#KOBE鉄人PROJECT
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三宮一貫樓のウェブメディア「KOBEZINE(コーベジン)」に執筆を担当したインタビュー記事が公開されました
★ken.fm★ Now Update!:三宮一貫樓のウェブメディア「KOBEZINE(コーベジン)」に執筆を担当したインタビュー記事が公開されました
山﨑が執筆を担当している株式会社三宮一貫樓のウェブメディア「KOBEZINE(コーベジン)」に新しい記事が公開されました。 今回は新長田駅前にそびえる鉄人28号モニュメントをはじめ、新長田のまちづくりに尽力されてきたKOBE鉄人PROJECTの岡田誠司さんと安藤編集長の対談によるインタビュー記事です。 お時間のあるときにぜひお読みください。 過去をリスペクトし未来につないだKOBE鉄人PROJECT岡田誠司さんの30年

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新長田で赤いスーツ、赤い帽子、サングラスと言えばこの人! 鉄板 コテ之介さん
(有限会社上野刺繍 代表取締役 上野栄一さん)
新型コロナウイルスの影響により取材を8か月近く自粛していましたが、様子を見ながらぼちぼち再開です。新長田で、真っ赤なスーツにコテの付いた赤い帽子、サングラスで歌の上手い人と言えばこの人、鉄板コテ之介さんこと上野刺繍の上野栄一さんにお話を聞きました。(2020年10月2日にインタビュー)
今回は、上野さんの会社近くで行きつけの、愉快な店主とかわいい愛犬のいる居酒屋さんでのインタビュー。新長田への熱い思いとロックな生き様をお聞かせいただきました。

小さい頃はどんな子どもでしたか。
今からは想像ができひんけど、引っ込み思案で人前でしゃべれない子どもやった。当時は刺繍の家業が儲かっていたので、あつらえた服を着て通学したりして周りから浮いてたと思う。小学3年生の時の先生が、子どもはワンパクでないとあかん、前にもっと出ろ、というタイプで、音楽の授業の時に皆の前で歌を歌わされて、それで褒められた。嬉しかった。家に帰って歌っても褒められた。実は父親は川崎車両に勤めながら夜はダンスホールでギターを弾いていて、母親ともそこで知り合ったらしい。 と言いながら、中学1年生の終わりまでは当時流行っていたドラマ「進め!青春」の影響でサッカーをしてた。その後にドラマ「俺は男だ!」の第28話で夕焼けに向かってトランペットを吹いている志垣太郎がカッコ良くって、吹奏楽部に入部する条件で父親にトランペットを買ってもらった。でも、その後プレスリーを聴いたらめっちゃカッコ良くて、歌を歌おう!と思ったんやけど、トランペットは吹きながら歌えへんやん。それで、ギターに変えてバンドを始めた。 ミーハーやねん。いろんなものに無茶苦茶影響を受けやすい。
音楽活動について教えて下さい。
本格的なバンド活動を始めたのは高校生になってから。夢野台高校の同級生と「夢野台ハイスクールロンリーハーツクラブバンド」を結成して、いきなり高校1年生の文化祭で演奏した。ビートルズとかチューリップ、ディープパープルの曲が多かった。 NPO法人KOBE鉄人PROJECTの事務局長をやっている岡田との出会いも夢野台高校で、最初は別のバンドに入っていてライバルやったのに、高校3年生の時に急に一緒にやらせてくれと言ってきたん。ちょうどベースが抜けたところで、ベースやったらええでと答えたら、元々ギター��岡田が次の日にはベースを買ってきた。それで一緒にやることになった。後でその時の理由を聞いたら、ちゃんと音楽をやりたかった、ということやった。岡田とは高校3年から大学1年まで同じバンドBOSSで活動していた。 今やっているバンド「跡夢(あとむ)」は20歳から始めた。チキンジョージより1年古い。最初の跡夢はビジュアル系で人気があったよ。かわいい顔したドラム1人に人気が集まってたんやけど。当時三宮にあったアビーロードというラ���ブハウスで100人定員のところ、200人も集まった。跡夢の名前は、プロにはならない、夢の跡を続ける、という意味なんやけど、結局俺以外のメンバーはプロになっていったな。 大学の時はミュージシャンとしてメジャーになるために東京に行きたいと思って父親に相談したら、あっさりとOKしてくれた。川崎車両を辞めて上野刺繍の社長をしていた父親が大酒飲みで肝臓を壊していて、ちょうどその時に倒れた。次に倒れたらもう駄目と医者に言われたので、ミュージシャンの道をあきらめて家業を継ぐことにした。大学に行きながら家で働いていた。ちなみに、8歳年下の弟は跡夢のボーカルをやっている。

