Tumgik
chokinto-blog · 7 years
Link
昔から、友だちというものに憧れが強い。
家族に惜しみなく愛されて育ったためか、私は自分が人から愛されるということを疑わない子どもだった。保育園でも、小学校でも、当然のように自分は誰からも好かれると思っていた。というか、好かれるとか嫌われるということを意識したことさえなかった。
それでも、事情が変わってきたのは、小学校からだった。 「私たち親友ね」と決めた友だちとの仲は、大抵1年で終わった。学年が変わればクラスも変わるといった事情はあったものの、それ以外にも、私はとにかく他人と気が合わないのだった。 それはまず、私には人と合わせるという気づかいが致命的に身に付いていなかったから、だと思う。だってそれ以前には、好きなようにふるまっても当たり前に好かれた経験しかなかったから。
それでも、小学校で、私は家族以外に私の好き放題なわがままに付き合ってくれる他人なんていないことを学んでもよかったのかもしれない。しかし、結論から言ってしまえば、私は、そんなものろくに身に付けないまま今日まで生きてきてしまった。 今でも私は、恵美の言うような「みんな」のなかでうまく立ち回ることはできない。 堀田ちゃんのような生き方は絶対に無理だ。
私は私だし、好きなことしたい! それで好いてくれる人たちを友だちにしたい。 そう思うほど、結局私は近くに人を置かないほうが他人との付き合いがうまくいくということを学んでしまった。たまに同じ趣味の人に当たって短期間に急激に付き合いが深まるといったことはあるものの、そんなものは長続きしない。趣味に飽きたらそれまでだ。 同じ歩幅で同じ方向にずっと歩き続けられる人はいないし、たとえ離れてもいつまでも繋がっていられるほど想い合える相手もいない。 それも、別に珍しいことではない気がする。
結局、私は自分のことが1番好きだから友達だちができない。
しかも自分の仕事が好きで、自分の能力を磨きあげること、自分を高めること以上に興味を引かれることがない。 自分の価値を自分で決められてしまうから、どうしても他人が必要だともそこまで切実に感じない。(切実なら、自分をまげてでも他人に仕えようという気になるのかもしれない。)
だから、自分には手に入らないものという意味で、そこまで強く想える友だちというものに憧れが強い。 そんな風に相手を想えるって、どんな感じなんだろう。
恵美と由香の友情は、私にはとても眩しく見えた。 でも、由香がここまで重い病気じゃなかったら恵美は由香の大切さには気がつかなかったのだろうか。「気がつかない」って、もしかしてすごく大切なことなのかもしれない。
由香との貴重な5年を大切に生きて、恵美にとって由香との思い出は一生もののできごとになった。 恵美は由香を「一緒にいなくても寂しくない相手」にしようとした。
奥華子さんの楽曲「ガーネット」に「あなたと過ごした日々を この胸に焼き付けよう 思い出さなくても大丈夫なように」という歌詞があるけど、そういう感じなのかな。 私はこの歌詞の、時間が経っても思い出せるようにあなたとの日々を胸に焼き付けようとするのではなくて、「思い出さなくても大丈夫なように」焼き付けようとするところが、とても好きだ。 恵美もそうしようとしたのかな、と思う。
この小説はわりと日常の中の小さなコミュニティのなかでの人間関係、上下関係を書いていて、それを目にするたび私は辟易した気持ちになる。 他人のことにそんなに構いたいなんて、みんな暇なのかな? という気がする。
でもこういうこと、現実にも本当によく起こる。なわばりの取り合い、マウントの取り合い、大人になったってそうだ。
私はそういうものは、「小さな世界じゃないか」と思って、だいたいは遠くを見てやり過ごしてしまう。 もしかしたら、もっとそこで自分の居場所を頑張って主張しないといけないのかもしれないけど。とにかく、面倒なのだ。
恵美の「西村さんは、友だち、たくさん欲しい人でしょ」「わたしは違う」「いなくなっても一生忘れない友だちが、一人、いればいい」という台詞が好きだ。 私はどういう人間なんだろう、と思った。 友だちがたくさん欲しいのかな? それとも一生忘れない友だちが一人欲しい?
