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genron-voices · 5 years
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理系における神話とは何か?
<ゲンロン友の声>
こんにちは いつもゲンロンカフェ、ゲンロンβを楽しませてもらっております。今回の質問は、「理系における神話とは何か。そして、その該当するものを理系の方が、一般的な古代の神話(文系における神話)を読むがごとく、文系が読むとは何に該当するのか。」です。個人的には、科学哲学又は科学哲学史が該当するかもしれないと考えたのですが、どうも間違っている気もします。例えばある研究者が理論を提唱した場合は、理系の考え方としてはその研究者の理論にフォーカスし、研究者自体の個人史に関しては言及することをしない傾向にあると思います。一方、文系の考え方は、個人史にしか興味がなく理論にフォーカスすることより如何に人物の魅力を引き立てるかに終始している気がします。どちらもお互いの分野に対して異なるアプローチを忌避していると思います。しかし、理系の方は書店に行けば死ぬほど神話や哲学について細かく説明した素材があります。でも、文系が書店に行っても啓蒙書に類するものがあるだけな気がしています。長々と申し訳ありません。(埼玉県・30代・友の会会員)
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質問ありがとうございます。ツイッターをやめたいま、もはやここでしか読者のみなさんとは直接の繋がりがないので嬉しく思います。さて、ご質問の件ですが、文系と理系の差異問題(この手の話をすると必ず湧いてくる文系理系と区分することそのものが愚かなのだ的な反論は、もはやクリシェでしかないのでとりあえず無視するとして)については、ぼくはいままであちこちで書いていて、それは要約すれば、文系は歴史に一回しか起こらないことを扱うが、理系はなんどでも反復可能なことを扱う、両者の方法論のちがいは原理的にここに起因するというのがぼくの考えです(とか書くと今度はでは生物学とかどうなのよ、進化論は歴史だぞ的な反論が来そうですが、それについても吉川浩満さんの本に絡めて書いたり語ったりしたことがあるので、気になるひとは無料の短いこのコーナーだけ読んで理解しようとするのではなく、少しはぼくの本を読んだりイベントを聞いたりしてみるとよいと思います)。で、おそらく寄せていただいた質問への答えもそこから導けそうな感じがするのですが、どうもいただいた質問「理系における神話とは何か。そして、その該当するものを理系の方が、一般的な古代の神話(文系における神話)を読むがごとく、文系が読むとは何に該当するのか」の意味がわかりません。「理系における神話とは何か」。ぼくにはわかりません。ふつうの意味では理系には神話はないと思うので、質問者の方がなにを指そうとしているのかわかりません。つぎに「その該当するものを理系の方が、一般的な古代の神話(文系における神話)を読むがごとく、文系が読むとは何に該当するのか」。この文章の意味もよくわかりません。そもそも主語がふたつある気がします。「その該当するもの」は「理系における神話」だと思うのですが、それを読むのは「理系の方」なのでしょうか「文系」なのでしょうか。というわけで、答えようにも、質問がなんだかよくわからなかったというのが正直なところです。いずれにせよ、ご指摘のように、文系は歴史に関心をもち、理系は理論に関心をもつ傾向にあります。しかし、これはどちらかが優越しているということではなく、ぼくたちの世界が「普遍的な規則に則り生起し、それゆえにそれ自体としては反復可能なはずの現象がにもかかわらず一回かぎり生成した、そんなたった一回の試行の連鎖のうえに成立するただひとつの宇宙」である以上、当然どちらも論理的に出てくるものだとぼくは考えています。ひらたくいえば、ぼくたちの世界は賽の目の連鎖でできており、だからその一回かぎりの目の連続が重要という考えかたもあれば、それはたまたまそうなっただけなんだからサイコロの形状を考えるのが大事みたいな考えかたもあるということです。だから、もしぼくたちが今後並行世界を旅する技術を手にするようになり、無限の数の可能な歴史をすべて対象にして思考ができるようになるとすれば(そんな思考が人間にできるかどうかはともかく)、そのときは必然的に文系と理系の区別もなくなることでしょう。文系と理系の区別があるのは、いまのところぼくたちが認識できる世界がただひとつだからにすぎないのです。(東浩紀)
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genron-voices · 5 years
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情報提供者(壇上の上で話す人、プレーヤー)と観客にはっきり境界線を引くのはなぜでしょうか?
<ゲンロン友の声>
こんにちは。「東浩紀がいま考えていること」をニコ生で拝聴しました。これからのゲンロンの形と、東さんの著作が楽しみでならないのですが、ひとつ質問があります。ゲンロンでは「プレーヤーではなく、市民(観客)をつくる」といったことをおっしゃっていたと思います。東さんのおっしゃる観客とは、能動的ではなく(受け身でウォッチしているだけ)、全面的に受動的でもない(二次創作、ツッコミ)もする人を想定されていて、ゲンロンでは一方向性と双方向性のハイブリッドな観客的公共性をつくりたい、とおっしゃっていたのが印象的でした。そこで質問ですが、一方向性的情報提供者(壇上の上で話す人、プレーヤー)と観客にはっきり境界線を引くのはなぜでしょうか。観客内からプレーヤーが現れることをあえて想定しない理由がもしあれば知りたいです。なお、プレーヤーとはどのように生まれるものなのでしょうか?1.プレーヤーは常にゲンロンの公共圏の外からやってくる 2.固定化されたプレーヤーで運営していく 3.プレーヤーと観客はシーンによって切り替わる もし近いイメージがあれば教えてください。(東京都・30代女性・友の会会員)
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質問ありがとうございます。この投稿は6月のものなので、じつに半年近くたってからの返信になります。この欄は完全にぼくの気まぐれで運営されているので、気長に待ってくれればと。なお、政治的な質問にはあまり答えません。日韓関係についてどう思うかとか聞かれても答えようがないし……。さて、それはそれとしてこの質問。大事な問いですね。なんでゲンロンには、登壇者(プレイヤー)と観客の区別があって、よくある「哲学カフェ」みたいな「みんな対等に意見をいいあう場」じゃないのかという質問だと思います。で、さっくり答えますと、それはぼくが、ゲンロンでまず「ゲーム」をつくりたいと思っているからなのです。ゲンロンのミッションはなにか。それは新しい人文知が流通する場をつくることです。いいかえれば新しい言語ゲームをつくることです。言語ゲームといまいいました。ウィトゲンシュタインに有名な「言語ゲーム論」という議論があります。この言語ゲーム論なるものはいろいろ哲学的に深く、さまざまな解釈があるのでぼくがここでざっくりと要約するとまた怒る人が出てきそうですが(まあぼくはなにやっても怒られるのですが)、それでもあえて要約すると、そこでウィトゲンシュタインがいったのは、ゲームというのはじつに不安定なもので、プレイヤーは原理的にルールをいくらでも再解釈できるし、ルール自体を変えてしまうこともできるので、プレイヤーとルールだけがあってもゲームは安定しないということです。実際にそれは子どもの遊戯などを考えるとわかります。ではゲームが安定するにはどうしたらいいか。その答えが「観客の存在」ということになります(ソール・クリプキの『ウィトゲンシュタインのパラドックス』では同じことが「共同体」という概念で考察されています)。観客がいるとゲームは安定する。観客は、プレイヤーがいきなりルールを変更したり、ゲームをやめたりするのを許さないからです。同じことが、ゲンロンがつくりたい「人文知が流通する場」についてもいえます。なるほど、登壇者と観客が一緒になってもりあがって議論する、そういう場はいっけんうるわしく見えるかもしれません。いまはそういうのこそ政治的に正しく見えもします。けれども、そういう場というのは、要は参加者=プレイヤーのやる気に支えられているだけなのでじつはとても継続性が弱いのです。これは抽象的な話ではありません。ぼくもかつては研究者の端くれでしたから、研究会やら勉強会やらにいろいろ参加したことがあります。主宰したこともあります。でもそういうのは長く続かない。だってプレイヤーしかいないんです。飽きたらやめちゃうに決まってます。そんなモデルで新しい人文知など立ち上げることができるわけがない(そしてじっさいにさまざまな研究会が立ち上がっては消えています)。だからぼくは、まず、「ゲンロンというゲーム」を「見る」観客をつくろうと考えたのです。そうしなければ、「ゲンロンというゲーム」も存続しないからです。で、ふたたび質問者の疑問に戻りますと、以上の説明でわかるとおり、ぼくがいっている「プレイヤー」とか「観客」とかいうのは純粋に機能の名称です。あるときにプレイヤーだったひとが、べつのときには観客でもむろんいい。というか、ぼくたちのふつうの人生ではそうなってますよね。サッカー選手もコンサートでは観客でしょうし、アーティストも本を読むときには観客=読者です。しかし、大事なのは、それぞれのゲームの場においてみなが対等でフラットであればいいのではない、ということです。ぼくたちはむろん人間としては対等です。しかし、それぞれの場においては、プレイヤーと観客に分割されるべきであり、その分割があるからこそゲーム(コミュニティ)は維持されるのです。すべてのメンバーが対等でフラットなコミュニケーション���するだけではコミュニティは維持できない、これはけっこう深い話で、民主主義論などともつながってくるのですが、それにお答えするのはまた別の機会にしましょう。というわけで、いずれにせよ、これからもゲンロンのよき観客でいていただければ、そして機会があればぜひ登壇してプレイヤーになっていただければ! 今後ともご支援をよろしくお願いいたします。(東浩紀)
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genron-voices · 5 years
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「東浩紀によるチェルノブイリ特別生放送」「男たちが語るエンドゲーム」リクエスト
<ゲンロン友の声>
日頃より知性豊かなコンテンツを提供していただきありがとうございます。友の会会員になってはや四年、ゲンロンカフェのウェブサイトを開かない日は無くなりました。いつも色んな座談会を楽しく見ています。質問というより要望になってしまいますが、先日放送しておられた「東浩紀によるチェルノブイリ特別生放送」と「男たちが語るエンドゲーム」の2つについて、視聴するのを心から楽しみにしていたのですが、たまたま仕事が大変忙しい時期と重なり、見ることができず期限が過ぎてしまいました。この2つについて、再放送する、もしくはvimeoで購入可能にするご予定はありますでしょうか。必ず見たいと思っています。私事で大変申し訳ありませんが、ご検討いただければ幸いです。(沖縄県・20代・男性・友の会会員)
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いつもゲンロンのコンテンツをお楽しみいただきありがとうございます。また、番組再放送のリクエストありがとうございます!こちら、両方とも大変長時間の番組で通常の再放送は難しい、、、のですが、毎年、お正月には長時間の番組を再放送しております。2020年1月のお正月の再放送は、他の方からも多数リクエストをいただいておりますので(確定ではありませんが)この二つのイベントが選ばれることになりそうです!
