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cuttercourier · 5 years ago
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イングランドからインドとアメリカへ:2つのバイデン家
はじめに
2020年アメリカ合衆国大統領選挙の結果、次期大統領および副大統領はジョー・バイデン、カマラ・ハリスのペアとなる見込みである。言うまでもなくハリスの母はインド南部タミル・ナードゥ州出身の移民1世であり、選挙戦の過程で彼女のルーツはインド人やインド系アメリカ人の間で注目を集めつづけた。日本ではほとんど知られていないが、一方のジョー・バイデンについても、彼が民主党の候補として選出されたあとの8月、そして11月3日以降開票が進み次期大統領たることがはっきりしたタイミングで、彼の個���的なインドとの縁をインドメディアはさかんに報じている。その縁とは、オバマ政権下で副大統領を務めていた時期にバイデンが自ら披露した、インドのバイデン家との交流のエピソードである。報道によれば2013年のインド訪問中のボンベイ証券取引所でのスピーチ、そして、2015年にワシントンで開催されたインド工業連盟とカーネギー国際平和基金との共催イヴェントでのスピーチという2度にわたり、彼は上院議員としてのキャリアの初期に「ムンバイ」在住のバイデン氏から手紙を受け取ったこと、彼の「曾々々々々祖父」にあたる「ジョージ・バイデン」はイギリス東インド会社で船長を務めたあと、インドに定住して現地人女性と結婚しており、件のバイデン氏はその子孫であることなどを語っている。インド人聴衆を前にした際のいわば持ちネタと言ってよいだろう。
ジョーことジョーゼフ・ロビネット・バイデン・ジュニア自身がカトリック信徒であることはよく知られており、ときにアイルランド系とも言われる。血統のうえでの「アイルランド性」についていえば、母キャサリン・ユージニアがアイルランド系であるほか、父方の祖父ジョーゼフ・ハリ・バイデンの妻メアリ・エリザベスがフランス系の父とアイルランド系の母をもっていたので、曾祖父母8人のうち5人がアイルランド系ということになる。ちなみに、祖母のフランス系の旧姓ロビネットはジョーゼフ・ロビネット・シニア、ジュニア=ジョー、サード=ボーと、長男のミドルネームとして受け継がれている。他方、父方のバイデン家はイングランド出身である。アメリカに渡った先祖は名をウィリアム・バイデンといい、ジョーから数えて5代前、曾々々祖父にあたる。このウィリアムの出身地、すなわちアメリカ合衆国次期大統領のイングランドにおける故地をめぐって南部サセックスと東部ケインブリッジシアの郷土史家のあいだに論争が生じている。
本稿は以下、イギリスおよびインドのウェブメディアの関連記事を突き合わせ、ジョー・バイデンによるインドの遠戚についての語りと、バイデン家のイングランドの故地について検討する。結論を先取りすれば、ジョー・バイデンの祖先ウィリアム・バイデンは現在のウェスト・サセックス州出身、インドのバイデン家の祖先はケインブリッジシア州出身であり、したがってアメリカとインドのバイデン家がルーツを同じくするとは言えない、というものになる。ただし、以下の記述は一次資料に基づくものではなく、ウェブ上で参照できる情報をほぼ矛盾なく説明できる仮説の提示にすぎないことはあらかじめお断りしておく。
イングランドの2つのバイデン家
バイデン家サセックス出身説を唱���る地元郷土史家エディ・グリーンフィールドが依拠する史料は、1868年に現在のウェスト・サセックス州ウェストボーンからジョー・バイデンの高祖父ジョーゼフ・バイデン(1828年生)の許を訪れたジョーゼフの父ウィリアム(1789年生)の甥、つまりジョーゼフの従兄弟にあたるヘンリ・バイデン(1834年生)の日記と、ウェスト・サセックス州の村々の教区簿冊である。教区簿冊からはウィリアムの父ジェイムズ(1767年生)が同州パガムでリチャードとスーザンのバイデン夫妻の間に生まれ、ウェストボーンに暮らしてウィリアムら5人の子供を育てたことがわかる。バイデン一族はリチャードまでしか遡れないとのことだが、ジェイムズの妻アン・シルヴァロックはやはり同州のボザム出身(1766年生)、アンの母は同州チダム出身とのことであり、いずれにせよウェスト・サセックス州沿岸部の村々に暮らし、通婚した人々であった。ヘンリ・バイデン日記の存在により、彼らがジョー・バイデンの父方の先祖にあたることにほとんど疑いの余地はない。
これに比べ、ケインブリッジシア出身説の根拠はかなり薄弱である。地方紙『ザ・ハンツ・ポスト』の記事によると、同州ホートンのセント・メアリー教会に遺るという1796年没のジョン・バイデン墓碑から、彼が伝統ある村内の水力製粉場(ヘンリ8世による修道院解体により王の所有となっていた)を4年間経営したそれなりの有力者であったことがわかり、さらに教区簿冊には彼がアン(またはアンナ)・ボーモントと1781年に結婚し、1791年に息子ウィリアム・ヘンリが生まれたと記されている。時期を鑑みてアメリカのバイデン家の祖ウィリアムをこのウィリアム・ヘンリに比定できるというのがその主張である。そのほか、軍民の船員孤児のため1712年にグリニッジの海軍病院内に設立され、イギリス最大の船員養成学校となった王立病院学校(Royal Hospital School)にウィリアム・ヘンリが入学した記録があり、そこにある両親の名前とその結婚の日付は教区簿冊のものと一致するという。要するに、生年から見て19世紀初めの渡米がありうる「ウィリアム・バイデン」が地元に存在したというだけで、次期大統領の先祖ではないかと賛否両論が盛り上がっている構図といえる。
インドのバイデン家
ムンバイ��外交政策シンクタンク、ゲイトウェイ・ハウスのウェブサイトに掲載されたキングズカレッジ・ロンドン客員教授ティム・ウィラシ=ウィルジのリポートは、バイデン姓の東インド会社船員の事績を会社関連史料に求め、ジョー・バイデンが言うところのインドに渡った先祖「ジョージ・バイデン」に該当しうる人物を検討したもので、以下はその要約である。東インド会社船で船長を務めたバイデン姓は2人おり、クリストファとウィリアム・ヘンリという名の兄弟であった。両者とも同じように3等ないし4等航海士から叩き上げて船長となり、弟ウィリアム・ヘンリはアジア域内交易に従事、1843年に51歳で脳卒中のためラングーンにて没した。兄クリストファは1807年に4等航海士としてローヤル・ジョージ号に乗り組むところからキャリアを始め、1815年までには主席航海士となり、1821年からはイギリスとインドを結ぶ東インド会社船の船長を務めた。1830年には引退してロンドン近郊のブラックヒースに居を構え、商船の統率術について自らの経験に基づく著作をものした。また、1819年に生まれ故郷のダービシアでハリエット・フリースと結婚しており、1男2女を儲けている。その後、今度は自己所有船でインド貿易に従事したが、うまくいかなかったらしく、1839年に妻と娘1人を連れてインドに戻り(娘は船中で死去)、マドラスの港湾管理責任者として働いた。1858年に同地で尊敬を集める名士として死去、妻ハリエットは1880年まではロンドンでの存命が確認できる。1846年に父母の許にやってきた息子ホレイシオはマドラス砲兵隊で大佐になっている。もしインドに渡ったジョー・バイデンの先祖がいるとすれば、このクリストファが最有力候補であろうというのが著者の見解である。
他方、インドメディアによる現代インドのバイデン家への取材はこれまで多くなされ、とりわけ選挙後は加熱する一方であったが、若き上院議員となったジョー・バイデンに手紙を送ったレスリ・バイデン自身が既に亡くなっていることもあり、家族はジョー・バイデンとの縁にそれほど興味を示さず、故人と違い先祖についてもよく知らないとして応答は消極的であった。しかし、TVニュースチャンネルCNBC-TV18の記事(2020年11月10日付)によれば、その取材に対しては1981年に送られた件の手紙のコピーを提示したという。レスリの目的は同姓の若きアメリカ上院議員に同族ではないかと問い合わせることであり、したがって手紙には1781年に結婚した先祖ジョン・バイデンとその妻アン・ボーモントに始まり、クリストファ(1789年生)、ホレイシオ大佐、サミュエル、チャールズ・ホレイシオ、そして彼レスリに至る一族の系譜が記されていた。レスリの孫イーアンによればジョー・バイデン��らの返信により、彼らはジョン・バイデンという共通の祖先をもつという認識で一致したが、1983年にレスリが没したためその後の交渉は途絶えたという。1
上記2つの記事が指す家系の姿はほぼ完全に一致する。1789年に生まれて、在印イギリス人として1858年に没したクリストファ・バイデンの子ホレイシオがインドに定着し、現代インドのバイデン一族となったことは間違いない。さらに、前節でみたケインブリッジシアのバイデン家の話ともつながりが見える。ジョン・バイデンとその妻アン・ボーモント、その子ウィリアム・ヘンリという名前や生年の一致はもちろん、王立病院学校への入学記録から彼が船員教育を受けたのちに航海士として東インド会社船に乗り込んだと考えて不自然ではないだろう。兄クリストファをモデルとして、ウィリアム・ヘンリも同じ道を志したのかもしれない。いずれにせよ、インドのバイデン家はケインブリッジシア州ホートンに遡ると考えてよいように思われる。ただし、一点だけ留保しておきたいのは、ウィラシ=ウィルジのリポートにある、クリストファが「生まれ故郷のダービシアでハリエット・フリースと結婚した(Biden had married Harriott Freeth in his native Derbyshire)」という記述である。史料の問題か、あるいはその解釈の問題か確たることは言えないが、ホートンに住まう夫婦の子が何らかの事情でイングランド中部ダービシア州で生まれたと考えるよりも、たとえば「ダービシア出身のハリエット・フリースと結婚した」と考えたほうが無理がないように思われる。
おわりに
冒頭に紹介した、遠い親戚がインドにいるというジョー・バイデンの語りに戻れば、1981年にアングロ・インディアン(英系インド人)であるレスリ・バイデンが米国上院議員ジョー・バイデンに連絡を取ったのは確かであり、彼と同じイングランドに起源をもつバイデンという姓の家系があることも事実である。しかし、レスリが共通の先祖ではないかと取り上げたのは「ジョージ」ではなくインドに渡ったクリストファの父ジョンであり、さらに知られているかぎりジョー・バイデンの父系直系にジョンという名の人物は存在しないので、2人の家系が共通の先祖をもつというレスリの着想を受け入れることには無理がある。とはいえ、そもそも政治家のリップサーヴィスに歴史記述としての正確さを期待するほうが間違いであるともいえる。「曾々々々々祖父」という表現のいかにもな「適当さ」も含め、本当だったらおもしろい、愉快な法螺話と考えるべきだろう。
他方、イングランドではアメリカのバイデン家の故地をめぐってウェスト・サセックス州とケインブリッジシア州の2説が争われているが、明らかに前者に分がある。しかし、インドのバイデン家の存在を念頭に後者を見てみると、ケインブリッジシアの一族こそ彼らにつながることが明らかになる。アメリカのバイデン家とのつながりの有無という関心のみから書かれたイギリスやインドのメディア記事を併せ読むことで、18世紀末に同じバイデン姓をもつ2人の男性がイングランドの東部と南部それぞれに生���受け、環大西洋のいわゆる第一帝国からインドを中心とする第二帝国へというイギリス帝国史上の過渡期にあって、同じく成功を夢見る若者として一方はインドへ、他方はアメリカに向かい、それぞれの地に定住して骨を埋めたという像が現れるのはなかなかおもしろい話ではないかと思われるが、いかがだっただろうか。2
ジョー・バイデンの語りにおいて、レスリはムンバイ在住ということになっているが、実際には彼はムンバイからはるか内陸のマハーラーシュトラ州ナーグプルの住人であった。ナーグプルの地方紙によれば彼はホステルの経営者であり、同市にあるフリーメーソンのロッジの一つでマスターを務めていた。家族の言によれば、現在ではレスリの子や孫はナーグプルとムンバイのほか、米国、オーストラリア、ニュージーランドにも住んでいる。 ↩︎
ちなみに、インドのバイデン家もアメリカのバイデン家と同じくローマ・カトリック信徒のようである。上述のCNBC-TV18の記事に掲げられた、身内の結婚式に出席するためにインド内外からバイデン一族が集まったときの写真は、明らかに同市のセント・フランシス・ド・セールス大聖堂の前で撮影されている。同大聖堂にはローマ・カトリック・ナーグプル大司教座が置かれており、必然的に一族はその信徒ということになる。イングランドにおいてはイギリス国教会信徒であったはずのインドのバイデン家がいつ宗旨を改めたかを特定できる情報はないが、同記事に見られるサミュエル、チャールズ・ホレイシオ、レスリ3代それぞれの妻の名、オーガスタ(Augusta)、エディス・マリー(Edith Marie)、ジュヌヴィエーヴ(Genevieve)からして、カトリック女性との結婚を通じてカトリック化したと考えてよいのではないだろうか。もしそうであれば、2つのバイデン家はその信仰という点において、インドとアメリカで奇しくも同様の道を歩んだと言えよう。 ↩︎
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cuttercourier · 5 years ago
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[翻訳] ナガランド州の犬肉禁止問題: 動物の権利、部族民差別
ナガランドにおける犬肉禁止をめぐるポリティクス
ドリー・キコン(メルボルン大学社会政治科学学術院)
2020年8月14日
先日、ナガランド州政府が犬肉の販売を禁止したことは、何が食べ物で何が食べ物でないかについての議論を二極化させただけでなく、私たちがいかに動物の体を私たちの政治や偏見のための戦場にしてきたかを示している。
7月3日、ナガランド州のテムジェン・トイ官房長は、犬の商業的な輸入および取引を禁止し、犬市場と犬肉の販売を禁ずるという州政府の決定をツイッター上で発表した。当該ツイートの最後に、彼はネイフィウ・リオ同州首相と、国会議員でありピープル・フォー・アニマルズ(PFA)創設者であるメーンカー・ガーンディーをタグ付けした。7月4日付ナガランド州政府告示によれば、この禁止事項に違反した者は、1860年インド刑法典第428条および第429条、ならびに1960年動物虐待防止法第11条に基づいて処罰される。これらの2つの法律に加えて、政府はまた、2011年インド食品安全基準委員会(FSSAI)規則、特に、人間が安全に消費できる動物を定義している2.5.1(a)節も援用している。今や犬肉はインドの食品安全基準外の食品に分類されているのだ。〔※同規則で食用動物とされているのはヒツジ・ヤギ・ブタ・ウシ・家禽・魚類〕
州政府の決定後の議論は、禁止を非難する犬肉支持消費者とそれを祝福する反犬肉の声の二項対立にエスカレートしている。論争についてはっきりしているのは、犬肉を消費する文化的権利について話す者と、動物の権利についての倫理的問題を提起する者が持ち出す極端な話法である。牛論争とは異なり、犬肉に関する論争は宗教を中心としたものではなく、文明の論理に基づいている。すべての動物の中で、現代インドにおける野犬は倫理、ケア、権利の代表である。また、路上の犬の経験と存在こそが家庭内空間と屋外の境界線を曖昧にしてもいる。
日常の食べ物の選択は、私たちにインドにおけるカースト暴力やウルトラ・ナショナリズムというより大きな問題に対処することを強いる。例えば、牛は最も崇拝されている動物であり、牛を保護せよと叫ぶ人々は牛を武器として用いるまでになっている。牛保護活動家たちは軍国主義的ヒンドゥトヴァ・ナショナリズムを推進してきた。犬はこのリストに加わり、インドにおける文明、純粋性、愛についての既に山ほどある論争を一つ増やすことになる。犬は道具化された存在となり、その擁護者は禁止令に違反した者を追い詰めるかもしれないが、犬肉を珍味として宣伝するグループは反撃するかもしれない。悲劇は、権利についての政治が応報的正義についての政治になってしまったことだ。
論争の中心にあるのは、犬の肉を消費する、あるいはそれに近づかないための「権利」の問題である。動物愛護活動家、ナショナリスト、雑食主義者、反カースト活動家、伝統文化継承者と、さまざまに自認する人々が声を上げている。犬肉禁止は、何が食べ物で何が食べ物でないかについての価値観、虐待、嫌悪感、禁忌、人種差別等々をめぐる議論を二極化させた。
COVID時代における食肉
とりわけCOVID-19パンデミックの時期にあって、インドにおけるウイルス拡散のもっともらしい要因として食肉への注目が高まっている。ナガランド州を含むインド北東部では、豚の輸入を禁止する告示が出されている。犬肉禁止の場合、動物福祉(犬を苦痛から救う)の主張と、犬は不潔で、病気にかかる可能性があり、したがって消費には適さないという記述が同時になされていた。COVID以前の時代でさえ、FSSAIの勧告の下、犬肉を含むさまざまな食品は、消費しても安全とされる食品の定義の外に置かれていた。目下は清潔で安全な動物という論理が、禁止を正当化するために用いられている。しかし、犬肉の禁止はインドのアニマルライツ活動家が始めたキャンペーンの成果として祝われようとしている。
州政府はまだ禁止措置の詳細を示していないが、犬肉は禁止リストに入った2番目の食品である。1989年、ナガランド州酒���全面禁止(NLTP)法により、州内での酒類の販売と消費が禁止された。今日では、ブラックマーケットが活況を呈しており、アルコールは州内で広く入手可能である。皮肉なことに、ナガランド州の犬肉取引についても同様の未来を目にすることになるかもしれない。
とはいえ、アニマルライツ活動家にとってこれはまさに法的勝利の瞬間である。ナガランドで犬肉を禁止しようとするキャンペーンは継続的なプロジェクトだった。ローカル市場からの数多くの文書や動画は、犬がいかに悲惨な目に遭い、恐ろしい残虐行為の犠牲になっているかを見せつけた。禁止直後の期間、犬肉消費賛成派・反対派双方の口調は非難がましいものであった。道徳的に唯一正しい選択としての菜食主義と雑食主義についての発言は声高になっている。
人種差別の道具
そもそも犬肉はナガ人の食生活の中心ではない。犬肉は珍しく、多くのナガ人世帯では消費されていない。しかし、犬肉の語りは、インド北東部の部族民コミュニティに対する暴力、憎悪、人種差別を扇動するための道具となっている。ナガ人コミュニティ全体を、野蛮と未開についての本質主義的な人種差別的イメージである犬肉食いとして描写する例がインドでは横行している。それほどまでに、ナガ人の集団的アイデンティティと犬肉は、半人半獣的な住民像、ナガ人臣民は道徳的に劣っており、教化されなければならないという〔英領期の〕語りを構築するうえで著しく影響を与えてきた。この説明は、犬を消費する文化的権利や犬を保護する道徳的権利といった権利の主張が、肉や植物に実際に齧りつくことによってなされるというナショナリスト的なアジェンダを生み出してきた。この二項対立は、権利についてと、どのような行為が非正統化されるべきかについての私たちの理解が、いかに禁止という観念によって動かされているかを示している。このような倫理観の形成とモラル・ポリティクスは、動物と人間の区別をさらに先鋭化し、アニマルライツ団体と人権擁護活動家の間に深い溝をもたらしている。
ナガランドでは、何十年にもわたる武力紛争と人権侵害が、深刻な不安と恐怖をもたらしてきた。犬肉の禁止が国軍特別権限法(AFSPA)の延長直後になされたという事実は「我々は犬を守るがナガ人は守らない」というメッセージを送っているように思える。犬肉禁止への抵抗の中で、食品選択の問題が伝統と文化の一部として用いられている。
ナガランド州における犬肉取引が禁止されたことで、アニマルライツ団体は州内での犬の悲惨な扱いに終止符が打たれると感じているかもしれない。それが実現しないことを私は危惧している。禁止がもたらした怒りや憤慨は、別の現実が展開される可能性を警告している。すなわち、自分の文化を証明するため、無理強いされた道徳的勝利を打ち破るため、覇権的秩序に抵抗し、粉砕するために犬を食べたいという衝動である。道徳的勝利と反撃の政治が、犬の身体の上に組み上げられている。
州政府の降伏
庶民の間には怒りが渦巻いている。ある特定の種類の活動家が、24時間にも満たないような目覚ましい速さで州政府に犬肉を合法的に禁止させることができるのはどうしてなのだろう。保健や教育のような基本的な権利を得ることができないナガランドの普通の市民にとって、犬肉の禁止は、ナガランドから遠く離れていながらナガの人々の文化実践を支配することができるアニマルライツ団体の要求に州政府が屈するという屈辱的な動きの集大成である。この禁止令は、いかに犬とナガの人々の生命がこのナショナリスト的な文明化プロジェクトの中心的主題であるかを浮き彫りにしている。ここにおいて右翼ヒンドゥー・ナショナリズムをめぐる政治は特に重要である。牛の屠畜禁止が宗教的少数派の迫害を正統化する動きになったとすれば、犬肉禁止が表しているのは野蛮人を文明化する運動であり、その中で動物的人間/部族民は清潔で安全な食べ物について教えられることになるだろう。
私たちは、アニマルライツ運動と他の形態のアクティヴィズムを互いに対立するものとして設定すべきなのだろうか。それとも、包摂的政治について考え、二項対立をなくすことに重点を置くべきなのだろうか。動物の世界、人間の世界、霊の世界(祖先の価値観)が、ケア、責任、答責性についての観念を共有できるような環境を考えるべきなのだろうか。犯罪性を強調する法的手段に完全に頼ることなく、地球のための共通目標をもつことができるだろうか。
新たな議論の必要性
犬肉に関する論争が曖昧にしているのは、右翼ヒンドゥー・ナショナリズムの意見とアニマルライツ運動の意見との間の線引きである。これは熟考に値する。なぜなら、いやしくも私たちが連帯を求め、価値観や倫理観についての新たな対話を始めるとしたら、それは後者のグループとのものになるだろうからだ。カースト、社会階層、ヒンドゥトヴァ・プロジェクトが絡み合っているように見えるアニマルライツについての政治の中で、私たちはどのような方法で自身の道を切り開くことができるだろうか。アニマルライツを支持する人々と、食習慣についての民族的・人種的価値観を擁護する人々のカーストや社会階層のヒエラルキーは、殺生、屠畜、肉食についての対話を結ぶ方法を見つけることができるだろうか。私たちの皿は、ある政治的主張を証明するために、すべて植物か、すべて肉かのどちらかでなければならないのだろうか。
