Tumgik
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気が付いたら
先々週までは、少し大きな仕事(コンペ)に一部参加していて仕事をしてる感をふんぷんと出していたのだが、コンペ提出が終わりプレゼンをやって、落選の結果が届いて、今である。
コンペは元々あまり期待できない状態でスタートだったので、すごくガッカリしたが仕方がない。 一方で、久しぶりの「復帰後初」としてプレゼンをやった。まぁ私のパートは3分程度のごく一部だったのだが緊張したし不安もあったので、珍しく事前に何を話すかをまとめておいてその場を何とか終えることができた。また一つ出来ることが増えた。
頭痛や各所の痛みはかなり落ち着いてきていて、主治医先生の「冬はねぇ…」と言っていたのを思い出す。春になって日中は暖かい日が続いているせいか、痛みを感じるタイミングもすごく減っている。この数日は、手術した部分の頭皮がぞわぞわと鳥肌が立つような感触なのだが、数週間前はこれがかゆみだったのかなと思う。頭皮の内側のかゆみは、傷跡のかさぶた状態で引き攣れなどが起こってる、と主治医先生が言っていたので、まぁやっぱりまだまだリコンストラクションの最中なのだろうなと思う。
残念な結果に終わったコンペのその後はわりと暇に過ごしている。 仕事はゼロではなく、特に頭脳労働が必要のない制作進行を3つ回している。思えば復帰後初めての制作進行をしていた時は、何か忘れていることは無いかとすごく怖かったので、気が付いたら「年度末で3つの現場進行中」が出来ているのに少しびっくりする。リコンストラクション中とはいえ、もう「病人なんです」と言っていてはダメなのかもしれない。平場で「普通に仕事があんまりできない人」という本来の姿でやっていく覚悟を決める時期である。
病気が見つかって入院する時にちょうど一緒に仕事をお願いしていた映像作家さんから久しぶりに「調子どう?その後」とメールが来ていたので、時間もあったから少し長い返信をした。相変わらず表現が面白いねと褒められて良い気分である。ゆっくり早く良くなって一献をしたいな。コロナがまた増えそうなので、それも先になるのかもしれないが。
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言語化されるということ
頭痛の根は「回復への循環」なのか「気圧」なのか
今は先生の言うことを信じて気圧説に。
私は詐欺師にころっと騙されるタイプかもしれないから気を付けよう
三寒四温で春へと季節が進むということは、定期的に天気が悪くなるということだ。退院後ずっと頭痛は定期的に痛むサイクルを繰り返してきているのだが、これは「だんだん良くなるサイクルの一つ」というよりも、気圧の変化によるものなのではと思えてきている。
その大きな理由が、先週の診察の時に主治医先生から気圧と頭痛、雨と頭痛について示唆をされたことな気がする。結局、痛み、それも目に見えない箇所の痛みというものは原因を取り出して確認することができなくて、痛みの起きるプロセスのバイタルをすべてモニタリングし続けるわけにも当然いかないから理由を突き止めるのは難しいし突き止めてどうなるものでないようなものでもある。 そうなると主治医先生にかけられた呪文ががぜん効力を持ってきて、「もう気圧のせい!」となってくる。週末は頭痛の根の痛みがタテに首の方にまでくる気配があって嫌だなぁ、と思っていたのだが、昨夜から雨が降ってはいるもののそれ以上大きくなることなく収まっている。週末は仕事もなかったので長めに、そして迷い気味に散歩をしたのだが、それが頭痛に来ることもなくホッとしている。 月曜の今日は雨、今週は雨が多いので頭痛の出番も大きいのかもしれないが、まぁそうやって事前に憂鬱になる必要もないだろう。 それよりもし問題が気圧の影響だというのなら、ひょっとしたら天気予報じゃなくて気象庁のサイトをみて天気図を書かなきゃいけないのかもしれない。中学生の時に天気図の書き方を少し勉強した。理科の先生がイケメンすぎて、友達と一緒に思わず必修クラブで理科部を選択したのだが、あれは割と役に立つ部活ではあった。まぁ自前で気象図を書く必要などはなく、普通に気象庁とかで気象図を見ればいいだけではある。頭痛と気圧の連関性は、ちょっと記録しておきたい気もしないでもないが。 そういえば、家のサッシ窓も天気が悪い日は開きづらい。室内と室外の気圧差があるせいでパッキン状態になっているらしく、開くとしゅぼっという感じの音がする。
この2週間ぐらいは仕事が、コンペ1本以外は頭痛と共に小康状態で安寧が続いていたのだが、取引先の人事通達があったからか、何やらバタバタッと相談事が増えた。せめて気圧が下がらないといい。 今日はこれから打合せで外出。天気が良ければ散歩がてら行くところだが雨なのだ。ウォーキングの連続記録のこともあるから、途中の乗換駅までを歩いていこうか。
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ふるさと(3回目)
2か月ぶりの通院は、よそよそしさからの懐かしさ
ダイエットのリバウンドが怖い、怖いからムキになるわけだ
昭和のビルは導線設計にいろんな問題を抱えている
次回は3か月後
医科歯科大病院への通院。 2か月ぶりである。前回は1か月間隔だったので通院感覚は倍の長さ。11月の手術から3か月半である。
たった3か月半なのか、と振り返って驚く程度には変化が大きく、そして変化がない毎日で、大きな病気をした後の緊張感も減じつつある。実際、午後ゆっくり目の予約時間で検査も何も入ってないから時間の余裕はたっぷりあるはずが、雨のせいもあって家を出るのが遅くなり、歩いていくはずが自転車になり、自転車でなぜか道に迷い、結局、予約時間のギリギリに病院に到着した。
病院の大きな建物を見て、懐かしい故郷というよりも少しよそよそしく感じた。そもそも別に懐かしい故郷でも何でもなくて単に入院してた病院というだけなのだが、退院後しばらくは「故郷に帰りたい…」と思っていたのだ。よそよそしく感じるようになったということは、それだけ自立したというかもしれない、知らんけど。
待合室でしばらく待っていたら先生から呼ばれて、診察を受ける。気になっていたこと、痛みがあちこちに循環します、という話をしたら、そうなのよね、と肯定される。医師から見ておかしくない状況だと分かるのはホッとする。更にこちらから聞く以前に「寒いとねぇ、痛みが辛いみたいだから温かくなると(マシになると思う)」と言われた。気圧も関係あるみたいですか?と尋ねたら「そうみたいね、梅雨時あたりも(大変みたいよ)」と。
痛みが痛いのもとても辛い。痛みが出なくなってくれればいいのにとはもちろん思うが、これからの毎日を「頭にキズ持つ身」として生きていく上で、頭痛はたまに出る日常である、と思える方がやり過ごしやすくなるという面もある。体調を気遣えるようになったり、多少の痛みの変化にいちいちクヨクヨせずとも済む方が毎日の生活においては、気が楽になる。
あともう一つ、左足の中指の付け根のあたりに麻痺の感覚が残ってる件についても「もう治らないんでしょうか」と 聞いてみた。 先生は「まだ3ヵ月ちょっとだからねぇ…」と言う。リハビリ病院の新・PT先生はストレッチとマッサージを継続してくださいって言ってましたと話したら「やれることはもう、どんどん何でもやっちゃっていいわよ」と言う。身体的にはもうNGのことはほとんどないようで、かつ、まだまだ「もう治らない」とあきらめる必要もなさそうだった。別に今の麻痺の残りがあっても日常生活においての問題はほぼ無い。寝ていて麻痺が残る指に毛布の端っこが引っかかったりすると、麻痺の現実と麻痺の記憶がぐるぐると駆け巡って 脳が「???」というアラートを出す。その時にぞわっとするぐらいである。
とはいえ、このぞわっとする感覚はすごく不快な感情を呼び起こすものでもあるので、あきらめずに色々やろうと思う。ストレッチは毎日やってるんだけどマッサージは、雲をつかむようでどうしたらいいのか分からなくてあんまりやっていない。優しくほぐす感じで、と新・PT先生にも言われたしネット検索しても強くするのはあまり良くなさそうなのだが、そうすると途端に雲をつかむような作業になってしまう。方法が分からぬ。 なので、一度マッサージ屋さんに行こうかなと思うが、医療じゃないと途端に色々怪しいものが紛れ込んで来たりしてお店選びが簡単じゃなくなる。健康に関することは本当に難しい。自宅の近くでGoogleMapでキーワード検索をすると、山ほどマッサージ屋が検索される。が、エロいマッサージ屋だったり、何やら怪しい香りがするものだったり、色々である。本当に難しいな。
主治医先生が血圧は?と聞いたので血圧メモを見せたら、もうちょっと下げてほしいなーと言う。あとダイエットについても。一応落ちてます!ゆっくりやってます、とムキになってしまったあとに、昔一度リバウンドしてるから…ゆっくり…とごにょごにょと言い訳をする。情けない。 主治医先生は、それじゃ次は3か月後にしようかなと言う。その時にMRIと血液検査を再度、と言うことになった。それまでリバウンドしないように頑張ろう。
あとは、診察だけじゃなくて保険金の受け取り用の書類をお願いする、というミッションもあったので聞いたら、それは別の窓口に出してと言われた。大病院はこういうのがシステマチックで、そして少し面倒くさい。外科の窓口に聞いたら更に1Fの専用受付を案内された。そこでお願いをしたところ2か月後、と言われる。そんなに先か。何故そんな先なのだろう、不思議。
会計はクレジットの自動手続き済なので楽である。そのまま正面玄関から出ようとして、ああそうだ1Fからだと帰りにくいんだったと思いだす。故郷の病院は現在ずっと工事中で、1F玄関から外に出る導線が余り良くないのだ。なので、引き返して地下に向かうエレベーターに乗るためにエレベーターホールの方に向かった。そこで、ぶわっと、入院していた時の記憶がよみがえった。
建物���古くて導線が色々イマイチだった故郷の病院は、1F~3階?ぐらいまではエスカレーターがあるのだが、そのエスカレーターは地下までは通っていない。利用者が結構多い地下の出入口への導線はエレベーターか階段のみ、そしてこのエレベーターは私が入院していた病棟にも直結している。なのでエレベーターはいつも混雑していた。エレベーターのかご数はそこそこあるのだが、病院内移動の多さもあってトラフィックが追い付いてなかった。あとエレベーターに乗るのはほとんどが病人で車椅子だったりストレッチャーに乗っていたり、酸素やら点滴やらをぶら下げて歩いているので、普通よりも断然輸送効率が悪い。 そういえばリハビリの送り迎えも、手術の日にも、エレベーターがなかなか来なくて面白かったな、と思い出す。我々病人の色々の送り迎えをしてくれていたサポートの看護師さんたちが様々な「エレベータを早く止めるテクニック及び情報交換」をしているのも懐かしく思い出す。あと、たまにこっそり抜け出して地下1Fにあるセブンイレブンまでコーヒーを買いに行ったり、リハビリ代わりに地下の駐車場の前を歩きに行ったりしたのも思い出した。2か月前の色んなこと。病院に着いた時には「よそよそしく見えるな…」と思っていたけど、ぶわっと、ふるさとだ…と記憶が巻き戻った。このエレベーターで上に上がれば、入院してた病棟に行けるのか、と里心が付いたけど、それはコロナ禍ではやっちゃダメだし、コロナ禍じゃなくてもやったら単なる不審者でしかないのだった。だからやらないで我慢。看護師さんたちも覚えて無かろうしな。
地下の出入り口は、タクシー乗り場があったりコンビニへの導線だったり、道路に直通してる出入り口でもあって、メインの入り口の1Fよりも働き者の出入り口だから、地下1Fまでは少なくともエスカレーターが通ってた方が人捌きは良くなるだろうしエレベーターのやりくりも楽になるだろうな…と、建物の設計にケチをつける仕事もしてきた身としてはつい気になってしまう。これから頭パカッと開ける手術する病人のくせにそんな風に「仕事してる時の脳みそ」になってる自分がおもしろいものだなと思っていた。
そのうち私の故郷の病棟も建て替えをするのかもしれないな。そしたらきっと導線も良くなるだろうし、Wi-Fiも完備されてるのかも。