最後に、最終章が恵美の結婚披露宴なのはちょっと微妙だなという感想を持った。 作者はこの物語を大団円にしたかったとのことだが、私はおばあさんになった恵美が家族やたくさんの友だちに囲まれて目を閉じる、みたいな最終章のほうが好みだと思う。(この本の登場人物が一堂に会す必要性もないし) 理由は、出席者がこんなにお互い知らない人ばっかりの結婚披露宴が居心地のいいものになるとは到底思えなかったからだ。中学時代の同級生の結婚披露宴になんか絶対呼ばれたくない。ほとんど覚えてないし。
0 notes
chokinto-blog · 7 years
Link
続刊が発売されたことは知っていたものの、私が読むまでには数ヵ月間があった。それはまあ読書以外のことをしていたからだが、いざ読んでみたら、まさかこんなに面白いとは! すぐに読まなかったことを後悔したくらい、この本は秀逸だった。 こんな風に己の心を掘り下げていけるから、読書は最高なんだ! と思った。
古典部シリーズの第6弾で、短編集。
まずは、『連峰は晴れているか』について話したい。 実は、これは私がこの作品を好きになったキッカケとなった短編だ。 当時アニメが放映されており、私はアニメで古典部の物語に初めて触れたのだが、正直面白さがピンときていなかった。「何がしたいんだろう?」とさえ思っていた。
それが、この『連峰は晴れているか』を見たときに、いっきに面白さを理解したのだ。 ある日折木は中学時代の小木という教師のエピソードを思い出し、ふと口にする。しかし、同じ中学出身の井原や福部と雑談するうちに、あることが気になり、図書館にそれを確かめにいくことになる。 よくある古典部の風景なのだが、千反田の「気になります」ではなく折木自身の疑問で動くというのが特徴の話だ。 話の最後に、千反田が「どうして、気になったんですか」と折木に尋ねる。 折木の返事はこうだ。 「実際はああいうことがあったのに、小木がヘリ好きだったなあなんて、気楽には言えない。それは無神経ってことだ。そりゃさすがに、気をつけるさ」 「無神経というか、人の気も知らないでって感じか。たぶん二度と小木には会わないから、人の気も何もないんだが」
この折木の言葉が、私は本当に好きだ。 何て優しい台詞なのかと、何度読んでも思う。
私は、学校や会社に毎日行く。小木もそうだ。仲間が遭難して、生死不明でも、学校で授業をしなくてはならない。天候が回復して、救難ヘリが飛べるか否かどれだけ気になっても、何でもない顔で教壇に立つ。 人の心は目に見えない。どんなに悲しいことがあっても、苦しんでいても、平気な顔で会社に行かなければならない日が、人にはある。
それをわかってほしいとは言わないが、折木は、わかろうとした。誰に言われるでもなく、小木とこれから会うわけでもないのに。 ただ、「気をつけなきゃいけないことだから」とそう思っただけ。
折木は、だから何だというわけでもない。 小木にわざわざ謝るわけでもない。ただ、知っておく。それだけ。 私は彼のそういう押し付けがましくないところが好きだ。
そして私は、小木の「人の気も知らないで」を知ろうとした折木を見て、今までも折木たちがやってきたことは、そういうことだったのだとやっと理解した。 人の気を、気持ちを、知ろうとする。これはそういう青春ミステリーなんだと。
それをもって、やっと私はこの小説を心の底から美しいと感じるようになった。
さて、思い出話はこれくらいにして、この本全体の話をしよう。 今回は、古典部員たちの過去から未来までを繋ぐ物語だ。 『箱の中の欠落』は福部の未来、『鏡には映らない』は井原・折木・福部の過去、『わたしたちの伝説の一冊』は井原の未来、『長い休日』は折木の過去、『いまさら翼といわれても』は千反田の未来に触れた内容になっている。『連峰は晴れているか』も、折木の過去に分類できる。
『鏡には映らない』は、かねてから疑問だった「井原はなぜ折木をそこまで低く評価しているのか?」に回答をくれた。 単に付き合いが浅く長いため、へんに気安いのか、折木と井原の性向がまったく違うために噛み合わないのかとも思ったが、井原には折木を誤解するだけの理由があったようだ。
それを井原が真っ正面から謝罪するというすごい話で、私は彼らのまっすぐさに目がくらむような思いがした。
『わたしたちの伝説の一冊』も同じく井原の話だが、井原の話はいちいち本当に私の胸に刺さる。 漫画研究会のゴタゴタの感じなんて、漫画を好きな人間、絵や漫画を描く人間がある程度集まるとまあこうなる!! というリアルさがあって、感情移入してヒリヒリしてしまった。
羽仁の考えが掴めず不気味で、井原が喫茶店に行ってノート盗難の黒幕がわかるまで不安でたまらない気持ちになった。 河内の登場は意外だったと同時に、なるほど、とすべてが腑に落ちた。 そして井原の創作活動の行く末が、今から気になってたまらない気持ちになった。
