#神輿好き建築家
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八重籬神社に伝わる六角神輿 赤漆塗が豪勢な六角神輿です 唐破風には板倉氏の家紋九曜巴が散りばめられています 江戸中期に備中松山藩に入封した4代目藩主板倉勝政により江戸町奉行、京都所司代の名奉行で名高い板倉宗家始祖の板倉勝重公を祀る八重籬神社を創建、吉田家の宗源の神宣を以て八重籬霊社とし大権現の尊号を奉りました 明治になり勝重公の子、宗重公を合祀しましたが、江戸幕府京都所司代の唯一父子相次いで任じられました #八重籬神社 ⛩┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈⛩ 八重籬神社(やえがきじんじゃ) 鎮座地:岡山県高梁市内山下120 主祭神:板倉勝重、板倉重宗 社格:県社 ⛩┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈⛩ #神社 #神社巡り #神社好き #神社好きな人と繋がりたい #recotrip #御朱印 #御朱印巡り #神社建築#神社仏閣 #パワースポット #高梁市 #神輿 #六角神輿 #備中松山城 #神社巡拝家 (Takahashi, Okayama) https://www.instagram.com/p/CmZannGPt3p/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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旧中山道碓氷峠越え
連休中の備忘録。5月のアドベンチャーレースも中止になってしまったので、前からやってみたかった中山道碓氷峠越え、軽井沢から横川駅までバスでいき、碓氷峠��超えて家まで走って帰るというのをやってみました。
軽井沢発6:59発のバスに乗り横川駅7:33着。身支��を整えていざ出発。碓氷関所を超えて。

ほどなく、坂本宿。
中山道63次のうち、十九番目の宿場で、安中・高崎藩の領民を移住させ計画的につくられた宿場町で、厳しい関所をぬけた旅人、碓氷峠ごえの旅人で賑わっていたとのこと。
当時はここにあった木戸が朝晩開閉されていたそう。

宿場町風情の建物が並ぶ。米屋って書いてある。

ここは本陣跡。明治にはここを仮校舎となり坂本小学校が開校した場所。

本陣と脇本陣あわせて4軒、旅籠は最盛期に40軒という大きな宿場だったそうです。

小林一茶の定宿たさかごや跡地。若山牧水が泊まった宿も。

宿場を抜け、ここから旧中山道。

しょっぱなから急。

途中途中に、名所や史跡の案内板がたてられています。木々の中で視界がひらけて街が見下ろせるこの場所は『覗』といって、一茶が詩を詠んだ。

馬頭観音。

弘法の井戸。この先の茶屋に水がないので、ここに井戸を掘ればよいと、弘法大師が教えたという霊水だそう。

最初のピーク、刎石山まできました。4軒の茶屋があったそうな。奥に石垣が残っていました。


ここからは尾根道が続きます。このあとカモシカに遭遇しました。熊鈴ならして走っていたので、さーっと谷に消えていってしまい、���真も撮れなかった。

1590年の秀吉の小田原北条攻めの際に、北陸・信州軍を防戦すべく、松井田城主が道の左右を掘り切って道幅を狭くしたという場所。松井田城は安中氏が築城したお城だが、その後武田→織田方の滝川一益を経て北条方のものとなっていた。攻めてきたのは、前田利家、上杉景勝、真田昌幸。大河ドラマみたいだ!とワクワクします。

南向き馬頭観音が日にあたっている。

かたや、北向き馬頭観音。

座頭も転がるような石ころの多い歩きづらい急坂だったという『座頭ころがし』。現代の靴でも歩きづらかった、草履やわらじで歩いていた頃を想像してみる。

この道は安政遠足のルート。1855年に安中藩主が、鍛錬のために藩士96人に安中城から碓氷峠頂上の熊野神社まで走らせた競争で、日本のマラソン発祥といわれている。(今も侍マラソンというのが行われている)

道程の中程、まさに山中に、茶屋が13軒もあったそう。明治の頃には小学校もあったそうです。

碓氷峠で有名な?廃バス。どうやって来たのかは謎。

地図上の2つ目の山、子持山。高いところには登ってみたいタチ。頂上まで行ったけれど三角点はみあたらず。1107m。

子持山の下、陣馬ヶ原という場所に分かれ道がある。旧中山道と和宮道。皇女和宮が、京都から将軍家へ御輿入れの際、遠回りだが険しくないということで通った道だそう。私は旧中山道を進みます。
人馬施行所跡。江戸時代にできた人と馬が休む家の跡。

