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あべこべなからだ
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abekobebody · 3 years ago
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 ずっと文章が書けずにいる、と言えば二重の意味で嘘になる。進捗こそ芳しくないが論文はそれなりに書いているし、それに、現にいま、これを書いている、書きはじめようとしている。  しかしそれでも、なにも書ける気がしないという実感だけは本当のことだった。なにか苦悩めいた、それでいて苦しく悩ましくもないような、いろんなものが空回りしてなにひとつ巡ってゆかない、蟠っても蟠るだけの内容もそこにないような、喉元につかえた空虚、とでも呼べばよいのかもしれないが、そう言ったところで、自分でもなにを言っているのかよくわからない。たとえば猿とかピエロとかのブリキ人形やチョロQなどのネジを一生懸命かりかり回したとして、中に入っているバネ細工がぶっ壊れていたらうんともすんとも言わないのと同じようなものなのかもしれない、とも思う。  ことばが出てくる瞬間のことに思いを馳せる。心とか頭とか、それがちゃんと截然と分けられるかもわからない、それらのうちのどこかで発想されたものが、肺やら喉やらの機能を使って音になったり、手や腕や肩の神経を伝って文字になったりする、そのプロセスそのものに問題が生じているのかもしれない。なにかが掛け違えられてしまっているのかもしれない。からだがあべこべになってしまっているのかもしれない。ことばがからだであり、からだがことばであるような、すべてがひとつのもの���表象するようなリズムを取り戻したいのだけれど。 https://www.instagram.com/p/CaAnihEhb_H/?utm_medium=tumblr
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abekobebody · 4 years ago
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京都に住んでいるダンサーと未来についての話をする。 いつまで踊り続けられるか分からないけど、 これから先ある本番に向けて進むのみで そうやって続けてきた。 毎回の本番が最後のつもりで生きているし踊っている。 これからどうしていったらいいかわからないと、どうしてましたか、と若い人たちに最近よく聞かれる わたしなりの答えを、なんとなく伝えてみる "まずは10年続けてごらん" とある人が言っていた、 と今日会ったダンサーは話していた。 たしかに、来年で活動を始めてから10年になるけど やっと何かのかたちになってきた。 存在や、活動が きれいごとでも格好つけてもいない、好きだけじゃやっていけない、むしろ苦しいことやイラつくこともある、けど続けるって大事、 気付いたらやめていく人たちはたくさん見てきた いつまで踊れるかわからないけど、いまは踊りが楽しくなる一方。 いつか観たい、また観たいと言ってくれてる人たちには、せめて観せたい、観てほしい。 それまでは頑張ってつづけよう 未来に向けて、いい話をできて、嬉しい夜でした。 かほ #ことば #からだ https://www.instagram.com/p/CWNsOY6Jswx/?utm_medium=tumblr
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abekobebody · 4 years ago
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オーケストラとのリハーサルが続いていて、横浜に通う日々だ。 普段ではとてもじゃないけど集まることのないスーパーダンサーズと共に、せっせと闘っている。 アドバイザーで入ってくれているダンサーは母であり、いつもリハーサルにはこの赤子がいる。 会うたびに重たくなる体重、表情の変化、できることが目覚ましくふえていく貴重な過程も、観察している。 女性ダンサーの妊娠と出産の関係。 体をつかうダンサーにとって、かならず直面することである。 ある統計では、世界で最も出産率が低い職業はダンサー、とまで出たほどだ。 わたしの周りでは、結婚や出産の枠を越えて、それぞれに生きている素敵な女性がたくさんいる。 どんな形であれ、ひとりひとりが風を切って見晴らしよく歩いている世界をのぞむ。 今日も作品を産むために、リハーサルに向かう。 かほ https://www.instagram.com/p/CRSh9ZhrPx4/?utm_medium=tumblr