特に、この河内と井原のやりとりが好きだ。 「わたしは漫画を描きたいだけなのに……」 「いまさらだよ! 自作を描いてる時点であんたは変人だし、もう充分に蔑まれてる。それが嫌だったら描くのをやめるか、上手くなって黙らせるか、二つに一つね」 なんてかっこいい台詞なんだろう、と思った。
『長い休日』は、折木の信条である「やらなくてもいいことなら、やらない。やらなければならないことなら手短に」の由来を紐解く短編。
これは千反田が折木に尋ねたところから話が始まったのだが、千反田と同じく私もここまで折木の物語に付き合ってきて、確かに気になってきたことでもあった。折木はべつに怠け者でない。それは、井原も語ったように文集『氷菓』の原稿を締切前にきっちり提出していることからもうかがえる。井原の解説を待つまでもなく、部活の文集の原稿なんて面倒なものを期日通り出せる人間は限られると私も思う。教師などの統括者がいればまだしも、古典部はとくに気安い集まりなので、なかなか難しいだろう。 それでも折木は提出期日を守れる人間で、確かに、やらなければならいけないことならしっかりやるのだった。 だから、折木の信条はものごとが面倒だからという理由ではないと私も思った。
折木が千反田と読者に語ってくれた思い出は、確かにありそうなことだった。それによって、折木が傷ついたことに私は小さく悲しみを覚えた。 優しい人間が傷つくところを見るのはいつだって悲しい。
だから千反田が、「折木さん、かなしかったですね」と言ったときは、思わず「うん」と返事をしそうになった。
長い休日は今あけて、誰かのために折木は動きはじめている。
そして表題作『いまさら翼といわれても』。 どういう話なのかといえば、まさに題名どおりの話だ。
『遠まわりする雛』にて紹介された千反田の世界の崩壊。 千反田はどこに行くにしても、終着地点は決まっていると思っていたし、それのために尽くしてきた。千反田という家にふさわしくふるまい、千反田の当主になる自分にとって有益なものを選び、務めをはたす。 千反田は聡明で責任感があり、また精神的に強い。 しかし、そのすべては彼女が千反田の跡取りだったからこそ培ったものだ。彼女は努力して、我慢して、千反田の跡継ぎにふさわしくこれまで成長してきた。しかし今、それらは無為なものになった。 これまでの人生に得てきたものをはぎ取られ、彼女は道端に突如として放り出されてしまった。 今彼女は混乱し、おびえてもいる。
彼女はかつて外の広い世界に憧れをもったことがあるだろう。 しかし、それはあくまで内から眺める手の届かないものとしての憧れだったし、実際彼女は外に飛び出していく準備を何もしてこなかった。やるべきことがあったから。
千反田という家は彼女にとって重石であり、枷でもあったかもしれないが、それと同時に彼女をたくましく強く、あるべき自分に高めてくれるものでもあっただろうと思う。 だから、千反田は、自由への憧れを今は歌えない。かつては歌えた。自分の世界の中からなら。 でも、そこから解き放たれた今、千反田の足はすくんでいる。
彼女は、合唱に行ったのだろうか。 ソロを歌ったのだろうか。
こんなにおびえた千反田を前に、何もしれやれない折木が、自分の拳を思いきり叩きつけたくなったという場面でこの話は終わる。今、彼らに大きな転換点が訪れている。物語は進んでいく。
次に千反田と折木の物語の続きを見るとき彼らは何を私にもたらすだろう。私は何を見るだろう。
0 notes
chokinto-blog · 7 years
Link
古典部シリーズの第5弾。
古典部の部員たちは2年に進級。新入生の大日向が部に仮入部する。 しかし彼女は、ある放課後千反田との行き違いをもとに、入部を取り止める旨を告げてくる。 その行き違いとは何だったのか、マラソン大会を走りながら折木は考える。
大日向の他人との距離の測り方は、これまでの古典部員たちとは違っている。 折木たちは、基本的に他人に干渉しない。力や知恵を借りるときは、それによって相手に労力や時間を割いてもらうということを明確に意識している。だから頼みごとをするときは申し訳ないというような一言があるし、やたらと用事や相談を言いつけることもない。 彼らがお互いの事情に踏み込むのは、それこそ『チョコレート事件』のようなことがあったり、『遠まわりする雛』のように千反田が折木に頼みごとをしたりしなければならない。
一方の大日向は、折木の家にアポなしで誕生会に来たり、相手の考えに対して自分の考え方がいかに違っているかをいちいち述べたてたりする。 その度私は「ああ、いるなぁ。こういう子」という感想を抱く。