正式に決定しましたら、ゲンロンカフェサイトの番組表( https://docs.google.com/spreadsheets/d/1sGPIJhhnhFzsBS4K5-0JozcNQbK6AqLkObFKJkbHEjo/edit#gid=2015661349 )や、ゲンロンカフェTwitterアカウント( https://twitter.com/genroncafe )等で改めて告知いたしますので、お待ちいただければと思います。
よろしくお願いいたします。(宇治川満)
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genron-voices · 5 years
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子どもを生み出すことへの躊躇いをいかにして退けましたか?
<ゲンロン友の声>
こんにちは。ゲンロンの出版物・メルマガ等いつも楽しく拝見しています。娘さんのいらっしゃる東さんへ大変恐縮な質問なのですが、東さんは自身の子どもが生まれるに際して、反出生主義的な言説(子どもが幸福になれるか分からないのに子どもをこの世界に生み出すことへの躊躇い)をいかにして退けましたか?上記の質問は、先日の東さんの生放送「東浩紀がいま考えていること」のなかで”親にとって子が生まれることは偶然であるが子どもにとっては絶対的”であることの非対称性について言及されていた際に思ったことです。この非対称な親と子の関係の下で、上記の躊躇いはいかに乗り越えられるのか、また親は子どもの幸福という倫理的責任をどこまで引き受け、どこまで開き直るべきなのか、東さんのご意見を伺えたら幸いです。(東京都・20代・男性・友の会会員)
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ぼくの娘が生まれたのは2005年です。当時は反出生主義という言葉はありませんでした。しかしそういう戸惑いはだれでもあり、むろんぼくにもありました。それでも娘ができたのは、べつにその問題を哲学的に乗り越えたからというのではなく「なんとなく」としか答えようがない。そしてそれが本質だと思います。以下はぼく自身の経験としてではなく一般的な話として書きますが、そもそも子どもって欲しいからできるというものでもない。欲しいと思ってもできないことはあるし、逆に欲しくないと思ってもできることはある。また、子どもを幸せにしたいと努力したからといって、必ずしも子どもが幸せになるわけでもない。いくら努力しても子どもが不幸になることはあるし、逆に放置していても子どもが幸せになることもある。つまりは、「子どもを欲しいと思うこと」「子どもができること」「子どもを幸せにしたいと思うこと」「子どもが幸せになること」は、むろんつながってはいますが、しかしかなり独立した事象です。だから、子どもを幸せにできないのではないか、だとしたらつくってはいけないのではないか、欲しいと思ってもいけないのではないか、と遡行して考える必要はありません。それは偽の問題です。親は「なんとなく」子どもをつくるしかない。だって、その結果なにが起きるかは、変数が多すぎてほとんどなにも予測できないのだから。子どもが生まれたあとなにが起きるかも、そもそもどんな子が生まれるかも、否、それ以前に生まれるかどうかもわからない。それでもつくるしかない。生まれた子のほうはそれを責任が伴う大きな決断だと考えるだろうし、たしかに彼/彼女はその行為がなければ存在しないのだからそう考えられてもしかたないのだけれど、じっさいには親からすればそもそも彼/彼女が存在するかどうかもわからずつくっているのだから、それは幻想にすぎません。親は子を幸せにしたいと願うかもしれない。しかし子はそれとは「無関係に」幸せになったり不幸になったりし、しかもそれを親が原因だと思う。そしてまあ、おまえが原因だといわれれば、たしかに親なんだから責めは一身に負うしかない。その関係こそが、ぼくが親と子の、あるいはより一般に加害者と被害者の「非対称性」と呼んでいるものです。親になるということは、その非対称性を受け入れることです。子どもをつくるとはそういうことです。つまり、考えてもわからないことについて、記憶と責任を引き受けるということです。あちこちでいっているように、ぼくは最近は親=加害者側から哲学を組み立てることに関心があります。「親」という言葉に反応して誤解も広がっていますが、それはべつに、みな子どもをつくるべきとかいった単純な主張ではない(というか、そんな主張をぼくがするわけがないと思うのだけど)。そうではなく、加害を恐れるなという主張です。人間は、子どもを作ろうと作らなかろうと、一定時間生きていればかならず親=加害者側に立たされることがある。それを恐れていてはなにもできない。そもそも生きることができない。哲学はその原点に立ち戻るべきだと、「政治的正しさ」に満ちたリベラルの言論界を見てつねづね考えています。そんなぼくからすれば、反出生主義は典型的な子=被害者側の哲学なわけですね。——と、まあ、哲学的な回答はそんな感じですが、プロフィールをみると質問者の方は20代で男性。ぼくもむかし「20代の男性」だったのでなんとなくわかるのですが、その時期の男性、というといまやジェンダー的に問題かもしれないので「妊娠できない生殖器をもつ性自認が男性のひと」といったほうが正確かもしれませんが、とにかくそういうひとは、なんといっても妊娠するのは他者の身体なのでやたらと観念的に家族とか子どもとか考えがちで、きっとこの質問もそういう悩みのはてに投稿されているのだと思います(誤解かもしれませんが)。しかし、じっさいに子どもができればわかりますが、現実はいささかも哲学的ではなく、まったく解釈の余地のない膨大な量の雑事がじゃんじゃかじゃんじゃか襲ってくるだけのたいへん唯物論的な経験です。子どもをつくり育てる可能性を検討するのであれば、じっさいに考えるべきは、反出生主義の乗り越えとかではなく、職場の近さとか家の広さとか保育園の当選確率とか親のサポートとか車の運転免許とか、あと金とか金とか金とかでしょう。(東浩紀)
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genron-voices · 5 years
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なぜ日本を良くしたいと思うのですか?
<ゲンロン友の声>
こんにちは。都内の男子高校生です。質問なのですが、東さんはなぜ日本を変えようと、世界を良くしようと考えるのですか? 今の日本の状況が深刻であり、また現代の人類が多くの問題を抱えている事は理解しています。しかしそれらを考える事や、変えようと何か行動をおこす事は、非常に憂鬱で大変な事だと思います。(多くの人は変わることを望んでないし、自分さえ良ければ世界なんてどうでもいいと思ってる。正しいことを言っても理解してもらえないし、変化の兆しは全く見えない。) 生前の行いが死後どう影響するのかというのは、私たちが人間である限りわかりませんよね。それに東さんは人生は一度きりであると考えているようですが、ならいっそ、世界の最適化(みんなが幸せな社会を作ること) なんて放り出して、自分の人生の最適化だけに労力を注ぐという風にはならないのでしょうか。それでも啓蒙を続ける、そのモチベーションは何ですか? ( 昨年度 「ゲンロン0」 「ゆるく考える」 を読ませていただきました。応援しています。)  ( 東京都・10代・男性・非会員)
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質問ありがとう。で、いきなり出鼻をくじくようだけど、ぼくはそもそも日本を変えたり、世界を良くしたりしようと思ってないんですよ。というか、この30年、日本を変えるとか世界を良くするとかいっていたひとの多くが詐欺師で口先だけという現実を見てきたので、そういう話にはもうほとほとうんざりしているというか……。よく言っていることなのですが、ぼくは1971年生まれで、高校2年の冬に昭和が終わり、高校3年の秋に冷戦が終わり、はじめて選挙権をもっての衆院選では細川内閣が誕生してるんですよね。おまけに20代ではインターネット革命が起きて、もう社会も文化もじゃんじゃか変わってきた。だから、日本は変わる、世界は変わるということには、ひと一倍期待を寄せて生きてきたんです。実際選挙だって、毎回それなりに考えて、この四半世紀、一貫して非自民勢力に票を投じ続けてきた。しかし、で、その結果が現在でしょう。自民党は圧倒的に盤石だし、日本はあいもかわらずの民度ミニマムのセクハラ国家ですよ。今回の参院選も一部ではなにかが盛り上がっているようですが、数年前にも選挙フェスとかいろいろありましてね、そういう繰り返しを見ていると、もうなにもかも虚しくなってくるわけです。だから、ぼくはいまはゲンロンに閉じこもってしまっている。ツイートでもシニカルなことしか書かない。つまり、おっしゃるとおり、「世界の最適化なんて放り出して、自分の人生の最適化だけに労力を注ぐという風に」なっている。——が、しかし同時にここで考えなければならないのは、ぼくはいま、48才だからこうなんだということでしてね。あなたは高校生で18才だそうじゃないですか。さきほども言ったとおり、ぼくは高校生のころ、昭和が終わり冷戦が終わり、やはりいろいろなことを期待しました。そしてそのときに期待して、いろいろ努力したからこそ、いまのぼくがある。もし18才のころ、むかしのぼくがいまのぼくのようになにもかも諦めていたのだとすれば、それはもういまのぼくも存在しないに違いない。というわけで、48才のぼくとしては、18才のあなたに対して世界なんて変わらないというほかないけれども、それにあなたは耳を傾ける必要はないと思います。繰り返すけど、ぼくは、世界は変わるかと尋ねられれば、絶対に変わるはずがないと答える。それがもっとも誠実で正直な答えだと思うから。世の中には、若者に対してやたらと期待を煽る中高年が多いですが、ぼくに言わせれば、彼らはみんなバカか詐欺師かどちらかです。あるていど長く生きていれば、世界がそんな単純じゃないことはわかっているはずです。ぼくはそういう嘘はつきたくない。でもね、それを無視するのもまたあなたの自由です。というか、おそらくは無視しなければ、あなたはなにもできません。というわけで、あなたは、自分のために、ぼくの話など無視するべきだと思います。いいかえれば、「自分の人生の最適化」のためにこそ、「世界の最適化なんて放り出」すことはしないべきだと思います。それは逆説的なことなのですが、人生とはそういうものです。(東浩紀)
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genron-voices · 5 years
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哲学はなぜ100年も前の古典文献を参照し続けるのか?
