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MICHIYO MIYAKE Writer/Translator/Researcher Born in Tokyo, Japan. Lives and works in Sydney.
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folded-memories · 7 years ago
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Dickens’ Myth and Camperdown Cemetery
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シドニーの中西部に位置するキャンパダウンという地域に住むようになって一年が過ぎた。シドニー大学のキャンパスが近いので、留学生や短期滞在者の姿も多く、大学街らしいコスモポリタンな雰囲気は私のような新来の移住者にも居心地がいい。また、ヨーロッパの大学を模して建てられた大学校舎をはじめとして、コロニアル時代のシドニーの歴史をいまに伝える場所も数多く残っていて、散策するたびに何かしら新たな発見がある。今���ご紹介するキャンパダウン墓地もそんな入植初期のシドニーの面影が残る場所の一つだが、それにくわえて、イギリスの作家チャールズ・ディケンズゆかりの地としても知られている。
セントラル駅からパラマッタ・ロードを西に向かって進み、シドニー大学のキャンパスを越えたあたりでチャーチ・ストリートに入る。ニュータウンに向かってしばらく坂をのぼっていくと、セント・ステファンズ教会の尖塔がみえてくる。教会の鉄門の脇には1848年に植樹されたというイチヂクの巨木がそびえたつ。うっそうとした枝葉がつくりだす影のせいか、敷地内は夏でもひんやりと涼しく、幾分湿り気がある。ニュータウンの目抜き通りからほんの少し入っただけだが、時おり犬を散歩させる人がいるくらいで、昼間も人気はあまりない。
地上に高くせりだしたイチヂクの木の根っこに足をとられないよう注意しながら、土の道を進んでいくと、ゴシック・リヴァイヴァル様式の美しい教会がみえる。1874年に完成したものだそうだ。教会の脇にはかなり広い面積の庭があり、苔むした墓石がずらりと並んでいる。ほとんどの墓石はシドニー産の砂岩でできているため、風雨などで劣化しやすく、傾いているものや壊れかかっているものも少なくない。管理人はいるにちがいないが、草木は気ままに枝葉をのばし、敷地内の一角には、カンガルー・グラスと呼ばれる貴重な原生植物も生えている。雑草を踏みしだきながら、遺体が下に眠る土の道を散策すると、雑司ヶ谷霊園やパリのペール・ラシェーズ墓地のような整然と管理された墓地にはない死のリアリティに触れる感覚がある。
ここキャンパダウン墓地は、シドニーに現存するもっとも古い墓地だ。現在タウンホールとセントラル駅がある場所にかつてあった共同墓地が、19世紀に入ってどちらも満杯になって造られたもので、1848年から1948年までに埋葬された約18,000人が眠る。そのなかには、探検家サー・トマス・ミッチェルやイギリスから到着した帆船ダンバー号がシドニー湾入口で難破した事故(1857年)の犠牲者など、入植初期の死者が多く含まれている。また、この墓地��文学愛好家たちのあいだではチャールズ・ディケンズの小説『大いなる遺産』にゆかりのある場所としても知られている。登場人物の一人、ミス・ハヴィシャムと非常によく似た境遇の女性がここに埋葬されているのだ。
『大いなる遺産』はピップと呼ばれる孤児の少年の成長をえがいた小説だが、流刑地としてのオーストラリアの存在がプロットの主軸となっている。ピップが墓地で出会って、やすりと食料を与えた囚人マグウィッチはオーストラリア(ニュー・サウス・ウェールズ州)に追放されるが、自由を得てから商売で成功を収めた財産でピップの隠れた庇護者となる。1850年代のゴールドラッシュ以降、イギリスではオーストラリアが注目を集め、多くの移民が押し寄せるようになっていた。この作品を雑誌に連載中だった1860年頃には、ディケンズも南半球の植民地に関心を寄せており、息子たちにオーストラリアへの移住を勧めていたことが知られている。実際に、アルフレッドとエドワードの二人は1869年に渡豪して、鉄道関連の仕事についたあと、農場経営者向けのコンサルタント会社を開いている1。
 キャンパダウン墓地とゆかりがあると言われているのは、『大いなる遺産』のなかで主人公ピップが定期的に訪れる屋敷の主ミス・ハヴィシャム。彼がひそかに憧れをいだいている少女エステラの義理の母親でもある。婚礼当日、婚約者があらわれなかった出来事のショックからいまでも抜け出すことができず、屋敷に閉じこもって花嫁衣装姿のまま隠遁生活を送っている女性で、ディケンズがえがいた数々の個性的な登場人物のなかでも、とりわけエキセントリックな人物だ。このミス・ハヴィシャムとよく似ている女性イライザ・ドニソープが、キャンパダウン墓地の一角に埋葬されており、彼女がミス・ハヴィシャムのモデルなのではないかと言われている。
 イライザ・ドニソープ(Eliza Donnithorpe, 1821-86)は東インド会社判事・カルカッタ造幣局長を務めた資産家ジェイムズ・ドニソープの娘2。妻とイライザ以外の二人の娘をコレラで亡くしたあと、引退してシドニーで余生を送ることにしたジェイムズとともに、1830年代後半、現在のシドニー大学の近くに移り住んだ。父親は生き残った唯一の娘イライザに愛情をそそぐが、彼女は父親の紹介した結婚相手を退け、ジョージ・カスバートスンというイギリス人青年と結婚することになる。結婚式にはシドニーの上流社会からの参列者も多く、華やかな祝宴が用意され、多くの観衆もあつまったが、花婿はあらわれなかった。失意の花嫁は祝宴の会食をダイニングルームに放置したまま、窓やよろい戸を下ろしてまっくらな家に閉じこもり、生涯、花嫁衣装姿で引きこもって暮らした。フィアンセがいつ戻ってきてもいいように、家のドアはいつも少し開けたままだったという。
強烈な印象を残さずにはおかないイライザの物語は年月を経て神話化され、婚約者の身分や職業といった細部に関しては複数の語りが存在する3。ディケンズがイライザをモデルにしてミス・ハヴィシャムを書いたという事実関係は、残念ながら証明されていないが、それでも地元シドニーでは、ディケンズがドニソープ家の隣人だった友人を介してイライザの話を知り、彼女をモデルにミス・ハヴィシャムを創作したという説がまことしやかに信じられている。そのイライザはキャンパダウン墓地の入口から直進したところにある大きな木の横に眠っている。2004年に墓石が破損するという出来事があったが、その際には世界のニュースでも取り上げられた。イギリスのディケンズ協会も修復のための資金を援助したという4。
 注
1 Alfred D’Orsay Tennyson Dickensは1865年に、弟Edward Bulwer Lytton Dickensは1869年に豪に移住した。Lazarusを参照。
2 Eliza Donnithorpeをめぐる諸説については、Murphyが詳しく検討している。
3 Murphyを参照。
4 Murphyを参照。
 参考文献
Mary Lazarus, A Tale of Two Brothers: Charles Dickens's Sons in Australia. Sydney: Angus and Robertson, 1973.
Margaret Mendelawitz, Charles Dickens' Australia: Selected Essays from Household Words 1850-1859. Sydney: Sydney University Press, 2011.
Matt Murphy, “The Truth About the Truth About Eliza Donnithorne.” Newtown Project. http://www.newtownproject.com.au/portfolio-items/the-truth-about-the-truth-about-eliza-donnithorne/
Matt Pearson, “One of Sydney’s Oldest Cemeteries Reveals the Fascinating Secrets Buried in the City’s Past,” Daily Telegraph, May 27, 2014.
