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中国芸術史におけるロマン主義の変遷
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宮岸雄介先生講義録
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artbooktsuru · 6 years ago
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宮岸雄介先生講義録
中国芸術史におけるロマン主義の変遷②
~詩文の成熟と官僚文人たち~
 やがて、南朝は陳の滅亡で終焉をむかえ、北の王朝である隋が中華を統一する。隋はやがて唐に代わるが、隋の煬姓も唐の李姓も親戚関係にある。李世民(りせいみん)の開いた唐は、200年以上つづき中華に安定と繁栄をもたらした。
 唐の時代は、政治の中心は世襲制の貴族たちから科挙に合格した官僚たちに変化していく時代であった。この官僚化の時代は、唐末の乱世で貴族がほぼ無力化したことと、つぎに軍人出身の趙匡胤(ちょうきょいん)の建てた宋が貴族を廃止したことで、決して揺らがないものとなり、つづく北方の異民族の王朝である元、漢民族の農民出身の朱元璋(しゅげんしょう)による明、ふたたび北の異民族の王朝である清の時代にも引き継がれる。官僚制は国家を安定させ、唐、宋、元、明、清の5つの王朝はどれも200年ほど続いた。
 唐の時代は、初唐・盛唐・中唐・晩唐に分かれるが、盛唐の李白、杜甫、王維、中唐の白居易、韓愈、柳宗元が有名である。中唐まではまだ貴族の勢力が強く、官僚たちはしばしば権力闘争でやぶれて不遇な地位になることが少なくなかった。唐では科挙の重要な科目に作詩があり、優れた詩文が多くつくられ、前述の6人をふくめ名前の残っている文人たちはほとんどが科挙に合格した官僚たちであった。そのため、彼らの文学は韓愈や柳宗元を中心に古文復興(ルネサンス)を掲げるなど当時の貴族の駢儷体の文学に対して革新的であった。
 韓愈、白居易は世渡りが下手ではなかったため今でいう国立大学の学長の地位にいつづけられたが、柳宗元はうまくはいかず、当時の南の果ての桂林(こいりん)に左遷された。柳宗元はそこで南の珍しい景色を、昔の謝霊運たちのように山水詩にして詠んだ。 
 柳宗元はおもしろい人であった。当時珍しい合理主義者で、天人(てんにん)分離すなわち自然現象は自然現象と考えていた。儒教では、のちの朱子学の性即理の根拠となったように、天と人間の性は天人相関しており作用しあっていると考えられていた。韓愈らは柳宗元のような危険思想は持っていなかった。
 唐の文化について最後に書についてもふれておく。前述のように、唐をつくった2代太宗は王義之の書を好んだが、その100年後の6代玄宗が楊貴妃を溺愛したことに遠因をおく安史の乱のときの忠臣、顔真卿(がんしんけい)はその剛直な性格と美しい楷書で知られる。今年の春先にも東京国立博物館で大規模な顔真卿の企画展があったように、日本人にも広く親しまれている書家である。ちなみに王義之の書は残っていない。太宗が全国からあつめて自身の墓に入れさせたためとされる。中国では一般的に、書は石碑にほられたものを墨で写し取る拓本(たくほん)か模写が行われている。
 西洋の芸術史と同じく、活字の普及は中国でも文化に大きな影響をあたえた。中国における活字は宋の時代につくられた。宋の時代の活字は明朝体に較べ縦長の宋朝体であり、その書体は中国のワープロには入っているという。活字「宋版(そうはん)」の一部は、日本にも伝わり国宝となっている。明の時代に���活版印刷が盛んになり、ここではじめて大衆文化が盛んになった。
 (つづく)
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artbooktsuru · 6 years ago
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宮岸雄介先生講義録
中国芸術史におけるロマン主義の変遷①
~南朝の文化と山水詩、ロマン主義の萌芽~
中国の芸術史は文学史の要素が濃ゆい。絵画では山岳、樹木、岩石、河川を描いた山水画が有名であるが、山水詩(さんすいし)と呼ばれる山水を愛でる詩と一体になっている部分が多く、現実の風景を模写するのでなく山水詩による型によって解釈された景色を再構成した内容となっている。
 山水画は、4C~5Cごろの南朝の六朝(りくちょう)時代に広まった。六朝とは、呉(三国志の時代、建業を都とした国)からはじまり、晋(西晋から東晋)、南宋(劉宋)、斉、梁、陳の6つの王朝であり、いずれも南京を首都とするも100年も保てずに交代した。黄河文明の直系である漢民族は古来、中原と呼ばれる洛陽か長安(現在の西安。始皇帝の咸陽もその近郊)を都としていたが、BC3Cごろから強大化しつつあった北方の異民族が三国志の時代の直後の西晋の時代に長安・洛陽を制圧し、異民族の王朝を建てたため、漢民族の貴族階級は南京に逃れてそこで王朝(南朝)をつくったのである。異民族の王朝は軍事政権が入り混じれ、五胡十六国として言われることが多い。大部分の漢民族はそれらの異民族の王朝の支配下に組み込まれたが、漢民族の歴史の記録に残ったのは南朝にのがれた貴族たちであった。
 南朝は貴族たちが政治の中心であったため、西洋のバロック時代を連想させる装飾的で華麗な文化が花開いた。北の異民族から逃れてやってきた貴族たちにとって南の地は温暖湿潤で、景色は新鮮で魅力的であった。そのため風景を題材に、山水画や山水詩が盛んにつくられた。
南朝の貴族の家柄として王(ワン)家と謝(シエ)家が有名であり、詩にも「王謝(おうしゃ)の堂前の燕」などと謡われた。山水詩といえば最も引用される、謝霊運(しゃれいうん)も謝家の一族である。彼らの詩は四六駢儷体であり、美しい言葉を定型詩の対句のなかに織り込むことを重視していた。
また、一方の王家には、書家として非常に有名な王義之(おうぎし)がいる。王義之の書は音楽的で流麗であり、唐の太宗が非常に好んだことで知られている。
 この南朝の時代は、文化の成熟を花で例えると最も蕾が膨らんだ時期であった。芸術への批評や文学論もみられ、たとえば、中国古典唯一の文学論である『文心雕龍』(ぶんしんちょうりゅう)、詩人の格付け行った『詩品』、唯一の絵画論である『歴代名画記』が記された。
 そのような南朝のなかで南宋の時代の陶淵明(とうえんめい)は異色であった。彼は田園詩人であり、ほかの同時代の山水詩人とは異なる。自然を愛でる感性は持っていたが、同時に、山水詩のような駢儷文では無視される、人民の生活の実感への共感性をもっていた。陶淵明の詩は、「盧を結んで人境にあり」の『飲酒』などが有名であるが、しみじみした生活感が現在でも広く親しまれている。ちなみに、盧(いおりのこと)を結んでとあるが、山の中��はなく町の中にひっそりとした心境で住むことを選んだため、「市隠(しいん)」という言葉が生まれた。漱石も草枕などで引用している。陶淵明はもと同僚であった劉裕の建てた南宋には加わりたくなかった。官職に五たび就いては辞めている。
 駢儷体や陶淵明の話はあるにせよ、南朝は総じて耽美的であったり人間的な感情に価値をおいたりするロマン派的な傾向があった。この傾向は儒学でも顕著で、南朝の儒学は老荘思想も取り入れているといわれ、北の異民族の王朝のもとで官僚主義的な価値観をもつ漢民族のクラシックな儒教とは異なってしまった。つづく後の時代では文化の面では南朝の影響が強くなるが、そのさらに後の時代には逆に北の漢民族の儒教が正統派として所望されるようになる。
 (つづく)
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