犬肉の禁止から学べることがあるとすれば、それはオープンマーケットで売られている動物たちがどこでも経験している苦しみと残酷さである。動物の肉を食べるということは厄介なことであり、殺す行為がこのプロセスの中心にある。私はノンヴェジタリアンである。ナガランドで育つあいだに、私は動物を殺す方法を学び、食べようとする肉をきれいにする方法を学んだ。このような瞬間はめったになかったが、私は自分の存在が責任と犠牲という形で絡み合っていることを学んだ。これらは私が実践しようとしている価値観、つまり、自分が食べられるぶんだけをいただき、無��にしないということだ。私が示唆したいのは、殺して肉を食べるという行為が可視化され、野蛮で非人間的なものとして隠されたり、排除されたりしない世界である。同じ精神で、植物や作物を栽培するプランテーション(オーガニックブランドを含む)で貧困や構造的暴力に苦しんでいる労働者の状況も解明する。このことは、私たちが日々の食事をめぐる社会的・政治的な現実と向き合うのに役立つだろう。
ナガランドの市場ができなかったのは、犬を隠し、消費のために処理されようとする他の動物から引き離すことだった。犬は鶏やアヒル、鳩の隣で縛られていた。また、彼らの肉は派手な袋に詰められていたり、「オーガニック」や「放し飼い」製品としてブランド化されたりしていたわけでもなかった。しかし、全国の市民の憤慨は、インド全土のオープンマーケットで販売されているすべての生きた動物が同様の状況に苦しんでいるという事実とは無関係に、犬だけに向けられていた。ナガランドの市場から犬を救出することは比較的容易であった。しかし、これは犬にとっては脱出したことにならない。これは利益と苦痛の論理が支配しつづける闇市場の活況の始まりとなるだろう。それは、人間が〔動物の〕権利を確立し、思いやりを示し、秩序を創出しようとする一方で、市場、屠畜場、動物保護施設、リハビリテーションセンターにおいて動物がどのように深く道具化され、動員されつづけるかについての現実に私たちを連れて行くだけだ。犬肉禁止に発する論争は、私たちがいかに動物の身体を自分たちの政治と偏見のための戦場に変えてしまったのかの内省を迫るべきである。インドにおいてこの論争は権利をめぐる政治の二極化を推し進めたにすぎない。
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cuttercourier · 5 years ago
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[翻訳] コロナ禍と印中対立のなかのインド華人
中国系インド人の愛と憧憬
2020年7月25日 アスミター・バクシー
ガルワーン渓谷事件後の印中関係緊迫化、コロナウイルス・パンデミックによる反中感情の高まりとともに、インド系中国人コミュニティは集中砲火を受けている
3月17日、41歳のミュージシャン、フランシス・イー・レプチャは、急遽切り上げたプリー〔※オリッサ州の都市〕旅行からコルカタに戻る列車の中にいた。新型コロナウイルスは全国でその存在感を示しつつあり、ナレーンドラ・モーディー首相が厳重な全国ロックダウンを発表する日も近かった。レプチャが家族と一緒にまだプリーにいた間も、彼がチェックインしようとするとホテルの宿泊客は反対の声を上げ、路上では「コロナウイルス」と呼ばれ揶揄された。
フランシスは中国系インド人で、母方と父方の祖父は1930年代に他の多くの人と同様に日本の侵略から逃れてインドに来た。彼らはダージリンで大工として働き、地元のレプチャ族の女性と結婚した。のちに彼の両親はコルカタに移り住み、そこで彼は生まれ育った。
このミュージシャンは1980年代に幼少期を過ごし、ドゥールダルシャン〔※インド国営TV局〕で『ミッキー・マウス』や『チトラハール』を見たり、マドンナに憧れたり、クリフ・リチャードの「ダンシング・シューズ」に合わせて頭を振ったりと、これらを6歳で楽しんでいたわけだが、童歌「ジャック・アンド・ジル」に関係があるという理由が大半だった。彼は流暢なベンガル語と「荒削りなヒンディー語」を話し、そして、彼によれば「ほとんどお向かいのチャタルジー一家に育てられた」という。
列車がガタンゴトンと進むなか、冷房寝台車の他の乗客たちは、彼には自分たちが何を言っているのかわからないと思い込んで、「中国人」について疑いの声を上げはじめた。フランシスはすぐさま口を挟んだ。「私は流暢なベンガル語で、自分がコルカタ出身で、中国に行ったことはなく、彼らに感染させることはないと説明した」のだという。「彼らの顔を見せてあげたかった」。
コルカタに戻ると、フランシスはプリントTシャツを注文した。彼はコルカタ・メトロのセントラル駅の真上に住んでいるのだが、それが明るい否定のメッセージとなり、かつ人種差別に対して有効なツールとなるだろうと考えた。フランシスのさっぱりとした白いTシャツの上の端正なベンガル語のレタリングには「私はコロナウイルスじゃない。コルカタ生まれで中国には行ったこともない」とある。
6月15日、国土の反対側では、俳優兼歌手のメイヤン・チャンが、過去13年にわたって本拠地と思ってきた都市ムンバイで、夕食をともにするために友人宅を訪れていた。彼らはテレビのニュースを見ていたが、その放送は特に憂慮すべきものだった。2つの核保有国が数十年間争ってきた境界である実効支配線に沿ったラダックのガルワーン渓谷でインド兵20人が中国軍に殺害されたのだ。
「衝突の後、ダウン・トゥ・アース誌のインタビューに答えた時、私の最初の反応は怒りでした。『どうして私が自分の愛国心を証明しないといけないのか。どうして私がインドを愛し、中国を憎んでいると言わなければならないのか』。私はその国のことを知りもしません。中国というレンズを通して自分が引き継いでいるものは理解していますが、それだけです。私にはインド以外の故郷はありません」と彼は言う。しかし、彼の経験上、怒りは何の役にも立たない。「その代わりに、私は異文化交流の美しさについて話しました。それはインド全土に存在するものです。私たちの外見だけを理由に自分たちの仲間ではないと考える人々には驚かされます」。
チャンもまた中国系である。彼はジャールカンド州ダンバードに生まれ、ウッタラーカンド州で学校教育を受けた。彼の父親は歯科��で、チャンもベンガルールで歯学の学位を取得している。彼は自分の家系を詳細に遡ることはできていないが、先祖が湖北省の出身であることはわかっており、そこは1月以来、ニュースを席捲している。新型コロナウイルスが最初に報告された武漢とは、同省の首都である。
37歳の彼は、主流エンタテインメント産業で名声を得たおそらく唯一の中国系インド人コミュニティ出身者である。2007年にTV番組『インディアン・アイドル』の第3シーズンで5位になり、2011年にはダンス・リアリティ番組『ジャラク・ディクラー・ジャー』で優勝し、さまざまなTV番組やクリケットのインディアン・プレミアリーグなどのスポーツイベントの司会を務め、『バドマーシュ・カンパニー』『探偵ビョームケーシュ・バクシー!』『スルターン』『バーラト』という4本の大作ヒンディー語映画に出演してきた。
しかし、この数ヶ月の間、彼もまたCOVID-19についての世間の興奮と、そして目下の印中対決についてのそれを感じている。パンデミックのせいで人々が人種差別的発言を黙認しているため、彼はオンラインや路上で野次られてきた。実効支配線での印中対峙後は、これに無言の圧力、あるいは彼が言うところの飽くなき 「愛国欲」が続いた。「医療、経済、そしてある程度の人道的危機の最中に国境での小競り合いや恐ろしい話が出てきて、どう考えていいのかわからなかった」と彼は言う。
中国系インド人3世として、チャンとフランシスは共通点が多いように見える。二人ともインドで生まれ、家系は中国に遡り、家業を継ぐという中国的伝統から逸脱し、ディーワーリー、イード、クリスマス、旧正月をまぜこぜに祝って育ち、フランシスが的確にもこの国の「微小マイノリティ」と呼ぶものに属している。
この二人はまた、パンデミックが世界中で反中国の波を引き起こし、米国のドナルド・トランプ大統領が新型コロナウイルスを繰り返し「中国ウイルス」と表現している時にあって、中国系インド人が味わっている苦難を象徴している。インドでは中国との国境問題が状況をさらに悪化させている。怒りの高まりにより、政府は59の中国製アプリを禁止し、大臣たちは中華食品やレストラン(大半はインド人によって経営されている)のボイコットを求め、中国の習近平国家主席の肖像が燃やされ、COVID-19と紛争は危険なまでに一体視された。
この敵意の副作用はチャンやフランシスのような市民や北東部インド人が被ることになり、路上で暴言を吐かれたり、家から追い出されたりした。デリー在住の中国系ジャーナリスト、リウ・チュエン・チェン(27歳)は、地元のスーパーで人種差別的な悪罵を浴びせられた。「私の母はいつもならウイルスから身を守るためにマスクをするように電話で言ってきたはずですが、国境紛争の後は顔を隠すためにマスクをするよう言われました」と彼女は言う。
印中関係が緊迫するなか、世代を越えて広がりつづけているトラウマである1962年の中印戦争の記憶が前面に出てきた。では、こんな時代にあって中国系インド人であることは何を意味するのだろうか。
中国人の到来
インドにおける中国系インド人コミュニティの起源は、1778年に海路でインドに上陸した商人、トン・アチュー〔塘園伯公〕、またの名を楊大釗に遡る。伝承によれば、アチューは当時のイギリス総督ウォーレン・ヘイスティングスより、日の出から日没まで馬に乗るよう、そしてその間に彼が通過した土地は彼のものになると言われたと、あるいは(より公式なヴァージョンでは)彼のホストとなったイギリス人に茶を一箱プレゼントしたおかげで土地を与えられたとされている。
フーグリー川沿いにあったアチューの土地は、現在はアチプルとして知られている。彼を讃えて記念碑が建てられ、中国系インド人の巡礼地となっている。アチューの後を追って何千人もの中国系移民が続いた。彼らの上陸港はコルカタであり、長年にわたっていろいろな職業の多様な集団が植民地インドの当時の首都にやってきた。
「1901年の国勢調査はカルカッタに1640 人の中国人がいたと記録している。中国人移民の数は20世紀最初の40年間、特に内戦と日本の中国侵略のために増加しつづけた」と、デバルチャナ・ビスワスは2017年8月に『国際科学研究機構人文社会科学雑誌』に掲載された論文「コルカタの中国人コミュニティ:社会地理学によるケーススタディ」1の中で書いている。
ダナ・ロイの祖父母も、日本による侵略の時期にインドにやってきた。コルカタの学校で演劇を教えている36歳の彼女は、『亡命』と題した作劇のプロジェクトに取り組んでいるときに、母方の中国人家系を辿った。「中国の家庭は一夫多妻制だったので、私の祖父は三度結婚しました。そのうち一人は中国で亡くなり、二人目は第二次世界大戦中に日本の侵略から4人の子供を連れて逃れました」と彼女は説明する。彼らの家は、広東省の小さな村唯一の二階建ての建物で、日本軍はそれを司令部としたのだという。
ロイの祖父は、その頃に��既にインドで輸出入業を営んでおり、インドにはヒンディー語と広東語の両方を話す中国系の妻がいた。彼の職業柄、家族を船で渡らせるのは容易だった。「叔父の一人には眩暈症があり、大きな音を怖がっていたのですが、(道々)聞いたところでは、村から逃げる際に日本の戦闘機に追われたからだとのことでした」と彼女は言う。
長い間、彼らは均質的集団として見られてきたが、インドに来た中国人は実際には相異なるコミュニティの出身だった。その中でも最大のものは客家人で、まず皮なめしに、最終的には靴作りに従事した。彼らはコルカタのタングラ地区に住み着いた(市内に2つあるチャイナタウンのうちの1つであり、もう1つはティレッタ・バザール)。このコミュニティは他のいくつかのグループのように一つの技術に特化してはいなかったが、ヒンドゥー教のカースト制度が皮革を扱う仕事をダリトのコミュニティに委ねていて、客家人にはそのような階層的制約がなかったため、彼らはコルカタで皮なめし工場の経営に成功することができた。
チャンが属する湖北人コミュニティは歯医者と紙花の製造に従事していた。「ラージ・カプールやスニール・ダット主演の古いヒンディー語映画に出てくる花は全部私たちが作りました。俳優がピアノを弾き、メフフィル〔舞台〕の上に花々が吊り下がっていたなら、それは全部我が家の女たちが作った物です」とコルカタ湖北同郷会会長、65歳のマオ・チー・ウェイは言う。
広東人は大半が大工で、造船所や鉄道に雇われたり、茶を入れる木製コンテナづくりに雇われたりしていた。1838年、イギリス当局はアッサムの茶園で働かせるため、多くが広東人の職工や茶栽培農夫からなる中国人熟練・非熟練労働者を導入している。
1949年に毛沢東率いる共産党が政権を握ると、中国への帰国は問題外であることが明らかになった。そのため、女性たちはインド在住の家族と合流しはじめ、すぐに東部諸州の中国人居住区にはヘアサロンやレストラン、ドライクリーニング店などが点在するようになった。
寺院が建てられ、コルカタのタングラとティレッタ・バザール、アッサム州のティンスキアには中国人学校ができた。賭博場や中国語新聞、同郷会館などもでき、春節や中秋節を祝うほか、中国の儀礼に従って結婚式や葬儀を行うようになった。
「彼らがコルカタに定住し始めた18世紀後半から、1960年代初めまで、中国人移民は、とりわけ同じ方言グループでの内婚や、文化実践、独特の教育システム、住居の排他的なあり方を通じて『中国人アイデンティティ』を維持することに成功した」と、張幸は彼の論文「中国系インド人とは誰か?:コルカタ、四会、トロント在住中国系インド人の文化的アイデンティティ調査」の中で述べている2。
このコミュニティと祝い事の時代は、1962年の印中紛争で突然終わった。戦前には5万人と推定されていた中国系インド人の人口は約5,000人にまで減少した。彼らの多くはその後、海外に移住した。
融合する文化
「アイデンティティとは、単に『私は中国人か、それともベンガル人か』というよりも複雑なものです」とロイは言う。「アイデンティティを主張したり断言したりする必要性を本当に感じるのは、それが奪われつつあると感じたときだけです。アイデンティティについて聞かれたとき、特にこのような時世には、『他のインドのパスポート保持者はこんなことを聞かれるだろうか』と疑問に思うのです」。
ロイは中国系移民と地元民との不可避的な混ざり合いの象徴である。彼の母親は中国系で、ベンガル人と結婚しており、一家はタングラやティレッタ・バザールから離れたコルカタ南部に住んでいる。ロイがこれらの地区を訪れるのは、たいてい中国式ソーセージを買うためか、たまに友人と中華の朝食を食べたりするためだ。
今日の中国系インド人は、中国的伝統が失われていく一方、国籍と文化遺産の間の摩擦が増えていくという二重の現実に直面している。例えば、かつてコルカタのチャイナタウンで行われていた旧正月の祝賀会は、ほとんどがプライベートなものになっている。チャンはただ友人を家に招待することが多い。ロイは親戚とご馳走で盛大に祝ったり、「みんなが忙しければ」ただオレンジを食べて祝ったりしている。
若い世代が広東語や北京語ではなくヒンディー語や英語を学びながら成長し、儒教のような中国の伝統的な宗教的習慣から遠ざかるにつれ、彼らのアイデンティティの中国的側面はますます衰えつつある。以前はそのアイデンティティの別称として機能していたタングラも、今や混合文化に道を譲った。また、環境問題により1996年には皮なめし工場が閉鎖された。
それでもフランシスのように、自分たちの文化を守るためにできることをしている人もいる。彼は友人と毎年の旧正月にはコルカタで龍の踊りを披露する。「私たちは衣装と太鼓を身につけ、旧チャイナタウン、新チャイナタウンその他、コミュニティが散在しているコルカタの各地で4日間にわたって上演するのです」とのことだ。彼らは彼が子供の頃に喜んで受け取っていた赤い封筒入りのお金を配る。
しかし、帰属と受容という、より大きな問題は残ったままである。チャンによれば、自身がエンタテインメント産業に加わっていることと「ヒンディー語とウルドゥー語に堪能」であること(彼はボリウッド作品を観て育ち、父親はマフディー・ハサンのガザル歌謡が大好きだった)は、人々が常に彼を「インド人」として受け入れてきたことを意味する。彼のファンは年齢層やエスニック・グループを跨いで存在する――『インディアン・アイドル』に参加していたときには中国人コミュニティが彼を支持し、より若いファンは彼が「K-POPスターやアニメ・キャラクターを彷彿とさせる」ゆえに彼を愛している。しかし、ソーシャルメディアで意見を表明することは、特に最近では危険であり、時に大騒ぎになる。
「CAA(修正市民権法)のような問題については、間接的に言及して自分の意見を伝えるようにしています。これは大事なことだからです」、彼は言う。ガルワーン渓谷での衝突の後、陸軍大尉を名乗る匿名アカウントが、彼のYouTube動画の一つにコメントして、国家に忠誠を誓い、インド人兵士への支持を公に表明するよう彼に求めた。「私はそれを大したことではないと思い、〔陸軍大尉という〕彼の名乗りに引っかけて『敵との戦いに集中してください、あなたの仲間の国民とではなく』と言いました」。
ジャーナリストのリウ・チュエン・チェンは、アイデンティティとインド政治の両方についての自身の率直な物言いは、コミュニティ内では異例であり、しばしばオンラインやオフラインで嫌がらせの標的になることにつながっていると述べる。「一度、エアインディアの飛行機に乗るとき、係員たちが私に有権者証ではなくパスポートを見せろと言い張ったことがありました。彼らは私がインド出身でないと信じていたからです」、彼女は言う。「私はパスポートを取ってすらいなかったのに」。
年長世代の政治との関わり方はやや異なっている。彼らは今でも中国政治を追いかけてはいるが、距離を置いている。「調査中、国民党シンパと共産党シンパの間にあるコミュニティ内の分断を感じました」とジャーナリストのディリープ・ディースーザは言う。彼は1962年の印中戦争の歴史を、当時強制収容されていたジョイ・マーの口頭の語りとともに記録した『ザ・デオリワーラーズ』3の共著者である。
「しかし、それだけです。彼らは台湾とPRC(中華人民共和国)の対立を私と同じように見ています。そこに親戚はいるかもしれませんが、台湾市民になりたいとか、PRCに忠誠を誓いたいというようなものではありません」。
このような関わりの多くは目に見えない。このコミュニティに共通する話として、彼らは頭を低くして注目されずにいることを好む。これは1962年に中国系コミュニティと関係者が強制収容された結果という部分が大きい。
消えない恐怖
1962年の戦争後、中国軍が国境東部のNEFA〔北東辺境管区〕、国境西部のアクサイチンに進出したとき、インド世論は怒りと疑念に満ちていた。インド人は当時のジャワーハルラール・ネルー首相の保証に憤慨し、中国に裏切られたと感じていた。今回もまた、この敵意の矛先はインドの中国系コミュニティに向けられていた。
作家クワイユン・リー氏が学位論文『デーウリー収容所:1962~1966年の中国系インド人オーラル・ヒストリー』4で書いているように、「国民的な熱狂に駆り立てられ、主流派インド人は中国人住民を追放し、時に暴力を振るい、また、彼らの家や事業を攻撃したり破壊したりした」。
リーは付け加える。インド当局は���毛沢東支持に傾いた中国語学校や新聞、中国系団体を閉鎖した。蒋介石(台湾)を支持する学校、クラブ、新聞は活動を許された。これらの学校やクラブは、マハートマー・ガーンディーの肖像とインド国旗を孫逸仙〔の肖像〕と十二芒星の〔ママ〕国民党旗の横に加えた」。
これらの状況は、当局に「敵国出身者」を逮捕する権限を与えるインド国防法が1962年に成立し、1946年外国人法と外国人(制限区域)令の改正が行われたことと相まって、ラージャスターン州のデーウリー収容所で中国系インド人を抑留するための「法的なイチジクの葉〔方便〕」になった、とディースーザは言う。
3000人近くの中国国民または中国系の親族をもつインド国民がスパイ容疑で逮捕され、最長で5年間拘束された。
「ガルワーン渓谷の小競り合いが起こったとき、私はそれについて思いもしませんでした。祖母が最初にそれを口にしました。『もし雲行きが悪くなったら、私たちは逮捕されるかもしれない』」、チャンは言う。「たとえ私達も同じことを考えていようがいまいが、そんなことは起こらないと彼女を説得するのが私のおじと私の役目でした」。
フランシスは1962年に当時10代前半だった母親がダージリンの祖母を訪ねており、二人とも収容されたという思い出話を語る。イン・マーシュも同様であり、1962年11月に13歳でダージリンのチャウラスタ地区から父、祖母、8歳の弟と一緒に収容所に連行された5。
マーシュのように、このコミュニティの多数の人がインドを離れカナダ、米国、オーストラリアに向かった。しかし、歴代の政府がこの歴史の一章を認めたり、謝罪したりしていないことを考えると、圧倒的なトラウマと裏切られたという感情は今日に至るまで残っている。
中国系インド人はなおも傷を癒やす途上にある。アッサム州の同コミュニティ出身の48歳の女性(匿名希望)は、ガルワーン渓谷事件の後、89歳の父方のおばから電話を受けた。彼女はまたも強制収容されるのではないかと心配していた。「私はそれを笑い飛ばし、心配させまいとしました。私はね、もしまたそんなことになったら、皆一緒に行ってダルバートを食べましょうって言ったんです」と彼女は言う。
大昔の法改正はまた、1950年以前にインドに来た、あるいはインドで生まれた中国人移民のほとんどは決してインド市民権を与えられないということを確実にした。例えば、彼女のおばは今や87年間インドに住んでいる。「彼女は今でも毎年外国人登録事務所に行って滞在許可証の更新をしなければいけません。ここは彼女が知っている唯一の故郷ですが、法的には決して帰属することはなく、常に部外者のままです」と彼女は言う。
以上のような要因が、生まれた国への忠誠心を公にするようインドのこのコミュニティをせっついている。例えば、ガルワーン渓谷の衝突の後、コルカタでは中国系インド人が「我々はインド軍を支持する」と書かれた横断幕を掲げてデモ行進をした。
