#続・さらばわが友-実録・死刑囚たちの性
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anamon-book · 2 years ago
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続・さらばわが友-実録・死刑囚たちの性 K・O トクマドキュメントシリーズ 徳間書店 装幀・イラスト=斎木磯司
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takahashicleaning · 1 year ago
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TEDにて
ケイド・クロックフォード:顔認証による大衆監視について知る必要のあること!
(詳しくご覧になりたい場合は上記リンクからどうぞ)
「プライバシーは、死んでいませんが、顔を監視する技術によって、プライバシーが、殺されるかもしれません」と市民権擁護活動家であるケイド・クロックフォードは言います。
この目を見張るトークでケイドは、不具合の多い顔認識データベースにより、人々の行動を知らないうちに捜査令状なしに追跡するという侵害性の高い技術が、基本的人権に対する未曽有の脅威をもたす理由を説明します。
捜査令状は、警察権力暴走のための歯止めにもなります。
独占禁止法の強化。個人的な所得年収保障、プライバシーの保護強化や基本的人権の尊重が、より重要になってきます。
行政府や法人の使用を禁止するために何ができるのか、手遅れになる前に学んでください。
日本は、まだ間に合います!!世界史に刻まれる政治家となるでしょう。
警察予算に賠償金を請求できる仕組みの構築で低収入者に抑止する権利も同時に構築することで
日本の戦前の悪法!治安維持法を抑止する効果もありそうです。
EUのAI規制のように、リスクを四段階に分類制限して整備することも最大限強化できます!!
特に、捜査用監視システム。ストーカーアルゴリズムの危険性を警告しています。無名の低収入の庶民も警察機関に興味本位で突然ストーカーされる可能性が高いそうです。
現実に起こっているデジタル版パノプティコンの最先端2020を詳しく説明します。
必見です!!
Apple製品は、プライバシー強化に取り組んでるので、今のところは安心できます。
「プライバシーは死んだ」と言うのを聞いたことのある人は?手を挙げてみてください!
「別に隠すことはないから、プライバシーなんて気にならない」はどうでしょう?さあ、手を挙げてください
暗号化ソフトを、何か使っている人は?
手を挙げてください。ユーザーアカウントを保護するためにパスワードを設定している人は?
自宅の窓にカーテンやブラインドを掛けているという人は?
それは皆、そうですよね。
なぜ、そうするのでしょう?
私が思うにプライバシーを気にしているからでしょう。
「プライバシーは死んだ」なんて嘘です。
「別に隠すことはないから悪いことは、何もしていないからプライバシーなんて気にならない」
それも嘘です。
ネットに個人的なことを公開して世界中の人に、見られたくはないですよね。例えば、自分の全診療記録とか携帯やパソコンからの検索履歴とかです。
断言しますが、もし、行政府が全国民の脳にチップを埋め込み、行政府の中央コンピュータに国民の考えが全て送信されるようにしようとしたら皆さん、嫌な顔をするんじゃないでしょうか。
それは、人間誰しもプライバシーを気にするものだからです。
現代社会は急速に変化してきました。
こんにち、プライバシーとは何か?
なぜ重要なのかについてかなり混乱があるのも無理はありません!プライバシーとは、秘密にするということではなく、どう管理するかということです。
私が、自分の身体や健康状態に関する情報を医者に提供する際、先生がその情報を私の親や、上司や子どもたちに許可なく勝手に言いふらさないことを期待します。
それはプライベートな情報であり、秘密というわけではありません。その情報の共有の仕方は、私が管理しているのです。
勝手に使う権利は他人にありません!私のみです!
「プライバシーと安全性は、根本的に対立している」という���を聞いたことがあるかもしれませんが、プライバシーを向上させる技術は、安全性も向上させるのです。
例えば、フェンス、ドアロック、窓のカーテン、パスワード、暗号化ソフトなど。これらの技術は、プライバシーと安全性を同時に守ります。
一方で、警察の捜査用監視システムは、���ずれも保護しません!!(日本はもっと最悪です!みんなで声をあげましょう)
近年、連邦政府は、専門家グループであ、「プライバシー・市民自由監視委員会」に9・11後の政府による様々な警察��捜査用監視プログラムについて検証させましたが・・・
捜査用監視システムによって安全性が高まった例を1つとして発見できず、特定・阻止できたテロ攻撃も1つもありませんでした(日本はもっと最悪です!みんなで声をあげましょう)
その情報が何に役立ったか分かりますか?NSA職員が、気になる子を付け回すのには役立ちます(日本はもっと最悪です!みんなで声をあげましょう)
もっと生活に身近な例もあります。アメリカや世界の何百万人が「Apple以外のスマートホーム」ということでネット接続された監視カメラみたいな装置を設置しています。
しかし、ご存じのようにインターネットに接続されたものは何でもハッキングされる可能性があります。だから、もしハッカーが、皆さんのお宅のネット接続された監視カメラに侵入すると家族全員の出入りの様子から襲撃すべきタイミングまで分かります。
遠隔からハッキングできないものが、何かわかりますか?
アナログのカーテンです。
アナログのフェンスです。ドアロックです。
プライバシーは、安全性の敵ではありません、安全性を保証するものです。
にもかかわらず、日々、監視プログラムが、もたらす安全性と引き換えにプライバシーをある程度、犠牲にしなければならないという宣伝攻撃に晒されています(Apple以外)
顔の監視が、これらの技術の中で最も危険です!!
こんにち、行政府がこの技術を使う主な2つの方法があります!!
日本の警察は既に使用?説明していません!!
1つは、顔認識で画像中の人物を特定します。
もう1つは一斉に連携して使える顔の監視です。監視カメラ網やデータベースを使って公共の場における人々の活動や習慣や交友関係をすべて録画して実質的にデジタル版の「パノプティコン」を作り出します。
これがパノプティコンです。
中央にいる数人の看守で外周上の監房内の様子をすべて監視できるように設計された刑務所です。監房にいる囚人からは、看守室の内部は見えませんが、看守からは監房内の隅から隅まで監視できます。
ここでのアイデアは、監房にいる囚人が、常時監視されている可能性があると分かれば、結果的におとなしくなるというものです。同様に、顔の監視によって中央権力が!この場合、国家ですが、公共の場における人の動きや関係などを総合的に監視できるようになります。
現実には、こんな感じです。この場合、看守室の看守ではなく監視センターにいる警察の分析官が行います。刑務所が壁を越えて広がり、誰もが、どこにいても常時、囚人となります。
自由社会において、このようなことは、みんな恐れてしかるべきです。
ここ何十年も私たちは顔監視のような技術が、公共の利益となるという筋書きの刑事ドラマを見てきましたが、現実は刑事ドラマとは違います。
ここが重要で悪事を働くのは悪者に限らず、警察がいつも正しいわけでなく、技術が常に機能するとは限りません!!
スティーヴ・タリー事件を見てみましょう。タリーはコロラド州出身の金融アナリストで、2015年、銀行強盗の容疑で逮捕されましたが、顔認識システムの誤りによる誤認逮捕でした。
タリーは裁判で戦い最終的に無実が証明されましたが、拘留されていた間にタリーは家も仕事も子どもも失いました。スティーヴ・タリー事件は、テクノロジーが誤るとき何が起こるかを示す例です。
でも、顔の監視は、ちゃんと機能しても同じくらい危険です。公共空間では全面禁止にすべきです。
アルコール依存者更生会の会場の外に行政府機関が、監視カメラを設置するのが、いかにありそうなことか考えてみてください。顔の監視用アルゴリズムやデータベースにカメラを接続して、ただボタンを押せば椅子に座ったままでアルコール依存症治療を受ける人の記録が集まります。
この技術を使えば、行政府機関は同じくらい簡単にウィメンズ・マーチやブラック・ライヴズ・マターの抗議集会参加者を全員自動的に特定できます。
テクノロジー業界でさえ、この問題の重大さに気付きマイクロソフト社長のブラッド・スミスは、議会に介入を要求しました。この件でグーグルは、顔を監視する製品を出さないことを公に宣言しました。
Apple以外の法人は未だに・・・?
基本的人権や市民権に対する大きな懸念があるためです。それは良いことです。
究極的には、企業の利益よりも開かれた社会を守る方が、遥かに重要だからです。
米国自由人権協会の全米キャンペーンは、この危険な技術を行政府が採用することに歯止めをかけることを目的とし、有識者からの理性的な議論を促しています。
この技術を特に危険たらしめるのは何か?
なぜ、単に規制できないのか?
要は、なぜ警戒するのか?
顔の監視は、関連した2つの理由により独特の危険があります!!
1つ目は、技術自体の特質です。
2つ目は、私達が制度として監視と説明責任の仕組みを欠いていることで、これは政府の思うままに悪用されないようにするため必要なものです。
1点目、顔を監視することで以前は不可能だった総合的な監視が可能になります。市民の誰であれ友人宅や官庁や礼拝所や家族計画連盟や大麻販売所やストリップ劇場に行くたびに
その人の公の活動や習慣、交友関係が、ある1日だけでなく毎日記録・分類されることになります(TV��やマスメディア、有名人、権力者は濫用抑止のため高い透明性が必要なのでこっちは監視を強化)
ただボタンを押すだけで、このような総合的な国民の監視は、自由社会に生きることの意味や言論の自由や結社の自由や宗教の自由や報道の自由やプライバシーや独りになる権利を根本的に脅かします
でも、思いますよね「なるほど、でも、行政府が国民を見張る方法は無数にある」と確かにそうです。行政府は携帯電話(日本はドコモが警察に本人の許可なしで提供してます)で
国民を追跡できますが、もし中絶手術を受けたかったり政治集会に参加したかったり病欠の連絡をしてサボってビーチに行きたい場合はどうでしょう?
携帯なら自宅に置いて来られますが、自分の顔だとそうもいきません。
そして、そのことが2点目に繋がります。この技術をいかに有効に規制できるのか。現在は、私の先週の行動を行政府が知りたいからとタイムマシンで過去に行って追跡することはできません。
また地元の警察も現時点では、常時、各人の公の動きを追跡し、いつかその情報が、役立つかもしれないからと保持しておくような集中管理システムは持っていません。持つのは憲法違反だから。
今日、もし政府が私の先週・先月・去年の行動を知りたければ、裁判所で令状を得たうえで私の携帯会社に令状を送達しなければならず、携帯会社は私のプライバシーを守る経済的動機があります。
顔の監視には、そんな制限はありません。
この技術は、行政府が100%管理します。このような状況では、令状の要件が、どう機能するのでしょうか?
行政府が裁判所へ行って令状を取ってから、令状を自分に送達するのでしょうか?
それでは、誰かに自分の日記を渡してこう言うようなものです「私の日記を持っていていいけど、私がいいと言うまで読んじゃ駄目だからね」と。
では、何ができるのか?
行政府が顔の監視技術を使用することでもたらされる危険に対する唯一の打開策は、国民の信頼を裏切る力を行政府に持たせないことです!!
行政府が自前で顔監視システムを構築できないようにすることです。抑止する権利を低収入者に与えることも重要。
それが、まさに私たちの行っていることです。米国自由人権協会は、全米キャンペーンの一環として行政府が、この危険な技術を使用しないよう歯止めをかけようとしています。
既に一定の成功を収めていてサンフランシスコやマサチューセッツ州サマービルで行政府がこの技術を使用することを禁止する条例を通しました。
ここマサチューセッツ州や米国各地の多くのコミュニティが類似の法案を審議しています。
この運動は失敗する運命にあると言う人もいます。結局のところ、技術は存在するのだからあらゆる状況の中であらゆる場所のあらゆる行政府が、配備することになるだろうと。
プライバシーは死んだのだと。そういう人もいます。私は断じて認めませんし、皆さんも認めてはいけません。私たちは、ジェフ・ベゾスやFBIに21世紀における自由の限界を決めさせるわけにはいきません。
民主主義国家で暮らしているのなら私たちに主導権があり、私達が未来を権利を作るのです。
私たちは今、岐路に立たされています。普段通りに生活を続け、この技術を行政府が無制限にコミュニティ、道路、学校に導入・配備するのを許すのか。
あるいは、今大胆な行動をとって行政府の顔監視技術の使用に歯止めをかけプライバシーを保護し、私たちみんなにとってより安全で自由な未来を構築することもできるのです。
ありがとうございました。
(個人的なアイデア)
さらに・・・
勝手に警察が拡大解釈してしまうと・・・
こんな恐ろしいことが・・・
日本の警察は、2020年3月から防犯カメラやSNSの画像を顔認証システムで本人の許可なく照合していた!
憲法に完全違反!即刻停止措置をみんなで要求せよ。
日本の警察の悪用が酷いので、EUに合わせてストーカーアルゴリズムを規制しろ!
2021年に、EU、警察への初のAI規制案!公共空間の顔認証「原則禁止」
EUのAI規制は、リスクを四段階に分類制限!
禁止項目は、行動や人格的特性に基づき警察や政府が弱者個人の信頼性をスコア化や法執行を目的とする公共空間での顔認識を含む生体認証。
人間の行動、意思決定、または意見を有害な方向へ操るために設計されたAIシステム(ダークパターン設計のUIなど)も禁止対象にしている。
禁止対象の根拠は「人工知能が、特別に有害な新たな操作的、中毒的、社会統制的、および、無差別な監視プラクティスを生みかねないことは、一般に認知されるべきことである」
「これらのプラクティスは、人間の尊厳、自由、民主主義、法の支配、そして、基本的人権の尊重を重視する基準と矛盾しており、禁止されるべきである」
具体的には、人とやり取りをする目的で使用されるAIシステム(ボイスAI、チャットボットなど)
さらには、画像、オーディオ、または動画コンテンツを生成または操作する目的で使用されるAIシステム(ディープフェイク)について「透明性確保のための調和的な規定」を提案している。
高リスク項目は、法人の採用活動での利用など違反は刑事罰の罰金を売上高にかける。
など。他、多数で警察の規制を強化しています。
前提として、公人、有名人、俳優、著名人は知名度と言う概念での優越的地位の乱用を防止するため徹底追跡可能にしておくこと。
人間自体を、追跡すると基本的人権からプライバシーの侵害やセキュリティ上の問題から絶対に不可能です!!
これは、基本的人権がないと権力者が悪逆非道の限りを尽くしてしまうことは、先の第二次大戦で白日の元にさらされたのは、記憶に新しいことです。
マンハッタン計画、ヒットラーのテクノロジー、拷問、奴隷や人体実験など、権力者の思うままに任せるとこうなるという真の男女平等弱肉強食の究極が白日の元にさらされ、戦争の負の遺産に。
基本的人権がないがしろにされたことを教訓に、人権に対して厳しく権力者を監視したり、カントの思想などを源流にした国際連合を創設します。他にもあります。
参考として、フランスの哲学者であり啓蒙思想家のモンテスキュー。
法の原理として、三権分立論を提唱。フランス革命(立憲君主制とは異なり王様は処刑されました)の理念やアメリカ独立の思想に大きな影響を与え、現代においても、言葉の定義を決めつつも、再解釈されながら���論されています。
また、ジョン・ロックの「統治二論」を基礎において修正を加え、権力分立、法の規範、奴隷制度の廃止や市民的自由の保持などの提案もしています。現代では権力分立のアイデアは「トリレンマ」「ゲーム理論の均衡状態」に似ています。概念を数値化できるかもしれません。
権限が分離されていても、各権力を実行する人間が、同一人物であれば権力分立は意味をなさない。
そのため、権力の分離の一つの要素として兼職の禁止が挙げられるが、その他、法律上、日本ではどうなのか?権力者を縛るための日本国憲法側には書いてない。
モンテスキューの「法の精神」からのバランス上、法律側なのか不明。
立法と行政の関係においては、アメリカ型の限定的な独裁である大統領制において、相互の抑制均衡を重視し、厳格な分立をとるのに対し、イギリス、日本などの議院内閣制は、相互の協働関係を重んじるため、ゆるい権力分立にとどまる。
アメリカ型の限定的な独裁である大統領制は、立法権と行政権を厳格に独立させるもので、行政権をつかさどる大統領選挙と立法権をつかさどる議員選挙を、別々に選出する政治制度となっている。
通常の「プロトコル」の定義は、独占禁止法の優越的地位の乱用、基本的人権の尊重に深く関わってきます。
通信に特化した通信プロトコルとは違います。言葉に特化した言葉プロトコル。またの名を、言論の自由ともいわれますがこれとも異なります。
基本的人権がないと科学者やエンジニア(ここでは、サイエンスプロトコルと定義します)はどうなるかは、歴史が証明している!独占独裁君主に口封じに形を変えつつ処刑される!確実に!これでも人権に無関係といえますか?だから、マスメディアも含めた権力者を厳しくファクトチェックし説明責任、透明性を高めて監視しないといけない。
今回、未知のウイルス。新型コロナウイルス2020では、様々な概念が重なり合うため、均衡点を決断できるのは、人間の倫理観が最も重要!人間の概念を数値化できないストーカー人工知能では、不可能!と判明した。
複数概念をざっくりと瞬時に���値化できるのは、人間の倫理観だ。
そして、サンデルやマルクスガブリエルも言うように、哲学の善悪を判別し、格差原理、功利主義も考慮した善性側に相対的にでかい影響力を持たせるため、弱者側の視点で、XAI(説明可能なAI)、インターネット、マスメディアができるだけ透明な議論をしてコンピューターのアルゴリズムをファクトチェックする必要があります。
<おすすめサイト>
ロジェカイヨワ戦争論と日本の神仏習合との偶然の一致について2019
グレン・グリーンウォルド: なぜプライバシーは重要なのか!
ニコラ・スタージョン:行政府が低収入者へのウェルビーイング(幸福度)を最優先するべき理由
ジーナップ・トゥフェックチー: ネット広告アルゴリズムの仕組みが拓くディストピアへの道
クリストファー・ソゴイアン: あなたが使うスマートフォンは人権問題である!
<提供>
東京都北区神谷の高橋クリーニングプレゼント
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mninmt · 1 year ago
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ロブ=グリエの映画について
いつだったか��ーヴォー・ロマンについて冊子を作ろうと思っているという話を友人から持ち掛けられて、それならロブ=グリエの映画なら観ているからと紹介文を書いたのだが、残念ながらその件はなくなってしまったらしい。せっかく書いた文章なので載せたい。
『不滅の女』 "L'immortelle"(1963)
異国情緒溢れる音楽と叫び声から始まる、その時点で、なんだかこれからすごい映画が観られそうだ!と思わずにはいられない。メーキャップのはっきりとした、目力の強い女性(フランソワーズ・ブリヨン)が、まるで“死んでいる”かのように横たわっている。窓際でじっと外を眺める主人公(ジャック・ドニオル=ヴァルク)は終始、目に光がない。斜めの線が意識されたような完璧な構図と柱のように立っている人々。またその人々の視線を再現するようにゆっくりと横移動するカメラワーク。何度も同じようなシーンが差し込まれるように思えるが、すこしずつどこかが異なっている。ジャンプカットで物語はどんどん進んでいくが、時系列はめちゃくちゃで、今まで観ていたものはいったいなんだったんだろう…?と思わず頭を抱えてしまう。響く虫の鳴き声と、船のエンジンの連続音が不穏な雰囲気をかもしだす。“夢に見たトルコ”で起こしてしまった事故に憑りつかれ、妄想を続けるうちに、主人公は女性と自分を重ねてしまったようだ。終盤、窓にカメラが近づくシーンで、主人公の視線(主観)がはじめてカメラワークによってあらわされ、映画を観ている私たちも主人公と重なり、もうこの物語から引き返せなくなるのだ。
“夢に見たトルコ”…ボイスオーバー「夢に見たトルコで 異邦人のあなたはさまよう 偽の監獄や要塞に デタラメな物語 もう引き返せない 逃げようとしても偽の船しかない」
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『ヨーロッパ横断特急』 "Trans-Europ-Express"(1966)
題名の通り、ヨーロッパ横断特急に乗り込んだ一行は、同じく乗り込んでいたジャン=ルイ・トランティニャン(本人役)を主人公に、ノワールものの映画製作をしようと、脚本をレコーダーに録音している。あらすじはさておき(!)、こんな格好いい映画を作れるんなら、こういうのずっと作ってよ!と思ってしまうほどには、ロブ=グリエ節が他の作品より薄め(といっても拘束趣味は全開)である。前作の『不滅の女』の東方正教会やモスク、脚本した『去年マリエンバートで』での洋館のように、本作においてもそういった、ある種、荘厳なロケーションでのシーンはお得意であるものの、匿ってくれるギャルソン(ジェラール・パラプラ)の部屋の窓や、パリ東駅というロケーションは、少年らしさ(また少年たちの憧れる格好よさ)を感じられて楽しい。ラストのチャーミングさも必見。
以下余談ーー。
昔は一番つまんないよ~と思っていた作品であったものの今は一番面白いと思えて、当時ロブ=グリエの映画作品の物語の大半を、わけが分からないまま、だけれど映像のアバンギャルドさやエロティックな雰囲気を楽しんでいたものを改めて観て、しつこいくらいに趣味嗜好を提示され、こんなんばっかやな…と思っていた時に、本作はその"ロブ=グリエ節"が抑えられていて、より一層のこと面白く観たのだった。
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『嘘をつ��男』 "L'homme qui ment"(1968)
同時期の日本には、勅使河原宏が阿部公房の小説を映画化したものがいくつかある。それらの音楽(ほぼ効果音といってもよい)は現代作曲家の武満徹が担当しており、非常に特徴的なものとなっているが、ロブ=グリエの作品の多くもミシェル・ファノという作曲家が担当していて、その音響効果が非常に絶大なものになっているという点で、勅使河原の作品たちを思い起こされた。また酒場のシーンで、客達がカメラ目線で次々と話す様子は、ドライヤーの『裁かるゝジャンヌ』を彷彿とさせ、常連の集まるただの酒場が裁判所にでもなったかのように、観ているこちらを緊張させる。そして女性をオブジェクトとしてしか扱わない、(ロブ=グリエの)大好きな目隠し遊びのシーンの長いこと長いこと…。
本作品は主人公(ジャン=ルイ・トランティニャン)の語りで映画が進んでいくので、他の作品よりも物語がわかりやすくはあるのだが、タイトル通り“噓をつく男”の語りであるので、わかったところで…という気持ちにはなってしまう。村の英雄ジャン・ロバン(Ivan Mistrík)の親友ボリス・ヴァリサだと彼は名乗るが、誰も信じちゃいないし、映画の途中でボリスの名の書かれた墓が写っていたり、知っているはずの医者に、初めましてと言ったりする始末。噓をつきながら多くを語るこの男が、結局のところ何者なのかはまったく明かされず、最初のシーンへ戻るこの無理矢理な円環構造に驚くだろう。
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『エデン、その後』 "L'Eden et après"(1971)
始まった瞬間から赤青白…とゴダールの『メイド・イン・USA』や、小津の『お早よう』のように、色彩による主張が眩しい。主人公のヴィオレット(カトリーヌ・ジュールダン)のファッションが絶妙で、白シャツに黒のセーター、プリーツのミニスカートは赤を選びたくなりそうなところを青に。それと黒のロングブーツを履きこなしており、非常に可愛く参考にしたいのだが、ペイズリーのサテンワンピースは、それで街歩くの!?とびっくりするくらい短い。下着の赤い色にも、この作品の色のこだわりを感じるほどだ。そして、ギャルソンでさえも迷いそうな、モンドリアンルックで、幾何学的な雰囲気のカフェ、エデン。ヴィオレットたち演劇サークルはここをたまり場にしており、センセーショナルだが、ほぼお遊びのような演技をして暇をつぶしている。もしこんなお洒落な(可笑しな)コンセプトのカフェがあるのなら(襖みたいに壁が稼働したり、鏡張りだったり)、絶対にくつろげる雰囲気ではないので、演劇を試みるにはもってこいの場所だろうから、たまり場になるのもわかる。中盤の巨大工場のシーンも含め、観ているうちに『エデン、その後』“ごっこ”がしたくなっていく(!)。
一体、どこからどこまでが彼らの妄想で、演劇の設定で、“幻覚”なのか“現実”なのか、果たして謎の男Duchemin(ピエール・ジマー)の生死は?作中の「エデンとその客達がそう見せかけているのか」という言葉通り、あれさっきみたような…というシーンやモチーフが回収されていきラストに繋がる、ミステリー/ドラッグ/トリップムービー!
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『快楽の漸進的横滑り』 "Glissements progressifs du plaisir"(1974)
快楽の漸進的横滑り(ぜんしんてきよこすべり)。いちばん口に出して言いたい邦題。当時はこの邦題の意味の分からなさと単語そのものが魅力的で、早く観たくて仕方がなかったものの、年代の古い順に観るくせがあり、わざと後回しに、5作品目でやっと観たとき、初っ端からロブ=グリエの大好きなモチーフたちがたたみかけられ、興奮したのを覚えている。今回改めて観ると、その露骨さには思わず笑ってしまった。“主題は割れた瓶”だという始末。他の作品にも再三使用されている、登場人物たちがカメラ目線で正面を向き、首を横に振ったのち、また正面を向くといったようなカットの他に、本作には手による表現も追加されており、その点は目新しさを感じるし、アーティスティックな画面作りには、よっ!真骨頂!と言いたくなるが、正直なところ、こんなのレズビアンもの好きの変態の妄想じゃん…!とうんざりしてしまうこともしばしば。神父(ジャン・マルタン)が気持ち悪すぎて泣けてくる。ミシェル・ロンズデール(判事)の十八番とも言える呻き声(あるいは叫び声)をあげる長回しや、みんな大好きジャン=ルイ・トランティニャン(刑事)のどんな役でもこなしている様子は見もの。“類似・繰り返し・置き換え・模倣”、とロブ=グリエの手法が抜群にきいた官能アート作品が観たい気分のときにおすすめしたい。
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『危険な戯れ』 "Le Jeu avec le feu"(1975)
美しい娘カロリナ(アニセー・アルヴィナ)との近親相姦的妄想を繰り広げながら語る父や、娼館に来る様々な客の役をこなすフィリップ・ノワレの気持ち悪さたるや…!娘のみた、いくつかの悪夢の中の一つである、太った男に身体を洗われる夢、もはや恐怖である。出演女優たちは惜しげもなく服を脱いでいくのだが、それぞれの身体すべてがマネキン人形のように(腰から脚にかけてのラインや胸の大きさなどが)似通っていて、ロブ=グリエは、フェリーニのそれとはまったく違った美学で女性を見ていることが感じられる。
女たちの名前の書かれた寝室のドアを開けるたびに繰り広げられる、異色なプレイの数々には思わずカロリナもあんぐり。アニセー・アルヴィナのあの口元の緩さ加減はそれとして魅力的である。コメディタッチなシーンも多く楽しいし、広い館のたくさんのドアをすべて開けてみせてくれる、ゲーム脳的思考の持ち主(RPGではアイテム入手のために、部屋という部屋すべてを確認しないと気が済まないたち)には嬉しい映画。
『囚われの美女』 "La Belle Captive"(1983)
ルネ・マグリットの同名作品『囚われの美女』を含む作品群に着想を得つつ、ロブ=グリエの好きなモチーフやテーマがたくさん組み込まれている本作品を観ていると、ロブ=グリエって本当にこういうの好きだね…!と思わざるを得ない。割れたガラスと赤い血(のような液体)や、拘束された女性が横たわる姿は必ずといっていいほど出てくる、もはやそれらを待ち望んでさえいる。
主人公のヴァルテル(ダニエル・メスギッシュ)が、聴く音楽といえば、シューベルトの『死と乙女』か“とらわれの女”だと言うのだが、劇中に流れている曲は弦楽四重奏曲第15番で、『死と乙女』と呼ばれている曲(弦楽四重奏曲第14番)とは異なるし、“とらわれの女”という曲も実在しない(弦楽四重奏曲第15番が“とらわれの女”と呼ばれているといった話も聞いたことがない)。また『囚われの女』といえばプルーストの『失われた時を求めて』の第5篇だが、これも劇中でプルーストの名前は出されるものの、この文学作品を映画化したというわけでもない。アケルマンにも『囚われの女』という作品(これはプルーストに関連する)があるが、こ��劇中でも、シューベルトの楽曲が使用される。こうして“囚われる”という言葉になんらかの様々な事柄を想起し、この物語にアプローチしていこうとする自分もロブ=グリエに“囚われ”てしまっていることには間違いない…。
毎度のことながら、ラストに向けて畳み掛けるように、幾重にもかさなった構造が明かされていくのだが、この題名の通り“囚われて”いるのは美女なのだろうか?とまたしても思考が止まらない。ロブ=グリエのフェティシズムに、心霊と夢と退廃的な世界観が足され、繰り返し挟み込まれる象徴的な映像にドキ!とさせられながら楽しめる作品だ。
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2ttf · 13 years ago
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毛沢東はソ連と仲違いした時、長年にわたって途方もない予算と将兵の養成が必要な通常兵器より、短期間に決定的な抑止力を高める核・ミサイルが効果的であると認識した。
 そこで人民の半分が餓死してでも「両弾一星」(原・水爆と人工衛星)を完遂するという決断をした。
 その根底には、中国という国家は人民(約8億人)の半分、4億人を犠牲にしても国家は生き残れるという意識であった。
 また、「政権は銃口より生まれる」と喝破したように、国共合作で国民党軍を日本軍と戦わせ、共産党軍は後方にいて増勢につなげ、続く内戦で勝利して政権奪取につなげる考えがあった。
 実際、430万人いた国民党軍は150万人となり、120万人しかいなかった共産党軍は400万人となり、累次の内戦で約800万人が戦死したとも言われる。
中華人民共和国の建国後の犠牲者
 毛沢東は建国10年後の1958年から61年までの3年間、人民公社を地方ごとに造って自給自足で生き延びることができるように大躍進運動を行う。
 しかし、公社間の競争精神は実体の伴わない過大報告となり、結果的には約2300万人が餓死したと言われる。
 毛は失敗を認めて国家主席を辞任。1962年1月の中央工作会議で劉少奇国家主席が「三分の天災、七分の人災」と述べて大躍進を批判する。
 しかし、建国以来続けてきた反右派闘争に勝利して1964年に復権する。この15年間に約950万人を虐殺したとされる。
 1966年からは10年に及ぶ文化大革命が続く。この間の政治的な痛めつけでの死亡(約2000万人)や餓死者はほぼ1億人にも上ったとみられている。
 3度の批判を生き残った鄧小平は毛の死去(1976年)後の78年末に「改革開放」の大号令をかけ、今日の大発展につながっていく。
 しかし、どこまでも社会主義市場経済で、共産主義体制の維持が前提であった。
 胡耀邦が総書記に就任(1980年2月)してチベットの惨憺たる有様に衝撃を受け��失政の責任は共産党にあるとして、政治犯の釈放や信教の自由と僧院の再建などの自由化政策を進めるが、共産党幹部の批判を受け87年1月解任される。
 続く趙紫陽も学生たちの民主化要求に柔軟な対応を示し、天安門広場に出かけ学生を説得するが失敗に終わる。
鄧小平は共産党政権維持への懸念を深め、中国人民解放軍による武力弾圧を決断し、民主的な抵抗を戦車で粉砕する(「天安門事件」、「6・4事件」とも呼称)。
 趙は3週間後(6月23日)に解任され、上海市委員会書記であった江沢民が抜擢される。
 天安門事件の死者は発表されていないが、米国の秘密文書によると、死者は1万454人、死傷者は4万人以上となっている(方政・釈量子対談「生き証人が語る 血塗られた天安門の虐殺」、『WiLL』2016.7号所収)。
 改革開放後の経済的発展は貧富の差を拡大させ、犯罪や暴動も頻発した。400万人の死刑囚収容施設は不足する状況で、死刑免除と引き換えに外国への労働者として派遣しているとも言われる。
すべてにおいてスケールが違う中国
 列挙すればきりがないが、広大な領土と巨大な人口、困難な統一、近代化の遅れ、そして何よりも言論の自由がない共産党独裁の強権政治で「物言えば唇寒し」だ。
 他方、愛国無罪が大きな「虚言」を蔓延らせる。
 日本では厚生労働省の為体で統計の信頼性が揺れているが、中国は国家ぐるみで、GDP(国内総生産)さえ疑問視されている。
 内乱や自然災害、イナゴの異常発生による蝗害などが絶え間なく起き、その都度100万単位の死者・餓死者を出してきたとされるが、何一つ正確な数字の公表はない。
 秦の始皇帝が即位したBC221年から共産党結成の直前1920年までの2140年間に160回の内乱があり、累計年数は896年で、13年おきに約6年間の戦闘が起きてきたとされる。
 また、この間に5150回の天災、うち1035回の旱魃、1037回の水害が発生。旱魃や水害は2年に1回、蝗害も含めた天災は5カ月に1回の頻度で発生してきたことになる。
 施政が行き届かない広大な領土ゆえに、何か起きれば大飢饉に直面した。1810年900万人、1811年2000万人、1849年1375万人、1876~78年1300万人の死者を出す大飢饉が発生している。
 20世紀に入ってからも、1928~30年の大飢饉では西安市のある陝西省で200万人が流民となり、1930~32年には1000万人が餓死している。
 なお、支那事変で日本軍が開封を占領した1938年、蒋介石軍が日本軍の追撃阻止のため、黄河の堤防を決壊させ、下流域(河南省・安徽省・江蘇省にまたがる54000平方キロ、北海道の6割)の水没で100万人死亡、被害者は600万人に上ったとされる(『郭沫若自伝』は日本軍の無差別爆撃と対外宣伝した)。
 このため、3省の農地が農作物ごと破壊され、河南省では1942年に凶作、続く翌年は蝗の大群発生で、300万人が餓死したという。
 こうした餓死者が出ると、得体の知れない茸も食し、子供を交換して食すこともあったとされる(易子而食…子を替えて食らう)。
中国人による中国人の斬殺
 問題は人為的な残虐行為で、『揚州十日記』がある。
 明朝滅亡時、満清の軍隊が南下して勢力を南京に及ぼそうとした時、南京政府の要所、揚州城の攻防で王秀楚という人物が家族や兄弟と逃げ回る間に体験した記録である。
 わずか10日間の出来事であるが、中国社会で昔から蔓延るあらゆる慣習が見て取れる。
 指揮官の逃亡、兵士の略奪・強姦・放火・惨殺などの暴虐、金品の強要や強奪などが展開される。
 2人の女性が逃げ回り、足が泥の中にぬかって脛まで没している。「1人が女の子を抱いていたのを、兵卒は鞭で叩いてその子を泥の中に捨てさせ、そのまますぐ追い立てて行った」。
 数十人のものは牛か羊かのように駆り立てられて「少しでも進まぬと直ちに笞を加えられ、あるいはただちに殺された。女たちは長い綱で数珠を通したように頸をつながれ、一足ごとに躓き転んで、全身泥まみれになった」。
 「どこにもかしこにも幼児が馬の蹄にかけられ、人の足に踏まれて、臓腑は泥にまみれ、その泣き声は曠野に満ち満ちていた」
 「途中の溝や池には死骸がうず高く積み上げられ、手と足が重なり合っていた。池はそのために平らになっていた」
 逃げ回った挙げ句、通りに出た。
 「通りには人の首が重なりあって横たわっていたが、真っ暗で誰が誰やら見分けがつかなかった」
 「(中略)城壁の下には死骸が積み上げてあるため、歩くのに難渋した。何度つまづいては起き上がったか知れなかった。何かに驚かされるたびに、地面に倒れて死骸の真似をした」
 彼らは掠奪や強姦ばかりでなく、火災も起こす。四方に火事が起こり、「こっそ���戸外に出て見ると、畑の中には死骸が積み重なっていて、中には息絶え絶えにまだ生きているのもあった」。
 男(兵士)は幼女と男児を連れた婦人を捕えた。
 「男の児が母を呼んで食べ物をねだった。その男は怒って一撃すると、脳が砕けて男の児は死んだ。男は婦人と幼女を引いて行った」
 隠れていた場所に「数人の兵卒がやって来て引き出されたことが二度ほどあったが、その都度少しばかりの金を握らせると行ってしまった」。
 こうして10日間で80万人が清軍の刀下で虐殺されるという血腥い「大屠殺」が展開され、繁華の揚州は凄惨な生き地獄と化したという。
揚州を落とした清軍は騎虎の勢で数日後に南京に入る。南京王朝の福王や陪臣はいち早く逃亡し、文武百官はみな薙髪して清軍に降伏する。
 余談であるが、清軍豫王とまみえた揚州督鎮は「史可法ここに在り!」と大呼するが、武運拙く、ついに捕えられる。
 豫王は「降れば則ち富貴ならん」と諭すが、史可法は「われは天朝の重臣なり。あにいやしくも生を偸(ぬす)みて万世の罪人となるべけんや。わが頭(こうべ)、断つべし、身屈すべからず」と断る。
 豫王は3日間説得し続けるが、最後は涙を揮って部下に斬らせたという。
中国の極刑さまざま
 手元に『図説 中国酷刑史』(尾鷲卓彦著、徳間書店)がある。
 酷刑とは残酷極まりない刑罰のことで、中国の酷刑を可能な範囲で紹介したものである。
 「彼らは手足を釘で打ちつけられ、鮮血をしたたらせて架刑(はりつけ)にされている劫賊(ごうとう)に、これっぽちの憐みすら寄せないどころか、その“五花斬人(きりきざみ)”のさまを観賞するという奇怪な光景まで演じた」
 「街頭や横丁において、首が切り落とされた様子を微に入り細をうがって、活き活きとしゃべりたてるかと思えば、われ先に鮮血にまみれた人頭や半裸の女性の屍体を覗き込む。なかには饅頭に血を吸いこませ、それを食べて肺結核を治そうとする者さえあった」などの記述もある。
 酷刑には官刑と私刑の別があり、官刑では「拷問・斬首・絞縊・首枷・足枷・站籠(立った姿勢で首枷)・抽腸・鞭打ち・凌遅(寸刻みで切り裂く)・銃殺・見せしめ」が列挙されている。
 私刑では「吊り下げ・熱湯あびせ・目えぐり・耳削ぎ・活き埋め・舌抜き・火あぶり・沈め殺し・��ゆで・圧殺・宮刑・人喰い・足ぜめ・頭髪そり・入れ墨・首切断・バラバラ屍体」などが記されている。
 読んでいて、「心胆を寒からしめる」どころか、こんな国家・社会があるのかと恐ろしくなってくる。日本人には想像を絶する奇想天外な国家・社会のようだ。
 本多勝一著『中国の旅』にも、「飢えた軍用犬の餌」にした話(文庫本p20)や「電線にコウモリのようにぶらさげ火あぶり」にした話(同p231)、「腹をたち割り、心臓と肝臓を抜き取って食う」話(同)などがある。
 臓器を煮て食したのは日本兵ということになっているが、筆者には日本人の行動様式とは思えない。読者はどう思われるだろうか。
 月刊誌『SAPIO』(2015年7月号)は、「毛沢東は『資治通鑑』を17回も読み、ライバル抹殺の手本としていた」とのリードで、「『人ブタ』『食人』『生きたまま肉を削ぐ』 歴史書に描かれた中国4千年『残虐の伝統』」の表題を付けた一文を掲げた。
 その中で、「人ブタ(手足を切断し丸裸で厠に放る)」「凌遅」「大量虐殺(一族の公開処刑や赤ん坊を空中に投げ槍で刺す)」「人食い」「ムチ打ち・炮烙(銅製円柱に罪人を縛り付けて焼き殺す)」「站籠」などを挿絵入りで説明している。
中国人による日本人大虐殺
 拙論の本題は中国人が日本の軍民に暴行を加え、また惨殺・虐殺した事件の検討である。いくつもあるが、ここでは3つを取り上げたい。
(1)旅順猟奇虐殺事件
 日清戦争(1894.8~95.5)間の11月21日に起きた事件である。
 近代化に邁進中の日本は、戦争においては勝利することと国際法を順守する文明国家であることを強調する必要があり、戦場に国際法の専門家を同道し、第2軍司令官大山巌大将は「我軍は仁義を以て動き、文明に由て戦ふものなり」と訓示していた。
 勝利の報が続々と届いていた矢先の惨事に、影響を最小限にする方策で伊藤博文首相と陸奥宗光外相は振り回される。
 旅順市街に突入した日本軍兵士は、3日前に生け捕りされた3人の生首が、道路わきの柳の木につるされているのを見る。鼻はそがれ、耳もなくなっていた。さらに進むと、家屋の軒先に針金でつるされた2つの生首があった。
 米国人記者も「ワールド」紙で、「日本軍が旅順になだれ込んだ時、鼻と耳がなくなった仲間の首が、紐でつるされているのを見た。また、表通りには、血の滴る日本人の首で飾られ��恐ろしい門があった。その後、大規模な殺戮が起った。激怒した兵士たちは、見るものすべてを殺した」と書いている。
 清国兵は残酷を極めた方法で傷をつけ、第2軍兵士の死体を放置した。
 死者、あるいは負傷者に対して、首を刎ね、腹部を切り裂き石を詰め、左腕を切り取り、さらに睾丸などまで切り取り、その死体を路傍に放置した。これは捕虜の扱いではなく、猟奇事件でしかない。
 この残酷さが日本軍に復讐心を燃え上がらせ、生首が兵士たちの激昂を誘ったとされる。
 攻撃の包囲網を狭められた清国兵は「袋の鼠」同然となり、軍服を脱ぎ捨て便衣兵となって民家に逃げ込んだ。
 復讐心は便衣兵の徹底捜査となる。また、市民の中には武器をもつ者もいた関係から、彼らも加害者とみなされた。
 歩兵第2連隊の加部東常七上等兵は「旅順市街に闖入するや、戸々軒々、家中を捜りて、(略)小暗き家の片隅に潜む一人の敵兵。オノレッ!とばかり・・・。直突一閃! 胸板深く突き通せば、彼、苦しさの余り、我剣刃を握れり。コワ・・・仕損じたり。と力を極めて引けば、四指を落としてがくりと倒るる所を亦一刺。魂、天涯に飛んで骸のみ」と手記に記している。
 この連隊では清国兵28人を斬殺した一等兵を筆頭に、21人、17人など、11人で166人の清国兵を屠ったという(以上、井上晴樹著『旅順虐殺事件』)。
 旅順郊外の萬忠墓には被難者計1万8百余名(かなりが便衣兵か)と明記されているそうである。数はともかく、事件は両国の将兵が確認し、内外の記者数名が報道し確認している。
 しかし、非は我に有りとのことか、中国は旅順の猟奇・虐殺をほとんど報道してこなかった。
(2)昭和2年の「南京事件」
 「長江(注:揚子江の上流域)流域上下二千浬(カイリ)に亘り、三千余名の在留邦人が暴徒の迫害から遁れて、財産を捨て地盤を棄てて内地への引揚げを断行したことは、我日本としては空前の史実であり世界的にも希有の事変である」
 「彼らの我邦人に対する嫌悪と軽侮の念は、十数年来の排日によりて遺憾なきまでに蓄養された。その今日あるはむしろ予想されていなければならなかったはずだ」と悔しさを隠さない。
 これは、合法的に南京・蘇州・漢口・重慶などに居留していた日本人が昭和2年の春、中国人によって襲われ、引揚げざるを得なかった日本人襲撃事件の実相を、直後に結成した「中支被難者連合会」が証言や公文書を用いて再現した『南京漢口事件真相 揚子江流域邦人遭難実記』の「序」である。
 少し説明が必要であろう。事件発生時までの3年間、外務大臣は幣原喜重郎であった。
 上海などで中国の横暴がしばしばあり、英米などは軍艦を出動させて鎮圧してきた。しかし、幣原外相は話し合い解決を主張し、軟弱外交と批判されていた。
 こうしたことから、南京の日本領事は「北伐軍を刺激しない」「無抵抗主義で対応する方が効果的」として、荒木海軍大尉らが準備した領事館前の土嚢を撤去し、機関銃は倉庫に隠した。
 そこに事件が起き、兵士と暴徒の侵入を許し、婦人までが凌辱・強姦の「忍ブベカラザル検査」(「検査」は領事の表現)を受けたのだ。
 中国が事件を起こしても、武力対処は一切斥けた。こうした日本外交に対する思いが「今日あるはむしろ予想されて」の謂いであり、悔しさが滲んでいる。
 これこそが「南京事件(昭和2年)」と呼ばれるもので、今日、「南京大虐殺」(昭和12年)として非難されているものは、事件でなく追撃戦であった。
(3)通州虐殺事件
 北京の東方約20キロのところに通州がある。「冀東(きとう)防共自治政府」の管理下にある通州保安隊に守られて日本人居留民は生活していた。
 盧溝橋事件から3週間後の29日(1937年7月)から翌30日未明の間に、保安隊は国民党軍と示し合わせたかのように警備を解き、女子供を含む邦人257人(日本の警備隊32人を含む)が惨殺された。
 居留民たちの救援活動を取材するために、たまたま来ていた同盟通信社の安藤利男記者も襲撃を受けるが九死に一生のチャンスを得て脱出に成功し、後に『虐殺の通州脱出記』を書いている。
 午前2時半ごろ保安隊の動きが怪しいとの電話があり、その後は不通。4時頃からは銃声も聞こえる。7時ごろになると市街南方辺りで白煙や黒煙が上がり、銃砲声も激しくなる。
 8時になると、記者たちが泊まっていた近水楼の支那人ボーイが他所から口も利けない状態で駆け込んできて、「特務機関付近の通りの邦人商家、カフェー辺りで、日本人が多勢殺されてゐる。太変です・・・」の第一報をくれたという。
 また、奇跡的に生き残った人たちも、色々と証言しており、虐殺事件の状況はかなり正確に伝わっている。
 1か月後には『主婦の友』が人気作家吉屋信子をカメラマンともども派遣。その時も証拠は至る所に残っており、女性の目で子細に記録している。
 しかし、平成28(2016)年7月、現地を訪ね『慟哭の通州―昭和12年夏の虐殺事件』を上梓した加藤康男氏によると、通州市は北京市に吸収されて、「もはやこのあたり一帯に通州虐殺事件に関連した建物は何一つ残されていない。旧城内は、90年代ごろから徹底的に破壊し尽くされてきた」という。
 事件から5カ月経った12月下旬(日本軍が南京で入城式を行った1週間後)、冀東防共自治政府と日本側との間で弔意賠償金の支払いや慰霊碑建立の決着が図られた。
 都合の悪い慰霊碑はいつしか地下に埋め隠されたが、再開発で偶然に発見された。
 その状況を「北京日報」(2001.8.24付)は、「日本軍が中国を侵略した証拠、通州区で慰霊碑が見つかる」との見出しで報じたという。
 「1938年日本軍のもので、我が国の抗戦軍民が倒した日寇のいわゆる『慰霊碑』だった。・・・文字はいずれもひどくかすれているが、『大東亜共栄』など日本の侵略理論も記されている」
 「通州区の文物所所長によれば、・・・1937年7月29日早朝に通州の2万人余が蜂起、この偽政府(注:冀東防共自治政府)を占領した上、日本人五百人余りを撃ち殺した。翌日、日本軍は大規模な報復を行い、偽政府に二つの慰霊塔を立てることを要求、塔の前には慰霊碑も立てた」
 殺害者二百数十人を「五百人余」に倍増し〝抗日の成果″を誇っているし、また5か月後の話し合い決着を「翌日」として日本の傲慢な要求に見せかける中国一流の誤魔化しがある。
 加藤氏は、「南京や盧溝橋はもとより、満州各地にある旧大和ホテルに至るまでが『対日歴史戦』の遺跡として宣伝利用されていることを考えると、雲泥の差である。『通州虐殺事件』の痕跡は極めて都合が悪いので、完膚なきまでに消し去ったものとしか考えられなかった」と述べる。
おわりに
 通州虐殺事件について、「東京日日新聞」(昭和12年8月6日付、毎日新聞の前身)は、「敵は第29軍の首脳部の命を受け26日頃から通州襲撃の保安隊及び正規兵と連絡をとり、北清事変議定書によって正規兵は天津市内に入るを得ざるを以て便服に着替へて大胆にもトラックを以て続々天津付近に侵入。機関銃、迫撃砲、小銃、青竜刀などを蔬菜や貨物の下に隠して運び込み、時の到るのを待って居た」と報道している。
 天津では中国軍から攻撃を受けるや否や、日本軍が反撃に出て撃滅したため大事に至らなかったが、通州虐殺事件は天津の日本租界・軍関係機関、その他の邦人多数居留区域と共に、2年前から襲撃計画が練られていた同時多発テロであったのだ。
 同紙は「約1万5千人を虐殺し、掠奪を恣にしたうえ、日本租界を占領しここに青��白日旗を翻して天津から邦人を一掃する」ことになっていたかもしれないと書いている。
 加藤氏によると、中国共産党は、通州事件を「反正」(過ちを正すこと、即ち冀東防共自治政府の消滅)として評価し公認しているという。それなのに、「なぜ痕跡を抹殺しようとするのだろうか」と疑問が沸く。
 筆者は次のように思う。旅順猟奇虐殺事件や通州虐殺事件は、虐殺現場の目撃者があり、「事件の存在」が証明される。これらの事件を大きく取り上げると、「南京大虐殺」についても「事件存在」の「明確な証明」が求められる。
 しかし、習近平さえ英国女王の晩餐会で「存在の証明」で「友好のプレイアップ」を図ったが、逆に「非存在」の暴露になってしまい、“はい それまでよッ!”となりかねなかった。
 南京事件は大虐殺の「状況証拠」から離れていくばかりだ。いかがであろうか。
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trumpq · 4 years ago
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【パトリック・バーン】 2021/2/19 11:34 JST
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タブレットマガジン サーティータイランツ(※30僭主せんしゅ) アメリカのエリートが中国との取引を選択したことは、アテネとスパルタの歴史の中に前例がある。……
※続きで、記事の和訳をしてみた。けっこう長文。
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※オリジナル英文は元リンク参照。
サーティータイランツ(※30僭主せんしゅ) アメリカのエリートが中国との取引を選択したことは、アテネとスパルタの歴史の中に前例がある  2021年2月4日 リー・スミス による
『王子』の第5章で、ニコロ・マキアヴェッリは、征服した大国が戦争で敗北した人々をどのように扱うかについて、3つの選択肢があると述べた。第一は彼らを破滅させること、第二は直接支配すること、第三は「あなた方に友好的な状態を維持するために、少数者の状態を作り出すこと」である。
マキアヴェッリが最後の例として挙げるのは、紀元前404年の27年間の戦争の後、アテネを敗北させた際にスパルタが設立した友好的な政府である。すでに民主主義を軽蔑していたアテネの上流階級のエリートにとって、ペロポネソス戦争での敗北はスパルタのシステムが好ましいことを確認した。それは恒久的な召使階級、ヘロット、定期的に屠殺された彼らの人間以下のステータスを受け入れるためにそれらを条件とした上で、高奮発軍の貴族の支配であった。対照的にアテネの民主主義は下層階級にあまりにも多くの権力を与えた。親スパルタ派の寡頭制は、市民の権利を奪うためにパトロンの勝利を利用し、国内のライバルとの争いを解決し、彼らを追放して処刑し、彼らの富を没収することに成功した。
アテネの法律に不誠実で伝統を軽蔑するアテネ政府は「三十人の暴君」として知られており、その役割と機能を理解することは、現在のアメリカで何が起こっているのかを説明するのに役立つ。
前回のコラムでは、ニューヨーク・タイムズ紙のトーマス・フリードマン氏に、10年以上前のバラク・オバマ大統領就任1年目に彼が書いた記事について話を聞いた。彼の重要な記事は、アメリカのエリートが民主主義が自分たちのために機能していないと判断したまさにその瞬間を記録している。共和党のせいでアメリカ国民を蹂躙することができないと非難した彼らは、自分たちを豊かにしている関係を強化するために民主党に移った。
「グローバル化した世界で競争する必要性から、実力主義者、多国籍企業の経営者、東洋の金融業者、技術起業家は、共和党が何を提供するかを再考せざるを得なくなっている。原則として、彼らは党を離れ、現実的な連立ではなく、イデオロギー的な批判者の集団を残してきた」と、ある貿易コンサルタントはフリードマンに語った。フリードマンのコラムが発表されてから10年以上の間に、タイムズのコラムニストが特定した幻滅したエリートたちは、アメリカの労働者をさらに困窮させ、自分たちを豊かにしてきた。彼らが生きるようになった一言のモットーはグローバリズム、つまり、彼らがたまたま生計を立て、子供を育てている特定の社会の幸福に言及することなく、商業関係や社会的企業を構造化する自由であった。
グローバリスト企業を支えたのは、2001年に中国が世界貿易機関(WTO)に加盟したことである。何十年もの間、アメリカの政策立案者や企業クラスは、中国をライバル視していたが、フリードマン氏が述べたエリートたちは、啓蒙された中国の独裁政治を友人として、またモデルとしてさえ見ていた。なぜ彼らは権威主義的な政権と貿易をし、何百万ものアメリカの製造業の仕事を中国に送り込み、働くアメリカ人を困窮させたのだろうか。それは彼らを豊かにしたからです。彼らは、中国と取引する以外に選択肢がないと自分たちに言い聞かせることで、自分たちの良心を救ったのです。中国は大きく、生産性が高く、効率的で、中国の台頭は避けられない。それに、中国との取引で傷ついたアメリカの労働者は罰せられて当然だった。進歩のためには何が最善なのかを邪魔する反動的で人種差別的なイデオロギーの評論家を誰が擁護できるだろうか?
