Tumgik
7974darling · 1 year
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出会い
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 太陽が姿を見せるより前の、薄暗い夜明けの時間帯が好きだ。  今の時期は特にそう。こんな寒い明け方に誰かと毛布にくるまって、温もりを分かち合えたなら、それが愛する人だったなら、最高に幸福ってものだろう。 「レオン、そろそろ閉めるぞ」 「……はーい」  声を掛けられ、返事をしながら店内へ視線を戻す。  外の青く光るような夜明けの暗がりとは対照的に、店内はオレンジの暖かい光が満ちている。土地柄、今の季節は夜明けが長い。朝の十時頃まではどこの屋内も陽が入らない。手元がとくに暗いから、こんな酒場は客が帰ってから片付けが終わるまで煌々と灯を点している。  今が一番ぼんやりした時間帯。 「隅の席で寝こけてる奴、あいつを起こしてやってくれ。うちは宿屋じゃねえからな」 「オッケー」  声を掛けてきた彼はここの主人だ。どうやら仕事上がりに酔い潰れた客を回収していけ、ということらしい。  主人に示された隅の席へテーブルをぬって歩み寄る。「寝こけてる」その客は、この地域には珍しい黒い髪と、異国に多い細身の骨格をしてた。  "黒い髪は…影をつくる、顔を隠す、妖しげな魅力があっていい。目元まで伸びた前髪が首を振る度に揺れて、影の形を変えて。黒髪じゃないとこの雰囲気って出せないぜ"……って、こないだ来た客が俺にそう言ってた。  俺と一緒の黒い髪。  一方的な親しみを覚えて、眠っているらしい客の肩を叩く。両腕の上に突っ伏したその顔が、少し揺れた。 「ハーイ、お客さん!もう夜の時間はおしまい。街が目覚めるまでちゃんと家の寝床で休みな?霧の中は歩いたことある?あれってストリートの目蓋みたいだと思わない?」  声を掛けて反応を待ちながら、ここに来るのは初めての客だな、と思う。  黒髪はこの辺りでは珍しい、俺以外は初めて。だから、一度見かけたら忘れない。この人のこと。もう忘れないだろう。  そうでなくても酒場の常連は覚えてるけど、この人はその中の誰とも違った。異質、だった。  色だけじゃなく長さも珍しい肩を流れおちる長髪。前はいつハサミを入れたんだかわからない。ボサボサで、仕事に邪魔になりそう。肌は青白く、日に焼けてない。目元には隈。上下の顎には無精髭が生えている。  この街は夜の方がみんな元気で、仕事の後、その日一日のシメに酒場を訪れる時にこそ身なりを整える。でも、この人は普段から酒場に出入りしてる感じがしない。  それに、彼が着てるだぼだぼの白いパーカーの袖、そこから覗く手首は平らで細かった。これも珍しい、オッサン方はみんな大抵恰幅よくって、俺より身長無い人だって俺の倍近い体重してんのに。痩せてるってのはこの街じゃ、今にも死にそうってふうに見られる。このオッサン大丈夫なのかな。浮浪者かな?  良くない酔い方してなきゃいいけど。 「……体調悪いなら家まで送ろうか?」  口を耳元まで近づけ囁いた時、ようやく彼が身じろいで目を開いた。  ゆっくりとした動作で腕を解き、身を起こす。ぼさぼさになった前髪が掛かった額に片手を当てながら 「……本当に?」  寝起きの掠れた声で呟いてきた。 「送ってくれる?助かるよ」 「……」  思わず、一瞬彼の声と動作に意識を奪われた。  特別なことなんて何もない、少し身を起こして視線を逸らしたまま返事をされただけ。なのに  仕草や雰囲気が妙に静かな人だった。  あまり酔っているようには思えないのにどうにも危うい気がして、俺はそれが当然であるかのように「ああ勿論」、と請け合ってしまった。 「ありがとう」  そう言って立ち上がった彼は座っている時の印象より長身で、俺とほぼ同じくらいの位置に顔がきた。