#釈迦如来の御真言
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釈迦如来の御真言
こんにちは。
皆さんの中に、釈迦如来の御真言を覚えてみたい方はおりませんか?
自分は、そのご利益にあやかりたいので、
簡単に覚える方法はないか悩んでいました。
そんな時,
AmazonのAndroidアプリを見ていたら、「釈迦如来の御真言」というアプリを発見しました。
なので、
そのプレビューを右から左へゆっくり見てみたら、
「なるほど」と思いました。
なので、
その仕様を見てみると、
機能:御真言を細かく区切って表示する
利点:自分のペースで唱えることが出来る
操作:簡単(1ヶ所タップするだけ)
速度:瞬時(待ち無し)
回数:無限(いつも何度でも)
価格:良心的
どうですかこれ。
いい感じですよね。
説明には、
機能は、御真言を細かく区切って表示します。利点は、自分のペースで唱えることが出来ることです。操作は簡単で1ヶ所タップするだけです。表示速度は瞬時です。使用回数は無限です。いつも何度でも使えます。価格は、良心的です。
どうですかこれ。
繰り返して、すいませんが
いい感じですよね。
なので、みなさんに紹介したくなりました。
なので、リンク先を貼っておきました。どうぞご覧下さい。
最後までご覧いただきありがとうございました。
次回もお楽しみに。今日はここまでです。
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埼玉県佛教会 加須支部 鎌倉研修@大本山建長寺
爽やかな陽気と相成り、あじさいの花咲く観光の方も沢山にぎわう時期となりました。
このたび、宗派を越えたお付き合いで加須支部長 浄土宗聖徳寺和尚様はじめ、真言宗和尚様方と鎌倉研修に行って参りました。
現在の建長寺の山門(三門)は、���775年(安永4年)、開山の蘭渓道隆禅師の五百年忌に当たり、第201世 万拙碩誼(ばんせつせきぎ)禅師によって再建されたものです。
建長寺大工の河内長兵衛が棟梁を務め、「建長興国禅寺」の大扁額をかけるため、上層に軒唐破風が設けられました。
三間二重門としては東日本最大の規模を誇ります。
楼上には、釈迦如来・五百羅漢・十六羅漢が安置されています。


到着茶礼にて少々��憩です。


建長寺総長様よりご挨拶とお話を賜ります。
また、教学部長様より建長寺の歴史や文化を学びます。


方丈にて座禅も体験し心静かに呼吸に集中して参ります。

唐門は、徳川家の菩提寺増上寺の崇源院御霊屋(おたまや)の中門だったもので、1647年(正保4年)に仏殿や西来庵中門とともに建長寺へ移築されました。
2011年(平成23年)に保存修理が完了し、全面に飾金具が付けられていた華美な姿が復元されています。








鎌倉にある建長寺を開山された大覚禅師が好んだ言葉
「福山は揮(すべ)て松関を掩(と)じず
無限の清風来たりて未だ已(や)まず」
一切の制「限」を「無」くし
ただ「清」らかな「風」のみを感じれば心は開放される
修行者にも一般の人にも 老若男女 あらゆる人に対して
福山はいつでも門戸を開いている
という意味です。
来るものは拒まず 去るものは追わず
たとえ「自分には合わない」と去る者がいても引き留めることはしません。
私たちの周りにも この「無限の清風」が吹いています。
それは偶然の出会いや出来事となって現れます。
でも 心の窓を閉じると入って来ません。
大切なご縁も気づかずに通り過ぎてしまいます。
幸せは開かれた心にのみ舞い降ります。
今の世の中
メール SNS 携帯電話 コンピューター ヘッドフォンなど
心は常に何かに集中しています。
時には必要かもしれませんが
「集中」が「囚われ」や「依存」に陥りやすくなります。
閉ざされた心に無限の清風は入れません。
現代では意識して依存から離れ
囚われた心を解き放つ時間が必要です。
自分の心を開放し 多くを受け止められる人になりたい
心の窓を開いて「無限の清風」を感じてみては如何でしょうか。
※『建長寺HP文章参照』
特別ご朱印金印授与おすすめです!
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山の辺の道の南端、海柘榴市の近くにある金屋の石仏です🪨
大神神社の南側とも言えます。
御堂に安置されていますが、お天気が良くて中を覗いても真っ暗で見えませんでした😵
スマホで撮りましたら、やっと拝見出来ました🙏🏻✨
御堂内に安置されています石仏は,高さ2m強の2枚の板岩(石棺)に仏像が浮彫りされています。
向かって右が釈迦如来さま,左が弥勒菩薩さま。
天平時代末から貞観時代に制作されたそうですが、この石棺仏の地下には、全く別の古墳があり、種類の異なる岩で出来た石棺が埋まっているそうです😲
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アクアリウムに想いを寄せる
海洋生物部箱推し神崎担が眠れぬ夜に書き殴ったアクアリウムと神崎と羽風の話(再掲)。
私はドロップ*遠い海とアクアリウムのことが追憶以外のイベストの中で一番というくらい大好きで、ひなたと宙くん好きになったのアクアリウムからだし三毛縞も魔王陛下も渉も好きなので推しの地層状態でもうどこ見ても爆散できるご褒美ストなんですが、何より羽風薫への恩が山河の如しになったんですね。 ぷかの方は言わずもがなすぎるので今さら何も言いませんけど神崎もアクアリウムのあの1日で10年分くらい成長したと思っている 。時系列で日日日スト読むとアクアリウムを境にあの己の信念を貫くこと以外何も考えられ��いような不器用人間が相手の事情を慮る努力をするようになっておりびっくりする、直後のムーンライトと色札が特にすごい。私はこのふたつで神崎を拗らせました。 元々気遣いはできるし面倒見も良いしっかりした子だけどどこか独りよがりで、良く言えばマイペース悪く言えば空気読めない感じだったのが、アクアリウム以降はちゃんと相手の立場で物事を考え一呼吸置いて一言一句慎重に吟味した上で言葉を発するようになり性格もやや穏やかに丸くなって暴走を控えるようになった(※日日日ストの話をしています) 。あの時羽風に言われたことめちゃくちゃ熟考してちゃんと反省したんやろな ええ子やん 私は神崎のことやればなんでもできる超有能ハイスペック武士だけど別に最初からなんでもできちゃう天才なわけではなくできるまでやるからできるようになってるだけの努力の天才だと認識していて、幼少期は正座も苦手だったしビリヤードもオカリナも最初はド下手くそだったとこから猛練習してできるようになってるのが、剣道も料理も茶道も書道も独楽回しも勉強も花札も百人一首も歌うのも踊るのも全部最初からできたわけではなくめちゃくちゃ練習して勉強して鍛錬して身につけた技能なんだろなと思えて本当に好き 。多分2年後くらいには英語ペラペラになってる 。まぁ鎌倉時代で時が止まった家庭で育った武士が現代社会にあそこまで適応してる時点で地頭は物凄く良い んだろうけれども。それはさておきそんな不器用で真っ直ぐな努力の天才は他人との向き合い方というのも羽風に指摘されてから真剣に練習したんだろうと思う ええ子やん 神崎のことアイドルとして育ててくれたのは紅月のおふたりだけど人間として育てたのは羽風薫だとずっと思っている。返礼祭の恩はもはや一生モンだけどアクアリウムも。別に神崎のために言ったんじゃないだろうし普通にウザかったんだろうけどそれでもああいうことはっきり言ってくれる存在はありがたいと思う。もう御神体を用意して朝晩拝むべきかもしれない、正直影でこっそり菩薩って呼んでる。 ビリヤードも教えて頂いたな、ありがとうございます。 まぁそこまでお世話になっておきながらまだツンケンしとるんかい、がずっと引っ掛かっててそこだけどうしても和解できずにいたけどズ!!で本当は真面目で善良な御仁なのにそれをチャランポランな態度で隠そうとするから誤解されるねんでとかいきなり羽風殿はやればできる過激派筆頭みたいなことを言い始め、そう言う本人が一番その誤解をしてると思ってずっと心を痛めてきた全私の気が狂ったKitchen-Seafood事変。そこまで理解した上での塩対応、「自分が認めた人間ならそれらしくシャンとしろ」以外の何物でもなくて子供みたいなエゴの塊でありながらおかんみたいな慈愛に満ちていてあんなに優しい莫迦者めは生まれて初めて見た良かったね羽風殿お母さんできたじゃん(???)みたいな謎感情で一晩泣いたし羽風薫の口から出る『おふくろの味』新海の水圧より重い 話が逸れた で、じゃあおまえいつから気付いてたのよとスト読み返してみたらおそらくきっかけがアクアリウムなんですよね 。思ったよりは誠実らしいがそれを隠そうとするのが気に食わん〜的なこと言ってたね確かに言ってたわ、気付かなかった私が悪かったですごめんね でもおまえが頑なに折れないのも悪いんだからな(悪くないよ) 追記:余談ですが私はこのくだりから嫌悪感しか読み取れてなくて(その後のストであまりにも対応に変化が無かったので……)、まさかそこまでちゃんと見直してたとは思わなかったよね……って言ってたら周りみんなにえっアクアリウムで言ってたよ?みたいなリアクションされたので自分が如何に善良な人間の解釈に不向きであるかを痛感し二次創作上ろうかなレベルで数ヶ月凹みました。 とそこまで踏まえた上での神崎の『嫌いなものは不誠実な者』、これ実質名指しだと勝手に思ってるんですけど(羽風の『ごちゃごちゃうるさく言う奴』もほぼほぼ名指しだよ)、最初は確かにチャラチャラした軽薄な態度とか女好きなところとかそういう部分のことだったんだろうけど途中から意味合いが変わってきてて、「やればできるのにやらない」「本当は真面目なのに不真面目なフリをする」のが不誠実だと、それでずっっっとあんなに怒り続けていたのかよ すごい執念だな、私は己の怒りに誠実な生き物が好きです また話が逸れた だんだんただの不仲萌えのオタクが回す神崎VS羽風のろくろの話みたいになってきたのでそろそろ黙りますが(不仲萌えじゃないんですが)アクアリウムが如何に良ストかという話だった、また元海洋生物部3人で水族館行って欲しいしイルカと共演して欲しいし海亀展示してやって欲しいし神崎には一生羽風にデレないで欲しいここまで来たら あ��アクアリウムのほっそい三つ編み死ぬほど可愛い
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インドの神様めぐり 高岡山瑞龍寺 【再】
高岡山瑞龍寺
訪問日 2019/10/27
二回目の訪問です。一回目 今年は大河ドラマ「いだてん」なので、今年いっぱい普段格子の奥にいる韋駄天さんが格子無しで拝見できるから、と知ってたのですが、もう11月になってしまうこのままじゃ終わってしまう!と、あわてて行ってきました。 前に行ったときは…そうだ、こちらの韋駄天さんが美少年でびっくりして調べてこの後宇治の萬福寺に寄って布袋さんと韋駄天さんを拝めたよいきっかけになったのでした。

と、韋駄天話から始めたのですが、瑞龍寺と言えば烏枢沙摩明王。 まずは写真撮り放題のレプリカうす様にご挨拶。

高岡は鋳物、銅器が名産なんですが、この明王様も鋳物。後で伺ったのですが、美術館に初めてオリジナル木造うす様がお出ましになった時に、本来オリジナルが祀られている法堂に移動してお留守番してたのですが、大人八人で何とか運んだとか。 …国宝の木造建築、床抜けなかったか心配です(抜けてない)

