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ちりあくた
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1-2-3-5-6-7 · 8 years ago
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「王様はかわいいって5億年前から言ってる」
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金田一と月影 これ書いた
 鈍行列車しか止まらない駅から徒歩で7分。改札を出たすぐのところに営業しているのかしていないのか判断しかねるほど寂れた喫茶店が一件。道中にドラッグストアが一件。そのあとは目立った建物もない住宅街。
 まるで帰宅経路かのように記憶しているのは自分の家ではなく、影山と月島が同居しているふたりのマンションだ。
  影山からのラインに気付いたのは、大学のカフェテリアでその場にいた友人と席を共にし、いちばん安いランチであるカレーライスを咀嚼していたときだった。そう頻繁に来るわけでもなく、なにか用事がないと送ってこない影山のラインは、前回もそのまえも金田一が送ったメッセージに既読がついて終わっている。
「今日空いてたらうち来るか?」という顔文字も絵文字もないシンプルな一文。カレーとごはんをスプーンで大雑把に混ぜながら、今夜はサークルのハロウィンパーティーの打ち合わせがどうのこうのとメンバーがしゃべっていたのをぼんやりと思い出した。一回くらい抜けても構わないだろうか。親指で画面をフリックしてつくる返事の内容は、影山のラインを見たときから決まっていた。
「カノジョ?」
 向かい合って座った友人が、同じくカレーを食べながら投げた問いにいや、と首を振る。
「友達」
 影山の存在をそう称せることを、金田一はむず痒く感じ、同時に誇らしくもある。「授業おわったら行くわ。5時すぎくらい」完成したメッセージを送った。画面を開いたまま既読になるのを待つ。
「なぁ見てみ。また影山飛雄の特集やってる」
 友人が机上に広げているのは月刊のバレー専門雑誌だった。金田一とてずっとバレーボールをつづけてきたので、それなりに馴染みのある雑誌だ。試合中に撮影された影山の写真がいくつもカラーで掲載され、若き天才セッター、などとおおきな文字で見出しがついている。
「あーそれもう見たわ」
「すっげーよなァ」
「うん。すげー」
 影山がすごいことなど、この雑誌の記事を書いたライターより写真を撮ったカメラマンよりずっとまえから知っている。かつておなじチームにいたのだ。何度もトスを打った。打てなくて、悔しい思いだってした。死ぬほどした。べつのチームになって対戦したことだってある。影山がいるチームに勝ったことも、負けたことも。
これらすべては当時必死過ぎて気づく余裕もなかったし、いまになってより実感が湧いたことでもあるが、物凄く貴重な体験だったのだ。自慢してひけらかした気持ちと、青春の思い出として大切にしまっておきたい気持ちとがない交ぜになる。でも結局、金田一はいつも影山飛雄と中学の同級生だったことも高校でライバルになったことも時を経て友人になったことも、だれにも言わないでいる。この記憶はほかのなにより、金田一のとっておきなのだ。だから大事にしたい。
 メッセージに既読がついたのを了解の意と判断して画面を落とすと、「飯買ってきて」とラインの通知が浮かぶ。どうやら家を出る気がないらしい。バレー以外に趣味のない男なので、休日にわざわざ家を出る用事がないのだろう。こんな風に使いっぱしられることをわるくないと思っている自分がいる。「なんかってなんだよ」と打った文字をすべて消して、「りょ」と簡素な返事にスタンプを連続で送ると、今度こそ既読になったきり返事は来なくなった。
「なぁーほんとに友達?」
 金田一がラインにかまけている間にカレーを完食し終えた友人が怪訝そうな視線を寄越す。
「なんで?」
「顔がゆるっゆるだから」
「えっ」
「無自覚? あ、片想い中? だれ? 何年の子? サークルどこ?」
「マジでそういうんじゃねぇって」
 影山に対して恋心は一切ないが、友達として特別だという感情はある。それが全面に出てしまっているらしかった。すぐさま否定しても、友人は探るような視線を向けてくる。鏡があるならいますぐ確認したいものだが、あいにく持ち歩く習慣はない。そんなにだらしない表情をしてしまっているのだろうか、といささか不安になりながらも、ぬるくなったカレーをかき込んだ。 「月島が飲み会でいねーから」
 ヒマだし。マンションの扉を開けた影山はそう言いながら金田一を部屋へ招いた。まあそんなことだろうとは思っていた。金田一が夕飯にと買って帰った牛丼大盛にご満悦の表情を浮かべた影山は、いまやテレビのなかのスーパースターだ。でも金田一にとっては友達と称せる関係で、それがとんでもなく、うれしい。
「月島ってそういうの行かなそーだけど」
「バイトのだからじゃね? 大学のはいつも断ってるぽい」
「どこでバイトしてんだっけ」
「タ……タ……? ……CD売ってるとこ」
「タワレコ?」
「それだ」
 影山は冷蔵庫から缶ビールと炭酸水を出し、金田一は一言断ってから食器棚を開けてコップを出す。キッチンテーブルに牛丼と菓子やつまみが入ったドラッグストアの袋を置いた。酒は影山が用意してくれたので、買ってきた分は冷蔵庫へしまう。缶ビールは金田一の分で、炭酸水は自分用のウイスキーを割るために出したのだろう。影山はビールよりハイボールを好んで飲む。しかも水のようにがぶがぶと飲むのだ。中学のころは炭酸飲料を飲んでいるすがたなど一度も見たことがなかったが、嗜好は変わるものだなとおもう。しかもまさかこんなに酒につよいだなんて、だれが予想しただろう。
「氷ほしかったんだ。さんきゅ」
 ドラッグストアで仕入れてきたロックアイスを見つけた影山が手で封を開けた。
「お茶もらっていい?」
「ん。いまのお茶さ、月島がハマってる変な味のやつだけど」
 俺は麦茶がいいのに、と影山がすこしふくれて見せる。
「なんだそれ」
 ピッチャーに入っている液体は、見かけは麦茶と大差ない。コップに注いでみるが、金田一にとってなじみのないにおいだったし、飲んでみてもそれが何茶と呼ばれるものなのかわからなかった。
「ウーロン茶でもほうじ茶でもないことはわかる」
「なんだっけ。ルーモスみたいななまえ」
「おまえ先週の金ローでハリーポッター観ただろ」
「! 観た。すげーなエスパーかよ」
「いやどっちかってーと魔法?」
 他愛ない会話を挟みながら食器などを準備して、牛丼を電子レンジで温めなおしてリビングへ持って行く。頼まずとも、影山は食べ物が入った袋を漁りながらリビングへ持ってきた。
 黒革のソファは、訊いたことはないがきっと月島の趣味だろう。ソファに座ると食事がしにくいので、肌触りのいいラグのうえに腰を落ち着けた。影山はテレビが横向きになる位置に座り、金田一は正面に座る。
 テレビをつけるとバラエティ番組がはじまるまえの夕方のニュースがやっていた。それをBGMにぽつぽつとどうでもいい話をした。内容はどうでもいいが、これは金田一が中学のころからずっとしたかった、影山との「どうでもいい会話」である。
 のんびりと酒を飲み、つまみを食べ、会話をしたりしなかったりしながら過ごしているうちにあっという間に時計の短針が11の数字を指している。金田一は意識がある程度にそこそこ酔っ払っていたが、影山は顔色ひとつ変わっていない。すこしだけ饒舌なような気もするが、比較がふだんの影山だとようやく人並みにしゃべっているレベルだ。ウイスキーのボトルは2本目だったが、1本目が新品だったかどうかは確認していない。
「俺まだいても大丈夫か?」
「? 帰り駅まで送るか?」
「いやそういう心配じゃなくて」
 影山と金田一の関係性は月島もよく知っているはずだ。金田一が影山によこしまな恋情は抱いていないこと��仲のいい友人であること。月島がいるときに部屋にあがったこともあるし、金田一が月島と仲が悪いということもない。正直、よくはないが。
 とはいえ、自分が飲み会で不在の夜に影山が金田一と部屋でだらだらしている光景を見るのは、あまり気分がいいものではないのではないかと、月島の立場になって考えてしまう。
 そろそろ片付けをはじめようかと空いた菓子の袋をビニール袋に詰めていると、玄関の施錠が解かれる音がした。家主の帰宅に違いないだろうが、影山はち��りと視線を投げただけで、出迎える気はないようだった。
 月島が扉を開け、鍵を閉め、玄関に並ぶ靴を見下ろし、部屋に視線を寄越すまでの動作を、挨拶するタイミングを計るため眺めていた金田一はばっちり目が合ってしまった。
「おじゃましてまーす」
 リビングへ入ってきた月島へ声をかけるが、まるで金田一の姿が視界に入っていないかのように無視された。ように、というより、確実に視界に入っていない。目が合ったというのも金田一側の認識で、月島の目には映っていなかったような気がしてきた。
 月島はテレビを横切って影山のとなりに立ち、無表情でつむじあたりを見下ろしている。こわ、と思ったが、いまこの状況で口出しするのはもっと恐ろしい。金田一はそうする必要があるかどうかはさておき、息をひそめて、体をこわばらせてふたりを見守るに徹した。
「おかえり」
 影山は首が落っこちそうなくらいぐっと月島を見上げた。帰宅してからずっと無言を貫いていた月島がはぁぁー、と長いため息を吐いた。影山は表情を崩さず月島を見上げているが、金田一はビクッと肩を揺らした。なんで俺がビビらなくちゃいけねぇんだよ、と内心悪態をこぼす。月島の感情が読めない。不機嫌なのかどうかすらも、金田一には判断できない。月島が自分の顔を右手で覆った。
「……天の使いかよ」
「は?」
 金田一は息をひそめるのも忘れてうっかり声を出してしまった。耳を疑うようなセリフだったが、言った本人は相変わらず顔を手で覆っているし、言われた影山はとくに反応もせず適当な配合でつくったハイボールを飲んだ。聞き間違いかとふたりの動向を観察していると、月島がしゃがんで影山に詰め寄る。
「きみどうやって下界に降りて来たの? 羽? 羽があるの? ちょっと見せてもらえる?」
 あろうことか月島は影山が着ている薄手のニットを背中側から捲った。
「ヒエッ」
 金田一はおもわず声をあげたが、影山は鬱陶しそうに月島の頭を手で押し返している。
「寒いからヤメロ!」
 理由それなの? と思ったが口に出してツッコむ余裕はなく、代わりに「おいはぎだ……」と声がこぼれた。
 抵抗されながらもなお衣服をたくし上げようと懸命になっている月島が真剣に羽の有無を確認しようとしているなら恐ろしすぎる。早々にこの混沌とした空間から逃げ出したいが、空き缶や洗い物を放置していくのは気が引ける。
 どうやらひどく酔っ払っているらしい月島は、見聞きしている金田一が恥ずかしくなるような言動をいくつもやってのけたが、すべて影山に軽くあしらわれていた。影山にしてみればいつものことかもしれないが、金田一からしてみたら初見であり、ふだんの月島からは想像できないなような姿に唖然とするほかない。
「きみってさぁ……まえから思ってたんだけど……顔かわいいよね。いやほんと…………は? ちょっと待ってマジでかわいいな」
 などというセリフを月島は至極まじめな表情で言い、頬を両手で包まれた影山は諦めたようにされるがままになっている。いったいなにを見せられているのだろう。
 奇行を見せていたかとおもえば急に電池が切れたおもちゃのようにおとなしくなる月島を、影山はまるで犬でもあやすかのような手つきで撫でている。その様子も見慣れない光景ではあったが、月島のインパクトが強すぎてさほど気にならなかった。
「ねぇ、きみもそう思うでしょ? ……ねぇちょっと金田一聞いてる?」
 月島が帰宅してからかれこれ20分は経っているし、終電のことも考えておいとましたいところだ。どう切り出そうか、と悩んでいたところでふいに名前を呼ばれて月島を見れば、真っすぐにこちらを見据えている。今度ばかりはしっかり金田一の存在を認識しているようだ。金田一がいるとわかってた上でこのやり取りを繰り広げていたのだとおもうとゾッとするが、素面の月島が知ったら卒倒してしまわないかと心配でもあった。
「おい金田一巻き込むなよ」
「いやもう充分巻き込まれてる」
 影山の気遣いはありがたいが今更だった。しかし存在を認めてもらえたのでこれは発言するチャンスだとばかりに「あのそろそろ終電が」と早口に切り出したが、月島が凄むように金田一を見てくる。影山の顔を両手で掴んだまま、顔だけこちらへ向けて。こわ、とおもったが終電を逃したら事である。この意見ばかりは通してもらわねばならない。
「金田一さァこの間のインタビュー観た?」
 一瞬疑問符が浮かんだが、おそらく影山が出ていた回のスポーツ特番のはなしをしているのだろうとすぐに察しがついた。
「NHKの? 観た」
「…………ファンかよ。顔? 顔がかわいいから? 顔ファンなの?」
「エ……ちがう」
 もちろんファンではあるが顔ではなく影山のバレーがすきなのだ。ファンである以前に友達なのだ。そう言いたいのは山々だが、月島はそこまでターンを許してくれそうにない。
「は? 顔かわいくないって言った? ちょっとよく見て。神の寵愛受けすぎ案件」
 頼むから日本語を理解して日本語をしゃべってくれ。金田一は切実に願った。
「わるい金田一、こいつ無視していいから帰れ」
「うん。片付け任せていいか?」
「おう」
 助け舟を出してくれた影山に感謝しつつ、鞄を持ってそそくさと玄関へ向かった。見送りをしようと影山が月島を振り払って立ち上がろうとしているのを「いいから! 俺は大丈夫だから!」と制して部屋を出た。
 ずいぶん貴重な光景を目の当たりにしたが、できればもうリアルタイムでは見たくない。あと、酔っ払った月島とは二度と出会いたくない。
 テレビのスポーツ特番、雑誌の特集などなどに引っ張りだこのバレー選手に酒癖のわるい同性の恋人がいるなどといううわさが広がったら、影山はまた様々なマスメディアに取り上げられ、ちがう意味で注目を浴びることになるのだろう。影山はさほど気にしないかもしれないが、月島はどうだろうか。もちろん、金田一は他言するつもりはないが。
 翌日は久々に国見と会って昼食を共にした。金田一の希望でラーメン屋に入り、国見は麺をいちばんやわらかい状態で頼んだあげく、のろのろと食べ進めている。
「やらかい方がうまくない?」
「わからん」
 金田一は麺がのびていなければとくにこだわりはないのでもうとっくに食べ終わっている。国見のラーメンはもうくったくたになっているだろうが、本人がそれでいいのなら口出しはしない。
 国見が食べ終えるまでの時間を持て余していると、スマートフォンが鳴ったのでポケットから引っ張り出した。「昨日はわるかった」と簡素なライン。差出人は影山飛雄。世間を賑わす期待の天才セッター。テレビのなかのスーパースター。金田一にとっては中学の同級生。現在は友達。
 なんと返事をしようかと指が迷って、スタンプ、絵文字、キーボードと画面を切り替えていると、「って月島が」と追加のメッセージ。思わず笑いがこぼれて、箸を止めた国見の視線が突き刺さる。
「ライン? 影山?」
 国見の発言には疑問符がついていたが、それは確信を持った断定に聞こえた。
「え、なんでわかった?」
 おどろいて視線を持ち上げると、国見は返事をもったいぶるようにラーメンに息をふきかけてちゅるちゅると子どもがやるように啜った。それもうぜってー熱くねぇじゃん、と指摘した金田一の声を無視してれんげで掬ったスープを飲んだ。