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folded-memories · 8 years ago
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Homeless Camp in Martin Place
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昨年末からマーティン・プレイスに出現していたホームレス・キャンプの住民たちが自主撤去をはじめたという報道があった。今年6月、シドニー市議会は「迷惑」行為と隣接する建設現場に与える影響を理由に立ち退きを強制したが、ふたたび現われた路上生活者たちによる共同生活の空間への介入には消極的だった。1シドニー市長クロバー・ムーア氏は「ホームレスであることは違法ではない。一部の人たちにとって、私たちの都市における住宅取得能力の危機的状況がもたらす不可避的な結果なのだ」と発言し、ホームレス・キャンプの「市長」と呼ばれるランズ・プリストリー氏との合意をめざしていた。2しかし、警察に特別な排除権限を認めようとする州首相とのあいだで、責任のなすりあいが繰り広げられ、8月12日にシドニー市長とプリストリー氏の交渉は決裂。州議会が法律を改正したことで、強制撤去がささやかれるなか、同日、住民たちは自主撤去をはじめた。
マーティン・プレイスはシドニーの金融・ビジネスの中心地。銀行や高級ブランドの店舗、ホテルなどが立ち並び、スーツ姿のビジネスマンたちが闊歩する。州議会をはじめとする政府関係の建物も近く、ジョン・ハワードやポール・キーティングといった首相経験者たちの姿をみかけることもある。空間全体を分断するように、道路が何本も走っていて、ヨーロッパの都市にあるような巨大な広場ではないが、それでも市民が自由に集まることのできる公共空間だ。毎年、戦争関連の記念式典がここで催されるほか、シドニー五輪(2000年)の際には特大テレビ・スクリーンが設置され、人びとはライブ中継の画面に見入った。
2016年12月、そのマーティン・プレイスにホームレス・キャンプが出現した。しかも、オーストラリア��備銀行の真ん前というロケーション。オーガナイザーの一人によると、女性路上生活者の安全を守るため、議員・政治家たち、準備銀行の目の前でアクションすることで「ホームレス問題が存在することを理解してもらいたい」という理由から、この場所が選ばれたという。3ここで共同生活する者のなかに、ニューヨークではじまった抗議運動「ウォール街を占拠せよ」(2011年)に呼応して、マーティン・プレイスを占拠した「オキュパイ・シドニー」の参加者たちがいるというのは興味深い。4「市長」役のプリストリー氏をはじめ、このキャンプは路上生活者の問題を継続的に訴えてきた人たちの活動の延長線上にあるようだ。
たしか6月頃だったと思う。強制撤去の前か後かは定かでないが、マーティン・プレイスでバスを降りて、美術館のほうに歩いていく途中で、このキャンプを偶然にみつけた。無機質とも言えるビジネス街の一角に、コミューンのような雰囲気が漂っているのに気がついて、足を止めた。工事現場の壁に面して、そのときは30人から40人ほどの路上生活者たちが共同で生活しているようだった。黒い壁面には色とりどりのチョークの文字が踊っていて、スローガン、コミュニティの規則(薬物・アルコール類の禁止など)、さまざまなメッセージが記されていた。寝る場所、キッチンのほか、コート類を持ち寄って交換できるコーナー、ミニ図書館があった。食事や寝具は近所のカフェやボランティアが提供しているという。ほとんどの人が足早に通り過ぎていくなか、この空間の存在に気をとめて、立ち止まって言葉をかわす人たちの姿もあった。本格的な冬の季節をむかえ、メディアの注目を集めはじめて以降、知られるようになった、色とりどりのキャンプ用小型テントがずらりと並んでいる光景は、当時はまだなかった。
あるカメラマンは、マーティン・プレイスに設営されたテントの一つに黒マジックで書かれた「手頃な価格の住宅とはこれだ」というメッセージを撮影した。5支援団体「ホームレスネス・オーストラリア」によると、ニュー・サウス・ウェールズ州でホームレス状態にある人は28,191人(85人に約1人の割合)にのぼるが、この問題のおもな原因として、主要都市部における住宅価格の高騰と低所得者層向けの住宅の不足が指摘されている。6実際、シドニーの家賃はべらぼうに高い。寝室がひとつの部屋で週約450ドルから550ドル程度が相場と言われる。寝室がふたつだと週650ドル以上。7低所得者層向けの住宅に対する政府の支出は十分とは言えない状況であり、失業、病気や怪我、離婚、投資の失敗といった出来事をきっかけに、ホームレス状態は誰にでも起こりうると言われている。マーティン・プレイスで寝泊まりしている人たちの声を複数のメディアが取材しているが、それらを読むと、アルコール中毒、精神疾患、家庭内暴力などと並んで、低所得者層にとって住宅確保の困難な状況が、この問題の根底にあることがわかる。8
厚生省の住宅問題担当のスタッフはキャンプに何度も足を運び、必要なサーヴィス、一時滞在できる宿泊施設や公営住宅への入居手続きを提供しているようだが、キャンプで生活している人たちは、これらの行政サーヴィスに必ずしも満足していないようだ。かれらが挙げる問題点は、一時滞在用の宿泊施設には5日の退去期限があり、ホームレス状態の根本的な解決にはならないこと、公営住宅の安全性や治安面での不安などだ。9マーティン・プレイスに残るメリットとして、キャンプにおける仲間意識や共同体感覚、メンバー間の平等性、治安の良さ、アルコール・ドラッグや暴力がないことを挙げる人が多く、プリストリー氏もキャンプ撤去の交換条件として、安全な代替宿泊所の提供を求めていた。
 注
1 6月の強制撤去についてはSaulwick, McNallyを参照。
2 自主撤去の経緯についてはBrowne, Tin& Harrisを参照。
3 Saulwickを参照。
4 McNabを参照。
5 Brookを参照。
6 Homelessness Australiaのウェブサイト、McDonaldを参照。
7 シドニーの家賃相場については“Breakdown of Rents”を参照した。
8 例えば、Brook, Stuart, “Residents of Sydney’s”を参照。
9 Tin & Harrisを参照。
  参考文献
“Breakdown of Rents in Sydney by Neighborhood. (Updated September 2016)” Sydney Moving Guide 15 Sept 2016.  
〈https://www.sydneymovingguide.com/the-cost-of-living-in-sydney/〉
 Benedict Brook, “Inside The Homeless Tent City Taking Over Sydney’s Iconic Martin Place” 30 Jul 2017.  
〈http://www.news.com.au/lifestyle/real-life/inside-the-homeless-tent-city-taking-over-sydneys-iconic-martin-place/news-story/aaeb8b7a91a7c71cdd54eb8eee636408〉
 Rachel Browne, “Residents of Martin Place's Tent City Start Packing Up.” The Northern Daily Leader 12 Aug 2017.
〈http://www.northerndailyleader.com.au/story/4850331/residents-of-martin-places-tent-city-start-packing-up/?cs=7〉
 Homelessness Australia’s website:
〈http://www.homelessnessaustralia.org.au/sites/homelessnessaus/files/2017-07/NSW_-_updated_Jan_2014.pdf〉
 Philippa McDonald, “Homelessness: Older women couch surfing, sleeping in cars due to unaffordable housing” ABC News 8 Aug 2017.       〈http://www.abc.net.au/news/2017-08-07/older-women-become-hidden-face-of-homelessness/8782816〉
 Heather McNab, “Martin Place homeless camp wanting crowd funded expansion with bunk beds” Daily Telegraph May 31, 2017.
〈http://www.dailytelegraph.com.au/newslocal/central-sydney/inside-the-homeless-camp-at-sydneys-martin-place/news-story/307fd37c4828d7579608c0d8fb5a1121〉
 Lucy McNally, “Sydney homeless evicted from Martin Place by council for being 'public nuisance'”. ABC News 24 Jun 2017.
〈http://www.abc.net.au/news/2017-06-24/homeless-evicted-from-martin-place-for-being-public-nuisance/8648774〉
 “Residents of Sydney’s tent city share their stories of how they ended up living on the streets.” The Daily Telegraph August 5, 2017.
〈http://www.dailytelegraph.com.au/news/nsw/the-residents-of-tent-city-share-their-story-how-they-ended-up-living-on-the-streets/news-story/2a4294c5f3cb7f3e57bf2694faa68325〉 
 Jacob Saulwick, “After six months, Clover Moore's council breaks up Martin Place homeless camp.” Sydney Morning Herald 25 June 2017.
〈http://www.smh.com.au/nsw/after-six-months-clover-moores-council-breaks-up-martin-place-homeless-camp-20170624-gwxqob.html〉
 Riley Stuart, “Tent City: Stories of survival behind Sydney's most high-profile homeless community.” ABC News 9 Aug 2017.
〈http://www.abc.net.au/news/2017-08-09/tent-city-residents-share-stories-of-survival-inside-sydney-camp/8785144〉
 Jason Tin and Christopher Harris, “Martin Place tent city will go, says Lord Mayor Clover Moore.” The Daily Telegraph August 8, 2017
〈http://www.dailytelegraph.com.au/news/nsw/martin-place-tent-city-residents-will-find-new-cbd-site-if-eyesore-is-cleared/news-story/409e33cdf55f473e6377f3e21d42ffb5〉
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folded-memories · 8 years ago
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Inner West Side Story: Newtown Jets at Henson Park