沢を渡り、

フデリンドウがきれいでした。

仁王門跡を超えるとアスファルトの道に出る。

ほどなくして、碓氷峠頂上、熊野神社到着。

この神社県境が真ん中にあるということで、お賽銭箱も2つあった。

御朱印も2種類。逆転してしまったが、左が群馬で右が長野。

見晴台で浅間山を拝み

旧軽への遊歩道をかけおりました。見慣れた景色ショーハウス到着!
今まで、旧軽あがってきても、ここまでしかきたことがなかった。

朝からすごい人のGW旧軽銀座でした。山の中ではカモシカにしか出会わなかったので、里におりてきた安堵感。

祖父が大好きだった『ちもと』のそば団子を買って走って帰りました。久しぶりに食べた懐かしい味。

約1年前のこのブログで、やりたい!と書いていた碓氷峠越え完遂。夏場は山ヒルがすさまじいときいていたので、時期を見計らっていましたが、『ヒル下がりのジョニー』を持参して足元にふりかけまくり被害なし。20度以上になると活動し出すというから、ギリギリセーフだったのかもしれません。
様々な時代のあれこれを記した案内板が飽きない道中でした。藩士も武士も皇女も天皇陛下も通った道。時代は変われど、変わらぬ街道、面白かった。こんどは逆向きいってみたい。
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今日は地元の神輿。 影祭りなので、大人神輿はなし。 裏方万歳。 休憩所の準備です。 #スタジオエイチ #studioeichi #学生建築家 #子育て建築家 #architect #architecture #神輿 #神輿好き建築家 (Arakawa-ku, Tokyo, Japan)
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ちょっと学生時代のレポート課題のテキストを載せてみます。
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アセンブルデザインB II エディトリアルデザイン レポート
7P168806-6 唐澤 徹
●企画内容
・タイトル:『詩と建築』
・企画趣旨:建築と詩の連関を考える。建築��詩的である状態とはどのようなものかを考察する。
・企画概要:建築においても存在する詩学の構造を、詩作品の分析などにより一般性をもったかたちで言述する。詩学をその原義である「ポイエーシス」と定義し、人間の制作行為一般の方法論と技術論をその問題とする。ここでは詩と建築との関連の深い音楽の分野も考察の対象とする。
・仮コンテンツ:①詩における建築、②詩的構造についての考察、③建築における詩、の章構成
①
・コンクリート・ポエトリー
Eugen Gomringer、新国誠一、etc.
言葉を重ねて世界を作る詩にあって、コンクリートポエトリーは図(figure)=meaningとなっている。それはスイス派などのグラフィックデザインともつながるのだが、建築で詩を成すことのヒントとなるものがあると考える。
・北園克衛
言葉のオブジェクト性。写真で記録のあるオブジェのシリーズである「プラスティック・ポエム」も彼の詩学であるideo plasiticyも、言葉に物性を感じ取っていたことが読み取れる。
・William Carlos Williams の即物性・簡潔性
・中国の詠物詩
物の観察と形式化についての問題系。言葉が物にどのようにしみこむか、物に言葉がどのようにしみこむかの考察。
・鈴木正美『言葉の建築術—マンデリシュターム研究—』の参照
オシップ・マンデリシュタームは詩を建築になぞらえて詩作していた。
②
・入沢康夫『詩的構造についての覚書』
・北川透『詩的レトリック入門』
・マックス・ベンゼ『情報美学入門』
・リー・ウーファン『余白の芸術』
・Y・トゥイニャーノフ『詩的言語とはなにか』
・ハイデガー『詩人のように人間は住まう』、『建てる・住む・考える』
・レヴィナス『全体性と無限』のなかで家の女性性について書いているところ
etc.etc.を参照しながら詩の構造性についての定義をする。
③
建築における語り得ないもの=詩美 を語る。語り得ないものの前で沈黙するその先にあるのが詩であるから、(語り得ないものを語ろうとするとさらに語り得ないもの=詩美がでてくる。それは線形的には捉えられない。)建築における詩美とはその建築を成り立たせている形式のまわりの付随するコノテーション、���トラクトであることになる(という予想。)概念的近傍。コンクリートや木や金属の素材が、密実な物質の組成でなりたっているということがその近傍系(温度、質感、音の響き)をつくっているように、またはプランニングや構成や寸法の決定が、構成の息や見えや居心地をつくっているように。ひとつの言葉には概念的近傍(概念的レトラクト)があるように、身体にも身体的近傍(身体的レトラクト)があり、両者は写像関係にあるが、言葉と身体のどちらが先かと言えば身体である。しかし言葉などの外在物が身体を訓育することは確か。言葉が認識の構造のきっかけとなっているのは確か。ゆえに、言葉と身体の問題へと遡ることで能く建築の詩について語れるかもしれない。
・コルビュジェ、オーギュスト・ペレ、スカルパetc.諸建築家たちの詩への言及についての考察
・韻律と数
・数比と詩と音楽と建築
・身体的な数=リズムについて
・詩を書く建築家について(ジョン・ヘイダック、立原道造 etc.)
・詩の空間性
●ブックデザイン
・判型:A5判
・頁数:300p
...
レポート
アセンブルデザインⅡA 赤坂喜顕校長
唐澤徹
朽ちた舟を描いた素描。あのリリシズムは何かな、と考えました。それで思い至ったのが、舟とは、境(しきい)への意志であるということです。それはつまり、生成のあわい=波打際=poieisへの意志だと思うのです。また、アーキタイプとしての舟のことも考えました。例えば、飛騨高山は古河町の、まつり会館に滞在したときのこと。古河町の祭りはユネスコに登録されており、その映像を見て、そのなかで、お神輿のシーンがありました。その担がれて人の波に揺れるお神輿を見たとき、ちょうど水面の波に揺れる舟のことを想起しました。古く日本へは舟で来た人々も多かったと思います。故にそのような渡来の舟の経験もお神輿という表現を産んだ素地ともなり得ているのではないかとも可能性として思いました。(そのように、ポイエーシスは人々の経験の血の流れの中に息づいているのだと思います。)また、��院の待合室で人々が並べられた長椅子に 並んで座っている様子を見たときにも舟を想起しました。そして、その病院では人々の眼差しのさきに窓があり、光があるのです。また、ヴェンダースによる『ベルリン・天使の詩( der Himmel uber Berlin )』の最後のシーンにおいて、ホメロスの名���冠された老詩人が「乗船完了」との言葉を発し映画は終わります。また、旧約聖書におけるノアの箱舟なども、元型的な舟の形象があります。また、今年の夏に滞在した高山建築学校において、友人になったご夫婦のお子さんと仲良くなり、その子が水盤に木の板を浮かべ、その上に石を乗せて人に見立て、航海の遊びを始めたのを一緒になって見ていたことがあります。そのことは何か感動的なものがありました。
また、赤坂先生の遍歴に思いを馳せました。卒制の敷地探しの旅において、本州の極北、シルクロードの最果てである津軽を選ばれたということには何か哀愁を感じます。日本海と交わる十三湖。雨の日は山の土の流れ込み色の変わるという。真珠貝の澄んだ色から血のような色まで、両義性をもつ十三湖。先生しか見ていない内面の風景の強度のことを思います。そして、その個人の中に宿る世界の強度が建築家としての強度なのだと思います。true architect はtrue poetであらねばならない。敷地はかつて栄えていた港町が風害により一夜にして廃墟となったところ。地震、雪、嵐、自然の威力の前の人の生の儚さ。その儚さに対する哀しみと慈愛の眼差し、そして<建築>の本懐たる、自然の猛威に対して確固たる生の基盤を打ち立てるという意志。last : 最後の・続く。これは私の常々思うところなのですが、デザインを志ざす者は人の弱さや悲しみに敏感でなければならないと考えます。私は建築デザインを通して世界をもっと優しく美しくしたい。
先生の卒業制作では、自然の生成変化するエネルギーと人間の作る絶対幾何学が主題です。コンセプトシートに記載されていた渦のイメージ。「vortex・渦」とは中心を持つエネルギーの結節点です。例えば銀河も渦を巻きます。それはcosmosであり、建築も一つのコスモスであることは間違いありません。その秩序の求心性を流転しながらしているのが<自然>であり、固定性を持たせて作るのが人間によるものなのだと考えます。
『 last cosmos 』では、純粋幾何学の多層構造・同時表示・通態性が表現されています。そのような事象の重ね合わせとは詩であり、赤坂先生は建築で詩を志向しているのだと感じました。また、それが意識的なのか意識的でないのかに関わらず、何か美しいものを作ろうとする人は、それぞれの独自の言語で<詩>をしようとしている、と思います。
NIAローマ・コンペ
西洋古典建築の語法であるパースペクティブの異化と詩的統合をしていたの��なと感じました。ワイヤーというテンションの構法も、ヨーロッパの荷重の構法とコントラストを生み、異化効果を生んでいると思います。
成田山仏教研究所
イデアルなものと現実の建築物の関係。プログラム的な要請をコンセプトと構成の中に具現することがtrue conceptual architecture. “機能的なプログラムを、概念的な構成により秩序づけること”。その赤坂先生が仕事を取るまでのエピソードがものすごく格好良い。数ある人々がプレゼンして、おこられて帰ってきて皆ができないものを軽々とやってのけた。また、古い施設の中の子どもたちの来る図書館の機能を残していることがとても素晴らしい。新しい建築物の子ども図書室では子ども用に小さなソファをデザインしている。飛騨の古河の図書館を訪れたとき、そこのだれでもトイレに感動したことがあります。そこには、子ども用の小さなおまるがある。建築の女性性とは居を与えることだと思っています。居場所を与えること。座をあつらえること。新しい生命のためにその居場所を準備すること。生命がずっと続くように。(永遠ではなく、ずっと。「ずっと」には慎ましい祈りが込められています。)
R-竹中技術研究所
12mグリッド。カーンも採用していたというスケール。構成要素の接合部に立方体を配し、オブザベートリーな場を設ける。軸=眼差しの意志。直径153mの円が各プログラムを統合する。orchestaration = 統合のマニエラこそが建築術。
テクニカルなもの・マニエラへの態度
・バックマリオンとフロントマリオンを配することによるゆらぎ
・直行グリッドを避ける
・硬直性ではない「表情」や生命感。 村野藤吾先生からの教え
など、幾何学を用いながらゆらぎや多義性を志向している。硬直を避け、可能性を可能性のまま享受するという、吉田五十八建築の「いき」性とも通ずる。
ヴェンチューリ「安易な排除より困難な統合を」
両義性や反立物の統合、詩的多義。
詩とは現実の意味のmulti-meaning, parallel-meaning の言葉への写像である。
では、その言葉が物へと写像されたならば?そのとき建築物は詩と成り至る。
先生のミースへの理解
『柱』ギリシアから連なる古典的なオーダー それを消滅させたかった。しかしできなかった。「イカロスのような生き方、神へもっとも近づいた建築家」
バルセロナ・パヴィリオンにおいて
柱は見えない十字のグリッド。表層に見えて実体。対して、オニキスや乳白ガラスは強い物質性を持つが、それはストラクチェアではなく、記号的表層。バルセロナ〜においては十字柱の中央部のディテールはアールがついている。そこにおいてストラクチュアは実体だけどそう見えない、実体なのだが、表層にしか見えない。実体と表層が入り乱れている。実体と表層の通態的表示。コルビュジェのドミノよりも深くpoetic (=多義的、通態的)
テューゲントハット邸においては、十字柱の中央のディテールは直角。対して、角はアールがついている。それにより、柱は消えてゆく。ここでも十字柱は表層的実体であり、オニキスの壁は実体的表層である。柱は消えてゆくことを志向するが、バルセロナと異なり、その柱には求心性が与えられている。そこでもDaseinとAbwesenheitの、生成と消滅の通態的拮抗が生まれている。現実の多義性と通態性、可能世界の様相を一つの限定された形にするとき、絵画でも、写真でも映画でも、建築物でも、音楽でも、それは詩となる。詩こそが究極のリアリティの写しである。
ファンズワース邸
柱が外に付く。それは、内発の去勢。
ピエンツァ・トスカーナ ルネサンス
ピウス二世が理想都市として設計
逆パースと立体グリッド:床のペイヴのグリッドが立面に立ち上がる
ジュリアーノ・ロマーノの聖堂 均質空間 ガラスで風景に開く 閉じずに風景に開く
ペトラルカが眺望を得るために山に登ったが、ピウス二世ではバルコニーにより風景へ応答する。それ以外はプラトン的な作り方。
軸芯をずらす ゆらぎ
動きを作る テラーニ カサ・デル・ファッショ
柱間において、中と外で軸がずれる。運動、活性化、高等な頭脳を持ってして作られている。
韻律 abba シンメトリーを使いながらズレを重ねる。これはエストニアの作曲家アルヴォ・ペルトにも通じるものがある。
エストベリ ストックホルム市庁舎 軸のゆらぎによる「かるさ」。不安定の美。微妙なリズム、音のズレ。それがゆらぎあるハーモニーを生み出す。タクトゥスとリトゥムス。凍れる音楽。視覚的に音楽的な見えを作る。
アアルト 夏の家
天からの力によりバタフライルーフになっているが、屋根の谷とプランの軸がずれている。リビングの窓と炉との軸がずれている。
桂離宮 日本にも遠近法はあった。逆パース。軸のゆらぎ。
先生はそれらの歴史的読み込みとしてマニエラを発展させていった。
過去の人々がやらなかったことをどうやるか、がテーマだと先生はおっしゃりました。コルビュジェの「私の師は歴史である」との言葉を引用して。
オーディオテクニカHQ
コルビュジェのドミノとシトロエンの統合
軸組空間(=柱空間 そこに壁を自由に入れてゆく) と壁式空間(=両サイドに壁、そ���間に床を自由に入れてゆく)
