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芸術教育とは何か?
三輪眞弘
作曲家/情報科学芸術大学院大学(IAMAS)教授 Yotsuya Art Studium:Musique Non Stopゼミ、Experiment Show出演、artictoc volume3寄稿、他
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自分自身もまた「芸術教育」と呼ばれるものに関わっている人間として、今回の四谷アート・ステュディウム閉校の知らせは驚きではなかった。「そうか、またひとつこの社会から(希望の)灯が消えるのか」という、ある意味冷めたものだった。……もちろん、それではいけないし、自分がそんな情けないことだからこのような事態を許してしまったのだと悔やんでもいる。 大学という大学が職業訓練学校化し、大学教師までもがサービス産業の労働者としての自覚しか持てなくなった時代に、四谷アート・ステュディウムの存在はこ���日本社会における大きな希望だとぼくは捉えていた。ここに至るまでの経緯や大学側の事情についてぼくは何も知らないが、閉校の通達は近畿大学ならではの無理解や不見識によるものではなく、氷山の一角、すなわち日本社会全体が下した判断だと思う。要するに、この社会から問答無用で「そんなものはいらない」と宣告されたようにぼくは感じているし、それは「おまえはいらない」と自分に対して言われていることと変わらない。
もちろん、だからと言って自分や四谷アート・ステュディウムが大切にしてきた芸術という「価値」が無意味なものになったのだと反省する気もない。なぜなら、ぼくには、昨今の日本社会を支配する風潮が明らかに「知性」を欠いているように見えるからだ。現に日本の「戦前」は今ついに再起動したようにぼくには見える。知性とは人類の(いや、日本の、でもいい)歴史に「戦後」などあったためしはない——つまり「現在」は常に次の戦争の「前」である——ということを理解する力のことだし、3.11でひどい目にあったことを嘆いたり、失ったものを惜しむ代わりに、「それでも、大爆発は起こらずに済んだこと」を冷徹に評価する力のことであると僕は思う。もっと言えば、戦後日本が朝鮮半島のように分断されずに済んだのは日本国民の優秀さのおかげでも統治者たちの英断のおかげでもなく「単なる歴史の偶然」でしかないことを客観的に理解する力のことだろう。そのようなことは歴史や文学についての教養や、科学技術に対する高度な理解とはまったく異なる「知性」の問題であり、端的に、ぼくらひとりひとりが「自分の頭で考える」ことができるかどうかの問題である。教養や理解力はそのような知性という土台あってこそのものではなかったのか。そして「芸術の営み」とは、まさにぼくらが生き延びるためのそのような「知性」と不可分の実践であるに違いない。なぜならこの世界の現れを自分自身の問題として受け止めたときに、初めて人は自己と向き合い、美や倫理と出会わずにはいられなくなるのであり、芸術の実践すなわち「私の作品」が時空を越えて——歴史を越えて——死者たちやまだ生まれぬ子供たちの目の前で測られることになるからである。
「自分の頭で考える」、「自分の責任において決断する」、このあたりまえのことを芸術創造の場において若者たちに丁寧に伝えること、それがぼくにとっての芸術教育であり、四谷アート・ステュディウムはその貴重な場のひとつだった。これを、今の日本社会は「そんなものはいらない」と宣言したということである。 短い間だったが、ぼくが名古屋から通いながら担当した作曲のクラスに、毎週京都から通ってくる学生がいた。彼は音楽構造を数理的生成手法によって理論化した論文で今年博士号を取得し、奨学金を得て研究員として活動を続けるべく4月に渡仏するという。四谷アート・ステュディウムがそのような志を持った若者たちが集い、出会う稀有な場所であったことだけはここに記しておきたい。
2014年1月31日
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我々には四谷Art Studiumが必要である III
松浦寿夫
画家/西欧近代絵画史/東京外国語大学教授 Yotsuya Art Studium:Theory Round Table、マエストロ・グワント審査員、他
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四谷Art Studiumの閉校告知後に受講生たちの途方もない尽力で繰り広げられた存続のための運動の具体的かつ真摯な展開にもかかわらず、近畿大学がいかなる説明も行わず、またその意図すら一切示そうとしない現状を、この年末に我々は改めて確認せざるをえなかった。2014年3月末の閉校へのこの絶対的な固執の背景にどのような意図が隠されているかは、やがて近い将来に明らかになるかもしれないが、いずれにせよ、何度でも繰り返すが我々には四谷Art Studiumが必要である。 この必要性を具体的に提示するために日々多くの時間を割き、その努力を放棄することのない受講生たちに無条件の敬意と連帯を表明すると同時に、今回の四谷閉校の事態に対して、このような事態がひとつのチャンスであるといった恥ずべき意見表明がなされていることに改めて明確な拒否の姿勢を示したいと思う。それがどれほどささやかなものであれ、生産の拠点、自らの生の足場が根底から奪われようとされるなか、やむにやまれずに生の抵抗態を組織しつつある人々に、「それはチャンスだ」と表明しうる発話主体は自らをどこに位置づけているのだろうか。どのような位置からこのようなグロテスクかつ非倫理的な発言をなしえるのだろうか。だから、親愛なる友人たち、このような愚かな発言を一切考慮することなくそれを逆手にとり、このような発話主体がこの発話それ自体によってあらゆるチャンスを喪失しているのに対して、我々にはチャンスしかないことを、つまり勝利しかないことを確信しよう。 なぜならば、我々が必要としている限り、四谷Art Studiumはあらゆる場所に出現しうるからだ。だから、四谷Art Studiumは現在も、そして2014年4月以後も、いわば漂流教室としてあらゆる場所に出現し、それが何者によっても終わらせえないものであることを、また、終わりえないものであることを、端的な事実として明確に示すだろう。この確信とともに、親愛なる友人たちに新年の挨拶を送る。
2013年12月30日
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講師の役割
北川裕二
美術家 Yotsuya Art Studium:Nature of Future――環境・文化耕作ゼミ、岡崎乾二郎ゼミ、他
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私が四谷アート・ステュディウムに講師として招かれたのは2006年。以来、岡﨑乾二郎ゼミ(2006〜2010)、建築農業工作ゼミ(2009〜2010)、Nature of Future─環境・文化耕作ゼミ(2011〜2013)を担当してきました。 ところで、講師に招かれる前の数年間、私は東京近郊の農家に暮らし、平日・日中は農業技術を学び、休日・夜間・悪天候の日はシュルレアリスムの研究に没頭していました。いわばブルトンとキャベツ、アラゴンとニンジン、ツァラとタマネギ、バタイユとジャガイモの作り方を同時に学ぶという日々を送っていました。美術界から離れ、公の場での作家活動を休止し、ほとんど隠遁者みたいな生活を送っていた私を、岡﨑先生が講師として招いてくださったのはむしろこのこと、すなわち農業技術とシュルレアリスム再考の同時的な「活動」に注目してくださっていたからだと思います。 現在から振り返ると、四谷アート・ステュディウムにおける私の役割は、この2つの「活動」に関連した事柄に集約されるものだったと思っています。とりわけ農業技術(野菜の栽培)を通じて培われた「自然」に関���る知識を芸術教育へ応用すること。これは、様々なスキル・表現ジャンル・諸学問を縦横に連結させた四谷アート・スティデュウムの「芸術教育」に適うものだったと思います。 セザンヌであれ、クレーであれ、あるいはジョン・ケージであれ、四谷アート・ステュディウムで取り上げられる作家は、「自然」に対して独自の眼差しを向けたものが多かった。ところが、しばらくして気づいたのですが、学生は作品には関心を示しますが、制作の動機となる対象そのものにはあまり関心を向けない。