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ニュータウンやエンモア周辺のパブで、ブルーのユニフォーム姿の人たちを見かけるなぁ……とは思っていた。しかし、この筋肉天国オーストラリアに暮らしながら、スポーツにはほとんど関心がなく(と言ったら怒られそうだけど)、なんの競技の、どこのチームのユニフォームなのかを突きとめるほどは気にしていなかった。だから、それがシドニー中西部のニュータウンを拠点とするラグビー・リーグのチーム、ジェッツのもので、時おりみかける人たちはホームグラウンドでの試合の後、パブに流れてきたファンだということを、つい最近までまったく知らなかった。
 オーストラリアではラグビーの人気が高い。日本で知られているラグビー・ユニオンのほかに、19世紀末から20世紀の初め頃、そこから分派したラグビー・リーグという競技がある。このラグビー・リーグは、ユニオンとは異なる選手数やルールをもち、イギリスやニュージーランドなどでも盛んだが、オーストラリアではニュー・サウス・ウェールズ州とクィーンズランド州において、冬のスポーツとしてとくに人気がある。
 ラグビー・リーグがユニオンと決別するきっかけとなったのは、英国イングランド北部と南部のチームに所属する選手の階級問題だった。1南部のチームには中流階級出身の裕福な選手が多かったのに対し、北部のチームの選手は炭鉱や製粉業などに従事する労働者たちだった。かれらは週6日働き、土曜日に行なわれる試合に出場するためには仕事を休まなければならなかったことから、休業手当を求める北部のチームと南部のチームが対立し、1895年に北部のチームがユニオンから分裂して、新しいプロ・ラグビーの団体を立ち上げた。
オーストラリア・シドニーでも同様の分裂騒動が起こり、1907年にラグビー・フットボール・リーグが誕生する。ニュータウン・ジェッツは翌年1908年に結成された老舗チームで、現存するなかではもっとも古い。気骨ある労働者の集まる地域ニュータウンを代表するタフなチームとして知られ、三度優勝したが、チームの財政難から、1983年以降、二軍に降格して現在にいたる。1973年以降、「ジェッツ」という愛称で親しまれているが、本拠地が空港に近い場所にあるため、試合観戦中も、飛行機が頻繁に頭上を低くかすめ飛ぶことに由来するという説もあるようだ。
 ジェッツの本拠地はマリックヴィルにある公園ヘンスン・パーク。その近くのパブ、ヘンスン・パーク・ホテル(ジェッツ・ファンの聖地の一つ)に常連客として入り浸っている友人によると、試合がある週末にはビールや食べ物の屋台がでて、「ラグビーに興味がない人でも楽しめる」のだという。「芝生にすわってビールを飲むのは気持ちがいいよ!」それを聞いてにわかに興味がわいてきた。
 ホームグラウンドで試合がある、という土曜の午後、友人に教えられたとおり、ハーフタイム以降の時間にヘンスン・パークに出かけてみた(ハーフタイム以降の入場は無料)。思ったよりも人が多くて驚いた。あらゆる年齢層、男女の別なくにぎわっている。パブでみかける青いユニフォームやTシャツ姿の人がやはり多い。袖からタトゥーをのぞかせ、流行りの髪型できめた兄さんが飼い犬を連れていたり、家族全員で来ている人もいる。ソーセージをじゅうじゅうと焼く屋台、アイスクリームの移動販売車、子供のあそぶ遊具などもあって、小規模のマーケットのような賑わいだ。
 手入れされた芝生に寝そべって、缶ビール片手に、午後の陽射しの眩しさに目を細めながら、試合をみるともなく眺めたり、おしゃべりしたりしてのんびり過ごすのは、たしかに最高に気持ちがいい。子どもたちが走りまわったり、誰かの飼い犬が足元でウロウロしていたり、ピクニックみたいな気分だ。トライがきまって、時おり歓声もあがっていたが、試合の展開を気にかけている人は少ないようだった。ふらりと出かけて、知り合いとビールを飲みつつ交流する場として、地元の人たちに親しまれているのだろう。
 周囲の人が着ているTシャツを観察していると、いろんな種類のものがあるようで、気になってグッズを売る出店をのぞいてみた。定番商品は、チームのロゴ・マークが胸元に、背面の腰の部分に「1908年以降、ナメられてます」という脱力系メッセージが入ったもの。そのほかにも、伝説的な選手の顔写真が入ったもの、ニュータウンのあるシドニー中西部(インナー・ウェスト)と「ウェストサイド・ストーリー」をかけて、「インナー・ウェストサイド・ストーリー」と書かれたジョーク・Tシャツ、変わり種としては、1981年に起きた伝説的な乱闘騒ぎの一コマをプリントしたものもあった。
 この乱闘騒ぎとは1981年9月13日の対マンリー戦で、ジェッツの選手がけしかけて始まったもので、ラグビー・リーグ史上、もっとも長く続いた乱闘場面(1分半弱……)として語り継がれているという。3YouTubeの映像をみて驚いたが、だだっ広いグラウンドのあちらこちらで、両チームの選手総勢26人が入り乱れて、一斉にパンチ、キック、頭突きを食らわせあっていて、審判もさすがに為すすべがないといった様子。この悪名高き乱闘伝説をあえてチーム・グッズのデザインに採用しているのは面白い。
 こうした独特なユーモアのセンスにくわえ、老舗チームならではのレトロ感も魅力なのだろうか。ジェッツは二軍のチームでありながら(であるからこそ?)、トレンドにうるさいヒップスター層からも、サブカルチャー好きの層からも一目置かれているようだ。チームが得点すると流れるテーマソングがあるのだが、これをパンクバンドのフレンザル・ロムや、インディー・ロック・バンドのザ・ウィットラムズのヴォーカルが収録したリミックス・バージョンというものまであるらしい。原曲はニュージーランド出身のジャズ・ミュージシャン、リッキー・メイが作詞作曲したものだが、すっとこどっこい感あふれる脱力系の曲で、個人的に結構気に入っている。中毒性があって、気を抜くとつい口ずさんでしまったりする……。
1 リーグ誕生の歴史的背景については、Chesterton、Collis and Whitickerを参照。
2 ジェッツの歴史については“History of the Newtown Rugby League football Club”を参照。
3 伝説的乱闘シーンは、以下のリンクからみることができる。
〈https://www.youtube.com/watch?v=UlqMcDLgOyI〉
  参考資料
Ray Chesterton, 100 years of Rugby League. Sydney: Hachette Australia, 2007.
Matt Cleary, “Newtown Jets: The coolest club in rugby league” Roar July 21, 2017. 〈http://www.theroar.com.au/2017/07/21/newtown-jets-coolest-club-rugby-league/〉
Ian Collis and Alan Whiticker, 100 years of Rugby League. Chatswood: New Holland Publishers Australia, 2007.
“History of the Newtown Rugby League football Club.” Newtown FLFC website: 〈http://www.newtownjets.com/about-newtown-rlfc/the-newtown-story/〉
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folded-memories · 8 years ago
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Sydney Bus Strike
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5月18日に実施された州営バスのストライキが、仕事で出かける木曜日とたまたま重なった。前日のニュースをチェックしそびれたので、何も知らずに、ハーバーブリッジの反対側に向かう真っ赤な車体の市バスM30番に乗るために、いつものようにブロードウェイのバス停まで歩いていったのだった。でも、なんか様子がおかしい。バス停には人だかり。いつも10分ほど待てば来るバスが来ない。とはいえ、すべてのバスが来ないわけでもないようで、行き先によっては通常通り運行しているようにみえるのも不思議だった。ただ、その日にかぎって、ほとんどのバスがフロントガラスに見覚えのない「チャーター」の表示を掲げていた。
 バスを待つ者同士で「なんかおかしいよね?」と話しながら、バス停にたたずむこと20分。そのうち、関係者なのか、スマホで調べた人なのかは不明だが、誰かが「ストライキ決行中〜」と叫んだ。人びとは別の方法で目的地に向かうため、その場を離れはじめた。ストなんて小学校の頃以来だなぁと思って、ちょっとワクワクしたけれど、いまだにシドニーの公共交通網を使いこなしているとは言えない私は、どうやって橋の向こう側に渡ったものかと途方にくれた。
この日のストライキは前日の夜、急きょ決まったものらしかった。てんやわんやで職場に到着するや、いろんなひとにストの話を振ってみたが、「へぇ、そんなことあった��?」という感じで、橋の向こう側では、このニュースを朝の段階で知っている人は少ないようだった。作業の合間に調べてみると、ストライキを実施したのはシドニー中西部と南部を走るバスのドライバーたちで、アンドリュー・コンスタンス運輸大臣が推進しようとしている、この地域のバス・サーヴィスの民営化に反対するアクションの一環であるとのこと。前々日の火曜日に、遅延と苦情の多さを理由に、運輸大臣が該当地域の民営化を発表した。1200人のドライバーたちがそれに抗議するかたちで、24時間のストに踏み切ったという。
 シドニー中西部は道幅の狭い場所が多く、遅延や事故が多いと言われている地域だ。Saulwickの記事によると、現運輸大臣は2015年にライド・シェアリング・サーヴィスを合法化した人で、この地域のバス・サーヴィスを民営化し、小回りのきかない従来型のバス車両の代わりに小型車両を使ったUber式のオンデマンド・サーヴィスの導入を計画しているという。非常に強い組織力をもつ鉄道市電バス労働組合(RBTU)は、車両、料金、時刻表を効率的にコントロールするためと称して民営化を推進する州政府に対し、地域への事前の相談もなく、民営化は行わないとした前年の確約とも矛盾するとして猛烈に反発している。
翌週の25日はバス停で署名を集める人たちの姿があったほかは、通常通りの運行だった。ちなみに、州議会での話し合いを可能にするために必要な一万筆を超える約一万四千の署名が集まったそうだ(Mcilroy)。そして、翌々週の木曜日。バスが動いていることは知っていたが、この日はバス・カードをタッチする端末機のスイッチが切られていた。労働組合が中心となった「運賃無料デー」のアクションで、12箇所の車庫を発着するバスのドライバーが料金徴収を拒否しているのだった。車内には民営化反対運動のチラシが置いてあり、「応援しているよ、ブラザー」と声をかける乗客がいたりするのが印象的だった。
 参考文献
“Inner West Sydney Bus Drivers Strike in Response to Privatisation.” ABC News 17 May 2017.
〈http://www.abc.net.au/news/2017-05-17/inner-west-sydney-bus-drivers-strike-after-privatisation-call/8534548〉
Michelle Brown, “Sydney Bus Drivers Let Commuters Ride Free in Protest Against Privatization.” ABC News, 1 Jun 2017.
〈http://www.abc.net.au/news/2017-06-01/free-buses-in-sydney-as-drivers-turn-off-opal-card-machines/8579032〉
 Jim Mcilroy, “Sydney Bus Drivers Protest Privatisation Plan.” Green Left Weekly, 28 July 2017.
〈https://www.greenleft.org.au/content/sydney-bus-drivers-protest-privatisation-plan〉
 Jacob Saulwick, “Uber for Buses? The Inner West Might Soon Find Out What That Means” Sydney Morning Herald, 26 May 2017.
