#��本線の塀
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2025.06.22(日)
6月あれこれ。
この時期の好きな哥川の句
叩いても こころの知れぬ 西瓜かな
さそふ水 あらばあらばと 螢かな
#西瓜#浅野川#加賀友禅灯ろう流し#比咩(ひめ)の湯#金沢工業大学 白山麓キャンパス#ミッションインポッシブル#映画#女人京都#酒井順子#紫陽花#ずんだ餅#牛たんラー油#仙台土産#時宗 称念寺#五本線の塀#菩提樹(シナノキ科)ちなみにインド原産のインドボダイジュは���ワ科#イネディット#プレミアムビール
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日本意味わかんない ・トイレが無料だがウォシュレット完備で超清潔 ・自販機で交通系カードまで使えてさまざまなドリンクが60ペンス ・モールに刃物を持ったギャングやヤク中がいない ・道に乞食がいない ・人が臭くない ・中高生がナタ持ってない ・ヘロインやってる奴がいない ・イオンやホムセンで電ノコで車をぶった斬って車上荒らしをする奴がいない ・その辺に畑があり電気ショックが流れるバラ線や塀で囲まれていない ・無職難民とか不法就労がその辺を歩いていない ・大麻の煙が漂っていない ・バスでKFCの骨を吐いたり殴り合う奴がいない ・郊外はほぼ100%日本人しかいない ・寿司が1パック4ポンドだがロンドンの80ポンドの寿司よりはるかにうまい ・その辺のスーパーで高級タラバガニとか高価な食材がガンガンある ・映画館のポップコーンとドリンク2名分が7ポンド。イギリスの半額 ・本屋に莫大な種類の雑誌やマニアックな本があり値段が英語圏の三分の一とかだが客は買っていない ・やたらと手帳とカレンダーがあり皆買っている ・やたらとテレビの種類が多く値段がイギリスの半額 ・100円ショップになんでもあるが店内で刃物を振り回す奴がいない ・人は大量にいるが事件が殆どない ・警官が小柄で武装しておらず極めて親切でナイスな紳士だらけ ・闘犬を連れた奴がいない ・子供の凶暴性が皆無 ・清潔な服の人しかいない ・ラーメン屋の気合いが凄い ・郊外のリサイクル屋に新品に近い家電やバカラやウェッジウッドのような高価な食器、キャンプ用品、高価な釣り道具がしれっと並び異様に安いが皆買わない ・綺麗な車だらけ ・その辺のモールで車の実車を展示して盗む奴がいない ・車がやたらと安い ・自転車がやたらと安い ・超高価な犬を抱えた人がやたらといる ・ハーフの子供をみて大興奮し握手を求めてくる老人 ・巨大な大根や白菜 ・しれっと並ぶロシア産海産物 ・学校の送り迎えで車の駐車で揉めて殴り合いやる親がいない ・自分が菜食主義なのを自慢して日本人下げしてくる特定宗教親がいない ・自分にはすでに婚約者がいると自慢してくる7歳児がいない ・外食や給食でハラル肉を強制されない
XユーザーのMay_Roma めいろま 谷本真由美さん: 「日本意味わかんない ・トイレが無料だがウォシュレット完備で超清潔 ・自販機で交通系カードまで使えてさまざまなドリンクが60ペンス ・モールに刃物を持ったギャングやヤク中がいない ・道に乞食がいない ・人が臭くない ・中高生がナタ持ってない ・ヘロインやってる奴がいない」 / X
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山形城
羽州探題斯波氏(最上氏)が南北朝時代に築いた城。最上義光の頃に出羽57万石の居城として三の丸を含む城郭の大きさは全国で5番目、東北地方では最大規模を誇った。