言い換えれば、自分自身が制作するにあたり、「自然」の何をどのようにピックアップし、作品に落としこむのかという方向へ問題を深める人が少ないと思われました。 芸術教育への応用は、「野菜の栽培」から東日本大震災以後「都市の観察」へと関心領域を大きく転回させ、アプローチの仕方を変えたものの、中心テーマが「自然」であることに変わりはありませんでした。 作品制作において、想像(表現)する自己と表現されるメディア(二次情報)の往復運動を繰り返していると、しだいに記号循環のルーチン化をまねき、生産性についてはともあれ、創造性を低下させてしまいかねない。創造性はそうではなく、いわば常に「実験」の結果予測における不確定性とともにある。デュシャンのいう芸術係数のように「計画していたが実現しなかったもの」と「意図せずに実現したもの」との函数として存在します。ですから、いずれにせよ、第三項(外部性)としての「自然」に関心を向けさせること、言い換えると、自分自身の感覚や知覚システムを通じて得る一次情報に自覚的な眼差しを向けさせなければなりませんでした。 地形と植生、気象と家屋。これらの連関によって形成される「環境」とは何か。「群れ」からなる生態システムをどう捉えるか。ゼミではこれらを観察するために「散策」という方式を採り、繰り返し行いました。散策するにあたっては様々な文献を参照しました。地形学者・貝塚爽平著『東京の自然史』など地形学関連の書物をベースに、地形に沿って歩き、河川を遡り、山に登り、都市に戻って、区画化された狭間を縫い、路地を徘徊し、地下に潜り、埋立地へ向かい、廃棄物の砂漠に立つ。同時に、考現学や路上観察、ベンヤミン=シュルレアリストの「フラヌール」やシチュアシオニストの心理地理学、「デリーヴ」のアイデアなども参照しました。生態システムの全体を捉える散策者という知覚システムが、一方で、心理的・身体的にそうした環境に内在することで、見過ごされる欠片のような出来事・事物たちの宇宙、皮膚の皺のごとく無数に刻まれた都市ディテールの欲望に迫ろうともしていたからです。 ゼミでは、こうした散策から得た膨大な一次情報を基に制作に臨むようアドバイスしてきました。つまり、頭(目)と手だけではなく、“足”が導く知覚世界が、私たちの世界認識をどのように書き換えるのかという問題を提起し、この問題意識をゼミの基礎に置いていたというわけです。 なるほど第三項として“後から”獲得される「自然」という捉え方は、確かに倒錯したものです。しかし、むしろこの自覚をもつことが「都市」の自然状態の測定を可能にする。なぜならば、自然の不可逆性への認識は、人間の性(さが)としてある時間への可逆的な操作(「永遠」への欲求)の亀裂(エントロピー)として齎されるからではないでしょうか。あの震災で、私達が“後から”知った「自然」とは、まさにそのようなものでした。それこそが“Nature of Future”だったわけです。未来の他者、あるいは、土の下に眠る死者の眼差しで“今”を視ることは、とり返しの利かないカタストロフから世界を視ることに繋がっていくのです。
ゼミの詳細について述べる場ではないので、これ以上書きませんが、大学側の一方的な告知によって四谷アート・ステュディウムが閉校することを知らされ、志半ばにも至らぬ途上で足を掬われたようであり、残念でしかたがありません。強い憤りを覚えています。近畿大学は、少なくとも、閉校決定までの経緯を講師・学生・関係者に明確に開示すべきでしょう。それともこの決定の経緯は、当大学の「特定秘密」であるとでもいうつもりなのでしょうか。まったく破廉恥でお粗末な決定を下したものです。
最後に、1932年にトリスタン・ツァラがベルギーの新聞「ジュルナール・デ・ポエット」に送った抗議文を、当大学に対する抗議として、ここに転用しておきます。
抗議
知識人たちが、自分自身の矛盾を解決できずに、その意味を変形し、その能力を弱めようとして、われわれがいつもわれわれの力のうちでもっとも明皙なものを与えてきたところのさまざまな思想を援用しているまさにその時、どうやら人々は、あちらこちらで、私の活動に反して、私にシュルレアリスムの埒外の一つの位置を割り当てようとしているらしい。 (略) 私は詩を、一般化された人間活動の上位あるいは下位に置くことによって、詩を人間活動からへだてようと意図したり、また詩に、参加しないという最も不名誉な種類の商品化された価値のみを付与しようと意図したり(平等化ならびに自称公平無私をいうブルジョア的願望は、あまりによく知られていることだが)するような曖昧な、反革命的な態度を断罪し軽蔑するものである。このような態度こそ、あのボロ新聞「ジュルナール・デ・ポエット」によって最高度に表現された態度なのである。
パリ、1932年12月22日 トリスタン・ツァラ
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教育とは先鋭的なものである
山崎広太
振付家・ダンサー、カンパニーKota Yamazaki Fluid hug-hug主宰/ベニントン大学ゲスト講師 Yotsuya Art Studium: 山崎広太 身体/言語―
06年から、毎年のように四谷Art Studiumで身体/言語ゼミを行わせて頂いてきました。それは自分の人生に於いてもある意味、転機になったと言えます。今までダンスの狭い価値観しか持ち合わせていなかった自分自身が、四谷で教えることによって、他のジャンルのアートとの関係を必然的に考えるようになり、そこから、振付、ダンスへのパースペクティブが瞬く間に広がりました。依然、ダンスがアートとして語られることも少なく、ダンサーの特権を中心に語られている日本の現在では、ダンスアーティスト自体の指向性も限られ、ダンサーが職業的にならざるをえない状況です。ダンスがアートの教育に浸透していない以前に、ダンスにおけるアートの意識が少ないのが日本の現状です。四谷の受講生は、アートの視点からダンスを考えることで、より広いパースペクティブと批評的視点を育んでいきます。これは、日本のダンスの未来において、大変、重要な変革なのです。僕自身も、このことに感化され、アーティスト主導型の新たなダンスアーティストのためのオーガニゼーション、Body Arts Laboratory を設立し、四谷Art Studiumで出会った人々との関係から、ジャンルの横断、ダンスを批評的視点で捉えるウェン•ウェア•フェスティバルを2009年から現在まで継続しています。四谷Art Studiumとの出会いにとても感謝しています。 現在、ニューヨークを拠点に活動していますが、日本とアメリカの教育システムの在り方の違いに愕然とします。日本の某芸術総合大学では、生徒は素晴らしいのに、違うデパートメント同士が全くコネクトしていませんでした。また某美術大学では、授業中なのにも関わらず、勝手に外出したり、携帯で遊んでいる始末。また某大学では、部活の勧誘で、いろいろな真似ダンスが行なわれていて、確かに真似はダンスの基本かもしれませんが、仲間に入れるというアイデンティティで行う行為としてのダンスを目撃し、主体はどこにいこうとしているのだろうと疑問に思いました。アメリカの大学では、このようなことは考えられません。古い体質の日本の教育システムの在り方や意識が、今の日本の残念な現状をつくり出しているのだと考えざるをえません。まず、生徒が、違うジャンルのアート、または政治、経済を含めた他の学部にまたがって学科を自由に選択できることは、特にアートの教育を重視するアメリカの大学では当然のことです。それによって、アート、政治、経済それぞれを学ぶ生徒同士の間にもコミュケーションが生まれ、大学卒業後もそこからネットワークが生まれ有機的に循環していくわけです。生徒にとって大学は人生を選択する場所であり充電期間でもあるわけですが、異なる視点を持ち合わせる事は、より革新的な選択と創造的 な意志を生み出していくのです。 四谷Art Studiumの受講生は、日本の通俗的な既成教育とは違う現場におり、広い視野と包括して見通す力、社会と順応しながらより前進的な選択をする能力、と何より真摯に学ぶ意思を持っています。そして多くのフィードバックを通して、講師や他の受講生とのコミュニケーションを見いだしています。文献を学ぶことも教育のひとつですが、教育とは本来、先鋭的なことであり、講師がその場を考え設定し、その中で生徒が主体的にパフォーマンスを行うことで一緒に新たなものに向けて作り出していくものです。これが教育の基本であると思っています。四谷Art Studiumの受講生が持ち合わせる意思と能力こそが、日本の未来を潤していくことに繋がっていくのです。このような、四谷Art Studiumが閉校されることは、悲しいニュースであるとともに、一体何故なのでしょうか?