「顔にやけてんぞ」
 器に視線を落としたまま、国見はやれやれと大げさに肩をすくめて見せる。そういえば昨日似たような指摘を受けたばかりだ。
「え」
 思わず手から落としたスマートフォンが、卓上で画面を曝しながら再び通知音を鳴らす。 
「うわ、マジで影山だったんだ」
 ラインの差出人を確認した国見はすぐ興味をなくしたように視線をラーメンへ戻した。
「カマかけたのかよ! 性格わる……」
「いやいやそれほどでも」
 国見を睨みながらスマートフォンを回収する。開いたトーク画面に現れたのは、影山からはめったに送られてくることのないスタンプ。今度は顔がにやけている自覚があった。 「王様はかわいいって5億年前から言ってる」/月影
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1-2-3-5-6-7 · 8 years ago
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My beloved Tiger
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荒東(パラレルワールド)
ふたりが幸せになるために生きていくはなし/前編
 ——20XX年8月31日、神奈川県Y市の繁華街で起きた殺人事件に関するインタビュー。被告人の中学時代の同級生Tさん(男性)による証言。
「彼のことはあまり覚えていません。小学校は別々でしたし、確かにおなじ中学校へは通っていましたがそれも中学2年生までです。そのときにショックな事件があって記憶が飛んでしまって。ああ、ライターの方ならご存じですよね。……私を守っての行為だということは警察の方に聞きました。でもほんとうによく覚えていないんです。……薄情、ですか? ええ、ご存知の通り父親は非道な人間でした。でも目のまえで血のつながった父親が殺されたらショックを受けて当然ではないですか? 当時の私もそうだったのだと思います。憶測ですが。……彼との仲ですか? わるくはなかったんじゃないでしょうか。ただ私はあまり学校へ通えていなかったので、彼だけでなくとくべつ仲のいい友人はいませんでした。なぜ彼がそのような行動に出たのか私にはわかりません。彼に訊いてもそう答えるんじゃないですか。深い理由なんてきっとなかったんです。もしかしたら彼はもう私のことを覚えていないかもしれないし……。ですから、今回の事件に関してお話しできることはなにもありません。もう結構ですか?」
 まるで台本通り読み進めたかのようなセリフを、まるで繰り返し繰り返し練習したかのような表情、息遣い、完璧なタイミングで間合いを置いて話す様はまるでスクリーンに映る大女優のように美しかった。インタビューアは記事の最後をそう締めくくった——。
Side:荒北 age.11
 磯と油のにおいがどこへいっても鼻につく港町で育った。ひとが溢れかえる繁華街。みんな流行りの服を着て、流行りの音楽を聴き、流行りの食事を口にする。
 きらびやかな町は昼と夜でずいぶん表情を変えた。昼間はただ賑やかなだけだが、夜は人々が淫猥な空気を纏っている。共働きの親が不在の夜は目的もなく繁華街の入り口で人の流れを見るのが日課だった。なかへ足を進めることはせず、補導されるまえに家へ帰った。自分が大人になり親になったら、できる限り家にいて、帰宅する子をおかえりと迎えてやろう。よくそんなことを考えた。
 はやく大人になりたかった。子どもの自分では出来ないことを、大人になればすべて叶えられると信じていた。
 もうすぐ日が暮れる。橙色の太陽が、町を燃やすようにじりじりと辺りを染め上げていた。つい昨日まで蝉が鳴いていたような気がしたが、いまはその声も聞こえてこない。ひやりとした肌が半袖のシャツから伸びた腕を撫でた。夏の残党もついにくたばったのだろうか。
 開店前のバーの入り口に座り込んで、色を変える空と行き交う人々を眺める。昼と夜が入れ替わる、逢魔が時。少年はいつも、音もなく現れる。
「荒北」
 鈴の音のように凛とした声に顔を上げると、東堂が荒北を覗き込むようにして傍らに立っていた。東堂はちいさくて細くて艶のある黒い髪が肩でゆらゆら揺れていて、はじめて見たときは女だとすっかり勘違いした。利発そうな眼はきゅっとつり上がって、口元には笑みが浮かんでいる。
 ずっとひとの波を眺めていたはずなのに、荒北はいつも東堂の気配に気づけない。存在感は存分にあるのに、だ。口がよく回るのでやかましいし、ふだんから散々美的センスに欠けると東堂に言われる荒北ですら、東堂の容姿は他とは群を抜いて、とくべつなものに感じる。隣でしゃべっているときは気配も存在もちゃんと感じるのに、ひとの群れを縫ってやってくる東堂にはいつだって気づけない。
「今日はガッコ行ったの」
 荒北の隣に座って膝を抱えた東堂は視線を地面に向けて、問いに対し首を横へ振った。ふたりとも学年はおなじだが通う学校は異なる。
「いや。今日は父さんが家にいろって言うから」
「ンな父親聞いたことねーよ。小学生に向かって家にいろなんてなに考えてんだ」
「それはオレにもわからん」
 膝に額をくっつけるように顔を伏せていた東堂は、顔をこてんと斜めに傾けて荒北を見上げた。長いまつげが天に向かってカーブを描き、藍色のひとみを縁どっておおきさを強調している。肉付きのうすい頬が膝のうえでつぶれて、いつも弧を描く唇はすこしだけ突き出ている。キレーな顔、と思ったが、荒北はフンと鼻を鳴らして視線をそらした。そんなことわざわざ他者が言わずとも、己がいちばんよく知っているのだ。東堂尽八という少年は、自分の美しさに絶対の自信と確証がある。だからあえて言ってやらない。言葉にしようものなら余計調子に乗って口の回ること回ること。
「荒北は学校へ行っていたのか?」
「ったりめーだろ。学校行かねぇ小学生のほうが珍しいっつーの」
「ちゃんと勉学に勤しんだのだろうな?」
「ベンキョーなんてたりぃことしてられっかよ」
「また居眠りか。あまりサボってはらなんぞ」
「ガッコーサボってるやつに言われたくねぇんだけどォ」
 冗談交じりの悪態に、東堂は静かにほほ笑んだ。東堂がサボりたくて学校に行かないわけではないことはわかっているが、荒北は口が悪い性分なのだ。性格上、素直にやさしくなんてできない。慰めることも、励ますことも、器用にできたら苦労はしない。
「体育はぜってーサボんねーし野球すげー面白ェーし」
「まあひとつのことを極めるのもわるくはないが」
「おまえも今度やろーぜ。休みの日にオレのクラスのダチ集めて」
「野球はルールがいまいちわからんが……あれだな、バッドで球を打ったら元の場所まで走って戻ってこればいいのだな?」
「アーまァそうなんだけどォ……。ルールもおしえてやっからァ。今度の日曜は?」
「すまん。日曜は父さんが家にいるから出かけられない」
「おまえの父親っていつまで子離れしねー気なの?」
 父さんが、父さんが。二言目にはこれだ。東堂の家は父子家庭らしく、だからなのか、いつも父親の存在を気にしている。相当厳しい親なのかと思ったが、だとしたら学校へ行かせたがらないのはおかしな話だ。辻褄が合わない。でも肝心の東堂の口からは彼の父親を想像しうる情報はなにひとつ出てこなかった。おしゃべりな東堂が欠片も話したがらないということはつまり、訊かれたくないし、触れてほしくない領分なのだろう。
「さぁ。いつまでだろうな」
 解を知らない東堂の声はとても無垢に響いた。ゆっくりと立ち上がった東堂を見上げる。影になって顔はよく見えなかったが、笑っているような気がした。
「野球のルール勉強しておく。いつか混ざったとき一等目立てるようにしておかないとな」
「いやぜってー目立つってェ。オメー変わってるからよ」
「そうか? 荒北も充分変わっているがな」
「ハァ? 言われたことねーよ」
「オレはおまえ以外に友人がいないのでな、比べる対象が自分しかおらんのだ」
「だとしてもオメーのほうが100倍変わってるってェ!」
 緩慢に歩み、繁華街へ向かう人の波に乗る東堂の背へ声を張り上げる。繁華街のなかへ進んでいく理由は、単純に東堂の家がそちらの方面にあるのだろうと思っていた。いつも東堂はなにも告げずに去っていく。さよならもなく、つぎに会う約束もせず、現れたときとおなじように音もなく、煌びやかな町へ消えていく。帰路につくさみしそうな背中は、ほかの人々と同化して荒北にはどれが東堂なのか見分けがつかない。ひと際うつくしい子どもは、夜が訪れた町を闊歩する大人に紛れて存在感を消失する。入り口で立ち往生している荒北にはその光景をテレビの向こうの映像を眺めるように甘受するしかなかった。
***
 朝晩めっきり冷え込むようになったせいで、秋を飛び越えて冬の到来を感じさせた。東堂は体のおおきさに見合っていないぶかぶかのパーカーを羽織っていたが、下はいつもハーフパンツを履いているので空気にさらされた足が寒そうに見える。抱えた膝をすり合わせて、それでも寒いとは言わなかった。
 結局、東堂は何度誘っても野球のチームに加わることはなかったが、それでも宣言通りルールは会得してきたようだった。
「しかしな荒北、オレにはどうも野球が面白いスポーツには思えんのだが」
「あァ? なんでェ?」
「おなじところをぐるぐる走ってまわるだけではないか」
 真面目くさった顔をする東堂の広い額にデコピンをくらわせてやった。言っていることがルールを調べるまえと変わっていない。東堂は額を両手で覆って、「痛い! 痕が残ったらどうしてくれる!」と大げさにわめいているが無視してやった。
「オメーちゃんとルール理解したのかよ」
「もちろんだ。一つのチームは9人で編成され、攻撃と守備を交互に担って競い合う球技だろう? それぞれのポジションの名前もちゃんと記憶してきたぞ」
「あのなァ~そんな簡単なスポーツじゃねぇーんだよ! もっと深ぇんだよ野球は」
「ほぉ。じゃあオレにも伝わるように説明してくれ」
「だァから説明するよりやるほうが早ぇっつーんだよ。オメーいつだったら空いてんだよ。ガキのくせにタボーなやつだな」
「オレがガキならおまえも等しくガキだぞ荒北」
「小5はまだガキだろーがよ。こまっしゃくれたしゃべり方しやがって」
「おまえはほんとうに口がわるいな!」
 口をおおきく開けて豪快に笑う東堂は、高貴に微笑んで見せるときよりよっぽど年相応に見える。
 東堂の家にはテレビがないらしい。荒北もクラスメイトに比べたら疎いほうではあるが、そんな荒北でもさすがに知っているような有名なドラマや芸能人の話をもちかけても、東堂は知らないと首を振った。新聞もとっていない、もちろん携帯電話など持っていない、学校へはあまり行かない、友人も荒北しかいないので、本を読むことが唯一世界を知る方法なのだと言う。東堂の家にはテレビやパソコンなどの類が一切ない代わり、壁一面に本棚があり、所狭しと本が並んでいるのでそれをじっくり時間をかけて読むらしい。教科書の文字の羅列ですら発狂しそうになる荒北には縁のない話だ。そんなに本好きなら図書館に行けばいいのにと提案したら、「貸出カードを持ってない」ときた。借りずともその場で読めばいい、と言えば、また「父さんが」ときた。「カード貸してやろうか」学校の授業で強制的に一冊借りたっきり、一度も使っていないそれをどこにやったか思い出せないまま訊いてしまったが、東堂はうーんと唸って、「いや、いい」と断った。なんで、と理由を訊こうとして、東堂の口が回らないときは深く話題に突っ込まないほうがいいという経験を積んでいたので、口を閉ざしたのだった。
 テレビを見ない東堂には当然、バラエティ番組から派生した流行の言葉は通じないし、ヤンキーもののドラマや映画に登場する粗暴なセリフを真似たり���しない。東堂が用いる言葉はきっと、読んでいる本のなかから東堂が選び抜いた、本人がうつくしいと感じた表現なのだろう。普段使いするには芝居がかった、すこし鼻につく高飛車な口調。特徴的なそれがさいしょは鬱陶しく感じたが、慣れてしまえば違和感もなくなった。
 日が沈む時間がずいぶんはやくなり、一瞬目を離した隙に辺りはもう暗くなっていた。夜の世界がはじまる。東堂がスッと立ち上がって闇に溶けるように人の群れへ進んでいく。肉付きの薄い生白い足がチカチカとまぶしい。
「とおどォ~風邪ひくなヨ」
 もう見えない、あるいは見えているのに東堂だと判別できない背に向かって声をかける。人の波のなかから、「ゼンショする」と聞き慣れた声で聞き慣れない言葉が返ってきた。夜になった町には、数多ある店の電気や看板のネオンが荒北を取り囲むように発光して目がくらむようだった。夜のにおいを纏った大人たちに逆らうように、足早に自宅へ向かう。荒北はその日はじめて、辞書を引くという行為をした。小学校入学時に教科書類とまとめて学校側に買わされた分厚い国語辞典は、重たいという理由一点で荒北がランドセルへ入れたことはなかった。
「ゼ……ゼン、ゼンショ……善処ォ? ……ハァ? ンだアイツふつーにアリガトウって言えよ」
 つぎに会ったとき部屋でひとり呟いた言葉を東堂にも言ってやった。
「それはキョッカイがすぎるぞ荒北!」
 東堂はまた口を開けて豪快に笑った。キョッカイ、とまたも漢字変換できない言葉が荒北の脳内を占拠する。
「国語の授業じゃねェーんだぞ!」
 怒鳴った荒北に対し、なんの話だ? と東堂は首を傾げた。家に帰ったらまた辞書を引かなければならない方の身にもなれ、とおもったが、東堂は自分の知らない言葉を耳にしたらきっと嬉々として分厚い辞書を捲るのだろう。
***
 冬の寒さが町を凍てつかせる頃になると、東堂は足首まである長いコートを纏うようになった。見るからにあたたかそうな、真っ黒な毛皮のコートは東堂によく似合っている。こまっしゃくれに拍車がかかって多少苛立ちもわいたが、うつくしいものの前でそういった感情は無効化されるものだ。それでも相変わらず太ももから足首まで肌が外気に曝されているので、それ見ている荒北のほうが寒さを感じる。バーの軒先にある石段もすっかり冷やされて、座るときすこしの覚悟が必要だった。東堂はコートを尻に敷いて直接肌が触れないよう工夫している。
「オメー寒くねェのォ?」
「寒い。でも短いズボンしか持ってないんだ」
「……買ってくんねェの?」
「うん」
 それっきり東堂が口を閉ざしたので、荒北も追及するのをやめた。
「荒北のジャケット、背中で虎が吠えているぞ」
「これスカジャンってゆーんだヨ」
「ほぉ。オレもそういうのが着たい」
「ぜってー似合わねェからやめとけ」
「似合わなくないと思うが」
「なんだよその自信」
 ウッゼ、と思い切り顔を顰めてやる。東堂はフ、と小馬鹿にするように笑って荒北の悪態を一蹴した。白い息が生み出された瞬間、跡形もなく消失する。寒さで鼻先がジンと痛み、頭がぼぉっとした。東堂は顔にかかる前髪を人差し指で耳にかけ、すこし動けばまた髪が視界を遮るので耳にかけ、という動作を繰り返している。
「髪切ればァ?」
「それはならん。うつくしさが損なわれる」
「ッゼ」
 長い前髪をぐしゃっとかき上げてやると、「乱暴はよせ!」と東堂が荒北の手を引きはがそうともがいた。
「デコッぱち」
「うるさい」
 おおきなつり目が荒北を恨めしそうに睨み上げる。
「デコ広いのがヤなの?」
「うつくしさに欠けるだろう」
 額の広さでひとの美醜は決まらないと荒北はおもうが、こだわりの強い東堂にはコンプレックスらしかった。
「ヘェ~。自称美形のとぉどォチャンはァ、そんなちっせェこと気にしてご自慢の顔隠しちゃうんだぁ?」