上野刺繍の会社のことをお教え下さい。
61年前に二葉町4丁目の路地で母親が創業した。俺が1歳の時。父親は川崎車両で溶鉱炉の仕事をしていて体調を崩してた。昔の会社は正月に新調した名前入りのスーツを従業員に渡す習慣があったので、大晦日は関係なく働いていた。服を取りに来た人が店の前で行列を作っていたぐらい。そこが手狭になってきたので、5歳の時に駒ヶ林4丁目に移転をした。当時は全部手作業で17~18人が働いていた。住み込みで働いていた女性2人が、襖一枚隔てた隣の部屋で寝泊まりしていたのでドキドキしてたな。相手は俺��子どもとして見ていて、気にせんとパンツ一枚に近い恰好をしている時もあった。 その後も自宅は駒ヶ林のままやけど、工場は刺繍の機械が入って、それがどんどんと大型化していくにつれて手狭になり、何度も移転した。駒ヶ林の次は久保町にあったマルハ市場の横の貸工場、次に駒ヶ林に戻って、昭和60年には大橋町、平成元年に大道通に移転したけど、その年に父親が57歳で亡くなったんで俺が社長を継いだ。その時はバブルの絶頂で遊び倒してたな。会社の経費が3倍にもなってた。それからバブルが弾けたからえらい目にあったわ。 今、会社のある水笠通へは東北大震災の年(平成23年)に移転したけど、その後、1か月して俺が脳出血で倒れて入院した。父親も会社の移転後に亡くなり、俺も移転後に脳出血で倒れて、会社を移転すると良くないことが起きてたわ。 ワールドやジャヴァといった神戸のアパレルメーカーの衰退は悲しい。仕事もアパレル中心では厳しいので、作業着や制服のネーム入れといった他の仕事の比率を上げていったけど、いかに早く仕事を終わらせて納期に間に合わすか、ということにかかりっきりになっている。アパレルの仕事の時はいろいろと考えてたのに、今は技術が落ちたな。 刺繍は将来性のない仕事。全て機械でできるようになって、大きい会社は自前で機械を揃えるようになった。子どもには継がせたくない。弟に継ぐことになるのかな。

鉄板コテ之介の活動を始めたきっかけは。
鉄板コテ之介より諸葛亮小梅の方が古い。岡田からの依頼でやり始めた。鉄人28号モニュメントはまだ骨組みやった。三国志ガーデン(三国志の名シーンをジオラマで再現した施設)のオープンイベントで、諸葛亮孔明みたいな衣装にサングラスをかけて、三国志音頭という曲を歌った。 その後に脳出血で倒れて入院中に、岡田から次のキャラを考えたんでリハビ��頑張れ、と言われたのが鉄板コテ之介。退院して1か月後にはコテ街浪漫という曲を録音した。来年(令和3年)で鉄板コテ之介10周年になる。最初の衣装の赤いスーツは漫才師のかつみさゆりのかつみさんと同じ服やねん。 これまでにアルバムを1枚出して、24時間テレビには小梅・コテ之介で合計2回出演した。喜楽館でも神戸出身の落語家3人と一緒に出演しているけど、落語家に負けんとこと思って笑いを取りにいっているで。

奥様との馴れ初めを教えてください。
高校2年生の時の同級生。見た目に一目ぼれして口説き倒した。バンドをやっていてツレはモテてたけど、俺はモテへんかった。妻とは8年付き合って、25歳で結婚した。
新長田の好きなところ、嫌いなところを教えてください。
阪神・淡路大震災前の新長田は大好き。震災があったから今寂れている訳ではない。昔の大正筋は自慢やった。二葉新地とかいかがわしいけどうまい飯屋もあって、おもしろい街やった。怖い街というイメージはなかった。人が多くて、迷子になるから一人で行ったらあかんという感じ。怖い人がいても共存してた。色々な考え方や人種がちゃんと一緒に暮らしてきた街なのがいい。今の再開発ビルは大き過ぎる。一般的な街にする必要はなかったと思う。 嫌いなところは分からへん。どっぷりやからなぁ、ないかな。あったとしても、肥やしになっている。
新長田のお気に入りの場所は。色に例えると何色ですか。
お気に入りの場所は大正筋。生まれ育った町やからね。形は変わっても、田んぼの畦道を歩いているような気がして変に落ち着く。 新長田を色に例えると紫とかオレンジ。混ざった色がぴったりくる。

