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絵:ツクポ 文:末埼鳩
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colors0505 · 7 years ago
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WHITE
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 街路樹の葉は密に茂ってざわざわと揺れ、無数の蝉の鳴き声がガラス越しでも耳まで届く。生き物のように宙を舞うビニール袋や忙しなく飛び交う小鳥たちを目で追って、���の色が赤や青や灰色に変わるのをぼんやりと眺めた。   外は真夏だった。僕は室内飼いの白猫で、5階の窓辺でレースカーテンに包まれていた。ここに来る前のことはよく覚えていない。ただ、ぬるい雨の中ボロボロの姿で歩いていたことだけ印象に残っている。死にかけの僕を拾ったのは人間の女性で彼女は一人住まいだった。清潔なマンションの一室で僕は出されたものを食べ、好きな時に眠り、与えられるまま何も考えずに暮らした。時々、呼ばれれば彼女の寝室で眠った。苦しいことも辛いこともなかった。僕は彼女に大人しく撫でられてさえいれば良かった。
 ある朝、ベランダの柵に見慣れないものがやってきた。それは白い小鳥で、野生にはあり得ないふっくらとした体つきと綺麗な羽毛と柔和な瞳を持っていた。僕はそれを見つめ、そのうち向こうも僕に気づいた。小鳥は、あろうことか僕の方へちまちまと足を動かして近付いてきた。ガラス越しとは言え僕はお前の捕食者だぞ、と睨んでみても小鳥は平然として、ぐっと首を傾けると片目で僕のことを観察した。やがてふと目を細めると小鳥は飛び立ちどこかへ消えた。僕は、あの小鳥の表情を「嘲笑と哀れみ」と受け取った。  僕は小鳥のことをあれこれ空想し始めた。あれはおそらく人間に飼われていて、きっと逃げ出してきたばかりだろう。外の世界の恐ろしさを知らない哀れな小鳥。それも白い羽毛だ。あっという間にカラスか何かに捕まって小さな体を引き裂かれてしまうに違いない。僕は、僕と似た真っ白な体が、黒い大きな塊に蹂躙される場面を想像した。いつしか血まみれで喘いでいるのは僕自身に変わり、その映像が脳裏にこびりついて離れなくなってしまった。こういう時は眠るのに限る。僕は居心地の良い場所に丸まりながら、小鳥が最後に見せた表情のことを思い出していた。愚かなのはあの小鳥の方なのに、どうして胸につかえるのだろう。たとえ一時であったとしても、遮るもののない空を羽ばたくことが、その自由が、羨ましいのだろうか。
 それから数日、あの小鳥を見かけることは無かったが僕の目の中にはいつもあの白い姿がちらついていた。寝床から這い出ると僕はいつも通り窓辺に行き、レースカーテンの内側へ入った。その時、ぬるい風が顔に当たった。妙だと思った。彼女はいつも、エアコンを付けたまま出かける。そのためにいつもぴったりと閉められているはずのガラス窓が、この日に限って開いていた。僕は久しぶりに触れる外気の熱と喧しい蝉の声を浴びながら、ほとんど無意識にベランダへ出ていた。暑い。まだ午前中のはずなのに目眩を感じるほど日差しは強く、コンクリートは火傷しそうに熱されている。僕は早足で歩いて振動する室外機の上に飛び乗った。柵に前足をかけて伸び上がり、下を覗き込むと庭があった。つまり、地面は土だということだ。 (ここから飛び降りるつもりなのか?)  頭の中で声がする。不安も恐怖もないこの場所から、死の危険を冒して、過酷な世界に戻ろうというのだろうか。僕は、意志も固まっていないくせに、体を何回転させれば地面に着地できるだろうかなんて計算を始めていた。 (着地に成功したとして、どこへ行く?)  行くあては無かった。けれど、あの小鳥の細めた目と羽ばたき去ってゆく光景を振り払うことがどうしてもできない。不意に、湿り気を帯びた熱くて強い風が吹きつけた。  その瞬間、体は宙に舞っていた。見慣れた街路樹と晴れ渡った空と黒い地面が僕の目の中を高速で回転した。緑、青、黒、緑、青、黒、白、緑、青……  白?回転する風景の中におかしな映像が断片的に混ざっている。その白に、僕は意識を集中させた。まず見えたのは大量の白い錠剤。次に、見覚えのない白い天井。それから、身寄りのない僕の手を引く白い腕。あとは似たようなシーンの繰り返しだった。白いシーツに横たわる裸の女。彼女の、太り過ぎてぶよぶよした不健康そうな白い肌。 (これを見たのは僕なのだ)  感覚が戻ってくる。その肉の感触。耳に刺さる声。粘膜の味。