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四谷でやっていた稽古の重要性
三脇康生
精神科医/美術批評 Yotsuya Art Studium:公開セッション 生命という策略
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東京国立近代美術館講堂で行った「生命という策略」(2009)というシンポジュウムで四谷アート・ステュディウムと出会った。その機会に、四谷で持続されている努力の継続に少し参画させていただいた気がしている。頭を使ったなという記憶というより身体的な変化感が残っている。私も四谷で微妙な変化をもらったのだろう。丁度、今年、野球の広島カープの前田智徳外野手が引退して、その天才ぶりが思い出されている。ここで言いたいのは、四谷が天才生産校であるということでない。前田は、試合よりも重要なのは「あたりまえにちゃんと毎日」練習することと若手に伝えていたことだ。しかし、天才:前田の場合は練習と言っても試合を想定しての「せこい��備」というより、稽古と呼び得る技と気の充実を会得するための鍛錬する機会であっただろう。四谷にそれを適応すれば、身体に主力を置きながらも、知識を無視することではない。知識を、既視感を、制度をむしろまざまざと確認しながら、それらが前提としている身体(メルロ=ポンティの「肉」もここから考え直せるだろう)を鍛錬し、身体と知識の関係を微妙に変革してしまう、唯物論的な場所であったのだ。このことをあのシンポジュウムで感じ、考え、また、精神科医でもある私にむけて、そんな精神医学があるのかと岡﨑乾二郎さんから質問を受けた記憶がある。芸術も全く同じだろうと私は考えつつお答えしたはずである。つまり、どこででも四谷とおなじような、稽古の場所が必要なのである。四谷を失っても、ある人の周りにはそのような場が、雰囲気が醸成される。その一例を、岡﨑さんは四谷で実現した。我々はその可能性をどこにでも探さなければならないし、他に何の仕事があるというのだろうか。生命の策略とは、そのような動きをおこし、既にある動きに参画し、あるいは既に存在している動きを疎外するものを取り除くことなのだから。我々はそれをして生きているのであるから。
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我々には四谷Art Studiumが必要である II
松浦寿夫
画家/西欧近代絵画史/東京外国語大学教授 Yotsuya Art Studium:Theory Round Table、マエストロ・グワント審査員、他
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本年11月12日の日付の近畿大学国際人文科学研究所所長名義で、「コミュニティカレッジ閉講について」と題された文書が、講座担当者である筆者のもとにも11月19日に届いた。この10行足らずの文書(*)のなかで、四谷Art Studiumの閉校の理由を示す部分は、「現在の研究所運営の見直しを図る必要があり2014年3月末日を持ちましてコミュニティカレッジを閉講する運びとなりました」の2行に過ぎない。しかも、ここで提示された意味不明の理由は、受講生に送付された同一名義人によるお知らせの「東京事務所移転に伴う閉講」という理由とは明らかに異なっている。また、詳細に検討するまでもなく、まだ行われたわけではない「見直し」が直ちに閉講する理由になりえる説明もなければ、東京事務所が移転するのであれば、なぜ四谷Art Studiumも移転されないのかの説明もない。いずれにせよ、近畿大学が明瞭に閉校の理由を開示する意図をまったく持ち合わせておらず、適当な理由を場当たり的にあげておけば事足りると高を括っているにすぎないことは明白だろう。開校後十年近くに渡って繰り広げられてきた無数の実験の成果の価値を正当に見積もることさえできぬ愚かさは、教育機関としての近畿大学��倫理的破産とともに確実に多くの人々に疑いようのない事実として共有されるだろう。
何度でも繰り返す、我々には四谷Art Studium が必要であると。そして、我々にとってこの必要性があまりにも自明であったがゆえに、この必要性が十分に理解され、共有されえないという事態が起こりうることに対して盲目的であったことを反省的に想起し、この必要性を厳密に歴史的かつ理論的な次元で論証すると同時に、あらゆる場所に、インフラ生産の回路としての四谷Art Studiumを出現させなければならない。また、この必要性を阻害する因子のひとつひとつを検証し、新たな連結作用の編成によってこれらの因子を解消させる実験を継続しなければならない。
我々には四谷Art Studiumが必要である。だから、親愛なる友人たち、君の食卓に、君の部屋に、君のアトリエに、君の教室に、君の職場に、君の交通機関に、君の移動のひとつひとつの経路に四谷Art Studiumと交差するいくつもの線分を形成しようではないか。親愛なる美術大学の同僚たち、四谷Art Studiumに生起した出来事は我々にとって対岸の出来事ではないはずだ。我々の思考と実践の現場がいつなんどきにも、たちどころに封鎖される危機が今ここに厳然と存在する以上、我々はあらゆる場所に思考と制作の生産工場を築いていかなければならないはずだ。そして、四谷Art Studiumを失うことは我々ひとりひとりが自らの生産拠点を喪失することと同義であるはずだ。
だから、親愛なる友人たち、我々にとっての真の課題は、教育機関としての近畿大学の倫理的な破産を告発することにとどまることではないはずだ。たとえ、この倫理的破産がいかに恥ずべきものであり、あらゆる侮蔑の対象でしかありえないとしても。また、近畿大学に対して単なる情状ではなく、ここで展開された日々の跳躍の連鎖的な継続をさらに続行することを正当な権利として要求すべきではないだろうか。なぜならば四谷Art Studiumはそれがどのようなものであれ情状によって継続されたわけではなく、多種多様な人々との、多種多様な事物との連結によって、またその毅然とした作用力によって自らを抵抗態として顕示し続けているからだ。それゆえ、我々にとっての真の課題は、いままでどおり毅然と、あらゆる場所に四谷Art Studiumを出現させること以外の何ものでもないはずだ。無数の異質な思考が連結するたびごとに変形される体制、いかに語義矛盾にみえかねないとしても、不断の可変性と可塑性に開放されたインフラストラクチャーを、いつでも、いたるところに、構築していくことであるはずだ。ヴィトゲンシュタインの命題をドイツ語に即した逐語訳に引き戻して、「世界は我々に降りかかってくるもののすべてである」とすれば、我々に降りかかるこの無数の原子の小さな偏向が織り成す遭遇の回路を際限なく構築し、切断し、再構築していくべきではないだろうか。
2013年12月10日
*以下の画像が講座担当者に送付された閉講通知。

受講生に送付された閉講通知は以下で見ることができる。 http://artstudium2014.blogspot.jp/2013/11/yotsuya-art-studium.html 参考:「学生宛・講師宛 二種通知について」 http://artstudium2014.blogspot.jp/2013/12/blog-post_5099.html
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岡田温司
西洋美術史/京都大学大学院教授 Yotsuya Art Studium:芸術・建築理論ゼミ、Theory Round Table、他
