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Hiroshi Tamura
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I'm sculptor.   And I do various other expressions. I also like History, Science and so on... 彫刻家の活動をしていない時も色々と表現をしています。 歴史も科学も大好きです。
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boldlytinydragon · 5 years ago
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私の歴史、活動記録   3
青森県八戸市立中学校時代 1968年4月~1971年3月  A 放送陸上  現在も、全日本中学校通信陸上競技大会が行われている。この大会は>毎年6月から7月にかけて、各都道府県の陸上競技場で行われ、結果が集計され各種目ごとに全国順位がつく。<(Wikipediaから抜粋)ものである。 当時は放送陸上と言われていた。 この大会で同学年の男子がハードルで全国優勝した。一年上の女子も1年下の男子も同競技大会の同種目で、やはり中学校1年生の時、優勝した。  この中学校に指導者がいたのだ。それは社会科の教員であり、陸上部の顧問であった。とても若い教員だった。(私が2003年、47歳の時、郷里で彫刻の個展をやった時、観に来てくだっさたが、校長として在任中だった。)噂によると「東京出身で、東京の有名でない大学を卒業」で、なぜか青森県で教員をしていた。  社会科の教員としては素人みたいで、そのせいか気張って偉そうにする面があった。(その辺が見え見えで、いいところを見せようとし跳馬で前方転回をし、アキレス腱を断絶するなど・・、意外と親しみがあった。)そして、「叔父貴は国家公安委員長だ。」と何度か言ったのを覚えている。しかし、国家公安委員長と言えば国務大臣であり、国会議員であり、この教師が、1969年当時の国家公安委員長である福岡県出身の荒木万寿夫国会議員の甥とは思えない。おそらく公安の仕事として、赴任して来たのであろう。  平たくいうと、東京から指導者が来て、「田舎の子を日本一にした。」ということなのだろう。
 B 器械体操部
 この中学校の器械体操部の顧問は、前年までは中京大学の体操部出身で、同僚などはオリンピック選手であったほどだった。 それでその先生の指導を受けた1年上の2年生先輩たちはとても上手だった。 ちなみに3年生はいなかった。先生が厳しいので全員辞めたようだった。
 部員が更衣室として使っていた体育用具室に、その先生の手書きの言葉が書いてある1枚の青焼きのコピーが貼ってあった。『体操とは美の追求である。諸君の日々の鍛錬を望む』という内容だった。
 体育館は1日おきにしか使えなかったので、雨が降らなければ1日おきに、学校の裏の太平牧場を走り抜け、大須賀海岸で練習した。 砂は足に重たかったが、海まで緩やかに傾斜していた。 太平洋の荒波に向かってピョンピョンクルクル・・今考えると、とてつもなく贅沢な記憶の財産のような気すらする。
 ちなみに海岸と牧場の間の道は、日本画家東山魁夷の『道』の舞台である。
  私はそんな器械体操部に入部していた。  中3の春、部長(キャプテン)を決めることになり、誰もやりたくないので、あまり練習には来ていなかったが、背が大きい男子に決めた。ところが、この生徒がすぐ実質的に部を辞めてしまったので、実力のある男子が実質的に部長となった。しかし、その実質的部長を、前出の陸上部の顧問が陸上部に引き抜いてしまった。  そんな中、中3のある時期、跳馬と床運動が得意な脚力系だった私は絶好調で、バク転バク転伸身宙返りなどのタンブリングをガンガン決めていた。  そんなある日、ヒステリックに生徒を殴ったなどと問題になった評判の悪い教師が、器械体操部の顧問だったのだが、どういうわけか、部活の最中に、体育館のステージの演台を事務机代わりにしていた。  すると私の母と高校の時同級生だったという国語の女教員が来て「教室で田村君を呼んでる人がいた。」と言い、わたしを教室に行くように促した。  教室に行ったが誰も居なかった。走って体育館に戻って、そのまま床運動を始めようとすると、その女教師は「いくら慣れていても、準備運動からやり直すべきだ。」と小言を言い始めた。  そして、壇上の評判の悪い顧問教師が演台の脇で、「ちょっとだけよ~」とドリフターズのカトちゃんのストリップギャグの物まねを始めた。   またその時いた女教師は、国語の授業中、教科書の文章の段落分けで、明らかに変な分け方を、あからさまにわざとした。  担任にそのことを言うと、担任が「『このクラスはざわついていて、調子が狂った。』」と言っていた。」と言った。しかし、段落分けなど、容易なことであり、加害行為としてやったのは間違いない。  こんな状況の中、私はすっかり調子を落としてしまい、鉄棒で落下して首から落ちたりした。   