#美濃和紙あかりアート展
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chibiutsubo · 6 months ago
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#おでかけ #美濃和紙あかりアート展
猫好きにはたまらない。かわいいなぁ。
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観光地の景観配慮仕様になった十六銀行。
景観条例とかのある地区に行くと、見慣れた看板の変化球が色々と見れて面白かったりします。とりあえずロゴが茶色くなりがち。
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くしゃっとした紙の質感というんでしょうか?紙の柔らかさがよく出ていたり、透かし柄が素敵だったり。和紙の透かし模様ってしみじみと良いなぁ……。
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なんかおどろおどろしいものもありました。煮えたぎったマグマのよう。
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道沿いからちらりと見えたこちらはお店?お宿?素敵なお部屋です。
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shredderwastesnow · 1 year ago
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長々と「ゴーストワールド」考
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私がテリー・ツワイゴフ監督の映画「ゴーストワールド」と出会ったのは、2000年代中盤のことだった。映画館ではなく、ツタヤでDVDを借りて実家のリビングで観た。コロナ禍によってビデオ・DVDレンタル屋としてのツタヤが街から消えた今になって振り返ると、あの日からずいぶん遠くに来てしまったことを実感する。
映画冒頭、アップテンポなジャズが流れ出し、こぶしの利いた男性シンガーの声が重なる。「シャンフェケシャンフゥ」--何語だか分からないが、気分を高揚させる陽気なグルーヴ。しかし、映像はアメリカ郊外の白いマンションで、音楽の古めかしさと不���り合いな印象を与える。
カメラはマンションの外から窓の中を捉えつつ、右へと移動する。それぞれの窓の向こうにいる住人たちが部屋でくつろいだり食事をしたりといった光景がいくつか展開された後、濃いオレンジの壁紙の部屋が映し出される。部屋の中央で、黒縁眼鏡をかけたぽっちゃりめの女の子が、黒髪のボブを振り乱して踊っている。傍らには昔ながらのレコードプレーヤー。そこから大音量で流れる「シャンフェケシャンフウ」--アメリカにおけるサブカル眼鏡女子の強烈な自己主張は、無機質な郊外の光景へのレジスタンスのようだ。
細かい台詞やキャラクターは忘れてしまっても、このシーンだけは鮮烈に頭に残っている。この映画が何を描こうとしているのか、冒頭を観ただけで分かった。自分の世界を持っている人間の素晴らしさと痛々しさ。そんな存在を愛おしむ監督の眼差し。
2時間弱の物語の中では、高校を卒業したものの進路が決まらない主人公イーニドが迷走に迷走を重ねる。そして、彼女が何かを成し遂げるようなラストも用意されていない。
ありがちなティーンエイジャー文化に埋没する無個性なクラスメイトや郊外の退屈な人々を馬鹿にしている割に自分自身もぱっとしないイーニドの姿は痛々しいが、十代の自分にも確かにそんな一面があったことが思い出され、いたたまれない気持ちになる。それでも、映画を見終えた私の心には温かい余韻が残った。監督が最後までイーニドに寄り添い続けていることが伝わってきたから。
2023年下旬、何の気なしに見ていたX(旧twitter)で、ゴーストワールドのリバイバル上映を知った。絶対に行かなければと思った。あの名作と、映画館で出会い直したい。 上映が始まって約1ヶ月後の2024年1月、再開発によって円山町から宮下に移転したBunkamuraル・シネマの座席で、私はイーニドたちと再開することになった。
改めて観てみると、最初に観た時の感動が蘇ったシーンもあれば、初見では気付かなかった要素が見つかったシーンもあり、希有な鑑賞体験になった。 これ以降、個人的に気になった部分を列挙してみる。
自由という試練
物語の序盤で、主人公イーニドと幼馴染みのレベッカは、揃って高校を卒業する。式が終わると、イーニドとレベッカは会場から走り出て、卒業生が被る伝統の角帽を脱ぎ、校舎に中指を突き立てる。二人とも大学には進学せず就職もしないので、これからは受けたくない授業を受ける必要もなく、大人として自分の道を選ぶことができる。スクールカースト上のポジションに惑わされることもない。
しかし、コーヒーのチェーン店で働きながら親元を離れて暮らすためアパートを探し始めるレベッカとは対照的に、イーニドは将来のビジョンを持てないまま高校の補講に通い、髪を派手な色に染めてみたり、映画館のアルバイトを一日でクビになったりしている。ルームシェアをする約束を果たす気があるのかとレベッカに問い詰められれば「自立、自立って馬鹿みたい」と滅茶苦茶な言葉を返して怒らせ、家に帰ってからベッドで泣く。イーニドは自由を満喫するどころか、自由を持て余しているように見えた。
高校生の頃は、学校の教員たちが決めたルールに従い、与えられたタスクをクリアすることが求められていた。経済的に親に頼っている分、親や家族というしがらみもある。大人の介入を避けられない年代にいるうちは、人生の問題を大人のせいにすることもそれなりに妥当だ。
しかし、高校を卒業してしまえば、もう人生の諸問題を安易に大人のせいにできない。複雑な家庭の事情に悩まされていても、「もう働ける年齢なんだから、お金を貯めて家を出ればいいんじゃない?」と言われてしまう。
自分の進路を選び、やるべきことを見極めて着実に実行することは、何をすべきなのか指示してくる人間に「やりたくない!」と反抗することよりもはるかに難しい。与えられた自由を乗りこなすだけの自分を確立できていないイーニドの戸惑いと迷走は、滑稽でありながらも、既視感があってひりひりする。
シスターフッドの曲がり角
この映画には、イーニドとレベッカのシスターフッド物語という側面もある。十代を同じ街で過ごし、お互いの恋愛事情も知り尽くしている二人が、高校卒業という節目を境に少しずつ噛み合わなくなってゆく過程が切ない。二人とも、相手を大切に思う気持ちを失ったわけでは決してない。それでも、環境の変化が二人の違いを鮮明にし、今まで通りではいられなくなる。
イーニドもレベッカも、世界をシニカルに見ている点は共通している。派手に遊んでいたクラスメイトが交通事故で身体障害を負ってから改心し、卒業式のスピーチで命の尊さを語っていたことに対して「人間そんなに簡単に変われるわけない」と陰で批判したり、卒業パーティーでも弾けたりせずぼそぼそ喋っていたりと、どこかひねくれた態度で生きている。世の中が用意する感情のフォーマットに素直に乗っからない低温な二人の間には、確かな仲間意識が見て取れた。
しかし卒業を契機に、二人の関係はぎくしゃくし始める。 イーニドは仮に卒業できたものの、落第した美術の単位を取得するため補講に出なければならない。スムーズに卒業したレベッカはカフェのチェーン店で働き始め、アルバイトではあるが社会に居場所を得る。卒業したばかりの頃はイーニドと一緒にダイナーに行き、新聞の尋ね人欄に出ていた連絡先にいたずら電話をするといった行動にも付き合っていたレベッカだったが、アルバイトも続かずルームシェアの部屋探しにも消極的なイーニドに徐々に愛想を尽かす。イーニドが中年男性シーモアとの関係を隠していたことが、さらに二人の距離を広げてしまう。
イーニドは古いレコードを集めるのが好きで、一癖あるファッションを身に纏い、多少野暮ったい部分はあるにしても自分の世界を持っている。バイト先でも、上司の指示に違和感を覚えれば分かりやすく態度で示す。表面的にはリベラルな国を装いつつ水面下では依然として差別が行われているアメリカ社会に対しても、批判的な眼差しを向けている。
しかし、それを表現した自分のアート作品が炎上した際、イーニドは作品を批判する人々に対して展示の意義を説明せず、展覧会の会場に姿を見せることすらしなかった。どんなに鋭い感性があっても、表現する者としての責任を全うする姿勢のないイーニドは、アーティストにはなれないだろう。黒縁眼鏡の媚びない「おもしれー女」ではあってもカリスマになる素質はなく、かといってマジョリティ的な価値観への転向もできないイーニドの中途半端さは、何とも残念である。
一方レベッカは、シニカルな部分もありつつ、現実と折り合いを付けて生きてゆけるキャラクターだ。店に来たイーニドに客への不満を漏らしながらも、上司に嫌味を言ってクビになったりすることはない。経済的に自立して実家を出るという目標に向かって、地に足の着いた努力ができる。
そして、レベッカは白人で、イーニドより顔が整っている。二人がパーティーに行くと、男性たちはユダヤ系のイーニドに興味を示さず、レベッカにばかり声を掛ける。 どう考えても、社会で上手くやってゆけるのはレベッカの方なのだ。
卒業を契機に、高校という環境の中ではそれほど目立たなかった二人の差が浮き彫りになる。置いて行��れた気持ちになるイーニドと、現実に向き合う意欲が感じられないイーニドに苛立つレベッカ。どちらが悪いわけでもないのに、高校の時と同じ関係ではいられない。絶交するわけではないけれど、何となく離れてゆく。
人生のフェーズに応じて深く関わる人が変わってゆくのはよくあることだし、どうにもならない。それでも、楽しかった長電話が気まずい時間に変わったり、昔だったら隠さなかったことを隠すようになる二人を見ていると、人生のほろ苦い部分を突きつけられるようで、胸が締めつけられる。
シーモア:大人になりきらないという選択肢
冴えない中年男性シーモアは、この映画におけるヒーローでありアンチヒーローだ。平日は会社員だが、休日は音楽・レコード・アンティークオタクとして自分の世界に耽溺し、友達も似たような同性のオタクばかり。せっかくライブハウスで女性が隣に座っても、音楽の蘊蓄を語って引かれる。そのくせ「運命の出会い」への憧れをこじらせている。自分の世界を持っている人間の素晴らしさと痛々しさを、これでもかと体現しているキャラクターだ。
イーニドとシーモアの出会いは、イーニドのいたずら電話がきっかけだった。新聞の尋ね人欄を読んでいたイーニドは、バスで少し会話をした緑のワンピースの女性にまた会いたいと呼びかける男性の投書を発見し、この気持ち悪いメッセージの発信者を見てやろうと、緑のワンピースの女性を装って電話をかける。会う約束を取り付け、待ち合わせの場所に友達と共に向かうと、呼び出されたシーモアがやって来る。
待ちぼうけを食らうシーモアを陰で笑いものにするイーニドだったが、別の日に街で偶然見かけたシーモアを尾行して、彼がレコードオタクであることを知り興味を持つようになる。シーモアのマンションで開かれたガレージセールで、イーニドはシーモアが売りに出した中古のレコードを買い、会話を交わし、徐々に距離を縮めてゆく。
シーモアが自宅でレコードオタクの集まりを開いた日、イーニドはシーモアの部屋に入る機会を得、彼のコレクションと生き様に驚嘆する。
恐らくイーニドは、シーモアという存在から、アーティストやクリエーターにはなれなくても自分らしさを手放さずに生きられると学んだ。たとえ恋愛のときめきが去ったとしても、シーモアの残像はイーニドの中に残り、社会と折り合いを付けられない彼女の行く先をささやかに照らすのではないだろうか。
(そして、シーモアの姿が、一応仕事や勉学などで社会と折り合いを付けながらも、家庭を持たず読書や映画鑑賞や執筆に明け暮れる独身中年の自分と重なる。その生き様が誰かの未来を照らしたりすることはあるのだろうか。もちろん作家として誰かの人生に言葉で貢献するのが一番の目標ではあるものの、映画を観た後、最低限シーモアになれたらいいなという気持ちになった。初見の時と感情移入するキャラクターが変わるというのは、なかなか新鮮な体験。)
矛盾を抱えたアメリカ社会への言及
最初に観た時はイーニドや一癖あるキャラクターたちが織り成す人間模様にしか目が行かなかったが、二度目の鑑賞では、画面の端々に映り込むアメリカ社会への皮肉もいくつか拾うことができた。
ライブハウスのシーンに、ブルースに影響を受けたと思われる白人のボーイズバンドが登場する。ヴォーカルは「朝から晩までcotton(綿花)を摘む毎日さ」みたいな歌を熱唱する。確かにブルースにありがちな歌詞だ。しかし、綿花を摘む労働をさせられていたのは主に黒人であり、白人は黒人をこき使う側だったはず。労働者の心の拠り所として作られたブルースという文化を、ブルジョワである白人が無神経に簒奪しているという皮肉な現実が、この短い場面にそっと描かれている。
また、イーニドとレベッカが一緒にパーティーに行くとレベッカばかりが男性に声を掛けられる件には既に触れたが、声を掛けてくる男性はほぼ白人だ。アジア系の男性や黒人男性などがレベッカをナンパすることはない。たまたま二人の住む街が白人の多い地域という設定なのかもしれないが、このようなキャスティングが決まった背景には、制度上の人種差別がなくなっても人種によるヒエラルキーが社会に残っているという監督の認識があるのではないかと感じた。
そして、個人商店がチェーン店に取って代わられ、住宅地が画一的なマンションで占められ、街が少しずつ個性を失ってゆく描写もある。レベッカが働くカフェ(ロゴがスターバックス風)やイーニドがバイトをクビになるシネコン内の飲食店は、無個性なチェーン店そのものだ。モノやサービスが画一的になり、雇用や労働のスタイルも画一的になり、マニュアル通りに動けない人間が排除される世界へのささやかな批判が、様々なシーンの片隅にそっと隠されている。
