内通」沿いに寺院を「京中屋敷替え」と呼ばれた強制移転を強行し 集中させました。
④ 「天正の地割(てんしょうのじわり)」を1590(天正18)年から翌年にかけて敢行。平安京からの「条坊制」による 正方形街区=碁盤の目の区画を、要所要所で 縦=南北 に短冊形に割って 長方形街区にして 区画及び通りを増やし、街区の町割区画を整備・再編成。
この時の町割の変更に伴う新たな通りの建設事業が、「天使突抜」という地名ができるきっかけとなります。詳しくは、後述します。
⑤ 「御土居(おどい)」を 1591(天正19)年に、外敵の襲来に備える 防塁 と 川の氾濫から街を守る 堤防 として、京都の周囲を丸ごと取り囲む土塀を、防御施設=総構として張り巡らせました。その範囲は、北は上賀茂から鷹ヶ峰、西は紙屋川から東寺の西辺、南は東寺南側の九条通、東は鴨川西側の河原町通まで、南北約8.5km、東西約3.5km、総延長は 約22.5kmにも及びます。
この御土居によって、京都市中を意味する「洛中」と、外部である「洛外」が明確化されました。そして 御土居には「京の七口」と呼ばれる関所となる出入り口がつくられ、これによって京都に入ってくる人間をチェックするようになりました。
---関白になった豊臣秀吉は、京都を実質的に支配し、応仁の乱等で大半が焼失し荒廃した京都を大規模な都市改造政策をもって復興させ、①から⑤等の多くの都市改造の大事業を敢行し、聚楽第の建造や街区の町割区画整備 等の施策を中心に 洛中の周囲を土塁で囲まれ、容易に攻略できない巨大な城郭(城塞)都市に生まれ変わったのです。
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2-3) 天正の地割 の 町割変更 による 縦割り通りの新設
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✍️ 「天使突抜」の名前由来の話しに到達する前に、もう少し関連する歴史的な話しが続きます--- それでは、1590 (天正18)年 の ④「天正の地割(てんしょうのじわり)」 の話しになりますーーー
室町時代後期から力を付けてきた京都の商人は、「通りに面した向かい合わせた両側」のコミュニティを1つの町(ちょう)と考える「両側町」と呼ばれるグループを構成し、一体感を背景としたにぎわいをみせるようになっていました。
それまでの平安京からの「条坊制」による 正方形街区の場合、1区画が約120m四方の正方形のブロックの四辺に住居や商店が建てられ、中央部分が空き地になることが多く、農地として利用されたり 空き地になったりして、無駄な土地が多いという欠点がありました。そして、当時は「間口税」という 間口の幅=道路に面した建物の正面の幅 の広さによって税金の額が決められていたので、碁盤の目のような正方形街区を2つに分けて長方形にして面を増やせば、税収とは無関係だった中央の空き地部分にも商店や住宅が建てられ、より多くの間口税を徴収することができるようになります。
そこに秀吉は着目し、京都の復興には「商業の発展」が不可欠との確信から、町割と通りを増やして 街や商業の活性化 及び それに伴う「間口税」の税収増を目指し、平安京からの「条坊制」による 正方形街区=碁盤の目の区画を、要所要所で 縦=南北 に短冊形に割って 長方形街区にして 区画 及び 通り を増やし、町割を大きく変更する「天正の地割」を敢行しました。これにより、京の街路は南北120m、東西60m間隔で長方形状に区画されることとなり、現在に至っています。
新設された南北の通りの 東は 寺町通 から西は 大宮通 にかけてで、北端は 丸太町通 から南端は 五条通 付近となっているものが多く、後に延長されたものも多いとされています。
新設された南北の通り名を 東から順に次に記しますが、「 --- 」で続けて記した通り名は、道の途中で一旦中断して 数町(丁)進んだところで 南北の道が再び始まる同一直線上にある通りのことになります。
① 御幸町通(ごこまちどおり)、② 富小路通(とみのこうじどおり) ………平安京の 富小路通 は現在の 麸屋町通(ふやちょうどおり) にあたる、③ 堺町通(さかいまちどおり)、④ 間之町通(あいのまちどおり)、⑤ 車屋町通(くるまやちょうどおり) --- 不明門通(あけずどおり)、⑥ 両替町通(りょうがえまちどおり) --- 諏訪町通(すわんちょうどおり)、⑦ 衣棚通(ころものたなどおり) --- 小田原町通(おだわらまちどおり)、⑧ 釜座通(かまんざどおり) --- 若宮通(わかみやどおり)、⑨ 小川通(おがわどおり) --- 東中筋通(天使突抜通)、⑩ 醒ヶ井通(さめがいどおり)、 ……… 他、合計: 12 通りで、現在も京都市の市街地を支える重要な通りとなっています。
また、四条烏丸 を中心とする一帯(下京の中心部)は、天正地割以前から十分に市街地が発達していたため、通りの新設は行なわれなかったので、この地域では平安京以来の正方形の区画が残っています。
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2-4) 天正の地割 による 天使突抜 の誕生
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👉 そのうちの一つとして、五條通(現在の 松原通)にある 天使の宮・天使社 とも呼ばれた「五條天神宮(ごじょうてんしんぐう)」の 広大な鎮守の森= 「天使の杜(もり)」を、南北に貫通するかたちで街路を分断し、その「天使の宮を突き抜けて作られた道」を「天使突抜通(てんしつきぬけどおり、現在の 東中筋通)」、その道に沿った 両側町 の町名(ちょうめい)を「天使突抜○町目」と呼ぶようになりました。その後、太平洋戦争終戦以降は「天使突抜○丁目」に変わったようです。
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ちなみに、「突抜(つきぬけ)」 とは、近世(安土桃山〜江戸時代)の京都市中の道路の一種。大路や小路の間に新しく通した南北の道路で、あいだに寺社や邸宅などがあって分断されるものを言います。
かつての 「天使突抜通」は、現在では名称が変わり「東中筋通(ひがしなかすじどおり)」と呼ばれ、西洞院通(旧:西洞院大路)と 油小路通(あぶらのこうじどおり、旧:油小路)の間に位置します。
北は 仏光寺通(ぶっこうじどおり、旧:五条坊門小路)から、南は 木津屋橋通(きづやばしどおり、旧:塩小路)までの下京区を南北に貫通する細い小路(こうじ、しょうじ)です。
👉 東中筋通(旧:天使突抜通)に沿っての両側町で 天使突抜の町名 として名付けられ、
①松原通(まつばらどおり)の少し南から 万寿寺通(まんじゅじどおり)までの 天使突抜一町目、
②五条通までの 天使突抜二町目 があり、
③五条通より南へ楊梅通(ようばいどおり)までの 天使突抜三町目、
④六条通(ろくじょうどおり)までの 天使突抜四町目 があります。
京都市のほとんどの 町名 は 末字(まつじ)に「町」がついて「○○町」と呼びますが、「天使突抜○丁目」は末字に「町」がつかない町名になります。ただ、その町内住人は 例えば 私の住んでいる「天使突抜二丁目」では、そのままでは少々長いので 普段は略して「天二町」と呼んだり書いたりしています。
🤟これは表に出てこない裏話ですがーーー天二町内の 今は亡き 昭和1桁生まれの長老のT氏から以前に聞いた話し ー→ 「昔は、五條天神宮= 天使の宮 =天使社 の坊さん達 が、南方面にある遊郭へ 買春しに行く時に 通り抜けていった=天使社の坊主が突き抜けていった から、天使突抜 と呼ぶんや〜」…とその辺りの住民達が揶揄して、天使突抜 の名前が 親しまれてきた経由があったと、その長老T氏 も 同じように町内の長老からそのように聞かされてきたとのことでした…🤭💁‍♂️🤦‍♂️👻
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( 注📝 現在の「堀川通」や「五条通」や「高辻通」は、太平洋戦争時の空襲被害に備えるための 防空空地や消防空地 設営の「建物強制疎開」により、終戦年の1945(昭和20)年前半に道路幅がそれぞれ拡張されています。また、その時の「堀川通」の道路幅拡張により、五条通以南の「醒ヶ井通(さめがいどおり)」は消失し、オマケに「京の三名水」の一つの「左女牛井、醒ヶ井(さめがい)」の円井戸も消失してしまいました。)
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(3) ✍️オマケ📝【天正地割の副産物「路地」】
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✍️ 【 天正地割 の副産物 「路 地」 】
西暦794年の平安遷都では、中国の都:長安をモチーフに、街区の町割りを「条坊制」が採用されました。大内裏(平安宮)と羅城門を結ぶ朱雀大路を南北に通し、そこを境として左京・右京を配置。東西南北に、大路(おおじ)・小路(しょうじ、こうじ)と呼ばれる通りを張り巡らせることで、碁盤の目のように 縦横の一辺が一丁・一町(約109m、道路幅含まず)の 大きなほぼ正方形街区に区分けされた町並みが生まれ、通りに囲まれた区画の中心部に入るために作られた道が、「辻(つじ)」や「辻子・図子(ずし)」や「路地(ろーじ、ろうじ、ろじ)」=「露地・露路」です。
更に、1590 (天正18)年 から翌年にかけての「天正地割」によって南北を通る小路が増え、そして 建物と建物の間を通る「辻」や「辻子(図子)」や「路地」=「露地・露路」と言われる 普通の小路より更に細い=狭い 道幅の通り道が たくさん増えました。