「人々には中国共産党(CCP)が中国系インド人のことを大して気にかけていないことに気づいてほしい。彼らはおそらく我々が存在していることすら知らない。もし私が完全ボリウッド風でやりたいと思ったら、『マェーンネー・イス・デーシュ・カー・ナマク・カーヤー・ハェー〔※私はこの国の塩を食べてきた、の意〕』と言う〔=愛国心を歌い上げる〕ところまでやります」とフランシスは言う。「私の優先順位は単純です。私はインド市民であり、インド憲法に従って暮らしており、私の支持は常にこの国にあります」。
印中間の緊張がすぐには緩和されそうにないなか、アイデンティティと帰属意識の問題が頻繁に前景化されるかもしれない。チャンの不安もまた、このような思慮をめぐるものだ。「エンタテインメント産業の誰もが仕事はいつ再開できるのかと心配していたとき、敵のような見た目の顔をしているから自分には誰も仕事をやりたくないのではないかなどと、余計な不安を私が感じていたのはどうしてでしょうか」と彼は問いかける。
http://www.iosrjournals.org/iosr-jhss/papers/Vol.%2022%20Issue8/Version-15/J2208154854.pdf ↩︎
張幸(北京大学外国語学院南亜学系副教授)は女性。引用論文は2015年刊行の論集に掲載されたもの。これを補訂したと思われる2017年の雑誌論文あり。 ↩︎
http://panmacmillan.co.in/bookdetail/9789389109382/The-Deoliwallahs/3305/37 デオリワーラー(デーウリーワーラー)はデーウリー収容所帰りの意。 ↩︎
1950年カルカッタに生まれ、強制収容は免れたが1970年代にカナダに移民した著者が、トロント在住の客家人元収容者4人の聞き取りをもとに2011年にトロント大学オンタリオ教育研究所に提出した修士論文。 ↩︎
元デーウリー収容者で、収容経験を述べた『ネルーと同じ獄中で』(初版2012年、シカゴ大学出版会より2016年再刊)の著者。 ↩︎
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cuttercourier · 5 years ago
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[翻訳] インドのセックスワーカーとコロナ禍
インドの赤線区域がコロナウイルスを封じ込めることはない
インドにおける売春宿の閉鎖は大げさで無意味なジェスチャー。国家がこの危機のさなか出稼ぎやインフォーマル部門労働者を見捨てた事実を隠蔽するだけ。
2020年6月11日
シャクティ・ナタラージ(キングズカレッジ・ロンドン、ポスドク研究員)
ある不穏な新しい研究が最近インドのメディアを賑わわせている。ハーバード大学医学部とイェール大学の科学者の手になるこの研究は、ロックダウン期間中ムンバイ、ニューデリー、ナーグプル、コルカタ、プネーの赤線区域を閉鎖することでCOVID-19の新規症例数を72%減らすことができると主張し、それらを無期限に閉鎖しつづけることを推奨している。続いて、この研究の著者の一人であるスダーカル・ヌティーは、閉鎖の効果を上げるためにセックスワーカーを政府の福祉制度に結びつけ、他の職業に誘導すべきだと提案した。彼はこの提言を、ウイルスとセックスワークの両方を根絶するための恒久的な対策と考えているようである。彼によれば、COVID-19は「セックスワーカーがその職業から抜け出し、代わりの生計手段を見つけるのを助ける理想的な自然の機会」を与えているのだという。
研究の全容はまだ公開されていないものの、この提言は、インドにおけるセックスワークがどこでどのように行われているのかについて、不完全かつ危険なまでに単純な理解に基づいている。セックスワーカー団体や活動家、学識者とほとんど、あるいはまったく協議しないまま、セックスワーカーだけでなくインド全土の何百万人ものインフォーマル部門労働者や出稼ぎ者に対して、警察の暴力と不安定性を増大させるような措置を推奨している。
明確に区分けされた赤線区域が存在し、伝染病が劇的な管理措置によってそこに封じ込め可能であるかのようにいうのは幻想である。現実には、インドにおけるセックスワークのうち売春宿で行われているのはごく一部にすぎない。アーンドラ・プラデーシュ州、カルナータカ州、タミル・ナードゥ州、マハーラーシュトラ州の5301人のセックスワーカーを対象にした調査では、売春宿で働いた経験があるのは回答者の24%だけであることがわかった。他の調査では、セックスワーカーの大多数が路上や自宅にいることが確認されている。売春宿で働いている人にとっても、それが二者択一であることは稀である。ムンバイにおけるセックスワークについて10年以上にわたって記録してきた人類学者スヴァーティ・シャーは、売春宿を拠点とするセックスワーカーの多くは、路上や建設現場でも働いており、ときにはそこで働く機会とセックスを交換していることを明らかにした。彼女らは移動も多い。���ンドのセックスワーカーのほとんどは国内か国外からの稼ぎであり、それゆえにさまざまな都市と故郷を頻繁に行き来し、親族、NGO、国家機関、そしてその他の不安定な都市住民からなるネットワークに頼りながら生き抜いている。
この研究はまた、赤線区域ではビジネスが活発で、劇的な閉鎖が必要とされるほどであるという誤った印象を与えている。しかし、デリー、コルカタ、ムンバイなどの都市では、1990年代後半以降、売春宿を拠点としたセックスワークは着実に減少している。これは主に、売買春廃絶派の反人身売買運動や民間の再開発業者、警察の取り締まりなどが増えたことによるものである。タタ社会科学研究所のある研究によると、ムンバイの売春宿のほとんどがあるカマティープラの、売春宿を拠点とするセックスワーカーの人口は、1992年には5万人近かったが、2010年には約2000人、2016年には500~1000人にまで減少した。研究者はカマティープラのほとんどの売春宿が鞄、ジーンズ染色、マット、布の製造工場に取って代わられたと指摘してい��。シャーの研究はこれらの知見を裏付けるものである。同様のパターンで、ゴア、スーラト、プネーの赤線区域は、観光、海辺のホテル、高速道路、路面店、工業施設のためのスペースを確保するため、2000年から2004年の間にほとんど取り壊された。
ムンバイのカマティープラやデリーのG.B.ロードのような地域には、出稼ぎ労働者、トランスジェンダーの人々、路上生活者、清掃労働者、露天商、在宅労働者、そしてサペーラー〔※蛇使いで有名なコミュニティ〕のようなノマド的パフォーマー・コミュニティが多様に混在しているため、「赤線区域」という言葉そのものが誤解を招いている。ジェントリフィケーションの急速で不均一なプロセスは、セックスワーカーに限らず、すべての都市部貧困層にとってソーシャル・ディスタンシングを不可能にした。地主、民間の再開発業者、国家機関がこれら一等地の不動産を巡って対立しているため、貧しい入居者は水道もなく、しばしば自治体の規則に違反している窮屈な部屋のために法外な家賃を支払うことを余儀なくされ、入居者はいつでも立ち退きを迫られうる状態になっている。ヌティーの「セックスをしている間はソーシャル・ディスタンシングは不可能」という火を見るより明らかな指摘は、セックスワーカー団体もとっくに気づいていることである。より大きな問題は、何十年にもわたるジェントリフィケーションと反貧困層政策によって悪化してきた安全でない生活条件が、これら都市部の居住地におけるソーシャル・ディスタンシングを不可能にしているということだ。手を洗うための水道のない1つの家に17人が住まわなければならない状況で、あるいは、常に壁がじめじめしていて住人が結核の慢性的リスクにさらされている場所で、呼吸時の飛沫で広がるウイルスの主要な危険因子は本当にセックスなのだろうか?
売春宿を拠点としたセックスワークは、過去2ヶ月間のロックダウンでさらに激減している。全インド・セックスワーカー・ネットワークの報告によると、デリーの赤線区域G.B.ロードはほとんど閉鎖され、60%以上の��ックスワーカーが出身州に戻ったという。コルカタの赤線区域ソナガチでは、先月の報告によると、売春宿を拠点とするセックスワーカーの数は5000人未満のようだ。多くの地域で家賃を払えないために女性たちが売春宿から追い出されている。他の地域では、女性たちは帰郷するための交通手段もなく売春宿で足止めされている。ボランティアやNGOはロックダウンによる制限のために食料を配給することができず、食料品の価格は2倍以上になった。現在、セックスワーカーたちの最大の関心事は、自分に客がつくかどうかではなく(ほとんどつかない)、彼女らのほとんどが居住地を証明できないために食料配給カードを持っておらず、また、政府の給付金を受け取るためのジャン・ダン口座〔※2014年から始まった国民皆口座のためのプログラムPMJDYを利用して開設された銀行口座〕を持っていない状況で、政府の福祉制度へのアクセスをどう確保するかということである。
保護よりも処罰
この研究の根本的な問題点は、オランダ、ドイツ、オーストラリアをベースにした予測モデルを、セックスワークや一般的な労働条件についての現実が大きく異なるインドにナイーヴに輸出していることである。インドの労働人口のうちなんと92%が、セックスワークもそこに含まれるインフォーマル部門で働いており、セックスを売る人の多くは「セックスワーカー」を自分の第一の職業的アイデンティティとは考えていない。むしろ、彼女らは生き延びるために他の不安定で、法的規制のない、スティグマ化された仕事をしながらセックスを売っているのである。セックスワーカーを他の生計手段に誘導することによって更生させようという幻想は、ほとんどの人が既に他の生計手段に従事しているため、見当違いである。
2014 年に 14 州で行われたセックスワークに関する調査では、セックスを売った女性の 50%以上が家事労働者や建設労働者、日雇い労働者としても働いており、 30%近くの女性がセックスワークを始めた後も他の仕事を続けていることがわかった。また、他の仕事の3~6倍の収入が得られるという理由で、自発的に専業として転向した人も多い。回答者の約70%にとって家事労働で得られるのが月 500~1000 ルピーであるのに対して、セックスワークなら3000~5000 ルピーである。インドの諸都市で性を売る人の多くは、貧しく、干ばつの多い地域からの出稼ぎ女性である。多くは土地をもたない農業労働者家庭の出身で、恵まれないコミュニティに属している。平均的に言って彼女らは正規の教育をほとんど受けておらず、子供や夫、故郷の家族を養っている。トランスジェンダーの人々の多くは、生家を追われたあと、生き延びるために物乞いなどの他の生計手段と組み合わせながらセックスワークに従事している。
セックスワークは犯罪化され、ジェンダーやカーストに 基づく厳しいスティグマを科されているため、特殊かつ独特な形態の暴力を引き起こす。それにもかかわらず、「公衆衛生」を理由に空間を取り締まろうとする現在の傾向は、長きにわたって公共空間を都市部貧困層一般にとって安全でないものに変えてきた。キングズ・カレッジ・ロンドンの法民族学者プラバー・コティスワランは、セックスワーカーの運命に最も強い影響を与えるのは、反セックスワーク的な立法ではなく、借家権と公共空間を管理する法律であることを論証している。彼女はまた、路上で活動するセックスワーカーの場合も、公然わいせつや迷惑行為関連の法律が警察やその他の役人に恣意的な権力と法的な免責を与える一方、セックスワーカー、物乞い、露天商、路上生活者を互いに敵対させていることを示している。セックスワーカーは法により犯罪者として扱われ、「更生ホーム」に囚われている期間の弁護士費用や逸失賃金に加えて、警察に月あたり最高1500ルピーの賄賂を支払っている。以上のような「閉鎖」の企ては、カマティープラ、G.B.ロード、ソナガチなどの都市部区画で、セックスワーカーやその他の脆弱なコミュニティに対する警察の暴力を増大させることになる。
このような事実に直面しているからこそ、赤線区域を閉鎖するという幻想が国家や中間層にとってかくも魅力的なものになっているのである。結局のところ、数え切れないほどの映画や小説、道徳運動においてフェティッシュ化されてきた赤線区域像は、長い間、そこに広がる政治経済的条件に対する認識を歪めてきたのである。シャーは、『未来を写した子どもたち(Born into Brothels)』や『スラムドッグ$ミリオネア』などの映画が、女性がそこから救出されるべき不気味な性売買の巣窟として都市部スラムを描き、カマティープラのような地域内部でのジェントリフィケーション、カースト的抑圧、不安定労働にまつわる政治を覆い隠しながら、暗黙のうちに都市の残りの部分を標準化していると主張している。インド各地の民族学者たちは、いかに警察や反人身売買組織が、売春宿の法的な定義の緩さに助けられて、赤線区域に暮らす子供たちを児童セックスワーカーと誤って描写し、また、自発的なセックスワーカーを売春宿管理者や人身売買被害者と一貫して偽っているかを示してきた。このような売春宿の負のイメージは植民地期に遡る。例えば歴史家アシュウィニー・タンベーは、1868年伝染病法などの反売春諸法がどのようにして背徳と伝染病の空間としての赤線区域を生み出し、より一般的にムンバイにおける公共空間の管理を正当化していたかを示した。
もしこれらの閉鎖案が実行されれば、人為的に区画された赤線区域は、国家が「パンデミック・コントロール」という壮大で空虚なジェスチャーを演じるために、再び映画の背景となるだろう。英雄的な科学者と警察がCOVID-19、セックスワーク、慢性的貧困を一息に癒やすことができるとは、まさに幻想である。現実には、インドでセックスを売っている人々は、働くのが売春宿であれ、自宅であれ、路上であれ、番小屋であれ、建設現場であれ、インフォーマル部門の労働者や出稼ぎという膨大な人口集団に属しており、彼らを国家はこのロックダウンと危機の間、目を疑うほどに見捨ててきた。政府は、より厳格なロックダウンを強いるのではなく草の根活動家やセックスワーカー団体の助言に耳を傾け、警察ではなくインド諸都市の最貧層の住民に物資を送るべきである。
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cuttercourier · 5 years ago
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[翻訳] ブラック・ライヴズ・マター運動から考えるインドのマイノリティ問題(2)
ブラック・ライヴズ・マター運動と連帯している(つもりの)インド人への5つの質問
2020年6月14日
アパルナー・ゴーパーラン(ハーバード大学人類学部博士課程)
ジョージ・フロイド、ブレオナ・テイラー、アーモード・アーバリー他、米国における数え切れないほどの非武装黒人市民の死は、伝染性の怒りに火をつけました。ロンドン、ベルリン、メルボルン、東京などの都市では、米国で拡大するブラック・ライヴズ・マター蜂起に連帯して大規模なデモが行われています。一方、私たちインド人は未だどのように反応すべきか模索しているところです。
エリート層の間で広がっている反応の一つは、ジャーナリストのラーナー・アイユーブが「#BlackLivesMatterハッシュタグをファッションアクセサリーとして身につける」と呼ぶもの、つまり、日和見的に運動の道徳的・文化的資本を利用するために運動について投稿やツイートをすることです。そんなことはやめましょう。もっとよい反応があるはずです。以下の5つの質問を自分自身に投げかけることで、あなたが本当にこの運動の信条を支持しているかどうかを見極め、もし支持するならそれを実践できるようになってください。
1. 自分個人は反黒人、または人種差別主義者ではないか?
これは簡単な質問ではありません。個人的人種差別とは、単に黒人やマイノリティ(もちろん宗教的、カースト的マイノリティも含む)に対する直接的な嫌悪感だけを意味しません。そこにはステレオタイプ化、暗黙の偏見、ホワイトウォッシング、エキゾティシズム、政治的純血主義、内婚制などなど、私たちの社会化過程に深く埋め込まれている多くのものが含まれています。
この種の人種差別に個人の心の中だけで取り組むことはできません。これを覆すためには、若い頃から学校や家庭での反人種差別教育を制度化する必要があります。米国の黒人活動家たちは、毎年2月の学校における黒人歴史月間を義務化したり、差異について教えるための教材を作成したりするキャンペーンを行ってきました。
しかし、インドでは、周知のようにインド人の成人の大半が人種差別主義者である以上、親や教師が子どもたちに差異の受容について教えることはありそうに思われません。インド人のクリケット選手は黒人の同僚を侮蔑的に「カールー〔黒んぼ���」と呼びますし、インド人の芸能人は美白クリームのセールスパーソンですし、デリーでアフリカ人住民を追い回す群衆はインド人の政治家が指揮しているようです。
在外インド人は、カースト的特権に守られつつ反人種差別闘争の恩恵を受けてきましたが、今ではドナルド・トランプ米大統領のような白人優越主義的指導者の側につくことが多くなってきています。実際、この世界的な蜂起のさなか、多くの人は、インドで最も明瞭な正義のアイコンであるガンディーが反黒人的人種差別について間違った側に立っていると見ています。抗議者たちが奴隷所有者の像と並んでガンディーの像を標的としていることは、あらゆる種類の個人的人種差別を取り調べ、取り消すことが、黒人の命は大事だと言うためのシンプルな前提条件であることを私たちに思い起こさせるはずです。
2. 自国での反マイノリティの暴力に見て見ぬふりをしていないか?
自らに問うべき第二の質問は、自分の国のマイノリティの命を大事だと思うか? です。インドでこの問いが今ほど緊急性を帯びている時期は過去ほとんどありませんでした。交戦殺害から拘禁下の死亡と拷問まで、極端な過剰警備から裁判なき逮捕まで、日常的な嫌がらせから失踪に至るまで、インドにおける警察の暴力という重荷はマイノリティに真っ向から降りかかっています。
2019年のある調査はインドの警察官の50%がムスリムは犯罪を犯す可能性がより高いと考えていることを示しましたが、それはおのずから明らかです。
ほんの数ヶ月前、デリー警察はヒンドゥトヴァ〔ヒンドゥー・ナショナリズム〕支持者に加わって市内のムスリムを攻撃しましたが、これは警察が法よりもむしろ多数派権力の執行者として働くという数十年来のパターンを踏襲しています。実際、ジョージ・フロイドのリンチ動画が拡散していたちょうどそのころ、道端で警察に猛烈に殴られ、国歌を歌わせられた若いムスリム男性フェーザーンの動画も拡散していました。このようにしてフェーザーンや他の多くのムスリムが殺害されてきましたが、これまでのところ抗議も逮捕も告発も免職もなければ、怒りの広がりもありません。
ダリットやアーディヴァーシーも同様に、警察が主として上位カーストによる暴力の協力者であることを知っています。警察は、カースト・ヒンドゥーを被疑者とする事件を取り上げるよりも、自らがマイノリティを拘留し、陵虐し、恐喝し、強姦し、大量殺害する傾向が強いのです。"ダリット リンチされた"でグーグル検索すれば、"アフリカ系アメリカ人 リンチされた "と同じくらい恐ろしいヘッドラインが出てくるでしょう。
だから、もしあなたがジートゥー・カティーク(2月にラージャスターン警察の拘留中に死亡した26歳のダリット男性)のことを気にかけないのであれば、ジョージ・フロイドの名前を唱えてはいけないですし、もしパンデミックの間に恣意的に逮捕されている何十人ものムスリムに言及しないのならば、黒人の刑事施設収容について話してはいけません。
3. 警察、刑務所、軍、その他の国家の暴力装置の存在に疑問を抱けるか?
黒人の命は大事だと言いたいのに、インドの警察、軍、刑務所、反テロ法を「愛国的に」支持しつづけているすべての人たちにとって悪いニュースがあります。急速に主流になりつつあるブラック・ライヴズ・マター運動の流れは、マイノリティの市民権のために、あるいは人種差別的な警察に反対して闘っているのでもなく、罪を犯した警官の逮捕だけを要求しているのでもなく、警察の再教育や法制度改革も全く要求していません。その代わりに、彼らは警察活動と刑事施設への収容の完全な廃止を求めているのです。
奴隷制廃止論者たちが「奴隷制を修整したり改革したりすることはできず、廃止する必要があると考えていた」ように、今日の警察廃止論者たちも、制度化された刑罰によって私たちがより安全になることはないと理解しているので、警察や刑務所(それ自体が奴隷制の副産物)を改革するのではなく「消滅に至るまで(それらを)縮小」しようとしています。彼らは、貧困、ホームレス、精神疾患、依存症の問題を「犯罪」としてパッケージしなおすことは「病気の代わりに症状を治療している」に等しく、また、その治療法(拘留や国家の暴力)はしばしば病気そのものよりも悪いと主張します。
以上が、(フロイドが殺害された)ミネアポリスの街頭や数え切れないほどの他のアメリカの都市からの要求が、警察の予算を打ち切って解散させ、コミュニティに基礎を置く治安対策に置き換えるというものになった理由です。
インドでは、国民の半数が裁判を経ない警察の暴力を容認しているため、警察の廃止はばかげたアイデアのように映ります。残りの半数でさえ、警察活動の範囲を縮小しようとは主張していません。善意のNGOは、法の支配を強化するためにはインド警察の能力を高める必要があると主張する報告書を発表しています。ジャーナリストたちは、インドの警察官の数が人口10万人当たりたった144人しかおらず、国連が推奨する222人に届かないありさまを嘆いています。ヒューマン・ライツ・ウォッチでさえ、警察予算の増額を求めています。議論全体の焦点はインドの警察への投資をどうやって増やすかということなのです。
しかし、これでは警察活動とはただ警察の話というだけではなく、既存の秩序を強制するための実力行使の話であるという事実を見逃してしまいます。定義上、準軍事組織、軍事組織、刑務官、そして認可を受けた自警団を担い手とするインドにおける警察活動は、教育、福祉制度、公衆衛生が得ているよりも大きな予算を既に享受しているのです。ゆえに、今のところインドでの警察廃止は想像もつきませんが、もしあなたにそれを想像する勇気がないならば、この運動を自分の主張とすることはできません。
4. 貧困を道徳の問題とか、自然なことだとか、あるいは当たり前のことだと考えていないか?