さてコンビの猪頭天、やらかして叱られております。オリジナルの猪頭天は、お耳をネズミにかじられてしまいました。 話は変わって漫画家藤子・F・不二雄先生は高岡の出身。なので高岡はドラえもんミュージアムがあったりドラえもん路面電車があったり銅器の町なので銅製ドラえもんポストがあったりドラえもんな町です。 そのドラえもんは猫型ロボットですがネズミに耳をかじられて以来ネズミ超苦手なのでした。 あと高岡市民は引き出物やおみやげお持たせの定番がどら焼きなのです。 どら焼きはともかく、高岡では耳をネズミにかじられやすいのです。
本堂はお釈迦様と普賢菩薩文殊菩薩。法堂は前田利長公のお位牌。法堂右の部屋がお厨子に納められた烏枢沙摩明王。撮影禁止ですが近くで拝見することはできます。服の模様までよくよく拝みます。
法堂を出て大庫裏に韋駄天さん。


ほんのちょっとだけ高い位置にあるので、どうしても煽りになってしまいますがそれでも写真たっぷりとれたので満足しました。鎧の超絶技巧と可愛らしいお顔がたまりません。…皮を籠みたいに編んだ風?
さて満足したから御朱印いただいて帰ろうと思ったのですが、たまたま寺内で「開運マルシェ」というイベント中。そこで、「韋駄天座禅会」「烏枢沙摩明王会」をやってるそうではありませんか。 座禅会はもう終わってたのですが、烏枢沙摩明王の前でのご祈祷(気持ち分お賽銭)はお昼過ぎた頃だ!ご飯食べてくる!!
お昼は精進料理。野菜だけですががっつり。

さて時間がきたので烏枢沙摩明王会に参加します。 多分地元や檀家の皆さんがほとんど。結構な方がご祈祷の申し込みしてました。 お経読んでもらって個々の祈願ご祈祷あってお焼香して、お厨子の前でお坊さんと向き合いお経読んでもらってばふばふとお経で頭と肩を叩いて払っていただきました。…満足。
革製ストラップお守り授かりました。 前に来たときにも授かったのですが、愛用しすぎてストラップ部分が抜けてしまったのです。本体無事だから紐だけ付け替えればいいかーと、100均で根付け紐買ってきたら、合わない。 ぐぬぬ、ストラップ金具付きならどうか、だが駄目だ。 もうちょっと金具が大きいのを買ってきたが駄目ー! うむこれはお返しして新しいのをお迎えしろと言うサインである、直す努力をするより旅行計画を立てるべきだ、と、解釈したのも今回のお出かけの理由の一つでありました。
物販に韋駄天さんグッズはなかったのことよ。
さて瑞龍寺��はほかに跋陀婆羅菩薩という風呂の守護像があります。

バドラ・パーラという方がお風呂よばれて入ったところ、悟りを開いた故事から風呂場の守護となったとか。 手に持ってるのはお湯かき混ぜる櫂です。 東司、食堂、浴室はお寺では大事な修行の場で喋っちゃいけないとかいろいろ決まりがあるそうで、その守護に明王、天、菩薩がついているのは頼もしく恐ろしいところではありますが何というかバドラさん気にしたことなかったよ!
ご祈祷までしてもらって瑞龍寺出た後は、藤子・F・不二雄ふるさとミュージアムへ…迷子になって動物園で孔雀とかフラミンゴ見たり寄り道しましたが何とか間に合った。 私の住んでるところは神奈川県で、そんなに遠くないところに藤子・F・不二雄ミュージアムがあるんですよ。まだ行ったことないんですが。 翌日足延ばして射水市の海王丸も見てきたんですが、横浜に姉妹船の日本丸がいるんですよね。 日本横断して似たところに来たもんだ、と、ちょっと感慨深くなりました。 時間内ので急いで回ってしまいましたが、またのんびり行きたいなあ。
あ、高岡はコロッケそのほか揚げ物がうまいです。 適当に入った肉屋さんのコロッケが、冷めてからもべちゃっとならずにばりばりざくざく。 これ一つならその肉屋さんだけレベルが高かった話ですが、ホテルの朝ご飯のバイキングコロッケも、ざくざくだったんですよ。 …ドラえもんはどら焼きラブで、コロ助はコロッケラブだったなあ…
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御朱印、上が2017/07 下が2019/10
真ん中も情報量変わってますね。そしてきんきら!!
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「看板仏像役とられたー」 参拝客がいない時間、お抹茶席に陣取ったウスサマは今年に入って何百回目か位に文句を言うのだが、スカンダとお供の猪頭天は聞き飽きたので聞いてやらない。 「韋駄天御朱印は今後も継続だし、絵に起こしてもらったから高岡制圧して富山から石川行こうか新潟行こうか」 「坊はここでは台所当番なんだから、すぐ制圧とか言わない。あと、大仏さんがいるからなかなか高岡一箇所だけでも制圧難しいっしょ」 大仏さんにゃー勝てないなー高岡市民の大好きな銅だしなー、と、スカンダは猪頭天の持ってきたどら焼きをかじる。 「て言うか、大仏さんよりアレに勝てないよね」 「同じ市内の誇り、仲良く高めあいなせえよ」 ぐりぐりとスカンダは猪頭天の頭をなでる。 「ウリ坊はドラちゃんのモデルだもんなードラちゃんの味方するよね」 「モデルってわかってるわけじゃねえし、味方しても何もでねえ」 ちょっと強めに頭をかかれて猪頭天は頭突きで反撃し、即二人ともウスサマにチョップを食らう。 「喧嘩は外で」 「仲良しですー」 「坊が今日はやけに絡むんでおっぱい飲んでねんねするといい」 なんだとう、と、つっかかるスカンダを、ウスサマが押しのけ、猪頭天に振り返る。 「コロッケ買ってきて」 「どこの店だ」 「任せる」 「任された」 よいしょ、と、猪頭天は人にまぎれて外に出て行く。 後はむすっとしたスカンダとウスサマと。 「抱っこか、いい子いい子か」 ほらおいで、と、ウスサマが手招きすると、さらにスカンダはふくれる。 「赤ちゃん扱いすんな」 「めんどくさいから赤ちゃんみたいにえんえんするか腹立ててること言っちまえ」 後10秒、9、8、と数え始めるとあわててスカンダは口を開く。 「せっかくおとさんとツーショットなのにウリ坊入ってるから」 なんだそれ、と、ウスサマがカウントダウンをやめると、スカンダが御朱印帳を広げる。 ���作御朱印は烏枢沙摩明王、釈迦如来、韋駄天と豪華三面使い。 烏枢沙摩明王と韋駄天は仏像から起こした絵のスタンプなので、当然烏枢沙摩明王の足元には猪頭天が座っている。 「…真ん中お釈迦様だから元々ツーショットじゃないし、ウリ坊ここにいなかったら俺バランス悪くてひっくり返るし」 「でもさー一緒の画面に入るの二千年ぶりくらいだよ?」 そんなだっけ、と、ウスサマは指折り数えるがまあ二千も指はない。 「…そっか」 「別にここでも看板仏像二つ並べただけで特に意味はないことになってるけどさ」 そっかそっかとウスサマはぼーっとして、それから、にーっと笑う。 「後でウリ坊に笑われろ」 「おとさんにだけ内緒で言ったんだからね!言わないでよ」 ウリ坊どこまでコロッケ買いに行ったかなー、腹減ったー、と、もう少しだけ二人してどうでもいいことを話していたらしい。
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京都を愛したデヴィッド・ボウイが涙した正伝寺の日本庭園
NEWS WEEK
ニューズウィーク日本版ウェブ編集部
<訪日外国人にも人気の日本庭園。なぜ歴史に名を残した人たちが日本庭園にたどり着くかを考えると、その見方も変わってくる。デヴィッド・ボウイは日本のテレビCMに起用された際、自ら正伝寺を撮影場所に希望したという>
金沢の兼六園や岡山の後楽園、水戸の偕楽園など、人々を魅了する日本庭園は各地にあるが、訪れるのは日本人だけではない。
実際、Japanese gardens(日本庭園)に関する英語の情報はインターネットにあふれており、アメリカには日本庭園の専門誌まである。今や日本庭園は、日本を訪れる外国人にとって外せない「見るべきもの」となっているのだ。
京都を中心に庭園ガイドをしている生島あゆみ氏はこのたび、「なぜ、一流とされる人たち、歴史に名を残した人たちは、日本庭園にたどり着くのか」をテーマに執筆。『一流と日本庭園』(CCCメディアハウス)を刊行した。
庭園そのものだけでなく、それらを造った人物、深い関わりのある人物の人生を見つめた上で、庭園との結びつきを読み解いた。これ1冊で日本庭園の見方・楽しみ方が変わるというユニークな一冊だ。
足利義満は金���寺を、稲盛和夫は和輪庵を造った。スティーブ・ジョブズは西芳寺に、デヴィッド・ボウイは正伝寺に通った。ここでは本書から一部を抜粋し、3回に分けて掲載する(今回は第2回)。
※第1回:利他の心に立つ稲盛和夫が活用する京都の日本庭園「和輪庵」
◇ ◇ ◇
デヴィッド・ボウイ(1947年〜2016年)と正伝寺(しょうでんじ)(京都)
たびたび京都を訪れていたデヴィッド・ボウイが、その美しさに涙したという正伝寺の庭。白砂に七・五・三の刈り込み、遠方に望む比叡山の借景......。世界的なアーティストは何を感じとったのか。
親日家のデヴィッド・ボウイ
ボウイは、親日家で有名でした。また仏教や禅に造詣が深かったようです。BBCテレビ『デヴィッド・ボウイの日本流への熱情』によると、ボウイが20歳頃、舞踊家リンゼイ・ケンプ氏のもとで、ダンスとマイムを習いました。このケンプ氏が、伝統的な歌舞伎の様式に大きな影響を受けていたそうです。歌舞伎や能という伝統芸能が、ボウイが日本文化を知る入り口になりました。
また、チベット仏教の高僧はボウイと親交があり、彼が仏教の僧侶になるつもりだったと証言しています。もともと、仏教に深い関心があったようです。
アルバム『ジギー・スターダスト』全盛期の頃に、スタイリスト・高橋靖子、写真家・鋤田正義、ファッションデザイナー・山本寛斎などがボウイと親交があったそうです。
鋤田正義はボウイを京都で撮っていますが、ボウイの希望は京都の人々が日常の生活を送るような場所で、というものでした。
ボウイが梅田行きの阪急電車の前でさっそうと立っている姿は、ファンだけでなく京都に住んでいる人達をも魅了します。切符を買っていたり電話ボックスで受話器を持っていたりする写真などもあります。古川町商店街では、当時、創業70年のうなぎ店の名物八幡巻きを買っている姿もありました。
スターダムにのし上がった1970年代後半、プレッシャーなどからドラッグの誘惑に苛まれ、ベルリンに移り音楽活動をしていた時期がありました。名盤「ロウ」「ヒーローズ」「ロジャー」のベルリン三部作を制作しました。この頃、ボウイはツアーの合間を縫うように京都を訪れていました。ボウイにとっては大きなターニングポイントで、自分自身をリセットするために京都に来ていたそうです。
大徳寺の僧侶は、ボウイと親交がありました。日本、そしてその精神の奥にある禅に、ボウイは向き合っていったのだそうです。WOWOWドキュ��ンタリー『デヴィッド・ボウイの愛した京都』で「禅の中では、自由を得るというのが究極にあり、特に死ぬことからの自由のことだと。変わるというのは自分が死ぬことで、ボウイは、自分が変わることから真の自由を求めていたのではないでしょうか。」と僧侶は話していました。
「新しい自分、本当の自分の姿を京都で見つけたのです。京都の時間の流れを、ボウイは大切にしていたようです。常に今が大事だということです。」と彼は続けます。
ボウイは芸術や文化、歴史を学ぶ才能に溢れていたと言います。美術品のコレクターではなく、その物の精神を自分のものにしていく才能があったそうです。「ヒーローズ」のB面に収録されたインストゥルメンタル曲「モス・ガーデン」では、美しい琴の音色が聞こえてきます。これはファンが、直接本人に手渡したおもちゃの琴の音色です。これを弾きこなして、自分の音楽表現をしている才能に凄さを感じます。
1990年代には、イマンと新婚旅行に京都に来ていますが、滞在したのは老舗旅館「俵屋」でした。また、江戸時代創業の蕎麦屋「晦庵(みそかあん)河道屋(かわみちや)」本店もお気に入りだったそうです。俵屋と河道屋は、スティーブ・ジョブズも好きでした。二人が遭遇した可能性は少ないと思いますが、好みが似ているのが不思議です。
正伝寺の歴史とその庭園
ボウイが愛した正伝寺は、どのようなお寺なのでしょう。正伝寺は、京都市北区西賀茂にあります。五山送り火で有名な船山の南側に位置しています。臨済宗南禅寺派の諸山の格式を持つお寺です。山号は吉祥山(きっしょうざん)。寺号は正伝護国禅寺で、本尊は釈迦如来です。
正伝寺は、1260年、宋より来朝した兀庵普寧(ごったんふねい)禅師の高弟が、京都一条今出川に創建しました。1265年に兀庵普寧禅師は宋に帰りますが、その後、東巌恵安(とうがんえあん)が跡を継ぎ、1282年にこの西賀茂の地に移りました。
応仁の乱で荒廃しましたが、徳川家康が再興します。本堂は、1653年に金地院の小方丈が移築されたものです。伏見桃山城の御成殿(おなりでん)の遺構を移したものとも言われています。方丈の広縁の天井には、伏見城落城時、徳川家臣・鳥居元忠と家臣らが割腹し果てた廊下の板を、供養のため天井に貼った「血天井」があります。
方丈の各室の襖絵は、1605年頃、徳川家康の命により狩野山楽が描いた中国・杭州西湖の風景です。山楽の残した貴重な作品です。
庭園は白砂とサツキ等の刈り込みが並ぶ枯山水です。方丈の東側に造られており、敷地は363平方メートル��す。
方丈から見て白砂の奥に、右から、七つ、五つ、三つと、植栽の大刈り込みがあるだけです。これを七・五・三形式と言いますが、通常は石が七・五・三に置かれ、植栽で表されているのは正伝寺だけです。
植栽構成は、三つがサツキのみ。五つがサツキとサザンカ、七つがヒメクチナシ、アオキ、サザンカ、サツキ、ナンテン、ヤブコウジ、チャと組み合わされています。
この庭園は江戸初期に造られました。小方丈が金地院から移築されているので、小堀遠州作とも言われていますが、時期的に見て、別の作庭家との説もあります。
江戸初期には、滋賀県の大池寺庭園や奈良県大和郡山の慈光院庭園など大刈り込みの庭園が他にも存在しています。龍安寺の石組が「虎の子渡し」と言われるのに対し、正伝寺の七・五・三とする刈り込みは「獅子の児渡し」と言われています。ゴツゴツした石が虎で、ふわっとした植栽の刈り込みを獅子と見立てたのでしょうか。
明治維新以降、寺領・社殿の召し上げなど苦しい時代になります。正伝寺の明治期の写真が残っていますが、高木が増え、刈り込みも乱れた様子です。
戦前の1934年、重森三玲を中心とした京都林泉協会の会員有志が、後から加えられたであろう石を取り除くなど荒れた状態を整えました。こうした努力により、かつての姿を取り戻した現在の庭園は、京都市の名勝に指定されています。
庭に敷き詰められた白川砂と緑の刈り込みの植栽、下界を遮断する漆喰塗りの塀の構成の向こうに、遠山として望めるのが比叡山です。遠くにポツンと比叡山だけを見渡せる巧みな借景の取り方が、正伝寺の庭をより特別な存在にしています。
正伝寺とデヴィッド・ボウイ
京都の北に位置する正伝寺は、最寄りのバス停から歩いて20分ほどかかりアクセスが良くありません。山門を抜けると登り坂の山道が続きます。本堂まではおよそ250メートル。静かな山道はやがて、下界と離れた特別な禅の庭へと誘ってくれます。
実はこの人里離れた禅寺の正伝寺の庭は、知る人ぞ知る名勝なのです。どうしてボウイがこの庭のことを知っていたのでしょうか。おそらく、彼の友人だった米国出身の東洋美術家・デヴィッド・キッドの存在が大きかったのだと思います。
���ヴィッド・キッドは、九条山に邸宅を持っており、「桃源洞」と名付けていました。ボウイはここをよく訪れたそうです。ボウイは、桃源洞の居間にあった平安時代の地蔵菩薩を眺めて時を過ごしていたそうです。菩薩の控えめな様子から深い哀れみを感じていたのではないでしょうか。
1979年の年末、広告代理店が宝焼酎「純」のコマーシャルにボウイを起用する提案をしました。アーティストとして非常に高い純粋性を持った人として、彼以外にいないということでした。
ボウイはお気に入りの俵屋��泊まり、撮影は嵐山にあ��松尾大社近くの公園や正伝寺で行われました。正伝寺を希望したのは、ボウイ本人だったそうです。宝ホールディングスの元会長・細見吉郎は、学生時代からずっと京都に住んでいましたが、当時、この寺の存在を知らなかったそうです。整然とした枯山水庭園と比叡山の眺めに感動し、訪れる人も少なく、静寂に包まれていたので「ボウイさんが正伝寺を指定した理由が分かった」と語っています。
――「撮影中にボウイさんは庭園を見つめ、涙を浮かべていた」と細見さんは振り返る。「景観に感動したのか、何か悲しい思いをしたのかは聞けなかった。繊細で純粋な人だった」と記憶をたどる。――(日本経済新聞「D・ボウイが涙した静寂」/2016年2月19日)
宝焼酎「純」の販売数量は、1980年からの5年間で11倍に増えたそうです。
コマーシャルには、ボウイ自身が作った「クリスタル・ジャパン」という、雅楽を意識したインストゥルメンタルの曲が使われました。正伝寺の庭の白砂の上に、グラス片手に座っているシーンはとても印象的です。
私がこの庭を訪ねたのは、紅葉が始まる頃でした。デヴィッド・ボウイが愛した庭を鑑賞しようと、海外からの観光客の姿もありました。
刈り込みが美しい庭の方丈前には数人がいましたが、みな庭を観ており、沈黙だけが心地よい空間を作っていました。しばらく静観していると、心が洗われたような気持ちになりました。
ボウイもまた、心を清めるように真の美を前にしていたのかもしれません。庭には、自分をリセットするとともに、自由にしてくれる作用があるのかもしれません。
※第3回は5月23日に掲載予定です。
※第1回:利他の心に立つ稲盛和夫が活用する京都の日本庭園「和輪庵」