 地面に到達する前に、僕は両手で自分の顔を覆っていた。その手をゆっくり外すとそこは相変わらず真夏のベランダで、僕は熱されたコンクリートに足の裏を焼かれていた。蝉はますます激しく喚き、眩しさと喧しさに頭がくらくらするのを感じた。僕は室内に戻って窓を閉め、そっと鍵をかけた。それからエアコンの温度を少し下げて浴室へゆき、ヒリヒリする足の裏を水で冷やした。僕は白猫なんかじゃなかった。そのことを、やっと思い出した。  たったひとつのリュックサックが僕の荷物だった。それを背負い、玄関へ向かった。見れば、靴も両足分揃っている。僕は猫ではない。だからこの、鍵のかかった重たい扉だって簡単に開けられる。僕は猫じゃない。僕は白い猫なんかじゃない。ドアノブに手をかける。僕は猫じゃない。僕はここを出て行く。僕は白い猫なんかじゃない。ドアが細く開く。僕は猫じゃない。僕は。僕は。  開き始めたドアの隙間から空が見えた。その隅の方を、白い小鳥が横切った気がした。
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絵:ツクポ
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文:末埼鳩
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colors0505 · 7 years ago
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YELLOW
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 もう来なくていいよ。君は必要ない。さよなら。  会って三度目の男はそう言って、俺のことはもう見えなくなったように事務作業に戻った。初日に大幅に遅刻して翌日無断欠勤した俺はこうしてアルバイトをクビになった。俺はボロアパートの六畳間に戻って埃を被った機材の隙間を探り、ウィスキーの小瓶を見つけるとすぐに煽った。それからテーブルに広げられたままの数種類のシートから幾つかの錠剤を取り出してそれも一緒に流し込んだ。アルバイトの面接の前から始めた数日間の禁酒はこれで終わった。無駄だったな、と思う。それは俺が行った、だいたい全ての事柄について。  小瓶が空になる頃には気分がマシになっていた。俺は、部屋の隅に積み上げた衣類の一番上に載っていたパーカーを羽織ると外に出た。夏一歩手前の夜の空気は生ぬるく湿っていた。自宅から少し歩けば、黄色のネオンサインを掲げた古臭いゲームセンターにたどり着く。壊れた自動ドアを手動で開けて中に入ると人はまばらで、俺はいつもの席に��く。筐体は古く、あちこち傷や汚れが目立っている。椅子のカバーは擦り切れ、ブラウン管はヤニで変色しぼやけている。誰もがお互いに無関心で、それが俺にとっては心地良い。子供の頃に流行ったパズルゲームの画面の前で煙草に火をつけて、それからしばらく手を動かす。ゲームに飽きる頃、手癖のように何人かの女の子に連絡をした。少し前まではすぐに何件も連絡が返ってきたものだった。しかし今は、返信すらほとんどない。1時間近く経ってようやく、今仕事が終わったという年上の女からあまり色よくない返事が送られてきた。文面に少なからず葛藤があることを読み取った俺は、そこを突くように多少強引な言葉を送った。結局彼女は終電に乗り、俺の部屋へ来ることになった。
 部屋へ来た彼女は疲れた顔をしていて、傷んだ髪の毛をしきりに気にしていた。美容院へ行く時間がなかなか取れないのだという。俺は労いの言葉をかけながら酒を飲み煙草を吸い、彼女がコンビニ弁当を食べ終わるのを待った。プラスチック容器を捨てたばかりの彼女にキスをすると、甘辛い油の匂いがした。俺は彼女をベッドに寝かせ、乾いた汗の気配と蒸れた体臭を感じながら、それなりに丁寧にあちこちを舐めてやった。彼女は、恥じらいと悦びの隙間で何度も悲しそうな目をしていた。俺はそれを見つけるたびに彼女を強く抱きしめて、これが茶番であることを忘れさせようと努めた。そんな顔をするのはやめてくれよ。俺は温かいものに絡まりながら眠りにつきたいだけなんだから。