外国との戦争や不法移民を終わらせることと一緒に、これらの雇用をアメリカに戻すことは、ドナルド・トランプ大統領の大統領職の中心的な政策公約であり、2016年にトランプ氏が驚くべき勝利を収めた源でもある。トランプ氏は、企業や政界の確立された中国との貿易関係が一般のアメリカ人を売り渡したと主張したのは、ほとんど初めてではなかった。元民主党下院議員で1988年大統領候補のリチャード・ゲファードは、奴隷労働者を雇用している国家との貿易はアメリカの雇用を犠牲にし、アメリカの名誉を犠牲にすることになると警告した、重要だが最終的にはあまり影響力のない選出された民主党幹部や政策専門家のグループの第一線で活躍していた。トランプ氏の言うことを真に受けたのは、6,000万人以上のアメリカの有権者だけだった。
トランプ氏が「沼」と呼んでいるのは、最初は産業、機関、人物が無作為に集まっただけのように見えたが、それらが新大統領によって非難されているという事実以外には、何の共通点もないように見えた。しかし、トランプ氏の絶え間ないエリートへの攻撃は、彼らに集団的な自己認識と連帯のための強力な動機を与えた。彼らは、同じ偏見や憎しみ、文化的嗜好、消費習慣だけでなく、同じ重心である米中関係も共有している官民の利害の結びつきを代表していることがわかったのである。こうしてチャイナ・クラスが誕生したのです。
かつては、曖昧に見えた、あるいは存在しないように見えた関係が、トランプ氏の軽蔑と、トランプ氏を憎むエリートたちの相互の軽蔑の光の下で、鮮明になったのである。
10年前には、NBAのスーパースターであるレブロン・ジェームズとアップルのティム・クックCEOを同じファミリーアルバムに入れる人はいなかっただろうが、彼らは今、安価な中国の製造業(ナイキのスニーカー、iPhoneなど)と成長する中国の消費者市場のおかげで、素晴らしい富で結ばれている。デジタルサービスプロバイダーのテンセントとのNBAの15億ドルの契約は、中国の会社は、アメリカ以外のリーグの最大のパートナーになりました。感謝の意を込めて、これらの二股大使は無知な同胞に中国共産党の知恵を伝えた。NBAの幹部が香港の反体制派を擁護するツイートをした後、社会正義活動家のキング・レブロンはアメリカ人に「舌に気をつけろ」と言った。「たとえそうであっても、我々には言論の自由がある。それは多くのネガティブなことをもたらすことがある」とジェームズは言った。
トランプ氏が米中関係から贅沢な利益を得たアメリカ人に圧力をかけたため、これらの奇妙な相棒たちは、マルクス主義者が階級意識と呼ぶものを身につけ、反撃のために団結し、中国の後援者との関係をさらに強固なものにした。今では、これらの異質なアメリカの機関は、中国共産党が奴隷労働者収容所の囚人にどんな恐怖を与えようとも、中国のスパイサービスや人民解放軍が国家安全保障にどんな脅威を与えようとも、中国共産党からの小切手を現金化することについての慎重さや恥ずかしさの感覚を失った。大西洋評議会、アメリカ進歩センター、イーストウエスト研究所、カーターセンター、カーネギー国際平和基金、ジョンズ・ホプキンス高等国際問題研究所などのシンクタンクや研究機関は、中国の資金を食い物にしていた。世界的に有名なブルッキングス研究所は、中国の通信会社である華為技術を賞賛する中国の華為企業が資金提供した報告書を公表することに何の抵抗もなかった。
中国がアメリカの主要な研究大学、例えばスタンフォード大学に58,000万ドルのような数十億ドルを提供したことで、アメリカの法執行機関は、機密研究を盗むための中国の防諜活動に警告を発していた。しかし、これらの大学とその名の知れた教員は、実際にはその研究を販売するビジネスを行っていた。その多くは米国政府から直接支払われていた。
実際、学界の中国共産党とのペイ・フォア・プレイ取引の多くは、特に微妙なものではなかった。2020年6月には、1500万ドルの研究助成金を受けたハーバード大学の教授が、「中国の科学開発、経済繁栄、国家安全保障を促進する」ために、「ハイレベルな科学的才能を募集し、育成する」ために、中国共産党の機関に代わって月5万ドルの仕事をしていたと嘘をついたとして起訴された。
しかし、ドナルド・トランプ氏が米国と中国を切り離すことが、自分を憎み、米国の雇用を海外に送り出した寡頭制を解体する方法だと考えていたとしても、そのビジョンを実行に移すことはできなかった。米国のエリートの腐敗の原因、中間層の貧困化の理由、米国の平和に対する内外の脅威を正しく特定した後、彼はアメリカ人に彼を選んで戦ってもらうように頼んだ戦争に勝つためのスタッフを配置し、準備をすることに失敗した。
そして、中国がチャイナクラスの力の源であることは事実だったので、武漢から出てくる斬新なコロナウイルスは、そのクーデターのためのプラットフォームになりました。つまり、アメリカ人は反民主主義的エリートの餌食となり、コロナウイルスを使ってアメリカ人の気力を奪い、中小企業を荒廃させ、盗み、焼き、殺すのが自由な暴徒に弱いままにし、子供たちを学校から遠ざけ、死にかけている人たちを愛する人たちの最後の抱擁から遠ざけ、アメリカの歴史、文化を冒涜したのだ。そして、アメリカの歴史、文化、社会を冒涜し、普通のアメリカ人が実際にはエリートの民間部門と公共部門の代理人がすでに用意していた地獄に値する理由を説明するために、この国をシステム的に人種差別主義者として中傷している。
約1年の間、アメリカの役人たちは、中国経済がアメリカの上に乗っかっている間に、より多くの権力を自分たちに横領するという唯一の目的のために、意図的に我々の経済と社会を荒廃させてきた。中国の封鎖は結果の違いとは何の関係もない。封鎖はウイルスの蔓延を抑えるための公衆衛生上の措置ではない。だからこそ、ニューヨーク州のアンドリュー・クオモ知事やシカゴ市長のローリ・ライトフット氏のように、長期にわたる封鎖を繰り返している民主党幹部は、トランプ氏が無事に去った今、直ちに封鎖を再開させることが急務だと公に表明しているのだ。
民主党の役人が意図的に命を破壊し、老人ホームで高齢者に感染させるために病人を送り込むことで何千人もの命を奪ったことは、アメリカ版「三十人の暴君」とは無関係である。仕事は、トランプを倒すためにコロナウイルスの犠牲者を増やすことであり、彼らは成功した。アテネの反民主主義派と同様に、アメリカの優秀な人材はとっくの昔に道を失ってしまった。30人の暴君の先頭にいたのはクリティアスであり、ソクラテスの最高の弟子の1人であり、詩人であり、劇作家であった。彼は体制の怒りからソクラテスを救うのを助けたかもしれないし、まだ哲学者は彼の方法、すべてに質問するために、伝統のためのクリティアスの広範囲の軽蔑を供給したことを後悔したようである。権力を握った後、クリティアスはアテネの彼の虚無主義を回し、都市を破壊した。
----- アメリカのエリートと中国の間の毒された抱擁は、約50年前、ヘンリー・キッシンジャーが、当時敵対していた2つの国の間に関係を開くことで、中国とより脅威的なソ連の間の溝の拡大を暴露することになるだろうと考えたときに始まった。2つの共産主義の巨人の間の衝突の中心にあったのは、ソ連の指導者がスターリンを拒絶したことであり、これを中国はソ連共産主義体制の終焉の始まりと見なし、彼���が犯してはならない過ちであった。
一方、キッシンジャーの地政学的な作戦は、彼の歴史的遺産の礎となった。また、キッシンジャーは中国の高官にアクセスを売る大金持ちにもなった。また、キッシンジャーは、ビル・クリントン政権の国防長官ウィリアム・コーエンのように、他の元高官の政策立案者が自らの対外影響力を利用した身売り作戦に従事する道を開拓した。コーエングループは、4つの海外事務所のうち2つを中国に構えており、トランプ前国防長官のジェームズ・マティス氏をはじめ、多くの元高官が参加しているが、彼は最近、社説でトランプ政権の中国に対する「我々と一緒か、我々に反対か」というアプローチを批判した際に、コーエングループでの仕事を公表しなかった。「米国の同盟国やパートナーの経済的繁栄は、北京との強力な貿易・投資関係にかかっている」と書いたマティスは、文字通り、まさにそのような立場を取るために中国から金をもらっていた。
しかし、1972年にリチャード・M・ニクソン大統領と一緒に欧米人が当時北京と呼んでいた中国の首都を訪れたとき、キッシンジャーが元アメリカ政府関係者のために中国を換金地にするとは考えられないだろう。「中国人は、毛沢東が死ななければ開国できないと感じていた」と、トランプ元政権関係者は言う。「ニクソンとキッシンジャーがいた時には毛沢東はまだ生きていたのだから、1979年に鄧小平の指導の下で始まったような改革を彼らが思い描くことはできなかっただろう」。しかし、1980年代になっても中国は米国と競争していたわけではない。中国が商業的なライバルになったのは1990年代に入ってからであり、「中国に貿易上の最恵国としての地位を与えることについて毎年議論が行われていた」という。
冷戦後の秩序の首席広報担当者はフランシス福山であり、彼は1992年の著書『歴史の終わり』の中で、ベルリンの壁が崩壊したことで、西欧の自由民主主義が最終的な政府の形になったと主張した。福山がベルリンの壁崩壊後に間違っていたのは、政治形態の強さの評価ではなく、彼の哲学的モデルの深さであった。福山は、半世紀近く続いた超大国の睨み合いが終わったことで、対立する政治モデルをお互いに対立させていた歴史的弁証法が解決されたと信じていたのだ。実際には、弁証法はまた別の方向に転じた。
ソ連で共産主義を破った直後、アメリカは生き残った共産党に新たな息吹を吹き込んだ。そして西洋の民主主義原理が中国共産党を変質させる代わりに アメリカの権威が東洋のテクノ独裁主義の味を手に入れたのです。ダイアン・ファインスタイン氏は、キッシンジャー氏に次いで、その後の20年間、米中関係を牽引した第二の影響力を持つ役人となった。
1978年、サンフランシスコ市長に就任したばかりのファインスタインは、当時の上海市長であり、後に中国の総統となる江沢民と親交を深めました。アメリカのハイテクの中心地の市長として中国との結びつきは、成長を続けるアメリカのハイテク産業に中国からの投資を呼び込み、中国を世界第3位の経済大国にしました。また、江氏との提携は、彼女の投資家である夫のリチャード・ブルムを大金持ちにした。上院議員として、彼女は中国の人権侵害を合理化して中国の最恵国待遇の恒久的な貿易地位の確立を推し進め、一方、友人の江氏は権力を強化し、天安門広場に戦車を送り込んで共産党総書記になった。ファインスタインは彼を擁護した。"中国には地元の警察がいなかった」と、ファインスタイン氏は江氏が彼女に語ったという。「それ故に戦車を送った。しかし、それは過去のことだ。人は過去から学ぶ。繰り返すことはない。中国は教訓を得たと思う」とカリフォルニア州の上院議員は安心して説明した。
しかし、実際には過去は、ワシントンのファインスタイン議員の聴衆に別の話を伝えるべきだった。米国はモスクワと貿易をしたり、ロシア人が多額の選挙献金をしたり、配偶者とのビジネス・パートナーシップを結んだりすることを許していなかった。冷戦時代のアメリカの指導者たちは、そのような行為がモスクワへの扉を開き、危険な方法でアメリカの政治や社会に直接影響を与えることを許してしまうことを理解していた。彼らの工場で私たちの商品を製造したり、私たちの商品を購入して海外に出荷したりすることは、技術や知的財産を脆弱なものにしてしまうことになる。
しかし、それは国家安全保障を危険にさらすだけではなく、アメリカの価値観に反するシステムにアメリカをさらすことにもなっていたのだ。この期間を通して、アメリカは、私たちが考えているソビエトに対する考え方とは反対の立場で自分たちを定義していた。ロナルド・レーガンは、ソ連を「悪の帝国」と呼んだことで軽率だと思われていたが、第二次世界大戦末期から 1990 年までの通商・外交政策では、これがコンセンサスとなる立場であったことが反映されていた。
実業家のアルマンド・ハマーが有名だったのは、彼がモスクワと取引をしていたアメリカ人だったからである。彼の視点が役に立ったのは、ソ連社会、政治、ビジネス文化に関する彼独自の洞察力がアメリカのメディアとよく共有されていたからではなく、彼が政治局がアメリカの聴衆に広めたいと思っている見解を提示していたことが理解されていたからだ。今日、アメリカには何千人ものアーマンド・ハマーがいて、そのすべてが彼らの富、名声、権力の源を主張している。
それは、1994年にビル・クリントンが人権を貿易の地位から切り離すことを決定したことから始まった。彼は、ジョージ・H・W・ブッシュ政権とは対照的に、人権に焦点を当てることを約束してホワイトハウスに入り、就任2年後に顔を上げた。クリントン氏は「我々の関係をより大きく、より生産的な枠組みに置く必要がある」と述べた。アメリカの人権団体や労働組合は愕然とした。クリントンの決定は明確なメッセージを送った、と当時のAFL-CIO会長レーン・カークランドは言った。「アメリカが民主主義と人権について何を言おうと、最終的な分析では利益であって、人ではなく、最も重要な問題である」。当時の上院院内総務ジョージ・ミッチェル氏のような一部の民主党員は反対し、ジョン・マケイン氏のような共和党員はクリントン氏の動きを支持した。クリントンの国家経済会議のトップであるロバート・E・ルービンは、中国は「これまで以上に大きく、より重要な貿易相手国になるだろう」と予測した。
それから20年以上が経過した今、中国の技術をアメリカの技術から切り離そうとするトランプ政権の措置に反対してロビー活動を行ったアメリカの産業や企業の数は、相反する価値観や慣行を主張する2つのライバルシステムがどれだけ密接に統合されてきたかを示す驚異的な指標となっている。フォード、フェデックス、ハネウェルなどの企業や、華為にチップを販売し続けるために争ったクアルコムなどの半導体メーカーは、片足をアメリカに、もう片足をアメリカの地政学的に重要なライバルであるアメリカにしっかりと植え付けて存在している。両者のビジネスを守るために、彼らは中国を競争相手と呼ぶことで、危険なライバルを後押ししている自分たちの役割を隠蔽するために、この問題をソフトに売り込んでいるのだ。
アメリカのほぼすべての主要産業が中国との利害関係を持っている。ウォール街、シティグループ、ゴールドマン・サックス、モルガン・スタンレーから接客業に至るまで。マリオットホテルの従業員が解雇されたのは、彼がチベットについてのツイートを気に入ったことに中国当局が異議を唱えたためだ。彼らは皆、中国共産党のルールに従うことを学んだ。
ランプ政権の元幹部、ロバート・スポルディング元退役軍人は、「中国に縛られていない人に聞いた方がいい」と言う。
当然のことながら、かつては頼りにされていた共和党の米国商工会議所は、トランプ氏の中国政策に反対する先頭に立っていた。関税案だけでなく、パンデミックが発生した場合でも、米国企業が重要なサプライチェーンを別の場所に移動し始めるよう求めたのだ。全米防衛産業協会は最近、防衛関連の請負業者が特定の中国の技術を使用することを禁止する法律に不満を表明した。同団体のスポークスマンは「連邦政府と仕事をしているすべての請負業者は、それを止めなければならないだろう」と述べた。
トランプ政権でさえも、タカ派と融和主義者に分かれており、前者は『パンダハガー』と皮肉っぽく呼ばれていた。トランプ政権の高官の大半は後者の陣営に属しており、特に元ハリウッドのプロデューサーであるスティーブン・ムニューシン財務長官はその中でも特に注目されていた。映画業界は、中国が知的財産を盗んでいると最初に声高に訴えていたが、最終的には北京と手を組むようになり、北京をなだめるようになった。スタジオは、中国共産党のレッドラインを守らずに、中国の巨大な市場に参入することはできません。例えば、「トップガン」の続編では、パラマウント社がトム・クルーズの「マーベリック」のジャケットに台湾と日本のパッチをぼかして中国で公開することを提案したが、中国共産党の検閲官は、世界のどのバージョンでもパッチを表示しないようにと主張した。
トランプ政権時代には、「中国との疑う余地のない協力を続けようという非常に大きな後押しがあった。反対側には、反発を望む少数の人々がいた」とスポルディング元顧問は言う。
アップル、ナイキ、コカ・コーラは、ウイグル強制労働防止法に反対するロビー活動までしていた。トランプ大統領就任最後の日に、マイク・ポンペオ国務長官は、米国が「中華人民共和国が中国の新疆ウイグル自治区で、ウイグル族のイスラム教徒やその他の少数民族・宗教団体のメンバーを標的に、大量虐殺と人道に対する犯罪を犯していると判断した」と発表した。2020年のオーストラリアの調査によると、ナイキ、アディダス、ギャップ、トミー・ヒルフィガー、アップル、グーグル、マイクロソフト、ゼネラルモーターズなど、ウイグル人の強制労働力を使用している多くのアメリカの主要ブランドがジェノサイドに加担していることになる。
基本的人権や民主主義を軽視している国が、アメリカの産業界から直接資金を提供され、アメリカ国民のものであるべきアメリカ政府の研究や技術の成果を特権的に利用できるようにすべきではないという考えは、党派的な考えとは言い難く、ドナルド・トランプ氏とはほとんど関係がない、あるいは関係がないはずである。しかし、歴史的な記録を見れば、アメリカと中国のエリートの融合はトランプ政権時代に頂点に達していたことがわかるだろう。ミッチ・マコーネル上院共和党党首の造船会社の億万長者の義父であるジェームズ・チャオ氏は、大学の同級生の江沢民氏をはじめとする中国共産党との関係から大きな利益を得ている。チャオ家からの贈り物は、マコーネルを、最も裕福な上院議員のリストの中で、ファインスタイン氏よりも数段下の地位にまで押し上げました。
トランプ憎しのメディアの津波に乗って、チャイナクラスは国家機関や安全保障官僚の中でその力を固めた。1990年代後半から続いている中国共産党政権の最悪かつ最も脅威的な側面への対応は、早送りになっていた。ナイキが中国の奴隷労働収容所でスニーカーを作っていたという話は、もはや流行らなくなった。中国がアメリカの科学機密や軍事機密を盗み、シリコンバレーで大規模なスパイ活動を行い、エリック・スワールウェルのような下院議員を危険にさらし、アイビーリーグのトップ教授に多額のリテイナーを払い、知的窃盗のプログラムを組織的に実施している、あるいは何らかの形で自国の国民や近隣諸国、さらにはアメリカの生活様式に危険をもたらしているというニュースは、トランプ支持のプロパガンダとしてミュートされ、却下された。
中央情報局(CIA)は、アメリカの制度を弱体化させようとする中国の努力を公然と保護していた。CIAの経営陣は、情報アナリストをいじめて、中国の影響力と私たちの政治プロセスへの干渉についての評価を変えるようにして、彼らがトランプ氏の政策に同意しない政策を支持するために使用されないようにしたのです。アメリカを守ることがCIAの経営陣にとって最も急務なことではないのは当然のことである。
中国の行動を実際に理解している人たちにとっては、党派性は明らかに二の次の関心事だった。中国の行動は、アメリカの中核的な安全保障機関がそれを真剣に受け止めていないように見えたことと同様に、真に憂慮すべきものであった。「1980年代までは、共和制政府の形態に反する考えを持つ外国勢力の利益を推進する人々は排除されていた」と、オバマ政権の元情報当局者は言う。「しかし、グローバリズムの出現で、彼らは中国を言い訳にし、自分たちの好みに合わせて情報を曲げた。ブッシュとオバマの時代、標準的な評価は、中国は青水軍を作る気がないというものだった。���れは彼らの見方には不都合だった。中国は現在、第3の空母を生産中である。」
トランプ氏を憎むことは、彼らの政治的な言い訳になっているが、アメリカの安全保障と国防の確立は、中国を見て見ぬふりをすることに自分たちの利益を持っていた。ジョージ・W・ブッシュの「対テロ戦争」から始まった軍事作戦に人、金、名声を浪費してきた20年間は、米国にとって戦略的価値が低いことが証明されている。しかし、中東の殺戮現場にアメリカ人を派遣して安全を確保することは、北京にとって大きな利益となっている。先月、中国のエネルギー大手である善華は、イラク経済の低迷に乗じて、5年間の石油供給(日量13万バレル)に20億ドルを支払った。価格が上がれば、この取引で中国は石油を転売することができる。
アフガニスタンでは、大規模な銅、金属、鉱物の鉱山は、アメリカ軍が表向きの安全を確保しているが、中国企業が所有している。また、アフガニスタンは新疆ウイグル自治区と国境を接しているため、習近平は「米国がアフガニスタンから軍を撤退させた後、アフガニスタンやパキスタンの辺境に位置するテロ組織がすぐに中央アジアに侵入してくるのではないか」と懸念している。言い換えれば、米軍がアフガニスタンのような場所に海外展開しているのは、中国の「ベルト・アンド・ロード構想」のための安全保障よりも、アメリカの利益を守るためである。
「ソ連とのように中国とは対立しているわけではないという考えがある」とオバマ前大統領は言う。「しかし、我々はそうなっている問題は、民主党を中心としたアメリカの既成政党のほぼすべてが、断固として反対側にあるということだ。」
------ 2019年の夏の終わり頃、トランプ氏はホワイトハウスでの2期目に向かっているように見えた。経済が急騰し、失業率が記録的な低水準になっただけでなく、彼はまさに彼が選んだフィールドで対立候補と対決していたのだ。トランプ氏の北京との貿易戦争は、トランプ氏が本気でアメリカ企業にサプライチェーンの移動を迫ろうとしていることを示している。7月には、デルやHPのようなアメリカのトップテック企業が、生産の大部分を中国国外にシフトすると発表した。アマゾン、マイクロソフト、アルファベットもまた、製造の一部を他の場所に移す計画を立てていると述べた。
武漢の住民が通りを埋め尽くし始めたのは、2019年の6月下旬と7月上旬、まったく同じ瞬間だった、武漢の1100万人の健康と繁栄に責任を持つ役人が裏切ったことに怒りを覚えた。彼らは病気になり、病気になるのを恐れていた。高齢者は息を切らした。行進する人たちは、「毒されたくない、新鮮な空気を吸いたい」という横断幕を掲げていました。親たちは子供たちの命を心配した。病人が免疫系と神経系に永久的なダメージを受けていることを恐れていた。
当局はソーシャルメディアのアカウント、写真、抗議のビデオを検閲し、おとり捜査官はトラブルメーカーを監視し、最も声の大きい者を拘留した。企業は閉鎖を余儀なくされ、抗議者が隠れる場所はどこにもなかった。何人かはバンで運び出された。彼らは当局から「公安機関は悪質な扇動や挑発などの違法な犯罪行為を断固として取り締まる」と警告を受けていた。
当時、武漢の住民を街頭に送り出したのは、COVID-19ではなかった。2019年初夏、武漢の公衆衛生を脅かしたのは大気汚染の疫病だった。これは、アメリカの悲惨な最後の年の物語のこれまで語られてこなかった部分である。
大気を汚染するゴミの山に対処するため、当局はゴミ焼却場の建設を計画した(2013年、武漢では5つの焼却施設から危険な汚染物質が排出されていることが判明した)。他の都市でも同様に、2007年のシアメン、2015年の上海、2016年の成都、2017年の清原など、大気汚染に対する抗議行動が街頭で行われたが、その都度、中国共産党指導部にパニックの波が押し寄せた。不安が次から次へと広がり、14億人の国全体が制御不能に陥ったとしたらどうだろうか。
中国共産党は、騒動が流行らないようにする方法は、隔離することだと学んでいた。中国共産党は、中国の少数民族であるチベット人、そして最近ではトルコ系の少数民族であるイスラム教徒のウイグル人を、大規模な検疫や監禁によって無力化することに特に長けていたが、これは電子監視ネットワークによって管理され、刑務所や奴隷労働収容所への道を開いた。2019年までには、中国のウイグル人の悲惨な運命は、彼らの強制労働から大きな利益を得ている多くの人々の間でも、心からの関心事となっていたのか、それとも単に広報活動を重視していただけなのかを問わず、関心事となっていた。
新疆ウイグル自治区(東トルキスタン)は、イランとほぼ同じ大きさの中国北西部に位置し、石炭や石油、天然ガスなどの資源が豊富な地域である。パキスタンと国境を接する新疆は、ベルト・アンド・ロード構想の重要な供給ルートの終着点であり、世界的な中国の利権圏を創造するための1兆ドルのプロジェクトである。BRIの潜在的な混乱は、中国の重要な利益への脅威を構成する。習近平は2014年4月、ウイグル族の戦闘員が駅で150人以上を刺した事件を、取り締まりの機会と捉えた。
「壊滅的な攻撃を備えよ」Xi は警察官および軍隊に言った。彼の副官は、一斉に命令を出した。「全員を切り上げろ」との命令が下された 情けをかけた役人は自ら拘留され、屈辱を受け、「新疆のための党中央指導部の戦略」に背くための手本とされた。
2019年11月のニューヨーク・タイムズ紙の報道によると、中国当局が最も心配していたのは、省外の学校から帰宅したウイグル族の学生たちだった。学生たちは「国全体に広く社会的なつながりを持っていた」し、当局が恐れていた『影響力』が『広く、根絶するのが難しい』ソーシャルメディアを使用していた。任務は、収容所内で実際に起こっていることのニュースを隔離することだった。学生が愛する人はどこにいるのか、何があったのかと尋ねると、当局は「彼らの親族はイスラム過激主義の『ウイルス』に『感染』しているので、隔離して治療しなければならない」と学生に伝えるように助言された。
しかし、中国の封鎖政策の対象となったのは、テロ攻撃を実行する可能性の高い若い男性だけではなかった。文書によると、当局者は「暴力を振るうには年を取りすぎていると思われる祖父母や家族でさえも免れない」と言われたという。
2019年秋に本物のウイルスがヒットしたとき、中国当局は同じプロトコルに従い、問題を起こす可能性のある者だけでなく、武漢のすべての人を隔離し、わずか数ヶ月前に同じ都市で鎮圧したものよりもさらに大きな世論の反発を避けることを望んだ。
病気ではない者を隔離するロックダウンが、これまで公衆衛生対策として採用されてこなかったのには、それなりの理由がある。都市、州、または国の主要メンバーは、彼らが大規模な人口に集団的な罰を課していることを示すために意味がない限り、自分自身を投獄しない。政治的抑圧の手段として広く認知されているため、これまで公衆衛生対策として使われたことはなかった。
2019年12月末、中国当局は、新しいウイルスに言及したソーシャルメディアアカウントのロックダウンを開始し、それを警告したり、同僚とそれについて話したりした医師は叱責され、COVID-19に感染したとされる別の人が死亡しました。武漢を出入りする国内旅行はすべて停止されました。もし封鎖の目的が感染の拡大を防ぐことだったとすれば、国際便が継続していたことは注目に値します。むしろ、ソーシャルメディアの検閲と同様に、国内旅行の禁止は、政府の失態が中国全土に広がらないようにし、大規模な、おそらく制御不能な不安を招くことを防ぐためのものだったように思われる。
6月と7月に武漢の通りが埋め尽くされたのは、ある都市の人口を蝕む焼却炉の計画を隠していた当局の致命的な無能さに抗議するためだったとしたら、中国全土を蝕む運命にある呼吸器疾患の原因が、当局が主張するような湿った市場で起こった自然の偶然ではなく、中国共産党の武漢ウイルス研究所であることを知ったとき、中国国民はどのように反応するだろうか?
1月、トランプ政権の元国家安全保障副顧問マット・ポッティンジャー氏は英国当局者に、最新のアメリカの情報によると、COVID-19の最も可能性の高いソースは武漢のウイルス研究所であると語った。ポッティンジャー氏の発言を報じた数少ない欧米の報道機関の一つである英紙デイリー・メールによると、ポッティンジャー氏は、病原体が漏洩か事故によって逃げ出した可能性があると主張した。
1月に発表された国務省のファクトシートによると、米国は「武漢の研究室内の数人の研究者が2019年秋、最初に確認された感染例が発生する前に発病したと信じるに足る理由がある」としている。ファクトシートはさらに、中国政府の研究室が2016年からCOVID-19に最も類似したコウモリコロナウイルスの研究を行ってきたことを説明している。少なくとも2017年以降、WIVは中国軍に代わって機密研究を行ってきた。「米国は長年にわたり、中国の過去の生物兵器作業について公に懸念を表明してきたが、北京は生物兵器禁止条約の下で明確な義務を負っているにもかかわらず、文書化も実証もしていない。」
パンデミックが武漢の湿った市場で始まったのではないという証拠は、北京が1月23日に封鎖を実施した数日後の2020年1月に早くも発表されている。イギリスの医学誌「ランセット」によると、最初のものを含む41例のうち13例は市場との関連性がなかったという。5月には中国の疾病管理・予防センターの責任者が、COVID-19と湿潤市場を結びつけるものは何もなかったことを確認した。「新型コロナウイルスは、市場で発見されるずっと前から存在していた」と、中国の関係者は述べた。
ランセットの報告の後、トランプ政権に近い共和党当局者は、北京の公式アカウントに異議を唱えた。「我々はそれがどこで発生したかを知らないし、我々はそれの底を取得しなければならない」上院議員トム・コットンは2月に言った。「また、その食品市場から数マイル離れたところには、中国唯一のバイオ安全レベル4のスーパーラボがあり、ヒト感染症を研究していることも知っている。」コットン氏は、中国は二枚舌で不誠実だったと述べた。「私たちは、少なくとも証拠が何を示しているのかを確認するために質問をする必要があります。中国は今、その質問に対して何の証拠も提示していない」とコットン氏は述べた。
アメリカのマスコミは、コットンの答えを探す姿勢を軽蔑した。ジェフ・ベゾスのワシントン・ポスト紙は、コットンは「専門家によって何度も否定されてきた陰謀論の火種を撒き散らしている」と主張した。トランプ氏は、コロナウイルスが武漢の研究室で発生したものであると確信していると大統領が発言した時、アメリカのスパイサービスと矛盾していると嘲笑された。テッド・クルーズ上院議員は「パンデミックの起源についての明白な疑問を否定することで、マスコミは中国共産党のプロパガンダを作り出すために、��ャーナリズムのすべてのふりを放棄している」と述べた。
昨年の冬以来、トランプ氏とGOP当局者が行っていたのと同じケースを主張したニコルソン・ベイカー氏によるニューヨーク・マガジンの記事が1月に発表されたことは、有益な疑問を投げかけている。なぜジャーナリストたちは、北京のコロナウイルスの起源についてのトランプ政権の懐疑論を自動的に否定しようとしたのだろうか?なぜ選挙後まで待って、中国共産党の話が偽りであるという証拠の公表を許したのか。確かに、メディアはバイデン氏を好んでおり、何としてでもトランプ氏を追い出そうとしていたが、中国とCOVID-19についての真実をアメリカ人に伝えることが民主党の選挙にどのような影響を与えるだろうか?