<ゲンロン友の声>
東さん、twitter上で「哲学はなぜ100年も前の古典文献を参照し続けるのか?」という議論を見ました。趣旨としては、自然科学等では、ニュートン等の古典に立ち返ることは稀で、評価の定まった知見は教科書に集約され+頻繁にアップデートされ、それに加えて最新の研究論文を参照することで教育および研究活動がなされていく。一方、未だに哲学では多くの古典・原典に立ち返る部分が多いのが不思議だという内容でした。私個人の理解では、あくまで程度問題で、哲学の場合は「実験で物理現象に関する仮説検証」したり、「数学の仮定および論理の枠内で証明」をしたりといった誰もが一定のルールのもとで了解できる共通基盤が少ないため、教科書的共通認識ができるまで数百年レベルで時間がかかる(ので例えば教科書だけでなくカントも直接参照する必要がある)と理解しています(逆に言えば、哲学も超長期スパンでは他分野と似た過程を辿っている)。東さんはこの手の疑問に関して、どういったご意見をお持ちでしょうか? (海外・30代男性)
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こんにちは。ゲンロン10の原稿が終わったので久しぶりの返信です。いや、この原稿がまじで最高傑作で・・・とかいうのはともかく、ご質問に答えると、まずは「テーマパーク化する地球」のなかの「人文学と反復可能性」という短いエッセイを読んでくれると助かります。そこにぼくの答えの要点は書かれています。でもまあ読まないかもしれないので、要点を簡単に繰り返しますと、いわゆる理系といわゆる文系(厳密には分けることができないとか、分けるべきではないとか、分けるやつこそ文系脳でバカなんだとか——まじでネットではそういうこと言ってくるひといるんですが——ネットではいろいろ意見がありますが、まあとはいっても世の中ではふつうに分けられているのでわけるとして)、いいかえれば自然科学と人文学は、学の対象が「自然」なのか「人間(社会)」かというところが大きく違います。いいかえれば、探求する対象が、探求する主体(人間)の外側にあるのか内側にあるのか、それがちがうわけです。そしてここからすべての違いがでてきます。たとえば「木」の定義は難しいです。なにをどこまで木と呼ぶのか、そもそも木という分類は科学的に成立可能なのか、いろいろ議論があると思います。しかし、どうのこうのいっても、やはり木は人間とはべつに物理的に存在するわけです。だから木についての知見もまた人間社会の変動とはべつに着々と蓄積できる。他方で「正義」はどうか。これも定義は難しい。なにをどこまで正義と呼ぶのか、そもそも正義という概念は成立可能なのか、いろいろ議論があります。しかし、ここで、その難しさが「木」の難しさと異なるのは、正義はそもそも人間社会の内部にしかないということです。人間とはべつに正義はない。これはいいかえれば、人間社会が変われば正義もまた変わってしまうし、そしてそもそもそのときに、そこでなにが変わったのか、それを測る物差しも存在しないということです。ぼくにとっての正義とあなたにとっての正義、それを比較するための客観的な物差しそのものが存在しないわけです。だから、正義については「実験で物理現象に関する仮説検証」したりとか、「数学の仮定および論理の枠内で証明」するとかは、そもそもナンセンスです。ではどうするか。ふたつの考え方があります。そもそもそんなものについて考える必要はない、正義について考えるのとか時間の無駄、さっさと科学だけやるべしという考えかたです。まあ、それはそれでいいと思います。ネットにいる多くのかたは、質問者さんを含めて、そういう考えかもしれません。けれど、みなさんがどれだけ「正義について考えるのは意味がない」とかいっても、世の中には正義なる言葉はあるし、人々はそれをつかって現実にひとを救ったり殺したりもしていて、そっちは明確な物理的現実だったりするわけです。というわけで、そりゃあ自然科学的に考えるのは無理かもしれないけど、やっぱりなにか考えないとまずいんじゃね?という少数のひとが生まれます。それが哲学をやるということで、ぼくはそのうちのひとりです。で、そんなときどうするかというと、では正義について考えようとして、しかし自分一人でぐぐぐぐと考えていても限界はめっちゃあるわけで、やっぱりだれかほかのひとのの考えも学んだほうがいいだろうということになります。そこで要請されるのが古典です。だから、人文科学の古典は、自然科学とは異なり、それが真実として人々に広く認められたから、その実証性が確認されたから、その結論を前提として受け取るために読むのだ、というようなものではありません。だから哲学に発展も蓄積もないのはあたりまえで、そもそも、ソクラテスの正義とカントの正義とレヴィナスの正義と、それを比較考量するような物差しが原理的にないのだから(というかそもそも彼らはみな正義をギリシア語、ドイツ語、フランス語の正義に相当する名前で呼んでいたわけで、それもそもそも意味は微妙に違うわけだし)、そんな蓄積などできるわけがないのです。そうではなく、人文学においては、古典というのは、たんに、自分だけでものを考えるのに限界があるから読むだけのものなのです。それがおもしろいと思うかくだらないと思うか、それは質問者さんの選択です。ただ、愛や心や正義や真理や欲望や知といった概念は、この意味ではすべて人間の外側にはなにも物理的には存在しないものなのであって、もし質問者さんがそれらの概念あるいは言葉に足を踏み入れようとすれば、必然的にぼくと同じように、「評価の定まった知見は教科書に集約され+頻繁にアップデートされ、それに加えて最新の研究論文を参照する」なんてことは永遠にない世界でさまよい続けることになります。それが哲学というものです。三度繰り返しますが、それがくだらないというひとがいても全然問題ないです。ただ、ぼくはそれが好きだからやっているだけです。そもそも「好き」という概念が哲学的なものですが。(東浩紀)
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genron-voices · 5 years
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ゲンロンβ37読者アンケートより
こんにちは。ゲンロン代表の上田洋子です。Tumblrへの投稿はあまりに久しぶりで、手探りでの作業です (汗)
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『ゲンロン10』の原稿執筆に邁進している東浩紀に代わって、読者の皆様から寄せられた『ゲンロンβ37』の感想をご紹介させていただきます。『ゲンロンβ』は弊社ゲンロンが発行している月刊の電子批評誌です。37の目次はゲンロンショップのサイトからどうぞ。このサイトではePub版をご購入いただけます。amazonでkindle版の販売もあります!
6月刊行の東浩紀の新著『テーマパーク化する地球』、みなさんもう読んでいただいていますか。震災後のテクストから、旅と慰霊、テーマパークと批評を軸に編んだ著者自選のエッセイ集です。「人間が人間でいるために」悩みながら思考する東浩紀のテクストを追っていると、わたしたちがどういう時代に生きているのか、深く考えてしまいます。まだお持ちでない方は、ぜひご購入ください! 一般書店のほか、ゲンロンショップ、amazonでも販売しています。
β37では、この『テーマパーク化する地球』から、表題作「テーマパーク化する地球」のうちの「2012年3月 カリブ海」および「ニセコの複数の風景(スケープ)」を掲載しています。まずはこちらの論考への感想をご紹介します。
テーマパーク化する地球、毎晩、一つ二つ読んでから寝ています。なんと贅沢なことかと感じます。とびきりの思考と散文を幾晩も味わえる喜び!東さんの文章はリーダブルで、かつ、再読、再々読に耐える。Strategy, scope, structure, skeletonが半端ではないからです。その上で平易なあるいはノンシャランとしたsurfaceがかぶせられている。
「幼児や高齢者や障害者といった社会的弱者が安心して船旅を楽しめるのは、このクルーズが徹底して「嘘」で守られているからである。」高度な資本主義が、公共性を達成してしまう逆説。この一節を読んで、サブプライムローンのことをふと思い出しました。リーマンショックの元凶と呼ばれる仕組みに、果たしてそのような逆説はなかったのだろうか。とんだ見当外れだったとしても、そんな風に読者を別の思考へと誘う力を秘めた考察に満ちた新しい観光の手引きです。
建築設計事務所で主に公共建築の意匠設計に携わりながら、家では三児(4歳、2歳、0歳)の父である僕にとって、今回の東さんの文章は深く考えさせられるものでした。設計者としての自分の中には、テーマパークやショッピングモールなどが持つ「嘘」に対して、これまで受けてきた建築教育に起因する拒否反応があって、自分としては出来るだけ「嘘を排除した本物」を作りたいと考えている所がありました。一方、休日の父としての僕はというと、そんな「嘘」をまとった(と設計者の僕が感じている)ショッピングモールやテーマパークを頻繁に利用しているのでした。
テーマパーク(やショッピングモール)を「新しい公共空間」として眺める東さんの視点は、設計者としての僕にとっては非常に新しいものであると同時に、父としての僕にとってはとても自然な考え方として了解可能なものでした。そんな少し矛盾した自分の感覚をうまく統合しながら、新しい公共のあり方について考えてみたいと、今回の東さんの文章を読んで思うようになりました。
みなさん掲載論考だけでなく、書籍全体に感想をくださっていてありがたいです。『テーマパーク化する地球』読者アンケートは8月末日まで受け付けていますので、まだのかたはぜひこちらにご感想をお願いします!(アマゾンレビューもぜひ。。)著者も編集者も、読者の反応が気になってしょうがないのが正直なところですw
あいちトリエンナーレでジェンダーフリー旋風を巻き起こしている津田大介さんによる特別寄稿「ジャーナリストが芸術監督になるということ」もたいへん人気でした。
かつて平田オリザが、新しい芸術は(アートは)手の内を見せて、なおかつワンダーをもたらすものだ。と書いていました(少し言葉は違うかもしれません)。津田さんが、ここでやっておられることは、まさにこれです。あいちトリエンナーレ2019の舞台裏を、芸術監督としての広報戦略をばらっと開示している。それも、かなり具体的に踏み込んで。ゲンロン、東さんとの関係なしには書かれ得なかった、また読まれ得なかった文章だと思います。あいちトリエンナーレ見に行きます。よろしくお願いします。
津田大介さんの論考で面白かった点は、あいちトリエンナーレの具体的なアクション決定に至るまでの文脈が分かりやすく示されていた点です。津田さんの意思決定の重要な場面で常に東浩紀さんとの関わりが示唆され、人との関係性の中であいトリが今の姿になったことが筋道を立て説明されていたところにこの論考の良さを感じました。あいトリに関する情報が平板なものから、立体的になるような論考でした。
津田さんの問題提起をきっかけに、さまざまな議論が交わされるようになっていますね。これまで美術に関心を持たなかったかたでも、今年は行ってみよう、と思われたかたは少なくないのではないでしょうか。わたしもあいちトリエンナーレは楽しみです!