この映画は、十代の葛藤を単なる自意識の問題として片付けず、矛盾だらけで個性を受け入れない社会にも責任があると言ってくれていた。改めて、監督や制作者たちのティーンエイジャーに対する温かい眼差しを感じた。
ラストシーンをどう解釈するのか
ネタバレになるので詳細は伏せるが、この映画のラストシーンは比喩的で、どう受け止めるのが正解なのか分からない。イーニドの人生に希望の光が差すことはなく、かといって大きな絶望が訪れることもなく、自分を命がけで守ってくれた人の思い出を胸に強く生きることを誓うみたいな展開にもならない。とにかく、分かりやすいメッセージのある終わり方ではないのだ。
(映画館を出た後にエレベーターで乗り合わせた若いカップルも、やはりラストの解釈が難しいという会話をしていた。)
私自身は、このラストを、イーニドが他力本願な自分から卒業することをようやく決意したという意味に捉えている。
これまでのイーニドは、心細くなれば友人��レベッカやジョシュを呼び出し、映画の中盤以降ではシーモアにも絡んでいた。人生に行き詰まれば、誰かを頼って気を紛らわす。偶発的に何かが起こって道が開けないかな、みたいな感覚で生きているような印象だった。 しかし、物語の終盤で、一時はイーニドにとってヒーローだったシーモアが、突然遠のく。レベッカとも既に疎遠になっているイーニド。そして、不思議なラストシーン。イーニドは、私たちに背中を向けている。
イーニドは、自分を導いてくれるヒーローも、どう生きるべきか教えてくれる天使も、どこにもいないということに気付いたのではないだろうか。 人間は最終的には孤独で、自分の人生は自分で切り拓いてゆくしかない。ラストシーンのイーニドからは、彼女が紆余曲折の果てに辿り着いた人生の真理が滲んでいるように思える。
そして、イーニドの後ろ姿は、スクリーンのこちら側にいる私たちに対しても「自分の人生は自分で切り拓いてゆくしかないよ」と語りかけている気がする。どう生きるべきか、映画に教えて貰おうなんて思うなよ。自分で行動して、傷ついたり恥をかいたりしながら、自力で見つけるんだ。
以上が私なりの解釈だが、違う見方もあるのかもしれない。他の人の批評も検索してみたい。
おわりに
Bunkamuraル・シネマでの「ゴーストワールド」上映は明日で終わる。しかし、各地の名画座での上映はまだ続くようだ。これからも沢山の人がイーニドたちに出会うことを想像すると、自然と笑いがこみ上げる。
イーニドの冴えない青春は、観た人の心に何をもたらすのか。
これを読んで少しでも気になった方は、是非スクリーンで、ラストシーンまで見届けてください。
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keeeen0273 · 8 years ago
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昨日の帰り道 美濃和紙あかりアート2017 行って来ました。 うだつの上がる町並みで 作品のライトアップ✨ 和紙とひかりの芸術ですね👌 とても和紙とは思えない❗ #秋の遠足 #最後は #地元 #久々に #美濃市 #柳屋食堂 #とんちゃん #食べてからの  #美濃和紙あかりアート展2017 #うだつの上がる町並み #美濃市あかりアート  #美濃和紙 #岐阜県美濃市 #ライトアップ #和紙 #ひかり #芸術作品 #1300年の伝統 を誇る #美濃和紙を使用した #あかりのオブジェ を全国から公募 #gifu #mino #beautiful (Mino, Gifu)
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hiroki0616 · 7 years ago
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#美濃和紙あかりアート展 作品集その2 #うだつの上がる町並み #あかりアートキャンペーン2018 (美濃市うだつの上がる町並み) https://www.instagram.com/p/BotUMosh_BD/?utm_source=ig_tumblr_share&igshid=d7ne4ah217o7
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doctormaki · 2 years ago
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怒涛のように過ぎた一週間。ウナギを50ユーロも出して食べに行ったドイツ国籍日本人のお店は、色々な意味で興味深かった。普段の私ならば、絶対に行かない店だ。大体、ワシは海外にいる日本人はほぼ全員嫌いである。よっぽどの事がない限り、身元がしっかりしていると思わるる大使館員とでさえ、会話どころか御挨拶も避けたい。バンコクでもNYCでも、どこにいようが、海外在住日本人どもとお付き合いするのは、まっぴら御免被りたい。従い、日本人経営のスーパーがあると、N婦人に教わったが、そこにも一歩も近づいていない。
Isabelの娘Noaが来ているので、今週は関西弁喋る癖にマジで濃い味の料理しか作れない不思議な方々のレストランの後は、こちらの中華ドイツ友好文化交流組合みたいな所が作っている、頤和園という中華料理を奢ってもらう。麻婆豆腐は、こちらではまるっきりヴェジタリアン食だそうで、ワシの作る麻婆豆腐に豚肉ミンチを入れて山椒(shichuan pepperという)を用いる事にドン引きしたIsabel親子。昨年末からずっと、いつか一緒に行こうと誘ってくれていたレストラン。まぁ不味くは無いのだが、豆板醤とケチャップだけで味付け。キクラゲとネギが少し入っていて、上から香草を散らしてある。うーむ。これは麻婆豆腐では無い。。。つーか、日本のド田舎の中華な感じ。そーだ。河口湖へ行く途中の街道筋にある、あの東京で修行した自慢で売っている店と、味付けのコンセプトが全く同じ。
困ったらケチャップと醤油と、豆板醤。この三点セットに、場合によっては砂糖を少し加えてみたりと、どの料理もベースは同じ味付けである。飽きるだろ、とワシは思うが、ドイツ人には最高に美味しいらしい。確かに、アミノ酸の量は少なめで、ワシも安心して食べる事ができたが。。。ナス炒めにしても、何にしても、同じ味付けなのには閉口する。田舎なので、大量の白米にカレーのようにナス炒めでも、肉炒めでも、なんでもかんでもごちゃごちゃにして食べるのが、ドイツ流らしい。うーむ。ワシ、自分の料理でいいッス。
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木曜日は、来年度からのフェロー選考会があったため、彼らの選考会に合わせて開かれたハンブルグ市内Walkingツアーがあったので、便乗参加する。当然、自慢のPlantenundBlumenに連行され、日本庭園自慢。まぁ、菖蒲が綺麗でした。しかし、Irisといっても通じない事が判明。菖蒲はirisだが、あの花は蓮のwater lilyだと言い張られる。いやぁ、ワシは確かに御立派なドイツ人様達と比べると東洋のバカザルですが、花菖蒲と蓮は違うと思うよ。。。と言っておく。立派な人には逆らわないのが良い。王様が裸でフルチンでも、えっ、王様の癖にパンツ履いてないじゃん。。などと公に呟いてはいけないのだ。ワシは、日本では一早く、王様が裸だと焦るタイプで、何なら、ねぇねぇと隣のボ~っとした脳味噌半分豆腐の奴に注意喚起したりしていた。
しかしだ。ドイツに来て、やっと、ママが言っていた事が分かってきた。バカにバーカって言っちゃいけません!とワシを叱ってくれていたママ。ママはある意味で正しかった。バカにバーカって言うと、後が面倒臭いのだ。バカは自分が一番正しいと信じるある種の新興宗教の方々だから、そんな奴ら相手に、あなたは無知ですね、なぁんて言ってもキレるだけである。正しいのは常に自分だからだ。この手の方々は御自身が、もはや無敵全能の神である。おまけにもっと面倒臭いのは、小賢しいバカは、神のフリも心得ているので、バカと言ってくる相手にはにこやかに対応し、己の無知でさえ恥でなくチャームポイント的に自己アピールするので、余計に疲れる。相手にするだけ無駄である。
ということはだ。気付いてしまった。。。ワシは、バカな日本人の間で理解できなかった、関わり過ぎてはいけない、という教訓を学べ無かったので、神様が、しゃーないなぁマキは。。。とか言いながら、強化レッスン先としてドイツを選んだんかもしれんちゅぅこっちゃ。ワシャ、段々、バカと切断する。付き合いつつも遮断する。無関与の関与を身に付けるじょ。ブハハ。ドイツでドイツ人相手に猛特訓やで〜!
さて、本題。どこの主要都市でも、ジェントリフィケーションが問題になっとる。なんやそれ?と最初思って、辞書引っ張っても、今どきの言語学者はバブルパリピなので、gentrificationは、日本語でジェントリフィケーションとしか出てこんのですよ、皆様。ワシは、アホなので、全く意味分からんのですが、お灯台とか桶言おうとか出ると、意味がサックリ分かるらしい。ワシは絶望。桶言おうで修士号とってお灯台で博士号とっても、このワシの生まれつきのアホは治りませんことよ。ワシは頭悪い、口悪い、目が悪いの三重苦だから、ヘレン・ケラーもおののくような障害者ならぬギフテッドパーソンですことよ。全く実に哀れむべき対象ですことよ。。詠嘆。
っで、ジェントリフィケーションとは、要は都市の中心部の昔、労働者階層の住む地区が、gentryに貴族階級に支配されて、労働者が郊外へ移住させられていく過程で、多くの労働者階級の文化が失われたり、住居跡が破壊されていく過程を表す。こうした動きに反するため、ハンブルグでは80年代後半から、建物の価値を付けるために、落書きをするのが流行ったらしい。日本では落書きアートは眉ひそめる対象で、最近になってやっと学歴詐欺の小池百合子のお陰でバンクシーが知れ渡り、落書きアートに何百万、何千万円と払われる事に気付いたようだ。が、ハンブルグでは、80年代から、この落書きアート効果を古い労働者住宅の保存のために、アートを使って行っている。ハンブルグは港湾都市なので、カモメが良く飛んでいる。上の写真は、保存運動対象のボロいアパートに描かれていたアート。アート、アートってうるせー。ただの落書きじゃろ。と、目が悪くて趣味を共有できない東洋のバカは、心の中でツイツイ思っていた。
ちなみに菖蒲の写真の左隣の写真は、道路に埋め込まれているユダヤ人達の碑です。これの説明は、一切無し。そして、当然、説明されないので、研究所の人々も、ガシガシ踏みつけて歩いておられました。こういう事で傷付くワシは繊細なバカなので、繊細すぎて四重苦かもしれん。
心を落ち着けるために、大好きな象さんを、と思い立ち、折り紙で三種類の象さんを折る。土を捏ねると無心になれるとほざいとった、ワシの父上を名乗る方がいるが、無心とは、色々と多分、無心レベルが違うんだろうなぁと、ふと思う。最近、エキゾチックが大好きなドイツ人達の間では仏教や瞑想ブーム。それで大儲けしている胡散臭い輩がわんさかおる。そして、胡散臭い事に気付き、自分がついている師がタダのインチキ金むしり取り野郎だった事を素直に認める事のできない、ある意味での拝金主義者は、仏教とは無だの空だの言って、意味が無いという議論を展開しとる。なんか、下らないので、ベムりんみたいに耳だけそばだてて聞いていけど、目を開けてまでして相手する気すら起きない。
何故か。自分に問う。これは多分、上の無心の問題と同じだ。理解したいという理解度レベルと、知識レベルの乖離から、多くの人は、自分の知識と理解度が常に同等であると勘違いする罠に陥っている。知識は、知識が多いから意味がある訳ではない。体験も同じ。いっぱい練習しても伸びない時期もあるのと同じ。理解度というのは。当然、知識や体験と連動して正の相関にある。しかし、それはある程度のレベルまででしかない。その先を目指す時、違う次元に行く時、知識偏重や体験主義だけでは乗り越えられない何かがある。
まぁね、知識も無く、体験もしないでシッタカブッタになれて、自分の立派さに素直に酔える人には、到達できない次元ちゅーんが、あるって事ですなぁ。素直は大事。でも、素直の次元、無知の次元、無心の次元。同じ言葉を使っているけれど、異次元レベルの話をしている事が、時としてあって、人とはオメデタクできているので、その人の次元に合ったことしか受け取れないし、それで満足してたら、オワリ。それだけの事ですな。
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pupupupumpkin · 2 years ago
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【岐阜県美濃市松森595 マツモリビル Live Spot DiAngelo予定】 2023年5/5(金) 19:00頃~ 小林美千代(as) 成瀬明(g) 加藤雅史(b) 江藤良人(ds) ¥4,000  1ドリンク/軽食オードブル付 お問合せは随時 〈E-mail〉[email protected] 〈TEL〉090-4115-4235 〈店主 facebook〉https://www.facebook.com/daichi.furuta.5  
国内女性ジャズサックスプレーヤーのパイオニア小林美千代さんのカルテットがDiAngeloに登場です。名古屋拠点の主流メンバーにスーパードラマー江藤良人さんをフィーチャー。美千代さんはかつて00年代《第12回 美濃和紙あかりアート展》において、店主(古田)と共に美濃市の伝建地区「うだつの上がる町並み」でのゲスト演奏を行いました。今年GWのツアー中、再びこちら美濃市のコアな空間にて熟練のプレイを繰り広げます!