コルビュジェはラトゥーレットにおいてドミノとシトロエンの並置をした。しかしここではmixされていない。
オーディオテクニカHQでは、プレキャストの壁は実体に見えて仕上げ。ストラクチュアは内部の柱。柱は表層に見えてストラクチュア(=実体)コールハースは、構法が変わると表層と実体の関係も変わってくると理解している。モビーディックのモチーフ。親クジラ、子クジラ
研究棟と事務棟で床レベルがずれている スキップフロア
コーナーが閉じるのを避けている、サイドコアウォール ブリッジコアは浮いている、
消防の進入口などの要請もデザインとして解いている
ギル 風、光 ルイス・カーン 重くなるのを避けるため、直行グリッドを避けている
開講のプロポーションは高さ1800mmで、これは京都の角屋のものである
知性と教養の豊穣こそが幸福な建築を作るのだと確信しました。
...
レポート
アセンブルデザインⅡA 講師:保坂猛 先生
唐澤徹
光について。
建築家には、それぞれの光についての認識があるように思われます。ルイス・カーンには光と物質の形而上学があり、それは作品をみるとその形而上学が、ある真実を掴んでいるということを思わせます。ピーター・ズントーもエッセイの中で光について書いています。光はその場所の感情に大きな影響を与えます。『オランダの光』という、オランダの光と美術にまつわるDVDを観たことがあります。そこでは、フェルメールやレンブランドの絵画など、その地域で人々により作り出された形が、その土地の光と大いに関係があることが美しくまとめられていました。人と同じように光もその土地に生きていて、人々により呼吸されているのだなということを感じました。そして、人が人に影響を与えるように、光はもっと無辺に人々に影響を与えているのであろうとも思いました。過去に、保坂先生に「先生にとって光とはなんですか」とたずねたら「光とは愛です」とお答えいただきました。そのこたえはとても先生らしく美しく、心に残りました。そのことから、世界の事象は人の言葉ではない何らかのテクストであり、それは人の言葉に翻訳可能なのかもしれない、との直感を得ました。しかもそれは科学の分析的な言語ではなく、詩のような感覚で。
世界モデルについて。
人のつくりだす形は、すべてなんらかの世界認識の表出であると思われます。その点で建築の魅力を決定するのは、設計者の世界への感覚・感受性であるのだと思います。先生の『love house』設計時の創世記と敷地条件に即したドローイングは、最もミニマルな世界モデルであり、<世界>の感覚を感じます。世界モデルとは、形而上的な意味での<構造>のあることであると考えます。
箱庭療法において作成される「箱庭」も作成者の世界モデルであり、世界への認識の投影です。そのようなことから、この世界はつくられてはまたこわされる神さまの箱庭なのではないかな、とも想像したことがあります。
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箱庭
人の世界は神さまの箱庭
砂を あつめ くずし
永遠の者の
時へのたわむれ
神さまには本当に名前がなくて
それでも
それゆえ
皆
知らずのうちに知っている
不在ゆえの遍在を
名のなきゆえの
すべてであることを
世界の
内と外とを照らす
光、
速��。
有限と無限をつなぐもの
言葉、
一つの。
...
レポート
アセンブルデザインⅡB 講師:前田圭介さん
唐澤徹
講義を受けて、前田さんの、自らの生まれ育った土地やそこから派生してゆくインターローカルなあり方に共感しました。ノマディックな無名の都市生活者になることも魅力的ですが、やはり自らの生まれ育った土地や、そこで過去を暮らしてきた人々の記憶に根ざすことは建築家にとり大きな力になります。私は群馬県の渋川市(旧小野上村)出身で、たまに実家に帰ると都心では見られない山々の風景や綺麗な空が印象的です。ジェネリックなアーバニズムにより引き起こされるのは風景の無個性化であると考えているのですが、地方までもがそのような都市の原理により構築されてゆくのは仕方がないのかなとも思いつつも歯がゆいです。最近、実家近所で高架道路の建設が進んでいます。現場作業中に大規模な遺跡が見つかったのですが、記録だけのこして場所の現物はそのまま橋脚の下に埋められていきました。
人々の集合の原理には多くの種類があるべきであると思います。風土が違えば人々の見てきた風景も違うのですし、ゆえに考え方や文化も異なります。ゆえにそれらの微差をひとつの原理で覆うことは暴力でもあり得ます。その問題を考えるには歴史のプロセスのすべてをなぞり、それぞれの良い面、悪い面を考えるべきなのでしょう。その点で「モダニズム・近代」とは熟慮すべきものなのでしょう。モダニズムとは、インターナショナルスタイルとも繋がるように、世界のユニヴァーサルなスタンダードを用意したとも思えます。そのような共通言語を用意したために世界でスムースなコミュニケーションが取れるようになったとも思えます。主要な大学の建築教育は、ほとんどがモダニズムの系譜においてなされてきました。しかし、それは世界のあり方のいくつもの可能性の芽を摘み取っていることになっているように感じられます。
そこには美学や倫理などの建築にとってのアルターエゴが介入しなければいけないのではないかと考えています。しかもそれは、日本的な混交的ハイブリッドなものであって然るべきなのだと思います。さらに個人的には、暮らしのなかで培われた身体の知性が重要なものになるのではないかと考えています。たとえばある地域で了承されるデザインにはその地域に必然的なデザインのフォーム・身振りがあります。それは普遍化できないし、完全に言語化もできない。空間のプレゼンスで示すしかないのでしょう。
空間のプレゼンスに関して、建築の公共性について考えさせられました。『群峰の森』の完成により、前面道路が気持ちの良いジョギングコースになったり、『アトリエ・ビスクドール』では、外庭が完全に閉じず、外部からは緑の足元が見え、かつ内部からは外部の視線は遮り、足元から外部の気配を感じるというように、大々的にコミュニティを謳う設計とは異なる共同性の在り方が感じられました。その点から、それだけ建築物がまわりの環境に影響を与えるということであり、それゆえに建築家には世界をより美しくしうる可能性と、同様にその責任があるのだなと思いました。
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レポート
アセンブルデザインⅡA 講師:奥山信一さん
唐澤徹
<アーキテクチュア>、<建築>の概念について考えさせられた講義でした。ルイス・カーンが「建築作品は<建築>のスピリットへの捧げ物である」と述べるように、それは私たちの日々の健闘によりその円周を広げてゆくものなのでしょう。ArchitectureとはArche(始原、原理)の意味も含まれるゆえ、その起源にひと連なりであることが建築作品のオーセンティシティであるのでしょう。そのことは磯崎新氏も論考を書いており、西洋建築においてはルネサンス期におけるパルテノンの廃墟や日本においてはイセなど。(氏はイセにおいては始原が虚体であると捉えたようですが。)サマーソンが古典主義建築とモダニズムの関連を問うたのもそのような、オーセンティシティの意識からなのでしょう。しかし、私にはそのような意識がノルム・規範となることはすこし怖いことのように思えます。世界とは混交によるハイブリッドです。それは文化的にも技術的にもそうですし、一絡げにひとつの原理でまとめることは到底できることではない。
現在の建築教育の現場のほとんどはモダニズムの流れを汲んでいます。しかし、風土はそのモダニズムをきちんと身体化できているのかどうか疑問です。産業の機械化に端を発するモダニズムは資本主義とあいまり、現代では、資本の増殖に付和雷同する建設のあり方はほとんど都市化と同義になっています。そのような単一の原理が世界を覆うことは先が無いと思えます。わたしはアルヴァ・アアルトに共感を覚えるのですが、そのひとつにローカリティの問題があります。近代建築運動の興ったドイツやフランスと比べれば、ヨーロッパの辺境であった場所で独自にモダニティを変質させ、特別なものを彼が作ったことはとても意義深いものであると思います。地域性の問題に関して、現代ではレム・コールハースは、ルーラルなものまでも都市の論理で構築されていくことに異を唱えています。また、中国のWang Shuは中国の地方の開発を評して、「都市の原理と土地の原理と、これらまったく別の世界が存在している」と述べています。合理性ということばがありますが、その合理性が水の合理性や土の合理性、火の合理性や風の合理性など、自然の合理性に適うとき、初めてひとは世界と軋轢を生まずに生きられるのではないかと思います。わたしは都市化とほぼ同義である資本の増殖に付和雷同する建設のあり方に疑問を抱きます。もちろん経済合理性は無視できません。しかし問題はその論理が何を則・倫理とするかということです。経済とは貨幣の交換により共同性を築くことであると理解しています。それはちょうど生態系のようなものであるとも思います。のようなもの、というより、人類が資源とエネルギーを自然から得ているがゆえに生態系の在り方の一形態なのだろうと思います。ゆえにその則・倫理を自然に求めるのが地球上の生物の一員である人間にとってふさわしいのでしょう。自然の秩序世界でおもしろい点は、単純な要素やルールにより複雑で多様な豊かさがうまれているところです。建築の在り方についての価値観もそのように多様であってもよいのではないかとも思います。それは建築教育の現場にこそあってほしいものに思えます。
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レポート
アセンブルデザインⅡB 講師:田中隆吉さん
唐澤徹
ホテルのホスピタリティについて。
ホテルとは旅が関連する。旅と聞くとボードレールの詩を思い出す。
地図と版画が好きな少年にとって
世界は格好の好奇心の的だ
ランプの光の中では大きく見え
記憶の目には小さく見える
ある朝我らは船出する 頭をほてらせ
心中には憤怒と 苦い欲望を抱きながら
波の脈動にまたがって我らは進む
有限な海の上で無限の思いを揺らめかせつつ
ある者は忌まわしい故郷を捨てることを喜び
ある者は恐ろしい親から逃れることを喜ぶ
またある者は星占いをしながら女の目の前で溺れ
外の者は危険な匂いを立てるキルケを演ずる
豚に変えられてしまわないように みな
空間と光と燃えさかる大気の中に飛び出す
氷にかじられ 太陽に焼かれ
接吻のあとも次第に消える
だが本当の旅人とは旅のために旅する人
心も軽く 風船のように
旅の行き先などとんと無頓着で
わけもなくただいうのだ 進んでいこうと
欲望をむき出しにして 移ろいやすく
不確かだがすさまじい快楽を夢見る
まるで戒律を書き集めるかのように
そんな人間を何と呼んだらいいか 誰も知らない
すさまじい詩である。この詩を最終詩とした『悪の華』は、冒頭の詩で近代人への冷笑的で皮肉な眼差しが向けられている。現代の日常を暮らす私たちが、もしこの『旅』で描かれているような存在だとしたらなんとおそろしいことであろうか。しかしあながち間違いでないことは、ハワイや東南アジアの美しい海がリゾートホテルの客などによるゴミで埋め尽くされている様をみれば理解できる。ちなみに『悪の華』の冒頭の詩はこうである。
読者に
愚行と 過失<あ��まち>と 罪過<つみ>と 吝嗇とが
われらが精神を領し 肉体を蝕みて
乞食どもが虱を養うがさまにも似て
われらは心地よき悔恨を肥え太らす
われらが罪過は斥け難く 悔恨は揺らぎ易い
告解により罪の報いは贖われて余りあると慢心し
卑しき涙に一切の穢れを洗い流したものと妄信し
われらは嬉々として汚泥に塗れし道へと舞い戻る
悪の枕辺に現れし者はサタン・トリスメジストス<悪霊の頭たる錬金術神>
魅入られしわれらの精神を緩やかに眠りへと誘う
そしてわれらが意志という名のこの貴き金属さえ
この博識の化学者の手によりことごとく煙と化す
われらを踊らす操りの糸を握る者こそは悪魔!
忌まわしきもののうちにわれらは魅力を見出して
腐臭漂える暗黒のうちを恐れも知らず横切りては
われらは日ごと地獄の方へと一歩ずつ堕ちてゆく
喩えるなら年老いた娼婦の打ち拉がれし乳房へと
接吻<くちづけ>ては齧りつく貧しき放蕩者にも似て
われらは道すがら人知れず快楽を盗んでは
古びた香橙<オレンジ>を搾るがごとく 力を込め搾り尽くす
われらが頽廃の脳髄のうちに巣食う悪霊の群れは
数知れぬ蛔蟲のごとく 蠢き 歌い 酒宴に興じ
われらが息をつくたび 死は大河のごとく
鈍い嘆きの声とともに肺腑へと流れ落ちる
強姦 毒薬 短刀 放火が
われらが憐れむべき運命というこの陳腐なカンヴァス<画布>を
いまだそれらの愉快なる図柄もて飾りえぬならば
悲しいかな! それはわれらが魂の怯惰のゆえだ
だが ジャッカル<金狼>や豹 牝狼に猿
蠍に禿鷹 また蛇にも似た
われらが悪徳の群れ集う忌まわしき見世物小屋の
啼き 吼え 唸り 這いまわる怪物どものうちに
ひときわ醜悪にして 悪意に充ち 不浄なる者がある!
それは大仰な身振りもせず 大きな声も立てはせぬが
ややもすればこの地上を廃墟と化すやもしれず
欠伸<あくび>のうちにこの世界を呑み尽くすやもしれぬ
それこそが倦怠!ーー眼には心ならぬ涙を泛べ
長き煙管を燻らせながら 断頭台の夢を見る者
ご存知であろう 読者よ この気難しき怪物を
ーー偽善の読者よ ーーわが同胞よ ーーわが兄弟よ!
「ホテル��貧乏人には設計できない」と、ある建築家が言ったと赤坂校長は述べた。それならばわたしはそのような生まれでは無いのでホテルを設計することはできないだろう。
われらを踊らす操りの糸を握る者こそは悪魔!
忌まわしきもののうちにわれらは魅力を見出して
腐臭漂える暗黒のうちを恐れも知らず横切りては
われらは日ごと地獄の方へと一歩ずつ堕ちてゆく
私は世界がさらなる地獄にならないように努力するのみだ。
…とまあ、そのように腐ることもないのだろう。世界の良い側面を見てみる。