警察廃止は、ただ警察活動を終わらせるだけでなく、そもそも警察活動を必要とする不平等な社会を終わらせようとしています。街頭のアメリカ人が、インドで我々も目にするようなことを単なる「人権的」要求というより「経済的」要求となし、刑罰制度���予算を打ち切って、代わりに学校、病院、住宅、社会保障、そしてすべての人、とりわけ疎外された市民のための仕事に公的資金を投入するように呼びかけているのは、このためです。
抗議者たちは、米国の多くの都市の予算の最大40%が警察活動に使われていることを指摘していますが、これは暴力や薬物乱用の予防、精神衛生、手頃な価格の住宅、学校に支出される金額を合わせたよりも大きいものです。もしこの資金が武装した警邏隊ではなく、住民に投資されていたら、コミュニティはどれほど安全になるでしょうか?
一方、インドでは、ムスリム、ダリット、アーディヴァーシーは、貧困層の中で最も貧しく、警察や群衆が彼らを捕える前から既に「息ができない」のです。ゆえに、9人の人々が国の半分と同じだけの富を所有していることにあなたが腹を立てている場合に限り、また、インドが国家予算の9%を軍事費に使いながら保健には3%しか使っていないことに怒っている場合に限り、どうぞ黒人の命は大事だと言ってください。しかし、もしも貧困が世襲され、マイノリティが投資対象から排除されるインドのシステムを倫理的におぞましいと思わないのであれば、あなたは運動の同盟者たりえません。
5. 革命的な要求や対立を招く行動を恐れていないか?
米国における現下の抗議活動は、インドにおける市民権修正法に対する抗議行動と比較されてきました。どちらも抗議者の大部分が若年層で、大都市から小さな町まで異議申し立てが広がり、多数派グループが結束して押し出してきて、警察や政治家から暴力的な対応を受けました。しかし、外見的には似ているものの、2つの抗議活動は本質的に異なります。
何よりもまず要求が守勢的(この法律を取り消して既存の秩序に戻ろう)であった市民権修正法に対する抗議行動とは異なり、ブラック・ライヴズ・マター運動の要求は攻勢的(警察活動を廃止して既存の秩序を変えよう)でした。運動の一部の派閥が改革を求めても、他の派閥から大衆が直接責任を負うための革命的な代替案がすぐさま提案されます。
ブラック・ライヴズ・マター運動は戦術もまた革命的であり、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアの市民的不服従とブラック・パンサーズの戦闘性の両方を生かしています。だからこそ、今日の運動の最も力強いシンボルは、ミネアポリス警察第3分署の炎上であれ、イングランドの港に奴隷所有者エドワード・コルストンの像が投げ込まれたことであれ、ホワイトハウスの外で抗議者が州軍に催涙ガスを投げ返したことであれ、すべて集団的に法を破った瞬間なのです。
これらのイメージは、シャーヒーン・バーグ〔デリー南部の街区〕での平和的な座り込みをシンボルとする市民権修正法反対運動とはまったく対照的であり、その戦術は、政府によるメディア報道支配と運動支援の輪の解体をゆるす一方で、抗議者を守勢的立場に置いてしまいました。これらのことから、今ではあまりにも当たり前になってしまった縮小版サティヤーグラハ(敵愾心や影響力を欠いた座り込み)を再考することが早急に必要であることがわかります。
しかし、もしもあなたが異議と正義よりも法と秩序が好きで、一人前の役割とリスクを引き受けることなく革命家を装いたいというのならば、黒人の命が大事とは言わないでください。
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cuttercourier · 5 years ago
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[翻訳] ブラック・ライヴズ・マター運動から考えるインドのマイノリティ問題(1)
ブラック・ライヴズ・マター運動から見たインド
――インドも構造的差別や警察の暴力という深刻な問題に早急に対処する必要があることは明らか
2020年6月9日
ディヴヤ・チェリヤン(プリンストン大学歴史学部助教)
アメリカが揺れている。
建国の理想「生命、自由及び幸福追求」の選択的適用がまたぞろ前面に現れた。警察による非武装の黒人市民の殺害と、コロナウイルスが黒人コミュニティに与えた不釣り合いなインパクトは、アメリカが黒人の命を軽視し、そのくせ黒人の身体からは労働力を搾取していることを浮き彫りにしている。
インドとの共通点がある。それは、既に抑圧されている人々とその支援者を悪意をもって叩きのめす警察、憲法と法律に基づく権利を尊重しない警察、そして、少数派や反対勢力に敵対的な国家指導者である。
どちらの社会においても、これらの不正義は歴史に深く根づいている。アメリカの建国の理想はアフリカ人奴隷やその子孫には及ばなかった。彼らは1861年の南北戦争勃発までに約400万人を数え、無給労働でアメリカの繁栄に貢献したにもかかわらずである。
公的な差別は数十年前に終わったが、黒人のアメリカ人は他の人々よりも大きな経済的・社会的障壁に直面しつづけている。ダリット〔旧不可触民〕、アーディヴァーシー〔先住部族民〕、ムスリムに対するインドの構造的差別、極度の経済的不平等、そして、既にカースト・階級秩序の被害者である人々に対する警察の暴力的でしばしば違法な弾圧を考えると、アメリカでの抗議行動はインドを悩ませている多くの問題にも通じる。
アメリカの抗議活動という鏡の中のインドを見れば、インドも構造的差別と警察の暴力という深刻な問題に早急に取り組む必要があることが明らかになる。また、インドがそのような変化のための戦いからはほど遠いことも明らかになる。
背景
ジョージ・フロイド殺害は最後の引き金を引いた。
近年、携帯電話カメラの普及により、警察による黒人男女殺人事件を記録することが可能になった。これらの記録により、非武装の黒人男女がジョギングや運転、自宅にいたなどの「犯罪」のために、どのように銃で撃たれたり、首を絞められたりしていたかが明らかになっている。それらは警察が事件についての公式見解でいかに露骨な嘘をつくことができるかも明らかにした。
黒人コミュニティでは数十年前から警察の手によるこの不当で違法な黒人の死のパターンが認識されていたが、これらの携帯電話記録によってアメリカの他の人々も見て見ぬ振りをすることが難しくなっていった。2014年に黒人少年マイケル・ブラウンが警察に殺害されて以来、怒りは繰り返し街頭での抗議行動に発展し、時には暴力を伴った。まさにその怒りこそが、警察官のボディカメラ義務化から人種偏見トレーニングの導入まで、全米の当局に改革への努力を促してきたのである。
一方、コロナウイルスは有色人種コミュニティに非常に大きな被害を与えている。黒人はコロナウイルスに感染し、またそれによって死亡する率が不釣り合いに高い。また、黒人は低賃金ではあるが必要不可欠な仕事に就いている割合がはるかに高く、裕福な人々が自宅で仕事ができるようにするため毎日命を危険に晒している。
コロナウイルスはまた、給料ぎりぎりで生活している何百万人もの人々の失業により、大規模な経済的苦痛をもたらした。多くの人が家族を養ったり、家賃や住宅ローンの支払いをしたりするのに苦労している。政府の緊急財政支援プログラムが助けになっているが、何百万人もの人々が依然として極度の財政難と不確実性に直面している。
しかし、最近の事件は、警察が黒人をどう扱うかについて重要な点ではほとんど変わっていないことを浮き立たせた。
2月には、ジョージア州の小さな町にある白人が多い地区をジョギングしていた黒人男性アーモード・アーバリーが白人父子2人組に追い回されて射殺された。
3月には、ケンタッキー州ルイヴィルの警察が、自宅にいた黒人女性ブレオナ・テイラーを別人の捜索中に殺害した。
5月のフロイド殺害事件の数日前には、白人女性エイミー・クーパーが黒人男性について警察に虚偽の告訴をしている様子を伝えるニューヨーク市発の動画が表に出た。この女性は公園の一角の管理規則に従って犬をつなぐように言った男性に仕返ししようとしたのである。クーパーが自分の個人的な復讐の道具として手軽に警察の暴力を呼び込もうとしたことは、広範な怒りと非難を呼び起こした。
「警察予算を打ち切れ」
しかし、今アメリカは岐路にあるように思われる。
黒人コミュニティと、より公正な社会を求める人々は、法執行機関の手で黒人の男女が殺害されつづけることにうんざりしている。今まさに抗議活動から生じている最も緊急の要求は警察予算の打ち切りである。
現下の定式化においては、これは警察予算と警察活動を大幅に削減せよという要求である。それは、犯罪の根本的な原因に対処し、また、可能なかぎり多くの状況について、信頼関係によって状況を鎮めることができるコミュニティ組織を通じて対応せよという叫びである。
それは、これらのより全体的なアプローチを支える方向に可能な限り大きな額を振り向けよという要求である。
改革に向けた努力にもかかわらず警察の手による黒人の死が続いていることに鑑みて、活動家たちは警官隊の監視や再訓練のような措置が黒人に対する警察の差別と暴力を防ぐのに役立っていないと主張している。抗議者の一部は今、アメリカと警察との関係を再考するよう要求している。
彼らの指摘によれば、過去数十年の間にアメリカでは社会問題が治安問題として捉えられるようになった。ホームレスのような問題を処理するために警察が派遣されている。社会経済的な根をもつさまざまな問題が犯罪としてのみ扱われ、その犯罪の背景にあるかもしれない貧困、薬物乱用、精神衛生上の問題を緩和するために注意が払われたり投資がなされたりすることはほとんど、あるいはまったくない。
このような警察への過度の依存と、警察の権限と業務の範囲の拡大が事態をここまで悪化させた大きな要因である。
それに加え、アメリカが海外で戦っている戦争が本国に持ち帰られてきている。アメリカの都市警察は装甲車やさまざまな重火器に投資し、ますます軍事化している。SWAT(特殊武装・戦術)チームはますます軍の強襲部隊のようになっている。アメリカは今、自国社会の一部に対して、戦線の向こうの「敵」にするのと同じように接している。
以上は、その多くが人種的マイノリティである都市部貧困層が「他者化」されていることを示唆している。
最後に、評論家らが指摘しているように、ますます不平等になる社会の中で、アメリカの政治指導者のアプローチは緊縮財政に傾いている。民主・共和両党いずれのエスタブリッシュメントも、アメリカには福祉的な解決策をとる余裕がないと主張している。それにもかかわらず、警察予算は富裕層の銀行口座や企業の利益率と同じく膨張しているのだ。
抗議活動自体は平和的ながら活気のある集会から、公共や私有の財産を標的にした暴力的なものまで多岐にわたっている。大都市だけでなく、小さな町でも抗議集会が行われてきた。
暴力に発展した一部がニュースの見出しを飾ったとはいえ、ほとんどの抗議行動は平和的であった。アメリカ全土の抗議集会に共通しているのは参加者の多様性である。人種や年齢を超えた人々が、パンデミックの真っ只中で、黒人に対する非常に不平等で人種差別的な暴力に立ち向かうため、大きな個人的リスクを冒して外に出てきたのだ。
コンセンサスが形成されたことで、数日のうちに警察予算の打ち切り要求が主流となった。ロサンゼルス市当局は、警察予算を最大1億5000万ドル削減することを検討している。フロイドが殺害され、抗議行動が始まったミネアポリスの市議会は、市警を解体し、コミュニティ主導の安全という代替モデルを模索することを決議した。
南アジア系(Desi)の少年少女
この激動の中で、インド系アメリカ人はさまざまな役割を果たしてきた。多くの人が自ら人種差別に苦しんできた経験を持ち、反人種主義的な動機に共感を示している。
ワシントンDCのラーフル・ドゥベーのように、抗議者を支援するために、それ以上のことをしてきた人もいる。より広く南アジア系アメリカ人コミュニティの中には、個人的に大きな犠牲を払ってでもブラック・ライヴズ・マター運動を支持している人もいる。バングラデシュ系アメリカ人のある家族は、経営するミネアポリスのレストランが抗議活動中に全焼したにもかかわらず、運動を断固として支持したことでニュースになった。多くのインド系アメリカ人、特に若い人たちが抗議行動に参加し、行進し、プラカードを持ち、コールを唱和している。
そのほかに、ドナルド・トランプの忠実な支持者であり、アメリカの右派とイスラム恐怖症で手を結んでいるインド系アメリカ人の少数派もいる。
南アジア系アメリカ人の多くは、トランプ支持者であろうとなかろうと反黒人的であり、その世界観は彼らが米国に一緒に持ち込んだカーストや肌色差別に一部由来するものである。このコミュニティの多くの人は、たとえドナルド・トランプを軽蔑し、人種的正義を擁護していたとしても、自分の子供が黒人と結婚するとなったら大いに動揺するだろう。
多くの南アジア系リベラル派の人々は、本国インドでのムスリムやダリットに対する迫害の高まりに目をつぶっており、家族やコミュニティの中で横行しているイスラム恐怖症やカースト主義的な態度にもあえて異議を唱えない。このグループは、アメリカにおける平等と正義を熱烈に支持する一方で、インドおよびインド人ディアスポラ内部における差別に無関心、あるいは差別を支持さえしているということに皮肉を感じていない。
悲しむべきことに、ほとんどの南アジア人は、彼らが19世紀後半に初めてアメリカに移住したとき、彼らを庇護し、友情や結婚による結びつきの中に入れてくれたのは黒人やヒスパニック系の隣人たちであったことを忘れてしまっている。黒人の公民権闘争の成功は、1965年まで南アジア人も排除していた人種差別政策を打ち倒す役割を果たしたのである。
それ以降、インド系アメリカ人がアメリカで生活や事業の基盤を築いていく中で、アジア人はアメリカで成功するために必要な「正しい」労働倫理と家族の絆を授けられているとする「模範的マイノリティ」神話を多くの人が信じ込んでしまった。
多くのインド人は、このようなステレオタイプと結びつけられていることに何の問題もないと考えている。しかし、すべてのステレオタイプと同様に、アジア人=模範的マイノリティという考え方は、アメリカにおけるインド人の歴史的経験の多様性を消し去ってしまう。また、もしも黒人が十分勤勉に働き、「正しい」価値観をもっていれば、自分たちが置かれている社会経済的条件に苦しむことはないだろうと示唆することで、反黒人的立場を正当化する働きもしている。
模範的マイノリティという枠組みを受け入れることで、アメリカにおける黒人の苦しみの根本原因である構造的・人種的な非対称性を却下することができる。南アジア系アメリカ人コミュニティの進歩的な人々は、模範的マイノリティ・パラダイムを拒否し、インド人ディアスポラに対して黒人の兄弟姉妹とともに立ち上がって意味のある変化を要求するよう訴えている。
インドと黒人の命
マイノリティに対する警察の暴力の問題は、インドの状況と共鳴している。インド警察は「交戦殺害(encounter killing)」〔被疑者の抵抗を受けた警察側の正当防衛を建前とする超法規的殺害〕などの手法を用いており、その標的は主にムスリムや低カーストの男性である。インドでは警察拘禁下の死亡や拷問がはびこっている。
コロナウイルスは警察の暴力を激化させたとしか思えない。インドの警察官が、自分たちの村まで徒歩で困難な旅をしている貧しい、しばしば飢えた出稼ぎ労働者たちを容赦なく殴りつけたという報告が多数ある。
警察は多様性の欠如が顕著で、留保枠があるにもかかわらず、指定カースト・指定部族からの採用は立ち遅れている。これは、留保された職位の多くが空席のままで許されているためである。インドの警察ではムスリムも十分代表されていない。
したがって、インドの警察官の間に反ムスリムの偏見やカースト主義的な態度がはびこっていることが研究で明らかになっている���は驚くべきことではないだろう。現場の警察はムスリムやダリット、あるいはより公正な社会を求めて抗議する人々を鎮圧すべきものと認識し、党派的な態度をとることがある。
アメリカにおける抗議運動は、インドが自国の警察問題について真剣に話し合うときが来たことを痛感させる。
アメリカに住むインド人として私が強い印象を受けたのは、今この瞬間との共通点だけでなく相違点にでもある。インドでは、米国と同様に、携帯電話の普及により不当な死や暴力を記録することが可能になった。
しかし、インドでは通常、関係者や無力な傍観者はこうした記録をしない。むしろ動画は一般的に、血塗られたスポーツのトロフィーとして記念し、回覧しようとする楽しげな参加者によって記録されている。
牛を傷つけたとされたためであったり、あるいは「ジャイ・シュリー・ラーム〔ラーマ様万歳〕」と唱えるように迫られながら行われたりするダリットやムスリムのリンチはありふれたことになっている。しかし、その種の事件の最初、2015年にダードリー〔ウッタル・プラデーシュ州〕でムハンマド・アクラークが群衆にリンチされたときでさえ、広範な怒りを呼び起こすことはなかった。
カシミール地方や北東部でのインド軍による人権侵害については、たとえ記録があったとしても、一般的にインドの主流派の評論家たちは非難しない。インドのほとんどの人々にとって、ショックを受けたり恥じたりして自分たちの命令による残忍な不正義に対して立ち上がるに値することは何もないようだ。
インド人やインド系アメリカ人の中にはジョージ・フロイド殺害に激怒している人もいるが、彼らはそう、ペヘルー・カーンが殴り殺されたときにはまったく動じなかった〔2017年のリンチ殺人事件〕。最近のアメリカにおけるブラック・ライヴズ・マター運動への多くの公的な支持表明と同じように、インドの機関や公人、産業界のトップがムスリムやダリットのリンチ事件に対して悲嘆と連帯の声明を出すことは想像しがたい。参考までに、米国の大企業、有名人、そして共和党の指導者(ミット・ロムニー)までもが抗議者への支持を公然と表明している。インドではエスタブリッシュメントによって抑圧されている人々を支持するこのような立場は想像しがたい。
アメリカとインドのもう一つの相違点は、少なくともこれまでのところ、抗議活動の性質である。
アメリカでの最近の抗議活動はコロナウイルスがもたらした苦難によって増幅されているように見える。インドでは対照的に、コロナウイルス対応における州の不手際によって被害を受けた何百万もの人々から抗議の声が上がっていないことが目立っている。
飢えて都市部に足止めされている、村からの出稼ぎ労働者たちがいる。別の出稼ぎ労働者たちは実家に帰ってほんの少しでもましな状況に戻ろうと何百キロも歩いていった。失業した都市生活者もいる。破綻寸前の零細事業者もある。
これらは既にデマネタイゼーション〔2016年の高額紙幣廃止〕と物品サービス税の導入〔2017年〕によって引き起こされた大規模なショックと経済減速に苦しんできたのと同じグループである。
インドの歴史には、飢饉や過酷な税制が引き金となった、農民が苦境に陥ったときの反乱の例が数多くある。インド国内の経済格差���拡大し、少数のエリートがドル価表示のコーヒーやルイ・ヴィトンの店舗、広大なバンガローにアクセスするなかで残る問い、それはインドの貧困層はどれだけ我慢すればいいのか? である。
インドのエリートが貧困層をいかに追い詰めているかを考えれば、これは全国民が知りたがっていることだろう。
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cuttercourier · 5 years ago
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[翻訳] インド政府のコロナ禍対応についての専門家共同声明(2020年5月25日付)
全文:過酷なロックダウン、一貫性に欠ける戦略がインドに大きな代償を支払わせる 専門家声明
声明の署名者には政府のCovid-19国家タスクフォースによって設置された疫学研究グループの座長である専門家も
2020年5月31日付
3つの医療専門家団体は5月25日、新型コロナウイルスの流行に対する政府の対応を批判し、今後の提言を行う共同声明をナレーンドラ・モーディー首相に提出した。
署名者には、保健省の元顧問、全インド医科大学、バナーラス・ヒンドゥー大学、ジャワーハルラール・ネルー大学、医学教育研究大学院大学などの現職・元教授が名を連ねている。
これらの専門家は、インド公衆衛生学会、インド予防・社会医学会、インド疫学会のメンバーである。
特に注目すべきは、4月6日にインド政府のCovid-19に関する国家タスクフォースが設置した疫学およびサーベイランスに関する研究グループの座長に任命されたバナーラス・ヒンドゥー大学医学研究所元教授D.C.S. レッディ博士が署名者の中に含まれていることである。研究グループのもう一人のメンバー、全インド医科大学ニューデリー校地域医療センター長・教授シャシ・カーント博士もこの声明に署名している。
以下、声明の中で発表された分析と提言の全文。
状況分析
現在進行中のパンデミックは、全世界に深刻な影響を及ぼす公衆衛生上の緊急事態です。インドもまた国際社会の一員として、破局的な「二重の負担」によって悪影響を受けています。145,000人以上の症例と4,000人以上の死亡に加えて、271,000の工場と6,500万~7,000万の小規模・零細企業が停止するなか、推定1億1,400万人の雇用喪失(9,100万人の日給所得者と1,700万人の給与所得者の解雇)を含む人道的危機が発生しています。
2020年1月30日に最初の症例が発生した後のインド政府の対応は、感染の急速な進行を鈍らせ、国民は日常生活のあ��ゆる側面のほぼ全面的な中断を受け入れました。新型コロナウイルスの制御のための臨床医学的、疫学的、および実験医学的な知識は、人類が「ウイルスと共に生きていく」必要があることを示しており、対処戦略は封じ込めから緩和へと速やかに再調整する必要があります。
新たに出てきたエビデンスは、Covid-19が健康格差を悪化させたことを明確に示しており、公衆衛生対策はその懸念を中心に据えたものにする必要があります。国際社会は、このパンデミックを制御するための包括的、効果的、効率的、そして持続可能な戦略と行動計画を策定するために協力し、情報を共有しています。同時に、各国や国内の各地域は、より大きな一般モデルを自らの特殊性に適応させなければなりません。科学者、公衆衛生の専門職、さらには一般市民とのオープンで透明性のあるデータ共有は、これまでのところ行われていないことが明らかですが、早急に保証されるべきです。これにより、パンデミックの制御手段が強化され、ボトムアップのコンセンサスが構築され、そして、関与と信頼のエコシステムが構築されることになります。