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世の中ますますせち辛くなっていく。人口減少を視野に脱成長化がささやかれる一方で、それにもかかわらず、経済原理優先の論理がなおもいたるところで幅を利かせつづけている。有益で功利的とはみなされないもの、即効性のないもの、利便性や生産性の低いもの、競争に弱いもの、マスコミやメディアに乗らないもの等々、それらは要するに無用の長物の烙印を押されて、社会からどんどん切り捨てられていく。安倍政権下でその傾向はさらに加速しているように思われる。アートもそのターゲットのひとつ。小学校で美術や図画工作の授業が大幅に削減されているのは、その意味で象徴的だ。全国各地の美術館では、学芸員の数が年々減らされ、現員の負担がますます重くなっている。世の中の風潮全体が、ファストフード化しているようにもみえる。 そんななか、四谷アート・ステュディウム閉校の知らせが、突然、有無をいわせぬ既成の事実として、事務的なA4の紙切れ一枚で大学当局から送られてきた。まさに青天の霹靂だったが、同時に、ついにここにも波が押し寄せてきたか、という思いがあった。しかも、ちょうどそれと好対照にも、まるで入れ替わるかのようにして、大学自慢の養殖マグロが銀座に進出、というニュースが飛び込んできた。もちろん、飽食嗜好を他人のせいにすることはできないのだが、まさしく将来の縮図を見るかのよう��。 開校当時から毎年一回か二回、京都から出講するのを楽しみにしていた者としては、残念な思いと、一方的な通告に納得のいかない気持ちとが入り混じった複雑な心境だ。一介の非常勤講師に過ぎないわたしのような者でさえそうなのだから、専任のスタッフや、開校から運営に積極的にかかわってこられた方たちの心情は、察して余りがある。 忘れがたい学生たちとの出会いも貴重な体験だった。拙著のなかに自分の制作理念と同じものを読みとってくれた若い画家。毎回必ず鋭いところを突いてくる文筆家の卵。自作の詩を自作の装丁で可憐な本にして献呈してくれた、わたしよりずっと年長のご婦人。彼女はいつも最前列の席で、つたない話に熱心に耳を傾けてくれた。関心もジャンルもさまざまだが、つねに目を輝かせた先取の精神旺盛な学生を前に、本務校ではありえないようなスリリングな緊張感を味あわせてもらった。遺憾ながら、彼らの期待を裏切ってしまったことも少なくなかっただろう。 四谷アート・ステュディウムは、わたし自身が狭い殻を破り、異質なものへと目を開く機会を提供してくれる、他では得がたい場でもある。そこは、理論と実践、感性と知性がたがいを鍛え合う、世界にも類の少ない稀有なアートの実験場である。それが一方的な最後通牒で解消されてしまうのは、長い目で見るとき、芸術文化の将来にとって大きな損失であり、あまりにも残念でならない。
2013年12月5日
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四谷Art Studium閉校に寄せて
斎藤環
精神科医/筑波大学教授 Yotsuya Art Studium:ことばのPicture Books講座、岡﨑乾二郎対談シリーズ
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四谷Art Studium閉校の報せを、私は強い衝撃とともに受け取った。 かつてこの場所で一度だけ講義を担当した際の経験は、いまなお鮮明な印象とともに記憶にとどまっている。いかなる制度や権威とも無縁な「自由」の空気がそこにはあった。通俗的な教養主義とは一線を画した、真摯な学びのための場所として、そこは文字通り万人に開かれていた。 その場所が今、失われようとしている。 意志決定の主体も説得的な理由も明かされず、社会的責任を全うするための猶予期間すら与えられないまま閉校が強行されるとすれば、これを「文化的暴挙」ないし「歴史的愚挙」以外の言葉で形容するすべを私は知らない。
四谷Art Studiumの卓越した理念は、たとえばそのコラボレーションが産み落としたたぐいまれな達成の一つである『芸術の設計』(フィルムアート社)にその一端が垣間見える。 本書は、建築、音楽、ダンス、絵画といった芸術表現の諸形式を、技術の側から見直すという壮大な試みだった。パソコンのアプリケーションを媒介として形式の違いを記述しようという卓抜な着想のもと、私たちは表現が本質的にはらんでいるさまざまな「分裂」のありかにおいて、その形式的違いを知ることとなった。 技術を学ぶこと。それは主体の同一性の解体と再構成にほかならない。 そこで主体が直面するのは、技術ではなく、主体そのものの交換可能性、媒介可能性、翻訳可能性のほうである。そう、主体の同一性を担保するのは、地位や業績といった外的指標などではない。むしろ主体の同一性=リアリティとは、そうした交換や媒介の瞬間にこそ垣間見えるものなのだ。 このような意味での「経験」の解体と再構成こそが「教育」であり「学習」であるとするならば、四谷Art Studiumこそは、まさしく教育のための「経験の条件」を惜しみなく与えてくれる希有な場所だった。
今かろうじて私に可能なことは、及ばずながら四谷Art Studiumの担ってきた高い意義と価値をここに記すことで、この喪失感情と静かな怒りとを広く深く共有し、次世代に少しでもその経験の継承がなされていくことを願うことのみである。
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四谷Art Studiumには何があるのか
田中正之
武蔵野美術大学造形学部教授 Yotsuya Art Studium:Theory Round Table
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何よりもまず忘れてはならないことは、四谷Art Studiumに学ぼうとする人々が、芸大や美大の卒業生であり修了生であり在学生であったということである。従来の教育機関が避けがたく巻き込まれている受験制度の枠外に四谷は位置している。そして、卒業生や修了生のなかには既に社会人として確かなキャリアを積んだものも少なくない。であれば、彼ら彼女らが単に学修期間を延長したいがために四谷に集っていたのではないことは明白で、既���の美大では得られない何かが四谷にこそあったからだと、とりあえずはあまりに当然といえば当然のことを指摘しておきたい。では、四谷Art Studiumには何があったのか。それをひとまず、いささか抽象的に、現在の大学等の教育機関の制度的枠組の外部へと逸脱する過剰性だと呼んでおこう。その過剰さについて、いくばくか記しておきたい。
たとえば美大のような組織で、そもそも美術家なるものを教育し、育てることができるのか、と疑問を呈する人は少なくない。美術家は「なる」ものなのであり、育てたりするものではないのだという人もいる。ある技術を習得させて資格を取らせる職能訓練的な教育が美術学校での教育ではないことは誰しもがわかっており、美大で教育を受ければ、美術家としてやっていけるノウハウのごときものが身に着くわけでも当然ない。そもそも作品は技術論的にのみ成り立っているものでもなければ、そう学ばれうるものでもない。間違っても、美大の教育は免状のごとき学位中心主義的ではないはずなのだが、美大においても博士号の学位の授与が日常化し、各大学で既にコンスタントに学位取得者がでている現状のなかで、しかしいったい彼ら彼女らは何になるために学位を取得しているのだろう。それがいったい何になれることを保証してくれるような学位なのかといえば、無論、それはひとつの学修上の目標にはなりえても、何も保証してくれるわけでは全然ない。だからといって、そもそも美術家になろうとするものたちのための学びの場を作ること自体が不可能だということもないはずである。
あえて断言しておけば、賢くなければ美術家にはなれない。そしてここで言いたいのは、言うまでもなく点数や学位では決して測れないものである。何よりも考える力を鍛えなければならない。感性と知性とを有機的に協働させうる力を身につけなけなければならない。それを教育の現場で具現していたのが四谷Art Studiumではなかったか。
数十年前、かつて学生だった頃に、敬愛するある人物が、権力関係の問題が決して解決しえないであろう制度として病院と学校とを挙げられるのを聞いた。医者と患者との、教員と生徒・学生との権力関係のことだ。その問題多き(しかし避けがたくもある)権力関係が、きりきりとした緊張のなかで解体の可能性をはらむかのような亀裂をさらしつつ、既存の枠組みから逸脱しうる教育の場が四谷Art Studiumには存在しえていたように思う。微力ながらその教育の一旦に携わらせていただいた者として、それが最も実感しえたことのひとつでもある。単に美術という分野にとどまらない教育の新たな可能性を胚胎させたこの大いなる過剰の場を、むざむざと終わらせてしまってよいものか。
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芸術教育の「生産」── Bauhaus / Yotsuya Art Studium
田中純
思想史・イメージ分析/東京大学大学院総合文化研究科教授 Yotsuya Art Studium:芸術・建築理論ゼミ、Theory Round Table、他