飛騨市古川町に滞在した時に宿泊した小さめのホテル(飛騨ともえホテル)は、豪華ではないがあたたかな真心がはしばしに感じられた。その夜は高山建築学校のサマースクールを終えてどろどろに疲れていた。しかも滞在していた古民家を改築した校舎は風呂のシャワーがなく、共同生活ゆえに湯船につかるのも制限されていた。そのうえ日々の制作の肉体労働により体は筋肉痛。そんななかで、いままで日常の生活であたりまえに使っていたシャワーや湯船、そして柔らかなベッドは、なんの変哲も無いものであったが心身にしみいるものがあった。そして、簡素だがとても居心地の良い部屋の大きさで、また、窓からは山々が見え、とても素晴らしいものだった。朝食にも細やかな心配りが感じられた。一人用の小さな座敷に通され、小鉢がたくさんのもので、全体の量も多すぎず少なすぎずちょうどよかった。それと宿の方々も良い距離感で押し付けがましくなく、好感を持った。ツイン6000円くらいの廉価な宿であったが、とても満足して後にした。
ホテルとは旅と関連があり、それゆえに日々を過ごす土地とは別の文化や空気感を味わう貴重な機会を提供する場所である。また、自らと同じく旅で訪れた人々との交流も魅力的なものだろう。飛騨ともえホテル滞在時には、宿泊客とは話すことはなかったが、そこを拠点に古川の町を散策し、和ろうそくの職人さんの話を聞いたり、写真館を訪れて話を聞いてみたりした。古川の町の方々はやわらかでやさしく、なるほど、美しい景色のなかに住まうのならば心まで美しくなるのだな、と感じた。心が美しく澄めば、その人の手により作られる形も自ずと美しくなるだろう。
飛騨の空は澄んだ光で満ちていた。
ピーター・ズントー の、スイスの山の小さなホテルについての記述には人間の優しさを信じたくなるような美しい親密さを感じさせる。そこでは食事を準備するにおいや、空間のなかでのひとびとの親密な会話や、または山の新鮮な空気を感じさせる。
私の生まれは群馬県の渋川市(旧小野上村)であり、温泉地が多くある。四万温泉は穴場の温泉街であり、旅館「たむら」はその土地の古い旅館である。そこには何度か宿泊したことがあるが、岩風呂の温泉が素晴らしい。土地も山間にあり静けさに満ちている。
私の実家のある土地にも小野上温泉という名の温泉があり、また「サンおのがみ」というホテルもある。しかしそのホテルはよくデザイン��れているとは言い難い。また、小野上温泉の浴場も、渋川市への合併により、無機的な「施設」になってしまった。以前は野趣あふれる岩風呂の作りで、素材感もよく情緒もあった。幼い頃には祖父と毎日のように通っていた。そのような思い出と愛着のあった場所がジェネリックな場所になってしまったのはとても悲しい。それがかつて指摘されていたフラット化してゆく世界であったのだろうが、現在、世界のモメントはギャップや差異の時代になろうとしているように感じられる。差異の認識とは発見のことであり、その需要はなにかを学ぶということである。建築も、そのように、土地土地の文化や風土の微差に敏感であることが求められるだろう。それは旅というもの、つまり差異の只中へ飛び込むことを受け入れるホテル・宿というものにこそおおきく当てはまるだろう。
...
memo:
多摩美の久保田晃宏先生の授業で地球外知性のために何かをせよ、といわれたので詩をつくることにしました。考察です。
......
地球外知性のための詩について
地球外知性のための、詩という有意な構造性をもつまとまり・objectを考えるときに、問題となるのがmediumである。ピクトグラムをミニマルに人工的に設計し、コード変換して文字をつくることや、直接に音や電磁波のコードを用いることが考えられる。または、宇宙にあまねく存在する原子(水素か?)または、、否、情報を担うものとしてのピュリティがなくてはならない。
メディアはそれらを用いるとして、<詩>を成り立てせている条件を考えなくてはいけない。まず、poetryにはRaumがある。独自の時空間が包含されている。それは、poetryとcognitive structureの相互包摂により生じる。メディウムによらず詩を考えるとなると、それは<詩についての詩的発意> = poetry of poetryとなる。poetryから偶発的事象をとりのぞき(それこそがpoetryの生命でもあるのだが。弱い構造、イマージュ、生命、息吹……)そのエッセンスをとりだすと、数学的構造(強い構造、骨格)、しかも、aritmos(数→韻律)とtopos(場→空間)となる。
定義1.
詩=韻律性(rithmus)と空間性(topos)によるピュアなオブジェクト
<ピュアな>にも色々とある。
・アリストテリックな線形的論理 =意味
・散逸系 ref.マラルメ
・多層構造 ref.ボードレール
これらは数・要素同士の関係性(トポロジー、論理学、様相論理学)へと接続するのではないか。———---structure
<ピュアな>という言明は様態(mode)のことであり、今作品では定義1の構造性における主題と変奏となるというわけだ。
modes
詩とはレタス(襞構造)
詩とは髪をすりぬけるシャワーの水(fluidality)
詩とはタオル(envelope)
詩とは仄暗い部屋(topos)
詩とは光の当たるカーテン(多層・重曹・複層)
詩とは抱きしめ合うこと(emotion)
詩とはみつめあうこと(指向性)
結び目(サントーム)
・
・
・
こうして<生のすべてが詩>となるわけだ。(生のすべて=現実の事象の構造性)
それら現実のmode 様態の抽象的記述は音楽のpoeticsへも接続する。音楽の構造とは、人間の聴構造etc.の身体構造により規定された美的構造である。
(美的、とは快原則に響くものであるとする)
(その快原則にも作用機序があり、)
(多くの上部構造が次々に現れてくる)
空間とは視覚、身体の動き、聴覚により定位される(ref.VR)
オルゴール、ピアノシート、パンチカード(コンピューティングにおける)
は今作品のモデルになりそうだ。線形的構造(共時的構造ですら通常の意識様態においては線型性におとしこまなければならない)
<目的>に人類という存在の知的レベルを示す、とするならば、人類による<観察>というアティテュードを詩により示すのがよいだろう。観察と分析と制作(compose,construction)というものは物質的存在・精神的存在という複層的なあり方をするひとをよく表し得ている。レオナルドが自然を観察し、スケッチしたように、自然の物理的構造性を象徴化してサントーム(=結び目)をつくり=詩化、それを作品とする。それは詩において図象と音楽が構造的に重なり合うばしょである。(コンクリートポエトリー的でもある。)
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けど、ここまでかんがえてきてパッと『蝶がとまる詩』ってちょううつくしいのでは、とおもい、それを設計して提出することにします。詩は詩で書いてインク印刷して、そこに紫外線塗料で花のような求心的な絵をかいて、というもの。蝶は人間外知性、ってことで。
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『蝶のとまる詩』
弱くやわらかな花
羽根
はかなきうつくしさは
はかなきうつくしさと結ぼるる
光に透ける花弁の
薄くまとわる微風の層に
透きとおる羽根の
紋様がかさなる
そのひととき
世界は黙して
眼差しをそそぐ
甘やかな密約により
結ばれた
ひとつの結ぼれに
...
アセンブルデザイン1B (講師:東京R不動産 林先生) レポート
7P168806-6 唐澤 徹
この授業では、不動産という今までの私にとり建築設計の前・もしくは後の段階での取引を扱う営みであったものが、積極的な価値の創造を生みうるのだということを気付かされた。それらを特にあげるとすれば、
・価���や投資と賃料などの不動産的視点からデザインの提案をできること
・デザインの価値から不動産の価格を設定できること。
・情報デザインとリフレーミングにより潜在的な顧客を顕在化させること。
・社会問題を経済的なロジックでもって解いて、美しく組み直してゆくこと。
などである。その中でも特に建築的営みと経済の関係について考えるところが多かったので以下に書きたく思う。
実践において経済的な采配を取ることは、人々の生活をニュートラルに設計してゆくことに有効
である。しかし、私はそれはあくまでも手段だ(であってほしい)と考える。人々の暮らしの風景は、その共同体の成員の間のコモンセンスにより決定される。東京の風景が賃料によって決定されるというのはある側面では真実かもしれなく、例えばヨーロッパにおける文化的ナラティヴのような共通の物語を資本主義の中での消費に見出しているきらいがあるという点に尽きるだろう。(もちろんそれだけが共通の物語ではない。)
私たち個人は衰え死んでゆく。しかし人々の共同体はそうではない。ただし、それが私たち一人一人の死の絶対性を理解した上で、かつ私たちの生存の基本的な条件を把握した限りにおいてである。そして、その共同体の新陳代謝を司るのが経済活動である。私は、建築は社会正義として実践されるべきであるという立場をとる。そして、建築物は資産であるゆえに経済性とは切りはなして考えることはできないだろう。しかし、建築には経済性を超え、固有資産性を超えた共同性を獲得してほしいと強く願う。そこには生の詩が必要である。実存の感受・リアリティの濃縮である詩の感覚は、個の死の限界の中での有限の生のかけがえなさと、個の限界を超えた永遠への予感と憧れを呼び起こし、それにより駆動された経済は人々の生活を美しいものにする。要約するならば human wellbeing 幸福 のために建築的営為はなされるべきであろう。
ヴィム・ヴェンダース『ベルリン天使の詩』の中で、ホメロスの名を冠された老詩人は”人々は平和の叙事詩を歌うことを忘れてしまった”と述べる。人類の共通の物語、それは喜びの叙事詩となるものであるはずだ。
そのためにも王道の建築学が求められる。アルヴァ・アアルトは、「建築学とは人間の営みの全てを含んでいる」と述べている。新しいリアリティ、新しい美、人類学的な感受性、など、広範な関心を持ち適切な範囲での美的実践をなしていきたいと思う。
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🕊️1~10
≋
鴨川の護岸工法に詳しい鳩「鴨川は平成からの改修によってやわらかな景観を造り出しているんだ。護岸の石積みの隅角部を巻込止、上部を巻天端にし、芝生を養生して周辺景観とのなじみを良くしているんだ。石積みの角を出さない処理には高い技術が必要だよ。夏の納涼床でも優しい印象を感じられるよね」
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鴨川に架かる橋梁にとまる鳩「鴨川は昭和10年の大水害で甚大な被害を受けたんだ。流木によって多くの橋が壊れてしまったんだよ。現在飛び石だけがある二条の上の所にも、夷川橋という立派な橋があったんだけど、件の水害で流失してしまったんだ。水害や地震に負けない橋を架けるようになったんだよ。」
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鴨川の生態系に属する鳩「鴨川では多くの動物を見る事ができるよ。冬には琵琶湖からユリカモメが���って来るし、上の方では山から鹿がやって来るよ。なんといっても有名なのはオオサンショウウオかな。彼は特別天然記念物だけど、最近では外来種が増えているんだ。因みにサンショウウオ、漢字で鯢だよ」
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鴨川での文化醸成に精しい鳩「鴨川は文化が発展した場でもあるんだ。四条には歌舞伎の祖、出雲阿国の像があり、すぐ近くに南座があるよね。でもそれ以前から河原桟敷や見世物小屋が並んでいたんだ。当時の芸能者は貧しく決して良い立場ではなかったのだけれど、現代に繋がる文化の礎を築いたんだよ。」
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鴨川の歴史に造詣が深い鳩「鴨川は実は暴れ川なんだ。平安時代に防鴨河使(ぼうかし)が置かれ、治水に尽力していていた。それでも白河法皇が天下三不如意に賀茂河の水を挙げたくらいなんだ。江戸時代には寛文新堤が設けられ、今でも三条大橋西詰に遺っているよ。見事な石垣は歴史を感じられる穴場だ。」
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鴨川で触れられる祭祀が好きな鳩「鴨川と関わる有名な祭は二つ。一つめは禊をして時代行列が橋を渡る葵祭、二つめは鴨川から神輿を洗う儀式の水を汲む祇園祭。葵祭は分流の御手洗川で禊を行うよ。源氏物語の車争いだね。京都で御代替りをしていた頃は、鴨の河原で撤去した大嘗宮を燃やしていたんだ。」
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鴨川を舞台とした古典文学を識る鳩「鴨川の文学と言えば鴨長明の方丈記だよね。長明は下鴨神社の神職の家系の出身なんだ。乱世と遁世した身を川の流れに重ねたんだね。源氏物語の主人公、光源氏の住まいの六条院のモデルとされている河原院があったのも鴨川沿いだよ。今では榎の老木が樹っているんだ」
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鴨川を詠んだ詩歌を囀る鳩「鴨川が詠まれた和歌は田辺小橋の辺りの四季の歌碑等、川沿いに多くの歌碑があるよ。近代は室生犀星が加茂川という詩を出しているね。犀星は故郷の金沢で犀川沿いを散歩していたんだ。村山槐多の京都人の夜景色では様々な灯と市電のある美しい景色を京都弁で表しているね。」
≋
鴨川に関係する地名について語りたい鳩1「鴨川の名の由来は、賀茂川の辺りを本拠地としていた古代豪族である賀茂氏に由来します。山城国風土記には賀茂氏祖神、賀茂建角身命が拠点を転々と移しその地に至った旨が描かれています。また一説には“かも”の音は“かみ(神)”に通じるという考え方もあります」
≋
鳩2「上賀茂神社の御祭神は賀茂別雷大神。雷の神様です。雷は“神鳴り”であると考えられます。“かも”の地であり“かみなり”の神様がそこにおわす、という事は霊験あらたかな場所と言えるでしょう。それを名の由来として流れる鴨川は、京の都を洗い清める役割を担っていたと言っても過言ではありません」
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老いてこそVI
花鳥誌2019年11月号より転載