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strangerclothing · 6 years ago
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Sophie Calle-限局性激痛
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フランスの女性現代美術作家、ソフィカル。
今回の展示は19年前に同じ場所で開催された再現展。 そこはかれこれずっと気になっていた美術館だった。 彼女に対してまったくの予備知識もなかったが、建物への興味も相まって訪れるならこのタイミングだとなんとなく思った。
テーマは【限局性激痛】、医学用語で身体部位を襲うごく狭い範囲の鋭い痛みや苦しみを意味するらしい。 人生の中で最悪に落ち込んだの日までの出来事を、元恋人への手紙と写真で綴ったノートのはし切れやメモ書き。 自分の不幸話を他人に語り、その代わりに相手の最も辛い経験を聞くことで、自身の心の傷を少しずつ癒していく経過を繋ぎ合わせた写真と言葉の刺繍。 写真と言葉。 心の痛みと癒し。 例え見知らぬ他人でも聞いてくれる誰かがいるだけで救われたのか。 自分の辛い経験や過去の体験を話すことで楽になれたのか。 写し出された風景や人物はどこか繊細で儚げに見えた。
はっきりと残っていた刺繍の白色は、こびり付いていた暗い過去が徐々に取り除かれるように最後には生地の濃度に溶け込むように薄れていた。 身体を襲ったごく狭い範囲の鋭い痛みや苦しみの部位は、彼女のハート(心臓)に深く刺さっていた記憶の傷跡のように思えた。 時間を忘れて閉館間際まで見ていた館内から外へ出ると 夕暮れ間際の空の真上には心を癒すような月が光っていた。 こんな夜には”Lilac Wine”を注ぎたい気分。 P.S
今回の写真展で訪れた東京は品川にある原美術館は2020年末をもって 惜しいことに閉館してしまうようです。 この美しい曲線と緑が調和したモダンで現代アートのような建物がなくなってしまう前にまた必ず訪れたい。
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nakasonenami · 4 years ago
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今年の美濃和紙あかりアートに出展した照明が、イベント等で展示する灯りとして美濃に提供する事になりました😊 ありがとうございます😌💐 #照明 #インテリア #和紙 #和紙の照明 #美濃和紙 #interiordesign (Okazaki, Aichi) https://www.instagram.com/p/CWAnYWtlzyP/?utm_medium=tumblr
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chibiutsubo · 6 months ago
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#おでかけ #美濃和紙あかりアート展
色とりどりの華やかな作品も目を引くし、オレンジの柔らかな灯りも良い……。どっちが良いとか選べない良さがあります。
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変わり種系。トゲトゲグルグル。
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オクラかな……。
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砂丘にも見えるし、大海原の波にも見えてくる。淡いグラデーションが好きだなぁ。
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さっき明るいうちに見たモノトーンの作品は、点灯するとまた違った雰囲気になっていました。紙の模様が浮き出てきて素敵。
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jinsei-pika-pika · 4 years ago
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のん、劇場公開長編作「Ribbon」を監督! 樋口真嗣監督制作の応援PVに豪華監督陣が“活動屋”役で出演
2021年3月19日 10:00
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メガホンをとった、のん
(C)「Ribbon」フィルムパートナーズ
女優・のんが、劇場公開の長編映画「Ribbon」(2021年公開予定)で初めて監督としてメガホンをとり、主演、脚本も兼ねていることが明らかになった。のんが監督を務めるのは、「おちをつけなんせ」(2019/You Tube Original)以来、2度目。コロナ禍で多くの卒業式が中止となり、青春を奪われていく学生たちの悲しみを目の当たりにしたのんが、世の中の擦り切れた思いを少しでもすくい上げたいという思いから企画した。
同作の主人公は、美大生・いつか(のん)。コロナ禍で卒業制作展が中止となり、悲しむ間もなく作品を持ち帰ることになる。いろいろな感情が渦巻き、心配してくれる両親とも衝突。だが絵を描くことに夢中になったきっかけをくれた田中との再会、親友・平井と本音でぶつかり合ったことで心が動く……。表現の術を奪われ葛藤する美大生が、アイデンティティを自らの手に取り戻す姿を描く。
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(C)「Ribbon」フィルムパートナーズ
また、のん発案の“リボンアートによる感情表現”が見どころのひとつに挙げられる。主人公の様々な感情の流れを、カラフルなリボンで表現。時には鋭くとがり、時にはしなやかに踊るようなリボンの動きを、「シン・ゴジラ」監督・特技監督の樋口真嗣、准監督・特技統括の尾上克郎という豪華タッグで実現させている。
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(C)「Ribbon」フィルムパートナーズ
のんは、新型コロナウイルスの感染拡大による自粛期間中に、エンタメや芸術の優先順位が下がっていくのを目の当たりにし、再認識したことは「自分は見てきたエンタメや音楽やアートによって支えられているということです。どんどんその思いが強くなって、いてもたってもいられず脚本を書き始めました」と胸中を吐露。そして、自身の憧れでもある美大生を主人公にしようと決め、コロナ禍の美大生たちの状況を調べ始めたところ、美大生の卒業制作を取り上げた記事を見つけたという。
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(C)「Ribbon」フィルムパートナーズ
「そこに書かれてあった『時間をかけて作ったものがゴミのように思えてしまった』というインタビューが、あまりに衝撃的で。自分の悔しさにも共鳴して膨れ上がって、この無念をなんとか晴らしたいと、脚本を書き進めていきました。コロナ禍で擦り切れた思いを、少しでもすくい上げるような映画になったら…。心を込めて作った映画です。みなさま、ぜひお楽しみにしていただけたら嬉しいです」。
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(C)「Ribbon」フィルムパートナーズ
そして、今作を応援するスペシャル映像「映画と生きる 映画に生きる」(https://youtu.be/EYKNxOSgi0Q)が完成。樋口監督がメガホンをとる異例ともいえる試みに、一線で活躍する監督陣がキャストとして結集した。
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のんが監督役で、活動屋を緒方明、尾上克郎、犬童一心、片渕須直、白石和彌、市井昌秀、沖田修一、枝優花が演じている。この映像は、スクリーンには映らない映画撮影の過酷ながらも情熱的な現場の裏側と、いかなる状況であっても被写体を見つめ続ける“監督・のん”の様子を3篇に分けて描いている。ナレーションも務めたのんは、日本映画史に名を刻む監督たちが遺した名言(風篇:今村昌平、炎篇:岡本喜八、雨篇:深作欣二)を印象的に読み上げる。
なお、応援PVに参加した監督陣のコメント全文は、以下の通り。
■樋口真嗣監督 監督になりたい。 そんな濁りなく希望に満ちた質問に対して、 いつも出かかって止めてしまう答えがあります。 監督はなるもんじゃないよ。 呼ばれるもんだよ。 どうしよう、これでいいのかな、 そんな感情を現場で出さないように必死で取り繕い、 ごまかしていると、周りのスタッフがいつも支えてくれています。 これイケまっせ! いいんじゃない? ステキだと思うよ。 みんなのことばや、みんなのしごとに後押しされて 自分は監督になった。 監督でいられる。 いつもそう思っています。 いま、感染症の所為で、いろんな映画が上映の機会を失い、 観客のもとに届けられずにいます。 感染症の所為で、いろんな映画が作られることすら許されず、 形にならないまんまで宙に漂っています。 そんな中、感染症がなければ作られなかった映画がつくられ、 監督の仲間が1人増えました。 大変だし、苦しいし、思ったよりいい事はないかもしれない。 でも、それでもやめられない、つくりたい。 なぜなら楽しいから。ここにしか生きられない場所があるから。 うまく言語化できないこの感情を、 同じ業に絡め取られた仲間と一緒に作ってみたら、 自分の現場では絶対許されないような豪華な撮影現場になりました。 特に初めてご一緒する特機チームの見事な手際に興奮が止まりません。 自分で仕掛けた罠に自分がかかってしまうようなものです。 やはり、何があっても映画で生きたいし、 映画に、行きたいのです。
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(C)日本映画専門チャンネル/撮影=吉場正和
■映画監督役 のん 映画に生きる緊張感と高揚。これほどまでに、濃密な撮影が他にあるのでしょうか。楽しかったー。 私は、どの現場でもいつも緊張するのですが、今回の撮影は現場に行くまで生きた心地がしなかったです。私が監督役で、錚々たる監督の方々がスタッフ役って、どんなぶっ飛んだ撮影?と未だに思います。撮影が始まると楽しくてしょうがなくてずっと浮き足立っていました。樋口監督に感謝です。 コロナ禍で擦り切れた思いを、少しでもすくい上げるような作品を撮りたくて「Ribbon」という映画を作りました。役ではなく、現実で。 早く皆様に見てもらいたいです。お楽しみに。
■スタッフ役 緒方明監督 撮影での雨降らしは何度も経験あるがここまでびしょ濡れになったのは初めてだった。パン棒を握る手が冷たくかじかんで感覚がなくなる。「もう一回!」容赦ない樋口監督の声。なかなかしんどい撮影でした。だけ��決してイヤじゃない。 ツラいからこそ面白い。ラクしてたんじゃ面白いことには出会えない。「映画に生きる」とはこういうことなのかも、と思いました。
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(C)日本映画専門チャンネル/撮影=吉場正和
■スタッフ役 尾上克郎監督 もらった役は「のん組・操演部」。なんだ昔に戻っただけじゃねぇか!カメラマン役狙ってたのにさぁ。そんな俺の心中を他所に監督たちは早々と役に入り込んでいる。負けてらんないですよ。操演部魂、蘇りましたよ!走りました。紙吹雪まきました。そして脚が攣りました…。「映画に生きる」のはホントに辛い(笑)。でもこんなにステキなご褒美もあるんですね。樋口君ありがとう!のんちゃん、皆さんお疲れさまでした。
■スタッフ役 犬童一心監督
カメラマン役、初めて、クレーンに乗り、35mmフィルムを自分で回しました。気分は宮川一夫。楽しかったあ。樋口さん、のんさん、ありがとう。
■スタッフ役 片渕須直監督 普段はアニメーションの仕事をしていて、実写のスタジオはものすごく久しぶりだったのですが、それがのん監督のスタッフ役での出演となってしまうとは。いいですね、のんちゃんはこれからもいろんな方向で活躍してゆくでしょうし、そのとき必要ならばお手伝いにはいつでも飛んで参りますので。
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(C)日本映画専門チャンネル/撮影=吉場正和
■スタッフ役 白石和彌監督 なんと多幸感あふれる時間だったのだろう。あちこちに落としたり忘れてしまったモノを見つけることができました。おかげさまで全身の細胞が生まれ変わる最高のデトックスで体が超軽い。これでもうしばらく映画の中で生きていけそうです!
■スタッフ役 市井昌秀監督 コロナの影響で自作品の撮影が延期になったことで、久しぶりの現場がまさかのスタッフ役での出演! こんな熱い現場をいつか自分も作りたいと強く思い、改めて映画って、現場って最高だ!と胸躍りました。映画はフレームの外も映画なんだ!
■スタッフ役 沖田修一監督 久しぶりの撮影の雰囲気に、心が躍りました。出るのはとても楽しいです。しかも目の前にのんさんが。のんさんの監督姿は、可愛らしくもあり、格好よくもあり。他、たくさんの先輩たちに紛れて、遊ばせてもらいました。貴重な時間をありがとうございました。楽しかったです。映画楽しみにしています。
■スタッフ役 枝優花監督 今までの現場史上おそらく最多数映画監督が共存という異常な空間の中で、全員がモニターを確認し、各々演出し合うなんとも不思議な現場。とても楽しませていただきました。和気藹々と皆で1つのものを作る感覚が詰まってるのではないかと思います。これをみた人たちの中から、映画を撮りたくなる人がどんどん増えて欲しいです。
(映画.com速報)
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monqu1y · 5 years ago
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目次
表現不自由勢力 = 異論封殺派  2019年8月3日午前11時、私は名古屋市東区の愛知芸術文化センタービル10階の愛知県美術館チケット売り場に並んでいた。  この日の名古屋は最高気温34・8度が示すように朝からぐんぐんと温度計の目盛りが上昇。汗がねっとりと首にまとわりつく典型的な熱暑の一日だった。 広い吹き抜けの空間は冷房があまり効いておらず、汗が滲む中、チケット売り場には、2百人近くが並んでいた。  だが、窓口には職員が2人しかいない。緩慢な切符の売り方に、列は時間が経つごとに長くなっていった。窓口の2人も、やがて片方が消え、1人だけの販売になる。あまりのサービス精神の欠如に、私は近くの職員に「この長蛇の列が目に入りませんか? なぜ売り場が一人だけなんですか。おかしいと思いませんか」と言った。  しかし、職員は「申し訳ありません」というだけで何もしない。私は同じフレーズをこの入口だけで別々の職員に3回も言う羽目になる。  しかも、チケットをやっと買って中に入っても「順路」の案内がない。仕方がないので左側に歩を進めたら「順路はあっちです」と職員に注意されてしまった。順路を示す印も出さないまま「順路はあっちです」と平然と言う職員。これほど観覧者をバカにした芸術祭も珍しい。  芸術祭のテーマは「情の時代」である。パンフレットには 〈「情の時代」とは、いかなるものでしょうか。そこではきっと、私たちの習慣的な知覚を揺さぶる視点、例えば、動物の視点、子供の視点、いま・ここから遠く離れた「誰か」の視点などが盛り込まれることでしょう〉 とある。何が言いたいのかよくわからない文章だが、芸術祭にはままあることだ。  私は、まず10階の展示をひとまわりした。この手の作品は、作家の意図が伝わるものと、そうでないものとが明確に分かれる。いったい何を表わしたいのだろう、という作品もあれば、ストレートに心に飛び込んでくるものもあった。ひと通り10階の観覧を終えた私は、いよいよ「表現の不自由展・その後」の会場がある8階に向かった。  同展示は、日本国内の美術館やイベント等で撤去や公開中止になった作品ばかり20点以上を集めた企画である。すでに公開中止になったものを集めて展示するのだから、「あいちトリエンナーレ」にとって当然、覚悟の催しということになる。私も、「いったいどんなものなのか」と興味が湧いた。  8階には長い列ができている場所があり、すぐに「あそこか」とわかった。近づくと職員が「待ち時間は1時間ほどです」と叫んでいる。  すでに百人以上が並んでおり、人々の関心の高さが窺えた。やがて30分ほどで会場の入口が来た。 「展示品の写真撮影は結構です。ただし、SNS(ソーシャルネットワーク)への使用はお断りしています」  観覧にあたっての注意事項をスタッフが一人一人に伝えている。また、そのことを書いた「撮影写真・動画のSNS投稿禁止」という注意書きが入口手前に掲示されていた。どうやら「表現の不自由展」には、観る側も「不自由」が強制されるものらしい。そういう不自由さについて訴えるはずの展示なのに、「自己矛盾」に気づかないところが主催者のレベルを物語っている気がした。