大日向は、「友達」とはいつも一緒に行動して、テリトリーや考え方を共有するものだと思っている。だから、「友達」なのに福部が折木の家に遊びに来たこともないと聞くと意外がる。 折木たちの距離感が、大日向にくらべて少々大人びているのかもしれない。
10代の頃、私も大日向のように「友達」というものに無限の理想と要求を持っていたことがあった。 友達といつも一緒にいて、毎晩のように電話して、何でも共有するのが好きだった。 そしていつも、そのうちどちらかが疲れて関係が破綻した。 真っ正面から傷つけあったこともあったし、少しずつ距離を置いて離れたこともあった。
大日向と「友達」の話は、その頃の私の、他人というものをずっと一緒にいられる存在にしようとした……お互いをお互いのものにしようとした頃の記憶を揺さぶる。 私は、そういう行動がいかにむなしいかと思いながら、「友達」を強烈に求めずにいられない自分を愚かだと今尚思う。 「友達」と付き合うためのカネの話なんてじつに身につまされる。
千反田は、こういうとき折木たちに助けを求めることはない。折木はそれを理解している。 千反田が求めるのは、日常を彩るちょっとした好奇心の矛先であって、彼女の問題を代わりに解決してくれというようなことはない。むしろ、そうなると彼女は折木を巻き込もうとしない。
折木は彼女のそういった頑なさをなんとかなだめ、少しだけ荷物をおろしてやろうとした。 私の心には、それくらいの折木の優しさが、なんとも染み入って感じられる。
率直に言ってしまえば、私は折木たちの、この距離感が好きだ。 いつまでもくっついて、ずっとベタベタ仲良くするのは、本当に仲がいいと言えるのだろうか。どこまで行っても、私たちは他人なのに。絶対に同じ存在にはなれないのに。 それを知っていなければ、きっと他人と本当に距離を測ることなんてできない。近しいも遠いもない。
結局、大日向は古典部を去る。 仲のいい人たちを見るのが好き、という彼女の趣味は私の趣味とも合致する。私は、古典部の面々を見ていると、癒されるような、何とも言えず優しい気持ちになる。
悲しみも切なさも、寂しさも、やるせなさも受け入れられるような気がしてくる。
0 notes
chokinto-blog · 7 years
Link
古典部シリーズの第4弾で、短編集。エピソードの時期は色々だが、後半の『心あたりのある者は』『あきましておめでとう』『手作りチョコレート事件』『遠まわりする雛』の4編は文化祭以降の話となる。
この小説を、私が「人物の心情という謎を解き明かすミステリーだ」と解釈している話は第1作『氷菓』の項にて、させてもらった。 ここにきて、この小説は心境の変化を取り扱う段階に移行する。
この短編集の最初に収録される『やるべきことなら手短に』にて、折木は千反田への態度を「保留」する。そして、最後の『遠まわりする雛』にて自覚するに至る。 その心情の流れが美しくて、ついため息が出る。
いつも思うが、この小説の登場人物は台詞がうますぎる。 この折木と福部の会話なんて最高だ。 「拒絶したかったわけじゃない」 「もちろんそうさ。あれは現状に対する、ただの保留だね」
なるほどと思ったものだが、同時に折木自身もなるほどと思っていて、面白かった。 ところでこの福部の台詞はこれ単体だと「うまいことを言うなぁ」というだけなのだが、『手作りチョコレート事件』を読んだあとでは福部自身に身に覚えがあったからこそ出てきた台詞なのだということがわかる。 拒絶したいわけじゃない、ただ現状を保留したい。
『手作りチョコレート事件』は登場人物たちが次へ進むための重要な話でもある。 福部と井原の物語にとって欠かせないエピソードで、起こったできごとに対して私たちはこれだけの思惑を、これだけの感情を心に抱いて日々生きているのだということをまざまざと感じる。
福部との恋愛に、千反田を巻き込むのはよくないことだ。井原もそれは感じたことだろうし、きっと彼女の性格からして、少なくともあとから千反田に謝ったのではないかと思う。 結果的にこの件では井原も、福部も、無関係な千反田までも傷ついてしまった。 それは致命的なものではないし、最終的に井原と福部がまとまればそれだけの話。