2020年3月25日から2020年5月30日までのインドの全国的な「ロックダウン」は最も厳格なものの一つでしたが、このフェイズを通じてCovid-19の症例数は3月25日の606例から5月24日の138,845例へと指数関数的に増加しております。この過酷なロックダウンは、おそらくある有力機関が実施した「最悪のケースのシミュレーション」のモデル化に対応したものです。このモデルは全世界で推定220万人の死者数を弾き出していました。その後の出来事によって、このモデルの予測が的外れであったことが証明されました。インド政府がモデル製作者よりも疾病の伝播動態をよく理解している疫学者に諮問していれば、より良い結果が得られていたかもしれません。
公開されている限られた情報から、インド政府は主にフィールド訓練経験やスキルの限られた臨床医やアカデミックな疫学者の助言を受けていたと見受けられます。政策立案者は一般の行政官僚に圧倒的に頼っていたようです。疫学、公衆衛生学、予防医学の分野の専門的な技官や社会科学者の関与は限定的でした。
インドは人道的危機と疾病の蔓延の両面で大きな代償を払っています。とりわけ国家レベルでの首尾一貫せず簡単に変わる戦略や政策は、疫学的根拠に基づいてよく考えられた説得力のある戦略というよりも、政策立案者の側の「後付け」「後追い」現象を反映したものです。
Covid-19感染者のほとんどには症状がありません。症状があったとしても、それは軽度で生命を脅かすようなものではありません。大多数の患者は入院を必要とせず、在宅レベルで、当該世帯に修正版「強制的な社会的距離確保」を課すことで治療が可能です。病気の広がりが非常に低調だった流行初期に出稼ぎ労働者の帰郷が許可されていれば、現在の状況は避けられたかもしれません。現在では、帰郷する出稼ぎ労働者が国内の隅々まで感染を広げており、その多くは公衆衛生システム(臨床医療を含む)が比較的脆弱な県の農村部や都市周辺地域です。
市中感染が既に国内の大地域や人口集団の間に定着していることを考えると、Covid-19パンデミックが現段階で撲滅できると期待するのは非現実的です。ワクチンや効果的な治療法は今のところ利用可能ではなく、近い将来利用可能になるとも思われません(いくつかの有望な候補はありますが)。この厳格な全国的ロックダウンの効果として期待されていたのは、疾病の広がりにかかる時間を引き延ばし、医療提供システムが圧倒されないよう効果的に計画・管理することでした。これは、4回目のロックダウンの後、経済や一般市民の生活に多大な不便と混乱をもたらしつつも達成されたように思われます。
インドでの症例死亡率は比較的低く、ほとんどがハイリスクグループ(高齢者、既往の併存症のある人など)に限定されています。しかし、ロックダウンそのものに起因する死亡率(主に日常的な医療サービスの全面停止と、インド人口のほぼまるまる下半分の生活の混乱が原因)が、ロックダウンを媒介としてCovid-19の進行を遅らせることによって救われた命を上回る可能性があるため、ロックダウンを無期限に実施することはできません。
インドでは、州や県のレベルでパンデミックを制御するために、科学的かつ根拠ある豊富な介入手段が利用可能です。これらの手段は、貧しい人々や社会的に疎外された人々の生活のために最善の供給を確保しながら実施されるべきです。同時に、すべての人、特に子供や女性、そして持病をもつ人や医師の手当を必要とする急患への保健医療の提供が急務です。
提言
インドの公衆衛生学の大学人、実務家、研究者の非常に幅広いコミュニティを代表して、我々は以下の11項目のCovid-19パンデミックにおける行動計画を検討することを推奨します。
公衆衛生上の危機と人道的危機の両方に対処するために、中央、州、県レベルで公衆衛生および予防医療の専門家と社会科学者の学際的パネルを設置する。
パブリックドメインと公衆衛生委員会においてデータを自由に共有すること。検査結果を含むすべてのデータは、研究者コミュニティ(臨床医学、実験医学、公衆衛生学、社会科学)がアクセスし、分析し、そしてパンデミックを制御するためリアルタイムにコンテクストごとの解決策を提供できるように、パブリックドメイン(紐づけのない匿名)で利用できるようにすべきです。政府に対してリアルタイムに技術的インプットを提供するため、タスク別の作業部会をもつ公衆衛生委員会の緊急設置もありえます。インド政府と州政府がこれまでデータというコンテクストにおける不透明性を維持してきたことは、パンデミックに対する独立した研究と適切な対応を妨げる深刻な障害となっています。
ロックダウンを解除し、クラスター抑制に置き換える。現在進行中の全国的なロックダウンを撤廃し、(疫学的評価に基づく)クラスターを特定しての抑制に置き換える必要があります。国内におけるパンデミックの現在のフェイズを制御するための合理的な基準と目安を設定し、断続的な感染の波が起こりうることを考慮すべきです。ロックダウンの存在意義は医療システムの態勢整備であり、政府はこの効果を測定するための明瞭にモニタリング可能なベンチマークを提示する必要があります。
すべての日常的医療サービスの再開。最も重要なのは、あらゆるレベル(一次、二次、三次)のケアにおけるすべての日常的医療サービスが、医療従事者の保護を確保するための適切な措置を講じながら直ちに開始されることです。とりわけ終末期の患者や、心筋梗塞、脳卒中、結核などの慢性感染症のような生命を脅かす致命的な健康問題を抱える人々、また、予防接種などの予防策のための日常的医療サービスが中断したことによる犠牲が、Covid-19による死者をはるかに上回っていることを示す十分なエビデンスが出てきています。医療サービス中断の打撃は、今後さらに大きくなるかもしれません。
国民の意識向上と予防策の実践による感染源の削減措置。感染のあらゆる段階において、新型コロナウイルスの拡大を制御するために最も効果的な戦略は感染源削減戦略です。フェイスマスク(自家製その他)の一般的使用、手指衛生(石鹸と水での洗浄、手指消毒剤)、そして咳エチケットは、特にハイリスク集団に焦点を当てつつ、すべての人が採用すべきです。
社会的結合を維持しながら身体的距離を確保し、社会的スティグマを避ける。感染の拡大を遅らせるためには、身体的距離を置く規範を実践する必要があります。同時に、不安やロックダウンといった精神衛生上の懸念に対処するために、社会的結合の強化を促進する必要があります。Covid-19におけるスティグマや差別は、それらの集団のすべての人に特別リスクがあるわけではないにもかかわらず、特定の集団(宗教的集団や帰郷した出稼ぎ労働者など)と結びつけられる傾向があります。スティグマはCovid-19の隔離検疫を終えた人の身にも起きるかもしれません。政府、メディア、および地域の組織は人々の意識を高め、また、彼らに共感と敬意をもって接することで手本となる必要があります。
センチネルと能動的サーベイランス。インフルエンザ様疾患については認定社会保健活動家/准看護師・助産師/多目的保健師を通じて、重症急性呼吸器疾患については臨床機関(私立病院を含む)を通じて大規模サーベイランスを実施し、毎日の報告によって地理的・時間的な症例クラスター形成を特定し、感染の中心(ホットスポット/クラスター事象)を追跡することが重要です。これは地域の医科大学や公衆衛生機関に所属する、訓練を受けた疫学者によって支援されねばなりません。将来的には、既存のHIV血清学サーベイランス・プラットフォームの利用が血清学的サーベイランスを行うための費用対効果の高い方法となり、疾病負荷とトレンド、ワクチンの必要性、また、その他の予防戦略のインパクトを推定できるかもしれません。
診断設備の著しい増強による検査、追跡、隔離。インドは検査率を大幅に向上させてきましたが、一部の州は依然として遅れをとっています。この重要なパンデミック対策を軌道に乗せるためには、人口基準に基づくベンチマークが不可欠です。一部の州では未処理の積み残しが多発しており、一連の処理にかかる標準的な時間を規定することも同様に重要です。政府は民間検査機関での無料検査を支援する必要もあります。(潜在的)��触者や帰郷する出稼ぎ労働者の数が全国的に急速に増加しつづけているため、自宅での隔離検疫を促進し、また、現場の医療従事者や地域社会からの積極的な参加と支援を得てプロトコルが遵守される必要があります。
集中治療能力の強化。集中治療は十分な訓練を受け、適切に保護された医療従事者によってのみ行われるべきです。有症状や重症の急性呼吸器感染症でも、酸素その他の吸入機器によって効果的に管理できるという新しいエビデンスが出てきています。マハーラーシュトラ州ムンバイでは既に仮設病院が建設されつつあり、インドの他の都市にもCovid-19ピーク時の患者数増加に対応するために同様の病院が建設されるかもしれません。
現場の医療者のための最適な個人防護具。Covid-19の院内感染は、医療従事者の安全性と士気に影響を与える深刻な課題です。これはまた、ひとたび医療従事者が「スーパースプレッダー」になると、感染伝播が増幅・加速するという重要な問題でもあります。医療従事者に適切な個人防護具を提供して自信を持たせ、また、疲労、曝露、隔離検疫による人員減少に対処するための代替チームを設定しなければなりません。インドは目下、個人防護具の生産能力を強化しており、今後も生産を拡大すべきです。
公衆衛生関連のシステム・研究機関・学問分野の強化。歴史的かつシステム的に学問分野としての公衆衛生を軽視し、政策立案や戦略策定に公衆衛生の専門家が関与してこなかったことは、特に現在のパンデミックにおいて、国に甚大な損害を与えてきました。サービスと研究の両面における公衆衛生(医療を含む)の急速な増強は、中央および州レベルの保健関連支出にGDPの5%を配分し、戦時体制として行われるべきです。
結論
私たちは楽観的ながら慎重な姿勢で署名して筆を擱きます。エビデンスに基づいた科学的で人道的な政策は、人間の生命、社会構造、そして経済への損失を最小限に抑えつつこの災難を克服するのに役立つでしょう。自然は私たちがこの広い宇宙の中で不安定な状況にあることを再び思い起こさせました。今こそ人類は警告のシグナルに注意を払い、緊急かつ即座に中間修正を行うべきときです。「ヴァスデーヴァ・クトゥンバカン」(世界は一つの家族である)の原則に基づき、世界のすべての人間と動物の間で最適な調和を確保するにあたっては、「一つの世界、一つの健康」というアプローチが中心となるべきです。この惑星のすべての生物と無生物を尊重し、関心を払うことが、ポストCovid-19の世界において進むべき道です。
目下このように大規模な百年に一度の人道的・健康上の危機に直面していてさえ、もしも私たちが目覚めず、気づかず、そして、私たちの生活様式や政策立案、とりわけ保健政策の立案において何かしらの根本的な変化を起こさないとしたら、私たちは同じことの結果に直面する運命にありますし、また、現在のパンデミックにおいて空前の人的被害を目の当たりにし、さらに心配なことには、思うよりはるかに早く再びそれを繰り返すことになるかもしれません。
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cuttercourier · 6 years ago
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スルターン・カーブースについてインドで語られる「逸話」
1970年に宮廷クーデタによって即位して以来、半世紀近くにわたり専制君主として国内の安定と開発に大きな成果を残し、また、仲介外交を通じて湾岸地域の平和に貢献することで国際的にも高く評価されてきたオマーン国王(スルターン)カーブースの崩御が2020年1月11日に公表されました。湾岸諸国と関係の深いインドではメディアの関心も高く、政府は敬意の表現として13日を国喪の日とすることを発表しています。
さて、インドメディアの崩御関連報道には「カーブース王は幼いころマハーラーシュトラ州プネーの私立校で教育を受けたことがあり、その教師はのちのインド大統領シャンカルダヤール・シャルマーであった」という王とインドの個人的な縁を示すエピソードが散見されましたが、これは他国メディアには見られない内容でした。
https://economictimes.indiatimes.com/news/politics-and-nation/oman-sultan-qaboos-shared-special-bonds-and-connect-with-india/articleshow/73201260.cms
https://indianexpress.com/article/india/oman-king-sultan-qaboos-death-india-narendra-modi-6212095/
1940年生まれのカーブースは、オマーン南部サラーラの離宮に育ち、16歳のときにイギリスに留学、サンドハースト陸軍士官学校卒業後、イギリス陸軍での勤務を経て1966年に帰国、1970年までサラーラで事実上の軟禁下に置かれていたとされています。シャルマーは1918年にボーパール藩王国(のちのボーパール州→マディヤ・プラデーシュ州)に生まれ、アーグラ、ラクナウで高等教育を受けたのち、ケンブリッジ大学で法学博士号を取得、1940年以降は地元ボーパールでインド国民会議派の独立運動家として活動しました。1947年のインド独立後、インド連邦加盟をめぐってボーパール藩王(ナワーブ)と争い、逮捕・釈放を経て、1949年にボーパール州が成立したのちは同州会議派委員長(1950-52)、州首相(1952-56)を務めています。
したがって、仮にシャルマーが公職に就く以前の1940年代の話としても、10歳にも満たないカーブースが政治活動家シャルマーと、両者とも地縁のないプネーで師弟関係を結ぶというのは極めて考えづらいことです。また、事実であればインド・オマーン両国が長きにわたるカーブース治世の間、ことあるごとに強調して然るべき逸話ですが、そうはなっていません。
そこで、Google検索およびGoogle Trendsを利用して過去この逸話に言及した記事を探したところ、最も早いものとして、2009年に開設されたオマーン情報サイトOmanreference.com(現在は消滅)のページ"Sultan Qaboos"(2010年1月9日付キャッシュ)にプネーで教育を受けたという記述が見られました。
He received his primary and secondary education in Salalah and at Pune, India and attended a private educational establishment in England from the age of sixteen.
https://web.archive.org/web/20100109042949/http://www.omanreference.com/sultanqaboos.aspx
また、「インドから見た中東」をテーマにしたブログMiddle East Analysisの2010年12月24日付エントリ"India and the Sultanate of Oman - A timeline of relations"がこの記述を典拠として次のように述べています。
the current ruler Sultan Qaboos bin Said has been educated for a short time in Pune, India
http://middleeast-analysis.blogspot.com/2010/12/india-and-sultanate-of-oman-timeline-of.html
シャルマーが登場するものとして最も早いのは、インド防衛研究所(Institute for Defence Studies and Analysis)サイトに中東研究者グルシャン・ディートル(元ジャワーハルラール・ネルー大学教授)が寄せた2014年12月9日付記事"An Impending Royal Death: What Next in Oman?"です。プネーにおける二人の師弟関係と、インド大統領としてシャルマーがオマーンを訪れたという事実(1996年)を並べて、カーブースの両国関係への個人的な思い入れに言及していますが、これが筆者の独創であるのかは不明です。
Qaboos received part of his early education in Pune, where he was a student of Shankar Dayal Sharma who later became the President of India and visited Oman in that capacity. The personal touch of Qaboos would surely be missed in bilateral relations.
https://idsa.in/idsacomments/AnImpendingRoyalDeath_gdietl_091214
そして、主要マスメディアにこの逸話が上るのは2018年2月のモーディー首相オマーン公式訪問のときが初めてだったようです。インディアン・エクスプレス紙がインド外交官の語ったところとして、プネーにおけるシャルマーとカーブースの師弟関係を報じています。”That is expected to be acknowledged during the visit”ということなので、オマーン側に事実を確認しないまま言っているようですね。
When Prime Minister Narendra Modi meets Oman’s Sultan Qaboos bin Said on Sunday evening, he will be meeting a man who was, as a student, taught by Shankar Dayal Sharma, who went on to become the President of India. Sultan Qaboos’s father, an alumnus of Ajmer’s Mayo College, sent his son to study in Pune for some time, where he was former President Shankar Dayal Sharma’s student. He completed a part of his early education from a private institution in Pune.
“He has very fond memories from his student days…and that is the reason he has been very generous towards the Indian community and India’s requests for help. That is expected to be acknowledged during the visit,” an Indian diplomat told The Indian Express from Muscat.
https://indianexpress.com/article/india/today-pm-modi-meets-omans-sultan-who-once-studied-in-india-5059079/
ちなみに、インド外務省資料によれば前回のインド首相によるオマーン訪問は2008年のマンモーハン・シンによるものですが、関連報道に上記の逸話に触れたものは見当たりませんでした。
https://mea.gov.in/Portal/ForeignRelation/India-Oman_Bilateral_Realtions_for_MEA_Website.pdf
さらに、ニュースサイトPatnaDaily.comにアラブ首長国連邦アジュマーン在住のインド人ヒンディー文学研究者が寄せた2018年5月18日付コラムが、自分の学生がWhatsAppで教えてくれた1994年(ママ)のシャルマーのオマーン訪問時のエピソードとして、カーブースがプロトコールを無視して、大統領としてより師としてシャルマーを歓待したと述べています。
Oman King never visits the airport himself to receive any dignitary from any country, never! But, King of Oman himself went to the airport to receive the President of India. Then again, when the plane landed, Oman King climbed himself up the ladder and went inside the aircraft and accompanied the President.
Though a lot many chauffeur-driven luxury cars were waiting to carry the Indian President to the Royal Palace, Oman King himself drove the car in which the president was to sit and travel.
Later, when reporters asked the King as to why he broke so many protocols, the King replied: "I did not go to the airport to receive Mr. Sharma because he was the President of India. The fact of the matter is, I had studied in India and learned so many things over there. When I was studying in Pune, Mr. Sharma was my respected professor, and this is the reason I did all this out of my respect and reverence for my teacher."