復元された二の丸東大手門


門をくぐると桝形虎口に二の丸北櫓


大きな櫓門

内側から見た状態



内側から見た二の丸東大手門の土塀


二の丸全景



躍動感ある最上義光像

更に進んで現在整備作業中の本丸に


復元された本丸一文字門

美しく積まれた石垣と土塁、雪に覆われた空堀は深さ、幅ともかなりの規模。右手が二の丸で左手が本丸



門をくぐると桝形虎口



虎口の先はいよいよ本丸。直線的に積まれた石垣

いよいよ本丸に入って振り返り虎口を見た


本丸は元々天守は築かれず御殿があった。中央は井戸跡

本丸を出てぐるりと囲む空堀を回る。


続きは以下から
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本に線を引く、その箇所をあとで読み返すとき全体の文脈は忘れてまずその一節に出会う、一節は文脈を離れ、私はそこからいろいろ感じはじめる、もちろんここで夏の葉が生い茂った庭を囲う空き地のコンクリート塀を私は思う、コンクリート塀には何も書かれていない、暴走族の落書きもない。
— 保坂和志著「花揺れ土呟く」(『猫がこなくなった』2021年1月Kindle版、文春e-book)
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【かいわいの時】元禄六年(1693)八月十日:井原西鶴没 (大阪市史編纂���「今日は何の日」)
西鶴は、「誓願寺本堂西のうら手南向、三側目中程」(滝沢馬琴)に葬られた。その墓は、誓願寺境内で3回[註]移設されている。その経緯および実行者を記すと
(1回目 1889年)幸田露伴 今や露伴幸に因あり縁ありて、茲に斯に來つて翁を吊へば、墓前の水乾き樒枯れて、鳥雀いたづらに噪ぎ塚後に苔黑み、霜凍りて屐履の跡なく、北風恨を吹て日光寒く、胸噫悲に閉ぢて言語迷ふ。噫世に功ありて世既に顧みず、翁も亦世に求むるなかるべし。翁は安きや、翁は笑ふや、唯我一炷の香を焚き一盞の水を手向け、我志をいたし、併せて句を誦す、翁若し知るあらば魂尚饗。九天の霞を洩れてつるの聲 露伴。「井原西鶴を弔ふ文」『小文学 第1号』1889より。
*幸田露伴が処女作『露団々』で金港堂から得た原稿料は五十円(現在価値で約170万円)。その「資」で露伴は旅に出る。1888年大晦日から1889年1月31日まで丸ひと月(露伴来弔はこの折。移設費用は、その「資」で賄った)。「時に嚢中一銭も無くなりければ、自ら経済の妙を得たるに誇ること甚し」(『酔興記』)。
(2回目 1910年)木崎好尚 浮世の月二年見過ごして二百七十年の昔(略)印の墓はいつしか八丁目寺町誓願寺の無縁塔におし込められしを二十余年前幸田露伴君が旅の置みやげに現今の本堂東南手に再興されしも浮世草紙の紙よりも薄き人情今度の電路問題の墓地取払ひの憂い目見る墓のぬし誰も見返るものなく《略》二百十年忌の追善発起の手前それがし痩せ腕を揮うて施主と相成申さん四日の日曜の午後一時に形計の移転式を営んで下さいと口約して置いた《略》さて、今度の改葬場所は元の地点に近いと信ぜらるゝ本堂の西南手の樟の下陰と定めたれば鶴のなき声に尋ね寄らんとする文学上有縁の方々に此顛末を告参す(大阪に��好尚)。「東京朝日新��� 明治四十三年十二月五日」
(3回目 1933年)南木芳太郎 明治二十幾年の頃、幸田露伴氏によって無縁塔中より発見され、門内近き所に建てられてあったが、明治四十二年の冬、電車通路の爲寺域は狭められ墓地整理の止むなきに至ったのを木崎好尚氏によつて、本堂西南手の通路に面し移されたのである、その後星霜二十幾年、現在に至りては背後が隣地との境界線にあるため、いつしか建てられし古小屋の板塀は痛く損じ實に見苦しく且つ墓域もなく悄然として無縁塔に並んであるのは如何にも侘しく感じられるので、今回誓願寺住職を促し更に西北隅の好位置に再轉させ、墓域を画し松壽軒に因み大なる松樹を植え、塔上を被ふ事とした、ほんの心だけであるが、これで墓らしくなったと思つてゐる。「西鶴の墓」上方郷土研究会『郷土研究 上方 第三十ニ号』1933(=写真も)
[註]滝沢馬琴が報告した「誓願寺本堂西のうら手南向、三側目中程」を本来の位置(0)とすれば、西鶴の墓は正確にゆうと「4回」移動している。以下に。( )内実行者
0)本堂西の裏手、三側目中程(北条団水他1名) 1)無縁塔の内(誓願寺) 2)本堂東南隅(幸田露伴) 3)堂の西南手、樟の下(木崎好尚) 4)西北隅の一画(南木芳太郎)
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人間はそう変わらない
先月、鎌倉まで海を見に行った。ここ数年自宅が仕事場となる生活をしていて、そうなると日々の暮らしは半径300メートルで完結してしまう。リビングにあるパソコン。近所のスーパーマーケット。スマホで得る情報と、ドラッグストアのクーポン券。そんなもののあいだを行ったり来たりしてるうち、日が暮れてしまうわけだ。窮屈なのは苦にならない性格だけども、それでもときどき頭の中に真水を流し込みたくなる。進みすぎた発酵は、腐敗と見分けがつかなくなるから。そんなときは、いったん全部流し台に流してしまう。蛇口をひねれば水が出るわけで、それで洗い流してしまえばいい。そんなわけで湘南新宿ラインを乗り継ぎ、鎌倉を目指した。
普段乗り慣れない電車に乗ると、不思議なもので、乗客たちの様相がいつもとは異なって見える。顔つきや着てるもの、塾帰りの長女と連れ添う母親の風貌も、光学的にいつもと異なる風景となって映る。ここにいる彼や彼女たちにも日常があり、暮らしがあるのだろう。車窓から見える家の、あの窓の向こうには、夫婦の寝室か、子供部屋がある。そこを拠点に半径300メートルの暮らしがあるやもしれない。見知らぬこの街で、一生のほとんどを過ごす人だっているだろう。なじみのレストランが閉店してしまったり、本当に愛し合った恋人たちが別れてしまったり。そんな平常がきっとここにもある。ことによっては自分がその彼や彼女��ったかもしれないと考えるとき、ぼくは彼らとの連帯を強く感じる。ぼくは即席のコミュニタリアンになってしまうわけだ。共同体主義者がたったひとり、海を目指す。これはおかしなこと。
鎌倉駅の前は人でごったがえしている。外国人観光客の密集が路地の裏まで。グローバリズムが生み出したマルチチュード=「来るべき大衆」というのは、彼らのことだろうか。ともかくその密集から離れ、海があるらしき方向に歩き出す。地元の住人であろう老人に尋ねてみた。ここから歩いて海までいけますかね?一瞬ぎょっとした目でぼくを見つめた紳士は、しばらくの呼吸停止の後、丁寧に応えてくれた。しばらく行くと大通りがあるから、そこを右折して道なりに行けば海に行けますよ、20分くらいかな。
