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朝7時20分。「終わった」と思った。死をイメージする、それだ。自宅の階段で足を滑らせた。一瞬の出来事で自分でも何が起きたかわからなくて、気づいたら床に横たわっていた。テレビは倒れ、扇風機もカバーが外れて倒れている。
ロフト付のアパート。落下したんだったと我に帰り冷静になると、猛烈な激痛が走った。今まで経験したことのないものだった。床に大の字になりながら、痛む方向に視線を送ると理由が分かる。肘から下がおかしな、あらぬ方向へ向いていた。肘のあたりも脱臼しているのかボコっと形がいつもと違う。骨折だ…。あぁっと悶えるしかなかった。
案外こういう時、自分は冷静だったなと思う。とんでもない状況になってしまった、これは骨折しているぞと認識するまで時間は掛からなかった。変形してしまった左腕を見つめていると、どんどん痛みが大きくなっていった。指先の感覚がほとんどない。腕が動かせるのか確認しようと、力をいれるものの力が入らない。そして痛む。やっと、自分の身体の一部分が動かない状況であることを理解すると、あてもない気持ちが込み上げた。「痛い、痛い」と叫びまくった。朝から大声で。それ以外、言葉が出てこないのだ。ラグビーでさえここまでの痛みを経験したことがなかった。密集戦で踏まれようが、瞬間の痛みだったから、これは違う。
はいつくばりながら、スマホを拾い上げ、最初に実家に電話した。父が電話に出る。「階段から落ちて腕が折れた。救急車を呼ぶ」と伝え、「119」のダイヤルでコールした。10分ほどで救急隊がやってきた。猛烈な重症なのに、インターホンがなって普通にドアを開ける。普通にドアを開けるのだから、救急隊も驚いた様子だった。
症状と、どうやって怪我をしたのか、部屋にあがってもらい、状況を説明した。ただ、そんなことより、はやく病院に運んでくれという思いだった。感覚のない指、ぶらんとなった肘から下。もう自分では同しようもないから、とにかく処置をしてほしい。流石にくちにはできなかったけど、必死の形相だったはずだ。
痛みはしんどかったけれど、歩けるし意識もしっかりしていたので、救急車に自力で乗り込む。
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日記 / 5.7 / 写真を再び
どうもここ数ヶ月、写真が撮れなかった。半年前から撮っている写真のシリーズについてのことだ。製本ワークショップに参加して製本してみて、一度立ち止まって俯瞰的に見てみようと試みたが、これがまさかの急ブレーキとなってしまった。本の形になった高揚感に浸りつつ、「足りない」こと探し、粗探しを繰り返した結果、撮影を始めたときに抱いていた前のめりな感覚を忘れてしまっていたように感じていた。
京都国際写真祭でそれに拍車がかかった。凄みのある作品を三日三晩浴び続けることで、着眼点や撮影の技量、熱量、我が事とする力強さ、数え切れないポイントと比較ばかりして苦しくなってしまっていた。正直、息ができていない状態に陥っていた。1年前は「制作」をしていなかったから、どの作品も憧れのような対象だった。尊敬する写真家の自宅に訪ねて相談させてもらったり、他の写真家の方には、勤務中に彼の働く会社まで足を運んで助言を請うたりした。ようやく、自分なりの視点を持って撮影してこれたのではと、思った今年のはず…と思っていたのだが、違った。「作品をつくるようになった若い人」(と言われるようになった)は、先人たちから厳しいレビューを受け、落ち込んでしまったのだ。この落ち込みを誰かに解消してもらうことなんてできないし、親しい友人に話しても、結局情けをかけてもらいたいという気持ちから始まってしまうわけで、健全ではなかった。
先週には、撮影をお願いしていた方と長い時間お茶をして撮影に望んだが、正直に伝えた。「今は撮れるような状況ではない」と。相手からも、見透かされたような気がして、ブローニーフィルム一本を撮り切ることだけにしか集中できなかった。つまり被写体との対話ができていたとは言い難い。きょう、現像から上がってきた写真たちは、それなりに撮れているのだが、撮ったときの感情をまだ記憶しているので素直に見ることができないことで思い知らされた。現像があがるまでの高揚感、ポジティブな気持ちを抱いていなかったことに気づいた。