https://www.patnadaily.com/index.php/guest-columns/250-dr-shiben-krishen-raina/13560-shankar-dayal-sharma-a-president-a-teacher.html
アラビア語ではアッシャルク・アルアウサト紙のサイトにこれと同じ内容がいい話として2019年7月28日付のコラムに使われているのを確認できました。
https://aawsat.com/home/article/1832371/%D9%85%D8%B4%D8%B9%D9%84-%D8%A7%D9%84%D8%B3%D8%AF%D9%8A%D8%B1%D9%8A/%D8%A7%D9%84%D8%B8%D9%84%D9%85-%D9%86%D8%A7%D8%B1-%D9%84%D8%A7-%D8%AA%D9%86%D8%B7%D9%81%D8%A6
以上を雑駁ながらまとめると、10年ほど前までに一部でカーブースの「プネー留学」の過去��主張されるようになり、次いで、のちにオマーンを大統領として訪問することになるシャルマーとそこで「師弟関係」を結んでいたという肉付けがなされ、2018年の首相訪問時にはインド外交当局とマスメディアの一部に(未確認の)事実として受け入れられるようになり、2020年初の崩御に伴ってあらためて事実として想起されることになった、また、一部ではシャルマーのオマーン訪問をさらに感動的なものとして語るネットロアも流通している、というのが現時点での見通しということになります。いかがでしたか?(完)
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cuttercourier · 6 years ago
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[翻訳] 法人としてのヒンドゥー神格 (2)
聖なる正義を求めて:神々が訴訟当事者となるとき
ヴィクラム・ダークタル、2018年8月10日
インド最高裁判所が普通でない議論をすることは珍しくない。ある機関が財産紛争からインド人のプライバシーに対する基本権までのすべてのことについて最終決定権をもっているとき、しばしばかなり普通でない議論が並ぶことは間違いない。
ただし、 次の3つの注目事件を審理している憲法問題法廷の5人ほど、そのような議論を耳にしてきた最高裁判事はほとんどいないだろう。すなわち、同性愛の犯罪化、サバリマラ寺院への立ち入りを求める女性、そして、姦通の犯罪化に関するものである。
最初と最後の事件では道徳および社会を引証する議論があったが、2番目において議論は宇宙観と憲法観の双方をめぐるものとなった。J. サーイー・ディーパク弁護士は寺院への立ち入りに反対する訴訟当事者の一方への賛成意見を述べるなかで、寺院の祭神であるアイヤッパ神は法人であり、そういうものとして他のいかなるインド人とも同じく憲法上の基本的諸権利を有すると論じた。
ディーパクは同神がとりわけ憲法第21条(生命と人身の自由の保護)、第25条(良心の自由並びに宗教に関する自由な告白、実践、および宣伝)、および第26条(宗教的事項の取り扱いの自由)が認める諸権利を有すると論じた。ある法律ウェブサイトが報じたところでは、「彼は『永久に不淫』の状態を保持するアイヤッパ神の権利は第21条の下のプライバシー権に含まれていると述べた」。
これらの議論が有効であるかは判決によって示されるであろうが、少なくとも、ヒンドゥーの神々が「法人」として法廷で自らの権利を守りあるいは主張するという、インドの法思想に既存のかなり広範かつ独特な流れに付け加えられる興味深い事例となった。全能であるはずの神々がまったく人間的で、法の助けを必要としているらしいというのはインド特有の逆説のようにも思える。
このような態度は古くからのものかもしれない。インドの神々はしばしば彼らを崇める者たちと、愛情から食べ物までのすべてにおいて同じ情熱と慣行をもち、よく似ていた。であれば、訴訟に対する我々のよく知られた情熱においてもそうでないわけがあろうか? 何と言っても1836年にRaja Rajkrishna Debの財産をめぐってコルカタで始まった訴訟が21世紀になっても続いている国なのだから。
神話学者Devdutt Pattanaikが指摘する別の例は、オリッサ州のサークシーゴーパーラ寺院である。同寺院の伝説によれば、ゴーパーラ神は信者の側に立つ証人として証言するために顕現することに同意したという。同神が付した唯一の条件は、その信者が法廷への道を振り返ることなく先導することだったが、彼は振り返ってしまい、神は像になってしまった。それでもこのことは十分彼が勝訴する助けになったので、彼は出廷しようとした神を讃えて寺院を建立した。サークシーとはサンスクリット語で証人を指す。
これらの話はインドの伝統に根ざすのかもしれないが、19世紀にそれらに明確な法的形態を与えたのはイギリス人であった。リトゥ・ビルラーはイギリスの法と金融慣行がどのようにしてインドに適応したかについてのすばらしい著作『資本の舞台』において、この展開をヴィクトリア朝イギリスにおけるトラストの発展という、より広い文脈の中に位置づけた。
受益者のために富を寄付するが、それは第三者たる受託者によって管理されるというアイデアは、18世紀に土地所有貴族によって発展してきたが、「次の世紀には急増するミドルクラス、特に商業的に抜け目がなく、社会的上昇が可能な実業および専門職セクターにお株を奪われた」とビルラーは述べる。
産業革命はこれらのセクターに新たな富をもたらし、そして、しばしば宗教的側面をもつ慈善的寄付は、地位を得るために富を活用する一つの方法だった。トラストはこのための仕組みであったため、とりわけ現地人企業家が金を稼ぎはじめ、また、地位を上昇させようとするにつれて、イギリス人が同じパターンをインドで反復しようとしたのは至極当然であった。
ただしビルラーは��コミュニティ網や宗教的な結びつきの内部には、長年のインド的寄付慣行が存在したのであり、それらはイギリスモデルと常に一致したわけではないと指摘する。特に寺院については、それらのつながりのあり方は複雑で、カーストおよびコミュニティについてのニュアンスや、寺院を非公式の金庫として扱う多くの商人たちの慣行を含むものだった。彼らはそこに金を預けておいて、必要になったときにはその金に依存する司祭たちが怒ろうとも引き出すことができたのだ。
このように複雑なものがイギリス法と出会った場合、通常は法廷で決着をつけることになった。そして、寺院の財産をめぐる紛争の増大に対応するにあたって、イギリス人判事たちは神を所有権が帰属しうる法人として扱うというアイディアを思いついた。これにより、伝承による主張をすべて吟味しなければならない事態を一挙に回避する一方、神像を生きている人間のように扱うことによってインド人の感情に如才なく敬意を示したようである。
1869年には、枢密院、すなわち、イギリス帝国における最高上訴裁判所を構成する判事たちは、Maharani Shibessouree対Mothooranath Acharjo事件の判決において、 シェーバェト、つまり神の管理人は、当該神の受託者としてのみ行為することができると宣告した。1875年、また別の事件において枢密院は、シェーバェトは「未成年たる相続人の管財人」として職務を果たさねばならないと述べている。
さらに1887年、いわゆるダーコール寺院事件において、ボンベイ高等裁判所は「ヒンドゥーの神像は法的主体であり、それが具象化するところの宗教的観念には法人の身分が与えられる」と明言した。ビルラーが指摘するように、機は熟していた。というのも、宗教的または慈善的目的の控除を認めたインド所得税法の制定からこのときちょうど1年が経っていたからである。
1925年までにこの原則は、ロンドンの枢密院がPramatha Nath Mullick対Pradyumna Kumar Mullick事件における「ヒンドゥーの神像は、長きにわたって確立した権威によれば、ヒンドゥー教徒の宗教的慣習と裁判所によるその承認に基づく、一個の『法的主体』である」という裁決によって要約するほどに確立していた。また、未成年たる相続人の管財人との比較も繰り返された。法の上で、神像は決して成人しない未成年であった。
おそらく以上に対する反応として、以降、神々が法廷に赴く事件は爆発的に増加することになった。1934年、タイムズ・オブ・インディア(ToI)紙はバドリーナート寺院の神が、約束した寄進を行わなかったイラーハーバードのラーニー・ゴームティー・ビービーのトラストに対する54,000ルピー(当時においては巨額)の要求をいかに勝ち取ったかを報じている。
1934年、ToI紙はボンベイにあるヴァッラバチャルヤ・ヴィシュヌ派のいくつかの寺院で神像が安置されていたシュリー・タークルジー(クリシュナ)が、「財産を浪費し、管理を誤っている」といわれる相続人を遺してその家父長が死去したところの一家が寄進した財産の売却に対する差止命令をいかに勝ち取ったかを報じた。同相続人は当該財産が自身のものであると論じたが、法廷は神の側を支持した。
神々は常に勝訴したわけではない。1937年、ボンベイ近郊ダハーヌーに住むAnandibai Vamanrao Barveという名の女性がマールティ神を訴え、彼の信者たちが彼女が相続した土地で宗教儀式を行い、彼女がそこに壁を建てることに反対していると主張した。2年後、ToI紙は彼女が勝訴し、神とその信者たちは立ち去るはめになったと報じている。
神々が互いに争うこともありえた。1938年、ToI紙はシュリー・ランチョードジーとシュリー・ゴーパルジーそれぞれの側から、後者が礼拝される建物の所有権をめぐって対立する主張がなされた訴訟について報じている。シュリー・ランチョードジーの主張によれば、彼はシュリー・ゴーパルジーの寺院が洪水に見舞われたあと、自ら所有する建物に自身の神像を安置することをシュリー・ゴーパルジーに許可されたのであるが、今や彼はそれを奪おうとしていたのだった。
独立後、この概念はさらなる発展を遂げたが、常に神々に有利な方向であったわけではない。例えば1969年、最高裁は先にカルカッタの税務裁判所が下した、神々が個人であるならば彼らは所得税を支払いうるとした判決を承認した。また、1999年、最高裁は神々が財産を所有しうるという原則を再び承認し、当該の神がどのように崇拝されうるかを規定するまでに至った。
最も有名なのはパトゥル村のナタラージャ〔踊るシヴァ神〕像事件である。それはタミル・ナードゥ州の寺院から盗まれ、国外でバンパー・デヴェロップメント・コーポレーション社に売却された。同社はそれを修復のため英国博物館に送り、そこで1991年にスコットランド・ヤードに押収された。インド政府がこの神像の返還を求めて訴訟を起こした際、シヴァ神は原告の一人とされた。
ToI紙の報じたところによれば、同社は以下のように争った。「バンパー社の抗弁は、イギリスの裁判所はヒンドゥーの神が当地で告訴することを認めるべきではないというものだった。君主(女王)こそが連合王国における最高権力であると、そして、畢竟ここはキリスト教の王国なのだと彼らは主張した」。ところが裁判所は堂々と、ヒンドゥー教は連合王国においても実践されており、したがって、シヴァ神は原告に留まりうると応じた。
けれども、人格としての神々はより物議を醸す文脈にも現れている。最も重要なのはアヨーディヤーのラーマ寺院事件である。そして、かの骨の折れる論戦が展開するずっと以前に、この概念についての疑義が呈されていた。早くも1931年に、カルカッタのユニバーシティ・ロー・カレッジ学長S.C. バグチは後に『ヒンドゥーの神々の法人格』と題された本となる一連の講義を行ったが、そこで彼はこのアイディアへの懐疑を詳細に論じた。
バグチはまず「法人」が意味するものを定めてから、ヒンドゥー教典における神観念を理解するために数多くのサンスクリットのテクストを引く。「ヴェーダ的神概念の中には、神秘主義と混ざりあったあまりに多くの擬人論が存在するので、諸ヴェーダにおいて想定されているその種の主体は法の世界ではまったく用いられていない」。
バグチは財産を神像に帰属させるという議論の利便性は認めるが、より進歩的な選択肢を提案している。「それ自体の霊的利益のために団体として設立され寄付を受ける以上、コミュニティそのものがより適切に集合的主体とみなされ、団体の財産がそこに帰属するところの法人を形成することがないかどうかが問われるのは当然であろう」。
バグチの議論は、19世紀に法人格としての神像が創造されたのは、イギリス人法曹がさまざまなインド人当事者の要求をカーストやコミュニティの込み入った慣行と一緒に処理するといううんざりするような過程からの抜け道として考案した法的ごまかしとしてであることを暴露したように見える。それは便利であり、信者たちに受けるものであったが、しかし、ごまかしはごまかしであって、時とともに明らかになる問題を含んでいた。
目下、彼の主張を支持するような事態が起きつつある。財産権とトラストというかなり狭い文脈において考案された法的概念が、今やプライバシーや基本権のような領域に拡大しつつあり、それらは単純にさらなる問題を露わにすることになる。
もしも神々が税を支払うのなら、彼らは参政権を要求しうるだろうか? また、そうであるなら、彼らは公職に立候補できるだろうか? 永遠の法的未成年として性の問題がまったく生ずべきでないなら、彼らはどうやって不淫であると主張できるだろうか? そして、ヒンドゥーの神々がそのような物質的問題とかかずらうことは、どの段階から彼らの霊的役割に対する罪のように映りはじめるだろうか? 法人としての神々は、インド法学の巧緻な部分のようでもあるが、その帰結はあまり喜ばしいものではないかもしれない。
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cuttercourier · 6 years ago
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[翻訳] 法人としてのヒンドゥー神格 (1)
法人としての神:神々が享受する法的権利とは何か?
インディアン・エクスプレス紙、2019年10月4日
現在最高裁判所で審理中のアヨーディヤー権原訴訟上訴審の当事者の中には、「近友」として元イラーハーバード高裁判事、故デーウキー・ナンダン・アガルワールが代理人となっているラーマ神、すなわちラームラッラー・ヴィラージマーン〔幼児のラーマ神〕自身がいる。
同訴訟における他の「ヒンドゥー側」当事者はニルモーヒー・アカーラー〔ニルモーヒー修道会〕であり、当初は同神による申立の棄却を主張したのち、8月27日に「1989年第5番訴訟(アガルワールを通じて同神が訴えたもの)の維持可能性の問題を、もしも彼ら(ラームラッラーの弁護人たち)が同アカーラーの『シェーバェト』〔管理人〕権に異議を唱えないならば、提起」しないことを裁判所に伝えた。
いかなるわけでラーマ神は訴訟当事者となるのか、また、彼を崇拝する権利を主張する信者たちと法廷で争うのか?
法人としての神
「自然人」(すなわち、人間)の対義語としての法人とは、法によって人格を付与された実体である。グルドワーラー管理委員会対Som Nath Dass他事件(2000年)において、最高裁は「法人という語句は、ある実体を法においては人と、それ以外ではそうでないと承認することを意味する。言い換えれば、それは個々の自然人ではなく、法においてそのように認められるべく人工的に創り出された人である」と述べた。神々、会社、河川、そして動物はすべて裁判所によって法人として扱われてきた。
法人として神々を扱うことはイギリス人統治下で始まった。広大な土地と資源を所有する諸寺院、およびイギリス人行政官は、その富の法的所有者は神であり、シェーバェト、すなわち管理人が受託者として行動すると考えた。
1887年、ボンベイ高裁はダーコール寺院事件において「ヒンドゥーの神像は法的主体であり、それが具象化するところの宗教的観念には法人の身分が与えられる」とした。これはVidya Varuthi Thirtha対Balusami Ayyar事件における1921年の命令で補強された。その中で高裁は「ヒンドゥー法の下で、神の表象は…贈り物を受け取り、また、財産を��有する能力を付与された『法的実体』(である)」と述べている。
このアイディアは今ではインド法において確立している。「法的実体、すなわち人は、法が権利あるいは義務をそれ自身の名の下に置くものです。会社は法人であり、それ自身の名において財産を保持あるいは取引することができます」と上級弁護士サンジャイ・ヘーグデーは述べる。「抽象概念としての神は法的実体ではありませんが、ヒンドゥー法における神々は、財産を贈与され、あるいはそれを外に送り、あるいは所有権を取り戻すために訴訟を起こすこともできるような人格を与えられてきました。」
「ゆえに、法的擬制によって」、ヘーグデーは言う。「ヒンドゥーの礼拝所に安置された神々は、法の目的のため、他の実在する人々のように扱われてきました。」
しかし、すべての神が法人というわけではない。この身分は公に奉献の儀式、すなわちプラーナ・プラティスターを経た神像にのみ与えられる。Yogendra Nath Naskar対所得税局長事件(1969年)において、最高裁は次のように裁決している。「すべての神像に『法人』たる資格があるわけではなく、それが奉献を受け、公共の場所に一般公衆のために安置されたときにのみそうなる」。
神々がもつ権利
財産を所有したり、税金を納めたり、裁判に訴えたり、そして訴えられたりのほか、「法人」としての神々は何をするのだろうか?
サバリマラ事件(インド若手弁護士会他対ケーララ州他事件、2018年)において、月経のある年齢の女性が同寺院に立ち入ることを認めない立場からの論点の一つは、このことが永遠に不淫であるアイヤッパ神のプライバシー権を侵すというものだった。
サバリマラ事件に取り組んでいたある弁護士によれば、「神々は財産権を有するが、基本権や他の憲法上の権利についてはそうではない」。この見解はサバリマラ判決においてD.Y. チャンドラチュード判事も支持している。「ただある神が制定法の下の法人として限定的な諸権利を付与されているというだけでは、当該神が必ずしも憲法上の諸権利を有しているとは言えない」。
神の代理人
一般的に、シェーバェトは寺院の司祭か、または寺院を管理するトラストや個人である。アヨーディヤー権原訴訟の2010年イラーハーバード高裁判決において、D.V. Sharma判事はこう述べた。「未成年の場合に後見人が任じられるように、神像の場合はシェーバェト、すなわち管理人が代理行為のために任じられる」。
シェーバェトが神の利益のために働いていないと誰かが感じたらどうなるのだろうか? Bishwanath他1名対Shri Thakur Radhaballabhji他事件(1967年)において、最高裁はシェーバェトが「神像の財産を侵害している」と判明した場合に、「信者によって代表された神像によって提起される訴訟」を認めた。同裁は、もしもシェーバェトが適切に義務を果たさないならば、信者が「神の友」として裁判に訴えることができるとした。
アヨーディヤー事件では、ニルモーヒー・アカーラーはデーウキー・ナンダン・アガルワールによる申立てに対して���これまで彼らがシェーバェトとしての義務を適切に果たさなかったと告発した者は誰もいない」という根拠に基づいて論駁したと、スンニー・ワクフ委員会〔訴訟当事者の一、ウッタル・プラデーシュ州スンナ派ワクフ中央委員会〕を代表するフザイル・アイユービー弁護士は述べた。
ヒンドゥー教以外の例
モスクが法人とされた例はない。というのも、それは人々が集まって礼拝する場所であって、礼拝の対象ではないからだ。キリスト教会も同様である。
グルドワーラー管理委員会対Som Nath Dass他事件(2000年)において、最高裁は「グル・グラント・サーヒブ〔シク聖典〕は他の聖なる書物と同一視できない…グル・グラント・サーヒブは一人のグルとして崇敬されている…(そして)グルドワーラーの中心であり魂である。グル・グラントに対する崇敬と、他の聖なる書物に対するそれは、異なる概念上の信仰、信条、そして信心に基づいている」と裁決した。
ただし、最高裁は「あらゆるグル・グラント・サーヒブは、グルドワーラーまたはそれに類する公的に認められた場所に安置されることを通じて法的な役割を果たさないかぎり、法人とはなりえない」と明確にしている。
神々だけではない
5月、パンジャーブ・ハリヤーナー高裁は「動物界全体」が「生きている人間の権利、義務、そして責任と同様の明確な法人格」をもつとした。2017年3月20日、ウッタラーカンド高裁はガンジス川とヤムナー川は法的に「生きている人々」として扱われ、「生きている人間と同様のすべての権利、義務、そして責任」を享受すると宣告した。同年7月、当該命令は「いくつかの法的な疑問と行政上の問題を提起した」ため、最高裁によって停止されている。
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cuttercourier · 6 years ago
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[翻訳] パキスタンにおける「アラブ化」
言語の対立
フマー・ユースフ、2015年6月22日(Dawn紙)
ルーヤテ・ヒラール〔=新月観測〕委員会が〔月始めを告げる〕新月を見つけようとしていた頃、ソーシャルメディア上ではまた別の現象が起こっていた。パキスタン人たちは聖なる月がアラビア語の発音であるラマダーンではなく、ウルドゥー語やペルシア語の発音でラマザーンと呼ばれることを求めて、TwitterのアカウントやFacebookのステータス・アップデートに没頭していたのである。
ラマザーン対ラマダーン論争は新しくも珍しくもない。多くのパキスタン人は徐々に進む自身の言語・文化のアラブ化に戸惑っている。外来者や新しい知人にさようならを言うことも、〔ペルシア風に〕「クダー・ハーフィズ」と言う者と〔アラブ風に〕「アッラーフ・ハーフィズ」を好む者の間の対立が明確になるにつれ、緊迫したやり取りになってしまった。〔礼拝を意味するペルシア語由来の〕ナマーズはだんだんと〔アラビア語由来の〕サラートになっている。
これらの言語的な争いはパキスタンのナショナル・アイデンティティの危機を見事にまとめている。分離後のパキスタンがイスラーム・アイデンティティを涵養することで「ヒンドゥー」インドから自らを峻別しようとしたことについては多くの著作が書かれてきた。
インダス渓谷の古代文明に遡る亜大陸固有の共通の歴史は、手際のよいイスラーム化の語りに取って代わられてしまった。それはムハンマド・ブン・カーシムのシンド征服〔711年〕に始まり、ムスリムのためのホームランドとしてのパキスタンの創出によって終わる。ペルシア語・ペルシア文化の影響は、1980年代以降「シーア派」イランと結びつけられたことで徐々に衰えつつもあり、アラブ的表現に有利になっている。
アラブ化の風潮に抗う人たちは、ナショナル・アイデンティティとは一種の構成体であって、パキスタンはまだ自身を形成する過程にあることを忘れるべきではない。私たちの言語のアラブ化は構造的または自発的なトレンドではないし、よく論じられているような、湾岸諸国におけるパキスタン人移民労働者の広範なプレゼンスがもたらす副作用でもない。アラビア語への傾斜は、ナショナル・アイデンティティが形成されるお決まりの場所を通じて私たちのアイデンティティに組み込まれている。
これらの場所のうち最もあからさまなのは、公立学校・大学のカリキュラムである。その他、TV・ラジオ双方の公共放送、政府奨学金、国立美術学校・財団、映画産業、検閲委員会、広告、スポーツ、博物館、そして国民の祝日のパレードも含まれる。
パキスタンへのアラビア語の導入は、計画的な政策の結果である。アイユーブ・カーン〔第2代大統領、1958–1969年〕はパキスタンの公立学校におけるアラビア語教育を最初に求めた人物である。彼の教育政策はまた、ウラマーの近代化をねらいとして、神学校カリキュラムへの現代アラビア語テキスト導入のほか、マドラサにおける英語教育も推奨した。それ自体が軽率であったかはともかく、アリッサ・エアーズ〔南アジア研究者〕が論じているように、カーンの教育政策は近代性と進歩の言語としての英語とアラビア語をパキスタンにもたらした。
当然ながら、パキスタン社会の主流にアラビア語を導入する本当の努力はジヤーウルハック将軍〔第6代大統領、1978–1988年〕政権下でなされた。明らかに彼はアラビア語とウルドゥー語を、土地ごとの、民族的な、そして言語的な多様性の結果として頑なにバラバラのままのムスリム・ネーションを統一しうる言語と考えていた。その結果、国営局はアラビア語でニュースを放送している。公共の電波はまた、アラビア語と宗教的知識を広めるためにも用いられた。
1980年代はじめ、ウルドゥー語が教えられていた公立学校およびイクラー・センター〔識字教育施設〕でアラビア語を教えるためにマドラサの教師たちが募集され、宗教教育と世俗教育の区別、公教育の空間と非政府系教育の空間の区別を曖昧にした。規制がないマドラサ(国家の視界から外れていた)に教育に対するコントロールを与えた結果は明白であり、ウルドゥー語の漸進的なアラブ化にとどまらない。それは今日のパキスタンで優勢な反啓蒙主義者や退行的なイデオロギーと政策に明らかである。
違った形で私たちのアイデンティティを形成するには、もしそれを私たちが望むならであるが、ナショナル・アイデンティティの危機がどのように作り出されたかを忘れないことが重要である。ナショナル・アイデンティティが構築されるプロセスに常に注意を払うことで、さもなければ見逃してしまうような、しかし未来においてそれがパキスタン人であることを意味する何事かを教えてくれるような、ローカル・レベルのまったく異質な出来事の重要性がより大きくなる。
これらは次のような最近の出来事を含んでいる。バーナデット・ディーン博士がシンド州の教科書カリキュラム改革に取り組んだことで宗教政党から殺害予告を受けたあとパキスタンを離れたこと、宗教的寛容についてのジンナーの8月11日演説を公立学校のシラバスに含めるというシンド州政府の最近の決定、果てのないYouTube禁止令、考古学的遺物が日常的に盗まれているのを前にした政府の無関心、等々。