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abekobebody · 4 years ago
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動物と人間を分ける閾のようなものがあるとすれば、それはどこなんだろう。ゴリラとかオランウータンとかチンパンジーとか、そういった知能の高い猿が人間になる瞬間に、自然との調和のような一体性のような関係が崩れて、自然の摂理から隔てられて、いまだ動物とも人間ともつかない動きで世界を手探りするほかなくなる。  猿の鳴き声と人間の声、声が意味を帯びるよりもまえのこと、単なる呼びかけでしかないような音声のこと、舌と口蓋が触れあって弾ける音、dの音、dear、誰かに伝わりますように、誰かのもとに届きますように、大好きなこと、大好きな人、どちらもdの音、dear、ひとが集まる、理性をもつ、そしていつか、動物だったときのことなんて忘れてしまう。 --Dearを観ながら考えていたこと 正月 https://www.instagram.com/p/CPfrO9OrhaY/?utm_medium=tumblr
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abekobebody · 4 years ago
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 手をかえ品をかえ、というよりほかにないような調子で、さまざまなレベルの制限がふりかかる。そこに合理性があるんだかないんだか、根拠があるんだかないんだか、一見してわからないのは、おそらく具体的な数値よりもその数値から惹起されるイメージに左右された施策しかとれていないからで、だからそれは、ほんとうに悪い意味での「政治的判断」だということになる。焚き火をかこんでひと晩じゅう歌ったり、生贄をささげて雨が降るのを祈ったりするのとたいして変わらない、この一連の非合理な儀式を、仮に「政治」と呼んでよいなら、それにうっすら従ったりとか、したたかに抗ったりするのもまた「政治」だということになる。会いたいひとにも会えず家で粛々とネットフリックスを見たりすること、マスクをつけたり外したりしながら食べたりしゃべったり黙ったりすること、このご時世にそこらで酒飲んで駅でゲロを吐いたりすること、ちょっとした諦めの積み重ね、不慣れな一挙手一投足、やけくその放埓、こうしたことすべて、ひとびとのやることなすことすべて、すべてを政治的行為と見ること。 正月 https://www.instagram.com/p/CNvCgBFrysD/?igshid=vaxmioig45i0
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abekobebody · 4 years ago
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 どうせまた、うまくなどいかないのだから、きっぱりとあきらめてしまえばよいのに、またぞろ小説なんてものを書きはじめて、いつ終わるともしれないむやむやの暗がりのなかへ、わざわざ落ちこんでいく。それがきっと、ひとつの小説として実をむすぶのだと、そしてそれがきっと、すばらしいものになるはずなのだと信じて疑わず、こんなのどうにもなるわけない、いったい誰がこんなの読むんだ、云々、とつねにわきあがってくるさまざまな不安を宙吊りにしながら、図々しくも最後まで書ききろうとしている俺はきっと、そうとうなナルシストにちがいないのだと思う。  ことばと格闘する、なんて言えば聞こえはいいのだろうけれど、取っ組みあおうと肩筋をはればはるだけ、こちこちで不器用な文字列がただ並ぶだけになってしまって、だから書いているときに意識するというか、こうなればいいな、とたまに頭に浮かぶことといえば、しなやかなからだのことだった。ひとつの動作がひとつの意味を、みなぎらせるよりも速く、すぐにべつの動きをして、それをくりかえして、しかしその一連の運動には一定の秩序がある、というようなしなやかさ。散文にも詩にもなれない、がらくたのようなことばがたくさん出てくればいい。 正月 https://www.instagram.com/p/CMJxm1zrvgt/?igshid=1oiz0j2xumtyb
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abekobebody · 4 years ago