雲のあいだから陽光が差し、海面の絨毯が光で揺れる。海だ。海を前にすると、人は天文学者になってしまう。海のさきにある広大な水平線が、日常の些末な出来事を飲み込んでしまう。だから人はそれを遠くから眺めるしかない。天文学者が望遠鏡で惑星を眺めるようにして。大好きだった人のこと。大嫌いな同僚のこと。そうした好意や反感に関連したやっかいな事情が、銀河の彼方にある無機質な恒星になる。これって不思議じゃないだろうか?だってぼくはいま海を前にしているだけで、ぼくの頭や手足の部品が交換されたわけではない。違うのは、目の前の風景だけ。でも風景が心の中を変えてしまう。情緒の変化が起こり、かかとの足音がこれまでと変わってしまう。なぜだろう。だって、ぼくは、ぼくだろ?ほんのすこし気分が変わっただけなんだろ?好きな人の前では緊張するし、通勤ラッシュの電車の中では殺伐とした気持ちになる。要するにそうした類のちょっとした気分の問題であって、ぼくの精神が耕した土、そこで実った果実が、増えたり、減ったりしたわけではないんだよね?
おそらくそうだ。なにも変わってはいない。人間はそう変わらない。少なくとも気分以外は。気分が変わることは、日常生活において十分にその意義のあること。それについて異論はない。しかし海を見て心が晴れたとて、あるいは空を見て感傷に浸ったとて、それはあなたを変えはしない。旅があなたを変える、旅はあなたのあらたな局面を切り開くとのスローガンは、羊飼いが羊を飼い慣らすためのトリックではないだろうか。広大な丘のどこにいってもいい。どこで草を食んでも、どの小川の清流を飲んでも、どこをどう駆けずってもいい。そう命じられた羊は、きっと命題としての自���を実感するだろう。だけどその自由は、あくまで羊飼いのためのもの。
これは結論とはいえない。けれども、さしあたり、いまのところ、前提条件ではある。結論を出すには時期尚早との迷いから、ぼくはそれを結論だとは見なさない。でも本当は知っているのだ。時期尚早でないどんな結論も、この世に存在しないことを。急ごしらえで生煮えの結論を、ぼくたちは生きている。そしてもちろんのこと、電車内の乗客たちはそんなのお構いなしみたいな顔をしている。蛇口をひねれば水は出るわけで、いったいなにを迷う必要がある?
ともかくこういうことだ。いつか機が熟すのを待って、然るべきときが来たなら、いざ飛び立とうなんて気でいたら、熟した柿は落ちてしまう。時のはざまへと落ちていく柿。そんなつぶれた柿の堆積こそが歴史なのかもしれない。だとするなら、ぼくの柿ももうすでに落ちてしまった後だ。だからそんな失われた時を求めて、書き始めることにしよう。ぼくは変わらない。新しい風景が、ぼくを新しくはしない。それは気分をほんの少し変えるだけ。だからといってなにも変える必要がないわけではない。ぼくはそう思っている。この同じ場所、半径300メートルをこそ、変えなければいけない。窓から見えるブロック塀を地図に見立て、そこに導線を引かなければならない。それは鉛筆で描くドローイングのようなもの。ぼくの目論見では、それらドローイングは成功も失敗もなく、すべてが傑作へと連なっていく。そしてそのために必要なのは翼で飛び立つことではない。線を引くこと。言葉を書き記すこと。失われた時を求めて、空想と現実とを散文で描き出すことなのだ。
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棕櫚の姫
そのコンクリートの塀を城壁と呼んでいた。広い広い敷地を囲って、高さもあり、壁の上には有刺鉄線が張り巡らされいかめしい。書道教室の行き帰りにいつも通る道で、城壁の作る影は湿っていた。苔が生え、蟻や蜘蛛が這っていた。蟻を目で追い、歩いていると、足元がぼこんぼこん鳴った。壁とはちがう色のコンクリートで蓋がされており暗渠だった。かつて川だったところにかけられた蓋で、ところどころ揺れる。城壁だなんて巨大に感じていたのはわたしが小さかったためだろう。
城壁の内側は二階建ての細長い建物で、庭が広いのでぽつんとして見える。クリーム色の壁がくすんでいた。そんなに豪華な建物ではないのでかえって城だった。余計な華美は避け、質素に屹立している。ほんとうの城はこうでなくっちゃと納得し、庭の芝生がかなり禿げていてそういう滅びの気配も城だと思った。どうやらどこか大学か会社の寮であるらしく、何々寮という文字が見えた。といっても、城門はめだたないつくりで奥まったところにありそっちへ行くのはこわかった。どんな寮だか、どんな人が住んでいるのか、ちゃんと見たことはなかった。
わたしが見ていたのは壁と棕梠シュロだった。お城の庭には一本だけ、背の高い棕梠の木があった。灰色の壁の向こうですっくと伸びている。壁よりも建物よりも高く、ぼさぼさの幹が風にしなっている。棕梠という名を知ったのはもっとあとで、わたしはあれはヤシの木だと思っていた。あの揺れ方は南国だなあと、南国のことを知らないのに感心していた。雪の降りそうな寒い低い雲の日でも、冷たい���に手の甲が痒く��も、壁の向こうのヤシの木だけ南の島で、お城の中だから当然だと思った。壁の外から見上げる葉はいつも影になり、動物の毛みたいにぎゅっと密集して見えた。
この木の下にどんな人が住んでいるのだろう。なんとなく、人魚姫の姉たちを想像した。絵本の話、もっとわたしが小さかったころの話。母が、人魚姫の姉たちが泳ぎ回るページを開いて、「この中だったら誰が好き?」とわたしに選ばせた。深い意味はなかったと思うが——人魚の姉たちは色とりどりで、きっとわたしに色の名前を言わせたかった——、わたしは青い髪のお姉さんを指した。彼女の髪の毛はそんなに長くないがAラインにふわふわ広がっていて、ひたいに垂らしたアクセサリーが大人っぽく、いちばん素敵だと思った。そうして青い髪の人魚はその一ページだけの登場で、人魚姫に短刀を渡すシーンにはいなかった。それもよかった。きっと海の底で静かに悲しんだ。悲しみはするが彼女にはその後の人生があり、死なない。青い髪の姉についてわたしは幾度も想像した。棕梠のお城にいる誰かを想像すると、彼女になった。
やがて暗渠の町からは引越して、わたしは川に挟まれた町に住むことになった。両親が離婚し、母と二人の家になり、近くに祖母と伯母が住んでいてちょくちょく行き来した。蓋のない、どころか、おおきなおおきな川で河川敷もだだっ広い。二つの川はカーブし、町はレモンの形をしている。アーケードの商店街があり暗渠の町よりだいぶ騒がしい町だったが、学校は小さかった。わたしの学年はそれまで三十九人で、わたしが引っ越してきたことにより四十人になり、あなたのおかげで一クラスだったのが二クラスになったのだと春休み明けの転校初日に先生に言われ、自分が福音なのか災厄なのかわからなかった。
新学期早々ずっと休んでいる子がいて、盲腸で入院しているとのことだった。クラスみんなでお見舞いの手紙を書きましょうと先生が言った。色画用紙が配られ、一人一通、工夫してメッセージカードを作るよう言われ、まだ一度も会ったことがないのにわたしも書くんですかと先生に尋ねたら、「みんなクラスの仲間でしょう」とたしなめられた。でも知らないんだよな、となりのクラスの子たちは書かないのかな、わたしが来なければひとつのクラスだったのにな……と思った。