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 入口には、白いカーテンがかかっている。めくって中へ入ると、幅2メートルもない狭い通路に、ぎっしり人がいた。左右の壁に作品が展示されており、それを人々が食い入るように見つめている。  手前の右側には、いきなり、昭和天皇を髑髏(どくろ)が見つめている版画があった。最初から“メッセージ性”全開だ。  反対の左側に目を向けると、こっちは昭和天皇の顏がくり抜かれた作品が壁に掛けられている。背景には大きく✕が描かれ、正装した昭和天皇の顏を損壊した銅版画だ。タイトルは「焼かれるべき絵」。作者による天皇への剥き出しの憎悪がひしひしと伝わってくる。  皆、無言で観ている。声を上げる者は1人もいない。  その先には、モニターがあり、前にはこれまた「無言の人だかり」ができている。  やはり昭和天皇がモチーフだ。昭和天皇の肖像がバーナーで焼かれ、燃え上がっていくシーンが映し出される。奇妙な音楽が流れ、なんとも嫌な思いが湧き上がる。次第に焼かれていく昭和天皇の肖像。すべてが焼かれ、やがて燃え残りが足で踏みつけられる。強烈な映像だ。作者の昭和天皇へのヘイト(憎悪)がストレートに伝わる。よほど昭和天皇に恨みがあるのだろう。これをつくって、作者はエクスタシーでも感じているのだろうか。そんな思いで私は映像を見つめた。思い浮かんだのは「グロテスク」という言葉だった。  画面は切り替わり、若い日本の女性が、母親への手紙を読み上げるシーンとなる。「明日、インパールに従軍看護婦として出立します」「私の身に何が起こっても、お国のために頑張ったと誉めてくださいね」  そんな台詞を彼女は口にする。インパール作戦は、昭和19年3月から始まった補給もないまま2千メートル級のアラカン山脈を踏破する過酷な作戦だ。とても看護婦が同行できるようなものではない。  私自身が拙著『太平洋戦争 最後の証言』シリーズ第二部の「陸軍玉砕編」でこの作戦の生き残りに直接取材し、飢餓に陥って数万の戦死・餓死者を出し、退却の道なき道が“白骨街道”と化した凄まじいありさまをノンフィクションで描いている。おそらくこの映像作品は真実の歴史など“二の次”なのだろう。  やがて、海岸の砂浜���ドラム缶が置かれた場面となり、そのドラム缶が爆発し、宙に舞う。まったく意味不明だ。私の頭には、「自己満足」という言葉も浮かんできた。これをつくり、展示してもらうことで作者は溜飲を下げ、きっと自らの「創造性(?)」を満足させたのだろう。  私が取材させてもらった老兵たち、つまり多くの戦友を失った元兵士たちがどんな思いでこれを観るだろうか、ということが頭に浮かんだ。そして一般の日本人は、これを観て何を感じるだろうか、と。当時の若者は未来の日本を信じ、そのために尊い命を捧げた。私たち後世の人間が、二度とあの惨禍をくり返さない意味でも先人の無念を語り継ぐことは大切だ。少なくとも私はそういう思いで10冊を超える戦争ノンフィクションを書いてきた。  しかし、この作者は違う。そのことを肌で感じる作品だった。  少女像が展示されているのは、この作品群の先である。通路を出て広い空間に出たら、そこにはテントのような作品がまん中に置かれ、左奥に少女像があった。  少女像を人が取り囲んでいる。いきなり、「やめてください」「なぜですか!」そんな怒号が響いてきた。観覧者の一人が少女像の隣の椅子に座り、紙袋をかぶっている。どうやら、その紙袋を少女像にもかぶせようとしたらしい。それを阻止されたようだ。少女像のある床には、〈あなたも作品に参加できます。隣に座ってみてください。手で触れてみてください。一緒に写真も撮ってみてください。平和への意思を広めることを願います〉という作者の呼びかけがあり、それを受けて隣の席に座ろうとする人間もそれなりにいるようだ。  「やめてください」と叫んだ人は、どうやら展示の案内人らしい。観覧している人から質問をされたら答え、抗議されたら、それに応えるためにここにいるようだ。ご苦労なことだ。なかには過激な抗議をする人もいるだろう。いちいちこれに対応するのは大変だ。  少女像と一緒に写真を撮りたい人がいれば、この人はシャッターも押してあげていた。この日、美術館で最も大変な“業務”に就いていた人は間違いなくこの人物である。  怒号はすぐに収まり、何事もなかったかのような空間に戻った。日本人はおとなしい。ひどい作品だと思っても、ほとんどが抗議をするでもなく、無言で観ていた。その代わり、ひっきりなしにカメラやスマホのシャッター音が響いている。  少女像自体は、どうということはない。あのソウルの日本大使館前や、世界中のさまざまな場所に建てられている像だ。その横にはミニチュアサイズの少女像も展示されていた。さらにその左側の壁には、元慰安婦の女性たちの写真も掲げられている。説明書きには〈1992年1月8日、日本軍「慰安婦」問題解決のための水曜デモが、日本大使館で始まった。2011年12月14日、1000回を迎えるにあたり、その崇高な精神と歴史を引き継ぐため、ここに平和の碑を建立する���と書かれている。  英語の解説文には、「Japanese Military Sexual Slavery」(日本軍の性奴隷制)という言葉が書かれていた。「日本軍」の「性奴隷制」の象徴としてこの少女像が存在していることがしっかり記されている。日本の公式見解とは明らかに異なるものであり、これらの説明には二つの点で「虚偽」があった。  まず、慰安婦は「性奴隷」ではない。あの貧困の時代に春を鬻(ひさ)ぐ商売についた女性たちだ。当時の朝鮮の新聞には 〈慰安婦募集 月収三百圓以上 勤務先 後方〇〇部隊慰安所 委細面談〉 などの新聞広告が出ていたように、上等兵の給料およそ十圓の時代にその「30倍以上」の収入を保証されて集まった女性たちである。彼女たちの収入は、当時の軍司令官の給与をはるかに凌駕していた。  恵まれた収入面については、さまざまなエピソードがあるが、ここでは触れない。ともかく慰安所(「P屋」と呼ばれた)には、日本人女性が約4割、朝鮮人女性が約2割、残りは……という具合に、あくまで日本女性たちが中心だった。ちなみに日本女性で慰安婦として名乗り出たり、補償を求めた者は一人もいない。  もちろん喜んで慰安婦になった女性は少ないと思う。貧困の中、さまざまな事情を抱えて、お金のために慰安婦の募集に応じざるを得なかったのだろう。私たち日本人は大いに彼女たちの身の上に同情するし、その幸せ薄かった人生に思いを致し、実際に日本は代々の首相が謝罪し、財団もつくり、その気持ちを談話として伝え、現金支給も行っている。
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 しかし、朝日新聞や韓国は、これを日本軍や日本の官憲が無理やり「強制連行した女性たち」であるという“虚偽の歴史”を創り上げた。韓国は世界中に慰安婦像なるものを建て、性奴隷���弄んだ国民として日本人の名誉を汚し続けている。私たちは、この虚偽を認めるわけにはいかない。  まして「少女が性奴隷になった」などという、さらなる虚構を韓国が主張するなら、それはもう論外だ。そして、目の前の少女像は、その「虚偽」を世界中に流布させることを目的とするものである。日本人は少女像が虚偽の歴史を広めるものであることを知っており、少女像の存在は間違いなく「両国の分断」をより深くするものと言える。  しかし、韓国がどこまでもこの虚構にこだわるなら、もはや両国に「友好」などという概念など、未来永劫生まれるはずはない。  軍需工場などに勤労動員された「女子挺身隊」を慰安婦と混同した朝日新聞の信じられない大誤報から始まった虚構がここまで韓国の人々を誤らせたことに、私は両国の不幸を感じる。それと共に同じ日本のジャーナリズムの人間として朝日新聞のことを本当に腹立たしく、また悔しく思う。  私は、少女像の前に展示されていた作品にも首を傾げた。「時代の肖像―絶滅危惧種 Idiot JAPONICA 円墳―」と題されたその作品はテントのような「かまくら形」の外壁の天頂部に出征兵士に寄せ書きした日の丸を貼りつけ、まわりには憲法9条を守れという新聞記事や靖国神社参拝の批判記事、あるいは安倍政権非難の言葉などをベタベタと貼りつけ、底部には米国の星条旗を敷いた作品だった。  Idiot とは「愚かな」という意味であり、JAPONICAは「日本趣味」とでも訳すべきなのか。いずれにしても「絶滅危惧種」「円墳」という言葉からも、絶滅危惧種たる「愚かな」日本人、あるいは日本趣味の「お墓」を表わすものなのだろう。日の丸の寄せ書きを頂点に貼った上にこのタイトルなので、少なくとも戦死した先人たちを侮蔑する作品と私には感じられた。  どの作品も「反日」という統一テーマで括られた展示だった。会場の壁には「表現の不自由をめぐる年表」も掲げられていたが、「表現の自由」といえば、チャタレー事件に始まり、四畳半襖の下張事件、日活ロマンポルノ事件をはじめ、ポルノやヘアをめぐって当局との激しい闘いの歴史が日本には存在する。  私は、これらが「なぜ無視されているのか」を考えた。つまり、展示はあくまで政治的な主張が目的なのであって、純粋な「表現の自由」をめぐる訴えなどは考慮にないのではないか、と感じたのである。  あいちトリエンナーレは、日本人の税金が10億円も投入され、公の施設で開かれる「公共のイベント」だ。そんな場所で、わざわざ他国が主張する「虚偽の歴史」のアピールをする意味は何だろうか。  それを許す責任者、つまり大村秀章・愛知県知事は余程の「愚か者」か、あるいはその韓国の主張に確固���して「同調する人物」のどちらかなのだろう。  私は、こんな人物が愛知県知事という重責を担っていることに疑問を持つ一人だが、首長を選ぶのは、その地域の人たちの役割なので、私などがとやかく言う話ではない。  私は、試しに韓国や中国へ行って同じことをやってみたらどうだろうか、と想像した。たとえば韓国人の税金が投入された芸術祭で、何代か前の大統領の肖像をバーナーで焼き、その燃え残りを思いっきり踏みつけてみる。そして、その大統領の顔を損壊し、剥落させた銅版画や戦争で死んだ先人を侮蔑する作品を展示してみる。韓国人は果たしてどんな反応を示すだろうか。  また中国へ行って、中国共産党の公金が支出された芸術祭で、同じように毛沢東の肖像をバーナーで燃やしてみる……。どんな事態になるかは容易に想像がつく。作者は、おそらく表現の自由というものは、決して「無制限」なものではなく、一定の「節度」と「常識」というものが必要であることに気づかされるのではないか。イスラム社会で仮にこれをやったら、おそらく命が断たれるだろう。逆に私は「日本はいかに幸せか」をこの展示で感じることができた。  しかし、日本人にとって国民統合の象徴である昭和天皇がここまで貶められるのはどうだろうかと思わざるを得ない。昭和天皇、そして昭和天皇のご家族にとどまらず、自分たち日本人そのものの「心」と「尊厳」が踏みにじられる思いがするのではないだろうか。つまり、これらは、間違いなく日本人全体への憎悪を表現した作品なのである。  もし、これを「芸術だ」と言い張る人には、本物のアーティストたちが怒るのではないか、と私は思った。「あなたは芸術家ではない。偏った思想を持った、ただの活動家だよ」と。  それは昭和天皇を憎悪しない普通の観覧者にとっては、ただ「不快」というほかない作品群だった。少なくとも、多くの日本人の心を踏みにじるこんなものが「アート」であるはずはない。作者が日本人に対するヘイトをぶつけただけの醜悪な展示物だったと私には思えた。  私が会場を去って間もなくの午後5時。同センターで緊急記者会見した大村秀章・愛知県知事は、「テロや脅迫ともとれる抗議があり、安全な運営が危ぶまれる状況だ」と語り、突如、展示中止を発表した。芸術祭事務局に「美術館にガソリン携行缶を持って行く」との脅迫のファクスがあり、安全が保てないことを理由に「中止を決めた」という。開幕からわずか3日。信じがたい展開だった。  それは「あってはならないこと」である。「表現の自由」を標榜して展示をおこなっているなら、どんなことがあっても脅迫や暴力に「負けてはならない」からだ。まして大村氏は愛知県知事だ。愛知県警を大動員してでも、「暴力には決して屈しない」姿勢を毅然と示さなければならない立場である。  一方で私には「ああ、逃げたな」という思いがこみ上げた。あの展示物を見れば、常識のある大人ならこれに税金を投じることの理不尽さを感じ、非難がますます大きくなることはわかる。それを察知した大村知事は、テロの危険性をことさら強調し、自分たちを「被害者の立場」に置いた上で“遁走”したのだろう。  その証拠に4日後、実際にファックスを送った当の脅迫犯が逮捕されても大村知事は展示再開を拒否した。  芸術祭の実行副委員長である名古屋市の河村たかし市長はこの展示を知らず、慌てて観覧した後、「少女像の設置は韓国側の主張を認めたことを意味する。日本の主張とは明らかに違う。やめればすむという問題ではない」と大村知事と激しく対立した。  これに対して大村知事はこう反撃した。「(河村氏の)発言は憲法違反の疑いが極めて濃厚。憲法21条には、”集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する”  “検閲は、これをしてはならない”と書いてある。公権力を持っているからこそ、表現の自由は保障しなければならない。公権力を行使される方が“この内容はいい、悪い”と言うのは、憲法21条のいう検閲と取られても仕方がない。そのことは自覚されたほうがいい」  だが、憲法12条には、「表現の自由」などの憲法上の権利は濫用されてはならないとして、〈常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ〉と記されている。表現の自由をあたかも「無制限」であるかのように思い込んでいる大村知事の認識の甘さは明白だった。  もうひとつの問題点は、報道のあり方だ。産経新聞やフジテレビを除くマスコミは、少女像のことばかりに終始し、昭和天皇の肖像焼却や顔の損壊などのヘイト作品について一切、報じなかった。ただ「表現の自由が圧殺される日本」という報道に終始したのである。  もし、展示中止が妥当なほど作品がひどいものだったら、そもそも自分たちの論理は成り立たなくなる。そのため少女像だけの問題に矮小化し、いかに日本では「表現の自由」が風前の灯であるかという報じ方に徹したのだ。  真実を報じず、自分の論理展開に都合のいいものだけを記事化するのは、日本のマスコミの特徴だ。  8月4日の朝日新聞の天声人語では、 〈75日間公開されるはずだったのに、わずか3日で閉じられたのは残念でならない▽ある時は官憲による検閲や批判、ある時は抗議や脅し。表現の自由はあっけなく後退してしまう。価値観の違いを実感させ、議論を生みだす芸術作品は、私たちがいま何より大切にすべきものではないか〉 と主張し、8月6日付の記事では、 〈表現の不自由展 政治家中止要請 憲法21条違反か 応酬〉〈永田町からも危惧する声「政府万歳しか出せなくなる」〉 と、展示物の詳細は伝えないまま大村知事を全面支援した。 だが、ネットではいち早く作品群の詳細が伝えられ、芸術監督を務めた津田大介氏と企画アドバザーの東浩紀氏が昭和天皇の肖像を焼却する作品が展示されることを笑いながら話す動画など、さまざまな情報が炙り出されていった。  今回も新聞とテレビだけを観る層とネットを観る層との著しい情報量の乖離が明らかになった。いま日本は情報面において完全に「二分」されているのである。  ネットを駆使する人たちはマスコミが隠す情報さえ容易に手に入れることができ、一方では、偏った主義主張を持つメディアにいいように誘導される人たちがいる。そこには、大きな、そして根本的なギャップが存在している。  今回の出来事は、「芸術である」と主張さえすれば何でも通ってしまうのか、極めて偏った政治主張によるヘイト行為もすべて認められるものなのか、という実にシンプルな問題と言える。同時に、韓国への批判は「ヘイト」、日本を貶めるものは「表現の自由」という実に倒錯したマスコミの論理に国民が「ノー」を突きつけたものでもあった。  一部の反日、反皇室、親韓勢力による公的芸術祭の乗っ取りとも言える行為は、こうして途中で頓挫した。そして、日本のマスコミの「あり得ない姿」も露わになった。 今回の出来事を通じて、私たち日本人は日本の“内なる敵”マスコミと、特異な主張を展開する一部政治勢力への「警戒」と「監視」を疎かにしてはならないことを、あらためて学ばせてもらったのである。