句誌「太白」代表
吉岡 乱水
「長崎くにち」(地霊への存問)
キリシタン大名大村純忠(キリシタン大名の有馬氏より養子となった大村藩領主)は、後藤貴明(大村藩主の次子だが武雄の後藤藩の養子)などの反純忠派に貿易港横瀬浦を焼き払われ、純忠は、寒村であった長崎をポルトガル人に提供、長崎港周辺と茂木を治外法権のイエズス会領とし、貿易港として発展し、長崎繁栄の基礎となった。 純忠の信仰は過激で、領内の寺社を悉く破壊し、僧侶や神官を殺害、領民にキリスト教を強いて、改宗しない領民の殺害や土地の略奪などの暴虐をほしいままにし、家臣や領民の恐怖となったという。 その後、豊臣秀吉のバテレン禁教令が敷かれ、情勢は逆転した。その流れを踏襲した江戸時代、長崎奉行や代官らの寺社保護援助の下、青木賢清(キリシタンからは「天狗」つまり「悪魔」とののしられた)が、切支丹教徒の妨害を受けながら、社殿を建立し、諏訪・森崎・住吉の三神を再興・合祀し、諏訪神社の基礎が築かれた。 安政四年(一八五七)火災により社殿が焼失、明治二年(一八六九)に再建、現在の姿となる。 「長崎くにち」は、この神社の秋季大祭、寛永十一年(一六三四)丸山町.寄合町の高尾と音羽の舞の奉納に始まり、出し物も増え、日本三大祭となった。 「くにち」は、六月一日「小屋入り」を以って始まる。踊町の世話役や出演者が諏訪・八坂の両神社まえで清祓いを受け、出し物の稽古を始める。
追ひ込みの忙しき準備宮日前 水上良子
宮日が季語か疑問だが、十月が近づくと宮日準備に大童で稽古の笛太鼓も街へ流れ来るのである。 十月三日、踊町は家を空け広げ、様々なものを飾り、出演者への贈答品を並べ披露する。
庭見世という庭見世は禁教名残諏訪祭 溝越千鶴子
禁教時代に家中を披露し、禁じられているものはない、キリスト教ではないという証の制度だと人は云う。単なる風評か確かな証拠はない。今は、祭の一部に溶け込む催しとなっている。
庭見世や新酒振舞ふ赤ら顔 坂口かづさ
十月七日、くにち初日、まず境内での出し物、大勢の観客の見守る中での晴の試技である。
モッテコイの歓声ひびく秋祭 里見澄
モッテコイは、出し物の出演の催促である。アンコールの意味ではない。
駆け下る長坂気負ふ神輿足袋 里見澄
初日、境内の広場で勇壮に練り歩いた後、三社の神輿が長坂を駈け下りてゆくお下りの様子、街を練り歩き、大波止の御旅所へと向かう。
天高し長采振りの鯔背ぶり 久保恭
長采(ながさい)とは、川船(船の形の山車)・竜宮船・御座船を引く根引衆(勢子)を調整する役で、その格好の良さを鯔背と愛でている。
龍じゃおどり踊を担ぎて若し秋祭 外輪ふみえ 秋祭生ある如く白蛇舞ふ 山口桂子 蛇踊の秋陽濃かりし石畳 松尾みちこ
龍踊は殊に市民の心を揺さぶる催しである。中国文化を取り入れた出し物は、龍踊だけに止まらないが、龍踊は関心が高く、「太白」の句も甚だ多い。
三味線の指先をどり秋祭 奥田 好春着崩れを直す役居て秋祭 八木花栗
これは本踊りの仕草である。本踊りとは日本本来の踊、一方オランダ漫才等異国風の出し物もあり、国際色豊かな長崎ならではの華やぎである。
川船の大漁に湧く秋祭 立川裕子 秋祭諏訪を舞台の稚児船頭 里見澄
川船という山車である。担ぐのは若者、子供の船頭が舟に乗り、投網を打ち、境内に散らばる鯛を網に掛け、拍手喝采を受け、船頭は肩をそびやかす。
秋天を押し上げ抛る太こっこでしょ鼓山 吉岡乱�� こつこでしよ秋天高く掲げ持つ 三河祥子
太鼓山は「コッコデショ」と読む。こっこでしょは掛声だったが出し物の名になっている。子どもの乗った山車を天へ抛り上げる勇壮な出し物である。
辻々に踊献上秋祭 本田福代
街を練り、家々や辻辻に舞を奉納し寿ぐ。
七町の傘鉾七つ秋高し 久保恭 御旅所の御饌は三俵今年米 溝越千鶴子
御旅所の大波止に出店が並び、賑いも格別である。駆け上る神輿三体宮日果つ 溝越千鶴子 お登りの様である。三社の神輿が長坂を駈け登り社殿に安置され祭りは終末を告げる。 仏教・神道の迫害そしてキリスト教迫害と悲���な歴史の繰り返された長崎。それに原爆。今「おくにち」の平和に酔い、隠れの文化は、世界遺産と騒いでいる。歴史って何? 命って何? 私は頭抱えている。
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\おにわさん更新情報📸/ [ 長野県茅野市 ] 笹離宮(蓼科笹類植物園) Bamboograss Garden “Sasarikyu”, Chino, Nagano の写真・記事を更新しました。 ーー“桂離宮”の昭和大修理を担当した建築家 #安井清 の設計による回遊式数寄屋庭園と、世界一を誇る笹専門🎋の植物園。 ・・・・・・・・ 笹離宮は #八ヶ岳 #蓼科高原 にあるササ類専門の植物園。 園内の #和風建築 #数寄屋風建築 や庭園の設計は京都の名園『桂離宮』の昭和の大修理や国宝の茶室『如庵』の移築などを手掛けた伝統建築家・安井清氏によるもの。 2019年夏の信州旅行、松本の施設でここのパンフレットを見つけて(それまで知らなかった)。『笹離宮』という名前もですが…そのパンフレットの冒頭のフレーズ 『完成しない庭園を目指して』 にめっちゃ惹かれ、予定に無かったけど足を運びました! 八ヶ岳⛰という、普段の自分の行動パターン(公共交通機関+レンタサイクル)では行きづらい場所だったけれど、今回はレンタルバイク(スクーター)で行動していたことも功を奏し…🛵 ついでに言うと先輩が携わった八ヶ岳のおされなカフェ『デリ&カフェ K』にも近かったのでちょうど良かった。 パンフレットを入手した施設で「あぁ最近できた施設ですね」と言われたのでここ1、2年で開かれた施設だと思ってたけど、運営す��財団法人「蓼科笹類植物園」は2009年に設立されたそうなので、完成から10年程度は経っているみたい。 公式サイトの情報は2015年、SNSは2014年までしか情報がないのでいつから公開されているかはわからないけど… その名の通り“笹のための離宮・庭園”で、国内のみならず海外からも収集した120種類の笹が見られます(世界一のササ類植物園を目指しているそう)。 元は静岡県の『富士竹類植物園』(ここも今知ったけど気になる…)からの「地球温暖化の影響で弱り始めた笹類を、寒冷な蓼科の地に移植させたい」という要請から始まり、設計に携わることになった安井清氏によって #笹類植物園 のみならず笹を活かした #回遊式数寄屋庭園 という構想に広がったそう。 庭園は“植物園エリア”と“数奇屋庭園エリア”と大まかには2つのエリアで構成されています。 まずは“数奇屋庭園エリア”。安井清さんの設計による和風建築「清風萬里館」、茶🍵「箬庵」、待合「翠陰」や石庭、そして京都から運ばれた鞍馬石も使われた飛び石や延段――という和風庭園の中で、普段は苔や芝生🌿で表現されそうな部分にここでは笹が取り入れられているのがとてもユニーク! そして園内奥に位置する“植物園エリア”では右から左まで様々な種類のササ類が見られます。 その森の中には八ヶ岳を表現した築山や、笹の葉による笹葺き屋根の縄文式竪穴住居、そして京都府・大山崎の国重文『酒解神社』⛩の神輿庫を模したという板倉「神坐」などが配されています。 たまたまパンフレットを見つけなかったら訪れなかった場所だけれど――八ヶ岳のロケーション含めてすごく良かった。笹をここまで意識して見たのは初めて…“笹好き”となるとニッチだと思うけど(笑)、現代和風建築好きも見て楽しめる空間! 自分が訪れた時も(決して多くはないけど)何組かの方が回遊していらっしゃったし、駐車場には京都ナンバーの車もあって――やはり庭園の本場、京都の方のアンテナの張り方はすごいなとも感心!また行きたい。 〜〜〜〜〜〜〜〜 🔗おにわさん記事URL: https://oniwa.garden/sasarikyu-garden-%e7%ac%b9%e9%9b%a2%e5%ae%ae/ ーーーーーーーー #庭園 #日本庭園 #植物園 #garden #japanesegarden #japanesegardens #botanicalgarden #botanicalgardens #茅野 #茅野市 #matsumoto #長野 #長野県 #nagano #信州 #shinshu #笹 #bamboograss #bamboo #数寄屋庭園 #おにわさん (笹離宮/(財)蓼科笹類植物園) https://www.instagram.com/p/B1lD9qzgoKG/?igshid=23zjd89wy5f2
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●UFOと超古代文明
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◆宇宙人・UFO・超古代大陸文明について - BIGLOBE http://www5a.biglobe.ne.jp/~spk/sp_newsletter/spnl_backnumber/spnl-10/spnl-10-3.htm どちらでもよいことに、いつまでも関心を向けていてはなりません。 ・宇宙人は、どちらでもよいもの ・UFOは宇宙人の乗り物? ・アトランティス・ムー伝説 宇宙人は、どちらでもよいもの 宇宙人とUFOは“超常現象”に似ているとこ��があるため、しばしば霊的な世界に関心を持つ人々の興味を引いてきました。しかし宇宙人もUFOも、その存在自体が疑わしい上に、私達の魂の成長とは直接関係しない、どちらでもよいものです。必要以上に関心を向けるようなものではありません。それらへの過剰な好奇心は、「魂の成長」という最も肝心な世界から焦点をずらしてしまうことになります。 ◆古代の宇宙人:南極大陸のピラミッド - ムーPLUS https://gakkenmu.jp/n/nf7e154f0a12e 2020/01/12 全文公開●超古代建造物ネットワークの中心だった!?「古代の宇宙人:南極大陸のピラミッド」レビュー CS放送「ヒストリーチャンネル」の人気シリーズ「古代の宇宙人」から、注目の番組を厳選紹介。今回は南極に遺されていた巨大構造物ーーピラミッドに迫る。氷の下には、現代につながる文明よりはるか前に栄えた超古代文明の遺産が眠っているのだ。 文=宇佐和通 日本の宇宙探査船「はやぶさ2」がおよそ1年半にわたる小惑星リュウグウに対する探査を終え、2019年12月3日に地球に向けて飛行を始めた。その時点で地球との距離は2億5000万キロ。地球からはるか離れた場所にある小惑星の詳細が明らかになる日が確実に近づいている。 ◆#超古代文明 hashtag on Twitter https://twitter.com/Kichiji1414/status/1212339649659555840 竜宮城は、海に沈んだ超古代文明の話かもしれない? ◆新たなオーパーツの発見か!?マヤ文明はやはり宇宙人が造ったのか!? https://ranpo.co/article/6233158011368509441 オーパーツとは、時代にそぐわない歴史的な遺物を指します。 オーパーツとされているものは、ペルーのナスカの地上絵やイースター島のモアイ像などが挙げられています。 製造目的やその時代の文明では造り出すことの不可思議な謎多き人類の遺産です。 今回紹介するのはその存在だけでも奇妙な彫像です。 https://www.metabunk.org/threads/decoded-statue-with-a-qr-code-head.6728/ ◆古代宇宙文明と富士王朝 - 竹取翁博物館 - 稲作民俗の源流 http://taketori.koiyk.com/haku-4shinpo.html 2017/02/04 ○竹取物語「第5回かぐや姫サミット」 UFO/ET核戦争、エイリアン・プラズマ爆弾研究家 5色人 天空浮船、竹内文書、宇宙人かぐや姫説に賛同 スノーデンや米兵がUFOの実在を暴露、かぐや姫は宇宙人ETエイリアンだった。かつてエジプトなどで核戦争をしていたクローン宇宙人がいたと 小泉芳孝氏紹介- 現在:竹取翁博物館 館長 博物館学芸員、大筒木出版代表、かぐや姫学会・かぐや姫の里を考える会・かぐや姫 学会会長。城南郷土史研究会会員。職歴:1947年京都府生れ。近畿大学法学部卒業・佛教大学文学部史学科卒業。 京都放送勤務、専攻:日本民俗学・郷土史・古代史。京都民俗学談話会会員、京田辺市郷土史会理事、京都地名 研究会常任理事歴任。著書:『稲作民俗の源流-日本インドネシア-』『竹取物語 現代考-原文・注釈・現代語訳・ 解説付き-』『京田辺の史跡探訪-歴史散歩コース-』『マスコミ一代記 -昭和・平成-』。共著『京都の地名検証』 『京都の地名検証2』『京都民俗』『筒城』他多数。 ◆超古代文明は宇宙人が統治していた、という噂について調べてみた https://kusanomido.com/study/fushigi/ufo/18373/ 人類の技術進歩はいつからはじまったのだろうか。 現在、私たちは高度な科学技術が駆使されたものに囲まれ、便利で快適な世の中を満喫している。 スマートフォンをはじめ、数十年前には想像すらしていなかったようなものが次々と発明、実用化され、日常生活のなかにすっかり浸透している。 その一方で、古代人たちが、現代では実現不可能なはるかに進んだ技術の品を愛用していて、今よりも豊かで快適な生活を送っていたことを裏づけるような遺物や伝説が、世界各地で発見されている。 それらについて調べていくと、「古代人たちはどのようにしてその技術を習得したのか」という疑問が浮かんでくる。 そこで登場するのが「宇宙人」の存在である。 ◆「古代マヤの宇宙飛行士」説、アメリカで再浮上? | ワールド https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2019/05/post-12112_2.php 2019/05/14 「超古代文明」に言及する説を信じる人が増えている アンダーソン教授のツイートに添えられた石棺の図柄は縦に表示されており、世界樹と鳥という意匠を理解しやすくなっている。フォン・デニケンは著書で古代の宇宙飛行士説を唱えるにあたり、図柄を90度回転させて横方向に見せることで元来の解釈をわかりにくくし、自説を補強したとされる。こうした本来の文脈からの切断操作をアンダーソン教授は強く非難している。 こうした「超古代文明」に言及する説は、他にもアトランティス大陸の生き残り、エジプトのピラミッド建設を宇宙人が支援したなど荒唐無稽な多数の説があり、「pseudoarchaeology」と総称される。「pseudo(偽の、まがいの)」と「archaeology(考古学)」を合成した語で、同様のpseudoscienceという言葉が「疑似科学、ニセ科学」と訳されることから「疑似考古学」の意味と考えてよいだろう。アメリカ考古学協会の機関誌でも、偽史の一種であるとしている。 ◆超古代文明と大量絶滅!? 南極で発見された「巨大UFO」の謎 https://cucuru.media/archives/389234 2017/10/30 近年、地球の衛星写真を閲覧できるサービス『Google Earth』から、謎の物体の発見報告が相次いでいる。今回は、なんと南極大陸近くの水中から”謎の巨大UFO”が発見されたというのだ! このニュースは世界中で大きく報じられ、いまマニアの間で注目を集めている。 拡大画像を見てみよう。やはり、水の中にハッキリと円盤のシルエットが映っている。大きさは、直径40mと推定される。もしこれがアダムスキー型のUFOであれば、相当大きいサイズだと思われる。しかし、なぜここに巨大UFOが沈んでいるのだろうか? ◆世界4大文明より前に存在していた超古代文明について 2019/12/11 https://youtu.be/0bjTX3ZwTDM 世界4大文明より前に存在していた超古代文明について 解説しています。
~目次~ ■教科書を疑おう ■なぜ見つからない超古代文明 ■待っていられない人のために ■インド、カンベイ湾海底遺跡 ■フランス、マルセイユのコスケ海底洞窟 ■パルネネズ遺跡、エル・ラニック島 チャンネル登録はこちらからどうぞ https://www.youtube.com/channel/UCqqNehhz2b-jDnQ-PSNmLoQ?sub_confirmation=1 ◆UFOオカルト伝説の謎 03.エーリッヒ・フォン・デニケンの未来の記憶 https://www.vice.com/jp/article/wjkew5/the-mystery-of-ufo-occult-legend-part-three-erich-von-danikens-memory-of-the-future 2018/06/28 ケロッピー前田による『UFOオカルト伝説の謎』。第3回目は、古代宇宙飛行士説を唱えたエーリッヒ・フォン・デニケン。ナスカの地上絵やイースター島のモアイ像は、すべて宇宙人によるものであるという説を貫いた人物の生涯から、彼が果たしたオカルト以外の功績にも迫る。 世界で最も売れたオカルト本 日本で最も売れたオカルト本といえば、五島勉『ノストラダムスの大予言』である。1973年に出版された、その書は瞬く間にベストセラーとなり、日本の70年代オカルトブームを牽引する存在として君臨し続けた。そのなかで人類滅亡の年とされていた1999年までに、そのシリーズは、10巻刊行され、累計600万部を売り上げている。 ◆超古代文明アトランティスは実在していた?アトランティス人の特徴や文化まとめ https://donkey-earth.com/spiritual/real/atlantis/ 2019/09/09 ※この記事は、超古代文明の1つ、アトランティス文明やアトランティス大陸についてまとめて、ぼくのイメージを共有しておく内容です。みなさんはアトランティス文明、あったと思いますか?都市伝説好きな人も必見かもしれません。 超古代文明の存在は、スピリチュアル的な話によく登場していて存在したか否かは科学や考古学の観点から検証がなされています。みなさんはどう思いますか?ぼくら、「現代人」よりも発展していた古代文明の人はイケメンや美女を想像しちゃいますかね。 ◆超古代文明364A「ムー大陸と竹内文書UFO-ETエイリアン、竹内文書、里帰りイスラエル・シュメール・邪馬台国」竹取翁博物館(国際かぐや姫学会) 2016.11.16 https://youtu.be/wecthFfSKrg 【YouTube】https://youtu.be/wecthFfSKrg 「日本は世界文明の発祥地」と「奈良時代の最初は神奈川だった」と竹取翁博物館の小泉館長により発表された。そして、竹内文書が古事記・日本書紀より古い歴史が記されていることや、世界最古の歴史書である『竹内文書』により、解明できたと述べられました。他には、ムー大陸や天空浮舟で帝が世界を巡行して支配していたこと、それに「かぐや姫」が、UFO-ETエイリアンであったことも述べられました。また、世界には、クローン人間やエイリアンといった人たちが100万人以上存在していることも発表されました。そして、神川県の茅ヶ崎と藤沢市に古代大和があり朝廷のあった事についても述べられました。すでに、竹取翁博物館でこれらを発信していて、これらによりかなり沢山の方たちが聞きつけられ、これらを知る会員の方も来られていました。そして、私たちが学んだ歴史は、間違っていたことを述べられました。 竹取物語から古代歴史を探る『日本は世界文明の発祥地』 1.竹内文書と民俗探訪から① 2.日本のルーツ“ムー大陸と里帰り”② http://taketori.koiyk.com/ootutu-shup... 世界中に残る失われた文明の痕跡と謎を秘めた遺跡の数々。はたしてそれらは、だれが、何のために、いつ造ったのか。最新の研究成果を踏まえた解説とそれでも解けない謎、さらに異端の仮説までをも網羅した、教科書では教えてくれない歴史入門書としての新刊書を発売した。 竹取翁博物館4周年記念イベント(国際かぐや姫学会) Taketori okina MuseumWorld Meeting Corp 竹取翁博物館では、古代日本の歴史ファンや国際かぐや姫学会員が、日本や世界それに宇宙の歴史を訪ねて次々と見学にお越し頂き、UFOや円盤を見たという方々もいて宇宙に関係した研究活動を開始している。 「竹取翁博物館」「国際かぐや姫学会」http://taketori.koiyk.com/ ◆「日本の夜明け」と題して竹取翁博物館と国際かぐや姫学会が究明!(改訂版2016.6.22) 1. 『竹取物語』は世界最古の物語であり小説 2. 『竹取物語』かぐや姫の舞台は「京田辺」 3. 『竹取物語』作者は空海。姫誕生はイエスの復活 4.『記紀』は偽文書『竹内文書』が世界最古の歴史書 5.『記紀』『17条の憲法』は藤原不比等が書いた 6. 聖徳太子は物部氏(法隆寺)でペルシャ方面の人 7. 超古代「日本は世界の中心」世界最古文明だった 8. 古代日本は帝が世界16国を統治、渡来は「里帰り��� 9. ムー大陸の五色人・10部族は、日本が統治ラ・ムー 10.ムー大陸と邪馬台国は徳之島「ノア箱舟・エデン園」 11.日本「神代文字」世界最古、世界4代文明はウソ 12.日本のピラミッドは世界最古! エジプトへ伝わる 13.世界最古文字は、日本の「ペトログラフ」と判明 14.封印されていた「十種神宝」は物部氏と徐福 15.神道から世界宗教へ、御輿はユダヤのアークに 16.イエス・モーゼ・釈迦…は、日本に来て教え請う 17.ムー大陸「沖縄(海底神殿)ハワイ・モアイ(火山)」 18.シュメール文明は日本人が造り、文字はカタカナから 19.帝が世界16国を統治、証拠は「向日葵(菊?)紋章」 20.出雲大社・与那国沖縄の神殿は「ジックラシオ」 21.ペルー・メキシコ・タヒチ…は、モンゴロイド人 22.日本ユダヤ同祖論、逆S字紋は古モンゴロイド人 ◆オーパーツとは? https://世界遺産ハンター.com/mystery/ooparts/ オーパーツって知ってる? 「out-of-place artifacts」を略して「OOPARTS」 簡単にいっちゃうと、それが発見された場所や時代には作ることが出来なかったであろう工芸品って意味。 じゃ、何でそんな物があるの? と言われれば『超古代文明』とか『宇宙人』が作ったんじゃね? と言った曰く付きの品物で、正統派の学者からは基本的に否定されているんだ。 でも、世の中には不思議な物が沢山あって、幼少の頃から『ムー』だとかオカルト系の怪しい本を読みまくっていた俺の大好物なんだ。だから俺は旅行中、可能な限り、子供の頃に憧れた人知を超えているかもしれない遺跡とかに実際に行ってみたんだ。 ◆古代文明の検索結果|TOCANA https://tocana.jp/tag/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E6%96%87%E6%98%8E 地震予知、不思議科学、UFO、オカルト、世界遺産など知的好奇心を刺激するニュースを配信 TOCANA. ... アトランティス大陸の場所をついにガチ特定か!? ... 20万年前に宇宙人アヌンナキが築いた「地球最古の超古代文明」が南アフリカで発見される! ◆日本に超古代文明!?竹内文書とカタカムナ文献の不可解な共通点 https://www.ak6ark.com/entry/historyfile 2019/07/31 日本にも存在していた超古代文明。日本では古事記が最も古い歴史書とされているが、実は古事記以外にも日本の歴史が記されている歴史書はいくつか存在している。
そして「竹内文書」「カタカムナ文献」「ホツマツタエ」と呼ばれるこれらの歴史書に記されているのは、古事記以前の日本の歴史「超古代文明」についてだった。 目次 1.日本の始まり ・日本人の始まり 2.ホツマツタエ 3.竹内文書 3.1竹内文書の内容 3.1.1超古代の世界 3.1.2ヒヒイロカネ 4.カタカムナ文献 4.1カタカムナ文明 4.2歴史書の真実 4.3まとめ 今回は、そんな日本の歴史書、古代文明についてご紹介致します。 ちなみに、トップ画像は江戸時代に現れたUFOっぽいものです。※うつろ舟
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プージャプラ