〈http://www.smh.com.au/nsw/uber-for-buses-the-inner-west-might-soon-find-out-what-that-means-20170525-gwd9w1.html〉
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folded-memories · 8 years ago
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Atong Atem, US, 2017
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入り組んだ湾に囲まれたシドニーでは、バスや電車のほかに、フェリーの交通網が発達している。カスタム・ハウスと呼ばれる昔の税関局の建物は、フェリーの発着駅サーキュラー・キーを出て、すぐ目の前にある。19世紀半ばに造られた歴史的建物は、現在は図書館として使われていて、アーティスト、アトン・アテム(Atong Atem)の展示『US』はその二階にあった。地階の受付カウンターの脇にある階段をのぼって、展示スペースに足を踏み入れると、カラフルな色彩と、布地にプリントされた迫力ある美しい反復模様が目に飛び込んできた。『スタジオ・シリーズ(Studio Series)』という肖像写真のシリーズで、被写体となっているのは10代後半から20代くらいの比較的若くみえるアフリカ系の男女だった。かれらはカラフルな衣装、大ぶりのアクセサリーを身につけていて、西アフリカに広くみられる、ろうけつ染めのカラフルな布地や、ナイロン製の敷物の背景幕の前でポーズをとっている。液晶ディスプレイに投影する手法で展示されていて、あざやかな色彩が抜群に映えていた。
 アトン・アテムはメルボルン在住の南スーダン人アーティスト。1南スーダン人の両親のもと、エチオピアで生まれ、ケニアの難民キャンプで過ごしたあと、5歳のときに両親とともにオーストラリアに移住した。ニュー・サウス・ウェールズ州セントラル・コーストの黒人の少ない地域で、唯一の黒人家庭の一員として、みずからの「他者性」をつよく意識して育つ。オーストラリア社会・文化における自らの立ち位置を初めて意識した瞬間として、彼女は小学校時代の出来事——他の子と同じように淡い桃色のクレヨンをつかって、家族の似顔絵を描いていた彼女に、美術教師が「どうして茶色のクレヨンを使わないの?」と声をかけたこと——に触れ、両親の文化と移住先の文化、そのどちらにも帰属しない「Third Culture Kid(第三文化の子ども)」として育ったことが、彼女の作品���テーマを方向づけたと言う。2
2001年以降、オーストラリア政府はスーダン内戦の難民に対する人道支援プログラムを実施している。31997年から2007年のあいだに、20000人以上のスーダン出身の難民(ケニアやエジプトの難民キャンプでスーダン人の両親のもとに生まれた者を含む)がオーストラリアを移住先として選んだ。メルボルンやシドニーの都市部で暮らしている人たちが多いようだ。南スーダン出身のDeng Thiak Adutのように、少年兵となることを強いられた過去をもち、渡豪後は独学で勉強して難民問題専門の弁護士になったサクセスストーリーで知られる人もいるが、新しい環境や文化への適応は決して容易ではなく、移住の苦労やストレスを余儀なくされる者が多いのが現実だ。アテムのように幼少期に移住して、二つの文化のあいだで生きざるをえない若者がアイデンティティの葛藤・苦悩を抱えるケースも少なくない。
冒頭で紹介した作品『スタジオ・シリーズ』は、スーダンからの移住者の第一・第二世代を被写体にした肖像写真である。撮影にあたって、アーティストは友人や知り合いに声をかけ、かれらが持ち寄った花、スカーフ、衣装などを自在に組み合わせてイメージをつくった。その際、彼女が念頭においていたのは、セイドゥ・ケイタ(Seydou Keïta, 1921-2001)やマリック・シディベ(Malick Sidibé, 1936-2016)といったアフリカ人写真家たちのスタジオ写真の形式だと言う。4
スタジオ写真とは、背景幕にプリント模様の布地をつかい、華やかな衣装に身をつつんだプロのモデルではない被写体が、筆記用具、電話、花、高級車などの小道具に囲まれて、どこかぎこちなくポーズをとる肖像写真。51950年代以降、セネガルやマリの都市部のアフリカ人写真家が経営するスタジオで撮影されるようになった。ヨーロッパから持ち込まれた写真技術をつかって、アフリカ人写真家がみずからの文化を自由に表現し、植民者の民族誌学的・分類学的まなざしにより形成された「アフリカ」の歴史的表象を解体する試みとして注目された。 
このようなアフリカにおける写真文化の文脈を理解したうえで、アテムは肖像写真、スタジオ写真のスタイルを、アートの世界におけるヨーロッパ中心主義的なナラティヴに抵抗する方法として選びとっている。さらに、アフリカ人肖像写真家の作品との出会いとは、彼女やその友人たちのように、両親に連れられて幼少期に移住し、ルーツのある土地から離れて暮らす者たちにとって、両親の故郷と自分自身を結びつける紐帯の発見でもあった。それらの作品に惹きつけられた理由を、アテムは「これまでずっと目にしてきた両親や親戚の写真に似ていたから」と説明し、それを作品で「再現」したかった。『スタジオ・シリーズ』の撮影では「みんなの家の家族アルバム」をイメージして場面をデザインしたと語っている。6 
「再現/複製(replication)」という言葉の使用には興味をそそられる。ポップでカラフルな背景幕・衣装・小道具・構図などの形式を踏襲しつつも、〈オリジナル〉とも異なる〈再現/複製されたもの〉としての独自性、「第三文化の子ども」としての表現のあり方について考えさせるからだ。両親や親戚の家族写真を、故郷から遠く離れて育った子どもたちが、しかも、独自の植民地主義の歴史をもつオーストラリアにおいて「再現/複製」すること。そこには故郷との複雑な距離感、アマルガムなものとしての文化の位相がかいまみえるのだろうか。
同じ階の離れた場所に展示された、もうひとつのシリーズ『自画像(Self Portraiture)』は、ハイブリッドなものとしてのアイデンティティをより強く意識させる作品だ。やはり肖像写真の形式がつかわれているが、背景幕はいかにも「アフリカ」らしい布ではなく、アーティストが身にまとっているのは必ずしも民族衣装ではない。紺色の無地の布を背景に、顔と身体にあざやかなオレンジ色の布を幾重にも巻きつけた、思索的な雰囲気漂う一枚、淡いピンク柄の背景布に、ココア色の肌がひきたつベージュ色のオールインワンを身につけ、白いドットとラインの装飾的なメイクをほどこした一枚、淡いライラック色の背景に、カラフルなレオナール調の花柄ブラウス、大きな首飾りとイヤリングをつけ、厚塗りの化粧がアフリカ少数民族のボディ・ペイントにもヴェネツィアの仮面のようにもみえる一枚など、「セルフィー」という語が一般的になった時代のセルフ・ポートレートと言えるが、いずれも現代的で洗練された感覚にあ��れていて、見ていて飽きない。
『自画像』シリーズにおける被写体としてのアテムは、多種多様なセルフ・イメージの創出を大いに楽しんでいるようにみえる。「ヨーロッパ」が「アフリカ」に対して注いできた植民地主義的視線に内在する、視る者・視られる者の関係を無効にし、「わたしはこのように見られることを望む」というパフォーマティヴな意志をストレートに突きつけている。異なる「わたし」にめまぐるしく変身/擬態する様子、シリーズとして並べてみた場合の強迫反復的な自己増殖の感じは、セルフ・イメージの不断の創出のなかにしか安住できない「第三文化の子ども」のアイデンティティのはかなさ、焦燥を伝えるが、それ以上に、アテムのつくりだすイメージはそれを悲哀とは感じさせないポジティヴなパワーとオーラに満ちている。
 注
1Atong Atemの経歴についてはAtem “Atong Atem”を参照した。
2このエピソードについてはDoを参照した。
3オーストラリアのスーダン人コミュニティについては、Migration Heritage Centre New South Wales, Stevensonを参照した。
4『スタジオ・シリーズ』におけるスタジオ写真の��ンセプトについてはGilliganを参照した。 アテムはほかにも影響をうけた写真家として、あざやかなカラーとユーモアあふれる演出でスタジオ写真を洗練させたガーナのフィリップ・クワメ・アガギア(Philip Kwame Agagya, 1958-)の名前を挙げている(Gilligan)。
5植民地時代と独立後の西アフリカにおける写真の実践についてはMustafaを参照した。
6アテムの『スタジオ・シリーズ』についてのコメントはGilligan, Atem“Atong Atem”を参照した。
 参考文献
Atem, Atong. Official website〈http://www.atongatem.com/about/〉Accessed 8 May 2017.
--. “Atong Atem: Gallery Talks: Red Hook Labs” NATAAL
 〈http://nataal.com/atong-atem-at-red-hook-labs/〉Accessed 8 May 2017.
--.“How I Write: Atong Atemm” The Suburban Review, June 2, 2016. 〈http://thesuburbanreview.com/2016/06/02/how-i-write-atong-atem/〉Accessed 8 May 2017.
Do, Emma, “Photographing the space between cultures: Atong Atem talks to i-D about Third Culture Kids and confronting your identity as an ‘other’.” i-D 2 June 2015.
 〈https://i-d.vice.com/en_au/article/photographing-the-space-between-cultures〉Accessed 8 May 2017.
Migration Heritage Centre New South Wales website
〈http://www.migrationheritage.nsw.gov.au/exhibition/sudanesestories/a-new-life-in-blacktown/〉Accessed 8 May 2017.
Gilligan, Minna. "Bad Girl Painter: Atong Atem” Rookie 58, September 6
〈http://www.rookiemag.com/2016/06/bad-girl-painter-atong-atem/〉Accessed 8 May 2017.
Monneraye, Claire. “US: Atong Atem.” Australian Centre for Photogtraphy. (会場配布資料より)
Mustafa, Hudita Nura. “Portraits of Modernity: Fashioning Selves in Dakarois Popular Photography,” Paul S. Landau & Deborah D. Kaspin, eds., Images & Empires: Visuality in Colonial and Postcolonial Africa, Berkeley: University of California Press, 2002, 172-192.
Stevenson, M. “Sudanese Migration in Australia” Museums Victoria Collections 2009〈https://collections.museumvictoria.com.au/articles/2997〉Accessed 8 May 2017.