これからの活動について教えてください。
跡夢も鉄板コテ之介もできる限り続ける。「町を笑顔に」が自分のコンセプトやからね。笑ってもらえて何ぼ。みんなに元気になってほしい。
上野さんに会うにはここへ
有限会社 上野刺繍
神戸市長田区水笠通4丁目4-18
http://bit.ly/3b2V3me
もしくは新長田の各種イベントで。
インタビュー会場は、店主のノリ良し、料理の味良しの居酒屋
Dining 五十嵐家
神戸市長田区御屋敷通5丁目1-17
http://bit.ly/2MqUnwO

#新長田#長田#鉄板 コテ之介#上野刺繍#犬#刺繍#川崎車両#ダンスホール#ギター#進め!青春#俺は男だ!#トランペット#夢野台ハイスクールロンリーハーツクラブバンド#ビートルズ#KOBE鉄人PROJECT#BOSS#跡夢#チキンジョージ#アビーロード#ライブハウス#二葉町#駒ヶ林#マルハ市場#水笠通#アパレル#諸葛亮小梅#三国志ガーデン#鉄人28号モニュメント#三国志音頭#コテ街浪漫
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2019/11/9(sat) 19:00~20:30
場所: KOBE 819 GALLERY 神戸市中央区三宮町3-1-16 三星ビル3F南室 Place: KOBE 819 GALLERY Kobe City, Chuo-ku Sannomiyacho 3-1-16 Samsung Building 3F South Room
コピーとは何か?オリジナルとは何か?そして、自分とは何か?ヒガシジ作品を通して、思考や解釈を言語化しながら、新しい概念を探し求める旅。
/ What is a copy? What is the original? And what are you? A journey to seek new concepts through verbalization of thoughts and interpretations through Higashiji works.
2017年からKOBE 819 GALLERYはヒガシジと共に、プロジェクトを立ち上げ、今までに国内外の各都市でのプロジェクトを展開して参りました。またヒガシジ自身も積極的な活動を展開し、独自の広がりを見せおり、今年も昨年に引き続き、KOBE 819 GALLERYにて新作を発表いたします。
今回のトークイベントではこのプロジェクトはヒガシジにとって、また彼の作品に触れる我々にとって、どのような接続、効果を生み出していくのか。そして、展覧会を行うことで、どのようなケミストリーが起こっていくのか。このイベントでは、参加者の方々も含め、このようなところ共有できたらと思います。
Since 2017, KOBE 819 GALLERY has launched a project with Higashiji and has developed projects in cities in Japan and overseas. Higashiji is also actively developing and showing his own spread, and again this year, he will announce a new work at KOBE 819 GALLERY.
What kind of connections and effects will this project create for Higashiji and for us who touch his work at this talk event? And what kind of chemistry will happen through the exhibition? I would like to share this kind of place with participants at this event.
■A=A A≠A
1枚の写真プリントAを2000回繰り返しコピーしたもの。 A=Aが期待される複製行為を極限まで繰り返して差異を増大させることで、 偽物A'がコピーの概念を超えたあたらしい価値Bを作り出す。
One photo print A is copied 2000 times. By repeating the duplication act that A = A is expected to the maximum, and increasing the difference, Fake A 'creates a new value B that goes beyond the concept of copying.
■Building
私はある1枚のハガキに着目した。人類が世界ではじめて核を使用したこの日、廣島がヒロシマに、廣島県物産陳列館が原爆ドームに変わった。人々にとって、ヒロシマが廣島であったことを忘れても、そこに残る放射能は半減を繰り返すだけで消滅することはほとんどない。50年以上経って、その痕跡は放射能ともに世界遺産として登録され、平和の象徴となった。それでも、核をもたないはずのこの国には、核が存在し続ける。
I focused on one postcard. On the day when humans first used the nuclear weapons in the world, Hiroshima(廣島) was changed to Hiroshima(ヒロシマ) and Hiroshima(廣島) Prefectural Product Display was changed to the Atomic Bomb Dome. For people, even if they forget that Hiroshima(ヒロシマ) was Hiroshima(廣島), the radioactivity that remains there is almost never lost by repeating half. More than 50 years later, the trace was registered as a World Heritage site with radioactivity and became a symbol of peace. Nevertheless, nuclear power still exists in this country that should have no nuclear power.

