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はじめからなにもない

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ぱちん、
と音が鳴るのが聞こえると、あなたは掃除夫だ。閉店し、誰もいなくなった後のショッピングモールを掃除する仕事に従事している。昼間の喧騒が嘘みたいな、静寂に満ち満ちた店内の床を掃除しエスカレーターの手すりを拭き店中のゴミ袋を替えて回る。ショッピングモールにとってまさに、妖精のような存在だ。 モップを携えたまま、昼間の喧騒の記憶すらないひんやりとしたロフト階に向かって、止まったエスカレーターを上っていく。 薄ぼんやりとした暗闇の中に、かまぼこ板のようなステージが佇んでいるいるのが見えて来る。 そしてその、霧のような薄い幕が張った場所に、マジシャンの幽霊は立っている。
おお、あんたには俺が見えるのか? 久しぶりだ!喋れるやつが来るなんて!ようようよう、嬉しいよ。なんてこった!
マジシャンが
ぱちん、
と指を鳴らすと、指先からどこからともなくトランプが現れる。クローバーの7。マジシャンのいちばん好きなカードだ。
驚かないよな。 幽霊のマジックなんて。
マジシャンの身体は半透明で、わずかに発光している。透き通った身体の向こうに、固まったマグマのようなどろりとした闇が広がっている。ショッピングモールは、郊外の広い敷地にぽつんと立っている。
死んでしまってから、俺の袋小路はますます混迷を極めたことになる。 売れなかったんだ。ちっとも売れなかった。結局マジシャンなんて流行らない時代なんだよ。みんな種があるって知ってる。誰もが騙されることを嫌っていて、真実だけを求めている。どんなやつでも、心のそこでは真実ってやつの正当性を信じ込んでいるんだ。真実なんて結局どこにもありはしないのに。馬鹿な時代だよ。 だから俺は、こんな寂れたショッピングモールでしかショーをさせてもらえなかったわけだ。そして売れないまま死んだ。 それにしたって、死んでからもずっとここに張り付いていなきゃいけないのはどうしてなんだろう。神様っていじわるだよな。マジシャンの地縛霊なんて、あまりにも残酷だと思わないか?
マジシャンは
ぱちん、
と魔法使いみたいに指を鳴らす。手のひらからトランプが吹き出す。噴水のように。五十二枚どころではない数のカードが空に向かって散らばる。最後のカードが地面に落ちる、寂しい音が聞こえる。
ほら。 驚かない。
トランプを出し切ったマジシャンの指先は、ロフトを吹き抜ける風に頼りなくたゆたっていた。指先が光の束になってほどけ、空に向かって散らばったカードたちの幻を追いかけるみたいに、薄く立ち上っていく。
じゃあこういうのはどうだ。 お前を呪い殺す。 生きたまま臓物を全部取り出して、そこらじゅうの壁に塗りたくっておくんだ。恐怖と苦悶に歪んだお前の表情を眺める。狂気の道化師、ここに現る、だ。それくらいやらないと誰も驚いてなんてくれないよ。
マジシャンははあ、とため息をついた。
でも、そんなのできないんだ。結局マジックには種がある。俺たちはあくまでただの嘘つきで、その嘘を美しくついてみせるという点でマジシャンなんだ。魔法使いや呪術使いではない。
マジシャンは着ているジャケットの襟元を、指で弄ぶ。
俺のマジックは結局地味なんだよ。ビジュアル的な派手さがない。大がかりなセットも、マジックを手伝ってくれる絶世の美女もいない。派手なだけがマジックじゃないんだけどな。でも、マジシャンとして名を馳せようと思ったら、派手じゃないといけないんだ。
どこかで地響きのようなうねりが聞こえる。巨大なショッピングモールは完全に眠ることはない。明かりが、モーターが、人の息遣いが、完全に途絶えることはない。
俺のマジック、もっと見たいか? 見たいだろう。見たいはずだ。見たくてこんなところまで来てくれたんだろう?この後どんなことが起きるのか見たくないんだったら、お前はそんな顔してそこにいないもんな。 いいだろう。俺の一番得意なマジックだ。 力を、抜け。
ぱちん、
ほら。 あんたは掃除夫だ。は、と気づくと、生まれた時から物言わぬ掃除夫だ。家族はいない。あんたには必要ないんだ。だから生まれたというよりは、発生したという方が正しい。あんたは発生したんだ。このショッピングモールに、突然発生した、過去を持たない記憶だ。 あんたの記憶は掃除の記憶だ。床に貼りついたガムをこすって剥がす感覚、流れているエスカレーターの手すりに雑巾を押し当てて汚れを取る感覚、ゴミ袋をぱんと広げてゴミ箱に取りつける感覚。ほら、手に感覚が浮かぶだろう、それがあんたの全てだ。それ以外は何もない。 ほら、当たってるだろ?不思議だろ。徐々に具体的になっていく。 日々。あんたの日々は、文字通り流れるような日々だ。ただ夜の二十時に起きて歯磨きをして六枚切りの食パンを焼いて食べて支度して家を出てショッピングモール中を掃除して朝の八時過ぎに帰ってきて三百五十円の海苔弁を食べて風呂に入って歯を磨いて寝てまた八時に起きる。何が楽しくてそんな日々を送っているのか、と周りの人々は時々訝しむ。
そこでこれを読んでいるあなたもそう思う。
マジシャンはステージを行ったり来たりしながら続ける。そうすることで、ステージの上を自分のものにしているのだ。。時々、先ほどトランプを発生させた指先を、空やあなたに向けながら話す。その指先の発光は、ほんのわずかな時間そこに残って、線になってつながる。
判子で押したみたいに、あんたの一日は同じだ。部屋にはベッドがぽつんと置かれているだけで、本もテレビもパソコンもない。携帯電話だけは、会社とやりとりするために握りしめている。 あんたは勤勉だ。汚い場所でも嫌がらない。どれだけ時間がかかっても、最後までやり切る。このショッピングモールのサウスコートの男子トイレが他のトイレに比べてぴかぴかなのは、あんたの受け持ちだからだ。広すぎるペデストリアンデッキを、無駄な動きなく掃除できるのは、今のところあんただけだ。 このショッピングモールにあんたを派遣している清掃会社は、あんたをとても買っている。あらかじめプログラムされたロボットみたいに、あんたは言われたことをきちんとこなす。反対に言われたこと以外はできないといういささか融通の利かないところはあるけど、言われたことを文句も言わずきちんとできるということは、今の時代においては一つの才能だ。 そうやってひとしきりあんたはえらいと褒めた後、ぼんやりとした表情のまま毎日同じ安い海苔弁を携えて帰っていくあんたを見てみんなが思う。 何が楽しくて、そんな日々を送っているんだろう?