C 女子器械体操部も(徒手体操団体)  実は私が入学する前年まで、体操部の顧問の先生は、中京大学器械体操部出身で当時の同僚はオリンピックの金メダリストもいたほどの人だった。ところが、私が入学した年、その先生は転任した。しかしながら、1年先輩の部員は1年間の指導だけでも、市内の新人戦で好成績を上げた。(2年先輩の3年生はいなかった。練習が厳しいので、全員辞めたと言う。)そして、翌年、中3になった先輩たちは、基礎ができているので特に指導者がいなくても、個人総合および団体優勝、種目別でも優勝を含む好成績を上げた。  その先生は、1年先輩たちが手塩にかけた才能揃いだったので、よっぽど無念だったようで、着替え室を兼ねていた用具室に青焼きコピーを貼っていた。『体操とは美の追求である。諸君の日々の鍛錬を望む』というような文面だった。  この立派な先生の後任が「一寸だけよ~」のおふざけ教師で、突然ヒステリックに暴力的になる超問題教師だったのだ。  私は中3の時、中体連の夏の大会で団体で4位だった。得意の跳馬で演技後、異例の長い審議があり10点満点中7・5しか出なかった。  ところで、女子の徒手体操団体の後輩たちは、とても頑張っていて、彼女たちが中1の新人戦で優勝した。そして、中2の夏の大会目指して練習を積み、本番に臨み好演技をした。ところが、規定の演技構成が変わっていたのにもかかわらず、それが伝えられていなかった(演技構成の変更を説明する講習会があったことを知らなかった。おそらく顧問が貶めるために知らんぷりした。或いは協会自体が貶めた。)ため、規定違反で点数を抑えられてしまい好成績を上げることができなかった。
D 加害対象は学校ぐるみ・地区ぐるみ  中体連と言っていた市内のすべての中学校による運動競技大会の時だ。体育の教師たちが中心になって、私たち八戸市立鮫中学校選手団の市営陸上競技場での開会式のために、緑色の運動着の胸にオレンジ色のサメの形のワッペンを生地から切り抜き、付けさせ『SHARKS』として行進させた。 実は、ミュージカル映画「ウエストサイド物語」に、プエルトリコ系アメリカ人非行グループ「シャーク」が出てくるのだ。  私は狙い撃ちされたが、私のみならず、体育会系エンジンによってだけでもこれだけ、学校ぐるみ・地区ぐるみで差別・加害を愉快犯的に受けた。  そう言えば、入学当初からある教師は「鮫は文化的的でない。ピアノを習ている子も少ない。」と繰り返し言った。その教師はピアノを習っている子供の数を地区別に把握していたのかもしれないが、言われる生徒としては誰が習っているのかわからないので、何とも言えなかったし、それがどうしたの?うるさくて怖い教師だと思った。後で知ったことだが、この教師に腹を立て、この教師の科目のテストを白紙解答した女子もいたということだ。その女子はピアノを習っていて、父親は教員で(後に姉も教員)母親は町唯一の書店をしていて、とても裕福だったので余裕なのかもしれない。(こういう女子は美大に進学する。した。)  
E 生徒の音痴を直そうとした先生  我が学年にすごい音痴の子がいた。そして、その子の音痴を直そうと放課後その子にレッスンをするとても熱心な音楽の先生がいた。  ところが、その先生は翌年転任してしまった。風のたよりでは体調を崩した。 結婚した。ということだったが、間もなく亡くなってしまった。  今考えるとその子は音痴でなければならなかったのではないのだろうか?  その子はその当時の水産高校の校長の子で、目立つことをやる役割を担っていたようだ。つまり、目立つ任務を遂行する上で、コンプレックスを覆い隠すためというモチベーションを持つために、そして少なくともちょっとした異常性を感じさせるために、音痴のままでいる必要があったのだと、今になって思う。
F 運動会での準備体操  運動会の時、みんな整列し、先生らの挨拶の後、準備運動��してラジオ体操をした。 当たり前のような風景であるが、私は先生に言われ、体操部だからという理由だろうが、壇上の全校生徒の前で先導するようにラジオ体操をすることとなった。 正直言って私は小柄で見栄えするはずもなくとても恥ずかしかった。器械体操部の3年生部員は私を含め2人で、もう一人も小柄で細い。先輩たちのように好成績を上げているわけでもない。いっそサッカーの青森県代表の担任の体育教師がいつものような感じでやればいいものをである。しかも、総練習みたいな時、私がやって、それについて何も言わない。本番でも私が前に出てやることが伝えられるわけでもない。本番終了後も誰一人声を掛けるわけでもない。晒しだったのだろう。
G 進学にかかる3者面談  中3も押し迫り、進路、受験校を決めるための、担任、父、私による面談があった。私は進学校を希望した。すると担任の教師は「この成績だったら大丈夫だと思いますが、入学してから、ややもすると下位でいるより、近くの高校に行って上位にいたほうがいい。という選択もありますが?」と言った。先生の手元の資料を見たところ、私は学年で18番だった。そして19番は、水産高校の校長の息子だった。結局、私は意思を通した。ちなみに19番の子は、近くの高校に行った。  そして、担任は、もしものために滑り止めの高校の受験を促した。しかし、父は「1校だけ」と言った。そして、私は何かに憑かれるように「合格しなかったら、茨城のおじいちゃんの所へ丁稚奉公に行きます。」言った。  私は物心ついた時から父親に、父親が都合が悪くなると『茨城のおじいちゃんのところに丁稚奉公に出すぞ。』と言われていた。 祖父は茨城で建具屋をしていて、確かに若い人を使っていたのを憶えている。 国家公務員の父親には何かしら脳裏に焼き付けさせる脅し的なところがあった。自分の子でも、青森の子はカッペなのだ。