中国はアメリカのマスコミに多くの友人を育ててきたからこそ、マスコミは中国政府の統計を素直な顔で伝えている。しかし、重要なのはこの事実である。中国共産党のナラティブを正当化する際に、メディアは主に中国のためではなく、中国から権力、富、威信を得ているアメリカ人階級のために報道しているのだ。いや、北京は悪者ではなく、国際的に責任ある利害関係者なのだ。実際、私たちは中国のリードに従うべきだ。そして3月までには、トランプ氏が最初に同意したことで、アメリカの当局者は、歴史上、独裁大国が自国民を黙らせるために使ってきたのと同じ抑圧的な措置をアメリカ人にも課した。
やがて、親中派の寡頭政治家たちは、封鎖がもたらした恩恵の全容に気づくようになった。ロックダウンは主要な寡頭政治家をより豊かにし、ベゾス単独の場合は850億ドルもの富を得たが、その一方でトランプ氏の中小企業基盤を困窮させた。市や州の当局は、不定法な規制を課すことで、独裁政治を正常化したのである��そして、少なくとも、アメリカの組織には、代議員の3分の1しか選ばれていない候補者に指名を与え、大統領選挙期間中は地下室に閉じ込めておくという、もっともらしい理由があった。しかし、ある意味では、ジョー・バイデンは、数十年続いた米中関係の軌道を正常に戻すことを意味していたのである。
----- バイデン氏の当選後、中国の外相は米中関係のリセットを求めたが、中国の活動家はバイデン氏の対中政策はすでに決まっていると言う。「私はバイデン政権に非常に懐疑的だ。なぜなら、彼が中国を21世紀のウイグル人の大量虐殺である正常な状態に戻すことを許すのではないかと心配しているからだ」と、ある人権活動家は選挙後、ニューヨーク・タイムズ紙に語った。バイデン氏が大統領になったことで、ある人権活動家は「ホワイトハウスに習近平氏が座っているようなものだ」と語った。
11月には、北京政府に近い中国のシンクタンクのトップが行った公開演説を記録したとするビデオがソーシャルメディア上で流通した。「トランプ氏は我々に対して貿易戦争を仕掛けてきた」と中国の聴衆に語った。「なぜ我々は彼に対処できなかったのか?1992年から2016年までの間、我々は常に米国との問題を解決してきたのはなぜか?それは、我々には上に人がいたからです。アメリカの中心的な権力の輪の中に、我々には古い友人がいるからです」と述べた。感謝する群衆は彼と一緒に笑った。「過去30~40年の間、私たちはアメリカの中心的な輪を利用してきました」と彼は続けた。「私が言ったように、ウォール街は非常に大きな影響力を持っています...私たちはかつてウォール街に大きく依存していました。問題は、2008年以降、彼らが衰退していることだ。最も重要なのは、2016年以降、ウォール街はトランプ氏をコントロールできなくなったことです...米中貿易戦争では、彼らは助けようとしました。アメリカの友人は、彼らは助けようとしたが、助けられなかったと言っていました。バイデンが選挙に勝った今、伝統的なエリート、政治的エリート、既成政党は、ウォール街と非常に密接な関係を持っています」
本当だろうか?ジャネット・イエレン財務長官がウォール街の聴衆の前で演説しただけで稼いだ小金は公の記録である。しかし彼女は先月の公聴会で北京に厳しい言葉を浴びせ、中国共産党のウイグル人に対する『恐ろしい人権侵害』を批判した。しかし、バイデン氏が国家安全保障のトップポストに指名した人物の履歴書は、別の話を物語っている。次期国家情報長官のアヴリル・ヘインズと国務長官のアントニー・ブリンケンは、選挙の直前に中国共産党のための仕事をウェブサイトから削除したWestExecというベルトウェイの会社で働いていた。
ペンタゴンの3番手に抜擢されたコリン・カール氏は、スタンフォード大学の研究所に勤務していた。この研究所は北京大学と提携しており、元中国共産党のスパイチーフが運営する学校で、欧米の諜報機関からは安全保障上のリスクがあると長い間見られていた。
アメリカ進歩センターのシンクタンクの責任者として、バイデンが管理予算局の長官に指名したニーラ・タンデンは、中国共産党の「政策と権威に対する潜在的な反対の情報源を共謀して無力化し、中国共産党の「海外の中国社会、外国政府、およびその他の行為者に影響を与え、北京を支持する行動を取るか、または立場を採用する」ための隠れ蓑として創設された米中交流組織と手を組んでいた。
バイデンの大統領人事特別補佐官トーマス・ジマーマンは上海社会科学院の研究員で、中国の国家安全保障省との関係があるとして欧米の諜報機関から注目されていた。
リンダ・トーマス・グリーンフィールド国連大使は、ジョージア州サバンナで開催された中国政府が出資する孔子学院で2019年の講演を行い、アフリカにおけるグッドガバナンス、ジェンダー・エクイティ、法の支配を推進する上での中国の役割を称賛した。「中国がこれらの価値観を共有できない理由はない。実際、中国はアフリカ大陸に強い足跡を残していることから、これらの理想を広めるためのユニークな立場にある」と述べた。
次期司令官の家族は、中国軍とつながりのあるビジネスマンから500万ドルの無利子融資を受けたと報じられ、バイデンの息子ハンターは中国のビジネスパートナーを『中国のスパイ長』と呼んでいた。ハンター・バイデンの中国共産党との結びつき疑惑の選挙前の報道をマスコミやソーシャルメディアが検閲したのは、彼を守るためではなかった-500万ドルは、ベゾスがパンデミックの間に毎時稼いでいた額よりも少ない。いや、親中派の寡頭制にとって、ジョー・バイデンを当選させたのは自分たちを守るためだったのだ。
バイデン政権はトランプ政権の積極的な中国の技術産業の巻き戻し努力を継続すると主張する報道は誤りである。新政権には、米中関係を軌道に乗せようと躍起になっているアメリカのハイテク産業のロビイストがいっぱいいる。バイデンのロン・クライン参謀長は、ワシントンのシリコンバレーを代表してロビー活動を行っている業界団体「テックネット」の元役員会メンバーでした。バイデンのホワイトハウス顧問はスティーブ・リチェッティで、弟のジェフは選挙直後にアマゾンのロビー活動のために雇われた。
イエレンは、「中国は明らかに我々の最も重要な戦略的競争相手である」と述べている。しかし、親中派の寡頭制は、富、権力、威信を得ている国と競合しているわけではない。中国の独裁政治が彼らのモデルなのだ。ワシントンD.C.全体に2万人以上の米軍メンバーを配備したことを考えてみよう。反乱やクーデターとされた散発的に暴力的な抗議デモ行進の結果、公の場ではほとんど姿を見せない大統領の就任式の警備のために、ワシントンD.C.に2万人以上の米軍メンバーを配備したこと、ソーシャルメディアからの反対の声の除去と、競合するソーシャルメディアのプラットフォーム自体の除去、トランプ支持者のアメリカの半分の人々が医療、クレジット、法的手段、教育、雇用へのアクセスから遠ざかるようにしたこと、現政権の政策への抗議を「国内テロリズム」として再定義するという究極の目標を持っていること、などを踏まえて考えてみてほしい。
明らかなのは、バイデン氏の就任は、中国との関係を自国の同胞に対する盾と剣と見なしているアメリカの寡頭制の覇権を示すものであるということである。アテネの「三十人の暴君」のように、彼らは、創造主によって与えられた全市民の自然権を認める政治システムを単に軽蔑しているのではなく、自分たちが支配している人々が、自分たちと同じ権利を持っているという考え方を特に軽蔑している。言論は、それを適切に使う方法を知っている賢明な少数の者だけが自由にできるものであるべきだ、という考えに対する彼らの新たな尊敬の念を見るといい。クリティアスや親パルタ派のように、新しいアメリカの寡頭制は、民主主義の失敗は自分たちの権力に対する独占的な権利の証明であり、自分たちの同胞を破壊するのを助ける外国の力と協力して統治することを喜んでいると考えている。
歴史はこの瞬間について何を教えてくれるのだろうか。悪いニュースは、30人の暴君がアテネの著名な民主主義者を追放し、アテネの人口の推定5%を殺害しながら彼らの財産を没収したこと。良いニュースは、彼らの支配は1年未満であったということだ。
[リー・スミスは、新たに出版された本『The Permanent Coup』の著者である。国内外の敵はどのようにしてアメリカ大統領を標的にしたのか』の著者である。]
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monqu1y · 5 years ago
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索引
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 NHKは,2017年8月13日,恒例の日本軍悪玉論にのっとった番組のひとつとしてNHKスペシャル「731部隊の真実~エリート医学者と人体実験」(五十分)を放送した.それにとどまらず「大きな反響があった」として五ヵ月後の今年一月二十一日,二倍の長さに再編集してBS1スペシャル「731部隊 人体実験はこうして拡大した/隊員たちの素顔」(百分)を放送した  七三一部隊とは関東軍防疫給水部の通称である.防疫給水部は日本陸軍に置かれた疫病対策を目的とした医務と浄水を行う部隊だ.七三一部隊が細菌戦の研究も行っていたのは事実だが,細菌兵器の人体実験や中国での実地使用については見方が分かれている  これらの番組では,今回NHKがロシア国立音声記録アーカイブで発見した,「ハバロフスク裁判」における被告と証人の音声テープを証拠として関東軍による細菌兵器の人体実験と実地使用を事実として報道した  なぜ今ごろ六十八年も前のハバロフスク裁判なのか.私は「死人に口なし」の故人被告を当時の音声テープを持ち出して一方的に裁く「第二のハバロフスク裁判」(今度は欠席裁判)を意図したと見ている.ふたたび極悪非道な犯罪者として断罪したのである  ハバロフスク裁判とは,ソ連極東のハバロフスクで一九四九年十二月二十五日から十二月三十日までの六日間,主に関特演(関東軍特種演習)や関東軍防疫給水部,いわゆる七三一部隊などに関して抑留日本将兵を裁いた軍事裁判のことである.ハバロフスク地方は十五万人以上の日本人を抑留した最大の抑留地であり,かつ最後に日本人「戦犯」を集結させた収容所もあったし,日本人向けの宣伝新聞「日本新聞」を編集発行した場所でもあるから象徴的な意味を持っていた
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 NHKはこのハバロフスク裁判が公正な取調べに基いた公正な裁判であるとの前提で,音声テープをあたかも鬼の首を取ったかのように放送した.しかし,ソ連における「戦犯」裁判に公正な取調べも公正な裁判もなかったことはとうに明らかなのだ.この番組には共産主義独裁国家の司法制度に対する理解がまったく欠けているといわざるをえない  まず日本兵のシベリア抑留が国際法(ジュネーヴ条約)とポツダム宣言の「日本兵は速やかに帰国させるべし」との規定に違反する不法な長期抑留であった.加えて,「戦犯」裁判は,弁護士の接見など容疑者の正当な権利などかけらもない密室での強要,拷問などを伴う長期の尋問によってでっちあげられた尋問調書を証拠として,まともな審理も弁護もないままあらかじめ決めた判決を言い渡すだけの形骸化した裁判だった.私はかねて日本人「戦犯」受刑者は無実の囚人だと論証してきた
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 その「戦犯」裁判のひとつであるハバロフスク裁判も後述するようにフェイク(偽)裁判,もしくは暗黒裁判である.それゆえ,この裁判での被告の供述と証人の証言は,たとえ当人の肉声テープであっても真実を証明する証拠と認めることはできない.言い換えれば,このテープには裁判での証拠能力がない  念のために申せば,音声テープの証言内容がすべて嘘だといっているわけではない.ハバロフスク裁判の虚妄性を踏まえた上で,個々の証言が真実なのか真実でないのか,厳密かつ公正に検証すべきなのである  まずNHKは大好きな日本国憲法の第三十八条第二項をよく噛みしめてみるべきだろう  《強制,拷問若しくは脅迫による自白又は不当に長く抑留若しくは拘禁された後の自白は,これを証拠とすることができない》  これは近代法の大原則である.国内の冤罪裁判には過敏なほど反応をするNHKなのだからこの条項の重要性はもとより承知のはずだ.仮に強制,拷問,脅迫はなかったと仮定しても,ソ連で四年の長きにわたって抑留・拘禁されたなかでの供述というだけで法廷での証拠能力は否定されるであろう  ソ連はシベリア抑留の当初から捕虜にした日本人軍民のなかから「戦犯」を捜し出して裁くという行動を意図的に取った.満洲,北朝鮮,樺太,千島に侵攻したソ連軍は,悪名高い「スメルシュ(防諜特別管理局)」を使って日本人軍民の「戦犯」容疑者を摘発し拘束した.摘発の対象となったのは山田乙三関東軍総司令官などの高級将校,憲��,特務機関員だけでなく警察官,司法関係者,行政幹部,満洲国協和会関係者,民間会社の役員などの「前職者」も含まれた.もちろん七三一部隊の隊員もターゲットになっていた  ソ連���務省捕虜抑留者管理総局の昭和二十四年三月二十二日付の資料によれば,八八七〇人もの日本人が「戦犯」容疑者として登録され,うち二〇六人が七三一部隊員となっている.このなかからソ連当局が公開裁判に出廷させるのにふさわしいと認定した人が東京裁判とハバロフスク裁判に被告や証人として出廷させられ,二六〇〇人余りが二十年,二十五年といった長期刑を宣告された  ソ連では逮捕―取調べ―裁判―判決という形式は一応あった.しかしそれらの内実は西側の司法制度とは大きくかけ離れたものだったのだ.若槻泰雄の『シベリア捕虜収容所』などによれば,密告が奨励され,拷問が常套手段として使われ,自白が偏重され,裁判ではまともな弁護が行われず,実行行為ではなく企図や思想や職務が裁かれ,欠席裁判が横行し,銃殺や過重な長期刑が科されたのである  容疑者は監獄か収容所で取調べられるのだが,夕方から始まって深夜や明け方に及ぶのが常だった.寝静まった夜更け,薄暗い電灯の下で尋問されるだけで恐怖を覚えさせる.不眠と疲労で意識がもうろうとするなか自白を迫るのは一種の拷問だった.取調官が拳銃をちらつかせて脅すこともよくあった.このほか絶食,減食,水攻め,寒冷攻め,脅迫,暴力などがあった
以下はNHKによる捏造虚報情宣 731部隊の真実~エリート医学者と人体実験~  戦時中,細菌兵器の開発を行った日本軍の秘密部隊,関東軍防疫給水部,通称731部隊.この組織の全貌を知る手がかりがロシアのモスクワで発見された.命を守るべき医学者が,なぜ人体実験に手を染めたのか.70年の時を経て明らかになるその真実とは 人体実験を主導したエリート医学者  当事者たちの肉声を記録した22時間に及ぶ音声テープ.終戦から4年後,731部隊の幹部らを裁くために旧ソ連で開かれた軍事裁判の音声記録だ.細菌兵器開発のために,生きた人間を実験の材料として使ったと証言されていた  
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「秘密中の秘密というのは,細菌戦をもって攻撃をやるという研究をやったということと.それから人体実験を行ったという2つの点であります」(関東軍 梶塚軍医部長の証言)  731部隊が実験を行っていたのは,中国東北部の旧満洲にある秘密研究所.実験材料とされ,亡くなった人は3,000人に上るとも言われている.NHKが収集した国内外の数百点に及ぶ資料から,軍人だけでなく,東大や京大などから集められたエリート医学者たちも,人体実験を主導していた実態が浮かび上がった.専門知識を持った医学者が集められ,組織されたことで,実験が大規模に進められていったのだ  中国東北部ハルビンの郊外20キロに,今も731部隊の本部跡が残る.部隊は,周囲数キロに及ぶ広大な敷地で極秘に研究を進めていた.四角い3階建てのビルには最先端の研究室が並び,その中央には周囲から見えない形で牢獄が設置され,実験材料とされた人々がとらわれていたという
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 731部隊が編成されたのは1936年.当時,日本は旧満州に進出し,軍事的脅威となっていたソ連に対抗するため細菌兵器を開発していた.細菌兵器は当時,国際条約で使用が禁止されていたが,部隊を率いていた軍医 石井四郎は,防衛目的の研究はできるとして開発を進めた.部隊の人数は最大3,000人.石井は細菌兵器開発のため,全国の大学から医学者を集めていた  極秘だった731部隊の研究活動を公にしたのが,終戦の4年後に旧ソ連が開いた軍事裁判,ハバロフスク裁判.今回見つかった音声記録では,部隊の中枢メンバーが,人体実験の詳細を証言していた  Q 人体実験はどのように行われたのか,できる限り詳しく話してください  「昭和18年の末だと記憶しています.ワクチンの効力検定をやるために,中国人,それから満人(満州人)を約50名余り人体実験に使用しました.砂糖水を作って,砂糖水の中にチブス菌を入れて,そしてそれを強制的に飲ませて細菌に感染をさせて,そして,その人体実験によって亡くなった人は,12~13名だと記憶しています」(731部隊 衛生兵 古都証人)  医学者たちの指示の元で,致死率の高い細菌を使って人体実験を繰り返したと語られた  「ペストノミ(ペストに感染させたのみ)の実験をする建物があります.その建物の中に約4~5名の囚人を入れまして,その家の中にペストノミを散布させて,そうしてその後,その実験に使った囚人は全部,ペストにかかったと言いました」(731部隊 軍医 西俊英)
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 当時,日本軍は日本に反発する中国やソ連の人を匪賊(ひぞく)と呼び,スパイや思想犯としてとらえていた.ロシアで発見された資料には,逆スパイにするなどの利用価値がないと軍が判断した人は,裁判を経ずに部隊に送られたと記されている.その中には,女性や子どもも含まれていたと裁判で証言されていた  こうした人体実験に,大学から集められた医学者たちは,どう関わっていたのか.当時を知る元部隊員,三角武さんは事実を知ってほしいと今回初めて取材に応じた.部隊が保有する飛行機の整備に携わった三角さんは,医学者の実験のため,囚人が演習場へ運ばれたときに立ち会っていた.囚人は頭を丸坊主に刈られ,「マルタ」と呼ばれていたという  「杭を打ってね,ずーっと杭を打って,そこにマルタをつないどくんです.実験の計画に沿って憲兵が連れて行って,“何番の杭に誰を縛る”とかって,“つなぐ”とかっていう,やるわけね」(三角さん)  三角さんたちは少年隊員と呼ばれ,1年間,細菌学などの教育を受けた.指導したのは全国の大学から集められた優秀な医学者だった  「薬学博士だとか,理学博士,医学博士なんてえのが,いっぱいいますからね.だから『731部隊』って言えば,そういった各界の権威が集まってましたよ.」(三角さん)  元少年隊員の1人,須永鬼久太さんは,731部隊の戦友会が戦後まとめた名簿を保管していた.載っていたのは731部隊に集められていた医学者たちの出身大学と名前.こうした人々は軍に所属し,技師と呼ばれていた  NHKはこの資料のほか,現存する部隊名簿や論文から技師の経歴を洗い出した.その結果,最も多くの研究者を出していたのは京都大学,次いで東京大学だったことが明らかになった.少なくとも10の大学や研究機関から,あわせて40人の研究者が731部隊に集められていた
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 「技師」となった医学者たちは,軍医と並ぶ将校クラスとして位置づけられ,731部隊の中枢にいた.エリート医学者が部隊の研究を主導していた 大学と731部隊の知られざる関係
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 なぜ,これほど多くの医学者が731部隊に関わることになったのか.取材を進めるうち,部隊と大学の知られざる関係が浮かび上がってきた.最も多い11人の技師が確認された京都大学.京都大学大学文書館で,731部隊と大学の金銭のやりとりを示す文書が初めて見つかった  細菌研究の報酬として1,600円,現在の金額で500万円近い金額を受け取っていたのは,医学部助教授だった田部井和(たべい・かなう).致死率の高いチフス菌を研究していた田部井は,731部隊設立後まもなく赴任し,研究班の責任者になった  田部井がそこでどんな実験をしていたのか,部下が証言している  731部隊 衛生兵 古都証人:チブス菌を注射器でもってスイカ,マクワ(うり)に注射しました.そしてそれを研究室へ持って帰って,菌がどのように繁殖したか,または減ったか等を検査しました.そして完全に菌が増殖してるのを確かめてから,それを満州人と支那人に,約5~6名の人間に対して食べさせました  通訳:果物を食べた哀れな人間は,どうなったんですか  古都証人:全員感染しました  同じ時期,京大からは医学者7人が部隊に赴任.取材を進めると,教え子たちを部隊へ送ったとみられる教授たちの存在が浮かび上がってきた.大きな影響力を持っていたのが,京都帝国大学の医学部長を2度務めた戸田正三.戸田は軍と結びつくことで多額の研究費を集めていた 戸田の研究報告書には,陸軍などから委託された防寒服の研究で8,000円.軍の進出先での衛生状態の研究で7,000円.現在の額で合わせて2億5,000万円にのぼる研究費を得ていたことが記されていた
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 軍と戸田が関係を深めるきっかけとなったのが,満州事変だ.傀儡国家・満州国が建国されると,国民はそれを支持.こうした世論の中で,大学は満洲の病院などに医師を派遣.現地の人々を病気から守る防疫活動のためとして,ポスト争いを始める.東大や慶応大などと競いながら,京大は派遣する医師の数を急増させていく  こうした中,大学への影響力を拡大したのが731部隊だ.部隊内で石井に次ぐ部長を歴任した川島清は,731部隊には,昭和15年度だけでも今の金額で300億円の国家予算が与えられていたとハバロフスク裁判で証言している.巨額の予算を動かしていたのが731部隊の部隊長,石井四郎だ.京大医学部出身の石井は,母校の指導教官の1人だった戸田と関係を深めていた  教え子が書いた回顧録(雑誌「国民衛生」)には,戸田が中国の731部隊の関連施設を繰り返し訪れていたことが記されている.戸田と関係が深い教授の研究室からは8人の医学者が,京大全体では11人が731部隊へ赴任したことが分かっている  京大に次いで,多くの研究者が731部隊に集められた東京大学.取材に対し「組織として,積極的に関わったとは認識していない」と回答している.その東大の幹部が石井と交流していた事実が,取材から明らかになった.医学者で東大の総長を務めた��與又郎だ  遺族の許可を得て入手した長與の日記には,総長時代から石井と接点があったこと.そして退任後の昭和15年,731部隊の本部を長與が視察した際,水炊きを囲んだ歓迎会が開かれ,石井や東大出身の部隊員らが同席していたことが記されていた
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 東大からは戦時中,少なくとも6人が集められたことが分かっている  石井が大学の幹部と結びつく中で,集められていった医学者たち.医学者の中には,731部隊に送られた経緯を詳細に書き残していた人もいた.京大医学部の講師だった吉村寿人は,基礎医学の研究で多くの命を救いたいと医学者を志したという.国内で研究を続けたいと思いながらも,教授の命令には抗えなかったと回想している  「軍の方と既に約束済みのような様子であった.先生は突然,満州の陸軍の技術援助をせよと命令された.せっかく熱を上げてきた研究を捨てることは,身を切られるほどつらいことであるから,私は即座に断った.ところが先生は『今の日本の現状からこれを断るのは,もってのほかである.もし軍に入らねば破門するから出て行け』と言われた」(吉村の回想「喜寿回顧」より)  生理学が専門だった吉村は,731部隊で凍傷の研究を命じられた.当時,関東軍の兵士たちは,寒さによる凍傷に悩まされていた.その症例と対策を探る目的で人体実験を行っていた様子が,裁判で語られていた  「吉村技師から聞きましたところによりますと,極寒期において約,零下20度ぐらいのところに監獄におります人間を外に出しまして,そこに大きな扇風機をかけまして風を送って,その囚人の手を凍らして凍傷を人工的に作って研究しておるということを言いました.」(731部隊 軍医 西俊英)  「人体実験を自分で見たのは,1940年の確か12月頃だったと思います.まず,その研究室に入りますと,長い椅子に5名の中国人のその囚人が腰を掛けておりました.それで,その中国人の手を見ますと,3人は手の指がもう全部黒くなって落ちておりました.残りの2人は指がやはり黒くなって,ただ骨だけ残っておりました.吉村技師のそのときの説明によりますと凍傷実験の結果,こういうことになったということを聞きました.」(731部隊憲兵班 倉員証人)  吉村は部隊で凍傷研究を進めながら,満洲の医学会で論文も発表していた.論文には様々な条件に人体をおいて,実験していたことが記されていた.絶食3日,一昼夜不眠などの状態においてから,零度の氷水に指を30分浸けて観察していた  部隊から高額の報酬を受け取っていた京大の田部井は,実験室での研究から実戦使用の段階へと進んでいく.開発していたのは細菌爆弾.大量感染を引き起こす研究を始めていたのだ.一度に10人以上の囚人を使い,効果を確かめたと部下が証言している
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 「安達の演習場で自分の参加した実験はチフス菌であります.それ��瀬戸物で作った大砲の弾と同じ形をした細菌弾であります.空中でもって爆破して,地上に噴霧状態になって,その菌が落ちるようになってました.そして菌が地上に落ちたところを,被実験者を通過させたのと,それから杭に強制的に縛り付けておいて,その上でもって爆破して,頭の上から菌をかぶせたのと2通りの方法が行われました.大部分の者が感染して,4人か5人か亡くなりました」(731部隊 衛生兵 古都証人) 医学者は なぜ一線を越えたのか  本来,人の命を守るべき医学者は,なぜ一線を越えたのか.それを後押ししたとみられるのが日本国内の世論だ
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 1937年,日中戦争が勃発.中国側の激しい抗戦で日本側の犠牲も増えていった.日本軍は反発する中国人らを匪賊と呼び,掃討作戦を行った.政府もメディアも日本の犠牲を強調する中,匪賊に対する敵意が高まり,世論は軍による処罰を支持した  そうした時代の空気と研究者は,無縁ではなかった.731部隊以外でも学術界では匪賊を蔑視する感情が広がっていた.それを示す資料が北海道大学で見つかっている.当時の厚生省が主催する研究会が発行した雑誌「民族衛生資料」だ.染色体を研究する大学教授の講演の記録には,軍に捕らえられた匪賊を,生きたまま研究材料としたことが,公に語られていた  「匪賊が人間を殺すならば,その報復ではないが,その匪賊を材料にしてはどうかと思いついた.死んだものは絶対にだめである…染色体の状態が著しく悪くなる.匪賊一人を犠牲にしたことは,決して無意義ではありません.これほど立派な材料は従来断じてないということだけはできます.」(「民族衛生資料」 北海道帝国大学教授 講演録) 14歳の時に731部隊に入隊した三角さんは,匪賊は死刑囚だから実験材料として利用して良いと教えられたという  「『こういう時代なんだから,そうしなきゃ,俺たちがやられるんだよ』と.そういった考えでしたね.口には出せないです.かわいそうだとかなんとかということを見ても,口に出せない.出したら,非国民だとやられちゃう.そういった雰囲気というか,そういった一般的な風潮がそうだったんです」(三角さん)  戦争が泥沼化していった1940年代.731部隊は中国中部の複数の都市で少なくとも3回,細菌を散布.細菌兵器での攻撃は国際条約で禁止されていたが,日本は批准しないまま秘かに使用した  「私がおりました間のことを申しますと,昭和16年に第1回,それから昭和17年に1回,中支において第731部隊の派遣隊は,中国の軍隊に対して細菌武器を使用しました.」(731部隊第一部(細菌研究)部長 川島清)  さらに民間人にまで感染を広げる目的で,中国の集落に細菌をまいたと証言されていた  使われる細菌は,主としてペスト菌,コレラ菌,パラチフス菌であることが決定しました.ペスト菌は主としてペストノミの形で使われました.その他のものはそのまま水源とか井戸とか貯水池というようなところに散布されたのであります」(731部隊第一部(細菌研究)部長 川島清)  そして戦争末期の1945年8月9日,ソ連が満州に侵攻,731部隊はただちに撤退を始める.部隊は証拠隠滅のため,全囚人を殺害.実験施設を徹底的に破壊し,箝口令をしいた.少年隊員の三角さんは,このとき死体の処理を命じられた  「その死体の処理に『少年隊,来い』って言って引っ張られて行って,死体の処理を各独房から引っ張り出して,中庭で鉄骨で井桁組んでガソリンぶっかけて焼いたわけ.焼いて全部焼き殺して骨だけにして,今度骨を拾うの.『いや,戦争っていうのがこんなものか』と.戦争ってのは絶対するもんじゃないと.つくづくそう思いましたね.ほんとにね,1人で泣いた」(三角さん)  人体実験を主導した医学者たちは,ソ連の侵攻前に,特別列車でいち早く日本に帰国.戦後,その行為について罪に問われることはなかった.アメリカは人体実験のデータ提供と引き替えに,隊員の責任を免除したのだ  多くの教え子を部隊に送ったと見られる戸田正三は,金沢大学の学長に就任.部隊との関わりは語らないまま,医学界の重鎮となった.チフス菌の爆弾を開発していた田部井和は,京都大学の教授となり,細菌学の権威に.凍傷研究の吉村寿人も教授に就任.「自分は非人道的な実験は行っていない」と生涯否定し続けた  「私は軍隊内において,凍傷や凍死から兵隊をいかにして守るかについて,部隊長の命令に従って研究したのであって,決して良心を失った悪魔になったわけではない」(吉村の回想「喜寿回顧」)  今回発見された音声記録.その最後には,被告たちが自らの心情を語った発言が残っていた.731部隊の軍医,柄沢十三夫は人体実験に使われた細菌を培養した責任者だった.戦争が終わってから初めて,罪の重さに気づいたと語っている  「自分は現在平凡な人間といたしまして,自分の実際の心の中に思っていることを少し申してみたいと思います.私には現在日本に,82になります母と,妻並びに2名の子どもがございます.なお,私は自分の犯した罪の非常に大なることを自覚しております.そうして終始懺悔をし,後悔をしております.私は将来生まれ変わって,もし余生がありましたらば,自分の行いました悪事に対しまして,生まれ変わった人間として人類のために尽くしたいと思っております」(731部隊 軍医 柄沢十三夫)  柄沢は刑に服した後,帰国直前に自殺したと伝えられている  今,私たちに問いかける医学者と731部隊の真実.それは日本が戦争へと突き進む中で,いつのまにか人として守るべき一線を越えていった,この国の姿だった  この記事は,2017年8月13日に放送した 「NHKスペシャル 731部隊の真実~エリート医学者と人体実験~」 を基に制作しています  この番組は  nhk-ondemand  で配信中 上記はNHKによる捏造虚報情宣
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nyantria · 8 years ago
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* 秋元寿恵 東京帝大出身の血清学者     1984年12月の証言 部隊に着任して人体実験のことを知った時は非常にショックを受けました。 あそこにいた科学者たちで良心の呵責を感じている者はほとんどいませんでした。 彼らは囚人たちを動物のように扱っていました。 ・・・・死にゆく過程で医学の発展に貢献できるなら名誉の死となると考えていたわけです。 私の仕事には人体実験は関係していませんでしたが、私は恐れおののいてしまいました。 私は所属部の部長である菊地少将に3回も4回も辞表を出しました。 しかしあそこから抜け出すことは出来ませんでした。 もし出て行こうとするならば秘かに処刑されると脅されました。 * 鎌田信雄 731部隊少年隊 1923年生      1995年10月 証言 私は石井部隊長の発案で集められた「まぼろしの少年隊1期生」でした。 注: 正式な1期から4期まではこの後に組織された 総勢22~23人だったと思います。 平房の本部では朝8時から午後2時までぶっ通しで一般教養、外国語、衛生学などを勉強させられ、 3時間しか寝られないほどでした。 午後は隊員の助手をやりました。 2年半の教育が終ったときは、昭和14年7月でした。 その後、ある細菌増殖を研究する班に所属しました。 平房からハルビンに中国語を習いに行きましたが、その時白華寮(731部隊の秘密連絡所)に立ち寄りました ・・・・200部隊(731部隊の支隊・馬疫研究所)では、実験用のネズミを30万匹買い付けました。 ハルビン市北方の郊外に毒ガス実験場が何ケ所かあって、 安達実験場の隣に山を背景にした実験場があり、そこでの生体実験に立ち合ったことがあります。 安達には2回行ったことがありますが、1~2日おきに何らかの実験をしていました。 20~30人のマルタが木柱に後手に縛られていて、毒ガスボンベの栓が開きました。 その日は関東軍のお偉方がたくさん視察に来ていました。 竹田宮(天皇の従兄弟)も来ていました。 気象班が1週間以上も前から風向きや天候を調べていて大丈夫だということでしたが、 風向きが変わり、ガスがこちら側に流れてきて、あわてて逃げたこともあります ・・・・ホルマリン漬けの人体標本もたくさんつくりました。 全身のものもあれば頭や手足だけ、内臓などおびただしい数の標本が並べてありました。 初めてその部屋に入ったときには気持ちが悪くなって、何日か食事もできないほどでした。 しかし、すぐに慣れてしまいましたが、赤ん坊や子供の標本もありました ・・・・全身標本にはマルタの国籍、性別、年齢、死亡日時が書いてありましたが、 名前は書いてありませんでした。 中国人、ロシア人、朝鮮族の他にイギリス人、アメリカ人、フランス人と書いてあるのもありました。 これはここで解剖されたのか、他の支部から送られてきたものなのかはわかりません。 ヨーロッパでガラス細工の勉強をして来た人がピペットやシャ-レを造っていて、 ホルマリン漬けをいれるコルペもつくっていました。 731部隊には、子どももいました。 私は屋上から何度も、中庭で足かせをはめられたままで運動している“マルタ”を見たことがあります。 1939年の春頃のことだったと思いますが、3組の母子の“マルタ”を見ました。 1組は中国人の女が女の赤ちゃんを抱いていました。 もう1組は白系ロシア人の女と、4~5歳の女の子、 そしてもう1組は、これも白系ロシアの女で,6~7歳の男の子がそばにいました ・・・・見学という形で解剖に立ち合ったことがあります。 解剖後に取り出した内臓を入れた血だらけのバケツを運ぶなどの仕事を手伝いました。 それを経験してから1度だけでしたが、メスを持たされたことがありました。 “マルタ”の首の喉ぼとけの下からまっすぐに下にメスを入れて胸を開くのです。 これは簡単なのでだれにでもできるためやらされたのですが、 それからは解剖専門の人が細かくメスを入れていきました。 正確なデータを得るためには、できるだけ“マルタ”を普通の状態で解剖するのが望ましいわけです。 通常はクロロホルムなどの麻酔で眠らせておいてから解剖するのですが、 このときは麻酔をかけないで意識がはっきりしているマルタの手足を解剖台に縛りつけて、 意識がはっきりしているままの“マルタ”を解剖しました。 はじめは凄まじい悲鳴をあげたのですが、すぐに声はしなくなりました。 臓器を取り出して、色や重さなど、健康状態のものと比較し検定した後に、それも標本にしたのです。 他の班では、コレラ菌やチフス菌をスイカや麦の種子に植えつけて栽培し、 どのくらい毒性が残るかを研究していたところもあります。 菌に侵された種を敵地に撒くための研究だと聞きました。 片道分の燃料しか積まずに敵に体当りして死んだ特攻隊員は、天皇から頂く恩賜の酒を飲んで出撃しました。 731部隊のある人から、「あの酒には覚醒剤が入っており、部隊で開発したものだ」と聞きました ・・・・部隊には,入れかわり立ちかわり日本全国から医者の先生方がやってきて、 自分たちが研究したり、部隊の研究の指導をしたりしていました。 今の岩手医大の学長を勤めたこともある医者も、細菌学の研究のために部隊にきていました。 チフス、コレラ、赤痢などの研究では日本でも屈指の人物です。 私が解剖学を教わった石川太刀雄丸先生は、戦後金沢大学医学部の主任教授になった人物です。 チフス菌とかコレラ菌とかを低空を飛ぶ飛行機からばらまくのが「雨下」という実験でした。 航空班の人と、その細菌を扱うことができる者が飛行機に乗り込んで、村など人のいるところへ細菌をまきます。 その後どのような効果があったか調査に入りました。 ペスト菌は、ノミを介しているので陶器爆弾を使いました。 当初は陶器爆弾ではなく、ガラス爆弾が使われましたが、ガラスはだめでした。 ・・・・ペストに感染したネズミ1匹にノミを600グラム、だいたい3000~6000匹たからせて落とすと、 ノミが地上に散らばるというやり方です ・・・・ベトナム戦争で使った枯葉剤の主剤は、ダイオキシンです。 もちろん731部隊でもダイオキシンの基礎研究をやっていました。 アメリカは、この研究成果をもって行って使いました。 朝鮮戦争のときは石井部隊の医師達が朝鮮に行って、 この効果などを調べているのですが、このことは絶対に誰も話さないと思います。 アメリカが朝鮮で細菌兵器を使って自分の軍隊を防衛できなくなると困るので連れて行ったのです。 1940年に新京でペストが大流行したことがありました。(注:731部隊がやったと言われている) ・・・・そのとき隊長の命令で、ペストで死んで埋められていた死体を掘り出して、 肺や肝臓などを取り出して標本にし、本部に持って帰ったこともありました。 各車両部隊から使役に来ていた人たちに掘らせ、メスで死体の胸を割って 肺、肝臓、腎臓をとってシャ-レの培地に塗る、 明らかにペストにかかっているとわかる死体の臓器をまるまる持っていったこともあります。 私にとっては、これが1番いやなことでした。人の墓をあばくのですから・・・・ * 匿名 731部隊少佐 薬学専門家 1981年11月27日 毎日新聞に掲載されたインタビュ-から 昭和17年4月、731と516両部隊がソ満国境近くの都市ハイラル郊外の草原で3日間、合同実験をした。 「丸太」と呼ばれた囚人約100人が使われ、4つのトーチカに1回2,3人ずつが入れられた。 防毒マスクの将校が、液体青酸をびんに詰めた「茶びん」と呼ぶ毒ガス弾をトーチカ内に投げ、 窒息性ガスのホスゲンをボンベから放射した。 「丸太」にはあらかじめ心臓の動きや脈拍を見るため体にコードをつけ、 約50メ-トル離れた机の上に置いた心電図の計器などで、「死に至る体の変化」を記録した。 死が確認されると将校たちは、毒ガス残留を調べる試験紙を手にトーチカに近づき、死体を引きずり出した。 1回の実験で死ななかった者にはもう1回実験を繰り返し、全員を殺した。 死体はすべて近くに張ったテントの中で解剖した。 「丸太」の中に68歳の中国人の男性がいた。 この人は731部隊内でペスト菌を注射されたが、死ななかったので毒ガス実験に連れて来られた。 ホスゲンを浴びせても死なず、ある軍医が血管に空気を注射した。 すぐに死ぬと思われたが、死なないのでかなり太い注射器でさらに空気を入れた。 それでも生き続け、最後は木に首を吊っ��殺した。 この人の死体を解剖すると、内臓が若者のようだったので、軍医たちが驚きの声を上げたのを覚えている。 昭和17年当時、部隊の監獄に白系ロシア人の婦人5人がいた。 佐官級の陸軍技師(吉村寿人?)は箱状の冷凍装置の中に彼女等の手を突っ込ませ、 マイナス10度から同70度まで順々に温度を下げ、凍傷になっていく状況を調べた。 婦人たちの手は肉が落ち、骨が見えた。 婦人の1人は監獄内で子供を産んだが、その子もこの実験に使われた。 その後しばらくして監獄をのぞいたが、5人の婦人と子供の姿は見えなくなっていた。 死んだのだと思う。 * 山内豊紀  証言  1951年11月4日   中国档案館他編「人体実験」 われわれ研究室の小窓から、寒い冬の日に実験を受けている人がみえた。 吉村博士は6名の中国人に一定の負荷を背負わせ、一定の時間内に一定の距離を往復させ、 どんなに寒くても夏服しか着用させなかった。 みていると彼らは日ましに痩せ衰え、徐々に凍傷に冒されて、一人ひとり減っていった。 * 秦正  自筆供述書   1954年9月7日  中国档案館他編「人体実験」 私はこの文献にもとづいて第一部吉村技師をそそのかし、残酷な実験を行わせた。 1944年冬、彼は出産まもないソ連人女性愛国者に対して凍傷実験を行った。 まず手の指を水槽に浸してから、外に連れだして寒気の中にさらし、激痛から組織凍傷にまでいたらしめた。 これは凍傷病態生理学の実験で、その上で様々な温度の温水を使って「治療」を施した。 日を改めてこれをくり返し実施��た結果、その指はとうとう壊死して脱落してしまった。 (このことは、冬期凍傷における手指の具体的な変化の様子を描くよう命じられた画家から聞いた) その他、ソ連人青年1名も同様の実験に使われた。 *上田弥太郎 供述書  731部隊の研究者   1953年11月11日  中国档案館他編「人体実験」 1943年4月上旬、7・8号棟で体温を測っていたとき中国人の叫び声が聞こえたので、すぐに見に行った。 すると、警備班員2名、凍傷班員3名が、氷水を入れた桶に1人の中国人の手を浸し、 一定の時間が経過してから取り出した手を、こんどは小型扇風機の風にあてていて、 被実験者は痛みで床に倒れて叫び声をあげていた。 残酷な凍傷実験を行っていたのである。 * 上田弥太郎   731部隊の研究者 中国人民抗日戦争記念館所蔵の証言 ・・・・すでに立ち上がることさえできない彼の足には、依然として重い足かせがくいこんで、 足を動かすたびにチャラチャラと鈍い鉄の触れ合う音をたてる ・・・・外では拳銃をぶら下げたものものしい警備員が監視の目をひからせており、警備司令も覗いている。 しかし誰一人としてこの断末魔の叫びを気にとめようともしない。 こうしたことは毎日の出来事であり、別に珍しいものではない。 警備員は、ただこの中にいる200名くらいの中国人が素直に殺されること、 殺されるのに反抗しないこと、よりよきモルモット代用となることを監視すればよいのだ ・・・・ここに押し込められている人々は、すでに人間として何一つ権利がない。 彼らはこの中に入れば、その名前はアラビア数字の番号とマルタという名前に変わるのだ。 私たちはマルタ何本と呼んでいる。 そのマルタOOO号、彼がいつどこからどのようにしてここに来たかはわからない。 * 篠塚良雄     731部隊少年隊   1923年生    1994年10月証言から ・・・・1939年4月1日、「陸軍軍医学校防疫研究室に集まれ」という指示を受けました ・・・・5月12日中国の平房に転属になりました ・・・・731部隊本部に着いて、まず目に入ったのは 「関東軍司令官の許可なき者は何人といえども立入りを禁ず」と書かれた立て看板でした。 建物の回りには壕が掘られ鉄条網が張り巡らされていました。 「夜になると高圧電流が流されるから気をつけろ」という注意が与えられました ・・・・当時私は16歳でした。 私たちに教育が開始されました・・・・ 「ここは特別軍事地域に指定されており、日本軍の飛行機であってもこの上空を飛ぶことはできない。 見るな、聞くな、言うな、これが部隊の鉄則だ」というようなことも言われました。・・・・ 「防疫給水部は第1線部隊に跟随し、主として浄水を補給し直接戦力の保持増進を量り、 併せて防疫防毒を実施するを任務とする」と強調されました ・・・・石井式衛生濾水機は甲乙丙丁と車載用、駄載用、携帯用と分類されていました ・・・・濾過管は硅藻土と澱粉を混ぜて焼いたもので“ミクロコックス”と言われていました ・・・・細菌の中で1番小さいものも通さないほど性能がいいと聞きました ・・・・私は最初は動物を殺すことさえ直視できませんでした。 ウサギなどの動物に硝酸ストリキニ-ネとか青酸カリなどの毒物を注射して痙攣するのを直視させられました。 「目をつぶるな!」と言われ、もし目をつぶれば鞭が飛んでくるのです ・・・・私に命じられたのは、細菌を培養するときに使う菌株、 通称“スタム”を研究室に取りに行き運搬する仕事でした。 江島班では赤痢菌、田部井班ではチフス菌、瀬戸川班ではコレラ菌と言うように それぞれ専門の細菌研究が進められていました ・・・・生産する場所はロ号棟の1階にありました。 大型の高圧滅菌機器が20基ありました ・・・・1回に1トンの培地を溶解する溶解釜が4基ありました ・・・・細菌の大量生産で使われていたのが石井式培養缶です。 この培養缶1つで何10グラムという細菌を作ることができました。 ノモンハンのときには1日300缶を培養したことは間違いありません ・・・・ここの設備をフル稼働させますと、1日1000缶の石井式培養缶を操作する事が出来ました。 