ぱちん、
ぼうっと突っ立っているあなたの顔を見つめて、マジシャンは言う。
すまんすまん、言っているこちらが辛くなってきたよ。 どうだろう。当たり過ぎていて寒気がするだろう? 種も仕掛けもございません。 ——これが俺の得意なマジックだ。
あなたは驚いているのだろうか?それとも、呆然と立ち尽くすしかないのだろうか。ただ夜は更けていく。地上の光はなくなり、月とロフトのささやかな明かりだけが、ステージを照らしている。
驚かないよな。 わかってるんだ。
マジシャンは俯いて、手のひらで額を押さえる。
わかってるんだ。こんなんじゃ驚かないって。マジックショーとしては地味すぎる。俺とあんたが共犯者なんじゃないかって、誰もが疑うだろうよ。 でも、俺にはこれしかできないんだよ。
マジシャンは小刻みに震えている。 半透明の身体から、完全に透き通った涙をぽろぽろこぼしている。 あなたはそれを、月の光の反射にきらめく輝きで知る。しずくはステージの板の上にこぼれて消えてしまう。
きっと、たった一度でもいいから誰かが心底驚いてくれれば、俺は成仏できるんだよ。それ以外何がある?こんな馬鹿みたいなターバンと顎髭を付けたままショッピングモールのショースペースに憑いてる地縛霊なんて、それしかないじゃないか。 すごいな、どうして?不思議だわ、魔法みたい!この世にこんなことがあるだなんて! 誰かがそう言ってくれれば終わりなんだよ。でもそれは多分嘘じゃだめなんだ。 助けてくれよ。
ステージの上の彼は、鼻をすする。 涙が浮かんでいるかどうかはわからない。怒っているようにも思える。途方に暮れているようにも。
わかったよ。とっておきのやつを見せよう。
マジシャンは気をとりなおしたように咳払いをすると、折りたたまれた薄っぺらな黒い紙を胸ポケットから出した。ぱん、とはためかせるとそれは、大きくてしっかりした箱に姿を変える。当然あなたは、それくらいでは驚かない。平面的な宇宙のような漆黒の箱が、空っぽの音を響かせて地面に落ちた。
これは俺の一番のマジックだ。決して派手なマジックではないが、考えれば考えるほど不思議なマジックだ。お前もだんだんおかしな気持ちになってくるよ。お前の胸に、黒くて取れないわずかなシミを残すようなマジックさ。 いいか、ここに入った俺が消えてしまう、なんて生易しいマジックじゃない。自然のルールがひっくり返ってしまったみたいに感じること請け合いだ。 俺が入ったら、蓋を閉めてくれ。そして、中から俺がぱちんと音を鳴らして合図したら、蓋を開けていい。いいか、
ぱちん、
と音がするまでは絶対に開けるな。これは門外不出、俺の生涯を賭けた——もう死んでるなんて言うな——一世一代の奇術だ。俺もそれなりの覚悟を持ってやるんだから、お前の方もよろしく頼むよ。 もし途中で開けたら、世にも恐ろしいことになる。箱の中に吸い込まれて帰れなくなる。想像を絶するような痛みで死ぬ。この月夜が永遠に明けなくなる。みんなこのしけたショッピングモールから離れられなくなる。 わかったな。
マジシャンは箱の中に入っていく。
さあ、蓋を閉めてくれ。 あなたは膝を抱えているマジシャンの入った箱の中を見下ろす。マジシャンの身体は細く、箱は意外に大きいので、箱は思ったよりも深く見える。黒い夜に、もう一重深くて黒い夜が現れたようだ。
いいか、何が起こるのかよく見てろ。その穴が開いているみたいに虚ろな目で。
蓋が閉まり、マジシャンの姿は見えなくなる。ごそごそと身をよじるような音が聞こえた後、海に潜る前みたいに深い深呼吸の音が聞こえた。
種も、仕掛けもございません。
そして辺りは、暗闇と静寂に包まれる。
※こちらの小説は、公開済みの「The Magician」の大幅な加筆修正です。 よろしければそちらも御覧ください。
https://note.mu/horsefromgourd/n/n0bddc98abf98
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コヨーテたち

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大丈夫別に そのままでいれば 割とうまくいく いつも通りやるだけ シャムキャッツ 「 Coyote 」
大学の部室棟、と言ってもただブロックをコンクリートで塗り固めて作っただけの外にいるみたいに寒々しい建物なのだけど、まあ当時の僕たちはどこにいたって同じようなものだったし、誰かの窮屈なアパートに集まって騒いだり飲み食いして汚すくらいならと、よくそこに集まった。綺麗好きなのが一人か二人ちゃんといて、僕らがひねもす部屋でうだうだした後にちゃんとジュースや発泡酒の缶を集めて袋に入れて講義棟のゴミ捨て場まで運んだり、晴れた日にマットレスを誰かの原付に立てかけて干してから演習に出たりした。先輩が就職して引っ越して行く度に要らなくなったスピーカーだのビデオデッキだのを運んでくるので、いつの間にか誰の部屋よりも充実した場所になっていて、僕らはますます堕落していった。
そう、充実は堕落をもたらすのかもしれなかった。僕の大学時代の記憶と言えば、その部室のことばかりなのである。
誰かが長く付き合った恋人にフラれて手首を切ると騒いでいたと思ったら、誰かがライブハウスで会ったどこ女子大の女とその日のうちにヤった話で盛り上がったりとか、あるいは誰かがお金がなくて生協の脇に生えていたキノコを食べて気絶したと思ったら、別のやつはうまいバイトを見つけたとか言って大学には来ず月に数十万稼いで毎日すき家のステーキ膳を食べていたりとか、なんというか、そういう風に僕らはみんなが混ざり合って一つになって暮らしていた。誰も命が途切れるほどのダメージは受けなかったし、極端に何かに満足もしないのだった。 今では誰がステーキにありついていたのかも思い出せないし、そういう野草とか花とか食べてちょっと意識が飛んだことがあったのは自分だったような気もするし、結局誰がどうだったかみたいなことは上手く思い出せないのだ。みんなそうなんじゃないか、と勝手に思っている。 それでも、そんな部室から離脱して一人坂道を下っている最中の、間違いなく自分の鼻の先がつんとくる感じとか、何にもないのに間違いなく自分の涙がこぼれそうな感じとか、そういうのははっきりと思い出せる。あれは間違いなく自分の鼻だったし目だった感覚だったし、うつむいた時に目に入ってくるバンズのスリッポンの靴も、ベルトラインのあんまり市場に出回ってない、僕自身が気に入って買ったピースマークの柄だった。 そういうのも、アパートのドアノブの冷たさを思い出すとか、地鉄の小さい踏切の音聞くと思い出すとか、みんなそれぞれの何かがあるんじゃないかと勝手に思っている。