ここまでネガティブなことばかり書き連ねているのだが、ようやくトンネルを抜け出せそうな感覚をきょうは覚えた。一日を振り返りながら、いろいろ考えてみようと思ったからきょうは書こうと思う。
まずは、久々に早朝に起床できたことに始まる。朝マックに足を運び、エッグソーセージマフィンのセットを食し、スイッチを入れる。朝ごはんを食べると血糖値が高まり、血の巡りを感じる。ファストフードとはいえ、気持ちが前向きになったようだった。その勢いで、都内の展示へ。本当は丸木美術館に行きたかったが、せっかく晴れている日、2時間も電車に乗るのがもったいないと思い、終了日前日なのに諦めた。
昨日、WHOがコロナ緊急事態宣言の終了を発表。週明けにはコロナが第5類に移行する。パンデミック下に置かれていた日常は、ようやく活気づいてきたことを武蔵小杉から乗り換えた行楽日の総武線快速で感じた。先月行った京都も、外国人観光客が戻ってきて、マスクをしている人がほとんどみなかったので、不思議ではないのだが、東京にもコロナ前の日常が戻りつつあった。そんなことを思いながら、上野に着くとすごい人だった。動物園に並ぶ人々の姿も見えた。美術館前で記念撮影をする人。にぎやかな声が聞こえてくるから、自然と触発される。
向かったのは東京芸術大学陳列館。「解/拆邊界 亞際木刻版畫實踐」(脱境界:インターアジアの木版画実践)(※)を見るためだった。初夏の日差しに浴びる青々とした葉をつけた木々が陰をつくる上野公園がこんなに気持ち良いとは思わなかった。陳列館の2階は、天窓から優しい日光が注ぎ込み、版画がすられたキャンバスや布がゆらゆらとしていた。版画は力強かった。日本、韓国、中国、香港、台湾、フィリピン、インドネシアのアーティストの作品をゆっくり何周もしながらみる。印象的だったのは、タイトルの通り、ボーダーを越えていくことの希望だ。
點印社(香港)の「私たちは輪になって食べる、刷る」は横長の大きな版画。テーブルでご飯を食べる様子を描いているのだが、そこに描かれているのは、人間だけでなく、シャチや、犬など動物もいる。コロナ禍によって幾多の国境が閉ざされた世界で、異なる国籍や民族やルーツ、バックグラウンドを持つ人々の間に境界線が引かれるようになったことを忘れてはいけない。そんな時代だからこそ、他者との時間を共有することを肯定し続ける力強さを感じた。登場する人々や、動物の表情は笑顔で豊か��、美しかった。決して丁寧に、きれいにつくられたわけではないけれど、その雑然さを版画で刻む描くことの尊さを感じた。
韓国のキム・オクさんが制作した7枚の版画からは、いつか未来で消える朝鮮半島の南北の境界線を想像させた。30年以上に渡り、朝鮮半島南部をくまなく歩き、フィールドワークしてきたというキムさん。農村地帯など韓国の原風景が描かれた7枚は、南北統一という先に続きがうまれるはずだという期待を抱かせ、そしていまだ解決しない南北問題について、極東の島国にいる自分をハッとさせた。
何よりエンパワーメントされた。この展示の作家の多くが社会運動に参画し、運動を活性化させたり、アジテーションを強化するという目的を持ったりしながら制作しているということを掲示されているテキストで知る。政治的抑圧に抵抗する。それは大きな主語を語りがちのように感じられるが、版画を刷るということによって我が事として捉える身体性が一層増していくように感じた。何より、作家自ら社会に対して、異議申し立てをするまでのプロセスを、自らの生活実践の場において果たそうとする姿勢が感じられた。だからこそ、「私たちは輪になって食べる、刷る」のカラフルな描き方に心が揺さぶられたのだろう。
何より、描いて、版を作り、刷るという繰り返しを諦めない。その先に、社会的に生じている苦しさから解放されるように思えた。新聞記者として多くの時間を、社会的課題について考えようとしながら、当事者性があるかどうかなど悩み、写真撮影においても強度があるかないかなど気にしていた自分にとって、今までの悩みがちっぽけに思えたし、何よりそうだ、自分が言いたいことを言えばいいんだと思えた展示だった。
彫り続ける作家たちの姿勢に刺激をもらい、浅草に移動してから入ったタリーズで本を開いた。坂口恭平の「継続するコツ」だ。数ヶ月前に綴方で購入したまま開いていなかったが、効果てきめんだった。「才能という言葉」の呪いにかけられたように、他者の作品を羨望の眼差しで見ていた。そして、撮影ができない状態に陥っていたけれど、それは「比較が始まり、否定が始まり、手が止まる」という項で正体が書かれていた。ある程度、自分がやりたいことを続けていくと「慣れ」が生じるというのだ。「慣れ」。なるほど。確かに、慣れてきた。こうして撮っていけばいいのだ。こう進めていけばいいのだという実感は、いつしか、「見る人に伝えるには○○が足りない」と完成度ばかり気にすることに変わっていたからだ。