通り(大路、小路)をつないで家(建物)と家(建物)の間を通り抜けられる=突き抜けられる 狭い道を「辻」や「辻子(図子)」と呼び、袋小路(行き止まり)になった通りの道を「路地」と呼んで区別することがあるようですが、辻・辻子(図子)も含めて 路地 と総称するため、明確な区別はないともいわれています。
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もともと「辻」は、十字状の道を表す「十字」という言葉に由来して作られた字で、次第に細い通りを「辻子」「図子」と表すようになったとのことです。
「路地(ろーじ)」には、「コ」の字型や「L」字型になっていて、入り口とは違うところに通じているものや、路地の入口に面した通りとは反対側の通りへ出る通り抜けられる路地もあります。
1949(昭和24)年生まれの私の幼少時に住んでいた京都市下京区有隣学区内では、当時の大人の人達や私も含めて、コの字型やL字型等の曲がって通り抜けられる路地のことを「抜け路地(ぬけろーじ)」と呼んだりしていましたが、辻子(図子)という言葉は 最近まで聞いたことがなく、古稀過ぎてから 京都通 などのサイトに出てくるネット検索で知った言葉です。今住んでいる天使突抜町でも 誰もその言葉は使わないし、耳にしたことはありません。その類いの道は、「路地(ろーじ) 」や「抜け路地(ぬけろーじ)」とか「 辻 」と呼んでいます。ただ それは、私が住んできた限定的な地域的な特徴かも知れませんが……
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 「路地」というのは、その路地の中にある家に訪れるために通る道としての通路のようなものなので、一般の小路を通る場合とは少し異なり、閉鎖的で私道的な雰囲気もあることから、無用の者が立ち入るのはちょっと躊躇もしくは気が引ける感じになりがちです。なかには、路地の入口にそこの住人の「集合表札」が掲げられていたり、「無用の者の立ち入りはお断り」というような注意書きが路地の入口に張られている場合もあったりします。
ところで、私の個人的見解での 小路と路地の違いは、端から端までの全ての道路が、 車(自動車)が通れる幅があるかないのか、及び 車が通れるように地面が整備されているかいないかの差ではと、勝手に解釈して区別していますけど……
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(4) 📝参考までに--- 建物疎開、京都の空襲
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4-1)建物疎開 の犠牲による 道路幅拡張 の歴史
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今は 五条通や堀川通や御池通など京都市の 大幹線道路として広い道幅になっていますが、これは「太平洋戦争」時の米軍の無差別爆撃の空襲による火災の延焼防止 の対応策として 防火地帯(空地) 等を設けるため、それまでは他の道路と同じような細い道幅だった通りの道路沿いに佇んでいる家屋を、戦争の名の下に 有無を言わさず「取り壊し=建物疎開=家屋等の強制撤去」が無惨にも遂行され、道路幅を拡張させられたことによります。
京都府 約2万戸、京都市 で1万世帯以上が 1944(昭和19)年から翌年の1945(昭和20)年 終戦時までに、建物疎開が 第1次~第4次までに分けて 以下の内容で強行され、無惨にも建物強制疎開で拡張されたことを、特に京都市民は 決して忘れないようにしたいものです🙏
 1、『 防空空地帯 』・・・防火帯、緊急避難路、防空活動道路としての利用を目的に、50〜100メートル幅で指定。京都駅周辺、堀川通、御池通、五条通。
 2、『 防空空地 』
イ、「 交通疎開空地 」……交通要地の防護が目的。京阪三条駅周辺、四条大宮交差点、梅小路駅周辺など。
ロ、「 消防空地 」……消防活動用の道路拡幅。智恵光院通、七本松通、高辻通など。
ハ、「 疎開小空地 」……軍需工場、役所、変電所、病院等の周辺を空地にしてそれらの施設を防護。
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4-2)京都の空襲 と 原爆投下候補地
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京都は、太平洋戦争時の 米軍による 当初原爆投下候補地の第3の原爆投下予定地だったようで、威力を分かりやすくするために、京都市内の空襲を5回程度の散発的に爆撃を控えた…とされています。その空襲は、終戦年の1945年1月から6月にわたって5回の空襲(馬町空襲、西陣出水空襲 他)を受けて 約100名程の死者が出ています🙏
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bearbench-tokaido · 1 year ago
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三篇 上 その四
かごかきは、困った様子で、 「しかし、他に方法がないのだし。 これなら、眠くなっても、ふんどしのおかげで、落ちることもない。 いやでも、これで、乗っていきなされ。」 と、気の毒そうに言う。 北八もその言いようにおかしくなってきて、これも話の種と乗って行けば、それをみた弥次郎兵衛が、 「ハハハ、白いふんどしで、かごの胴中をくくったところは、まるで、お侍の屋敷での葬式みたいだ。」 その言いように、北八は、 「ええい、いまいましい。そんなことを言うな。」 弥次郎兵衛は、かまわず、 「いやまてよ、葬式だとかごの中には、仏が乗っていてものを言うはずがねえ。 でも、今は、ペラペラしゃべっているから、こりゃ、さしずめ、世に聞こえた罪人ってとこか。」 それを聞いて、北八は、 「ええい、なおいまいましい。もういい。降りて行こう。」 と、ここでかごをおりて、ここまでの金を払った。
さて、二人は、山道をたどって行くが、雨が激しくなってきたので、坂道を滑る様に歩いて、ようやくに中山の宿場に着いた。
この中山の宿場は、白い餅で水飴を包んだ、子育飴の餅が名物である。 弥次郎兵衛と北八は、酒飲みで甘いものは苦手ときてるから、やっとのことで、一つ二つ食っているうちに、雨がさらに強くなっってきた。
ここもとの 名物ながら われわれは 降りだす雨の もちあましたり
などと���弥次郎兵衛が一首詠む。 さて、他にも、この中山には、伝説の無間山の観音寺の鐘があったのだが、今は、その寺の名だけ残っていてないのだという。
この寺に むげんのかねも つきなくし 借金とりに 嘘をつくのみ
それよりこの坂をくだって、日坂の宿場についたのだが、雨はさらに激しさを増してきて、今はもう一歩も進めない状態になった。 あたりの見分けもつかないほど降る雨に、二人も閉口して、とある旅館の軒下で、雨やどりすることにした。
弥次郎兵衛は、 「まったく、いまいましい。はでにふるもんだ。」 それに答えて、北八、 「花屋が、看板の代わりに植える柳の木じゃあるめえし、いつまでも軒下に立ってもいられない。 しかたがない。 弥次さん、大井川は越したんだし、この宿場に宿を取ろうじゃねえか。」 弥次郎兵衛は、首を振り振り、 「ふざけるない。今何時だと思ってるんだ。まだ昼飯時だろう。 今から泊まってどうするんだ。」 その様子を聞いていた旅館の婆が 「この雨じゃ、身動き取れませんで。お泊りなさい。」 と、声をかけてきた。
北八、その声に振り向いて、 「いや、こりゃ泊りたくなった。弥次さん、見ろ。 この宿には、もう女性客が、大勢泊っているようだ。」 弥次郎兵衛は、眉間にしわを寄せて、北八の言う方をふりむいたが、急に顔をほころばせて、 「おや、確かに大勢いる。」 それに覆いかぶせるようぬに、 「さあさあ、お前さんがた、泊りなさい。」 と、いう婆の声が聞こえる。 「そうだな、この雨だ。そのほうがいい。」 と、弥次郎兵衛は、先ほどとは打って変わって、ニコニコしながら、北八を促すと、さっさとこの宿に入っていった。 この宿で二人は足を洗って、すぐに奥の次の間に通り、弥次郎兵衛が、 「これこれ、女中さん、白湯があれば一杯くんな。」 と、問い掛ける。 「はいはい、ただいま、持ってきましょう。」 と、すぐに白湯を持ってくる。
弥次郎兵衛は、 「よしよし。北八、昨日の薬をだしてくれ。」 と、北八に、 「腹痛が痛いのか。くだらない冗談でも聞かしてやろう。」 と、くだらないことを言っている北八に、弥次郎兵衛は、腹をさすりながら、 「ええい、馬鹿なことをいわないで、早くくれ。」 「そりゃ、ガスが溜まっただけだ。豆でも、食やなおるわ。」 と、なおも洒落ているので、弥次郎兵衛は、いらいらしながら、 「ええい、そんなことはどうでもいい。早く薬を出してくれ。」 「わかった。わかった。さてと、田町の反魂丹はどこだったか。 ああ、あった、ほれ、手を出しな。」 と、北八が、ようやく弥次郎兵衛に渡す。
ところで、この反魂丹とは、下痢、腹痛、暑気あたりなどに効果のある、その当時の家庭常備薬で、その頃の旅人は、たいてい持っていた。
弥次郎兵衛は、北八から引っ手繰るように受け取った。 「どれ、二つも飲めば効くだろう。」 と、クスリをよく確かめもせずにガリガリと口に入れてかみ砕くと、 「なんだ。こりゃ、胡椒だ。ああ、辛い辛い。」 この胡椒も、その当時は健康薬として、旅人が持ち歩いていた。