人気の「つながりロシア」、この号では保坂三四郎さんに、ユーロマイダン革命から5年が過ぎたウクライナについて書いていただきました。古くからの会員のかたはご存じかと思いますが、保坂さんには以前、このメルマガが別の名前だった時代に、セルゲイ(セルヒー)・ミールヌイさんのチェルノブイリ事故処理作業を扱ったドキュメンタリー小説を翻訳・連載していただいていたのです。いまはウクライナ在住で、ウクライナ語も堪能でいらっしゃる保坂さんの現地レポート、前号の高橋沙奈美さんのウクライナ正教会分裂についての論考とならんで、とても貴重な最新情報が満載でした。
この論考は記憶継承のあまりの難しさを構成の面からしっかりと示している部分にすごみを感じました。非共産化の話から始まり、ユーロマイダンへ至り、選挙の話が少し語られるという内容の論考でしたが、これは恐ろしい構成だと思います。様々な形で記憶を継承し、大祖国戦争を第二次世界大戦と公式な場面で言い換えたりと策を講じ、実行に移し、ある程度の成果が上がったのにもかかわらず、歴史がイシューにならなければ選挙に勝てないことが国のお財布を管理しているかのような若者同士の会話の挿話とともに語られます。五年という短い期間のあまりの長さについて考えてしまいました。
ゲンロンβは毎号、無知な私に地誌や歴史の生々しい切断面を伝えてくれます。ユーロマイダン。ニュースの解説程度には知っていました。しかし、当たり前のことではありますが、その一言の中に、人々の暮らしが、いや、もっと有り体に言うと生と死がうずたかく積み込まれているのでした。
押さえた筆致にかえってその匂いと光景を思い浮かべずにはおれません。 つながりロシア、ゆっくり何度も読み返します。いつか来るかもしれない「次」にそなえて。人の喜びと憎しみがいかに衝突し和解するのか、一神教を持たない私が、決断を迫られたときに、どうするのかのレッスンになるから。
そして、星野博美さんの「世界は五反田から始まった」。この号では五反田に遊びに来た香港の友人たちとの会話から、香港と五反田の歴史が展開されていくエッセイでした。デモに湧く香港の話題でわかりやすかったのはもちろん、文章も今回からぐっと文学的になり、今後の展開がとても楽しみです。
今回は、香港の祝日を通して、香港と中国の関係性を記したところから始まる。香港のデモも今まさに実施されていて、タイムリーである。星野さんのTwitterから憂慮が伝わる。そして、星野さんと親友家族の会話や質問から始まる五反田と香港の類似と差異。彼との会話、そして彼のリアクションの後に記される星野さんの思索という文章のリズムが心地よく、引き込まれる。後半は戦争にまつわる話が出てきたことで、少し重たい感じもしたが、なぜ今の風景があるのか外部の視座と会話から広がっていく世界を疑似体験した気がする。
さて、β37からはじまった「読者の声」、思いもよらぬ反響がありました。
今回、特にうれしかったのは「【新コーナー】読者の声」でした。
この企画が単なる運営・制作と読者の交流の場ではなく、多様な読者が交差・交通するものになると良いなと思います。そんな試行錯誤として。 
亡霊建築論 第1回 ロシア構成主義建築と、アンビルトのプログラムの感想「建てることに抗うようなアンビルトのプログラムが組み込まれた建築」プログラムが組み込まれた、という考え方は思いつきませんでした。そんな目も携えて次回の稿を待ちます。 
スマホの写真論 第20回 グーグルがあなたの『思い出』を決めるの感想「子供の成長をスマホで撮影し続けると、撮影する側の親は観察者であるが、被写体である子供はその大量の幼少期の写真をどう受け止めるのか?」映像作品で登場人物(しばしば亡くなっている)の幼い頃のビデオを見る人物(大抵親か本人)というのは定番に近い演出だと思いますが、これが大量になり、デジタルになり、しかもクラウドに残されているというのは、確かにクラクラするような状況だと思いました。考えること、表現できることがたくさんありそうです。 
SNSで読者同士が意見を交わしていらしたり、会員同士がつながったりしているのを見かけることがありますが、あれはじつはとても嬉しいんです。テキストと読者、著者と読者だけでなく、読者と読者をつなげる雑誌を目指したいです。
なお、「毎号楽しみにしています」「保坂さんの記事をはじめとして分量も質も濃い内容だった」「津田さんが見事に仕事をまとめあげた過程を拝見できてよかったです」といった短いご感想も嬉しく拝読しています。長くても短くても、どんなものでもけっこうですので、ぜひご感想をお寄せください!
と書いているあいだに『ゲンロンβ38』が配信されました!!読者のみなさまのご感想、お待ちしております!!!!!次号のアンケートはこちらからお願いします。
友の会へのご入会もお待ちしております〜
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genron-voices · 5 years
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期限内に読みきれない資料を処理するときに気をつけていることは?
<ゲンロン友の声>
こんにちは、いつもゲンロンのメルマガでもカフェの配信でも楽しませていただいております。私はいつも東さんが友の声に答え始めるとつい質問してしまうやつです。すみません。今回の質問は、かなりしょうもない質問です。私は、新記号論をゆっくりと読んでいるのですが。いつも内容を理解できているかどうか不安になってしまい、なかなか読み進めていくことができません。以前、東さんは、ゼロアカの最初の課題として1時間以内に自分の読んだことのない本についてのレビューを書くというものを出していらっしゃったと記憶しています。そこで、東さんが、どうしても期限内に読みきれない資料を処理するときに気をつけていらっしゃることは、ありますでしょうか。それともわからなくても読み進めていけばいいものでしょうか。レベルの低い内容ですみません。ご回答いただければ幸いです。(埼玉県・30代男性・友の会会員)
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読解には2種類あります。(1)わからないことをわかろうとして読む。(2)わかるところだけ読む。この2つです。むろん本当はすべての書籍について(1)をやるべきです。どんな本にも、自分の知らないこと、わからないことが書いてるはずです。それを理解してこそ人間の成長はある。とはいえ、そうは言っていられないときもあります。大きな声では言えませんが書評の締め切りが迫っているとか、カフェのイベント時間があと1時間しかないが対談相手の新著を壇上で紹介しなければならないとか、そういうときです。そのときはどうするか。これはもう(2)しかありません。徹底してわかるところだけ読む。それでもいちおう読んだとはいえる。というか、ぶっちゃけ、多くの書評なんてどうせ(2)しかしていません。というわけで、質問のような局面にぶつかったときには、そこは割り切って(とはいえ多少の罪悪感ぐらいはもっていたほうがいいと思いますが)(2)に邁進しましょう。具体的にはこうです。1見開き5秒ぐらいでただひたすら全ページをめくる。基本は「見る」だけで、キーワードが目に入ってくるのを待つ。気になったところだけは前後を読む。本全体を読んだという印象を与えるためには、これも2つのパターンがあって、ひとつは「著者はAを言った、しかし途中でBに行き、最後はCになる」というふうに「物語」として著書の展開を抑えるパターン、もうひとつは、著書のなかで自分の知識と近いところを探し出し、それについて自分の意見やコメントを加えるというやり方です。前者でいきたいならば、ページをめくりつつも、著書の継起的な展開を抑えるよう感覚を研ぎ澄ませていなければなりません(ビデオの早送りみたいなもんです)。後者で行くならば、問題のポイントがひとつだけでは説得力がないですし、さすがにキーワードだけに反応しても読んでいないことがバレバレなので、数カ所止まるところをつくり、その前後を少し時間をかけて読む必要があります。いずれにせよ、そんな感じにすれば、そうですね、たい��いの新書なんて15分くらいで「いかにも読んだふう」の感想を語れるようになるのではないでしょうか。なんか自分の仕事についてヤバいネタバレを書いてしまったような気もしますが、とにかくそういうことです。ただし、最後にいっておきますが、これは「本当の読書」ではないですからね! それは誤解しないでね!(東浩紀)
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genron-voices · 5 years
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ゲンロンβ36読者アンケートより
こんにちは。ついにツイッターのアイコンを変えた東浩紀です。ついに娘離れの時……。こちらのアイコンは古いまま(Facebookヴァージョン)のようですが、変更は面倒なようなのでしばらく大目にみてください。
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さて、恒例のアンケート紹介企画です。今回は『ゲンロンβ36』です。恒例のとかいっても、本当は先月から始めたばかりなんですけどね。アンケート紹介企画とはなにか、そもそも『ゲンロンβ』とはなにかと思うひとは、とりあえず先月の記事をお読みください。リンクはこちらです。『ゲンロンβ36』の目次はここから読めます。
そしてこの記事が投稿された日(5月30日)の午後には、ちょうど『ゲンロンβ37』が配信・刊行されているはずです。『ゲンロンβ』の購読には、ぼくたちとしては友の会に入会してくれるのがいちばんありがたいですが、どうしても友の会には入りたくない、東の味方だと思われたくないんだ!というむずかしい事情をお抱えのかたは、AmazonのKindleなどでも個別に購入できます。この記事がおもしろかったら、ぜひ36だけでなく37のほうも買ってくださいね〜。