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影の濃淡
病気になると影が薄くなると思う。
少しずつ生気が回復しつつある。まずは子供や犬。
来週は再び診察。
今週は、頭痛が小康状態で比較的体調は楽な一週間だった。 仕事は企画コンペがある程度だったのだが、企画コンペの内容を詰める作業も「復帰後初の仕事」で、やはりとてもしんどい。一応は多少の頭脳労働なので猶更である。分からなくて引っかかると一々怖気づく自分がいて、主にメンタルが中々しんどい。 あとは昨日、今日にかけては頭痛の根(右目の下から首筋にかけて)に少し違和感が出ている。相変わらず不調部位は順繰りに当番制を敷いている。でも、少しずつ当番はきつくなくなってるとは思う。
体調の愚痴や仕事の愚痴は置いておいて、全く違う話。
病気が分かるまでのこれまで、私は「人から道を尋ねられやすいタイプ」だった。体がでかくて目立つのかもしれないし、ぼーっとして隙が多く声をかけやすいのかもしれない。若い頃はよくナンパされて彼氏に隙が多い奴だと文句を言われたこともある。キャッチセールス系のものは睨んで無視すればいいから別にいいのだが、まぁよく声をかけられていたし今も道を尋ねられる。何が原因で声かけられやすいのか本当のところは分からない。
病気になり退院してから、リハビリを兼ねた散歩で毎日外出をしているのだが、3か月弱が経ってまだ1度しか道を尋ねられない。それまでは1月に1~2度のペースで道を尋ねられていたので半減以下である。
今、声をかけられなくなってる大きな原因は、外出先が違うからというのは大きい。コロナ禍下でのリハビリ散歩なので、基本は人があまりいない場所を選んで歩いてるし、原則は公園や川沿いの遊歩道を目指してるので周囲を歩く人も同じような散歩、ジョギングする人たちだ。彼らが道を尋ねる理由は小さいだろうと思う。退院後に1度道を尋ねられたのも、退院したとたん、荷物を引きずって病院を出たところでのことで、まぁ繁華街だからだったんだろう。 このように出歩く場所が変わっているから、という理由の一方で「私、影が薄くなってるのかしら」と思う日々でもあった。
特に退院して比較的日の浅かった12月、1月あたりは、リハビリ通院で歩道を歩いていたり、散歩をしていたりする時に、すれ違う色々な人たち、仕事風の人や散歩、用事、子供連れ、犬���れなど、だいたいの人たちから、存在を確認されてないのか?と思っていた。つまり譲ってもらったり避けてもらったりできずに難儀をしたのだ。 当時は歩くこと自体は問題なく出来たが、早く歩いたりサッと避けたりは簡単ではなかったので、なるべく行き交う人の迷惑にならないように歩道の隅をゆっくりとしたスピードで歩いていた。 そして、自分が健常なら恐らく気付かないように、私の周辺を行き交う人たちはかなり無遠慮に「そこに私が居ないかのように」至近距離をかすめて歩いていく。これがかなり怖かった。何かの瞬間にうっかり引っかかったりかすめたりぶつかったりしても、その当時はバランスや受け身を取れずに転びかねなかったので。こちらは避けられる能力やバランス保って耐える能力が回復してないので、予めぶつからないように更に隅っこにゆっくり軌道修正したり、店の軒などにひっそり避難してやり過ごしたりしていた。病院のケースワーカーさんにヘルプマークをぶら下げて歩きたいとこぼしたりもしていたぐらい。 こういうことはそれまでの人生には無くて、むしろ対向から幅いっぱいに歩いてくる集団に不愉快な顔をしてどかさせたり出来るタイプだったのに。こちらの存在感が薄くなってるせいなのかと思い、さすがに生命力が弱まると「どかせ力」「遠慮させ力」も衰えるのか…と悲しく思っていた。 今は「私、影が薄くなっていたんじゃないかしら」と思いを巡らせられるぐらいには余裕が出てきたというか、回復をしている。
そして、仕事で色んな人と話をしたり、打合せで出かけて人と話をしたり、少し難しい頭脳労働をしたりすると、やはり元気な皆に比べれば自分にはまだ生気がないな…と痛感する。 先輩や後輩、クライアントさんや取引先さんの発言が一々ポジティブに感じられて、それに乗って会話をすることにパワーが必要だなと感じる。それまではパワーがいるなんて思ったこともなく、むしろ神輿で先棒担ぐタイプだったが、人の面白そうな話の波に乗り切れない時がある。今の私より生気の強い人たちとの交流は、刺激が強く楽しく、そしてまだ少しくたびれる。
一方で最近は、リハビリ散歩中にすれ違う小さい子供や犬とのアイコンタクトが上手くなっている。元気な頃にはあまり見向きしなかったのだが、生気の量がちょうどいいという感じ。親御さんに抱っこされてる小さい子と目が合ってじーっと見つめられて変顔で返したり、公園に向かう保育園の子供たちと目が合ってほほ笑んだり、昔はやらなかった本当に小さいコミュニケーション。ひょっとしたら病気をする前から、子供や犬は私に興味を持って観察していたのかもしれず、生気を減じた私がようやくそれに気づいたのかもしれないが、だとしたら、こういう視線に気付けたのは病後の幸いかもしれないとも思う。
散歩中の犬たちは、飼い主ラブで主に飼い主を見つめて歩く犬と、忠誠心よりも好奇心が勝ってキョロキョロしている犬とに大別されるが、どちらの犬も大概、すれ違う私と目が合うとじーっと見て、すれ違って背後に行ってもまだ首を曲げてじーっとこちらを見ている。 忠義犬は不審者を監視しているような顔で、好奇心犬は構ってもらいたそうな顔をしている。だが「散歩犬」には「飼い主人間」が必ず付いていて、まだ生気が回復してない私は生気の溢れた人間への気後れに加えて、更に不審者になるのが怖いので、犬に構いに行くことは無い。
ただ、子供や犬と対峙できる程度には、生物としての存在感を復帰させつつあるのかなとも思う。今は道を歩いたり、カフェの隅っこで甘いものを食べたりするくらいでは気後れしなくなりつつある。でもまだ大人の人間相手や仕事においては影が若干薄い感じもある。
来週はまた故郷での診察の予約が入っている。2か月ぶり。 気になっている左足の中指・薬指の間のしびれの話を聞くのと、痛みローテーションについても報告するのを忘れないようにしよう。
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大過無し
友達と悪口大会とお茶をする、日常をまた少し取り戻す
今週の不安は左足のしびれ
頭蓋骨がかゆいんですよ
急に春らしい日が増えてきた。暦は全く馬鹿にしたものでもなく、冬から春の分水嶺になる節分が終わって、暖かい日が増えてくると体調的にはありがたい。
どうも寒さや気圧は頭痛と連関してる様子ではあるらしい。頭痛は先週は比較的大きい日が多かった。 全般的には「小康状態」の範疇に収まっているのだが、右目の裏の”頭痛の根”から、目の裏の痛みが拡大し、やがて右側のこめかみ~目の裏~耳の裏~首筋、まで縦に一直線につながった痛みになる日がある。先週は火急の仕事が少なかったのがありがたかった。一方で、痛みを紛らわせるものがないということでもあるし、仕事もゼロではなく、企画ものや組み立て中のコンペがあったりでストレスもある。何となく気鬱な日々でもあった。
打合せで出かける予定が入ってたのが幸いで、2回ほど仕事の外出があったが、気分転換にもなるのでとてもありがたかった。人と喋っていると痛みをしばらく忘れたりもできる。まぁ痛みが強まればまた思い出すわけだが。そして徒歩で会社に顔を出せば、色んなことも少し起きたりはするのだが。それはそれで頭痛の色どりではある。 あとは自転車で赤坂見附まで往復した。手術後の最長不倒である。まだ自分の住んでいる場所から隣接したエリアまでしか移動をしていない。まぁコロナ以降はだいたいそんな感じではあるので、大過はない。
週末は、久しぶりに悪口友達の同僚と「会社で色んなことも少し起きた」件について大いに悪口雑言を言い合うというお茶会をした。こういう日常が戻ってきていることもありがたい。盛り上がりすぎて晩ごはんの時間を過ぎてたので飲めないけどご飯食べてく?と聞いたらそれは断られた。まぁ徐々にゆっくりだ。友達と茶を飲む、はクリアした。
ひとつ気がかりなのは、土曜に散歩していたら、左足のしびれが急に出たことだ。この件は、主治医先生にも話はしているが、それは恐らく腫瘍とは関係ないんじゃないかな…と言っていた。この突発的な左足の痺れは、去年の5月頃から感じて7月、8月と麻痺が進む時期に合わせて発生頻度が増えていたのだ。それが、また出てきたのが不安である。整形外科の範疇なのであれば良いが、と一瞬思い、やはりそうではなく、何外科だろうが良いことはない。痺れたまましばらくはそのまま歩いていったんは収まったが、その後も痺れが少し残っていて心配な気持ちが続く。3月にまた診察があるので、聞いてみようと思う。
前回の頭痛ターンの日々よりは軽くはなっている頭痛ターンがどうも一段落したようで、今週に入り今日はまた頭痛は小康状態にもどり、今のところは治まっている。右目の裏の「頭痛の根」もかなり静か。その代わり、週末にかけて、頭蓋骨がとてもかゆい。洗髪をしてなくて頭皮がかゆくなる、というのとは全然違う感覚で1月ぐらいにも似たかゆみを感じた。傷跡部分がかゆみの震源地なので恐らく手術の影響だと思う。 傷の治りかけはかゆくなる、というやつなのかもしれず、他の痛みが静まってきたことでかゆみを知覚しやすくなっているのかもしれない。
体調は連関し循環し、「痛み当番」のようにあちこち不調部分が移り変わりつつ、全体としては収まっていく方向ではあるようだ。 つらいことは忘れて奥底に仕舞ってしまう方なので、1月あたり、12月あたりに頭痛が辛かったことは忘れつつある。だが書いたものを読み返すと、その頃の痛みを思い出し、あぁこの時よりは痛みの質は軽くなっているのかも、と少し安心する。
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暇なので
仕事が暇だと落ち込んじゃうので思い切って遠出
念願の上野のアート散歩は「日本のたてもの展」素晴らしく良かった。東洋館も素晴らしく良かった
美術館の鑑賞が楽しめる私が戻ってきて、本当によかった
先週はバタバタと何だか忙しかったのだが、今週は仕事が暇である。暇になるとキューっと煮詰まってしまいがちなのだが、病後人なのでそこは煮詰まらない方向でがんば��たい。なぜなら頭痛がまた少し戻ってきているからだ。
先週は頭痛の調子はとても良かったのだが、2月の3週目になってからは右目の裏の頭痛の巣の痛みが強くなり、時には耳の裏から首に痛みが伝わって、右側が全体的にズキズキと痛む。痛いのは本当に嫌なものだ。 相変わらず、痛みの理由が分からないのでなだめすかすのが難しい。 先週末は調子が良かったのでうっかり早起きしてパンをこねたりしていたから色々過重だったのかもしれないし、天気が良くなくて(爆弾低気圧が来ていたらしい)低気圧で寒くてという外的な理由かもしれないし、やっぱり手術の影響からくる頭痛かもしれないし。 原因が改善可能だと分かれば対処が簡単なのだが、今の私には原因が分からないし、多分、主治医先生に聞いたところで分からないんだろうと思う。なので結局できることは痛みに耐えることだけである。そういう意味では仕事が収まっていてよかった、仕事がない…と煮詰まる代わりに頭痛と戦っている。
とはいえ、家にじっとしていると、頭痛と正面で向き合わなきゃいけない感じになるし、手持無沙汰で落ち込みそうだし、口さみしくなって鳩サブレ―をぼりぼりと食べてしまいそうになる。なので、何もやることがない火曜日は思い切って、入院してからずっと言っていた念願をかなえるために上野まで長い散歩をすることにした。