今回は、コピーそのものがテーマでなく、コピー機を通すことで見えてくることを考えようと思います。/ This time, I would like to consider that the copy itself is not a theme, but can be seen through a copy machine.
2020年の東京オリンピックは、震災から復興を掲げているが、フクシマの話はでてこない。フクシマを語るにしても廣島なしには語れないはずで、なぜなら、人類初の核エネルギーを使用した場所だから。 日本人にとって当然の疑問なのに、聞こえてこないことが違和感であり、自分なりに解釈しようと思ってこの題材を選んた。 最初は、核エネルギーの事象にとってのオリジナルとして原爆ドームをとらえたが、原爆ドームはどの名前のとおりに、原爆で建物が壊れた状態であり、さらにそのオリジナルとして原爆が落とされる前の建物が浮かび上がってきた。それに気づいたときに戦前と戦後という日本の歴史における重要なキーワードの境界にそれがあることに気づくことができた。
The Tokyo Olympics in 2020 are aiming for recovery from the earthquake disaster, but Fukushima's story has not come out. Talking about Fukushima shouldn't be possible without Hiroshima because it's the first place to use human nuclear energy. Although it was a natural question for Japanese people, it was uncomfortable that they did not hear it, and I chose this material because I wanted to interpret it in my own way.
At first, the atomic bomb dome was taken as an original for the nuclear energy event, but as the name of the atomic bomb dome, the building was broken by the atomic bomb, and the original building before the atomic bomb was dropped appears. Came up. When I realized it, I realized that it was an important keyword boundary in the history of Japan between pre-war and post-war.

A=A A≠Aを通して、原爆ドームを元のカタチにもどすことは、戦後からみて”戦前”の入口に立ったにしかすぎない。この言い方自体も戦後の言い方で、戦前の言い方では原爆ドームは出てこない。たしかに、戦前では正しいことが戦後にはそうでなくなるはたくさんあったと聞く。
このした解釈の中で、戦前から戦後になったことで、また、単純に時間が経過したことで忘れてしまったことをもう1度思い出してみる機会としたい。
Returning the A-bomb dome to its original shape through A = A A ≠ A is only at the entrance of “pre-war” after the war. This phrase itself is a post-war phrase, and the Atomic Bomb Dome does not come out before the war. I hear that there were a lot of things that were right before the war, but not so after the war.
In this interpretation, I would like to take another chance to remember that I had forgotten because it was after the war, or simply because time passed.