左からパドミニ、ラリタ、ラーギニ
パドミニやトラヴァンコール(マラヤーラム語ではティルヴィターンクール)姉妹をゆかしく思い、ゆかりの地プージャプラもずっと気にかかっていた。10年前にこんなことを書いている。
「パドミニの故郷を訪ねてみた。 グーグル・マップの白い手で、地球の皮を引き寄せるとインド上空だ。 降りれば、常春の国マリネラ、ではなくて椰子の国ケーララが、緑豊かに横たわっている。
ケーララの州都、ティルヴァナンタプラム Thiruvananthapuram (旧・トリヴァンドラム)の東の郊外、プージャプラ Poojappura でパドミニは生まれたとされる。
プージャプラは、鉄道のセントラルのほぼ真東に位置している。 駅の南口は、それなりに繁華で建物も多いが、東に走る線路を追うと、しだいに緑が濃くなる。 日本の私鉄なら一駅くらいのところで線路は南東に曲がるが、その北側 あたりがプージャプラだ。
ここらは緑が非常に濃く、しかし人家もまた多い。 森の中に家が点在しているみたいで、日本の風景から類推することができない。 地上に近づくと、さらにその感が増した。 樹木の間に家が埋もれている。
多摩丘陵あたりも木々は豊かだが、林と住宅地は截然と分かれている。 山林と田畑と町村は、日本ではそれぞれ別の区画だ。
詳細を知りたくなったが、あいにくケーララにはストリートビューがない。 それで建築のサイトを訪ねると、100万都市ティルヴァナンタプラムってこんなところだった。