入院してる時に橋本治の「ひらがな日本美術史」を2冊持っていった。脳の手術をして文字を読んだりするのが容易でなくなる可能性を少し考えていたので、図版が美しい本を持っていったのだが、こう見えて美術趣味があるからというのもあった。インターン先生やOT先生と、退院して元気になったら旅行したい、サッカー見たい、美術館に行きたいなどと雑談をしたりもしていた。 そしてリハビリ病院に転院して新・PT先生に答えた当面の目標も「上野の美術館を見て元気に帰ってきたい」というものだった。病気になる前は、ちょっと余裕がある時には歩きや自転車で上野に行っていた。西洋美術館や東京国立博物館なぞは、とにかく建物、展示室がかなり広くて、鑑賞にも結構体力が必要だったりする。元気な時でも東博の常設展なんかは一日歩き通しでくたくたになったりしていた。 病後の私は、美術館まで無事に歩いてたどり着けるか、ということ以前に、行った先の展示物を1~2時間かけて鑑賞できるか、私の脳みそは「鑑賞」に耐えうるのだろうか、という心配があった。なので、美術趣味があるうえに目標に設定したのに、上野に行くのがためらわれていたのだ。
実は、リハビリ通院中に、目標はスモールスケールではあるが両国の北斎美術館に行って帰ってこられたことで一旦は達成してはいたのだ。北斎美術館は近い。そして小さい。色々不安で不安定な中の目標設定としてはとても良かったのだ。それを新・PT先生にも目標達成したと報告していた。
仕事と同じで楽しみごとでも「病後に初めて再開すること」へのためらいがとても大きい。しかしすごく行きたい展覧会があったのだ。東博で「日本のたてもの展」という日本博がらみの、比較的好事家向けの展覧会をやっていて、山ほどの良質な模型が一堂に会して展示されているという。それが、今週末で終わってしまうのだった。 コロナが真っ最中だから休日に行くのは少しリスクがある。だが火曜は急ぎの仕事の予定がない。今日しかない。
火曜は早起きができた。このところ7時半ぐらいにベッドから起きだす生活だったのだが、6時過ぎに布団から抜け出せたので、まずは賞味期限が1日過ぎた豆腐を使ってパンケーキを焼く。リコッタチーズパンケーキのリコッタを豆腐に置き換えるもので、余らせていた紫芋パウダーを入れたら更にもちもちで美味しいパンケーキが焼けた。1枚朝ごはんで食べて残りは冷凍し、は磨いて顔洗って日焼け対策をして、身支度をして出発をした。1日がかりになるだろうからとにかく頻繁に休憩を取ろうと決めた。
まずは川をずっと遡上し浅草に。いつも休憩をする隅田公園のタリーズでコーヒーを飲む。浅草までは比較的気負わずにたどり着けるようになったと少し感慨深い。それから浅草寺、ちょうど読経中だったので最後まで聞いて、そのまま六区から仏壇街を抜けて、パンダ橋を渡って上野公園へ。 上野公園で少しストレッチをしてからいよいよ東博に入った。
東京国立博物館は、常設展がある本館とアジア美術の東洋館、それから私が日本で一番好きな建物である谷口吉生設計の法隆寺宝物館、それからあんまり素敵ではない建物だけど中にごっそり土偶とかが詰まってる平成館、それから普段は開いていない表慶館などがある。どの「館」も、もう、見たいものだらけなのだが、どの館も宝物美術品がギュウギュウ詰めである。たいていの場合は常設展ですら見切れず途中でドロップアウトしてしまうのが私である。情報の密度がものすごく濃いので体力よりも脳ミソが先に根を上げる。
なので、とにかく第一目標は「日本のたてもの展」をちゃんと見ること、と決めていた。 もし日本のたてもの展を見てもまだ余力があれば、まずは館内のレストランで(高いけど)しっかり昼ごはんを食べて休憩をすること、そこで体調としっかり相談をして、もし余裕があるなら東洋館を見る、と算段をしていた。
日本のたてもの展はすばらしかった。すばらしかったおかげで「脳がショートして楽しめないかも」という不安が全く払しょくされていた。表慶館も中に入ったことがなかったので建物も堪能した。 そしてお昼ごはん(オークラレストラン、天婦羅そばのセット)を食べても元気が残っていたので、東洋館へ。なぜ東洋館にしたかと言えば、常設展よりも小さいからだ。そして、少し恥ずかしいがあまり興味と知識がないからだった。常設展よりも興味の度合いが少ない分、くたびれて途中で退室してもガッカリしないだろうという打算である。そもそも東洋館に入るのは子供の時以来な気がする。
東洋館の建物の前にガードマンが3人、進入禁止のロープの前に並んでいる。何故進入禁止になってるのだろう…と思ったら脇には通路が開いている様子なので近づいて行った。ガードマンさんがほほ笑んで通路を示してくれた。どうしたんですか?と聞いたら、一昨日起きた大きな地震の影響なのか、天井にはめ込んでいた石が一部剥がれて落下したと言う。そのため入り口付近一帯を通行禁止にしてあるらしい。施設運営と言うのは本当に大変なお仕事である。ご苦労様です、大したことがないといいですね、とお礼とともに言い、東洋館の中に入る。
中は超絶オリエンタルですばらしかった。こんなに素晴らしかったのを理解できてなかった自分がもったいない。上野に来る楽しみがまた一つ増えた…。 常設展ほどではないが展示物も凄い量である。知識が追い付かないこともあって割り切って流し見をしながらもわくわくが止まらず、全部見たらくたびれて家に帰れないのではと葛藤し始めた。「脳が鑑賞不能だったらどうしよう…」と心配していたカラスはもうゲラゲラと笑っている。象の形をとったインドの神様ガネーシャの石のレリーフがある。二柱の男女の神様が絡み合ってセックス真っ最中のチベットの仏像がある。超かわいい猿をかたどった小指の先ほどのサイズの仏像がある。すごい楽しい。もうここに宿泊したい。なぜベッドが、ホテルがないのだ…、とフーフーと鼻息も荒く次々に鑑賞していた。
地下の東南アジアの宝物のコーナーを見ていたら、10メートルぐらい離れたところにいた男性2人組のうちの一人がでかいくしゃみをした。びっくりしてそちらを見たらそのオッサンはマスクを取ってくしゃみをしていた(マスクを付け直していたのが見えたので)。ばかじゃないのか。花粉症なのか風邪なのか分からないけど何のためにマスクをしてるんだ…。私は病後人としてコロナにかかるのだけは絶対にやってはならない。更に言えば風邪もうつりたくない。これ以上体調不良を抱え込むのは嫌なので、このくしゃみするオッサンは私を切り上げさせるために使わされた貧乏神か何かなのだ、と解釈してとっとと退散することにした。
東博のすてきな所は、所蔵品の写真は基本、ほとんど撮ってOKというところだ。マジカルでミラクルでエネルギッシュでオリエンタルな色んな像の写真をたくさん撮って、フーフー鼻息が収まらない勢いのままギリシャ神話の本を何故か購入して帰途についた。
帰りも、もうだめだーと思ったらすぐにタクシーに乗ろう、と思いながらだったのだが、ゆっくり休み休みで帰宅できた。 新・PT先生に「できました」と教えたいが、予約も用事もないのに訪ねても迷惑でしかないよな。
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「復帰後初」に向き合う
復帰後初めて、というかコロナ禍後初めての生演奏はすごくよかった
日本橋三越への信頼。そして台所QOLの向上
ビビッドカラーの調理器具が好き
復帰後初めての、新規の仕事の相談を、なんとか、どうにかこうにか
リハビリの通院がなくなって1週間が過ぎた。寂しいのだが解放感もあり、具体的には通院がなくなると時間的な余裕が生まれる。その代わりに仕事をしている時間が増えてはいるのだがそれは復帰に向かってよいことではあるし、現状は基本在宅で仕事できているので、家の中に居られる。家の中に居ると仕事が煮詰まった時などにちょっとした家事を出来るのがとても良くてQOLは上がっているように思う。
今はもっぱら「だいたい8000歩ぐらいのウォーキング」と「塩分・カロリー控えめの食事」「なんちゃってストレッチ」を中心に、頭蓋骨に傷を持つ自分の体とともに生きている。 ウォーキングも、仕事もしなきゃいけない平日には欲張らずに8000歩前後で帰ってくることができたし、朝イチで歩きたい!というわがままを堪えられた。朝イチで打合せとか午前中に先方にメールしなくては、ということも起きた1週間だったので、必然性による我慢だが、午後や夕方に時間を見つけて歩こう、という切り替えができたのが私が今週出来た「よかった」である。
食事については、けんちん汁のリベンジに成功。退院後に作って味がなさすぎて悲しかった食事シリーズのリベンジをコツコツとやっている。めくらで怖がらずになるべく目で見て味を入れるように。一度に作って5回ぐらいは同じものを食べているダラシナイタイプなので、ドキドキせずに冷静に、いやでも1/5だからさと脳内で唱えている。この次は舌で調整して薄味にできるところまでクラスアップしたいところではある。今週は仕事がそれなりに詰まっていたので昼ごはんは一部、スーパーの中食などを投入したのだが、買ったアジフライや買ったほうれん草の胡麻和えがどちらも味が濃いと感じたので、舌が慣れてきたのかもしれない。
今週、食事と台所周りのQOLを大きく上げたのは、耐熱ガラスの食器を買ったことだ。ハリオの大中小3ケセットで赤い蓋が付いている。 このところ朝ごはんに温野菜サラダを食べることが増えたのだが、いちいちサラダボウルにラップをかけるのが面倒だったのだ。自炊が増えてサランラップの減りの早さにけち臭く不満だったのと、いちいちゴミが出ると、あとはサラダボウルの中でドレッシングと混ぜていると写真に撮った時になんか汚いのが不満で、この1か月ぐらい解決策を探していたのだ。 まずは、東急ハンズで「食器用のプラスチックの蓋」という商品を見つけて、病院の食事にかぶさっていたことを思い出した。あれは保温と安全のためで機能的だと感じたが、病院の食器は「それ用」に食器と蓋がセットなわけで、自宅のセットじゃない普通の、でも気に入ってちまちま買ってる食器たちにサイズが合わないと何か嫌だな…と思った。ただでさえ「プラスチックの食器の蓋」は機能優先で美しさや楽しさがあるわけではないのに、サイズが合わないと、買った蓋を愛せないんじゃないかと思った。いや、まぁ蓋を愛する必要はないとは思うが。
それからネットで色々検索していたのだがピンとこず、散歩のついでにホームセンターに寄って探したりしたが愛せそうなものが見つからなかった。 実は、 こういう時はデパートがモノを言う。散歩のついでに頼れるデパート日本橋三越に行った。平日の日本橋三越は地下食品売り場以外はガラガラである。そして最新の流行のものを買うこと以外の「良い生活のためのもの」について本当にとても頼りになる。そして生活用品のフロアでハリオの耐熱ガラスの食器を見つけた。ハリオの製品はいくつか既に持っていて、耐熱ガラスの薄くて軽いのが便利で、あとカラーリングがビビッドでシンプルで好きだ。家ではオレンジ色の水出しお茶ポット。あと大小のポット容器を持っていてこちらは出汁の保存用とか冷茶のサーバとして使っている。 その商品が目に付いた理由は真っ赤なプラスチックのふたがかわいかったからだ。そして既に気に入っているハリオ製。だが大中小の3セットは多すぎないかとも感じた。特に大は径が20cm近くあって大きかったし、3ケセットはキッチンに収納する場所がない。更に、日本橋三越には申し訳ないが、ネットで買った方が安い可能性もあるな…という下心もあり、それで一旦は買わずに帰った。 帰宅してアマゾンや楽天で検索すると、三越で見た価格より高いし赤のかわいい蓋ではなくホワイトしかない。蓋が白いだけで魅力が半減して見えた。やはり日本橋三越だと変な納得をして、ちょうど週末に興味のあるイベント(アイリッシュ音楽のトリオのミニコンサート)のポスターが貼ってあったのを思い出したので、 コンサートの時間に合わせて再度日本橋三越に行くことにした。ティンホイッスル好き、アイリッシュ音楽好きなので楽しかったのと、一緒に見ているご家族のお子さんがノリノリでダンスしてるのがすごくかわいかったのと、そして何よりも 数曲、数十分の小さいものとはいえ久しぶりの生演奏にとても満足して、午前中とはいえ週末なのにあまり人が居なくてさすが日本橋三越だなと変な感服をして、コンサートの後、改めて赤くてかわいいフタが付いた耐熱ガラス容器セットを購入した。 帰宅して早速開封し洗いながらも、目はキッチン中をきょろきょろしている。置き場所探しである。ほぼ毎日使うものなので出来るだけ手元に近い場所に置きたい。しまい込むとせっかくの赤くてかわいいフタが見えないのも不満…そもそもキッチンスペースはかなりギュウギュウで整理がついてないのも不満だった。あちこちをやりくりして上手く行かず、結局、整理が付かない台所の主原因である、コンロ脇の棚に置いてある「適当に入れるかご」を整理することにした。かごの数(3つ)を1つに減らして並べたらちょうど大中小が収まるサイズだったので大変満足。 これもデパートあるあるだが、デパートで良いと思って買ったものの大半は自宅に持って帰るとデカいと感じる。大はやはりデカいと感じたのだが、逆にボウル代わりに使えばいいのかと思いついた。元々小鉢ストなのだが減塩料理のために葉の和え物を作ることが増えていたので、ちょうど使いやすい。生野菜を食べるのにも先に野菜に調味料を合わせてしまってからの方が良いと気付いたのでそれにも使える。余ってもフタをして冷蔵庫にしまって置ける。おまけにフタが赤くてかわいい。日本橋三越には感謝しかない。信用しきれなくていったん帰ってしまって申し訳ない気持ちである。買い物中に見つけた小さい行平鍋も本当はすごく欲しいけど此方は高い買い物なので、やはりもっと吟味しようと思う。三越に行って生演奏の楽しさと、買い物の楽しさを思い出した。そして台所のQOLが上がった。