製本して、足りないことが見えて、評価を受ける作家のアーティストブックやダミーブックに圧倒され、到底その領域に達していないのにと自分を卑下して、比較をし続けていたなと気付かされた。なんか自分が馬鹿らしくなっ��。撮っていく。それだけでまずは十分じゃないか。当初抱いていた撮りたい写真への気持ちは、いろんな人の助言や苦言や励ましで少しずつ変容したりしているけど、自分の撮りたいという気持ちに正直になれるのは自分しかいないわけなんだから。
そうだ。去年の7月、アレック・ソスに「SLEEPING BY MISSISSIPPI」にサインを入れてもらったとき、メッセージをお願いして書いてもらった言葉を思い出した。「Don't ever forget the feeling when you first piched up a camera」。そうだよね。初心忘れずって言うよね。いま撮っているカメラは別に「First」じゃないけれど、このカメラで撮っていくぞって嬉々としていたときのことを思い出した。小さな1Kで、千尋からも「買ってよかったね」なんて言われて、ファインダーを覗いて初めて装填したネガフィルムに彼女を焼き付けたんだっけ。うまく扱えず、フォーカスと露出を決めるのに時間がかかって切ったシャッターによって写し取られた千尋のふと力の抜けた表情が自分は好きだったんだなと。あの感覚があったから、静かに被写体となる他者に正対する感覚を今でも大事にしているのかもしれない。
そんなことを思いながら、ベトナムの写真作家たちのダミーブック展をあとにしたあと、ブローニーを装填した。ゴールデンタイムの日差しが当たる街にカメラを向けてシャッターを数枚着る。隅田川に沿って歩いていくと、ふと人を撮りたいなという気持ちが湧いた。
ふと、目が止まった。若い男女が微動だにせず、静かに抱き合っている姿に見とれてしまった。高校生か、大学生かな、と思い、声をかけさせてもらった。こうやって街にいる人に声をかけて撮りたいって伝えるの久々だな。心のなかで自分に語りかけていた。それに、やっぱり最初は緊張する。「ティックトックですか?」と聞かれたけど、「いえ違いますよ」という。最近、インスタやYou Tubeのショート動画で確かに「ストリートスナップ撮っているんですけど」という動画が流れてくるなと思い出した。それのおかげなのかな。恥ずかしがっていた彼らは、少し悩むそぶりを見せてくれたけれど快諾してくれた。撮らせてもらえる。高揚感が全身に走った。
マキナで露出を決め、フォーカスを固める。透明の四角いファインダーの向こうで、静かに佇む二人に引き込まれる。女性は恥ずかしいからマスクをしたままだったけれど、風になびく黒髪の隙間から見える青いカラーコンタクトをつけた瞳から向けられる視線が、まっすぐ力強く凛としていた。男性の方も、無表情ながら芯の強さを感じさせていた。
撮影後に聞くと、二人は15歳の高校1年生。男性はぼくの父とおなじ江戸川区で生まれ育ったという。在日朝鮮人の母を持ち、インスタグラムには日本と韓国の国旗アイコンを掲げる。聞きづらかったけれど在日コリアンかどうかを聞いてしまったが、「そうですよ」とさらりと答える。僕がこれまで川崎で取材をしてきたことなども伝えると、親しげな感じを見せてくれた。そして、なにより自分のルーツに誇りを持っているようだった。スケートボードが好きで、スケートボードが「バ先」だといって、店長のインスタグラムアカウントを見せてくれた。女の子はシャイだ。ファインダーの奥に見たあの視線の強さとは相反するのか、不思議だった。
街で声をかけ写真を撮る。撮影時間を入れても、賞味10分ほどしかなかったかもしれない。写真はSHOOTだ。池澤夏樹によると、「Shoot」は銃撃か撮影でしか使わない。だから、若い彼らをカメラの前に立たせる行為というのは、主従関係が生じ、抑圧・被抑圧の関係性が生まれることにほかならない。それでも、撮影を許容してもらうために、僕は彼らに誠意を伝えようとする。そして彼らも受け入れるために覚悟をする(覚悟を強いている可能性も忘れてはいけない)。そのわずかな時間でも、僕と彼ら彼女の間に一定の緊張感が生まれ、正対することによって他者を信じ切るしかないのだ。嘘偽りがないとは言い切れない。それでも、1/500秒という膨大な時間軸における一瞬、フィルムに焼き付ける行為そのものが、僕がこの社会に接点を築いていくことに必要なプロセスなのだと言い聞かせるには十分なんだ。そのことを、二人との出会いによって改めて認識させられた。