Photo credits : Sudheesh Nair
これほど緑の多い都が、この世にあるのだろうか。 ガンディーが ever green city と讃えたのも、無理ない。 さすが常夏のココナツの国だけあって、椰子が多い。
この町の Mahila Mandiram school と Sea Shore Convent で、パドミニは学んだのだが、あいにくどちらも、もう存在していないようで見つけられなかった。 1932年生まれの人なのだから、しかたない。時の推移があったのだろう。
パドミニはプージャプラ生まれ、父は地主 landlord ということになっている。 見たところ同所は住宅地で、農業地帯ではない。 それともこの緑は、かつて椰子園ででもあったのだろうか。」
上述した建築サイトは10年後には画像リンクがなくなってしまった。上の画像はたぶんかなり郊外だろう。
現在の別の写真を挙げておく。

市の東部、 プージャプラの2km手前にある CV Raman Pillairoad の渣打銀行上空から都心を鳥瞰したものだ。市内そのものは開発もモータリゼーションも進み、木々は多いが雑然としていて椰子の都といった感じではない。
パドミニの伝記については2006年のThe Hindu の記事や Wiki 以上のものはあまりない。プージャプラは都心ではないが、 the heart of Trivandrum と呼ばれるようにかつては王が供犠(プージャ)をささげていた由緒ある地だ。町の中心を通るプージャプラ・メイン・ロードの真ん中あたりにイギリス式にサークル型のプージャプラ・ジャンクション(交差点)があり、それに面したSaraswathi Mandapam や寺院は祭りなどのとき賑わいを見せる。ティルヴァナンタプラム市の北部 Kollam にプージャプラ寺院があって、行者が体にフックを刺して吊られたりするが、プージャプラ町ではそんなことはない。
パドミニの家、マラヤ・コテージは1976年に取り壊されて、2006年の記事ではNABARD(国立農業農村開発銀行)の headquater になっているとあった。現在 NABARD の本部は都心にあるが、旧本部があったのだろう。 googleにはまだ本部としてプージャプラ Pathirapally Lane の旧住所が掲示されているが、マップからは特定できない。 交差点の北側300mほどのところで Pathirapally Lane はさらに300mほど北上する道だ。証言が正しければマラヤ・コテージはそのどこかにあったことになる。またジャンクション南側100mにはNABARDの garden がある。
マラヤ・コテージはマレーシアの材木業で富をなしたパドミニ姉妹の伯母一家が建てたもので、三姉妹の他にもスクマーリSukumari やアンビカAmbika など後に女優となる親族の子たちも育った大家族世帯 joint familyだった。ファミリーの子孫の回想では、マラヤ・コテージは 5-60人がおさまる規模の、市でいちばん大きな邸宅のひとつで、内部はシャンデリアや銀器で飾られていたという。インド映画によく出てくるような金持ちの屋敷だったのだろう。姉妹の中ではパドミニだけが一家の養女になっている。また10代でトラヴァンコール・シスターズとして活動を始めてからは、姉妹はマドラスに転居している。 伯母が芸事好きで子供たちに踊りを習わせたのがすべてのきっかけだったが、親族の男兄弟も後に映画製作者になっている。(以前、コテージで映画製作も行われたと書いたのはまちがい。)

左からラリタ、ラーギニ 、 パドミニ
かつての記事の修正をさらにつづけると、10年前は出身校の Mahila Mandiram school と Sea Shore Convent を見つけられなかったのだが、今になってサーチすると前者はプージャプラ交差点の北側メイン・ロード沿いに存在していた。コンヴェント(ミッションスクール)は市の西にコンヴェント・ロードの名があるが、プージャプラからも海岸からも遠い。クリスチャンの多いケーララだから、コンヴェントはいくらもあったろうし道路名だけでは候補として弱い。また14才からダンスのツアーに参加し、映画界入りしてからはマドラスに住んだので、Seashore Convent とのかかわりはそれほど濃くないと思う。
プージャプラをもう少し探ってみる。ジャンクションをはさんで寺の反対側にスネーク・パークがある。さすがインドだが、tube映像を見ると棒でつついたり崇敬というより虐待に近いあつかいを感じる。宗教的なものではなく、蛇慣れするための教習所ではないだろうか。メインロード北側には蛇寺 Nagarukavu があって、こちらではヴィシュヌの蛇が信者を集めている。 ティルヴァナンタプラムは神話の蛇アナンタにちなんだ聖蛇の街ではあるが、蛇の動物園はムンバイーやインドのあちこちにあるようだ。
Saraswathi Mandapam の隣の公園でのお祭りでは、ムルガンの神輿やナヴァラートリの縁日、灯のイヴェントなどさまざまな催しが通年で行われている。
世俗のニュースとしては、ジャンクション前でバイクにもぐりこんだ蛇を捕まえた事件がTVで流れていた。

プージャプラはトラヴァンコール姉妹以外にも映画関係者に縁がある。モーハンラールやプリトヴィラージの実家がここだ。プリトヴィラージはカラマナヤールKaramanayar 川沿いの St Mary's residential central school を出ている。モーハンラールの生家もそのあたりだ。Wikiだとプリヤダルシャン監督はこの町で生まれ育ったらしいが、具体的にはよくわからない。
パドミニが住んでいたといってもインド独立前のことで、70年以上たっている。だから相当昔とは変わっていると思うが、目抜き通りから少し外れればそれなりに過去をしのぶことはできそうだ。
市の不動産屋がtubeで物件を宣伝している。
蛇公園北300mほどのSpring Blossom School あたり。Mudavanmugal とあるのはまちがい。モーハンラール生地、プージャプラ東部の Mudavanmugal はこんな感じ。蛇公園南の Kesavan Nair Road。そこと Mudavanmugal にはさまれた Thamalam 。Thamalam の Karamanayar 川沿いに造成された宅地。 蛇公園東隣の歯医者 Peal White 近辺。ジャンクションから1.5 kmほど北にメインロードを行ったところにある Vijayamohini 工場あたりは裏手に映画館がある。
最初にこの記事を書いたときは映像にある Cent という単位を地価を示すものと考え、あまりの安さに感動していた。ところが Cent はケーララやタミルナードゥ特有の面積単位で 1/100エーカーを意味するものだった。1エーカーは 4047 平方米で、5セントは22平方米あたりになる。記事を読んで宅地購入に着手された方々におわびしたい。
あたりに生えているのはヤシで、google上空からでもわかるくらいだ。日本のケヤキやツバキのような具合にあちこち所帯の調度のように備わっている。しかし10年前に空から観た、林の中に家がある感じほどではない。開発が進んだということだろうか。売り物になった空き地には、かつてはもっと椰子が茂っていたのだろう。
地上に降り立つと椰子の木陰には芭蕉が寄りそっているのがわかる。Wikiの受け売りだとインドは最大のバナナ生産国で、エデンの園の知恵の木の実はバナナだったとの説があるようだ。
街中が実際どんな姿かは、空撮やドライヴ映像がふえて連続したイメージでわかるようになってきた。あいにくプージャプラ・メイン・ロードをとらえたものはないが、少しはずれた道筋から類推はできる。またティルヴァナンタプラムの全体像もおぼろにつかめるようになった。
まず空撮でランドマークを憶えておく。雑多な観光イメージだが中央駅の空撮がある映像。中央駅の北2kmにあり目印にしやすい チャンドラセーカラン・ナーイル競技場(通称ポリス競技場)Chandrasekharan Nair Stadium が見える。先の引用文でかかげた画像でもオレンジ色のスタンドが遠望できる。 競技場の空撮。南にマスジッド、東にキリスト教会、北に州議会とケーララ大学運動場をとらえている。ロゴの GiONEE は中国のスマホ会社だ。 さらに中央駅北口のビルから南、西、北とカメラを回��て見た眺め。Hotel Teekay palace と Deshabhimani pubrications のある Manorama road あたりになる。南の駅前側のほうが緑が多い。ティルヴァナンタムラムは海岸から30mほどの高台にあり、北に向かって標高が高くなっていく。
飛行機の離陸映像で線路南側地区や北西のテクノパークの様子がわかる。反対側は海だ。
バイク映像で地上の様子を探ると、駅南口の Kalady から線路を渡りプージャプラ南をかすめて Karamana川沿いに東行北行しプージャプラ東のPeyadに行く道筋。脇道脇道にそれていくので、宅地や椰子の事情がわかる。 ポリス競技場南のベイカリー陸橋Bakery flyover から東に進み、プージャプラの北にあたるMaruthamkuzhiにいたる走行。 さらに2009年の映像として、プージャプラ北の Sasthamangalam の様子もあげておく。
最近中国でタイムスリップものが流行り、これを「穿越」と呼ぶそうだ。70年の歳月を旅する手がかりとして、僭越ながら以上をプージャプラ詣での手引きとしたい。 最後に年代はバラバラだが昔のケーララの画像クリップをリンクしておこう。
下の画像は1930年代の駅南口で、Padmanabhaswamy 寺院を西から撮ったもの。