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ではさっそく行きましょう。
まずは今号からの新連載、本田晃子さんの「亡霊建築論」について。これはかなりの反響があって、いくつもアツい感想が届きました。2つ紹介します。
建築というのは、建てられ、そこにあり続けることに意味があるものだと思い込んでいたが、アンビルドという亡霊の話���大変興味深かった。アンビルドであればこそ場所や時間に縛られず、ありえた現実を想起させる装置となる。ソ連という大国が崩壊して30年足らず、生々しい亡霊の可能性を感じさせる論考であった。この先の展開も非常に期待している。
「「建てられた」建築の背後には、無数の「建てられなかった」建築が存在する。」もうこの書き出し一発で(あ、この人文章上手い。)と確信しました。そして僕のその確信は見事的中し、最後までとても面白く、いろんな人に話したくなるように上手く纏められた文章だと思いました。キャッチーなキーワードが並べられてるからでしょうか。「アンビルド建築」「労働宮殿」「ヴェスニン兄弟」「構成主義」・・・。おぉっと、全然内容に触れていませんねw 上記のキーワードから語られるロシアの理想主義的な突っ走りが面白かったです。よく訪日外国人が日本の文化に触れて「どうしてこうなったw」と感じるように、発想の出どころが全く推測できないものへの興味関心を掻き立てられました。
この連載、ぼくもとても期待しています! 本田さんはイベントでもおもしろいんですよねえ。個人的にめっちゃ期待していて、ゲンロンカフェにもどんどん来てほしいと思っています。
つぎに今回は飴屋さんの弓指寛治展評も大人気でした。
序文で上田さんが書いていたテキストのかたちでの美術展示の追体験は成功しました。順序立てて解説とコメント、作品の図が入るので一つのドキュメンタリー作品を観ているかのようでした。しかし劇的なクライマックスとエピローグめいた展示もあり、大変貴重な読書体験をさせてもらいました。ありがとうございます。「芸術ってこう観るのか〜」と素朴に感心できるライトな層にも、深く刺さる表現がありました。(何を偉そうに、僕こそがそのライトな層なのですが・・。)凄い絵一枚見せられてただけでは「凄い。」の一言で終わるのですが、本当に凄い絵と解説が入ることによって「ダイナマイト心中」という絵の細かいところにまで目線を注がせる力が働くのかなと思いました。
成果展に関しても、同様にそこに置かれている物や仕掛けを「読む」事が基本なんだなと思いました。そして「読む」にはまず文法を理解する必要があって、その文法はやはりテキストというかたちがとても適してると。
この原稿はかなり不思議な作られ方をしていて、まずは飴屋さんから弊社上田に送られた個人的なメッセージから始まっているんですよね。それを上田が掲載用に再構成し、それに飴屋さんが手をいれて、そしたらさらに弓指くんも文章を寄せることになって……というわけで、結果的に3人の往復書簡みたいなテキストになっている。それがまた弓指くんの会場構成とうまく呼応しあっていて、内容がおもしろいだけでなく、形式的にもじつに稀有な展評になっているので、未読のかたはぜひお読みいただければ、と思います!
つぎに、今回もアンケート人気ナンバーワン(そう、じつはひそかに毎回順位が出ているのです……)の大山顕さん。
私は大山さんのファンなのですが、それは大山さんの文章を読んで、何回も何回もなるほどなるほどと思って、思うだけでなくて、必ず考えることができて、その考えることがいつまでも残り続けるからです。「別の名称が必要だと思うが、まだいいネーミングが思いつかない。」という<言葉>に対する非常に丁寧な態度への共感でもあります。思いつくこと、と思いついたその思いつき方をともに大切にしている宝物のような作家です。
「宝物のような作家」!! すごい! これは大山さんも元気が出ますね。じっさい、大山さんって、写真はきれいだし、パワポもすごい(なによりも量的にw)けど、文章がほんとうに読みやすくてうまいですよね。単行本化にむけて、弊社もがんばっていきます。
続いて、「つながりロシア」担当の高橋沙奈美さんに寄せられた感想。
今回、この論考に一番やられました。全く知らなかったことばかりでしたが、私が普段意識することのない宗教・民族・国家の界面を淡々と描いた超一級のルポルタージュでした。占拠された教会の司祭の妻の「キリスト教徒は楽観主義者なの。希望は最後まで失わない」という言葉がひどく痛切に感じられました。また次の論考も期待しています。
この「つながりロシア」、旧ソ連圏という縛りがあるものの(弊社代表の個人的な趣味のせいで……w)、毎回毎回かなりディープな海外事情が書いてあって、ぼくもとても勉強になっています。とくに今回のウクライナ正教とロシア正教の分離の話なんて、ほかのメディアには掲載されていない、けれどもじつに興味ふかい現在進行形の話だと思います。「つながりロシア」もいつか本にまとめることができたらいいですね〜。
そして最後に、「今後取り上げてほしい内容」として寄せていただいた声。
東さんの情報自由論や一般意思2.0、ISED等の文章を楽しく読んできた者です。 「新記号論」は読者のリテラシーを上げてくれる、というか目を開かせてくれるものでした。そして何より「自分は勉強をさぼっていたのだな」と深く思わされました(これ本当に大きい衝撃でした)。東さんはよくハッカー文化の話をされますが、DIY的である為にも、是非今後も読者・視聴者へのそのような啓蒙をお願いします。
ISEDを覚えていてくれた読者さんがいらっしゃったとは! 嬉しいです。
『ゲンロン』第1期は、ちょっと文系というか批評の伝統継承という目次に振りすぎてしまったところがあって、最近は情報社会系やネットカルチャー系の議論が手薄になっているんですよね。けれども、むろんぼく自身としては、そこも自分のホームというか、アイデンティティのひとつだと考えています。『ゲンロン10』からはそこらへんを少しずつ復活させていくつもりですので、ご期待ください。
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それでは、今回の紹介はここらへんで。むろん、ほかにもたくさん感想をいただいていて、それらもすべて目を通しています。『ゲンロンβ36』には、ほかも星野さん、吉上さん、吉田くん……と注目原稿があって、そちらへの感想もみな紹介してお答えしたいのですが、それをやっているとほかの仕事ができなくなるので、なにとぞご容赦を。アンケートについては、編集部内で読むだけでなく、ときおり担当者から著者さんへも転送しています。著者さんへの励ましの言葉もいただければ!
そうそう、前回このアンケート紹介欄で「すべての原稿についてアツく感想を寄せてくれるひとがいたので全文紹介します」と書いたら、なんと今月は3人もの方々がすべての原稿についてアツく感想を寄せてくれました!(笑) それぞれたいへんなボリュームで、とてもここでは紹介できなくなってしまったのですが、ぼく以下編集部一同、ありがたく読ませていただいています。本当にありがとうございました。
このアンケート、ゲンロンにとってとても大事なものです。これからもどしどし感想をお寄せください! そして『ゲンロンβ』次号もよろしくお願いいたします!
ではまた来月〜。
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genron-voices · 5 years
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「ゲームの時代」刊行記念イベント一連の動画をまた公開する予定はありますか?
<ゲンロン友の声>
「ゲームの時代」刊行記念イベントの一連の動画ですが、また公開する予定はありますか?ゲンロン8の雑誌とはまた違った角度からの知見に満ちた座談会で、見るたびに発見があり、何度も楽しく視聴しておりました。私自身個人でゲーム制作をしており、ゲンロンの議論は勉強になるのはもちろんのこと励みにもなっていたので、ぜひまた公開してほしいです。(山口県/33歳/男性/完全中継チャンネル入会中/友の会未入会)
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リクエストとご感想ありがとうございます!『ゲンロン8』刊行記念イベントは、各回それぞれ多彩な議論が展開して、個人的にもたいへんオススメの内容です。 第1回目の美術史家の松下哲也氏さんによる意欲的なプレゼン、 第2回目の反復性と追体験をめぐる刺激的な議論、第3回目の現代美術シーンに絡めたゲーム/アートの可能性、第4回目のゲンロンカフェならではのディープな美少女ゲーム/ヴィジュアルノベル談義と、見どころが満載です。 ゲンロンカフェのイベントは、ニコニコ生放送(ゲンロン完全生中継チャンネル)での生放送・再放送のほか、同チャンネル内でアーカイブ動画を公開しています。チャンネルの月額会員は、アーカイブ動画も含めてすべて見放題なので、たいへんお得です。またVimeoにも、ニコニコのチャンネルとは別にアーカイブ動画を公開しています。 『ゲンロン8』刊行記念イベントシリーズでは、既にアーカイブ動画を公開しているものがありますし、今後も定期的に再放送を行う予定です。 ほかにも再放送・アーカイブ化して欲しいイベントのリクエストは随時受け付けておりますので、メールやTwitterなどでお気軽にお寄せください。 ちなみに、『ゲンロン8』刊行記念イベント第2回は、電子批評誌『 ゲンロンβ32』 『ゲンロンβ33』に記事化されたものが掲載されています。 好評販売中の『新記号論』もそうですが、ゲンロンカフェのトークイベントは文字として読み返すとさらに理解が深まり、あらたな発見があります。出版とトーク、ぜひ合わせてお楽しみください!(堀内大助)
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genron-voices · 5 years
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人類より賢い生物がいた場合、人類はどうなるでしょうか?