H 「日本人は農耕民族。」  私が中学生の時、先生がやたらと「日本人は農耕民族だ。」と言いまくっていた。私の町は元々は漁港の町で、そして牧場が広がっていた。農家など特に存在しなかった。また、縄文時代の遺跡だらけの土地柄であった。 支配組織がその下の工作員たちを使って、『優越の民が国を作り牛耳る』みたいなイメージを植え付けることに懸命だった気がする。 高度���長期の頃だ。(そして、私が高3の頃、環境問題がクローズアップされた。高度成長の象徴である工場の煙は悪となった。)
I 卒業式の日   卒業式の日、クラスの最後のホームルームで、担任の体育教師は、いつものように出席をとったのだが、私の名前をうかっりした振りをして、呼び上げなかった。(ちなみにこの教師は当時サッカー青森県代表で、その後、八戸市サッカー協会を副会長をした。ちなみに、この体育教師の名は『セイシ』である。) そして、卒業アルバムが配られた。その中で、私はなんと『オレンジ色好きの色きちがい』と紹介されていた。
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写真 大須賀海岸 https://aomori.uminohi.jp/report/osukakaigan2019/
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boldlytinydragon · 5 years ago
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私の歴史、活動記録   2
 小学校2年生の時、担任の教師に、何にも聞き取り調査されることなく、隣の女の子とお互いにカンニングしている。と、わけのわからない濡れ衣を着せられ、その後、絵の展覧会が近づくと普通の授業中に絵を描かされた。
 小学校3~4年生の時の担任は、横浜出身の年配の女の先生だった。初夏の頃、「横浜はタケノコが美味しくてねぇ~」としみじみ言っていた。トイレはお手洗いで、味噌汁はおみおつけだった。  クラスの何人かが声を掛けられ、放課後、月1回、書道をやった。作品は東京かどこかの団体に送られ、審査を受け、級が付けられ、準初段の一つ手前の1級までは毎月1級づつ上がった。それはその団体の冊子に発表された。先生が指導することはなく、その団体が示した字を書いた。  生徒達は、なぜ、横浜の人が、こんな青森の港町にいるのだろう?と思っていた。都会に対して田舎を意識せざるを得なかったが、田舎の人よりはいいと何となくは思った。 
小学校6年生の時だったと思う。遠足で金吹沢という鉱泉が湧き出る湿地帯に徒歩で行った。帰りがけ、その担任に里芋科のような球根の付いた植物を持ってくれと言われた。  直線距離だと4kmだが、暑い中、それを手に持って、クタクタになりながら歩いて学校まで行き、それをその担任に渡した。当然その植物の球根から出た緑の部分もぐったりしていた。  そして、校庭に整列し、終礼をする時、理科の専任の教師が驚くべきことを言った。「大切な草木を勝手に持って来て、台無しにした生徒がいます。そんなことは絶対してはなりません。」と、  (後日、その教師の理科の実験授業の時、実験道具の確認で、これはありますかという呼びかけに、潜在的に心の中にあるものがあったのだろうと思うのだが、同じテーブルの男子3人でわざとらしく「はーぁい!!」と大声を出して返事をし続け、えらい剣幕で怒られたので、よく憶えている。)
小学校6年生の時、小学校卒業までの出来事 c 修学旅行直後から、そして注射   修学旅行の帰りのバスは夜、学校の校庭に到着する。毎年、その喧騒が私の実家まで聞こえて来ていたものである。修学旅行に行った生徒のどこの家でも、家族がバス到着予定時刻前に校庭に来て待っている。懇談している家族らおよびバスから降りて来た生徒も交えワイワイガヤガヤ賑やかなものである。  私の時もこんな具合で、そして、少しづつ帰宅していき、だんだんと校庭に人が居なくなり、校庭に残っていたのは話し込んでいた他の家族と私だけになった。同じ方向に行く同級生の親が不憫そうに「帰る方向が同じだから一緒に帰ろう」と声を掛けて下さり、校庭を出た。  少し歩いていると、方向は家の方であるが脇道から、物陰から現れるように私の両親が現れた。「予定より早く着いたようだ・・」云々と弁解していたが、バスが着いたのは高台にある私の家にわかるのであり、それから来てもこれほど遅くならない。わざとである。                  *  修学旅行が終わったころ、学校から「疲れた。疲れた。」を連発しながら帰宅した。すると、両親が出迎えるように家の前にいて、「医者に診てもらおう。」と言い出した。  そして、近くの医院で急性肝炎と診断され、毎日太い栄養剤(ビタミン剤)を打たれることになってしまった。