どうせ知らない人に書くのなら棕梠のお城にいるはずの彼女、青い髪の人魚に宛てて書きたかった。棕梠のお城の人魚たちには足があり、城壁の外では完璧に人間のふりができる。王子に恋をせず生き続け、芝生の上を駆けたり寝そべったり、真夜中、お城の中でだけ人魚に戻る。庭に水をまいて海にするかもしれない。そうか、だから芝が禿げていた。棕梠の葉ずれの音を聞きながら足の使い方を練習し、人魚の下��身がいらなくなったらお城——寮から出て行く。でも彼女たちは人間のふりも人魚でいることも好きだから、のらりくらりお城に住みつづけ、出て行かない。棕梠はどんどん伸びてゆき、葉の重さで腰が曲がる。青い髪の彼女はぼさぼさの幹をやさしく撫でてくれる。それなら手紙を書けるのだ。書けるか? わたしはなにを書くだろう?
たとえばいつも棕梠を見上げていたこと。黒い葉。風。書道教室は畳の部屋で薄暗かったこと。流しの水がいつも細く、冷たくて、お湯は出ず、わたしは手についた墨汁をきれいに落とせなかった。黒く染まった指先をきつく握って、すれちがう人たちから隠した。なぜ隠さなければと思ったのか、わたしがあらゆる視線をおそれていたためだが、そそりたつ棕梠にはぜんぶばれている気がした。人魚を見守る南の島の木は、わたしのことだって知っていたはずだ。墨汁はいつも風呂で落とした。浴槽で足を伸ばし、そのころにはもう一人で風呂に入るようになっていた。墨の溶けた湯だからほんとうは透明ではない、目に見えない黒色の混じった湯なのだと思った。そういうことを書く。書いた。学校から帰ってきて便箋につづり、糊をなめて封をした。でもこれでは、わたしが思っていることを書いただけで、受け取る相手、青い髪の彼女に向けてなにか発信しているわけではないなとも思った。
盲腸のクラスメイトには、画用紙を切ったり貼ったりして「飛び出すカード」を作り、おだいじにとか当たり障りのないことを書いた。
レモンの町では書道教室に通わなかった。伯母はフラダンス教室の先生をやっており、招かれたので何度か見学したが、自分にはできる気がしなかったので(踊るのは恥ずかしい)、見学しただけだった。伯母はフラをやるからこまかいウェーブの髪がすごく長くて、想像の人魚よりも長かった。教室はおばあさんが多く、ハイビスカスの造花がたくさん飾ってあり、でもヤシの木はなかった。
盲腸のクラスメイトとは友だちになれた。退院してすぐ話しかけられ、飛び出すカードすごくかわいかった、どんな子が転校してきたのだろうと楽しみだったと言われ、わたしはちょっと申し訳なく思った。
だからというわけではないがかなり仲良くなった。すみれちゃんという名前で、しばしば自分の名前をSMILEと書いた。たとえば授業中に回ってくる手紙、ノートの切れ端にぎっしり書かれたいろいろの最後にSMILEとあり、それは署名だけども、受け取ったわたしには「笑って!」というメッセージにも見え、わたしはすみれちゃんの手紙がけっこう好きだった。
きのうみた夢とか、好きな音楽とか、誰々が雑誌のインタビューでこう言っていた、ラジオでこんな話をしていた、いますごく眠い、親とケンカしてすげえムカついてる、そういう日記みたいな手紙で、いや日記でもないようないろいろで、思っていることを書��だけでもちゃんと手紙になることを知った。わたしが手紙を読むときすみれちゃんはもう眠くないし、すげえムカついた気持ちもいくらかおさまっている。その時差こそが手紙の肝だと思った。
手紙ではたまにシリアスな悩みも吐露され、そういうときはSMILEの下に「読んだら燃やして」と強い筆跡で書かれていた。わたしはすみれちゃんの手紙を一度も燃やしたことはなかった。うちにはマッチもライターもなく燃やし方がわからなかったためで、ガスコンロで火をつけるのもこわかった。父親がいたらライターがあったろうか。ないな。たばこは吸わなかった。うちに小さな火がないのは父とは関係ない。父にはときどき会った。父も暗渠の町から引っ越したので暗渠の町に行くことはなくなった。
中学に入り、すみれちゃんの家が建て替えすることになった。古い家をぜんぶ取り壊すからラクガキしていいよということになり、友だち何人かで誘われた。すでに家具はぜんぶ運び出されからっぽになった家の壁や床だ。油性マジックとか書道の墨汁とかカラースプレーとか、みんなでいろいろ持ってきて、こんなことは初めてだったから最初わたしたちはおそるおそるペンを握ったが、だんだんマンガの絵を描いたり好きな歌詞を書いたり、家じゅう思い思いにラクガキした。腕をぜんぶ伸ばし、肩がもげるくらい大きなマルを描いてみた。マルの中に顔も描いた。すみれちゃんの妹が壁いっぱいの巨大な相合傘を描いた。片側に自分の名前、もう片側はいろんな人の名前で、芸能人もマンガのキャラクターもあったがやがて尽きたのか、後半は「優しい人」「うそをつかない人」「趣味が合う人」と理想を並べていた。すみれちゃんは最後、床に大きく「ありがとう」「SMILE」と書き、このラクガキは家への手紙だったのかと思った。
あとになってGoogleマップで暗渠の町を見たら棕梠のお城はなくなっていた。見つけられなかっただけかもしれないが、区画整理にひっかかったのか、暗渠の道もないように見えた。お城を取り壊すさい誰か壁にラクガキしたろうか。しなかったろう。だからすみれちゃんの家はとても幸運だったろう。そうして道の形が変わっても、地面の下にかつて川だった跡は残っているとも思った。
あのとき人魚に宛てて書いた手紙が、このあいだ本棚のすきまから出てきて、なにを書いたかだいたいおぼえていた。恥ずかしいなと思いつつ封を開けたら、しかし便箋は白紙だった。文字はどこかに消えてしまったのか、書いたというのはわたしの思い込みだったのか、ぜったい後者なんだけど、後者なんだけど……と思う。すみれちゃんはマスカラを塗るとき、ビューラーをライターの火であたためる。小さな火を持っている。
ペーパーウェルというネットプリントの企画に参加します。
セブンイレブン【24438044】 10/8 23:59まで
ファミマ・ローソン【DA5W82BGB9】 10/9 16時ごろまで
これは4年くらい前に書いたやつ。読んだことある人もいるかもしれない(覚えていてくださる方がいたらうれしい)。
今回のペーパーウェルのテーマが「時間」だったので、時間のことを考えながら書いた小説にしました。いやどこらへんが?って感じなんだけど、自分の中では…。過去のことを語るときの距離感、時間の長さとか流れを探りたかったというか。
つい最近読んだ川上弘美のインタビュー記事ですが、「年をとって記憶がいっぱい自分の中に貯まっているせいか、ある時期から、一瞬にフォーカスして書くよりも時間の流れを書くことが多くなってきた」とあって、なるほどなあと思いました。そして「でもコロナのもとで生活しながら小説を書いていると、なぜだか自然に、今この瞬間にフォーカスした書き方に��帰していくことになりました」と続き、とても興味深かった。
『群像』のweb記事で、「物語るために遠ざかり、小説全体であらわしていく」という題の鴻巣友希子との対談です。
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西大畑・西海岸公園エリア