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folded-memories · 8 years ago
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Gould's Book Arcade
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シドニーの街を歩いていて、古本屋に遭遇することはめったにない。東京に暮らしていた頃は、仕事帰りに早稲田通りの古書店街でたらたら道草するのが習慣だったので、古本屋の絶対数が少ないのは寂しい。でも、数が少ない分、いまも営業を続けている古本屋には強烈な個性をもった店が少なくない。店の歴史、店主の経歴、そこに集まる人びとの層などに注目すると、シドニーの知られざる文化史の一面がかいまみえる。今回ご紹介するのはGould's Book Arcade、シドニー大学のキャンパスに程近い場所に店をかまえるシドニー最大の古本屋だ。
シドニー大学のキャンパスを出て、ニュータウン方面にむかってキング・ストリートを歩いていくと、レインボー・フラッグのかかったカフェやらアジア食材店の並びにGould's Book Arcadeがみえる。倉庫のようなぶっきらぼうな佇まい。店の入り口には、音楽やアート関連のイベントの大型ポスターが貼られ、手前にはアナルコ・サンジカリストのグループが作成した手書きの冊子、難民問題のデモのフライヤー、先住民の権利擁護団体のチラシなどが置いてあり、その雰囲気はかつての大学の学生会館を思わせる。早稲田通りの古本屋と較べると店内は格段に広い。でも、ちょっと体格のいい人にとっては通路の幅がかなり狭く、身体を斜めにして本棚のあいだをカニ歩きしなければならない。人もまばらな平日の店内では、皆、黙々と本を物色している。
1988年開業のGould's Book Arcadeの特色はなんといってもその品揃えの専門性(マニアックさ)にある。大量の雑多なジャンルの書籍、雑誌、グラフィック・ノベル、DVDにまじって、オーストラリアの労働運動はもちろんのこと、世界中の労働問題にかんする希少本、絶版になった書籍がずらりと並ぶ。その圧倒的なラインアップは、退職した大学教授の個人研究室にあった蔵書をそのまま引き継いだかのようだ。そのほかにも、オーストラリア内外のさまざまな社会問題を扱った、図書館以外ではみかけない珍しい本を手に入れることができるシドニーで唯一の場所である。
 ニュータウン通の友人に聞いてみると、店名にあるとおり、ここは有名な労働党員で活動家のボブ・グールド(Bob Gould, 1937 – 2011)という人物が経営していたことで知られる伝説的な古本屋なのだそうだ。1980年代から90年代にかけてニュータウンに住んでいたというその友人は、近所の中華料理屋で時たまグールド氏をみかけたことがあるらしい。体格のよい大男で、ぶしつけにみつめるような特徴あるまなざしの持ち主だったという。たしかにインターネットを��索すると、大量の本に囲まれ、少し気難しそうな目つきでこちらを凝視するグールド氏の写真が出てくる。2011年に店内の事故で亡くなり、それ以後は妻と娘が店を切り盛りしているとのこと。
世界各国で反体制的な政治運動が同時多発的に起こった1960年代、ヴェトナムに軍を送っていたオーストラリアでも大規模な反戦運動が巻き起こった。トロツキスト・グループのメンバーだったボブ・グールドは、このヴェトナム反戦運動で中心的���役割をつとめ、活動家として知られるようになった。1グールドはニュータウンの店舗以外にも、全部で12件の書店を経営したが(現在も営業を続けているのはGould's Book Arcadeのみ)、なかでも政治活動の仲間だったパーシー兄弟と共同で、1967年にGoulburn通りに開店したThird World Bookshopは、シドニーにおけるアングラ・カルチャーの伝説的な拠点として今なお語り継がれている。
ヴェトナム・アクション・キャンペーンの委員長をつとめ、オーストラリアにおけるヴェトナム反戦運動の急先鋒であったグールドの店Third World Bookshopは、カウンター・カルチャーに共鳴する若者たちのたまり場となった。店に集まる若者の多くは、グールド自身のような筋金入りのマルクス主義者というよりは、新左翼的な思想やライフスタイルに共感している人たちだった。〈ヴェトナム反戦〉というキーワードが、活動家、知識人、ボヘミアン、アーティスト、サイケデリック・ロックのレコードを物色にくる若者たちといったさまざまな人間をこの古書店に引き寄せ、多様な人びとの交流がうまれたのだった。在りし日の店を知る人物は、次のように回想する。
当時、生まれつつあった若者たちのカウンター・カルチャーに、ボブはすこし批判的なようだったけれど、彼は僕たちを受け入れ、僕たちの愚かな考えを正しい方向に導いてくれた……まぁ、彼の考える正しい方向に、ってことだけど。議論を好み、恐ろしく知的で、ときに騒がしくて熱狂的、強い季節風のようなパワーをもっていて、目立つ人物だったと記憶している……彼はいつだってそこにいて、つねに体制の中枢を吹き飛ばそうとしていた。2
グールドの店のもう一つの重要な理念は〈反検閲〉だった。1901年以降のオーストラリアでは、国外から輸入される出版物に対する検閲が実施されていた。3他国でも出版規制や裁判に発展した悪名高い作品——ジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』、D・H・ロレンス『チャタレー夫人の恋人』、ナボコフ『ロリータ』など——はもちろんのこと、ダニエル・デフォー『モル・フランダース』、ジョージ・オーウェル『パリ・ロンドン放浪記』、オルダス・ハクスリー 『すばらしい新世界』、サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』を含む、5000点もの作品が「冒涜的で���品、わいせつ」な作品として輸入禁止書物のリストに加えられていたほか、雑誌『プレイボーイ』から女性団体が作成した避妊に関するパンフレットにいたるまで、性に関する言及のあるものは片端から取り締まりの対象になった。このような州政府による検閲は1970年代まで続いたという。
Third World Bookshopは検閲と闘う姿勢を貫き、ニュー・サウス・ウェールズ州で販売を禁じられていた書物、合衆国の地下出版のアングラ新聞やアンダーグラウンド・コミックの類を販売していたため、たびたび警察と衝突することになった。4よく知られているのはフィリップ・ロスの小説を販売したかどで警察の捜査が入った事件(1970年)だ。小説Portnoy’s Complaint(日本語題『ポートノイの不満』)は母親との屈折した関係や性的欲求に悩まされるユダヤ系アメリカ人の若者が、精神分析医を相手に繰り広げるモノローグを中心に展開される物語で、赤裸々な性描写を含み、1969年に出版されるとフィリップ・ロスを一躍有名にした。当局は、この作品をオーストラリアの読者にふさわしくない「わいせつ」で「不道徳」な書物として禁じ、作品についての書評までも検閲の対象とした。オーストラリア・ペンギンブックスはこれに抵抗し、この作品を地域的に出版する権利を得て販売に漕ぎつけたところ、Third World Bookshopを含む、複数の書店に警察が立ち入り、作品は押収された。
ネット古書店の存在が普及した現在、キング・ストリートにあるGould's Book Arcadeの売り上げもオンラインによるものが大半を占めるというが、5それでも店内を物色していると、労働問題の関連本を探しにきたという学生の声が聞こえてきたりすることもある。グールドは終生、労働党員を貫き、あくまで労働党内部から党右派の政策に異議を唱えるというスタンスをとったことが知られているが、その思想を反映しているのだろうか、難民問題、民営化問題、帝国主義的戦争、教育問題、先住民の権利を扱った本にはやはり多くのスペースが割り当てられている。ただ、Third World Bookshopの時代を思わせるアングラ・カルチャーにまつわる品物を店内で見かけることはあまりない。そのことについては少し寂しい気もするが、この古書店の存在そのものがシドニー・アングラ・カルチャーの時代の記憶を伝えつづけていると言えるだろう。
  注
1活動家としてのプロフィールについてはMciloy& Boyleを参照した。
2 Graysonからの引用。
3豪における検閲についてはNile and Turner 134, Jones 137, Meachamを参照した。
4 Third World Bookshopと検閲についてはGrayson, Meachamを参照した。文中で言及したフィリップ・ロスの作品の事例のほかにも、オーブリー・ビアズリーの裸体画やミケランジェロのダビデ像をプリントしたポスターを販売したかどで警察の捜査が入ったこともある(Mudie 224)。
5 Stevensonを参照。
参考文献
Russ Grayson, “Farewell, Bob, and Thanks for a Life that touched so many,” Pacific Edge, June 19, 2011. 〈http://pacific-edge.info/2011/06/gould/〉
Sarah (Serje) Jones, "Australia: Literature.” Derek Jones, ed. Censorship: A World Encyclopedia. 137-138.
Richard Nile and Rea Turner, “Australia.” Derek Jones, ed. Censorship: A World Encyclopedia. 131-136.
Jim Mciloy & Peter Boyle, “Vale Bob Gould: 1937-2011,” Green Left Weekly, May 24, 2011. 〈https://www.greenleft.org.au/content/vale-bob-gould-1937-2011〉
Steve Meacham, “The filth and the fury,” Sydney Morning Herald, Feb 6, 2004.
  〈http://www.smh.com.au/articles/2004/02/05/1075854000716.html〉
Peter Mudie, Ubu Films: Sydney Underground Movies, 1965-1970. Sydney: UNSW Press, 1997.
Andrew Stevenson, “Novel character who knows every trick in the book.” Sydney Morning Herald, Mar 26, 2011.