『一流と日本庭園』 生島あゆみ 著 CCCメディアハウス
正伝寺 京都府京都市北区西賀茂北鎮守菴町72
http://shodenji-kyoto.jp/
正伝寺は、京都市北区西賀茂にある臨済宗南禅寺派の諸山の格式を持つ寺である。山号は吉祥山。寺号は詳しくは正伝護国禅寺という。本尊は釈迦如来。
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①#誕生
②#洗礼
③#変容
④#十字架 #キリスト(救世主) #阿羅漢果
⑤#復活 #アデプト(大師)
⑥#昇天 #チョハン
⑦#宇宙意識 #マハ・チョハン
⑧#三昧 #ダルマ・プルシャ
⑨#計算 #カルキ・アバター
#霊的梯子 の #象徴的 #外的顕示
#イニシエーショ��(通過儀礼)
①#誕生、②#洗礼、③#変容、④#十字架
第①段階 #キリスト意識 の誕生
第②段階 #アストラル体 の支配
第③段階 #聖霊(マインド) ー①#モーゼ ②#エリヤ ③#イエス
第④段階 #コーザル体(魂の媒介)の処分ー魂に対する器の供物




2人のキリスト
#イエス・キリスト と #キリスト・マイトレーヤ
第⑤段階 #アデプト #ADEPT (#大師)魂と神秘的な御霊による復活
第⑥段階 #チョハン 雲の上の #光の船 ー神の御国���宇宙船
第⑦段階 #マハ・チョハン #宇宙意識 ー夢現での宇宙旅行
第⑧段階 #ダルマ・プルシャ #不滅の法則