 物音で目を覚ますと部屋は明るくて、彼女は身支度をしている最中だった。洗面所から出てきた彼女は俺の顔色を伺いながらゆっくりと近付いてくる。体を起こすと頭痛がして目眩がして吐き気がした。もちろん気分も最悪で、彼女のそのおどおどとした態度も癪に障った。朝日の明るさもダサい化粧をした美しくない女も薄汚いこの部屋も何もかも気に入らなかった。俺は彼女に、手振りだけでカーテンを閉めさせた。 「ごめんね、そろそろ帰るから」 「そうして」  力なく微笑む彼女を横目に、布団を被りながら冷たい声で俺はそう言った。薄暗くなった部屋に扉の閉まる音が響いて、俺はまたすぐに眠りに落ちた。時間のわからない部屋の中で俺は微睡みを繰り返したが、最後の浅い眠りの中で夢をみた。海だった。春先の海。三角形のコンクリートブロックの群れ。岩に砕ける波。空は黄みがかった灰色で海の色は濁ったエメラルドグリーン。それを見渡せる場所に古い車が���ろのろと現れ停車する。助手席の女が窓を開け冷たい潮風に目を細める……  それはまるっきり俺が撮りたかった映画の風景だった。幾度も思い描き、希望とともに空想していたワンシーンが今となってはゴミクズのようだ。ため息と共に身を起こしてカーテンをめくると日は暮れていて、そのうえ雨が降っていた。気分はさらに底へと落ちた。俺はベッドの下に転がっていたぬるい発泡酒を水のように飲み、そのまま幾つかの錠剤を嚥下した。白い紙袋をひっくり返すと銀色のシートがかさかさと落ち、俺は薬を使い切ってしまったことを知った。もう終わりだと思った。俺は震えながら家じゅうの酒を飲み、手当たり次第女たちに連絡をした。しばらく待っても返信は一件も来ず、電話すら誰も出なかった。だが、本当の絶望が来る前に酒と薬が効いてくれた。俺は楽観的になり、とにかくこの部屋を出ようという気を起こした。俺はパーカーを羽織ってフードをかぶり、誰かが置いていった飲みかけの赤ワインの安っぽいボトルを引っ掴むと外へ出た。  雨はさらさらと降っていた。俺は雨に濡れ、フルボトルのワインをラッパ飲みしながら歩いた。人気のない憂鬱な風景の中を、俺は覚束ない足取りで進む。ゴミ捨て場に不法投棄されたボロボロの家具の脇を通り、濡れてくしゃくしゃになった病気の野良猫を一瞥し、シャッターの降りた店の連なる商店街をゆく。そしてその外れにあるゲームセンターだけが、煌々と黄色いネオンを光らせているのだ。いつも通り手動でドアを開け俺は椅子に腰掛けた。ゲームを始めてみても酔いが回っていて、思うように手が動かない。しばらくしてふと顔を上げると幾つもの画面だけが並んで光り、白く浮かび上がっているのが見えた。俺はその時初めて、店内が無人であることに気が付いた。もともと少ない客だけでなくカウンターの奥にいるはずの店主の姿も見当たらない。俺は急に落ち着かない気分になってポケットから煙草を取り出したが、湿って使い物にならなくなっていた。仕方なく俺はもう一口酒を飲み、その酸っぱさに顔をしかめながらカウンターの方を見やった。先ほどは気づかなかったが、従業員専用扉がほんのわずか開いている。中から、光が漏れている。  俺は吸い寄せられるようにしてその光を目指した。扉の前に立つと、漏れ出す光が看板のネオンに似た黄色をしているのがわかった。俺は思い切って扉を開け、中へ一歩踏み込んだ。その途端、軽薄な黄色の光に俺の体は包まれた。何も見えない。誰かが居る気配もない。高く低く、耳鳴りがする。光はどんどん強くなり、俺の意識を奪っていく。 「このまま何も見えなくなって感じなくなって消えられたらいい」  そんな風に願ったが黄色い光は徐々に弱くなって、いつしか健康的で透明な朝の光に変化した。俺は瞬きを2、3度繰り返すとベッドから体を起こして、物音のする方をぼんやりと眺めた。少しすると、洗面所から身支度を整えた女が出てきた。昨夜呼び出した女だ。彼女は、俺の顔色を伺いながらゆっくりと近づいてくる。俺は、目眩と頭痛と吐き気に苛まれながら、強烈な既視感を味わっていた。この風景を俺は知っている。だけどはっきり思い出せない。黙っていると俺の不調を察したのか彼女は自らカーテンを閉め弱々しく微笑んだ。 「ごめんね、そろそろ帰るから」  その言葉を聞いた途端俺の体に強い電流のような衝撃が走り、反射的に体が動いた。俺は身を乗り出し、彼女の腕を掴んでいた。俺は自分の行動に心底驚いた。どう考えても今の俺は一人になりたがっている。こんな気分の時、今までずっとそうしてきた。だが今彼女を帰してしまったら、取り返しのつかない事になるような気がした。多分、俺は彼女を愛しているわけではない。だったら金でも借りるつもりか?それともこの地獄の道連れにする?  彼女は不思議そうな、でも喜びを隠しきれない表情で見つめてくる。俺は一体どうするんだろう。この手を引くのか、離すのか。自分のことのはずなのに、これから何を話してどう行動するのか、想像がつかない。俺は曖昧な笑みを浮かべたまま、何故だか、馴染みのゲームセンターの黄色いネオンサインを思い描いていた。想像の中のネオンサインは夜の雨に濡れ、不穏な音を立てながら明滅を繰り返すばかりだった。