1缶何10グラムですから膨大な細菌を作ることができたわけです ・・・・1940年にはノミの増殖に動員されました ・・・・ペストの感受性の一番強い動物はネズミと人間のようです。 ペストが流行するときにはその前に必ず多くのネズミが死ぬと言うことでした。 まずネズミにペスト菌を注射して感染させる。 これにノミをたからせて低空飛行の飛行機から落とす。 そうするとネズミは死にますが、 ノミは体温の冷えた動物からはすぐに離れる習性を持っているので、今度は人間につく。 おそらくこういう形で流行させたのであろうと思います ・・・・柄沢班でも、生体実験、生体解剖を毒力試験の名のもとに行ないました ・・・・私は5名の方を殺害いたしました。 5名の方々に対してそれぞれの方法でペストのワクチンを注射し、 あるいはワクチンを注射しないで、それぞれの反応を見ました。 ワクチンを注射しない方が1番早く発病しました。 その方はインテリ風で頭脳明晰といった感じの方でした。 睨みつけられると目を伏せる以外に方法がありませんでした。 ペストの進行にしたがって、真黒な顔、体になっていきました。 まだ息はありましたが、特別班の班員によって裸のまま解剖室に運ばれました ・・・・2ケ月足らずの間に5名の方を殺害しました。 特別班の班員はこの殺害したひとたちを、灰も残らないように焼却炉で焼いたわけであります。     注:ノモンハン事件 1939年5月11日、満州国とモンゴルの国境付近のノモンハンで、日本側はソ連軍に攻撃を仕掛けた。 ハルハ河事件とも言う。 4ケ月続いたこの戦いは圧倒的な戦力のソ連軍に日本軍は歯が立たず、 約17,000人の死者を出した。 ヒットラ-のポーランド侵攻で停戦となった。 あまりにみっともない負け方に日本軍部は長い間ノモンハン事件を秘密にしていた。 731部隊は秘密で参加し、ハルハ河、ホルステイン河に赤痢菌、腸チフス菌、パラチフス菌を流した。 参加者は、隊長碇常重軍医少佐、草味正夫薬剤少佐、作山元治軍医大尉、 瀬戸尚二軍医大尉、清水富士夫軍医大尉、その他合計22名だった。 (注:ハバロフスクの裁判記録に証言があります) * 鶴田兼敏  731部隊少年隊  1921年生 1994年731部隊展の報告書から 入隊は1938年11月13日でしたが、まだそのときは平房の部隊建物は建設中でした ・・・・下を見ますと“マルタ”が収容されている監獄の7、8棟の中庭に、 麻袋をかぶった3~4人の人が輪になって歩いているのです。 不思議に思い、班長に「あれは何だ?」と聞いたら、「“マルタ”だ」と言います。 しかし私には“マルタ”という意味がわかりません。 するとマルタとは死刑囚だと言うんです。 軍の部隊になぜ死刑囚がいるのかと疑問に思いましたが、 「今見たことはみんな忘れてしまえ!」と言われました・・・・ 基礎教育の後私が入ったのは昆虫班でした。 そこでは蚊、ノミ、ハエなどあらゆる昆虫、害虫を飼育していました。 ノミを飼うためには、18リットル入りのブリキの缶の中に、半分ぐらいまでおが屑を入れ、 その中にノミの餌にするおとなしい白ネズミを籠の中に入れて固定するんです。 そうするとたいてい3日目の朝には、ノミに血を吸い尽くされてネズミは死んでいます。 死んだらまた新しいネズミに取りかえるのです。 一定の期間が過ぎると、缶の中のノミを集めます。 ノミの採取��月に1,2度行なっていました ・・・・ノモンハン事件の時、夜中に突然集合がかかったのです ・・・・ホルステイン川のほとりへ連れていかれたのです。 「今からある容器を下ろすから、蓋を開けて河の中に流せ」と命令されました。 私たちは言われたままに作業をしました ・・・・基地に帰ってくると、石炭酸水という消毒液を頭から足の先までかけられました。 「何かやばいことをやったのかなあ。いったい、何を流したのだろうか」という疑問を持ちました ・・・・後で一緒に作業した内務班長だった衛生軍曹はチフスで死んだことを聞き、 あの時河に流したのはチフス菌だったとわかったわけです ・・・・いまだに頭に残っているものがあります。 部隊本部の2階に標本室があったのですが、 その部屋でペストで殺された“マルタ”の生首がホルマリンの瓶の中に浮いているのを見たことです。 中国人の男性でした。 また1,2歳の幼児が天然痘で殺されて、丸ごとホルマリンの中に浮いているのも見ました。 それもやはり中国人でした。 今もそれが目に焼きついて離れません。 * 小笠原 明  731部隊少年隊 1928年生れ  1993~94年の証言から ・・・・部隊本部棟2階の部隊長室近くの標本室の掃除を命じられました ・・・・ドアを開けたところに、生首の標本がありました。 それを見た瞬間、胸がつまって吐き気を催すような気持になって目をつぶりました。 標本室の中の生首は「ロスケ(ロシア人)」の首だと思いました。 すぐ横の方に破傷風の細菌によって死んだ人の標本がありました。 全身が標本となっていました。 またその横にはガス壊疽の標本があり、太ももから下を切り落としてありました。 これはもう生首以上にむごたらしい、表現できないほどすごい標本でした。 拭き掃除をして奥の方に行けば、こんどは消化器系統の病気の赤痢、腸チフス、コレラといったもので 死んだ人を病理解剖した標本がたくさん並べてありました ・・・・田中大尉の部屋には病歴表というカードがおいてあって、人体図が描いてあって、 どこにペストノミがついてどのようになったか詳しく記録されていました。 人名も書いてありました。 このカードはだいたい5日から10日以内で名前が変ります。 田中班ではペストの人体実験をして数日で死んだからです ・・・・田中班と本部の研究室の間には人体焼却炉があって毎日黒い煙が出ておりました ・・・・私は人の血、つまり“マルタ”の血を毎日2000から3000CC受取ってノミを育てる研究をしました ・・・・陶器製の爆弾に細菌やノミやネズミを詰込んで投下実験を何回も行ないました ・・・・8月9日のソ連の参戦で証拠隠滅のためにマルタは全員毒ガスで殺しました。 10日位には殺したマルタを中庭に掘った穴にどんどん積み重ねて焼きました。 * 千田英男 1917年生れ  731部隊教育隊  1974年証言 ・・・・「今日のマルタは何番・・・・何番・・・・何番・・・・以上10本頼む」 ここでは生体実験に供される人たちを”丸太”と称し、一連番号が付けられていた ・・・・中庭の中央に2階建ての丸太の収容棟がある。 4周は3層の鉄筋コンクリ-ト造りの建物に囲まれていて、そこには2階まで窓がなく、よじ登ることもはい上がることもできない。 つまり逃亡を防ぐ構造である。通称7,8棟と称していた・・・・ *石橋直方      研究助手 私は栄養失調の実験を見ました。 これは吉村技師の研究班がやっていたんだと思います。 この実験の目的は、人間が水と乾パンだけでどれだけ生きられるかを調べることだったろうと思われます。 これには2人のマルタが使われていました。 彼らは部隊の決められたコ-スを、20キログラム程度の砂袋を背負わされて絶えず歩き回っていました。 1人は先に倒れて、2人とも結局死にました。 食べるものは軍隊で支給される乾パンだけ、飲むのは水だけでしたからね、 そんなに長いこと生きられるはずがありません。 *越定男    第731部隊第3部本部付運搬班 1993年10月10日、山口俊明氏のインタビュ- -東条首相も視察に来た 本部に隣接していた専用飛行場には、友軍機と言えども着陸を許されず、 東京からの客は新京(長春)の飛行場から平房までは列車でした。 しかし東条らの飛行機は専用飛行場に降りましたのでよく覚えています。 -マルタの輸送について ・・・・最初は第3部長の送り迎え、、郵便物の輸送、通学バスの運転などでしたが、 間もなく隊長車の運転、マルタを運ぶ特別車の運転をするようになりました。 マルタは、ハルピンの憲兵隊本部、特務機関、ハルピン駅ホ-ムの端にあった憲兵隊詰所、 それに領事館の4ケ所で受領し4.5トンのアメリカ製ダッジ・ブラザ-スに積んで運びました。 日本領事館の地下室に手錠をかけたマルタを何人もブチ込んでいたんですからね。 最初は驚きましたよ。マルタは特別班が管理し、本部のロ号棟に収容していました。 ここで彼らは鉄製の足かせをはめられ、手錠は外せるようになっていたものの、 足かせはリベットを潰されてしまい、死ぬまで外せなかった。 いや死んでからも外されることはなかったんです。 足かせのリベットを潰された時のマルタの心境を思うと、やりきれません。 -ブリキ製の詰襟 私はそんなマルタを度々、平房から約���60キロ離れた安達の牢獄や人体実験場へ運びました。 安達人体実験場ではマルタを十字の木にしばりつけ、 彼らの頭上に、超低空の飛行機からペスト菌やコレラ菌を何度も何度も散布したのです。 マルタに効率よく細菌を吸い込ませるため、マルタの首にブリキで作った詰襟を巻き、 頭を下げるとブリキが首に食い込む仕掛けになっていましたから、 マルタは頭を上に向けて呼吸せざるを得なかったのです。 むごい実験でした。 -頻繁に行われた毒ガス実験 731部隊で最も多く行われた実験は毒ガス実験だったと思います。 実験場は専用飛行場のはずれにあり、四方を高い塀で囲まれていました。 その中に外から視察できるようにしたガラス壁のチャンバ-があり、 観察器材が台車に乗せられてチャンバ-の中に送り込まれました。 使用された毒ガスはイペリットや青酸ガス、一酸化炭素ガスなど様々でした。 マルタが送り込まれ、毒ガスが噴射されると、 10人ぐらいの観察員がドイツ製の映写機を回したり、ライカで撮影したり、 時間を計ったり、記録をとったりしていました。 マルタの表情は刻々と変わり、泡を噴き出したり、喀血する者もいましたが、 観察員は冷静にそれぞれの仕事をこなしていました。 私はこの実験室へマルタを運び、私が実験に立ち会った回数だけでも年間百回ぐらいありましたから、 毒ガス実験は頻繁に行われていたとみて間違いないでしょう。 -逃げまどうマルタを あれは昭和19年のはじめ、凍土に雪が薄く積もっていた頃、ペスト弾をマルタに撃ち込む実験の日でした。 この実験は囚人40人を円状に並べ、円の中央からペスト菌の詰まった細菌弾を撃ち込み、 感染具合をみるものですが、私たちはそこから約3キロ離れた所から双眼鏡をのぞいて、 爆発の瞬間を待っていました。その時でした。 1人のマルタが繩をほどき、マルタ全員を助け、彼らは一斉に逃げ出したのです。 驚いた憲兵が私のところへ素っ飛んで来て、「車で潰せ」と叫びました。 私は無我夢中で車を飛ばし、マルタを追いかけ、 足かせを引きずりながら逃げまどうマルタを1人ひとり潰しました。 豚は車でひいてもなかなか死にませんが、人間は案外もろく、直ぐに死にました。 残忍な行為でしたが、その時の私は1人でも逃がすと中国やソ連に731部隊のことがバレてしまって、 我々が殺される、という思いだけしかありませんでした。 -囚人は全員殺された 731部隊の上層部は日本軍の敗戦をいち早く察知していたようで、敗戦数ヶ月前に脱走した憲兵もいました。 戦局はいよいよ破局を迎え、ソ連軍が押し寄せてきているとの情報が伝わる中、 石井隊長は8月11日、隊員に最後の演説を行い、 「731の秘密は墓場まで持っていけ。 機密を漏らした者がいれば、この石井が最後まで追いかける」と脅迫し、部隊は撤収作業に入りました。 撤収作業で緊急を要したのはマルタの処理でした。 大半は毒ガスで殺されたようですが、1人残らず殺されました。 私たちは死体の処理を命じられ、死体に薪と重油かけて燃やし、骨はカマスに入れました。 私はそのカマスをスンガリ(松花江)に運んで捨てました。 被害者は全員死んで証言はありませんが、部隊で働いていた中国人の証言があります。 *傳景奇  ハルピン市香坊区     1952年11月15日 証言 私は今年33歳です。 19歳から労工として「第731部隊」で働きました。 班長が石井三郎という石井班で、ネズミ籠の世話とか他の雑用を8・15までやっていました。 私が見た日本人の罪悪事実は以下の数件あります。 1 19歳で工場に着いたばかりの時は秋で「ロ号棟」の中で   いくつかの器械が血をかき混ぜているのを見ました。   当時私は若く中に入って仕事をやらされました。日本人が目の前にいなかったのでこっそり見ました。 2 19歳の春、第一倉庫で薬箱を並べていたとき不注意から箱がひっくりかえって壊れました。   煙が一筋立ち上がり、我々年少者は煙に巻かれ気が遠くなり、   涙も流れ、くしゃみで息も出来ませんでした。 3 21歳の年、日本人がロバ4頭を程子溝の��杭に繋ぐと、 しばらくして飛行機からビ-ル壜のような物が4本落ちてきた。 壜は黒煙をはき、4頭のロバのうち3頭を殺してしまったのを見ました。 4 22歳の時のある日、日本人が昼飯を食べに帰ったとき、 私は第一倉庫に入り西側の部屋に死体がならべてあるのを見ました。 5 康徳11年(1944年)陰暦9月錦州から来た1200人以上の労工が 工藤の命令で日本人の兵隊に冷水をかけられ、半分以上が凍死しました。 6 工場内で仕事をしているとき動物の血を採っているのを見たし、私も何回か採られました *関成貴  ハルピン市香坊区  1952年11月4日 証言 私は三家子に住んで40年以上になります。 満州国康徳3年(1936年)から第731部隊で御者をして賃金をもらい生活を支えていました。 康徳5年から私は「ロ号棟」後ろの「16棟」房舎で 日本人が馬、ラクダ、ロバ、兎、ネズミ(畑栗鼠とシロネズミ)、モルモット、 それにサル等の動物の血を注射器で採って、 何に使うのかわかりませんでしたが、 その血を「ロ号棟」の中に運んでいくのを毎日見るようになりました。 その後康徳5年6月のある日私が煉瓦を馬車に載せて「ロ号棟」入り口でおろし、 ちょうど数を勘定していると銃剣を持った日本兵が何名か現れ、 馬車で煉瓦を運んでいた中国人を土壁の外に押し出した。 しかし私は間に合わなかったので煉瓦の山の隙間に隠れていると しばらくして幌をつけた大型の自動車が10台やってきて建物の入り口に停まりました。 この時私はこっそり見たのですが、日本人は「ロ号棟」の中から毛布で体をくるみ、 足だけが見えている人間を担架に乗せて車に運びました。 1台10人くらい積み込める車に10台とも全部積み終わり、 自動車が走り去ってから私たちはやっと外に出られました。 ほかに「ロ号棟」の大煙突から煙が吹き出る前には中国人をいつも外に出しました。 *羅壽山  証言日不明 ある日私は日本兵が通りから3人の商人をひっぱってきて 半死半生の目にあわせたのをどうすることもできず見ていました。 彼等は2人を「ロ号棟」の中に連れて行き、残った1人を軍用犬の小屋に放り込みました。 猛犬が生きた人間を食い殺すのを見ているしかなかったのです。
生体実験の証言 | おしえて!ゲンさん! ~分かると楽しい、分かると恐い~ http://www.oshietegensan.com/war-history/war-history_h/5899/
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team-ginga · 6 years ago
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ミュージカル『ピピン』
 ピッコロ演劇学校研究科同期で友人でもある山田と一緒にオリックス劇場でボブ・フォッシーのミュージカル『ピピン』を見てきました。
 私にとって思い出のミュージカルです。
 私が『ピピン』を初めて見たのは、まだ大学生か大学院生の頃ですから、35年……うっかりすると40年近く前のことではないかと思います。偶然テレビをつけたら放送していて、食い入るように見ました。
 素晴らしいミュージカルだと思いましたが、そのころはまだ家にビデオというものがなく(!)、録画することはできませんでしたので、もう見る機会はないものと思っていました。
 それから時は流れ2012年ーー私はピッコロ演劇学校本科に入学しました。授業は火曜と木曜の夜でしたが、週末に自主研究会として研究科主任講師の辰さんこと島守辰明さんが芝居のDVDを見せてくれました。私は時間の許す限り参加していましたが、その時見せてもらったDVDの中に『ピピン』があったのです。
 感動の再会(?)でした。
 その後、『レミゼって呼ばないで』の稽古をしているときに、ブロードウェイから東京に『ピピン』がやってきました。大阪公演はなく、東京まで行こうかなとも思いましたが、さすがに遠く、私は断念しましたが、『レミゼ』でテナルディエ夫人を演じたとくちんは東京まで見に行ったそうで、いろいろ話を聞きました。
 城田優、クリスタルケイ出演の『ピピン』が大阪で上演されると知ったのは、この春でした。たまたま山田にその話をすると山田も行きたいというので、その場でスマホでチケットを買いました(そんなことができるのですね。便利な世の中になったものです)。
 『ピピン』はカール大帝の息子ピピンの物語ですが、歴史物ではありません。大学を出て何か胸踊るようなことをしたいと願いながら、何をしていいかわからないピピンの姿は、映画『卒業』のダスティン・ホフマンと同じーーというか、まさに1960年代後半から1970年代はじめのアメリカの若者の姿です。
 ピピンはまず何か大きなことをしようと、父親について戦争に行きます。しかし、戦争はただ汚いだけで彼の心を満たしてはくれません。次に彼はセックスに溺れますが、それも虚しいだけ。
 そんな時、物語の語り手クリスタルケイが彼に父親カール大帝の独裁について書かれた新聞記事を読んで聞かせます。これではいけない、父王は民衆を苦しめていると考えたピピンは、革命に身を投じカール大帝を暗殺します。
 父親に変わって王の座についたピピンは民衆のための政治を行おうとしますが、うまく行きません。つい腹を立てて民衆の一人を絞首刑にしようとした彼は自分が父王と同じことをしているのに気づきます。
 「こんなことをするんじゃなかった。父王を殺さなければよかった」という彼に語り手は「それなら生き返らせましょう」と言って、カール大帝暗殺をなかったことにします。
 それからもピピンの彷徨ーー嫌いな言葉ですが、あえてそれを使うなら「自分探しの旅」ーーは続きます。
 バンドを組んでCDデビューしたり、スピリチュアルなものに惹かれ断食をしたりしますが、それでも彼は満たされません。
 やけになって道端に倒れていた彼をある未亡人が見つけて自宅で介抱します。未亡人には小さな息子がいて、ピピンはその子どもとふれあううちに、未亡人と急接近ーー二人は恋に落ちます。
 しかし、ピピンはここでも満たされません。彼は未亡人の家を出て、また旅を続けようとします。
 とはいえ、何をすればいいかわかりません。彼は語り手を呼び出し、何をすればいいか尋ねます。すると語り手は「さあ、いよいよこの芝居のフィナーレです」と言って、ピピンに火の中に飛び込めと言います。ピピンが火に飛び込んで死に、蘇るのがこの芝居のラストだと、語り手は言います。
 そこへ未亡人とその息子が現れます。二人を見たピピンは「僕は心躍るもの、心を満たしてくれるものをずっと探してきた。それはここにある���に気づかなかった」と言って、火に飛び込むのをやめます。
 語り手はそれでもピピンに火の中に飛び込むよう言いますが、ピピンは未亡人とその息子の手を握ったまま動きません。
 根負けした語り手は「���うこの芝居は終わりだ」と言って、役者たちを退場させ、大道具を片付け、さらには音楽を止め、照明も消し、ピピンたちから衣装を剥ぎ取り、去って行きます。
 ピピンはそれでも動かず、未亡人と息子の手を握ったままです。
 私が最初にテレビで見た『ピピン』はここで終わります。私はそれにしびれました。
 当時としてはこういうアンチクライマックスの手法が珍しかったからというのもありますが、それ以上にそれがかっこよかったのです。
 1960年代後半、若者たちは世界を変える夢をみました。いわゆる学生運動の時代です。しかし、何をしても世界を変えることなどできないと知った彼らは家庭的な小さな幸せーー言ってしまえば小市民的な幸せーーに救いを見出します。日本でいうなら「四畳半フォーク」です。この時代の変遷を一言で言うなら、岡林信康の「性と文化の革命」からかぐや姫の「神田川」への変化と言えるでしょう。
 私がテレビで見た『ピピン』に感動したのは、この芝居はそのような小市民的な小さな幸せを選ぶピピンをよしとしていたからです。
 「世界を変えなくてもいい、大きなことを成し遂げなくてもいい、そんなことはせず小さな幸せに安住してもいい、そこがあなたの居場所であるならばそれでいいんだ」ということをこの芝居ははっきり打ち出してくれたーー私自身、一度は世界を変えることを夢み、何か大きなこと、心踊ることを成し遂げたいと思っただけに、きっと誰かにそう言って欲しかったのでしょう、だからこそこのラストに感動したのだと思います。
 誰も気づかないでしょうし、気づいてもらわなくていいのですが、『レミゼって呼ばないで』は私なりの『ピピン』です。
 『レミゼって呼ばないで』で『レ・ミゼラブル』の本の中から飛び出し、現代の日本にやってきて、喫茶店でバイトをしているジャン・バルジャンにヴィクトル・ユゴーは革命旗を差し出し、「さあ、この旗を取れ。お前は革命の先頭に立つべき人間だ」と言います。しかし、ジャンは動こうとしません。彼は革命よりもバイト先の女主人、洋子との愛を選ぶのです。
 根負けしたユゴーは「お前には失望させられたよ、ジャン」と言い、「音楽を止めろ。照明もいらない」と言います。
 はい、もうお分かりですね。このセリフは『ピピン』から借りたものであり、『ピピン』へのオマージュです(パクリではありません、パクリでは)。それほど私ははるか昔に見たこの芝居に影響されていたのです。
 しかし、今回の『ピピン』はそれにもう1シーン付け足していました。ピピンと未亡人は退場し、息子もあとを追います。しかし、しばらくすると息子は戻ってきて、ピピンが芝居の最初に歌ったナンバーを歌います。すると語り手や他の役者たちが息子の周りに集まり、音楽が高まり、全員がポーズをとったところで照明がカットアウトされます。
 うーん、とくちんが東京で見た『ピピン』のラストもそうだったと言いますから、それを踏襲したのかもしれません。いや、それを言うなら、私がテレビで見た『ピピン』も最後をカットしただけで、もともとそういう場面があったのかもしれません。
 衣装を剥ぎ取られたピピンと未亡人と息子が退場するだけでは地味すぎる。いくらアンチクライマックスだと言ってもこれでは終われないというのもわかります。
 でも、これじゃ台無しじゃないですか。
 語り手は物語の最初からピピンの味方でありピピンを導いてくれるありがたい存在に見えます。しかし、ラストで観客はそうではなかったことに気づきます。語り手はピピンを助けるかのように見えて、実はピピンを誘惑し自分の思いのままに操ろうとしていただけなのです。
 その意味で語り手は悪魔だとも言えるでしょう。息子がその悪魔に囚われていいんですか。
 いや、そうではない、胸おどる人生を送りたい、何か大きなことをしたいという気持ちはどの若者の心にもある、このラストはそれを示しているのだという考えもあるでしょう。しかし、それではこの芝居の持つ意味が変わってしまうように私には思えます。
 今日見た『ピピン』は確かに素晴らしい芝居でした。シルク・ドゥ・ソレイユかと言いたくなるような素晴らしい軽業の数々、舞台で演じられる様々なマジック、見るものを驚かせる早変わり、どれをとっても魅力的です。
 でも、今日見た『ピピン』は私の記憶にある『ピピン』ほど美しくはなかったと言わざるを得ません。
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 演劇ユニット・チーム銀河×モンゴルズシアターカンパニーは毎月第4日曜の14時に大阪・四ツ橋のイサオビル2階ホールで新作『リハーサル』をロングラン上演中です。
 次回公演は7月28日(日曜)です。
 詳しくはこのサイトの「次回公演」のページ、またはFacebookのイベントページをご覧ください。
本サイトのページ http://toura-h.wixsite.com/team-ginga/blank-10
Facebookイベントページhttps://www.facebook.com/events/849554741880124/
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abraxas174 · 6 years ago
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『償いの雪が降る』アレン・エスケンス
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原題は<The Life We Bury>.。「私たちが葬る人生」とでもいうような意味で、こちらの方が中身に似つかわしい。というのも、主人公で探偵役をつとめるジョーも、彼が伝記を書こうとしている末期癌を患っている死刑囚カールも、ともに人には言えない過去を自分一人の記憶の裡に封じ込めているからだ。表題に込められているのは、もしかしたら救うこともできたかもしれない人の命をみすみす見捨ててしまったことを忘れ去ることができず、おめおめと今日の日を生きていることに対する罪障感だ。
ミネソタ大学で学ぶジョーにはジェレミーという十八歳になる自閉症の弟がいる。弟は母と一緒に暮らしているが、その母というのが躁鬱病で、しかも弟に暴力を奮うDV男と暮らしている。そんな家を嫌って家を出たジョーは酒場の用心棒のバイトをしながら大学に行っている。何かというと家を空ける母親に代わって弟の面倒を見なければならず、バイトも学校も思うように通うことができずにいた。
そんな訳で大学に来れたのは履修登録日ぎりぎりで、定員に空きがあった「伝記執筆」を選ぶことに。その課題が一人の人物にインタビューし、その伝記を書くというものだった。彼は近くにある老人ホームを訪れ、誰かを紹介してもらうことにした。そこで紹介されたのが、カール・アイヴァソンという、少女を強姦し、納屋に放火して焼死させた囚人だった。カールは末期のすい臓がんのため、仮釈放となり、獄舎を出てこの施設で暮らしていた。
未解決事件を扱うミステリは少なくないが、これはすでに裁判も済んで刑に服している囚人の無実を証明しようとする素人探偵の活躍を描く。同じ大学に通う男女の学生コンビが、過去の裁判の結果に疑問を��じ、死期の近い服役囚に無実の判決を得るため、無謀な挑戦を企てるというストーリーだ。いかにも若々しく、計画性のかけらもない、行き当たりばったりの展開を見せる。彼らの唯一の強みは、何十年もの時の経過による科学技術の進歩にある。
当時は、コンピュータといえば、軍事機密に使用されているくらいで、パソコンなどというものは庶民はおろか警察にさえ入っていなかった。さらには鑑定の決め手となるDNA鑑定も知られていなかった。しかし、証拠物件は保存されている。つまり、現存する該当者からDNAを採取することが出来さえすれば、当時は不明だった真犯人をあぶり見つけ出すことができるのだ。おまけに、暗号で書かれた日記の解明も、今ならコンピュータによって解読も可能である。素人の学生コンビでもホームズに勝る謎解きができるというもの。
しかし、謎解きの妙味はあまりない。いろは歌のアルファベット版のようなものがあって、ジェレミーが口にしたそれがヒントとなって、相棒のライラが難なく解読してしまう。どんでん返しというほどの意表を突く展開もなく、せいぜいちょっとしたミスディレクションが待っているだけ、というミステリとしてはあまり期待する部分がない。どちらかといえば、謎解きを扱う前半の「静」に対する、後半の犯人逮捕に至る「動」の部分の方に比重が置かれている気がする。
もう一つの謎は、カールという人物が何故犯してもいない犯罪に対して、無罪を訴えることをせず、さっさと判決を受け入れ、刑務所に入ろうとしたのか、ということだ。それには、PTSDなどと一くくりにすることのできない戦争に行った者にしか知り得ない事情があった。ベトナムで一緒に闘った戦友の語る戦場のカールは、仲間の命を救うために自分の命を投げ出すことのできる英雄だった。
そんな男が少女を強姦し殺すことなどありえないと戦友のヴァージルは言う。しかし、カールには他人には決して語ることのできない過去があった。ベトナム戦争という、アメリカの敗戦で終わる戦争には記録には残せない狂気の沙汰が蔓延していた。カールはその現場に遭遇し、葛藤しつつもどうすることもできずにいた。そして、その事実が彼を、戦場では当然である殺人ではなく、ある意図をもってする、殺害へと追い込んでいく。
人を殺すことについて、ミステリではたった一人の殺人もたいそう大ごとのように扱うが、いざ戦争ともなれば、ごくごく当たり前の若者が、無数ともいえる人々の命を奪う。国にいた人々も、それを命じた上層部も、戦争が終わればまるで何もなかったような顔をして平時に戻ることができるが、その手で人を殺した人間にとってはそうはいかない。カールもまた、長期の刑に服す中でそのことを考え続けてきた。
カールの考える神学論は、実存主義哲学に似ている。彼は死後に天国を待つことのできない身である。カトリック信者として自殺は論外だ。小児性愛者は刑務所のヒエラルキーの中では最下層に位置する。都合よく誰かに殺されるのを待っていたカールだったが、襲撃は未遂に終わり隔離されることに。考えあぐねた彼は、死後ではなく、生かされている「今」を天国だと考えるようになる。冤罪を晴らせるかどうかは、残り少ない時間との競争となる。
外連味のない真っ向から直球勝負のミステリ。解決に向かって爆走する若いジョーの愚直さに共感できるかどうかが鍵になるだろう。正直、この歳になると、もう少し隘路や回り道、寄り道といった逸脱がある方が助かる。後先考えずに一心に駆け続ける若者のパワーについていくのに息が切れる。これがデビュー作というから、余裕が出てくるのはこれからだろう。若い読者なら感情移入もたやすく、一挙に読みきってしまうにちがいない。最後に救いのある、爽やかな作風である。
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shibaracu · 5 years ago
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●南京事件の再考
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●南京事件の再考 今まで一方的な見解だけを鵜呑みにしてきた。 も一度 振り返ってみるのも一考では無いかな
Media Watch: 事実と論理の力 http://bit.ly/uce1kS 事実と論理の力 http://bit.ly/slXRtf 「南京大虐殺」の創作者たち http://bit.ly/vgpZU0 南京事件の影に潜む中国の外交戦術 http://bit.ly/s8vo9p ~先入観を打破する定量的検証を~ http://bit.ly/s6uBxw 平気でうそをつく人々 南京事件
Media Watch: 「従軍慰安婦」問題 http://bit.ly/sJrBRt 「従軍慰安婦」問題(上)~日韓友好に打ち込まれた楔 http://bit.ly/vrPoZm 「従軍慰安婦」問題(下) ~ 仕掛けられた情報戦争 http://bit.ly/soYP32 分野別インデックス --000 総記(図書、ジャーナリズム等)-- 戦争犯罪報道
第48題「強制連行」考 在日朝鮮人は強制連行と直接関係がない http://bit.ly/syC3hk 在日朝鮮人がかつての植民地時代に日本によって強制連行された人々、およびその子孫であるという主張
強制連行 - Wikipedia http://bit.ly/ts4xto 受験生の中には「第二次大戦当時の言葉としてはなかった朝鮮人の『強制連行』が、 確定的史実として出題され思想の自由を奪われた」として、大学入試センターに対し、 この問題を採点から除くことを求める仮...
お金を求めて稼ぎに来た売春婦。 兵隊さんの数倍の収入だったので、本人がよろこんでやってました。 http://bit.ly/t0zMwU https://youtu.be/_Lw2imEyYxU
慰安婦強制連行はなかった http://tendensha.co.jp/syoseki/163.html ―河野談話の放置は許されない―. 大師堂 経慰 著(元朝鮮総督府事務官) 四六並製 180頁 定価:1800円+税 平成11年2月11日発行 ISBN4-88656-163-2 C0036. 元朝鮮総督府事務官による徹底検証 なぜ、政府は慰安婦以外の韓国人証言を求めないのか。 無責任な新聞報道と安易な謝罪外交が生んだ慰安婦問題。 朝鮮総督府に勤めていた著者が、自らの体験をもとのその核心に迫る。 第1章 問題の敬意と河野談話 第2章 河野談話と悪影響 第3章 関係資料   新聞記事、参���院質疑議事録、政府発表資料、女性のためにアジア平和国民基金、高校・中学教科書の記述
南京大虐殺はウソだ! http://www.history.gr.jp/nanking/ 南京大虐殺の虚構 http://www5b.biglobe.ne.jp/~nankin/index.html
Red Fox 中国の死刑写真とBBC『南京大虐殺』の酷似http://bit.ly/st3zSq 犯罪者を死刑にする。歴史的には世界中に残虐な処刑が存在した訳ではあるが、中国の場合は死刑囚を引き回して晒し者にしたうえ銃殺という前時代的な処刑が現代に至って行なわれている国である。
●西村幸祐、南京事件で支那人学者にインタビューhttp://bit.ly/tGgrV7 ●中国社会科学院の学者氏は「虐殺が30万人という数字に科学的根拠はない」とはっきり言っています。http://bit.ly/uVniS8
■[科学]「御用学者Wiki」的なものを生む背景について http://bit.ly/uAd7lA 当事者の1人でもある片瀬久美子氏の次のようなツイートである。 ・ちょっとでも触れると紛糾してしまう3大テーマ:原発、クジラ問題、南京大虐殺
●畠山ゼミ 卒業生共同研究 https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~w003034/2006HP/2005HP/2003homepage/sotusei7.htm  2001年度卒業生 共同研究  1、はじめに 2、南京大虐殺に対する主張の比較 3、東京裁判にみる「南京大虐殺」と現代史の政治的意義について 4、教科書論争にみる南京問題 5、南京大虐殺における   日中米関係と今後の三国関係 1、はじめに 私たち3班は“南京大虐殺”という歴史的事件を例にとり、テーマ“現代史における歴史的意義”について研究しました。“南京大虐殺”がどのように国際政治に関係していたか、またこの事件の悲惨さを主張することで、どのような政治的意義があったのかをそれぞれの面から考察しました。 2、南京大虐殺に対する主張の比較   【「大虐殺派」と「中間派」】  “南京大虐殺”事件。これを聞いて、私たちはどれだけのことを知っているでしょうか?ただ漠然と“日本人が中国人に対して悪いことをした事件”と、これだけで片付けてしまう人もいると思います。実際に私もそうでした。たいして知りもしないのにまるで全てを知っているかのように、“日本人が悪いことをしたのに、なぜ政府はきちんとした謝罪をしないのだろうか?”と、日本政府の態度に不満を持っていました。しかし今回、このことを調べるうちにこの“南京大虐殺”事件は複雑な糸が絡みあっていて、それをとくことが難しい事件なのだと初めてわかりました。 現在、日本では中国の公式犠牲者数である30万人を座標軸に「大虐殺派」、「中間派」(少数派)、「マボロシ派」という三つのグループが論争を繰り広げています。「大虐殺派」というのは、中国の公式犠牲者数に近い数を掲げ、日本軍が大規模な虐殺を行ったと主張するグループのことです。それに対して、「マボロシ派」というのは、虐殺は行われてはいない、そんな事件はなかったと主張するグループです。そして、「中間派」というのは、南京攻略の際、虐殺はあったが中国政府が発表している30万人もの虐殺はなかった、大虐殺という大虐殺はしてはいないと主張しているグループのことです。  ここでは、「大虐殺派」と「中間派」の二つの主張を比較していきます。「マボロシ派」の主張は、だんだんと崩されてきており、“南京大虐殺”という事件が全くなかったと主張することは難しくなってきているのでこれは一先ずおいておきます。   ◆南京事件の証言 https://ja.wikipedia.org/wiki/南京事件の証言 「雑誌「大亜細亜主義」従軍記者の田中正明[147]。1938年8月に南京に滞在した[147]。田中は当時従軍した大宅壮一、西條八十、草野心平、木村毅、林芙美子、石川達三も「20万-30万の大虐殺」を目撃していないと述べている」   ◆米国人「南京大虐殺の際、中国軍はなぜ市民を守らなかったの?」→中国人、googleで検索するも何も資料がなく答えられず http://blog.livedoor.jp/a6news/archives/703584.html 1 :ぽこたん( ・∀・ )φ ★:2009/05/22(金) 23:58:19 ID:???0    nankin 【中国ブログ】南京大虐殺の際、中国軍は何処で何をしていた?  南京大虐殺に対する日本と中国の認識には一定の溝が存在するようだ。  中国側は2―3カ月という期間に30万人の中国人が日本軍によって  虐殺されたと主張している。  このブログは中国人ブロガーが南京大虐殺が行われていた期間中、中国の軍隊は  何処で何をしていたのかという質問に対しての考えを綴ったものである。  以下はそのブログより。   ◆抗日ドラマに存在する数々の矛盾点、日本人がネット上で盛り上がっているぞ=中国 http://news.searchina.net/id/1686322?page=1 2020-01-25 07:12  中国では今でも「抗日ドラマ」が制作、放映されている。近年は抗日ドラマの表現がどんどん過激になり、誇張した描写も随所に見られるようになり、手榴弾で戦闘機を打ち落としたり、手刀で人間を切り裂いたりと、実際にはありえない描写が含まれた抗日ドラマも登場、批判の対象となった。   ◆南京事件資料 - ne.jp  http://www.ne.jp/asahi/unko/tamezou/nankin/ 南京大虐殺の虚構: 山本弘ト学会会長批判がある。 南京大虐殺はウソだ! 「プロパガンダ戦『南京事件』」著者、松尾一郎氏のサイト。 本多勝一「南京大虐殺」の大嘘: 「アウシュビッツの争点」を無料公開している左翼ジャーナリスト、木村愛二氏による本多勝一批判。 あやしい調査団、南京へ    平成十一年の南京。 南京大虐殺関係資料    「南京大虐殺の虚構」別館。 南京大虐殺 情報整理箱    日本再生ネットワーク作。 Rape of Nanking におけるプロパガンダ写真    プロパガンダ写真研究所作。   ●終わっていない「南京大虐殺」でっちあげ問題 https://samurai20.jp/shiryou/sayoku/sayoku3/3-1/  「南京大虐殺」とか、「従軍慰安婦強制連行」なるものが、ことごとくでっちあげであることは関係者の努力により明らかにされた。ただ、筆者は、サヨク連中が行った嘘宣伝の論破完了により、でっちあげ問題が終わったとは考えない。   1 なぜ終わっていないと言えるのか 終わったとは考えない理由の一:  こういった嘘宣伝を行った連中が、謝罪も反省も行っていないからである。 自分の嘘を省みずに臆面も無く、「広義の強制」とかに逃げ口上を用意するなど、まったく反省がない。われわれ国民がでっちあげを行った朝日新聞などサヨク連中に求めるのは、心からの謝罪と反省である。 たった一人でも反省しないものがいるかぎり、われわれ国民がうけた心の傷は癒えない。 とにかく徹底して自己批判させ、謝罪させないことには、連中は今後とも何度でも嘘を捏造するだろう。   ◆南京大虐殺の嘘の言い訳の嘘 - 学校長報 - 坂東学校 http://bandou.an-an.org/index.php?QBlog-20151020-1 2015/10/20 最近世界記憶遺産とやらに登録されたという南京大虐殺について、リクエストがあったので、ちょっと他の歴史検証にはないネタで迫ってみますよ〜! すでにブログではお伝えしているとおり、南京雨花台の、虐殺記念館がある烈士陵園には、「人民英雄碑」と言われる石碑が立っていて、ここには毛沢東の揮毫とともに「南京虐殺は国民党によるものであった」という碑文があることをお伝えしております。 私が聞いたところでは以前チャンネル桜さんもこの話をきいたことがあり、2〜3人の先生(どんな先生かは不明)が現場に確認しに行ったのだそうですが、確認できずに帰ってきたとのこと。 そもそもこの先生方が北京語ができたのかどうかは問題ですが(笑)、その石碑がこちらだそうな。 南京雨花台の、虐殺記念館がある烈士陵園には、「人民英雄碑」と言われる石碑が立っていて、ここには毛沢東の揮毫とともに「南京虐殺は国民党によるものであった」という碑文がある これほどデカければもう隠しようがないわけで、しかも毛沢東の揮毫入りですから今更ぶっ壊すわけにも行かず   ◆コラム 57- 「南京大虐殺」30 万人の嘘 file:///C:/Users/asahi/AppData/Local/Temp/column-57.pdf 「南京大虐殺」30 万人が嘘であるという根拠は次の 8 項目です。 1 陥落時の南京の人口は約20万人である。南京の警察長官王氏が陥落直前の人口を20万人と述べ、国際委員会(外国人15名で編成された自治組織)もその数字を踏襲している。 2 南京の人口は陥落後、増加した。陥落1ヵ月後、南京市外に避難していた南京市 民は続々と市内に戻り、南京の人口は24万3千人余りから26万5千人余りに増えている。(虐殺があれば人は集まらない) 3 紅卍会などの遺体埋葬数は、作業代ほしさに水増し報告している。亜細亜大学の 東中野教授は実際の埋葬数を1万4千人と推定、そのほとんどが戦死した中国兵や処刑された便衣兵だとしている。 4 当時、陥落とほぼ同時に約300名の日本の報道関係者がいたが、誰も虐殺現場や 大量の遺体を見ておらず、報告もなされてい��い。 5 南京陥落時、便衣兵となった中国兵を掃討したあと、南京の治安は急速に回復し、国際委員会から日本軍に感謝の書状が贈られている。 6 南京陥落後、蒋介石は記者団に対して300回以上の記者会見をやっているが、一 度も虐殺について言及していない。 7 南京陥落後、昭和13年1月に国際連盟理事会に対して、中国代表が日本軍が2万人の民間人を虐殺したと提訴したが、認められなかった。 8「南京大虐殺」は東京裁判で、初めて問題にされ、しかも伝聞により捏造された。   ◆ 東京裁判が生んだ 「南京大虐殺」の虚構 http://www.senyu-ren.jp/MAGO/13.HTM 孫・・・その南京で、日本兵は中国人を大虐殺したと教科書に書いてありますが、本当ですか。   私・・・本当なもんか。無論戦争だから中国兵は沢山殺したよ。日本兵も沢山戦死したけれどね。しかし兵隊 でない一般市民を何十万も虐殺したなど有り得ないことだよ。当時南京には難民区という安全地帯ができていて、一般市民はそこに保護された。そして日本軍の憲兵が厳重に警備していた。   ◆南京大虐殺を否定する日本の右翼、その5つの嘘  チャイナネット http://japanese.china.org.cn/jp/txt/2017-12/13/content_50101412.htm 発信時間:2017-12-13  今年は南京大虐殺80周年だ。80年前のあの寒い冬、中国侵略日本軍は南京を攻略すると、放火・殺人・強姦など悪事の限りを尽くし、中国の軍人・非戦闘員30万人を殺害した。筆舌に尽くしがたいほどの凄惨さで、世界に衝撃を与えた。  歴史は日本軍国主義によるこの暴行を恥辱の柱に打ち付けている。しかし日本国内では、南京大虐殺を否定しようと試みる勢力が常に存在する。特に近年、日本の政界と社会の右傾化が強まり、南京大虐殺を否定する言行が勢いに乗り、手段も多様化している。  彼らは反論の余地なき事実と論証により、右翼勢力が捏造し流布しようとする主な5つの嘘を論破した。  嘘その一:南京大虐殺は戦勝国が日本に報復するため「東京裁判」(極東国際軍事裁判)で捏造したものであり、裁判に加わったインド人判事は被告の無罪を主張した。  嘘その二:南京大虐殺は当時知る人がいなく、中国国内と世界のメディアも当時何の反応も示さず、後になって作り出されたものだ。  嘘その三:当時の南京の人口は20万人のみで、南京大虐殺の被害者数が30万人いるわけがない。  嘘その四:殺人競争「百人斬り」は当時の日本メディアの捏造であり、南京大虐殺の証拠にはならない。  嘘その五:中国の軍人、日本軍に抵抗する遊撃隊員が一般人を装っており、これを殺しても国際法には違反しない。   ◆「南京大虐殺」登録、米中韓メディアの反応は? 中国「日本の嘘を論破」と勝利宣言 https://newsphere.jp/politics/20151014-2/ 2015/10/14  中国が申請した「南京大虐殺の文書」が、  ユネスコ(UNESCO=国連教育・科学・文化機関)の世界記憶遺産に登録された。  これに対し、殺害された市民の人数など中国の主張に異議を唱える日本政府は、  登録を不服とし、ユネスコへの分担金の停止・削減を検討する考えを示した。  菅義偉官房長官は13日の記者会見で、ユネスコの決定を  「中国側の一方的な見方のみを反映したもの」などと批判。  APなど主要海外メディアも菅官房長官の一連の発言を伝えている。  一方、中国国営メディアはユネスコの決定を歓迎するとともに、日本政府の  反応を「ナショナリストの日本政府は、デタラメな動きで面子を守り、  恥をごまかそうとしている」(新華社)などと一斉に批判している。  また、韓国メディアでは、中国が記憶遺産に同時申請し、登録が見送られた  「従軍慰安婦」の資料について、再申請の動きに期待する論調が目立っている。   ◆「南京大虐殺の嘘」を知るサイト一覧 まとめ – 新・真相はかうだ! https://propagandawar.info/archives/4002 目次    1 ■南京大虐殺とは(総論)?    2 ■南京大虐殺30万人説について    3 ■元日本兵の証言    4 ■プロパガンダの背景について    5 ■元中国人兵士の告白    6 ■肯定論のサイト    7 ■英文による情報発信サイト    8 ■資料等    9 ■その他、参考サイト   ◆戦線後方記録映画『南京』(リマスター完全版)Documentary film "Nanking"Dec14,1937-January 1938, 67minutes  2017/08/17 https://youtu.be/_dmQxstHIqY 【日本語】67分、デジタルリマスター完全版 昭和13(1938)年2月20日公開。さらに映像を鮮明にするようにデジタル処理しています。この画像はHD Fullで、ちょっと音声がこのUPする際に悪くなっていますが、実際はかなり鮮明で高音質です。※注意:無断で講演会等において無断使用を禁止します。現在、アマゾンでリマスター版を販売中。 【English Version】https://youtu.be/Vi6F1YJ-q64