🔯#召喚魔法
火🍓小室哲哉🔥大日如来ー①灼熱・ 厳冬
水🍏小林武史🚰阿閦如来ー⑥夢見る理想
風🍈MOZART🎐弁財天ー④探究する旅人
地🍌坂本龍一🌽虚空像菩薩ー③情報の保存
水💊久石譲🍧不空成就如来ー⑤冷たい知性
闇🍇BACH🧘宝生如来ー⑦霊と物質の魔法
光🍊CHOPIN 📱釈迦如来ー②素粒子の光
第五段階
大師ADEPTでさえシリウスに行けば、初心者の様なものである。其処での進化は早いので、自分以外ほぼ全員が神の様な存在である。マイトレーヤは地球上で第七段階を受けられ神の様な存在であるが、霊的進化には途方もない時間が係る。人類には理解できない『原因と結果』の法則を知っている。
シリウス
人間が理解の遠く及ばない『運命』や『全存在』の『霊的青写真』が其処にはある。データDATAサイエンスや宇宙のホロスコープチャート『アストラル体』の分析、光線構造に依る覚者方や高段階の弟子イニシエートの設計が行われている。現実の運用を『地球奉仕の道』の覚者方が助力している。
普遍と具体
覚者方によっては其々個性があり、活躍する分野も多岐に渡り、まちまちであるが、大分すれば、覚者方の興味の対象は哲学、芸術、科学に要約できる。真我の能力ではない多言語や数学などの言語領域の取得の能力は個人の能力と努力に依るものであり、個性(パーソナリティ)の素養に依るー。
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俊���五百句
虚子の「五百句」と対峙したい。虚子はそれを五十年ほども掛けたが、この作句期間は一週間に過ぎない。出来不出来以前にこの名著なる存在と対峙したかった。俳句の存在意義だけがこの試行錯誤の源である。短い人生である、我が愚行を是非批評して頂きたい。
坊城俊樹 令和4年8月
弔ひの夜に横たはる暑き襤褸 浮浪者の襤褸に星降る夜となりぬ 弔ひの夜の白服なる異形 弔ひの杖に樹海の町暑し 浮浪者の眠る窓とて朧なる 夏の灯のまたたき琴座鳴るといふ 幽霊や露台に支那の戦没者 幽霊の招く小路の風死せり 夏の路地女幽霊絢爛に 星の降る夜へ英雄の霊かぎろふ
国士無双あがる男へ星流れ 夏の夕遺族は骨を探索す 夏夕べ黒き連鎖の遺族たち 遺族らは夜より黒し星流れ 哀しさは真夏の盆へ地震きたる 地震の町に吠える家守の夜でありし 恋人も濡れる家守の夜となりし 母死して星も死すてふ家守の夜 家守らの目の爛々と星見上ぐ 家守らに昭和の記憶ありにけり
金色の家守は母の野望とも 父がつけし渾名の犬へ星流れ 大蛇の我が天井を護りたる 姫蛇の碑へと真夏の夜の夢 蛍火に意思といふものありにけり 山泣くも山笑へるも蛍へと 犬死して総理も死して蛍へと 一億の蛍の一つ死してをり ほうたるの火に照らされて万華鏡 ほうたるの乱舞を待てる半旗かな
火蛾ひとつ火焔の中を舞うてをり 蛍来る夜は両親へ星降る夜 死ぬ匂ひして晩年の蛍籠 怪しげな教会へ入る蜥蜴かな 万華鏡の色の蜥蜴や月を追ひ 猊下そは百歳に死し蜥蜴また 猊下死す百一の星流る夜を 猊下逝く蜥蜴は天の星仰ぐ 猊下逝く十の契りを夏の夜に 総理逝きしばらく夜の火蛾として
猊下逝く祇園の夏の夜の契り 星流る方へ杖つき神楽坂 夏の夜の三味の灯しは籠もらざる 懇ろに幽霊を待つ簾上げ いつも見てゐて見てゐ��い裸かな 貪りて夜の怨霊の裸とも 風通す裸の窓をすべて開け 恩讐もある傷跡の裸体とも カンバスに幾何模様なる裸体 日当たるとやはらかくなる裸体かな
陰翳の裸の体囁ける 因果なる裸体を褒めてゐて死せり 裸体なる女カオスの縮図とも 茅舎忌の我を白痴と思ふかな ヌードデッサンせんと孤高の茅舎の忌 茅舎忌といふ忌まはしき忌なりけり 俳壇に生けるも死ぬも茅舎の忌 茅舎忌の猿股を日に干してあり 金剛の露現今の茅舎ゐて 口唇に薬挿し入れる茅舎の忌
河童忌の屋根に墜ちたる龍之介 河童忌といふ祝祭のやうなもの 蚕豆に天使の翼ありにけり 蚕豆の妻の故郷はカタルーナ 蚕豆といふ処女作のやうなもの 蚕豆を剥き深緑やや遺憾 蚕豆の筋のあたりを背骨とも 蚕豆のやうな赤子を授かりし 蚕豆とは一卵性双生児 バンクシーの絵は白黒に夜の秋
我が瞳孔まもなく朽ちて夜の秋 丑三つのマンゴーゆつくり熟すなり 丑三つの蜘蛛透明な糸を吐く 斬られる待つ丑三つの熟柿かな 愚かなる夢の中なる熱帯夜 しづかなる女の舐める熱帯夜 黒蛇が白蛇を呑む熱帯夜 括れざる腰振る真夜の熱帯を 母さんが父さんを呑む熱帯夜 口唇を襞と思へる熱帯夜
熱帯夜朱き口唇とて腐臭 熱帯夜とはずぶ濡れの吾子の夢 峠路に幽霊を待つ月見草 裏切りの美人薄命月見草 月光やちやん付けで呼ぶ影法師 月見草火星より木星が好き 月見草路地の子やがてゐなくなる 星の降る夜はひとつきり月見草 月見草恐らく祖母は浮気した 新婚の路地の匂へる月見草
日覆を立てる穴とて深淵に 日覆のおほひて赤子腐敗せり ビルよりも高き日除けを立てにけり 男一人日除けを出でず老いにけり 裸族らし我が家の下の夫婦かな 裸にて人に逢ひたく皮を脱ぐ しづかなる蛇しづかなる自死をせり 蟻と蟻獄を出でたる如出逢ふ 灯の蟻といふ見当たらず羽蟻とす あの蛇を保育園へと見失ふ
青条揚羽より高き蝶のなき 金輪際黒筋揚羽見失ふ 黒揚羽より正装の男かな 瑠璃揚羽祖父の遺墨を飛び立てり 暑き電線暑き電線と出逢ふ とぐろ巻く蛇地境を管理せり 大いなる物の崩れががんぼの死 青き星流れて白き星流れず 蟷螂と格闘をして日記とす 暁に麦飯を食ふ祖父の髭
亡霊が炊いた麦飯吾れのため 麦飯の茶碗に描くただの柄 麦飯に卵二つの豪華さよ 麦飯を母は嫌がり父も嫌がり おばQを見て麦飯を食ふ至福 箸は茶で洗ふ麦飯たひらげて 麦飯を父は食はずにバタを食ふ 麦飯といふ軍縮のやうなもの 麦飯にのりたまかけて邪気かけて 仏教にあらず神道麦飯を食ふ
麦飯を御霊に捧ぐことならず 麦飯で鉄腕アトム見てをりぬ 昭和三十六年の麦飯豪華なり 麦飯といふ神道のやうなもの 瑠璃鳴くや御霊のやうな声溢れ 神域を歌へる瑠璃のすきとほる 殉職の御霊へ瑠璃の鳴きにけり 銃弾に斃るるときに瑠璃鳴けり 天照大神きて瑠璃鳴かせ 天辺の虹の上より瑠璃鳴けり
虚子とのみ彫られし墓へ瑠璃鳴けり 坊城家六代目へと瑠璃鳴けり 勾玉の青のひとつは瑠璃の声 瑠璃何か喩へてみれば金剛に 夏燕折り返し来る消防署 三次元を四次元に斬る夏燕 生れ替るなら岳麓の夏燕 青空を巻き込んでゆく夏燕 夏燕鏡を斬りてさかしまに 天辺に仏来給ふ朴の花
朴の花白く翳りて懇ろに 朴の花の中に釈迦尊をらざりき 虎尾草に毛並のありて逆立ちて 虎尾草の揺れて待ちたる未通女かな 金輪際虎尾草と縁切ると言ふ 虎尾草の先くねくねと蠅を追ふ 梧桐に影といふもの濃かりけり 樹海めく梧桐たちに迷ひたる 梧桐を仰ぐ超高層仰ぐ 梧桐の葉とは天狗の団扇かな
梧桐やブランコは立ち漕ぎ続け 梧桐の翳に不良の煙草吸ふ 梧桐に青春である疵を彫り 梧桐の伐られ虚空の天となる 山笠の波動花鳥子より届く 山笠の句の勇壮な波動来る 山笠に恋といふものありにけり 博多つ子純情の夏なりしかな 山笠の日と生誕の日と隣る 純情の山笠に夢馳せてをり
山笠に天神颪とは来たり 金亀虫裏返りたる真夜の褥 黄金虫夜を引き摺りて灯へ入りぬ 灯に入手夜の帝国の黄金虫 羽蟻の夜玻璃にべたり��都市の闇 羽蟻翔ちお日様に溶けなくなりぬ 子を捨てし母は戻らぬ羽蟻の夜 羽蟻の夜金輪際の父は帰らぬ 羽蟻の夜弔問はなほつづきをり 茅舎忌の卍となりて日章旗
露の世へ消ゆる人あり茅舎の忌 茅舎忌の夜が流れてしまひたる 隻眼が見えなくなりぬ茅舎の忌 龍子の絵どこか稚拙な茅舎の忌 茅舎忌の流れ流れて星ゐない 吾妹子の胸やはらかき虎が雨 吾妹子の海へ尿する虎が雨 煙草屋もとうに死に絶え虎が雨 土用波恋愛はもう星屑に 岬越え来る土用波白々と
土用波いよよ怒濤となり崩れ 子が一人攫はれてゆく土用濤 土用濤灯台を越え来たりけり 元総理死にて土用の波濤へと 波怒濤土用の夜の人攫ひ 伝説の出水川とはこの小川 子を攫ひ妹を攫ひて出水川 出水川と記憶流れて悪夢とも 出水川恋の破綻も流しゆく 虚子塔に人来ぬ日なる最澄忌
最澄忌千日回峰終るころ 叡山は星の降る夜の最澄忌 叡山をさ迷ふ夜の最澄忌 最澄の忌の極楽の湯舟かな 最澄忌灯す頃の先斗町 祇園にて猊下と酌みし最澄忌 萍の隠沼として河童棲む 萍を髪に見立てて河童立つ 萍の茂り月光留めたる 妖精が腰掛けてゐる蛭蓆
丑三つの月光にある蛭蓆 優曇華へ星やさしくて月やさし 優曇華のいのち揺らぎて月を待つ 儚きは優曇華の茎なりしかな 優曇華にいのちあかりの灯せり 優曇華に神降臨すひとつづつ 母死して優曇華の情なしとせず 優曇華へ言葉少なき真夜の人 ケルン積む星降る夜となりしかな ケルン積む大岩壁と対峙して
ケルン積むひとつひとつに女の名 行李から恐らく祖父の登山帽 恋をして山登りして死に逝けり ロッククライミングの刹那あの夏を しづかなる人しづかな死夜の秋 夜の秋幽霊ももう寝静まり 恋をして失恋をして夜の秋 瞳の奥の闇へと星の流れゆく 星の降る中に月降る夜の秋 蟻ひとつ彷徨うてゐる夜の秋
死顔の威厳なるかな夜の秋 曾祖父も祖父も今宵は夜の秋 星ひとつ艶然とある夜の秋 夜の秋網膜剥離みたいな灯 羅を着て恋などに惑はされず 浴衣着て金魚の柄を泳がせて 羅を着て老いらくの恋をせむ 羅に序破急といふ恋のあり 妙齢は達磨柄なる浴衣着て 浴衣着て恋に窶れてしまひけり
祖父と祖母らし残像の藍浴衣 羅の包んでをりぬ裸体かな 羅の包み適はぬ恋をして 浴衣着て恋の乳房となりしかな 浴衣着て恋人と逢ふ浜の路地 羅を着て蝮酒召し上がる 浴衣の子星とおしやべりしてをりぬ 後ろ手に団扇はさんで恋浴衣 白兎波間に跳ねて卯波くる 人死して星の卯波となりしかな
卯波寄す森田愛子の臥所へと 九頭竜の卯波漣ほどのもの 夏の波真砂女の卯波とぞなりぬ 月光が卯波流してをりにけり 滴りの金銀の粒金剛に 滴りに輪廻転生ありにけり 滴りて岩壁となる日本海 東京スカイツリーの天辺滴りて 滴りて浅草線の三ノ輪駅 ゆつくりとしづかに歩む蛇ひとつ
蛇の夢見てその蛇を見てをらず 蛇酒といふ極楽の中に死す 滴りの岩壁を行く数学教師 滴りの後ろ姿の女体山 蛇女邪心となりて星流れ 蛇ふたつ絡んでをりぬ月光に 蛇絡みつつ愛欲の中にあり 権現の無数の蛇の降る社 炎帝の統べるままなる総理の死 炎帝へ斬首の鴉羽ばたけり
炎帝いま月の裏側焼きにけり 炎帝といふ今生の大宇宙 勲一等正一位なる墓灼けて 勲一等の軍馬の墓は緑蔭に 暗夜行路書きし墓とて茂り中 暑き固き墓石の如き絵画館 イザベラの墓に彫られし薔薇香る 銀杏並木の緑蔭もとんがりて 茂りてはいつも探せぬ乃木の墓 坊城は俊ばかり付く墓涼し