北八は、笑って、 「ハハハ、それは、胡椒だったか。 どれどれ、えーと、ああ、ここに錦袋円がある。それこれだ。」 弥次郎兵衛は、 「錦袋円か。これならいいだろう。」 と、錦袋円の包紙をあけて、薬を口に放り込む。 この錦袋円も万病に利くという家庭薬で、包のなかにブリキ製の小さな観音が入れてあった。
弥次郎兵衛は、顔をしかめて、 「ガリガリ、ガリガリ、ああまた何か変なものを食わしやがった。ペッペッ。」 北八は、 「どれ見せな。いやこれは観音様だ。」 「ほんとだ。観音様の頭を、かみ砕いてしまった。ハハハ。」 と、弥次郎兵衛は、慌てていたので、観音様まで飲み込もうとしていたのだ。
そこへ、女中がやってきって、言った。 「御膳をあげましょう。」 「五膳。いや、三膳も食べればたくさんだ。」 弥次郎兵衛は、 「また、こいつは、減らず口を叩く。 まったくやかましい男だ。黙ってしゃべれ。」 と言うと、北八は、鼻で笑う。 この間に膳も出て、いろいろ洒落冗談をいいながら、飯を食べはじめた。
弥次郎兵衛は、先ほどから気になってしかたがなかった事を、今、思い出したという風に女中に聞いてみた。 「ちょっと聞くんだが、奥の客人は女ばかりみたいだが、ありゃなんだね。」 女中は、ニコニコしながら答える。 「みんな、巫子でございますよ。」 「巫子ってことは、人の霊魂を呪術や神がかりで呼び出す霊媒ってことか。」 弥次郎兵衛が、さらに聞くと、女中は、肯いている。 それを聞いて、弥次郎兵衛と北八は、顔を見合わせにんまりしている。 女中が、奥の客人は巫子だというのを聞いて、北八は、 「そりゃいい。ぜひ、誰かの霊をだして貰いたいもんだ。」 弥次郎兵衛も興味津々で、 「俺もそうしたいが、もう時間が遅かろう。 四時をまわると、霊が寄り付かないと聞いた事がある。」 と、言うと、女中は、少し首をかしげて言う。 「お客さん、まだ、二時を少しまわったところですよ。」 弥次郎兵衛は、 「そそ、そんなら聞いてみてくんな。 俺の死んだかみさんを呼んでもらおう。」 と、ひざをのりだす。 「おお、『おつぼ』の事か。こりゃ懐かしい。」 北八も、うれしそうに答える。(発端の章、参照)
「それじゃ、今聞いてきましょう。」 と、女中が立っていくと、この間に食事もすみ、帰ってきた女中が、巫子が承知した、というので、弥次郎兵衛と北八の二人は、奥の座敷へ入っていった。 すると、そこにいる巫子は、口寄せ(交霊)の道具の箱を持ち出して、その中から、商売道具の弓矢などを取り出し、姿勢をただしている。 すると万事心得たこの旅館の女中が、水をくんで持ってきた。 弥次郎兵衛は、『おつぼ』と『おふつ』(発端の章、参照)の事を思い出しながら、巫子の言うように、そこにある葉に水をつけて振ると、巫子は、まず神下ろしを始めた。
巫子が何やらしゃべり出した。 「そもそも謹み敬って申し奉るは、上に梵天帝釈、四大天王、下界にいたれば閣魔法王、五道の冥官、我が朝は神国の始め、天神七代、地神五代の御神、伊勢は神明天照皇大神宮、外宮には四十末社、内宮には八十末社、雨の宮風の宮、月読日読の御命、北に別宮鏡の社、天の岩戸大日如来、朝熊岳福智慧円満虚空蔵、そのほか日本六十余州、総じて神の政所、出雲の国の大社、神の数が九万八千七社の御神、仏の数が一万四千三の霊場、冥道を驚かし、ここに請じ奉る。」 「はあ恐れ有りや。 このときに、此の此の方の諸精霊、代々の仏たち、弓と矢のつがいの親、一郎どのより三郎どの、番も変われ、水も変われ、変わらぬ物は五尺の弓、一打ち打てば寺々の仏壇に響く納受。」 何やら難しい呪文ともお経ともつかないものを二人は神妙に聞いている。 「やれやれ、懐かしい。よく水を向けて下さった。 お前の妻が出てくるところだが、娑婆にいたとき精進が嫌いで、肴は骨まで食やった報い、今は牛鬼になって、地獄の門番をしていらるるゆえ暇がない。それでわしが出ましたぞや。」
さて、その代理の霊は誰の霊か、弥次郎兵衛が質問する。 「おめえ誰だ。わからねえ」 それに、巫子に付いた母の霊がこたえる。 「ああ、私は、お前さんの唐の鏡じゃ、子宝どのよ。」 北八それをきいて、 「唐の鏡ってことは、弥次さん、お前のお袋さまじゃねえか。」 弥次郎兵衛も納得して、 「ははん、おふくろか。そなたにゃ用はない。」 と、がっくりきた様子で答える。
つづく。
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774 · 1 year ago
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平安時代末期、時の最高権力者、平清盛が、その子女である徳子(後の建礼門院)を高倉天皇の中宮(妻)とし、二人の間に誕生したのが安徳天皇です。 父である高倉天皇は、父が後白河天皇、母が平時忠の妹である滋子(後の建春門院)です。 治承二年(1178年)に生まれ、治承四年(1180年)わずか二歳で天皇に即位しましたが、政治の実権は祖父である清盛が握っていました。 治承五年(1181年)清盛の死去により、栄華を極めた平家は衰亡の一途をたどり、寿永2年(1183年)京に侵攻した木曾義仲の軍勢と入れ替わり、天皇も平家団結の象徴として平家一門とともに都を落ちました。 その後、一の谷、屋島と敗戦を重ねた平家は文治元年(1185)三月二十四日壇ノ浦の合戦で源義経率いる源氏の軍勢に破れ、この時、安徳天皇は御歳八歳で二位の尼(平時子)に抱かれ御入水されました。 「浪の下にも都の候ぞ」(波の下にも都がございますよ) 御入水にあたり、そう語って二位の尼は、幼い安徳天皇を慰めたと平家物語は悲哀を今に伝えています。 合戦の後、安徳天皇の御遺体は赤間関の阿弥陀寺境内に埋葬されましたが、後に源頼朝の命により阿弥陀寺に御影堂(安徳天皇社)が建てられました。 阿弥陀寺は明治の廃仏毀釈により赤間宮と改称し、官幣中社となり、さらに昭和15年(1940年)官幣大社に昇格し赤間神宮に改称されました。 昭和六十年、源平八百年を期に全日本平家会が設立され、元官幣大社赤間神宮より当家に御分霊が親授され、邸内社を建立し「能登安徳天皇社」の称号が授与されました。
安徳天皇社 【重要文化財 時國家】
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mizu990612 · 2 years ago
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2023/03/19日曜日の #お詣り #ぶんのお詣り #桑名宗社 #春日神社 @kuwana_sousha._.kasuga_jinja #皇大神宮御分霊社 #桑名東照宮 #春日稲荷社 #神社 #Shrine #御朱印 #特別御朱印 #はんこやふくちゃん @hankoya_fukuchan #桑名市 #桑名 #kuwana #三重県 #三重 #mie #日本 #japan #わくわくわな #visitmie #kankomie (桑名宗社) https://www.instagram.com/p/Cp9SdQepvVF/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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yamada50 · 3 years ago
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鎌倉時代の彫刻が残る荘厳な本殿 郡神社 岡山県真庭市に鎮座する郡(こおり)神社です 天正14年(1586)に毛利氏によって再興されましたが、三間四面入母屋造の本殿の彫刻は桃山時代の十二支彫刻と鎌倉時代の彫刻も残っているとのことです 当社の創建は崇神天皇の御代に四道将軍として派遣された大吉備津彦命の弟、吉備稚武彦命がこの地で亡くなったため御陵を造りこの神社に祀ったことが起源と伝わります 現地の由緒板には御祭神として大吉備津彦命、吉備稚武彦命、孝霊天皇となっていますが、岡山県神社庁のHPには大吉備都彦命、伊邪本別命となっています 伊邪本別命は17代履中天皇のことと思われますがなぜここに名が出るのか不明です 日本書紀では応神天皇が妃、兄媛の故郷吉備の葦守宮の逸話が残りますが、古事記では仁徳期に吉備の逸話で黒日売で同様の話が登場します 仁徳天皇が黒日売を追った地は備中の宗形神社とされますが、履中天皇は仁徳天皇の嫡男であるため何か吉備と大和王権との関連性があるのかもしれませんね 三備に分割されるのは41代持統天皇の御代まで下るので古代吉備国の様相が窺える神社の一社です #郡神社 ⛩┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈⛩ 郡神社(岡山県真庭市)(こおりじんじゃ) 鎮座地:岡山県真庭市上水田399 主祭神:大吉備都彦命、伊邪本別命 社格:郷社 ⛩┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈⛩ #神社 #神社巡り #神社好きな人と繋がりたい #recotrip #神社建築#神社仏閣 #パワースポット #真庭市 #彫刻 #神社彫刻 #岡山観光 #神社巡拝家 (郡神社) https://www.instagram.com/p/ClbwKWpPY4f/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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ari0921 · 4 years ago
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「宮崎正弘の国際情勢解題」 
令和三年(2021)9月14日(火曜日)
通巻第7050号 
 コロナ禍は何かの祟りではないのだろうか?