仕事について。今週は仕事に割く時間が今までで一番多かった。復帰後初めての「企画書」の仕事が連続して入る。事業の企画書が2つと、媒体の企画書。 元々「新しい仕事に取り掛かる」のが苦手だったのだが、手術後に徐々に仕事を引き受けていくたびに「復帰後はじめての」仕事に手を付けるのが、どうにも億劫で、怖くて、なかなか腰が上がらない日が続いている。この怖さは「前よりも上手く出来なかったら私はもうだめなんじゃないか」という怖さだと気が付いた。以前から怖かったのは「頑張って考えてもダメだと言われるかもしれない」という臆病風で、二つの「怖さ」を抱えている。手術前にはそれほど難しいことだと思わなかったような仕事でも「うまくやれないんじゃないか」という感情が、手を付けなければという感情を阻害するような感じである。
事業企画書の1つは大した難易度の仕事ではなかったが、復帰後初めての更地から依頼された仕事だった。ここまでちょこちょことやっていた仕事は、入院する前から継続している仕事だったので「復帰後初めて」シチュエーションである。おまけに先方の上役の人はパワハラ体質のところもあり鬼門でもあった。大した難易度ではないはずだとビクビクとしつつ自分を鼓舞してなんとか、かんとか。とりあえず何とかなり、費用見積も納得してもらうことができたのが金曜、週明けに書類を揃えて一段落である。また一つ「できた」が増えたのかもしれない(し、単に今回の仕事が簡単だっただけかもしれない)。
一方で、仕事が多い一週間、主に家の中で仕事をしていると、口寂しくなるという問題が表面化した。脳を使うとブドウ糖的な甘いものが欲しくなるということもあるのかもしれず対策が難しい。冷蔵庫に転がっていた食べかけののど飴を1ケ舐めてこらえたり、あとは鳩サブレーを買った。1枚約140kcal、おやつには少々ハイカロリーなのだが、美味しいくて「食べて満足」感が高いので、これを食べる、あとは豆乳ティーを作って飲んだりするようにしようと思う。
頭痛はずっと小康状態を保っている。頭痛の種はずっと、今週は主に右目の裏に巣食っていて出番を待ちかねているような気味悪さがある。週末には右耳下から首筋にかけて痛みがつながるような怖さがあったが、こらえて仕事をしているうちに収まったり、夕食後にまた痛みを感じたりで、怖いなと思いながらも寝たら土曜の今朝は落ち着いている。頭痛は本当に辛いのでなるべく気味悪いままで収まっていてほしい…。 来週は仕事の予定があまり入ってないのでのんびりできるといい。
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曖昧な境界線
仕事がすこし忙しい
打合せ3連荘は、思えば元気な時だって大変だった。いわんや病後をや
病後のせいだか何だか分からなくなっていって、だんだん普通になっていくのだろう
リハビリ通院がなくなって、それでも色々からだのことは油断しないように過ごしている。最後の栄養指導が終わって一週間、少し「病後人の戒律」は緩くなりつつ、そして1日の中で仕事に費やす時間の比率が少しずつ増えている。
これは良いことなのだろう。働かないと生きていけないし。
今週の初めに、取引先のいちばんお世話になった方の部署にようやく「復帰しています」のメールを送った。実際には仕事に復帰したのは1月の2週目からだったのだが、あまりいっぺんに復帰解禁をすると、また仕事でオーバーフローしてしまうのが不安だった。なのでまずは上司と当面仕事を共有することにしてもらったうえで、緊迫度が高そうな金額が大きそうな取引先から、ひとつひとつ解禁をすることにしたのだった。
出社はしていない。コロナのこともあるし、のらりくらりと、会社からいい加減出てこいと言われるまでは籠城する構えである。そうするとすごく、仕事が捗るし体が楽なことに気が付いた。 もともと会社までの通勤距離は大したものではない。歩いたとしてもリハビリ病院までの距離と大差なく、基本はバスで通勤していた。病気になる前はコロナもあったので自転車でだいたい20分程度かけて通っていたが、その程度でも通勤時間が無いのは楽だし、あとは手が止まった時に休憩がしやすいのが大きい。やっぱり家の方がすごく良いのだった。手が止まったら家事をしたり小一時間だらだらしたりできる。晩ごはんのための乾物を戻してみたり米を研いでみたり、洗濯物を畳んだりできる。
2月の1週目は、仕事があまり詰まってなかったので「この3日はのんびり過ごしてよい期間にしよう」と決めて、少し先に考えなきゃいけない企画などは放っておいてキッチンの改造やレシピ集めなどを、短めにしたリハビリ散歩の合間にしたりしていた。 ところが週末から今週にかけて何やら慌ただしくなってきた。慌ただしいのもしんどいが、文句を言っては罰が当たるとも思う。気持ちの匙加減が少し難しい。
週末から煮詰まっていた企画ものに引き続き煮詰まったまま、今日は打合せが3本になった。2つは急に入ったもので、できれば連続の打合せは止めたいところだが仕方がない。2つ目の打合せの途中で少し頭痛がして、3つ目の打ち合わせの後の今、ふーらふらとする。
よく考えたら、元気な時でも3連続で長い打合せをしたらクタクタにくたびれていた。病気のせいで頭痛は出ているけれど、くたびれ度はそれほど差がない気もする。体の調子が回復に向かうたびに、何が原因で今が不調なのかがあいまいになっていっている。仕事が煮詰まってるからか、ウッカリ散歩しすぎたからか、負荷が多くて病状が落ち着かないのか。 何となくだけど、主治医先生とか女医先生とかにそう言ったら「まぁそういうものだよ、腫瘍は取って傷口もふさがってて、もう問題はないんだし」とか言われそうだな、と思う。実際もうかなり病人ではないわけだが、そうなるとつい病人感を出したくなったりもする。甘えていたいんだ。
頭痛はこの2週間は小康状態のままである。良い傾向だが無いわけではなく、右目の裏に常に重く鈍いものは横たわっている。そして仕事が詰まってくると頭の傷跡や足の塞栓術の跡などに小さい異変が現れる。先週から今週にかけては右足の塞栓術の跡の引き攣りが結構大きくて、散歩も何となくかばいながら担っている。体調の、そして仕事を含めた生活のかじ取りが大変だなと思う。
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回復期の終わり
木曜は、リハビリ病院の最後の診療予約の栄養指導に行ってきた。それまでに家で体重計に乗っておくべきだったとは思うのだが、結局勇気が出なくて、「病院で乗るのだから今回は甘えよう…」としょんぼりしつつも、それでもやろうと決めた「今日食べたものを写真撮る」は何とか続けた。 到着してまずは小島よしお似の先生の診察。改めて問題なしという話と、車の運転について改めて説明をしてもらう。私の病気である脳腫瘍は法律によって運転を禁じられているものではない、様子を見ても問題は少ないと思うので、運転を再開する時は体調を見て慎重に判断してください、という話と、免許の書き換えの時期が来たら免許センターに相談をしておいてほしい、という話。まぁ今はコロナなので東京都のナンバーを背負って道の駅ツアーとか気が引けるし、そもそも論でそこまで遠出をする元気がないので、自分の体調と仲良くなって様子を見ることにする。多分、コロナが収まって、かつ、我慢できないぐらいになったら元気になった証拠、みたいなところな気もする。
それから体重を測って栄養士の先生との面談。看護師さんが「わ、すごい減りましたね!」と驚いたので満面の顔をしていたら、栄養士の先生が目の前にいて恥ずかしい気持ちになった。そのまま面談室に同行し、カルテなどを見つつ話を聞いてもらう。というか、6日分の「食べたもの写真」を見てもらう。
写真に乗っているおかずたちの概要(何が入ってるかとか)を説明して、どんな感じで料理してるかも説明して、不安に思ってたことも質問して、先生としては何よりも体重減ってるし元気そうだし、問題ないでしょう、ということに。
前回、栄養相談を受けたのは1月頭で1か月前だった。 その頃は退院して1か月で、まだよれよれしながら作った切り干し大根やけんちん汁が美味しくなくて途方に暮れていた。病院で出していただいていたメニューを思い出しつつ、取りあえず食べる量、調味料の量を少なくしときゃ良いんだろという投げやりな食事の支度とその結果の味気ないごはん、たまに通院の帰りにハンバーガーひとつを食べて帰ったりコンビニでカロリーと塩分を見てOKな食べ物だけ買って帰る、という残念な食生活だった。 更に、頭痛とともに現れる「噛む」と痛い、口を大きく開けると痛いという日もあったりで、食べること自体が何だか辛い、そして今思えば、食べること以外にリソースが優先されている時期だった気がする。元々食べるのが好きじゃなければ「そういうものだ」と思ったのかもしれないが、食べるのも作るのも好きだからこそ、過去の自分の食事がダメだから今こんな状態なんだろうという自罰的に追い詰まるようなしんどさがあった。 思えば、主治医先生に「やせた?」と聞かれた時に栄養指導を受けますと言ったら「通り一遍の当たり前のことばっかりだと思うよ」と言われたのだった。その時もしょんぼりして、でも私その通り一遍が分からなくなっちゃってるんです…と思ったものだった。 そのしょんぼりした気持ちを栄養士の先生に正直にぶつけてみたのだが、リハビリ病院は栄養士の先生もやはり聞く力があるのだった。 支離滅裂に「自分が作ったごはんが美味しくない」「今まで作ってきた食べ物は間違いだったのかと落ち込む」「和食を主に食べてきたので醤油上等の和食をどうやって減塩で作ったらいいか…」「もう分からない…」と一通り話を聞いてもらった。栄養士先生から普段作っているおかずの作り方を聞かれて答えたところ、そんなに塩分が気になる食事には感じない、と言う。ルーティンで作りがちな切り干し大根とかひじきの煮物とか筑前煮とかで全然オッケーらしい。それでかなりホッとしたのだ。 そして、調味料の一般的な塩分を教えてもらい、満足度高めの濃い目の出汁にはシイタケの出汁をプラス、などの料理の工夫を教えてもらい、「肉よりは魚、魚より大豆」、「油分を欲したら、脂身の多い肉よりもジャガイモのコロッケとか魚のフライとか」などのアドバイスももらって、何とかやれそうな気がします!となったのだった。それと、心配していた「コーヒーは高血圧に良くないのでは」という問題を聞けたのも良かった。この時期は散歩に燃えていた時期で、散歩の途中で気の利いたコーヒー屋を見つけたらコーヒーをテイクアウトして公園で休憩しながら飲むのが楽しみだったのだ。それが出来なくなるのは辛い。何とか味気ない食事生活から抜け出したくてインターネットで「高血圧 食事」などと検索すると割と出てくるのがコーヒーと酒が禁忌という記事で不安になっていた。血圧計を作ってる医療機器メーカーのサイトに書いてあるわけで、不安しかなくなってしまう。酒は今はそもそも飲む気もしないのだが、その代わりなごとく急激にコーヒーに拘り始めていたので、こだわれる嗜好品がなくなるのは痛手だった。が、先生に聞くと「大量に飲まなければ問題ないと思いますよぉ、一日1、2杯?じゃあ全然平気です!」と答えてくれた。不安になってる人がインターネットで検索するとろくなことがないなと実感した。