<ゲンロン友の声>
思考実験として、人類より賢い生物がいた場合、人類はどうなっていたと思いますか?その生物に人類は滅ぼされてしまうのか、神という概念はどうなっていたのか。東さんに聞くことではないかもしれませんが、あまり詳しく書かれているところがなかったので、ここで質問させていただきました。お答えいただけると嬉しいです。「ゆるく考える」買って読みました。悪と記念碑の問題が面白かったです。(10代・男性・友の会非会員)
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人間を超える知性は存在するのか。存在したらそれはいかなるものか。これはぼく自身、子供のころから考えていた問題です。SF読者でしたからね。で、いろいろ考えをめぐらした結果、ぼくとしては、この問いの要はつぎのような問いに集約すると考えています。知性とは0か1かのものなのか、それとも段階的なものなのか。前者だとしたら、人類は知性を獲得した、それでOKです。今後ほかの地球外知的生命体に出会ったとしても、おたがいいろいろ文化的な違いはあるよね、でもやっぱり同じ知性体だよねで話は済む。人間と動物を言語の有無で峻別する20世紀の人文科学は、こっちの発想だといえるかもしれません。知性とは人間性のことであり、したがってすべての知性体は人間の似姿としてあるはずだ、という前提。むかしのスペースオペラもそんな感じです。けれども他方、後者が正しいのだとしたら、人類は知性を獲得したけれども、それはレベル10ぐらいでしかないのかもしれず、今後レベル20に進化するのかもしれないし、あるいは今後宇宙からレベル100の知性がやってくるのかもしれない。そしてレベル30ぐらいからの(適当な数字ですよ)知性体はもはや神なんて概念は必要としないかもしれないし、それどころか倫理とか言語とか文化とかの定義そのものがラジカルに違うかもしれないので、そんな存在とはもうまともに話なんてできない可能性が高い。最近のSFはこっちのほうが多くて、IT系でもシンギュラリティとか言っているひとはこっちのイメージで知性を捉えてますね。で、このどっちが正しいのか。しょせんはレベル10の知性体であるぼくには、むろん答えがあるわけはありません。しかし、最近ぼくが思っているのは、結局のところぼくたちは人間であり、人間に生まれて人間として死ぬのだから、レベル10ならレベル10で、レベル10なりの哲学を考えるしかないし、哲学とはそういうものでしかないのではないか、ということです。かりに人間よりも賢い存在がどこかにいたとして、その存在がなにかすごいスーパー哲学を展開していたとしても、それは結局のところ人間には理解できないのだから、ぼくたちには関係ない。つまりは「賢い」という尺度を導入して話をすること、それそのものがじつは人間にとってはあまり意味がないのではないか。そんな気になってきたわけです。むろん、世界の法則を理解すること、世界を物理的に支配すること、その優越については尺度が作れます。たとえば光速度を超えたらレベル30とか。しかし考えてみれば、それは知性ではなく物理学の理解の尺度であって、それ以外に「賢さ」をつくるとして、はたしてそんな基準がありうるものなんだろうか、と思うわけです。たとえば、人類が編み出した仏陀の解脱はしょせんはレベル10で、レベル30のブッダ(AIブッダ?)はもっと「賢い解脱」ができるとか、そんなことがありうるのだろうか。ありうるとして、それはなにを意味するのか。で、長々と話しましたが、最初の質問への答えです。Q1「人類より賢い生物がいた場合、人類はどうなっていたと思いますか?」 A1「なんともならない。関係ない」。Q2「その生物に人類は滅ぼされてしまうのか」 A2「その生物が人類を滅ぼしたいと願っていて、人類が対抗できなかったら滅びる。つまりは賢いかどうかではなく、欲望と技術力の問題」。Q3「神という概念はどうなっていたのか」。A3「神の概念はあいかわらず存在していただろうけど、人類よりも技術力がある存在が近くにいた場合は、それと神は違うということにしなければならないので、いろいろイメージは変わっていたはず」。こんな答えになります。(東浩紀)
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genron-voices · 5 years
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「より良い憲法」を作るために必要なものとは?
<ゲンロン友の声>
改憲派の東さんに質問です。私もどちらかといえば改憲派で、現実や時代に則した憲法が必要だと考えています。しかし自民党の改憲草案は所々に明治憲法を思わせるような内容が含まれています。安倍政権の最後の三年間で改憲が現実味を帯びても、今の野党は心もとなく国民の関心も低いなか、まともな改憲論議ができる状況が来るとは思えません。そこで質問ですが東さんは安倍政権下での改憲に賛成なのでしょうか?また「より良い憲法」を作るために不足しているものとは何でしょうか?(東京都、20代、男性、友の会会員)
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質問ありがとうございます。ぼくが改憲派である理由は、近刊の『テーマパーク化する地球』でも書いたのですが、単純に9条にあります。9条はふつうに読めば軍隊をもたないと書いてある。そしてふつうに考えれば自衛隊は軍隊です。けれど専門家は9条と自衛隊は矛盾しないのだと専門家にしかわからない理屈をいう。むろん、護憲派の人々はそういう理屈をつくることで平和を守りたいのでしょうが、結果的に起きているのは国民がどんどん憲法について自分の頭で考えなくなっていくという状況だと思います。ぼくはそういうのはよくないと思うので、改憲したほうがいいと思うわけです。さて、で、そのうえで回答ですが、安倍政権下での改憲に賛成か否か、これへの答えは当然のことながら、安倍政権が(あるいはそれを引き継いだ次の政権が)提出する改憲案に賛成か否かに依存します。要は是々非々です。ぼくは安倍政権にはいろいろと批判的ですが、安倍政権がやることはすべて拒否だという立場はとりません。そのような「全面否定」はむしろ政権の頑なで強権的な態度を強くするだけだと思います。そして最後に、「より良い憲法」を作るために不足しているものとは何か、つまり必要なものとは何かという問いへの回答ですが、それはぼくはシンプルに、「国民が読んで素直にわかる憲法を作るという態度」だと思います。今後どのような改憲が行われるとしても、そこでもまた「憲法にはこう書いてあるけど、それはあくまでも建前で、ほんとうはこれこれの事情でなんとか」みたいな「大人の事情」的な態度が残るのであれば、改憲には意味がないと思います。政権は憲法に書いてあることを守る。国民はそれを監視する。そのために憲法は国民の常識でわかる日本語で書かれる。この原則を徹底しなければなりません。裏返していえば、自衛隊の必要性を認めるなら、軍隊をもつと堂々と憲法に書くべきです。同性婚の必要性を認めるなら、婚姻は性によらず可能だと堂々と書くべきです。いまの日本国憲法でなんでもできるのだ、という護憲派の一部の態度は、憲法解釈の権利を一部専門家で独占するものであって、むしろ国民と憲法の距離をどんどん大きくする反立憲主義的な態度だと考えています。(東浩紀)
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genron-voices · 5 years
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VIMEO動画のリクエスト
<ゲンロン友の声>
初めまして。Vimeo動画再放送のリクエストをさせてください。2013年頃ゲンロンカフェにて新城カズマさん、海猫沢めろんさんのお二人がゲストを招いて行った「読者工学論」という全6回のイベントについて、それぞれ再放送をお願いできますでしょうか。全6回中、第1回~第3回あたりまでは実際にイベントに参加させて頂いていたのですが「このイベントは後ほど書籍化されます」という話が登壇者のお二人からあったこともあり、途中からは参加を見送っていました。しかしそれから5年近く過ぎた現在、さまざまな事情はあるのでしょうがさっぱり音沙汰がなく(苦笑)、参加しなかったことを非常に悔やんでおります。小説を書く際の参考にしたく思っておりますので、動画の配信を強く希望します。宜しくお願い致します。(青森県、30代、男性、友の会非会員)
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リクエスト、ありがとうございます。「読者工学論」は酒井邦嘉さん、穂村弘さん、鏡リュウジさん、ZUNさん、松岡正剛さんと、いま振り返っても多彩、かつ豪華なゲストをお迎えしており、隠れた伝説のイベントシリーズですね。書かれておられるとおり、じつはこのイベントは他社での書籍化を前提としたイベントで、生放送もしませんでした。そのためVIMEOでの配信というのは難しいのが現状です。でもあれだけのイベント、そのまま寝かせてしまうのはもったいないですよね。なんらかのかたちでお目にかけることができないか、各所にご相談などさせていただきたいと思います。お約束はできませんが、気長にお待ちください……!!(徳久倫康)
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genron-voices · 5 years
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ゲンロンβ35読者アンケートより
こんにちは。復活した東浩紀(5.0)です。
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さて、弊社では毎月『ゲンロンβ』と題する電子批評誌を出版しています(タイトルのβは環境によってはただの「B」に表示されている可能性があります)。会員向けメルマガでもあるという位置付けから、どうもあまり内容のガチさが伝わっていない嫌いがあるのですが、『ゲンロン』本誌が年2回刊行(しかも今期は1号しか出ない!)となったいま、じつはゲンロンの動向を伝える主力媒体に成長しつつあります。そんな魅力をみなに知ってほしい、ということで、今月から各号に寄せられたアンケートのいくつかを紹介していくことになりました。近々リニューアルも予定しています。
『ゲンロンβ』は、友の会会員に配布される会報誌ですが、単独でも販売しています。直販サイトではePub形式で、またAmazonではKindleで販売しています。値段はわずか500円。いや、それどころか、なんとドワンゴのチャンネルで読むという方法まであるのです。『ゲンロンβ』を読むためには、かならずしも友の会入会の必要はありません。
ゲンロンがいまなにを考えているか知りたいかたは、いちど騙されたと思ってお読みください!