「表現の不自由展」の真実を再び 2019年10月08日 門田隆将
 紆余曲折の末、いよいよ「言論の不自由展・その後」が再開された。しかし1日2回に制限し、抽選で1回あたり30人に絞り、しかも鑑賞者は事前にエデュケーション(教育)プログラムなるものを受けなければならず、ガイド付きでの鑑賞になるそうだ。  まるで「鑑賞の不自由展」である。SNSでの拡散も禁止するという。
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 愛知県内で開かれている国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」で、企画展の一つ「表現の不自由展・その後」の中止が決まった8月3日夜、芸術監督を務めるジャーナリスト、津田大介氏が会見を開いた。
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 「想定を超える事態が起こったことを謝罪する。僕の責任であります」と全面的に非を認めた津田氏の会見は当初の30分間の予定を大幅に超過し、1時間以上に及んだ。会見場には、地元名古屋市を拠点とする中日新聞や全国紙、通信社の駐在、テレビ各局、雑誌、フリーランスの記者など、ざっと50人はいただろうか。  津田氏の釈明もさることながら、質問を繰り返す一部の記者の発言内容には違和感を抱かざるを得なかった。
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「(不自由展の中止を求めていた)河村たかし名古屋市長や(文化庁の芸術祭への助成に慎重姿勢を示した)菅義偉官房長官の発言は検閲だと思うか」「電凸(企業や団体などに電話をかけて見解を問いただす行為)をやれば、自分たちの気に入らない展示会などの催しを潰せるという成功体験を与えてしまったのではないか」  当然だが、たとえ気に入らない表現や作品でも、暴力による圧力や脅迫行為が許されることはない。とはいえ、彼らの質問は憲法21条が保障する表現の自由への介入を憂うものばかりで、昭和天皇の肖像を燃やす映像や慰安婦をモチーフにした「少女像」(以下、慰安婦像)のいったい何が「芸術」なのか、それを追及しようとする記者はほぼ皆無だった。  要するに、集まった記者の多くが、「表現の不自由展」を中止に追い込んだ抗議電話の殺到、脅迫行為、河村たかし市長をはじめとする政治家の主張だけをことさら問題視したのである。各社が後日報じ、論じた内容が、そういったトーンになったのは、ある意味必然だったのかもしれない。  放火予告のようなファクスを送り付けた脅迫行為は論外だが、一千件以上も寄せられた抗議電話もそれと同列の「テロ行為」であるかのように論じるのは明らかにおかしい。
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 一般論として、展示会の主催者が外部からの指摘で自主的に催しを中止することはあり得る。むろん、個人が展示内容を自由に論評・批判する権利もある筈だが、  8月6日付 朝日新聞社説《あいち企画展 中止招いた社会の病理》は 「人々が意見をぶつけ合い、社会をより良いものにしていく。その営みを根底で支える『表現の自由』が大きく傷つけられた。…中略…。一連の事態は、社会がまさに『不自由』で息苦しい状態になってきていることを、目に見える形で突きつけた。病理に向き合い、表現の自由を抑圧するような動きには異を唱え続ける。そうすることで同様の事態を繰り返させない力としたい」 旨、主張した。「昭和天皇の肖像を燃やし踏みつける映像や慰安婦像の展示」を批判する意見・抗議の自由を、朝日新聞社は認めない。  言論に対して反論するのでなく法廷闘争で批判封殺をはかる朝日新聞社 らしい主張である。  そもそも、同展で展示された昭和天皇の肖像を燃やす映像やエッチング作品の何が芸術なのか。特定の政治的主張、あるいはプロパガンダに過ぎないのではないか。公金を使って展示することは、公権力がその主張なりプロパガンダに同調することにならないか。  「表現の不自由展」の中止問題を扱ったメディアの多くは、この問いについて論じようとしなかった。特にテレビの多くは昭和天皇の肖像を燃やす映像に触れることすらなかった。国民の多くに強い不快感や屈辱感を抱かせる刺激の強い映像を紹介することが憚られたのか、天皇をめぐる問題としてタブー視したのか。あるいは不自由展を応援したい番組側が、批判が集中するだろう映像を意図的に隠したのか。  活字メディアで中止問題を最も熱心に扱った朝日新聞は、「焦点となっている作品は、慰安婦を表現した少女像や、昭和天皇を含む肖像群が燃える映像作品」(8月6日付第3社会面の特集)などと、たびたび映像について触れてはいる。しかし、芸術作品としての妥当性には踏み込まず、表現の自由の議論に持ち込むだけだ。  こうした議論の建て方は、同芸術祭実行委員会会長の大村秀章愛知県知事や津田氏とも共通する。
10日後、芸術祭アドバイザーの東浩紀氏が辞意を表明した。
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〔東氏のツイート〕  7月末からの休暇が終わり、帰国しました。休暇中に、ぼくが「企画アドバイザー」を務めるあいちトリエンナーレ(以下あいトリ)で、大きな問題が起きました。  このアカウントは、7月の参院選直後に、あいトリの問題とはべつの理由で鍵をかけていたものであり、これからもしばらくは鍵は外しません。しかし、このスレッドについては、転記し紹介していただいて結構です。そのときは、一部を切り取らず全体をご紹介ください。  まずは今回のできごとについて、スタッフのひとりとして、愛知県民の皆さま、出展者の皆さま、関係者の皆さまにご迷惑をかけたことを、心よりお詫びいたします。  ぼくの肩書きは「企画アドバイザー」となっていますが、実行委員会から委嘱された業務は、芸術監督のいわば相談役です。業務は監督個人との面談やメールのやりとりがおもで、キュレイター会議には数回しか出席しておらず、作家の選定にも関わっていません。  けれども、問題となった「表現の不自由展・その後」については、慰安婦像のモデルとなった作品が展示されること、天皇制を主題とした作品が展示されることについて、ともに事前に知らされており、問題の発生を予想できる立場にいました。相談役として役割を果たすことができず、責任を痛感しています。  僕は7月末より国外に出ており、騒動の起点になった展示を見ていません。今後も見る機会はなくなってしまいましたが、そのうえで、展示について所感を述べておきます。以下はあくまでも僕個人の、報道や間接情報に基づく意見であり、事務局や監督の考えを代弁するものではないことにご留意ください。  まずは慰安婦像について。いま日韓はたいへんな��交的困難を抱えています。けれども、そのようないまだからこそ、焦点のひとつである慰安婦像に、政治的意味とはべつに芸術的価値もあると提示することには、成功すれば、国際美術展として大きな意義があったと思います。
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 政治はひとを友と敵に分けるものだといわれます。たしかにそのような側面があります。けれども、人間は政治だけで生きているわけではありません。それを気付かせるのも芸術の役割のひとつです。あいトリがそのような場になる可能性はありました。  ただ、その役割が機能するためには、展示が政治的な扇動にたやすく利用されないように、情報公開や会場設計を含め、もっとていねいな準備と説明が必要だったように思います。その点について、十分な予測ができなかったことを、深く反省しています。  つぎに天皇の肖像を用いた作品について。ぼくは天皇制に反対する立場ではありません。皇室に敬愛の念を抱く多くの人々の感情は、尊重されるべきだと考えます。天皇制と日本文化の分かち難い関係を思えば、ぼく自身がその文化を継承し仕事をしている以上、それを軽々に否定することはできません。  けれども、同時に、「天皇制を批判し否定する人々」の存在を否定し、彼らから表現の場を奪うことも、してはならないと考えます。人々の考えは多様です。できるだけ幅広い多様性を許容できることが、国家の成熟の証です。市民に多様な声の存在に気づいてもらうことは、公共事業の重要な役割です。  しかし、これについても、報道を見るかぎり、その役割を果たすためには、今回の設営はあまりに説明不足であり、皇室を敬愛する多くの人々の感情に対して配慮を欠いていたと感じています。この点についても、役割を果たせなかったことを悔いています。  政治が友と敵を分けるものだとすれば、芸術は友と敵を繋ぐものです。すぐれた作品は、友と敵の対立などどうでもよいものに変えてしまいます。これはどちらがすぐれているということではなく、それが政治と芸術のそれぞれの役割だと考えます。  にもかかわらず、今回の事件においては、芸術こそが友と敵を作り出してしまいました。そしてその対立は、いま、どんどん細かく、深くなっています。それはたいへん心痛む光景であり、また、私たちの社会をますます弱く貧しくするものです。それは、あいトリがもっともしてはならなかったことです。  僕は今回、アドバイザーとして十分な仕事ができませんでした。辞任を検討しましたが、いまは混乱を深めるだけだと考えなおしました。かわりに個人的なけじめとして、今年度の委嘱料辞退の申し出をさせていただきました。今後も微力ながらあいトリの成功に向けて協力させていただければと考えています。  あらためて、このたびは申し訳ありませんでした。力不足を反省しています。そして最後になりましたが、現在拡散されている4月の芸術監督との対談動画において、多くの方々の感情を害する発言を行ってしまったことを、深くお詫びいたします。
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緊急シンポ「表現の不自由展・その後」中止事件を考える  8月22日(木)18時15分開場 18時30分開会(予定) 21時終了  定員:470名 参加費:1000円  会場:文京区民センター3階A会議室
第1部:18:30~19:50 出品していた美術家などが語る「何が展示され何が起きたのか」  安世鴻(写真家)/朝倉優子(マネキンフラッシュモブ)/中垣克久(美術家)/岡村幸宣(丸木美術館学芸員)/武内暁(「九条俳句」市民応援団)/他 第2部:20:00~21:00 会場討論「中止事件をどう考えるのか」  金平茂紀(TVジャーナリスト)/鈴木邦男(元一水会)/森達也(作家・監督)香山リカ(精神科医)/滝田誠一郎(日本ペンクラブ)/他  進行:篠田博之(『創』編集長)/綿井健陽(映像ジャーナリスト)  主催:8・22実行委員会〔『創』編集部/日本ビジュアル・ジャーナリスト協会/OurPlanet-TV/アジアプレス・インターナショナル/メディアフォーラム/表現の自由を市民の���に全国ネットワーク/アジア記者クラブ/他〕
「天皇陛下の味方」を標榜しながら「天皇陛下を冒涜する自由」を啓発するパネリスト
 2019年9月5日夜10時、NHK「クローズアップ現代+」で「『表現の不自由展・その後』中止の波紋」が放映された。  筆者(門田隆将)は、展示中止から1か月以上経ってからの番組なので、ある1点に注目していた。それは、展示作品を番組が「正確に取り上げるかどうか」だった。  というのも、この問題では、展示作品を正確に伝えた「インターネット」と、都合の悪いものは報じず、一部だけを報じた「新聞とテレビ」とに明確に分かれていたからだ。  インターネットだけがこの1か月、展示された作品群の中身をきちんと伝えたが、筆者自身、展示中止になる当日の8月3日、ぎりぎりで観にいくことができた。そしてその作品群の明確なメッセージ性には驚かされたものである。  それは、ひと言でいうなら「反日ヘイト」と「皇室憎悪」だ。国民の税金を使ってこのような展示を愛知県が行うことについて、正直、筆者は首を傾げざるを得なかった。その作品をNHKは1か月を経てどう報じるのか。そのことに注目したのである。  作品がきちんと報じられなければ、いうまでもなく視聴者は正しい判断ができない。「正確に伝えない」ことは報道機関として許されることではない。  だが、結果は、筆者が危惧したとおりの番組になっていた。番組の主張に都合の悪い作品は、一切、報じられなかったのだ。つまり番組は、本来、問題のない「表現の不自由展」が、理不尽な反対や脅迫によって「中止に追い込まれた」ということを懸命に訴える番組構成となっていた。