【西堀通】
昔は名前の通り堀があったが、のちに埋め立てられ道路となった。
多くの寺が1直線上に並んでいた。



【地獄極楽小路】
2つに分かれた路地。黒塀側が極楽、レンガ側が地獄となっている。極楽側は高級料亭、地獄側には昔新潟刑務所があった。
料亭からの三味線の音や歌声は収容者にも聞こえていたそうだ…




【新潟大神宮】
「新潟のお伊勢様」の名で親しまれている。
住宅が隣接していたり、境内には幼稚園があったりと地域住民の生活の一部になっていることが伺える。
いろしらべのおみくじを引いてみた。挑戦の時、行動に移せと書かれていた。



【カトリック新潟教会】
和洋折衷の木造建築として昭和2年に建堂された。
教会に入ると色とりどりのステンドグラスやパイプオルガンがあり、神聖な空気を感じられた。
平日、そして日曜のミサには誰でも参加できる。





【どっぺり坂】
坂の名が付いているが階段である。上からはネクスト21など古町の街並みを一望できる。
下にはヒロクランツというドイツやスイスの伝統菓子を販売するお店があった。紅茶のクッキーを購入した。優しい甘さ、本格的な紅茶の風味がとても美味だった。
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パラソルが有れば阪本池も行ける

2023年9月、阪本池(枚方市) iPhone11
どうも、こんにちは。9月17日(日)は、阪本池に行ってきました。盛夏の酷暑は外出するのも躊躇われる暑さで、ヘラ釣りも屋根付桟橋のある、こしが池と西池を往復するような釣行を繰り返していたんですが、さすがに9月も中旬になると朝夕に涼しさを感じられるようになってきたし、パラソル指したら大丈夫やろ〜と阪本池に行ってみたのです。

2023年9月、阪本池(枚方市) iPhone11
自宅から1時間ぐらいで7時過ぎに到着。日中の暑さを考えて、料金を払う時に半日料金2000円にしました。池主さんに半日料金の時間を確認すると、「(午後)1時ぐらいまで良いよ〜」とのことで、5時間ちょっとできそうです。有り難や〜。ちなみに1日だと2300円。

2023年9月、阪本池(枚方市) iPhone11
中央桟橋西向きに釣り座を構えますが、桟橋の中央寄りだと崩れたコンクリート塀が沈んでいるので間合いが悪いかな?事務所寄りだと11尺の「振り切り」でばっちりなんだけど。コンクリートが沈んでるの見えます?