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今年に入ってから水面下で進んでいた事が少しずつ公になっていく 振付をする機会が増えて、 いつも言葉のことを考える その人にとってどんな言葉をかけたら、体やダンスに響いてくれるかと。 これまで関わった振付家の言葉を思い出す。 愛情と敬意をもって、ことばを投げかければ、からだで示すことができれば そのひとの人生が変わってしまうくらいの、つよいダンスが生まれる 色々な感情を通過した長年の夫婦のような、水と油のような、海と大地のような、磁石のN極とS極のような 夢中になり始めると、よく電車を乗り間違えるので気をつけようと思います。昨日も乗り間違えました。 香帆 #abekobebody #ことば #からだ https://www.instagram.com/p/CMECEzELKLl/?igshid=nb0ufvw9wcn3
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abekobebody · 4 years ago
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 常態化してしまえば感覚も失って、どこで誰が、一日に何人感染した、どれほどのひとが重症で、どこかで誰かが死んだ、そういった、ほんとうはずっと、正面から向きあって、向きあいつづけていなくてはいけないはずの、非常事態であるはずの、いま、というのを、かぎりなくつづく日々の倦怠に供されるだけの、忌まわしい時間のように思ってしまっている。希望もなければ諦念もなく、上昇も下降もない、光のない生活を送る世界に生きているような、薄暗い感覚がつきまとう。そんなことだから、文章をなにか、うまいことひねりだしたりできないのも当然だと嘯きながら、いつかきっとまた、あのころの生活が戻ってくるだろう、と淡く願ったときの、その、いつか、のなかでうずくまっているような気分で。  そういえば去年の春ごろは、いろいろなことが制限されていくだろう、それで失うひともいるだろう、死ぬひともいるだろう、なんて絶望的なことを考える反面、そのなかでできること、というのを、貪欲に探していた。危機が閃いていた。そんなことを言うのは、無責任にもほどがあるのだが。 正月 https://www.instagram.com/p/CKbxqXFL_rH/?igshid=dnzxyuhr5jir
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abekobebody · 5 years ago
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一つづつのことを振り返りたいと思いながらも気がつけば12月になってしまった。 一つ言えることは今日も踊りと生きているということです。 踊りは誰のものでもなく、誰のものでもある。空気のような存在である。 ダンスと出会うことで心や体が開いていく人の姿、ほんの些細な仕草や立ち方でその人の本来の一部が、垣間見える瞬間。 ありとあらゆるときの体がダンスに結びつく。 写真は友人がvisual担当した空間での一枚。 今年はどんな一年でしたか、皆さんは。 私は今のところ、味わい深い一年になってます。 かほ https://www.instagram.com/p/CIcOgion7m_/?igshid=ywo6o40r8eyd
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abekobebody · 5 years ago
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とある映画のオーディションに立ち会う。 受け止める側で立つのは初めてで、 オーディションを受けにくる女優さんはみんな目を輝かせて、ひたむきに挑んでいる。 この人からどんな魅力をダンスを引き出せるだろうと、一言一句、言葉を選んで話す。緊張しているからだ。少しでも自由にチャレンジしてくれていたら、嬉しい オーディションに受かった人も、落ちた人も、みんなとびっきり魅力的だった 受かった人は、当たり前だけれどもすべてを背負い、身軽に作品の中へ飛び込まなくてはならない。 どうかそのサポートを、できたらと思う。 最近始まった集中ワークショップも、さまざまな人が熱心に通って下さる。 ダンサー、俳優、教員、小説家、学生、ダンス未経験の人 あべこべな時代に、からだへの「実感」を求めている人たち。 何かに挑もうとしているからだは美しい。 その瞬間に、最近沢山立ち会っている。 https://www.instagram.com/p/CHNBbBiHcnF/?igshid=5dzy9g8lzj47