即座に肩を組むようにして俺は彼の身体を支えた。彼が少し顔色を悪くしてふらついたから。  ……抱き寄せた腰に腕がめり込むみたいだ。立ったことで見えた両脚も細くて、黒いジーンズの幅が余っていた。全身痩せていて、埃っぽい。 「家あんの?」  およそ衣食住満ち足りた生活をしているとは思えなくてそう訊いてみたら、意外なことに相手は 「あるよ」  と答えた。  俺の肩に悪びれる風もなくもたれ掛かりながら、吐息混じりの掠れた声で「スラムか公園にでも連れてく羽目になるかと思った?」なんて軽口まで返してくる。彼がふ、っと笑ったような呼気が俺の頬を撫でた。  その返事と一連の遣り取りで、ふと、彼の細い腰を抱きかかえながら、違和感に気付いた。  ……匂いがしない。  これだけ身体の密着した状態で彼が息を吐き出しても身動きしても、酒の匂いが一切しない。酒場からの帰りなど、みな吐く息は酒臭くてかなわないのに、酒の口臭はおろか汗の匂いも体臭らしいものすらも感じなかった。  不潔そうなのに意外、と思ってから、このオッサンはこの場で一体何をしていたんだ?という疑問が湧く。酒場に居たのに食い物の匂い一つしないなんて。  そうしたら店を出たところで、まるでその疑問に答えるみたいに、彼は唐突に肩に掛けた手で俺の背中を叩いて上機嫌に言った。 「君の演奏は素晴らしかった。聴きに行ってよかったよ、レオン」 「……え?」  演奏。  ……演奏だって?  この街で演奏って言ったら、俺が酒場で弾く古いピアノしかない。  娯楽の少ない街だ。みんな働いて、食べて寝て、また働いて。遊ばなきゃ気持ちが持たないから酒を飲みにくるけど、それ以上の余裕はない。  俺は体力だけは人よりあるから、踊ったり歌ったり、ピアノを弾くこともある。  ピアノは街の中であの酒場にただ一台だけ。だから確かに「聴きに行く」ならあの酒場に行けばいい。 「オッサン俺のピアノ聴きに来てたの?」 「うん」  あっさりと肯定した彼は顔に笑みこそ浮かべていないものの、願いが叶ったかのような浮ついた、夢みるような声音で続けた。 「君のピアノは夜の街じゃ名物だ。冬の酒場は君に似合うな。にぎやかで、閉ざされた熱が混じり、酔いそうな赤い灯が路地裏に満ちる」  身なりからは想像できない詩的な表現。彼が話す言葉は最初からこの地域の言語だったけれど、今はっきりと耳にしたそれはよどみのない美しい発音をしていた。彼がこの土地に馴染んで長い証拠のように聞こえた。
 送り届けることになった住居は、街をずっと上がっていったところにあった。  防音に特化したミュージション。周りは見慣れない、広々とした閑静な街並み。まだ暗い明け方、道にいる人影は俺達二人だけで、他に誰も居ない。 「5階だよ。エレベータがある……もう立てるよ。世話かけたね。ああ、シャワーでも浴びていきなさい、ぼくに触って汚れたろ」  エレベータ前で帰ろうとするとそう言って引き留められた。特に断る理由もなく、興味が勝ってついていくことにする。5階に着くと彼は三部屋並んだ一番右奥の部屋へ歩き、首から提げていた鍵を取り出して差し込むと、ガチャリと回してドアを開けた。 「どうぞ」  と声だけ掛けて彼が先にすたすたと室内へ入っていく。その後ろをついて入った。  室内は広くて雑然としていた。床に直接紙類が積まれ、やけに大きなローテーブルの上にごちゃごちゃと物が大量に出しっぱなしにされている。  右と左に別の部屋へ続くらしいドアがあり、右の壁際に寄せてピアノが置かれていた。  白い、ヴァーチカル。 「楽にしてて」  彼は自分から誘ったわりに構うこと無く、部屋の電気も点けないまま、左のドアの奥へ姿を消してしまった。 「……不用心だなぁ」  これだけごちゃごちゃと物が散らかっていて、何か盗られたら気付けるんだろうか。俺は何も悪さする気は無いけれど。ああ、いや、向こうには俺の顔も職場も知れているから、何をされてもやり返せるのかな。  