そして折木はこの友人たちの間で、それぞれが傷を深くしないよう立ち回った。 福部から話を聞いた。何かにこだわる、何かを特別扱いして、価値を与える。何かをかけがえのないものにする……。それは、いいことなのか、そういうことが自分にはできるのか、私にもわからない。 だって、何かをかけがえのないものとして、それを失ったら? 思った通りにいかなかったら? 福部の言う「こだわらないこと」は、かけがえのないものを持たないということだ。そういう生き方は身軽だし、あるときは、もしかしたら賢明ですらあるかもしれない。 たとえば、アイドルマニアの人が推しメンの卒業や結婚で絶望するような感覚とは無縁の生き方だ。失恋して、もしくは大切な人を亡くして、この世の終わりのような気持ちになることもない。夢半ばで不慮の事故に遭い、故障によってそれまてのすべての努力が水の泡と消えるようなこともない。 かけがえのないものを持つのは、ある意味で恐ろしいことだ。そんなものがなくても、いやそんなものがなければ、楽しく気楽に生きていけそうなものを。 それは折木の世界とも親和性が高いものだ。「やらなくてもいいことなら、やらない。やるべきことなら手短に」
折木が本当に福部と似た気持ちを知るのは、『遠まわりする雛』で千反田の世界に触れてからだ。 折木は恋愛と省エネ主義が両立するのかを考えていたようだが、ここまで小説を読んできて、すでに彼にとって千反田のことはやらなければいけない特別な何かになっているように思える。
ところで、千反田についてだ。 実は、私は千反田が最初の頃あまり好きにはなれなかった。なぜかというと、入須が言ったように折木に「気になります」を持ちかける彼女が甘えて見えたからだ。
しかし、ここに来てやっと私は千反田のことを外から見られたのかもしれない。というのは、折木という主人公の側で読者の私から見ると、どうしても千反田は「気になります」というキーワードで面倒ごとを持ち込んでくる女の子に見えてしまったからだ。(あくまで、それ自体はけしてイヤなものではないが、まるで庇護対象のように見えてしまっていたという意味だ。私の個人的な趣味としては自立した女性のほうが好ましい) しかし、千反田にとって、それはとても例外的な出来事だったようだ。 千反田は、折木以外に甘えることなどない。自分のやるべきことはすべて自分でやり、それどころか家のしがらみも引き受けて、責任を果たすべく生きている女性である。 そんな彼女の世界は、これまで入須や十文字とのやりとりなどで片鱗を見せていたものの、生き雛祭りのエピソードで読者及び折木に紹介された。
彼女の世界。 それに対する「小さな世界じゃないですか」という台詞は、私にとってとても印象的なものだった。確かに、本当にそうだ。 そしてそれが彼女の生きる世界なのに、そこで多くの責任を引き受けて生きてきたのに、彼女はその外に広大な世界が広がっていることを知っている。千反田は外の世界に、どんなことを思うのだろう。好奇心旺盛な瞳を輝かせて、何を見るだろう。
0 notes
chokinto-blog · 7 years
Link
古典部シリーズの第3作。
第1作から話題にあがっていた「文化祭」の本番。多人数視点で文化祭で起こった出来事を描いているのだが、今回の折木も「安楽椅子探偵」という感じで、ほぼ部室から動かない。 ほかの部員がワイルド・ファイアで盛り上がっていたときでさえ、彼は小麦粉を窓から落としただけだった。そういうところが、また余計に面白い。
この本には、前回取り上げた入須の「ものの頼み方」講義など面白いポイントがたくさんあるのだが、とくに私がうまいなぁと思ったのは『夕べには骸に』の作者たちを巡る物語と、福部と折木の物語を並列されたことだ。
福部は高校生になってからの折木の活躍に対して思うところがあり、心のなかでひそかに張り合って十文字事件の犯人を自分で捕まえようと試みる。 それは失敗に終わり、福部は小さな無力感を覚えつつ「データベースは結論を出せないんだ」と結論する。
私は折木と福部をそういうつもりで比較したことはないし、福部には折木が持たないユーモアや人との関わりを楽しむ感性や、得難い特性がたくさんあるように思う。それでも福部が敗北感を覚えるのには、なんだか胸が痛んでしまった。まあ、そういった福部の心情に寄り添うのは井原に任せるとしよう。
「絶望的な差からは期待が生まれる」という田名部の言葉を、福部が折木に対して感じているというのは、己の適性や可能性を模索している青春らしい痛みかもしれない。
田名部が陸山に感じていた「絶望的な差」は福部が折木に感じるよりも深刻なものだ。 私は漫画創作をたしなむため、この点に題する共感は非常に強い。
高校生の文化祭にオリジナルの同人誌を出品できるだけでも大したものだと思うが、それは井原や折木に感銘をあたえるほどのものだという。
しかしその作者のひとり陸山にとっては、漫画は一時のお遊びでもう描く気を持たない。だから、原作者安城の次回作『クドリャフカの順番』を彼は読んでもいない。
十文字事件を通した暗号は面白かったが、田名部もまさかまったくの部外者がそれに気づいて話しかけてきたのに、一番伝わってほしかった陸山に伝わらなかったことは無念だっただろう。 私はその気持ちが少しだけわかるような気がした。