そんな永遠に続きそうに思える時間が、決して永遠には続かないのだということの決定的な証拠のひとつに、今の僕らはなってしまっている。もしかすると僕だけは、そういうのを証明できるかもしれないと漠然と思っていたのだけど。 下手したらあの部室棟だってないのかもしれない。ただでさえ隙間風が多い建物だったし。 誰も怖くて確かめに行かないのだ。あるいは、確かめたとしても、報告しないのだ。
部室には、野良犬が住み着いていた。 誰が、いつ、どこから連れてきたのかも定かではない。過去のない犬だった。その犬の歴史は、僕らの堕落の歴史と共に始まったのだ。毛足の長くて汚い雑種で、舌がいつもだらしなく垂れ下がっていた。口を閉じていた試しがない犬だった。 僕らはそいつを、各々好きなように呼んだ。スヌーピーとかウルフとかシロとかバックとか町田さんとか犬とか。茶色いそいつはどんな風に呼ばれてもへらへらしてこちらに近づいてきて、僕らが食べているスナック菓子やサンドイッチやらをねだるのだった。時々発泡酒を飲ませてみたりも。隣の部室だったダンス研究会のやつらより、その犬の方がよっぽどイケる口だった。そういう、自分の欲望に忠実なところが愛おしかった。素直なまま生きるのが難しい時代だったから、余計に。それで時々僕らも四つん這いになってみたりして、犬とお尻を追っかけ合うのだった。 食べても食べても痩せている犬だった。結局僕らの中の誰よりも、そいつが一番食っていたはずなのに。パンだのフランクフルトだの、学食で買ったものを部室にいる連中に一口ずつ齧らせていたら、あっという間に自分の取り分も無くなってしまうわけである。だから僕らは犬を代表者にしたのだ。最後の一口を床に放り投げてやって、待て待て待てと言いながら待たずにそれにかぶりつく犬を眺めていた。
「俺たちは傷を舐め合ってるだけなんやないか」と、犬顔のTが言い始めたのは、この国で大きな災害があった頃だった。四年の春。犬が一番懐いていたのがTだった。 被災地にインスタント食品や水を送ってあげるだのなんだのとボランティアサークルが躍起になっていた記憶がある。そういうのにも参加したし、犬にも僕らが買った食べ物の分け前を与えていた、ということになる。
その頃、とはっきりと言えるのは何故かと言うと、僕は誰かが運び込んだ合皮の安っぽいソファに寝転がって、スニーカーの隙間からNHKの番組を見ていたことを覚えているからだ。それはこの街であった十数年前の災害と今回の災害の比較している討論番組で、かつてここいらの復興計画に関わった僕のゼミの先生が真ん中に映っていた。 多分インターネットを使えば、その番組が何年の何月何日何時にやっていたのか調べることができると思う。つまり、Tが「俺たちは傷を舐め合っているだけなんやないか」と言い始めた具体的な日時も調べられるということだ。
Tはちょっとかわいそうなやつで、両親を既に亡くしていて、バイトをしながら夜間の授業に出ていて、その頃彼女にもフラれたのだった。サークル内ではギターボーカルをやっていて、ライブ中に手拍子したりするとものすごくキレるやつだった。「全体主義的やん」とか「テンポが合ってなくて気持ち悪いねん」とか「ステージ側から客が手拍子してんの見てると教祖になったみたいや」とか、まあごちゃごちゃと思いつく限りのことを言っていた。 犬は、別にTがいつもコンビニをぶら下げているわけでもないのに、一旦食べたり撫でられたりするのをやめて、Tのそばにそっとかけよるのだった。犬の気持ちなんて誰にもわかりようはないけど、あれは「嬉しそうに」としか形容できないかけより方だった。
その「俺たちは傷を舐め合っているだけなんやないか」記念日のことを、僕はとにかくよく覚えている。Tが言ったことに、何て返せばいいのかわからなかったからだ。Tも別に僕に返答を求めている様子ではなくて、はっはっはっと短く息を吐き続けるアホ面の犬——しばらくバリーとでも呼んでおこうか——の首を撫でながら、ただそう言っただけなのだった。 カップラーメンかコーヒーでも作ろうとしていたのだろう、湯沸かし器が蒸気をあげながらこぽこぽ音を立てていて、煙が窓の青空に染み込んでいくところまで覚えている。 犬は、息を吐きながらTの顔をじっと見つめていた。 それからTは、僕らが夜になって音楽をかけて踊ったり、一人で見たら絶対笑わないようなバラエティ番組を見てげらげら笑ったり、ろくでもないゾンビ映画を観たり、卑猥な形に削ったスタイロフォームに誰かの元カノのブラジャーを着けて腰を振る真似をしてにわかに盛り上がると、必ず「俺たちは傷を舐め合ってるだけなんやないか」とつぶやくのだった。 Tの縁なし眼鏡の奥の眼は、それを本気で言っているのか、それとも本気っぽく言うというギャグにも取れる目つきで、どっちなのか判断できなかった。 ただ、バリーだけは何故か、千切れるんじゃないかというくらい激しく振っていた尻尾をしゅんとさせて、Tの言ったことを真面目に受け取っていたことに、僕は気づいていた。相変わらず舌は出しっぱなしにしていたけど。
今そういうのを思い出すのは、どうしてなのだろう。傷?あの頃僕はそんなに傷ついていたのだろうか。そして傷を舐め合っていたのだろうか。 Tが言っていたのは「傷を舐め合おう」でも「傷を舐め合っている場合じゃない」でもなく、間違いなく「俺たちは傷を舐め合っているだけなんやないか」という問いかけだった。 水を差そうとしているのかどうか判断することも出来ない、というのは間違いなのかもしれない。僕らは判断するのが怖くて、無視していたんじゃないだろうか?