これが、明るい兆しだ。写真を諦めなくてよかったと思えた撮影だった。写真を撮ることでしか、僕は社会を知るすべがないことも知っている。それが、なにか明確なメッセージや、スローガンがなくても、そこに写し込まれた人々の姿によって、この社会の輪郭が際立ち、描かれていくことを信じたいから撮っている。僕にとって人を撮ること、正対してポートレートを撮ることとは、その決意表明みたいなものなのだ。沈みかけていた気持ちが、ようやく前を向き始めた。
※参考)近年、アジア各地で木版画による芸術・文化実践が再び注目を集めています。20世紀初頭の中国で魯迅によって始まった近代木版画運動は、民衆自身が社会や現実を表現する運動/方法としてアジア各地に伝播しましたが、20世紀後半になると社会構造やメディア環境の変化により下火となっていきました。しかし、2000年代から2010年代にかけてアジアの芸術家や社会活動家たちの一部は木版画を通じて社会や政治の問題を表現し、文化的直接行動や集団的創造の実験、さらには国境を越えた交流・ネットワークを生み出してきました。 本展は《「解/拆邊界 亞際木刻版畫實踐」(脱境界:インターアジアの木版画実践)》と題し、アジア各地から12の作家・活動団体による木版画を紹介します。とりわけ2020年に始まったパンデミックでは、人やモノの移動を一元的に管理する国境の問題や、差別や排外主義などの社会的、心理的な排除や断絶の問題を現前化させました。本展はわたしたちの生きる世界や社会に張り巡らされた「境界」を改めて主題化し、これらの境界からの離脱・解体を志向するトランスナショナルなアジアの木版画実践とそのネットワークについて紹介します。同時に、コロナ期に各地で制作された木版画を比較することで「アジア」という地理的/政治的概念への批判的認識と、さらなる理解・議論の可能性を開くことを目指しています。
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日記 / 12.20 / A pound of pictures
手にした重量感は、確かに自分がそれを所有したり、自分の眼差しによって見たもののような経験を味わせるように錯覚させてくる。写真集が量り売りされているというので、表参道にあるTwelvebooksに向かった。「1kg=4400円」という単位で売られているセール・イベントだ。流通のプロセスで傷がついたり、ページが破れたり、角が折れてしまったり。店頭に出せないB判定品となってしまったデッドストックを再び流通に乗せるという試みだという。
思い返すのは、写真集団マグナムに所属するアメリカの写真家、アレック・ソスの最新作「A pound of pictures」だ。8x10の大判フィルムカメラでアメリカの人々のポートレイトや風景をドキュメントし、アメリカ社会の姿を写すことで有名なアレックは「この本の中の写真には、きらきらと輝く表面以外に意味はありません」と前置きを語る。そして、「この作品群はイメージが作られるプロセスについての写真です。夢中になれる具体的な世界に入りこみ、光や時間などの一時的なものと目玉や映画などの身体的なものの間につながりを作り���すことをテーマにしています」と続けるのだ。
この作品を作るにあたって、エイブラハム・リンカーン大統領の葬儀列車の足跡をたどることから始めようとしたというが、アレックはそのプロジェクトではないと決断し、膨大な写真のイメージの概念を描こうとした。(マグナムの一人、ポール・フスコはロバート・ケネディの葬儀列車を見送る人々を列車の中から移したRFKは伝説的写真集であり、こうして葬儀列車が走った���は、リンカーン以来だった)。そこで、アレックは写真が量り売りされていることに着眼点を置いた。撮影者が不明の写真たちは「Found photo(ファウンド・フォト)」と呼ばれている。eBayなどでも束で量り売りされていることが確認できる。実際、アレックは「A pound of picture」の写真集の中にランダムで5枚、ファウンドフォトの複製プリントを織り交ぜており、開くと誰が撮ったのかもわからないアメリカで生きる市井の人々が撮ったであろう光景に巡り合う。