「自称ではない! みんな口をそろえてオレをうつくしいと称賛している!」
「あれ、なんか頭に巻くやつなんだっけェ。ターバン? とかすれば?」
「話をきけ!」
 ぎゃあぎゃあと喚く東堂を解放してやれば、艶のある黒髪はさらさらと宙を踊った。東堂は乱れた前髪を手櫛でといて、指で撫でつけている。すぐにまた乱してやりたくなったが、二度目は本気で怒ってくるような気がしたのでやめた。
 ぶわ、と顔にやわらかい感触を受けて視界が遮られる。立ち上がった東堂のコートが荒北を攻撃したようだ。もしかして一度目もなかったか、と見上げた先で黒い毛皮が重厚に風を切った。
「ターバンよりカチューシャのほうがいい。荒北、クリスマスプレゼントに悩まなくて済んだな」
「なァにプレゼント要求してんだよ。しかもなに、カチューシャって」
「辞書を引け辞書を。載っているかはわからんが」
 国語辞典にはちゃんとカチューシャの項目が記載されていた。そういえばクラスの女子がつけていたような気がするが、辞書にもあったように女子が身につける装飾品だ。東堂はそれがほしいと言う。本気だろうか。
 翌日の朝目覚めたとき荒北は家にひとりだった。よくあることでそう珍しくはないが、ダイニングテーブルに『三日間出張で家に帰れません』と母親の字でメモ書きが置かれ、五千円札が吸い殻一つ落ちていない灰皿の下敷きになっている。喫煙者は父親のみで、近頃家に帰って来たのを見ていない。最後に洗われたっきり使われることもなかったのだろう。顔を洗い歯を磨き、身支度を整えて5千円札を二つに折ってズボンのポケットに突っ込む。スカジャンを羽織るとき、背中で虎が吠えているぞ、という東堂の声がよぎった。
 荒北は久々に平日の朝、手ぶらで家を出た。学校をサボるのはいつぶりだろうか。品行方正とまではいかずとも、荒北はこう見えて根は真面目な性分なので、普段は理由もなく学校を休んだり授業をバックレたり教師に悪態吐いたりなどしない。逆を返せば理由があれば迷いなくやってのけるのだが、ただその日はどうしても学校へ行く気が起きなかったのだ。
 電車で行くにも自転車で行くにも中途半端な距離にある繁華街へは、いつも徒歩で行っていた。まだ昼にもなっていないせいで夜のにおいを纏う大人のすがたは見当たらない。いつもだったら入り口で眺めているだけの町へ足を踏み入れる。いつも東堂が消えていく町のなかは夜の煌びやかさの名残もなく、会社へ向かうスーツ姿の大人と観光客が入り乱れていた。ナイトクラブや居酒屋は軒並みcloseの看板を下げているが、観光客向けの飲食店や雑貨屋はクリスマスの装飾で店を飾り客を迎え入れている。建物が隙間なく立ち並んでいるせいで町はとても窮屈に感じた。きっとこの建設物は港まで延々続くのだろう。
 目についた雑貨屋は少々足を踏み入れるのに躊躇ったが、今日の目的はきっとここにあると荒北は確信して中へ入った。店員は小学生相手にも律義にいらっしゃいませと声をかけてきた。店内では二人組の女がキャッキャと話し込みながらアクセサリーを選んでいる。荒北が求めていたものはすぐに見つかった。カーブを描いたプラスチックの内側に小さなトゲがいくつもついている。色とりどりのそれは装飾が施されているものや細いものから太いものまで種類は様々だ。これが東堂のほしがっていた「カチューシャ」であることは確かだが、本当にこれを頭につけるのか、と疑問が浮かぶ。「やはり女みたいでイヤだ」と顔をしかめる姿も、「美形にはなんでも似合う」と高飛車に笑う姿も、おなじくらい想像が容易い分、どっちに転ぶかわからない。リボンや花がついているものは東堂がどうというより荒北がレジへ持って行きたくないので却下。要は前髪が邪魔にならなければいいのだから、飾りなどなくていいのだ。なんの装飾もついていないシンプルなものに狙いを定める。あとは色だ。黒、は地味だと詰るだろうか。青、白、まあわるくない。黄、ピンク、すこしイメージとちがう。ふと鮮やかな赤に視線が止まる。艶やかな黒髪に真っ赤なそれはよく映えるだろう。
 レジへ持って行くと「プレゼントですか?」と笑顔で尋ねられる。一瞬プライベートな話題に突っ込まれたかと返事を躊躇ったが、すぐにギフト包装をするかしないかの質問だったことに気付いた。
「ソウデス」
 視線をレジカウンターに落とした。気恥ずかしくて店員の顔など見れたもんじゃない。五千円札で支払って、千円札三枚と小銭が返ってくる。カチューシャに支払う金額として高いのか安いのかわからないが、五千円で足りてよかったなと安堵した。ポケットに釣銭を突っ込んで、ラッピングが施されたカチューシャが入ったちいさな紙袋を提げて店を出る。店内が暖房を効かせてあたたかかったせいで、外気の寒さが余計沁みた。カチューシャじゃなくてズボンを買ってやればよかったとも考えたが、サイズを知らないし、それこそデザインがどうのこうのと文句を言われる未来が予測できたのでかぶりを振ってイメージを消し飛ばす。
 去年も一昨年もそのまえも、一度もクリスマスプレゼントなど渡したことなどなかったし、要求されたのもはじめてだった。そもそも当日に会っていたかどうかも記憶にない。会う約束をしたこともなく、お互い気まぐれに訪れる繁華街の入り口にある開店前のバーの軒先。言葉としての約束はなくても、あの石段のうえだけが唯一ふたりを繋げる場所だった。東堂が来ない日はひとりで人の波を眺め、昼から夜へ表情を変える町の様子を傍観していた。荒北が来ない日の東堂はなにをしているのだろう。あまり興味もなかったので訊いたこともなかった。荒北がいなくても、東堂は石段のうえに座って膝を抱えていたのだろうか。あの場所でひとり、夜が来るのを待っていたのだろうか。
***
 十二月二十四日、二十五日にかけて世間では家族や友人や恋人とたのしいクリスマスパーティーでも開催するのだろう。荒北にはクリスマスに関して、これといって印象に残っている思い出がない。思い出せないだけかもしれないが、それだけ遠い記憶ということだ。
 冬休みに入ったので、目覚ましもセットせずに昼まで寝る日があと二週間は続くだろう。荒北がリビングへ行くと、クリスマスらしい雰囲気のかけらもない殺風景な部屋は静まり返っている。ダイニングテーブルには万札が五枚、灰皿の下敷きになっていた。五年生だから、五枚、という意味だろうか。荒北は自分の母親がそういった発想を持った人間なのかどうかわからない。意味なんてないのかもしれない。昨日帰宅した母親と話したとき、クリスマスの話題など一切出なかったし、プレゼントはなにがいいかなんて質問をされたのはもう何年前のことだったか。母親に学校が冬休みに入ったことを伝えると驚いて、期間がいつまでなのかを尋ねられたので答えた。母親との会話はそれっきりで、灰皿は依然きれいなままだ。父親との最後の会話はもう覚えていない。
 出かけ際、母親が置いて行った五万円はもしかしたらクリスマスプレゼントではなく、冬休み期間中の生活費のつもりだったかもしれないなとおもいながら、無造作にスカジャンのポケットへ突っ込んだ。
 二十四日、東堂は荒北のまえにすがたを見せなかった。自分からプレゼントを要求しておいて勝手なやつだなと腹が立ったが、クリスマス当日は明日だ。明日は来るだろうと、おなじように紙袋を持って出かけたがその日も東堂は来なかった。あたりはすっかり暗くなり、ネオンや街灯が照らし合わせたかのように灯っていくのをぼうっと眺めた。いつもより何割増しかで浮足立った人々が町の中心地へ吸い寄せられるように歩いて行く。ついて行ってしまおうか。いつも東堂が消えていく方向を見つめた。人の波に乗っていけば、東堂に会えるかもしれない。いつもだったらそんなことおもわないのに、なぜだか今日はそんな気分になった。もしかしたら荒北も、クリスマスというイベントの雰囲気にあてられて浮ついていたのかもしれない。自分はそちらへ行けないと線引きして、立ち往生していた光景のなかへ足を踏み入れた。
 町のなかは昼間のように明るく、だが決して昼間にはない雰囲気と表情で荒北を品定めするように見ていた。寒さにもにおいがある、と荒北はおもう。気温が低いつめたい空気のにおい、大人たちが纏う淫猥なにおい、港から漂う磯と油のにおい。いろんなにおいが混じって、都会の匂いを作り出している。
 道行くすべての背中が東堂に見えたし、どの背中も東堂のものではないと感じた。いまこの町を歩いている人間は大多数が成人した大人なのだから、小学生のちいさな背中と見間違うはずがない。頭ではそうわかっているのに、荒北は一瞬跳ねあがる心臓を抑えられなかった。
「東堂……」
 ほとんど無意識のうちに呟いていた名前は、雑踏に紛れてだれに拾われることもない。歩き続けると港が近づいてきた。磯のにおいが強くなり、潮風が肌を刺す。派手なネオンで飾られた看板がそこかしこでチカチカと点滅を繰り返しているせいで視界がうるさかった。勝手に垂れてくる鼻水をなんどもすすっていたので粘膜が痛い。寒さで指先が痺れていたが、紙袋の持ち手を強く握った。
 町のおわりまで来ても東堂はどこにもいない。そもそも、いるという確証はどこにもなかった。荒北の勝手な確信に過ぎなかった。今頃自宅で父親とケーキでもつついているかもしれない。そうだったらいい。こんな凍えてしまいそうな夜に、東堂がひとりぼっちで町を歩いていなくてよかった。
 気づいたらほとんど駆けるように町を彷徨っていたので、肩で息をするほどに呼吸が乱れていた。ふと視線をむけた先で、闇と同化しそうな真っ黒なコートが重たげに揺れる。
「東堂?」
 小さすぎる声が届くはずもなく、背中はどんどん遠ざかり、となりを歩いていた男と廃墟のようにくたびれたアパートの階段を上っていく。もしあれが東堂だとしたら、となりの男は父親だろうか。そしてあの歴史に取り残されたかのようなアパートは、東堂の家なのか。心臓が早鐘を打つ。もし荒北の憶測が正解だったとしても然程驚くことではない。なのに、得体の知れない焦燥感が肺を満たして呼吸が苦しくなる。有り体に言って、荒北は緊張していた。見てはいけないものを見てしまった時のようなバツの悪さが、じわりと体を這うように纏わりつく。
 部屋に消えたふたつの背中。ひとつは大人の男のものだった。もうひとつは、その男の腰上あたりまでしか背丈のない、子どものものだ。荒北は呼吸を出来るだけ整えて、アパートへ歩み寄った。そっと階段に足を乗せ、ゆっくりと上る。ふたりが入って行ったアパートの玄関には表札も、部屋番号を示すものすらなかった。チャイムを鳴らすかどうか迷った指先はドアノブに這わせた。そっと音を立てないように時計回りに回すと、鍵がかかっていないことに気付いて思わず息をのむ。不法侵入、という四文字が頭をよぎる。
 見かけほど老朽化は進んでいないのか、玄関の扉は荒北の努力も手伝って、とても静かに、ほとんど音もなく開いた。同時に、なにをやっているんだ、と頭のなかで警音が鳴った。もし見間違いだったら荒北は警察へ突き出されるかもしれない。見間違いでなくほんとうに東堂だったとしても、あとをつけて自宅へ不法侵入など、許してもらえるかどうかわからない。
 室内は明かりが灯っていなかったが、玄関から見て正面にある窓から繁華街のネオンが差し込んで、部屋を心もとなく照らしている。でも室内の様子を窺うには、その光だけで充分だった。畳の上に敷かれた布団のうえで、ちいさな体を押しつぶすように、おおきな背中が覆いかぶさっている。そういったことに対してほとんど知識がない荒北でも、この部屋でいまなにが行われているのかを理解するのに時間はかからなかった。テレビのなかでしか見たことがない光景が、眼前で繰り広げられている。自分はなす術もなく甘受し、立ち尽くすしかないのかと呆然とした。ドアノブを握る手が汗で滑り、玄関が派手な音を立てて閉まって目の前の光景を遮断した。ぶわ、と音が聞こえたかと錯覚するほど一気に冷汗をかいた。
 東堂じゃない。あれは東堂ではない。きっと見間違えたのだ。今日だってずっとそうだった。東堂ではない背中を東堂だと思い込んで、結局すべて違っただろう。荒北はその場から動けず、祈るように自分に言い聞かせた。東堂じゃない。東堂じゃない! 祈るように。つまり、荒北はもう気づいていた。
 目のまえの扉がそうっと恐る恐る開かれる。荒北はぎゅっと閉じていた目を開き、扉を開けた人物の横をすり抜けて土足のまま部屋を走った。背後で大人の男の低い声がしたが、荒北の耳にはほとんど届かなかった。
「あらきた」
 シーツを裸のからだに押し当てて、驚愕の表情を浮かべる見慣れた顔と自分の名前を呼ぶ聞き慣れた声に絶望した。部屋に雪崩れ込んだ瞬間ですら、この少年が東堂でなければいいと願っていたのだ。あまりにも非現実的な光景に、体が拒絶反応を起こして嘔吐してしまいそうだった。
「…………コイツ父親?」
 玄関先で固まっている男を睨み上げながら荒北が問うと、東堂は返事を躊躇うように視線を泳がせた。
「東堂」
 ずいぶんと苛立った声が出た。その感情は東堂というより得体の知れない男へ向けたものだったが、東堂はあからさまに肩をビクッと揺らして怯えた。
「ちがう、ちがう。父さんじゃない」
「じゃアイツ誰なんだよ! なんで、なに、……オメーなにしてんだよ?!」
「……帰れ。はやく、帰ってくれ」
「はァ?!」
 東堂はいつものように膝を抱えてそこへ顔を埋めた。表情が見えない。東堂の言葉の意味が理解できない。ひとりでなど、帰れるわけがない。スカジャンを脱いで東堂の肩にかけた。黒いコートは玄関先でくしゃくしゃになっている。男は随分動揺していたように見えたが、小学生が相手であることを思い出したのか、ゆっくりと荒北の方へ歩み寄ってきた。目のまえにひらりと紙が落ちてくる。三枚あるそれは、男が財布から取り出して降らせた万札だった。一瞬理解ができず、ふとスカジャンにのポケットに突っ込んだ五万円の存在を思い出し、「クリスマスプレゼントか?」と間抜けな認識をした。すぐにそうではないと気づいて、布団に着地した紙幣をぐしゃっと握りつぶす。大人はいつも金でどうこうしようとしたがる。それでどうにかなると思っている。金がほしいなんて一度だって口にしたことはない。荒北がほしいものを大人たちは知ろうともしないくせに、偉そうに金を寄越して満足な面を浮かべる。
「いらねぇよ。コイツ連れて帰るからどけオッサン」
 蹲っている東堂の手を引くと、いやだと抵抗をみせる。細い腕からは想像できないほど強い力に驚いて、荒北はパッと手を離して東堂の頭頂部を見下ろした。赤いカチューシャはきっとこの髪に映えるだろうと、場にそぐわない呑気なことを考える。男がなにかしゃべりかけたが、それを遮るように東堂が口を開いた。
「……」
「は? なんてェ?」
 東堂の声は膝に顔を埋めているせいかくぐもって聞き取りづらい。
「オレにはそれが必要だと言ったんだ!」
 顔を上げた東堂は荒北がてのひらで潰した万札を顎でしゃくって声を荒げた。東堂が負の感情をむき出しにする姿を見るのはこれがはじめてだった。荒北は自分の手の下でぼろぼろになった万札を見下ろす。心臓はドクドクと大きな音を立てて鳴り続けているのに、頭だけが冷えていくのを感じた。
「……金がありゃあいいの?」
 喉が引きつるような感覚がして、絞り出すように放った声は震えていた。荒北は自分が泣きそうになっているのだと気づいて、眉間に力を入れて必死に涙を堪える。ポケットのなかでくしゃくしゃになっていた万札を、震える指で取り出して東堂の足元へ置いた。自分が軽蔑した大人たちと同じ行為をしていることがたまらなく悔しかった。でもそうする以外に東堂をここから連れ帰る方法を見いだせなかった。