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abekobebody · 5 years ago
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 本番を終えてしばらく経ってから、香帆ちゃんと話をしたのだけれど、あそこで生身の当事者として彼女にとっては、いろいろと思うところがあったみたいだった。それが起こっている、当の、場所を、丸腰で手探りする身体と、不在の観客を代理表象する身体と、ふたつのペルソナを同時に担わされているのだから、それも当然のことなのだろう。そういうふうに、想像することこそたやすいが、彼女の身辺に巻き起こっているどうしようもない違和感のようなものを、ほんとうの意味で理解できるかといえば、それは難しい。彼女にとっての「ここ」が、1と0の信号になって「どこか」へ配られていく。それが異様な、つねならざることであるとはわかっていながら、彼女とその苦悩を共有することはできないんだろうと思う。  むしろ、それを共有する資格がない、と言ったほうが正しい。ただしそれは、俺たちは公演をどこかしらで「観/視ていた」だけで、��こで踊っていないから、ということだけではない。それだけではなく、視聴者は「観/視る」ことをつうじて彼女をひとつのイメージのなかへ固着させ、血のかよった「いま、ここ」を石化させてしまう、さながら犯罪的な行為の共犯者であって、そこに避けがたく生まれる欠落に同情しようとしても、恥知らずのマッチポンプのようにしかならないからだ。その構造に加担してしまっている以上、なにを言っても空虚なことば遊びになる。  ライブ配信そのものは、そうやって配られるイメージがもつ暴力性というものを織り込みながら、遠く離れた現在地点をひとつのアウトプットに落とし込んでいたという意味では、成功している。じっさい足を運んでその場で観ていたものが、家に帰ってアーカイヴを見てみると、あれがこんな感じになってるんだ、すげえ、なんて、メディアアートの粋を味わったような気分にもなる。ただし、こうした、心中のひそかな享楽が奪い去っていったところのものこそ、香帆ちゃんの現在なのだと思うと、どうしても後ろ暗い。 正月 https://www.instagram.com/p/CGjlo_rH7zQ/?igshid=6sxw4r8prhiz
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abekobebody · 5 years ago
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やはりライブが好き もっとみんなに生で見てほしかった。120分間に命を注いだ次の日は、しっかりと全身が痛かった。あんなに一人で練習していたのに。練習がなかったかのようにまだまだだ。 思わぬ形でオンラインの電波に無数に広がっていくこと。知らないの人たちのインスタグラムのストーリーズに流れる踊る姿。無防備な体。オフラインとオンラインの、圧倒的な違い。 その場で一緒だったミュージシャンの皆さん、展示しているアーティスト、サポートし続けてくださったスタッフの皆さん、立ち会ってくれたすこしの、関係者のみなさん オンライン上で見ていてくれた人たち。 全ての人たちの言葉が、全身の痛みとひっくり返した心を潤してくれる。 消耗せずに、愛を持って踊り続けること.簡単なようで、なかなか難しい。けど大丈夫と実感している。 長い芸術の歴史のなかの、ほんの一瞬のチリのような存在で よい。 動画は、コムアイちゃんのフロアで���一幕。美しい声だった。 「ここで 見える」というコムちゃんの声で、翌朝目覚めた 香帆 https://www.instagram.com/p/CGUeKG_HQHO/?igshid=guwsda2ms564
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abekobebody · 5 years ago