以下おまけで、現在のティルヴァナンタプラムの様子を紹介しよう。
バイクで 中央駅北4kmの Kowdiar はかつての王宮所在地で、そこから駅への道筋が市のメインロードとなっている。車も人も多くあまり近寄りたくないところではある。 Kowdiar から南下して ポリス競技場のある繁華な Palayam への道のり。同じく Kowdiar から脇道を通って東の Karamana へ。 市北西 Pattom から Palayam を経て Bakery junction へ。 対向車線を猛スピードで走り、コメント欄でもcrazyだのidiotだの罵られているライダーの投稿。北西郊外から Aakkulam road で都心へ。
バスで1、2 、3
1は駅西口から Mahathma Gandhi road を北上して ポリス競技場横のキリスト教会を過ぎ PMG road で Pattom に行く路線。マードゥリーの「サージャン」のヒット曲 dekha hai pehli baar が流れている。 2は西口からMahathma Gandhi road を南下して Kovalam 海岸へ行く路線。ドアの開閉が独創的だ。3も同じ路線。
リクシャAuto rikshaで。これも ポリス競技場脇の Mahathma Gandhi road を北上し CSI church で右折して LSM Vellayambaram road から Sasthamagalam road を経由。そこから Sasthamangalam Maruthankuzhi road でKilli 川の New Maruthankuzhi bridge まで。プージャプラの北にあたる。
さらに 市からインド最南端カンニャークマーリへのサイクリング。市内はとても自転車が住めた街ではないが、田舎は気持ちよさそうだ。
市からチェンナイへ列車の旅。北回りでバックウォーターが眺められる。西ガーツ山脈と東ガーツ山脈に沿っていく。
カンニャークマーリの手前まで南に下る列車。2つ目の踏切から先の左方向がプージャプラにあたる。
駅前南の古い商店街 Chalai 市場の人通り。夜のChalai。
南口 Pazhavangadi Ganapathy temple と Sree Padmanabhaswamy temple のあいだの East Fort のマーケット。Chalai に隣接している。
ポリス競技場横の Palayam Connemara market 。夜のChalaiと同じ撮影者で、機材が優秀だ。 Connemara market 前でフラッシュモブ。まだ消化不良だが、21世紀のパドミニはここらあたりから生まれるか。
駅周辺をうろつく観光客の自撮り。外国人禁制のヒンドゥー寺院に入りこんだり共産党の集会をのぞいたり好奇心の強い投稿者だが、長沙出身のヴァイオリン製作者でその人生はさらに波乱万丈だ。
さらにさらに これだけヤシが多いと実が落ちたらどうなるかが気になる。豪州には Death by coconut(Wiki) という都市伝説まである。しかし記事を読んで、ココナツは見かけと違って重さ1kgしかないことがわかった。よほど当たりどころが悪くないかぎり、死にはしないだろう。
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親日国一覧 あまり知られていない?!~親日国一覧とその理由 世界には日本人が思っている以上に、日本や日本人に対して好感をもってくれている人々がたくさんいます。「親日」といわれる代表的な10か国をご紹介しましょう。 台湾 日本人にとって最も身近な親日国が台湾。実は日本と台湾は正式な国交を結んでいませんが、台湾の街には日本のファッションや食文化があふれ、一方の日本でも台湾旅行が大人気と、民間レベルでは���密な関係にある両国。 台湾の親日の背景には日本による統治があります。1895年から第二次世界大戦の終結までのおよそ50年間、台湾は日本によって統治されました。日本人の高慢な態度に対する批判もありましたが、後になって、現地の教育やインフラ整備などに多額の予算を費やした日本の統治のあり方に対する評価が高まりました。 東日本大震災のとき、世界で一番多く寄付金を贈ってくれたのも台湾です。台湾の物価、国土、人口を考えると驚きです。ですが、あまりメディアでは報じられまかったのも悲しい事実です。 モンゴル 日本ではあまり知られていないのがモンゴルの親日ぶりでしょう。東日本大震災に際しては、モンゴルの国家公務員全員が給与1日分を義援金として寄付したほどです。 モンゴルが共産主義から脱却する際に日本が援助を行ったことや、その後も日本のODAによって経済発展したことが大きく報道されていることもあって、日本に恩を感じている国民は少なくありません。また、近年ではモンゴル出身の力士が日本で活躍していることも、モンゴルの人々が日本に親近感を抱く要因のひとつになっています。 インドネシア インドネシアが親日国と言われるようになった最大の理由は、日本人がオランダによるインドネシアの再植民地化を防ぐ手助けをしたこと。 インドネシアは約340年間にわたるオランダによる植民地支配と、日本による1945年までの3年間の統治の後、独立を宣言します。しかし、オランダが再度インドネシアを植民地化しようとしたため、再び独立戦争が勃発しました。そこでインドネシアとともに戦ったのが軍籍を離脱した日本人約3000人。その甲斐あって、1947年にインドネシアは悲願の独立を果たしたのです。 また、「インドネシア建国の父」として国民に慕われているスカルノ元大統領が大の親日家であったことも影響しているのではないかといわれています。 パキスタン 紛争やテロといった危険なイメージばかりが先行しがちなパキスタンですが、実は大のつく親日国というのをご存知でしたか?パキスタンを走る車の9割が日本車で、「日本が大好きだから」と、車体に日本語で文字を書く人もいるほどです。 パキスタンの人々が日本に好意をもつようになった背景は、第二次世界大戦後の両国の関係にあります。1950年代、パキスタンが特産の綿花を日本に輸出していたために、日本の商社マンが頻繁にパキスタンを訪れたり、パキスタンへの投資が行われたりするようになりました。人々は、それがパキスタンの発展につながったことを今でも心にとめているのです。 パラオ 世界遺産のロックラグーンを擁する太平洋の楽園、パラオ。「ダイジョウブ」、「オカネ」といった日本語がパラオ語となって日常的に飛び交っており、独立記念日のパレードには日本の神輿が登場するほど日本とのつながりの深い国です。 パラオは1914年からおよそ30年にわたって日本の委任統治領でした。パラオはスペインやドイツによる苛烈な支配も経験しており、それら西欧諸国の統治とは違って、教育やインフラ整備に力を入れた日本統治時代は、パラオの発展に貢献したと考えられているのです。 パラオの親日ぶりがうかがえるのがその国旗。「月章旗」と呼ばれる国旗は、日本の日の丸にちなんだものとされています。 ポーランド ポーランド人が日本に親近感を抱くようになったのは、日本がポーランドの孤児を支援したことがきっかけです。 ポーランドが長くつらい分割時代から独立を果たした1919年、当時のシベリアでは親を失った子どもたちが劣悪な環境のなか苦しい生活を余儀なくされていました。孤児たちの支援のために結成されたポーランド救済委員会は欧米諸国に援助を求めましたが、芳しい結果は得られず、最後の頼みの綱が日本でした。日本政府は援助の要請からわずか17日後に孤児の支援を決定、1920~1922年のあいだに計765名の孤児たちが日本に渡り手厚い保護を受けたのち、祖国に帰っていきました。 ポーランドの人々はそんな日本の善意を忘れることはなく、阪神大震災の後には被災児60名がポーランドに招かれ歓待されたというエピソードが残っています。 フィンランド 「ヨーロッパ一の親日国」といわれることもあるフィンランド。その理由は旧5千円札の肖像に使われた偉人、新渡戸稲造にありました。当時国際連盟の事務次長だった新渡戸稲造は、フィンランドとスウェーデンのあいだで起こっていたオーランド諸島の領有権争いを画期的な方法で解決したのです。住民は「この島に平和をもたらしてくれた」と彼を尊敬しているんだそうです。 マケドニア (復興後の写真) 「マケドニア」という国名を聞いても、それがどこにあるのかわからないという方も多いのではないでしょうか。マケドニアはバルカン半島の内陸に位置する小国で、周囲をセルビア、ブルガリア、ギリシャ、アルバニア、コソボに囲まれています。 1963年、マケドニアの首都スコピエを大地震が襲います。市内の建物の75パーセントが倒壊するという甚大な被害を被った街の再建を請け負ったのが、建築家の故・丹下健三氏を中心とする日本チームでした。それを学校で習うこともあって、多くのマケドニア人は日本人がスコピエの復興に尽力したことを知っているのです。 なかでも中央駅は復興のシンボルで、再開発が進むなかでも「タンゲが造った」姿のまま残されることが決まったんだそうです。 ブラジル およそ150万人という、世界でも最大規模の日系人居住地となっているブラジル。ブラジルが親日といわれるようになったのは、日本がまだ貧しかった1900年代初頭にブラジルに移住した日本人が、規律正しさや勤勉さによってブラジル社会で信頼を勝ち取ったおかげです。 国内に日系人が多いことから、日系人と接する機会があり、日本や日本に対し親近感を抱くようになる人も少なくないようです。 トルコ トルコが日本に好意を寄せるようになった原点が、1889年に起きたエルトゥールル号事件。トルコが明治政府に派遣した親善使節を乗せた船、エルトゥールル号が和歌山沖で台風に遭遇して沈没してしまいます。和歌山住民の必死の救援活動により69名の乗員が救助され、明治政府は彼らを祖国まで送り届けました。この一連の対応によりトルコにおける日本の評価は一気に高まったのです。 イラン・イラク戦争中の1985年には、トルコ航空が危険を顧みずテヘランに残された200名以上の在留邦人の救出に動きました。この特別な計らいに対し、当時の駐日トルコ大使は「エルトゥールル号の借りを返しただけです」とコメントしました。およそ100年も前の恩を忘れないトルコの人々の義理堅さには胸が熱くなりますね。 2015年には、日本とトルコの友好125周年を記念して、日本とトルコの絆をテーマにした日本・トルコ合作映画「海難1890」が公開されるなど、両国の友好の歴史は今も続いています。 まとめ 昔の日本人が誇らしい行動・態度を世界で示してくれたかこその今の日本なのだと思います。実際、反日の国もあります。しかし、日本製品の質の高さ、日本人の美徳は海外に誇れるのではないでしょうか。日本人の一人として、恥じないよう私たち旅人は意識していきたいところです。 転載元: うーさんのバラ&田舎便りとトピックス 経由: [転載]あまり知られていない?!~親日国一覧とその理由 — 脱脂粉乳世代
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宇佐神宮 下宮 上宮建立から100年後、第52代嵯峨天皇の勅願によって創建し、宇佐神宮御祭神の分霊が祀られ、上宮と同様に三殿建ちます 古くは御炊殿だったようですが上宮は国家の神として民衆は参拝を制限されていて、下宮に庶民が参拝したと伝わります また同一境内に同じ神様を祀る宮があるのは全国でも珍しいです 本殿遷座祭の際は下宮が仮殿となり遷座の際は神輿に奉戴されるので、当宮が神輿発祥の神社として知られています #宇佐神宮 𑁍𑁍𑁍𑁍𑁍 宇佐神宮(うさじんぐう) 鎮座地:大分県宇佐市南宇佐2859 主祭神:応神天皇、比売大神、神功皇后 社格:式内名神大社 官幣大社 勅祭社 神宮号 別表神社 巡拝:諸国一宮 一代一度大神宝奉献 𑁍𑁍𑁍𑁍𑁍 #神社 #神社巡り #神社好き #神社好きな人と繋がりたい #神道 #神社仏閣 #shrine #shinto #日本の風景 #参拝 #神社巡拝家 #recotrip #御朱印 #御朱印巡り #御朱印好きな人と繋がりたい#神社建築 #神社仏閣 #パワースポット #大分県 #宇佐市 (宇佐神宮) https://www.instagram.com/p/CpITwyuv9kj/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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庄原の神社巡りをしていて近くを通りがかった比和山八幡神社 庄原を十数社巡って社務所が開いてる神社が皆無の中で拝殿全開、氏子さんと神職さんが直会されてました その最中に参拝しましたが、神様に拝んでいるのか氏子さんを拝んでいるのかよくわからないかんじで神職さんや氏子さんに会釈をしながら二拝二拍手一拝 すると御大が立ち上がって「どうしてこちらへ」とお声を掛けてくださいまして「なにかお祭りがあったのですか?」と尋ねると総代の集まりで来週のお祭りの打合せを兼ねて飲んでいるとのこと 総代さんによれば「11月3日の秋祭りは氏子さんが烏帽子と白装束をまとい神輿を担いで行幸される様が珍しく遠くからも見に来られる方が多いとのこと、ぜひまた来てください」とおっしゃってくださいました 氏神神社においては僕はただのよそ者、お声がけくださって大変恐縮だったんですけども、その御縁に感謝し失礼しました しかしながらその後調べてもとにかく庄原の神社の情報があまりに少なくてこのお祭りのことが何もわからず、それでは秋祭りはぜひ見に行くしかないなと思った次第です 庄原は古代吉備と出雲の要衝の地で歴史も深く、ほぼ知られていない小さな神社においても深い由緒があったりします そういう発見が神社巡りの面白いところなのですが、こういった地元の方の温かみを感じたり、また神社を守り維持してくださっている氏子さんに感謝を含めて何か自分もできないかなと思うところです 氏子さんもお守りくださる神様、そう思った参拝でございました さてこちらの庄原市比和町に鎮座する��和山八幡神社ですが背後にある伊邪那美命が眠るとされる霊山比婆山の神陵を祀るため建立し比婆宮と称した千年を超える古社��のこと 戦乱の世に八幡三神を祀り日和八幡、火矢八幡と称しましたが明治に入り比和山八幡神社と改称して八幡三神と仲哀天皇、伊邪那美命を御祭神としています #比和山八幡神社 ┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈୨୧┈┈┈┈┈┈┈┈┈ 比和山八幡神社(ひわやまはちまんじんじゃ) 鎮座地:広島県庄原市比和町比和649 主祭神:足仲彦命、気長足姫命、誉田別命、比賣神、伊邪那美命 ┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈୨୧┈┈┈┈┈┈┈┈┈ #shrine#神社#神社巡り#神社好きな人と繋がりたい#神社好き #japan_vacations#japantrip#Travelgram #神社フォトコンわたしと神社#神社とわたしの思い出 #鳥居 #神社建築 #神社仏閣#パワースポット#庄原市#庄原市比和町 #神社巡拝家 (Shobara, Hiroshima) https://www.instagram.com/p/CcS6xMIPgca/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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隣町のお祭りへ。 地元は明日です。 影祭りなので、大人神輿は出ませんが… #スタジオエイチ #studioeichi #architect #architecture #学生建築家 #子育て建築家 #祭好き建築家 #神輿好き建築家 #お天王様 #素盞嗚神社 (素盞雄神社)
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