バリーの話には結末がある。 しばらく部室で姿を見ないなと、僕らは随分心配した。特にTは部室棟の部屋を全部回って犬を知りませんかと聞いて回ったり、ペットショップや保健所に電話をかけまくったりしていた。「お前ら薄情やな」みたいなことをTは言わなかったし多分思ってもいなかったけど、なんとなく後ろめたくて僕らも色々探し回った。 もしかしたら、車に轢かれたり、道で変な物を食べたりしたんじゃないか。 落ち着きのない馬鹿な犬だったので、誰もがそう思った。あいつアホで可愛かったよな、尻尾振ってさ、と思い出を話すみたいに誰かが言うとき、犬は死んだことになっていたのだと思う。 繰り返しになるが、あの犬の歴史は、僕らの堕落の歴史と共に始まったのだ。だから、もしかしたら堕落の歴史が先細って収束に向かうのと同じように、犬も衰えて死んだのかもしれない。
そう、僕らの堕落の歴史も、そろそろ終わりを迎えようとしていたのだ。
と、そんなことをTも思い始めて犬を探すのを諦め、僕らと踊ったり教科書を燃やしてサンマを焼いたりするようになった頃、犬が見つかった。 犬は、その坂道の多い大学の傍の、高級住宅街で暮らしていた。 汚い毛は清潔に刈られ、服を着ていた。同じ庭に純潔の犬がいて、そいつとお尻を追いかけ回っているところを、たまたまバイトの帰り道にTが見つけたのだ。 「アホ面やったからすぐわかった」 相変わらず舌出しっぱなしのままやったわ。大きくて白い純潔のメス犬の鼻をぺろぺろ舐めてたよ。 T以外は誰も、ウィードでありマルクマスでありタカシでありハリーでありミスター・ボーンズでありプルートでありバリーでもあったその犬を見に行かなかった。Tは何度か見に行っていたと思う。どんな気持ちで、二匹の犬がよろしくやっているのを見ていたかは、想像するしかない。もしかするとやはり、「傷を舐め合ってるだけなんやないか」とつぶやいていたかもしれない。 僕は広い庭を走り回る犬を見たら、そう呟いただろうか?
何か特別な力が、あの時代の自分たちにはあったのかもしれない。でも、あの半野良犬のことを思い出すと、実は最初から——そしてこれからも——そんな力はなくって、ただ大きな流れみたいなものに全て左右されているだけなのかもしれないと思い直してしまうのだ。
僕はその大学を卒業してからその街を離れ、仕事をするために東京に出た。そしてまた仕事の都合で、その頃災害があった場所のすぐ傍——どこまでを傍と言って良いのかわからないけど——に住むことになった。 街並みというのはどこも同じに見える。夜の光が多いか少ないか、それくらいのものだ。余裕があるときは、どこの街並みも美しく見える。 そうしてかつての住まいから遠く離れた場所に住んでいることもあって、その頃の仲間とはあまり会えない。東京に仕事で行くときもみんながたくさん集まることは滅多になくて、二人とか三人とかで飲むだけだ。ああいう部室みたいな広々とした場所は東京のどこを探してもなくて、狭くてうるさい居酒屋で肩をすぼめて話さなくてはならない。踊ることもキャッチボールすることもうだうだと時間が過ぎていくのを待つこともできず、二時間ほど経ったらお金を払って帰る。
「俺たちは傷を舐め合っているだけなんやないか」 すごく良い言葉だぞ、T、と僕は思う。傷を舐め合っているだけなんじゃないか、俺たちは。そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。 お前は正しいぞ、T、と僕は思う。合っているかどうかに関わらず。 昨年の春だったか秋だったか、結婚式で同じテーブルだったTに——結婚式だって、信じられないな——その話をしたことがある。お前が言っていたことは正しいよ、絶対正しい。
「そんなん言うてた覚え、全くない」
Tはそう言っていたけど、僕は覚えているのだ。 でもきっと、可愛がっていたあの犬のことは忘れていないんじゃないか、と思う。結婚式の時はちらりとも思い出さずにいて、確認していないのだけど。
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迷子

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「迷子のお知らせをいたします――」
■ 東京駅は正月の帰省客でごった返している。 「ねえ、今の聞いた?」と、左手の妻が訊いた。湿っているのに冷たい手だった。 若い駅員が「エスカレーター故障中」と書かれた看板を持って「迂回してください!」と叫んでいた。許しを請うような悲痛な叫び声だった。人々はそれを無視するように流れていく。迂回しようにも、迂回するためのスペースがない。沈む船に水が入ってくるみたいに、空いている場所を目指して流れていくだけだ。 「手を離したら二度と会えなくなるかもね」 「本当に」 いつもこういう人混みの中にいると、「緩やかな死」という言葉が頭の中に浮かぶ。ここにいる無数の人々のいずれもが、緩やかに死に向かっているのだなと思う。それは別にまばらな人通りの中ですれ違う人々も同じことなのだけど。でもこれだけ多くの人がいると、もしかすると今日とか明日死ぬ人もいるやもしれない、と思うのだ。 「緩やかな死」 「え?」 「なんでもない」 エスカレーターが壊れているので、僕たちは石棺のように重いスーツケースを抱えて階段でホームに上がらねばならなかった。地下から、光の差す地上に向かって歩いていく。 「ねえ、聞いた?」 「何を?」 「さっきの迷子の放送」 「聞いてないよ」 「『横縞のシャツに、横縞のズボン。手には黄色いシャベルを持っている男の子です』だって」 僕は母親とはぐれて泣き叫ぶ子どもの顔を思い浮かべる。 「まるで囚人みたいだね」 「そう。脱走しようとしてるの」 はは、と笑い、息を吐きながら階段を登り切る。妻は無表情だった。
東海道線19番ホームも人の海だった。キオスクの横の細い通路で、行き交う人と肩をこすり合わせながら指定席の車両に向かう。 こんなにたくさんの人��いるのだから、迷子になるのも仕方ないだろう。ふと、自分がどこにいるのかわからなくなる気持ちがわかるような気がする。僕は妻の手をぎゅっと握る。妻もそれに答えるように握り返してくる。