〈http://www.smh.com.au/nsw/novel-character-who-knows-every-trick-in-the-book-20110325-1c9yn.html〉
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folded-memories · 9 years ago
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Once Upon A Time in Cabramatta
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シドニー中心街から4キロほど南西に位置するニュータウンの駅前の喧噪から少しわき道に入ったあたり、画材店や額装店の並ぶ一角にCIVICはある。
ニュータウンは学生や芸術家の多く集まるエリアで、映画館や小劇場、ギャラリーなどもあり、グランジ・ファッションの似合う街。現在のキングストリートにはオーガニックやヴィーガン対応の食材を提供するおしゃれなカフェやバー、衣料品や雑貨をあつかう店、凝った内装のエスニック・レストラン、ジェラート屋などが軒をつらねているが、ひと昔まえは安くて美味しいタイ料理の激戦区として知られ、ミルクシェイクや(グルメバーガーでない)ごく普通のハンバーガーを売る店、魚屋やコインランドリーもあったそうだ。CIVICはそんなニュータウンのかつての面影をいまに伝えるレンタルビデオ店である。
オーストラリアではヴィデオ・オンデマンド・サーヴィスの普及により、映画や音楽の DVDを借りて視聴する人の数は激減しており、街角でレンタルビデオ店をみ���けることはめったにない。以前はキングストリートにもう一軒、インディペンデント・シネマや外国映画の品揃えで知られるレンタルビデオ店があったようだが、地域の変貌とともにいつのまにか姿を消した。
通りからCIVICの店内をのぞくと、とにかくうす暗い。ガタつく黒いドアを押してなかに入ると、ひんやりした湿り気とエアコンのカビのような匂いがほんのりする。カウンターを通り過ぎて、まず目に入るのは新作映画のコーナー、ではなく、ずらりと並んでいるアイスクリームやチョコレート、キャンディのたぐい。まばらな客のほとんどがアイスかキャンディの棒をくわえながら店内を物色している。SBS(豪公共放送局)製作のテレビ・ドキュメンタリー番組Once Upon A Time in CabramattaのDVDをみつけたのは、キングストリートの華やかさからしばし解放され、時の止まったようなさびれた空間でホッとひと息ついているときだった。
 2012年1月放送されたテレビ・ドキュメンタリーOnce Upon A Time in Cabramatta(全3話)はオーストラリアにおけるベトナム人コミュニティの形成とその歴史に光をあてたものだ。2011年の豪統計局の調査によると、海外生まれのオーストラリア人の出身国として、ベトナムはイギリス、ニュージーランド、��国、インドに次いで5番目に多い。タイトルにあるカブラマッタとはシドニー南西部の郊外の地名で、シティの中心部から30キロほどの場所にある。ここは南半球最大のベトナム人コミュニティがあることで知られ、週末ともなると、アジアの食材や日用品を求める人たち、安くて美味しいベトナム料理店やカフェをめざす人たちなどで混雑する。いまでこそ、カブラマッタは安心して買い物や食事の楽しめる場所として人気だが、1980年代、90年代にはストリート・ギャングの抗争やヘロインの流行により荒廃していた。このドキュメンタリーは、難民たちが到着した1970年代後半から、暗黒の80年代、90年代をのりこえて、ベトナム移民たちがオーストラリア社会に根をおろしていった過程、カブラマッタ地域の変遷、オーストラリアの多文化主義の歩みを、移民第一世代、その娘や息子たちの証言をとおして丹念につづっている。
ベトナム戦争後の1979年、当時の首相マルコム・フレーザーが難民の受け入れを決断し、オーストラリアは多文化主義政策へと本格的に舵をきることになった。以後、7年間で60,000名近くのベトナムからの難民がオーストラリアにやってきた。カブラマッタのほかにも、かれらはCanly Vale, Bankstown, Fairfieldといった同じくシドニー南西部の郊外に集まって生活するようになった。直前のゴフ・ホイットラム政権下で、白豪主義にはすでに終止符が打たれていたものの、アジアからの移民を受け入れる体制、共生支援の枠組みは十分に整っておらず、さらに国民の十分な理解があったとは言えない状況下での移民たちの新生活は困難をきわめた。
第一話では80年代、90年代のカブラマッタにおいて、ベトナム人のストリート・ギャングのグループが台頭し、家庭に居場所のない若者たちがヘロインの販売に関わるようになった経緯が描かれる。移民第一世代の親たちや、幼少期に渡豪してカブラマッタでギャングたちと行動をともにしていたTony HoangやJoe Leのインタヴューから明らかになるのは、移住のストレスにさらされた家族内部の対立、あるいは家族崩壊の結果、ストリート・ギャングが影響力をもつようになったということ。移住のストレスは家族を支えなければならないというプレッシャーを感じていた父親にとりわけ重くのしかかり、飲酒や家族への暴力となって表面化するケースが多かったとかれらは語る。新天地で家族が生きていくために、両親は朝から晩まで身を粉にして働かなければならず、愛情に飢え、孤独を感じる子どもが少なくなかった。かれらは学校生活をとおしてオーストラリア的な価値観を身につけるようになると、両親と対立したり、家出してギャング・グループに加わったりして、多くの家族が崩壊していった。また、移民たちのこのような危機的状況に支援の手をのばせるほど、当時のオーストラリア社会において多文化主義の議論や実践は成熟していなかった。
第二話はオーストラリア「史上初の政治暗殺」と形容されるカブラマッタの議員ジョン・ニューマンの銃殺事件(1994年)の話題で幕をあける。この事件がマスメディアによってセンセーショナルに取り上げられると、カブラマッタは悪の巣窟の同義語となり、アジア系移民をめぐる差別的言説が蔓延し、保守主義者のあいだでは多文化主義撤回論までもささやかれるに至る。また、この頃には、非アジア人の薬物常用者たちが廉価のヘロインを求めて「ジャンキー・エクスプレス」とあだ名された列車にゆられてカブラマッタ駅に降りたつようになっていた。駅のホームは列車から降りてくる乗客と売人の少年たちの取引の場となった。警察は取り締まりを強化したが、その効果もむなしく、ヘロインはやがて売人をしていた若者たちの身体をもむしばみはじめ、薬物中毒者の急増、薬物過剰摂取による死者の増加、公共の場に散乱する注射針など、地域の問題はますます山積していく。
第三話はヘロインと犯罪で荒廃しきった状態から、カブラマッタが少しずつ抜けだし、再生への道を歩みはじめた2000年前後の動きに注目している。変化のきっかけとなったのは、1999年にベトナム生まれのThang NgoがFairfieldの市議会議員に選出され、ベトナム人・コミュニティの声が市議会に反映されるようになったこと。その結果、市民の要求にあったより具体的な問題解決策を実施することが可能になり、危機的状況をのりこえることができたという。
このドキュメンタリーはオーストラリアの多文化主義の試金石としてのカブラマッタに光をあて、暗黒の80年代、90年代から、ベトナム人コミュニティが声を獲得した2000年前後にいたる変化を丁寧に描いている一方、変化に重点を置くあまり、現在(2012年当時)のカブラマッタの課題や問題点などには触れていない。移民の苦闘を安易な物語的カタルシ���にのっとったかたちで歴史化する態度にはやや物足りなさも感じるが、私のようなオーストラリア・ビギナーにとっては、何度か出かけたことのあるカブラマッタの歴史を知るうえでとても勉強になったし、ベトナム以外の移民コミュニティの歴史にも関心をもつきっかけを与えてくれた。オーストラリアの多文化主義のルーツを描いたドキュメンタリーとして、難民問題に関心の集まる現在、あらためて見直されるべき作品と言えるだろう。
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folded-memories · 9 years ago
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Carl Van Vechten, Nigger Heaven.