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周知のように、バウハウスは財政問題や政治的な軋轢によって、ヴァイマールからデッサウへ、そして、ベルリンへと移転を余儀なくされている。そこに反映しているのは、1920年代およびその前後のドイツにおける、左右の政治的対立が激化し、やがてナチが政権を握るにいたる緊迫した政治状況だった。だが、バウハウスはこうした外的圧力によってのみ変容を迫られたわけではない。前衛芸術諸派の坩堝と化していたバウハウスは、さまざまな芸術上の主義が対抗して競い合う、芸術教育の闘技場でもあった。教員(マイスター)たちは今までにない芸術教育の理念と方法をあらたに創造することを強いられたのである。わずか14年ほどの存続期間にもかかわらず、表現主義的な作風の強い初期の数年間から、芸術と技術のあらたな統一を謳った、構成主義主導の中期を経て、二代目校長の共産主義者ハンネス・マイヤーによる、「機能×経済」という公式にすべてを還元してしまう徹底した機能主義の時代にいたるまで、バウハウスが目まぐるしく変化し続けた理由はそこにある。マイスターたちのみならず、学生たちの出自の多様性もまた、その異種混淆性を強めていた。 バウハウスの爆発的な創造力は、強力な庇護者によって現実の政治や経済から守られたところに生まれたものではなかった。それはむしろ、優れたバランス感覚を備えたタフな調停者としての初代校長ヴァルター・グロピウスによる巧みな運営や、彼のいかにもリベラルな芸術イデオロギーを辛辣に批判したマイヤー──しかし、彼を校長に抜擢したのもグロピウスだった──の理論的・政治的ラジカリズムという、一見したところ対極的ながら、いずれも尖鋭に研ぎ澄まされた政治的感覚の持ち主たちによる、内的・外的な「芸術政治」の実践によってこそ、活力を与えられていたのである。その意味では、移転を強制した政治的な圧力すらもまた、バウハウスという教育組織を鍛えたものだったと言えるだろう。 翻って、2013年の日本ではどうか。11月21日以降、「近畿大学国際人文科学研究所」──責任者の名前はない──から受講会員に届いた「『東京コミュニティカレッジ(Yotsuya Art Studium)』閉講について(お知らせ)」という(「閉校」ではなく)「閉講」通知には、「『東京コミュニティカレッジ(Yotsuya Art Studium)』は、東京事務所移転に伴い来る2014年3月末日を持ちまして閉講する運びとなりました」という理由説明しかない。* 年度途中でのあまりにも急な「閉講」決定の経緯については、このほかのわずかな情報を参照しても、十分明らかではなく、責任者名のない「近畿大学国際人文科学研究所」が、教育組織の運営主体としてはあまりに一方的で無責任な決定を、受講会員たちに押しつけているという印象は否めない。 こうした決定の背後に存在するのは、運営組織の財政事情や経済的効率なのであろう。もしそうだとすれば、こうした事態は、日本の高等教育や研究の現場を覆っている、公的資金の重点配分や効率的な投入ばかりが喧伝される状況にも通じるものである。これらの財政的理由は組織体にとって��あまりに自明で自然だから、詳しい説明など不要だとでも言うかのように、「閉講」という重要な措置さえ、「運びとなりました」というひと言で済まされてしまうのだ。しかし、言うまでもなく、どのような決定が最終的に下されるのであれ、教育組織の意義や成果を評価すること、その評価基準を明確にしたうえで、「閉講」か否かという、決定についての説明責任を果たすことがまず不可欠だろう。 Yotsuya Art Studiumがこれまでに挙げてきた成果やその存在意義については、現場を長く経験した方々によるさまざまな声がすでにあるため、ここでは触れない。ただ、そのとき、必ずしも近畿大学を運営母体とした存続だけが求められなくてもよいとわたしは思う(もちろん、そのような現状の形態による存続がさし当たっての目標である点に異議はない)。いずれにせよ、そうした声が示しているYotsuya Art Studiumの実績に対して、近畿大学国際人文科学研究所は、少なくともそれらをどのように受け止めて評価し、そのうえでなお、なぜあえて「閉講」するのかを明らかにすべきだろう。今後、そうした説明が公になされないまま、「閉講」という結果に終わったとしても、稀有な芸術教育機関であるこのYotsuya Art Studiumの歴史をやがて歴史家たちが綴るとき、運営母体の今回の選択はそれこそ客観的に「評価」されることになるに違いない。わたしが今から思い浮かべているのは、歴史が下すであろう、そんな冷たい審判である。 Yotsuya Art Studiumのカリキュラムは、「社会に実際に通用しうる質を備えた生産」が可能となるように組み立てられているという(それはバウハウスとも共通する理念だ)。だとしたら、Yotsuyaに限定されない、「現在の社会に通用しうる質」を有した複数の、無数のArt Studiumこそが、「生産」されなければならないのではないだろうか。「閉講」を強制しようとする圧力すらもまた、Art Studiumという教育形態を鍛える契機としうるのではないか。その局面では、「運びとなりました」などという文言が孕んでいるイデオロギー──あまりに「自明で自然」な意識──に対する「芸術政治」の「アルス(ars)」──生成する「自然」に対峙する「技術」──による抵抗と批判こそが実践されなければならないように思われる。そして、そこに生まれる無数のArt Studiumが競い合うような闘技場こそを、芸術教育のユートピア的な共同体として思い描くのである。
2013年12月1日
*ウェブサイト「四谷アート・ステュディウム存続へ向けて」における転載文書より。 http://artstudium2014.blogspot.com/2013/11/yotsuya-art-studium.html
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四谷アート・ステュディウム閉鎖案に関する意見書
林道郎
美術批評/上智大学国際教養学部教授 Yotsuya Art Studium:Theory Round Table、マエストロ・グワント審査員、他
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私は美術史と美術批評を主な研究領域として活動を続けている者ですが、2006年以来、貴校の東京サテライト拠点である東京コミュニティカレッジ四谷アート・ステュディウム(以下AS)の活動に様々な形で関わって来ました。Theory Round Tableというリレー講義の一講師、マエストロ・グワント賞の審査員、あるいはシンポジウムへのゲスト参加など、微力ながらその活動の一端を担い、同時に聴衆としても様々なイベントに通い、多くを学んできました。私は、各美大をはじめ、その他の美術関係の高等教育機関とも頻繁に関わりを持ってきましたが、ASほど持続的かつ深い関係を持ってきた機関を見出すことは困難です。 そのような関係を続けてきた理由は明快です。ASという場所が、私が知るそれら他のどの機関よりも実験的かつ刺激的な思考と実践の場であり続けたからです。これは私の個人的認識にとどまらず、現在の日本で多少なりとも美術やそれを包合する先鋭的な文化の思考と技術について考え続けている者には広く共有されているものと想像します。閉鎖のニュースが流れて以来ツィッターやフェイス・ブックなどのソーシャル・メディアをはじめ、ウェブを中心に多くの人が声を上げている現状にそのことは顕著に示されています。その中には、まだ一度もASを訪れたことのない人たちの声もが散見されます。つまりASはそこを経験した者だけではなく、それ以外の多くの人たちにとっても、「いつか機会があれば一度は行ってみたい」と思わせる象徴的な重力をもった場所であったということです。このことは、私自身の美術関係者たちからの直接の見聞に照らし合わせても言明できます。 さて、私自身は、そのAS閉鎖のニュースをつい数週間前にディレクターの岡崎乾二郎氏からの通達で知りました(ちなみに、11月30日現在、貴校から私のもとには、未だ正式な閉鎖の通知は届いておりません)。彼の説明によれば、閉校の決定は近畿大学本部から10月12日に通告され、しかも2014年3月末の予定だということです。もしもそれが事実ならば、少なからぬ関わりを持ち続けてきた身として、そのような決定がなされたこと、またその背景にどのような事情があるのかについて、深い疑問と違和感を持つことを禁じ得ません。貴校には独自の内部的な事情もあると察しますが、その如何に関わらず、ASのような社会的に広く認知され、高い評価を得、一定の地歩を築き、活動を継続してきた機関を僅か半年の通告期間で廃校にするというのは、大学の果たすべき社会的な役割を鑑みればあまりにも突然の責任放棄であり、暴挙の譏りを受けても仕方のないことだと考えます。ここには、少なくとも三つの問題が同居しています。一つは、「閉鎖」そのものについて。二つ目は、「閉鎖の方法・時期」について。そして、三つ目は二つ目と連動しますが、現在ASで学んでいる学生や働いている職員、講師たちに対してどのような善後策を提示するのか、という問題です。私自身は、閉鎖そのものに反対であり、それが回避されることを希望しているのですが、もしもそれが回避不可能であるとしても、二、三が大きな問題として残ると考えます。以下、もう少し詳しく、箇条書きにて、私の所感を述べさせていただきます。