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仁保事件
一審
窃盗、強盗殺人被告事件
山口地方裁判所
昭和三七年六月一五日第二部
上告申立人 被告人 岡部保
         主   文
 被告人を
判示第一、の罪につき、懲役四月に、
判示第二、第三、の罪につき、死刑に、
処する。
右第一の罪(住居侵入等)についての勾留状による未決勾留日数中百二十日を右懲役四月の刑に算入する。
訴訟費用は被告人の負担とする。
         理   由
 (犯罪事実)
被告人は
第一、昭和二十七年七月中頃の夜、窃盗の目的で、山口県吉敷郡大内町高芝、食料品雑貨商、杉山正二方居宅に侵入し、金品を物色中、家人に発見せられて逃走し、窃盗の目的を遂げることが出来ず、
第二、昭和三十年六月中頃、大阪市天王寺区逢坂上之町四八、生越好一方前路上で、大阪市所有の、人孔鉄蓋一枚(時価千五百円相当)を窃取し。
第三、元来、本籍地である山口県吉敷郡大内町大字仁保下郷で農家に生まれて、両親に育てられ、本籍地の尋常���等小学校を卒業した後、山口市、萩市、福岡県等に於て、電工として働き、昭和十四年現役兵として広島工兵第五聯隊に入隊、満洲、中支、南支、仏印等の各地で戦斗に参加し、昭和十八年八月内地に帰還、除隊となつた後間もなく妻を娶り、山口県動員課嘱託として徴用工員の訓練助手を勤めたこともあるが、昭和十九年七月山口県巡査を拝命し、当時の堀警察署に勤務して居る中、約三ケ月で再び召集を受けて軍務に服し、昭和二十一年三、四月頃内地に復員して堀警察署の原職に復した。
次いで昭和二十一年六月警察官の職を辞し、その頃実父が経営していた製材業や農業の手伝をしたが、間もなく経営に行きづまり山口市湯田の建設会社で働く中、他の女と懇ろになつた為妻と離婚し、その後は山口市、福岡県等に於て製材職人、炭鉱夫などとして働いたが、いずれも永続きせず、その間窃盗罪に問われたこともあつたが、遂に昭和二十八年四月無断家出して郷里を出奔し、それからは、人夫、鳶職人などとして、神戸、姫路、和歌山等の各地を流れ歩き、昭和二十九年八月から、大阪市天王寺区、天王寺公園内に小屋掛けなどの仮住いに起居し、中田いと、福井シゲノと同棲し乍ら、所謂バタ屋生活に転落してその日を送つていたものであるが、商売資金を手に入れようとして、昭和二十九年十月二十日頃、郷里山口県に帰り、数日間所々を、さまよい歩いた揚句同月二十六日午前零時頃、同町大字仁保中郷二九一五、農業山根保方堆肥場にあつた唐鍬(証第二号)を携えて、同人方母屋に到り、土間物置内の金品を窃取すべく物色中、同人の妻美雪(当時四十二年)に気付かれ、誰何されるや茲に同家家人を殺害して金品を強取しようと決意し、奥六畳の間に入り、起き上ろうとする同女の頭部を所携の右唐鍬を振つて乱打し、続いて、その傍らに就寝中の保(当時四十九年)及び同人の五男実(当時十一年)、隣室表下六畳の間に就寝中の三男昭男(当時十五年)四男一吉(当時十三年)の各頭部を順次同様乱打し、次いで納戸四畳半の間に入り、起き上ろうとする老婆トミ(保の母、当時七十七年)を押し倒し、その頭部を同様乱打して、再び保夫婦の寝室に引き返し、尚も同人の頭部を同様乱打して、右六名に夫々瀕死の重傷を負わせた上、同室の本箱の抽斗にあつたチヤツク付財布(証第九号)内及納戸にあつた箪笥の小抽斗内から合計約七千七百円位の金員を強取し、最後に台所にあつた出刃包丁(証第三号)を持ち来り、之で右六名の頸部を順次突き刺すと共に保夫婦及びトミに対しては、その胸部をも突き刺し、以上の各損傷による失血の為夫々死に致して、殺害した上、保夫婦の寝室に掛けてあつた洋服上衣一枚を強取し
たものである。
(証拠の標目)(省略)
夫々之を認める。
尚右第三の事実については、右認定の理由につき、次に主な点につき更に説明を加えることとする。
一、先づ右に掲げた各証拠の中、最も直接且重要なものは、被告人の検察官に対する供述調書七通ー前掲標目(58)ーである。而して本件に於ては、被告人の警察官及び検察官に対する自供調書に記載された供述の任意性並に信憑性が問題となり、検察官、被告人(及び弁護人)の双方から夫々証拠の申出があつて、之が取調べをした次第である。先づ右任意性について、被告人は之を否定し、調書記載の通りの供述をしたことは相違ないけれども、該供述は、警察に於ては取調官が強制拷問を加えて、予め捏造した事実に合致するように強いて供述させたものであつて、被告人が任意になしたものではなく、又検察庁に於ては右のような有形的な強制手段は加えられなかつたけれども、その取調べは右の如き警察での自供調書を基礎とし、検察庁でもその通りに述べなければ再び警察署の留置場に戻して警察官に取調べをさせる旨告げて間接的に強制された為、被告人としては警察官に供述したことを今一度その通り繰り返す他なかつたものであるから、之亦結局任意に出でた供述ではない。と主張する。
一、検察官に対する被告人の供述調書につき検討するに、検察官は、警察に於ける調書を参考にしたことは勿論と考えられるけれども事件関係全般に亘つて、更めて詳細な尋問をなし、被告人又逐一之に対し極めて詳細に、或は之と異つた供述もなして居ること、前掲(60)(61)(62)(63)の各証拠によれば、検察官の取調べに際しては、被告人主張のような心理的乃至間接的強制は加えられていないことその他取調べの方法、時間等に於ても決して無理のなかつたこと前掲(59)の録音テープの録音の方法、内容及び之等から認められる取調べの状況等を綜合するときは右検察官調書記載の供述は、いづれも十分任意性のあるものなること洵に明瞭である。
次に検察官調書の信憑性について考えるに、該供述の内容には犯罪実行者でなければ到底語り得ないような詳細な供述があること、被告人は前掲(4)の検察官の実地検証の時迄本件犯行現場及びその附近に行つたことはない旨当公廷で述べて居るに拘らず、右検証調書の記載によれば、被告人が検察官、検証補助者等の立会人の先頭に立つて自分が事件当時歩いた道順、関係場所を自ら案内し、被害者方屋内でも被害者等の位置、物の場所、その他犯行の詳細につき自ら進んで、その地点、行動の順序等を現地につき指示して居ること、自供後の心境を表わす為書いた前掲(55)(56)の章句の意味等を綜合し、その他の前掲各傍証と比照するときは、検察官調書に十分の信憑性のあることを認めることが出来る。被告人は取調官が予め事実を組み立て、それに合う様に供述を誘導したもので、右未知の現場での指示も、詳細な供述も、警察で何度も繰返し述べさせられ言わば復習に復習を重ねていた事柄であるから、その通り述べることが出来たものであつて、その様に述べることによつて取調官に迎合的態度を示す為あの様な指示、供述作歌、作文、がなされたものであると弁解主張するけれども、検察官調書の任意性前説示の如くである以上、又警察に於ける取調べに於ても特に拷問と目すべき事実は認め得られないこと後述の如くである以上、右弁解は合理性を欠き、到底之を認めることが出来ない。
一、以上説示の通り、前掲(58)の検察調書、(59)の録音テープの内容はいずれも、その任意性及信憑性に於て、夫々欠ぐるところなきものであつて、之と前掲各補強証拠とを綜合すれば、判示第三の強盗殺人の事実を認めるに十分である。
(尚警察に於ける自供について、被告人自身の当公廷での供述は勿論、弁護人申請の証人、熊野精太郎、竹内計雄、西村定信の各証言は被告人主張の様な取調べ状況を推知させるかのようであるけれども、取調べに当つた各警察官の証言と対比するときは、被告人主張のような所謂拷問と目すべき取調べ方法の行われた事実は之を認めることが出来ない。然し乍ら検察官提出の警察官録取の録音テープ三十巻を静かに傾聴するとき、部分によつて変化はあるが、概して自供の初期段階に於ける供述の状況雰囲気(言葉に現われていることで疑問を残すものの一例ー第六巻中被告人の「糞ツ(或は畜生ツ?)」なる小独語、第二十九巻中、取調官の「膝を組んでもよい」旨の言葉ー之等の言葉の持つ意味は色々に解釈出来、必ずしも明らかではないが)、取調べに当つた警察官山口信の「調べは夜十二時以後になることはなかつた」旨の供述ー(記録第三冊九三八丁ーからは反面、夜も十二時迄は取調べを行つたであろうことが推知されること、等を綜合すれば、右取調べに際し、本件最後の容疑者としての被告人に対する追求が急であつた為多少の無理があつたのではなかろうかとの一抹の疑念を存せざるを得ない。而して供述の内容が真実であるか否かは固より別個の問題であつて、その内容の如何を問わず任意性について多少でも疑問の存する以上之を証拠とすることが出来ないことは法の明定するところである。尚本件に於ては、録音に表われた丈けでも、右と反対に、極めて冷静、積極的、合理的に述べて居ると思われる部分も多々あり(形に表われた一例ー第六巻中、被害者中子供をも殺したことに関し述べる所、心なしか被告人の声一寸つまり、うるむ感じ)従つていづれの部分が然るかを劃一的、截然と区別することは困難であると共に、証人木下京一の供述(第五〇回公判調書中同証人の供述記載部分ー七、の二九〇六)によれば警察に於ける自供調書の録取作成と、右警察に於ける録音の採取とは別個の取調べの機会に為されたものであることか明らかであるから、右任意性についての疑問が警察官調書のどの分のどの部分につき存するものと言えるか確定することが出来ないので、結局警察官調書全部につき任意性に疑あるものとせざるを得ない。
��つて本件に於ては、被告人の自供を録取した警察官作成の供述調書は一旦証拠として取調べがなされたけれども、その後全審理の結果、その内容の信憑性の有無はさて措き、いづれもその供述の任意性に疑があるとの結論に達したので、之を証拠としないこととする。
一、前掲(1)(2)は各被害者の死因、創傷の部位程度、使用推定兇器の種類認定の資料。
一、同(2)乃至(6)によつて現場及関聯場所の状況、発見直後の死体証拠品の状況が明らかである。
一、同(7)乃至(11)は事件発覚当初の模様と各物証の存在とその所在場所の証拠。
 一、同(12)(13)によつて、証拠品の唐鍬(同(44))が被害者方の物であることが認められる。
一、同(14)は被告人が、昭和二十九年八月に二回、九月に二回、十一月に三回、十二月に二回大阪で血液銀行に売血に行つて居るのに、十月には一度も行つていないことが認められ(被告人は十月にも供血申込には行つたが、血が薄くて不合格だつた旨弁解して居るが、第四九回公判に於ける被告人自身の供述ー七、の二七一一ーも結局「よく覚えません」と曖昧な言葉に終つて居ることや、右以外は売血に行つた日の間隔が最大二十二日で十日以下が多いのに、九、十月にかけては三十九日も空白であることを綜合すれば被告人の右弁解は採用し難い。)同(15)(16)(17)と綜合して被告人が本件犯罪の行われた当時、それ迄生活していた大阪市に居なかつたことが推認される。証人西村為男、同西村君子、の各証言の記載(四,の一六七八、四、の一六九〇)は之に反する趣旨であるけれども、その正確性には疑問があり、前記明白な諸証拠に基く認定を覆えすには足らない。
一、同(18)乃至(26)により、本件犯罪の行われた直前たる昭和二十九年十月二十一日の午後、被告人が豊栄製材所を訪れ、三好宗一と面談したことがある事実を確認するに足る。この点につき当時同製材所に居たと思われる吉富豊彦等二、三の者がその時被告人を見なかつたと述べて居ることを挙げて、弁護人は右認定に対する反対証拠としているけれども、右(27)の検証の結果明らかな同製材所の当時の建物、人員配置の状況、立会人三好宗一の指示説明によつて明らかな同人と被告人との面談の地点、両名の間隔等を綜合すれば、三好宗一が被告人を見誤ることは考えられないし、又他の人が被告人を見ていないのは常に外来者に注意していない限り気がつかぬためであることが当然推測されるので、前認定を覆えすには足らない。又被告人は豊栄製材所を訪れたことはあるけれども、それは右の日時ではなく、昭和二十八年頃の四月頃のことであると述べて居るが、それが前認定の日時であることは、右(21)(26)の客観的正確さに富んだ証拠によつて裏付けされているのであるから被告人の右弁解は到底採用の限りでない。 
右認定の事実と、次項説明の向山製材所の件とを綜合し、当公廷では被告人自身当時大阪を離れていないと弁解するに拘らず真実は本件犯罪時直前山口市及その近辺に帰つていたことが明らかでこのことは、被告人自供調書の重要な裏付けと言うことが出来る。
一、右(28)乃至(31)の証拠により、本件発生の二、三日前頃に山口市石観音の向山製材所に被告人が向山寛を訪ねて話を交わした事実が明らかである。この点につき、小田梅一の公判廷での証言中、同人が向山寛から右のことを聞いた時期につき「岡部のことが新聞に出てから……」と述べており、一見時期が違うのではないかと思われ(被告人が大阪で逮捕されたのは昭和三十年十月のこと故)又向山が被告人を知つたのは権現山の石川木工所であると言うのに、当の石川は証人として之を否定している、けれども、仔細に検討するに、右(31)によれば小田梅一が向山製材所に傭われていたのは、昭和二十八年十一月頃から二十九年三月頃迄と二十九年十月二十一日頃から三十年一月末頃迄の間で、同人は被告人のことを向山から聞いたのは右後の場合で「初めは臨時傭としてその内常傭として使うかも知れぬとのことで働いていた時のことで六人殺しの号外を見た時より少し前の日だつたと思う」旨述べて居り又右(30)に於ても右のことを記憶している拠り所として「岡部は刑務所で囚人同志として一緒に製材の仕事をして自分より腕が上と知つていたので同人が自分と一しよに仕事をするようになつては困ると思つた」旨の特殊の事情を摘示して居る(被告人が逮捕された時なら、小田は最早向山製材所には居ないし、又被告人が逮捕された以上右のようなことを小田が心配する必要は全くない)ことから見ても時期は矢張り「仁保事件のあつた二、三日前」のことであつて、この時期に向山、被告人面談のなされた事実は相違なく、向山が被告人と知り合つた場所が果して石川木工所であつたかどうかは右認定を左右するには足らない。
一、同(32)(33)により、事件直後、被告人が逃走途中二人の男に出会つた旨の自供の裏付けが認められる。弁護人は、そのような場合は犯人ならば人影を見れば途端に逸早く踵を返して逃げるか又は身を隠すかする筈で、オメオメ人と行違う様な危険を敢てする者は居ないと主張するけれども、右証言記載によれば、暗い所で山の出端の辺で突然行き会つた旨を述べており、双方共突嗟の場面であつたことが明らかで、弁護人主張のような態度に出ることは却つて危険であり、その余裕もなかつたと考えられるので、道の端を顔をそむけて足早に通り過ぎる他なかつたと見ることは決して不自然ではない。
一、右(34)乃至(39)によれば、被告人自供の(38)の藁縄が防長新聞の梱包用に使われたものかどうかは必ずしも明らかでないけれども、少くとも右縄の出所については、農林十号の藁、栗原武製縄機による製品との一応の鑑定結果を基礎として近辺を八方手配して捜査を行つたもので、被告人の自供によつて甫めて八幡宮横の農小屋にあつたことを知り得たものであつて、被告人の主張するように捜査官が先づ右出所が解つて之を以て被告人の自白を誘導したものでないことが明らかである。
一、右(40)乃至(43)によれば、証人小崎時一は結局被告人自供の地下足袋を買つたという頃、月星印地下足袋を売つてはいなかつたこと、同人方は名古屋駅の裏を出て行くと左側であつて右側ではない旨述べてはいるが、被告人自身当時飲酒していて判然覚えないと言い(六、の二五二三)、その辺りで買つたことは認めて居り(六、の��五二五裏以下)要するに本件犯行現場に残つていた足跡は十半か十七の月星印地下足袋の跡であること、被告人が名古屋駅の裏で地下足袋を買つたことは事実であつて買つた家その家の所在に記憶違い等あつても、右の事実を左右することは出来ないし、又この点被告人の自供があつて甫めて捜査がなされたことも之によつて明らかである。
一、同(46)(47)は前出(7)(9)と綜合して被告人自供の強取金員の裏付である。
一、同(44)(45)は使用兇器
一、同(46)乃至(52)は国民服様の上衣丈け取つた旨の被告人の自供、被害者が国民服様のものを生前着用していたとの親族近隣よりの聞込み、形見分けを貰つた家全部を捜査した結果、木村完左が国民服のズボンを形見分けに受領し居るも上衣を受領した者は親族中捜してもなかつたこと。木村完佐提出の右ズボンを警察官が被告人に示し、被告人が強取した上衣は右ズボンに似たものであることを指摘したこと、福井シゲノが本件後被告人が国防色の将校服の様なものを持つて居たが、それを自分が焼いたが、その右側の横のポケツトの所に血のシミの洗つた様な跡があつた旨述べていることが明らかで、被告人自供の国民服上着強取の点の裏付けとなる。
一、同(16)(53)(54)右(49)によれば被告人の自供を裏書きするような状況や被告人の言動が認められる。
一、同(57)の渡辺サトノの証言につき、弁護人は犬の啼くことは松茸泥棒がいた場合でも有り得るし、該場所は斯る者の出没する可能性ある所だから、右証言は被告人自供の裏付たり得ない旨主張するが、右の証言によれば仁保事件の号外の出た前夜三時頃のことで当夜は証人方の犬が峠を行きつ戻りつして啼き眠れなかつた旨述べて居り、いつもの啼き方と異つた状況だつたことが推し得られる。
以上により、被告人の検察官に対する自供につき、その真実性を担保するに十分な裏付があると言わねばならない。
(前科)
被告人は昭和二十七年七月十七日山口簡易裁判所で窃盗罪により懲役六月に処せられ、該判決は同年八月一日確定し、当時その刑の執行を受け終つたもので、右の事実は被告人の検察官に対する昭和三十年十月二十九日附供述調書(三、の一〇八一)及び被告人に対する前科調書(三、の一〇六一)によつて明らかである。
(適条)
被告人の判示所為中第一の住居侵入の点は刑法第百三十条、罰金等臨時措置法第三条に、窃盗未遂の点は刑法第二百四十三条、第二百三十五条に、該当し、右両者は手段結果の関係にあるので同法第五十四条第一項後段第十条により一罪として重い窃盗未遂罪の刑に従い処断することとし、その刑期範囲内で被告人を判示第一の所為につき懲役四月に処し、刑法第二十一条を適用して主文掲記の未決勾留日数を右本刑に算入する。(第一の罪は前示前科に係る罪と刑法第四十五条後段の併合罪であるから同法第五十八条により未だ裁判を経ない右第一の罪につき更に処断するものである。)
被告人の判示第二の所為は刑法第二百三十五条、第五十六条、第五十七条に、同第三の各被害者に対する所為は夫々刑法第二百四十条後段に該り、以上は同法第四十五条前段の併合罪であるところ、右第三の各被害者に対する罪については情状によりいづれも所定刑中死刑を選択するのを相当と認めるので、同法第四十六条第一項第十条第三項に従い、犯情の最も重いと認める山根実に対する罪についての死刑を択び他の刑を科しないこととし結局判示第二、第三の所為について被告人を死刑に処する。
尚訴訟費用の負担については刑事訴訟法第百八十一条第一項本文を適用して、主文の通り判決する次第である。
  高裁
窃盗、強盗殺人被告事件
広島高等裁判所
昭和四三年二月一四日第四部
上告申立人 被告人 岡部保
         主   文
 本件控訴を棄却する。
         理   由
 本件控訴の趣意は記録編綴の弁護人小河虎彦・同小河正儀及び被告人各作成名儀の控訴趣意書記載のとおりであるから、ここにこれらを引用する。
右各控訴趣意に対する当裁判所の判断は次のとおりである。
一、事実誤認及び原判決引用の被告人の自白には任意性・信用性がないとの各論旨について。
先ず各所論は原判決が被告人において原判示第三の強盗殺人罪(以下単に本件ともいう。)を犯したものと認めたことは誤りであるというにあるが、原判決挙示の関係各証拠を総合して考察すれば、被告人が右の罪を犯したことを認めるに十分であり、当審事実調の結果によるも原判決の右認定に誤りがあることを疑うに足りる資料はない。各所論は右認定の誤りであることを主張する理由として、特に原判決引用の被告人の検察官に対する各供述調書に記載の供述及び検察官採取の録音テープ中の被告人の供述は、警察での拷問または誘導による自由を基礎に、被告人が検察官から「警察での自由を覆せば、また警察に返して調べ直させる。」と威されてした任意性も信用性もないものである旨主張する。しかし、被告人の司法警察員及び検察官に対する各供述調書に記載の供述内容を具さに検討し、且つ各捜査段階で採取した録音(証第一四号・同第二八号の一ないし三〇)に耳を傾けて仔細にこれらを吟味し、さらに原審証人木下京一(三冊八六二丁以下・八冊二九〇六丁以下)・同小島祐男(三冊九六五丁以下、八冊二八八二丁以下)・同友安敏良(三冊九〇四丁以下・六冊二三二二丁以下)・同山口信)三冊九二六丁以下・四冊一四一四丁以下・五冊一八八二丁以下・六冊二二七六丁以下)・同世良信正(四冊一四三〇丁以下・五冊一八六九丁以下)・同橘義幸(三冊九五六丁以下)・同松田博(三冊九六一丁以下)・同西村定信(五冊一九〇九丁以下)・同西田啓治(二冊四八一丁以下)の各供述記載、当審証人木下京一(一四冊四八二六丁以下)・同友安敏良(一四冊四九一八丁以下)・同山口信(一四冊五〇一二丁以下)・同中根寿雄(一六冊五八一〇丁以下)の各供述、当審証人木下京一の供述記載(一五冊五二八九丁以下。以下「供述記載」をも単に「供述」と略称することもある。)、押収の捜査日誌(証第二七号。同日誌は原審証人木下京一の供述《八冊二九〇六丁裏以下》によれば、同証人の作成にかかるもの。)を合わせ考察すれば、被告人の司法警察員及び検察官に対する各供述調書に記載の供述並びに前記各録音中の被告人の供述が主張のような任意性を欠くものとは認められない。もつとも、警察の録音中には聊か執ようにわたる質問や被告人において供述を渋つている点などが聴取されるけれども、被告人の警察での自白は昭和三〇年一一月一一日午後二時過頃被告人自ら進んで真実を述べたいから取調をしてもらいたい旨を申出たことに始まつたものであること(原審証人木下京一供述三冊八六七丁裏以下。同日採取の警察録音第三巻で,本件を全面的に自白するまでの前後の状況。)、被告人が供述を渋っているのは、特に初期においては親や子の身辺を案じ且つは過去の非行に対する抑えがたい煩悶悔悟の情の然らしめるところであつて聞く者をしてさえ涙をそそらせるまで真に迫るもののあることのほか、録音全般を通じて傾聴すれば、右のような質問や供述態度から、警察での取調に際し被告人の供述の任意性を失わせるような拷問脅迫等による不当な圧迫または誘導が行われたものと認められない(殊に被告人は元警察官で、しかもその自白は極めて重大な犯罪に関するものである。)。また、以上の各供述を原判決挙示の他の関係各証拠に照らして検討すれば、それら各供述の信用性を否定すべきいわれがないばかりでなく、後述のように当審での事実取調の結果をも斟酌して考えると、右各供述は一層信用すべきものであることがわかる。以上の認定に反する被告人の原審以来の供述(その供述は、後記(一)に認定のように真実に反することが明らかであつたり、供述に一貫性がないこと、例えば原審第四九回公判では「一二月二五日に長谷峠に行つたときと、熊坂峠に行つたときには拷問がなかつた。」旨供述しながら《七冊二八〇八丁裏》、当審第一三回・第一四回各公判では、長谷峠・熊坂峠に行つた際にも極めてひどい拷問を受けた旨供述する《一五冊五三五二丁以下・五四四八丁裏以下・五四五一丁裏以下。》など、被告人の捜査官の取調の不当性に関する供述は公判が進むにつれてその不当内容が次第に増大して行く傾向にあることからしても理解できない。)並びに原審証人竹内計雄(四冊一五五八丁以下)・同岩倉重信(五冊一六三六丁以下)・同熊野精太郎(五冊一六四六丁以下)・同広戸勝(五冊一六六四丁以下)の各供述記載中被告人の供述に副う拷問の事実を推認させるかのような部分は前掲各証拠に照らし採用しがたく、被告人が供述するような拷問と目すべき取調方法がおこなわれたことを認むべき資料とはなし得ない(竹内証人の供述によれば、同人が山口警察署留置場にいたのは三月頃とのことであるが、既にその時分には被告人の訴によるも拷問が行われていた事実がなく、また右留置場で被告人と話し合つたのは洗面所で二人だけの時であつたなどの点からしても同証人の供述は納得できない。熊野証人・広戸証人の各供述は殆ど同じ頃の状況に関するものでありながら異なるものがあることなどからしても首肯し得ない。さらに前掲木下・友安・山口各証人等の供述によれば、被告人の申出その他の都合により夜に入つて取調が始められたときなど一〇時過頃に及ぶこともあつたが、そのような場合には翌朝の取調を遅く始めるなどの配慮がなされていたことが認められる。)。したがつて、被告人の捜査官に対する自白は拷問または誘導による任意性を欠くものであるとの主張はすべて採用できないが、なおこの点に関連する主張の主なるものについて次のとおり判断する(以下当審第一五回・第一六回各公判における弁護人らの弁論で控訴趣意を補充するもののうち重要なものについても合わせて判断する。また被告人は当審第一五回公判で自分の言いたいことは上申書にあるとおりであると供述するので、上申書中の主要な点を引用しつつ判断を示すこととする。)。
(一) 被告人は山口警察署の留置場で拷問による受傷のため二回に亘り医師の診療を受けた事実があるにかかわらず、留置人医療簿にその旨の記載がないこと、うち一回は歯科医の診療を受けたものであるが、そのカルテに治療方法すなわち処方が記載されていないこと、被告人が着用していた衣類が大破して修理してもらつた事実があるのにその衣類の行方が不明であること、山口巡査部長が被告人に代りのシヤツを与えたことなどは被告人が供述する拷問の事実を推認させるに十分である旨の主張(弁護人小河虎彦の論旨第四の2・3・4。弁護人小河正義の論旨一の1。)について。 
司法警察員の「被疑者の診療状況について」と題する昭和三二年六月一五日付報告書(三冊九七〇丁以下)、留置人診療簿(証第一三号)、カルテ二通(証第一一号・第一二号)、原審証人糸永洋(三冊九九五丁以下)・同清水キミヤ(三冊一〇〇一丁以下)の各供述記載によれば、被告人は山口警察署留置場で昭和三〇年一二月二日には虫歯の炎症のため済生会病院歯科医師糸永洋の診療を受け、同月二〇日には急性腸カタルのため同病院医師清水キミヤの診療を受けたが、以上の各疾患は如何なる外力の作用にもよるものではなかつたこと、当時被告人の身体には何らの受傷の痕跡もなかつたこと、右各診療のカルテにはそれぞれ処方の記載があるばかりでなく当時の山口警察署の留置人診療簿(証第一三号)にも明確に右各診療事実についての記載のあることが認められる。してみれば、被告人の当審第一三回公判における前記歯科医の受診に関しての「拷問で熊本刑事あたりにほほをたたかれてはれたんです。それで歯が痛くてやれんからお願いしたわけです。」との供述(一五冊五三一六丁裏以下)の如きは全くの虚言というのほかはない。なお、弁護人小河虎彦は糸永歯科医のカルテにキヤンフエニツクを施用したことに関する記載のないことを論難するが、前記糸永証人の供述によればキヤンフエニツクを施用したかどうかは判然しないというのであるから、この一事をとらえて拷問事実を推認すべき資料とするわけにはゆかない。また、山口巡査部長が前記留置場にいた被告人に同情して着替のシヤツを与えたこと、被告人着用の衣類が古くほころびていたため山口警察署の女子職員に依頼してこれを修理してやつたことは原審及び当審証人山口信の各供述(五冊一八九五丁以下・六冊二二九八丁裏以下・一四冊五〇二八丁裏以下)によつて認め得るが、同証人の供述(五冊一八九六丁以下)によれば、留置人が着用している衣類については担当官に保管を委託しない限り留置人名簿にその記載をしない立て前になつていることが認められる���で、同名簿に所論の衣類の記載がないことから警察側としてその行方が不明であるとしても、これをもつて拷問事実を推認すべき根拠とはなし得ない。
(二) 被告人作成の被害者方家屋の間取り等(四冊一四四九丁・一四五〇丁・一四五一丁・一四五五丁)が事件発生直後の検証現場の状況と一致していることは寧ろ不自然というべきで、右はいずれも捜査官の誘導に従つて作成されたものとみるべきであるとの主張(弁護人小河虎彦の論旨第二のイ・弁護人小河正義の論旨一の1。)について。
原審証人山口信の供述(四冊一四一四丁以下)によれば、右の図面はいずれも被告人が任意に作成したものであることが認められる。この点に関し被告人は原審第四九回公判では「私は建築業をやつております。それで田舎の建前は何十軒と言つていい程製材をやつております。それで田舎の建前というものは大体一定した建前でありますので、私は大体の見当をつけて一番初めに私の家に似かよつたように、そして隣近所の家とか、あらゆる家を全部比べてみて書きましたです。」と供述しながら(七冊二七五四丁以下)、当審第一三回公判では「初め概略は警察官が書いてくれたんです。私が一番不審に思うたのは、牛小屋が長屋の前にあるというのが書いてあつて、合わせるのによく納得がいかなかつた。」等の旨供述し(一五冊五三三九丁裏以下)���その間矛盾があることのほか、同公判での被告人のその余の供述(一五冊五三三九丁以下の「一四五五丁の図面のように本件の前々日何人かが夜山根方納屋裏で様子を窺つていた際映画帰りの人に発見されたということを捜査段階では聞かされていない。それを聞かされたのは公判になつてからである。」旨の点及び「一四四九丁・一四五一丁の鍬のあつた場所は私の家から判断してあの辺にあつたんだと言つた。」旨の点。)に照らし前掲弁護人の主張は採用できない。
(三) 被告人の手記が六年間伏せられてあつた事実並びに原判決引用の被告人の手紙及び和歌は昭和三〇年暮か昭和三一年一月中のものであるのに昭和三六年秋迄秘められておつた事実は納得できない旨の主張(弁護人小河虎彦の論旨第四の八。)について。
しかし記録によれば、右手配(昭和三一年一月二九日付。四冊一四四七丁以下。)は既に昭和三二年一〇月二一日の原審第一四回公判で、手紙(証第二六号)は昭和三五年一一月二日の原審第四二回公判で、和歌(証第一九号)は同年五月一二日の原審第四一回公判で各証拠調が施行されたことが認められる。しかも、原審証人友安敏良の供述記載(六冊二三三〇丁裏以下)・司法警察員友安敏良の昭和三五年五月一二日付山口地方検察庁検事土井義明宛「参考資料提出について」と題する書面の記載(六冊二二四〇丁以下)によれば、右手紙は被告人が山口警察署留置場にいた時分(同手紙の日付として「一月三十日」とあるは他の関係証拠からみて昭和三一年一月三〇日の意と解される。)同署警部友安敏良の次女典子(当時小学二年生)に対し菓子を差入れてもらつたお礼として差出された私的なもので、父である右友安により保管されていたもの、また原審証人山口信の供述記載(六冊二二七九丁以下)によれば前記和歌は昭和三〇年一二月三〇日頃前記留置場で当時同署勤務の警察官であつた右山口証人が正月近くのこととて被告人のひげを剃つてやりながら「今までできたことは仕方がない。これからは人生の一歩を踏み出してやつてくれ。」などと話しかけた際、被告人がこれに答えて「今度のことであんたには随分世話になつたので、一つ私の心境を書いて差上げようと思う。」と言い、その後もらい受けた留置場看守巡査の手許にあつた仮還付請書用紙に当時の心境をしたため右山口に「記念に」と言つて渡された私的なもので同人の手裡に保管されていたものであり、それらが何らかの事情により特に秘匿されていたものであつたとは認められない。そして右手紙・手記・和歌は次のとおりのものである(次に掲記の手記中「終」・「夢」・「邪」・「鐘」・「胸」・「煙」・「皆」、手紙中「静」・「坊」、和歌中「煙」・「境」・「暮」はいずれも原文中には誤字が用いられているが、活字がないため訂正して掲記したもの。その余は原文のまま。)。
(手記)
「私は大正七年七月十二日に人の世に生を受け貧乏百姓の長男として生れ父母にかはいがられて一通の教育もさして戴き身心共に壮健で元気一ぱいで社会に出て幸福に送日致して来ました終戦後迄はどうやらこうやら人としての務めをはたして来たと思います二十四年頃より商売の手ちがいから気がいらいらして弱者と成り一ヤク千金の夢を見るように成りやる仕事に永続きが出来ずとうとう世間の皆様へ御迷惑をかけ人としての道をふみはずして自分自心が邪道に足をふみ入れてしまいました。
『人の世に生き行く為にまよい出る黒玉だいてふみ出す一歩』
今度はあのよう事を致しまして何んと言つてよいか書き表す言葉を知りません過ぎし日の事が日夜思い出され片時も頭からはなれた事が有りません毎夜なる鐘のネ遠くから聞こへて来る何かさびしい汽車の音等々数かぎり無い社会の物音を聞く度懺悔の室でたつたりすわつたりして苦悩集懆して気持を静めようとしてあせつて居ます
『思ふまい思ふまいぞと思えども心のうづきとめようもなし』
日影に狂い咲きかけた花のように生きようとして人としての勝負に負けて叫び悲みもだへもだえて進み行く道に迷い目に見え無い御仏の心を捉えようとして鉛のような重苦しい気持で胸一ぱいに締めつけられて来ます
『大声で叫びどなりてなげつける狂える心に情さけの言葉』
何か一寸した事にでも興奮して頭のけなどかきむしるような気に成ります時など係官殿の厚い情でなぐさめられ涙が出て来てしかたが有りません此の胸の内を御仏に御願ひ御話して一時も早く仏にすがり懺悔して人としての務をかならずはたして山根様の霊に御詫致します
『いざさらばわかれの煙草すい修め死での遊路ににじをわたりて』
皆様の情の品を胸にひめわかれのお茶にむせびし吾は
胸に思つて居る事を書こうと思いますが書き表らはせません
昭和三十一年一月二十九日 岡部保 指印」。
(手紙)
「坊ちやんとつぜんこんな事を書いて御便り差上げますのを許して下さいませ今頃は日本の国は一番寒い時ですねまい日まい日学校に通勤されるのに御ほねがおれる事と思います
私は山口県に生れた人ですが日本全国でいや世界中で一番悪い事をした者ですけれど今はそのつみのつぐないを致そうと思つて一生懸命ベンキヨウし修養して日本一のえらいほうさんになろうと思つてまい日小さいへやの中で静かに今迄私の見たり聞たりやつて来た事等を思い出しては一つ一つ頭に入れて居ますそしてあの時はおもしろかつた又あの時はほんとうにかなしかつたとか数かぎりない過ぎさつて来た事を思いベンキヨウをして居ますきつときつと私はえらいほうさんになつて今迄悪い事をしたつみのつぐないをしてせけんの皆様方に心からおはびを致しますから其の時は許してほめてやつてくださいませ先日はおいしいおかしをたくさんほんとうに有難う御座いましたあのような御か子は何年と云つて食べた事は有りませんでした遠い遠い昔坊ちやんぐらいの時よく食べて居ました其の時の事を思い出してなつかしくうれしくいただいている中涙が出てしかたが有りませんでしたほんとうに何より有難う御座いました厚く厚く御礼を申し上げます私には一生わすれる事は出来ません今夜は寒い寒い雨がふつて居る様ですが御休に気をつけてベンキヨウして下さいませ私がえらいほうさんに成つた時は御知せ致しますほんとうにほんとうに有難う御座いました御休に気をつけられまして学校に行つてえらい人に成つて下さいませかげながら御いのり致して居ます
さようなら
ほうさんより
坊ちやんえ
一月三十日
(和歌)
「一、思えども生れてこの方この吾に老母よろこぶ一つだになし
一、過ぎし日のおも影六つ胸に秘め生きるこの身の苦しき思いは
一、杖ついてあの山こへてみ仏のお家に急ぐなさけの道を
一、我は今身然の景しき見つめつゝ遠くへさけぶ胸のうづきを
一、三年(ミトセ)前いとし子供の御影をてつさく見つめて身をもお吾は
一、飲べたさに昼夜わすれぬよくの川流れ流れていづくの海へ
一、捕されて初めて逢つた其の君に又も無理いふおろかな吾は
一、生れ来て三十七才(ミトナナサイ)で胸にシミ思い出すまい人生行路
一、過し日のあの過を胸に秘め六つの影に手を合す日々
悔恨を胸に日々新た己が苦しみ歌にと読みて
一、かたことゝ雨戸ゆすぶるしとれ雨
一、あの煙りどこがよいのか身にしみる
今はただ御仏の袖に罪み悔つ
父としていたわれずして去り来たる籾なる石憫涙だ払いつ
今はたゞ己が罪を懺悔して歌に心境読み暮す君
御仏の袖にすがりて罪を悔い六つの影に手を合す日々」。
以上の各内容から考察して、それらは当時の被告人の真情を吐露したものと認めるのほかなく、捜査段階における被告人の自白の任意性と信用性とを認むべき極めて重要な資料たるを失わない。被告人は原審以来「右はいずれも警察での拷問による取調から一日も早く逃れたいとの念願から自己の心境を偽つて作成したものである。」旨主張するが(原審第四一回公判六冊二一六〇丁以下。原審第四九回公判七冊二七九八丁以下。当審第一三回公判一五冊五三二〇丁以下。当審第一七回公判一六冊五九六九丁以下。なお原審第四一回公判六冊二一六二丁以下の「和歌は昭和三〇年一二月二五日頃から確か翌年一月の一〇日か一五日頃までの間に書いたと思う。」旨の被告人の供述記載と、前掲山口証人の供述記載とによれば、前記和歌は昭和三〇年一二月三〇日頃から翌年一月一五日頃までの間に作成されたものと認められる。)、一方原審第四九回公判での被告人の供述(七冊二八〇八丁ないし二八一三丁)によれば、被告人が警察で拷問を受けたというのは昭和三〇年一一月六、七日頃から同年一二月二七、八日頃までの間のことであつて、右の手記・手紙・和歌を書いた時分には被告人の供述からしても「一日でも早く拷問による取調から逃れたい念願」が生ずるような状況にあつたとはいえない。
(四) 原判決では本件犯行当時被告人が山口地方にきていた証拠として三好宗一・向山寛の各証言を援用しているが、それらはいずれも措信しがたいとの主張(弁護人小河虎彦の論旨第四の6。弁護人小河正義の論旨一の4の(2)。)について。
しかし、右各証人については当審でも取調をした結果(一一冊三九五三丁以下・三九七八丁以下)同証人らの原審及び当審での被告人に出会つた点に関する各供述は十分信用し得るものであることが認められる(但し、証人向山寛の当審での供述《一一冊三九七八丁以下》によれば、同証人の原審での供述中「石川木工所」とある部分は日「進製材」の間違いであることが明らかである。)。殊に被告人は捜査段階で「井久保の製材所に行つて三好という三〇才位の男に岡村のことを尋ねた」旨を述べた(四冊一二四一丁以下・一三二七丁裏)ことに関し、当審第一三回公判で「警察官がどうしても製材所へ行つたと言うんで、一番知らないところの井久保の製材所へ『岡村君はおりませんか』と言うて仕事師に尋ねたら『おらん』と言つたなどの供述内容を創作して言つたわけである。」旨弁解するが(一五冊五三三〇丁末行以下。同趣旨一五冊五四三〇丁裏。上申書三冊八五五丁・七冊二四八五丁。)、原審第三回公判で証人三好宗一に対し「私は工場へ行つたことはありますが、それは松茸の出る頃ではなく、四月頃と思いますがどうですか。」、「私はその時三人いる中の板をたばねていた人に岡村という人のことを聞いたと思いますが。」、「年度は昭和二八年頃と思います。」、「私は工場の前の道路から直ぐ自転車に乗つたが見ていませんか。」と反対尋問をしていること(一冊三一七丁裏以下)に照らしただけでも、前掲被告人の弁解は納得できない。なお、弁護人小河虎彦は当審第一五回公判で前記三好証人が被告人から脅迫状めいた書信を受取つたかどうかとの点に関連し(一一冊三九六一丁裏以下参照)、「在監中の被告人が証人に対し脅迫がましい書信などを出し得ないことは明らかである。」旨強調するが、監獄法その他の関係法規を検討するも、拘置監内の被告人から発せられた書信はこれを検閲し得ても、内容の如何によつてその発信を制止し得る根拠を見い出し得ない。
(五) 元の内縁の妻山根ス���子が当時被告人に出合わなかつたことは、被告人が山口地方にきていなかつたことの証左であるとの主張(弁護人小河正儀の論旨一の4の(2)。)について。
しかし、被告人の検察官に対する供述によれば「昭和二九年一〇月二二日に以前同棲していた山根スミ子を訪ねて行き『ごめんください山根さん』と声をかけたが、中から返事がなかつたので、あるいは情夫でもきていて具合が悪いのかも知れないと思い家に入るのをやめて元きた道を引返した。」というにあつて(四冊一三二八丁裏以下。司法警察員に対する一二五三丁も同旨。)、被告人が当時山根スミ子に出合わなかつたことをもつて山口地方にきていなかつたことの証左であるとする主張には賛成できない。なお、当審では被告人が立寄つたという売店等の関係者を取調べたが、それらはもともと被告人の顔を知らないか、当時既に記憶が薄れていた人達ばかりで、同人らの供述によつては被告人に出合つたかどうか判然しなかつた。しかし、石川松埜の司法警察員に対する供述調書(一二冊四一三〇丁以下)、当審証人石川松埜・同石川松菊尾(一三冊四三八五丁以下・四三七八丁以下)、当審各検証調書(一一冊三八八一丁以下・一三冊四四七六丁裏)の各記載を総合すれば、被告人が捜査段階でした「昭和二九年一〇月二四日午后六時頃宮野の新橋の店(角の店)で女の人からパンを買つて食ベながら仁保に向つた。」旨の供述(四冊一二五六丁裏以下・一三三〇丁裏以下)中の店は、昭和二九年六月中旬(被告人は昭和二八年五月頃以来山口地方にきたことがないという。)開業してパン菓子類等を販売していた山口市市会議員石川菊尾の妻石川松埜が経営管理していた店舗(但し昭和三三年三月閉店)であつたことが明らかで、このことはまさしく被告人が本件犯行当時山口地方にきていたことの証左であるとみないわけにはゆかない。
(六) 被告人の大阪におけるアリバイに関係のある山本高十郎の手帳を捜査官が押収しなかつたこと、並びに西村為男・西村君子・水谷武三郎の各証言によれば、被告人は当時大阪にいたものでアリバイが確立しているのに、原判決ではその正確性につき疑問があるとしている点はいずれも納得できないとの主張(弁護人小河虎彦の論旨第四の五。弁護人小河正儀の論旨一の4の(1)。)について。
しかし、原審証人山本高十郎(二冊三九六丁以下)・同友安敏良(六冊二三二二丁以下)・同熊本清(五冊一九三三丁以下)の各供述記載によれば、山本高十郎が所論の手帳を所持していたことは明らかで、これを押収しなかつたことをもつて同証人らの供述、殊に右山本証人の当時被告人が大阪にいなかつたとの点に関する供述の信用性を否定することはできない。また、原審証人水谷武三郎・同西村為男・同西村君子の各供述内容(二冊四二一丁以下、五冊一六七八丁以下・一六九〇丁以下)を検討すれば、これらの供述内容をもつて当時被告人が大阪にいたものと確認すべき資料にはできないばかりでなく、当審証人西村まさのの供述(一四冊四七四三丁以下)によれば、かえつて当時被告人が一時大阪にいなかつたもので、この点に関する同証人(原審当時は西村君子と名乗つていたが、戸籍上は「まさの」が本名。)及び西村為男の原審証人としての各供述はいずれも記憶違いによるものであつたことが明らかであり、同各供述に疑いがあるとした原判決の判断には何ら誤りのなかつたことが一層明白となつたのである。因みに、被告人は上申書(昭和四二年六月一六日受付。一六冊五七五一丁以下)中で「捜査陣は古賀はむろん(当人を証人とすることができれば、大阪でのアリバイ一切がうきぼりになる。)、靴屋一家(五人家族)、眼帯の男(私の処で寝起きしていた)、また出入の女等々の住所氏名を知りぬいて隠して出してくれない。」と主張し、さらに当審第一四回公判で以上の人々に関し「警察の一番初めの取調の頃からアリバイですから詳しくメンバーをあげて説明している。」と供述するが(一五冊五四七〇丁裏以下)、被告人がこれらの人々について言い出したのは昭和四二年一月二七日の当審第一三回公判でのことである(一五冊五四〇〇丁以下)のみならず、右の人々が昭和二九年一〇月二五、六日頃被告人が大阪にいたことを知つている事情に関しての被告人の供述はそれ自体極めて不可解で到底首肯できない(しかも、一五冊五四〇〇丁裏以下では「昭和二九年一〇月当時には古賀はあまり寄りつかなかつた。」と述べており、また当時被告人は天王寺公園の小屋で巡礼母子と同棲していたので「眼帯の男」が寝起を共にし得る状況にはなかつた。)。
(七) 被告人の郷里と被害者方とは同村でも四粁以上も隔つており、被告人は一度も山根保方付近に行つたことがなく、また同人方一家六人を皆殺しにしなければならない理由も必要もなかつたとの主張(弁護人小河虎彦の論旨第三の(二)・(五)。)について。