  科学も医学も合理主義も、疫病解決に役立っていないではないか
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 疫病大流行。文献的に最古の事例は崇神天皇の御代である。
『古事記』は以下のごとく惨状を書いた。
 「この天皇(崇神)の御代に疫病多に起こりて人民死にて燼きむとしき。この天皇愁ひ嘆きたまひと神床に坐しし夜、大物主大神、御夢に顕れて曰りたまひしく、『こは我が御心ぞ。故、意富多多泥古(おほたたねこ)をもちて、我が御前に祀らしめたまはば、神の気起こらず、国安らかに平らぎなむ』とのりたまひき」(岩波文庫版112p)。
 疫病は崇神天皇以前にも頻繁に起きていたと考えられるが、記録としては、崇神天皇の時代が初で、しかも国民の大半が死んだとの記載があるような猖獗を極めた。
 神の怒りを懼れ、タケミカツジの子である「おほたたねこ」を神主として、三輪山に祈祷し、御社を造成したところ、疫病はやんだ。疫病は神々の祟りという認識が古代人には広くあった。
 時代はぐんと下がって聖武天皇の時代、平城京を仏都として造り替えた功績、大仏殿の造営で知られる聖武天皇は、じつは平城京の前にいくども遷都している。
 疫病と災害の原因は祟りだと考えていたからだ。恭仁京の建設が本格化していた。しかし地の利、水利など諸条件が揃わず、藤原京、平城京が廃止されたように、つぎは柴香楽へと遷都する(現在の滋賀県甲賀郡信楽)。同時に難波にも副都の宮殿を建てていた。柴香楽宮は放火による山火事で廃棄された。
 遷都の理由は旧来の風習を打破し、人事を一新し、守旧派と敵対勢力を追い出すためだったと歴史学者は賢しらに「科学的に」「合理的に」解釈したが、かような政治的理由はむろんあっただろう。
しかし一番���動機はじつは疫病対策だった。そのうえ祟りを懼れての遷都ではなかったのか。皇位継承をめぐってのだましあい、謀、暗殺が続き、怨霊が漂っていた、と当時の人々は認識していた。
 藤原氏の全盛は中臣鎌足の子、藤原不比等が天皇の外戚となって大活躍し、陰険な策謀をもって政敵をつぎつぎと冤罪を仕掛けて葬り、藤原四兄弟は皇子後継をめぐる政争で、最大の政敵だった長屋王を冤罪をでっち上げて葬った。
 ところが、疫病は藤原四兄弟もあいついでに葬る。因果応報、長屋王の祟りだと囁かれた。この四兄弟の死は、それまで権力の下層で燻っていた藤原仲麻呂が中央舞台に踊り出す契機ともなった。
 ▼神社にかわって仏教寺院が祈りの場所となった
 天災は豪雨、洪水、河川の氾濫は凶作と飢餓を産みだし、そのうえ疫病である。国家安泰を祈願するために神道に替わって仏教寺院の造成が急がれ、神社への祈りが仏教寺院へと祈祷場が変わったことに、とりわけの留意が必要である。
 聖武天皇は急激に仏教へ帰依し、全国に国分寺の建設を命じた。仏教は人々の不安を吸収し、救いをもたらす信仰に置き換わった。天平六年(734)畿内は大地震に襲われた。この年に遣唐使が帰国したが、入れ替わりに新羅の使者が太宰府にやってきた。
 「凶作によって人々が困窮したところを疫病が襲い、恐るべき大流行をもたらした。流行は食糧の乏しくなった夏に、まずは太宰府管内からはじまり、冬までに全国各地に拡がった。発生地からみて、遣唐使か新羅使が列島社会に持ち込んだものと考えられる」(吉川真司『聖武天皇と仏都平城京』、講談社学術文庫)。
 疫病が外国からもたらされることは古代からの常識であり、武漢コロナはシナ大陸からやってきた。梅毒も江戸時代に外国人が持ち込んだ。
 奈良時代の疫病は三年続いた。藤原四兄弟が次々に死に、これが僥倖となって藤原仲麻呂が急激に台頭したことは述べた。
疫病による朝廷の被害は皇族、官吏の三分の一に及んだ。全国の死亡率は25%から35%とされた。和泉国で45%、駿河で30-34%、豊後で30-31%が死んだという記録は正倉院文書に残る。
 令和時代のコロナ災禍は中国湖北省の武漢で発生し、日本にもたらされた。やはり外国との接点が多い地方、都市の被害が甚大になるのも古今東西、同じである。
聖武天皇は、疫病の原因を長屋王の怨念と考えた。古代から中世にかけて、科学は発達しておらず、曖爽から夜明け、日中から夕闇と到り、夜は真っ暗な闇が支配する。古代人は闇に鬼が、魑魅魍魎が存在知ると考え、怨霊を信じていた。電気はない。書物も少なく、医学は未発達である。その不安を人々は宗教に求めるのだ。
伝来の神道より仏教を信仰する人々が増え続け、留学生が帰国したおりにもたらされた仏典や新しい信仰スタイルが急拡大し、皇室も人民も仏教に救済を求めた。
 ▼神仏習合が本格化した
ならば古来より宮廷人の拠り所としていた神道への信仰はどうなったのか。じつは、ここで初めて神仏混交が本格化するのである。
神社勢力はだまっていたわけではない。強烈な軋轢が生じるのは当然であり、そこで「有力な神々が仏教に帰依する。あるいは仏教を(神社が)護持するという言説を用いて、新旧イデオロギーの調整が吐かされた」。神仏混交という「日本教」が全土に拡大した。
 「神仏習合の深まりとは、日本古来の神祭りが、外来宗教である仏教によって『文明化』されたことへの証しである。これを受容し、あるいは反発するうちに『神道の自覚過程』が訪れる。神祇祭祀に特有のものがあらたに見出され、やがて中世につながる神国意識が形作られて入った。それはイデオロギー面における『国風文化』の生成であった」(吉川前掲書)。
ならば後世、『神皇正統記』で北畠親房は、この聖武天皇と、崩御後の光明皇后の仏教への急傾斜をいかに論じたのか、興味がある。
想定外だが、後醍醐天皇の改革を熱狂的に支持した北畠親房は、聖武天皇、光明皇后の仏寺建設、大仏開眼、国分寺の建設令、外国からの高僧の来日などを淡々と記するのみで批判はなく、むしろ次の称徳天皇が、一時期に仲麻呂に惠美押勝の氏を給え、まつりことを委任したことも客観的にのべる。
そのうえで、「後に道鏡という法師また寵幸ありしに、押勝(藤原仲麻呂)いかりをなし、廃帝をすすめ申て、上皇の宮をかたぶけむとせしに、こと顕れて誅にふしぬ(道鏡を寵愛したため、称徳天皇廃帝を謀して露見し、仲麻呂の乱は潰えた)」と、経過をのべたあと、道鏡批判に移るのである。
「法師の官に任ずることは、もろこしより始めて、僧正、僧統などといふ事のありし、それすら出家の本意にはあらざるべし、いはむや俗の官に任ずる事あるべからぬ事にこそ。されど、唐土にも南朝の宋の世に惠琳といひし人、まつりごとにまじらいしを黒衣の宰相といひき。」などと多数の唐の例を引きつつも「法王の位をさずけられたりし、猶あかずして皇位につかんといふこころざし有りけり。女帝さすがに思ひわずらひ」、和気清麻呂に神託の真偽を調べよと宇佐神宮へ派遣するのである。
仏教に帰依した女性天皇が、神道の託宣に頼ったという視点で見れば、神仏習合が、顕然と進んでいた状況を物語る。
 ▼無実の罪に陥れられた早良親王の怨霊
 早良親王は光仁天皇の皇子である。母は高野新笠(たかのにいがさ)。両親が百済系とされたために正妻とは認められず側室として桓武天皇、能登内親王、そして早良親王の生母である。早良親王は皇位継承権の有資格者だったため桓武天皇の皇太弟に立てられていた。ところが藤原種継の暗殺に関与したとして廃された。
 母方が皇族ではなく、側室だったために早良親王は早くに出家し東大寺羂索院や大安寺東院に住み、「親王禅師」と呼ばれた。天応元年(781年)に同母兄・桓武天皇の即位があり、還俗、立太子された。すでに桓武天皇には安殿親王(後の平城天皇)がいたが、万一の備えとして安殿親王の幼帝即位を避けるためだった。もとより東大寺で高位の僧侶だったこともあり、早良親王は妃を迎えず、子もなかった。
 延暦4年(785年)、造長岡宮使・藤原種継の暗殺事件に突如、巻き込まれ、乙訓寺に幽閉された。無実を訴えるため絶食、淡路へ配流される途中、守口付近で憤死した。
種継暗殺は桓武天皇留守中の事件だが、東大寺は親王禅師(早良親王)に後事を託したとされ(『東大寺華厳別供縁起』)、還俗後もなにかにつけて東大寺は早良親王に相談していたという。桓武天皇は道鏡事件の経緯から僧侶の政治関与の弊害を懸念し、長岡京遷都を急いだのだ。
長岡京遷都の裏の目的は東大寺など奈良寺院の影響力排除である。
その後、皇太子安殿親王が発病や、桓武天皇妃・藤原旅子・藤原乙牟漏・坂上又子の病死、生母高野新笠の病死と疫病の大流行、くわえて洪水が相次ぎ、それらは早良親王の祟りであるとして幾度か鎮魂の儀式が執り行われた。
そればかりか、延暦19年(800年)には早良親王に「崇道天皇」が追称され、それでも祟りが収まらずとみるや、五年後に「崇道天皇陵」を造営する。
附近には早良親王を祀る嶋田神社があり、奈良町に崇道天皇社、御霊神社で祭神として祀られた。東大寺の高僧が神道で祭られたのである。
 
 令和の疫病は、それなら何の祟りか。いささか神懸かりと思われるかも知れないが、靖国の英霊を蔑ろにしているからではないのか。
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unicodesign · 4 years ago
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旧中山道碓氷峠越え
連休中の備忘録。5月のアドベンチャーレースも中止になってしまったので、前からやってみたかった中山道碓氷峠越え、軽井沢から横川駅までバスでいき、碓氷峠を超えて家まで走って帰るというのをやってみました。
軽井沢発6:59発のバスに乗り横川駅7:33着。身支度を整えていざ出発。碓氷関所を超えて。
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ほどなく、坂本宿。
中山道63次のうち、十九番目の宿場で、安中・高崎藩の領民を移住させ計画的につくられた宿場町で、厳しい関所をぬけた旅人、碓氷峠ごえの旅人で賑わっていたとのこと。
当時はここにあった木戸が朝晩開閉されていたそう。
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宿場町風情の建物が並ぶ。米屋って書いてある。
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ここは本陣跡。明治にはここを仮校舎となり坂本小学校が開校した場所。