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初の訳書、カール・ヴァン・ヴェクテン『ニガー・ヘヴン』(未知谷, 2016)発売中です。ジャズエイジのハーレムを描いた小説。当時のハーレムでの受容、本作の巻き起こした論争も含めて面白い作品です。詳しくは解説に書きましたので、よろしかったらお読みください。
 書評:
東琢磨さん(Intoxicate 2016年10月号)http://mikiki.tokyo.jp/articles/-/12511
旦敬介さん(『読売新聞』2016年11月20日)
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folded-memories · 9 years ago
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Black Mist Burnt Country, 2016
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週末のある朝、近所のカフェのテラス席で『シドニー・モーニング・ヘラルド』紙の土曜版を眺めていたら、オーストラリアの内陸部を写したとおぼしきモノクロ写真がふと目にとまった。まばらに地表に貼りつく草のほかは、ほとんど樹木の育たない砂漠地帯の写真。画面中央に道らしきものがいく筋か、霞につつまれた地平線にむかって伸びている。やや左側から、細い木の枝が傾きつつ張りだし、その奇妙にひしゃげた形状が不気味な緊張感をつくりだしている。よくある風景写真のようにみえなくもないが、カメラがとらえているのは荒野の開放感や楽観主義とは無縁の世界。あらゆるものが灰色���霧に包まれ、ただ事ではない不穏な雰囲気に満ちみちている。キャプションにはPaul Ogier, One tree(2010)とあった。核をテーマにした展覧会「Black Mist Burnt Country」を、キュレーターをつとめたJohn McDonaldが紹介・解説した記事だった。前述の写真は、1950年代から1960年代にイギリス政府がオーストラリアで実施した核実験の実験場となった土地マラリンガの現在の姿をとらえたものだという。
東電の原発事故以降、核の歴史にあらためて関心を抱くようになったが、 オーストラリアのことはもっぱらウランの採掘地として認識していた。だから、核軍拡競争の時代にイギリス政府が行なった核実験のことは、シドニーに戻って暮らすようになるまで知らなかった。1952年10月の西オーストラリア州モンテ・ベロ諸島沖での核兵器「ハリケーン」の爆発実験を皮切りに、南オーストラリア州のエミュー平原とマラリンガにおいて一連の核実験が実施された。核保有国入りを目指し、実験場候補地を探していたイギリス政府に、オーストラリアでの実験許可を与えたのは、1950年当時、政権にあったロバート・メンジー首相だった。南オーストラリアの州都アデレードから北西に800キロほど行ったところにあるマラリンガでは、実験予定地に暮らしていた先住民AnanguとPitjantjatjaraの人たちが強制的に移住させられたうえ、かれらの土地はプルトニウムとベリリウムに汚染されてしまった。伝統的な土地所有者の先住民、核実験に関わった軍関係者のなかに深刻な健康被害が出ている。
展覧会「Black Mist Burnt Country」はハーバーブリッジのつけ根、天体観測所のすぐそばにあるS・H・Ervinギャラリーで開催中だった。マラリンガでの核実験から60年が経過したことを記念する催しで、核をテーマにオーストラリア美術の系譜をたどる初の試みだという。原爆、核実験、核の平和利用、1980年代の反核運動、原子力発電を扱った作品を集めて展示することで、オーストラリアの美術家たちが核の問題にどのように応答してきたかを明らかにすることをめざす。表現形式は絵画、彫刻、写真からインスタレーション、ポスター、ニュー・メディアまでさまざま。約40組のアーティストの作品がずらりと並ぶ。会場に入ってすぐの壁には、放射線管理区域を知らせる標識をかたどったAdam Nortonの作品Prohibited Area(2010)が立てかけられていた。白い札に「豪連邦国防省からの警告」「ここは立ち入り禁止区域であり、しかるべき許可なしに何人も立ち入ったり、とどまったりしてはならない��と書かれている。これと同様の標識が、ある日突然、マラリンガにも立てられたそうだが、先住民のなかに英語で書かれた警告の意味を理解できた者はいなかった、という話を思い出した。
展覧会全体をみて、意外な発見だったのは、オーストラリア美術における、核をめぐる最初の表現が軍関係者によるものだということだ。会場には、第二次世界戦争終結後、占領軍の一員として日本に滞在したオーストラリア軍の関係者が被爆地ヒロシマを訪れて、残した絵画が展示されている。戦争画家Reginald Rowedは1946年、軍特派員Albert Tuckerは1947年にそれぞれ広島に足を運び、徹底的に破壊された街の様子を記録した。Hiroshimaというおなじ題のついた二枚の絵画のうち、Rowedのものはグレーを基調とした淡彩画で、画面中央に相生橋の特徴的なT字型のアーチ、その右側に原爆ドームという構図を採用している。Rowedが爆心地の様子を風景画として表わしたのに対し、Tuckerは原爆を生き延びた人間の存在に注目した。焼け焦げた木、焼け残ったいくつかの建物以外はすっかり瓦礫と化した街並み、不気味な薄紫色の空を背景に、一人の子どもが立つ姿を水彩画で描いている。
 戦後のオーストラリアを代表する芸術家たちのなかでも、とくに風景画で知られる画家たちが核のテーマに鈍感でいられなかったというのは興味深い。Sidney Nolanがイギリス政府の核実験のニュースにふれて制作したCentral Desert: Atomic Test(1952-57)は、赤土の大地と後景のキノコ雲が黙示録後の世界をおもわせる。1950年代に制作されたのち、2001年まで公開されなかった比較的マイナーな作品で、めずらしい作品に触れることのできる貴重な機会を提供している。また、シドニー南部ショールヘイヴンを描いたシリーズで知られるArthur Boydも、シリーズの一枚、Jonah on the Shoalhaven(1976)にキノコ雲を描き添えた。白い砂漠に横たわる不思議な生物体の後景、オーストラリアらしい真っ青な空に不気味なキノコ雲が浮かぶ。ショールヘイヴンに程近く、美しい湾と白砂のビーチのあるジャーヴィス・ベイはシドニーっ子に人気の行楽地だが、じつは1950年代以降、原子力発電所を建設する計画がたびたび持ち上がっている場所でもある。
展覧会のクライマックスは、先住民PitjantjataraとAnanguに縁をもつアーティスト(Terrance Edwards, Yvonne Edwards, Jonathan Brown)による、マラリンガの核実験と「黒い霧」について語る当事者の表現だと言えるだろう。実験前の人びとの生活の営み、トラックによる集団移動、キノコ雲、病気や体調不良に見舞われる人びと、汚染された土地、除染作業員たちがやってきた日の出来事などが、絵画として綴られる。なかでも、3人の除染作業員を描いたJonathan BrownのFrogmen(1996)は強烈な印象を残す作品だ。真っ白な防護服に毒マスクを装着した作業員たちの異形性が強調されていて、かれらをみつめる画家の言いようもない不安と恐怖がリアルに伝わってくる。
当事者性ということで言えば、マラリンガの核実験に、核兵器を開発する側の人間として関わった者の当事者性に向きあう、シドニー在住のイギリス人アーティストKate Downhillの作品にも注目したい。Downhillは水爆の開発とオーストラリアでの核実験に関わったイギリス人地震学者を父にもつ。オーストラリアからの帰国後、彼女の父親は神経症と鬱を発症し、家族を捨てて姿を消してしまう。彼女の作品は、冷戦という時代情勢のなかで、核兵器開発に携わった父親の歴史的当事者性と、その立場ゆえの苦悩を語る役目を引き受けているようだ。モンテ・ベロ諸島沖で爆発した核兵器の名前をタイトルに冠したOperation Hurricaneは、冷戦と核実験の歴史を記憶し、伝える意思を表明した作品で、緑色のパッチワーク・キルトでつくられている。
さらに、1980年代以降の反核運動に呼応した表現も多数とり上げられている。キノコ雲とヤシの木の模様入りのアロハシャツの左上に「太平洋に核兵器は要らない」とスローガンの入ったPam Debenhamのポスター(1984)、あるいは原子力エネルギーと人びとの“明るい”未来の生活を想像したToni RobertsonのポスターNuclear power(1981)など、反核運動のもっとも活発だった時代に作られたレトロでカラフルなポスター群は目にも楽しい。ほかに印象的だったのは、オーストラリアの反核運動のイコン的存在として知られる人たちのポートレート写真だ。マラリンガをはじめとする核実験の記憶を記録し、写真と音声でアーカイヴ化するプロジェクトを実施しているフォトメディア・アーティストJessie Boylanによるもので、マラリンガの核実験場で作業に従事し、1970年代に内部告発者となった元豪空軍軍人Avon Hudsonの姿を撮影したもの。現在、反核運動の活動家となっている被写体は、資料の入ったダンボールをいくつも積み上げた仕事場でカメラにまなざしを向ける。先住民Yankunytjatjaraの活動家Yami Lesterの姿をとらえた、Boylanによるもう一枚のポートレート写真も見るものを圧倒するパワーを宿している。Lesterは10歳の頃、核実験による放射能物質の霧を浴びて、彼の家族と共同体はさまざまな体調不良を経験し、彼自身も視力を失った。両手を胸のまえで組み、死の灰の降った生まれ故郷に立つ被写体のかたくつむった視力のない眼は祈りを捧げているようにもみえる。
本展覧会はオーストラリア各地を巡回予定とのこと。ウェブサイトで確認するかぎり、国外での展示の予定はないようだが、核問題、あるいは芸術における核問題へのアプローチに関心をもつ者にとって、この上なく示唆的な展示であることは間違いない。
参考文献
Black Mist Burnt Country: Testing the Bomb: Maralinga and Australian Art. Burrinja, 2016.(展覧会カタログ)
Black Mist Burnt Country’s website:
  http://blackmistburntcountry.com.au
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folded-memories · 9 years ago
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Jonathan Jones, barrangal dyara (skin and bones), 2016
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シドニーが国際博覧会(以下、万博と記す)の開催地となったことを知る人は少ないのではないだろうか。南半球初となる万博がシドニーで催されたのは1879年。しかし、そのことを記憶する人は、シドニーにおいてさえ、ほとんどいないそうだ。19世紀後半のオーストラリアといえばゴールドラッシュの時代。自治を認められていたヴィクトリア州(州都メルボルン)とニュー・サウス・ウェールズ州(州都シドニー)は、金の生産により、ともに著しい経済成長を遂げつつあった。どちらが先に南半球初の万博を開催できるかで競い合った結果、シドニーがひと足先に実施に漕ぎつけた。王立植物園内にはガーデン・パレスと呼ばれる巨大建築——名前からもわかるとおり、ロンドンの万博施設クリスタル・パレスを意識したものだった——が建設され、植民地の富と豊かさ、産業・技術の発展をしめす品物、先住民の工芸品などが展示されたのだった。ただ、シドニーのランドマークとなるはずだったこのガーデン・パレスは、皮肉にもクリスタル・パレスと同様、火事により焼失する運命をたどる(1882年)。