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 記憶の容量には限りがあって、あらゆることを、憶えておくこともできず、これまで起きたいろいろをどうしようもなく忘れてしまうのは、じつは人間の防衛機構なのだという話を聞いたことがある。いやなことをいつまでも記憶しておけばいずれ頭がパンクしてしまって、それじゃ心がもたないからよかったこともひっくるめてひとは忘れる。忘却は人間の精神にあらかじめ備わった処世術なのだという話。  街からすっかりひとの姿が消えたときのこと。それはもう半年近くまえになるのだけれど、わずか半年で、パラレルワールドのような、白昼夢のような、寂寥感ともつかないただならぬ吐き気のような気分を催させる、あの世界のことを、なんだか遠い昔のことのような、それとももしかしたら、いつかの未来のことのように想ってしまっている。忘れているのか、それとも無意識が忘れさせようとしているのか、およそ遠い昔ではないあの世界の記憶にかっぽり蓋をされているような、息苦しさがある。  忘却が生存戦略であ��とすれば、忘却につづくつぎの一手は、かつての世界を取り戻そうとする戦いになるんだろう。先行きの不安というのは、単にウイルスがどうなるかということのみならず、およそ半年とすこし前の世界というのが、ほんとうに還ってくるのだろうかという不安でもあるのかもしれない。そしておそらく、そうした不安を大きく抱いているひとのほうがむしろ、かつての世界が、けっしてもとのかたちで戻ってくることがないことを、よくわかっているんじゃないか。たとえばお気に入りのコーヒーカップを落として割ってしまったとして、もとどおり修復するにはすごく骨が折れるし、しかも直したところでいたるところにヒビ割れの痕跡が残っている始末なのだから、かつてのそれへの名残惜しさが消えることはないだろう。そうした亀裂を見て見ぬフリするとか、上からなにかで塗りつぶしてやればいいのだと、居直ってしまうのもひとつの手なのかもしれないが、それは修正主義の身振りでしかない。  あべこべなからだ、ということばについて、もういちど考えてみる必要がある。なにかが決定的にずれてしまっている。心のどこかではわかっているのに、からだがそれに抗っているのか、それとも逆なのか。砕け散った世界の破片が、べつのかたちで集まって、べつの秩序を作ろうとしている、そのさなか、世界の流れに寄り添うのか、あるいは遡行を選ぶのか。誰もがこれを、意識せずとも心かからだのどこかで決断していて、でもそれは、意識されていないからこそ、どこまでもずれる。街にひとが戻りつつあって、感染者数がどうとか気にするひとも少なくなって、一見するともとどおりになりつつある世界のなかで、それでも不断に、なにかがずれている。危険地帯にいる。あべこべなからだ。 正月 https://www.instagram.com/p/CFzVRgTHjl5/?igshid=yiidrms2yjcy
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abekobebody · 5 years ago
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1週間前の金曜日、ミュージックステーションにRADWIMPSさん「夏のせい」のダンサーとして出演した。 生放送の緊張感と高揚感で充満しているスタジオ。ソーシャルディスタンスを保ちながらのダンス。 段差やコードがあるスタジオの床、このコードに引っ掛けて転んだら…とよくない妄想を何度も消しながら必死に確認した。 本番中、確かにタモリさんは斜め前から私たちのステージを眺めていて、その姿はまるでお地蔵さんのようだった。子供の頃からこの方を画面上で見続けていたせいか、肉眼で今まさにそこにいるのに、静止画のように、止まって見えた。 もしかしたら本当に、私のからだは昔と今を、非現実と現実をワープして、時が止まっていたのかもしれない。ほんの一瞬だけ。 ヘアメイクやスタイリストの方々に時間をかけて綺麗にしてもらった私たちダンサーは、美しい照明と野田さんの素晴らしい歌声の中を風のように走り踊り去って、 気が付いたら楽屋で沢山のLINEの通知が届くiPhoneを見ていた。 地元の友だちや親族、今は会いに行けない祖母や出産予定日が近い妊婦まで、 家にテレビがないから近くの居酒屋に行った、ビデオ録った、友達の家に集まって見た、と連絡をくれた。 テレビの前でいつ出てくる、どれだろうと、力を込めて見てくれたいろんな場所からの、いろんな人の顔を想像したら、なんだか嬉しくなった。 子供の頃から見ていたテレビの世界に、気づいたら立っていた自分、いろいろな出会いや、ご縁や、続けてきた道のりを思い出した。 普段はテレビをほとんど見ないけれど、清志郎さんやブルーハーツが大好きだけど、やっぱりライブが好きだけど、また一味違う、血の通った電波に、感謝した出来事だった https://www.instagram.com/p/CE_VqlFnFTr/?igshid=bsxizb12r7mg
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abekobebody · 5 years ago