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本陣と脇本陣あわせて4軒、旅籠は最盛期に40軒という大きな宿場だったそうです。
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小林一茶の定宿たさかごや跡地。若山牧水が泊まった宿も。
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宿場を抜け、ここから旧中山道。
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しょっぱなから急。
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途中途中に、名所や史跡の案内板がたてられています。木々の中で視界がひらけて街が見下ろせるこの場所は『覗』といって、一茶が詩を詠んだ。
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馬頭観音。
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弘法の井戸。この先の茶屋に水がないので、ここに井戸を掘ればよいと、弘法大師が教えたという霊水だそう。
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最初のピーク、刎石山まできました。4軒の茶屋があったそうな。奥に石垣が残っていました。
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ここからは尾根道が続きます。このあとカモシカに遭遇しました。熊鈴ならして走っていたので、さーっと谷に消えていってしまい、写真も撮れなかった。
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1590年の秀吉の小田原北条攻めの際に、北陸・信州軍を防戦すべく、松井田城主が道の左右を掘り切って道幅を狭くしたという場所。松井田城は安中氏が築城したお城だが、その後武田→織田方の滝川一益を経て北条方のものとなっていた。攻めてきたのは、前田利家、上杉景勝、真田昌幸。大河ドラマみたいだ!とワクワクします。
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南向き馬頭観音が日にあたっている。
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かたや、北向き馬頭観音。
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座頭も転がるような石ころの多い歩きづらい急坂だったという『座頭ころがし』。現代の靴でも歩きづらかった、草履やわらじで歩いていた頃を想像してみる。
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この道は安政遠足のルート。1855年に安中藩主が、鍛錬のために藩士96人に安中城から碓氷峠頂上の熊野神社まで走らせた競争で、日本のマラソン発祥といわれている。(今も侍マラソンというのが行われている)
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道程の中程、まさに山中に、茶屋が13軒もあったそう。明治の頃には小学校もあったそうです。
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碓氷峠で有名な?廃バス。どうやって来たのかは謎。
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地図上の2つ目の山、子持山。高いところには登ってみたいタチ。頂上まで行ったけれど三角点はみあたらず。1107m。
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子持山の下、陣馬ヶ原という場所に分かれ道がある。旧中山道と和宮道。皇女和宮が、京都から将軍家へ御輿入れの際、遠回りだが険しくないということで通った道だそう。私は旧中山道を進みます。
人馬施行所跡。江戸時代にできた人と馬が休む家の跡。
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沢を渡り、
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フデリンドウがきれいでした。
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仁王門跡を超えるとアスファルトの道に出る。
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ほどなくして、碓氷峠頂上、熊野神社到着。
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この神社県境が真ん中にあるということで、お賽銭箱も2つあった。
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御朱印も2種類。逆転してしまったが、左が群馬で右が長野。
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見晴台で浅間山を拝み
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旧軽への遊歩道をかけおりました。見慣れた景色ショーハウス到着!
今まで、旧軽あがってきても、ここまでしかきたことがなかった。
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朝からすごい人のGW旧軽銀座でした。山の中ではカモシカにしか出会わなかったので、里におりてきた安堵感。
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祖父が大好きだった『ちもと』のそば団子を買って走って帰りました。久しぶりに食べた懐かしい味。
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約1年前のこのブログで、やりたい!と書いていた碓氷峠越え完遂。夏場は山ヒルがすさまじいときいていたので、時期を見計らっていましたが、『ヒル下がりのジョニー』を持参して足元にふりかけまくり被害なし。20度以上になると活動し出すというから、ギリギリセーフだったのかもしれません。
様々な時代のあれこれを記した案内板が飽きない道中でした。藩士も武士も皇女も天皇陛下も通った道。時代は変われど、変わら���街道、面白かった。こんどは逆向きいってみたい。
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xf-2 · 5 years ago
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古来、天皇や王の役割は疫病を鎮める祈祷にあった。ところが現代中国の「王」は疫病を鎮めるどころか、世界中にウイルスを拡散させてしまった。地球に宿痾をもたらす「病」を中国評論の石平氏、縄文文化に通じた関裕二氏が解明する。
本稿は月刊誌『Voice』2020年7月号、関裕二氏、石平氏の「縄文文明vs.中国文明」より一部抜粋・編集したものです。
「木が最高の宝」という認識
【石】関先生の『縄文文明と中国文明』(PHP新書)をたいへん興味深く読みました。縄文時代について驚くのは、1万数千年ものあいだ、縄文人のあいだで大規模な戦乱がなかったこと。発掘された遺骨を調べても、戦闘による外傷の痕が見られない、という。
なおかつ縄文人は交易や食糧備蓄など、高度な生活を営んでいました。世界史で見てもたいへん珍しい例だと思います。なぜ、このような暮らしが可能だったのでしょう。
【関】まず交易について、縄文人は当時すでに中国大陸や朝鮮半島へ渡っていました。縄文期の日本は湿地帯が多く陸路には不向きで、河川の移動を含めた「海の民」の活躍がなければ内外の流通が成立しなかった。
彼らは独自の情報ネットワークをもっており、たとえば朝鮮半島で金属をつくっているとか、中国大陸で戦乱が起きている、木を伐採しているとか、多くの情報を日本列島へ持ち帰っていました。
日本神話の神スサノヲは、鉄を求めて日本海を行き来した倭人だったといわれます。『日本書紀』神代第八段一書第五に、スサノヲの以下の言葉があります。「韓郷の島(朝鮮半島)には金銀(鉄や金属)がある。もし私の治める国に浮宝がなければよくない」。
ここでいう「浮宝」とはスギやヒノキ、クスすなわち樹木です。スサノヲはじつは熊野に樹木を植えており、縄文人の末裔といってよいでしょう。日本では、神話の時代から「木が最高の宝」という認識が受け継がれていることになります。
【石】縄文人は森や自然を大事にし、急速な開発をしなかった。他国の情報や文物を取捨選択し、新たな生活様式をゆっくりと取り入れたのでしょう。中国から稲作が伝来した際も、急激に国内を農業化するのではなく、狩猟・採集文化と並存するかたちで文明を保つことができた。
【関】縄文人が平和を志向するのは、狩猟民族の特性です。彼らは、生きるのに必要な分しか狩りをしなかった。宮沢賢治(岩手県出身)の『銀河鉄道の夜』に出てくる「鳥捕り」いわく、「からだに恰度合うほど稼いでいるくらい、いいことはありませんな」。
【石】中国の場合は、そうはいきません。4つ足のものなら机と椅子以外、何でも食べ尽くしてしまう(笑)。
戦乱の末に権力を手にした中国の王朝が真っ先に行なうのは、自然の破壊です。森を潰して耕地をつくり、木を燃やして起こした炎で青銅器や鼎を鋳造しました。なおかつ、それらは実用品ではありません。王が自らの政治権力を誇示するための道具で、無用の長物にすぎなかった。
拙著『石平の裏読み三国志』(PHP研究所)で三国時代について記したように、中国史はつねに「乱世」と「治世」の交替です。なおかつ治世の時代も平穏無事ではなく、苛烈な権力闘争と粛清が繰り広げられる。