その巡り合わせはまさに、写真集の山をかき分け、自分が欲しかった写真集や予期せぬ出会いを期待しながらディグる作業は、まさにソスの写真集のタイトルのように、膨大なイメージの束から見つけ出すような感覚だった。
伏線回収は見事に起きた。心が踊った。黄色いプラスチックボックスのなかにある写真集が光っているのだ。こういうときは、光って見える。光石のように存在感を放っていたのは、もちろん「A pound of picture」。紛れ込んでいるその一冊に出会い、ニヤけるほかなかった。このTwelvebooksに訪れたのは、7月にアレックが来日して交流会イベントがあって本人に会いに来たとき以来。ときとして、こういうことが起きると思うと浮足立ってしまう。ただ、すでに僕は所有していたので、必要な人が手にできればいいと思ったからボックスに戻すと、すぐに嬉しそうに手に取り脇に抱えながら笑顔の海外の人がいた。ぼくは「Sugar paper theories」というアイスランド史上最大の殺人事件捜査をビジュアルストーリーテリングで描いた写真集を見つけ出し、持っていると「それはとても奥行きのあるドキュメンタリーだ。いいものを選んだね」と言ってくれた。普段生活する世界とは遠い世界を結びつけてくれるきっかけを与えてくれる写真集の力を思うのだ。
接続し得ない写真たちが次から次へと物語を編んでいくことを体感した。そして、ぼくは元々欲しかった写真集も見つけ出し計4冊選んだ。重量計にドサッと乗っけると、針が時計回りに振れる。3kgを指して値段が決まるその光景に、写真とは、物体・フィジカルとして経験に残ることで価値の見出し方が大きく変わり、重みとして身体的に刻まれるということを改めて強く認識したのだった。この経験は意図せずして前日から続くものだった。
◇◇◇
「写真を手にとってもらい、指紋が残ることで、自分とは切っても切り離せない世界として感じ取ってもらいたいんですよね」。そう口にしたのは、写真家の児玉浩宜さんだ。ロシア軍のウクライナ侵攻が始まって間もない2022年3月上旬から3度に渡って渡航して取材撮影を重ね、写真集「Notes in Ukraine」を刊行した。その記念トークイベントが下北沢の本屋「B&B」で行われていて、写真展の意図を語���た。
児玉さんが写してきたのは、僕たちが目にする典型的といえるような戦禍の惨状を写した報道写真ではない。攻撃を受けたマンションや様々な施設、荒廃した場所なども記録しているのだが、凄惨で残虐な光景よりも脳裏に刻まれるのは、戦時下のウクライナで今を生きる人々の姿だ。多くの報道カメラマンが扱うような堅牢性に長けたデジタル一眼レフは扱っていない。1本のフィルムで15枚ほどしか記録できない、中判フィルムカメラで撮られているのがそもそも大きな違いだ。フィルムに焼き付け、粒子を感じることのできる丁寧なポートレイトは、日常が非日常になってしまったウクライナの姿を刻銘と残している。
3月に西部の首都チェルニウツィーからビデオ電話で取材に応じてくれたときに聞いた言葉が印象的だった。「センセーショナルな映像はしかし消費されやすい。1日たってしまえば忘れられてしまう」。凄惨なイメージ(写真・映像など)は大河を流れる濁流のようにものすごいスピードで川岸をえぐるようにして過ぎ去り、僕達はあたかもそれを想像できる痛みとして受け止めるのだが ーこの痛みについては、アメリカの作家、スーザン・ソンタグが「他者の苦痛へのまなざし」で「想像できない」として突きつけるようにして警鐘を鳴らす― 、あまりに強烈なイメージについて実際は受け止めることは到底できず、忘却の彼方へと消えていってしまう。
元々NHKの報道カメラマンとして東日本大震災で被災した東北の地を取材した経験がある児玉さんは「涙を誘うようなシーンを求められているような空気」に違和感を覚えた経験があると言っていた。感情に訴えるわかりやすさが重要視され、現場に行かなければわからない奥行きへ眼差しを送ることを拒絶するような報道のありように疑問を呈した。しかし、フィルムに焼き付けることで、情報がスピーディーに拡散されていく時間軸、そして忘却に抗えるのだと体現している。