2023年9月、阪本池(枚方市) iPhone11
なので、対岸の角に座りました。沈んだコンクリートの延長線上狙いってことで竿は11尺の「げてさく」。

2023年9月、阪本池(枚方市) iPhone11
11尺の仕掛けで浮子は何だったっけ?自分のブログの過去記事を漁ったら「花瑞樹」の「底釣りパイプトップS」を使ってたのでそれにw。

2023年9月、阪本池(枚方市) iPhone11
1枚目は9時過ぎ。意外と釣れず焦りました(^▽^;)

2023年9月、阪本池(枚方市) iPhone11
2枚目はさらに1時間後(汗)。ジャミに翻弄されて浮子が動く割には釣れない。馴染みからエサ落ちまで早っ!でも、2枚目は「ツン」っていう魚信を取ったので気持ちよかったです。

2023年9月、阪本池(枚方市) iPhone11
阪本池はちゃんとヘラブナが釣れますね〜。マブナ率は0パーセントかな。

2023年9月、阪本池(枚方市) iPhone11
あまり釣れなかったんで書くこと少ないです(悲)。午後1時前までやって4枚でした。常連さんは昼までに二桁って感じ。場所にも依りますが。
ということで、9月17日はヘラブナ4枚でした。これから秋に向かうと新ベラの季節ですが、常連さんとお話したところ、阪本池は固定客相手にボチボチ営業している感じ(例えば平日の雨は休業)で、新ベラの放流は無いかも?とのことです。ま、貴重なウドン池ですし気に入ったので秋〜冬は結構通うかもですが。
では、また。
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2025/5/23 10:00:16現在のニュース
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4月27日(日)open 12-18 晴れてますが、風が強いですね。 皆さまどうぞお気をつけて。 昨日のこと。 先日もお知らせした、柴田聡子さんの初めての絵本『きょうはやまに』の絵を担当されているハダタカヒトさんができたてほやほやの冊子を手にやってきました。 3月にブックギャラリーポポタムでの個展で発表された作品と、夏の思い出を綴った文章をまとめられた作品集『東京夏景』(とうきょうかけい)です。 昨日から店頭販売しております。 青空、住宅、植物の繁茂、アスファルト、ブロック塀… 見れば見るほど画(線)に吸い込まれそうになる感覚… 写真のような絵ですが、どこか不自然。 画力が高いのに、なんだか怖い… 不思議な登場人(?)物たちが、そんなハダワールドを際立たせます。 絵とは対照的に、力の抜けたハダさんの文章には可笑しみがたっぷりで、読後にはハダさんの事が気になって仕方なくなるはずです。 (本人は「読む前と読後で何も変わらない一冊です」と言ってます) 税込 1,540円、まだどこにも売っていないそうです。 是非お手に取ってみてね。 しかし本・中川が出てきてそうな路地ばかりで、いつかハダさんの作品に登場しちゃうんじゃないのかしらとドキドキ。 以前、緑がもじゃもじゃ過ぎて「店が本当にやっているのかどうかわからなかった〜」と言われてしまった事があったので、これからの季節は気が抜けなくなります。 最後の写真は木登りが得意な地域猫チコちゃん。
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福山城
近世城郭の完成形と云われる備後国の名城🏯残念ながら1945年の空襲で消失したが、1966年復元😊
更に2022年築城400年を記念して耐震改修され美しい姿を復元

改修から2年経つが白壁がまだまだ美しい😍



福山城の特色として全国でも類のない天守北面の黒い鉄板張りも綺麗に復元

白と黒の見事なコントラスト

美しい威容



以前の本丸は公園として芝生や草木が生い茂っていたが、令和の大普請によってスッキリし、何処からでも天守がよく見える😲



以前の福山城本丸は以下から
本丸の各櫓群もよく見える😍


1945年の空襲を唯一免れた伏見櫓。その名の通り伏見城の松の丸東櫓を移築したもの

伏見城から移築されたという伝承のある各地の櫓や門の中で唯一物証による裏付けのとれたもので、他なら天守に匹敵する規模を持つ

天守を除く櫓の中で現存する最古の櫓


手前の鐘櫓と並ぶ伏見櫓


別アングルで天守をバックにした鐘櫓

復元された筋鉄御門

迫力のある櫓門



復元された月見櫓

文書保管庫に利用されている鏡櫓

本丸にあった櫓群

鏡櫓から天守まで張り巡らされていた多聞櫓を模した土塀

本丸御殿の一部だった御湯殿

続きは以下から
#photographers on tumblr#travel#cool japan#castle#photography#photo#instagood#tour#landscape#バイクで行く景色#history#写真#備後国#福山城#広島県#日本の建物#日本の城#日本の歴史
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9歳の子ひとり避難、家に残った母 東京大空襲80年「逃げなかった」人たち 防空法と市民に広がった同調圧力 #きおくをつなごう #戦争の記憶
3/24(月) 18:05配信
TBS NEWS DIG Powered by JNN
戦時中、日本各地で行われた空襲。実は空襲をまえに、あえて“逃げずに”家に残った人たちが数多くいた。人々をそうさせたのは「火を消せ」と国民に強いたある法律だった。しかし「油の火の玉」と当時の人たちが形容する焼夷弾の炎は、そもそも消せるようなものだったのか?当時の焼夷弾の炎を実験で再現した。そして、空襲を経験した人たちの証言を集めると、市民が“逃げなかった”背景には、現代にも通じる“同調圧力”があったことが浮かび上がってきた。 (TBS報道局社会部 平木場 大器)
【写真をみる】豊田さんが描いた、空襲時に火に囲まれながら逃げる様子の絵/「焼夷弾の防火は最初の30秒が最も大切」などと書かれた当時の資料/専門家監修のもとで行った消火実験の様子
「吹雪のように火の粉が」 猛火迫るなか、家に残った母親

東京大空襲で焼けた賛育会病院の旧本館
東京・墨田区の病院。 去年、初めて撮影された部屋がある。
すすで覆われた壁や天井… 80年前の東京大空襲で焼かれ、黒焦げのままで遺されていた。 当時、病院周辺は焼け野原となったが、鉄筋コンクリート造りだった病院は建物が残った。 焼け焦げた病院の大部分は修復されたが、屋上にあったこの小部屋だけは、当時の状態のままになっていたのだ。

9歳の時に東京大空襲を経験した豊田照夫さん(89)
1945年3月10日の東京大空襲。 1600トン以上の焼夷弾で街は炎に包まれた。 一晩でおよそ10万もの命が奪われた。
豊田照夫さん(89)は当時住んでいた墨田区の自宅で東京大空襲を経験した。