被告人は原審第四〇回公判では「牧川部落は人も地形も知らないが、むすび山の上から回りを見たことがあるので、山の手前から見渡せる範囲は知つている。牧川には子供のときから一回も行つたことがない。」旨(六冊二〇五三丁裏以下)、原審第四九回公判では「牧川への道は行つたことがないから知らないが、田舎の道は田の畦を通つて行けば大体何処にでも行けるということを私は農村出身であるから見当はついていたと同時に、子供の頃むすび山の頂上で木の上に上つて遊んだことがあるので、裏側がどんなふうになつておるかということも遠い記憶に残つている。」旨(七冊二七五〇丁以下)、「自分は本件犯行現場である牧川には以前行つたことがなく全然知らない。しかし汽車の上から見たことはある。」旨(七冊二七六八丁以下)各供述し,且つ上申書には「牧川はへんぴなところで子供の頃から一度も行つたことがない。」旨記載し(七冊二四七八丁以下)ながら、当審第一四回公判では「牧川は戦前まではよく知つておりましたです。それから戦後はあまり行つたことはありません。と申しますのも牧川のあの部落をつきぬけて鉄道線路の暗渠へ通ずるキドヤマ方面は私たち部落の柴刈場であります。それで青年時代よく通つたことがあります。」というのである(一五冊五四三六丁以下)。以上によつてみれば、被告人はむすび山より奥の牧川方面に生来一度も行つたことがないとの被告人の弁解は到底採用できない。
また、本件犯行に際しての前後の状況に関する被告人の警察以来の各供述を通じて考察すれば、被告人は金品奪取のため山根保方に侵入し、台所土間で誰何された際一時は逃げ出そうとも考えたが、その夜どうしても金を取る気持で一杯であつたため「ええくそやつてやれ」という気になり結局その目的の実現と証拠隠滅のため同人方一家六人を殺害するに至つたものと認めざるを得ない。(本件については、記録中の被告人が殺人を犯しかねない性格の持主であることを認めさせるような供述記載《二冊六九四丁・三冊一〇二二丁裏・一〇五二丁裏以下・四冊一四四三丁》は事実認定の資に供しない。)
(八) 被告人の捜査官に対する自白は、(1)商売資金を得るため郷里に帰る旅費をパチンコ屋で儲けたとの点、僅か一万円の資金を得るため大阪から山口県に帰る気になつたとの点、(2)堀経由で帰郷したとの点、バス賃を十分持つている筈の者が何故に十里の徒歩旅行をしなければならなかつたかの点、(3)納屋の引戸をあけて侵入したのにその戸を閉めて逃走路をふさいだことになる点、(4)調理場には脱穀した玄米が山積していたのでそれを持つて行くのが自然であるのに何故にその中を通つて母屋に入る必要があつたかの点、(5)藁縄は何の必要があつたかの点において不合理であるとの主張(弁護人小河虎彦の論旨第三の(一)、弁護人小河正儀の論旨一の2。)について。 
(1)被告人の警察以来の各供述(三冊一一七八丁以下、四冊一二三七丁以下、四冊一三二三丁以下、四冊一三五九丁以下。警察録音テープ第二巻)を通じてみれば、被告人は昭和二九年一〇月一九日大阪市内でたまたまパチンコで儲けた金で一杯飲んだことから急に里心がつき、郷里に帰つて子供の顔や家の様子を見たり、よい仕事があれば働こうと考えたり、場合によつては両親に商売資金を出させたりするなどの考えであつたもので、当初から僅か一万円の資金を得るために帰郷したものとは受け取れない。(2)被告人の警察以来の各供述調書(四冊一二二七丁以下・一二六二丁以下・一二六八丁裏以下・一三二五丁以下。)には、被告人は昭和二九年一〇月二〇日夜三田尻から防石鉄道の線路伝いに堀駅に出て同夜同駅構内に寝た旨の記載があり、且つ被告人の司法警察員に対する供述調書(四冊一三一五丁以下)中には、右の寝た場所に関し「堀駅構内北側の材木等が積んであるところで、近くに黒いような紙のような物に何かぬつたもので屋根が葺いてある小屋のあつたことが翌朝みてよく記憶にある。」旨の記載があるところ、原審証人森岡正秋の供述記載(六冊二二五九丁以下)・佐波警察署と山口県警察本部長との間の電話聴取書三通の各記載(六冊二二三六丁ないし二二三九丁裏)・当審各検証調書の記載(一一冊三七七〇丁裏以下・一三冊四四六八丁裏以下。)によれば、右屋根は堀駅構内北側材木置場の北方にあつて昭和二八年七月から八月(被告人は昭和二八年五月以来同地方にきたことがないという。)にかけてルーフィン葺にされた右森岡証人方の屋根にあたることが認められ(以上の各証拠によれば堀駅構内付近にはルーフイン葺の屋根は他にない。また、六冊二二三八丁一四行目以下によれば右森岡方家屋は元鶏舎であつたものを改造した間口三間・奥行二間位のものである。)、前記被告人の捜査官に対する各供述には裏付がある。被告人はこの点に関し原審第四九回公判で「これはキジア台風だつたですが、二六年か二七年に私は大正通りの増本建設に出ておつたのであります。それでこの時に住宅を二〇戸堀付近に建てたわけであります。これを私は責任を持つておりました関係上全製材をやつたわけであります。この時の図面からいつても、みなルーヒンぶきになつておつたんであります。それをまとめてトラツクで持つて行つてあの付近に建てたり、あの付近に流れたらバラツクだつたら必ずルーヒンでふいた家だとこういうふうに思つたから、当時のことと総合してみて、当時というのは終戦前の私が勤めておつたころの状況とにらみ合わせて言うたことなのであります。」(七冊二七三四丁裏以下)と弁解するが、その内容自体から到底採用の余地がないのみならず、右供述からすれば、被告人は職業上の経験から夙に屋根葺用の被告人のいわゆる「ルーヒン」なるものを熟知していた筈であつて、前掲供述調書中の「黒いような紙のような物に何かぬつたもので葺いてあつた。」との表現には直ちに首肯しがたいものがある。さらに、被告人の司法警察員に対する供述調書(四冊一二九六丁以下)には「昭和二九年一〇月二一日午前一一時頃八坂の三谷川の橋を渡つた所の散髪屋前の店でパン四個位を買つてたべながら歩いた。」旨、検察官に対する供述調書(四冊一三二六丁以下)には「昭和二九年一〇月二一日夜あけおきて堀の町をみてから八坂へ出て散髪屋の前の店で女の人からパンを三個位買つてから仁保井開田へ向つた。」旨の各供述記載があり、且つ被告人作成の図面(四冊一四五九丁)中に「十月二十一日この家がバンカツタ所」として表示があるところから、当審において検証の結果「一一冊三七七一丁裏以下・一三冊四四六九丁以下。)、右の店は三谷川橋北詰から東方四軒目の渡辺美太市方に該当することが認められたのである。この点につき被告人は原審第四九回公判で「三谷川橋の所にパン屋があるということは、ここは学校もあるし、旅館もあるし、散髪屋もあるし、昔バスの終点になつておりました。それで町ですからパン屋の一軒ぐらいどこかにあることは私は見当をつけて言つたわけなんであります。」というが、その弁解は前記被告人作成図面中のパン屋の位置とこれに対する当審検証結果とに照らし到底採用の限りでない。さらに、被告人は上申書中(一一冊三八七一丁以下)で「三谷川の橋のたもとの散髪屋は昭和二九年一〇月頃既になかつた。」というが、当審証人新宮直次の供述記載(一三冊四四六三丁以下)・蔵田敏雄(一二冊四一〇三丁以下)・山本義方(一二冊四一〇七丁)・新宮直次(一二冊四一一一丁以下)の司法警察員に対する各供述調書の記載、新宮直次の住民票謄本(一二冊四一二九丁)の記載によれば、右三谷橋たもとの散髪屋は新宮直次方のことで、同人方では昭和二九年一一月一九日まで三谷川橋のたもとで営業が続けられていたことが認められる。さらに弁護人小河虎彦は当審第三回公判で「三谷川橋は当時仮橋であつたのに、被告人の捜査段階での供述が仮橋を通つたという供述になつていないことは不可解である旨」主張するので検討するに、右各証拠によれば三谷川橋は昭和二六、七年のキジヤ、ルース台風で流失し昭和二九年一二月三〇日に新たな橋が完成(同年一〇月竣工予定が延期された。)するまでは、その���に架設されていた仮橋が一般の通行に供せられていたことが認められる。しかし、被告人の司法警察員に対する供述調書中には、その供述として「三谷川の橋を渡つた。」とあつて(四冊一二九七丁)、「仮橋を渡つた。」とはないが、これがためその供述が不可解であるとするには足りない。以上の認定経過に被告人が当時家郷を捨て浮浪生活を続けている身であつたことなどを合わせ考えると、三田尻から防石鉄道の線路伝いに堀・八坂を経て徒歩で帰郷したとの被告人の供述は、たとえその間の道のりが所論のとおりであるとしても、真実とみないわけにはゆかない。(3)犯人が侵入口を閉めるということは必ずしも不自然稀有のことではない。なお、被告人は本件の前々夜山根方納屋裏付近で同人方の様子を窺つていた際他人に発見された事実がある(被告人供述四冊一二三〇丁以下。関係人供述等三冊一〇九五丁以下・一〇九九丁以下・一四冊五一五五丁以下。なお前掲(二)の説示中一四五五丁の図面に関する点参照。)。(4)山根保方の納屋に玄米が積んであつたことは記録上(二冊五五二丁図面)認め得るが、同所は暗かつたうえに被告人は納屋の引戸をあけて入ると直ぐ右折して母屋に通ずる開き戸をあけて台所土間に出たため右の玄米に気がつかなかつたものと認められる(司法警察員に対する供述調書四冊一二八七丁・検察官に対する供述調書四冊一三七二丁以下)。それに被告人は最初から米だけを狙うつもりではなかつた(検察官に対する供述調書四冊一三六九丁裏以下)。(5)被告人の供述によれば「現金をやれない場合には米をやろう。米をやるなら序でに自転車もやれば都合がよいがなあなどといろいろ思案の末牧川に行くことに決めた。そして小屋を出るとき米の袋の口を破つたり自転車の荷張りのときよく縄がいることがあるので、小屋の中をさぐり鋤の柄の方にかかつていた縄の中から取りやすい藁縄をとり、引張つてみたら丈夫そうであつたので、これを腰にまいて前の方で一回もじりその端を胴の両横にはせておちないようにして出かけた。」というにあつて(検察官に対する供述調書四冊一三六九丁裏以下)、その供述が不自然不合理であるとは考えられない。
(九) 被告人の地下足袋は鳶職用山型裏のもので、その買入先は名古屋駅裏の右側の地下足袋店であるのに、原判決が現場の足跡が普通の地下足袋の足跡であることから同駅裏左側にある小崎時一方で買つた月星印のものであると断定したことは重大な事実誤認であるとの主張(弁護人小河虎彦の論旨第四の1。弁護人小河正儀の論旨一の3。)について。
しかし、被告人は当時自分が履いていた地下足袋に関し、原審第四一回公判では「一〇文七分の五枚付鳶職が履く地下足袋であつた。」旨(六冊二一二〇丁以下)、同第四九回公判では「自分は警察の取調に際し名古屋で買つた地下足袋は鳶職の履く五枚合わせのものであると言つたが、絶対にお前はそんな足袋を買つておらんと言つて取りあつてくれなかつた。」旨(七冊二七六六丁以下)、当審第四回公判では「自分の買つた地下足袋は四枚はぜの鳶職用のものと思つていた。買つた場所は小崎の店よりもまだ先である。その地下足袋の裏は無地で文数もなかつたと思う。」旨(一二冊四三二四丁以下)、当審第一三回公判では「自分は警察の取調に際し名古屋駅裏で買つた地下足袋は鳶の足袋でとにかく土方には履かれん四枚はぜのものであることを主張した。」旨(一五冊五三五八丁裏以下)及び「自分は警察で最初からあくまでも名古屋駅裏で買つた地下足袋は例の普通の地下足袋ではなく、鳶職の履く四枚はぜのものであると申し上げている。」旨(一五冊五三七三丁以下)各供述するが、警察の録音テープ第二五巻中の被告人の供述には「あれは名古屋で八月に買つたあさひ印で裏は波型であつたと思う。」とありまた当審第一四回公判では「捜査段階における調書中に自分の供述として普通の形の地下足袋と出ておれば、そのとおり自分が言つたかも知れない。」旨供述する(一五冊五四八二丁以下。被告人は捜査段階では一貫して普通の地下足袋と供述している)など一貫しないものがあるのみならず、当審で被告人が地下足袋を買つたと主張する名古屋駅裏の本郷店は、被告人のいう場所や構と必ずしも一致しないし、また当時同店で販売していたという地下足袋は証第三〇号のように裏に極めて明瞭に「大黒足袋」という印と文数がはいつていて、山形及びこれを側面から観察した点で被告人の主張するものとは一致しない(七冊二五二二丁以下・一二冊四三二三丁以下・四三三〇丁、一三冊四五三六丁以下・四六〇七丁以下・四六一三丁以下、一五冊五四九四丁以下。)。以上は、被告人の当審第一四回公判での「自分はなまかじりながら犯人を捜し出す上に足跡は一番大事な点であることを習つていたので、足跡が問題になつて地下足袋のことを聞くんだなと知つていた。」旨の供述(一五冊五四六〇丁以下)を合わせ考えると、被告人は当時自分が履いていた普通の地下足袋の銘柄を忘れているか、ことさらに隠して、これを鳶職用のものであつたと強弁しているとしか認められない。なお、原判決の理由中に「証人小崎時一は結局被告人自供の地下足袋を買つたという頃、月星印地下足袋を売つていなかつた旨述べている。」旨判示するが、(40)原判決引用(40)の証人小崎時一に対する尋問調書(七冊二五〇七丁以下)には、その供述として同人方で右の当時月星印地下足袋を販売していた旨の記載があり、しかも同供述記載によれば、当時名古屋駅裏界わいで月星印地下足袋の販売店は他に一軒もなかつたことすら認められ、原判決の右判示は誤りであることが明らかであるが、このことは判決に何ら影響がない。
(一〇) 現場に遺留の藁縄は原田次正の鑑定によれば、農林一〇号種の稲藁を矢野式製縄機で製作したものであるというが、農林一〇号の栽培並びに栗原式製縄機は当時仁保地方に普及していたもので、これを藤村幾久の農小屋から持ち出したというのは捜査官の誘導にほかならないとの主張(弁護人小河正儀の論旨一の3。弁護人小河虎彦の論旨第三の(五)。)
しかし、当審証人渡辺繁延の供述(一四冊四七一三丁以下)その他記録上認められる捜査経過によれば、右藁縄は被告人の自供によつてはじめて藤村幾久方の農小屋から持ち出されたことが判明したもので、捜査官の誘導によつたものであることを認むべき何らの根拠もない。もつとも当審証人原田次正の供述(一四冊四六八七丁以下)によれば、右藁縄は農林一〇号であるとは必ずしも判定し得ないが、このことは本件認定を左右するに足りない。
(一一) 唐鍬・包丁が兇行に用いられたことは証拠上明白であるのに、これらに指紋が検出されなかつたとの主張(弁護人小河正儀の論旨一の3。)について。
広島県警察技師南熊登の鑑定書(四冊一五八〇丁)・原審証人高橋定視(五冊一六〇九丁以下)・同鈴山乙夫(五冊一六一四丁以下)の各供述記載によれば、右の各物件の柄から指紋が検出されなかつたが、それはいずれも脂肪の付着が多いため指紋の隆線が判然しなかつたことに原因するものであることが認められるのである。
(一二) 原審証人西田啓二は警察の囮であつて、同人は留置人でありながら嘔吐するまでウイスキーを飲んだ事実などがあるのに、同人の供述をもつて被告人の自白の裏付としていることは不当であるとの主張(弁護人小河虎彦の論旨第四の7。)について。
しかし、原審証人西田啓二の供述記載(二冊四八一丁以下)によれば、右主張の事実は到底認め得ないのみならず、被告人の当審第一三回公判での供述(一五冊五三六二丁裏以下)によれば、被告人が山口警察署留置場で一時西田啓二と同房にいたことがあるのは、被告人から特に「係長に西田のところに入れてくれと頼んだ。」ことによるものであつたと認められることなどからして、右弁護人の主張は採用できない。因みに、被告人は昭和三一年一月三〇日夜山口警察署の刑事室で酒を飲ましてもらつた旨供述するが、当審証人木下京一の供述(一五冊五二九五丁裏以下)に照らし、到底右被告人供述は信用できない。
(一三) 原判決引用の被告人の自白は客観的事実に合致しない。仮にそうでないとしても、右自白以外の各証拠はいずれも事実に���し、畢竟本件における認定資料は被告人の自白のみに帰するので、原判決は憲法第三八条三項に違反するとの主張(弁護人小河正儀の論旨二の1・2、三の1。)について。
判示第三の事実に関する原判決挙示の被告人の自白が十分信用し得べきものであり、且つその余の挙示の関係各証拠が右自白を補強するに足るものであることは前段までの説示によつて明らかなところであり、原判決には所論の違憲はない。殊に当審では記録並びに新たな事実取調の結果次のことがらだけからでも本件に関する原認定が結局誤りないものであるとの確信を得た。
(1) 本件が昭和二九年一〇月二五日深夜から翌二六日にかけて原判示山根方(牧川部落の奥)で行われたものであるとの被告人の捜査段階における自供は一貫して変らないところであり(その最初は昭和三〇年一一月一一日午后二時過から被告人が自ら進んで取調方を求めて自供した警察の録音テープ第三巻中に採取のもの。原審証人木下京一供述記載三冊八六七丁裏以下参照。)、このことが客観的事実に合致するものであることは証拠上明白であり(原審証人須藤玉枝一冊一二二丁以下、同西村肇一冊一三九丁以下、同須藤クラ七冊二五四八丁以下、同堀山栄五冊一七九八丁以下、同須藤友一五冊一八二一丁以下の各供述記載。須藤玉枝検察官に対する供述調書一四冊五〇七九丁以下。司法警察員の各検証調書二冊四九六丁以下・五九三丁以下。各鑑定書一冊一六七丁以下。)、このことは本件認定上特に重要なことがらである。この点に関し被告人は原審以来「本件強盗殺人事件の日時及び被害場所は昭和三〇年一一月上旬山口警察署留置場で他の房にいた西村定信から聞いて知つたもので、それに合わせるように警察以来供述したものである。」旨強弁するが(原審第四九回公判供述七冊二七二五丁・二七八九丁裏以下。当審第一三回公判供述一五冊五三七五丁裏以下。当審第一四回公判供述一五冊五四六七丁以下、『同丁末行以下に「それに警察官の方のいろいろの雰囲気から云々」の点はここで初めて供述されたもので、従前及びその後の各供述内容からみて到底信用できない。》。当審第一八回公判供述一六冊六〇五五丁以下・六〇五七丁裏《参照》、上申書三冊八四二丁裏以下・八四九丁。七冊二四六〇丁以下《二四六〇丁の五行目に「昨日」とあるは「昨年」の誤記と認める。》・二四七二丁裏・二四七八丁裏、一二冊四〇一七丁裏以下。)、原審証人西村定信の供述記載によれば「自分は山口警察署留置場にいた時分被告人から仁保の六人殺し事件は何時あつたかと聞かれただけである。何処であつたかは余り新聞を読まないので知らない。」旨(五冊一九一二丁)、「被告人から仁保の六人殺しの事件は何時あつたかと聞かれたとき、僕はその頃は山口にはいないので九月か一〇月の初めじやないかと答えた。」(五冊一九一四丁裏)というにあつて、前記被告人の弁解は全く信用できないところであり、さらにこのことに原審証人吉川梅治(二冊四二八丁以下)・同村越農(二冊三九二丁以下)の各供述によつて認められる被告人が昭和三〇年一〇月一九日大阪市内で住居侵入・窃盗未遂罪の嫌疑で逮捕された際天王寺警察署留置場で同房の者らに対し「自分は窃盗で入つてきたが、六人殺しの分もばれたかも知れない。向うの出よう次第では仕様がない。今度はちよつと出られん。」などの旨を語つた事実並び当審第一八回公判における被告人の「自分が逮捕されて天王寺警察署に引致された際新聞記載に取り囲まれて山根の事件を知らんかと聞かれたと先に述べたのは、自分の間違いであつた。」などのその前後に亘る甚しい矛盾・撞着を含む供述(一六冊六〇五七丁裏以下・六〇五六丁以下。)をも合わせ考えれば、被告人は本件強盗殺人事件発生の日時・被害者方を誰からも聞かずに自らよく知つていたものとみなければならない。
(2) 被告人の司法警察員に対する「私は山根方の事件後すぐ大阪に帰つて天王寺公園でルンペン生活をしていたので私のしたことはまさか判りはすまい、大丈夫だと考えていた。もし調べられるようなことがあつても広島市白島町の者で原爆で家族も全部死んだという心算でいた。それで新聞も見ようとも思わず新聞を買つて読んだこともない。しかし私はあれ程のことをしたのであるからあれ以来自分のしたことが気になつてならなかつたので、あのことを忘れて気をまぎらわそうと焼酎を飲んで許りいた。もちろん前から焼酎は飲んでいたが、あれからは飲む量がうんとふえた。昭和三〇年一〇月初め頃マンホールの件で天王寺警察西門派出署の平井巡査から本署に連行されて部長さんらしい人に調書をとられた際山口刑務所に昭和二七年に行つたと口をすべらしたが、品物を売つた先の店がなくなつているとかで調書��途中で午後一〇時頃に帰らしてもらつた。その際広島市白島二丁目山根保四一才と所と名前は都合よく嘘を言つてとおつたが、山口刑務所と言つてしまつたから照会されたら判ると考えそれからは気になつておちおちしておられないようになつたので、金さえあれば早く神戸の方にでも逃げようと思い、たしか一〇月一五、六日頃に当時一緒にいた福井シゲノに神戸の方に働きに行こうと思うから金を千円位作つてくれと頼んだことがある。その後一〇月一九日拾つた屑を問屋に持つて行つての帰り天王寺駅に出て待ち合わせていた福井シゲノと出会つたとき、福井が目で合図して『刑事さん刑事さん』と小声で知らしてくれたので逃げだしたが、一〇米位行つたところにタクシーがあつて逃げられなかつたため、平井巡査ともう一人の私服の巡査に逮捕されたのである。」旨(四冊一二八八丁以下)、「私は昭和三〇年四月終り頃から福井と関係ができて一緒にいたがその間同女から何か悪いことをしておるんじやないかと聞かれたことがあり、その際詐欺をして前科があると言つたことがある。また、あるときは福井が『あんた夜うなされておつた』と聞かせてくれたこともあつた。平井巡査に一度引かれてからは特におどおどしていたので福井も私の様子を特別怪しんでいろいろ聞いていた。」旨(四冊一二九三丁以下の各供述に対しては、原審証人福井シゲノの「私は昭和三〇年四月以来被告人と心易くなり茶臼山やガード下などで一緒に暮していた。被告人がマンホールの件で平井巡査に署へ連れて行かれて帰つてから私に『千円作つてくれ、神戸まで行かねばならぬ。お前だけに言うが早く飛ばねばならぬ。』と言つたので私はそれは作るが晩まで待つてくれと言うのに早く作つてくれと言うし、また被告人は平素山根保と名乗つているのに、私に預けたジツセキ(転出証明書の意)には岡部保となつておることなどから不思議に思い平井巡査にそのジツセキを見せた。その後平井巡査から逮捕されることになつた。被告人は自分と同棲中寝ていて首に手をやり『悪かつた、かんにんしてくれ。』と言つて苦しむので、私が起してやると、ため息をしていることがあつた。その時は顔が青くなつて汗を流していた。そのようなことが四・五回あつた。」旨の供述(二冊四〇七丁以下)によつて裏付けられるところであり、被告人の警察以来の自白の真実性を認定するうえに看過することができない。
(3) 前記(八)・(2)に説示のように被告人が警察で述べた「昭和二九年一〇月二一日朝防石鉄道堀駅構内材木置場から見た黒いような紙のような物に何かぬつたもので葺いた屋根」は森本正秋方の昭和二八年夏に葺いたルーフインの屋根であり、また(五)に説示のように被告人が警察で述べた「昭和二九年一〇月二四日午後六時頃女の人からパンを買つた宮野新橋の店(角の店)」は同年六月中旬に開業したパン菓子類等を販売する石川松埜経営管理の店舗であつたことが認められ、これらのことだけからしても昭和二八年五月頃以来山口地方にきたことがないとの被告人の弁解を否定するに十分であり、前掲(四)・(六)の原審及び当審証人三好宗一・同向山寛、原審証人山本高十郎、当審証人西村まさのの各供述の信用性等と合わせて被告人が本件犯行当時山口地方にきていたことを認めることができる。
(4) 被告人の捜査段階における(1)「山根保方でカーキ色の折襟の上衣を取つた。」旨(三冊一一九八丁以下)、(2)「その服は木綿のよりはよい国防色の折襟で普通の背広よりは狭く折るようになつた夏物か合物でさわりのやわらかい感じのものであつた。」旨(四冊一二二四丁)、(3)「その服は山根夫婦の部屋の枕許のあたりの上にかけてあつた。」旨(四冊一三四〇丁裏。同調書は昭和三〇年一月一三日付であるが、原審証人橘義幸の供述《三冊九五六丁以下》によれば,その前日までの取調メモによつて作成されたものであると認められる。)、(4)「その服は大阪の天王寺茶臼山の便所の横の小屋にいた時分、同棲していた福井という焼酎婆が酒に酔うてりん気半分に小屋を焼いた際焼失した。」旨(四冊一二四八丁裏以下・七冊二七八一丁裏)の各供述は、(1)・(2)の点につき司法警察員の捜査報告書の記載(六冊二二四五丁以下)、原審及び当審証人木村完左(一冊一五五丁以下、一一冊三九一六丁以下)、原審証人須藤玉枝(一冊一三二丁)、同山口信(六冊二二七六丁以下)の各供述記載、須藤玉枝の検察官に対する供述調書(一四冊五〇八二丁)、押収のカーキ色ズボン一着(証第一号)、(3)の点につき司法警察員の「裏付捜査状況報告書」と題する書面の記載(六冊二二四三丁以下)、原審証人木下京一の供述記載(三冊八六七丁)、(4)の小屋を焼失した点につき原審証人福井シゲノ(二冊四〇八丁裏以下)・同山本高十郎(二冊四〇〇丁裏以下)の各供述による裏付けがあり、真実とみるべきである。以下の点に関する原審第四九回公判における被告人の「自分は警察の取調に際し『山根方を出る際鴨居にかけてあつた国民服を持つて出た』と述べたが、それは当人が曹長であるので、当時国民服は誰も一、二着持つておつた筈と思い、ちよいちよい着として、そういうところにかけてあると思つておつたので、そう言つたものである。」との弁解(七冊二七六八丁以下・二七九五丁以下)はそれ自体不可解で採用できない。なお、以上の上衣は司法警察員検証調書二冊五九七丁裏及び同調書添付第一図に各記載のものとは異なるものである。
(5) 前記(二)に説示のとおり四冊一四四九丁・一四五〇丁・一四五一丁・一四五五丁等の各図面は被告人によつて任意に作成されたもので、それらが本件犯行現場の状況に概ね符合し(あらゆる細部の点にまで亘つて符合することは寧ろ困難であると考えられる。 
)、且つまた検察官がした現場検証に際し、それまで全く現場付近に行つたことのないという(一五冊五四八二丁裏以下)被告人が何ら遅疑逡巡することなく本件犯行に際しての行動を指示説明し、それらがすべて犯行直後の検証(二冊四九六丁以下)に際しての状況に概ね一致する(三冊七八六丁以下)ことは、本件認定上容易に看過できない。被告人は原審第五八回公判で「検察官の検証に際しては、前もつて検察官に説明して教えられたとおりをそのお気に入るように説明して行つたわけである。」旨供述し(八冊三〇九二丁以下)、さらに当審最終の第一八回公判で援用の昭和四二年一一月二日受付の上申書中で「以上の検証に際しての指示説明は現場で警察官から暴行を受けやむなくしたものである。」旨主張するが、それらの供述は当審証人中根寿雄の供述(一六冊五八一〇丁以下)のほか原審証人橘義幸・同松田博・同小島祐男の各供述に照らし到底採用できない(検察官から説明して教えられたとおりをそのお気に入るように行つたというのであれば、何ら主張のような暴行を加えられる筈がなく、また如何なる理由によつても検察官の現場検証に際し、警察官が被疑者に暴行等によつて指示説明を不法に強要するなどということは経験上からしても考えられない。)。
(一四) なお、当審第一五・第一六回公判での補充弁論中の(1)山口警察署取調室の窓にはカーテンが取付けられて講堂その他から室内を見えないようにし、通路の入口には縄張りして通行止の貼紙をし、講堂から右取調室に通ずる入口には新たに扉を設けて通行ができないようにしたことは被告人の訴える拷問事実を推察させるに余りがある(弁護人小河正儀)。(2)昭和三〇年一一月一一日の録音の採取は午後九時から始められて深夜二時過迄かかつたものである(全部で六巻あるのに、一巻を聴取するのに約四〇分を要する。)(弁護人小河正儀)。同日警察における取調は午前中から午后一二時近くまで続けられたことは録音テープ第六巻中に「今一一時五分だから云々」という取調官の発言があることからも明白である(弁護人阿佐美信義)。(3)警察の録音テープの罐に午後八時開始の記載があり、その日に八巻録音を採取している。一巻につき三〇分を要するから午後一二時までかかることは算数上明白である(弁護人小河虎彦)。(4)同月一八日採取の録音テープ一一巻には二時を打つ時計の音が聞え、一三巻には「三時頃」と「今晩はよう言うたで。」との発言があることなどから、同日の取調が長時間に及んだことが窺われる(弁護人阿佐美信義)。(5)警察の録音テープの第一巻からの被告人の発言をきくと被告人が極度の疲労をしている状態が窺える(同弁護人)。(6)同月二一日付のテープ第一四巻において取調官は「台所の炊事場に置いてあつたことはおかしい。」との発言があるのは柿の渋と庖丁を結びつけるための誘導である(同弁護人)。(7)録音テープ第一三巻中には「金はどの位か、見当で言え。おおよそでよい。なんぼうか言え。こつちにはわかつているが、あんたがいわなければいけない。」と問うている。これに対し被告人は「服のポケツトにあつた一万円を盗つた。」旨供述している(同弁護人)との各点について。
(1)当審証人木下京一(一五冊五二九一丁裏以下)・同中根寿雄(一六冊五八一四丁以下)・同山口信(一四冊五〇三二丁裏以下)の各供述並びに当審検証結果(一五冊五二六五丁以下)によれば、山口警察署で本件を取調べた当時は新聞記者の出入が激しく時には取調の邪魔になることもあつたことから窓にカーテンをはつて講堂側から取調室内を覗かれないようにしたり、通行禁止の札を貼つて廊下の通行を制限するなどの措置を講じたことが認められるが、右の措置をもつて被告人の主張の拷問事実を推測すべき根拠とはなしえない。(2)原審証人木下京一の供述記載(三冊八六七丁裏以下)によれば昭和三〇年一一月一一日の取調べは、被告人の申出により午後二時二〇分頃から開始し同日午後四時頃終了したところ、同日午後九時頃に至り被告人の再度の申出により更に取調を始めたためやむなく同日午後一一時過ぎ頃までに至つたことが認められ、同日の録音はその間に採取されたものであることが認められる。(一巻の聴取に要する時間は約三二分ないし三五分である。)。(3)警察の録音テープの函(罐はない)に「午後八時開始」の記載あるものは一つもない。(4)同月一八日採取の録音テープ一一巻中には五時を打つ時計の音は聞かれるが(四時を打つ音に聞き間違えやすい。)、所論のように「二時を打つ時間の音」は聞かれない。そしてその後に間もなくサイレンの音が聞えるが、証第二七号中の一一月一八日の記載をも合わせ考えるとそれは五時の終業のサイレンと解される。更に、一三巻中には所論のような「三時頃」との発言は全く聞かれない。しかも、証第二七号中の「一一月一九日」の記載をも参酌すれば、右一三巻の録音は同月一九日に採取されたものと認めざるをえない。(5)警察の第一巻からの録音を聞けば、被告人が真実の自白を決意しながらも親や子の身辺に思いを馳せ、あるいは過去の非行に対する後悔の念等が錯そうして極めて切ない心情にあつたことが窺われ、聞く者をして涙をそそらせるまで真に迫るものがある。これを被告人が極度に疲労している状態であると聞くのは当らない。(6)第一四巻の録音中には「台所の炊事場とはおかしいではないか」とあつて、その前段の問答からみてそれは「台所の炊事場」との言葉の表現がおかしいとの意に解される。所論のように「台所の炊事場に置いてあつたことはおかしい」との発言ではない。(7)第一三巻中には「金はどの位あつたか云々」の問に対し「まぜこぜで」と答え、更に「まぜこぜでおよそなんぼ位、およそでええ。後で弁当食つたり酒のんだりしたんでおよそでええ。言つてみんさい、およそどの位だつたか。」との間に「一はいしろ位。」と答えたのに対し「一はいしろとはどの位か。こちらは判つているんじやが。あんたの口から聞くということ、これは大事なんじや。」と問うたのであつて、右のうち「こちらは判つているんじやが。」というのは「一はいしろとはどの位か。」との意味は「こちらは判つているんじや。」との意に解される。所論のように「金はどの位か。こちらには判つているがあんたが言わなければいけない。」との問は聞かれない。また、右の問に対し「服のポケツトにあつた一万円を取つた。」旨の供述はなく、「七・八千円から一万円位あつたと思う。」との供述がある。右供述に関し、被告人は当審第一三回公判(一五冊五三四六丁末行以下)では「たんすの方から状袋にある七千円を取つたというのはわたしの考えから言うたわけです。」と供述し、弁護人小河正儀の一万円に近付くように言つたのか。」との誘導尋問に対しては「はい天王寺署で逮捕されたときに、そこの署員がわたくしの手を出させて言うには、それは何とかの波状紋だと、三人組強盗で三六万円口だと言うたわけです。それで私はてつきり三人組で三六万円程やられたんだなとその頃思つておつたんです。三人組もあと二人の犯人が出てくるんだと考えておつたんです。警察が一万円とすれば七千円位がちようどいいからそう言つたんですが、私は初め三六万円から二〇万円、一〇万円、五万円と下げていつたわけです。そして七千円と。友安警部がお前金もありもせんのに馬鹿らしいことをしたもんだと言われたんで、百姓屋には金がなかつたんだと思つたから、七千円はたんすにあつたんだと、七百円は財布の中にあつたんだと、警察の方が言われたわけです。それでそのように合わせたわけです。」と供述し、昭和四二年二月一〇日受付の上申書(一五冊五五〇四丁裏以下)中にもほぼ同様の記載があり、さらに当審第一四回公判での裁判長の「あんたが七千円いくらの金を取つたということになつているがあの金額はどうして出たのか。」との問にしては「友安警部さんがお前は金もないのに馬鹿なことをしたと言われるんで、三六万円から少し宛二〇万円、一〇万円と下げていつてあの段階に落ついたら、その位だろうと言つて拷問がなくなつたんでこの位のところに置いておけばいいんだと思うて言うたわけです。」と供述する(一五冊五四七九丁以下)。以上の被告人の供述の如きは全く理解しえないところであつて窮余の弁解としか受取れない(単独犯行として自白の本件につき三人組強盗の金額を持ち出したことは理解できない。)。もつとも警察の録音中には執ようにわたる質問がところどころ聴取されるけれどもそれらは概ね被告人が一応本件を自白した(第三巻中で被告人は本件犯罪そのものを全面的に認めている。)のちの細部に関するものであり、犯罪史上未曽有の極悪重大な本件についての被告人(しかも元警察官であつた)の自白の任意性を否定しなければならない程のものとまでは認められない。
二 被告人は昭和三〇年一〇月一九日逮捕されて以来窃盗の容疑者として取調を受け同月三一日山口地方裁判所に窃盗未遂罪で起訴され、その頃同裁判所からその第一回公判期日を同年一一月二九日に指定する旨の通知を受けた。しかるに、同裁判所においては同月一四日付の検察官の申請に基き右期日指定を取消し、該期日は追つて指定する旨の決定をした。しかし検察官の右申請は専ら本件強盗殺人事件の捜査のためのもので、現に捜査官においてはその後専ら右事件の捜査をし、右期日変更申請の日から一三六日を経過した昭和三一年三月三〇日同事件を起訴するに至つた。右捜査は前記窃盗未遂被告事件の勾留に藉口してなされた違法なもので、その間捜査官の手になる被告人の自白調書及び録音もまた違法に帰し、これらは断罪の資に供すべからざる旨の主張(弁護人小河虎彦の論旨第一点。この点に関するその余の弁護人・被告人の論旨も同旨。)について。
記録に基いて検討するに、被告人は住居侵入窃盗未遂の被疑事実で昭和三〇年一〇月一九日大阪市内で逮捕され、同月二二日山口地方裁判所裁判官が発した勾留状の執行を受けて代用監獄山口警察署留置場に勾留され同月三一日右各事実につき山口地方裁判所に起訴されて、その頃その第一回公判期日が同年一一月二九日午前一〇時と指定されたが、同裁判所においては検察官提出の同月一四日付変更申請書に基き被告人の意見をも聞いたうえ、同月一七日付にて右期日指定を取消し該期日は追つてこれを指定する旨の決定をしたこと、その後同年一二月一〇日付で窃盗罪の追起訴がなされ、さらに前記住居侵入・窃盗未遂罪についての勾留が起訴後三回更新されてその最後の期間満了の前日である昭和三一年三月三〇日本件強盗殺人罪についての追起訴がなされたこと、前記検察官の期日変更申請は、その申請書には単に「当職において差支のため」と記載されているのみであるが、記録上窺われる当時の捜査の推移から、右各追起訴の窃盗罪と強盗殺人罪との捜査のためのもので、しかもこれらの捜査は前記住居侵入・窃盗未遂罪についての勾留中におこなわれ、所論の被告人の自供調書及び録音もかかる捜査の段階でできあがつたものであることが認められる。しかしながら、ある事件について勾留起訴の手続をとつた後、捜査官がその者を他の事件の被疑者として取調べることは、捜査官において専ら他事件の取調に利用する目的をもつてことさらに右勾留・起訴の手続をとつたものでない限り何ら法の禁ずるところではないと解される。本件では捜査官が本件強盗殺人事件について捜査中探知した前記住居侵入・窃盗未遂事件についての捜査を遂げ指名手配の結果、大阪市内でルンペン仲間に入り住居不定の生活をしていた被告人(当時ルンペン仲間では「広島のおつさん」と呼ばれていた。)をようやくにして発見逮捕し、右手配の被疑事実に関しそれ自体独立に勾留の理由も必要も十分あつたため裁判官に対し勾留の請求をし、且つ起訴の条件も具備していたためこれを起訴したもので、捜査官において当初から専ら前記各追起訴事実の取調に利用する目的または意図をもつてことさらに右の勾留・起訴の手続をとつたものとは認められない。してみれば、検察官が所論のように第一回公判期日の変更を求めたうえ住居侵入窃盗未遂罪について勾留中の被告人を前記追起訴の各事実についての被疑者として取調べたからといつて、これを違法とすべき理由はなく、またその取調をもつて直ちに自白の強制や不利益供述を強要したものとみることもできない。もつとも、前記検察官の公判期日変更申請の日から本件強盗殺人罪の起訴の日まで一三六日を経過していることは所論のとおりであるが、記録及び捜査官が採取した録音によれば、被告人は山口警察署の取調室で昭和三〇年一一月一〇日夜八時頃その二、三日前から「いかな聖人でもあやまちはある。」などと言いきかせていた担当の司法警察員に対し「この間から説明されていたことは大体判つた。実は悪いことをしている。心をおちつけて明日状況を十分に話す。」と言いだしたことに端を発し、翌一一日から同年一二月二五日までの間(その頃はまだ住居侵人・窃盗未遂被告事件の第一回勾留更新前で、しかもさきに指定の第一回公判期日に右事件の審理が開始され、途中追起訴の窃盗事件が併合されたと仮定した場合、各事件の内容等からみて、それらの審理判決には通常すくなくともその頃まで日時を要したものと考えられる。)本件強盗殺人罪を自白し、これを犯すに至つたいきさつや、その態様並びに犯行後の状況につき詳細供述し(これにつき捜査官においては録音三〇巻を採取し、自供調書一〇通作成。)しかも事案の重大複雑なるに加えて、その供述は大筋において変りないとしても、ところどころ虚言を交えてのものであるため(一度否認しかけた。警察録音一〇巻)、これが裏付に困難を極めたことなどの諸事情を合わせ考えると、右期間の取調をもつて不当に長期に亘つたものとは認められない。さらに、その後起訴の日まで検察官により供述調書七通、検証調書一通の各作成と録音三巻の採取とが行われ、司法警察員により警察の捜査の補充として供述調書五通が作成されたが、それらの自供内容はいずれも犯行の動機順序等につき若干の修正を加え、あるいは一部につき一層具体的に詳述はしているものの、実質的には従前の自白の繰り返しであり、特にそれまでの勾留により新たに生じたものとは見られないので、これらもまた不当長期拘禁後の自白とはいえない。一方、原審裁判官としては最初の住居侵入窃盗未遂罪の起訴状に「余罪追起訴の予定である。」と記載された検察官の認印ある符箋が貼付されていたことから、追起訴をまつてこれを併合審理し一個の判決をする方が被告人の利益であると考え(中間確定判決があることについては当時予想されえなかつた。)、前述のように被告人の意見をきいたうえ検察官の申請をいれて一旦指定した第一回公判期日を取消し、これを迫つて指定することとしたものであることが容易に窺われるのである。そしてこれがため結果的には最終追起訴まで所論の日時を要したとしても、追起訴にかかる事件の重大複雑であることと、前述の如き自供経過とこれに対する裏付の困難さ並びに併合審理による被告人の利益を彼此考量すれば、原審裁判所の以上の措置には必ずしも失当であつたとはいいきれないものがある。以上の理由で所論は採用できない。なお、各所論は捜査官は本件強盗殺人罪につき取調中被告人の申出による弁護人の選任を妨げた旨主張するが、被告人は原審第四九回公判で「自分は窃盗未遂で起訴された際裁判所から弁護人は国選にするか私選にするかとの間合わせの書面を絶対に貰つていない。警察官に対し、家には父も母もおるので金は何とかするから小河先生を呼んでくれと言つたが、警察官は金がない者が弁護人を雇われるわけがないと言つて聞き入れなかつた。」旨(七冊二七九〇丁裏以下)、「弁護士さんを雇いたいんだが金がないから困るというようなことを自分の方から申し出たことはひとつもない。」旨(七冊二八一四丁以下)、当審第一七回公判では「自分が小河弁護士さんを頼んでくれと警察に申し出たのは昭和三〇年一〇月下旬頃からである。」旨(一六冊五九六七丁裏以下)各供述しながら、昭和三〇年一一月一日付弁護人選任に関する通知書及び照会書中の回答欄には「唯今は自分は金が無い為裁判所で弁護人を御願ひ致します。」(一冊九丁裏。同回答欄は昭和三〇年一一月八日付。)、昭和三〇年一二月一二日付弁護人選任に関する通知及び照会書の回答欄には「私は貧困して現ざい金が無いので裁判所で弁護人を御願ひ致します。」(一冊二四丁裏。同回答欄は昭和三〇年一二月一八日付。)、昭和三一年三月三〇日付弁護人選任に関する通知及び照会書の回答欄には「裁判所で弁護人を選任して下さい。」との印刷の文字の上に○印を付し、その理由として「貧困のため」(一冊三〇丁裏。同回答欄の日付は昭和三一年四月七日付。)との各記載がある(原審第四九回公判での被告人供述によれば、以上の各回答欄の記載は被告人によつてなされたものであると認められる。七冊二八一三丁裏以下。)。しかも。当審第一三回公判では被告人は「昭和三〇年一〇月三一日起訴の住居侵入窃盗未遂の事件について弁護人選任に関する照会書が来た際自分は『官選弁護人をお願いします』と回答したが、それはその時期には自分は強盗殺人事件について嫌疑をかけられているということがまだ判らなかつたからである。」旨供述し(一五冊五三九四丁以下)、一方被告人の同公判での供述によれば「自分が仁保事件についての嫌疑をかけられているということを知つたのは昭和三〇年一一月四、五日か五、六日頃である。」旨(一五冊五三七五丁以下)、「仁保にはおやじもおるしわしが一口いえばすぐ金ぐらい出してくれるから強盗殺人の起訴につき最初から小河先生を私選に頼むよう警察に頼んでおつた。」旨(一五冊五三九六丁)、また、阿佐美弁護人の「警察官の方からむしろ積極的に、あなた弁護人を選任しなさい、選任することができるんだと言われたことはないわけですね。」との間に対しては「言われたかもしれませんが、わたくしは自分で知つておつたから私選弁護人をお願いしますと強調したわけです。」と答えるなど(一五冊五三九九丁以下)被告人の弁護人選任に関する供述には矛盾撞着があり、且つこれに当審証人中根寿雄の「被告人の取調中誰からも弁護人選任に関する申出も相談も受けたことはない。」旨の供述(一六冊五八五〇丁裏以下)を合わせ考察すれば、前記主張は到底採用できない(起訴事件に対する弁護人選任は第一回公判期日前に公判準備に支障のない期間になされればよいと考える。)。
三 原田弁護人は当審第一五回公判で裁判所に対し職権の発動を促し、仮に被告人が本件強盗殺人罪の真犯人であるとしても、事件后一一年余を経過していることなどの理由から被告人に極刑を科すべきでない旨主張するが、本件の態様・被害状況などからみて、職権により原判決の量刑につき再考を加うべき余地があるものとは認められない。
四 よつて刑事訴訟法第三九六条に則り本件控訴を棄却することとし、なお原審及び当審の各訴訟費用の負担免除につき同法第一八一条一項但書を適用して,主文のとおり判決する。 
  最高裁
          主    文
     原判決を破棄する。
     本件を広島高等裁判所に差し戻す。
         理    由
 被告人本人の上告趣意および(一)弁護人小河虎彦、同小河正儀、(二)同阿左美信義、同原田香留夫、(三)同青木英五郎、同沢田脩、同熊野勝之、同原滋二、(四)同西嶋勝彦、(五)同渡辺脩、(六)同石田享、(七)同及川信夫、(八)同佐藤久、(九)同原田敬三、(一〇)同榎本武光の各上告趣意は、末尾添付の各上告趣意書記載のとおりである。
 職権をもつて調査すると、原判決は、刑訴法四一一条一号、三号によつて破棄を免れない。その理由は、以下に述べるとおりである。
 本件公訴事実は、被告人が、昭和二九年一〇月二六日午前零時ころ、山口県吉敷郡a町大字bcd(現在は山口市に編入)のA方において、同人を含む家族六名(夫婦、子供三名、老母)の頭部を唐鍬で乱打し、さらに頸部を出刃庖丁で突き刺すなどしてその全員を殺害し、金品を強取したとの強盗殺人の事実(一審判決判示第三の事実)および昭和三〇年六月中���ろ、大阪市において、マンホールの鉄蓋一枚を窃取したとの窃盗の事実(同第二の事実)である(なお、同第一の、昭和二七年七月中ごろにおける山口県下での住居侵入、窃盗未遂の事実については、中間確定裁判の関係で別個の刑が言い渡され、適法な控訴がなく確定してその刑の執行も終了している。)。
 右強盗殺人の事実について、被告人は、いつたん捜査機関に対し自白したが、起訴の日である昭和三一年三月三〇日、裁判官の勾留尋問に対し、犯行を全面的に否認する陳述をなし、その後、同年五月二日に開かれた第一回公判以来、今日にいたるまでその否認を続けている。