【関】中国のもう一つの特徴は、天帝信仰です。北極星の一点を中心に、周囲を星々がめぐるように見えることから、北極星を「天」と呼んで一人の皇帝(天皇大帝)に絶対権力を移譲、集中させた。一神教的発想の典型です。
【石】日本には元来、皇帝のような絶対権力者がいなかった。小部族が集まった上に大和朝廷を戴くような緩やかな統治形態で、天皇についても同様のことがいえます。
【関】たしかに日本史上、天皇の命令は絶対でした。ただしその命令は、じつは天皇本人の意志ではない。
【石】どういうことでしょうか。
【関】天皇の命は、神からの託宣のかたちを取ります。天皇(王)と皇后(正妃)の下に男子と女子が生まれ、男子が即位すると女子は巫女として神託を受け、神命を天皇に伝える。
ところが神託の本当の出どころは母(前皇后)の実家で、要は外戚の地位を獲得した豪族が実権を握っているのです。完全な母系社会による支配。
【石】いまの私の境遇と同じですね(笑)。女房とその実家のご両親に支配権を掌握された操り人形。
【関】中国の家制度についてはどうですか。
【石】中国の場合、とくに漢民族は完全な父系社会です。それも一種の「拡大された父系社会」であって、たとえば石一族の例でいえば、1世帯や2世帯ではなく、数百世帯の「石」家が同じ地域に固まって住んでおり、一つの宗族を構成しています。
宗族の族長には必ず男子が立ち、父系の権威・象徴として一族を管理する。先祖を祀る祀堂に女性は簡単に入れず、女性はいわば宗族の付属品、子孫を繁栄させるための道具でしかない。男子の妻は外の一族から嫁いでくるので、宗族内での女性の立場がありません。
だから、縄文文明から発した日本文明が「女性的文明」であるとすれば、中国文明はまさに「男性的文明」。皇帝独裁の発想もそこから生まれるのです。
【石】先ほど話に出た天皇の役割の一つに、祈祷がありますね。奇しくも現在、中国発のコロナウイルスが世界を覆っており、王と宗教の関係に再び焦点が当たりつつあります。
中国史上において疫病、飢饉と戦乱はつねに付き物であり、王朝の崩壊前には必ず大飢饉と疫病の流行が起こります。三国時代、乱世の幕開けとなった後漢王朝の桓帝・霊帝の治世下でも、大規模な疫病が17回も起きたという記録が残っている。
疫病の氾濫は、いかがわしい宗教団体の出現と併せて黄巾の乱の発生を誘発する要因の一つとなり、後漢王朝崩壊の遠因となりました。日本の場合はどうでしょうか。
【関】疫病や天変地異を鎮めることこそ、天皇の第一の役割です。ヤマト建国の直後、第十代崇神天皇の御世に、疫病が発生して人口が半減したことがあります。
すると天皇の夢枕に大物主神が現れ、三輪山に祀られた大物主神の意志(祟り)であることを宣告する。崇神天皇が神のお告げどおり大物主神の子・大田田根子を呼んで祀らせたところ、ようやく疫病が鎮まった、という話が『日本書紀』に出てきます。
【石】ところが中国の「王」である習近平は、疫病を鎮めるどころか逆にウイルス発生の情報を隠蔽し、全世界に疫病を広めてしまった。
【関】そもそもなぜ、中国から新しいウイルスが世界に発生したのか。ウイルスは本来、森林とそのなかに住む動物と共存して生きています。したがって自然を破壊すれば、生息環境を失った動物と一緒にウイルスが都市に出てくるのは理の当然なのです。
【石】なるほど、森を破壊してきた中国文明が逆にウイルス拡散の温床となっているのですね。昔にSARSがあれば今はコロナウイルスがあり、今後もどんなウイルスが大陸から生まれてくるかはわかりません。
地球の未来を考えたとき、自然を守り、他者と共存して争いを起こさない日本の縄文文明こそ世界に示すべきモデルであり、率先して広めるべきではないでしょうか。
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rakkanoyukue · 5 years ago
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予言された
救世主として、
私ドクタードルフィンは、
いままでの、
多くの宇宙生と地球生で、
今回の世直しの実現のために、
数えきれない回数で、
想い実現半ばで、
それを良しとしない存在に、
生命を奪われてきました。
しかし、
ようやく、
その、
予言された、
救世主として、
一昨日の3月14日土曜日に、
大分別府にて、
卑弥呼と天照大御神
新誕生のお膳立てを
執り行い、
昨日の3月15日日曜日に、
大分宇佐にて、
新生卑弥呼と
新生天照大御神を、
誕生させました。
新生ジーザス・クライストを、 
再々復活させました。
卑弥呼をジーザスと
融合させました。
卑弥呼も、ジーザスも、
私ドクタードルフィンの
過去生でした。
ですから、
今回の世直しは、
私にしか、できませんでした。
真なる天照大御神を
日本の天皇家と、
融合させました。
新生・霊性邪馬台国を
起動させました。
これにて、
日本が、
世界の真のリーダーとなりました。
レムリア・縄文の
愛と調和のエネルギーを
復活させました。
宗教の融合を、
始動させました。
コロナは
光の輪であり、
すなわち、天照大御神です。
そして、菊理姫(くくりひめ)神です。
天照大御神と菊理姫神による
世壊し局面を、
世直し(創り)局面に変換させました。
すなわち、
レムリア・縄文の
愛と調和を誕生させました。
これが、私、
88次元 Fa-A ドクタードルフィンの
今回の大仕事でした。
これにて、
人類と地球は
救われます。
愛と調和で復活します。
レムリア・縄文の大元
シリウスのエネルギー飛行体が、
私の目の前で、
新生大和、新生日本、新生地球
の誕生を、祝ってくれました。
この私の使命の業が、
評価されるのは、
おそらく、
私が最後のこの地球生を、
去ってからでしょう。
それぐらい、
私の大仕事は、
地球の人類と社会に、
気づかれることなく、
時は、穏やかに、平和に、
過ぎていくことでしょう。
この私の命がけの仕事は、
いまは、まだ、
多くの地球人に認識されていませんが、
いつか、自然に、必然で、
すべての人に知られることになるでしょう。
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myonbl · 5 years ago
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2020年1月1日(水)
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新しい年を迎え、暦は今日から「俳句の日めくりカレンダー(暦生活)」、壁にはSOU・SOUの干支手ぬぐい(足袋下とおそろい)。本年も、どうぞよろしくお願いいたします。
いつも通りの早寝早起き、年が明けても変わることはない。
朝食に蕎麦をいただいて、日めくりとタペストリーを新しくする。
ツレアイは和服に着替え、西大路七条から202系統に乗って東山へ。ここ数年の恒例は、今熊野観音寺+新熊野神社という熊野詣コース。
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四季折々に自然の美しいいとなみが見られる幽寂なる空間、熊野権現示現の伝説の聖地。東山三十六峰今熊野山のふところにいだかれて、今熊野観音寺は荘厳なるたたずまいを見せております。後白河法皇より山号を賜り、「新那智山」と称します。 今熊野観音寺は、 西国三十三ヶ所観音霊場の第十五番札所 ぼけ封じ・近畿十楽観音霊場の第一番札所 京都泉山七福神のえびす神奉祀 洛陽三十三所観音霊場の第十九番札所 神仏霊場会の122番(京都42番)霊場 として名高く、また古くからの霊験記にも記されている通り「頭の観音さん」として広く人々の信仰をあつめ、毎日多くの善男善女が参拝や巡礼におとずれ、たいへんにぎわっております。真言宗泉涌寺派。
(由緒沿革より)
お参りの後、ぼけ封じの枕カバーをいただく。
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坂を下って、新熊野神社へ。
当社は熊野信仰の盛んな平安時代末期、永暦元年(1160年)、後白河法皇によって創建された神社です。後白河天皇は1155年に即位され、1158年に退位されましたが、退位後も引き続き院政を敷かれ、そのときのお住まいとなったのが、現在三十三間堂の東側にある法住寺です。当時は「法住寺殿」と呼ばれ、その鎮守社として新熊野神社が、鎮守寺として三十三間堂が創建されました。その造営に当たったのが法皇の命を受けた平清盛・重盛父子です。 法皇は一生のうちに34回熊野に参詣されていますが、当時の都人にとって熊野に参詣することは大変なことで、そう何回も行けるわけではありません。そこで、熊野の新宮・別宮として創建されたのが当社で、当社は長らく京の熊野信仰の中心地として栄えました。当社が「新熊野」と書いて「いまくまの」と読むのは、紀州の古い熊野に���する京の新しい熊野、紀州の昔の熊野に対する京の今の熊野という当時の都人の認識が、その由来となっています。 その後350年間、当社は繁栄を極めましたが、応仁の乱以降、度々の戦火に見舞われ、一時は廃絶同様の状態になってしまいました。それを再建されたのが、江戸時代初期、後水尾天皇の中宮東福門院(3代将軍徳川家光の妹)で、現在の本殿は寛文13年(1663年)聖護院宮道寛親王(後水尾上皇の皇子)によって修復されたものです。
(「御由緒」より)
帰路も202系統に乗って西大路七条で下車、自宅に着くまで往復90分。
IM嬢からメールの賀状をいただく、添付されていたのは書き初めの色紙、「子」を上手に表現されている。
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雑煮をいただく、餅は暮れに奥川ファームから届いたもの。
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玄関に、新熊野神社でいただいたネズミの親子を飾る。
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友人5組に、年賀代わりの枕宝布(まくらカバー)をレターパックライトに入れて送付。
年賀状のチェック、返信は明日の仕事に。
夜は長男夫婦が来るので私の車を斜め向かいのコインパーキングに入れようとすると・・・ない! そうか、狭い敷地だがひょっとすると、外国人観光客向けの宿泊施設でも考えているのかな?