空襲時に火に囲まれながら逃げる様子の絵
豊田さんが描いた当時の様子の絵では、建物の窓から火が吹き出している。
●東京大空襲を経験 豊田照夫さん(89) 「廊下は風と吹雪のように火の粉が来ているんですよ。窓が全部真っ赤なんですよ。外の家が燃えている」
地下室に避難したという豊田さん。 地下室から見た光景が、今も脳裏に焼き付いて離れない。
「(出入り口に)マンホールみたいに小さい扉があって、それが開いたのを下から見たらキレイなお月さんが、真っ赤なお月さん…」 「外の家が燃えている。それがその部屋に写って天井も真っ赤に見えた。それがマンホールの穴から月に見えた」
マンホールのような丸い扉の先に見えたのは、燃えさかる周囲の炎を反射した天井だった。それが丸い形に切り取られ、真っ赤な満月のように見えたのだ。
当時9歳だった豊田さんは、当初一人で地下室に避難しなければならなかった。 母親が家に残ったからだ。
●東京大空襲を経験 豊田照夫さん(89) 「焼夷弾が落ちたりするとそういうのを消したりする役目があって、働ける人はそういうものをやらないといけない。(火を消しに)行かないよっていうそんなことは、まかり通らない世の中なんですよ」
その後母親は、近所の人に、ただならぬ事態だと声をかけられてやっと、豊田さんのところへ来たという。
●東京大空襲を経験 豊田照夫さん(89) 「(近所に)関東大震災を経験した人がいたんですよ。その人が『関東大震災よりもひどいから、先に私は避難します』。うちのお袋はそれを聞いて、そんなにひどいんだ ったら迎えに行かなきゃってなって私を迎えに来た」
ようやく駆けつけた母親と一緒に逃げるも、火に囲まれてしまった。

逃げる途中で水をかぶる様子の絵
●東京大空襲を経験 豊田照夫さん(89) 「既に火の粉なんかもずっと舞っているから、だから上から(水を)かぶれと言って、うちのおふくろもかぶってましたけど」
豊田さんと母親は近くの公園に避難し、生き延びることができた。 しかし、街には恐ろしい光景が広がっていた。
●東京大空襲を経験 豊田照夫さん(89) 「道路の真ん中で、自動車が逆さまになってひっくり返ってる。路地のところで人がハイハイする人形のような格好で炭になっている。上着なんか全部燃えちゃってなくなって、炭になるというのは異様なもので」
逃げるな火を消せ 国民に消火を強いた「防空法」とは

防空法を広めるためのポスター
火を消さなければならないことは、実は「防空法」という法律で決まっていた。 防空法を広めるためのポスターには威勢の良い言葉が躍る。 「必勝を期して戦(たたか)へ」。 「焼夷弾の防火は最初の30秒が最も大切」 防空法では、逃げることが禁じられ、消火活動が義務づけられていたうえ、罰則まであったのだ。

防空法に詳しい早稲田大学法学学術院・水島朝穂名誉教授
専門家は防空法が作られた目的は「市民を戦争に参加させるため」だと語る。
●早稲田大学 水島朝穂名誉教授 「市民がどこにいても焼夷弾から逃げないで、そこにとどまって火を消すことが前線における兵士たちの戦いと同じなんだと。火の中に市民を突撃させると、そういう性格に末期の方ではなっていったように思います」
陸軍の幹部は国会でこう述べている。
●佐藤賢了陸軍省軍務局軍務課長(1941年11月の衆議院の防空法改正委員会での発言) 「空襲を受けた場合、実害そのものはたいしたものではない。戦争継続意思の破綻になるのが、もっとも恐ろしい」
また、焼夷弾の炎は「簡単に消せる」と盛んに伝えられた。 国が各家庭に配布した、空襲への備えなどが記載された冊子にはこう書かれている。
●時局防空必携 「焼夷弾も心掛けと準備次第で容易に火災とならずに消し止め得る」
焼夷弾の炎は消せるのか? 当時の消火を再現 火たたき棒でたたいて…

竹と縄で作られた火たたき棒で消火を試みるも消えず
焼夷弾の中にはゼリー状のガソリンが入れられていて、 火がつくとガソリンが飛び散り、家の壁や柱にへばりついて燃え続けるようになっていた。
これに対して、当時は焼夷弾の火は、バケツの水、竹や縄でできた火たたき棒などで消せるとされていた。
当時の消し方で、“焼夷弾の火”は消せるのか?専門家監修のもと、実験を行った。 木の板に布をまきつけてガソリンを染み込ませ、焼夷弾の中身が床などにへばりついた状況を再現。
点火すると瞬く間に激しく燃え上がった火。
資料を元に作った火たたき棒を水につけ、叩いたり、こすったり。 3分以上、巻きつけた布がちぎれるほど繰り返すも、火を完全に消し切ることはできなかった。

続いて、バケツの水をかけてみるが、計8回かけても消えなかった。
●火災に詳しい 東京理科大・松山賢教授 「ガソリン自体が水を弾いてしまうことが起こりますので、水をかけて消火するというのは、消せる状態には程遠いんじゃないかなと。(ガソリンを)固めたことによって、なかなか消えにくいというところにプラスされて、継続的な燃焼が起こり得る」

水に浸っても燃え続ける火
ゼリー状のガソリンに見立てた布は、水に浸ってもなお燃え続けていた。
●実験を監修 東京理科大・桑名一徳教授 「ガソリンは蒸発した気体に火がつくことで燃えるんですけども、その蒸気が色々なところにありますから、火を完全に消すことができれば消える。しかし、火が少しでも残っているとそこから蒸気に燃え移って燃え続けますので、いつまで経っても火を消すことができない」
実際に焼夷弾の火を消そうとした、小林暢夫さん(94)。 ”油の火の玉”をまえに、「何をしても消えなかった」と証言した。

当時のバケツリレーのやり方を記者に教える小林さん
●空襲で消火活動を経験 小林暢夫さん(94) 「バケツリレーをして水をかけて、火たたき棒で消す。でも消えない。油脂焼夷弾だから。防空演習をやっていたのとは全く違う。油の火の玉だから。古い木造家屋の塀なんかに当たると、すぐにバンって燃え出す」「本当に怖さだね。何やったって消えないんだから」
それでも逃げなかった理由 隣組による“同調圧力”

隣組の集合写真
消えない炎。 それでも人々が火を消そうとした理由を、小林さんが語ってくれた。
●空襲で消火活動を経験 小林暢夫さん(94) 「何事か危険な状態になれば、自分で真っ先に逃げようというそういう意識はあるんだろうね。あるんだろうけども、表には出せない。隣組は。みんなで共同体だから。それは戦争中、特にそうさせられたわけだ」
「隣組」。お互いを助け合う地域の組織で、配給や防空訓練などの役割があった。 しかし、その助け合いの結びつきが、逆に“同調圧力”を生んだと専門家は見ている。

当時のバケツリレーの様子
●早稲田大学 水島朝穂名誉教授 「法律がただ禁止しているだけじゃない。隣組とか自治会とか生活圏における社会的な圧力、これが構造的に働いて人々はいわば“逃げなかった”」
そして、もし現代に「防空法」のようなものがあったら―。 「隣組」の役割が、現代では「SNS」に置き換わって、市民たちが空気に流されて行動してしまうのではないかと指摘する。
●早稲田大学 水島朝穂名誉教授 「SNSが当時あったら、うちのお父さん一生懸命火を消しているのに『あの家のお父さん子供を連れて逃げてるよ』というのを動画で撮って晒したら���ういうことになります?大変なことでしょう。(当時は)SNSというツールがなかっただけで、もし今同じような仕組みができて、国家が『市民はそこに留まって協力しないと駄目だぞ』みたいなことを、仮にやったとしたら。みんながお互いを監視し合って『あの家逃げたぞ』とやって晒したりすることが起きたら。同じような機能を果たすんじゃないでしょうか」
“同調圧力”が漂う状況のなかで、 人々は逃げられなかったのではなく、逃げなかったのだ。
空気に抗い“逃げた”人も 日本刀を振りかざして…