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さて、それではアンケート紹介です。
まずは小松理虔さんの「浜通り通信」特別回について。
2011年3月11日を大学院の卒業旅行で訪れていたアメリカで迎えた僕にとって、東日本大震災はずっと、どこかフィクションのような、うまく理解できないものでした。日本で何が起こってのか全く理解できない自分たちをよそに、道行く人に心配されたり励まされたりとなんだか奇妙な体験をアメリカでしました。生まれてずっと関西で育って、大学生活も関西で過ごしたものの、その年の4月から東京の設計事務所で働くことになりました。全く実感もわかないまま、計画停電で薄暗かった品川駅に着いた時のいいようのない不安な気持ちは今も忘れられません。
そんな風に、震災を直接体験していないからこそ、だからこそ、震災関連の書籍や文章には強く反応してしまうところが今もあります。新復興論で触れた小松さんの文章はこれまで読んできたどの震災関連の言説とも違うものでした。うまく言えませんが、とても震災に近い、というか、素直なものとして受け取れました。自分の中にある、震災に対する欠落感のようなものを補うには、小松さんの書く文章のような、とても具体的で、生々しい空気感が必要だったのではないかなと思っています。被災地の復興はまだ終わってませんし、むしろその復興によって失われたものもまた多くある。どうすればいいのか、どうすればよかったのかは分かりません。が、震災を経験できなかった僕にできる、自分なりの震災への、復興へのアプローチやコミットの仕方を見つけたい、と小松さんの文章に触れて思うようになりました。
ありがとうございます。小松理虔さんとの出会いは、ゲンロンのいまの方向性を決める大きなものでした。ゲンロンの最初の単行本が小松さんの本で、そしてそれが広い読者に受け取られて、本当に良かったと思っています。福島第一原発観光地化計画も、彼の本で救われましたね。やってよかったです。
続いて大山顕さんの連載への声。
大山顕さんのSNS以降の写真論。とても刺激的でした。SNSによって写真が撮った瞬間から即ネットワークに繋がること自体が画期的であるし、即ネットワークに繋がることを前提としてアプリも設計されている。そうして撮る者と観る側が写真の行為者として大きく質的に変容していく現象が、軍事オペレーションとその倫理、さらに原爆投下までを「卑怯」という言葉で結びついたことに読み手として非常に刺激的でした。ジャンクションが多くの人の目に触れることを願っています。
あの写真論、毎回楽しみですよね。「スマホの写真論」は現在単行本化に向けて作業中ですが、出版されたらかなり話題になるのではないかと思っています。5月には関連イベントも行いますので、興味がありましたらぜひお越しください〜。
続いて意外な声。
自分は今金沢大学に通っているのですが、この前そろそろ新学期の履修登録だなと思ってどんな授業があるのか調べていました。するとロシア語の先生として平松潤奈先生がいらっしゃることに今更気づき、これは履修しなければと思って、四月からはロシア語を受講しようと思っています。夏にはチェルノブイリツアーに行けたらいいなとも思ってます(今年は院試があるのでちょっと無理かもしれないけど)。また平松先生に登壇していただけたらうれしいです。
おお! そんな繋がりが。そういえば上田の早稲田のロシア語授業にも今年はゲンロン読者が現れたという噂・・・。平松さんには、むろんぜひまたご登壇いただきたいと考えています。ゲンロンではそのほかも定期的にロシア関係のイベントを行なっているので(そしてそれは上田洋子新体制になって不可避的に増える予定でもあるので笑)、楽しみにお待ちください!
そして次の声も多かったです。
東浩紀さんもお元気になられつつあるようで良かったです。上田さんはじめ皆さん、大変かと思いますが、ゲンロンを応援していますので、無理せずに末永く活動いただきたいです。
同様のお手紙、多数です(涙)。みなさん、ありがとうございます! そしてそのせつは本当にご心配をおかけしました・・・。
この文章を読んでいただければわかると思いますが、基本的にもう大丈夫です。ただ、じつは衝撃的なことに、最近、ゲンロンカフェほか各種事業の売上はむしろ上田洋子新体制になってからのほうが上向いていることが明らかになり、むしろぼくとしては「おれってもともと代表じゃなかったほうがよかったんじゃないか」と自信を失いつつある現状です。社員も気のせいか生き生きと働いている・・・。いやあ、よかった、よかった・・・?
そして最後に、なんと今回のアンケートでは、全目次に感想を寄せてくれた方が2人もいらっしゃいました。そのうちおひとりのを感想を、全文ご紹介します。長い! めっちゃ長い!編集部一同感動です。
今回も完全によい意味でちょっと狂っているのではないかと思われるほどの多彩な文章にあふれたマガジンでした。以下感想を記します。
■1.浜通り通信 第51回 外枠から考える 小松理虔
読み応えのある文章でした。そして「放射能汚染という、土の否定」と「当事者の枠を広げる「外枠の哲学」」、この二つの節のあいだにある一種のギャップに震えました。
信義のない国に振り回されてきた生者と死者をどう語り継いでいくのか。糊塗しても消しようのない存在である土こそが「ふるさとの喪失」を語る可能性が示唆されて「放射能汚染という、土の否定」は閉じられます。
その諦念とも希望ともどちらにもとれる筆致に少し考え込んで、次の節を読み始めると、震災から八年経ったことが改めて告げられ「さすがに震災と原発事故を語ることに疲れた。」とある。その告白に驚きました。私がこれまで小松さんに抱いていた印象は、何より人生を楽しむことが大好きな人というものでした。いわばそれは小松さんのA面だったのでしょう。小松さんのB面、この節の直前に呑み込まれた言葉は何だったのでしょう。
愛と無関心の両者がつながりあう「回路を作る」と小松さんは書かれていますが、「回路」とは小松さん(とその仲間達)自身のことにほかならないと思います。小松さんが、素人の、外側の、中途半端の、だからこそできることの可能性を論じて稿を終えるとき、そこに多くの語られなかった言葉、表せなかった態度、できなかった行動があり、小松さんはそうしたものを決してなかったことにはできないタイプの人だと(すみません、勝手読みかもしれません)強く感じました。信頼できる書き手です。
■2.観光客の哲学の余白に 第13回 触視的平面の誕生・番外編 東浩紀
『search/サーチ』は見逃していたので、この論考を読むために二番館に行きました。面白かった。まず、そのことに感謝します。次いで論考を読みました。確かにこの作品を私が「物語として読み取れる」というのはどういうことだろう。ずいぶんと不思議なことではないか。ということで作品を二重三重に楽しむことができました。石田英敬さんがおっしゃっていた(記憶違いがあるかもしれませんが)「人はメディアを通じたコミュニケーションをしているのではなく、端的にメディアそのものと遭遇しているのだ」という事実を実感した映画→批評体験でした。
東さんの論考には常にこの種のセンスオブワンダーを感じます。全くの蛇足ですが、小松左京や梅原猛、森村誠一など、東さんの子供時代の読書体験を検証すると面白そうですね。
■3.【『新記号論』刊行記念】人文的、あまりに人文的 特別編 山本貴光+吉川浩満
新記号論、一通り読み終えとても面白かったのですが、細部が難しく、自分の読みがとんちんかんではないかと不安でした。そんな中、この対談は「大丈夫!好きに読みなはれ」といってくれているようで助かりました。山本さん、吉川さんには、常にそういう素人の背中を押してくれるところがあります。
要約することでわかった気になり先に進められるのが大事、と東さんがおっしゃっていましたが、この対談にも、ここまで来た道がさほど間違っておらず、さらに先に進もうという意欲が掻き立てられました。昔からこの類いの紹介対談ってありますが、お二人には紹介にありがちなスノビズムや啓蒙臭をほとんど感じません。コンビとしての完成度の高さなのでしょうか?いつかその秘密も語ってほしいです。「通電」ってかっこいい言葉ですね。
■4.世界は五反田から始まった 第3回 「大五反田主義」 星野博美
「大五反田主義」!「五反田中心」!「正田美智子さんは、天皇家に輿入れするまで、大五反田の五反田中心(山)に住んでいた。」!
爆笑しました。何の話になっているのだ、これいったいどこに行くんだ、と思っていたら、作者の揺らぎが(作者の中では)解消して、唐突に「(つづく)」。凄いです。
丁寧な自分史・地誌、小学生時代の線路という鉄壁なシチュエーションの思い出が語られた後、突然、話題は出身地ロンダリングとみみっちいものになり、姑息、恥ずかしさ、しどろもどろ、言い訳、醜態という語がずらずらと並び、反省感満載の中、再度丁寧な検証に基づく新しい概念の発見。しかし、それが「大五反田」!
自らのAha!感をそのまま文章に感光定着させる才というものがあったとして、星野さんはまさにその才の塊です。真面目、なんだろうな。うん、すごい真面目。でも書きながら笑ってるよね、多分。そしてめっちゃ喜びにあふれています。追憶、だが前方に向かって反復されている!