 東堂は驚いたようにおおきな目を見開いて、すぐにくしゃりと顔を崩して泣き出した。子どもみたいにエンエンと声をあげて泣く姿を見ながら、東堂はまだ子どもなのだ。自分と同い年の子どもなのだと、まるでたったいま気づいたかのように思い出した。
「東堂。おい、帰ンぞ」
 腕を引いても東堂は動こうとしなかった。嗚咽を漏らしながら首を横に振る姿に、苛立ちより焦燥が勝る。
「東堂」
 ほとんど懇願するような声が出て、いよいよ涙を堪えるも限界だった。ハァ、と大きく息を吐く音が頭上から聞こえて、荒北の体はほとんど強制的に男の片腕で引っ張り上げられた。布越しに荒北の腕を掴む男の指がついさっきまで東堂に触れていたかと思うと、肌が粟立つほどの憎悪と怒りを感じた。
「触ンな! オイ離せッ! 離せよ!!」
 無理やり立たされた荒北は抵抗も空しく玄関まで引きずられ、床に丸まっていた東堂のコートを乱暴に投げつけられる。
「あの子は君に帰れと言っただろう?」
 男は町を歩いていれば五人はすれ違いそうなほど平凡な風貌をしている。口調こそ穏やかだが男の発言には有無を言わせない圧を感じた。男に対する恐怖はなく、頭がおかしくなりそうなほどの怒りが荒北の体躯を震わせた。
 東堂を連れて帰るという自分の選択のほうが男の行いよりよっぽど正しいという確信がある。それなのにどうすることもできない無力さが、悔しくて情けなくてついに涙がこぼれた。自分が子どもであるがゆえに、非力なばかりに、東堂を助けてやることも守ってやることもできない。
 男はゴミを捨てるように荒北を外へ追い出してドアを閉めた。施錠をする音が、外に放り出された荒北を遮断するように重たく響いた。たった一枚、扉を隔てた向こうに東堂がいる。でも荒北はその部屋から東堂を連れ出す術を持っていないのだ。
 階段の手すりにうすく雪が積もっている。空を見上げると、音もなく雪が舞っていた。急に寒さを思い出して、仕方なく押し付けられた東堂のコートを羽織った。黒い毛皮のコートからは、荒北の父親とよく似たにおいがした。煙草のにおいだ。きっと東堂が吸っているわけではなく、東堂の身近にいる大人が吸っているのだろう。
 足早に町を歩きながら、引っ込んでいた涙がまた溢れて止まらなくなった。すれ違ったときだれかが「ホワイトクリスマスだ」とつぶやく声が耳に滑り込む。クリスマスというワードを聞いて、荒北は自分が紙袋を持っていないことにようやく気付いた。きっとあの部屋に置いてきたのだ。大事なものをすべて、あの部屋に置いてきた。早歩きはいつのまにか駆け足になって、ネオンが輝く町を一度も振り返らずに、息を切らして走り抜けた。
***
 まえは人混みを歩いてくる東堂の気配を感じ取ることができなかったのに、今日は遠くからでもはっきりと認識ができた。それを荒北はかなしくおもう。理由はうまく説明できない。
 目が合うと、東堂は口角をきゅっとあげて、すこしだけさみしそうに見える笑顔を浮かべた。荒北が似合わないと言ったスカジャンは存外、生意気そうな東堂の風貌によく似合っていた。生意気そう、ではなく東堂は実際も生意気でこまっしゃくれの癇に障るやつだ。でもほかに代えのきかない、唯一無二の大切な友達だ。ついでに赤いカチューシャは荒北の読み通り、艶のある黒髪によく映える。
「似合ってンじゃん」
 東堂は片膝を立てて座る荒北の目のまえで仁王立ちし、スカジャンを見せつけるように両手で引っ張ってみせ、そのあと「こっちか?」とカチューシャを指さした。「どっちも」と言えば、至極満足そうな顔をする。
「スカジャンは返せヨ」
「ああそうだったな」
 そう言いながらも東堂は返すそぶりを見せず、いつも通り石段に膝を抱えて座った。
「荒北は似合ってないな」
 つぎに会ったら返そうと荒北が着てきた黒い毛皮のコートを見ながら東堂は笑う。
「ッセ。似合ってたまるかこんなダッセェの」
 小学生が着るには身の丈が合わないと思われる黒い毛皮のコートは、東堂が着るとしっくり馴染むのに、荒北が着るとただただ不格好だった。
「荒北にしてはなかなかセンスあるじゃないか。見直したぞ」
 東堂はカチューシャに触れながら機嫌よさそうにしている。うれしそうな姿を見るのは荒北としても気分がよかったが気恥ずかしさも拭えなかった。
「これ買うのスッゲーはずかったんだけどォ。もうぜってェーやだ」
 東堂はわはは、と豪華に笑う。その笑顔がすきだ、と荒北はおもう。口をおおきく開けて笑う無邪気な顔が、ほかのどんな表情よりも。
  今日で今年が終わろうとしている。東堂に会うのはクリスマス以来だったが、もうずいぶん長い時間あっていないような気分がした。もう二度と会えないような気がしていたが、案外あっさり、いつも通り顔を合わせて、いつもどおり軽口を叩いている。直接的な話題に触れそうで触れないギリギリのラインを探りながら、自分たちの日常を崩したくないと、すくなくとも荒北はそう願っている。
 ほんとうだったら詰め寄って、洗いざらい聞き出してしまいたい。その行為は東堂を深く傷つけるのだろうと予測ができたので、荒北は口を開いて、出しかけた言葉を飲み込んで、息を吸って吐いてを繰り返した。
「荒北」
 東堂はスカジャンのポケットをまさぐって、きれい折りたたまれた万札を荒北の目のまえに差し出した。荒北がしわくちゃにした紙幣を、きっと丁寧に手で伸ばしたのだろう。あの日の光景が脳裏をよぎる。繁華街のネオンが差し込む四畳半を、荒北は一生忘れられないだろうとおもった。
「これを返したくて来たんだ。……もう会えないかとおもった。ここにいてくれてよかった」
 まるで別れの言葉のようだった。耳に入り込む言葉すべてにさみしさを感じて、荒北は視線を地面に落としたまま顔が上げられなかった。きっと情けない顔をしているだろう。
 会う約束をしたことはなかった。東堂がここへ来る理由を訊いたことはなかったし、ちゃんと考えたこともなかった。いま東堂は明確な理由と荒北に会うという目的を持ってここにいる。それがさみしかった。理由などなくても、目的なんかなくても、約束をしなくても、当りまえのようにそばにいたい。
「荒北? 泣いているのか?」
 茶化すような声色に腹が立ったので、顔を覗き込んできた東堂を手で追い払った。
「なんでそうなンだよ。泣いてねーよ」
「ならいいんだ。ほら、はやく受け取ってくれ」
 差し出された万札を受け取り、手のなかで広げてみる。
「なにがほしい?」
 紙のしわを指で伸ばしながら問いかけると、東堂は歯を見せておかしそうに笑った。
「わはは。まだクリスマスプレゼントをくれるのか?」
 寒さで鼻の先を赤くした東堂は、暖を取るように膝のうえで指先をすり合わせている。荒北は黙って東堂の横顔を眺めた。もしほんとうに神様というものが存在して、東堂にうつくしい容貌を与える代わりに子どもでいる権利を奪ったのだとしたら、荒北は神になど一生祈らないどころか恨んでやる腹積もりだ。
「荒北が静かだと不気味だな」
 いつもだったら何かしら言い返すところだが、荒北は視線を自分の指先へ落として万札のしわを黙々と伸ばし続けた。その些細な異変を感じ取ったらしい東堂も軽口を引っ込める。しばらく町の方を眺めていた東堂は、おおきな目に光をたっぷり集めて荒北を見た。
「……オレがほしいものは金では手に入らんよ」
 でもありがとう、と東堂は静かに笑う。そんなかなしい顔で笑うな、と咎めてやりたかったのに、喉が焼けるように熱くなってそれもままならない。鼻の奥がツンと痛んで、目に涙が滲む。
「……とお、どぉ…………ご、めん、ネェ」
 涙がこぼれてしまわないようにと堪えながら絞り出した声は、情けなく震えている。咎めて、詰ってやりたかったのに、実際に出たのは謝罪のことばだった。伏せた横顔に東堂の視線を感じた。言葉にならない嗚咽が漏れて、とうとうこぼれた涙がズボンに染みをつくる。東堂は黙っていた。荒北のつぎの言葉を待っていたのか、返答を迷っていたのかはわからない。
 沈黙が何分か続いて、荒北が乱暴に涙で濡れた頬を拭って顔を上げたとき、東堂は困ったような顔をして荒北を見ていた。
「すまん。荒北がオレのために泣いてくれたのがうれしくて。でもニコニコしたらおまえ怒るだろう?」
「はァ?」
 ずび、と鼻をすする音がずいぶん間抜けに響いた。ほら怒った、と東堂は荒北を指さす。
「この間も……クリスマスの夜も、荒北は泣いていたな。オレのために涙を流してくれた」
「あれは……ってかべつにテメェのために泣いてるわけじゃねェよ。オレが……」
「うん」
「……オレがガキだからなんもできなかった。……オメーのこと助けてもやれないし守ってもやれねェんだ」
「うん」
「……だから、ごめんネ」
「わはは! おまえが謝ることではないな!」
 東堂は快活に笑って、そのままぽろりと左目から涙をこぼした。顔のラインに沿って流れた涙が顎で引っかかって、ぽつんと東堂の膝へ静かに落ちた。
「とおど、」
「すまん」
 東堂は両目からぽろぽろ涙をこぼして声も出さず静かに泣いた。あくびは隣人にうつると言うが、ひょっとしたら涙もそうなのだろうか。
 いま自分が東堂にしてやれることはなんだろう。大人の庇護のもとでしか生きられない無力な子どもが、おなじく無力な子どもに、いったいなにをしてやれるだろう。拙い頭で考えてみても、答えは出ない。
「東堂ォ。オレはオメーを助けてやれないし……守ってもやれない、から、……幸せに、する。ぜってェ、幸せって思えるような人生送らせてやる」
 でもひとつ、いままでしたことのない約束を取り付けてみる。約束というより宣言というべきか。漠然としていて信憑性には欠けるが、自分なりの覚悟を持って言葉を選んだつもりだった。
「ッフフ、なんだそれ、プロポーズみたいだぞ」
 涙を流しながら、東堂は肩を震わせて笑った。そんなつもりはなかったが言葉で指摘されると確かにそう捉えられても仕方ないような物言いだったかもしれない。そう自覚すると、羞恥で顔に熱が集まり、耳まで赤くなっている気がした。
「バァカそうゆんじゃなくてェ……わかれよ! オレより頭いいンだからよ!」
「わはは、うん、そうだな。わかる、荒北の言いたいことはわかる。フフ」
「テッメなに笑ってんだよ! オレ真面目にゆってンだけどォ?!」
「うれしいから笑ってしまうんだ。許せ荒北」
 笑いながら泣くなんて器用なやつだな、と呆れながら東堂を見た。東堂は涙が引っ込むとスカジャンを脱いで荒北へ渡した。
「すまんね。交換しようか」
「オレこれ嫌いだわ」
 重たいコートを脱いで、手渡されたスカジャンを受け取る。煙草のにおいはついておらず、代わりに柔軟剤のようなあまいにおいがした。
「わはは! おまえには10年はやい」
「ッセ!」
 あながち間違っていないような気がしたので否定はできなかったが、腹は立ったので舌打ちをしてやった。立ち上がった東堂は荒北が渡したコートをばさりと音を立てて羽織る。それがあんまり様になっているので、荒北は黙って東堂の背を眺めていた。
 東堂の手を取って引き留めてやりたい。行かなくていいと、ずっとここにいようと言いたかった。それが東堂の救いにならないとわかっている。荒北の身勝手でしかないとわかっていたから、なにも出来ずに見送った。
 歩き出した東堂は振り返り、「じゃあまたな、荒北。よいお年を」と出会ってからはじめて挨拶をして去っていった。また、なんて約束をしたくはないのに、その言葉に荒北がどれだけ安堵したか、東堂は知らないだろう。
「またネ。……よいお年をー」
 荒北が返事をすると、東堂は手を振って人の流れに飲まれていった。もう見失わない東堂の背を、見えなくなるまで見送った。
(つづく) My beloved Tiger/171015
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1-2-3-5-6-7 · 8 years ago
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大好物には目がないの
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ナラフー
 事務所に足を踏み入れた途端、からだの奥が疼くような甘ったるいにおいが鼻を掠めた。先に部屋へ入って行ったフーゴは、洗面所へ直行したようだ。水が流れ出る音がシンとした室内に響く。 「なぁフーゴォ」  呼びかけてみるが、声が届いていないのか無視をされているのか返事はない。あたりを見渡すと、においの出所はすぐ見つけられた。キッチンテーブルに、桃がいくつか無造作に置かれている。すこし色が変色していて、食べごろか、それをもう超えて腐りかけているのかもしれない。とにかくこの桃の甘ったるいにおいが、窓を閉め切っているせいで暑くなった部屋に充満していた。 「フーゴ窓開けていい? フーゴ? 開けるぜー」  窓を開けても風は吹きこんではこなかったが、閉め切っているよりはいいだろう。窓から見下した狭い路地には街灯と公衆電話がひとつずつある。 「窓閉め忘れるなよ。またすぐに出るんだから」  リビングへやってきたフーゴはナランチャに一瞥もくれないまま言い放った。フーゴは主にブチャラティが使用している机に置かれた書類の山から一枚、的確に必要なものを抜き出してペンでなにかを記入している。事務的な仕事はもっぱらフーゴの担当で、ナランチャにはさっぱり勝手のわからない業務だ。 「桃食べていい?」  窓枠に肘をついてフーゴの顔を斜め横から眺めた。書類を見つめる眼をふちどる金色のまつ毛が影を落としている。 「ああ。すっかり忘れてた。ブチャラティがもらってきたんですよ。あの人、すぐもの腐らすから……」  フーゴの口調はナランチャに対するものとはまるでちがって、とてもやわらかかった。愛おしいという感情が言葉の一字一句からあふれ出ているみたいに。  ナランチャはキッチンへ行って転がっている桃をひとつ手に取った。すこし力を入れたら崩れてしまいそうなほど熟している。近くで嗅ぐと、よりいっそう甘いにおいが濃く感じた。 「きみ、桃むけるの?」  バカにしているわけではないだろうが、フーゴの言葉にはできないであろうという確信みたいなものが感じ取れた。ひょっとしたらフーゴは知らないかもしれないが、算数ができなくても湯は沸かせるし洗濯機だって使えるし桃だってむけるのだ。自分のことは自分でやらなきゃどうしようもない時間がおおかったせいで、ある程度の生活スキルは身についている。 「……むけねーや。フーゴやってよ」  ブチャラティだったら一発で見抜くようなうそを、フーゴは疑わない。ナランチャのことを自分が世話を焼いてやらないとなにもできない、手のかかる後輩だと信じているからだ。 「仕方ないなァ。ちょっと待っててください。この書類仕上げたらむいてあげます」  ガキ扱いされるのは嫌いだ。なのに年齢ではひとつ年下のフーゴが、ナランチャを子ども扱いすることにはなぜか腹が立たない。自分を甘やかすフーゴが好きだったし、世話をしてやってるんだという態度はなんだかかわいかった。
 フーゴは包丁の使い方をブチャラティに習ったのだと言った。包丁の使い方だけでなく、身の回りのことすべて、ブチャラティに出会うまでできなかったらしい。プライドの高いフーゴがナランチャに対して自分の格好がつかない話などするわけないので、後半はブチャラティから聞いたはなしだ。顔をほころばせて、楽しげにしゃべっていた姿が記憶に新しい。いいなぁ、とおもったのは、フーゴに対してなのか、ブチャラティに対してなのかわからなかった。