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 番組で紹介されたのは、ごく一部の作品で、あの展示の性格を表わす肝心の作品群のことは伏せられた。なぜ伏せられたのか。理由は簡単だ。それを報じれば、自分たちの主張の方が「間違いである」ことが白日の下に晒されるからだ。  「ああ、この表現の不自由展の実行委員会には、もともと2001年に大問題となった『問われる戦時性暴力』をつくった曰く��きの元NHKプロデューサーが入っている。番組は最初からそっちの線で描くことに決まっていたんだ」  筆者はそう思った。公平な番組ができるかどうかを期待していた自分が逆に恥ずかしくなった。では、まず実際の展示にはどんな作品があったのか、それを先に説明しておこう。  8月3日昼、白いカーテンをくぐって当該の展示コーナーに足を踏み入れた筆者の目に真っ先に飛び込んできたのは、2メートルほどの狭い通路の両側に展示された昭和天皇に関する作品群だった。  右側には、正装した昭和天皇の肖像を髑髏(どくろ)が睨んでいるもの、左側には昭和天皇の顏の部分を剥落(はくらく)させ、背景には大きく赤で✕が描かれた銅版画が掲げられていた。タイトルは「焼かれるべき絵」。作者による天皇への激しい憎悪が剥き出しにされた作品だった。  その先の右側にあったのが、昭和天皇の肖像がバーナーで焼かれていく映像作品だ。奇妙な音楽が流れ、なんとも嫌な思いが湧き上がるような演出の中、次第に焼かれていく昭和天皇の顏。すべてが焼かれ、やがて燃えかすになると、今度はこれが足で踏みつけられる。人間の尊厳というものをズタズタにする強烈な映像作品である。  よほど作者には昭和天皇への恨みがあるのだろう。これをつくって、作者はエクスタシーでも感じているのだろうか。そんな思いで筆者は映像を見つめた。思い浮かんだのは「グロテスク」という言葉である。  少女像が展示されているのは、昭和天皇へのヘイトを全開にしたこの作品群を通り抜け、右側に広がった空間の一角だった。少女像の手前の広い空間の真ん中には、テントのような作品が置かれていた。  題して「時代の肖像―絶滅危惧種 idiot JAPONICA 円墳―」。かまくら形の外壁の天頂部に出征兵士に寄せ書きをした日の丸を貼りつけ、まわりには憲法九条を守れという新聞記事や靖国神社参拝の批判記事、あるいは安倍政権非難の言葉などがベタベタと貼りつけられ、底部にはアメリカの星条旗を敷いた作品だ。  idiot とは「愚かな」という意味であり、JAPONICAは「日本趣味」とでも訳すべきなのか。いずれにしても「絶滅危惧種」「円墳」という言葉からも、絶滅危惧種たる「愚かな」日本人、あるいは日本趣味の「お墓」を表わすものなのだろう。  日の丸の寄せ書きを頂点に貼った上に、このタイトルがつけられているので、少なくとも戦死した先人たちへの侮辱の作品であることはわかった。筆者は戦争ノンフィクションを10冊以上刊行しており、これまで最前線で戦った多くの元兵士を取材している。今ではほとんどが鬼籍に入られたが、その先人たちを貶める目的の作品であると感じた。  そして少女像。これはどうということはない。あのソウルの日本大使館前や、世界中のさまざまな場所に建てられている像だ。英語の解説文には、「Sexual Slavery」(性奴隷制)という言葉があり、「性奴隷」の象徴としてこの少女像が存在していることがしっかり記されていた。  説明書きを読んでみると〈1992年1月8日、日本軍「慰安婦」問題解決のための水曜デモが、日本大使館で始まった。2011年12月14日、1000回を迎えるにあたり、その崇高な精神と歴史を引き継ぐため、ここに平和の碑を建立する〉と書かれている。  慰安婦のありもしない強制連行を否定する日本側の見解とは明らかに異なる主張を持つものだ。少女像の左側の壁には、元慰安婦の女性たちの写真も掲げられている。筆者には、これらが「反日」という政治的メッセージを訴えるための作品群であることがわかった。  しかし、クローズアップ現代には少女像の作者が登場し、「(これは)反日の象徴として語られていますが、筆者たちは平和の象徴と考えています。(戦争の)悲しみと暗い歴史を語る象徴なのです」というインタビューが放映された。慰安婦であることの明確な説明書きと矛盾しているのに、番組では、それを指摘もしない。  つまり良心的な作家が「平和を祈ってつくった作品が脅迫で圧殺された」という番組にしたかったのだろう。そのためには、昭和天皇や戦争で死んでいった若者たちを損壊、侮蔑する作品群だったことは「報じられない」のである。  この番組の悪質性は、自らの主張に「都合のいい作品だけを取り上げた」という点にあり、この展示の中止を求めた河村たかし名古屋市長には、当然“悪者”というイメージが植えつけられた。  日本では、公の電波を使ってこのような一方的な番組が放映されることを防ぐために放送法4条に以下の条文が定められている。 (1)公安及び善良な風俗を害しないこと (2)政治的に公平であること (3)報道は事実をまげないですること (4)意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること  クローズアップ現代は明確に(2)(3)(4)に違反している。放送中から筆者のもとには「こんな番組が許されるのか」「作品の中身がこれだけネットで明らかにされているのにNHKはまだこんな番組をやっている」という訴えが相次いだ。  実は、日本の新聞やテレビがよくやるこのやり方は「ストローマン手法」と呼ばれる。対象となる出来事、あるいは対象者の発言の一部を切り取ったり、主旨をねじ曲げて報じて自己の主張に添うように記事や番組をつくるものだ。ストローマン(straw man)とは、もともとは藁(わら)で作られた人形(藁人形)を指す英語である。つまり案山子(かかし)だ。都合のいいように事実をねじ曲げて報じるのだから、「倒す」のは簡単なことからついたとされる。  ちなみに、これは欧米の言論界で最も軽蔑されるやり方として忌み嫌われている。
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 実は、産経新聞とフジテレビを除いて、この1か月間、これらの作品群の真実を報じたメディアはほとんど見られなかった。報じたら忽ち「そんな酷い展示だったのか!」と非難が高まり、「表現の自由が圧殺された」という趣旨の記事や番組ができなくなってしまうからである。  クローズアップ現代には日本文学研究者のロバート・キャンベル氏が登場し、こんなコメントをした。「筆者は“エビデンスのない共感”と呼んでいるんですが、自分にとって心地よい考えに出会った時や物の見方をみた時に、それに連動して、リツイートをしたり、コメントしたり、拡散していくということはあるわけですね。その傾向が今、世界中で広がっている中で、今回のケースは、日本の中で極めて特徴的なものとして現われたのかなと思います」  筆者は耳を疑った。このクローズアップ現代こそが、目の前の作品群の真実を封じて少女像だけの問題に矮小化し、“エビデンスのない共感”を大衆に求めたのではなかったのか、と。  筆者は、こういう公平性を欠いたマスコミ報道、特に新聞を取り上げて5月末に『新聞という病』(産経新聞出版)を出版した。3か月余りを経た現在、これが10万部を超すベストセラーになっている。  国民がいかに「事実をねじ曲げる」新聞に怒っているかを痛感した。だが、NHKも同じだ。筆者は「NHKという病」を追及する必要性を痛感している。なぜこんな放送局に税金が投じられ、国民が受信料を払わなければならないのか。国会での徹底追及をお願いしたい。
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リベラル勢力の二重基準  愛知県で開催中の国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展・その後」が中止となった。憲法違反だとか、さまざまな物議を醸したが、そもそも公費を使ってやるようなイベントなのか。その上、昭和天皇の御真影を燃やす映像などはもはや芸術とは呼べない。  作家の竹田恒泰氏は、展示の中止を「憲法違反」や「検閲」と指摘する声に対し、一つ一つ論理的に反論。反日の偏った思想に基づいた作品しか展示されておらず、公平性もないため、実体は「反日展」にすぎないと断じた。  著書が「表現の自由」を逸脱するとして朝日新聞に訴訟を起こされた文藝評論家の小川榮太郎氏は「私の表現の自由は無いのか」と、自身の言論を封殺した勢力の一方的でゆがんだ構図を糾弾する。  産経新聞大阪正論室は実際に展示会場をルポし記者会見も取材。大阪と神戸を舞台にした「御代替わり朝礼」非難報道や幼児図鑑「絶版」騒動とあわせて、平気でダブルスタンダード(二重基準)をふりかざすマスコミの病理をあぶり出す。  「表現の自由」を盾に、昭和天皇の御真影を燃やすなどという非芸術的行為を擁護する勢力は横暴だ。
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 愛知県で開催中の国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」で中止となった企画展「表現の不自由展・その後」について、1週間後の展示再開で、芸術祭実行委と不自由展実行委が合意し、展示中止のポーズを解除した。さらに、開会時の内容を維持し、必要に応じて教育プログラムを実施することや県が来場者に対し、中止になった経緯などを検証した中間報告の内容をあらかじめ伝えることも告げた。  これに伴う批判の殺到を怖れた知事は、ツイッター上で、自身を誹謗中傷するアカウントをブロックする旨、宣言した。
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 ブロックされれば強制的にフォローが解除され、ツイートを読んだりリツイートしたりできなくなる。早速、「見事にブロックされちゃった」と大村知事のブロックを示す画像が次々と投稿された。「誹謗中傷」の基準を質問するだけでブロックされたと主張するユーザーや、愛知県民であるにも関わらずブロックされたという声もあった。  大村知事は、批判的意見・質問をブロックするにとどまらず、韓国軍の蛮行について論ずる自由は無い旨、言い放った。  企画展「表現の不自由展・その後」は、昭和天皇の写真を焼いたような映像や「慰安婦像」として知られる少女像の展示などが批判を浴び、脅迫ファクスが届いたことを口実に企画展を中止していた。大村知事が津田氏と並んでピースする画像をツイッターに投稿し、その後削除したことも話題になった。  不自由展が提起した問題の一つは、文化庁などの助成基準との整合性だ。  「表現の不自由展・その後」では、政治的論争のある慰安婦像や昭和天皇の写真をバナーで燃やした灰を踏みつける動画など、日本国民の感情を害し心理的な傷を与える展示があった。
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 2019年10月8日、「表現の不自由展」再開に抗議する為、名古屋市の河村たかし市長は、同展会場前広場で座り込みを行った。河村氏は芸術祭の実行委員会の会長代行だが、再開についての協議はなかったといい、「(再開決定は)無効だ」と批判している。  河村氏はこの日、約30人の支持者らと抗議活動を実施。座り込みで約10分間、「県は公金の不正使用を認めるな」「知事は名古屋市民の声を聞け」などとシュプレヒコールを上げた。
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 マイクを握った河村氏は、とくに昭和天皇の肖像を燃やすような動画について問題視し、「愛知県や名古屋市が主催しているところで展示すれば、県や市が認めたことになる」と指摘。「表現の自由の名を借り、世論をハイジャックする暴力だ」などと再開に強く抗議した。  会場前の広場には、同展に反対するプラカードを掲げた人たちの姿も見られた。その場に居合わせた名古屋市民は「天皇を公然と侮辱するようなものを芸術と呼べるのか、不自由展ではなく不愉快展、市民として黙っていられない」と憤る。  同日の 大村秀章氏ツイート は、画像の通り
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 検証委は、中間報告で「誤解を招く展示が混乱と被害をもたらした最大の原因は、無理があり、混乱が生じることを予見しながら展示を強行した芸術監督の行為」と津田氏の責任を指摘した。しかし、津田氏は、責任を感じるどころか、文化庁の補助金交付を求める署名活動を支持し、政治的な対立を煽り続けている。  検証委は、大村氏については、「検閲」を禁じた憲法の制約、リスクを軽減するガバナンスの仕組み欠如等を理由に、責任を不問にしているが、陳腐な言い訳で説得力はない。
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 朝日新聞社は、公権力が表現活動を抑圧した旨報道し、さらに「ヘイト行為の一般的なとらえ方に照らしても、少女像はそれに当たらない」という検証委の指摘に賛同している。特定法規が定義する「ヘイト」の概念に該当しないことを論拠にしているが、これは、日本人を食い物にする発想方法である。  2015年に、朝日新聞社は、①故吉田清治氏の慰安婦に関する証言の誤報取り消しが遅きに失したこと、②吉田調書報道の取り消し、③池上彰氏の連載掲載見合わせ をおわびする旨、自ら 発表した が、そのことを忘れてしまったのだろうか?  この展示がもたらしたハラスメントは、多くの人に国民としての自尊心を過度に傷つけられただけでない。自分たちが納めた税金を利用して行われたことによって、さらに傷ついている。  しかもこの展示は、芸術監督���自発的な意図として成立した、むしろ積極的で公的なハラスメントともいえるものだ。日本国民の被害感情を軽視する人々が、メディアや文化人界隈に少なからずいることに驚かざるを得ない。  因みに、「展示スペースの大きさや実際の展示費用などを計算しカットした補助金を交付すべき」旨、補助金ルール無理解な三浦瑠麗氏が述べている。
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表現の不自由展 きょう午後再開 警備強化 金属探知機も  2019年10月8日  愛知県で開かれている国際芸術祭で、テロ予告や脅迫ともとれる電話などが相次いだため中止された「表現の不自由」をテーマにしたコーナーについて、愛知県の大村知事は、警備を強化したうえで1回当たり30人を上限としたガイドツアー形式で、8日午後から再開すると発表しました。  8月1日から愛知県で開かれている国際芸術祭「あいちトリエンナーレ」では、「表現の不自由」をテーマに、慰安婦問題を象徴する少女像などを展示するコーナーが設けられましたが、テロ予告や脅迫ともとれる電話などが相次ぎ、開幕から3日で中止されました。  愛知県は、中止前の状態と展示の一貫性を保ちつつ、安全対策などを講じて再開することを目指してきましたが、展示の在り方などをめぐって協議が難航してきました。
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 芸術祭の実行委員会の会長を務める愛知県の大村知事は7日夜、記者会見し、コーナーを8日午後から再開すると発表しました。  具体的には、 ▽抗議の電話の専用回線を設け、会場の警備を強化するといった安全対策を講じ、 ▽事前に抽選をして作品の解説を行う教育プログラムを受けてもらったうえで、 ▽1回当たり30人を上限としたガイドツアー形式で再開するということです。  さらに、 ▽鑑賞の前には手荷物を預かり、金属探知機でのチェックを行うほか、 ▽動画の撮影も禁止するということです。  芸術祭では、中止に抗議して作品の展示を辞退するなどしていた国内外の作家たちの作品も8日からすべて展示されるということで、大村知事は「円満な形で日本最大級の国際芸術祭の完成を目指したい」と述べました。  8月1日から愛知県で開かれている国際芸術祭「あいちトリエンナーレ」では、「表現の不自由」をテーマに、慰安婦問題を象徴する少女像などを展示するコーナーが設けられましたが、テロ予告や脅迫ともとれる電話などが相次ぎ、開幕から3日で中止されました。
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 愛知県は、中止前の状態と展示の一貫性を保ちつつ、安全対策などを講じて再開することを目指してきましたが、展示の在り方などをめぐって協議が難航してきました。  芸術祭の実行委員会の会長を務める愛知県の大村知事は7日夜、記者会見し、コーナーを8日午後から再開すると発表しました。  具体的には、 ▽抗議の電話の専用回線を設け、会場の警備を強化するといった安全対策を講じ、 ▽事前に抽選をして作品の解説を行う教育プログラムを受けてもらったうえで、 ▽1回当たり30人を上限としたガイドツアー形式で再開するということです。  さらに、 ▽鑑賞の前には手荷物を預かり、金属探知機でのチェックを行うほか、 ▽動画の撮影も禁止するということです。  芸術祭では、中止に抗議して作品の展示を辞退するなどしていた国内外の作家たちの作品も8日からすべて展示されるということで、大村知事は「円満な形で日本最大級の国際芸術祭の完成を目指したい」と述べました。
・「 表現の不自由展 」は安全地帯での覚悟なき玩弄。表現の自由は侵されず。 ・米国でも「表現」で一大騒動。NY市長助成金カットと立ち退き要求。 ・中国、韓国はもちろん、米国でも「表現」によっては日本より遥かに厳しい。
 2019年10月14日、 国際芸術祭「あいちトリエンナーレ」 の 「表現の不自由展・その後」 が、突然の中止、「不自由な」限定再開を経て、会期終了と共に閉幕した。  主流メディアの多くは、最も問題視された、昭和天皇の写真を焼き文字通り踏みにじる映像については触れず、もっぱら慰安婦少女像が不寛容な勢力に攻撃されたかの如き「表現の不自由」を体現したような報道を続けた。