■写真展概要 /Exhibition informaition
KOBE 819 GALLERY企画 ヒガシジユウイチロウ写真展 『 A=A A≠A(building) 』/ Higashiji Yuichiro 『 A=A A≠A(building) 』
2019/11/9(sat.)〜11/17(sun.)12:00〜19:00 last day until18:00 close:11/11(mon.)
場所: KOBE 819 GALLERY 神戸市中央区三宮町3-1-16 三星ビル3F南室 Place: Kobe City, Chuo-ku Sannomiyacho 3-1-16 Samsung Building 3F South Room
最寄駅 JR神戸線、阪神電鉄「���町駅」徒歩3分 神戸市営地下鉄海岸線「旧居留地・大丸前駅」徒歩すぐ
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To Japan and all over the world. Today is an unforgettable day for both Japan and me.
March 11th, 2011, 8 years ago from now. An earthquake of magnitude 9.0 occurred at 14:46:18 Japan time. An unprecedented disaster that is said to be the Great East Japan Earthquake later.
I was in Nishiazabu, Tokyo, that day. The office building in the residential area has 3 floors and there is a small elevator and we received a shock that pushed up like a big pile from the feet just before we tried to ride it from the first floor and felt a long and big tremor While somehow getting outside, the house around me swayed like a jelly, and I saw a man across the window of the house.
We shouted to the man "You went outside!", but they cannot move with each other. But the man signaled "to be alright" surprisingly. I saw the threat of an earthquake for the first time when I saw the electrical wires jumping like jump rope.
We Japanese disaster prevention drills from small time. Elementary school and junior high school mainly conduct disaster drills in groups on September 1 every year. Because September 1 is called disaster prevention day, that day is the day of the Great Kanto Earthquake that occurred on September 1, 1923. But I think it was ritual.
In fact, Japan is a country with many earthquakes. Still I have never experienced the real fear of earthquakes for more than 30 years since I was born. Even at the time of the Great Hanshin-Awaji Earthquake that occurred on January 17, 1995.
I was watching TV at home that day. Even in the black smoke projected on the TV screen, even the sight of Kobe city which turned into rubble, it did feel like a movie scene.
And, 8 years ago today. When the tremor of the earthquake fell, we went to a convenience store, bought a drink and were checking the news while drinking it. At that same moment, I did not realize that it was a sight that I could not imagine at a distance of over 300 km far from Tokyo where I was. For us it was still another person.
And, from the news information we knew that the transportation in Tokyo has completely stopped. We gave up going home forcibly and spent the time in the office. After that, we started walking towards Shibuya from late night; we were eating ramen at Shibuya Center Street at the dawn. After that, we using subway, and to walk reached home.
In this way, we actually felt the tremor which I had never experienced before, but yet I did not understand that horror.
Because, that day,
I did not lose my family and friends. I did not lose my house, wealth or work. I have not lost anything in my life. And above all, I was alive.
In the past eight years so far, I learned later about what happened on that day.
I did not know anything, but since I think that there is something that can be done in the future in the future by knowing a lot of things from now on, I would like to spread information without giving up.
I am praying for the happiness of Japan and the world especially more than usual day.
--------------------------------- 日本と世界中のみなさんへ。 今日は日本にとっても、私にとっても忘れられない日です。 今から8年前の2011年3月11日。 日本時間14時46分18秒にマグニチュード9.0の地震が発生。後に東日本大震災といわれる未曾有��災害。 私はあの日、東京の西麻布にいました。 住宅街にあるオフィスビルは3階建てで小さなエレベーターがあり、私たちは1階からそれに乗ろうとした直前、足元から大きな杭のようなもので突き上げられるような衝撃を受け、長く大きな揺れを感じながらどうにか外に出ると、目前の住宅がまるでゼリーのように揺れ動き、その家の窓越しに男性がいるのが見えました。
私たちはその男性に「はやく外に出て!」と叫びましたが、お互いに身動きができません。しかしその男性は驚いたことに「大丈夫」と合図をしたのです。 周囲の電線が縄跳びのように跳ねあがるのを見て、私は生まれて初めて地震の脅威を感じました。 私たち日本人は小さな頃から防災訓練をします。 小学校や中学校では主に毎年9月1日に集団で防災訓練をするのです。 なぜなら9月1日は防災の日と呼ばれ、その日は1923年9月1日に発生した関東大震災の日だからです。しかしそれは儀礼的なものだったと思います。 実際、日本は地震の多い国です。 それでも私は生まれてから30年以上も地震の本当の恐ろしさを体験したことはありませんでした。 1995年1月17日に起きた阪神・淡路大震災の時でさえもです。 私はあの日、自宅でテレビを見ていました。 テレビ画面に映し出される黒煙の中、瓦礫と化した神戸市内の光景でさえ、まるで映画のシーンのように実感がなかったのです。 そして、8年前の今日。 私たちは地震の揺れが収まるとコンビニに行き、飲み物を買ってそれを飲みながらニュースを確認していました。 その同じ瞬間に、私がいた東京から遠く300km以上も離れたところでは想像もできないような光景だったということ実感していませんでした。 私たちにとってはまだ他人事だったのです。
そして、ニュース情報から都内の交通機関が完全にストップしたことを知ります。 私たちは無理に帰宅することをあきらめ、しばらオフィスの中で過ごしました。 その後、私たちは深夜になってから渋谷方面へ向けて歩き出し、明け方の渋谷の繁華街でラーメンを食べていたのです。 その後、可能な限り動き出した地下鉄と徒歩を利用して自宅にたどり着きました。
こうして私たちは実際にこれまで体験したことがない揺れを感じながらも、まだその恐ろしさを理解していませんでした。 なぜなら 私は家族も友人も失いませんでした。 家も財産も仕事も失いませんでした。 私の人生で何も失いませんでした。 そしてなによりも、私は生きていたのです。
この8年間、あの日に何が起きたのか、後から知ることばかりでした。 しかし、何も知らなかったからこそ、 これからに向けてできることがあると信じて、 何かを発信していきたいと思っています。
今日はいつもよりも特別に、日本と世界に祈りを込めて。 Writen by OMUSUBI Japan Organizer asaimiho (@asaimiho_post)
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下野友嗣 「かがやく鉄とねむる鉄」
-Yuji Shimono solo exhibition-
2017年 6月2日 ~ 6月18日 13:00 - 19:00 入場無料・木曜定休日
人類が鉄を扱い始めたのはおよそ紀元前3000年前にも遡り、5000年以上の時の中で文明に大きな発展をもたらしてきた鉱物である。しかしながらそれは必ずしもポジティヴな発展だけではなくどの時代においても戦争の兵器としての進化を経てきた側面も大きく持ちあわせている。
下野の制作する作品は鉄板に意図的な「錆」を施し様々な有機物や無機物を形取る。「錆」とは酸素と水の存在するこの地球でしか起こらない現象であり同時にそれは地球上の生命が存在する証拠でもある。
鉄と錆を通じ人間の生命と文明の発展を垣間見せる下野の作品群を今回は過去作品を含み大量に展示公開いたします。