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 ここのところ、ふと、幽霊のことを考えることが増えた。それはべつに、自分の部屋になにかが取り憑いてて気になるとか、心霊スポットの超常現象について熱心に調べているとかではない。そうではなくて、たとえば自分が幽霊だったらどうだろうか、なんて、それはそれで荒唐無稽な妄想を、ときたまくりひろげているという、それだけだ。  たとえば自分が地縛霊になったとしたら。よく晴れた夏の昼下がり、どこか路地の、陽光に白けたアスファルトにはひとの姿もなく、電柱の陰になるところは昨夜の豪雨の名残でいまだに湿っていて、その薄暗いところから、そばを誰かが通らないものかと、じっくりと、それでいて呆けたような顔をして、見張っている。でも、誰かがそこを通りかかったところで、べつに驚かすでもなく、危害を加えるでもなく、茹だるような暑さに参ってしまったような顔をして、ふらふらと通り過ぎ、いずれいなくなってしまう、そのひとのことを、ただ見守っているだけ。どこかの民家の軒先の、いくつかの木々のうちの一本の、枝々の隙間でミンミンだかオーシンツクツクだか鳴いているセミのことを考える。考えていると、そのセミの、わずか七日かそこらの命にふわっと憑依して、でもこれだけ緑がなくなってしまった東京のまんなかあたりでは、そう都合よくメスに出会えることもなくすぐに死んで、死んでどこに行くでもなく、またもとの、電柱の陰に戻っている。  からだを失ってさまよう魂のこと。もし魂だけになったら、好きなところにいつでも飛んでいけるかもしれないけれど、それも、生きていたころと同じようにはいかないんだろう。たとえば過去とか未来とか、時間の経過というのは、意識によって認識されるわけではなくて、むしろからだがちゃんと、実体をもってそこにいた期間のことでしかないのだったら、からだを失ってしまえば、いつが過去でいつが未来かなんて区別がなくなり、ばらばらに切り刻まれた意識だけが永遠の現在地点にずっととどまることになる。浜辺で誰かと手をつないで、遠い水平線をずっと眺めている。マンションの31階のベランダでセミが死んでいる。冷房のよく効いた病室で無数のチューブにつながれていた祖父のこと。かつて起こったのか、いま起こっているのか、それともこれから起こるのかわからない、夏の記憶のどこかに意識ひとつで放り出されて、なにもできない。  それが怨念だろうと残留思念だろうとかまわないけれど、死んでなお失われることのない念や思いのようなものが世界のどこかを飛び交って、ときたま誰かにぶつかって、びっくりされたり怖がられたりするのだけれど、でもそのたび、死んだひとのことを思い出して、誰かが誰かによって思い返されるのだったらそれでいいし、そしてそれはどこか文学に似ている。幽霊を主人公にした小説を書こうと思ったけれど、いろいろ考えてみればみるほど、小説を書くことそれ自体が幽霊的な行為なのかもしれないと、そう気づく。 正月 https://www.instagram.com/p/CE1JL8hnmlR/?igshid=1jvxxhzrrzgn7
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abekobebody · 5 years ago
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今まででいちばん好きな青は、この日の朝。イタリア、パレルモ。  大学を卒業したばかりの私は、ダンサーとしてヨチヨチ歩きの状態で初めての海外へツアーに訪れた。ローマ、シチリアと巡った2週間、バカみたいに暑い夏、異国の陽気な不思議な浮遊感と共に過ごした。街の中に遺跡があるというよりも遺跡の中に街があるような、イタリアの美しい景色を肺一杯に吸い込みながら踊った。帰国する朝4時半ごろ、ホテルから空港へ向かおうと車に乗り込むと、パレルモの街が朝の青に染まっていた。寂しさと安堵の間でデジカメのシャッターをきった。私のなかの、大事な青の数々のうちの、ひとつ。美しい青を、これからも、いや今すぐに眺めにいきたい。  この一ヶ月と少し、すっかり体がフィジカルに向かっていて言葉を綴っておらず、「あべこべなからだ、どうしよっか〜」とたまに会う正月さんに言われながら、間が空いてしまいました。ごめんね。すこし筋肉質になったからだと戻ってきました。  この夏は踊り体と向き合う時間がぐっと増えて、ドキドキする撮影の繰り返しである。 会いたい人たちにあって、食べたい物や観たいものに触れて、あとは地道に、このあべこべな世界で生きている。  空気を吸って吐くからだ、久しぶりに照明を浴びて泣きそうになった体、腹に響く本当の音、音楽、本番で強く握りあった手、あの時のシャッター音、温かい拍手、撮影の待機時間、メイク道具の匂い、機材を背負う背中、美味しいビール、ゆっくりと流れる雲、草と土の香り、車窓の風景、友人の笑顔、優しい手紙、熱風、溢れる汗、サイダーの味、氷の解ける音、美味しいとんかつ、一輪のバラ、久しぶりの映画  この夏は、いつもより愛おしい瞬間が沢山ある気がする。  香帆 https://www.instagram.com/p/CELhrQbn4_w/?igshid=ptvytlefhbjh