他人に「期待」なんて、しても仕方のないことで、本当は自分がどうしたいか、どうすべきかということだけ考えたらいいのかもしれない。 それでも、人との関わりのなかで生きている以上、私たちは他人に何かの思惑を抱いて、思いがけず傷ついたり傷つけたりしてしまう。
福部が折木に打ちのめされた本心を語れなかったように、田名部が陸山に『クドリャフカの順番』のことを尋ねることができなかったように、友達だからこそ、言えないこともある。 そんな心の隙間が、私にはいとおしい。
0 notes
chokinto-blog · 7 years
Link
『氷菓』に続く古典部シリーズの第2弾。
文化祭に2年F組がミステリーのビデオ映画を作ることになったものの、脚本家の本郷が倒れてしまい、映画は完成しなくなった。事態の収集に乗り出した入須は、クラス内に問題を解決できる人材がいないとわかると、千反田たち古典部に映画の真相について意見を求める。
これに続く第3作『クドリャフカの順番』のなかで、入須が人にものを頼むときのやり方を説明するシーンがある。その手法というのが、この件で彼女が折木をうまく使ったことを説明しているようで興味深い。 「相手に期待すること」というのがその中にあり、実際このとき、入須はうまくやりおおせた。 しかし折木は入須がどのように自分を使ったかにあとから気づき、彼女にその点を指摘している。
そもそも、折木が誰かのために動くという意味では、彼を動かせるのはとりもなおさず千反田なのだ。 それがなぜなのかは、とくに説明はいらないと思う。
折木がこの件に関わってしまったのも千反田の「気になります」ゆえだが、なぜ入須のアジテーションにかかったかという点についても、千反田の存在があると思う。 折木はおそらく、べつに入須に見栄を張りたかったわけではない。それは「変な期待は困ります」という普段の消極的な態度からも読み取れる。 それなのに、なぜ「君は特別よ」という入須の言葉に乗せられたのかといえば、特別になりたかったという心理的な作用があったためだろう。
『氷菓』において「灰色」の折木は「薔薇色の高校生活」に憧れていたという描写がある。『氷菓』事件を通して彼は自分の「灰色」も悪くはないと思いなおすものの、己の在り方をこうと決めて歩んでいるわけではない。だからこそ彼は、入須の「誰でも自分を自覚するべきだ」という言葉に揺さぶられた。
折木の憧れる「薔薇色」の中には、千反田と古典部の風景がある。それは、『氷菓』の文中にも折木との福部の会話として登場した。 「お前らを見てると、たまに落ち着かなくなる。俺は落ち着きたい。」 「だからせめて、その、なんだ。推理でもして、その、一枚嚙みたかったのさ。お前らのやり方にな」
しかし折木はこの件では、入須の思惑にはハマったものの、千反田の興味とは違う方向に行ってしまった。この点が入須が折木をうまく使ったところだと思う。
私は入須を優秀だと思う一方で、苦手だとも思う。 私は他人に使われるのが好きなタイプではない。そういうことが好きな人間がいないとは言わないが。
その点は、入須も折木の姉にたしなめられている。
折木はビデオ映画の真相を追いかけていたが、千反田の興味はそれというよりも、脚本家本郷の真意にあった。 千反田の台詞を丁寧に追っていくと、彼女が気にしているのは映画自体よりも本郷だということがまざまざとわかる。
まあ、読者だって「こんな外部の人間に聞いてないで脚本の続きなんか本人に聞けよ」と思ったくらいなので、作中の登場人物だってそう思うよね。その点はしっかりツッコんでくれた。 推理大会だと思っていたものが脚本コンテストだった、というオチは皮肉でいい。 折木が求めるのは真実ではなく、千反田が納得することなのだ。ミステリー小説も同じで、要するに創作上の事件について、ある程度つじつまがあっていて、読者がなるほどと思えるオチを用意するといったものなのかもしれない。
それにしても、折木説の『万人の死角』は面白かった。ちょっと違和感があるくらい無理矢理なところが。
0 notes
chokinto-blog · 7 years
Link
TVアニメ化もされた青春ミステリー。
アニメもしっかり見ていた作品なので、ことの顛末は了解していたものの、小説として読むとなおのこと面白かった。
私は学生時代『アルセーヌ・ルパン』を愛読していたので、ミステリーと言えば浮かぶイメージはだいぶ古典的なものだった。 もしくはもっと現代っ子らしく、『名探偵コナン』でもいい。
それのわかりやすさに比べたら、この小説でやろうとしてることは当初私にはわかりにくかった。 だって、千反田が気になると言い出す部室の鍵がなぜ閉まっていたのかなんて、私にはどうでもいい謎だったから。はぁ、と面食らったものだ。