ならば。  気を楽にして部屋の中を歩き回る。奥の棚に入っているのは大量の本と、CDやレコード盤。隣の棚は開け放されていて、ヴァイオリンのケースとクロスや樹脂などの手入れする道具類が仕舞ってあり、ヴァイオリン本体はどこかと見回すとローテーブルの上で紙の下敷きになっていた。  興味を惹かれるものばかりだ。俺は店の主人が楽器好きで、雑誌類の写真を見て楽器を知ってるけど、本物が手の届くところに置いてあったことはない。それも、こんなにたくさん。 部屋中を散策して、最後に白いピアノの前に立つ。 「……綺麗だ」  白いピアノは、初めて見た。  ピアノは黒くて大きくて、ずっしりと重厚感のある、頼もしい王様だと思ってた。鏡のように赤や金色の照明を吸い込み、夜の酒場をその体に鮮やかに映し出すキング。  けれどこの白いピアノはまるでお姫様のようで、まったく別の音を奏でそう。 「弾きたいかい?」  唐突に耳元で声がした。  びくっと肩が跳ねる  驚いて振り返ると、いつの間に戻ってきたのか、彼が背後に立っていた。黒髪からぽたぽたと雫を垂らしてる。タオルを掴んでいた細い指が一本、すっと前へ差し伸べられて、ピアノを示した。 「触れてもいいよ。君のシャワーの後でね」  細く白い指が俺にタオルを渡して離れていく。  ……なんだか、動けなかった。両眼を瞬かせて、彼を見詰めてしまう。ピアノに向いてた関心が一気に彼の方へ持って行かれたのを感じた。  シャワーを浴びてきたらしい彼は清潔な白いシャツを着ていて、髭も綺麗に剃っていた。思ってたよりも若い。平らな顔立ちから突き出た下向きの鼻、薄い唇、寄せられた眉、針のようなまつ毛に縁取られた目。どれも神経質そうな、アンニュイな雰囲気を漂わせている。 「オッサ……君って本当は何歳くらいなの?」 「今年で二十三」 ��聞かれたから答えた、それ以上何もない返事をして彼はテーブルの上の瓶を取り、中身を煽った。それからテーブルに腰掛け、ヴァイオリンの上に重なった紙を読み始める。俺への注意は完全に失くしてるみたい。  俺は今年二十一、いま二十歳。それと大差ない。オッサンどころか、友達だ。 「君、ぜったい髭剃ってた方がいいよ。そっちの方が似合う」 「…………」  返事してくれない。あー。彼ってかなりマイペースなんじゃないかな。会ったばかりで勘だけど。  話し掛けても反応がなくなってしまった彼を置いて、大人しくシャワーを浴びにいった。
 遠慮なく石鹸やシャンプーを使って身体を洗い、存分に温まってから、シャワールームを出る。ガラス戸を開くと、四角いボックスの内側で溜まっていた蒸気がふわっと解き放たれる。  明かりがどこにあるのかわからず点けないままだったけれど、次第に日の光が差し込んできていた。朝の青みがかった、白い、けぶるような光が、浴室のタイルや水滴に反射する。脱いだ服をもう一度着て、靴と靴下は指に引っ掛けて持った。  ひんやりしたタイルに裸足のまま降りる。  ドアを開けると、音色が聞こえた。 「…………」  震えるように繊細な、高い音色。美しい――――ヴァイオリンの調べ。  そっと指先でドアを押す。音を立てないよう。無意識にそうしていた。  押された分、ゆっくりと静かにドアが開いていく。隙間から覗き込むようにして視線を さしいれて 室内を見る。  正面の壁にピアノ、視界の淵にカーテンのレース。開け放された窓から朝陽がすうっと差し込んで、照らし出された部屋の中央は清らかな薄い光のベールが掛かって、そこだけ別の空間だった。  その中に一人の青年が立ち ヴァイオリンを弾いている。  逆光に透けたシャツが、奏者の動作と、波打つカーテンと共に揺れる。彼は室内の何よりも白く見えた。
彼の音がなかったら、 冬の朝をこんなにも静かだとは思わなかっただろう。
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