「ここで待ってて」 「どこかに行くの?」 「あと三十分あるから、コーヒーを買ってくる。南側の改札口にスターバックスがあるから」 妻は呆れたような目つきで、「わざわざそんなところまで行くの?」と言った。 僕は答えずに、鞄から財布だけを出しながら、「ここで待っててね」と言って妻の手を離した。一向に温まらない冷たい手。歩きながら、妻の手の中を流れる冷たい血を思う。他人の血。
■ 南側改札に向かいながら深呼吸をし、頭の中を整理する。 仙台から東京に向かう新幹線の中では、仕事が全く捗らなかった。 「あのね」と、横から呼びかけてくる妻の声を思い出す。 「父の調子が悪いの」 「知ってるよ」 「だから」 「だから?」 「あんまり心配させたくなくて」 「わかってるよ」 彼女の父はかつて癌を患い、胃の一部を切除している。そして僕たちは不妊治療を受けている。色々なやり方で、お腹の中や、体��に含まれている成分を調べられている。僕はこうやって自分の身体の知りたくもないことも知って、多少無駄なダメージを受けたりしている気がするけど、君はどう?そんなこと聞かなくてもわかるから聞かないけど、もう立ち止まることはできないのだった。 新幹線のとても速いスピードで流れていく景色を眺めている妻の頬の輪郭は、反射する光で少しぼやけている。郡山を過ぎるころには雪が消えて、街並みは見慣れた灰色の景色になり始めている。
僕としても別に、スターバックスのコーヒーじゃないといけない理由はない。 「そんなにこだわらなくてもいいじゃん」と言う妻の声がまた聞こえる。「本当にスターバックスのコーヒーじゃないと駄目なの?」 二人分のスーツケースを携えたまま、今も一人ホームに並んでいる妻。南口の改札にスタバがあるからと言った僕を、少し呆れるような目つきで見ていた妻。新幹線の中で、久しぶりに二人で遠出するねとつぶやいた妻。かつては慣れていたはずの東京で、「人混みの瘴気にあてられそう」と言ってまぶたを押さえる妻。何だか似合わなくなったから、と気に入っていたセーターを処分する妻。さっきまで着ていたはずのカーディガンを手に持って診察室から出てくる妻。泣きながらパスタを茹でている妻。 これから電車に乗って目的地へ向かう身動きの取れない三時間弱のことを思うと、コーヒーくらいは自分の好きなものを飲みたい、と僕は思う。
「迷子のお知らせをします」と、またアナウンスが聞こえた。僕はさっきの囚人服の子どもが、無事に親と再会出来たか想像する。
想像していた通り、スターバックスには長蛇の列ができている。 緩やかな死。 腕時計を見ると、新幹線の出発時間まであと二十分と少しある。間に合う、はず。仙台から持ってきたマフラーの中で汗が滲んでいた。東京は暖かい。そしてどこも過剰なほど暖房が効いている。毎年思うことではあるのだけど、未だに正解の服装がわからない。 「お待ちの間ご覧ください」と、メニューシートを持って先んじて注文を訊いて回る店員を手で制す。スターバックスでホットコーヒー以外の注文をしたことがない。 先頭客は根元が黒くなった金髪を後ろでまとめている太った女で、足元にまとわりつく子どもを怒鳴っていた。どうせ手の込んだ甘い飲み物を注文しているのだろう。ラウンジのソファには、人差し指でスマートフォンの画面をつつく惚けた顔の親子が二人並んでいた。後ろから、ゆっくりとした英語で話す声が聞こえる。中国人と思しき男が、たどたどしい英語で店員に何か尋ねていた。何かが溢れた跡を、素早い動きで拭く清掃員の姿があった。 僕はコートのポケットに手を入れて、細くて長いため息をフロアの上に放つ。スマートフォンは妻に預けてきた鞄の中なので、手持ち無沙汰だった。
「迷子のお知らせをいたします」と、またアナウンスが聞こえた。それにしても世間の親というのは、こんなにも子どもの手を離してしまうものなのだろうか? 時間の流れの感覚がおかしくて、どれくらい時間が経ったのかよくわからない。 僕は目をつむる。
■ 「僕と結婚して良かった?」と問いかけると、暗闇の中から妻の声が聞こえる。 「良かったよ、楽しいよ」 こういうときに「この時間が永遠に続けばいいのに」と思うのだな、と僕は思う。勃たなかった僕の股間に手を置いたまま、妻は思っていたよりもあっさりと眠りにつく。 二人だけの生活は楽しかった。結婚してからもう七年も経つのに、僕たちは恋人同士のままだった。昼間二人とも一生懸命働いて、夜はお酒を飲んだ。レイトショーを見に行った。ラブホテルに行ったりなんかもした。週末には遠くまで美味しいものを食べに行ったり、山登りをした。長期の休みには、必ずどこか旅行に出かけた。 ふにゃふにゃのままの股間は、時刻を指す気を失ってしまった時計の針みたいだと思った。時計が動かないからと言って、時の流れは止まっていない。こうして針の動きが止まってしまって初めて、この時間が永遠に続くわけではないのだということに気づいた。 だから僕たちは子どもをつくるのだろうか。永遠に続くわけがないから、出来るだけ長く続くための装置が欲しい。破綻してしまっても、その間を繋ぎ止めてくれる糸が欲しい。僕たちだけでは徐々に摩耗していくだけだから、もっと強く時間の流れを感じさせてくれる存在が欲しい。
「僕と結婚なんてしないほうが良かった?」と問いかけると、赤い目で僕を睨みつける妻の姿が目に入った。 こういうときに「この時間は永遠には続かない」と思うのだな、と僕は思う。多分僕たちは仲直りして、また抱き合うのだろう。そういう風に思いながら喧嘩する。それでも僕は主張を弛めない。 「なんとか言いなよ」 僕はそうやって妻を壁際に追いやって、何か結論を言わせようとする。大人しい草食動物のような妻は、いつもそれに耐えている。 僕は妻に何かを言わせたいのだ。そして何を言ったとしても、それを袈裟斬りにしてしまうことで、自分が優位に立てるように仕向けているのだ。そしてその優位な立場から、このチーズの塊がグレーターによって削れていくみたいな時間を自分のものにしてコントロールしてしまいたいのだ。 「そんなこと、ないよ」 「なに?」 「そんなことないよ」 「じゃあどうして、こんなことになるんだろうね」 妻はついに目尻から涙を流す。肩を震わせて泣いている妻を見て、僕の股間は何故かがちがちに勃起している。 僕たちは恋人同士のままだった。