これらの事件は累積的に私たちのナショナル・アイデンティティを形成していき、数十年後には私たちが自分たちをどのように見るか、さらに、実際私たちがどのように喋るかに深刻な影響を与えるだろう。ラマ��ーンというウルドゥー語/ペルシア語の発音を保持しようとするソーシャルメディア上のキャンペーンが、ぱっと見の印象ほど浅薄でないのはそれゆえである。今日、私たちがある1字の音をいかに選ぶかは、今後数十年、それがパキスタン人であることを意味する何事かに影響しうるのだ。
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cuttercourier · 7 years ago
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[翻訳] 火葬を選ぶパールシーの増加
新葬儀場はムンバイのパールシー・コミュニティにおける埋葬の形をどのように変えつつあるか:ワルリー葬儀場の開設以来9ヶ月で火葬を選ぶパールシーの数は2倍以上に
10年以上にわたる議論の末、今やますます多くのムンバイ・パールシー・ゾロアスター教徒が、ハゲワシによって食べ尽くされるよう伝統的な沈黙の塔に委ねる代わりに、愛した故人を火葬することを選ぶようになっている。
2015年以前、同市のパールシー45000人のうち火葬を選んだのは、たとえそれがより荘厳な死を提供してくれるように見えても、わずか6%だけだった。しかし、過去8ヶ月だけで、この数字は2倍以上に増加した。コミュニティ誌『パールシーヤーナ』編集長ジャハーンギール・パテールによれば、今やムンバイのパールシーの少なくとも15%が火葬を選んでいる。
降って湧いたような電気炉火葬の人気は、一つのキーファクターに帰すことができる。すなわち、南ムンバイのワルリー地区にある市営火葬場に附属した新しいゾロアスター教葬儀場(prayer hall)の開設である。葬儀場は2015年8月に落成し、2015年9月に最初の葬儀が行われ、そして、それ以来6ヶ月の間に既に50人以上のパールシーのための葬儀会場となっている。
広々とした3700平方���ィートの葬儀場は、尊厳ある遺体処理法をめぐってコミュニティ内のリベラル派と保守派が侃々諤々の議論を繰り広げた結果の産物である。
塔の窮地
1000年以上前にイランから西部インドに移民してきたとき、パールシーはいくつかの沈黙の塔、すなわちダフマを建設し、ハゲワシなどの屍肉を食べる鳥に対して遺体を曝すことで処理するという古代ゾロアスター教の慣習を保持した。遺体は石造りの塔の頂上で隆起部に安置され、自然に還す方法としてハゲワシに食べられるに任された。
ムンバイには4基の沈黙の塔があり、瀟洒なマラバール・ヒル地区の中ほどのドゥンガルワーディーと呼ばれる樹木に覆われた54エーカーの地所に建っている。ドゥンガルワーディーは約300年にわたってこの街のパールシーたちに利用されてきたが、ムンバイのハゲワシの数が1990年代中程に減少しはじめるとともに状況は変わりはじめた。ハゲワシは都市化のためだけでなく、1980年代に家畜の炎症と発熱を治療するために導入され、牛の死骸を食べる鳥類に有毒であるであることが証明された薬物ジクロフェナクのために死んでいった。2006年までにハゲワシはほぼ絶滅した。
このことは沈黙の塔の頂上で食べ残された遺体が何ヶ月も腐るに任されるにつれて、小さなパールシー・コミュニティに予期せぬジレンマを引き起こした。進歩的なパールシーはドゥンガルワーディーにおける尊厳の毀損にますます憤りを強め、そして、コミュニティの諸問題と資産を取り扱うトラストであるボンベイ・パールシー・パンチャーヤトはこの危機にイノヴェイションを通じて対応しようと試みた。
ドゥンガルワーディーでハゲワシを繁殖させる試みがなされたが、計画は成功しなかった。パンチャーヤトは太陽の下で遺体の分解を早めるため、大きな太陽光反射板を塔の周りに設置したが、タンボリーらコミュニティ・メンバーによれば、これも役に立たなかった。
新葬儀場の必要性
過去10年間にわたり、ドゥンガルワーディーの状況から何人かの進歩的パールシーはより尊厳ある遺体処理の方法として火葬に目を向けるようになった。世界各地のゾロアスター教徒はほとんどどこでも既に火葬か土葬を採用している。しかし、ムンバイにおいてそれは難しい選択であることが明らかになっていった。パールシーたちがコミュニティ固有のものでなく市営の土葬墓地か火葬場を使わねばならないからである。
伝統的なパールシーの葬儀の祈祷は死後4日間続き、家族は故人の魂に祈りを捧げるためドゥンガルワーディーの特別にデザインされた葬儀場に事実上住むことになる。しかし、ボンベイ・パールシー・パンチャーヤトは火葬や土葬を選択する者には4日間の葬送儀礼のためにドゥンガルワーディーの葬儀場を使うことを許可しない。
「もし家族が火葬を選ぶなら、葬儀は自宅かどこか他のホールを借りて行わなければならなかったし、また、もし彼らがすべての出席者を収容するに足る大きさのホールを手当てできなければ、葬儀を取りやめるしかなかった」とジャハーンギール・パテール編集長は述べる。これこそが、ドゥンガルワーディーの好ましからざる状況にもかかわらず、コミュニティの小さな一部だけが火葬を選んでいた理由である。
このことはまたパンチャーヤトの前理事の一人ディンシャー・タンボリーを突き動かし、同じ意見をもつパールシーたちと協力して、ムンバイ市当局にコミュニティに対してワルリー火葬場内に新葬儀場のための地所を提供するよう説得せしめた。その地所は2014年に譲渡され、そして、ワルリー葬儀場をついに開設するまで、1年以上の月日と1700万ルピー以上のコミュニティからの寄付が費やされた。
増加する火葬
その葬儀場は200名が座れる収容能力を有し、厳密にはあらゆるコミュニティの人々が利用可能だが、パールシー・ゾロアスター教徒が最優先である。初めのうち、同葬儀場における葬礼は2人の改革派司祭、フラームローズ・ミールザーとクシュルー・マードンだけが執り行っていた。ミールザーとマードンは両者とも2009年以降ドゥンガルワーディーおよびパンチャーヤトが運営するその他の拝火神殿を出入り禁止になっていた。というのも、彼らはコミュニティの外部と通婚したり火葬や土葬を選んだりという正統派が眉をひそめる行いをするパールシーのために儀式を執り行ったからである。
「しかし、ワルリー葬儀場開設以来9ヶ月のうちに、さらに11人の改革派司祭がこの葬儀場で葬送儀礼を行うようになりました」とタンボリーは言う。彼はさらなる速度で火葬を選ぶパールシーの数が増えることを期待している。
たとえコミュニティの多数派が遺体を処理するためにドゥンガルワーディーに行き続けているとしても、クシュルー・マードン司祭はこれはすぐに変わると信じている。「火葬をゾロアスター教徒にとって神聖な火を穢すことと考えている人はまだいます」とマードンは言う。「しかし、この葬儀場はコミュニティにおける明確な必要性を満たしていますし、多数派もすぐに火葬に移行するでしょう」。
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cuttercourier · 7 years ago
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インドの博論リポジトリ「ショードガンガー」
ショードガンガーって何? 何ができるの?
こんばんは! オープンアクセスの学術情報って、とっても便利で嬉しいですよね。今回はその中でも最近盛り上がっているウェブサイト「ショードガンガー」についての記事を書いていきたいと思います。
ショードガンガーって何?
ショードガンガー(shodhganga/शोधगंगा)とは、インド全国規模の博士学位論文リポジトリの名前です。詳しくは後述しますが、近年とみに登録件数が増えており、要注目のサイトといえます!
URLはコチラ→http://shodhganga.inflibnet.ac.in/
ちなみにショードガンガーというネーミングですが、研究(shodh)におけるガンジス川(ganga)、つまり、滔々と流れる学術の大河をイメージしているそうです。インドならではの素敵な名前だと思います!
誰が運営しているの?
ショードガンガーを運営しているのは、インドの政府機関、大学助成機構(Univesity Grant Commission)に属する大学共同利用拠点インフリブネット・センター(INFLIBNET Centre、情報図書館ネットワークセンター)です。実は2009年から大学助成機構規則によって、学位授与が決定したPhD(およびMPhil)1論文は、インフリブネットによる公開のために授与機関を介して電子コピーを提出することが義務づけられているんだそうですよ!
どのくらいの論文が登録されてるの?
学位論文の登録件数は2011年3月に12592、2012年6月に3100超3、2013年7月に8100超4、2015年2月に32,000超5と徐々に増えていき、さらに3年後の2018年3月3日現在では、なんと183,019件にのぼります。もちろんすべて本文を含めた論文の全体が公開されています。もう一生かかっても読みきれないですね! 英語で書かれたものが多いですが、州公用語での論文提出が認められている大学も多いので、使用言語はさまざまです。インドの多様性を感じます! ちなみに、インフリブネット・センターとの間に学位論文公開のための了解覚書(MoU)を締結した大学の数でいうと、2011年3月に172、2013年9月に1336だったのが、2018年3月3日現在は365となっています。
ショードガンゴートリー??
ショードガンガーと並んで、進行中の学位論文の梗概をアップロードするためのショードガンゴートリーというリポジトリもあります(http://shodhgangotri.inflibnet.ac.in/)。ガンゴートリーというのはガンジス川の主要な源流の名前だそうです。つまり、ショードガンゴートリーから流れ出た研究が集まって、ショードガンガーという河になるわけですね! ただし、こちらは2013年6月時点の登録件数が1181件7、2018年3月3日現在でも3899件で、利用はまだあまり盛んではないみたいです……。今後に期待しましょう!
おわりに
いかがでしたか? 英語で書かれた学術情報は日本人にとっても比較的アクセスしやすいですし、こうしてどんどん公開されていくことは非常に嬉しいですよね! 今後もさまざまな分野の論文がどんどん登録されていくはずなので、引き続き注目していきたいと思います!
日本人の目から見た場合、インドの大学院制度の実態としては、概ねMA(コースワークのみ1年間)が日本の学部専門課程、MPhil(2年間で学位論文必須)が修士課程=博士前期課程、PhD(3年~6年で学位論文必須)が博士後期課程に相当する(参考:「書斎の窓 2017年7月号 途上国の経済発展 ―― インドから考える⑤ ネルー大学の研究環境 黒崎 卓」)。ただし、学位名称の英訳の関係からも、インドにおいて日本の修士号はMPhilではなくMA相当と看做されることが多い。 ↩︎
N. K. Sheeja (2011). 'The Development of an Indian Electronic Theses and Dissertations Repository: An Overview'. The Journal of Academic Librarianship 37 (6), 546-547. https://unavdadun.files.wordpress.com/2011/09/indian-electronic-theses-and-dissertations-repository.pdf ↩︎ ↩︎
INDAS資料整備委員会編「資料探索・入手のための情報源リスト(現代インド・南アジア)Ed. 1��� https://www.indas.asafas.kyoto-u.ac.jp/static_indas/wp-content/uploads/pdfs/tansaku_list_01.pdf ↩︎
吉植庄栄 (2013) 「ナマステー!! IT大国インドの機関リポジトリは今!?」『月刊DRF』44号. http://drf.lib.hokudai.ac.jp/drf/index.php?plugin=attach&refer=%E6%9C%88%E5%88%8ADRF&openfile=DRFmonthly_44.pdf ↩︎
K. S. Sivakumaren (2015). 'Electronic Thesis and Dissertations (ETDs) by Indian Universities in Shodhganga Project: A Study'. Journal of Advances in Library and Information Science 4 (1), 62-66. http://jalis.in/pdf/4-1/Sivamit.pdf ↩︎
中山知士 (2013) 「世界の学位論文電子公開の状況:ETD2013参加レポート」『月刊DRF』46号. http://drf.lib.hokudai.ac.jp/drf/index.php?plugin=attach&refer=%E6%9C%88%E5%88%8ADRF&openfile=DRFmonthly_46.pdf ↩︎
Shantashree S. Sengupta (2013). 'Current Status of ShodhGangotri: Repository of Indian Research in Progress'. Library Philosophy and Practice (e-journal) 997. https://digitalcommons.unl.edu/libphilprac/997/ ↩︎
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cuttercourier · 7 years ago
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[翻訳] 新カースト「インド・アングリアン」の勃興
インドの最も新しく、かつ最速で成長しているカーストよ、こんにちは
2012年か13年のいつだったか、筆者の娘たちは母語のコンカニ語で話すことをやめた。何がそうさせたかは定かではないが、おそらく彼女らのムンバイの学校が生徒に家庭でもっと英語を話すことを奨励していたのがきっかけだ。あるいは他のなにかかもしれない。それは問題ではない。
問題なのは、うちがときどきの散発的なコンカニ語会話以外、ほぼ排他的に英語を話す世帯になったということだ。インド都市部の富裕層全体に我々のような多くの家族が群れをなしており、成長途上で喋っていた言語でなくもっぱら英語を話している。
これらの家族のいくらか、あるいは少なくともこれら英語を話す世帯の親たちは、英語で話すのと同じくらい母語で話そうと試みる。しかし、これらバイリンガル世帯においてさえ、英語は依然支配的である。子供たちにとって、二三の単純なフレーズ以上にインドの言語で話すことは骨が折れる。他方、英語は自然に出てくる。彼らのもつ語彙は英語のほうが大きく、複雑な思考や主張を遥かに簡単に表現させてくれる。
筆者は家庭でもっぱら英語を話すこれらの家族を指す用語なり頭字語なりフレーズなりを探していた。彼らはインドの人口動態において、あるいはむしろ心理動態において影響力のある部分である。富裕で、都市住民で、高等教育を受け、通例はカースト間や宗教間結婚をしている。筆者は彼らをインド・アングリアン(Indo-Anglians)と呼ぶことを提案する。1
インド・アングリアン
インドにおける英語を話すコミュニティの元祖であり、キリスト教徒であるアングロ・インディアン〔英系インド人〕とは異なり、インド・アングリアンはヒンドゥー教徒が圧倒的ではあるものの、すべての宗教を含む。また、インド・アングリアンは高度に都市的でもあり、インド7大都市(ムンバイ、デリー、バンガロール、チェンナイ、プネー、ハイダラーバード、コルカタ)に集中し、少数が丘陵地の小都市やゴアに散在している。
これらの都市の内部で、彼らは特定の地区に集住している。すなわち、グルガーオンおよび南デリー各地、南ボンベイおよびバーンドラーからアンデーリーにかけての西部郊外、インディラーナガル、コーラマンガラおよびバンガロール外環道のゲーテッド・コミュニティ、サルジャープラ、コーレーガーオン・パーク、カルヤーニーナガル、ガチバウリおよびハイテク・シティその他である。彼らは経済的にインドの上位1%にほぼ収まり、海外の中間層と比較可能な消費バスケットをもっている。彼らの子供たちはインターナショナル・スクールに通い、アールヤ、カビール、カイラ、シャナーヤ、ティアなどの「先進国ヨガネーム(first-world yoga names)」2を付けられている。
筆者はインドにおけるインド・アングリアン世帯の数を約40万と見積もっている。これはもちろん推測である。先行研究は存在せず、最も実像に迫る公式データは2001年国勢調査で、これは22万6000人のインド人が第一言語として英語を話すと述べている。40万世帯という見積もりの根拠は註に掲げた。3
これら40万のインド・アングリアン世帯は140万人未満にあたる(40万×3.5、これらの世帯は比較的小家族である)。これはインドにおいて第二言語として英語を話すと主張する1億3000万から1億4000万人―英語可用者(English Comfortables (ECs))とする―の約1%である。また、英語が第一言語と考えられる2500万~3000万人の約5%未満であり、彼らを英語第一話者(English First (EFs))とする。4
次の図でわかりやすくなるだろう。
インド・アングリアン世帯の大多数は、筆者のケースのように、過去10年の間に出現した。そして、これからの5年から7年で、急増することになるだろう。西洋化の進行、英語教育需要、そして、より決定的には、カースト間あるいはコミュニティ間結婚という、インド・アングリアン世帯が生まれるただ一つの最大の要因(両親の母語が異なれば、子供は普通、最終的には英語を話すことになる)の増加によって、数字の上では倍増さえありうる。インド・アングリアン世帯の急速な出現と継続的増大には、社会、ビジネス、そして政治にとって重要な含意がある。検討してみよう。
社会
インド・アングリアン世帯の相当な部分は、異なるコミュニティ(およびカースト)成員の間の結婚を経ている。逸話的データに基づいて、思い切って言えば、インド・アングリアンの結婚の過半数は伝統的上位カースト間のものである。ただし、彼らには「支配カースト」すなわち上昇可能ながら歴史的には下位のカースト、例えばヤーダヴ出身の成員もいる。ひとたびインド・アングリアンの枠内に受け入れられると、成員たちは自身の伝統的カースト・アイデンティティをインド・アングリアン文化の中に混ぜ込む。カーストはインド・アングリアンたちの間ではめったに議論されず、カースト的、または宗教的慣習もほとんど行われない。
大半のバラモンおよびすべてのバニヤーにとっての核心的カースト規範である菜食主義を取り上げよう。インド・アングリアンの相当数が菜食者であるが、彼らは肉、あるいは牛肉さえ食べるパートナーとの結婚に反対しない。彼らはパートナーが家庭で肉を調理することや、その出前を頼むことにも反対しない。家庭で非菜食料理に異なる食器を使うこともないようだ。実際、ある世帯で、筆者は菜食者のパートナーが肉を避けるためにグレーヴィー〔ここではとろみのあるソース一般を指す〕を掘り返しているのをときおり見かける。菜食者と非菜食のために食器を使い分けることに表れる儀礼上の穢れの概念は、このようなインド・アングリアン世帯にはめったに存在しない。
このことは私にインド・アングリアンについて2つの違う見方をさせる。一つは、彼らをカーストレスな、あるいは「ポスト・カースト」的コミュニティの例としてさえみることで、そこでは伝統的なカースト・アイデンティティは新たなインド・アングリアン・アイデンティティの下に組み込まれている。もう一つのアプローチは、筆者にはこちらが好ましいが、上位の諸カーストと並び、独特の文化的規範と実践を有する一個の「カースト」として彼らを見ることである。カーストへの包摂と内婚の鍵となる基準は、高度な英語スキル(およびそれに付随する信頼)である。
インド・アングリアン世帯の成員は、もし潜在的パートナーが優れた英語を話し、インド・アングリアン・サークルに適合的であれば、非インド・アングリアン世帯の成員と喜んで結婚するだろう。この点から見れば、インド・アングリアンはインドの最も新しく、かつ最速で成長しているカーストであり5、包摂への必要条件として生まれが関係ない唯一のカーストである。筆者の考えではこれは極めて重要である。というのも、これにより、インド・アングリアン・カーストは伝統的な被抑圧コミュニティ―英語教育と西洋化された文化との接触から利益を受けてきた指定外後進カースト(OBCs)、ダリット―出身者に拡大の門戸を開いているからである。
インド・アングリアンは宗教的だろうか? 伝統的な感覚ではノーである。彼らは寺院に頻繁に通わないし、宗教的儀式も行わない。すなわち、ソフトな文化的伝統に従い、ときたま盛装する等々、彼らは筆者が呼ぶところの「ファブインディア宗教的(FabIndia religious)」なのである。とはいえ、彼らにはスピリチュアルなニーズがある。というのも、根無し草的なあり方、親族との限定的なやり取り、そしてアイデンティティ形成をキャリアに依存しているせいで、他の大半のインド人コミュニティよりもはるかに孤独で、神経をすり減らし、感情的に張りつめているからである。
これらのニーズに応えるために、彼らはシュリー・シュリー・ラヴィ・シャーンカルやサドグル・ジャッギー・ヴァースデーヴのような新時代のグルに頼る。彼らの台頭はインド・アングリアン(および英語第一話者セグメント)の出現と並行していた。あるいは彼らは創価学会のようなヒンドゥーの枠外での活動に没頭しさえする。そして、彼らの数が増えるにつ���、より多くの新時代のグルや活動がこれらの富裕でスピリチュアルな消費者たちから利益を引き出すことになりそうだ。
ビジネス
インド・アングリアン人口が増加するにつれて、彼らの膨らんだ財布から利益を引き出すべくいくつかのビジネスやセクターが出現してきたが、最も注目すべきはメディア(このセグメントは独特なので、筆者はそれについて長々と書くつもりはない)および教育セクターである。教育セクターはインド・アングリアンを生み出すと同時にインド・アングリアンによって形づくられるので重要である。特に興味深いのは、インド・アングリアンの子供たちのための別個の教育経路が過去10年ほどでインド人教育企業家によって生み出されたことである。
詳しく述べよう。よりストレスの少ない探求型教授法を約束する新時代の学校は、90年代にインドのほとんどの都市に設立された。超競争的な暗記型の学習と教授のスタイルで育ってきた親たちは喜んで従った。このシステムを通じて生み出されるのは、穏やかで角のない子供たちであって、両親がそうであったような百戦錬磨の虎ではない。これは彼らが大学学部教育のために米国や英国に行こうとするなら、まったく結構なことである。インドに残った者たちは、国立法科大学やスリーシュティー美術大学、シンバイオシス大学、マニパール大学などの競争性がより低いながらも「一流」の教育機関に進む。
時とともに進歩的な学校出身の学生数は増え、法科大学やシンバイオシスなどの他の安全な選択肢さえも競争的になった。これが現在の、シヴ・ナガル、OPジンダル、ムンジャルなどの企業立大学6の新たな波の出現をもたらした。ゆえに、代替的な低競争的教育経路は全体がインド・アングリアンのニーズに応えるために出現し、ホーリスティックな学習、教養との接触、そして円熟した人格の完成を強調する。入学資格は無情な切り捨てや入学試験の成績によってではなく、ホーリスティックな評価と意図的に曖昧な規準を通じて決まる。
教育およびメディアセクターと同様に、インド・アングリアンや英語第一話者の世帯から利益を引き出そうと他のビジネスも現れてきている。これらのうち最も注目すべきはオーガニック、またはヘルシーな食品および化粧品ブランドである―24マントラ、フォレスト・エッセンシャルズ、カーマ・アーユルヴェーダ、ロー・プレッサリー、エピガミア、ペーパーボート等を想像してほしい。レストランはこれらのセグメントを狙うもう一つのカテゴリである―スターバックス、ソーシャル、ホッピポーラ等。つまり、この心理動態上のセグメントに狙いを絞りすぎるブランドは、このセグメントがたった2500万~3000万人の規模であるなら、成長が頭打ちになるリスクを冒してもいる。
過去数年における24マントラ、コンシャス・フード、プライド・オブ・カウズ等のオーガニック食品ブランドの急速な出現は、特に興味深い。これらは非オーガニックな競合品と比較して、実に高価な商品であるが、インド・アングリアン世帯はそれらが与える健康上の利点のために喜んでプレミアムを支払う。このプレミアムの支払いによって、彼らはインド人中間層の伝統的な守銭奴マインドセットから逸脱している。プレミアムの支払いに乗り気である明白な理由の一つは、これらの商品が「シグナル」商品に類似しているからである。文化的商品の使用または所有も、より広い世界に対してあなた自身のステータスを示すのであり、テスラやプリウスを運転することがあなたについて何かを伝えるのとまったく同じことである。
インド・アングリアンはシグナル商品が大好きであるが、それはこれらの商品やブランドの使用や誇示がアイデンティティの強化を助けるからである。彼らのアイデンティティは商品選びを助け、それから、それらの商品が彼らのアイデンティティを形成する。そのような、インド・アングリアンにとって重要なブランドとは、アップル、ネットフリックス、ファブインディア、アノーキー、グッド・アース、ニームラーナー、スターバックス等である。
政治
インド・アングリアン、あるいはより広く英語第一話者セグメントは、選挙に影響を与えるほど大きくない。インディラーナガルやバーンドラーやDLFフェイズVのような、彼らが集中する都市や関係する選挙区においてでさえも。筆者は、次の10年でこれらの選挙区のいくつかと1つの州(ゴア、以下で述べる)において、時とともに彼らは重要になると考えている。つまるところ、彼らは立法への干渉に関するかぎり、取るに足りないままであろう。それでは、彼らはどのようにして政策や政治に影響を与えるのだろうか?