1)四谷ASという場所について
ASは、美術の世界のみならずおよそ文化的な活動に関心のある人々の間で、他に類を見ない実験と実践の場として広く知られ、評価されてもいました。受講生の数はたしかにそれほど多くはない、小規模の研究機関かもしれませんが、ASには継続的に運営されているクラス群に加え、展示やシンポジウムなど、定期的に開催される多彩なイベントがあり、それらの活動を多角的かつ効果的に運営してきた機関です。その中心に、驚くべき多才を誇る岡崎ディレクターがいて、彼が触媒となることでそういった多角的な活動が継続されてきたことは間違いありませんが、そこに集まり議論を交わしたのは多様かつ独自の思想を持つ人々でした。浅田彰(批評家)、磯崎新(建築家)、宇佐美圭司(美術家)、岡田温司(美術史家)、柄谷行人(初代所長、哲学者)、ビリー・クルーヴァー(エンジニア・芸術思想)、絓秀実(批評家)、高橋悠治(音楽家)、田中純(文化史家)、谷川俊太郎(詩人)、スティーブ・パクストン(舞踊家)、羽仁進(映画監督)、針生一郎(評論家)、藤富保男(詩人)、藤森照信(建築家)、トリシャ・ブラウン(舞踊家)、松浦寿夫(美術家)、宮本隆司(写真家)、森大志郎(デザイナー)、山崎広太(舞踊家)など(50音順)、このようになんらかの形でASのイベントに関わった名を連ねただけでも(ちなみにこのリストはほんの一部にすぎません)、そこがいかに領域横断的で刺激に満ちた特異な場所だったかが理解できると思いますし、このAS擁護の訴えが、単なる内輪の応援演説ではなく、十分客観的な検証に耐えるものであることを証しているとも思います。 また、ASで学び、一線で活躍している卒業生たちにも注目する必要があります。ASウェブサイトにはArtist Fileという頁があり、現在活躍中のAS出身の作家たちがリストアップされています。当然知名度にはばらつきがあるものの、その多くは、注目すべき才能として現代美術の世界で認知されています。AS規模の機関から短期間でこれだけの作家が育っていることは驚嘆すべきことであり、私自身のアメリカや日本における美術系教育機関での経験に照らしても、これほど才能の人口密度が高い場所は稀だと断言できます。さらに、ASの環境を一時的に経験し通過していった作家を加えると、そのリストは膨大に広がります。美術の教育機関として注目を浴びてきたことは、『美術手帖』の2008年8月号の特集に大きく取りあげられたことにも明らかですが、事実、ASという環境が世界的に見ても得難いものであり、それは、現在巷間でとりざたされることの多��、グローバル化、学際化といった新しい教育のあり方をめぐる問いに、表層的な形ではない、具体的かつ実践的な回答を示し得た希有な場だったことも断言できます。「学校」という場をどう捉えるかという原理的な問いについてASが示し得た一つのビジョンは、たとえこのまま閉鎖に至ったとしても、語り継がれる質を持っています。 近畿大学がこのような機関を通告後半年で閉鎖するという判断の背景に何があったのか、私には想像もつきませんが、ASという場の歴史的価値について、いささか軽視をされているのではないか、そのことだけは申し上げておきたいと思います。多くの人にとって、ASという場所はかけがえのない「広場」のようなものであって、そこでジャンルや国境を越えたネットワークがつくられ、絶えず組み替えられる貴重な交流の場なのです。その点を改めて認識していただきたいと切に願います。
2)閉鎖時期と方法について
上に記しましたように、通告後半年の2014年3月に閉鎖というのは、近畿大学のような伝統と信頼のある高等教育機関の決定として、理解しがたい面があります。各学部に学生がいるように、ASにも多くの受講生が現在も通っています。彼らの多くは、社会人であり、少ない時間と費用をやりくりしてASに通い続けています。中には、強い目的意識をもって、時間をかけて特定の知識やスキルを身につけようと計画的に受講している者もいます。こういった学生たちに対して、大学としてどのように責任を果たすつもりなのか。そこをお聞きしたいと思います。 通常、たとえば大学で一つの学部や研究科が閉鎖ということになった場合、在校生が卒業するまではそのカリキュラムを残し、可能な限り在学生に不利益が生じないための措置を講じるはずです。ASは学部ではなく学位を発行しているわけでもないので、そういったケースとの単純比較は成り立たないかもしれませんが、在校生に対する責任という意味では、同じ問題があるのではないでしょうか。少なくとも、次年度のカリキュラムに関しては、すでにある程度公表され、ゼミを通して受講生たちにも知らされていた以上、それを継続して受講する権利があるとは言えないでしょうか?あるいは、彼らの生活上の次ステップを準備するためにも、少なく見積もっても一年以上の猶予期間があるべきではないでしょうか?その点についての大学側の考え方についても伺いたいところです。
3)閉鎖以降の措置について
2)の問題と関連しますが、閉鎖がもし現実のものとなるならば、そのことにともなう悪影響を最小限のものとするために、近畿大学は必要な対応策を講じるべきだと考えますが、その具体策をぜひ伺いたいと思います。大きく言って、少なくとも二つのことが考えられなければなりません。一つは、突然学習機会を奪われた学生たちに、どのような代替策を講じるのかということ。二つ目は、突然職場を奪われることになる職員や非常勤講師たちに対してどのように対応するのかということです。 大学側の内部事情がどうあれ、これらの問題に対してなんの対応もしないというのは、公共的な教育機関としてはいささか無責任だと思われます。すでに対策が考慮されていることを望みますが、最善の策を練るためには当事者たちとの話し合いが不可欠だ���考えます。が、それが為された形跡は無く、大きな不安が広がっています。ASそのものは閉鎖されたとしても、規模を縮小していくつかのゼミは継続的に受講可能にするというのも一計でしょうし、職員に関しては、配置換えや退職金などなんらかの保証をするなど、様々な工夫があり得ると思います。これらは部外者の単なる思いつきに過ぎませんし、どういった対応が関係者諸氏にとって最善なのかの判断は難しい面もあるでしょうが、少しでもこの突然の閉鎖劇による「被害」が抑えられるように大学として適切な措置を講じられるよう強く要望いたします。
以上、甚だ簡略ではありますが、今回の四谷アート・ステュディウム閉鎖のニュースに触れて思うところを記しました。一非常勤講師の立場ですが、同じような疑問を抱えている方は少なからずいると想像できますし、このような問い合わせや抗議の声は、私以外からも届いていることと思います。大学としての誠意ある対応を期待いたします。なお、ことの公共性に鑑み、本意見書をウェブ上に開示することを考えておりますので、あらかじめお知らせしておきます。
2013年11月30日
*本文章は、近畿大学へ直接送付した意見書の転載である。
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芸術の経営
中谷礼仁
歴史工学家/早稲田大学理工学術院建築学科教授 Yotsuya Art Studium:中谷礼仁ゼミ、建築工作ゼミ、Theory Round Table、他