■ はっと目を覚ますと、まだスターバックスだった。 緩やかな死は今も続いている。蔓延している。漂うようにそこにある。足に縋り付いて離れない。こんなにたくさん人がいる中で、どうして自我を失わずになんていられるのだろう。 コーヒーなんて、本当に飲みたいのだろうか? 太った母親の足元に縋り付く子どもを見ながら、枷、と僕は思った。 枷。絡み合う僕と妻の枷。あらゆるところから集まってくる枷。東京駅で行き交う人々が絡ませ合う枷。大きなひとかたまりになる枷。 にやにやした表情でスマートフォンの画面を眺める若者の枷。正月も働かねばならないスターバックスの店員の枷。新幹線の中で仕事をしなければならない僕の枷。その横に座っていなければならない妻の枷。突然病気になった妻の父親の枷。 「あなたは結婚して良かった?」という妻の声が聞こえた。「本当に子どもが欲しいと、あなたは思っているの?」 暖かい飲み物を買い求める列は進むのに、足の甲に杭を打たれたみたいに動けない。 そしてアナウンスが聞こえる。
「迷子のお知らせをいたします。赤いキャミソールに、ベージュのロングスカートを履いた女の子です。唇の脇と鎖骨に、小さなほくろがあります――」 「迷子のお知らせをいたします。相手のことを思いやることのできる、優しい男の子です」 「迷子のお知らせをいたします。ピンク色の肉塊です」
■ 若い店員が困った顔で僕を見ていた。 「ソイラテとコーヒーをホットで」と僕は注文する。
るるるる、と新幹線の発車を告げるサイレンが鳴っていた。 僕は舌打ちをしながら、指定席からだいぶ離れた車両に乗り込む。 緩やかな死が、どこか遠くに向かって運ばれようとしている。すぐに指定席まで向かうのを諦める。頼む、お願いだから。
ソイラテとコーヒーを両手に持ったまま窓の外の流れる景色を眺めていると、スーツケースを携えた妻の驚いた顔と目が合った。 一度フェードアウトした妻を、窓に張り付いて探す。 妻は笑っていた。呆れながら笑っているようにも、心の底からおかしがっているようにも見えた。やがて妻は小さな点になり、灰色の景色だけがそこに残った。それでも、しばらく緩やかな死がそこに見えた。
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ノンアルコール・ビールのほとり

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ビールが好きで好きでしょうがない。愛している。サッポロの冬季限定ビールの500ml缶と妻が海で溺れていたら、僕は――もちろん両方ともちゃんと助けて乾杯する。妻の身体を温めてやった後、冬の海で冷えたビールを小さなグラスに注いで、二人でちびちび飲むのだ。
そう、頭の中で想像するときはそうやってちびちびお上品に飲める。まっすぐに泳いで行って、彼女を助けてあげることもできるのだ。
でも現実はそう上手くコントロールできない。僕は500mlの缶ビールを半ダースで買ってきて、それを一日で飲んでしまう。 僕としてはそんな、下品にがぶ飲みしているつもりはない。妻も言う。 「こんなに美味しそうにビールを飲む人はあなた意外に見たことがないわ」 僕は一杯一杯をちゃんと味わい、幸せを噛み締めながら――まるで中身を河に流してしまうみたいに飲んでしまうのだ。つまみもいらない。ビールだけあれば十分だった。
「あなたのお腹の中はどうなっているの」と妻は言った。 まったくその通りだと思う。胃袋がビール専用のブラックホールになっているに違いない。 「僕には、黄金色の液体が渦巻きながら暗闇に吸い込まれて行くのが見えるよ」 そう言うと妻は、ため息を吐いた。 「あのね、今度のパーティのことだけど」 「ああ」 それは妻の大学時代の友達が主催のパーティだった。仲良し三人組だか四人組だかが久しぶりに集まろうということになって、みんな所帯を持っていたので、一度旦那や子どもも連れて来てみてはどうかということになったらしい。 「アルコールはなしだから」 「ええ?パーティなのに?」 わたしも知らなかったんだけど、と妻は言った。妻の友人の旦那のうちの一人が、アル中らしい。その妻としては、とにかく酒に近寄らせたくない。その場はなんとかやりすごせても、目の前でぐいぐい飲む人間がいれば、我慢できなくなってしまうんじゃないかと思っている。何せテレビで流れるビールのCMすら目を背けているのだという。 「信じられないな」僕はビールを一口飲んだ。「アルコールの出ないパーティなんて。高校の文化祭じゃあるまいし」 「そういう場にいても飲まずにいられるように、リハビリさせたいって目的もあるらしいの」 「それってリハビリって言うの?拷問みたいなやりかただね」 「ねえ、付き合いだと思って我慢してね」 「うーん」 しらふのまま、初対面の人間たちと食事なんてできるだろうか?ましてアル中の人間がそこにいるだなんて。食事を取り分ける皿の上で、震える手に握られたトングがカチカチ鳴るところを想像する。 「ぞっとしないな」 「嫌なのはわかるけど、わたしのところだけ同伴者がいないなんて、あんまりじゃない?」 「そうだね」 そんなこと言われたら、行かざるを得ないじゃないか。女ってどうしてそんなことを気にするのだろう。そう思いながら、僕はビールを飲み干して、新しい缶に手を伸ばす。 「きっとあなたも、そのうち彼みたいになるんだわ。治療がどんな辛かったかちゃんと聞いておいた方がいい」 妻はそう言って寝室へと消えていった。