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 主催者である 大村秀章愛知県知事 と 津田大介芸術監督 の責任について、「企画アドバイザー」だった 東浩紀氏 が、当事者として的確に指摘している。   「『表現の自由』vs『検閲とテロ』という構図は、津田さんと大村知事が作り出した偽の問題だと考えています。…今回『表現の不自由展』が展示中止に追い込まれた中心的な理由は、…天皇作品に向けられた一般市民の広範な抗議の声にあります。津田さんはここに真摯に向かい合っていません」
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  今回、表現の自由は、常識的意味において、何ら侵されていない。 せいぜい、税金の補助を受ける対象から排除されただけである。問題となった一連の「作品」群は、破壊も没収もされておらず、民間の場に移せばいくらでも再展示できる。写真や動画のネット拡散により、むしろ当事者の予想以上に多くの人が「表現」の実態に接した。  これが中国で、毛沢東の写真を焼く映像を展示したのだとしたら、関係者は既にすべて獄中、ネット拡散した者も国家安全部に拘束され拷問という展開になっていただろう。  あるいは韓国で、慰安婦の写真を焼いて踏みにじるパフォーマンスをしたなら、やはり関係者は、元慰安婦が共同生活を送る「ナヌムの家」で土下座謝罪の上、何らかの罪状を付けられ服役となったろう。   「テロ脅迫」に責任転嫁を図った大村、津田両氏の行為は、日本という安全地帯における、覚悟を欠いた「表現」の玩弄に過ぎなかった。
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 政治性と宗教性という点で違いはあるが、 アメリカでも1999年、「センセーション」と題したブルックリン美術館の特別展示が一大騒動を巻き起こした。
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 問題の作品はイギリスの黒人画家 クリス・オフィリ(Chris Ofili) の 「聖処女マリア」 で、デフォルメされた黒人女性の乳房のコラージュ(貼付)部分と台座に象の糞が使われていた。また画面に多数飛ぶ蝶のような物体が、近づいて見ると、突き出した女性のヒップの写真であった。  経緯は後述するが、同作品は現在 ニューヨーク近代美術館(MoMA) に収蔵されており、「MoMA, Ofili, Mary」で検索すると同美術館の説明入りで 画像 が見られる。  「センセーション」展を開催したブルックリン美術館は、ニューヨーク市の財政補助を受け、市所有の建物に入居している。 当時のルドルフ・ジュリアーニ市長(現在トランプ大統領の私的法律顧問)は、「嫌悪すべき企画に表現の自由は適用されない」と、作品を撤去しなければ助成金を打ち切り、美術館自体の建物からの立ち退きも求めるとの姿勢を打ち出す。  事態は法廷で争われるに至ったが、特別展示終了で作品が建物外に搬出されたこともあり、結局、市側は美術館に対する立ち退き要求を取り下げた。
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 その後この作品は、460万ドル(約5億円)である富豪が落札し、昨年(2018年)ニューヨーク近代美術館に寄贈された。ところがその際は騒動とならなかった。
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最大の理由は、 同美術館はロックフェラー財団など民間資金で運営されており、税金が入っていないこと にある。  日本でも同様、個人美術館や朝日新聞あたりが「表現の不自由展」を引き取り、自らの費用と責任で展示する覚悟を示せばよいのである。  またオフィリの作品には、題名以外に聖母マリアを思わせる要素は乏しく、構図や色彩にアートとしての面白さを感じる人々が少なくない。象の糞も彼が好んで使う画材で特に冒涜の意図はなかったとされる。  もっともアメリカでも、例えばマーティン・ルーサー・キングの写真を焼いて踏みにじる映像を展示したなら、主催者は囂々たる非難と資金引き上げ、訴訟に見舞われるだろう。その点は、日本より遙かに厳しいはずだ。
島田洋一 (福井県立大学教授)
ご批判、ご指摘を歓迎します。 掲示板 に  新規投稿  してくだされば幸いです。言論封殺勢力に抗する決意新たに!
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tmk527 · 5 years ago
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明治神宮鎮座百年祭奉祝 夜間特別参拝 ひっそりと行われてるイメージだったけど、意外に人が来てた。 カメラを持っていなかったのでiPhoneでのミラーボーラー、限界です笑 境内広すぎて半分しか見られなかったけど、岐阜の美濃和紙あかりアート展や、名和晃平さんの��、あと意外にも菊花展が良かった。 名和さんは「神宮の杜芸術祝祭」の出品で三沢厚彦さんの作品もあったそう。見たかったなー。 名和さんはそのあと行ったGYREでの個展もよかった。本物見たのは初めて。 境内の参道にはやっぱりカメヤマのキャンドルホルダーが並んでいたんだけど、最近は赤や青のカップもあるのね。しかもちゃんとフローティングにして使われていて、あそこのあの広さで設置して点けて消して撤去しては大変ですよね!!わかる!!と思わずそのご苦労(であろう)に共感しまったのでした笑。 (明治神宮 (Meiji Jingu)) https://www.instagram.com/p/CHE8ARQlLfY/?igshid=askt56e0l62z
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461space · 5 years ago
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以下、 @yura_bonyari さんの投稿より引用↓ 作品展示販売会、『夕陽灯路』を行うことになりまた。 作品は美濃和紙や柿渋、鉄素材を使用した計20点。前回、同時代ギャラリーにて行った個展作品に改良と2種の新作を加えました。 場所は京都市営地下鉄「四条」駅・阪急「烏丸」駅より徒歩7分、スパゲッティとケーキの美味しいお店です。 コロナウィルスの影響により外出を控えられている最中とは存じますが、消毒・換気を心掛け感染予防に勤めた展示といたします。 お近くにお住まいの方、セカンドハウス東洞院をご存じの方、興味関心を持ってくださった方。お時間にゆとりがありましたら是非見にいらしてください。 日:2020年8月8日(土) 〜8月10日(月) 時:13:00〜20:00(最終日は15時まで) 所:SECOND HOUSE東洞院 (〒604-8147 京都市中京区東洞院通六角下ル御射山町283) ※アクセス:京都市営地下鉄「四条」駅・阪急「烏丸」駅より徒歩7分 http://www.secondhouse.co.jp/s_h/sec7_menu.html #夕陽 #あかり #ゆら #照明 #SECONDHOUSE東洞院 #布施美子貴 #和紙照明 #美濃和紙 #art #design #illustration #drawings #painting #animation #fashion #music #interiordesign #graphicdesign #アート #デザイン #スローライフ #町屋カフェ #照明 #ライトアップ #ファッション #ミュージック #インテリア #美容 #雑貨 (セカンドハウス東洞院店) https://www.instagram.com/p/CDlz904BNRJ/?igshid=6s2bd521l5l2
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oniwastagram · 5 years ago
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📸旧今井家住宅・美濃史料館 Former Imai Residence (Mino History Museum), Mino, Gifu の写真・記事を更新しました。 ーー金森長近が築いた城下町であり国の #重伝建地区 “うだつの上がる町並み”に残る商家の庭園。美濃市指定文化財。 . 🔗おにわさん紹介記事: https://oniwa.garden/shorenin-temple-garden-%e9%9d%92%e8%93%ae%e9%99%a2%e5%ba%ad%e5%9c%92%ef%bc%88%e9%9d%92%e8%93%ae%e9%99%a2%e9%96%80%e8%b7%a1%ef%bc%89/ ・・・・・・・・ 旧今井家住宅は“うだつの上がる町並み”として知られる国の #重要伝統的建造物群保存地区 美濃市美濃町にある江戸時代中期に建てられた美濃最大規模の商家で、「美濃史料館」として公開されています。 . 2019年夏に美濃市美濃町に初めて行きました! #重伝建 巡りも70数箇所目。美濃は戦国時代にかけて飛騨国を統一した武将/大名 #金森長近 の築いた城下町。 江戸時代には商業都市として栄え、中でも奈良時代からの歴史を持つ“美濃和紙”の産地として有名📜 ちなみに金森長近の孫が、後に茶人🍵として名を馳せ作庭家でもあった金森宗和。 . 今井家は元は和紙問屋で、江戸時代~昭和初期まで庄屋を、戦前には町の諸役をつとめていた家柄。敷地内には土蔵も3棟残り、現在は史料館やギャラリーなどで用いられています。 . 奥座敷から中庭(庭園)が眺められます。縦に長い京町家のような庭園。中庭の水琴窟💧は環境省による #日本の音風景100選 にも選定されているそう。 . この旧今井家と「美濃和紙あかりアート館」と「美濃和紙の里会館」で3館セット入場券も。またこのうだつの町並みでは例年『美濃和紙あかりアート展』という、ライトアップ🔦された美濃和紙で夜の重伝建を鑑賞するイベントも開催。 それ以外にも歴史的建造物やそれを活用した宿泊施設もありますので、観光の穴場を探している方にオススメしたい街! ーーーーーーーー #japanesegarden #japanesegardens #jardinjaponais #japanischergarten #jardinjapones #jardimjapones #японскийсад #landscapedesign #gardenstagram #japanesearchitecture #japanarchitecture ‪#庭園 #日本庭園 #美濃 #美濃市 #mino #岐阜 #gifu #町家 #枯山水 #karesansui #文化財 #おにわさん #oniwasan (旧今井家住宅) https://www.instagram.com/p/CB2d9hSpWd6/?igshid=i4dkjw98ttux
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closereadingsy-blog · 5 years ago
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アーティストQ&A
サムソン・ヤン:クロース・リーディング展を読み解くアーティストの言葉
キュレーター(以下Q):まず初めの二つの質問は、音とアートについてです。
サムソン・ヤン(以下A):それぞれで本が一冊かけそうです。
Q:数百ページくらいの!それぞれ一言ずつお願いします。
A:一般に音について話すとき、いつもそれは何か他のものと比べて考えられています。音対ノイズであったり、音対音楽、音対映像といったように。このことは、音というものが何か他のもの、でないものとしてしか考えられないことを示しているようです。私にとってはこういった対立は必ずしも正しいものではありません。とは言うものの、私は音を、ごくわずかでささやかな聴覚の経験、最も小さいあるいは最も密度の濃いレベルの経験であると考える傾向があります。
文章を話すとき、発せられる音声(発話)があり、そして建設と構築があります。発話を一つの文に構造化しようとし、文はその思考を伝達します。例えば、一本の鉛筆を落として一つの音をたてたとします。その音はほんの一瞬のものです。もし私が鉛筆を二度落とそうしたなら、それはパターンを生み出します。そしてそのパターンは、「鉛筆を二度落とすという意図」や「鉛筆を二度も落としてしまう注意力が足りていない私」といった他のことを伝えます。たった一つの特異な経験であった場合、その印象深さはより分かりやすいものとなります。しかし発話に対する思考を広げ、たった一つの文へ適応することでとり消そうとすることはまさに反対のことです。今朝の今この時、声の高低差といったことから私がどれだけ落ち着いているか、そうでないかを感じるために文を音の形として聞くことができます。つまり、私たちは、意味論的意味を伝達する文をただの音の形として捉えることが可能なのです。
これは聴覚のいつもの知覚経路をショートさせて、聴覚がどのように心のなかに意味を生み出すか、ということです。
Q:音とアートはあなたの作品において、関係があるものなのでしょうか。それともそうではない?
A:私がアートについて考える時、何か具体的な表現媒体について考えることは滅多にありません。媒体が専門的になる前の、人間の活動について言っています。それはもちろんもっと複雑なものですが。音というものはアートと同じではないけれど、アートに属するものです。アートはこの世界を包み込むほど大きいものであり、私がしていることや、誰か他の人がしていることに限定されるものではありません。
Q:3つめの質問はcomposing(作曲する、組み立てること)についてです。
A:私の目の前にあるこの机の上には、ものがそれぞれの要素として「構成された(composed)」状態できちんと置かれています。これらの要素は、特定の形状をなしています。ードローイングを描いているとまでは考えていませんがー私の好きなように並べられたこれらのものの構成には、リズムがあり、個々のものたちはお互いに対話をしている状態にあります。(鉛筆ケースを指して)これとこれはお互いに作用し合っています。(本とスケッチブックを指して)これらの二つはある意味無頓着に置かれていますが、お互いに一種の作用を与えあっています。(スタンプセットを指して)彼らがこちら側に置かれていることには「機能上の」理由がありますが、機能上の理由があるとしても、これららはなお、全体の作用の関係のなかにおかれている状態です。だから、構成する(composing)ということは私にとって、そういった意識的、無意識的、美的そして機能的なプロセスであり、同時に起こっています。
 それらが現れたとき、文字通り彼らが「机の上に現れた」とき、それらをどのように置いたら良いのかわかるでしょう。机は土台となる枠であり、これら全ての異なる要素が会話の状態に入っているのです。それぞれのものたちは、その枠の中に様々なタイミングで、様々な理由によって入ってきます。私にとって作曲すること(composing)はそういったの全てのものが机の上にある状態のように、意味をなそうとする行為です。
私は音楽を作曲(compose music) します。しかしまた、ある空間に対して展覧会を制作するとき、言葉を組み立てるということ(word composing)もします。そしてどのようにその空間にものが共存するのかを考えます。コンサートホールで演奏される20分の楽曲はある特別なひとつの枠です。そして展覧会というものは単にまた別の枠であるのです。しかし、この枠というものは白紙の状��ではありません。このお寺(両足院)にはその形のうちにすでに何かしらあらかじめ存在しているものがあります。そしてギャラリーや美術館の展示室も、また別のものがあらかじめその形に備わっています。
Q:4つめの質問は空間についてです。空間と時間というようなことです。
A:それは私がどのように空間と時間を扱っているか、ということですか?