八王子空襲で家族全員で逃げた尾股重利さん
しかし、終戦間際には、防空法や同調圧力に抗う人もいた。 終戦の2週間前。450人が亡くなった八王子空襲。
尾股重利さん(2015年の取材時84)は、空襲が始まると家族全員で避難を始めた。 八王子市内が焼夷弾の炎に包まれる中、市外へと繋がる橋を渡ろうとした。
●尾股重利さん(取材時84) 「浅川橋を渡ろうとしたら群衆がいっぱい集まっちゃって、行けなくなっちゃって。『みんな逃げるな、火を消せ』って言うんですよ。でもね、あれ火なんか消せる状態じゃないです。バケツで消えるような火なんかじゃないですよ。皆さん右往左往どっち行くか、逃げると殺すぞと(言われて)舞い上がっていた」 「火を消せ」と行く手を阻む人たちに向かって、尾股さんの父親が日本刀を振りかざして、何とか逃げたという。
●尾股重利さん(取材時84) 「科学的な炎だから水ぐらいで消えるものじゃないですよ。それで油を含んで噴出すんだからもうたまったもんじゃない。非現実的な話。命を生きながらえる方が大切だと思った。火を消すより。わが命を守るのが第一だと思いましたね」
命を繋いだのは周りの目を振り切る勇気だった。
※この記事は、JNN/TBSとYahoo!ニュースによる戦後80年プロジェクト「#きおくをつなごう」の共同連携企画です。記事で紹介した防空法や東京大空襲についての情報を募集しています。心当たりのある方は「戦後80年 #きおくをつなごう」サイト内の情報募集フォームにご連絡ください。
また、企画趣旨に賛同いただける方は、身近な人から聞いた戦時中の体験談や写真を「#きおくをつなごう」をつけてSNSに投稿をお願いいたします。
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原子力発電所からの放射性廃棄物の最終処分場をクリル諸島(いわゆる北方四島)に設置する案を日本政府は断固拒否した。経済産業相はこの案を「全く配慮にかける軽率な発言」と言い、首相も発言者の傲慢さを非難した。 1月末、原子力発電環境整備機構(NUMO)は、原発からの放射性廃棄物の処分場について議論する説明会を開催した。この説明会の参加者の一人が冗談か本気か、クリル諸島に核のごみの最終処分場を建設してはどうかと発言した。これに対し、資源エネルギー庁の担当者は、これも真意は分からないが、実現すれば魅力的な提案だが現実的には難しいと述べ、さらにNUMOの幹部も計画は「一石三鳥四島だ」と発言した。 この件を受けて、北海道の鈴木直道知事は、北方領土問題に対する理解や元島民への配慮に欠けていると、遺憾の意を示した。また、武藤容治経産相とNUMOの山口晃理事長から電話で謝罪を受けたことを明らかにした。 石破首相は2月3日の衆院予算委員会で、このようなことは絶対にあってはならないと言い、「そのような発言がいかなる意図であったか分からないが、緩みとかおごりとか思い上がりとか、そういうものがあったということだと思っている。政府の責任者として深くお詫びを申し上げる」と謝罪した。 もちろん、日本側も、ましてやロシア側もこの問題を真剣に検討するつもりはない。とはいえ、スプートニクは、仮に、人口の少ないクリル諸島を高濃度の放射性廃棄物の「処分場」とすることが可能なのか否か、専門家に訊いてみた。 島の生態学的特殊性から見ても、この考えは馬鹿げている。生態学、水生生物学、持続可能な廃棄物管理の専門家でNGO「緑の文明」のドミトリー・フェドロフ代表はこうした見解を表している。
「1984年以降、クナシル島と小クリル列島は『クリル』国立自然保護区となっており、ロシアの特別保護地域の中でも特別な場所となっている。これらの島々とその海域には、独特な景観の火山や温泉、針葉樹林や熱帯特有の植生、賑やかな鳥の群、希少な海洋動物が生息している。隣の南クリル諸島は漁業保護区域に属している。クリル諸島の大陸棚と海洋経済水域は、水生生物資源において世界で最も豊かな地域のひとつだ。島々はエネルギー資源が豊富で、特に地熱エネルギーは有望だ。クリル列島の地熱資源の埋蔵量は非常に大きい。一方で、クリル諸島は都市廃棄物による汚染という独自の問題を抱えている。残念なことだが、廃棄物は頻繁に処理場以外の場所に不法投棄される。クリル諸島には地方特有の強い突風がある、だから廃棄物は島や領海のいたるところに飛ばされる。近い将来の優先課題は、島の家庭ごみ管理システムを最適化することだ」 露「アトムインフォ・センター」の責任者アレクサンドル・ウヴァロフ 氏は、日本で言及された提案は非現実的だと語っている。
「まず、核廃棄物の処分場を他国との国境に作ろうなど、倫理に反する。近隣諸国の安全を脅かし、国家間の問題を引き起こすことになる。どの国もそんなことはしないようにしている。いずれにせよ、この問題は放射線安全の専門家によって調査される必要がある。日本にはすでに最終処分地の候補地として、北海道の寿都町と神恵内村を選定済で、聞いたところによると、この2つの町村は核廃棄物貯蔵施設の誘致権を争っている。昨年2月のNUMOの報告書では、これらの地域の調査結果が分析されている。次の段階は、地質調査による具体的な場所の選定だが、このような段階は全部で3つあり、火山活動や地震活動によるリスクを分析も含まれる。高濃度の放射性廃棄物の処分となると、数百年間の安全が保証される必要がある。だからこそ、クリル諸島を放射性廃棄物の最終処分地として真剣に検討する人はいなかったのだと思う。多分、この発言は戯れ言か不適切な冗談だったのだろう」 日本の原発の放射性廃棄物をクリル諸島に埋蔵するという考えは、塀越しに隣家にゴミを投げ捨てることに等しい。放射性廃棄物安全プログラムの専門家であるアンドレイ・オジャロフスキー氏は言う。
「放射性廃棄物の埋め立ての是非は世界的にまだコンセンサスが得られていない��一時的な処分方法として、地上管理、地層処分という2 つのタイプがある。商業用原発から出る廃棄物については、ほとんどの国が技術と場所の選定段階にある。科学技術がこうした有害廃棄物に対処する新しい方法を生み出すまで、一時的に処分場で保管するという考え方もある。地層処分で最も懸念されているのは、その安全性が証明されていないこと。例えば、半減期が24000年のプルトニウムや、それよりもはるかに期間の長いの元素を保管する場合の安全性を、実際に検証することは不可能だ。つまり、実験によって安全性が確認できないのであり、書面のみの確認は原子力産業においては最も危険なこと。 クリル諸島に放射性廃棄物を埋めるという考えは、突然出てきたわけではない。日本で適地選定のプロセスが始まった数年前から、その話はあった。人口密集地、国立公園、資産価値のある土地は、選定の候補として除外されていた。この時、クリル諸島は人口の少ない土地として候補に挙がっていて、ロシアがクリル諸島を自国の領土としていることは考慮されてなかった。人口が少ないことだけが、これらの島々が適切であるか否かの唯一の基準だったから。もちろん、クリル諸島は海に囲まれ、人類の食糧源として重要な役割を果たすという点で見れば、基準には当てはまらない。さらに地震地帯でもある。だから、日本の原発からの核のゴミを埋めるためにクリル諸島を利用しようという考えは、隣家に向かって塀越しにゴミを投げ捨てようとする行為だと私は考える...」
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I took inspiration from the nightmares my friends shared with me. Thank you so much.
"water lines become.."
1
uno
ー1979年 7月27日 ー
「ニューヨーク東部のタクシードライバーが次々と行方不明になっているという情報が届いています。
現在行方不明者の内二名が溺死の状態で見つかっており、ニューヨーク州は緊急で警察を出動させ、乗客の情報や遺体の解析を元に捜索を続けている模様です。
何か情報をお持ちの方は、警察や当局にお知らせください。ーー 」
2
dos
「牧歌の中に流れ込んだシステムが、毒が、牧歌的な詩を作らせたんです。あなたはきっと知っていたはずです。」
お前は何を言っているんだ?
その時は盲目的に足元を、極端に空を眺めていたかった。
「僕たちは毒を吐きながら生きていかなきゃいけない。」
彼の渡したディスクが月光を反射していた。
私自身の中を走りまわる何かをずっと追いかけるように。
彼の目はものすごく近いものを、遠くを見るようにして開かれていた。
「あなたはそうやって自分が誰だか確かめてる。」
私はもう灯室にあった70000cdのレンズを粉々にしたあとだった。
「私の部屋にはちょっとした広がりの縁側があって、そこから母の部屋が見えた。
どんな天気の日でもその部屋のカーテンが閉じられていて、窓辺に何かが置いてあったんだ。
それがずっと思い出せなくて…」
たしか私は海を見ながら泣いていた。
3
tres
veins
嘘は嘘のままで、
炎だけが燃えている
ディヴェート
” Двигай слона. ” (ビショップを動かせ)
連鎖的なもの
決められた空間
northern lights (arteries)
衛星は流れたままで、
わたしだけが感じている
アポフェニア
"You kept the clock stopped." (まだ恋をしたまま)
間接的なもの
決められなかった季節
4
cuatro
いつだったかも思い出せないが、古い記憶が今でもずっとデジャヴのように思い出される時がある。
その時に感情や心の揺れがあったのか、(きっとそうなんだろうけど) 未だにそれがどんな感情だったのかわからないままでいた。
僕の心のうちで広がる荒野や、僕が想像しうる人の心のうちであったり、常に妄想を繰り広げていたように思う。
そのデジャヴは思い出したくも、心の淵や何かに引っ掛かり出る事を拒んでいた。
午前11時、いい加減ベッドから這い出た。
飛行機のエンジン音が尾を引いて窓を震動させ、昨夜の嵐が止んだ事を気づかせた。
嵐の夜はあの本のあのページを味わっていて、身体とはだいぶ離れた場所にきたところだった。テーブルの上は常に散らかっていて、この閑散とした部屋の中で、ランプの光が届くあたりまではテーブルに生命が宿るように積み上げられた本が波打っていた。
僕の部屋からは2本の路線を走る電車が見えていて、計4本の列車が走る線路を眺めることができた。しかしまだ一度も4本同時に走る瞬間は見たことがない。
抜けて校舎に着いた時、暗がりになる空間を抜け、シャワールームの塀を伝い落ちる水の音がタイルにはよく響くんだな、と何気なく感心していた。
「エコロケーションをする動物は視力の補完ゆえ、収斂進化した。耳のない動物はー 」
たまに進化が不利に働くことを考えてしまう。
水に浮いている瞬間は心地がよかった。
プールの利用者はこの時期になると少ない。
途中で止めていた思考を一つずつ拾い、元の棚に戻すような作業を一人で行う。
思考するために全てを拾っていた時間とは違って、ただここには無数の広がりがあるのだろうという推測によって。
なめらかな舌触りの感じがする。
パツパツと見て整っていることだけは分かる、この重くのしかかる重力のそれを体で支えきれてしまう大袈裟な力が、かつてからずっと精神的な奥底の部分にあった。体を支える力が、制御する力に打ち勝って溶ける。
ステンレスを触っている時のような感覚とフィジカルで感じる光の干渉具合に、体だけでなく、心まで疑ってしまいそう。
それは体自身が重いのか、何か重くのしかかるようなものがあるのか。力として考えられた、鉄球の単位、石の重さ。
彼に今月のディスクを渡したあの夜からもう二週間が過ぎていた。
あの時の彼の瞳は、野鳥の瞳のような清らかな悲しみを抱えていた。何かを思い出す前の静寂から彼はしばらくの間帰ってこなかった。
彼もまた、空間のことを考える時間を愛していて、この考えに囚われていた。
経験以上に美しい約束を繰り返してきていた。
ただ彼は途中で諦めることなど一度もしなかった。
知ることは、忘れることよりも気の毒だとよく話した。
mosaic
「またクモのような生き物は耳がないからに、
振動を頼りにしている。
ウミガメは波の振動を聞くことを得意としてー 」
水中で空気や歌になろうとする間、まだ僕は人のことばかり考えてる。金属的でない空気。道徳的でない歌。
どのような場合でもその時、泳いでいることにより一層夢中になっていた。なぜ今までこんな事を考えなかったのだろうと、この日は心まで浮かんだ気分だった。
冬の訪れ。
校舎の威厳を成していた木も葉は落ち、やせ細り、くたびれた様にみえる。
大気もその動く速さも嫌いじゃなかった。
僕が思い出したかったのは、変わらなかったもので、それは大切なものだった。むしろ大切なものは大いに変わらないものといえる。
プールが飽きた時は本を読んでいる。本に飽きた時はプール以外にもあるだろうと思う。あなたに飽きられた時は、悲しい。とても。
「覚えてる」
匂いがした時、心臓の音が聞こえないか焦っていた。
音楽が流れて、無数の人の名前を見る時間。
何の引っ掛かりもなく引き出される滑らかさは、柔らかな波長によってであったと確信している。
腹を括る感覚に近く、しかしこれもデジャヴ、かも。
吹き抜ける風が、鼻歌に聞こえる。
振動を頼りに動く動物のよう。
泳いだあと冷えてしまったようで、
風邪気味であるかも、と少し後悔した。
しかも昨夜は酒を飲みすぎた。
駅に向かっている間、また人のことを思い出した。
ロストじゃない、ただ生きているだけの涙だった。
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