 指の形が残ってしまうほどやわらかい桃は、フーゴのてのひらのなかですこし歪んでいる。「うわぁもうぐずぐずですよこれ」とぼやきながら、フーゴは包丁の刃を寝かせて削るように皮をむいていく。皮がむきにくい桃は美味いと聞いたことがあるが本当だろうか。  くらくらするほど甘いにおいがキッチンに充満していく。苦戦しながら皮を削いでいるフーゴの横顔は真剣で、額に汗が浮かんでいるのも気に留めていない。桃をむくために捲った長そでシャツは丁寧に、二回折りたたまれている。夏だというのにいつもきっちり長そでシャツに覆われているフーゴの肌は、か弱く見えるほど白い。細い手首に血管が浮き出ている。その筋をたどるように、甘い汁がとろりと垂れた。 「フーゴ」  ナランチャの呼びかけにフーゴが答えるまえに、腕を掴んで手首に舌を這わせた。フーゴの体がびくりと強張るのが、舌からも指先からも伝わってくる。舐めとった果汁は、喉が焼けるほどあまい。 「なにしてんだ! 危ないだろ」  フーゴは包丁を遠ざけながら声を荒げた。 「服汚れちまうと思って」  チラ、と見上げるとフーゴは眉間にしわを寄せてナランチャを見下ろしている。おっかない顔だ。 「桃すっげーあまい」  フーゴがなにも言わないので、ナランチャは言葉を付け足した。それからもう一度、果汁で濡れたフーゴの手首、親指の付け根へ舌を滑らせ、桃の果肉に歯を立てた。じゅわ、と果汁があふれて、甘さが口いっぱいに広がる。そういえば果物は腐りかけが美味いとも聞いたことがあった。 「行儀がわるい」 「オレ育ちわりぃーもん」 「都合いいことばっか言って」 「へへっ」 「ひとに言われたらキレるくせに」 「だってよぉ~ムカつくじゃん。だからなんだってなるだろ?」 「そりゃあそうですね。育ちがなんだってのには同意見です」  フーゴは澄ました顔をして、ナランチャがかじった桃を食む。 「わ、ほんとだ。すごく甘い」  果汁が垂れた手の付け根をじゅうっと吸いながら、フーゴは感動したように眼をまるくした。 「まだ3つもあんじゃん。ぜんぶ食っちまおうぜ」 「いいですけど、もう一仕事終えてからね」  フーゴは残りの皮をきれいに削いで、ナランチャへ差し出した。もう行儀をとやかく言うつもりはないらしい。フーゴの手に乗った状態のまま桃にかぶりつき、そのままてのひらについた果汁を吸った。とんでもなく甘いのに瑞々しいおかげでいくらでも食べられそうだ。 「いやしいなぁ」 「もったいねぇじゃん」 「手洗うから離して。窓閉めてきてくださいね」  桃の甘さが口のなかでたっぷり余韻を残している。フーゴがブチャラティのはなしをするときの声のトーンもこのくらい甘かったなと思い出した。できれば自分にだけ向けられるとくべつな言葉でその声をもっと聴きたい。頭がくらくらするくらい、喉が焼けそうなくらい、腐りかけの桃みたいに甘ったるい声で名前を呼ばれたい。
 窓の施錠を終えて部屋を出るまえ、テーブルに転がっている桃を一瞥してフーゴに声をかけた。 「つぎはオレが桃むいてやるよ」 「は? ナランチャさっきむけないって言ってたろ」 「ん~いやぁさっきフーゴの見てたから大丈夫。覚えた」 「えー……ほんとうに大丈夫ですか? 怪我しないでよ」  すこし手間だが沸かした湯に付けて冷水でさますと、桃の皮は案外簡単につるりとむけるのだ。フーゴはそれをブチャラティに教わらなかったようだ。ブチャラティも知らないのか、教える機会がなかっただけなのかはわからない。どちらにせよフーゴがこの先、ナランチャが教えた方法で桃をむくようになればいいと思った。ブチャラティのまねばかりしている、と言ってしまうとナランチャも該当してしまうが、フーゴの生活のすきまにほんのすこしでも滑り込めたらうれしいと感じるのだ。 「はやく仕事おわんねぇかな~」 「まだはじまってもないだろ。ほらはやく出て。鍵しめますから」  フーゴのあとを追って部屋を出た。真夏の太陽がじりじりとコンクリートを焼いている。外を歩いていたら30秒で汗だくになりそうだ。実際、さっき外出していたときは汗を大量にかいたしペットボトル飲料を何本空にしたか覚えていない。 「あっちぃ~炭酸飲みてぇ」 「堪え性のないやつだな。自販機で買ってくれば」 「うん。そうする」  もしほんとうにナランチャに堪え性というものがないのならきっと今頃まだ事務所にいて、桃を食べていたんじゃないだろうか、と思ったが口には出さないでおく。フーゴの甘ったるい声は自分だけが聞きたいから部屋の窓は閉めたままでいい。
大好物には目がないの/170828
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1-2-3-5-6-7 · 8 years ago
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あなたを腑抜けにしてやりたい
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ギアメロ
 メローネの言動におどろかされることは出会ってからいくつかあった。それはもちろん生まれや育ちの違いから生じるカルチャーショックであったり、ギアッチョなりに固めつつあったメローネの人物像から逸れた瞬間を垣間見たときだったりもした。  はじめてセックスをした日の朝、正確にはもう昼だったが、メローネが食事を作って待っていたことにギアッチョは心底おどろいた。そんな甲斐甲斐しいまねをおまえでもするのか、だとか、恋人でもあるまいし、だとか、料理なんてできたんだな、などなど、いくらでも言葉はあふれてくる。なのにいちばんに出てきたのは、「起こせよ」だった。すぐさま物凄くこっぱずかしいことを口走ってしまったと後悔したが、いまさら第一声を変更することはできない。 「おはよう。いやぁ、あんまりぐっすり寝てたからさ」  メローネはソファにあぐらをかいてワインを飲んでいた。ローテーブルにはラザニアと3種類のブリオッシュ、ワインボトルが並べられている。ちぐはぐな食器は仕方ない、人を家に招く習慣のないギアッチョの部屋に揃いのカトラリーがあるはずがなかった。もちろん、まともに料理をするための食材だって貯蓄していない。あるのは最低限の調理器具と、調味料のみだ。 「わざわざ買い物行ったのかよ」 「だって冷蔵庫ロクなもん入ってなかったぜ。だからスーパー行って食材買って、あとすぐそこの通りのパン屋、すげーうまそうだったから買ってきた」  自ら訊いておいてメローネの言葉に返事もせず、洗面所へ顔を洗いに行く。「あっそういやシャワー借りたぜギアッチョ」と声が飛んできたが、それも無視した。  ソファへ腰かけると、メローネがラザニアを皿へ取り分けてギアッチョのまえへ置いた。切り口から湯気が見えるあたり、焼き上がってからそう時間は経っていないらしい。 「おめーが料理できるとはな」 「意外?」 「まず飯食ってるところをあんま見ねぇからな」 「? 食ってるだろ?」 「栄養補助食品は飯とは言わねぇ」 「そうかい?」  メローネは空のワイングラスにギアッチョの分のワインを注ぎながら口角をあげた。 「ああでも、だれかの食事に付き合うときはピッツァもスパゲッティも食べてるよ」 「そりゃほぼ義務で食ってんだろうが」  取り分けられたラザニアをフォークですくって口へ運ぶ。非常に出来がいい。というのは、感嘆するほどうまいというわけではないが、まるで既製品のような味がしたので、そういう評価が浮かんだ。 「これおまえが作ったのか?」 「そうだよ。お手本みたいな味だろ?」 「自覚あんのかよ」 「文字通り、"料理はできる"んだよ。ただレシピ通りに作れるってだけで、上手いわけじゃあない。期待させたんなら悪かったよ」  メローネは笑みを浮かべながら空になったグラスにワインを注ぎ、一口飲んで机上へ置いた。ブリオッシュをひとつ手を取り、はみ出た生クリームだけを舐めとる。ブリオッシュそのものには興味がないようだった。 「いや……期待は遥かに超えてる」  目覚めたときにセックスした相手がまだ部屋にいて、食事の用意をして、自分が起きるまでのんびりと待ってくれているなんて、そんな期待、すこしもしていなかった。 「ン? なんて?」  ブロンドの長い髪を耳に引っかけながら、メローネは生クリームだけを摂取するのに夢中になっている。ギアッチョは机上に置いてあったスプーンに持ち替えて、メローネの手首ごとブリオッシュを引き寄せた。スプーンをねじ込んで、生クリームをたっぷりすくってメローネの口に押し付けた。 「こっちのほうがはえーだろ」 「ベネ! あーん」  胸焼けしそうな生クリームはメローネの口内へ放り込まれる。メローネはワインを飲みながら機嫌よさそうにギアッチョが知らない歌を口ずさみ、ギアッチョの皿が空になるとラザニアを足した。 「ひとが作った飯……食うの久々だな」 「オレも飯作るのなんていつぶりだろうな。もう、何年もそんな機会なかったから」 「つぎはスパゲッティがいいぜ。ボンゴレのやつ」  ラザニアを口いっぱいに頬張って、よく噛んでからワインといっしょに流し込んだ。メローネの顔を横目で見ると、きょとんとした顔をしている。それから、すこし照れたように笑ったので、ギアッチョにまで感染して頬が熱くなった。いまの言葉でメローネが照れるのは予想外だった。 「あんた店でよく食べてるもんな。レシピ探しとくよ」  メローネはグラスを弄びながら「そういえば」とギアッチョに視線を寄越した。 「この部屋の食器はことごとく不揃いだった。なのにワイングラスだけはなぜかペアだったし、ふだん使ってもいないように見えた。まるでおろしたてみたいに棚のいちばんまえに置いてあったんだが……その理由を訊いてもいい?」  飲み込もうとしたラザニアが喉でつっかえて噎せた。メローネはおもちゃをまえにした子どものような顔をしていたが、ギアッチョが睨みつけるとわざとらしく表情を引き締めた。すぐに緩んでしまっているが、隠す気もないのだろう。 「あー、ギアッチョ、やっぱいい。勝手に自惚れておくよ」  メローネは緩慢な動きでワイングラスを傾け、ちゅ、と音を立てて飲み口にキスを落とした。優位に立たれて悔しかったが、いまはなにを言っても墓穴を掘る結果になるだろう。そもそも大抵の場合、メローネには優位に立たれているような気もするするし、そう思いはじめたら余計悔しさが増した。目敏くて頭の回転がはやいのもなかなか厄介だな、と熱を帯びた頬を隠すように手で支えながらため息を吐いた。
あなたを腑抜けにしてやりたい/170816
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1-2-3-5-6-7 · 8 years ago
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太陽の季節/まぼろしの少年
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ナラフー
 彼をはじめて見たのは凍てつくような寒さが街を包み込む真冬の朝だった。どうしても早朝から動かなければいけない仕事が入っていて、日が昇りきるまえに家を出たことを覚えている。週に何度も立ち寄るバールもまだ開店していないような時間だった。  コートのボタンをぜんぶきっちりしめ、マフラーに鼻をうずめて足早に駅へ向かう途中。その先の見慣れた路上で、見慣れない少年がラジカセから流れるヒップホップに合わせてダンスを踊っている。乾いた地面を、少年の靴がコツコツと軽やかに蹴る音が耳に心地よく届いた。時間帯のせいか通りには自分とその少年しかいない。真冬だというのに薄手のニットに、足にぴったり吸い付くようなスキニーを履いている。ふだんヒップホップどころか音楽を聴く習慣がフーゴにはなかった。上司が好むジャズを、ときどき彼の部屋で聴く程度の馴染みしかない。ダンスだって、まともに観賞したことなどなかった。いつもだったらストリートダンサーに目もくれない自覚がある。だったら一体、少年のなにがフーゴの関心をかきたてたのだろう。自分のことなのに答えが見つからない。時間がないと頭ではわかっているのに、視線が少年をとらえて動こうとしなかった。完全に眼を奪われていた。  結局、ひとつ曲が終わるまでフーゴはその場に立ち尽くして少年のダンスを見ていた。少年は踊っている最中まったくフーゴを気に留めていないようだったが、ラジカセのボタンを操作し終えるとこちらを見て笑顔を浮かべる。見かけ以上に彼を幼く感じさせる、邪気のない笑顔だった。 「どうだった? 結構うまいだろ?」 「……どうせならもっといい靴を履くべきです」  少年の靴は傷が目立ち、生地がめくれている部分もあったが、それにしたって初対面の相手に不適切で不躾な物言いをしてしまったことをフーゴはすぐに後悔した。 「お気に入りなんだ、これ」  フーゴが謝るより先に少年が口を開く。不躾な言葉などまるで気にしていないように見える表情で、自分の履いている靴を見下ろした。鮮やかなオレンジ色のヘアバンドから艶のある黒髪が無造作に跳ねている。謝罪するタイミングを失って、「そうですか」と短く言葉を返した。  ふと時間に追われていることを思い出し、フーゴは腕時計に視線を落とす。電車が発車するまでもうあまり余裕がない。 「すみません、先を急ぐので。それじゃあ」  そそくさと立ち去るそぶりを見せると、少年は「Ciao」と笑って、フーゴに手を振った。すこし歩いてから一度だけ振り返ってみると、相変わらず道行く人影はまだなく、少年がひとり楽しそうに踊っているすがたが見える。フーゴと出会ったことなど、少年の頭の片隅にすら残っていないのだろうと思った。それが彼との出会いだった。