非政府組織を通じた司法的アプローチおよびアクティヴィズム、シンクタンクを通じた政策への干渉、メディア報道への影響力行使等は、政策に影響を与えるのにインド・アングリアンと英語第一話者が好むルートである。インドで生じてきたところの、立法の領域の司法への明け渡し〔=司法積極主義〕は、この点でインド・アングリアンや英語第一話者にとって望ましい。というのも、それが今日のインドにおいて彼らが政策や決定に影響を与えうる方法だからである。したがって、たとえインド・アングリアンや英語第一話者が立法をめぐる政治から完全に撤退していたとしても、司法の干渉は立法権力を補うものとして発展してきたのである。インド・アングリアンおよび英語第一話者が撤退したもう一つの領域はインド行政職(IAS)およびその他の官僚組織であるが、彼らは「プロフェッショナル」なルートを通じて、ニーティ・アーヨーグ、アタル・イノヴェーション・ミッションのような影響力のある政策形成組織に加わることで、政策に影響を及ぼしつづけている。7
立法におけるインド・アングリアンの重要性の唯一の例外はゴアだろう。そこには筆者の見積もりで(人口180万のうち)約1万のインド・アングリアン世帯がある。ますます多くの州外出身のインド・アングリアンが、他のインド・アングリアンの存在のほか、西洋化された文化、人気のレストランやビーチに惹かれて、ゴアのセカンドハウスに投資するようになっている。そこは定年後の行き先としても人気になりつつある。時とともに―おそらく20年のうちに―ゴアがインド・アングリアンの拠点に変わるのを目にすることになる。筆者が同様な希望を抱いている他の州はメーガーラヤだけであるが、中心的な都市からそこへの距離が意味しているのは、エリートのインド・アングリアンがそこに移ることはありそうにないということである。
グルガーオンは、筆者の考えでは、インド・アングリアンが選挙を左右しうるような影響力のある投票ブロックとして台頭しうる唯一の都市である。他の大都市においては、ムンバイの西部郊外やパワイ、バンガロールのコーラマンガラやインディラーナガル等のような将来的に出現するいくつかの地区(州議会、あるいは連邦議会の選挙区に等しい)があるだろう。とはいえ非立法的ルートを通じて政策に影響を及ぼす彼らの能力に鑑みて、インド・アングリアンが選挙に影響力を行使できないことに悩んで眠れないということはなさそうである。
目に見えない階層
インド・アングリアンとはパラドックスである。彼らはインドで最も目立つと同時に最も目に見えない階層である。筆者は後者のフレーズを彼らのインド社会における一個のカテゴリとしての出現という文脈で用いるが、それは多くの人の目には見えない。彼らはエリートのなかで一塊になり、通常は英語を話すエリート階層として描かれる。しかし、周知のように、すべてのエリートまたは富裕層が英語を話すわけではない。そして、必ずしも用語の厳密な意味で富裕ではないインド・アングリアンも多い。彼らは独自の嗜好、振る舞い、関心、そしてニーズを有する文化的な階層またはカーストとしてますます台頭しつつある。
インド・アングリアンたちは自らをカーストと看做さないが、カーストと看做されるための鍵となる条件を満たしている。すなわち、カースト成員の結婚制限である。カーストに加わるための基準は優れた英会話スキルと、インド・アングリアン・サークルを導いていくための信頼のみである。それは大半の成員がそのような信頼を与える特権的な出自(あるいはサヴァルナの出)であることを助長する。ただし、強固な壁があるわけではないし、今日のインド・アングリアン・カーストには伝統的には下位カーストと考えられるカースト出身の成員が十分にいる。典型的にはカースト間結婚を通じて8、ひとたびインド・アングリアン・カーストに入ると、成員たちは自らの伝統的カースト・アイデンティティをインド・アングリアン・アイデンティティに組み込む。そうして彼らは「ピープル・ライク・アス」になるのだ。
インド・アングリアン・アイデンティティはまだ完全に固まったり安定したりはしていないが、このコミュニティの数が膨張するにつれて発展しているし、その膨張は急速に起きている。このコミュニティがいかに発展し、変わりゆくインド共和国を形づくって(そしてそれに形づくられて)いくかを目にするのは非常に魅力的であることだろう。
「インド・アングリアン」という語の既存の用法は、「インド・アングリアン文学」の文脈のもので、英語で書くインド人を指す。この用語は従前のように広く使われてはいない。 ↩︎
Mintの記事"The class of Kaira, Shyra and Shanaya in Bollywood"による。 ↩︎
筆者は40万世帯という数字にたどり着いた。最初の手がかりは教育上の選択、すなわち、年間10万ルピー超の学費を取るような、IB/IGCSEカリキュラムを提供するインターナショナル・スクールや、新時代あるいは伝統的ICSE/CBSEエリート校のような進歩的学校教育に対する需要である。筆者の見立てでは、子供を進歩的学校に送る世帯のうち、75~80%がインド・アングリアンである。2つ目の手がかりは、インドにおけるネットフリックスの有料会員数である。両方の計算が、インドにおける約40万のインド・アングリアン世帯という数字で概ね一致している。以下に詳細を添える。 まずはより単純なので、ネットフリックスからである。ネットフリックスはインドに500万人の会員をもち、その6~8%が有料会員である。ここから30万~40万という有料会員数が導ける。データはカウンターポイント・リサーチによる―リンクを参照。 進歩的学校教育の計算はやや長くなる。筆者はハイダラーバードを基礎に選び、それから全国規模の数字を見積もった。筆者はハイダラーバードから代表的な学校(名前は伏せる)を選んだ。800未満の世帯からの1300人の生徒を有し、うち90%つまり700世帯が家庭でもっぱら英語を話す(学校経営陣による計算)。したがって、進歩的学校が抱えている生徒数の50%という比率がインド・アングリアン世帯である(生徒1300人対700世帯)。筆者はハイダラーバードにおける進歩的学校の全生徒数を5万人と見積もり、したがって、2万5000世帯となる。 500万人の人口を有��るハイダラーバードには2万5000のインド・アングリアン世帯がある。他の都市について見積もった数字は以下のようになる。 1. ムンバイ:2000万人、12万5000世帯 2. デリー首都圏:2000万人、10万世帯 3. コルカタ:1500万人、2万5000世帯 4. バンガロール:800万人、5万世帯 5. チェンナイ:700万人、3万5000世帯 6. プネー:600万人、4万世帯 7. ゴア:100万人、1万世帯 8. インドの他地域:1万世帯 ゆえに、全インドで計42万世帯、すなわち、40万世帯未満である。 ↩︎
2001年の国勢調査は8600万人が第二言語として英語を話すとしている。筆者の調査では、この数字は2017年には1.5倍の約1億3000万人に増えている(背景には都市化、英語教育の成長など)。これら1億3000万人を流暢さのレヴェルで分類する。1億3000万のうち多数派は英語が一通り使えて、流暢に話したり返事を書いたりするが、英語第一話者、すなわち英語で考え、英語でのコミュニケーションや英語のコンテンツの消費を他のものより好む者ではない。この英語第一話者のインド人の規模を見積もるのは難しいが、筆者は1億3000万人の約20~25%がそうだと考える。すなわち、約2500万~3000万人、インド人口の約2~2.5%である。2017年のインド読者数調査によれば、これはインドにおける英字紙の正規読者数と一致してもいる。 ↩︎
タイムズ・オブ・インディア紙の結婚情報欄にコスモポリタンというサブカテゴリがあることに注目すべきである。これはつまりインド・アングリアンの別名である。 ↩︎
筆者の以前の投稿"We got into IIT/IIM but our kids won't"を参照。 ↩︎
"Niti Aayog to hire more professionals", The Economic Times 9 November 2017. ↩︎
カースト間結婚、あるいは宗教間結婚は、夫婦の子供が英語を話すようになる可能性を大きくする。これは両親が自ら互いに対して英語で話し、子供が英語を話す彼に似たような子供がいるインターナショナル・スクールに通う可能性が大きくなるということである。 ↩︎
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cuttercourier · 8 years ago
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ムックリの糸が切れたの巻
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cuttercourier · 8 years ago
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[翻訳] なぜうまくいっているのか:けものフレンズの語られざる世界設定
Crunchyroll - FEATURE: Why It Works: Kemono Friends' Unstated Worldbuilding
このところ、私は世界設定(worldbuilding)について考えていました。ファンタジーやSFのファンのほとんどがおそらくこの用語を知っているし、実際のところ、その呼び名はかなり自己説明的です。世界設定とは、宗教、魔術体系、地理、もう一つの歴史など、特定のフィクション作品(fictional property)がいかにその世界特有の決まりごと(tenets)を形成し、伝えているかに関わるものです。世界設定は実在する世界以外の世界を提示するあらゆるフィクション作品にもともと備わっており、長年にわたりファンタジー・フィクションの基本的性質と固く結びついてきました。
世界設定について、たいていの場合、私はそれほど関心をもちません。私は、重要な世界設定はフィクションに対する考古学的、または「システムベースの」アプローチを反映していると考えますが、そこにおいて物語のなかに見いだされる喜びはキャラクターやテーマや物語ではなく、それらを取り囲むシステムや場所です。私は架空の魔術体系や存在しない場所にもともと興味があるわけではありません。 私にはそれが特定の感情や普遍的な思想に結びついていることを気にする理由が必要なのです。
しかし、今期のひとつの番組はその世界設定によって私に実に感銘を与えました。最善の場合、世界設定は語られつつあるストーリーから焦点を外すことなく布石(investment)や筋立て(intrigue)を創り出し、また、キャラクターたちが自分たちの世界を視聴者に説明するようなことなしにキャラクターの行動のコンテクストを提示することができます。あるファンタジー世界への新来者であるキャラクターを中心に置き、したがって、すべてのことを彼(女)らに説明しなければならない代わりに、洗練された世界設定は既に自分の世界を知っているキャラクターたちと一緒に私たちを連れてゆき、私たちが自分のペースでその魅力を発見できるようにします。私が話している番組とは、もちろん『けものフレンズ』のことです。
おそらくあなたは『けものフレンズ』を観ていないでしょうが、無理もありません。それは、ぱっと見たところ子供向けにデザインされ、配信終了したモバイルゲームを原作とする、CG満載(CG-heavy)の番組です。それは、キャラクターモデルを使って、彼女らの環境や主として新しい動物の友達づくりをめぐるストーリーを取り上げる、低予算の教育番組のように見えます。その番組は、実際に日本では一種の現象になっていますが、海外においては今期の新たなヒット作品ではまったくありません。
しかし、そのすべてのために、実のところ『けものフレンズ』の控えめな前提はその世界設定の特質の鍵となる部分です。この番組は「ジャングルちほー」や「サバンナ」のようなさまざまなエリアを含む一種の広大なメガ動物園である「ジャパリパーク」が舞台となります。これらのゾーンには「フレンズ」として知られる動物のような人々が住んでいますが、彼女らはほとんど人間でありながらも特定の動物の性質を体現しています。2人いる案内役は、サバンナのネコのフレンドであるサーバル、そして、自分が何の動物か知らないかばんちゃん(Bag-chan)です。かばんちゃんはほぼ確実に人間ですが、番組のキャラクターの誰もそれを知りません。そしてだからこそ、彼女が何であるかを知るために、かばんちゃんとサーバルはパークの図書館に行くことを決意します。
これが実際にキャラクターたちが経験する『けものフレンズ』のストーリーですが、私たちが経験するストーリーは少し異なります。第1話から、ジャパリパークでは何かがおかしいことが明らかです。標識はすべて錆びて壊れています。ツアーガイドはどこにも見えませんし、なぜ彼女らがそこにいるのかを正確に理解している様子の者はまったく誰もいません。この番組の表面的な敵役は、青みがかった丸っこい生き物で、パーク一帯をランダムにさまよう「セルリアン」ですが、それらが何であるかについては何の説明もありません。番組が進むにつれて、より多くの断片的な説明がもたらされ、何か恐ろしいことが起こった世界像を提示していきます。
おそらく『けものフレンズ』の中核的な性質は、日常系(slice of life)/子供番組形式に対するその忠実さにより、どのようにしてその奇妙でポストアポカリプス的な語り(storytelling)をぐっと自然に感じさせるかです。『けものフレンズ』のキャラクターは、彼女らがなぜいま住んでいるところに住んでいるのかや、なぜロボットガイドがかばんちゃんにだけ話しかけるのかについては、ほとんど疑問を呈しません。彼女らは新しい友達を作り、冒険に出かけることのほうに夢中です。『けものフレンズ』は、子供番組がしばしば不条理な前提や異なる種のめちゃくちゃな組み合わせを用いて、これらの事柄に理由がある世界を特別に打ち立てるという事実を利用しますが、それは焦点ではありません。そして、世界設定がこれまでのところ後景に置かれているため、それはぐっと興味をそそるものになっています。
怪物の観念が目に見える怪物よりも常に怖いというのは、ホラーの語りのお約束(truism)です。『けものフレンズ』の世界設定はそのコンセプトを極限まで突き詰め、いたるところでポストアポカリプス的世界設定の魅力的な断片を提示します。キャラクターたちが荒廃したアトラクションのなかをそぞろ歩き、錆びついたツアーバスを充電しようとするにつれて、何らかの噴火が根本的にこの場所を変え、私たちが「フレンズ」として知る生き物たちは実際のところこの大惨事によって生み出されたことがゆっくりとわかっていきます。この番組の肝は劇的アイロニー(dramatic irony)で、私たちはキャラクターたち自身よりもはるかによく理解できます。それは彼女らの世界についての私たちの理解を深めつつ、彼女らの行動を一貫して自然に感じさせます。
もちろん、もし『けものフレンズ』がところどころSFしぐさが散りばめられたただの退屈なものだったなら、それほど楽しめる番組にはならないでしょう。『けものフレンズ』と楽しい時間を過ごすためには、実際にそれの両面を受け入れなければなりません。ポストアポカリプス的な要素はおもしろいですが、番組の中心的な瞬間ごとの焦点は、冒険して問題を解決するただのまぬけな(goofy)キャラクターたちです。『けものフレンズ』の物語の核心(narrative heart)は、心地よい日常であり、そして、この番組は単純によくできているので、日常系の物語がある種の自然に表現された世界設定のための完璧な器(vehicle)であることを実感するのに十分です。
『けものフレンズ』のエンディング曲は、その2層の魅力をうまくカプセル化したものです。アップビートなポップミュージックがバックグラウンドで流れるなか、番組は荒廃したアミューズメントパークの画像を並べていき、景色はその緩慢な衰退のためにすべてをいっそう込み上げてくるものにしました。そのコントラストには、そして、成り行きに任された世界のなかでシンプルな喜びを見つけるという考えには、何か美しいものがあります。『けものフレンズ』は最高に楽しい番組ではないかもしれませんが、それでもそこには何か特別なものがあります。
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cuttercourier · 9 years ago
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アイカツおじいさん
ある夏の日、所用があって東京都と埼玉県の境あたりに出かけたおり、初めての町ではいつもするように駅近くの飲み屋街に立ちよった。小さな店で喉を潤しながら、大将や女将さん、常連客から、彼ら彼女らの若いころの話をなんとなしに聞くだけのことで、とても聞き取りと言えるようなものではないが、ごくたまに仕事のヒントになることもないではない。
そこは女将さんが一人で切り盛りしているカウンターのみの店で、せいぜい7、8席、少し早い時間だったが、既に半分方は埋まっていたので、2、3人の先客と女将さんの会話に入れてもらうような形になった。
生ビールを2杯飲んでからハイボールに切り替えたころ、それまでカウンターの端で一言も発さずにゆっくり飲んでいた男性が、突然話しかけてきた。70歳に届くかどうか、キープしているらしい焼酎のボトルと氷だけを前にした彼には、女将さんも特に水を向ける様子ではなかったし、そういう飲み方の常連なのだろうと私も一見なりに空気を読んだつもりでいたので、いささか驚いた。
「知ってるかな、お兄さんは若いから知らないだろうな。あたしの若いころ、アイカツ!ってアニメがあってね。いや、自分はもう若くないと思ってたけど、それでも今から考えれば、まあ若造だ。知ってるかね」。こちらの反応を伺いながら隣に腰を下ろす。
今世紀初頭の大衆文化に興味があると言ってあれこれ知ったふうなことを話していたところだったので、少しバツの悪い思いだったが、あいにく存じ上げませんと正直に答えた。男性は気分を害した様子もなく、一つ頷いて、「ああいや、いいんだ、いいんだ、それはそうだろうよ。一応ね、確かめたかっただけだから」と続けた。「あのころはね、週に40本だの50本だの、とんでもない数のアニメが放映されてた。もちろん全部観るなんて普通の人間には無理だ。何を観るかなんて、それがおもしろいかなんて、ほとんどみんな運任せだったんじゃないかな」。
「いや、何がおもしろいか、楽しめるかはその人次第さ。今と変わらない。だけどね、縁というのか、これだ、ってのはあるんだね。あたしにとってはそれがアイカツ!だった」。男性の目はやや潤んだ、見るからに酔漢の目で、黄みがかった白目の部分が少し充血していたものの、攻撃的な色は感じられなかった。女将さんは口を挟むか迷っているようだったが、私がはっきり先を促すような相槌を打ったのを見てひとまず安心したようで、他の客らとの会話に戻っていった。
おそらく彼の癖なのだろう、私からカウンターに向き直り、目を落として言う。「アイドルアニメが流行った時期だって言われりゃ、たしかにそうだったと思う。あたしだっていろいろいいものを観たと思うし、今でもいくつか名前は挙げられるさ。でもね、アイカツ!は特別だった。奇跡みたいにピタリとハマった。3年半、全178話、一回も欠かさずに観たよ」。
その後確認したことだが、当時のアニメといえば放映期間が1クールか2クール、つまり3ヶ月か半年の作品が大半だ。アイカツ!は同一タイトルで続いた作品としては相当長い部類ではないだろうか。
「アイカツ!は本当に素晴らしかった。こんなこと言われても困るだろうがね、いい年をして毎回のように涙が出るくらいだった。まっすぐだったんだ。勝ち負けのある世界で、善く生きるとか、人が人の手を取るとか、そういうものを見せてくれた。大事だと思えた」。下を向いたままなのに、遠くを見るような、夢見るような目だなと思った。
「爺の繰り言だよ、申し訳ない。でもあたしが言いたかったのはね、コンテンツには力があって、その力にね、心臓を掴まれたやつには、永遠なんだ」「大したことない人生だったけど、俺は少なくともアイカツ!を観たぞ、と思って死ぬんだと思う」。
彼との会話は、というか私はもっぱら聞くばかりだったが、時間にすれば30分ほどだったと思う。やがてカウンターに突っ伏した男性の白髪頭を見つめていると、呪縛、という単語が脳裏に浮かび、祝福という単語がそれに重なり、言うべきことは思いつかなかった。回答も期待されてはいないだろう。
「この人いつもはこんなことないんだけど。勘弁してあげてね」と少し困った顔の女将さんに軽い笑みで応えて、すっかり薄くなって気の抜けたハイボールを啜っていると、彼のほうからくぐもった節がわずかに聞こえ、すぐに完全な寝息に変わった。会計を済ませ、外に出た。
星がよく見える夜だった。「なんてことない毎日がかけがえないの」、彼はそう歌っていたように聞こえた。
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