▼アーティストプロフィール
1984年 兵庫県生まれ 2007年 大阪芸術大学 美術学科卒業
<個展歴> 2010年7月 galleryAO(兵庫) 2011年4月 泉地靖雄美術館アーティスツハウス(岡山) 『あいさつをするくま』 2011年4月 Art space gallery MARU(韓国 昌原) 2012年4月 gallery 301due(兵庫) 『鉄の惑星』 11,『さびから生える』 2012年9月 galleryからひね(京都) 『Incision』 2012年11月 spectrum gallery(大阪) 『風花』 2016年11月 gallery 301(兵庫)『かんげんする』15,『空が白むまで』 14,『黄金の色』13,『熊人間の里』
<その他の展覧会> 2011年2月 大阪芸術大学美術学科作家展(京都東急ホテル gallery Kazahana) 2011年8月 CHAIN OF ART(兵庫 ギャラリー島田) 2011年11月 shoes box ヨッちゃんビエンナーレ2011(大阪 OZCGallery) 2012年4月 SHIGARAKI ACT2012(滋賀) 2012年10月 ART KAMEYAMA(三重) 2013年9月 土湯アラフドアートアニュアル2013(福島) 2014年9月 313×313 Dreaming Art ロイヤルパークホテルザ羽田(東京) 2015年2月 n-air(北海道 登別ショッピングセンターアーニス) 2015年3月 When The Wind Blows 風が吹くとき(Northern Ireland, UK Millennium Court Arts Centre) 2015年10月 下町芸術祭 (兵庫 地域人材センター) 2016年5月 大阪御堂筋アート2016(大阪) 2016年9月 丹波篠山アートフェスティバル2016(兵庫) 2016年9月 C.A.P.(芸術と計画会議) KOBE STUDIO Y3 (秋の収穫祭)(兵庫) 2016年9月 KOBE ART MARCHE(兵庫 メリケンパークオリエンタルホテル) 2016年10月 第六回 天祭一〇八 (東京 増上寺) 2016年10月 下町アセンブリー(兵庫 ものほしざおギャラリー) 2016年12月 gallery 301 Exhibiton2011(兵庫) 11,12,13,14,15
<受賞歴> 2014年7月 古湯温泉ONCRI 第3回床の間アートコンペ 優秀賞 2016年1月 『天国と地獄』 天国賞 芝田町画廊(大阪)
<アーティスト・イン・レジデンス> 2010年12月 Project Asia Art Program 2010 Residency Program(韓国 昌原) 2014年3月 飛鳥アートヴィレッジ アーティスト・イン・レジデンス『宙の土 土の宙』 (奈良 飛鳥 万葉文化館)
2014年11月 するがのくに芸術祭 富士の山ビエンナーレ 大法寺書院にて展示(静岡 由比)
2016年7月 C.A.P.(芸術と計画会議)KOBE STUDIO Y3 2ヶ月制作(兵庫)
<アーティストトーク> 2016年8月 C.A.P.(芸術と計画会議)KOBE STUDIO Y3 月間スタジオアーティスト(兵庫)
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