アーティスト、ジョナサン・ジョーンズが企画・製作を手がけた野外インスタレーション「barrangal dyara(skin and bones)」は、 このシドニー「万博」1をめぐる歴史と記憶の想起をテーマにした作品だ。とりわけ、ガーデン・パレスの火事によって、万博の展示品としてオーストラリア各地から集められた先住民の文化的品物が失われたという事実に光をあてて、文化の喪失、植民地と万博事業、先住民と万博といった問題について考察をうながす。ジョーンズは先住民WiradjuriとKamilaroiの共同体にゆかりがあるアーティストで、「untitled (oysters and teacups)」(2012)や「mugugalurgarra (conceal)」(2015)など、これまでにも先住民の共同体の記憶をあつかった作品を発表してきた。今回のインスタレーションは、王立植物園に隣接するドメインと呼ばれるスペースの一角に、かつてのガーデン・パレスの建物の輪郭にそって、先住民の盾をモチーフにつくった白いオブジェを大量に設置したものだ。青々とした芝生のうえに並んでいる無数の白い盾は、まるで木の葉のようにも、ボートを漕ぐオールのようにもみえる。その場所から湾を見下ろすようにそびえていた巨大建築物の存在、あらゆる収蔵品と一緒に灰になってしまった先住民の貴重な文化的品物の面影を、散策する人びとの脳裏に甦らせる。
人びとが記憶することを辞めてしまった物語に耳を傾けること。歴史の忘却に抗うこと。その経験とは、どんな空間において、どんなやり方で可能なのだろう。そんなことを考えながら、白い盾にそってゆったり散策していると、作品がこの問いにみずから応答していることに気づく。ガーデン・パレスの中央部分にはカンガルー・グラスというオーストラリア固有の植物が置かれ、微風に揺れてさわさわ音をたてる。木陰にたたずんで、ガーデン・パレスの輪郭を立体的に思い描こうとしていると、いくつかの地点から、シドニーの複数の先住民の共同体で録音したという会話や歌が聴こえてくる。ガーデン・パレスの物語は、「皮膚と骨」——タイトルの「barrangal dyara」はシドニー地域の先住民Gadigalの言葉で「皮膚と骨」の意——をそなえた生身の記憶として、つねに現在と交錯するように想起される過去として、この土地の精霊に敬意を払いつつ共に暮らしている「わたし/たち」「あなた/たち」の手に託されているような気がした。
公園内にはボランティア・スタッフが何名か待機していて、作品の説明をしたり、質問に答えたりしてくれたが、彼女たちの話を聞いて「なるほど!」と思ったことがあった。それは、火をめぐる先住民の考え方について。オーストラリアの先住民は、極度の暑さと乾燥、ユーカリなどの油分を含む植物の生える自然環境に対処するため、ブッシュに計画的に火を放つことで、狩猟のために必要な草地を維持・再生してきたそうだ。作品では、そのような火をめぐる先住民の考え方を踏襲して、ガーデン・パレスの火事とそれによる先住民文化の焼失を「再生」の契機とみなしている、とのこと。フロンティアでの工芸品の収集、万博会場での陳列、火災による焼失——ジョーンズが「文化的なジェノサイド」という言葉で表現しているとおり、先住民文化は幾重にも収奪・抹消にさらされてきた。2その事実を人びとがくりかえし想起するために、記憶を再生し、集団的忘却をのりこえるための場所として「barrangal dyara(skin and bones)」はある。
1 ちなみに、このシドニーでの万博は20世紀になって設けられた万博の基準・条件を満たしておらず、公式のものとしては認められていない。1880年のメルボルン万博は第八回万博として認められている。本文では、シドニー「万博」と表記した。
2 Kaldor Public Art Projectsのウェブサイトに投稿された動画を参照。
参考文献
Kaldor Public Art Projects:
http://kaldorartprojects.org.au/project-32-jonathan-jones
Jonathan Jones, barrangal dyara (skin and bones), Sydney: Thames & Hudson, 2016.(カタログ)
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folded-memories · 9 years ago
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Bangarra Dance Theatre, Our land people stories, 2016.
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バンガラ・ダンス・シアターの新作Our Land People Stories(2016)を観た。会場はオペラハウス内の小劇場。テリーヒルズの小学校に通っていた時代から、建造物としてのオペラハウスには何度も来たことがあるけれど、なかで観劇するのはじつは初めて。バンガラ・ダンス・シアターはシドニーを拠点とするコンテンポラリーダンス・カンパニーで、オーストラリア先住民に受け継がれてきた踊りと西洋のコンテンポラリーダンスを融合したスタイルで知られる。「バンガラ」とはWiradjuriの人たちの言葉で「火をおこす」の意。ダンサーはみな、アボリジニやトレス海峡諸島に文化的背景をもつ。アボリジニの母と白人の父をもつ主人公の、二つの伝統と文化のあいだの葛藤を舞踊で表現して高く評価された第一作Praying Mantis Dreaming(1992年)以降、都市生活におけるアボリジニの文化と霊性、人と土地の結びつき、水をめぐる物語、先住民の権利運動、アイデンティティの問題などをテーマに、近年はほぼ毎年一作のペースで新作を発表している。
Our Land People Storiesは今年に入って亡くなった作曲家David Pageに捧げられた作品。四人の振付家がつむぐ三つの物語——19世紀初めにシドニー南西部Appinで起こった先住民虐殺事件、Wiradjuriの人たちの家族関係のありかた、Yolnguの女性で視覚芸術家のNyapanyapa Yunupinguについての物語——をそれぞれ扱った三部構成だ。とくに、第一部の「MACQ」はテーマ、ダンスともに圧巻だった。Appinでの先住民虐殺事件とは、1790年代以降、入植者たちが先住民の土地を農地として収奪したことで先住民と入植者の対立が激化した結果、Lachlan Macquarie総督が先住民に宣戦布告して軍を派遣し、1816年4月17日に兵士たちがAppin地域で Dharawalの人たちに発砲した出来事のこと。男性、女性、子供を含む、少なくとも14人が亡くなった(2000年以降、追悼行事が催されている)。公演で配布されたパンフレット資料によると、振付を担当したJasmin Sheppardはシドニー西部に住んでいた10年前に、虐殺事件のことを「はじめて意識するようにな」り、そこから作品の着想が生まれたという。Lachlan Macquarieという人物は「寛大でフェアな総督」としてオーストラリアの国民に記憶されているが、彼の残した日記資料の調査、多くの犠牲者をだしたDharawalの人びとの子孫への聞き取りを通���て、Sheppardは一般的に信じられているのとは異なる総督像にアプローチする。植民地行政官の権威を象徴する長机を用いたダンスの演出、ダンサーたちのよく鍛えられたしなやかな筋肉と抜群のリズム感、服喪と嘆きの表現、そこから、第二部以降の先住民の暮らしにより根ざしたテーマにつなげていく展開もよかった。
1991年から芸術監督としてカンパニーを支える振付家Stephen Pageが、バンガラはアボリジニやトレス海峡諸島の共同体との関係性なくしてはありえないということとともにインタヴューなどで繰り返し述べているのは、物語をつむぐ人の重要性、物語る行為へのこだわりだ。実際のかれらの創作過程において、ひとつの物語を伝えるためにどのようなダンス、音楽、舞台装置であるべきかという問いかけがつねにある。キレッキレのダイナミックな動きで観客の目を楽しませるダンサーたちの身体もまた、物語の媒介者となる。今回の公演でも、フィールドワークで録音した先住民の言語による語りの声、ユーカリの葉の束やエミュの羽根を用いた儀礼的な舞台装置など、先住民文化との対話から得られた意匠を効果的に用いつつ、パフォーマンス自体が、オーストラリア史のなかのもっともデリケートな部分、植民地化が先住民共同体に与えた痛みをひとつひとつの声、ひとつひとつの物語からすくい上げ、記憶として共有する場として立ち上げられているようだった。
1989年の旗揚げから25年以上の時を経て、バンガラ・ダンス・シアターはオーストラリアを代表するダンス・カンパニーとなった。バンガラに対する批判としては、先住民文化を商品化して、非先住民の観客に売り渡している、先住民文化を正しく伝えていない、テーマや表現形式における二元的価値観(都市/田舎、現代/伝統)を克服できないといったものがあるようだが(Meekison 367)——私はひとつの作品しか観ていないので、それらの批判の妥当性を判断することはできないが、いずれも重要かつ、かれらの取り組みにとっての本質的な批判であるように思える——アート・アクティヴィズムとしてのかれらの活動の重要性を過小評価することはできないだろう。バンガラの活動の軌跡は1990年代以降、オーストラリア政府が先住民との和解を推進していく流れとともにあった。1992年のキーティング首相のレッドファーン公園での演説、先住民に対する加害を追悼・記憶するための日「ナショナル・ソーリー・デイ(5月26日)」の設立(1998年)、奪われた世代に対するラッド首相の謝罪(2008年)といった出来事と平��して、現在までに20を超える作品を発表し、和解運動の理解と普及につとめてきた。今日のバンガラはダンサーとしてのみならず、和解を推進する力、教育者、先住民文化の文化大使と自己定義し、国内外で活動している。公演パンフレットに寄せられた、Sheppardの次のような言葉にも、和解によせる同様の想いが響く——「あらゆる(社会・文化的)背景をもつ���ーストラリア人が、わたしたちの故郷の完全な歴史を知るのは当然のことだ。多くの場合、隠されている居心地の悪い部分も含めて。この歴史を共同で所有することのなかに真の和解がある」。
 参考文献
The Australia Dancing portal:
http://pandora.nla.gov.au/pan/35285/20120626-0000/www.australiadancing.org/apps/adb61e.html
Bangarra Dance Theatre, Our Land People Stories, 2016. (会場配布資料)
Lisa Meekison, ‘Bangarra Dance Theatre,’ Sylvia Kleine and Margo Neale (eds), The Oxford Companion to Aboriginal Arts and Culture, Oxford UP, Melbourne, 2000, p.367-69.
Sharon Verghis, “Bangarra Dance Theatre: History in Movement” The Australian, June 07, 2014.
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