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colors0505 · 7 years ago
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INDIGO
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 金属製のドアノブは握るとひんやり冷たい。かすかな拒絶を感じながら、私は鍵のない扉を開ける。誰もいない、静まり返った部屋。香水の匂いと他人の匂い。ベッドと本棚と鏡台、床に敷かれたラグとローテーブル。学習机はいつ捨てたんだっけ。窓の下には小さなスツールがあって、小ぶりな金魚鉢が置かれている。お姉ちゃんは青い魚を飼っている。私は時々部屋に忍び込んでは金魚鉢に顔を寄せ、その魚を観察した。深い青色をした淡水魚は私を認識すると背びれを立て、シルクのような尾びれを広げて威嚇した。水の中で炎のように揺らめく、その姿は美しかった。だけど今日の魚は、金魚鉢の底に沈んでいた。顔を寄せても横たわって動かず、黒かった目は白濁している。私はため息をつくと立ち上がり、ポケットから携帯電話を取り出した。アドレス帳を開きお姉ちゃんの番号を探し出してコールする。電話をかけるのは久しぶりで、少し緊張する。結局、10回以上鳴らしても繋がらず、留守番電話にもならなかった。お姉ちゃんは多分彼氏の家にいる。お母さんに言わせると「ロクでもない」彼氏に、お姉ちゃんは夢中だった。
 私は一度部屋に戻ってコートを羽織ると台所からおたまを取ってきた。それで魚をすくい上げると、背びれも尾びれも縮こまって生きていた頃より随分と小さく見えた。手の上にティッシュを重ね、そこに魚を載せた。水槽用のヒーターでぬるくなった水が手のひらに染み出して気持ち悪い。私は手近にあった小皿を手に取り、そこに載っていたピアスをしゃらしゃらと鏡台に落とした。空になった小皿に濡れたティッシュの塊を載せ、コートのポケットにスプーンを入れて私は家を出た。  冬の寒さはだいぶ緩んでいて、春を思わせる明るい光がさしていた。5分ほど歩いて小さな公園に着くと、人がいないことを確認して植え込みにしゃがみ込んだ。低木の植えられた黒い土を、私は銀色のスプーンで掘った。土は意外と固くて掘りにくかったが、そのうち魚を埋められそうなサイズの穴ができた。私は立ち上がってもう一度人目がないか確かめて、急いでそれを埋めた。スプーンの背で表面をならし、公園内に咲いていた椿の、傷のない赤い花びらを一枚拾ってそこに置いた。手を合わせれば、もしかしたら気持ちがすっきりしたかもしれない。でも、そうしなかった。逃げるようにその場を離れ、付近にあったコンビニのゴミ箱にスプーンを捨てた。  夕方を過ぎてもお姉ちゃんから連絡はなかった。日が落ちて部屋が暗くなっても明かりを付けず、私はベッドに仰向けになっていた。車のライトが窓から伸びて壁や天井を照らし、ゆっくりと角度を変えて消えていった。何故だか涙がこぼれて、その水は私の耳の中を濡らした。私は死んだ魚のことを考えた。美しいけれど滑稽で、哀れな一生だったと思う。それからお姉ちゃんのことを思った。彼女の赤い口紅と、揺れるピアスのことを思った。私は恋がわからない。愛については、もっと。  暗い灰色の壁に藍色の影が映る。それは魚の形を持ってゆらゆらと泳ぎ始める。魚は壁と天井を彷徨い、何かためらっているように見えた。私ははっとして起き上がり、ベッドの上の窓を開け放った。その途端、壁の魚の背びれが割れて大きな二つの翼になった。尾びれは長い尾羽に変わり、鳥へと姿を変えた魚は強く羽ばたくと窓から飛び立ち、やがて黒々とした空へと消えた。まだ冷たい夜の風に乱暴に前髪を撫ぜられて、私は半ば呆然としながら元どおりに窓を閉めた。  私にはわからない。命のことも、死ぬことも。でもきっとしばらく、今夜のことは忘れないだろうと思う。