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abekobebody · 5 years ago
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 さまざまな分断がある。コロナウイルス、ブラック・ライヴズ・マター、国家安全維持法、都知事選、その他、その他のいろいろなニュースは、世界がいままでどおりに結ばれることなく、人間の心がひとつになることなく、ばらばらに砕けて散らばっていく様子を伝えている。  世界がいままでどおりに。これがたぶん嘘なんだろう。世界が、いままで、分断なく結ばれていたことなんてあったんだろうか。国民国家は幻想の共同体である、なんて偉い学者のことばを想い出すまでもなく、異質なものがひとつのまどかな共同体を形成していたという考えがそもそもファンタジーだったわけで、マンションで隣の部屋に住んでいるやつの名前も顔も知らないようなありさまじゃあ、絆なんてことばは空回りしてしまう。世界を下支えしているのはむしろ、家族、友だち、知らない誰か、これから死ぬまで会うことのないひと、自分の部屋、生まれた町、行きつけの飲み屋、知らない場所、これから死ぬまで行くことのないところ、その他、その他のいろいろなものが幾重にも織り重なった複数性のレイヤーだ。もちろん、世界をそのようにばらばらなものとして理解すれば、制御不能に陥るに決まってる。総力を結集した会戦なら制圧できるかもしれないがゲリラ戦ではそうはいかないのと同じように、世界がひとつであるという確信が持てないまま、複数のものをひとところに統べるのは難しい。  想いを馳せる、というほどではないのだけれど、ときたま、不意に頭をもたげるのは、アメリカという国のことだ。いや、アメリカという国、という言い回しからしてそもそも当を得ていない気がする。合衆国という回路、と言ったほうが、もしかすると、より正確なのかもしれない。最小単位としての人間、各自治体、自治連合としての州、50州つらなって合衆国。ひとが集まってひとつの大国を形成していく過程、のようなものをイメージとして捉えやすいのはnationとstateの違いに由来しているのかもしれないが、それよりも重要なのはuniteという行為のほうじゃないかと思う。ネイティブ・アメリカンを除いたすべてのひとは、もともと生まれた場所から切り離されて、寄るべなく、まったく異質な他者と結託して生きていくよりほかになかったわけで、合衆国憲法や「アメリカのデモクラシー」といった固有の約束を駆動させることで共同体の回路を作り上げてきた。故郷からはるか遠ざかり、ゲマインシャフト的な絆を失ったところでむしろ、理性の力に祈りをこめて形成された共同体。  uniteが少なくともふたつ以上の異質なものを前提していないと成り立たない行為であるという、ものすごくあたりまえの事実が、いまの世界には、救済として機能するんじゃないかと、思う瞬間がある。分断と統一、その相反するふたつの、どちらかを選択するのではなく、そうではなく、それらが重なり合っている状態を平然と受け入れること。部分と全体を同時に生きること。これはある意味でゲシュタルトのそれに近いのかもしれない。ひとは人間の顔をふだんは全体として把握しているけれど、ずっと眺めているとゲシュタルト崩壊を起こして個々のパーツの集合体にしか見えなくなる、のと同じように、人間が寄り集まってひとつの共同体をなしているのと同時に、それぞれの人間がそもそもどうしようもなく異質なものであると認識するのは、ひょっとすると、あまり難しくもないんじゃないか。  スタテンアイランド行のフェリーで撮った自由の女神の写真を眺めながら、そういえば、カフカの小説に出てくる自由の女神はトーチじゃなく剣を持っていたなと想い出して、その意味を改めて考える。差別と暴力に塗り固められて成立した、アメリカという共同体の裏面について。    正月 (Statue of Liberty) https://www.instagram.com/p/CEJz9PlnTxB/?igshid=4u6dn3kgkae0
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