人に聞いてもらうと、やるべきことが整理される。なぜ今まで思い出さなかったのかと思ったが以前熱心にダイエットした時に買ったレシピ本があったのを思い出して読み直したらちゃんと塩分量も書いてある良いレシピ本だった。 このレシピ本から美味しそうで比較的楽に作れそうなものをピックアップしたり、栄養士先生のアドバイスをもとに和食に再チャレンジしたりと、急にぐっと「食べること」「食事を作ること」が楽しいものだと思いだしてきた。ツイートも食べ物のことばかりになって、買い物に行くのも楽しくなった。ごはんはいつも多く炊いて冷凍しちゃうのだが、目分量で少量になるように、冷凍パックを作る時に重さを測ることにした。料理中も、雑にとはいえ一応小さじで入れるようにして目分量を数値化するようにしてみた。こわごわだからまだ全然過剰に薄味だけど、薄味に慣れてきた。納豆のパック(カップ入りの小さいほうにした)のたれも半分とか、梅干し少量とかに変えてみた。冷蔵庫で余っていた梅酒の名残りの梅びしおをたれとして使う、レモン汁を使う……色々楽しくなってきた。
それで1か月。体重の変化は 1か月1kgぐらいが健全な減量ペースらしいのだがそれ以上に減った、血圧も安定している。がんばってますねぇと褒められる。
体重計に怖くて乗れない件については、先生も毎日乗る必要なんてないですよと言う。前回のダイエットは毎日測ってたのだが体重が減らなくなるフェーズとプライベートでも色々なことが重なってずるずると元に戻っちゃったので、という話をしていたので、月に1回でも全然いいですよ、と言われた。優しいな笑。取りあえず当面は「気に入ってたのに履けなくなったスカート」を基準にすることにする。週に1度ぐらい着て見て確認をする。
1か月料理を作ってきたところでシミジミ思ったのは、栄養士の先生に見せて恥ずかしくない程度に、というのが良く影響しているように思う。ていねいに料理したり盛り付けたり。人に見栄を張る部分を利用したのは奏功して、腹を満たすことに加えて料理するの楽しい、身ぎれいに作ると楽しい、と思うのが浮上のきっかけになったようだ。 まぁ、でも、これを人に見せなくなった時にどうするか、という問題はあるのだが。
栄養士先生は、もしまた困ったら連絡をください、と言う。どの先生も同じことを言ってくださったのが、本当に心強い。もっと近ければかかりつけ医にしたいところだが、まぁ機能性病院だし難しいところかもしれない。
取りあえず、先生に見せることは無くなっても料理写真は継続することにした。見栄を活用する。ダイエット日記系のサイトにアップすることも考えたが、これだとまたカカりそうなので、しばらくはただ写真撮るだけ。
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頭痛の研究
頭痛の第二波は少し収まってきた
鈍痛も刺す痛みも、どちらもつらく苦しい。そして私は日記でも見栄っ張りを発揮している
頭痛を研究し、ともに生きていく
過去の文章を読み返していたら、今週は頭痛がかなり改善されている期間だなということを実感した。 体調は日々変化があり、そして「今日は無問題!絶好調!」という日があるわけがないので、今日のコンディションを「取りあえずヨシ」とするかどうかを判断するのは、過去の自分を引き比べるのが一番手っ取り早いと感じた。 頭痛がそうとう辛かったのは3週間ぐらい前になるのだが、長文のログでは見栄を張っているせいかあまり大きな泣き言がかかれていない。twitterでは頭いたい、いたいと時折つぶやいているので、それを読んで「あーすごい痛かったんだよな」と思い出す感じ。今はtwitterは食べ物のことばかりで、のどか度が増加している。日記を読み返すと自分の病状や体調が分かりやすいので、見栄を張らずに痛みやつらみはちゃんと書いておくのが良いようだ。
改善されているとはいえ、頭痛はなくなっているわけではなく、常に脳内の右・内側に「ここから頭痛の芽が出て葉を茂らし花が咲くのです」といった種として存在感タップリにある。そして鈍痛の名残りのようなものがずっと付きまとっている。孫悟空が三蔵法師につけられた頭痛リングのようなものがこめかみあたりにずっとあって、何かの拍子に…ズムズム、と鈍い痛みを感じる。そういう時は「お、御師匠さま~~」と言いたくなるのだが、この鈍痛は3週間前にはもっと強烈な痛みで目を開けていられなかったり吐き気を伴うようなものでもあったので、それに比べると改善されていると感じる。生きているのがイヤじゃなくなっている。3週間前は痛くて生きているのがイヤだった。
外傷的な頭皮を刺すタイプの痛みもまだ定期的に起こる。こちらは金属的な刺す痛みで一瞬に過ぎ去る。縫い跡の右の一番端の耳の裏あたりと、一番中心に近いちょうど脳天のつむじに接するあたりに特に発生しやすい。こちらは痛みが瞬間的ですぐに去るのだが、精神衛生上あまり良いタイプではない。傷が開いたのか?という、あり得ないはずの恐怖である。
長文のログを読み返すと、3週間前の頭痛時、当初は「仕事が忙しくなったせいだ」と解釈をしていた。ちょうどその頃は細々と仕事で差配することが重なり、「ある程度、通常通りに仕事を回す」のが仕事への復帰から初めてだったこともあってそう感じていたようだ。手配や差配は間違えるとこちらでは挽回のしようがなく金銭的なダメージも小さくないので緊張してストレスが強かったのは確かだ。更に、まだリハビリも真っただ中で「脳ミソ、後天的な問題はいったんヨシ」という診断も下りてなかった時期だ。あと寒さも厳しかった。1月は一年で一番寒い時期で1年で一番昼間が短い時期でもある。 思えば、入院中に主治医先生が予想した退院時期(クリスマス前)を聞いて、あぁ冬の一番寒さが厳しくて日が短い時期に、家でじっと療養に耐える時期になるのか…と思ったのを思い出す。寒い時期はキツイだろうな、という不安と、元々厳しい時期に療養を耐えるのは悪くないかもな、という思いと。結果的には後者の方に転がったのかもしれないと思う。コロナで世間全般がストレスフルになっているのも、個人的には良い方に作用している気がする。みんなが楽しそうだったら、なぜ私だけ、ともっと悲しい気持ちになっていたと思う。まぁこれはリアルで心配してくれている人たちには中々言えない言葉ではあるが。
その後、仕事も、良い結果にホッとしたり悪い結果にイラっとしたりがありつつ一段落して、自分のペースでやれる仕事が少量という療養者にとっては良好な環境になり、2月立春の声を聞くころになれば東京では池の氷も見かけることもなくなって、先週から少しずつ「頭痛…」と思う時間が減ってきた。今週は今のところ辛い痛みが出る時間はかなり減少している。ありがたい。まぁまた頭痛のシーズンが戻ってくるんだろうなという不安はあるが。
そのために頭痛のことばかりを考えている。頭痛を知って頭痛と仲良くとまでは行かずとも節度を持ったお付き合いを出来るようになりたい。
多少沈静化してこのところの傾向としては、頭痛が出るのは、変な体勢でストレッチをやった時とか、TV見ながら腹筋しようとして変な体勢になった時とか、布団でぬくぬくとしながらノー眼鏡・タブレットでマンガを読もうとしたりとか、そういう「変な体勢という油断負荷」がかかっている時が多いように思う。ストレッチポールに寝転んでぐろんぐろんとしている時にも、頭の置き位置が落ち着かないと頭痛の種から双葉が覗きそうになり焦る。 仕事については、適切な量と質であれば集中している分、頭痛を忘れられる感じはある。ただし煮詰まると一気にクる。3週間前はそれで、あーだめだ、出来ない、とソファに倒れて歯を食いしばって頭痛に耐えることが日に何度もあった。
主治医先生には、入院中から何度も頭痛の件は報告をしていて、そのたびにはぐらかされている。要するに「頭痛が起こるのはしょうがない」と言うことなんだろうと思う。何なら手術後は「痛み止めはジャンジャン飲んじゃっていい」と女医先生は言っていた。 1月の主治医先生の診察でも、頭痛と、更に頭皮に感覚が戻らない件も相談したが、どちらも「うーん…、だいたい3ヵ月かな」と答えられた。主治医先生は、初めての診察の時から、治る、大丈夫、絶対、とは言わない、ある意味真摯な人なので、頭痛や頭皮の感覚についても断言はしないんだろうと思う。手術前も、大丈夫って言ってくれないのね…と、出征を見送る妻のような気持ちになったものだが、やはり今でも同じである。 私は変わらず弱く、主治医先生はただ真摯であり、病気や生命や身体というものは、そういうものなのだろうと思う。
要するに、頭痛とは一生のお付き合いになる可能性もあるので、何とかこう、なだめすかして共存をしていく道を探るのが良いのだろうと思う。そして同じように他の色んなことにも適度さをもってやっていくための、衰えていく準備のようなものなのだろうなとも。
明日はリハビリ病院の”最後の授業”、栄養指導に行く。そのあとはちょっとだけ出社して書類出したりする。
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一段落そして
実はもうやることがあまりなかった作業療法リハビリ
次に免許を書き換える時には「わたし、脳みそカパッと開けたことがありますねん」ってお巡りさんに言う必要がある
プロのマッサージまじ気持ちいい
ストレッチポールで背筋をストレッチするのがとても気持ち良かったので、ポチっと購入ボタンを押しました
木曜は作業療法の最後のリハビリ。 とはいえ、高次脳機能障害のテストも前回で終わっていたようで、その結果問題なし!という話と、あとは車の運転についての説明があった。 私は脳腫瘍の手術を受けたので、免許を更新する際にはその旨を申告して、何なら書類を提出したりしなきゃならないらしい。そういう法律なようなので当然従うけれど、私の免許証はゴールドで、去年更新したばかりなので次の更新は4年先だ。今は当面、車を運転する気力や元気は全然無いけど、2年ぐらい経ったらさすがに元気に戻っていて、世界もコロナが一段落したころでドライブの一つや二つしたくなるんじゃないかとも思うので、そういう 「免許更新前・でも元気期」どんな顔をしたらええんじゃろ、という気はしないでもない。ネット検索した限り、警視庁の安全運転相談関連のページにてんかんはあるけど脳腫瘍は出てないし…。
取りあえず、新・OT先生には、仕事などで車を運転することがそもそもNG(事故起こしたら保険の処理など面倒なのでタクシー使え令が出ている)なのと自動車は持ってないこともあって、しばらくは運転する機会もない、と説明して、まぁそれなら書き換えの時期に相談してください、ということになった。玉虫色の結び方ではあるが、まぁこのあたりは主治医先生に改めて聞いてみることにする。そしてしみじみ、運転が必須の仕事とかではなくてよかったなと思う。
それで、残りの時間は余ってしまったので、左腕~肩をマッサージしましょうかということになった。大変心地よいマッサージタイムを15分ぐらいしてもらっていたら、左の背筋と左肩がすごい堅いですと言われる。 実は左の背筋は病気になる前、もっと若い頃からの弱点で、過労状態になると真っ先に金属的な刺す痛みが来るのだった。マッサージとか低周波治療器とかやってみたけど治らないんですよねぇ…と答えた。背筋鍛えたらいいんですかねと続けて言うと、そうじゃなくて筋膜リリースがいいかもしれないです、と言う。 新・OT先生が、一通りマッサージをしていただいた後に、ちょっとやってみます?と、長くて太い棒を持ってきた。長さは1mぐらい、太さは手のひら大ぐらいで発砲素材?で出来ているようで軽い、そして堅い。 それをベッドの上に置いて、この長くて太くてかたい棒の上に、そのままタテにあおむけに寝てください、と言う。背中が伸びそうである。背中のストレッチって自力でやるのに限界があって難しいし、ここに寝たらぐいーんと伸びて気持ちよさそう!と早速寝っ転がってゴロンゴロンとする。超気持ちいいのである。