しかたなく、御前通り東側の駐車場に入れる。
BSプレミアムでは、今日も映画マラソン。朝からオードリー・ヘップバーン、昼から寅さん。録画を流しながら、宴会準備。
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三男が夜勤入りのため、17時30分にスタート。長男夫婦も一緒に6人で乾杯、料理は昨日届いた大丸のお節+手作り煮しめ。楽しい時間を過ごすことが出来た。
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あまり動いたとは思わないが、それでも10,000歩越は満足のいく数字。あすからは、町内ウォーキングに取り組もう。
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2ttf · 13 years ago
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mizu990612 · 2 years ago
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今日2023/03/03 #ひな祭り#ひなまつりの #お詣り #ぶんのお詣り #桑名宗社 #春日神社 @kuwana_sousha._.kasuga_jinja #皇大神宮御分霊社 #桑名東照宮 #春日稲荷社 #御朱印 #特別御朱印 #はんこやふくちゃん @hankoya_fukuchan #イマソラ #そら #空 #桑名市 #桑名 #kuwana #三重県 #三重 #mie #日本 #japan (桑名宗社) https://www.instagram.com/p/CpUXRu3PnTY/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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yamada50 · 2 years ago
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都心には珍しく備射祭が残る中井御霊神社 景行天皇の御代に日本武尊東征に従った鹿島神宮神裔の一部が当地を治め、祖神武甕槌命を祀ったのが起源です 下って平安後期源義家の奥州征伐後源氏が辺りに居住すると大和国宇陀郡御霊社を勧請したとも伝わっています ちなみに宇陀郡の御霊社は不詳です 宇陀郡の隣宇智郡には井上親王を祀る御霊神社がたくさんありますけども 毎年1月13日に斎行される備射祭は新年の豊作と安産を祈った神事で、歩射の的を作るための分木(コンパス)は戦国時代のものが残り古くからおこなわれることが分かります また拝殿前の金網に閉じ込められている狛犬は区内最古級の江戸時代中期に奉納されたもので、阿吽の配置が通常と逆なことが特徴的です #中井御霊神社 𑁍𑁍𑁍𑁍𑁍 中井御霊神社(なかいごりょうじんじゃ) 鎮座地:東京都新宿区中井2丁目29−16 主祭神:仲哀天皇、神功皇后、応神天皇、仁徳天皇、武甕槌神 社格:無格社 𑁍𑁍𑁍𑁍𑁍 #神社 #神社巡り #神社好き #神社好きな人と繋がりたい #神道 #神社仏閣 #shrine #shinto #日本の風景 #参拝 #神社巡拝家 #recotrip #御朱印 #御朱印巡り #御朱印好きな人と繋がりたい#狛犬#狛犬好き#狛犬巡り#神社建築 #神社仏閣 #パワースポット #東京都 #新宿区 (中井御霊神社) https://www.instagram.com/p/CpUpNAwv7UO/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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【石川県謡曲古跡めぐり】1日目11箇所目 2020/10/30-31
能「満仲」「仲光」
本光寺 《小松市上本折町》 浄土真宗本願寺派 圓満山 本光寺 「本光寺の前身である天台宗円満寺は、今からちょうど1千年前に清和天皇の曽孫多田満仲の子、幼名美女丸、後の源賢僧都によって小松八幡の地に草庵が建てられた事に始まります。それから472年後円満院41代の連慶が、当時吉崎にご逗留していた蓮如上人の教化を受け、真宗に改宗、本光寺となる」
多田眞住職(69)が2020年6月に古希を迎え引退。娘婿の多田明弘副住職が後任。
和室のふすま絵を手掛けたのは、同市赤瀬町のアーティスト森秀一さん(66)。続きの和室3部屋にある計52枚のふすまをキャンバスに見立て、「大自然の恵みに感謝」をテーマにパステルカラーで太陽や月、水の流れを模した抽象画を描いてきた。
始ノ源満仲攝津多因ノ庄ノ息權ノ守光吉深ク佛教二歸依シ源信僧都二参シ落飾シテ圓教ト稱ス人皇第六十六代一條天皇ノ御宇長保二年庚子命二因り白山守護の為加賀国軽海加留美かるみの郷(小松市八幡字清水)二天台宗圓満寺を草創し白山別當職二補さる時に圓教石清水八幡宮(大和国長安寺○僧行教勤請)ノ分霊ヲ遷シ顕祖ヲ祀文明四年○二月二十八日第四十一代恵國院圓周吉崎蓮師ノ弟子トナリ眞宗本光寺ノ號ト慶恩坊蓮慶(實名光善延徳二・○洋玄二月圓寂)ノ法名ヲ賜り是當寺ノ開基ナリ第二世慶空本願寺派二属シ一時能美郡西俣二寺基ヲ定メル慶安年間加賀藩主前田候小松二寺地ヲ寄進サルル二依リ此處ニ轉ス其ノ後寛政十三年堂宇ヲ築造セシモ天保四年葵己四月十二日火災二遭ヒ灰榼ニ歸之爾来累世ノ住持法統ヲ嗣キ再興ヲ圖リ第十四世慶準第十五世慶也第十六世慶嗣二至ル 昭和二十四年八月宮崎安彰識 寄進三島進 外門徒一同
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lastscenecom · 6 years ago
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<飛鳥時代> 1 大 化  645 大化の改新 2 白 雉  663 白村江の戦い 3 朱 鳥  672 壬申の乱 4 大 宝  694 藤原京に遷都 5 慶 雲  701 大宝律令制定 <奈良時代> 6 和 銅  710 平城京に遷都 7 霊 亀  712 古事記が完成 8 養 老  720 日本書紀完成 9 神 亀  723 三世一身の法 10 天 平  729 光明子が皇后に 11 天平感宝 741 国分寺建立の詔 12 天平勝宝 743 墾田永年私財法 13 天平宝字 752 東大寺大仏開眼 14 天平神護 754 唐から鑑真来日 15 神護景雲 ― 「万葉集」成立 16 宝 亀  781 桓武天皇が即位 17 天 応  784 長岡京に遷都 <平安時代> 18 延 暦  794 平安京に遷都 19 大 同  802 坂上田村麻呂東征 20 弘 仁  804 最澄、空海が唐へ 21 天 長  806 最澄、天台宗開く 22 承 和  810 唐招提寺五重塔 23 嘉 祥  816 検非違使を設置 24 仁 寿  823 空海、真言宗開く 25 斉 衡  860 石清水八幡宮創建 26 天 安  866 応天門の変 27 貞 観  869 貞観の大地震 28 元 慶  878 元慶の乱 29 仁 和  888 仁和寺金堂建立 30 寛 平  894 遣唐使を廃止 31 昌 泰  ―  平仮名が現れる 32 延 喜  901 菅原道真が失脚 33 延 長  905 古今和歌集編纂 34 承 平  935 平将門の乱 35 天 慶  939 藤原純友の乱 36 天 暦  947 北野天満宮建立 37 天 徳  949 村上天皇の親政 38 応 和  955 後撰和歌集成立 39 康 保  968 東大寺?興福寺 40 安 和  969 安和の変 41 天 禄  ―  浄土教が流行 42 天 延  974 道綱の母「蜻蛉日記」 43 貞 元  ―  日宋貿易始まる 44 天 元  984 最古医術書「医心方」 45 永 観  985 源信「往生要集」 46 寛 和  ― 「日本往生極楽記」 47 永 延  987 宋の商人が来日 48 永 祚  988 尾張国郡司百姓等解 49 正 暦  990 藤原道隆摂政に 50 長 徳  ―  清少納言「枕草子」 51 長 保  ―  紫式部「源氏物語」 52 寛 弘  ― 「和泉式部日記」 53 長 和  ―  拾遺和歌集成立 54 寛 仁  1016 藤原道長摂政に 55 治 安  1019 刀伊の入寇 56 万 寿  1027 藤原道長が死去 57 長 元  1028 平忠常の乱 58 長 暦  1036 後朱雀天皇即位 59 長 久  1040 長久の荘園整理令 60 寛 徳  1047 浄瑠璃寺が創建 61 永 承  1051 前九年の合戦 62 天 喜  1053 平等院鳳凰堂完成 63 康 平  1063 源頼義鎌倉に八幡宮 64 治 暦  ―  孝標の女「更級日記」 65 延 久  1069 延久の荘園整理令 66 承 保  1075 延暦寺?