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colors0505 · 7 years ago
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PINK
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 ワンピースの胸元にふっと風が入り込んだ。気に入りの厚手の綿のワンピース。それ一枚で過ごすには、少し肌寒い午後だった。最寄駅より一つ前の駅で降り、馴染みのない商店街は足早に抜けて、見知らぬ住宅地をのろのろ歩く。あまり古い建物はなく、白を基調とした外壁が多い印象だった。私は何となくの方角だけで自宅方面へ向かっていたが、反面、いつまでも着かなければいいのにとも思っていた。背中がそわそわして頭の中はぼうっと霞んでいた。直線の、極端に音の少ない道を進んでいる内に、アスファルトは柔らかいゴムのような弾力を持ち始める。靴底がむにむにと沈み込む想像をして、私は無意識にため息をついた。今日は、たまたま午前中で講義が終わった。私は同じ大学の、付き合いたての恋人の家に一緒に帰った。彼の家に食べ物はなく、私は昼食を買いに出ることを提案した。彼は答えず、私に触れた。そこは日当たりの悪い6畳間で、室内干しの洗濯物が微かに臭っていた。
 そこまで回想すると私は立ち止まり両手で自分の頬を押さえた。手のひらは冷たく、頬は熱く感じられた。私は小さく首を振ってまた歩き出した。相変わらず白っぽい家が立ち並び、辺りは静かだった。ある塀の上には小ぶりなサボテンが置かれていた。ずっと先の方で猫が横切り視界から消えた。赤ん坊の泣き声とカナリアのさえずりが耳を掠めた。金属の門が軋む音や窓の閉開音がした。室内のテレビから音声が漏れ聞こえた。人の気配は確かにある。それなのに、誰ともすれ違わない。そもそもこの住宅地に入ってから他人の姿を見ていない。同じような景色が延々と続くことにも不安を覚える。私はスマートフォンを取り出して時間と方角を確認しようとした。しかし充電が切れているようで、ボタンを押しても指を滑らせても黒い画面は反応しない。諦めて顔を上げると白い壁が黄色味を帯びていることに気が付いた。まだ日暮れには早いはずだが、判断がつかない。私は道に迷っているのだろうか。あとどれだけ歩けば見知った場所に出るのだろう。私は、これから帰るべき自宅のことを考えた。幼いころから住んだこじんまりとした一軒家。屋根の色は茶色でささやかな庭があって、そこで弟とよく遊んだ。想像の中で幼い弟はすぐに今朝見た弟の姿に変わった。思春期真っ只中でろくに口もきかない前髪の長い弟の顔。それから微笑む両親の顔が思い浮かんで、また足取りが重くなった。家に帰って、どんな顔で家族と会えばいいのかわからない。
 だんだんとものの影が濃くなり、本格的な夕暮れが訪れた。周囲の白い壁はオレンジというより淡いピンク色に染まっている。私は首筋の産毛が絡み合うような、ちりちりとした痺れを感じた。数時間前の記憶が鮮やかに蘇り、下半身の怠さと体の奥の鈍い痛みを意識した。視界がぐらつき、頭に血がのぼった。重力が減少している、と私は思った。現に今、庭木から落ちた木の葉がふわりと浮かび上がるのを見た。風は吹いていない。私は目をこすった。塀が、壁が、窓が、屋根が。草花が、電柱が、電線が、雀たちが。目に入る全てのものの輪郭がいつの間にか二重になっている。それらはゆっくりと元の場所から離れ、浮かび上がろうとしている。この薄ピンクの世界そのものが、元の世界から乖離し始めている。少なくとも私にはそう思えた。
(あれ?)
 私は動かない口の中で声を上げた。その現象は例外なく、私自身にも起こっているのだった。私の意識は肉体から、薄紙を剥がすようにめくれてゆき、離れるにつれて透き通っていった。まるで脱皮のように、少しだけ変化した身体を置き去りにして私は浮かび上がり、中空へ放たれた。私は家々の屋根を見ることもなく薄れ、あっさりと消滅した。地上の私は消えた私のことも知らず、重い足取りで、それでもまた一歩と、家路を辿る。
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絵:ツクポ
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