■5.スマホの写真論 第19回 ドローン兵器と「卑怯」なSNSの写真 大山顕
こちらはAha!感を読者に発生せしめる才。「写真の行為者でありながら閲覧者は撮影の現場にいない」「現場に行くコストとリスクを払わない人間が写真の主導権を握っている」。あまりに正しい認識に何度も目が啓かれます。
先日、デイリーポータルZ反省会の大山さん回を見ました。工場もジャンクションも鉄道駅も、他人から「好きなんでしょ」と言われるのは不本意だと強調されていました。はにかみと諧謔が一体化したようなそのスタンスが、大好きです。また、高度経済成長の負のシンボルでもある土木的対象について語ることの緊張感についてもどこかで書かれていたと記憶します。
ドローン戦の倫理という大きな問題をすらっと語りながら、公園整備作業員の慧眼をたたえて稿をしめくくる。こんな構成が滑りもしないし、嫌みにもならないのは、大山さんのスタイリッシュな当事者意識のおかげなのでしょう。いつまでも終わらないでほしい連載の一つです。そんな訳はないですが。
■6.【特別寄稿】変容の困難——“それなり”の外へ出るために 坂上秋成
すでに初老に突入した私は、むしろ懐かしさを持って読みました。そう読めたということが面白くもありました。若さ故の、世界や作品への新鮮な驚きに対する嫉妬は、私も未だに感じます。同時に中年になってから、驚きが生まれる瞬間にむしろ解像度があがり、鋭敏になったとも思います。若い頃は、ファーストインプレッション至上というか、衝撃を受けていること自体に酔ってしまう面がありましたが、その出会いを微細に丁寧に反芻することができるようになった気がするのです。サッカーボールがフェンスを垂直に駆け上がる呪い。その出来事をミリ単位、ミリ秒単位で描写・分析することがそのまま祈りとなるようなことが人生では起こります。(すみません。人生相談の回答風になってしまいました。)
■7.五反田アトリエからのお知らせ 藤城嘘(カオス*ラウンジ)
最終成果展を見に行きたかったなと感じました。東さんのツイッターから、最終選考での様々な問題提起を知ったこともあって、もし前情報のない状態で鑑賞したらどんな感想をもったか、とても気になりました。
「「家族」をテーマとした、生々しさをもった表現」は実はとても怖いもの、自分の立ち位置がもろに見透かされてしまうもののように思えます。そのこと(アートが結果的にであれ、社会的な問題提起を帯びてしまうこと)と、アートそのものがどのような関係にあるのか、本当はよくわかっていないことも含めて、やっぱりこの目で見てみないと、当たり前のことですが。
■編集後記
『文心雕龍』の原道篇、全く知りませんでした。とても面白いですね。言語が全てだ、いや言語はすべてを表さない、と議論をしているうちに言語側からも非言語側からもどんどん侵襲されている現在のメディア状況、みたいな感覚がありますが、その現状を驚き直し、再び考え始めるために『新記号論』を反芻していきたいと思います。
いかがでしたでしょうか。編集後記の感想まで記されているところに、いい意味での狂気を感じますよね! 冒頭に本誌が「よい意味でちょっと狂っている」と書かれていますが、いやいや、読者さんのこの感想のほうが狂ってるだろと! というか、これはふつうはアンケートフォームに送らないだろうと!ブログに書くだろうと!
なんて、失礼しました。ほんと、ありがとうございます(笑)! たいへん励みになってます。これからもよろしくお願いいたしますー。
といったところで、今月のアンケート紹介は終わります。
次号、『ゲンロンβ36』はできれば今週木曜日(4月18日)・・・おそらくは金曜日(4月19日)配信の予定です。今号は本田晃子さんによるロシア・アンビルド建築についての新連載が始まるほか、飴屋法水さんが特別寄稿! いつもながら超読み応えありますので、また感想をお待ちしています。
ではまた来月~。
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genron-voices · 5 years
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若者に本を勧めるならどんな本を選びますか?
<ゲンロン友の声>
じんぶんやの企画で東さんがおすすめの本を紹介した記���を拝見しました。そこから10年以上経った今、若者に本を勧めるとしたらどんな本を選びますか。(10代、友の会会員)
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「じんぶんやの企画」ってなんだろうと検索しました。これですね。いったいいつのものなのか記憶が定かではありませんが、ゼロ年代批評についての推薦本が北田暁大で止まっているところを見ると、宇野常寛デビュー以前の原稿なんでしょう。なにもかもが懐かしい……。は、ともかく、いま「若者に本を勧めるとしたらどんな本を選ぶか」とのご質問ですが、そうですね、いまならばもっと古典を選ぶでしょうね。プラトンに始まり、ルソー、カント、ドストエフスキー、ジイド、ハイデガー、カミュ、レヴィ=ストロース、ぼくはそういった古典にもけっこう影響を受けてきました。近代日本ならば、たとえば夏目漱石とか柳田国男とか丸山真男とかでしょうか。にもかかわらず、この10年以上前のリストにそれらの本がまったく入っていないのは、30代のぼくはまだまだ突っ張っていたなあ、というか「青かった」なあと思います。たぶん当時のぼくは、古典は簡単に見えて意外とむずかしい、むしろ流行の現代思想や批評のほうが入り口としては良いはずだと考えていたのでしょう。本屋さんもそういうリストのほうが喜びますしね。けれども、不惑どころか知命の声まで近づいたいまとなってみれば、そんな「身近」な思想や批評の読書経験などなんの役にもたたない、結局のところ教養として残るのは、若いころにわからないまま読んだ古典だけだという実感がひしひしとしています。まあ、そんなことを言っても若いひとは老害としか思わないだろうし、実際ぼく自身も若いころはそう反発していたし、そもそもそんなことを言ったらぼくの本こそ読まなくていいじゃないかと思うわけですが、とにかくそれがアラフィフの実感なわけです。というわけで、質問への答えとしては、とにかく古典を読んでおけ、わからなくてもいいから読んでおけ、つべこべ言わず買っておけということになるわけですが、それだけだとあまりにあまりなので少し過去の自分のリストにコメントを加えると、これ、ハイエクからネグリまでは『ゲンロン0 観光客の哲学』でけっこう触れた並びになっていて(サイモンだけちがいますが)、他方で柄谷から北田までは『ゲンロン1』から『4』まで続いた「現代日本の批評」座談会シリーズで扱った本ばかりであり、なるほどぼくなりに関心は一貫していて、この10年でそれなりに決着はつけてきたのだなと思うわけです。ただ、そのあいだに挟み込まれた3冊、ローレンス・レッシグ、アラン・ケイ、そしてグレッグ・イーガンの並びによって示されたヴィジョンらしきものだけは、いまだきちんと展開されていない。というわけで、そこは宿題として残っています。たぶんそれがいまメルマガで連載中の「触視的平面」論につながっているのだとは思いますが、さて、あれもいったいいつになったら続きが書けるのやら……。(東浩紀)
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genron-voices · 6 years
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月へ行くことで芸術の可能性が生まれるでしょうか?
<ゲンロン友の声>
ZOZOTOWNの前澤社長が民間人初の月旅行に芸術家を同行させるという話が出ていましたが、現地でのパフォーマンスを除いて月に行ったことでしか為しえない芸術というものはあるのでしょうか。また、月に限らずあらゆる画像や動画が手に入る現代で現地に行くことと芸術の間にはどんな可能性が残されているのでしょうか。
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芸術はすべてが複製可能ではありません。たとえば参加型アートなどと言われるものがありますが、これはそもそも参加しないと成立しない芸術作品なので、その定義上記録画像や動画を見たからといって作品を鑑賞したことにはなりません。つまりは、複製技術が全面化した時代においては、むしろ複製不可能な体験にこそアートの活路はあると考えることができて、実際に現代美術のひとつの流れはそちらに向かっています(それがいいかどうかはともかく)。というわけで、ZOZO前澤氏が月に連れて行くという「アーティスト」たちも、きっとそのような「なにか」を見せてくれるはずだと期待することはできます。しかし、おそらくぼくの推測するに、質問者のかたの本当の意図は、そんな一般論ではなく、そもそもZOZO前澤氏の申し出を受けてほいほい月に行くという「アーティスト」たちにそんな新しい芸術の可能性を見せることが可能なのか、そもそもそんな人々であれば月に行くことなく作品を生み出すことができるのではないか、それこそが想像力なのではないか、という疑問なのだと思います。その疑問に対しては、ええ、ぼくもそう思います。なるほど、月に行かないと生み出せない芸術はたしかにあるにちがいない。けれども(いっけん逆説的に響くと思いますが)、そんな芸術を生み出すことができるひとは、きっと月にわざわざ行かなくても、地球上でも、それぞれの場所でそれぞれに固有な「そこでしか生み出せないもの」を芸術に変えることができる人々であり、むしろ逆に月になんて行かなくていいのかもしれない。むろん、彼らが月に行ったら行ったでなにかおもしろいものが生み出されるかもしれないけど、芸術の本当の価値はそこにはない。以上をむずかしくいえば、芸術というのは、そもそも単独性を普遍性に一気に繋げるもので、だからこそ尊いのに、「芸術家が月に行ったらすばらしい芸術が生まれる」という発想は、単独性と普遍性のあいだに特殊性(月に行く)を媒介として挟み込もうとしている態度で、それってそもそも芸術の機能について誤解しているように見える、ということになります。以上が答えになりますが、とはいえ、そのうえで、ZOZO前澤氏の行動については、まあそれはそれでいかにも現代的という感じがするし、なるほど金持ちの芸術理解っていつの時代もこういうものだよねと、距離をもってアウトプットを楽しみにすればいいのではないでしょうか。(東浩紀)
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genron-voices · 6 years
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イベント数が増える予定はありますか?
<ゲンロン友の声>
ゲンロンカフェも最近は多種多様なイベントが増えてきて、スケジュール一覧を見るのが毎月楽しみです。今後毎月のイベント数が増える予定はありますか?都合がつく日に限ってイベントがなかったりで、せっかく会員になったんだしもっと色々見てみたいと思ってます。(東京,30代男性,友の会会員)
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いつもゲンロンカフェをご利用いただき、そして友の会へご入会いただきありがとうございます! イベント数、ある時期から大きく増やすといったような計画はありませんが、少しずつ充実させていきたいと思っております。 また、イベントスケジュールが確認しやすくなるよう、Googleカレンダーを公開しました。 ↓のリンクから追加できますので、ぜひご活用ください! https://goo.gl/mLXD4N また、過去のイベントのアーカイブをVimeo( https://vimeo.com/genron )やニコニコ動画( http://ch.nicovideo.jp/genron-cafe/video )で公開しておりますので、イベントのない日はこちらもお楽しみいただけたらと思います。 今もさまざまな激アツイベント企画が進行中です。ご期待下さい!(水野広介)
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