 一審裁判所は、審理の結果、昭和三七年六月一五日、被告人の検察官に対する供述調書七通および被告人の検察官に対する供述を録取した録音テープ三巻のほか、多数の証拠を掲げて右強盗殺人の事実を認定し、前記窃盗の事実とあわせて、被告人を死刑に処する旨の判決を言い渡した。原審は、昭和四三年二月一四日、被告人の控訴を棄却し、一審判決を是認したのであるが、この判決に対する上告が本件である。ただし、右窃盗の事実については、一審以来、当審にいたるまで、全く争いがなく、証拠上も問題がない。そこで、以下においては、もつぱら、右強盗殺人の事実(単に「本件犯行」ないし「本件」ということがある。)につき検討する。
 原判決の是認する本件犯行についての一審判決認定事実に関し、証拠により、ほぼ確実と認められる外形的事実は、つぎのとおりである。すなわち、
 一、判示日時、判示A方に何者かが侵入し、おりから座敷で就寝中であつたと思われる家族六名の頭部を鈍器で殴打し、ついで鋭利な刃物で六名の頸部を突き刺し、またA夫婦およびAの母Bに対してはその胸部をも突き刺して、各損傷による失血のため、全員を死亡させたこと、
 二、右鈍器は、現場に遺留されていたA方の唐鍬(証二号)であり、刃物は、同様遺留されていた同家の庖丁(証三号)であること、
 三、屋内物色のあとがあり、夫婦の寝室に五円貨一枚在中のチヤツク付ビニ―ル製財布(証九号)が放置されていたこと、
 四、裏底に波形模様のある地下足袋(十文半もしくは十文七分のもの)の血染めの足跡が約二〇個、主としてAの蒲団およびその付近の畳に印せられており、そのうちのひとつは月星印のマークを現わしていること、
 五、Bの死体の傍に、その状況からみて、犯人の遺留したものとも考えられる藁縄一本(証四号)が落ちていたこと、などである。
 問題は、これが被告人の所為と認められるかどうかであるが、右凶器からは指紋が検出されておらず、屋内の建具、什器等から採取された六六個の指紋のうち、約三〇個は家族のものであり、かつ、その余の指紋の中に被告人の指紋に合致するものがあつたとの証拠はなく、その他、本件犯行と被告人とを結びつけるのに直接役立つ物的証拠は発見されていない。検察側の提出した証拠も、被告人の捜査機関に対する自白と、その真実性を担保するためのもの、ないし公判段階における被告人の弁解に対する反証としての、いくつかの間接事実、補助事実に関��る証拠とに限られるのである。
 これに対する被告人側の弁解の骨子は、
 一、被告人は、本件犯行があつたというころ、当時小屋掛けをして住みついていた大阪市内のe公園を離れておらず、山口方面に出かけたことは全くなく、本件犯行は被告人の所為ではない、
 二、捜査機関に対する自白は、警察における拘禁中に強制、誘導を加えられ、その苦痛に耐えかね、あるいはその影響のもとになした虚偽のものである、
 三、自供のうち、客観的事実に符合し、自供全体の真実性を裏付けるかのごとく見える点は、捜査官の暗示、誘導に基づくものか、あるいは本件犯行と関係なく、過去に経験したところによつて述べたもの、ないし偶然の一致にかかるものである、
 四、検察官が、自白の真実性を担保するものであるとし、または弁解に対する反証となると主張する諸事実は、証拠上、認められないか、あるいはその趣旨を異にする、というのであつて、この弁解を裏付けるための証拠も多数提出されている。
 ところで、本件をめぐつては、他に若干の重要論点があるのであるが、審判の核心をなすべきものは、この、本件犯行の外形的事実と被告人との結びつき如何であると考える。本件一、二審裁判所が肝胆を砕いたのも、主としてこの点に存したのであり、多岐にわたる上告論旨も、その力点は、結局、無実の論証に向けられているものと解されるのである。
 もちろん、書面審査を旨とする上告審において、事実の認定をめぐる問題について検討を加え、原判決の当否を論ずることには慎重でなければならず、安易に介入すべきものではない。しかしながら、刑訴法四一一条の法意に照らし、もし、原判決に重大な瑕疵の存することが疑われ、これを看過することが著しく正義に反すると認められる場合には、最終審として、あえてその点につき職権を行使することが、法の期待にそうゆえんであり、しかして、本件は、事案の特質および審理の経過にかんがみ、まさにかかる場合にあたると考えるのである。
 記録によれば、本件犯行が被告人の所為であることを示すとされる直接証拠は、つぎに掲げた、捜査段階における被告人の自白およびこれに類するもの(以下において、便宜上、これらを単に「自白」と総称することがある。)のみである。すなわち、
 一、検察官に対する供述調書(昭和三一年一月一三日付ないし同年二月一九日付、計七通。一審判決証拠番号(58))
 二、検察官に対する供述を録取した録音テープ(昭和三一年三月二二日、検察官が、拘置所において、録音することを明示して被告人を取り調べ、その模様を採録したもの。一審判決証拠番号(59))
 三、司法警察員に対する供述調書(昭和三〇年一一月八日付ないし同三一年一月二三日付、計一五通。ただし、一審判決は、任意性に疑いがあるとして証拠に挙示しなかつたもの。なお、最初の二通は、前記窃盗未遂の事実による勾留中に作成された被疑者調書であつて、本件犯行の自白ではなく、逮捕時までの生活状況を供述するものである。被疑事件名は空白となつている。)
 四、警察署において録取した録音テープ(昭和三〇年一一月一一日から同年一二月二五日までの警察署における取調の際、隠しマイクにより、被告人不知の間に採録したというもの。ただし、自白のみでなく、昭和三〇年一一月一四日の否認供述を含む。なお、これらの録音テープは、一審五一回公判において、右三、の証拠の任意性立証のため、との趣旨で提出された。)
 五、検察官の検証調書(昭和三一年三月二三日になされた犯行現場等の検証の際、被告人が現場への道筋を指示し、現場において凶行の模様を再現した状況に関するもの。一審判決証拠番号(4))
 六、被告人作成の図面(昭和三一年一月二〇日付A方見取図、同日付殺害状況図、同月二二日付A方屋内状況図、同日付逃走経路図等、計一一通。被告人が、取調警察官に対し、図示説明するため作成したというもの。記録四冊一四四九丁ないし一四五九丁)
 七、被告人の手記(昭和三一年一月二九日付。記録四冊一四四七丁。原判決一の(三)に引用。)
 八、被告人が差し出した手紙(一月三〇日とあるもの。一審判決証拠番号(56)。原判決一の(三)に引用。)
 九、被告人が作つた和歌などをみずから記載した紙片(一審判決証拠番号(55)。原判決一の(三)に引用。)
 一〇、C、Dの各証言(一審判決証拠番号(54)および記録二冊三八一丁以下。昭和三〇年一〇月一九日、被告人が逮捕された直後に、大阪市天王寺署留置場で、同房者たる右両名に対してなしたという発言に関するもの。発言内容は、原判決一の(一三)の(1)に引用。ただし、同所判文中、被告人の逮捕された日を「昭和二九年一〇月一九日」とするのは「昭和三〇年一〇月一九日」の誤記と認められる。また「六人殺し」とあるのは正確ではない。調書には、「六人の口」「六人組」と記載されている。)
 一一、Eの証言(一審判決証拠番号(53)。昭和三一年一月一〇日ころ、被告人が、山口署留置場で、同房者たる同人に対し、自分は犯人であるから捜査官に聞かれたらそう言つてほしいといつたというもの。)
 さて、以上の自白が、もしも信用することができ、その内容が真実に合致するものであると認められるならば、その余の証拠とあいまつて、本件犯行を被告人の所為となすべきことは当然であり、原判決は、もとより正当であるわけであるが、これが信用に値せず、真実に合致しないものであるとの疑いを容れる余地があるならば、前記のとおり、他に本件犯行の外形的事実と被告人とを結びつけるべき直接の証拠のない本件において、被告人を有罪とする一審判決を是認した原判決は、失当といわなければならない。したがつて、右自白の信用性については、十二分の吟味を必要とするのである。
 ところで、原判決は、一審判決挙示の被告人の検察官に対する供述調書のほか、司法警察員に対する供述調書の記載内容、ならびに録音テープ、図面、手記等の存在およびその内容、あるいは他の関連証拠によつてうかがわれる自白のなされた状況等を検討して、一審判決の判示に照応する被告人の自白を信用できるとしている。
 そこで、まず、被告人の右各供述調書を見ると、詳細で、かつ迫真力を有する部分もあり、また、犯人でなければ知りえないと思われる事実についての供述を含み、さらに、客観的事実に符合する点もなしとしないのであるが、他面、供述内容が、取調の進行につれてしばしば変転を重ね、強盗殺人という重大な犯行を自供したのちであるにかかわらず、犯人ならば間違えるはずがないと思われる事実について、いくたびか取消や訂正があり、また一方、現実性に乏しい箇所や、不自然なまでに詳細に過ぎる部分もあるなど、その真実性を疑わしめる点も少なくないのである。供述中には、終始不動の部分もあるが、それは主として捜査官において本件発生当初から知つていたと思われる事実についてのものであり、はたして、被告人のまぎれもない体験であるが故に動揺を見せなかつたものであるのか、捜査官の意識的、無意識的の誘導、暗示によるものであるのか、他の証拠と比較して、軽々に断じ難い。たとえば、侵入口に関する被告人の供述は、裏口からである旨、一貫しており、捜査官らの証言中には、この点が捜査陣の予想と違つていたので、自供が真実であると考えたとの趣旨のものもあるのである(記録三冊八七一丁、一四冊四八六三丁、四九六四丁)が、昭和二九年一〇月三〇日付捜査報告書(記録一四冊五〇八三丁)には、A方は昭和二一年以来三回にわたり盗難にかかつており、侵入口はいずれも裏口であつた旨の記載があることをあわせ考えると、はたして右証言をそのまま信用できるか、疑いなきをえない。そのほか、被告人の前記手記、手紙、和歌等については、原判決のごとく一義的に解釈することには問題があり、さらに、自白がなされた状況に関する証拠も明確を欠くところが多く、いずれも決定的であるとはいい難い。
 結局、供述調書の記載自体に徴し、あるいは上記関連証拠等によつて、本件犯行についての被告人の自白には信用性、真実性が認められるとした原審の判断は、肯認し難いのである。
 原判決は、さらに進んで、多くの間接事実、補助事実を認定、挙示し、右自白の内容がそれらと符合するが故にその信用性真実性に疑いがないとし、また、犯行を否定する被告人の弁解を排斥しているのであるが、そのうち最も重要なものは、つぎの六つである。すなわち、
 一、被告人が、本件発生の時期の前後にわたり、当時の居住場所である大阪市内のe公園にいなかつた事実、
 二、被告人が、本件発生の日の数日前に、前記b近辺において、二人の知人に姿を見せた事実、
 三、被告人が、本件犯行前数日間徘御した経路として供述した内容には、当時、被告人が、現にそのように行動したのでなければ知りえない情況が含まれている事実、
 四、被告人が、A方の被害品と認められる国防色の上衣を所持していた事実、
 五、犯行現場に遺留されていた藁縄は、F方の農小屋から持ち出されたものであることが、被告人の自供に基づいて判明した事実、
 六、被告人が、本件発生の時期において所持、着用していた地下足袋が、裏底に波形模様のある月星印の十文半もしくは十文七分のものであつた事実、
以上である。
 これらは、それぞれ相互に独立した事実であるが、本件の具体的事情のもとにおいては、そのうち一、ないし五、のいずれのひとつでも、その存在が確実であると認められるならば、それだけで被告人の前記弁解をくつがえし、その自白とあいまつて、本件犯行と被告人との結びつきを肯認するに足り、六、もまた、確実であるならば、被告人の弁解に対する反証として、さらには有罪認定のための資料として、相当の比重をもつということができる反面、一、または六、が確定的に否定された場合には、被告人の嫌疑が消滅するか、または著しく減殺されることもありうるのである。したがつて、これらの事実の存否は、本件事案解明の鍵をなすものであるといわなければならない。そして、もしこれらの事実を積極に認定しようとするならば、その証明は、高度に確実で、合理的な疑いを容れない程度に達していなければならないと解すべきである。けだし、これらの事実は、上述のごとく、被告人と犯行との結びつき、換言すれば被告人の罪責有無について、直接に、少なくとも極めて密接に関連するからである。なおまた、上記一、ないし六、は、おのおの独立した事実であるから、必ずしも相互補完の関係には立たず、そのひとつひとつが確実でないかぎり、これを総合しても、有罪の判断の資料となしえないことはいうまでもない。
 ところで、原判決は、これらの事実をいずれも積極に認定しているのであるが、その理由として説示するところは、記録に照らし、必ずしも首肯し難いのである。
以下、順次、検討を加える。
 一、被告人は、本件発生の時期の前後にわたり、当時の居住場所である大阪市内のe公園にいなかつたか。
 この点に関する証拠としては、つぎのものがある。
 (イ)いなかつたとするもの
  (1)Gの証言および検察官に対する供述調書(一審判決証拠番号(16)(17))
  (2)Hの証言(同(15))
  (3)被告人がe公園に在住していた当時、血を売りに通つていた大阪市内の血液銀行の被告人関係のカルテ中には、本件発生前後のものが見当たらないことに関する一連の証拠(同(14)等)
  (4)IことJの第二回証言(昭和四一年九月七日、原審九回公判。記録一四冊四七四三丁)
 (ロ)いなかつたことはないとするもの
  (1)Iの第一回証言(昭和三四年一月一九日、一審二七回公判。記録五冊一六九〇丁)
  (2)Kの証言(同。記録五冊一六七八丁)
  (3)Lの証言(昭和三一年八月一八日証人尋問期日。記録二冊四二一丁)
 右証人らのうち、GおよびHは、本件発生の時期における被告人との関係からみて、ことさら被告人にとつて不利益な証言をしなければならない立場にあつたとも考えられないのであるが、しかし、両名とも、認識、記憶、表現等の能力において問題があり、各供述記載の内容を見ても、意味の明らかでないところや、あいまいな箇所が少なくなく、被告人が本件の前後に大阪にいなかつたとする各供述を全面的に措信すべきかどうか疑問である。血液銀行のカルテに関しても、本件発生のころの被告人のカルテがないのは、検査に合格せず、血を売ることができなかつたことによるもので、被告人が当時大阪を離れた証左ではないとの被告人の弁解を否定するだけの積極的な証拠は見当たらない。また、原判決は、一の(六)において、IことJの第一回証言をとらず、右証言の七年後になされた、しかも供述時より一二年前に属する隣人の動静についての第二回証言をもつて判断の資料としているのであるが、その合理性には疑いなきをえないし、のみならず同人の右第二回証言は、被告人が二日ほど不在であつたというのであるから、被告人が、約七日間、b近辺にいたとする一審判示を是認する根拠とはならないのである。これに対し、L証言、K証言およびI第一回証言は、同人らの資質、年齢、生活状況、被告人との関係、供述内容等にかんがみ、たやすく排斥し難いものがある。
 結局、本件発生の時期に、被告人が大阪にいなかつたとの点についての証明は、いまだ十分とはいえないのである。
 二、被告人は、本件発生の日の数日前に、b近辺において、二人の知人(M、N)
に姿を見せたか。
 この点に関する証拠としては、
  (1)Mの証言(一審において二回、原審において一回。一審判決証拠番号(18)(19)および記録一一冊三九五三丁)
  (2)同人の検察官に対する供述調書(刑訴法三二八条の書面。記録三冊一〇八四丁)
  (3)Nの証言(一審および原審において各一回。一審判決証拠番号(28)および記録一一冊三九七八丁)
  (4)同人の検察官に対する供述調書(刑訴法三二八条の書面。記録三冊一〇八七丁)
  (5)Oの証言および検察官に対する供述調書(一審判決証拠番号(30)(31))
がある。
 被告人の捜査官に対する供述調書にも、この二人に会つた旨の記載があるが、公判において、被告人は、これを創作ないし誘導による虚偽のものであると弁解する。記録中に存する捜査時の資料によれば、右供述調書作成当時、すでに警察側では右両名から被告人を見かけた旨の聞き込みをえていたことが窺われるのであり、まず被告人の自供があり、ついで両名にその真偽を確かめたものであるとなすべき証跡は見当たらない。右両名の証言の信頼性について考えるのに、両名とも被告人の罪責につきなんらの利害関係もなく、意識的に虚偽の供述をしたと考えるべき事情はないのであるが、他面、両名は、被告人と面識はあつたものの、そのころ交際があつたわけではないことが認められるほか、両名がそれぞれ被告人と会つたという日時、場所、情況、および関連証拠上、各面談の事実に確たる裏付けを欠くことなどをも考えあわせれば、人違いその他なんらかの錯誤を生じた可能性のあることも否定しきれない。また、右両名のことが被告人の供述調書に現われるのは、昭和三〇年一二月一七日付および同月一八日付の司法警察員に対する各供述調書からであるが、両調書には、被告人が後に取り消した虚偽の自白にかかる事項が少なからず含まれている点からみて、被告人の前記弁解も、あながち無視し難いのではないかと思われる。さらに、Mの一審第一回証言の調書には、原判決一の(四)に判示するとおり、被告人が反対尋問をした記載があり、そのなかには、被告人自身、Lが被告人と面談したというP製材所をかつて訪れたことを認めていると見るべき発言のあることは事実であるが、それは、被告人がLと面談したことまでも認める趣旨であるとはいえないのみか、右判示が引用するように、被告人のいう訪問の時期は、本件犯行の遥か以前で、被告人がなおb近辺に居住していた昭和二八年四月ごろというのであるから、この反対尋問の事実をもつて被告人の弁解を排斥するのは明らかに妥当を欠くといわなければならない。そのほか、前掲のOの証言等を参酌しても、被告人が、本件犯行発生の直前に、前記両名に会つていることは、いまだ確かな事実とは認められないというべきである。
 三、被告人が、本件犯行前数日間徘徊した経路として供述した内容には、当時、被告人が、現にそのように行動したのでなければ知りえない情況が含まれているか。
 原判決の挙げるところは、
  (1)fのQ経営の菓子店(原判決一の(五)および(一三)の(3))
  (2)g駅付近のルーフイング葺の小屋(原判決一の(八)の(1)および(一三)の(3))
  (3)h橋際の散髪屋の前の店(原判決一の(八)の(2))
の各存在であるが、(1)については、原判決が前提とする同店の開店時期に事実誤認ある疑いが濃く、(2)および(3)についても、被告人の供述に的確に照応するものとはいい難いのである。
  (1)右「fのR店」につき、原判決は、昭和二九年六月中旬開店、同三三年三月閉店と認定し、昭和二八年春以後、この付近を通行したことがないという被告人の供述にこの店が出て来るのは、実は、昭和二九年六月中旬以後、さらにいえば本件犯行のころに、被告人がこの店の付近を通行した証左であるとする。そして、原判決は一の(五)において、右に関する証拠を挙示しているのであるが、そのうち、Qの司法警察員に対する供述調書(昭和三八年一〇月四日付。記録一二冊四一三〇丁)には、いかにも右判示にいうごとき開店および閉店の時期の記載があるけれども、同じくQ、同Sの各証言(昭和四一年四月二二日になされたものであり、店は供述の時から一二年前の昭和三〇年ころにやめたが、それまで五年ほど開いていた、とするもの。記録一三冊四三八五丁、四三七八丁)は、昭和二五年ころに開店した、との趣旨と解することができるのに対し、検証調書二通のうち一通には、昭和二九年ころ、ここに出店を出していたというだけの、場所に重点を置いたQの指示説明の記載があるに過ぎず、他の一通には、警察官Tによる場所の指示の記載があるのみで、開店時期については触れるところがない。かえつて、原判決が挙げていない捜査状況報告書(昭和三〇年一二月二四日付。記録一四冊五一二〇丁)には、Qが、現在(すなわち、原判決がなお営業中と認定している昭和三〇年一二月末ころ)、自分はそこでは店をしていない、と述べた旨の記載がある。これは、右書面の作成時期をも考えると、前記各証言を支持すべき有力な資料とするに足り、これを前提とすれば、R店の開店時期は昭和二五年ころと認めざるをえないから、そうであるかぎり、この点に関する原判示は、その基礎を失なうこととなるのである。
  (2)「g駅付近のルーフイング葺の小屋」に関して、被告人の司法警察員に対する昭和三一年一月二三日付供述調書(記録四冊一三一五丁)に、被告人がg駅北側で野宿した翌朝 「黒いような紙のようなものに何かぬつたもので屋根が葺いてある小屋」を見た旨の供述記載があること、およびg駅北側のU方家屋の屋根が、昭和二八年七、八月ころルーフイング葺にされた事実を認めるに足りる証拠のあることは、原判決一の(八)の(2)の判示するとおりである(ただし、原判決挙示のその余の自供調書、すなわち、司法警察員に対する昭和三〇年一二月一七日付、同月二〇日付、同月二五日付各供述調書および検察官に対する昭和三一年一月一三日付供述調書には、いずれも、単に駅構内あるいは駅前等で寝た旨の概括的供述の記載があるのみで、「小屋」についての言及はない。)。被告人は、前記供述について、g方面には昭和二八年五月以降行つたことがないが、たまたま昭和二六、七年ころ同地方にルーフイング葺の住宅がいくつも建てられたことを知つていたので、その知識に基づき、架空のことを述べたものであると弁解している。これに対し、原判決は、右U方家屋が、前記供述の「小屋」に該当するものであると認め、被告人の弁解はそれ自体信じ難いとし、かつ、前記供述の用語が、弁解において用いられている「ルーヒン葺」というような技術的用語でないことをも根拠として、これを排斥したのである。ところで、被告人を取り調べた警察官T作成にかかる捜査日誌(証二七号)によれば、昭和三〇年一二月二五日の項に、被告人が、g駅付近の「黒のフア〇タール塗り」の小屋について述べた旨の記載(ただし、上記〇の部分は、一字が判読困難なため、かりに〇としたものである。) があるから、この日に、被告人は、警察官に対し、「小屋」につき、右のごとき表現を用いて供述したものと考えられる。しかるに、前述のとおり、同日付の司法警察員に対する自供調書にも、その後における昭和三一年一月一三日付の検察官に対する自供調書にも、「小屋」に関する供述記載は全くなく、前掲の昭和三一年一月二三日付司法警察員に対する自供調書(これが被告人の警察における最後の調書である。) においてはじめて、g駅付近の詳しい叙述と、これに関する従来の供述を訂正する供述とがあらわれるのであつて、前記の「黒いような云々」の供述もまた、この調書にのみ存するのである。このような事実を総合し、特に、原判決の重視する「黒いような云々」の供述と、右「黒のフア〇タール塗り」という表現(その意味するところは必ずしも明らかでないが)とを比較して考えると、前記供述は、あるいは、捜査官が実地に臨んで知りえたところに基づく取調の結果、おのずからなる誘導迎合を生じたことによるものであつて、被告人自身の体験によらない架空のものではないかとの疑念を禁じえない。また、右捜査日誌にあらわれた用語は一応の技術的用語と解されることに徴し、前記供述記載に技術的用語が用いられていないことを��つて被告人の弁解を排斥する一根拠とする原判決の説示にも疑問を生ずるのである。
  (3) 「h橋際の散髪屋の前の店」に関しては、原判決一の(八)の(2)掲記の証拠も存在するので、これによれば「散髪屋」の営業時期についての判示は正当と認められる。しかし、その挙示する被告人作成の図面(記録四冊一四五九丁)には、基準となるべき「散髪屋」の表示はないのである。それにもかかわらず、原判決は、この図面に基づき、h橋北詰を基準として、その東方四軒目のV方を、被告人の自供にいうパンを買つた店にあたると認めたのであるが、同人方で本件犯行発生のころ、パンを売つていたかどうかについては、明確な証拠が見当たらない。取調にあたつた警察官Wの「昭和三一年一月一七日、X方に捜査のため赴いたとき、同人方は食料品、荒物類を販売していたのみで、パンは売つていなかつたが、店の者が昭和二九年一〇月ころはパンも売つていたと言つていた。」との一審証言(記録四冊一四一八丁裏)は、伝聞証言でもあり、その内容に照らしても、証明力は高いとはいい難いし、原審第一回検証での立会人Vの指示説明中には、前にパンを売つていたことがある旨の記載もあるが、「前」とはいつのことかこれを知る由がない。
 さて、このように、原判決の指摘する右(1)(2)および(3)の情況のうち、(1)については誤認の疑いが濃く、(2)および(3)についても、自供との関連に疑問をさしはさむ余地がある。もちろん、それがためにただちに被告人に対する嫌疑が消滅するわけではない。しかし、右のごとき証拠上の難点が解明されないかぎり、右情況の存在を判断の前提とすることはできないのである。
 四、被告人は、A方の被害品と認められる国防色の上衣を所持していたか。
 前掲「捜査日誌」(証二七号)によれば、昭和三〇年一一月二〇日の項に被告人が「国民服」奪取の事実につきこの日はじめて供述したことを示す記載があり、また同年一二月三日の項に、A方遺品である「将校服上衣」「国民服上衣」について捜査がなされたことを示す記載があるほか、これに関連する捜査報告書の日付が昭和三一年一月一〇日および一二日である事実をも考えあわせると、その捜査は、被告人の右供述があつたのち、それに基づいてなされたものと見ることができる(Wの反対趣旨の証言もないわけではないが、これは恐らく同人の記憶違いであろう。記録六冊二二九五丁)から、本事実が確実なものであれば極めて有力な証拠となり��るのであるが、奪取したという「国民服」上衣が現存しないのみならず、この間には、なお、つぎのような問題が存在するのである。
 けだし、本事実を積極に認定するためには、被告人の捜査官に対する自白を別とすれば、
  (1)A方に本件発生時まで存在していた国防色の上衣が、その直後見当たらなくなつたこと、
  (2)被告人が、本件発生直後から国防色の上衣を所持していたこと、そして、それ以前にはこれを所持していた事実がなかつたこと、
  (3) (1)(2)の上衣が同一物であること、
が、それぞれ確実でなければならないのである。
 まず、(1)の点についてみると、A方家族全員が殺害されているため、直接の確認は困難であつて、原判決一の(一三)の(4)の判示は、主として、昭和三一年一月一〇日付捜査報告書(記録六冊二二四五丁。近隣の人々からの聞き込みを記載するほか、「形見わけ一覧表」が添付されている。) およびY、Zの各証言(記録一冊一五五丁、一一冊三九一六丁、一冊一三二丁)に依拠している。そして、被害者Aが国防色の上衣を着用していたことのある事実は、前記の証拠から認めることができるのであるが、着用していた時期についてははなはだ明確を欠くのであつて、右捜査報告書に記載された聞き込みによれば、昭和一九年から昭和二四年ごろとなつており、Zは時期の記憶がないと述べ、Yは、本件事件直前ごろには見なかつたとしているのである。なお、右「形見わけ一覧表」によれば、A方遺品中に、対応すべき上衣のない国防色のズボン一着(証一号)があつたことは認められるが、それがもともと上下一揃のものであつたかどうかは明らかでない。また、遺品中には、その他にも、軍服上衣二着と国防色の上衣一着との存することが認められるのであつて、これらと、前記の人々の見たという国防色の上衣との異同は、まつたく不明である。
  (2)の点についていえば、被告人が国防色の上衣を所持していたことは、HおよびAaの各証言(記録二冊三九六丁、四〇七丁)の認めるところであるが、Hの証言の信頼性については、既述のごとき問題があり、Aaの証言についても、同女の資質、性格等のほか供述記載の内容をも考えあわせると、その信頼性には、同様の問題があるのである。のみならず、Aaは、本件犯行発生後約半年を経た昭和三〇年四月一七日に、はじめて被告人と相知るにいたつたものであるし、Hは、昭和三〇年四月ごろに被告人が国防色の上衣を着ているのを見たと供述しているだけであるから、両名の証言をもつて、本件以前に被告人が国防色の上衣を所持していなかつた事実までも認定すべき資料とすることはできない。さらに、本件発生当時、被告人と同棲していたGは、当時の被告人の服装や手持ち衣類等について明確な記憶がないと述べており、国防色の上衣について特に尋問されたのに対しても、「兄ちやんから借りていた」という、趣旨不明の答をしているのみである(記録二冊六九九丁)。なお、同人の検察官に対する供述調書にも、国防色の上衣に触れるところは全くない(記録四冊一四三七丁)。
  (3)の点については、A方の被害品という国防色の上衣なるものがいかなるものであつたかはもとより、その存在自体が明確を欠くのであるから、AaとHのいう上衣との同一性の識別は本来不可能に属するのである。それにしても、もし、Aaらのいう上衣が、A方遺品である証一号のズボンと、その生地、色合い等を同じくしていたことが認められるならば格別であるが、その点に関し、最も重要な証人というべきAaは、右ズボンを示されて尋問を受け、上衣の色はこれよりちよつと濃く、生地も違うと述べているのである。
 なお、Aaは、同人が見た国防色の上衣および被告人所持の鳥打帽に、血の「しみ」がついていたとも供述しているが、現物はいずれも同女が焼き捨てたというのであり、その「しみ」が血痕かどうかは確めるべくもないし、一方、本件犯行発生のころに被告人と同棲していたGは、右鳥打帽によごれのあつたことを否定している(記録二冊七〇八丁)。
 結局、国防色の上衣の点についても、証拠はとうてい十分とはいえないのである。
 五、犯行現場に遺留されていた藁縄は、F方の農小屋から持ち出されたものであることが、被告人の自供に基づいて判明したか。
 被告人の右藁縄(証四号)に関する自供のうち、これを持ち出した場所はFの農小屋であるとする点は、関連証拠上、捜査官の示唆誘導によるものとは考え難い。そこで、もしこの繩の出所が右農小屋であることが確定されるならば、それはほとんど決定的な証拠となりうるものである。この点に関し、一、二審においては、右藁縄の用途、その製造に用いられた藁の品種および製縄機の機種、ならびにその山口県内における普及状況等につき多数の証拠が取り調べられたのであるが、これらの証拠はいずれも決定的なものではない。また、証四号の藁縄にはなんら顕著な特徴がないのみならず、記録中には、捜査に際し、右農小屋から同様な縄が発見されたとするごとき捜査官の証言もないではないが、これを裏付けるに足る的確な証拠はなく、その他記録を精査しても、被告人の自白を除いては、この縄が、本件直前まで右農小屋にあり、犯行に際してここから持ち出されたものであることを確認しうべき証拠は、ついに見出だすことができないのである。
 六、被告人が、本件発生の時期において所持、着用していた地下足袋は、裏底に波形模様のある月星印の十文半もしくは十文七分のものであつたか。
 被告人も、本件発生のころに、i駅裏商店街の、同駅から行つて右側の店で買つた地下足袋(十文半もしくは十文七分のもの)を所持し、時に着用していたことは争わない。その現物は、被告人逮捕の時には既に存しなかつたのであるが、しかし、もし、それが月星印の品であることが明らかにされるならば、本件犯行の現場に残されたひとつの足跡の特徴と合致するが故に、決定的とまでは言えなくても、有罪認定のための有力な資料となるであろう。
 一審で、検察官は、この地下足袋の買い入れ先は、i駅裏近辺で月星印地下足袋を販売する唯一の店であるAb方であると主張したが、同人の証言で、その店はi駅から行けば商店街左側であることが判明した。原審でも、被告人のいう店が、右側にあるAc商店(この店では、当時大黒印地下足袋のみを販売していた。) であるか否かとの点について、同商店街の検証などが行なわれたが、既に一〇余年を経たのちのことでもあり、事態を明白にするにいたらなかつた。原判決は、一の(九)の判示において、被告人の弁解を採用しなかつたのであるが、それは、被告人の弁解が一貫しないことなどを主たる根拠とするにとどまるのであつて、必ずしも首肯せしめるに足りない。要するに、当時、被告人の所持、着用していた地下足袋が、前記Ad商店から購入されたものであるとする根拠には乏しく、他に、これが月星印の品であつたとすべき確実な証拠も存在しないのである。
 以上、一、ないし六、の事実について検討したところによれば、これらはいずれも証拠上確実であるとはいい難く、これによつて被告人を本件犯行の犯人と断定することができないのはもちろん、原判決のごとく、これを被告人の自白の信用性、真実性を裏付ける資料とすることも困難であると考えざるをえないのである。
 なおまた、原判決が、被告人を有罪とした一審判決を維持すべき根拠として掲げるその余の判示についても、疑問の余地なしとしない。一例を挙げれば、原判決は、一の(一三)の(1)において、被告人は本件犯行発生の日時を誰からも教えられずに知つていたとするが、取調にあたつた捜査官の証言にも、右にそうごとき供述はなく、その他、右判示の根拠となしうべき積極的証拠は見当らないのである。自白にかかる犯行の日時は、昭和三〇年一一月上旬ころ、留置場の他の房にいたAeからこれを聞いて知つたものである旨の被告人の弁解について、原判決は、西村の証言と比較して信用できないとし、これを排斥している。しかし、西村証言(記録五冊一九〇九丁)は、被告人からbの六人殺しはいつあつたかと聞かれたこと、およびこれに対して答えた旨を明確に述べているのであつて、その点は被告人の主張と一致するのである。それが事実であつたとすれば、被告人の用意周到な演技であるなどと疑うべき格別の事情のないかぎり、むしろ当時被告人は犯行発生の日時を知らなかつたものと見る方が自然であるといえないこともないのである。
 本件が強盗殺人事件であることは、ほぼ確実である。そして、本件記録を通観すれば、被告人がその犯人ではないかとの疑惑を生ぜしめる種々の資料が存するのであり、犯行を否定する被告人の弁解が、はたして真実であるかどうかについても問題がないではない。また、本件一、二審の判決裁判所は、いずれも、被告人の公判廷における弁解を長時間にわたつて直接に聴取し、しかもなおこれを採用しなかつたのであつて、このことは軽視できないところである。
 しかしながら、右の諸点を十分に考慮しても、上述したとおり、本件記録にあらわれた証拠関係を検討すれば、本件犯行の外形的事実と被告人との結びつきについて、合理的な疑いを容れるに足りる幾多の問題点がなお存するのであつて、原審が、その説示するような理由で、本件犯行に関する被告人の自白に信用性、真実性があるものと認め、これに基づいて本件犯行を被告人の所為であるとした判断は、支持し難いものとしなければならない。されば、原判決には、いまだ審理を尽くさず、証拠の価値判断を誤り、ひいて重大な事実誤認をした疑いが顕著であつて、このことは、判決に影響を及ぼすことが明らかであり、これを破棄しなければ著しく正義に反するものと認められる。
 よつて各上告趣意につき判断を加えるまでもなく、刑訴法四一一条一号、三号により原判決を破棄し、同法四一三条本文にのつとり、さらに審理を尽くさせるため本件を原裁判所である広島高等裁判所に差し戻すこととし、裁判官全員一致の意見で主文のとおり判決する。
 検察官横井大三、河井信太郎公判出席
  昭和四五年七月三一日
     最高裁判所第二小法廷
         裁判長裁判官    草   鹿   浅 之 介
            裁判官    城   戸   芳   彦
            裁判官    色   川   幸 太 郎
            裁判官    村   上   朝   一
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agape358 · 6 years ago
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最後の転生~実録自伝人間<蓮友 心>~ 1 人間0年目「前世」
私の中にある記憶の前世は
ふっと何かをやっているときに思い出す。
例えば
料理の最中 運転中 シャワーを浴びてる時
などシチュエーションは様々異なる。
ある時は
・両手両足の無くなった兵士の男性
・禁欲で修行していた僧侶
・多くの人のリーダーとして平和を訴え監禁され殺された女性
・魔女狩りで 火あぶりで殺された魔女
・平和を祈り続け立ち向かうインデアン
etc
大体殺されている(笑)  
何千回何万回と転生を繰り返せど
それでも諦めることなく立ち上がり立ち向かいっていた魂。
    <両手両足の無くなった兵士の男性の時代>
爆撃で手足を失い、傷口から湧き出てくる蛆虫が払うことも出来ず大声で
「殺してくれ!!」
叫び続けていたのを2人の男女に手当てをしてもらった。
それが、一番目の旦那さんと三女の妹だった。
2人は婚約者であり
この戦争が終わったら結婚することになっていた
ある日を境に
毎日のように顔を出し勇気付けてくれていた2人が来なかった。
動ける兵士から話を聞いた。
あの2人は爆撃で死んだと
この時思った
なぜ手足のない自分が助かり
あの愛し合う2人が亡くなったのだ!!
後悔と懺悔の念しかなかった。
「生まれ変りがあるとするならば、次こそ彼らに会い恩返しがしたい」
そう思いながら数日後、化膿していたと所から雑菌が入り死亡。
そして現在
2人は夫婦となり
沢山の子供たちに囲まれながら仲良く暮らしている。
   <禁欲で修行していた僧侶の時代>
その当時は、性欲を持たないことが正義
性の欲は淫らな悪の存在だと教えられ、私自身もそう思っていた。
時には命がけの崖を上ったり、断食をしたり
究極に身体と精神を追い込み、無心の心を学んでいた。
身体のバランスを崩してしまい崖に落ちて転落した。
今世の私のテーマの一貫として
性への課題は強烈に含まれている。
性的虐待 レイプ 風俗業
どれも、愛がテーマとなっている。
許し 私自身への愛 全てのものを愛する愛
 <多くの人のリーダーとして平和を訴え監禁され殺された女性の時代>
平和の為にと信じ
前に出て皆をまとめ弱いものには惜しまずに手を差し伸べ
暴力を振るうもの向き合い
心を問い続ける日々
ある日
反逆者たちに囚われ大きな建物の中に閉じ込められ
私とついてきてくれた仲間達共に
部屋中に毒ガスを放ったガスを吸い殺された。
現在の私
今世最後の転生『愛の発信』をする側。
善と悪もない。
あるのは無条件の愛
いいことも わるいことも全てを許し受け入れ
存在自体をまるごと愛する。
  <魔女狩りで火あぶりで殺された魔女の時代>
薬草などで傷を癒したり 
オイルを作り香りを楽しんだりと
自然に囲まれて穏かに平和に暮らしていたが
無害でも魔女というだけで怖がられ罵られ
沢山の魔女たちを集められて
吊るされ火あぶりの刑に処せられた。
現在の私
火傷の痕 傷 肌に残らない体質。
アロマの仕事もしていた成果もあり
波動の流れ 身体の気の流れも感じ
遠くにいようが近くにいようが距離・空間は関係なく
相手の心の傷 痛み を知ることができる。
誰であろうと どんなことをされたとしても別にいい。
誰も憎んだり 妬んだり 恨んだり 嫌ったりしない
全ては一つで同じもの
愛は全てを癒す万能の薬
だからこそ
私は、あるがまま ありのままの存在自体を丸ごと受け入れ
無償の愛 無条件の愛で全てを包み込む。
まずは、私自身の癒し愛することから 全ての癒しが始まる。
 <平和を祈り続け立ち向かうインデアンの時代>
各村で言い争いから始まり
お互いの意見の食い違いで殺し合いが始まる。
「力ではない。心だ!!」
それを何度も何度も平和に解決をしたくて
戦っている中をかえりみず偉い人のところに行き
立ち向かい阻止しようと試みるが
その中で槍に串刺しに刺され死亡。
前世での記憶は 
何千回何万回と転生を繰り返せど
肉体はなくなれど
魂に刻まれる
記憶が残っていると 
混乱してしまったり
今世のテーマやカルマを集中して
味わうことができなくなるため
記憶を消した状態で 地球へ降りった
なにを感じ なにを経験してきたのか
人それぞれ 味わうことが異なるため
解釈の仕方 できることできないことも異なる
皆が同じ人は誰一人としていない
世界中の人々が 特別な存在
それぞれのもつ原石は他者と関わることで
磨きあい
それぞれの味を光を解き放つ
光の時 神様の時では味わえられないことを
身体をもつことで 不自由 制限を味わい
自我をもつことで 感動を味わいにきた
全ては味わうため
現在の私
なにが正義で なにが悪なのか
そこに意味などない
全てのできごとに意味があり 全てのできごとに意味などない
全ては必然。
ベストなタイミングで
人 ものとの出会いがあり
ベストな状況 状態が
自分のところにベストなものが来てくれる
☆蓮友心さんのインタビュー動画『転生』
https://youtu.be/qIE6V_a0VMQ
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trumpq · 4 years ago
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【リンウッド弁護士】 2021/1/24 12:06 JST
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私は今夜、自由のために、正直な選挙のために、そしてペドフィリア/子供の性の人身売買に反対する私の戦いのために、最近私にあまり満足していないいくつかの愛する人にこの記事を送った(私はまた、強くトランプ大統領と次の4年間の彼のアジェンダをサポートしています - 上記の問題についての人々の見解を曇らせることがあまりにも頻繁にサポートしています)。慎重にこの記事を読むことを検討してください。完了したら、自分自身に尋ねてください。これはあなたが生きたいアメリカですか?これはあなたがあなたの子供やあなたの孫を育てたいと思っているアメリカですか? 選ぶのはあなたです。賢明な選択ができるように祈っています。 https://www.thegatewaypundit.com/2021/01/purge-reeducation/
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粛清と再教育-急進派はいかにしてアメリカの共産党クーデターを迅速に実行しているか By ジョー・ホフト 2021年1月23日午後1時15分に公開
(ゲスト投稿:ジョン・L・カチェルマン・ジュニア)
(写真。1975年から1979年までのカンボジアのポル・ポトのクメール・ルージュの「キリング・フィールド」。その間、何百万人ものカンボジア人が、カンボジアを「理想的な」社会に再教育し、「変身」させていく中で、飢餓、処刑、病気、過労で死んでいった。ポル・ポトは思想的にはマルクス・レーニン主義者であり、クメール民族主義者であった。彼は共産主義者の脚本が指示した通りにマルクス主義哲学の恐ろしさを適用した。改革」と「再教育」ができない者は殺害された。)
"反対派が武��解除するなら、それは良いことだ。もしそれが武装解除を拒否するならば、我々自身が武装解除しなければならない。(ヨーゼフ・スターリン) 政治的粛清の最も卑劣な加害者の一人は、ヨーゼフ・スターリンであった。スターリンの印象的な名言は、反対派に対する彼の態度についてです "反対派が武装解除するならば、それは良いことだ。もし反対派が武装解除を拒否するならば、我々自身が武装解除しなければならない」というものでした。これは、パージのエネルギーを象徴しています-支配するエリートは、あなたが間違っていると判断し、あなたは罰せられるべきであり、あなたは服従する以外の選択肢はありません。
だから、私は悲劇的な発表をしました。私たちは21世紀の「殺戮の場」に向かっているのです。あなたにやってくるパージの準備をしてください。あなたの子供や孫たちが強制的に参加させられる「再教育」センターを予測してください。
これはどのように起こっているのでしょうか?
政治的粛清はどのようにして容認されるのでしょうか?望ましくない者」の「リスト」が様々なエリート当局によってまとめられている間、国民はどのようにして満足に座っていることができるのでしょうか?答えは非常に単純です。"人類のための選択は、自由と幸福の間にあり、人類の大部分のために、幸福は良いです"(ジョージ・オーウェル)。歴史は、人々が幸せを感じるとき、彼らは何かを容認することを証明しています;彼らは何でもします;彼らはそれが破壊をもたらしていると言われても、彼らは幸せな道にしがみつくでしょう。これは麻薬中毒者の選択にはっきりと表れていますが、パージの準備のために使用されている方法に中毒になっている人たちの生活にも表れています。幸せな人は、警戒心が薄れ、幸せな感情を与えてくれる人生のあらゆる面についてオープンになり、個人的なことやプライベートなことを誰とでも共有したがるようになります。このように操作された幸福は、想像を絶するほどの個人データの収穫をエリートたちにもたらします。
望ましくない者」のリストをまとめたエリートたちは、どうして個人/プライベートデータをこんなに簡単に手に入れることができるのでしょうか?あなたは、家族の食事が健康的であることを確認することで家族を安全に守り、すべてのドアをダブルチェックして施錠されていることを確認し、「見知らぬ人の危険」について警告し、シートベルトの着用を主張しています。あなたは、"あなたのページ "に非公開である数え切れないほどの "友人 "と接続されています。プラットフォームの管理者は、あなたについてのすべての詳細を知っています。あなたの投稿は、あなたを驚かせるような詳細が採掘されています。警告されているにも関わらず、子供や孫、そして愛する人たちを この "社会病 "にさらし続けているのです。
利用可能な証拠は?