新米の看護師だと注射針が刺せないほど、腕の一部の皮膚が硬くなるほど通った。  激しい運動は禁止され、体育の時間も見学状態で、サッカーの時などはジャングルジムに腰かけてひとりぽつんと眺めていた。  今考えると、これは報復なのだ。 理科の実験担当の教師ばかりではない。担任の教師、私を餌食として育てていた関東地方から赴任してきた高卒の国家公務員である父およびその妻である私の母は、日頃の私の元気の良さに恐怖を覚えたのかもしれない。  確かに私は今でも「疲れた。」と毎日のように言う。それは私が物事に集中して取り組むことができるからである。(霊合星人の特徴でもあるらしい。)  そして、『疲れる』のは、成長期にビタミンが足りなかったからだ。茨城出身で戦後東京の職場から転勤してきた父親は、田舎的な煮物等を嫌い、かっこよさそうなバターやチーズなどを好んだ。   d まとめ  今思うと、当時は教員の学級経営において、野蛮な面があった。クラスに殴られ役がいてしょっちゅう廊下に出され、ビンタをくらたったり、担ぎ上げられ床に落とされていた。この担任もその一人だった。狙われる生徒は、両親がいない子や零細漁業者の子だった。 そして、私も、両親も加勢し、餌食としてタシにされ、晒し者にもされ、押さえつけが目論まれた。
 小学校5~6年生の時の担任は、中学校から転任してきた。その親は元水産高校の校長だった。日教組教師だった担任は、理想教育をしているという実績を作ることをしていた。  小学校が海のそばだったので、天気の良い日は『野外授業』と称して、時間割に関係なく海に行ったりしたし、写真もよく撮ってくれた。   また、この担任のすることは��画的なヤラセの時もあった。とても陽気で、授業中に歌を唄いだした。「ドンドンパッパ、ドンパッパ~隣の親父も禿げ頭、うちの親父も禿げ頭、禿げと禿げとが喧嘩して、どっちもケガねでよかあったな~」すると、頭が禿げ上がった校長が後ろの扉から顔を出して「ずいぶんと賑やかだねぇ」クラス中が大爆笑とか・・・  しかし、実際は男子生徒には暴力的で女子生徒にはセクハラ的だった。  その後、その教師は、日教組の地区の代表をしたり、教育委員会でも仕事をしていたようだ。   今思うと、教員の学級経営において、野蛮な面があった。クラスに殴られ役がいてしょっちゅう廊下に出され、ビンタをくらたったり、担ぎ上げられ床に落とされていた。この担任もその一人だった。狙われる生徒は、両親がいない子や零細漁業者の子だった。
小学校のほぼ全員が同じ中学校へ入学し��。そして、あの小学校5~6年生のクラスの子たちは、何か引っかかるものがあった。表側は元気で活発なクラスでありながら、何か引っかかるものがあった。  そこで、誰かが話を進めて、お菓子も用意して、小学校の6年生当時のクラスに集まった。すると、その先生は現れ、言った。その先生は我々の担任をしている時、前任の中学校の同僚と結婚したのだったのだが・・・、「あの頃は、済まなかった。あんなに叩いたりして済まなかった。自分に子供が出来てよくわかった。」と言った。  子供たちはすごく落胆した。そして、どうして集まったのかがわかった。それは、その先生に「みんなと理想の教育を実践することができて楽しかった。時間割ぶち抜きの野外観察楽しかったねぇ!」というようなことを言って欲しかったのだ。
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boldlytinydragon · 5 years ago
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私の歴史、活動記録
誕生日: 1956年1月8日  鮫町生まれ I was born in Same-town.
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boldlytinydragon · 5 years ago
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A version of a vehicle that was one generation ago with a paint that was two generations ago.
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Limited express “Red arrow” (Classic painted)
On Seibu Ikebukuro line in Hanno near Tokyo
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boldlytinydragon · 5 years ago
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Limited express “Red arrow” (Classic painted)
On Seibu Ikebukuro line in Hanno near Tokyo
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