そのパーティは、妻の友達の一人が所有する別荘で行われるということだった。住所をインターネットで検索したら、山あいにぽつんと存在する小さな湖にピンが立った。さぞ豪勢な別荘なのだろうと思ったが、辺鄙なところとしか思えなかった。何もこんな寒いときに、こんな山の奥まで行かなくても。 そして妻は運転免許を持っていない。つまり、僕はそもそもアルコールを飲む権利すら与えられていなかったということだ。
別荘にたどり着くと、妻は友達たちひとりひとりとハグした。糸が絡まりあうように、友達たち同士がそれぞれハグをし合った。 妻の友達の同伴者たちはみな、僕も含めて、微妙な距離感で苦笑いしながらそれを見ていた。数人の子どもたちも、緊張した面持ちで指を咥えたり、積み木を床の上で滑らせたりしている。大きな犬が黒い豆粒のような黒目を鈍く光らせながら、暖炉の前で佇んでいた。つまり、みんな与えられた立場を守り抜いているということだ。 アル中の男がどいつなのか、僕にはすぐにわかった。 「よ、ようこそ」 それは別荘の持ち主である一家の主だった。 「お会いできて、こ、光栄です」 「こちらこそ、お招きいただいてありがとうございます」 握手すると、彼の手はじっとりと汗ばんでいた。手の平は真っ白なのに、手の甲は赤黒く変色している。 「大変すてきな別荘ですね」 「な、何もないところですが、どうかごゆ、ごゆっくりと」 彼はそう言いながら僕に細長いグラスを持たせて、かすかに緑がかった粟立つ液体を注いだ。 「乾杯」 マスカット・ジュースだった。
彼の妻の手料理は美味しかった――そう、ここにビールがないことを膝を付いて悔しがりたくなるほどに。柔らかい牛肉はほどよくレアだし、大葉やえりんぎなどの野菜を中心としたてんぷらは、あっさりとして上品だった。子どもたち用に作られたから揚げやポテトも、カレー塩やタルタルソースに和えられていて、まるでビールのために作られているようにしか思えなかった。 「実に美味しいですね」 「良い奥様ですね」 男衆が彼の妻を褒めちぎると、彼は首を傾けながら謙遜した。 「そ、そんなことよりも、みなさん、わたしのせいで、お、お酒が用意できなくてすみません」 彼は震える手を突き出しながらそう言った。 「もう随分、な、長い間飲んでいないのですが、ま、まだ医者にも妻にもストップされていて」 「お気になさらないでください」 子どもを連れてきた男が、オレンジジュースのグラスを掲げながら言った。 「わたしも今日は休肝日にします」 「いやはや、も、申し訳ない」 我々は大いに食べた。初対面にしては打ち解けたのだと思う。別荘は豪奢で解放的。子どもたちも案外大人しく遊んでいるし、何より普段うるさい妻たちがにこにこしていることを、みんな喜んでいるようだった。 「あ、あんなに楽しそうな妻は、はじめてです」 「うちもです」 「うちも」 僕たちはそう言い合って笑う。 「そ、そうだ。ひ、ひとつどうです」 主人はそう言って奥に引っ込むと、女たちに見えないように大きな瓶を携えて帰ってきた。すぐに手で押さえながら栓を抜く。 「ビールじゃないですか」 「止められているんでしょう?」 「い、いや、ここを見てください」 主人の指差したところには、「ALC.0.00%」という文字があった。 「なんだ」 「じ、じつは、これも止められているんです。ビールの味が恋しくなるからって。でも今日くらいは良いでしょう」 彼はそう言いながら瓶を傾けて、グラスに黄金色を満たしていった。 「男たちの秘密に、乾杯」 僕は――そう、たまらなくうれしかった。こんなものでも、ビールはビールだから。 「はあ、初めて飲みましたが、なかなかのものですね」と、僕はグラスを空にして言った。「アルコールが入っていないだなんて信じられません」 「飲料メーカーのたゆまぬ努力の結晶ですな」 男たちは口々にそう言いながら、ちびちびとノンアルコール・ビールを舐める。 「じ、じつに、良い飲みっぷりですね」 「はあ、すみません」 僕の胃袋はやはり、ノンアルコール・ビールも黒い渦に引きずり込んでしまうみたいだった。主人は僕のグラスに二杯目のビールを注ぐ。 「ああ、な、懐かしい」 彼はそう言いながら、遠い故郷の美しい思い出に浸るように、目を閉じながらビールを口に運んだ。 「う、うるさい犬だな」 大きな犬が、主人に向かって小さく唸っていた。主人はビールを持っていないほうの手で犬をソファから遠ざけるように押しやっていたけれど、やがて犬は吠え始めた。女たちがこちらを見る。 「こ、こんなときだけ忠犬ぶりやがって」 彼はそう言いながら、瓶を持ったまま庭に出て行く。犬が追いかけて行った。 「誰か見に行ったほうが良いかもしれませんね」 「そうですね。では、わたしが行きます」 僕はそう言って――無意識のままグラスを携えて――彼のことを追いかけて行った。
彼は、犬にまとわりつかれながら、ノンアルコール・ビールを飲んでいた。瓶の首をしっかりと握り締めるその様は、まさにアルコールに取り憑かれた人間の姿だった。 「大丈夫ですか」 「こいつは、ま、前からこうやって、僕の邪魔ばかりするんです」 犬は黒目だけで、狂ったように彼に向かって吠えている。白くねばねばしたよだれを口の端からよだれを垂らしている。彼のことを気遣って咎めているうちに、我を失ってしまっているのだろうか。 「あ、あっちへ行け!」 犬が牙を剥いたので、思わず僕は後じさる。 犬は短く小さく吠えたあと、彼に飛びかかった。 「こ、この」 男の手から瓶が滑り落ちて、硬い地面にぶつかって割れた。ああ、と嘆く聞こえたが、それは僕の声だったのかもしれない。犬は、地面の上で水溜りになったノンアルコール・ビールを舐めていた。 「こいつめ」 彼は目を血走らせていた。中毒症状が出たときはこんなだったかもしれない。庭の脇にあったスコップを振りかざすと、思い切り犬の頭に振り下ろした。僕は思わず目をつむったが、何かがつぶれる鈍い音が聞こえた。犬は、「おえ」という獣とは思えない野太い声を喉から絞り出して息絶えた。 「前から目障りだったんだ」 彼はそう言うと、スリッパを履いた足で犬の腹を蹴り、まだグラスの底に残っていたノンアルコール・ビールを飲み干した。 「ほら、何ぼけっとしてるんですか。手伝ってください」