千反田が折木に持ちかけた相談、伯父の思い出の謎についても、最初はあまりに漠然とした話で、何がしたいのか読み取れなかった。
それがいつのことだったのか、この作品のことを思い浮かべて、私はふと「この話は、事実ではなく、その向こうにある人間の思いを解き明かすミステリーなんだ」と理解した。
この第1作『氷菓』においては特に。 折木は事実にたどり着くものの、それを千反田の前に開陳してみせながら、「なぜ幼かった千反田は 伯父 の言葉で泣いたのか?」は、その場ではわからない。
千反田の 伯父 関谷が何を姪に語ったのか、なぜ古典部の文集は『氷菓』なのか、なぜ神山高校の文化祭は「カンヤ祭」なのか……。 事実にたどり着くまでは難しくないものの、その出来事を前に登場人物たちが何を思うか。 目には見えない、事実の更に向こうの、人の心のなかにあるもの、それこそが本当の謎。
関谷の行動を英雄的と評した人もいたように、事実は、人によっていかようにも解釈される。 もしその「英雄的行動」が関谷が自分の信念に殉じた結果なら、彼の心の動きはまったく違ったものになっただろう。でも、そうではなかった。
すべてを知った千反田の言葉は、まるで��き刺さるように私の心に残った。 「伯父はわたしに、そうです、強くなれと言ったんです。  もしわたしが弱かったら、悲鳴も上げられなくなる日が来るって。そうなったら私は生きたまま……」 「わたしは、生きたまま死ぬのが恐くて泣いたんです。」
心優しかった千反田の叔父の関谷。 生きたまま、心を黙殺された人。悲鳴を『氷菓』のなかに隠して……。
関谷の事件を、事実を、美談のように語ることもできれば、悲劇として語ることもできる。 しかし真実は、その人の心の内にある。
それを感じた小説だった。
0 notes
chokinto-blog · 7 years
Link
少し調べたら『虹色天気雨』には続編があるらしいことがわかり、さっそく読むことにした。 これもあっという間に読んでしまった。
市子が友人であるまりの元彼氏、旭を居候させることになる、という顛末には驚いたのものの、色っぽい話にはならず……。 一瞬、市子と旭に恋でも生まれるのかと思ったら。 まあまあ相性も悪くなさそうな二人ではあるのだけど。
でも、その「男と女がひとつ屋根のしたで暮らしたらどうにかなるでしょ」みたいなのを「べつにどうもしないよ」で片付けるセンスがもう最高。絶妙。
まりも、あれだけ旭への恋に打ちのめされたあとだというのに、内藤さんに新しく恋をしてすっかりお熱だし。面白いったらない。 ずっと旭を引きずってるとかじゃないっていうのが実にいい。
まりは彼と「結婚したい!」って言い出したかと思いきや、彼が乗り気じゃないとすると、まあ猫を拾ったのを機に同棲したり。 べつに自分の思惑だけが100%じゃなくて、なりゆきにほどよく身をまかせてる感じがしなやかでいい。
奈津と憲吾の問題についても、最終的には離婚ってことになるんだけれども、結構さっぱりしている。 いや、でも何だかんだと数年間保留していたってことは、そこまで見た目ほどさっぱりはしていなかったんだろうな。 奈津は結論を出したらあとはそれに向かうだけなのかもしれない。
美月が泣いてしまって、「ママだって同じじゃん」と問題を先送りにしてきた奈津の態度を指摘する場面は、この小説には珍しく感情的かもしれない。 ただ、そんな風に感情的になって泣いてしまうのが普段はしっかりしてるけどまだ中学生の美月。この人間描写がいい。
美月といえば、父親に会いたいと市子に無理を押し通しておきながら、いざ父親のいる信州に着くと気恥ずかしくなって会話もできない、という描写がまたうまいと思った。 だよねー、中学生の親子の距離感なんてそんなものだよね、と。 もう20年近く前、一度だけ実の父親に会ったときのことを思い出した。私にとっては知らないおじさんでしかなかったその人に、何を話したも���かまったくわからなかったし、今もまったくわからない。 別に美月みたいにそれなりに一緒に暮らした「パパ」という存在でもないので、このときの美月の心情とは全然かぶらないのだけど、この小説を読むとなぜか私には人生の色んな局面がフラッシュバックする。
市子たちの何気ない描写の透明感や、そういう感覚がすぐそばにある、って感じられるようなところが、好きでたまらない。 奈津と美月と、三宅ちゃんと旭とまりでジンギスカンを食べて、そのまま市子の家で雑魚寝しちゃった週末なんて、もう。何とも言えない。まるで天国みたい。学生のノリかよって感じで。 でもそんな夜って、ごくたまにあるよねって思う。 市子には結局ロマンスも何もないのだけど、何だかんだと毎日が楽しそうだ。
そして、それは私もそう。 小説を読むのってこんなに楽しいものだったか、と久々に気がラクになった。