***
 冬のあいだ、あの少年のすがたを見ることはなかった。まだ脳みそが覚醒していなかったがゆえに見た幻覚だったのではないかと思いはじめていたが、二度目の邂逅は出会った日とは真逆の季節になって訪れる。  湿度は低くカラッとしているとはいえ、日中の炎天下は気が滅入るほど暑かった。日が暮れて幾分か軽減されたが、それでも汗が首筋を伝っていく不快感からは解放されない。それに今日は街がいつもより活気づき、人が道にあふれている。いつもなら早々に閉店している店の明かりも灯ったままだった。さっさと仕事を終わらせて家に帰ろうと人を避けて歩きながら、耳に滑り込む会話で合点がいく。今夜はネアポリスの海に花火が��く、この街でいちばんおおきな夏祭りが行われる日だった。あまりに縁のない行事だったので、すっかり頭から抜け落ちていた。そういえば見慣れない露店がちらほらあったが、祭りに関係していたらしい。ちゃんと許可は取っているんだろうか、と気になったが、今日はもうこれ以上仕事を増やしたくなかった。  ただの人の群れとしか認識していなかった光景のなかに、あの真冬に見た少年が滑り込んできた瞬間、フーゴは思わず歩みを止める。心身ともに憔悴していたはずなのに、むしろ、だからなのか、その少年にだけスポットライトが当たっているかのように輝いて見えた。少年はフーゴの視界のなかをスーパースターのように歩いて行く。運命、という二文字が一瞬浮かんで、「チープすぎる」と自分の思考を揶揄した。 「あの、」  少年は振り返らない。当然だ。これじゃあだれに話しかけているのかわからない。でもフーゴは少年の名前も知らないのだ。少年が視界から消えそうになって、慌てて首をひねって目で追いかける。なんでこんなに必死なのか自分でもわからなかった。人の多さと暑さでめまいがする。フーゴは人ごみをかき分けて少年の腕を掴んだ。街の明かりを灯してきらきら光る少年の瞳がフーゴをとらえる。訝しんでいるようすはない。怒りも、戸惑いすら。なにを考えているのかわからなかった。光の加減なのか、たのしげにも見えた。  引き留めたはいいが一体なにを話せばいいのか。そもそもなぜ腕をつかんでしまったのか。考えあぐねて言葉に詰まっていると、少年は掴まれていないほうの腕を伸ばして、逆にフーゴの手を取った。 「踊ろう」  こんな人ごみのなかで踊れるわけがない。物理的も、体裁のことを考えても。それにダンスなんて、さいごに踊ったのはいつだろう。フーゴがまだ実家にいたころしつけで教え込まれたパーティー向けの面白みのないものしか記憶にないが、それだってもう5,6年は経っている。そもそもこの少年はフーゴのことを覚えているのか、いないのか。どちらにもとれる態度がフーゴをもやもやとさせる。  「無理です」というフーゴのちいさな声は、人ごみにかき消されて少年の耳には届かなかったようだ。あるいは、無視されたのかもしれない。少年はガヤガヤと騒がしい人の群れのなかで、その騒音をBGMに、唐突にダンスをはじめた。周囲はその奇行に圧倒されてか、踊る少年を避けていくせいで自然とスペースが広がる。それどころか早々に見物客まで現れて、あっという間にステージの出来上がりだった。  「はやく」少年のくちびるがそう形づくる。フーゴが渋って見物客に紛れ込んでいると、少年は再びフーゴの腕を引いてステージへ引きずり込んだ。フーゴの手を取ったまま、くるくると軽やかに踊る少年の露出した肩や腕が汗で光っている。それがなんだか、とてもきれいに見えた。  流されるまま、見よう見まねで少年に合わせて体を動かした。少年がヒュウ、と唇を突き出して「うまいうまい」と掴んでいたフーゴの手をするりと離した。見物客の手拍子が鼓膜をふるわせ、自分へ注がれる視線が全身を焼く。少年の身長のわりに長い手足が縦横無尽に宙を舞う。フーゴが横目でそのすがたを見ていると、視線に気づいた少年と目が合う。少年はフーゴの手首を掴んで引き寄せて、今度は腰に手を回してぐっと距離を詰めた。体に伝わる手の温度に怯んで腰が引ける。フーゴを見つめるおおきな目が光の粒を閉じ込めたようにきらきら光っていた。 「キスしていい?」  少年はフーゴの手を引いて踊りながら訊ねて来た。フーゴは驚いて身を引きながら「イヤだ」と即答した。いいわけがない。どういう状況で物を言っているんだと呆れた。少年は悪戯をしかける子どものような顔でフーゴの腰を抱く腕に力を込めてまた距離を縮める。 「やめろって」  フーゴが顔をそむけても、少年はむしろ、その反応を楽しんでいるように見えた。掴まれた手を振り解こうとしても、少年の指が手首にきつく巻き付いて離すまいとする。 「名前は?」 「は?」 「あんたの名前」  名前が知りたきゃ自分から名乗るのが礼儀というものだろう常識もないのか、と頭で唱えた罵倒は、少年の「呼びたいから、おしえて」というあまりに真っすぐな言葉が上書き保存で消してしまった。 「……フーゴ」 「フーゴ! フーゴ、キスしたい」 「やだって言ってるだろ!」  都合のわるいことは耳に入れない主義なのか、少年にはフーゴの拒否する声が一向に届いていないようだった。「ヤダって」「おい」「やめろ」「やだ……」段々弱々しくなるフーゴの拒絶を示す声は、観衆のガヤにかき消されていく。少年の息遣いを肌に感じる距離まで顔が近づいて、フーゴはとうとう懇願するような声で「だめ」と目を伏せた。 「だめって顔してねぇじゃん」  喧騒のなかで、少年の声だけがやけにクリアに聞こえた。だとすればいったい、自分はどんな顔で拒絶の言葉を吐いていたのだろう。想像はつけど、恥ずかしいと思う間もなく、くちびるが重なった。ぱくりと捕食するようにフーゴの下唇に食らいついて、ちゅうっと音を立てて吸われる。からだ中に急激に血が巡って、耳や首が一気に熱を帯びた。観衆が口笛を吹く音や囃し立てる声で頭が沸騰しそうだった。  突然、空が明るくなった。少年がくちびるを離して、首をもたげる。フーゴもそれに倣って空を見上げた。すぐさま爆発音が響く。ネアポリスの空におおきな花が咲いて、拡散した光は海に吸い込まれていった。さきほどまでフーゴたちを囃し立てていた観衆も、みな一様に空を見上げている。少年のおおきな瞳のなかでも色とりどりの花が咲いて、はらはらと儚く散っていった。 「キレイですね」  フーゴが呟くと、少年はちらりと視線を寄越し「うん」と頷いた。今度はその顔に自ら近づいて、くちびるを重ねた。少年はくちびるをくっつけたまま笑う。こそばゆくなって離そうとしたら、またくちびるを吸われた。がぶり、と聞こえるはずのない擬音が頭をよぎる。名前も知らない獣に、今度こそ喰われる、と肩が震えた。
太陽の季節/まぼろしの少年/170814
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1-2-3-5-6-7 · 8 years ago
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あいにこいだのうるせぇな
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チョロおそ(6つ子じゃない) ゲイのシーシャカフェ店員とちゃらんぽらん青年
 薄暗く演出された室内で、天井から吊るされたミラーボールがギラギラと存在を主張していた。まるでこの場に集まった若者の欲望を象徴するかのようだ。建物が揺れているのかと錯覚するほどのボリュームで音楽が鳴っている。英語なんかしゃべれないくせについ口ずさんでしまうようになった、タイトルも歌手も知らない洋楽。なんせ、DJの言葉なんて聞いちゃいないから知る由もない。だれに教わったわけでもなく、音楽に合わせて身体が踊りだす。頭を空っぽにして、元より、ふだんから頭は空っぽなのだが、正真正銘、なにも考えることなく、耳に流れ込んでからだ中を駆け巡る音楽に身をゆだねてしまえば気分は最高だった。
***
 今日クラブで知り合った女の子は、「シーシャ吸いに行こう」とおそ松を夜の繁華街へ連れ出した。おそ松は聞きなれない横文字に首を傾げる。
「シーシャってなに? 非合法なクスリのことだったりする?」
「ちがうよぉ~。水たばこ知らないの?」
「知らない」
 この街はわりと歩き慣れているはずだったが、女の子はおそ松が通ったことのない路地をすいすいと歩いてまっすぐ目的地へ向かっているようだった。デニムスカートから伸びるほどよく肉づいた脚を眺めながら後をついて歩いた。
 女の子に案内された場所には、一見カフェのようなこじんまりとした建物があった。引き戸になっていたので、女の子が木製の戸を開けるとガタガタと音が鳴る。途端に、ぶわっと甘ったるいにおいが漂ってきたのでおそ松はおもわず顔をしかめた。嫌なにおいというわけではなかったが、嗅いだことのない独特のにおいに鼻がおどろいたのだ。
 「こんばんは」と迎え入れてくれたのは、おそらく店員だろう。身長はおそ松と大差ないが、体型は細身でヒョロヒョロとしている。すこしつり上がった目とそれに反して垂れた眉、客を迎え入れるにしては、すこし不愛想な口元。神経質そうな顔だな、店員に対するおそ松の感想はそれのみだった。女の子は店員と「今日店長いないんですか」「今日はやすみです」「そうなんですか」などといった会話のやり取りをしている。おそ松はどうしたらいいのかわからないので、さして興味もない店内をぐるりと見渡してみた。オシャレなのかそうでないのか、おそ松には判断しかねる奇抜なデザインの雑貨が壁や棚に並んでいる。
 会話を終えたらしい店員が案内するまま店の奥へ進むと、白い煙がたゆたう空間が現れ、甘いにおいが濃くなる。天蓋によって席が仕切られているようで、六つあるうちの二つはなかに人がいるようだった。店員に促され、きらびやかな刺繍が施されたクッションや厚手のカーペットが敷かれた席へ靴を脱いで上がる。女の子は慣れたようすでメニューを手に取り、コロナエキストラをふたつ注文した。
「ビールでよかったよね?」
「気ぃきくね~」
 どうやらおそ松の分も頼んでくれたようだった。覗き込んだメニューのページをめくると、ドリンクの種類以上にずらりと水たばこのフレーバーが英語で記載されていたので目が滑りそうになる。よく見るとちゃんとカタカナの表記もされていたので、おそ松にも読むことは可能だった。アップル、バナナ、グレープといったフル��ツの名前から、アールグレイ、チョコレートなどいろいろある。
「一台頼んでミックスしてもらおうよ」
 女の子に笑いかけられたが、一台と言われてもなんのことやら、ミックスと言われてもなにを、といった具合なのでおそ松は困ったような顔をつくった。ほんとうはシステムがよくわからないので早々に面倒くさくなっていただけだ。
「俺よくわかんないからなんでもいーよ」
 ジーンズのポケットをまさぐって煙草を取り出すと、コロナを二本持ってやってきた店員に「ここ禁煙なんで」と止められた。
「あ、そうなの。たばこ屋なのに?」
 飲み口に乗ったライムを親指でビンのなかへ押し込むと、しゅわしゅわと炭酸がはじけた。
「水たばこ専門なので。吸いたければ店の外に灰皿あるのでどうぞ」
 店員はおそ松をチラリと見て素っ気なく言葉を吐いた。わざと冷たくされているような気がしたが、おそ松はあまり気に留めることなく喉を鳴らしてビールを飲んだ。女の子が水たばこのフレーバーを店員に頼んでいる会話をぼんやり聞いていると「おそ松くんどれがいい?」と問いかけられたので、メニューに視線を落とす。
「私、オレンジピーチにしたからおそ松くんもなんか選んで。ミックスしてふたりでシェアしよう」
「え~俺わかんないって。あ、店員さんのおすすめでいいや」
 カーペットに膝をついた中腰の状態で注文を待っていた店員は切れ長の眼を一度瞬かせて、おそ松を見ることなくメニューへ視線を移した。
「そうですね……グレープとかフルーツ同士で合わせるとさっぱりしていいかなと思います」
「お兄さんだったらなに選ぶ?」
「……バニラ。ですかね」
 フルーツじゃないじゃん、と言いかけて、「じゃあバニラにする」と返した。おそ松は店員の表情の変化を待ってじっと顔を見つめていたが、眉ひとつ動かなかった。バニラって顔してないけど、ともおもったが、もちろん口には出さない。
「かしこまりました」
 店員はおそ松に一瞥もくれず席を離れていく。
「俺嫌われちゃったかな?」
 クッションにからだを沈めながらへらへら笑うと、女の子はおそ松のほうへ口元を寄せて声を潜めた。
「でもね、チョロ松くんってゲイなんだよー。逆に気に入られちゃったのかも」
「へ? ゲイ? チョロ松ってあの店員のこと? マジ?」
 寛いだばかりのからだを起こして店員の姿を探した。すこし離れたところで、こちらに背を向けてなにか作業をしている。うしろ姿もずいぶん貧相だ。きっと背骨がくっきりとシャツに浮かび上がっているにちがいない。
 10代後半から年齢を偽って入り浸っていたクラブで、おそ松は大抵の「遊び」を教わった。「遊び」というのは文字通り、ダーツやビリヤードや音楽に合わせたダンスはもちろん、緑色のビンに赤い星が描かれたオランダビールの味や、ジッポにオイルを入れるうまいやり方、女をセックスに誘うしぐさだとか、そういった類のものだ。それでもおそ松は今日までシーシャの存在を知らなかったし、ゲイと呼ばれる人々、いわゆる同性愛者に出会うのもはじめてだった。ほんとうにいるんだ、しかもわりと身近に。おそ松はビール瓶を傾けながら痩身を眺める。20代半ばに差しかかろうというところでいろいろ経験を積んだつもりだったが、まだまだ自分のしらない世界があるのだと身をもって痛感した。
 「お待たせいたしました」
 店員は、おそ松からしてみれば楽器のような不思議な器具を持って席に来た。もちろんそれが楽器などではなく、どう使うかはまだわからないにせよ、シーシャと呼ばれるものだという予測はできる。
「うわーなにこれ。よくわかんないけどすごそう」
 店員はおそ松の声に反応することなく、真っ黒な石のようなものを器具の縦に出っ張った部分へ丁寧に配置した。そこはアルミホイルのようなもので覆われていて、配置された石が赤く火照り、煙をあげてぷすぷすと燻る。おそ松はふとその光景に既視感を覚え、あ、焼き肉だ、と思い出し、石だとおもっているものが炭であることに気づいた。女の子は器具から伸びるホースのようなものを手に取り、吸い口にくちびるをつけている。ぼこぼこと水が沸騰したときのような音のあとに、女の子はぽっかり口を開けて煙を吐き出した。あまったるい煙がふわふわと彷徨って消えていく。
「わ。ビックリした。なに、これどういう仕組み?」
「おそ松くんも吸ってみなよ」
「え、どうやってやんの?」
「ふつうに煙草吸うみたいにっていうとちょっとちがうかなぁ。あ、チョロ松くんお手本みせてあげてよ」
 女の子がホースの先を店員へ向けると、ちいさなため息をこぼして受け取った。伏し目がちの横顔が、仄暗い空間を演出するわずかばかりの照明と炭の火でぼんやりと浮かんでいる。吸い口に寄せたくちびるが、煙草を吸うというよりは、まるで恋人に口づけでもするようなしぐさに見えて、おそ松は心臓がどきりと跳ねた。つぎの瞬間、心臓が跳ねたことに驚いて、また違う意味で心臓が鳴った。目のまえに広がる光景が、おそ松の脳裏にじわりと侵入していく。火をつけた煙草がじりじりと灰になっていくようなスピードで、それでも、確実に。
 とりわけ整った顔立ちをしているわけでもない、痩せているだけでスタイルがいいわけでもない、なのにその横顔から眼が離せない。まして、おそ松はいまだかつて同性に対して性的欲求を感じたこともないのに、街ですれ違ってもなんの感情も抱かないであろう男に、視覚をまるっと奪われている。
 吸い口に軽く寄せられたくちびるが空気を吸い上げると、先ほどとおなじようにぼこぼこと音が鳴った。音が止むと伏し目のまま顎を持ち上げた横顔から、あまいにおいの煙を揺蕩わせて、空いた口がゆっくり閉じるそのささいな動作まで、おそ松は熱に浮かされたように見つめていた。
 だれかの横顔をうつくしいと感じたのは、それがはじめてだった。
「……間接ちゅー、だね」
 思考がうまくはたらかないせいか、そんな言葉しか浮かばなかった。もっとも、頭が正常にはたらいていたところでおそ松がなにかすばらしいセリフのひとつでも言えたかどうかなど、本人も知る由はない。
「あ! すみません。ついくせで」
 店員は腰エプロンのポケットからガーゼのようなものを取り出して吸い口を拭きながら、「気になるなら交換します」とここにきてようやくおそ松をちゃんと真っすぐ見た。つり上がった眼と、反して垂れた眉、不愛想だと感じた口元は、いま見るとどちらかといえば困っているように感じる。さっきまでなにも感じていなかった男の顔を直視すると心拍数がどっと上昇した。この感覚はなんだろう、なんだっけ。思い出そうとしても、前例が見当たらない。吸い口をこちらに向けてホースを握る細い指にすら緊張して、今度はおそ松のほうが目をそらしてしまう。それでもなにか、まだ、この男を引き留める術を探している。クラブで知り合った女の子をホテルに連れ込むのなんてあくびをするより容易いのに。そう考えて、女を口説くことと目のまえの男と会話を繋げることを同列に考えている自分におそ松はゾッとした。
「チョロ松くん、さぁ」
 名前を呼ばれたことに驚いたのか、チョロ松の眼がわずかに見開かれたのを横目でとらえながら言葉をつづけた。
「ゲイってほんと?」
「……ほんとう、ですけど」