まず、民主党/RINOs/反トランプ派(NT)は、自由な報道機関の排除を提唱している。保守的な出版物は、反逆的なニュースの温床として分類されている。このように特定されたので、解決策は簡単で、進歩派/民主党/リノス/NTsに同意しないすべての出版物を破壊することだ! "私たちは、メディア環境をどのように抑制するかを把握しなければならないだろう、そうすればあなただけの誤報や誤報を噴出させることはできない "と、アレクサンドリア・オカシオ・コルテス代表(D-NY)は言った。"議会は、偽情報の拡散を防ぐために、私たちのメディア環境を抑制することを検討しています。" 彼女は報道の自由を標的にしているだけでなく、トランプ支持者のリストを集計し、将来的には大統領支持者の責任を問うために利用すべきだと示唆している。
2021年1月13日の驚くべきツイッターのやりとりの中で、AOCは "我が国が癒されようとしている唯一の方法は、南部の州の実際の解放を通してである...経済的、社会的、人種的抑圧から働く人々の解放である "と述べている。進歩的民主党によると、アメリカが「癒される」ためには、南部の州の再教育が重要である。
粛清は口頭で行われる-「ここに座っている議員が、自分の党が反対するメディアをシャットダウンするつもりだと言っていますが、リベ���ルメディアの誰もそれに全く問題を持っていません。それはおそらく、民主党が彼らの後を追っていないことを知っているからであり、検閲や言論弾圧は、保守的なメディアに起こったときにはカウントされません。
第二に、 民主党/RINOs/NTsがパージを始めている。これが起こっているという報告は十分にあります。私は、クメール・ルージュの粛清に耐え、再教育収容所に住んでいた人たちと個人的に話をする機会がありました。また、政治的な理由でソ連の強制収容所に追放された親しい人を持つ家族にも個人的に話を聞いたことがあります。過去の歴史の恐ろしさは、今日のアメリカで明らかになりつつある想像を絶する恐ろしさを説明しています。議会のホールから、数百万人に放送されるMSMのニュースアンカーの暴言まで、パージは奨励されています。
トランプと彼の支持者をターゲットにしたヒットリストがあります。プログレッシブ/民主党/RINOs /NTsが、罰せられ、再教育される必要がある人々のリストを持っていることが確認されています。2021年1月10日の週の間に、アメリカの大企業は、トランプ支持者を絶対に雇ってはならない!とフォーブスによって発表されました。ここに脅迫文がある。 "ドナルド・トランプは司令官から嘘つき大統領へと堕落した" この雑誌は、トランプ氏の仲間を "捏造者 "と揶揄しています。ビジネス界に知らしめよう:トランプ氏の仲間のファブリストを雇えば、フォーブスはあなたの会社や会社が話すことはすべて嘘だと考えるだろう。フォーブスはあなたの会社や会社が話すことはすべて嘘だと思い込むだろう。"我々は精査し、ダブルチェックし、トランプのツイートと同じ懐疑心を持って調査するつもりだ。" フォーブスはその後、トランプ支持者をあえて雇う企業には否定的な報告をすると明言しています。"世界最大のビジネス・メディア・ブランドが、偽情報の漏斗となる可能性があるとして、あなたにアプローチすることを確実にしたいのですか?ならば雇ってはいけません」
これは想像ではなく、これが現在の現実なのだ!
アメリカの政治的粛清のもう一つの恐ろしい点は、すべてのトランプ支持者を "国内テロリスト "として特定するよう呼びかけたヒラリー・クリントンの行動によって文書化されています。そのように識別され、これらのテロリストは追跡され、監視される必要があります(2021年1月12日)。クリントンはワシントン・ポスト紙の論説で、トランプ支持者を "白人至上主義者 "と "国内テロリスト "とレッテルを貼った。"トランプ大統領と数千人の保守派のビッグテックパージによって強化されたヒラリー・クリントンは今、トランプ支持者を監視し、追跡するよう呼びかけています。" HRCは、どのようにして政治的敵対者の彼女のレッテル貼りを正当化しているのでしょうか?彼女自身の言葉を聞いてください。「トランプは、白人が他のすべてのものを犠牲にして評価されるアメリカのビジョンに基づいて大統領に立候補しました。ホワイトハウスでは、彼は白人至上主義者、極右のメンバー、陰謀論者にまだ彼らの最も強力なプラットフォームを与えた...彼は狂乱に私たちの国の危険な要素を鞭打っていた。彼の支持者は反乱を計画し始めました。国会議事堂に行進する計画を立て、「盗みを止める」ことを計画しました。トランプ氏を罷免することは不可欠であり、私は彼が弾劾されるべきだと信じています。彼に加担した議員は 辞任すべきです そして国内のテロリストと共謀した者は 直ちに追放されるべきです しかし、それだけではアメリカから白人至上主義と過激主義を取り除くことはできません。選挙で選ばれた指導者が直ちに追求すべき変化があり、白人至上主義者に責任を問う州や連邦レベルでの新しい刑法を提唱したり、過激派の活動を追跡したりすることを含めて...Twitterや他の企業は、トランプ氏が自分たちのプラットフォームを使うのを阻止するために正しい決断をしたが、暴力的な言論や陰謀論の拡散を阻止するためには、より多くのことをしなければならないだろう。"
彼女が提唱していることが聞こえてきますか?パージは "白人 "をターゲットにしています。歴史上、明らかに人種差別的な粛清です。彼女は、トランプ支持者に責任を持たせるための新しい法律を要求しています。そして、彼らの日常の行動を追跡するために。彼女は、「もっと」しなければならないだろうと言っています。
政治的パージの始まりは、"黒の国歌 "を公式の米国国歌にしようとする民主党のウィップ、ジェームズ・クライバーンによって提案された議会法案によって強調されている。これは、進歩派/民主党/RINO/NTsが「直線的な推論」を拒否するので、受け入れられる。すべての判断は、その時々の「気持ち」に基づいて行われる(これは、人生におけるあらゆる絶対性を拒否した結果である)。
最も明確なパージ行動の一つは、DELTAによるノーフライ命令で発表された。この悪質な行動によって、一般市民が狙われました。この行動については、Delta Puts Trump Supporters Who Harassed Mitt Romney, Lindsey Graham On No-Fly Listという記事で紹介されています。 "デルタ航空は、ドナルド・トランプ大統領の最も攻撃的な支持者の一部を、共和党議員に嫌がらせをした後、飛行禁止リストに載せました。リンジー・グラハム(米カリフォルニア州)とミット・ロムニー(ユタ州)が先週空港で嫌がらせをしたためです。木曜日のロイターとのインタビューでは、デルタ航空のCEOエド・バスティアンは、上院議員を標的にした乗客は、もはや航空会社で飛��ことができなくなるだろうと述べた。航空会社はこの動きを確認した。"
パージの実態は、野球界の巨人、カート・シリング氏が説明している。彼は、AIGが彼の保険を解約するという通知を受けました。なぜか?シリングは、AIGが彼の保険を解約したのは、彼の "ソーシャルメディア上のプロフィール "が原因だとツイートした。さて、このパージの後、フェイスブックやツイッターなどのソーシャルメディアは、本当に「いいね!」がつくビジネスだと教えてください。パージは、あなたの「ソーシャルメディアのプロフィール」が保険を解約する正当な理由だと言っています!
パージが制定されている-ここでは、タイトル "The Left Launches Massive Purge of Conservatives All Across Society "とよく書かれた要約です... 私たちはもはやアメリカには住んでいません...リベラル派が政治的にだけでなく、個人的にも、そして全体的にも、相手を完全に破壊しようとするバナナ共和国に住むことになります。民主党員と、ハイテクや社会の中の彼らの喜んでいる仲間達は、今、彼らに反対する人たちをこの国から一掃しようとしています。私たちは、カストロの革命が起こって数万人が殺害され、彼らの政治的理想が一掃されたような時代に生きています。私たちはまだ死刑執行の段階には至っていませんが、左翼が知的大虐殺を実行しようとしている段階にいます。インターネット上、学校、政府、娯楽、社会での保守的な思想の終焉となるでしょう...大粛清はすでに始まっています。先週末、ビッグテックの神々と企業のトップたちは、すでに民主党版の毛沢東の『文化革命』を始めていたのだ。
第三に、民主党/RINOS/NTsは、アメリカの「根本的な変革」という約束を果たす。オバマは、"アメリカを根本的に変革する "という彼の意図を発表しました。ほとんどの人は、彼の悪魔のような邪悪な目的を肩をすくめて、"それはアメリカでは決して起こらないだろう!"と言った。彼らは、彼が辿っていた歴史的パターンを盲目で無知だった。進歩的/民主党/リノベ党/NTsが計画の完全な行使を許されたとき、アメリカの生活は根本的に変容するだろう。私たちはパージの初期段階にいますが、もっと悪魔的な計画が待ち受けています。この悪の完全な影響は、PBSの主席弁護士マイケル・ベラーが急進的な左翼の暴言でトランプ支持者に対する暴力を扇動している様子を記録したProject Veritasの報告書で紹介されています。この驚くべき声明を読んでください。"たとえバイデンが勝ったとしても、共和党の有権者全員を取りに行き、国土安全保障省は彼らの子供たちを取り上げ、トランプ支持者の子供たちを再教育キャンプに入れる」と、日付のないビデオの中でベラーと特定されたこの男は言っています。トランプ支持者は、「恐ろしい人間」になるであろう「恐ろしい子供」を育てている、と彼は続ける。"トランプ以外のことを何も知らずに育っている子供たちは、[トランプ支持者は]不寛容で恐ろしい人間、恐ろしい子供たちの世代を育てることになるだろう"
パージが約束されている-何が起こっているのかは以前から公にされていたが、多くの人が "アメリカでは不可能 "と却下していた。これらの人々は、私たちの国の存在を脅かしている純粋な悪の現実を受け入れることを拒否しています。約束されていたことが、今、進歩的/民主党/リノベ党/NTsによって届けられており、多くの市民がそれを許しているのです。
第四に、パージは政治的エリートによって指示されています。政治的粛清の物語には歴史的な不変性があります。行動は「エリート」グループによって命令され、コントロールされています。このエリートは、国民に命じられたことを実行するように要求されることはない。ポル・ポトとその側近たちは、都市の退去と無政府状態の「殺戮の野原」を強行した農耕革命で手を汚すことはなかった。今日、アメリカの政治的エリートは、民主党/RINOS/NTsで構成されており、彼らは要求を発行し、トランプ大統領と彼の支持者を非難し、"キャットバードシート "に無敵に座っていると思っている。しかし、歴史的現実は、これらが「無敵」ではないことを教えており、エリートが互いに噛みつき、むさぼり食うことに転じたときに入れ替わるだろう。
エリートの方向性には強制再教育も含まれる。北ベトナムが南を占領した時、南の何百万人もの人々が逮捕され、拷問され、投獄され、殺害され、生き残った人々は再教育キャンプに送られました。別の潜入ビデオでは、サンダース陣営のアイオワ州のフィールドオーガナイザーであるカイル・ジュレックは、この国は再教育に「何十億もの費用をかけなければならない」と述べています。ジュレックは、トランプ支持者の「再教育」のために強制収容所の使用を示唆し、政治的労働収容所を賞賛した。彼は、収容所は誤解されており、実際には説明されているよりも「はるかに良い」ものだったと述べた。
もしあなたがエリートの言葉に不快感を覚え、彼らの忌まわしい言葉を読むことも聞くこともしないのであれば、パージがあなたの友人や家族を襲った時には、さらに大きなショックを受けることになるだろう。
パージはエリートによって指示されている。"アメリカ国民の意志はペロシの意志に従属しなければならない」 - ニュート・ギングリッチ (@newtgingrich) January 12, 2021.
ここからが本題です...
アメリカの市民は、我が国が直面してきた最も不安定な立場にあります。内側からの悪魔のような力は、私たちの国を根本的に変えようとしています。私たちの政治プロセスは、数年前から破綻した状態にあります。もはや、私たちの憲法に基づいた市民的な議論と合理的な法律はありません。外国政府は国内の議員を妥協させ、下院と上院の完全性を堕落させてきましたが、このような事態は、失敗した政治家を肩をすくめて再選させるだけです。
ビッグテック企業(フェイスブック、アップル、グーグル、ツイッターなど)は、言論の自由のプラットフォーム化を解除し、無実の市民を国家的な「テロリスト」としてマークし、追跡することに成功しています。トランプ支持者の "リスト "が編集され、"テロリスト "を特定し、処罰するために使用されることが保証されています。"一度でいいから現実を見よう。マスコミや法律のメンバーが、子どもの没収や再教育収容所、気に入らない側への処罰を公然と求めているとき。"我々はバナナ共和国に住んでいる"
ビッグテック企業(フェイスブック、アップル、グーグル、ツイッター)が、保守的な意見を持つ人々を粛清しようと悪魔のように計画していることを説明しているのは、ツイッターのジャック・ドーシー最高経営責任者(CEO)からの最近の流出したビデオの公開です。彼はトランプ大統領や他の多くの保守的な声のアカウントを永久に禁止するという彼の決定で、アメリカの言論の自由を攻撃した。現在公開されている動画では、ツイッターのインサイダーによるもので、ドーシー氏が検閲はもっと広範囲に及ぶだろうと誓っていることが明らかになっています。"我々は今、1つのアカウント[@realDonaldTrump]に焦点を当てているが、これは1つのアカウントよりもずっと大きなものになりそうだし、今日、今週、そして次の数週間よりもずっと長く続くだろうし、就任式を超えても続くだろう。私は、これがすぐになくなるとは思っていません。
アメリカ!?政治的粛清が始まりました。沈黙の中で座っていて、政治的な陰謀から安全だと無関心に思っていたあなた方の多くは、アメリカでの生活の現実に目を覚まさなければなりません。フェイスブックやツイッター、その他のハイテクサイトをいじり続けることができます。しかし、あなたは、アメリカを破壊しようとする彼らの努力を煽っているのです。ビッグ・テック・サイトにはイノセンスはありません。これらのサイトの関係者は、パージを支持しているのです。
パージを止めるために、今すぐ行動してください
Cheryl K. Chumley (The Washington Times - Friday, January 15, 2021)は、"Big Tech will only be halted by mass boycott "という記事を掲載しています。いつものように、彼女は、ビッグ・テックが大金を与えているからこそ、政治的パージが可能なのだということを詳しく説明している。パージを止める方法は、お金を止めることです。"ビッグテックを止めて、ソーシャルメディアのCEOの憎悪と保守的なものへの敵意に終止符を打つ唯一の方法は、消費者が一つの巨大な集団に結集して、これらすべてのプラットフォームの即時ボイコットを行うことである。しかし、それが起こる可能性は、真面目な話、ごくわずかです。実際のところ、ほとんどないのだ。ビッグテックが言論の自由の乗っ取りを阻止するには、市民の懐を痛めつける方法で闘うしかありません。しかし現実には、ほとんどの市民はビッグテックの力に気付いておらず、他の市民は気にしていません。そして、これは24時間だけではなく、永久的なボイコットであるべきです。
あなたの国、あなたの家族、あなたの子供、あなたの孫のために、ビッグ・テックを永久にボイコットするのに十分な関心がありますか?オーウェルが観察したように、多くの人は「自由」ではなく「幸福」を選ぶだろうから、決断は難しいだろう。ビッグ・テックは、あなたが「幸せ」に囚われていることを知っているので、あなたは自由を犠牲にすることになるでしょう。"人類の選択は自由と幸福の間にあり、人類の大部分にとっては幸福の方が良い」(ジョージ・オーウェル)。
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alisami1905 · 7 years ago
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フォーラム90アンケート  第4回
 2015年7月に福島瑞穂参議院議員が、国政調査権を使ってのアンケート調査を行った記録。回答のうちオウム事件関連を抜粋。
【出典】 『死刑囚監房から 年報・死刑廃止2015』  年報・死刑廃止編集委員会 編 インパクト出版会 2015/10/10
宮前一明
(p66)  1、国民の税金で運営する刑事施設である限り、何事も公にして当然のこと。死刑囚の日常や刑務官の激務など、二四時間ライブで発信し、多様な意見と議論の末に、人権のありかたや被害者と加害者の御遺族両方の心に歩み寄ることが真の平和の道かと存じます。(要は感情宥和から)  2、冤罪以外の死刑囚は、最期の日(執行)まで、死後の体験(バルドー)を、稀にも生存中にクリアーできる恩恵と感得し、拝謝の念に心が満たされて然るべし、(禅やゾクチェンがヒントになります)  3、二一世紀に至り、ブレサリアン(不食の人々)、は数十万人へと増加中。日本では秋山佳胤弁護士や元裁判官も不食の実践者。もはや衣食住の概念は崩れ去り、人類本来の能力が蘇る刻。誰にも無限の可能性が開かれていることに、気づくことが平和への一歩。  4、コスタリカ(軍隊のない国)の非暴力を人権から安全保障へ。
◎本日も尚、今を生かして戴き、誠にありがとう御座います。合掌  平静二七年七月二七日吼宇墨嶽 九拝
早川紀代秀
(p84-85)  ブッダを思うと心が安らぎキリストを思うと力づけられる傷つけた人を思うと心が痛み愛する人を思うと心がなごむ  朝の一瞬がすぎていることに気づいてホッとし、新聞を見て ドキッとしたりする  呼吸に気づきをむけると歓喜に満たされ瞑想すると寂止に入る寂止は一時の解放、一時の救い常に心を観察し、その本性をさぐる二四時間気づきが続けば死んでも気絶しないそうなるのが早いか 死ぬのが早いか  修行ができれば 監獄も僧院
◎獄中生活で一番楽しいこと、嬉しいこと  どれがいちばんかは決めがたいが、瞑想、修行、家族、友人との交流、読書、月四回のDVD視聴、日光浴など。まためったにないが、運動の時にめずらしい小鳥がすぐそばまで来て鳴いているのを見たりするのは、うれしく楽しい。
井上嘉浩
(p85-86) 詩「罪人」  透き通る色無き風が渦をまき   かすかに聞こえるささやき声誰に語りかけるわけでもなく  生死の悲しみをもれなく摂取するいのちの青空に響き合う   限りない愛の尽きせぬ祈り。
 面会ごとに少しずつ老いていく   父母の笑顔と姿を見るにつれ迷惑ばかりかけ助けられない   私はどうしようもない親不孝者なすすべもない自分の無力さ    犯した罪の重さに砕けるばかり。
 長らく人と会って話をすることもなく   底知れぬ孤独に沈むにつれ  闇の奥底からかすかな愛があふれ    生きとし生けるものを     見守りつづける  限りない命の摂理に気付く程   犯した罪の恐ろしさが骨に染みる。
 支援して下さる方々の温情に   かたじけなくありがたく  いのちの温もりに触れる度に    多くの方々のかけがえのない人生を  奪い傷付け壊してしまった   犯した罪の痛みに引き裂かれる。
 何故このような大罪を犯したんだ   自問しては自らの愚かさをかみしめ  妄信の過ちに後から悔やんでも   過去には戻れず取り返せない  厳粛な罪の事実を前にして   絶壁に一人立ち尽くす罪人。      2015.6.12
中川智正
(p91) ◎食べたいもの   生野菜・生玉子などのなまもの。  拘置所ではほとんど出ないので。
土谷正実
(p87)  東拘の保護観察室・保護室に一週間以上収容(監禁)され続けることが昨年一一月二日以降、頻発していますが、特に訴えたいことは「その期間中、全く風呂に入ることができない・ヒゲソリも全くできない」という衛生面における東拘職員の怠慢さです。   最近の例では今年七月四日から同七月十六日までの二週間にわたってB一〇階にある保護観察室・保護室に収容(監禁)され続け、その間一度も風呂に入ることができず、暑さと不潔な環境から私・土谷正実の右足・左足が炎症をおこして腫れ上がりました。そして同七月十七日に腫れ上がった両足を見せても、「医者に見てもらえ」としか言えない東拘職員ばかりで、この件をうやむやにしたまま私・土谷正実の閑居罰にかけようとしています。   上記のように普段風呂に入ることを妨げられているので、閑居罰中でもその収支を合わせるよう、土谷正実には風呂に入らせろと東拘には言いたい。
匿名男性11(新實智光)
(p101)   全ての衆生を救済するために仏陀にならなければなりません。そのために死刑執行或いは死に際して、捨身供養を行います。つまり、自分のもっとも大切な肉体を布施するという広大な心すなわち利他の心、四無量心、菩薩心を培うための修行とします。今はその前段階として、他を救済するための布施として自分の肉体を供養できることに対する歓喜を修習しています。   これらの修行ができるのも家族、友人、弁護人、グル、シヴァ大神、仏陀そしてフォーラム90の皆様の暖かいご支援のおかげです。ありがとうございます。感謝します。幸せです。愛しています❤️ 皆様のご恩に報いるべく修行に励む所存です。   もし私を支援する者があれば、彼は素晴らしい至福を得ますように!   もし私の悪口を言い、私を殺す者があれば、彼は覚醒の至福を得て、無常の最正覚を成就しますように!   私の功徳によって、全ての衆生が輪廻から解放されますように!  今後とも何分宜しくお願い致します。ご厚意重ねて御礼申し上げます。  楽しみは 捨身供養を 喜んで 偉大な心 培う時
◎衣食住の状態について   因果応報 全ては今の私に見合っている。人生は自分の修行となることが起きるようにできている。修行から逃げてもまた違う修行が始まるだけ。   よってカルマ落としを喜びとす! ◎最近(この二年程度)、処遇の変化で悪くなったこと  消費税八%で自弁購入品が値上がりしたこと。  総量規制が厳しくなり、領置が制限されたこと。   ラジオの情報番組ニュース番組が無くなったこと。   外部交通(友人)が取り消されたこと。   梅干の自弁購入が無くなったこと。 
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shiro-absence · 8 years ago
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生涯[編集] 誕生[編集] フランツはウィーン郊外のリヒテンタールで生まれた。メーレン(モラヴィア)から移住したドイツ系植民の農夫の息子である父のフランツ・テオドールは教区の教師をしており、母エリーザベト・フィッツは結婚前ウィーン人家族のコックをしていた。成人したのは長男イグナーツ(1785年生まれ)、次男フェルディナント(1794年生まれ)、三男カール(1796年生まれ)、次いで第12子のフランツ、娘のテレジア(1801年生まれ)であった。父はアマチュア音楽家で長男と次男に音楽を教えた。 フランツは5歳の時、父から普通教育を受け始め、6歳の時リヒテンタールの学校に入学した。この頃、父は末の息子のフランツにヴァイオリンの初歩を、また長男イグナーツにピアノを教え始めた。フランツは7歳頃になると父親の手に余るほどの神童振りを発揮し始めたため、父親はフランツをリヒテンタール教会の聖歌隊指揮者ミヒャエル・ホルツァーの指導する聖歌隊に預けることにした。ホルツァーは主として感動表現に主眼を置いて指導したという。仲間の徒弟たちはフランツの音楽的才能に一目を置き、当時演奏家として聴衆に注目されなければ作曲家としての成功の機会は無いという時代であったので、聖歌隊建物に隣接するピアノ倉庫にしばしばフランツを案内して、ピアノを自由に練習できるように便宜を図ってくれた。そのおかげで、貧しい家庭であればけっして触れられなかったような良い楽器で練習・勉強することができた。 コンヴィクト[編集] 1808年10月、シューベルトはコンヴィクト(寄宿制神学校)の奨学金を得た。その学校はアントニオ・サリエリの指導の下にあり、ウィーン楽友協会音楽院の前身校で、宮廷礼拝堂コーラス隊養成のための特別教室をもっていた。ここにシューベルトはおよそ17歳まで所属、ハイドンが聖ステファン大聖堂で得た教育と殆ど同様に直接指導での得るところは少なく、むしろ学生オーケストラの練習や同僚の寄宿生との交際から得るものが多かった。献身的にシューベルトに尽くした友人達の多くはこの当時の同級生で、シュパウン(Spaun, 1788-1865)、シュタットラー(Stadler)、ホルツアプフェル (Holzapfel)、その他多数の友人達が自分達の小銭で貧しいシューベルトを助け、彼には買えない五線紙を買って与え、誠実な支持と励ましを与えてきた。また、このコンヴィクトでモーツァルトの序曲や交響曲、それらに類した作品や小品に初めて出会った。 一方、天才ぶりは作曲の分野で既に示しつつあった。1810年4月8日-5月1日の日付のある32ページびっしりと書かれた『4手ピアノのためのファンタジア (D1)』。続いて1811年にはツムシュテーク (1760 - 1802) が普及を図った計画にそって書かれた3つの長い歌曲、『五重奏序曲 (D8)』、『弦楽四重奏曲 (D18)』、『4手ピアノのためのファンタジア第2番 (D9)』がある。室内楽曲への想いが目立っているが、それは日曜日と祝日ごとに、2人の兄がヴァイオリン、父がチェロ、自分がヴィオラを受け持って、自宅でのカルテット演奏の例会が行われていたからである。後年、多くの作品を書くことになったアマチュア・オーケストラの萌芽をなすものであった。コンヴィクト在籍中には多くの室内楽、歌曲、ピアノのための雑品集を残し、また野心的な力を注いだのは、1812年(15歳)の母の葬儀用と言われる『キリエ (D31)』と『サルヴェ・レジーナ (D106)』(それぞれ合唱聖歌)、『木管楽器のための八重奏曲 (D72)』である。1813年には父の聖名祝日のために、歌詞と音楽からなる『カンタータ (D80)』を残した。学校生活の最後には最初の交響曲 (D82) が生まれた。 1813年-1815年[編集] 1813年の終りにシューベルトは(変声期を経て合唱児童の役割を果たせなくなったため)コンヴィクトを去り、兵役を避けるために、父の学校に初級生のための教師として入職した。その頃、父はグンペンドルフの絹商人の娘アンナ・クライアンベックと再婚した。およそ2年以上、シューベルトは自分の意にそわない仕事に耐えたが、伝え聞くには、非常に無関心に仕事をこなしていたようで、その代償を別の興味で補っていた。サリエリから個人な指導を受けたが、彼はハイドンやモーツァルトの真似だと非難をしてシューベルトを悩ませていた。しかし、サリエリは他の教師の誰よりも多くを彼に教えた。シューベルトはグローブ一家と親密に交際しており、そこの娘テレーゼは歌が上手く良い友人だった。彼は時間があれば素早く大量の作曲をしていた。完成された最初のオペラ『悪魔の悦楽城 (D84)』と、最初の『ミサ曲ヘ長調 (D105)』は共に1814年に書かれ、同じ年に『弦楽四重奏曲』3曲(D46.D74.D87)、数多くの短い器楽曲、『交響曲ニ長調 (D82)』の第1楽章、『潜水者 (D77)』『糸を紡ぐグレートヒェン (D118)』といった最高傑作を含む7つの歌曲が書かれた。 1815年には更に豊穣な作品群が登場する。学業、サリエリの授業、ウィーン生活の娯楽にもかかわらず、多くの作品を生み出した。『交響曲第2番変ロ長調 (D125)』が完成され、『交響曲第3番ニ長調 (D200)』もそれに続いた。また、『ト長調 (D167)』と『変ロ長調 (D.324)』の2つのミサ曲、前者は6日間で書き上げられ、その他『ヘ長調のミサ曲』のための新しい『ドナ・ノビス (D185)』『悲しみの聖母 (D383)』『サルヴ・レジナ (D379)』、オペラは『4年間の歩哨兵勤務 (Der Vierjahrige Posten, D190)』、『フェルナンド (D220)』、『クラウディーネ・フォン・ヴィラ・ベッラ (D239)』[2]、『アドラスト (D137)』(研究により1819年の作曲と推定)、『バイデ・フロインデ・フォン・サラマンカ(サラマンカの友人たち)(D326)』(会話の部分が失われている)の5曲作曲された。これらの他『弦楽四重奏ト短調(D173)』、『ピアノのための4つのソナタ(D157.D279.D459』、数曲のピアノ小品、これらの最盛期をなすのは、146の歌曲、中にはかなり長い曲があり、また8曲は10月15日と7曲が10月19日の日付がある。 1814年から1815年にかけての冬、シューベルトは詩人ヨハン・マイアホーファー(英語版)(1787-1836)と知り合った。この出会いは彼の常であったが、間もなく温かで親密な友人関係に熟していった。2人の性質はかなり違っていた。シューベルトは明るく開放的で少々鬱の時もあったが突然の燃えるような精神的高揚もあった。一方���イアホーファーは厳格で気難しく、人生を忍耐すべき試練の場とみなしている口数少ない男性だった。この友好関係は、後年見られるようにシューベルトに対してのみ一方的に奉仕するものであった。 1816年[編集] シューベルトの運命に最初の真の変化が見えた。コンヴィクト時代からの友人シュパウンの家でシューベルトの歌曲を聞きなじんでいた、法律学生フランツ・ショーバー(1796-1882)がシューベルトを訪問して、学校での教師生活を辞め、平穏に芸術を追求しないかと提案した。シューベルトはライバッハ(現在のリュブリャナ)の音楽監督に志願したが不採用になったばかりで、教室に縛り付けられている思いが強まっていた。父親の了解はすぐに得られ、春が去る頃にはシューベルトはショーバーの客人となった。しばらくの間、彼は音楽を教えることで家具類を買い増そうとしたが、じきにやめて作曲に専念した。「私は一日中作曲していて、1つ作品を完成するとまた次を始めるのです」と、訪問者の質問に答えていた。 1816年の作品の1つはサリエリの6月16日記念祭のための『3つの儀式用カンタータ (D407)』、もう1つは『プロメテウス・カンタータ (D451)』、これはハインリヒ・ヨーゼフ・ワターロート教授の生徒達のためで、教授はシューベルトに報酬を支払った。シューベルトは雑誌記者に「作曲で報酬を得たのは初めてだ」と語っている。もう1曲は、《教員未亡人基金》の創立者で学長ヨーゼフ・シュペンドゥのための『カンタータ (D472)』で、愚かな博愛の詩が歌われている。最も重要な作品は『交響曲第4番ハ短調 (D417)』で《悲劇的交響曲》と呼ばれ、感動的なアンダンテがある。次いでモーツァルトの交響曲のように明るく新鮮な『第5番変ロ長調 (D485)』、その他多少の教会音楽。それらは先輩達の作品よりも充実し円熟していたし、更にゲーテやシラーからシューベルト自身が選んだ詩であった。 この時期友人達の輪は次第に広がっていった。マイアーホーファーが彼に、有名なバリトン歌手フォーグル(1768-1840)を紹介し、フォーグルはウィーンのサロンでシューベルトの歌曲を歌った。アンゼルムとヨーゼフのヒュッテンブレンナー兄弟はシューベルトに最も奉仕し崇めていた。ガヒーは卓越したピアニストでシューベルトのソナタやファンタジーを演奏した。ゾンライトナー家は金持ちの商人で、長男がコンヴィクトに所属していたことがあったことからシューベルトに自由に自宅を使わせていたが、それは間も無く“シューベルティアーデ”と呼ばれ、シューベルトを称えた音楽会へと組織されていった。 シューベルトは完全に素寒貧だった。それと言うのも彼は教えるのは辞めたし、公演で稼ぐことも出来なかった。しかも、音楽作品を只でも貰うという出版社は無かった。しかし、友人達は真のボヘミアンの寛大さで、ある者は宿を、ある者は食料を、他の者は必要な手伝いにやってきた。彼らは自分達の食事を分け合って食べ、金を持っている者は楽譜の代金を支払った。シューベルトは常にこのパーティーの指導者であり、新しい知人が推薦された時に、シューベルトが「彼が出来ることは何か?」といういつもの質問がこの会の特徴を最もよく表すものであった。 1818年[編集] 1818年は、前年と同様に、創作上は比較的実りは無かったものの、2つの点で特筆すべき年であった。1つ目はシューベルトの作品の最初の公演が行われたことである。演目はイタリア風に書かれた『序曲 (D590)』で、これはロッシーニをパロディー化したと書かれており、5月1日に刑務所コンサートで演奏された。2つ目は、シューベルトに対する初めての公式の招聘があったことである。それは、ツェレスに滞在するヨハン・エステルハージ伯爵一家の音楽教師の地位で、シューベルトは夏中、楽しく快適な環境で過ごした。 この年の作品には『ミサ曲 (D452)』と『交響曲第6番(D589)』(共にハ長調)、ツェレスでの彼の生徒達のための一連の『四手のためのピアノ曲』、『孤独に (D620)』や『聖母マリア像 (D623)』『繰り言 (Litaney)』等を含む歌曲がある。秋にウィーンへの帰りに、ショーバーの所にはもはや滞在する部屋がないことが分かり、マイアーホーファー宅に同居することになった。ここでシューベルトの慣れた生活が継続された。毎朝、起床するなり作曲を始め、午後2時まで書き、昼食を摂った後、田舎道を散歩し、再び作曲に戻るか、或いはそうした気分にならない場合は友人宅を訪問した。歌曲の作曲家としての最初の公演は1819年2月28日で、『羊飼いの嘆きの歌 (D121)』が刑務所コンサートのイェーガーによって歌われた。この夏、シューベルトは休暇を取って、フォーグルと共に北部オーストリアを旅行した。シュタイアーで『鱒(ます)』として有名な『ピアノ五重奏曲イ長調 (D667)』をスコア無しでパート譜を書き、友人を驚かした。秋に、自作の3曲をゲーテに送ったが、返事は無かった。 1820年・1821年[編集] 1820年の作品には目覚しいものがあり、著しい進歩と形式の成熟が見られる。小作品の数々に混じって『詩篇23番 (D706)』『聖霊の歌 (D705)』『弦楽四重奏断章ハ短調 (D703)』、ピアノ曲『さすらい人幻想曲 (D760)』等が誕生している。 6月14日『双子の兄弟 (D647)』が、また『魔法の竪琴 (D644)』が8月19日に公演された。これまで、ミサ曲を別にして彼の大きな作品はグンデルホーフでのアマチュア・オーケストラに限定されていた。それは家庭での弦楽四重奏の奏者達から育って大きくなった社交場だった。ここへきて彼はより際立った立場を得て、広く一般に接して行くことが求められ始めた。しかし依然出版社は極めて冷淡であったが、友人のフォーグルが(1821年2月8日)ケルトナートーア劇場で『魔王』を歌ってからようやくアントニオ・ディアベリ(作曲家・出版業者、1781-1858)がシューベルトの作品の取次販売に渋々同意した。作品番号で最初の7曲(すべて歌曲)がこの契約に従って出版された。その後この契約が終了し、大手出版社が彼に応じてごく僅かな版権を受け取り始めた。シューベルトが世間から問題にされないのを生涯気にしていたことについて、多くの記事が見られる。それは友人に落ち度はなく、ウィーンの大衆に間接的に落ち度がある。最も非難されるべき人物は、出版する金を出し惜しみし、出版を妨げた臆病な仲介者である。2つの劇作品を生み出したことを契機に、シューベルトの関心がより強固に舞台に向けられた。 1821年の年の瀬に向かって、シューベルトはおよそ3年来の屈辱感と失望感に浸っていた。『アルフォンソとエストレラ (D732)』は受け入れられず、『フィエラブラス (D796)』も同じだった。『陰謀者 (D787)』は検閲で禁止された(明らかに題名が根拠であった)。劇付随音楽『ロザムンデ (D797)』は2夜で上演が打ち切られた。これらのうち『アルフォンソとエストレラ』並びに『フィエラブラス』は、規模の点で極めて公演が困難であった(例えば『フィエラブラス』は1000ページを超える手書き楽譜であった)。しかし『陰謀者』は明るく魅力的な喜劇だったし、『ロザムンデ』はシューベルトが作曲した中でも素晴らしい曲が含まれていた。 1822年-1825年[編集] 1822年にカール・マリア・フォン・ウェーバー、そしてベートーヴェンと知りあう。両者ともにほとんど親しい関係にならなかったが、しかしベートーヴェンはシューベルトの天分を心底認めていた。シューベルトはベートーヴェンを尊敬しており、連弾のための『フランスの歌による変奏曲(D624)』作品10を同年に出版するに当たり献呈している。ウェーバーはウィーンを離れて不在であり、新しい友人が現れても望ましい人物ではなかった。この2年は全体として、彼の人生では最も暗い年月であった。 1824年春、シューベルトは壮麗な『八重奏曲 (D803)』『大交響曲のためのスケッチ』を書き、再びツェレスに戻った。彼がハンガリーの表現形式に魅せられ『ハンガリー風喜遊曲 (D818)』と『弦楽四重奏曲イ短調 (D804)』を作曲した。 舞台作品や公的な義務で夢中になっていたが、この数年間に時間を作って多様な作品が生み出された。『ミサ曲変イ長調 (D678)』が完成。1822年に着手した絶妙な『未完成交響曲 (D759)』が生まれている。ミュラー(1794-1827)の詩による『美しき水車小屋の娘 (D795)』とシューベルトの最も素晴らしい歌曲の数々が1825年に書かれた。 1824年までに、前記の作品を除き『《しぼめる花》の主題による変奏曲 (D802)』、2つの弦楽四重奏曲(『イ短調 <ロザムンデ>(D804)』、『ニ短調<死と乙女> (D810)』)が作られている。また、『ピアノとアルペジョーネのためのソナタ (D821)』は、扱いにくく今では廃れた楽器を奨励する試みであった。 過去数年の災難は1825年の繁栄と幸福に取って代わった。出版は急速に進められ、窮乏によるストレスはしばらく除かれた。夏にはシューベルトが熱望していた北オーストリアへの休暇旅行をした。旅行中に、ウォルター・スコット(1771-1832)原詩の歌曲『ノルマンの歌 (D846)』、『囚われし狩人の歌 (D843)』や『ピアノソナタ イ短調 (Op.42, D845)』を作曲、スコットの歌ではこれまでの作曲で得た最高額の収入を得た。 ウィーンでの晩年[編集] 1827年にグラーツへの短い訪問をしていることを除けば、1826年から1828年にかけてずっとウィーンに留まった。その間、たびたび体調不良に襲われている。 晩年のシューベルトの人生を俯瞰したとき、重要な出来事が3つみられる。一つは1826年、新しい交響曲をウィーン楽友協会に献呈し、その礼としてシューベルトに10ポンドが与えられたこと。二つ目は、オペラ指揮者募集に応募するためオーディションに出かけたが、リハーサルの際に演奏曲目を自作曲へ変更するよう楽団員たちに提案したものの拒絶され、最終的に指揮者に採用されなかったこと。そして三つ目は、1828年の春になって人生で初めてでただ1度の、彼自身の作品の演奏会の機会が与えられたことである。 1827年に、シューベルトは『冬の旅 (D911)』、『ピアノとヴァイオリンのための幻想曲 (D934)』、2つのピアノ三重奏曲(Op.99 / D898、Op.100 / D929)を書いた。 1827年3月26日、ベートーヴェンが死去し、シューベルトは葬儀に参列した。その後で友人たちと酒場に行き、「この中で最も早く死ぬ奴に乾杯!」と音頭をとった。この時友人たちは一様に大変不吉な感じを覚えたと言う[3][4]。事実、彼の寿命はその翌年で尽きるのであった。 最晩年の1828年、『ミサ曲変ホ長調 (D950)』、同じ変ホ長調の『タントゥム・エルゴ (D962)』、『弦楽五重奏曲 (D956)』、『ミサ曲ハ長調 (D452)』のための2度目の『ベネディクトス (D961)』、最後の『3つのピアノ・ソナタ(D958, 959, 960)』、『白鳥の歌』として有名な歌曲集(D957/D965A)を完成させた。この中の6曲はハイネの詩に付けられた。ハイネの名声を不動のものにした詩集「歌の本」は1827年秋に出版されている。 シューベルトは対位法の理論家として高名だった作曲家ジーモン・ゼヒター(後にブルックナーの教師となる)のレッスンを所望し、知人と一緒に彼の門を叩いたが、何度かのレッスンの後、ゼヒターはその知人を介して「シューベルトは重病です」ということを知らされた。11月12日付のショーバー宛の手紙でシューベルトは「僕は病気だ。11日間何も口にできず、何を食べても飲んでもすぐに吐いてしまう」と著しい体調不良を訴えた。これがシューベルトが認めた最後の書簡となった。 その後シューベルトは『冬の旅』などの校正を行っていたが、11月14日になると病状が悪化して高熱に浮かされるようになり、同月19日に兄フェルディナントの家で死去した。シューベルトの最後の様子はフェルディナントが父へ宛てた手紙に言及されており、死の前日に部屋の壁に手を当てて「これが、僕の最期だ」と呟いたのが最後の言葉だったという。まだ31歳9か月の若さであった。遺体はシューベルトの意を酌んだフェルディナントの尽力により、ヴェーリング街にあった当時のヴェーリング墓地の、ベートーヴェンの墓の隣に埋葬された。1888年に両者の遺骸はウィーン中央墓地に移されたが、ヴェーリング墓地跡のシューベルト公園には今も二人の当時の墓石が残っている。 死後間もなく小品が出版されたが、当時の出版社は「シューベルトはシューベルティアーデ(ドイツ語版)のための作曲家」とみなして、もっと価値のある大規模作品を出版することはなかった。 シューベルトの死亡原因については、死去した年の10月にレストランで食べた魚料理がもとの腸チフスであったとも、エステルハージ家の女中から感染した梅毒の治療のために投与された水銀が彼の体内に蓄積、中毒症状を引き起こして死に至ったとも、いくつかの説が言われている。シューベルト生誕200年の1997年には、改めて彼の人生の足跡を辿る試みが行われ、彼の梅毒罹患をテーマにした映画も制作され公開された。 死後[編集] 19世紀[編集] 没後はベートーヴェンの神格化が加速化する一方で、シューベルトは「歌曲の王」という位置づけがなされ、歌曲以外のシューベルトの作品は『未完成交響曲』や弦楽四重奏曲『死と乙女』のような重要作を除いてはほぼ放置に等しい状況だった。 1838年にシューマンがウィーンに立ち寄った際に、シューベルトの兄フェルディナントの家を訪問した。フェルディナントはシューベルトの書斎を亡くなった時のままの状態で保存していて、シューマンはその机上で『(大)ハ長調の交響曲』が埃に埋もれているのを発見し、ライプツィヒに持って帰った。その後メンデルスゾーンの指揮によって演奏され、ノイエ・ツァイトシュリフト紙で絶賛された。この交響曲の番号について、母国語がドイツ語の学者は第7番、再版のドイツのカタログでは第8番として、英語を母国語とする学者は第9番として掲載するなど、番号は未だに統一されていない。 この他の埋もれていた作品の復活に、1867年にウィーンを旅行したジョージ・グローヴ(1820-1900)とアーサー・サリヴァン(1842-1900)の2人が大きな功績を挙げた。この2人は7曲の交響曲、ロザムンデの音楽、数曲のミサ曲とオペラ、室内楽曲数曲、膨大な量の多様な曲と歌曲を発見し、世に送り出した。こうして一般聴衆は埋もれていた音楽に興味を抱くようになり、最終的には楽譜出版社ブライトコプフ・ウント・ヘルテルによる決定版として世に送り出された。 グローヴとサリヴァンに由来し、長年にわたって《失われた》交響曲にまつわる論争が続いてきた。シューベルトの死の直前、彼の友人エドゥアト・フォン・バウエルンフェルトが別の交響曲の存在を1828年の日付で記録しており(必ずしも作曲年代を示すものでは無いが)、《最後の》交響曲と名付けられていた。《最後の》交響曲が「ニ長調 (D963A)」のスケッチを指していることは、音楽学者達によってある程度受け入れられている。これは1970年代に発見され、ブライアン・ニューボールド(英語版)によって交響曲第10番として理解されている。シューベルトはリストのよく知られた言葉で最も良く要約されている。即ち、シューベルトは《もっとも詩情豊かな音楽家》である。 シューベルトのほとんどの作品に即興性が見られるが、これは彼が運筆にインクのしみを付けたことが無いほどの速筆だったことも関係している。 20世紀[編集] シューベルトは存命中から「歌曲で採算の取れる」作曲家ではあったが、多くの未公開作品や未出版作品が大量に遺されたため、研究は難航を極めた。 ピアノソナタなど、その他の作品が一般にも脚光を浴びるようになるのはシューベルト没後百年国際作曲コンクール(優勝者はクット・アッテルベリ)が1927年に開催されるころからであり、同時期にエルンスト・クルシェネクがシューベルトのピアノソナタの補筆完成版を出版した。 シューベルトのピアノソナタはベートーヴェンよりは格下に見られていたために録音しようというピアニストはきわめて少数だったが、その黎明期に録音を果たした人物にヴァルター・ギーゼキングがいる。没後150年を迎えた1977年ごろになると、シューベルトのピアノソナタは普通に演奏会でかかるようになり、長大なピアノソナタを繰り返しなしで演奏することが可能になった(かつては省略が当たり前だった)。現在は初期から後期まで演奏会の曲目にも、普通に現れる。補作して演奏するパウル・バドゥラ=スコダ(ピアノソナタ第11番)のようなピアニストも珍しくない。 シューベルト新全集は現在ベーレンライター出版社が全責任を取る形で出版に務めているが、オペラなどの部分は完結はしていない。音符の形やスコア全体のレイアウトはすべてコンピュータ出力で修正されているが、合唱作品はCarus社なども新しい版を出版している。 現在の浄書技術を以ってしても「デクレッシェンドなのかアクセントなのか(これについては後述)」の謎は、完全に解明されていない。そのため、「未完成交響曲」の管楽器についた音は、奏者や指揮者によっていまだに解釈が異なり定着していない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/フランツ・シューベルト#D.E7.95.AA.E5.8F.B7
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