新・OT先生が慌てる。 ゴロンゴロンは、のっけからでは危なっかしかったようで、 まずは何もせず太くて長くて堅い棒の上に寝っ転がっているだけでも良いですからと言う。確かに、ただ棒の上に寝ているだけでもバランスもそれなりに要るし背中が伸びている実感がある。気持ちいい。慣れてきたら左右にゴロンゴロンしても良いし、棒を人間とクロスするように横にして、猫のように背筋をそらせるのもアリらしい。すごく気持ちよさそうなので早速やってみる。頭の血が下がる感じがある��すごく気持ちがいい。これ買います!やります!とテンションが上がったところで時間が来た。
筋膜リリースというキーワードはとりあえず後で検索して勉強するとして、新・OT先生にも改めてお礼をして、作業療法のリハビリも終了。退院した時も思ったのだが病院というのは、一連の診察が終わる時にとてもあっけない。
思えば作業療法のリハビリも始めてすぐの頃は出来ないことばっかりだったなぁ…と思うのだ。文字拾いが上手く拾えなくてしょんぼりしたりしてたことを思えば、相当な改善である。脳に問題があったらいやだなと思っていたし、一通りの「回復期リハビリテーション」が終わったとしても、まだ見つけられない問題があるかもしれないから不安がなくなるわけではないけれど、それでもとてもお世話になったし、さっぱりとあいさつして帰るのがちょうどいい。困ったらまた相談はしていいとその前の新・PT先生は言ったし。個々からはしばらく自分が一人で頑張るターンになる。
この日はリハビリ後に仕事のブレスト会議があったのでそのまま歩いて日本橋へ。3時間ぐらい雑談交えてブレストをして、また歩いて帰宅した。
帰宅してから小さい頭痛と戦いつつ細々とした仕事のメールをのろのろと片付けていく。少し遅い晩ごはんを食べながら、来週の栄養士の先生との栄養指導までに、食べたものの写真を全部撮って見せよう、と思い立った。週末に少し頑張って料理をして。
本当にもう、秋からの「入院・手術・退院そしてリハビリ」は一段落に差し掛かっているみたいだ。11月の半ばからなので、3か月弱。あっという間だったような長かったような。総じて「辛くて辛くていっそしにたい」と思う時間は多くは無かったと思う。色々恵まれている。 ただもう少し、体調の記録も含めて日記は続けようと思う。そもそも本来はサッカーの観戦記を書くつもりで取ったアカウントなので、寛解したらサッカー観戦記録に戻るといいなと思う。少し先の、私の体調も戻って、コロナに怯えなくても良い日が来たらサッカー観戦をしたいのだ。
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一段落
理学療法リハビリが一段落
ラストランで今までの血の滲むようなトレーニング(じゃなくてリハビリ)を振り返って少しおセンチに
クララはとうとう、飛び跳ね、走ることができるようになりました
頭痛は相変わらず。多少、私の脳みその中で頭痛を起こそうとしてる邪悪な小人(この人たちは手術1日目の時も奮闘してくれた)の力加減が弱まってきた感はあるのだが、仕事の詰まり方が収まってきたからかなという感もあり。発生条件や因果関係はよく分からず。
今週の通院でPT、OTともに一段落、ということになった。 火曜の新・PT先生のリハビリは、今までのおさらいと、ジャンプ&ランニングのトライ。 つま先立ち3秒×10、斜め後方へのキックなど、苦手だった動作を改めておさらい。特に問題なし。 次に、難しくしましょうということで、ウレタンのフワフワのマットレスの上で足をぴちっと閉じた状態で直立し目を瞑って立ち続けられるか、更には足のポジションを前後に置いて目を瞑って立ち続けられるか。体のバランスを取れるか、バランスを崩しても立て直せるか、ということを見るらしい。
目を瞑って立ってられない件については、先生に報告こそしていなかったが日常的に実感していた。歯を磨いてる時に目を瞑ると猛烈にぐらぐらして立ってられなくなったことがあったのだ。めまいなのか単なるバランスの問題か分からなくて不安だったんだけど悪い方に取ろうと思って布団に入って寝ちゃって、まぁ何ともなかったから忘れていた。 それをフワフワのマットレスの上でやれと言う。案の定ぐらんぐらんしたが、先生から見ると及第点らしい。かなり難しいんですよ、と慰められたが及第点なら取りあえずヨシ。家で固い床の上でやれば大したことがなく立っていられる。フワフワの上だと途端に難しくなるのが面白い(というか体幹がなってないのか)のだが。
それから、時間が余ったので、安全ベルトを外して自転車漕ぎ10分間することになった。ラストラン的な感じも漂うが、自転車を漕ぎながら改めて、手術前のピークに酷い時はこれができなかったんだよなぁ…としみじみと感興が沸いた。自転車のペダルに左足を乗せ続けることができなくて、自分で気づかないうちに足が滑り落ちて地面にこすれて自転車がストップする、滑り落ちた足をペダルと車体の間に挟んじゃう事故も数回あった。だがまぁ、スイスイ漕げる。 ラストラン的感興もあってか、わたしこれ全然できなかったんですよ、とポロッと口に出したら、それを受けて新・PT先生が「最初はいろいろ出来てなかったですよね…」と言う。
新・PT先生から、これまでのリハビリでは「Nさん、出来てないですね」とか否定的な言葉を言われたことが一度もなかった。ハイOKです、大丈夫ですよ、とは言われたが。私自身が色んな事が出来てなかったということは自覚はしていたけれど、新・PT先生がそれを指摘することは無かったのだが、今日で卒業だし思わず感慨深くなったのかもしれない。 優しいというか、やはり「その状況を受け止める力」が高い。あと回復に向かわせるためのメソッドがあるんだろうなと思う。それが医療だからと言ってしまえばそうなのだろうし、私も頑張ったというのもあるけれど、医療を提供する人というのはすごいなとしみじみ思う。あーまだまだでしたね、とか、つい言っちゃわないような訓練と心構えがあるんだろう。 その後も思い出トークというか「1万7千歩歩いたって聞いた時は驚きました、でも大丈夫だなーと思ったんですよね」とか振り返って感慨深いラストランである。
最後の課題、と言うのも何だが、ジャンプ&ランニングである。本当に簡単なことなのだ。だが、勇気がなくて退院後一度も飛び跳ねてもいなければ走ってもいない。というか思えば麻痺を自覚しだしてから全然走れていなかった。打合せで同行した人が走られると「うわーやだー」と思っていた。左足が上がらず左足のありかが分からなくなっていたわけで、走れるわけがなかったのだ。その時はそんな症状(自分の体がどこにあるか把握できなくなる)が存在することも分からなかったので、走れないのは捻挫が酷くなったのかぐらいのものだった。
走る、飛び跳ねる勇気がない、というのは今となっては左足の麻痺の問題というよりも頭の傷に障るのではという恐怖が一番大きかった。 でも、走る飛ぶのが怖いのは心因性だけじゃなかった。跳ねた体の着地に際して、足腰で衝撃を吸収することができないんじゃないか、よろけた時にバランス取れるかという身体性の不安がかなりの比率を占めているのだと、新・PT先生の言う通りにジャンプ(補助ポールにつかまりながらつま先を残すようにジャンプ)してみたり、新・PT先生の言う通りにジョグ(まずは静止してかかとだけ上げるぐらいの気持ちで早足踏み、そこから上半身を少し前に倒して前進)してみてすごく良く理解できた。 確かな専門家が見守っている中で、と言うことも心因性をカバーする安心感ではあるが、動作の根の部分をコツで教えてもらって、少しずつやったら、怖いことがなかった。魔法!
実は、先週家の中でラジオ体操第一をやってみようと思ったのだ。雪が降ってて外に出るのが億劫だったのもあった。だが冒頭の「手足の運動、足を曲げ伸ばして元気よく!」がもう怖かった。 あの時の「怖かった」は要するに、足の踏ん張りがきかなくてバランス崩すんじゃないかという自信の無さだったか。お年寄り向けの膝サプリのCMをじーっと見つめてしまう。そうか力が入らないかもしれない不安が階段を降りる怖さなのか。
出来た!出来た!と笑いながら、それほど広いわけでもないリハビリ訓練室を小走りで2周。周りの他の患者さんがアホを見るような目で見ているかもしれないが大丈夫。新・PT先生は私が全力疾走とかの無茶をしないように後ろについて転んだ時用のサポートをしてくれている。 「出来た!」とゲラゲラ笑う私に新・PT先生は「まずはあまり人が居ない、平らな道で」「短い距離から始めてくださいね」「隅田川の遊歩道とか、そういう所で、短い距離から」と何度も念を押す。私が調子に乗ってマラソンとか始められたらそれはそれでだめなのだろう。とにかく様子を見ながらゆっくりと取り組むのが肝要なようだ。リハビリ。あと私が直ぐに調子に乗るから余計に釘を多めに刺されている。
新・PT先生とはこれでいったんお別れである。先生からは、もしこの先に何かがあるようならまた受付に連絡をください(場合によっては対応できないこともあるんだろうと思う)と言われた。 さみしい。さみしいが、医療とは早くお別れできるほど幸せなのだった。でも寂しいな。色んな、私が持ってないもの(ゆっくり、とか、バランスを見ながら、とか)を教えてくれたとても良い医療のスペシャリストだった。
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心配と共に生きる
引き続き、頭痛が痛い
吐き気やめまいも怖い
この2週間は、鈍い頭痛と共に生きている。
仕事を再開し始めているせいなのか、「回復のための体のルーティーン」なのかが分からないのが心配なのだ。そろそろ頭痛に去ってほしい。去ってくれればああルーティーンだったな、と思えるのだが、なかなか痛みがなくならない。
心配だけど、じゃあ病気の前の私は、なにがしかの心配を抱えていなかったのかというと全くそうでもないので、「人生は心配だ」というベースでやっていくしかないんだろうな、とも思う。
頭痛がするから仕事を途中で切り上げて、散歩の距離も減らし、早めに晩ごはんにしちゃって食後に時間があったのでリハビリ用の筋トレをしていた。するとぐぐぐっとめまいとともにこみ上げるような感覚。仕事が進まなかったストレスもあるし頭痛も心配でさらに吐き気になるのはとても困る。困るので筋トレもやめて(そもそも大したものでもない)すぐに布団に入って寝た。心配していたのは気持ち悪くて眠れなくなったらどうしよう、という恐怖だったのだが問題なく、朝起きたら体調は何ということもない。
こんな感じの小さい恐怖が、毎日何かしらある。ちょっとした不調を心配するぐらいの方が、もともとがズボラな私には良いとは思うのだが、ちょっとした不調と不安を気にせずにいられない程度には、まだまだ万全ではないのだろうな…とも思う。病気は本当に本当に大変なものだ。
土日は雪の予報だったが、雪にはならなかったので両日ともに散歩に出た。土曜は傘をさして、日曜は雨もやんでいたのでそのまま出た、ともに8000歩台で、寒かったからという原因もあるけれど、あまり欲をかかずに帰ってこれたなと少し自分をほめたい気持ちになった。 だが、今日の月曜は、天気が良くておまけに気温も穏やかな寒さで絶好の散歩日和である。こんな日こそショートコースで潔く歩くべしという気持ちと、こんな日じゃないとロングコースは行けないぞ、という気持ちが戦い、結果「長そうだけど未計測のコース」という狡い結論になった。 岩手県のアンテナショップに売っている、美味しい切り干し大根と超肉厚で旨い干しシイタケと、すごく便利な乾燥ささがきゴボウを買いに行かなくては、という使命感をもって銀座に向かう。その後日本橋まで遠回りをして12000ちょっと。結局遠回りをしたので計測はできなかった。天気がいいとつい調子に乗る。そして疲れている。頭痛は、小さく鈍く重いものが間断的に。うーん。
明日は朝早くのPTリハビリ、最後になるのかもしれない。そのあとは打合せ。早寝の必要がある。
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日記のリアタイ化とリハビリ終盤
祝・リアルタイム更新化
忙しい、そして頭痛が痛い
そろそろリハビリが終わる
日記がリアルタイムの時間進行に追い付いた。仕事を始めると大量の文字を書く時間が取りづらいが、特に病状にドラマティックな変化や刻々とした変化があるわけではなく、要するにただ忍耐が必要なゆるやかな日常に向かいつつあるのだろうと思う。
今週はとにかく頭痛との戦いをしている。