殉教の墓へマリアの南風吹く 寝棺そのものを横たへ夏の墓 緑なる線対称の銀杏かな 八月の面対称の絵画館 サンドレスとは青山のあつぱつぱ 青山の墓みな灼けて無言なる 夏日燦超高層といふ墓標 無機質の超高層を旱とも ソファーめく茂吉の墓へ夏蝶来 茂吉いま夏蝶となり利通へ
墓に挿す供華も明日より秋薔薇 秋の蝶クルスの墓を懇ろに 夏果てて石より重き絵画館 緑蔭のハチ公の墓何処なり ハチ公の供華はおそらく水羊羹 異国なる地下に眠りて薔薇の墓 夏の蝶マリアの指に触れてより 喪主だけが半袖で乗る霊柩車 蟬の音は聞かず真昼の野辺送り 蟬死して蝙蝠ばかり飛んでをり
蝙蝠は帰る逆さになるために 蝙蝠の裏切る音を聴いてゐる 蝙蝠も消え失せグリム童話の夜 めまとひはめまとひとして囁けり めまとひは無責任なる大家族 婆の眼の脂にめまとひ親しめり めまとひを払ふ多情の口を閉ぢ めまとひの中を葬列続くなり 朱烏夏の夜の夢覚めし頃 茅舎忌の月光ことに夢を食ふ
茅舎忌の虫の音といふ哀しけれ 茅舎忌のシュミーズは幽霊の自慰 そこはかとなく隠微なる茅舎の忌 キリストと生きる男へ茅舎の忌 茅舎忌に金子みすずを読んでをり 白鼻心白夜の夢を見てをりぬ おぼこ今白夜の夢を見てをりぬ 白夜とは神の数だけありにけり 熊に似る男涙の炉辺話 雪女帰らず解けてしまひたき
金輪際なき眼光の鯖を食ふ 鯖を食ふ恋愛をした夢を見て 銀色に無限のありし鯖を食ふ 恩讐の臭みの鯖を食ふ女 鹿島灘あたり怒濤や鯖を食ふ 鯖を食ふ女臀部を揺らしつつ 鯖を食ふ潮の香りを煮てをりぬ 黒潮を炊いて鯖煮となりしかな 鯖食ひ男鯖食ひ女淫靡なる 鯖食うて惜別の情無しとせず
我が生の金輪際の虹に逢ふ 虹死して首都凡庸の空となる 奈落より虚子の墓へと虹の橋 蚊柱となりて青山墓地を舞ふ 吾妹子の子宮男の子を生みにけり 我が家より大いなる虹架かりけり 苔の花とは妖精の小さき眼 苔の花喋るぺちやくちやぺちやくちやと 苔の花海に流れてしまひさう 我が生も淋しからずや苔の花
大漁の夜の纜に苔の花 苔の花阿呆の黄色楽しくて 苔の花金輪際の生にあり 苔の花哀しくなれば咲いてをり 苔の花苔を大地として咲けり 苔の花の夜は近づく大宇宙 未熟児に産まれる人へ苔の花 そよぐことなき苔の花小さすぎ 流星と同じ色して苔の花 苔の花咲きて天動説となる
苔の花影といふものありにけり 囁きの夜に閉ぢたる苔の花 河童忌を星の吹雪と思ふなり 河童忌の蛇口ひねれば湧いてをり 河童忌に砂糖を舐める女あり 河童忌のしんがりの児は引き込まれ 河童忌にベートーベンを聴いてをり 河童忌を皇后陛下畏くも 河童忌の童は杓子定規かな 怒濤とし童押し寄せ河童の忌
滴りて山又山を濡らしをり 絵画館の壁の隙より滴れり 夏の水汲み元勲の墓域へと 滴りに栄枯盛衰ありにけり 滴りて富嶽をすこし潤せり 滴りに奈落といふは先のこと 滴りてゆつくり濡れてをりにけり 滴りて巌の命を疑はず 幻か滴る先に河童の子 滴りて四国三郎ありしかな
蟻ひとり穴ひとつあり佇みぬ 増上寺国葬にあり蟻ひとつ 群衆の蟻群衆の蟻に逢ふ 山蟻の威厳の黒に死してをり 黒蟻と赤蟻言葉交さざる 蟻ひとつ地下迷宮を出で来たる 蟻塚に蟻の声のみ充満す 蟻塚の掘りたての土匂ふなり 蟻地獄静謐といふ美しき あとづさりして身を隠す臆病に
岳麓へ行者道めく蟻の道 蛾の破片ゆらゆら運ぶ蟻の道 ビール飲む眉間に皺を寄せながら 麦酒飲むますます法螺を吹きながら 白魚のやうな指もて麦酒注ぐ 我が世とぞ思ふ望月の麦酒かな 麦酒のむいつか焼かれし喉仏 女ひとり化粧濃くして黒麦酒 蛇苺姉の我が儘永遠に 蛇苺庭に埋めし金魚へも
侯爵の墓の片隅蛇苺 蛇苺男鰥の庭の恋 山笠の西の便りを句に乗せて 博多つ子純情いまも山笠に 山笠の男だらけの怒濤なる 傀儡の関節錆びて夏の雨 白雨きて蛍光灯の切れかかり 関節はぎしぎし老ゆる夏の雨 飴玉が降る音のして夏の雨 連続の数珠の音して夏の雨
夏の雨身の内の獅子唸るなり 旋律はボブマーリーに似て夏の雨 戦後すぐ膣より産まれ夏の雨 白雨きてボサノバの雨合体す 白雨きてコーラの壜の女体めく おそらくは黄泉の国とて夏出水 夏出水遺品の遺書の何処へと 高貴なる神に押し寄せ夏出水 最果ての鵺の夜へも夏出水 土用波七里ヶ浜で祖父に抱かれ
土用波みたいな嬶の乳房かな 柏翠の療養所へと土用波 土用波森田愛子の身の内へ 土用波虚子と愛子の物語 髪洗ふ乳房の先を湿らせて 髪洗ふ妬み嫉妬を流すとか 女百態懇ろに髪洗ふ 髪洗ふ幼き頃の金盥 あんな女に嫉妬して髪洗ふ 犬洗ふ即ち犬の髪洗ふ
昼寝して夢の合戦破れたり 元首相撃たれし頃の大昼寝 夜よりも昼寝彼の世に近かりし 貪るは蛸か女体か昼寝覚 昼寝して夜には死んでをられたる 昼寝覚女百態消失す 昼寝覚地獄の釜を押し上げて 昼寝覚一年損をした気分 昼寝して虚子と話をして戻る 昼寝覚范文雀と別れ来て
蝙蝠の彼の世此の世と飛翔せり 蚊食鳥煙のやうなる蚊を追へり 蚊食鳥夕焼け小焼けの唄に乗り かはほりの逆さに夢を見る昼間 かはほりに迷子探してもらふ夕 蚊食鳥夜の女は出勤す かはほりは街の電波と交錯す 蚊食鳥幼稚園児はもう家へ 友人の納骨を終へ蚊食鳥 学習院初等科の上蚊食鳥
あぢさゐの萎れし夕べ蚊食鳥 かはほりと月と金星置きどころ 青林檎みたいな乳房持つ少女 青林檎囓る気もなく接吻す 青林檎真夏の夜の夢の中 昭和とはヌード写真と青林檎 麗人の口怖ろしく青林檎 漆黒の夜は青ざめて青林檎 青林檎堅しと思ふ瑪瑙より パテイーデュークショーを観ながら青林檎
青林檎がさつな漢の手に堕ちる 夏の夜の夢とはならず老いゆけり 夏の夜の罪ある墓標御影石 唇は濡れて真夏の夜の夢 夏の夜のネオンサインはジジと切れ 漆黒の真夏の夜の夢となり 入れ墨の夏の女を持て余し 金魚玉夜に入る頃の小宇宙 絢爛の金魚は恋をしてをりぬ 絶縁の夜に浮きたる金魚玉
和服着て振り袖を振る金魚かな 勲一等正二位の飼ふ金魚かな 飛魚の飛んで越え行く隠岐の島 隠れキリシタン飛魚となり戻りけり 飛魚の流刑の島を飛び越えて 炎帝に見つからぬやう昼に寝る 日輪が炎帝をまた拐かす 炎帝に翳といふものありにけり 白日夢とは炎帝が司る 炎帝が紛れ込んだり夢の中
盆栽といふ炎帝の置き土産 炎帝も銀河の裾の一部分 我が霊も炎帝となり銀河へと 観音の笑みて溽暑を遠ざけて 観音の炎暑の唇を赤しとも 陽炎へる陽子の墓や禁色に 墓の苔とて万緑の一部分 観音の胸乳あたりへ夏の蝶 五輪塔とは緑蔭のただの石 乾きたる稲毛氏の墓とて旱
一山の万緑なだれ年尾句碑 薔薇咲かせ流行り遅れの服を売る 昔から麦酒が好きな人の墓 蛍光灯切れかかりゆく夏の果 夏行くや皆んな貧しき灯して 人を待つ心にも似て夜の秋 涼しさの雨の粒とは淋しくて 街の灯の蒼く点りて夏の夜 灯して何読むでなき夜の秋 夜の秋義兄は生れ替りしや
涼しさの夜の灯の鈍色に 堕胎の子いつも走りて汗哀し 夏逝くや雨の音符の翳色に 夜の秋眼の衰への文字歪む 夜の秋炎集めて住む川原 夜の秋己れ空しく酒を飲む 涼しさの夜雨の音の蓄積す 涼しさは恨みに似たり灯を消せば 幽霊坂うすむらさきの夜の秋 幼稚園死んだ子が居る夜の秋
夜の秋やがて孤独の誕生日 蛍光灯切れかかりゆく死者の秋 老いてなほ秋めく恋の行方かな 新涼の飴の色とは濃紫 秋めきて失恋をする七回目 新涼の鏡に映す吾の死顔 頭痛して秋めく我の髑髏 新涼の驚き顔となりし天 新涼の犬に哀しき堕胎過去 八月の女ものものしく太り
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基礎講座:三宝
上田秋成「雨月物語」に“仏法僧”と言う言葉は登場する。
雨月物語は庶民向けの読み本
仏法僧=三宝は当時から庶民文化に浸透していた。
■
三宝:仏教徒の最優先遵守条項3つ
条項①仏宝
条項②僧宝
条項③法宝
仏宝:信仰対象
信仰対象であれば、ゴータマ・ブッダ本人、妙法蓮華経に於ける釈迦牟尼仏、浄土信仰における阿弥陀如来、密教における大日如来などどれでもOK
おおむね「如来」と称されればそれ。
如来にはその特徴(観点)による10の呼称がある(如来の十号)
①如来:世界の真理を理解し、その世界からこの世に来た人
②応供:阿羅漢。布施の対象として素質十分な人
③正偏知:最上級の理解を成し遂げた人
④明行足:知識と実践のバ���ンスが取れた人
⑤善逝:彼岸に到達した人
⑥世間解:世の中についてよく理解した人
⑦無上士:本人以上の存在がない人
⑧調御丈夫:万人向け人生アドバイザー・リーダー
⑨天人師:神と人間にとっての師匠
⑩仏陀:真理を理解した人
⑪世尊:世間からの尊敬を集める人
法宝:涅槃獲得への手続きとその方法
部派仏教以降、三蔵のことを指す
三蔵①:経蔵:ゴータマ・ブッダの発言集
その形式により12種類に体系化(十二分教)
三蔵②:律蔵:仏教組織の規則集
三蔵③:論蔵:発言集の注釈、研究
僧宝:ゴータマ・ブッダの指導内容の学習と実践に取り組む組織
サンガと呼ばれ、インドでは組合のことを指す一般名詞
サンガ内には4種の区別がある。
①優婆塞:社会に帰属する男性信仰者
②優婆夷:社会に帰属する女性信仰者
③比 丘:具足戒(規律)を遵守する男性非政府主義者
④比丘尼:具足戒(規律)を遵守する女性非政府主義者
■
仏教における実践項目には、非政府主義的実践行為が多い。
(自宅、家庭、社会への帰属を断捨離etc)
しかし、世捨て人でありながら阿羅漢(在家者から功徳を期待される人)、
世捨て人でありながら世間解(世の中を理解している人)、
世捨て人でありながらサンガに対する衆生救済、教化活動の推奨etc
仏教徒が行う反社会・非政府的行為と、衆生救済を目的とする教化活動も、矛盾しない。
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出釈迦寺/香川県善通寺市【四国八十八箇所霊場第73番札所】弘法大師が崖から身を投じた「捨身ヶ嶽禅定」伝説の地
出釈迦寺とは 我拝師山求聞持院出釈迦寺(がばいしざんぐもんじいんしゅっしゃかじ)は、香川県善通寺市吉原町(かがわけんぜんつうじしよしわらちょう)にある真言宗御室派の寺だ。 四国八十八箇所霊場の第73番札所で、本尊は釈迦如来(しゃかにょらい) 出釋迦寺の開基には、弘法大師幼少期の数ある伝説のひとつ「捨身ヶ嶽」縁起にゆかりがあります。それは、弘法大師が“真魚”と呼ばれていた7歳の時。我拝師山に登り「私は将来仏門に入り、仏の教えを広めて多くの人を救いたい。私の願いが叶うなら釈迦如来よ、姿を現したまえ。もし叶わぬのなら一命を捨ててこの身を諸仏に捧げる」と、断崖絶壁から身を投じました。すると、紫色の雲が湧き、釈迦如来と羽衣をまとった天女が舞い降り、雲の中で弘法大師を抱きとめました。命を救われ、願いが叶うことを示された弘法大師は、青年になって我拝師山の山頂で刻んで安置し、堂宇を建てたといいます。 …