円城寺 67 承 暦  ―  末法思想の流行 68 永 保  1083 後三年の合戦 69 応 徳  1086 白河上皇の院政 70 寛 治  ―  熊野信仰が盛んに 71 嘉 保  1095 北面の武士設置 72 永 長  1105 平泉に中尊寺建立 73 承 徳  1107 源義親の乱 74 康 和  ―  今昔物語集 75 長 治  ―  源氏物語絵巻 76 嘉 承    77 天 仁    78 天 永    79 永 久    80 元 永    81 保 安    82 天 治    83 大 治    84 天 承    85 長 承    86 保 延    87 永 治    88 康 治    89 天 養    90 久 安    91 仁 平    92 久 寿    93 保 元    94 平 治    95 永 暦  1152 平清盛厳島神社修復 96 応 保  1156 保元の乱 97 長 寛  1159 平治の乱 98 永 万  1160 源頼朝伊豆配流 99 仁 安  1167 平清盛が太政大臣 100 嘉 応  1169 後白河上皇が出家 101 承 安  1171 清盛の娘徳子入内 102 安 元  1175 法然が浄土宗開く 103 治 承  1180 源頼朝伊豆で挙兵 104 養 和  1181 清盛が熱病で死去 105 寿 永  1183 倶利伽羅峠の戦い 106 元 暦  1185 壇ノ浦で平氏滅亡 107 文 治  1189 源義経討たれる 108 建 久  1192 頼朝鎌倉に幕府 <鎌倉時代> 109 正 治  1195 東大寺大仏再建 110 建 仁  1199 頼朝53歳で死す 111 元 久  1202 源頼家が征夷大将軍 112 建 永  1203 北条時政執権就任 113 承 元  1204 頼家が暗殺される 114 建 暦  1205 新古今和歌集完成 115 健 保  1212 鴨長明「方丈記」 116 承 久  1213 源実朝「金槐和歌集」 117 貞 応  1219 実朝暗殺、源氏断絶 118 元 仁  1221 承久の乱 119 嘉 禄  1224 親鸞、浄土真宗開く 120 安 貞  1227 道元、曹洞宗伝える 121 寛 喜  1231 寛喜の大飢饉 122 貞 永  1232 御成敗式目制定 123 天 福  ―  京都で猿楽流行 124 文 暦  1235 小倉百人一首 125 嘉 禎  1235 霧島連峰が大噴火 126 暦 仁  1239 人身売買を禁止 127 延 応  1242 「東関紀行」完成 128 仁 治  1244 越前に永平寺建立 129 寛 元  ―  琵琶法師「平家物語」 130 宝 治  1247 宝治合戦 131 建 長  1253 日蓮、日蓮宗開く 132 康 元  1255 東福寺創建される 133 正 嘉  1259 正嘉の大飢饉 134 正 元  1261 日蓮が伊豆に配流 135 文 応  1268 北条時宗執権就任 136 弘 長  1269 モンゴル使者来着 137 文 永  1274 文永の役 138 建 治  1276 博多湾岸に防塁設置 139 弘 安  1281 弘安の役 140 正 応  1285 霜月騒動 141 永 仁  1293 鎮西探題を設置 142 正 安  1297 永仁の徳政令 143 乾 元    144 嘉 元    145 徳 治    146 延 慶    147 応 長    148 正 和    149 文 保    150 元 応    151 元 享  1321 院政を廃止 152 正 中  1324 正中の変 153 嘉 暦  1324 大徳寺創建される 154 元 徳  1330 兼好法師、徒然草 <南北朝時代> 南 元 弘  1331 楠木正成が挙兵 南 建 武  1332 後醍醐天皇流刑 南 延 元  1333 鎌倉幕府が滅亡 南 興 国  1336 湊川の戦い 南 正 平  1338 足利尊氏が征夷大将軍 南 建 徳  1339 後醍醐天皇が没す 南 文 中  1368 足利義満が3代将軍 南 天 授  ―  太平記 南 弘 和  ―  義経記 南 元 中  1391 明徳の乱 北 正 慶    北 暦 応    北 康 永    北 貞 和    北 観 応    北 文 和    北 延 文    北 康 安    北 貞 治    北 応 安    北 永 和    北 康 暦    北 永 徳    北 至 徳    北 嘉 慶    北 康 応 <室町~戦国時代> 181 明 徳  1392 南北朝が合体 182 応 永  1397 金閣寺造営 183 正 長  1399 応永の乱 184 永 享  1419 応永の外寇 185 嘉 吉  1428 正長の徳政一揆 186 文 安  1438 永享の乱 187 宝 徳  1441 足利義教殺害 188 享 徳  1454 享徳の乱 189 康 正  1456 応仁の乱 190 長 禄  1482 銀閣寺造営 191 寛 正  1488 加賀で一向一揆 192 文 正  1493 明応の政変 193 応 仁  1543 鉄砲伝来 194 文 明  1549 ザビエル布教 195 長 享  1553 川中島の戦い 196 延 徳  1560 桶狭間の戦い 197 明 応  1568 織田信長が入京 198 文 亀  1573 室町幕府滅亡 199 永 正    200 大 永    201 享 禄    202 天 文    203 弘 治    204 永 禄    205 元 亀 <安土桃山時代>    206 天 正  1582 本能寺の変 207 文 禄  1600 関ヶ原の戦い <江戸時代> 208 慶 長  1603 徳川家康江戸幕府開く 209 元 和  1614 大阪冬の陣 210 寛 永  1615 大阪夏の陣 211 正 保  1633 鎖国が始まる 212 慶 安  1635 参勤交代制 213 承 応  1636 長崎に出島完成 214 明 暦  1637 島原・天草一揆 215 万 治  1651 由井正雪の乱 216 寛 文  1685 生類憐れみの令 217 延 宝  1702 赤穂事件 218 天 和  1732 享保の飢饉 219 貞 享  1774 解体新書出版 220 元 禄  1782 天明の飢饉 221 宝 永  1783 浅間山大噴火 222 正 徳  1787 天明の打ち壊し 223 享 保  1825 異国船打払令 224 元 文  1828 シーボルト事件 225 寛 保  1833 天保の飢饉 226 延 享     東海道五十三次完成 227 寛 延  1837 大塩の乱 228 宝 暦  1841 天保の改革 229 明 和  1853 ペリー浦賀来航 230 安 永  1854 日米和親条約 231 天 明  1858 日米修好通商条約 232 寛 永     安政の大獄 233 享 和  1860 桜田門外の変 234 文 化  1864 禁門の変 235 文 政  1866 薩長同盟の密約 236 天 保    237 弘 化    238 嘉 永    239 安 政    240 万 延  1867 坂本龍馬暗殺 241 文 久     大政奉還 242 元 治  1868 鳥羽伏見の戦い 243 慶 応     江戸城無血開城 <近現代> 244 明 治  1904 日露戦争 245 大 正  1914 第1次世界大戦 246 昭 和  1945 太平洋戦争終戦 247 平 成  2011 東日本大震災
248番目の新元号発表 大化から平成まで一覧(日刊スポーツ) - Yahoo!ニュース
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