 不穏な空気を察知したのか、女の子は不安そうにおそ松とチョロ松を交互に見てようすを窺っている。チョロ松を不快にさせるつもりはなかった。でもおそ松は自分のした質問のせいで男の機嫌を充分に損ねたことを肌で感じたし、その質問が不躾であったことも理解できた。それでも口が動くのを止められなかったのは、正確には、止めなかったのは、チョロ松のことを嫌いになりたかったからだ。今日の出来事を不愉快な記憶として認識してしまいたかった。そうしてゲロを吐くように、トイレにでも流してきれいさっぱり忘れてしまいたかった。視覚を奪われて、熱に浮かされたようにこの男の横顔をうつくしいと感じて、指先にすら心臓を高鳴らした感覚なんて、知りたくなかった。恐怖という感情がおそ松を支配していた。だから防衛本能で男を傷つけて、自分の感情を殺そうとしている。恐怖の正体になまえがついてしまうまえに。
「へぇーほんとなんだ。じゃあ俺がセックスしよーって言ったら簡単にホテルついてきて足開いてくれんの?」
 女の子がおそ松を制止する声が聞こえたような気がしたが、おそ松の耳にも、きっとチョロ松の耳にも言葉として届かなかった。
「……アンタさぁ、ゲイは男ならだれでもいいとか思ってんだろ。ゲイだろうがノンケだろうが恋愛の仕方変わんねぇから。いやおまえみたいなマンコついてりゃだれでもいいみたいな男もいるからみんなとは言わないけどすくなくとも俺はすきな相手じゃなきゃセックスしたいなんておもわないしおまえみたいな無神経なやつ大嫌いなんだよ」
 矢継ぎ早に吐き出されたチョロ松の怒声は店内の気温を確実に下降させた。もともと騒がしかったわけでもないが、一気に店内が静まり返ったような気がした。見た目からは想像もつかない罵声の数々には驚きを隠せなかったがそれ以上に、おそ松は己の発言に早々と後悔していた。言ってはいけないことを言った。しかも、頭のどこかでそれをちゃんとわかっていながら、それなのに行動に移してしまった。小学校のとき道徳の授業で習ったことがおとなになってこんなに役に立たないなんて、あの授業は廃止すべきだ、時間の無駄だ。などとどうでもいいことを考えて、チョロ松を傷つけたことに傷ついた自分の心から逃げようとしている。ずるいな、と我がことながら情けなくなった。
「……帰る」
 謝ろうと口を開いたはずだったのに、いざ出た言葉は子どもの駄々とそう大差ない幼稚なものだった。支払いなんて女の子に任せるつもりしかなかったが、なんの意地かプライドか、財布から一万円札を引っ張り出して、チョロ松に押し付けた。
「あ? 慰謝料のつもり? 要らないんだけど」
 チョロ松の声を無視して立ち上がると、今度は女の子に呼び止められる。
「……マンコついてたらだれでもいい男とセックスしたいの?」
 おそ松の言葉に女の子はビックリして固まった。そういえば名前訊いたっけ、どちらにせよ覚えていないので呼ぶこともできない女の子にじゃあねと手を振って店を出た。当然ホテルに行くつもりだったので、終電の時刻はもう過ぎ去っている。夜を明かす方法なんていくらでもあった。適当に女を引っかけて、バーで酒を飲みながら他愛ない話で盛り上がって、ホテルに行ってセックスをして、夜を明かせばいい。いままでだったらそうしていた。でも今日に限って。今日だからこそ、ぜんぜんまったくそんな気が起こらない。女の子をたのしませる空っぽな会話も、穴を埋めるだけのセックスもしたくなかった。煙草に火をつけて、思い切り肺へ吸い込む。チョロ松の横顔を思い出して、そうしたら脳裏にこびりついて消えなくなった。
「あー。メンドくせー……」
 吐き出した言葉が煙とともに空気中へ溶けて消えた。繁華街はどこもかしこもきらびやかで物やひとで溢れているのに、なにひとつおそ松の虚無を満たしてくれそうにない。原因なんて知らないとかぶりを振って、いまはただ、恐怖の正体から眼をそらしていたかった。
***
 夜に活気づく街は大抵にして、昼間は成りを潜めて静かなものだ。わずかな記憶を頼りに路地裏をぐるぐる歩いた先に、目的の場所はちゃんと存在していた。前回は夜に来たのであまり見ていなかったが、外装はとてもシンプルで、特徴としては木造の引き戸と、軒先に立て掛けられているちいさな看板のみだ。
 ここへ来る決断をするのに5日もかかった。そもそも、もう二度と行くつもりはなかったのだ。自分の言動がまいた種だが、胸クソわるいおもいをした。同時に、初対面の男に胸クソわるいおもいをさせた。行きずりの女の子も巻き込んで不快な気分にさせてしまっただろう。忘れてしまいたいとクラブで踊り狂っても、許容量を超えた飲酒に溺れても、もやもやとした感情がいつまでもくすぶっていた。ひとに向けた悪態と、向けられた罵詈雑言、うつくしいと感じた横���。あの日の出来事が頭のなかで録画した映像のように流れ続けている���リピート機能の解除の仕方がわからない。抱えた苛立ちをそこら中でまき散らして物に当たり、見知らぬ相手にいらない喧嘩も売り、ギャンブルにはとことん負けた。散々な5日間だった。
 もやもやとした感情や苛立ちの原因が、あの日水たばこを吸いに行った店にあることは確かだ。だからと言って再びあの店に行くことで解決されるものかどうかなんてわからないし、気分だけの問題でいえば行きたくなんかない。顔を見るのが嫌だ。声も聴きたくない。それは嫌悪からじゃなく、得体の知れない恐怖心から来る逃避だった。でもおそ松にはあの店員に、チョロ松に、言わなければならないことがある。
 覚悟を決めて来たはいいが、看板には『OPEN PM:5:00~』と記載があったのでおそ松はうな垂れた。すこし考えたらわかることだが、酒とタバコを主流にした店が真昼間から営業をしているはずがなかった。考えなしだったと、というべきか、そこまで考えが至らなかった、というべきか。営業時間のことまで考える余裕などおそ松にはなかった。パチンコでもしながら開店を待とうかと踵を返したところで、目当ての人物と真正面から出くわしたのでおもわず「うわっ」と悲鳴に近い声をあげて数歩退いてしまう。その幽霊でも見たかのような反応にか、おそ松に出会ってしまったという理由なのかはわからないが、チョロ松はあからさまに顔を顰めた。身長はさほど変わらないはずなのに、どうしてか見下ろされているような気分になるのはきっと、チョロ松の威圧的な態度のせいだろう。
「えー……っと。こんにちは?」
 おそ松がへらっと笑顔を取り繕うと、チョロ松は品定めするようにじろじろと視線を寄越した。
「今日、店やすみなんだけど」
「え、そうなの」
「昨日看板かけ忘れたから、それかけにきただけです」
 そういってチョロ松はおそ松の横をすり抜け、ポケットから取り出した鍵で引き戸を開けて店の中へ入っていった。一分も経たないうちに出てきたチョロ松は先ほどの発言に寸分狂いなく、引き戸の金具が取り付けれた部分に『CLOSED』と書かれた看板を引っかけ、施錠をし、またおそ松の横をすり抜けてそのまま歩いて行ってしまう。
「ちょっちょっと待って! 俺おにーさんに話したいことあって来たんだけど」
「は? なんで……ですか」
「なんでって……話がしたいことに理由いる?」
 明らかに怒りを含んだチョロ松の声色と態度に挫けそうになりながらも、おそ松は逃がさないように距離を縮めた。
「いる。理由もないのにべらべら話するヒマないんですよね、とくにあなたとは」
「わかった。ある、理由ある! 俺謝りたかったの。こないだの、あれ、最低なこと言ったから。差別っていうか……お兄さんのいうとおり、無神経なこと言っちゃった。だから……ごめんなさい!」
 勢いに任せて拙い言葉をつなげて、頭を下げて、ぎゅっと目を瞑った。もしこれで許してもらえなくても、言いたかったことは言えた。チョロ松の顔を見るのが嫌でも、声を聴きたくなくても、店に行きたくないと逃げながら、どうしても謝罪だけはしたくて決心したおそ松の覚悟が無駄にならなくてよかったとおもう。これですこしはもやもやが晴れたらいいのにと願う。
「……あの。……僕もごめん」
「え?!」
「いや、あなたにというか……あのときいっしょにいた女の子に。間接的に傷つけるようなこと言っちゃったから」
 おどろいて顔をあげると、チョロ松はもともと垂れている眉をもっと下げて、困ったような顔で地面に視線を彷徨わせている。いや眉だけでなく困ったような顔もデフォルトだった。
「本人には直接謝ったんだけど」「僕もちょっと感情的になりすぎて」など、ぼそぼそと言葉を紡いでいるチョロ松を見つめた。チョロ松か何度か口にしている聞きなれない女性の名前は、あのときおそ松を店に連れて行ってくれた女の子のものなのだろうと察した。もともと女の子と顔見知りだったチョロ松はだいぶ気まずかっただろう。
「本人に謝ったんならもういいんじゃない?」
 言い訳まがいの言葉ばかり吐いて、いつまでも回るチョロ松の口を休ませてやりたくて、おそ松は苦笑いをこぼした。
「そうじゃなくて……僕は……」
「うん。お兄さんも俺に謝ってくれてんだよね。ありがと。ごめんね謝らせちゃって」
 今度はチョロ松が音がしそうなほど勢いよく頭を持ち上げた。困ったような顔が泣きだしてしまいそうに見える。あのとき、チョロ松の発言で胸クソわるいおもいはしたが傷ついてはいない。だってそのとおりだ。おそ松は好きでもなんでもない、名前も知らない女とセックスして暇を潰すような人間だし、それをわるいともおもっていない。さみしいとも虚しいとも感じたことはない。娯楽のひとつだったのだ。でもこの5日間、おそ松はだれともセックスしなかった。クラブへ行ってもバーへ行ってもいつものように女の子を誘うことはしなかったし、誘われても断っていた。そういう気分にならないという単純な理由だったから、もやもやとした感情が晴れて苛立ちがおさまったら、きっとまたもとに戻るだろう。そうおもっていた。けど。どうだろうか。
 目的を果たして、チョロ松に会う理由がなくなってしまったことに気づいて、それに焦っている自分におどろいた。つい数時間まで顔を見るのも声を聴くのも渋っていたくせに、いまはなくすのが惜しいとすらおもう。怖がって逃げていたものと対峙してみたら、得体が知れない正体にあっさりなまえがついてしまった。気がつきたくなくて、なまえをつけたくなくて、チョロ松を傷つけてまで逃げていたのに、結局自分の足で戻ってきている。ものすごく無駄な遠まわりをしただけだ。
「……俺さ、こあいだ結局アレ、吸えなかったじゃん。なんだっけ。水たばこ。えーっと」
「シーシャ」
「そう、それ。だからさ、また来てもいい? 俺の顔見たくないくらいキライ?」
「……嫌いじゃないよ。すきでもないけど」
「でもまえキライって言ったよぉ~」
「それはおまえが! ……はぁ。堂々巡りだこれじゃ。来るなっていう権利は俺にないし、客なんだから好きなときに来たらいいんじゃないの」
「ほんと? また来ていーの?」
「しつこいな!」
 チョロ松はうっとうしそうにおそ松を手で追い払って、今度こそ本当に踵を返して去っていく。すかさずあとを追って隣に並んだ。やはり身長差はほとんどない。顔を覗き込んだらチョロ松は不愉快そうに顔をゆがめたが、おそ松は構わずへらへら笑った。自分は嫌いになりたいと一度でもおもったくせに、チョロ松に嫌われたくないなんて、嫌われるようなことをしておいて、あまりに勝手だけど。だから、嫌いじゃないと言葉にしてもらえたことが、本心であろうことが、うれしかった。安心した。
「ねぇねぇチョロちゃんいまからお酒飲みにいこ? んでそのあとクラブで踊ろ?」
「はぁ? ヤダってか馴れ馴れしいんだよおまえ!」
「俺さぁもっとチョロちゃんと話したいんだよねー」
「いや意味わかんないから」
 茶化すような態度のおそ松に対し、チョロ松はわざとらしくおおきなため息を吐いた。実際は茶化しているわけじゃない。からかっているわけでもないし、冗談でもない。へらへらとした表情を取り繕って会話をつなげることが、いまのおそ松には精一杯だったのだ。なまえのついた恐怖の正体を抱えていることが不安で仕方ない。はやくこの感情の正体を明かしてしまい。はやく知ってほしい。でも同時に、知られることをこわいと感じる。気づいてしまった感情の扱い方がわからない。相反する思考が脳内でぶつかり合っている。こんな経験はうまれてはじめてだった。他人とセックスより話がしたいなんて。
「理由があれば俺と話してくれる?」
「わるいけど今日はほんとうに時間ないから。……あしたならここでバイトしてるし、その時にならべつにいいけど」
「え、ほんと? じゃああした行くから待っててね」
「いや待たないから」
 チョロ松は首筋をやわく引っかきながら、おそ松が足を止めても気にするそぶりなど微塵も見せず歩き去っていった。素っ気ない背中を見送りながら、おそ松はもうすでに明日が待ち遠しくて仕方ない。だってだれかの横顔をうつくしいと感じたのは、これが、この男に対してが、はじめてだったのだ。
愛に恋だのうるせぇな/161008
#6
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1-2-3-5-6-7 · 8 years ago
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うそつきが恋のはじまり
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リゾドピ
 二十歳にも満たない未成熟な体とおさない顔立ちはまだ子どもと称するほかない。しかしながらリゾットはこの子どもの瞳の奥になにか得体の知れない怪物の存在を感じてゾッと背筋が凍る思いをした。でもそれも一瞬のことで、子どもは瞳を不安そうに揺らしてリゾットを見上げている。地面に思い切り打ち付けた足を庇うようなしぐさを見せていたが、転んだ拍子にぶちまけたかばんの中身が散らばっていることに気付き、慌ててかき集めはじめた。リゾットは屈んで、足元に転がっていたガムの紙箱を拾いあげる。
「ああ、ほんとうにごめんなさい。ほんと、わざとじゃあないんです。子どもが……もう行っちまいましたけど、車に轢かれそうになってたんで助けたら自分が轢かれそうになっちゃって。でも車を避けたらあなたにぶつかっちゃいました。すみません。ほんとう、ぜんぜん見えなかった」
 リゾットが差し出したガムの箱を申し訳なさそうに受け取りながら、子どもは礼を言った。
「わ……でもすごい。おおきいですね、身長」
 かばんを元通り肩にかけなおした子どもは立ち上がってもなお、首をもたげてリゾットを見上げる。そうしなければ視線が交わらないほどふたりの間には身長差が生じていた。
「怪我はしていないか?」
 リゾットは先ほどまでかばっていた足を見やりながら問いかける。
「ええ、ちょっと転んだだけですから。よくあるんで慣れてますし……。まあもうおわかりでしょうけど、ぼくちょっとどんくさいところがあって」
 はにかんだ表情を見て、リゾットはこの子どもに対して感じた恐怖は気のせいだったのではないかと思いはじめていた。轢かれそうになった子どもを助ける善良な心も持ち合わせている。いい子だ、と単純に、そう思った。
***
 ぶつかってしまった詫びに、と半ば無理やりリゾットをバールへ引きずり込んだ子どもはドッピオと名乗った。いまは14歳で、15になる年だということも、学校には通っていないことも、親がいないので安いアパルタメントでひとり暮らししていることまで、訊かずとも自らよくしゃべった。ドッピオはカプチーノに砂糖をこれでもかと溶かし込んでいる。
「お詫びって言ったんだけど……。ぼくフリーライターってやつで、実はあなたがふだんなにやってる人なのか興味湧いちゃったんです。よかったらはなし訊かせてもらえませんか? 編集部に持ち込むいいネタを探してたところなんです」