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30番
テキスト『神真理を告げたもう』『いのちの革命』/小林さんの話、夫の家出/山崎医学博士の体験、三角関係の解消、離婚について、三角関係のない実相を見た時、関係が自然に解消し首切り瘍が自然に消える/人生の目的/神の自己表現/神は内なるアイディアを表現せずにはおれない/示・・・表現、申・・・言葉、=神/「存在するとは私のアイディアがそこにあるということである」p40/神の自己表現である/B面/釈迦の悟り/苦行は悟りの種にあらず=人間巧者が入るので神と波長が合わない/自然とそのままでなければ、自然と一つになれない/そのままの心になった時、そのままを悟られた/華厳経、この世界の中心座に大日如来、天照大御神が坐し給う/華厳経に表れた日本国/真の政治の実現/生政連/紙の不足と節約
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僕は一人の仏教徒としてこの記事を実に興味深く感じると同時に,各宗派の僧侶には自宗の教義を真摯に見つめ「そこに本当に矛盾は無いか」「そもそも現時点における教義は宗教として成り立つものか」といった再検討を行うよすがにして欲しいという思いを抱きました。 仏教においては「無我」ということが言われます。仮に我というのを「普遍的な本質」と解釈し,かつ「無我」と言う言葉を「我は存在しない」「我が無い」と解釈すれば「人間には本質が存在しない」という意味になるでしょう。しかし一方では仏教では輪廻ということが言われ,しかも「死んだらその後は何も無い」という考え方(「断見」)についても明確に否定しているので,それらを矛盾無く統一的に説明する必要があります。この点については「釈尊が説いたのは『無我』ではなく『非我』だ」「我執への拘りを捨てよという意味だ」などという解釈や「魂のようなものは存在するが,それは永遠に全く変化しないものではない。生きているときにも少しずつ外部の影響を受けて精神が変容することがあるのと同様,死後にも変容を続ける。つまり常住不変の『我』は存在しないが,それは『魂のようなものが存在しない』という意味ではない」などという解釈もあり,そう考えれば無我と輪廻との矛盾は回避出来そうにも思えますし,日本以外の仏教国ではそのような説明がしばしば為されていると聞いています。 しかし日本仏教においては,そのような説明が為されることは稀です。僕は仏教各宗派のホームページを読んでみたのですが「死んだ後に,人はどうなるのか」という疑問についてズバリと答えたものに出会えた機会は殆どありません。「おや」と思ったのは浄土真宗の一派である本願寺宗門(大谷本願寺派)の見解でしょうか。同宗門は本願寺眞無量院のホームページにおいて「釈尊は、死は決していのちの終わりなのではなく、その先の後生というものをお説きになられました。今の命の後にまた生まれるのです」と説き,また東山浄苑東本願寺のホームページおいても「今は亡き御先祖は、阿弥陀如来の『摂取不捨』【せっしゅふしゃ】のお誓いにより極楽浄土に往生し、阿弥陀如来と共に私達を見守って下さっています」と記載している例くらいでしょうか。ここまで明快に説いた記載は,僕が知る限りでは非常に稀です。 宗派のホームページでは駄目なのかと有名なご僧侶方の著書を読んでもみました。しかしそれらにも「どう生きるべきか」といった点では示唆に富む記載が数多く見られるにものの「人は死んだらどうなるか」ということを詳細に論じたものには殆ど出会えません。それどころか「無我というのだから魂や霊魂のようなものは無い」と一刀両断してしまうものすら存在します。では仏典において輪廻や来世について記載されていることをどう考えるかといえば「あれは釈尊在世当時のインドでは常識的な考えだったので,一般人にも判り易いように便宜的に説いただけだ」といったように「釈尊の言葉ではあるが,真実ではない」とあっさり切り捨ててしまっています。 無論,僕は素人ですから「実はそうなのだ」と言われれば反論は困難です。しかし本当にそれが仏教なのでしょうか。たしかに釈尊は「方便」といって人を導くために便宜的に真実とは異なる教えを用いることを許容しています。しかし「実は輪廻も来世も無い」と説きたいのであれば,各経典であれほど盛んに輪廻について論じてしまったのは明らかに大失敗だったでしょう。「無我と輪廻とを矛盾なく説明するにはどうすれば良いのか」と後年の僧侶や学者たちが大いに頭を悩ませることになったのだし,むしろ「後世の弟子たちを誤解させた」ということになってしまいます。そもそも釈尊が本当に「輪廻も来世も無い。死んだらそれまで」と言いたかったのであれば,先述のとおり当時のインドには既にそれと全く同じことを主張する「断見」という考え方がありましたから「実は断見が正解なのだ」と説けば済むだけの話だった訳です。 釈尊だけではありません。日本仏教の各宗派は釈迦直説ではなく真言宗ならば空海・天台宗ならば最澄といった各宗祖によって纏め上げられたものです。それらの宗祖も「死んだらそれまで。完全消滅」などと言った者は誰も存在しません。日本にはインドのような輪廻思想は無かったのに,それにも拘らず各宗祖は「便宜的に」輪廻思想を説いたというのでしょうか。こちらとしては困惑するばかりです。 そもそも,素人なりに考えれば「来世は無い」という考え方では仏教には説明のつかないことが多々存在します。たとえば仏教の僧侶たちは檀家の葬儀や法事を司式し,寺院に設けられた墓地に埋葬された人々のために経典を読誦しています。或いはそれについては「葬儀や法事において行われているのは故人への供養ではなく追憶だ」などという説明も可能かもしれません。埋葬された人々のための読経についても「遺族が毎日墓参し故人を追憶するのは困難なので,僧侶はそれを代行しているのだ」という説明も不可能ではないでしょう。 しかし「釈尊は何のために弟子たちに修行と悟りとを勧めたのか」という根本的な点については,解脱や来世の存在を無視しては説明がつかないのではないか。僕はそう確信します。そもそも仏教ではこの世を「苦」の世界と捉え,またその「苦」を脱することを「解脱」「悟り」と称し,その境地に至るために修行を行います。しかし仮に輪廻も来世も存在しないのなら,苦を逃れるのに一番簡単な方法は死んでしまうことです。しかし釈尊は弟子たちに自殺を勧めたりはせず,戒を遵守しての修行を勧めました。その理由は「死んでも『苦』を逃れることは出来ない」からで,何故逃れられないのかといえば死んだあとには輪廻して再び来世において苦の世界を生きることになるからでしょう。なおこの点について「仏教には不殺生戒というものがあり,自殺はその戒に反するから出来ないのだ」という意見もありますが,これも疑問です。仮に自らの命を絶つことが仏教の教義上「殺生」に該当するとしても,もし来世というものが無いのなら死んでしまえばそれまでの話です。 因みにこれは来世の問題とは直接の関係は無い話ながら,仮に「無我」という言葉を「人間の本質が存在しない」と解釈すると,仏教における戒というものの存在根拠までが失われかねません。仏教においては出家者が不殺生戒や不偸盗戒(盗みの禁止)・不邪婬戒・不妄語戒を犯すことのうち特に悪質なものを「波羅夷罪」といい,僧侶の資格を失うとされています。しかし人間の本質というものが本当に全く存在しないなら,破戒したときの「私」と今現在の「私」も全くの別物であり,今現在の「私」が自らとは全く無関係な別物の咎を負う理由も存在しないことになってしまします。無論,そんな馬鹿な話が通用する筈もありませんが,何故通用しないのかと言えばその理由は「以前に破戒した『私』と今現在ここに居る『私』とは同一の存在だから」としか説明のしようが無いでしょう。 さて,そのような前提に基づいて今回の鵜飼秀徳氏の記事を読んでみました。同氏は真言宗(高野山真言宗)・天台宗・日蓮宗を「霊魂肯定派」とし,一方で浄土宗・浄土真宗(真宗大谷派)・臨済宗(臨済宗妙心寺派)・曹洞宗を「霊魂否定派」に分類しています。 このうち浄土宗については,実は霊魂肯定派なのではないかとも僕には思われます。「お浄土に生まれることを願う」と言っているのですから。そのような宗旨であれば「何が浄土に生まれることを願っているのか。それは現世を生きている『私』と何らかの同一性・継続性を有するのか否か」という点を無視することは出来ません。思うに,人が命尽きても肉体はこの世に残ったままですから「肉体ごと浄土に生まれ変わる」ということは有り得ません。また一方「現世の『私』が命尽き,その後『私』とは全く無関係の存在である何者かが浄土に生まれる」というのではそれを「私が浄土に生まれる」とは言えません。霊魂とは別の名ではあってもそれに類した何かの存在を前提にしていることは明らかで,これを「霊魂否定派」に加えることには僕は疑問を覚えます。浄土宗の見解についてはもっと突き詰めて考察し,本当に霊魂否定派なのか或いは実際には霊魂肯定派なのかを確認する必要があるのではないでしょうか。 一方,臨済宗妙心寺派の見解は「何とも歯切れの悪い」と感じられます。「常見(死んでも霊魂は残る)でも断見でもなく,死んだら終わりでもない」というのでは何も言っていないのと同じです。仏教は中庸を重んじるとはいえ,これは「中庸」ではなく単なる八方美人ではないかとしか思われません。 この点,同じ禅宗でも曹洞宗の回答は「葬送儀礼の中で戒を授ける対象を『霊位』、仏戒を受け諸仏の位に入った者を『覚霊』と位置付けたり、有縁無縁の先亡を『萬霊』とし、儀礼、供養において『霊魂』を対象にしている」とも認めているあたり,臨済宗妙心寺派よりはずっと明晰で誠実なもののように思われます。但し「では霊魂は存在するのか。それとも実は存在しないが民俗に話を合わせてそう言っているだけなのか」という点については明確にしておらず,やはり肝心のところを誤魔化されているように思ってしまいます。 僕がもっとも受け入れ難く感じたのは真宗大谷派の見解です。「存在や死後が存在するか、しないかのどちらかにとらわれる見解を離れよ」というのは一つの考え方として尊重に値するものですが「霊魂が存在するか否か」という質問に対してそのように答えるのは「はぐらかし」というものです。「とらわれを離れる」のと「存在するかしないか」は全く別の話ですから。たとえば僕は昨日モスクワで太陽が見えたか否かに関心は無く「とらわれ」てもおりませんが,仮に「昨日のモスクワで太陽は見えたか」と問われて「そのようなものにとらわれるな」と答えたのでは,それは回答になっていません。同じ浄土真宗でありながら本願寺宗門(大谷本願寺派)が先述のとおり「今は亡き御先祖は、阿弥陀如来の『摂取不捨』【せっしゅふしゃ】のお誓いにより極楽浄土に往生し、阿弥陀如来と共に私達を見守って下さっています」と「死んだらどうなる」という問いに真正面から,しかも宗祖たる親鸞の教えから逸脱しないことを述べているのとは雲泥の差といっては,或いは言葉が過ぎるでしょうか。 次���霊魂肯定派の真言宗(高野山真言宗)・天台宗・日蓮宗の見解について見てみると,それぞれ言っていることは違いつつ,質問に対して真正面から答えていることは共通しています。高野山真言宗の「人間は大日如来から命を与えられてこの世に生まれ、肉体の滅びる後は再び大日如来の内に帰還する」という考え方はむしろウパニシャッド哲学の「梵我一如」に近く,他の宗派とは別の仏である大日如来を崇敬している真言宗においては釈尊の説く「無我」に囚われることは無く,そもそも考え方もやはり他の宗派とは異なるのかと思われます。また日蓮宗の「宗祖が霊魂の存在を認めている」という回答については真宗大谷派の「宗祖と全く違うことを言っていないか」との重大な疑念を抱かせる回答とは対極に位置するものであり,率直で筋の通ったものだと感じられます。 僕が特に注目させられたのは天台宗の「死者儀礼に関与できたことも霊魂の存在を信じることなしでは成り立たない」「霊魂の存在を否定すれば仏教は単なる哲学や道徳律となって、宗教ではなくなってしまう」という回答です。日本仏教においては「人は死後どうなるか」という問題を棚上げにすることで仏教を科学と矛盾しないものにしていこうという考え方があったと聞いておりますが,そのような態度を貫けば「葬送儀礼や先祖供養に際し,故人は今どこでどのようにしているのかを知りもせず答えてもくれず関心すら持っていない,甚だしくはその問題を忘れるようになどと説く僧侶の手など借りても意味が無い」という結論に至るのはある意味当然のことです。近年,日本人の仏教離れやお寺離れということが指摘されていますが,臨済宗妙心寺派や真宗大谷派の見解のようなことを告げられた檀家としては「離れ」ていくのはむしろ当然のことだと僕には思われます。本当にそれで良いのか,特に霊魂否定派はその点を再考する必要があるのではないか。僕はそのように考えます。 なお,日本ではしばしば「幽霊は居るか」という意味で「霊魂はあるか」と問う者が存在します。これに対し「ちゃんと供養しているのだから幽霊になって出てくることは無い」或いは「迷信に惑わされないように」という意味で「霊魂は無い」と回答する僧侶たちが存在することは意識しておく必要があるでしょう。我々一般人からの質問に対しお坊さんが「霊魂は無い」と回答したからといって,それが「死んだらそれまで」という意味とは限りません。但しこの疑問についても仏教的に答えれば「幽霊は居る」というのが正解かもしれないと僕は思っています。上座部仏教では「幽霊もまた生き物であり,それは六道のうち餓鬼に属する」と考えます。生き物である以上むやみに恐れる必要は無いし,心を込めた真摯な供養で救済される存在ではあるのは勿論のことですが。因みに「幽霊の寿命は400年。その証拠に江戸時代の幽霊は目撃例があるが,それ以前の幽霊が目撃されるのは稀だ」などという俗説があります。これも「幽霊も餓鬼という生き物であり,いずれは命尽きて再び輪廻していくのだ」と考えれば説明のつく話ですね。 いずれにせよ「来世が無いなら,僧侶は葬儀や法事で何をしているのか」「来世が無いなら苦を逃れるためには死んでしまうのが一番簡単な筈だが,仏教ではそのようなことは説いていない。実は来世があるからではないのか。本当に『来世が無い』という考え方は仏教的に正しいのか」という僕の疑問や「霊魂の存在を否定すれば仏教は単なる哲学や道徳律となって、宗教ではなくなってしまう」という天台宗の指摘に対する,特に霊魂否定派の宗派に属するご僧侶からの見解を是非知りたいと僕は思います。それらについての回答を真摯に見定め,僕は自分なりの信仰を定め信心を深めていきたいと切に願っているところです。 ※本願寺眞無量院のホームページ https://www.shinmuryouin.jp/teachings/t008.html ※東山浄苑東本願寺のホームページ https://honganjifoundation.org/jouen/affair/
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【旅の記:京都2020冬①平等院鳳凰堂】
思い立ったが吉日、たまにはライブのない旅もしたい!ということで一泊で京都へ一人旅。一人でただの旅ってやっぱりワクワクするよね。
いろいろ候補を考えたんだけど、、やっぱり世界遺産!とは言っても京都はたくさんあるのですがw、有名どころの平等院へ。宇治市にあります仏教寺院で、山号は朝日山で特定の宗派に属さない単立寺院。9世紀末光源氏のモデルともされる源融の別荘であったが、それが宇多天皇、源重信と渡り、かの藤原道長の別荘となる。その子関白・藤原頼道が1052年に寺院に改めたのが平等院のはじまり。
この年はお釈迦様の仏法が入滅から2000年目で廃れるという末法のまさに元年で、貴族たちは極楽往生を願って仏堂の造営に勤しんだ時期だという。かつては本堂・法華堂など多くの建物を擁したが、この辺りは戦略的要所でもあるのでしょう、南北朝時代の争乱以降、戦渦に巻き込まれることも度々、阿弥陀如来を安置する鳳凰堂のみが奇跡的に存続するに至ったそうです。
JR宇治駅から歩いてくると宇治橋と紫式部。源氏物語に宇治が舞台のお話があるそうです。源氏物語、読まなきゃな。宇治橋は飛鳥時代には架けられていたという。平安、鎌倉、南北朝時代といくども戦いが行われた場所でもあります。