恐らく、仕事の再開が影響しているのだろうと思う。年末頃にも、かなり厳しい頭痛が辛かった時期があった。散歩しすぎたり少し張り切って生活をすると雷が落ちるような刺す痛みが起きて朝起きると治っているというサイクルを繰り返した。 今週の頭痛は、その時よりは痛みの強さはマシになっている。一方で痛みが出る時間が長いのがかなりつらい。今回はパソコンやタブレットに向かう時間が長くなると起きる。そして寝ると落ち着くのは同じ。前回の頭痛はいつの間にか収まっていたから、これもまぁ当面は耐えるしかないんだろうなと思う。つらい。痛いのはつらいな本当に。
仕事については、手を付ければ付けただけ仕事してた時の感覚をいい意味でも悪い意味でも思い出している。進行の仕方を思い出したり、煮詰まって困ったりしている。本当はもう少しゆっくりやりたかったが、まぁ仕方がない。ゆっくり適当にコツコツとやる。
リハビリは、かなり終盤に来ている感じがしている。火曜の新・PT先生との下半身リハビリはもう「最終のテストとおさらい」という感じである。教わったストレッチの形をおさらいし、いくつかのテスト(かかと上げとかヨガポーズの持続時間のチェックとか)を行い、体幹用の新しい筋トレ(くるぶしに柔らかいボールを挟んだままかかと上げ)を教わり、余った時間を自転車トレーニングをやって、終了。 木曜の新・OT先生とのリハビリは、高次脳機能障害のテストを最後まで終わらせた。前回やった「ランダムに読み上げられる1ケタの数字の前・後の数字を足し算する」のハードバージョン。読み上げる数字同士の感覚が短くなっていて全然計算が追い付かなくてゲラゲラ笑ってしまう。もう一つは「上・中・下」という文字が上中下の三段にランダムに(上の位置に下という文字があったり、真ん中に上という文字があったり)並んでいるものについて文字ではなく位置を答える、というテスト。どちらも好成績だったので、ほっとする。 新・OT先生が私の出来の良さ(笑)にしみじみと、医科歯科のリハビリ科のカルテを見ながら、すごく改善してるんですねぇ…ペースも早いし回復度も高いです、と言う。とても嬉しいのだが、頭痛がつらくてあまり楽しい気持ちにならない。あとは、いやらしい話だが生来偏差値的なものは高かったので統計的な標準レンジよりは高いんだろうなという想像もある。でもそんな話をしても楽しいことは無いので「手術したら今までよりアタマが良くなっちゃったのかも!」と混ぜ返しておく。
新・OT先生が、高次脳機能障害については問題ないと思う、そしてリハビリ的にももうやることもないと少し控えめに、言った。病院としては「それでも不安だから通いたい!」と言えばNoを言えないからなのだろう。私としても、仕事に関わる時間が増えてきているし「そろそろかなぁ」という感じはあった。さみしいけれどもうすぐリハビリ通院も終わりになるようである。ラポール的な現象なのだろうが、医科歯科を退院する時も、今回も、名残惜しくて寂しい。ずっとそのままお世話になるわけにはいかない(医療を圧迫するだけだから)し、実際ずっと医者にかかってるのはそのうち面倒の方が強くなるのは分かりきっている。でも寂しいし不安にはなる。
とはいえ、療法士では決定はできなくて医師の診察が必要とのことで、来週も引き続きリハビリ通院はすることになった。新・PT先生が1月のはじめごろに「1月中でリハビリ終了できるかもしれません」と言っていたがまぁその通りになった。専門家というのは、本当に、ちゃんと正しく予測をするなぁ。 あとは2月に栄養指導の予約をしているんだけど、まぁそれはお礼を兼ねて、と言うことにしようか。
頭痛、去ってほしいなぁ…。
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「ちょうどいい」のむずかしさ
どうも歩きすぎる
ということで、散歩コースのル���ト整備をしてみる
これまでと毛色が違うのは、この記録がリアルタイムに近づいてきたからです
リハビリがそれなりに順調に進み、よろよろながらも仕事を始めた私が今、直面しているのが「ちょうどいい塩梅で散歩ができない」という問題である。 そもそも、生まれつきの性質なのか、私は「ちょうどいい」がとても苦手である。よく言えば集中力がある子供で、悪く言えば視野狭窄になりがち、そして集中力が発揮できるまでエネルギーが貯まるのに時間がかかる。燃費が悪い厄介な性質がある。
リハビリのためには散歩は良いので楽しみながら続けてくださいね、と新・PT先生は言ってくれるのだが、私は頻繁に、うっかり歩きすぎてくたびれてしまう。健康な成人の適度な運動のために1日1万歩とか喧伝されているが、私はまだ健康じゃないのに、うっかり天気が良かったり、うっかり気持ちよさそうな公園を見つけたりすると、うっかり1万5,000歩以上歩いてしまったりする。 更に散歩が好きなので、うっかりしてなくても、散歩ハイになってしまって1万歩以上になることが多く、帰宅してからグッタリくたびれたり、足をパンパンにしたりしてきた。
これまでは、別にグッタリくたびれようが、足に多少筋肉疲労が溜まろうが、どうと言うこともなかったのだ、仕事を再開していなかったから。でも今は仕事を再開したから、ぐったりしているわけにはいかないし散歩に2時間、3時間を費やすのは少しマズい。ちょうどいいぐらいの距離を心地よく納得して歩きたいのだ。 少なすぎず、多すぎず、ちょうどいい量で歩きたい。更に、納得してというのも大事で「もう少し歩きたかったなぁ」とか「あっち方面に行ったのにあのコーヒー買ってこなかったな」とか「ちょっと飽きたなこのルート」とか、そういう不納得をできるだけ得たくない。
ということで、1月3週目の週末は、「ちょうどいい散歩ルート」を考えることにした。 折り返し地点に関して言えば、春の緊急事態宣言の時に散歩していた蓄積があり、既にいくつか開拓はしていた。今回は更にいくつかのポイントを満たせるように、また具体的に歩く道路を検討、選別し、歩行距離と時間があまりブレないようにルートをゆるく固めたい。 ポイントは、公園や川沿いがあること(途中で休憩ができるから)、なるべく往路と復路を異なる道を歩ける一筆書きルートであること、そして美味しいコーヒー屋さんでコーヒーを買えたりすること、である。 それでいくつかルートを作ってみた。
【木場公園ルート: 1弱 】 ⇒堀割跡の遊歩道を通って公園へ ⇒公園を半周して高速づたいに門仲へ ⇒門仲から北上し、いつものコーヒー屋に ⇒近所の公園でコーヒーを飲む。余力があれば公園をぐるっと このルートが一番気に入っていて、川沿いも公園もゆっくり歩ける。木場公園は広くてアップダウンもあって、景色も良くてとても良い。途中に良いスーパーや良いカフェなどもあるのでなお良い。ただ頻繁に使用すると飽きてしまわないかと不安ではあり。
【佃ルート: 6 】 ⇒川の遊歩道をずんずんと南下、越中島まで ⇒相生橋を渡り佃島に上陸、佃島の遊歩道を、端から端まで歩く ⇒遊歩道を中央大橋まで引き返し、本土に戻る ⇒川の遊歩道をずんずんと北上 このルートも気持ちがいい。のだが、少し距離的に物足りなさがあり、うっかり「もう少し歩きたいな…」と欲をかいて八重洲や八丁堀に足を延ばして歩きすぎる、というミスをしがち。遊歩道の端から端まで歩いたり、大川端の土手を無駄に上り下りしてくたびれておくことで欲望を昇華しておくのがポイントか。と言うか、時間がない時にちょうどいいルートとしておく方がいいか。
【日本橋ルート: 6 】 ⇒バス通りをまっすぐ、永代通りに入って日本橋交差点へ ⇒高島屋をチラ見しながら東京駅の方に ⇒東京駅から日本橋北詰、三越をチラ見しながら通り過ぎる ⇒江戸通りを右に曲がって昭和通りを渡る ⇒行きつけのコーヒー屋さんでコーヒー買う ⇒公園でコーヒー飲み休憩、金座通りへまっすぐ このルートはとても難しくて誘惑が多い。チラ見だらけだ。デパートでしか買えないものがある時などのスペシャルルート。あとは人が多くなるので、休日と出勤時間帯、ランチタイムにかかる時はダメ
【浅草ルート :1強 】 ⇒隅田川の遊歩道をひたすら北上 ⇒隅田川の遊歩道をひたすら南下 このルートは頭を使わずに済むし途中の誘惑もないしで重宝する。のだが、浅草の先に誘惑が多く、特に、超大回りで一筆書きルートを書けるので、天気がいい時にウッカリこのルートを使うと、ウッカリ1万7,000歩も歩く羽目になったりする。それは元気になってからやろう。
リハビリ病院をそのまま寄り道せず往復すると、だいたい8,000歩ぐらいでとても良いのだが、それはまぁ、病院に週2回通っている今は「それが散歩代わり」になってるので、通院が終わったら散歩ルートとして検討整備をしようと思う。今のところは「通院用」なので大通りをひたすら真っ直ぐ進んでいるだけで、散歩ルートとしてはちょっと物足りないところではあるのだ。
明日は早起きして日本橋ルートを行ってみようか。
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仕事復帰のむずかしさ
リハビリを初遅刻
私の日常が帰って来たのか、キャパシティオーバーか
できなくなっていたらどうしよう…、という恐怖
「治った」の坂はまっすぐ一本道ではなくて、それがつらい
(仮)復帰後からの1週間は、何だか忙しかった。
少ない相手からとは言え「仕事に戻りました」と報告すれば、凍結してたものが動きだしたり新しい仕事の話が来たりするもので、気が付いたら家の机でPCの前に座っている時間が増えている。悪い話じゃなくむしろありがたくて申し訳ないぐらいなのだが、調子に乗って仕事を抱えられるわけでもないので、自分の調子の舵取りがとても難しい。1月の2週目は「リハビリ、 仕事、 そして生活と体調」である。 退院後の「とにかく体調」から「リハビリと体調の両立」→「リハビリ、生活そして体調」そして今は「リハビリ、仕事、そして生活および体調管理」と、気を配るべきハードルが少しずつ増えていく。ハードルの山で遭難しそうな気持ちと、一つずつ日常を得られる安堵と、くたびれとが混ざっている。
仕事を入れつつあるせいもあるのか、眠りが浅くなってきたせいもあるのか、火曜早朝のPTリハビリに大遅刻をした。起床時間はそれほど変わりがないのに、朝食や身づくろいに何となく手が付かずにモタモタしていて、家を出るはずの時間から30分がいつのまにか過ぎてしまっていた。慌てて病院に電話をして遅刻するが行ってもいいかと聞くと、リハビリの時間は短くなりますが大丈夫ですよと言われる。慌ててタクシーに乗る。それまでは50分かけて歩いて通院していたのだが、タクシーだと15分もかからない。自動車はすごいな。
病院で看護師さんにも新・PT先生にも平謝りをしてリハビリを開始する。新・PT先生に様子を聞かれて、仕事に仮復帰したことと少し頭痛に困ってることなどを話す。私が遅刻したせいで時間があまりないからか、運動機能を試すテストなどはなく、筋トレとストレッチの自主トレの確認をした。麻痺があった左の足の内側に力が入りにくく散歩が長くなると疲れやすい、と相談したところ、片足スクワットと、あと両足のスクワットのコツを教えてもらった。片足スクワットは如実に足の内側の筋肉が動いて面白い。両足スクワットは、医科歯科のPT先生に教わった時にイマイチ上手くなくて、自主トレは椅子に立ち座りにしましょうとなっていたのだが、体重のかけ方を均等にすると自然にがきデカの「死刑!」ポーズっぽくお尻を出せるようになることが分かった。スクワット時は手を前に伸ばしているので、このまま腰をひねったらそのまま「死刑!」だなぁと思いながら、新・PT先生はお若いのでがきデカが分かるわけがないよなと黙ってスクワットを続ける。私が遅刻したせいでリハビリの内容もぼんやりしてしまった。先生に申し訳ない気持ち。
水曜はリハビリデーとリハビリデーの合間の日。 いくつかの仕事のスケジュール管理をしなくてはいけないのだが、仕事を再開したとはいえ、複数の取引先の進行状況を整理して…という交通整理が全然できない。 元々それほど得意な仕事ではないので手を付けるのが怖い。手を付けて、もし「マッタク解決デキナイ…」となったら、やっぱり復帰はとても難しいんじゃないかと悲観してしまいそうで怖い。とても怖いのだ。