 フリーライターという響きはなんだか嘘くさく感じたが、ドッピオがリゾットの素性を暴きたくて質問している印象は受けなかった。言葉通り、ただの興味、ないし好奇心。もし仮にドッピオがリゾットの堅気ではない雰囲気を察知して、この街を牛耳る「組織」について情報を得たいと、ほんとうにそう思っているのならすぐにでも立ち去らなければならない。あるいはボスに存在を感づかれたら、ドッピオの動向次第ではあるが、この少年は殺されるかもしれない。その暗殺は、リゾットに手によって行われることになりかねないのだ。その未来が来ないことを、甘ったるくなっているであろうカプチーノに口をつけるドッピオの横顔を眺めながら願う。たった数分で見ず知らずの子どもに情が芽生えていることに呆れた。こんなことでは暗殺者などやっていられない。年下の部下に叱責される想像で頭が鈍く痛んだ。
 一言もしゃべらないままエスプレッソを飲み干したリゾットを、出会ったときとおなじ、不安にゆれる瞳でドッピオが見上げていることに気付く。そこにははじめて眼が合った瞬間に存在を感じた怪物などどこにもいなかった。
「すみません。気を悪くしましたか?」
「いや……。すまない、時間があまりないんだ」
 リゾットは財布から硬貨を一枚取り出して机に置き、カウンターを離れた。
「あっお詫びだからお金はいいんです!」
 ドッピオは硬貨を返すようなしぐさをしながら、バールを出たリゾットを追って隣に並んだ。足早に立ち去ろうとするリゾットに歩幅を合わせて、首を痛めやしないかと思うほど必死に見上げてるくるドッピオのすがたにいじらしさを感じずにはいられなかった。
「……仕事は……保育士をやっている」
 咄嗟に出たうそは、そうであったらよかったのに、という願望だった。
「へぇ!」
 ドッピオは俄然、興味がわいたように顔を輝かせた。しまったな、とリゾットは己の過ちに気付いたが、今更言葉を訂正することは難しい。
「見かけによらないだろう?」
 自虐っぽく笑った表情がうまくできていることを願うばかりだ。うそを見抜かれているとしても、ドッピオが真実にたどり着けなければそれでいい。ドッピオはゆっくりまばたきをして、花がほころぶようにあたたかい笑みを浮かべた。
「いいえ。あなたやさしいひとだから、もちろん、見た目も。だから、すごく向いてると思います。子どもすきなんです?」
 その表情に一瞬見とれた。正直、少年に造形物のように完成された完璧なうつくしさはなかったが、心を引き寄せられるある種の魅力があるように感じた。ドッピオが持ち得る無垢や無知が、リゾットにはまぶしく感じたのかもしれない。
「ああ……。そうだな」
  ドッピオは「ぼくこっちに用があるので」と、リゾットが進む道から逸れた方向を指して離れていく。もう二度と会うことはないかもしれない。手を振るドッピオを見送りながら思った。それほどまでにこの街は広いし、人があふれている。
 背を向けたドッピオを眺めていると、ふと振り返って駆け寄ってきたのですこしたじろいだ。見つめていた視線に気づかれただろうか。
「なんでぼくにもやさしくしてくれたんですか?」
 言われるほどやさしくしたつもりはなかったが、ドッピオがそう感じているのなら、否定する必要もないだろう。
「……。顔が好みだったんだ」
 リゾットの言葉を本気と受け取ったか冗談と捉えたか、ドッピオは目をまるくしてほぉ、とため息をこぼした。
「あなたほんとうに子どもがすきなんですね」
 ドッピオの真面目くさった言葉に、リゾットは思わず声を出して笑った。
うそつきが恋のはじまり/170807
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1-2-3-5-6-7 · 8 years ago
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ろくでなしの純情
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ギアメロ
「蝉が鳴いてたよ」  ドアの開閉音のあと、聞き慣れた男の声が耳に滑り込む。チーム共用の事務所、というよりは溜まり場のようになっているアパルタメントの一室にはソファでうとうとと微睡んでいたギアッチョしかいなかった。それを知ってか知らずか、メローネは訊いてもいない情報を口走る。夏なのだから、蝉くらい鳴くだろう。そう返答するのも億劫で、つけっぱなしにしていたテレビ画面を眺めたまま姿勢も崩さなかった。答えなくてもきっとメローネは気にしない。そんなことで機嫌を損ねたりしないし返事をしつこく要求したりもしないだろう。  プシュ、と炭酸が抜ける音がした。メローネが冷蔵庫からサンペレグリノを出して飲んでいるのだろうと予測できる。他人が生じさせる生活音をテレビから流れ出る音声とおなじように、無関心に甘受できるようになったのはわりとさいきんの話だった。昔は気になって仕方なかったし、他人とおなじ空間にいることが耐えられず、仕事以外の時間はひとり暮らしの部屋にじっと閉じこもっていた。そうしているのがいちばん安心できた。でもいまでは信じられないことに、その他人がもたらす生活音がほしくてこの溜まり場に入り浸っている。とりわけ、メローネのやかましくなく無遠慮でもない、でも静かすぎない声や足音に救われている自覚はあれど、本人に言えるわけもない。言う必要性も感じてはいない。 「ベッドで寝ることをおすすめするけど、それも億劫なのかい?」  メローネがソファの背に立って顔を覗き込んでくる。その尋ね方で、ギアッチョが起きていることも返事を面倒くさがったこともメローネにはバレているらしいことを悟った。 「……臭ェ」 「ああ。暑くってさ、汗かいたからな。シャワー浴びてくるよ」  汗のにおいのことを指摘したわけではなかったが、わざわざ訂正するための会話をするのは面倒だった。メローネからは生臭い血のにおいがした。とりわけ珍しいことでもない。床に転がっていたリモコンを拾ってエアコンの電源を入れる。自分ひとりだったら必要ないが、風呂上がりのメローネには必要だろうと思った。 「あんたが抱きしめてくれたら冷房なんて要らないんだけどな。経済的だし、オレは心が満たされる」 「加減がわかんなくて殺しちまうかもなァー」  あくびが零れた。メローネの笑い声がバスルームへ吸い込まれていく。抱きしめるだけでメローネの心が満たされるならよかったのに。ブランケットを手繰り寄せて、目を閉じる。シャワーの湯がメローネの肌やバスルームの床を打つ水音が心地よかった。  ろくでなしの純情/170807
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1-2-3-5-6-7 · 8 years ago
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140字におさまらなかった5部いろいろ
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∵フーゴくんとナランチャ 「任務おわったらさァ、遊びでヴェネツィア行きてぇなァ」わりとシリアスな状況なのに能天気(に見える)ナランチャ。「なんで行きたいの。まあでもそんな暇ないですよ、きっと」呆れながら答えるフーゴくん。「ゴンドラ乗りてェの。で、ため息橋って知ってる? あれの下で恋人と永遠の愛を誓うキスがしたい」「観光客丸出しだな。ところでナランチャ、きみ恋人いたんですか?」「えぇ~おまえそんな笑えないジョーク言っちゃうの?」ゲェ、と顔をしかめてみせるナランチャにフーゴは肩をすくめて「ぼくのこと?」「フーゴ以外だれがいるんだよォ。キスもセックスもしただろ」「それをしたから恋人同士になるなんてルールありましたっけ」「なにすっ呆けたこと言ってんだよォ~?! え? おまえマジで言ってる?」フーゴくん、ちょっと照れくさそうに「でもお互い、言ってないでしょう。明確な……その、言葉で」ナランチャきょとんとした顔。「言ってたよ。フーゴ、ずっと、すき、すきって」「は?! 言ってない!」「言ってたって。表情とか、指とか体温が! おれのこと好きだって言ってた。おれセックスははじめてじゃあないけど、キスははじめてだったんだぜ」フーゴくん、ナランチャがセックス経験済み発言に絶句。「……ぼくはキスもセックスもはじめてだった」だってなんか悔しい。ちょっと悲しくもある。「どーりで、へたくそだったわけだ」ナランチャの無遠慮な発言に耳がカァって熱くなってなんにも言えない。「でもすっげぇ”よかった”。好きっていう気持ちがあるのとないのじゃあぜんぜん違うんだなァ」フーゴくんが知らないナランチャの過去の片鱗。もっとちゃんと訊きたいような、でもナランチャが自ら言わないなら訊いてはいけないことのような気もして、結局それ以上会話を広げるのをやめる。なにより、ナランチャは過去ではなく現在のはなしをして、楽しそうにしている。 「ヴェネツィアでゴンドラなんて乗るのいやですよ。観光客でごった返してるのが目に見えてる」「おれらだって観光客だろォ。それに、ブチャラティだったらきっと乗ってくれるぜ」「なんでブチャラティを引き合いに出すんですか」「おまえブチャラティに弱いもん」「……百歩譲ってゴンドラに乗ったとして、キスはしません」「なんでだよォ。ブチャラティだったら……」「もォッ! うるさい!」 ∴ヴェネツィアへ向かう途中のどこかでこんな会話をしていたかもしれない。フーゴくんは人に愛されるのも人を愛するのもへたくそ(捏造)。だからきっとセックスもへたくそ(願望)。抱くのも抱かれるのもへたくそ(希望)(170724) ∵フーゴくんとブチャラティ フーゴくんが帰宅すると、アパルタメントの部屋のまえでブチャラティが壁に寄りかかっているのを見つける。階段を駆け足で登り、その音でブチャラティが伏せていた顔をあげる。「おかえり」「あんた、なにしてるんですか。中で待っていればよかったのに」「合鍵をもらった記憶がないな」「自分のスタンド能力を忘れたんですか?」「不法侵入になるだろう?」「ギャングが聞いて呆れる……。ほら入ってください。どれくらい待ってたんです? ああ、知っていたらもっとはやく帰ったのに……」ひとりで会話を進めるフーゴくんにブチャラティがくすくす笑う。「なにがおかしいんです?」「いや、うれしそうだなと思って」「へ? ……あァ……そりゃあうれしいです。あなたのほうからうちに来てくれるなんて、はじめてだから」顔を赤くして目をそらすフーゴくん「そうだったか?」すっとぼけた態度のブチャラティ。 「それは?」ブチャラティが持ってる手提げに視線を向けるフーゴくん。「これを渡しに来たんだ」なかから箱を取り出して見せる「ジェラート! どこの店のです? このロゴ見覚えないなぁ……」目をキラキラさせて蓋を開けようとする様子が微笑ましいブチャラティ。「わぁ。すごい、おいしそう。ピスタッキオと……白いのはペーラ?」「リコッタ。隣の赤いやつはヴィーノ ソルベだと店主が言っていた。店のオリジナルらしい」「へぇ! めずらしい。食べるの楽しみだな」「すこし溶けちまってるか?」「ええ、まあすこし。あんたほんとうにどんだけ待ってたんです?」咎めるように言いつつも、顔のゆるみが抑えられない。「冷凍庫で固めてから食べるといい。じゃあ、おやすみフーゴ」そういって帰ろうとするブチャラティ。ビックリして引き留めるフーゴくん「もう帰るんですか?」「目的は果たしたからな」「ジェラート?」「Sì」飄々とした態度のブチャラティに焦燥とちょっとした違和感を覚える。フーゴくん、玄関の扉に手をかけたブチャラティの背に待って、と声をかけ「ぼくがブチャラティに会いたかったから……そういう理由じゃいけませんか」お互いに甘えベタでさみしがりだから気持ちが手に取るようにわかってしまう。じょうずに甘えるすべを知らない。さみしいと口にできない。ひとに寄りかかる勇気がいまひとつ持てない。だから”子ども”の役割をしたフーゴくんが、理由がないと会いに来れない不器用な”大人”のためにワガママを提示してあげる。 「まいったな」ブチャラティは見透かされていることに気付いて、「あんまり急いで大人になるなよフーゴ」手の甲でフーゴくんの頬を撫でながら、うれしいようなさみしいような顔をする。ブチャラティは自分が大人にならざるをえなかったから、フーゴくんにはまだ子どもでいてほしいっておもってる。けど、もうフーゴくんだって子どもじゃいられないし、もうすでに子どもとは呼べない、大人に片足突っ込んでる。 ∴原作に一切描写がないけど、フーゴくんはブチャラティの家に居候してた期間が1年弱くらいあって、そのあとひとり暮らしはじめたんじゃないかなぁ~ていう妄想が前提としてある。ふたりで暮らしてた頃は体温をわけあって眠っていたから、フーゴくんがいないベッドのなかがずいぶん寒く感じて安眠できない。別々の仕事してて顔を合わせなかった日、いっしょに暮してた頃は家に帰れば会えたのに、いまはそうじゃない。「会いたい」だけじゃ会いに行けないからジェラートを渡しに来たんだよって理由付けをしたあげくフーゴくんに”子ども”の役割をさせちゃう(無意識)ずるくて臆病なブチャラティ、は、かわいい!(170724) ∵ナランチャとミスタ 週に3日くらいの頻度でナランチャはミスタのアパルタメントへ遊びに行く。理由は「ひとりはさみしい」から。アバッキオやフーゴはあからさまに煙たそうな顔をするし、ブチャラティは忙しい。ミスタはナランチャをとくに気遣うわけじゃないけど邪険にもせず放っとく。いちいち構うのが面倒くさいというのもあるし、ナランチャはやかましく騒いだりするわけでもなく、ヘッドフォンで音楽を聴いているだけでミスタに害はない。ナランチャは話し相手がほしいわけじゃない。文字通り、「ひとりがさみしい」だけ。 部屋にいるときはいつもナランチャを良くも悪くも空気扱いしているミスタが不意にヘッドフォンを片方はずして声をかける。「そんなにさみしいんなら、抱いてやろうか」「そういうんじゃねぇよ」ナランチャはつめたく言い捨てて部屋を出てく。ミスタはただちょっかいかけただけのつもりで、予想外の反応にビックリ。怒るなんておもわなかった。 仕事で顔を合わせてもいつもどおりの態度のナランチャ。もう部屋に来ないかもしれないとおもってたのに、日もあけずまたやってくる。ナランチャのことがよくわからない。 「なァ。なんで怒ったんだよナランチャ。おまえが抱くほうがよかった?」向こうがなんにも言ってこないのでミスタから話題振っちゃう。なかったことにしちゃってもよかったのに。「まだその話すんのかよ」怒ってるというより面倒くさそうなナランチャ、「セックスでさみしさが埋まったことなんかないよ」っていう。ミスタはナランチャの過去を知らない。出会うまえのことなんか正直どうだっていいし、いまだってべつに、ナランチャのことを1から10まで知っていないと気が済まないってわけでもない。でもその発言には引っかかるものがあって、「じゃあ、オレが埋めてやるから」ってナランチャのヘッドフォン奪って、ベッドのうえに引っ張り上げる。「おまえヤリたいだけだろ? ヤダよおれェ」暴れこそしないけど、態度で抵抗するナランチャを無視して「オレが抱くほうでいいよな?」ミスタはもう服脱いでるし、ナランチャもまあいいかとほぼ諦めて��。結果、ミスタにやさしく抱かれてなんだか満たされたような気がしなくもないナランチャ。セフレ以上恋人未満な関係のはじまり。 ∴ナランチャに性的暴行受けた過去がある、みたいな捏造の前提をもとに妄想してしまいがちなんだよなぁ……(170724)
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