参道へ。

鳥居があるほうは懸神社の参道ですのでご注意。

表門から。

観音堂。鎌倉時代に創建当時の本堂の跡に再建された建物。

鳳凰堂!10円の絵柄でおなじみ。極楽をイメージしたスタイル。お堂自体が翼を広げているように見えるのと屋根に鳳凰が一対(現在はレプリカ、本物はミュージアムにて)が据えられていることから、江戸時代から鳳凰堂と呼ばれるようになったとか。

真正面からは写真の順番待ちがある感じだったから、ちょっと横から。

鐘楼。平等院の梵鐘は鳳凰堂と同じころの鋳造とされ、日本三名鐘で国宝。現在吊るされているのはレプリカ。本物は、こちらもミュージアムにて。

ここでミュージアムを見学。本物の鳳凰、梵鐘ほか数々の貴重な仏像、工芸品、出土品を堪能させていただきました。
そして鳳凰堂裏手の浄土院にある養林庵書院。秀吉の居城だった伏見城から移築されたとか。多くのお宝があるみたい。。庭園は細川忠興の作庭とか。

塔頭浄土院。室町時代、後輩していた平等院修復のために創建されたお寺とされる。阿弥陀如来を安置する本堂。大書院には後醍醐天皇が滞在したと言われる御座所が残る。

羅漢堂。1640年建立。

もう一つの塔頭、1654年創建の天台宗寺門派聖護院の末寺である最勝院。江戸時代から、平等院は浄土院・最勝院の共同管理になっている。

鵺退治でも有名な源頼政のお墓。平家の専横をよしとせず後白河法皇皇子以仁王とともに挙兵を計画、諸国の源氏に以仁王の令旨を伝える。しかし、計画がばれて平家の追討を受け宇治平等院の戦いに敗れ自害した。令旨は頼朝や義仲に届き蜂起、平氏が滅びる発端になったと言える。