遠い異国の戦争を我が事に捉えようと意識しようとできるかもしれないが、実際には困難かもしれない。児玉さんはしかし「まだ答えを出すには早急すぎる」と言う。当初から「写真が5年後、10年後、そのまた何年も後になって意味が見いだせるものとして人々に働きかけるかもしれない」と言っていた。写真集や展示でも、実際にウクライナでともに釣りを興じた親子の写真が気に入っていると言うが、選定から漏れた写真もどれも「大切なもの」だという。「写真一枚が戦争を止めるというフォトジャーナリズムの大義を掲げることなんて自分はできない」と割り切る、その実直な姿勢に写真の「分かりやすさから距離を置く」ことの重要性を学び取る。
そんな背景を思い出しながら、展示の意図は児玉さんの思考が形になっていたと思った。
大きな平台に置かれているのは、フィルムカメラで写し取ったウクライナの人々のポートレイトや風景が印刷されたL判サイズプリント。3〜4枚ほどが1セットとなり、列をなす。そして隅っこのボックスには、重量を感じる束となって置かれている。ぼくはその写真の束を手に取り、次々と手を動かしながら写真を見ていく。児玉さんが言ったように、指紋は残り、「私」が手を触れたことが写真にも身体的にも刻まれていく。そして感じたのが、束になっている写真を一つ一つ見ていくその感覚が、「私」がウクライナの街を歩きながら、見ているような気持ちにさせるということだった。知らない世界と私が接続しているような錯覚に陥り、いつしか、手にしたイメージによって編み出された世界を無視してはいけない、向き合わなければならないという感情を呼び起こされていた。
児玉さんは自らを「そこまでアクティブじゃない」と言う。ウクライナにいっても憂鬱だった日が多かったという。何か理由を見つけて重い腰を上げて外に出る。そして街を歩いて、人に声をかけて写真を撮らせてもらう。写真展では、児玉さんが見てきた風景をともに見ているよな錯覚に陥らせ、孤独さを紛らわしてくれるように思えた。
B&Bのトークで眠れなかったり憂鬱なときはYoutubeでトラック運転手の視点で撮られた「ロードムービー」を見ると落ち着くことができると言っていたことが印象に残っている。深夜に目が冷めて、しんどいなと思っても「運転手のこいつはまだ運転しているのか」とどこかふと気持ちが軽くなるらしい。過ぎ去っていく取り留めもない光景があるからこそ、生きていることを確かめられる。児玉さんは、ウクライナに足を運んで、日々歩くことで自分が戦争の中で生きていることを確かめていたのではないかと推察する。
◇◇◇
児玉さんが残した「生」の概念を、膨大なイメージを手に取ることにとって感じ取る。それは、写真の束を世界にある様々な光景の断片として、この社会を生きる僕たちが現実に起きている諸問題が切っても切り離せない事象であることを突きつける。平台に置かれた小さなプリントは、児玉さんが撮ったものでありながら、ぼくの知らない人々や光景が児玉さんに写してくれと言わんばかりにたただたこの世界に散らばる星のように存在する「ファウンドフォト」だった。
哲学者でアナキズムについて研究している長崎大准教授の森元斎さんがトークで示唆していたのは「星を結べば星座として立ち上がってくる」ということだった。児玉さん自ら、正義感を押し出したフォトジャーナリズムを掲げて戦地へ赴いたということではないと公言しているし、「意味を早急に捉える必要性はない」と語っているからこそ、余計にその星座が浮かび上がってくるように感じる。戦争が起きている現実世界の時間軸においてほんの一瞬(カメラの話をすればシャッターのスピードである。1/30〜1/500秒あたりであろう)を切り取っているからだ。
児玉さんは、この写真集は「まだまだ終わりではなく、これが始まり」と言っていた。点を打ち続けること、その点を結んでいくこと。それは暗闇の中で夜空を見上げて、光を放つ星々を指でなぞりながら結んでいき、星座としてのイメージ、新たな像を立ち上がらせていくことにほかならない。
まだまだ収束の見えない、ウクライナ侵攻。多くの人々が避難を余儀なくさ���、難民としての生活も強いられている。既存のマスメディアによって流通するイメージや為政者の雄弁ではなく、ぼくたちは戦時下の今という「点」を残した児玉さんの写真の”束”から答えを探る一歩を踏み出せるのかもしれない。僕たちが想像できないような現実を掴み取り、自分ごととして捉えていこうとする行為を児玉さんは、写真を見る受け手とともに共有しようとしているのではないかと思う。写真の不確かさを力に変えていくことを信じているように。
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