私は自由で、このまま歳をとっておばさんになり、おばあさんになり、仕事をやめて家族が誰もいなくなっても、いつまでもきっと自由だ。素直にそう思った。
0 notes
chokinto-blog · 7 years
Link
先週の土曜日、図書館に本を返却に行ったら、6月ということでロビーには「雨」に関連する本があれこれと並べられていた。 そのなかにこの本があり、何気なく手に取ったという次第で読むことになった。
開いた途端、1ページ目から、文中の光景が目に浮かぶようで、私はすっかり市子たちの日常に引き込まれてしまった。
話は朝の5時半に、主人公となる市子の友人、奈津から電話がかかってくるところから始まる。 奈津にはしばしばこういうところがある、という記述が続くのだけど、私自身にもこういう友人がいた。 5時どころか2時半に急に電話をかけてきて、就職活動やら恋愛やらが不安だという話をしてくる友達が。 流石にそれは20歳そこそこの頃の話で、今はそんなことはないけれども、そういう迷惑を掛け合える間柄というのは確かに友達甲斐があるものかもしれない。
奈津の夫で、10歳の美月の父である憲吾が200万円を持って突然失踪してしまった。
大変な話だけど、珍しい話でもない。 当事者である奈津は憲吾を探したあと、夫が見つからないとわかると娘と暮らしていくために自立しようと仕事を探し始める。 うん、まあ、そうなるよね。
ちなみに、奈津は元モデルで、結婚したあとは専業主婦。 その生活がけっこう楽しかったというシーンが何とも言えず私は好き。 「ジツゲンしなきゃいけないジコなんて、あたしべつにないし。外で働くのなんて、どっちかって言うと、嫌いだし」 うん、いいじゃん。こういう女の人。 そう言いながら、夫がいなくなったらサッサと働きに出るところも。
でも、なんというか、大変な話なのに、感情的じゃないところがいい。 奈津視点じゃなく、あくまで友人の市子視点だからかもしれないけど。
かくいう私の母も、私の実父がほかに家を作って出ていってしまい、ひとりで2人の子どもを育て上げなければならなくなって、その頃は苦労したと思う。 私には幼いときからそれが当たり前だったから、何の不思議もなかった。
市子には過去に付き合った彼氏もいるものの、現在のところ恋人もおらず、結婚の予定もない。 でも、「結婚しなくちゃ!」とか、「結婚したい!」とか、焦ったところがないのもいいんだよなぁ。わかる。 仕事と収入がある程度あって、自分の面倒を見られれば、あとは好きにしていいという生活は楽しいし、つらくも寂しくもない。 (結婚したい!っていうモチベーションのある女性はそれはそれでいい)
そういう現代の女性のスタイルを書いてる作品って案外ないかもしれない。
三宅ちゃんというゲイの男性が、市子たちの共通の友人として存在するのも、何とも居心地がいい。 ああ確かに、市子の友人にならこういうタイプがいるかも、という感じ。
ゲイを珍しがって、別世界の人種のように思い込んでいる人もいるけど、案外いくらでもいるしね。どうやらデザインか何かの事務所を立ち上げて、色んなピンチを乗り越えながらやってきたらしい。
それから、まりと、世界中を飛び回っているカメラマンの旭の破局の描写。 旭はほとんど作中に登場しないし、まりと旭がどんな変遷をたどってきたか詳しいことが書いてあるわけでもないのだけど、好きだから長いこと連れ添ってきたけど、好きだったから一緒にいられなくなる……というのがもう、うんうん、わかるーって感じ。
好きだとどんどん相手にのめり込んで、求めるようになって、相手のなかの自分向きじゃない要素がぜんぶ憎たらしくなっていってしまう。 そのとち狂った感じが、恋だなぁと思う。
でも失恋したからってこの世の終わりでも何でもなく、日常は続くもの。 「こんなにつらいのに、昨日までの私とはもう何もかも変わってしまったのに」というような心境だとしても、生活する。
私はこの小説の、こうした明確な区切りのない日々の描写が、たまらなく好きだ。
この話には、新卒で安定した企業に就職して終身雇用を前提に働いている人も、結婚後は両親ともに協力して子どもを育てあげるみたいな家庭像も出てこない。 親が失踪しちゃったり、仕事はしてたりしてなかったり、恋人同士は別れちゃったり、そして、それが普通、っていう感じが貫かれている。 特別不幸でも、なんでもない。 そりゃあもちろん、毎日大変だけど。
私は、「この世界に自分ひとりを滑り込ませる」という風に、いつも思って生きている。 自分の生き方を一般化するつもりはなく、自分を一般に近づけるつもりもなく、「自分ひとりくらい、なんとか滑り込める隙間があるでしょ」と思って生きている。
だからこそ、この小説は私にとって、とても心地よかった。
0 notes