帰り際観音堂のそばにある頼政が自刃したという扇之芝へ。辞世の句は 埋もれ木の 花咲くこともなかりしに 身のなる果てぞ 哀れなりける 泣けます。。

鳳凰堂内も見学させていただき、阿弥陀如来さまをありがたく拝見させていただきました。
鳳凰堂と

阿弥陀如来の御朱印をいただきました。

平等院、裏手?には縣(あがた)神社。創建は不詳。平等院建立の際に鎮守にしたとされる。


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ヨーガ
概説
森林に入り樹下などで沈思黙考に浸る修行形態は、インドでは紀元前に遡る古い時代から行われていたと言われている。
古ウパニシャッドのカタ・ウパニシャッドでは、感覚器官の堅固な総持(制御)がヨーガであるとされており、インドの宗教・仏教の研究者奈良康明は、ヨーガを簡潔に説明すると、呼吸を調整しながら、あるものを思念瞑想し、ついには恍惚状態となってその対象と合体する技法であるとしている。
ヨーガという言葉及び思想は、インドの長い歴史においては比較的新しいものである。
ヨーガ登場以前には苦行(tapas、熱の意)という語が用いられたが、苦行が肉体を苦しめることで強い緊張を伴う精神状態を生じるのに対し、ヨーガは平静な観想を本質とするものであり、両者は多くの関係があるが、同一であるとは言い難い。
ヨーガはインドの諸宗教で行われており、仏教に取り入れられたヨーガの行法は中国・日本にも伝えられ、坐禅となった。
4-6世紀頃に体系化されたと考えられており、六派哲学のヨーガ学派の教典『ヨーガ・スートラ』が現在に残されている。
ウパニシャッドにもヨー���の行法がしばしば言及され、正統バラモン教ではヨーガ学派に限られずに行われた。
ウパニシャッドの梵我一如思想の流れをくむ解脱への道ジュニャーナ・マールガ(智道、知識の道)では、感覚器官を抑制し、輪廻の根源となる行為、さらにその根源である欲望を断つ必要があったため、感覚器官と心の動きを抑制するヨーガは解脱への手段として重視された。
ジャイナ教でもヨーガの修行は必須であり、仏教の開祖である釈迦もヨーガを学んでいる。
とはいえ、ヨーガ学派はヨーガ自体を解脱への方法と見做したが、ヒンドゥー教全般で見ると、ヨーガは解脱への道の一種の補助的な手段に過ぎない。
苦行は苦行者だけでなく、祭祀においても浄め等のために行われたので、祭祀を通じて一般化し、ヨーガも影響を受け、後代では苦行が採用されるようになった。
伝統的な動的ヨーガは、肉体的・生理的な鍛錬(苦行)を重視し、気の流れを論じ、肉体の能力の限界に挑み、大宇宙の絶対者ブラフマンとの合一を目指すハタ・ヨーガとそのヴァリ��ーションである。
「ハタ」は「力、暴力、頑固」などを意味する。
ハタ・ヨーガはヨーガの密教版ともいうべきもので、12-13世紀のシヴァ教ナータ派のゴーラクシャナータ(英語版)(ヒンディー語でゴーラクナート)を祖とする。
ムドラー(印相)や、プラーナーヤーマ(調息、呼吸法)、シャットカルマ(浄化法)などの身体的修練を重視した。
ハタ・ヨーガの主張はヒンドゥー教のシヴァ派やタントラ仏教(後期密教)の聖典群(タントラ)、『バルドゥ・トェ・ドル(チベット死者の書)』の説と共通点が多く、プラーナ(生命の風、気)、ナーディー(英語版)(脈管)、チャクラ(ナーディーの叢)が重要な概念となっている。
ただし、今日ヨーガと呼ばれるものの多く動的なヨーガだが、伝統的なハタ・ヨーガの流れとは別である。
1990年代後半から、身体的ポーズ(アーサナ)に重点を置いたヨーガがアメリカ、イギリスなどの英語圏を中心に世界的に流行している。
現代では、一般に“ヨーガ(ヨガ)”または“ハタ・ヨーガ“と呼ばれるものの多くは、このヨーガを指している。
この近現代のヨーガは、日本においてもアメリカなどの影響により、今世紀に入って爆発的な広がりを見せている。その特徴は「アーサナ(ポーズ)」の実践にある。
宗教学者のデミケリスはこうしたヨーガを「現代体操ヨーガ(Modern Postural Yoga)」と呼んでいる。この現代の「ヨーガ教室」等で教えられているヨーガは、20世紀前半のインドで西洋の体操やボディビルディングなどの外来の身体鍛錬を取り入れてインド人のための国産エクササイズを作ろうとする動きから生まれた「創られた伝統」を直接的な起源としており、現代のヨーガと元来のヨーガにおける「yoga」とは似て非なる「同音異義語」であると言える。
このヨーガは、アメリカで「スピリチュアルな実践」とも解釈されている。
多くの現代人はヨーガに「インド古来の、何か難しいポーズをとる、健康に良いらしいもの」というイメージを持っており、現代ヨーガは流派によって練習内容が異なりはしても、「古代インドの修行法」「アーサナ(ポーズ)・呼吸(プラーナーヤーマ=調息)・瞑想」、「科学的に検証された健康に良い効果」という3点から構成され、この神話的要素ともいえる3つの絡み合いが魅力になり、人気を博していると思われる。
健康法として多くの効果が喧伝される一方、心身に対する様々な危険性も指摘されている。
また現代では、様々な文献が翻訳・執筆され容易に入手できるので、書籍や映像により独習されることも少なくない。
ヨーガを取り入れていたオウム真理教の教祖麻原彰晃は、正規のグルにつかず文献を基に独学で修行している。
しかし、このことがのちに様々な問題を生ぜしめた要因の一つであるとも言われている。
その一方、アヌサラ・ヨーガやビクラム・ヨーガといった巨大ヨーガ教室のトップがセクハラ、パワハラ、性犯罪で告発されるなどの権力の乱用もあり、商業化された現代のヨーガで、指導者に帰依することは妥当かどうか疑問も持たれている。
Wikipediaより
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\おにわさん更新情報📸/ [ 京都市右京区 ] 天龍寺庭園 Tenryu-ji Temple Garden, Kyoto の写真・記事を更新しました。 ーー #世界遺産 にも構成されている、日本庭園の最高傑作のひとつ。室町時代に禅僧 #夢窓疎石 が作庭した曹源池庭園。 ・・・・・・・・ 天龍寺は室町時代に時の将軍 #足利尊氏 が開いた寺院で、世界遺産 #古都京都の文化財 にも構成。 夢窓疎石により作庭された“曹源池庭園”は国の #特別名勝 に指定されています。 個人的には京都および日本国内で最も素晴らしい日本庭園の一つだと思う。 東京の時の友人の友人(すなわち他人)の女子が旅行でこの天龍寺庭園に出会い、OLから庭師を志したエピソードがすごく好き。 2019年の夏に3年ぶりに訪れて、そして12月にも訪れたのでその時の写真を更新しました。こちらは夏の写真! 天龍寺が開かれたのは室町時代初期の1339年。室町幕府初代将軍・足利尊氏が夢窓疎石(夢窓国師)の勧めもあり、南北朝時代のライバルでもあった後醍醐天皇を弔う��め #夢窓国師 を開山として創建。 室町幕府により定められた #京都五山 では別格『南禅寺』に次いで第一位という格式をほこる禅寺であり、現在は臨済宗天龍寺派の大本山。ちなみに正式名称は霊亀山天龍資聖禅寺。 明治時代に上知令で寺領を没収されるまでは現在と比べても広大な境内をほこり、現在の亀山公園や嵐山、渡月橋のあたりまでが境内地だったとか。 平安時代には亀山天皇が営んだ離宮『亀山殿』がこの地にあり、それを禅寺に改めたのが天龍寺のはじまり…この辺の成り立ちは南禅寺と同じ。 その後は応仁の乱⚔️や幕末の蛤御門の変🔥の戦火を含め時代ごとに大火に見舞われたため、境内の建造物は比較的新しく明治時代~昭和にかけてのもの。 参道から正面に見る大きな庫裏や庭園を眺められる大方丈は1889年(明治32年)の再建。大方丈にある御本尊“木造釈迦如来坐像”は国指定重要文化財。 その中で #室町時代 の面影をよく残していると言われるのが“曹源池庭園”。 嵐山・亀山⛰を借景とした #池泉回遊式庭園 は夢窓疎石の作庭と伝わる中では最も規模も大きく優美・雄大な代表作で、日本国内で最初の国特別名勝・特別史跡のうちの一つ。 建物から見て広大な池の中心部に滝が組まれていて、その石組や自然石の石橋、池の中に浮かぶ岩島もこの庭園の見どころ。 まあでも…深く捉えようとしなくても、天龍寺庭園は直感的にここはスゴイ、と思わせられる庭園だと思う。自分が京都で最も良い庭園を求められたらこちらと『修学院離宮』が思いつくのは、���泉回遊式庭園+周囲の山々との関係に自分の好みがあるからなんだろうなあ。 天龍寺の拝観は”建物+庭園”と”庭園のみ”とありますが、大方丈から目線を上げて眺めるとまた印象が異なる。そして建物も含む拝観で屋根付きの廊下を辿ってゆくと、千利休🍵が聚楽第に作った茶室“残月亭”にちなんで(写しとして)昭和初期に作られた茶室“祥雲閣”“甘雨亭”の外観を眺めることもできます。 現代になって以降も、天龍寺の御用庭師の #曽根造園 曽根三郎さんにより前庭の枯山水庭園が作庭されたり、昭和58年に季節の花々を楽しめる“百花苑”の作庭、平成年代には日本画家・加山又造によって法堂に『雲龍図』が描かれました🐉 なお明治期の画家 #鈴木松年 による元の『雲龍図』も毎年2月に特別公開されています。 嵐山はいつ行っても人が多いのであまり気軽に足を運んではいないけれど、死ぬまでに何度も訪れたい日本庭園のマスターピース! 〜〜〜〜〜〜〜〜 🔗おにわさん記事URL: https://oniwa.garden/tenryu-ji-temple-garden-%e5%a4%a9%e9%be%8d%e5%af%ba%e5%ba%ad%e5%9c%92/ ーーーーーーーー #庭園 #日本庭園 #京都庭園 #japanesegarden #japanesegardens #kyotogarden #zengarden #京都 #京都市 #kyoto #嵐山 #嵯峨嵐山 #arashiyama #sagaarashiyama #musososeki #zentemple #世界文化遺産 #worldheritage #おにわさん (Tenryū-ji) https://www.instagram.com/p/B78PVGoAQey/?igshid=dqoppixzscva
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天平のかたち 興福寺中金堂再建 自然の光で輝かせる 仏像の見せ方を工夫 /奈良
毎日新聞
興福寺・中金堂の内陣は、ほぼ落慶の準備が整った。大きく変わったのは須弥壇(しゅみだん)の四方を固める四天王。南円堂にあった立像4体(国宝、鎌倉時代)を持ってきた。新たな四天王立像は、顔やよろいの表現がシャープで躍動的。表情も厳しく、緊張感が漂う。須弥壇全体を引き締めている。
旧中金堂にあった四天王像(鎌倉時代)は、もともと南円堂にあったことが分かり、戻すとともに南円堂の他の仏像にならって重文から国宝に格上げされた。北円堂の四天王像を招く選択肢もあったが、やや小ぶりで、内陣全体のバランスを考えて南円堂から来てもらったという。
本尊、釈迦(しゃか)如来坐像(ざぞう)(江戸時代)も“別人”のような印象。金箔(きんぱく)を押し直し、真新しいお堂にふさわしい輝きを取り戻した。脇士の薬王菩薩(ぼさつ)立像と薬上菩薩立像(いずれも重文、鎌倉時代)が以前と変わらず、左右から守る。
須弥壇のステージに新たに加わったのは、国宝館に並んでいた大黒天立像(重文、鎌倉時代)。大黒さまと言えば、円満な笑顔で打ち出の小づちを持ち、大きな袋を肩から下げ、というのが相場だが、これは江戸時代以降のこと。インドではシバ神の化身で憤怒の表情をしていた。
中金堂の大黒天は、頭巾をかぶり、あまり大きくない袋を持っている。表情はかなり厳しい。仏像の配置を差配した多川俊映貫首は「(大黒天などの)天部の仏さまはできるだけお堂に戻して参拝者の近くにいらしてもらった方がいい」と話す。人々にとって近しい存在で、さまざまな御利益をもたらしてくれる仏さまだからだ。
そして法相柱(ほっそうちゅう)が内陣のアクセントになっている。柱とはりの赤、壁の白がなす大空間で鮮やかな群青が目を引く。須弥壇に仏像群が陣取り、高さ10メートルの法相柱に14人の高僧が浮かぶ。お堂全体が三次元曼陀羅(まんだら���となる。多川貫首は「大満足。イメージしていたよりずっといい」と目を細めた。
照明は補助的なものに限り、できる限り自然光で参拝してもらうという。金をまとったお釈迦さまが自然の光を受けて輝く。仏教が伝来した際、初めて仏像に拝した欽明天皇は「仏の相貌(かお)、瑞厳(きらきら)し……」とその感動を言葉にしたと日本書紀は記す。新しい中金堂ではそんな「きらきら」が体感できる。【大川泰弘】
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