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芸術行為とは現在にあらわれた未来の実験です。その教育を、実業的な社会的システムとしてオペレートすることには、根本的な矛盾があり、つねに困難をともないます。 近畿大学から、最近、封書が届き、来年からの閉校とこれまでの感謝の気持ちを簡潔に記した文章が、A4のコピー用紙に印刷され一枚おりたたまれて入っていました。まあ、経営主体としての近畿大学としては、当方の位置づけはこのくらいであったのだろうと感じました。それはそれでいいとおもいます。
私は四谷アートステュディウム、ひいてはその母体である近畿大学国際人文科学研究所の内実を全く知らない立場ですので、今となっては四谷アートステュディウムが教育内容とは全く関係なく、実業的に成功していれば、上記の根本的な矛盾を抱えたまま、継続することもできたかもしれないとも邪推しました。邪推では困るので運営方に確認したところ、アートステュディウムは、事務側と取り決めた規定を毎年クリアして、赤字にならないようにしていたとのことです。うむ、困りました。しかしなお今回の閉校は、そのような、単なる営業上の問題に帰結させておきたいと思います。であれば、むしろ問題の根は浅いのです。ここら辺はもう問いますまい。
さて、このサイトの運営主体からいただいたお題は「芸術教育とは何か?」ということです。芸術作品にも作家にもそれほど造詣のない、日夜フィールドを歩き回っている当方にとってはこれは全くもって身の丈を越えたお題であると思います。しかし、この機会に一言付け加えさせていただくとすれば、芸術教育は、芸術という社会的には交換が大変難しい事物をそれでもなお、経営するということで成り立っているということであります。そこに集う教員も食わねばならず、そしてその賃金が教えを乞いに来た人々の血の滴りであることを、意識していないわけはありません。
さて、来年、四谷アートステュディウムはありません(という手紙が来ました)。しかしながら私は永遠に実験と実業双方を見事成立させうる教育運動体が可能であることを信じております。その確信がなければ、現在の私の教育業務全般は大変にむなしいものとなるでしょう。 現実的に考えるのであれば、初期設備として教育に必要なのは実体的な集いの場所、光熱費、人件費等の運営費用、広報代、そして発明的なケチっぷり(いくつかアイデアはありますが秘密であります)、また実業として成立しうるプロダクトの提示、くわえて自己反省としての欠かさぬマーケティングとベストセラーの開発、有無を言わさぬ監査役、どうしても行き詰まったら、共鳴しあえる内外の宗教団体(私はこの線は今後重要になってくると考えます)、コンツェルン等への勧進等、いろいろあるとは思います。こういうことを考えることの方が楽しいのではないかと思います。実例は19世紀アメリカにたくさんありますが、とりあえずこの話も次の楽しみとしてとっておきましょう。
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四谷のある世界
前嵩西一馬
文化人類学・沖縄研究/早稲田大学琉球・沖縄研究所客員研究員 Yotsuya Art Studium:岡﨑乾二郎対談シリーズ、ことばのpicture books講座、マエストロ・グワント審査員、他
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沖縄の伝統的建築には、雨端(あまはじ)と呼ばれる室内と庭を繋ぐ緩衝空間がある。 いわゆる玄関を持たない家屋にとって、そこは人と声の出入り口でもある。 突きだした屋根を支えるその雨端柱の基礎となる珊瑚の石を、島ではつぶる石と言う。
祖母からその石の話を聞いたことがある。役人だった先祖の一人が年貢の取り立ての際、島の反対側にある村の人たちを助けたことが縁となり、恩を忘れぬ一族と祖母の本家の人々との、その後何代にも渡る交流が始まった。
祖母の嫁ぎ先で家を建てる噂を耳にした彼らは、地先の海に眠る立派な珊瑚石たちをわざわざ荷馬車で運んできた。爾来その石を礎に形成された日常の日陰にそよぐ想起の涼風は、取るに足りない歴史の頁を私に開いた。
自分だけの垂直的時間を密かに自慢していた祖母は、数年前海に還った。今や誰も住んでいないその屋敷が、このたび人手に渡ることとなった。解体される家屋の一部と成り果てたつぶる石のひとつを、漆喰と赤瓦の混じった歴史の瓦礫に埋もれる文字通り石化した記憶の欠片として、私は譲り繋ぐことになった。
そんな知らせを遠く伝える受話器を置いたちょうどその日に、私の横軸を担う近くの親密空間が失われるという無念で馬鹿げた知らせが届いた。どのような分節化もいかなる感傷も、その衝撃に匹敵することはない。
それでも私はなけなしのリネージの智恵を水平に蹴倒して、あの深い庇(ひさし)の向こう側/こちら側へ何かを運んでみる
あきさみよう、アイゴー、What the hell…
領主は土地を手放し、作物は種を残す
芸術の共和制という不可能を夢見るゲニウス・ロキは咆哮し
世界中の動物たちは署名しない
ただ彼らの生活圏で息づかいを伝えるだけ
ペンギンは19ノットの涙で氷面鏡下の塩水を希釈し
梟は右回り左回り刮目し啓蒙する瞬間の360度を記憶する
意識下の粘菌たちはネットワーク作りの手練手管を決して忘れない
少年が背番号に憧れ無回転シュートを無心に学ぶが如く
私は自身を世界の一隅に確実に放り込む球の蹴り方を習得する
四谷のある世界
四谷のない世界
珊瑚石は四方に砕け散り無数の分有と無限の空間をもたらす
社会と世界を繋ぐ雨端から見つけた空
低い雲たちが海風に飛ぶとき
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上崎千
慶應義塾大学アート・センター所員(アーカイヴ担当) Yotsuya Art Studium:批評(創造)の現在シリーズ
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私の観測地点からは、四谷アート・ステュディウムの閉校というかたちで表面化したこの〈横暴さ〉についての「現実の描写」はいささか困難である。ごく少数の権力者たちが見せたこのあからさま��〈横暴さ〉のせいで、いま私の視界は著しく遮られている。したがって、私がいま私たち(多数の者たち)の言語を動員しようとする先は「現実の改革」である。以下にヴァルター・ベンヤミン「経験と貧困」(1933年)から結びのパラグラフを引用し、この手続きを、来たるべき「貧困(Armut 悲惨)」において私たちが問うべき問いを見定める契機のひとつとしたい。
私たちは貧困になってしまった。人類の遺産をひとつまたひとつ、次々犠牲にして手放し、真価の1/100の値で質に入れ、その代償として差し出された〈アクチュアルなもの〉という小銭を、やっとの思いで手にしなければならなかった。戸口には経済危機が顔を覗かせており、その背後にはひとつの影が、次の戦争が、忍び寄ってきている。〈しっかり掴んで放さない〉ということは、今日では、ごく少数の権力者の仕事になってしまった。彼らのほうが多数者たち[一般大衆]よりも人間的であるなど、とんでもないことだ。たいていの場合、彼らはこの多数の者たちよりももっと野蛮(barbarisch 未開の)なのであり、しかも、良きあり方においてではないときている。だが、多数の者たちはいま新たに、手にしているごくわずかのもので遣り繰りしなければならない。根本的に新しいものを自身の課題として、それを洞察と断念のうえに基礎づけた人びとと、彼らは気脈を通じている。これらの人びとの建築、絵画、物語のなかで、人類は、どうしてもそうしなければならないのなら、文化を超えて生き存えてゆく用意をしているのだ。そして、最も重要なのは、人類はそれを笑いながらしている、ということである。ひょっとすると、この笑いはときとして、野蛮に響くかもしれない。それでよいのだ。なぜなら、個的存在[としての人間]がときには、なにがしかの人間性を、かの大衆[としてのありよう]に譲���渡してしまってもかまわないのだ。いつの日かその大衆は彼に、それにたっぷり利子をつけて返すことだろうから※1。
ベンヤミンのいう「貧困」とはすなわち「経験の貧困」であり、それは「新しい貧困」であり、「新たな未開の状態」である。四谷アート・ステュディウムは、経験を介して教養に(再び、そして何度も)アプローチすることの大切さを説いてきた、希有な学舎である。しかし同時に四谷アート・ステュディウムは「根本的に新しいものを自身の課題と」する者たちの集う場所でもあるのだから、その一員である私たちもまた「新たな未開の状態」からの再出発を図らなければならない。そう、私たちは「いちばん初めの段階から事を起こさなければならない。つまり、新たに始める※2」のである。