Q:わたしたちアートに関わる者にとって、空間と時間についての問題とは、人間あるいは小さなものとして存在することへの哲学的アプローチに関することです。あなたがアート作品を制作する際に空間と時間について、どのように考えていますか?
そして最後の質問は「クロース・リーディング」についてです。両足院での滞在についてどのように感じていますか?また展覧会はどのようなものになるでしょうか?
A:まだわかりません。展覧会がどのようなものになるかということですか?それとも今どのような感じかということでしょうか?
Q:実物としての作品を制作する前に、あなたの頭のなかでは「組み立てる(composing)」モードにあるのか、ということです。
A:なるほど、いいえ。全てのものが目の前に揃うその瞬間まで、完成した、と思うことはありません。ここ(両足院)での、私のプロセスについて話しましょう。私はここにいる間、ただただいろいろなものの断片を収集していました。しかしそれはなかなか複雑です。収集するという行為の裏にはいつも、自分がなにを収集するかに制限をかけるような指向があります。実際、ある瞬間が訪れるまで、私はそういった指向性から逃れられなかったのかもしれません。別の言い方をすれば、私はどのようにして先入観を取り払うのかわかりません。ものが目の前に現れるまでは知りようがないのです。どういうことかわかるでしょうか。私は収集をしています。そして自分自身に驚くことがあります。例えば、サールナート(ブッダが初めて説法を行なった地)を訪れたときに私は金箔が貼られたレンガの壁を見ました。そしてそのレンガの壁のイメージが頭から離れませんでした。そのことが、この場所で粘土を使ったレンガ状のものを制作しよう、という決断に至らせたのです。
しかし後日、私はこれらの粘土ででてきたレンガ状のものたちを、土嚢のように考えていることに気づいたのです。軍隊が用いるような土嚢です。「ああ、今はレンガの壁と言うより、土嚢の壁に見える」と思いました。その過程にはっとし、驚いたときに、自分の持っていた先入観が正しくなかったことに気づきます。しかし先入観と戦い続けたとしても、先入観からのがれられるわけではないのです。私は先入観を空間を扱うのと同じように扱います。それはもちろん、制限ともなりえるのですが。あなたがいっていることを私は理解していると思います。
あなたはピアノを弾いたことがありますよね。音階を練習するのは楽しいですか?
Q:聴くことと弾くことを同時に楽しんでいました。単に曲を弾くだけということではなく、曲を聴いて、味わい、この曲を作ったとき、作曲家がどのようなことを感じていたかを考えることに喜びを感じました。
それは…単に楽器を弾くと言うのではなくて、空間と時間の中で生み出したものを鑑賞するようなことです。つまりすべては、空間と時間に関して考えることであり、生きることについてやアートを創造することについても考えることなのです。
自分の存在と、そこに共存する美の間に調和を感じることは、一種の芸術体験であると言えると思います。私にとっては、美しいアート作品を鑑賞する行為や美しい自然の中にいること、例えば明け方や夕暮れ時に森の中にいること、それらは同じなのです。森自体が美しいからという理由ではないかもしれません。空気と音、光や闇そして土といったものによるものです。
五感は全てを感じていて、音楽、ピアノを味わうのと同じことだと思います。でももしどのように演奏すればいいかに集中しすぎると、それは苦しいのではないでしょうか。しかし突然に、喜びを感じる瞬間が訪れるのだとおもいます。あなたがどれだけ厳しい練習を積んできたのか想像がつきませんが。
A:でも、あなたは音階の練習に喜びを感じることはないですか?
Q:あなたにとってはどうですか?
A:音階が好きです。私は創造的な制約が好きなのです。そう思うのは、おそらく今の段階においてだけであろうことは確かです。ーいや、確かとはいえませんが、自分の人生における別の段階で、何か違うことが経験できることを願っています。
私はサンドボックス(砂場)をもっていて、その中でつくることができるものに集中することが好きです。
Q:これはまったく理にかなっていないかもしれないのですが、あなたと同じ空間にいると、例えば20人の参加者と一緒にあのワークショップの場にいたとき、言語やそれぞれが属する国の違いによる制約が感じられませんでした。ただ、制約のなさ、境界を感じる場合と同じようにその美しさを感じます。
一方で、新聞やテレビのニュースを通して今何が起きているのか見れば、それは戦争のことであったり、選挙のことであったり、誰が勝って誰が負けたかという話題ばかりです。創造の世界に身を置いていると、生きていて、ともにわかちあい、喜びのある自然な世界を感じます。それは私たち皆が必要とするものです。私たちは皆、幸せや平穏を求めているはずですが、なぜ人々は苦しまなければならないのでしょうか。芸術は生きるために苦しむ必要があるもしれず、もしかしたら貧しいのかもしれません。しかし裕福な人もいます。苦しんでいる人もいます。
どのようにして苦しみを乗り越えるか、私が芸術世界のなかで生きるということを選択したのは、幸せを見つけ出すためでした。今現在生きているアーティストと一緒にいることは人生において素晴らしいと感じることの一つです。あなたが音楽を演奏するときに喜びを感じるのと同じように。
あなたは、幸せ、美しさというものにおける自身の価値を人と分かち合っているのだと思います。常に「私は幸せを分かち合っているのだ」と思っている必要はないかもしれませんが、あなたはそのことを自然におこなっているよう��す。私はそれを美しい、と思いこの展覧会はあなたの美に対する価値を分かち合う機会になるのではないか、と考えています。これは考えすぎでしょうか?
A:そこまで大きなことを考えてはいません。制作しているとき、大半の時間は「これは私が作ったもの、これはその過程で考えたこと」といった感じです。それはスープ、であり「これが私の頭の中で起こった全てのことです」といった感じです。
Q:私が初めてみたあなたの作品は「音を消した状態」でした。
A:「音を消したオーケストラ」ですね。
Q:個人として対面したとき、わたしはあなたの作品に対するのと同じ感覚をあなたに対して抱きました。あなたはとても誠実で、文化がもつ価値を尊重します。そしてあなたの作品はそれを体験させてくれます。多くの人が、あなたに個人として直接会うということはできないかもしれませんが、作品を通して知ることができると思います。
A:ありがとうございます。でもそれらのことがどのように効果をもたらしているかは実際わかりません。世界にむけて「不快な音楽を解き放つこと」をして、その音楽が苦しみや混乱を巻き起こすということがあるのでしょうか。自分がそう信じているのかはわかりません。アートが人々に何らかの影響をもたらしていると「信じて」いないわけではありませんが。アートはもちろん人々に影響をもたらしています。ものごとを認識する際に、人は問題となっているそのものごとの一部となり、それらとお互いに作用しあいます。だから、当然のことながら、(壁に立てかけられた畳を押して)私がこれを押しているときとおなじように、ものごとは何らかの影響をあなたに与えています。同時にわたしは畳自体に影響を及ぼしています。しかしながらこれはとても特殊な関係性です。心理的な関係性や精神的、感情的な関係性もあるでしょう。
倫理的なことを、言い換えるならよりよく生きるにはどうしたら良いかまたはその逆のことを、そういった関係性から直接学ぶことが可能なのか私には確信が持てません。これが、まず第一に私にとってわからないことです。第二にわからないのは、もしアートというものが、作り手や見る人に対して生きている実感をもたらす、というとても特殊なことを成すものだとしたらー私はそう信じているのですがーなぜ私たちは混乱や不快感を避けようとするのか、ということです。アートは人に活力をあたえ元気付けることができますが、同時に、人を混乱ささせかき乱すことも等しく可能です。そしてそれらの状態は全て、私に生きている実感を与えます。アート自体がどのように判断を下すのかわかりません。私たちはもしかすると日常生活の中で苦しみとみなされるであろう混乱や、ネガティブな感情から逃れたいのかもしれません。しかしアートがそうさせたいのかはわかりません。アートはそうしてくれませんが、より生きていると感じることは、味わった感情がいかなるものであれ、瞬間的に苦しみから救ってくれるのだろうと思います。
私がこの前あなたに送った、とてもカオスなスラヴォイ・ジジェクの仏教についてのポッドキャスト*をすでに聴いたかはわかりませんが、彼は仏教と苦しみについて話していました。彼が仏教について理解できていないこととして苦しみから逃れたいという願望をあげていました。彼が引き出していたのはごく日常的な例です。あなたがすでに乗り越えた、けれど当時は苦しい思いをした恋愛について考えみてください。もし相手を本当に愛していたのであれば、その愛が真実のものであったなら、そのときにいかに苦しんで傷ついたとしても、再び誰かを愛してしまうでしょう。もちろんそれは、痛みや苦しみを繰り返すことですが、それが教えてくれることは何かあるはずです。共感するということです。私が一番好きな作家の1人であるアイリス・マードックはかつてこう書いていました。
アートが教えてくれる、もっとも価値のあることの一つは、何かを創造する経験によって他人への共感をしやすくしてくれることである。なぜなら、創造する行為一つ一つの背後には自分が持っているのとは異なるそれ特有の意識があり、その意識をもつものにとっての苦しみは創造するという行為のなかでこそ知ることができるのだから。
「音を消した状態」シリーズはひとつの意図のもと作られた唯一の作品かもしれません。そのほかの私の作品はすべて、もっと「スープのような」ものになることが多いです。これは自分でもいまだに解明しようとしていることです。
Q:ここまではインタビューのための質問でしたが、あとひとつ、スピンオフとして、この2週間の滞在中、バッハとヴィトゲンシュタインについて言及することが何度かあったかと思います。このお寺にいることと仏教寺院のなかでバッハを感じることがどのようなことであったか、教えてください。
A:ここでの滞在中、自分自身と言語との関係を学び直そうとしているように思います。
言語をとおして、実際どれくらい思考を伝えることができるのか、自分が言っていることは自分の心とつながっているのか、そういった問いです。ヴィトゲンシュタインの「Project」についても考えていました。彼はProject全体で我々は昔からある哲学と生きていると言っています。私たちが哲学に固執していることは未来を見据えてのことなのだとしたら、ヴィトゲンシュタインは今やそれは必要ないと言っていて、禅仏教は、私たちがそれを必要としたことはなかったと伝えようとしているのだと思います。
今の時点で、結論はだせません。今も考えています。ユダヤ教とキリスト教の教えは私たちが自分自身でそれをすることができないと理解させてくれます。それはわたしたちは脆いのだ、と言っているのです。自分が脆い存在であることはわたしにとって理解しやすいことですが、このお寺でまさに今経験していること全てと浅いながらも私の禅仏教の知識との関わりにおいて考えてきたことは、この世界においてほかのものとともに存在するのにより良い考え方であるかもしれません。しかしここで言う世界は私を必要としていません。私は「自分」でいることを諦めることができるのかわかりません。自分でいることが本当に楽しいのです。
注*:
The Buddhist Ethic and the Spirit of Global Capitalism (2012)
https://podcasts.google.com/?feed=aHR0cDovL3ppemVrcG9kY2FzdC5jb20vY2F0ZWdvcnkveml6ZWsvZmVlZC8&episode=aHR0cDovL3ppemVrcG9kY2FzdC5jb20vP3A9MTIz
サムソン・ヤン
2013年にプリンストン大学にて作曲の博士号を取得。多角的な表現を行うアーティスト/作曲家。2017年、第57回ベネチアビエンナーレに香港代表として参加したほか、近年はパフォーマ19(ニューヨーク/2019年)タルボット・ライス・ギャラリー(エジンバラ/2019)、スマート美術館(シカゴ/2019)などで展示を行う。2019年アルス・エレクトロニカ賞優秀賞(サウンドアート、デジタルミュージック部門)、2015年BMW アート・ジャーニー・アワード、2013年香港芸術発展局 年間最優秀作家賞(メディア・アート部門)他受賞多数。
今後の展覧会の予定:アジア協会香港センター、CHAT(香港)、 Xcentric, CCCB, (バルセロナ)、森美術館(東京)、Kunstmuseum Bonn(ドイツ)、Monash University Museum of Art(メルボルン)
RYOSOKUアートプログラム「瞑想回廊 」#1 サムソン・ヤン(楊嘉輝)「クロース・リーディング」展
期間:2020年3月7日(土)ー4月5日(日) 休館:火・水・木曜日、3月20日 時間:午前11時から午後3時(最終入館午後2時半) 場所:建仁寺塔頭両足院(京都市東山区大和大路四条下る4丁目小松町591) 鑑賞料:大人2,000円、学生1,000円(拝観料込) 事前予約専用ウェブサイト:reserva.be/ryosoku2020closereading
主催:RYOSOKU 企画・制作:TOMORROW 協力:Galerie Gisela Capitain RYOSOKU事務局 e-mail:[email protected] URL : ryosokuin.com/ryosoku/ キュレーター:徳田佳世(TOMORROW) 制作:橋詰隼弥、高橋あかね(TOMORROW)
翻訳:高橋あかね、校正:池上カノ
設営協力:スーパーファクトリー、ADF・アヤベ 写真:表恒匡
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yurars · 8 years ago
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草間彌生 My Soul Forever 2017年6月10日(土)〜10月29日(日) フォーエバー現代美術館 祇園京都 フォーエバー現代美術館の「和の空間+現代アート(草間彌生)」の組み合わせが気になっていたので、台風の影響で大雨の真っ只中。70分並んで待った大盛況の国宝展の後、お気に入りのカフェ「きなな」で一服して、見にいきました。 会場である、祇園の歌舞練場ってどこだったかな?と思ったら、祇園のメイン通りの突き当たり建仁寺入口の左手のところなんですね。気軽にアートに触れられるいい場所です。 この草間彌生展は8〜9割がシルクスクリーン作品。ラメ使いがすごい。職人さんすごい。摺り(刷り?)のクオリティがすごい。大粒のラメをこんなに高価に魅力的に魅せるとは。同じ版でカラーを変えるのはお馴染みの手法ですが、壁が群青や臙脂の空間でカラーバリエーションがキラキラ並ぶ様が、なかなかエキセントリックでした。草間彌生のポップっぷりは最強ですね。たのしかった。高級そうな和紙(美濃かな?かなり厚口に見えた)に刷られた作品も見応えありました。 ※画像は公式サイトよりクリップ。一部、個人で撮影。
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http://www.fmoca.jp/display/index.html
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