とはいえ、お客さんに迷惑をかけてしまうのだけはもっとダメなので、歯を食いしばり、いくつものメールを開き、状況を整理し表にまとめてみる、取引先の各所に色々確認をする、私がすっかり忘れていたことなどを恥を忍んで確認したりと迷惑をかけつつ、整理がついてみたらスケジュールは比較的余裕がありそうだと分かったのでホッとする。病み上がりでギリギリの進行になったら乗りこなせる自信がないし、と印刷所の担当者に話したら笑っていた。本当に申し訳がない…。この夜は比較的よく眠れた。だが頭痛も強い。
木曜のOTリハビリも、寝坊こそしなかったのだが、家を出る前に仕事のメールをいくつか書いていたら家を出るのが時間ギリギリになり、病院に着くのがジャストタイムになってしまった。受付とバイタル測定があるから5分前に病院に到着しておきたかったのだが、仕事が入ってくると病人として不良化してくるダメさである。間に合わない!ギリギリだわ!と思いながらモリモリ歩いていて、病院について一息つき「あれ?かなり速く歩けるようになっている?」と思うがタイムを測っていなかったので分からないのだ。
新・OT先生とは、仕事仮復帰しましたという報告と、そういえば夢を見るようになりましたという話をする。飲んでいたてんかん薬はすごく眠くなる薬で飲んだら運転禁止のものだから、そのせいで夢見なかったのかもしれないですねと言われ、やっぱりなぁと思う。ブラックアウト薬。
この日のOTリハビリは、ずっと知能テストオンリーだった。
CDから次々と流れてくる”聞き分けにくいひらがな1文字”…「と、ど、ち、ぢ etc.」などを聞き、指示されたひらがなが出てきた時だけ合図をする、聴覚的文字拾い
新・OT先生が3~10以上の様々な長さのランダムな1ケタの数字の羅列を読み上げる、その最後の3つ、最後4つの数字だけをそれぞれ答える
新・OT先生がランダムな1ケタの数字を1つずつ間を空けて読む。1つ目、2つ目を読んだところで、1つ目の数字+2つ目の数字の計算結果を答える。次は2つ目+3つ目、3つ目+4つめ…と延々と
どのテストも難しく集中力を要する。瞬発的な記憶力が必要で、普段からあまり得意とは言い難い。更に小学1年生レベルの計算とはいえ計算自体が不得意なので緊張する。必死に頭をフル回転させて挑むが元々苦手意識がある。 問題が複雑なので、出題している新・OT先生も大変そうで、あまり顔色を窺って邪魔してはだめだと思うのだが、いちいち新・OT先生の方をチラチラと見て早速集中力が削がれている。上を向いて目をつぶって集中して…と取りあえず各問題を最後までやって、私が不安そうな顔をしているのを察してか、後でテストの結果はレポートにするのでお渡ししますからねと言いながら、面倒くさそうな採点をその場でやってくれた。 結果、どのテストも十分問題ない結果、2つ目のテストについては測定項目のレンジを超える好結果、3つ目も20歳代と同等の結果だと言う。なるほど年齢別平均値があるのか、脳トレなのか、と診断の仕組みを理解しつつ、ようやくホッとする。帰り道は少しゆっくり、少しだけ遠回りを選んでゆっくり帰った。
帰宅して、朝メールした返信へのリアクションメールをしたあと早めの晩ごはんにして、ごはんの後に締め切りが迫る原稿に手を付けていたらあっと言うまに22時に近づいていたので慌てて風呂に入って寝る。退院後の最長不倒で0時過ぎに就寝となった。頭痛はまだやはり残る。無理したくはないのだが。
金曜は仕事中心に。朝、散歩から戻ってずっと仕事とリモート打合せ。 先週末の復帰の後から始まった右目奥の痛みはいまだあって、頭の手術跡のうち2か所が引き攣れるようなツキツキした小さい痛みもある。このツキツキとした痛みは年末にもあったので「お久しぶりですね」という感じなのだが、恐らくは手術跡が直っていく通過儀礼なのだろうと思う。主治医先生は痛みがなくなるのは3ヵ月ぐらいと言っていたし、1月の外来では、今は触ってもあまり感触がない「開頭した部分の頭皮」についても、3ヵ月から半年ぐらいで戻ると思うと言われたので、まぁ、まだまだなんだろうと分かってはいる。頭痛と傷跡の痛みと身体全体の好不調の波が、順繰りに、時に同時に迫ってきて、一通り”不調の症状”が一回りすると「こないだの一周よりは軽減しているかなぁ…」とは思うのだが、だからと言ってその瞬間の不調が改善するというわけではない。一直線に回復傾向のグラフを描けるわけでもないんだから、と、頭痛がする頭で何度も繰り返す。気に病んでもしょうがないのだ。分かってはいるけれど。
と病人ぶりつつも、資料探しからしなきゃならない原稿も一つ、どうにかこうにかまとまったし、提出すべきプレゼン資料のやり取りも打合せもやった。明日は土曜日で仕事の電話もメールも来ないだろうから、と考えると少し気が楽になる。休める。何とか自分をなだめつつ、忙しい一週間が終わる。
大きいスパンで見ればおおむね悪くないのだろうと思う、だが、去りにくい頭痛と右目の裏あたりの痛みという「実感」があると、回復の実感を得にくく、後退の寂しさをずるずると持て余すことになる。更に困るのはコロナ流行で、「病人ならではの不調」なのか「まさかコロナに?」なのかとダブルでストレスをかけてくる。家から一歩も出なければコロナの心配は極小化されるだろうが、リハビリにも行かなきゃいけないし自主トレもしたいし、買い物にだって、何なら仕事の打ち合わせだって必要な時はある。
我が家には看護師さんは居ない(当たり前だ)ので、朝の検温と血圧測定はセルフである。数字が悪くても(とはいえ悪い数字は出てないんだけど)共有して何か方策を考えてくれるプロは家には居ない。 今の私は、コロナで病状が出ていて自宅療養している人の不安さが少し分かるかもしれない。 でも私はおそらく、ロングスパンで考えたら回復している途上である。私も、病気で辛い人みんなも、長い目で見たら回復の坂を下っていけるといい。病気は本当につらいものだな。
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仕事復帰(仮)
兄妹の機微の不思議さ。兄は何だかんだで私の弱点を知っている
仕事に復帰すると、くたびれる。すごく。
夢を見たのは回復なのか、悪夢だけど。
独り者の入院の大きな関門のひとつが「死ぬかもしれない手術をするからには本人だけじゃなく関係者にも説明が必要」というやつだ。今回はそういう意味でも、心配をかけたということについても兄夫婦にとても世話になった。 兄には、入院中、手術後は1週間に1度程度は様子を連絡していたのだが、退院してからは、退院直後に1度、退院の報告をしたきりだった。 生還したところで一段落した感もあるし、単純に退院して2週間以上は生きているだけで精一杯で夜にはぐったりしていたせいもあるし、あとは、まぁ、何ていうか、クリスマスから年末年始に年老いた妹の消息を聞いてもなぁ、という遠慮もあった。とはいえ、前週の帰郷(外来診察)で腫瘍が良性と分かったのでその報告と、あともう一つ、年明けから少しずつ仕事に復帰することにしたので、その報告である。1月の連休初日の午前中に兄に連絡することにした。
Facetimeで顔を見せつつ退院してから1か月近くのシャバでの冒険譚をかいつまんで話す。顔を見る限りは元気そうでよかったと言われる。良性だったと言ったら「連絡がこないんだから良性なんだろうと思ってたよ」と言う。 そして「実は昨日からプチ仕事復帰してるんだよね…」と切り出す。 私はカカリやすいというか、集中するとギュッと視野が狭くなりやすい。これは兄も同様で、ギューッと視野が狭くなってメンタルを故障したりしがちである。その代わり好きなもの楽しいことに集中する力もあるから良いんだけど、まぁ弱っている時は厄介な性質である。兄は実体験として回復期にメンタルを故障した経験があるらしく、のめり込むな、ほどほどで良いんだと何度も言われた。血縁というのは、というか、きょうだいと言うものは不思議な人間関係だなと思う。特に仲が良いわけでもないのだが、こういう言葉の的確さや沁みる感じは他の人間関係では有りにくい。
前日の仕事復帰では、3つの取引先と、お詫び・新年のあいさつ・打合せなどを行った。3つのうち2つの取引先は、今回の病気によって仕事を半ばで放り出す形になってしまったので、当然私の病気のことと、今の体調を心配してくれていたようだった。手術後に病院から「手術終了、生きております」的な案内はしたので猶更だと思う。 そんな彼らと私が実際に直接対面(緊急事態前)したら、帽子こそ被っているものの使用前(入院前)とほぼ変わらないので、みな一律に拍子抜けしたような顔をするのが面白かった。私だって自分のドラマチックな病名にはいまだに馴染めていない。少し面白がってしまうし、手術前などは何なら「無事に生還したらいい営業ネタになるわね…」ぐらいの不謹慎なことをちらりと頭をよぎったり、手術後も「リハビリ面白い、これ記録しとこう」とも思っていた。 あとは「脳なんとか」の病名が色々あるし重篤度も様々なせいもあるのだろう。髪の毛は普通にあるんだね、とか、普通に歩けるんだね、とかそういう感じの感想をいただいて、ここぞとばかりにリハビリネタを披露したり。 更にいえば、私の病気を全く伝えていない取引先の人たちには、私がこんなんなのを全く悟られることがなかった。知らない人が気づかないぐらい回復しつつあるんだろうという意味では良いことな気もするし、病気を盾にできないな…という恐怖もある。ぼちぼちゆっくり復帰したい、あまりキツイ仕事になりたくない気持ちと、だからと言って、何も知らなかった人に突然「脳腫瘍だったんですよ」と言えるわけがない。 まぁ仕事で何かがあったとしても同席してくれた上司がフォローはしてくれるだろう、というのと、主治医先生の「とっとと仕事に復帰しちゃう方が回復も早いと思うのよね」という見立てを心の支えにして、深く考えないことにする。やらかしたって死ぬわけでもないし、脳ミソをパカッと開ける手術をもう一度するわけでもなし。
朝からアポイントを3件、歩いたり自転車で移動をして、帰宅したのは17時半ぐらい、で、もう、すごくグッタリと疲れた。グッタリして何もする気がしなくて、冷蔵庫に作り置いていたものを適当に食べてぐったりとした気持ちで寝た。 就寝時間は、てんかんの薬をやめてから少しずつ遅くなっていて、だいたい23時ぐらいだったのだが、ベッドに入ってもなかなか寝付けなかった。目をつぶるとなんか悪夢めいた、ボッスのクリーチャーの絵みたいな、百鬼夜行の絵みたいな図像が頭に浮かぶ。これはダメな兆候なのでドキドキしてきたが、まぁ何とか目をつぶって、とっておきのラジオクラウドを流したりしながら耐える。 翌朝は、なんかものすごい悪夢を見た感覚で目が覚めた。ストーリーとか何が出て来たかは覚えていないのだが、とにかく不快だった記憶だけが残る。これは確実に仕事に復帰した影響だろうなぁ…くたびれたしストレスもあったんだろうとは思うが、一方で手術後、いっさい夢を見ていなかったので夢を見たのが1か月半ぶりなのだった。
てんかんの薬が眠気を誘う薬だったせいだと思うのだが、特に退院後はとにかく長時間寝ていた。20時過ぎには眠気がすごくなり、21時前には記憶がなく、翌日の7時ぐらいまで、9~10時間ほど毎晩寝ていた。それも”漆黒の眠り”というか、途中で覚醒することもなく、そして夢を見ることもなく、ぱちんと電気を消して突然真っ暗、というタイプの眠りだった。寝た感じはあるものの快眠というのも少し違う、やはりあまり気味の良い眠りではなかったと思う。 それが、てんかんの薬を止めてからは、寝返りを打って頭部の手術跡に枕が触れたせいで、そわっとして目が覚めたり、眠りが浅くなって途中でトイレに起きたりするようにはなっていた。そして夢を見た。悪夢だけど。
これは、回復なのだろうか。分からない。翌日からは右の頭痛がまた出てきていて、退院直後の雷に打たれるような種類のものではないが、寝ても去らない頭痛である。 回復フェーズには色んなことが発生する。変化の不安。
翌日からは緊急事態宣言なのだった。昨日と今日で一体何が変化したのか、少しばかばかしい気持ちになり、そして故郷(医科歯科大病院)でお世話になったみんなが、どうか快適に仕事をできているように、無事であるようにと願う。
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