※1『ベンヤミン・コレクション2』、浅井健二郎 編訳(筑摩学芸文庫、1996年)371-384頁(383-384頁) ※2 同上、376頁。
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すべてがこの場所を通り過ぎた――四谷アート・ステュディウムの反=回顧に代えて
沢山遼
美術批評家・武蔵野美術大学ほか非常勤講師 Yotsuya Art Studium:これからの芸術、これまでの芸術シリーズ、マエストロ・グワント審査員、他
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四谷アート・ステュディウムの突然の閉校が通告された。まず、近畿大学は、現在、充分な予告も説明もないままに進められつつある、年度内での閉校という通常では考えることのできない措置を、どのような根拠と緊急性のもとに決定したのかを明示すべきである。四谷の閉校は、一大学のたんなる支部的な教育機関の終わりを意味するものではないからだ。近畿大学の国際人文科学研究所が主宰していた四谷アート・ステュディウムは、近畿大学と同等の「大学」ではないが、四谷アート・ステュディウムが機関としてのその性格ゆえに、画期的な教育システムを構築し得たことは不当にも無視されるべきではない。四谷の活動に外部から間近に接してきた人間のひとりとして、この芸術の学校が独自に組成し、蓄積してきた思考と人材・人脈は、およそ私などが想像することすらできないほどに豊かで緻密なものであったことは容易に推測されるところである。四谷は、むしろ従来の大学制度に依らない機関であったがゆえに、外部からの多くの優れた専門家が自由な人的ネットワークを構築し、そこで知的交流をはかった。そこにこそ、四谷という教育モデルが、現況の大学教育の限界を突破しうる新たな「方法」となる根拠があった。したがって、四谷の閉校は、大学教育の未来をより困難なものにすることを意味するだろう。四谷を拠点として、いまや個々に細分化され、各々の専門領域に自閉しつつある人文科学は、かろうじて共通の言語を模索し、現在の困難な状況を打開する道が探られたのである。また、その実践のなかにこそ、「芸術」という枠組みも与えられていたのだった。四谷アート・ステュディウムにおいては、芸術とは、世界の困難な状況や限界を突破し、硬直し、閉塞化した諸状況に新たな交通の線を走らせるという、きわめて現実的な実践においてはじめて与えられた枠組みだったのである。
そのため、教育とは、学生への教育的「成果」だけによって測られるべきではもちろんない。四谷は、芸術教育に限らず、すべての教育が目指される場だった。教育とは、トップダウン式になされる知や技術の一方的な伝達ではなく、異なった知性、異なった人材が、立場の相違を超えて同じ思想を「共有」するという点にこそ、その可能性が賭けられるべきであるからだ。
四谷の学生ですらなかった私自身もまた、ことあるごとに四谷を訪れ、その活動から刺激を受けてきた。そこに行けば、芸術や批評が、なんら理念的なものではなく、生活のすみずみに行��渡る、あらゆる場所に遍在する緊急の課題であるという感触を得られたからだ。遡れば、批評家として、美術出版社主催の「芸術評論募集」で賞を受ける以前、まだ無名だった私を、その後時代の一線で活躍することになる若い批評家・研究者たちとともに、「批評の現在 シンポジウム」(2008年12月23日、東京国立近代美術館 講堂)をはじめとする企画に招聘してくれたのは、岡﨑乾二郎氏と四谷の研究員たちだった。その後の私の仕事の多くは、四谷を中心とする場所で培った問題群をひたすら解法することに、いまも注がれている。批評が回復すべきは芸術が持ち得る可能性への信頼である。現在多少なりとも批評や芸術への信頼が維持されている――あるいはそのような信頼が回復した――とすれば、それは四谷アート・ステュディウムの活動が、芸術をさまざまな具体的連関をもった生産物として位置づけ、新たな客体として思考する術を示したからである。四谷の閉校が、そのような具体的思考の数々を手放すことであっては絶対にならない。
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大学運営に求められる知性
松井勝正
芸術学/武蔵野美術大学非常勤講師 Yotsuya Art Studium:批評(創造)の現在シリーズ
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「それをしてはいけません」と先生が生徒に注意する。「なぜですか」と生徒は質問する。その問いに「ダメなものはダメ」と答えるような先生はダメな先生だ。それでは生徒に「あなたは何も考えずに、権力と権威にしたがっていればいい」と教えることになる。先生は明晰でなくてはならない。なぜそれをしてはいけないのか、先生が自分の判断を反省し、その結論にいたるプロセスを解きほぐして示すことで、生徒は考えることを学ぶだろう。権力と権威で結論だけを押し付けるような行為は、本当の教育とは言えないし、そうした行為からは豊かな文化は生まれない。文化的な豊かさとはその多様性と厚みによってもたらされるからだ。そのためには先生も生徒も、ある結論に対して「なぜなのか」問うことをやめてはならない。
「この上なく明晰な芸術の学校」を標榜し、芸術とその教育に明晰なプロセスで取り組んできた四谷アート・ステュディウムが、今回のような不透明なプロセスで閉校になってしまうことは残念でならない。近畿大学は少なくとも、閉校という結論にいたるプロセスを四谷の学生と教員に示すべきだし、在校生に卒業するまでの時間的猶予を与えるべきだと思う。そういったプロセスを抜きに一方的に閉校を進めようとする近畿大学の態度からは、四谷アート・ステュディウムの活動に対する、そして教育と文化に対する敬意をまったく感じることは出来ない。近畿大学という巨大な組織の運営にとっては芸術などというマイナーな領域はどうでもいいのかもしれない。しかし教育と文化への敬意を欠いた大学の存在意義とはなんだろうか。
大学は学生をバカにしてはいけない。四谷に学んだ学生は、上の決めた結論だからといって何も考えずにしたがおうとする人たちではないだろう。閉校という結論にいたったのはなぜなのか、彼らは問い、考え、発言していくだろう。そうした、考え、発言する学生は、近畿大学が四谷アート・ステュディウムを通して行った教育の成果なのだ。近畿大学が学生をぞんざいに扱えば、それはやがて近畿大学へのマイナス評価となって帰ってくる。権力や経済の原理の前に文化的活動は無力に見えるかもしれない。しかしそれは瞬間的で局所的なことにすぎない。
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藪前知子
東京都現代美術館学芸員 Yotsuya Art Studium:マエストロ・グワント審査員
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今回の突然の閉校によって、近畿大学は、そして私たちの社会は大きなチャンスを失ったと言わざるを得ない。四谷アートステュディウムが引き受けていたものは、「実学」によって支えられている社会のカウンターであり、そこに位置づけられない新しい価値や、例外的で一般化されない事態に対する判断を導くものとしての「芸術」の学びであった。いわば「世界を組み替える技術」を教える場であった四谷アートステュディウムに集められた知の集積は、近畿大学の他の分野のみならず、私たちの社会のあらゆる局面に代入できるものであったはずである。私たちはそれを有用なものとして「使う」機会を失ったのだ。
海外を見れば、国家予算の約20%を教育にあて、すぐれた人材の育成に国家の将来を賭けるシンガポールでは、芸術を専門とする中高一貫校SOTA(School of the Arts, Singapore)が近年新設され、学力、人気ともに非常に高い評価を得ており、芸術の専門家だけでなく、あらゆる分野における創造的なリーダーを排出する場として期待されている。「芸術教育」とは、教育全般に応用できる新しい手法、システムの実験場たりうるのだ。そして四谷アートステュディウムほど、このことに自覚的であった組織を、私は他に知らない。
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