僕たちは犬を、すぐそばの湖まで運んだ。仰向けにした犬の手を彼が、脚を僕が持った。人間を運んでいるみたいだ。 「犬のくせに、わたしを見下していたんです。わたしがこっそり酒を飲もうとすると、咎めるように吠えてかかってきた」 犬の股の周りは湿っていた。黄色がかった液体が、背中の毛から伝っていた。アンモニアの臭いがするような気がしたが、ノンアルコール・ビールかもしれない。 「犬のくせに」 湖に着くと、我々は桟橋の先から犬をせーので放り投げた。一度犬が浮かび上がって、こちらに向かって流れてきたけど、彼がスコップでつついて遠ざけると、やがてわずかに泡立ちながら沈んでいった。 「こいつといると、情けない気持ちになったんです。わかるでしょう?」 わかりますよね、と彼が僕に大きな声でもう一度尋ねたので、僕はわかるような気がします、と答えた。 「湖に落ちたボールを追いかけていって見えなくなったということにしましょう。良いですね?」 彼の目は、さっきまでの泥団子のような色ではなく、綺麗な白だった。ただ、それを覆うように赤い脈が血走っていた。げっぷをすると、ビールの臭いが鼻をかすめた。 「案外美味いもんですね」 「え?」 「ノンアルコール・ビールですよ。そう思いませんでしたか?」 「ああ」 「あなたもビールに目がありませんよね。いつまでグラスを持ってるんですか?」 僕のジャケットのポケットからは、泡のこびりついたグラスが飛び出していた。彼はそれを取り上げると、指で泡をかき集めて舐めた。 「酔えるものですね」 湖は霧がかって、水面が果てしなく向こうまで続いているように見えた。犬の沈んでいったあたりにあったはずの泡はもう消えていて、波は鈍色にたゆたっていた。何の音もしなかった。 「あなたは?」 「ええ?」 「酔ってますか?」 「ええと」 「どっちですか?」 彼はグラスを湖に向かって放り投げた。とぷん、と鈍い音がして、グラスは沈んでいった。泡は立たない。 「酔ってるんでしょう?顔がゆるんでますよ」 僕が言いよどんでいると、彼は大きな声で、「酔っていると言え!」と叫んだ。木々がざわめき、僕の全身の毛が逆立つのがわかった。短い風が吹いたみたいだった。
「何を話してたの?」と、帰りの車の中で妻が僕に尋ねた。 「妻の悪口だよ」 「そうじゃなくて」 犬を連れて湖に行ってたんでしょう?犬がいないんだけど、ってメールが着てるの。 「知らないよ」 あんまり覚えてないんだと言うと、変ね、と妻は言った。 「そんなことより、運転を代わってくれないか。頭が痛くて変になりそうなんだ」 僕は吐きそうだった。車は停まっていて、外の風景の方が動いいている。僕と妻は車ごとどんどん後ろに追いやられていって、逆巻く暗い渦の中心に向かって吸い込まれていく。 「何言ってるのよ、わたしは免許を持って――」 急ブレーキの音が遠くから聞こえた後、我が家のゴルフは道路の脇の電柱にぶつかって止まった。エアバッグにアッパーカットを食らって脳震盪を起こしたのか、僕はすぐにゲロまみれになっていた。まだぶつかった瞬間の衝撃で身体が浮いている最中に、今までに食べた料理や飲み物が逆流するのがわかった。
ふと目を醒ますと、そこに妻はいなかった。 最初から妻なんていなかったみたいだと思いながら、車の外に這い出すと、げっぷが出た。ビールの臭いがする。
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儀式

※縦書きリンクはこちらから https://drive.google.com/open?id=1jHkaTWMSfZG5WgNhHsJnNk1J4rIpP5J2
結婚するとき、私は女房を食べてしまいたいほど可愛いと思った。 今考えると、あのとき食べておけばよかった。
アーサー・ゴッドフリー
■ そうですね。腐る前に食べておけばよかったのです。 女は怖い。わたしもそう思います。女は怖いって。
指先の粘つきを洗い流しながらわたしは言う。生臭さが鼻についた。
◆血 「今日使用する食材はギヅヅギです」 と言っても普通のギヅヅギ料理ではありません。特別な日のための、ごちそうギヅヅギです。
ギヅヅギ?わたしはギヅヅギなんて生き物、聞いたことがない。 「ギヅヅギってだいすきなのよね」 「ついつい食べすぎちゃうのよね」 「うちはギヅヅギ炒めを作り置いて、お弁当のおかずにするわ」
先生は日焼けした太い腕でギヅヅギ——瘤が寄り集まってひとつの大きな瘤になっているみたいな、首の長いだらんとした死体——をまな板の上に乗せる。プロジェクターには、まな板を俯瞰で捉えた映像が映し出されていた。 「今日のギヅヅギは新鮮ですよ。知り合いにギヅヅギ輸入業者がいるので、特別に生きたまま送ってもらいました。頭数が少ないので、今日は一頭を何人かずつで共有してもらいます」
「あらやだ、外国産のギヅヅギなのね」 「輸入物のギヅヅギって、筋増強剤使って育ててるって聞いたことがありますわ」 「まあでも、先生が新鮮だっておっしゃってますし」 侃々と話すマダムたちの口から唾が飛ぶ。わたしは自分の包丁や皿を、マットごと手前に引いた。 テーブルの真ん中には、ギヅヅギの長くて黒い死体が横たわっている。
「ギヅヅギは目で新鮮さがわかります」 先生はギヅヅギのまぶたをひん剥く。カメラがアップになり――ゲル状の目玉を映し出す。 「ほら、瞳の周りが透明でしょう。白く濁っているのは、鮮度が落ちている証拠です」
マダム2が、テーブルの上のギヅヅギのまぶたを剥く。 「あら、うちのはちょっと白くなりかけてるみたい」 確かにプロジェクターに映る目よりもかなり曇っている。隣のテーブルのギヅヅギを見せてもらうと、そちらもほのかな煙が立ち上るみたいに濁っていた。こちらのまな板の上でだらんと身を横たえているギヅヅギよりも随分小ぶりだ。親子みたいに見える。 わたしも自分の指で、自分のテーブルの上のギヅヅギのまぶたを剥いてみる。端に、人間と同じように赤い血管が浮かんでいる。強く引っ張ると、のけぞった瞳が見切れていた。ゼリーのような瞳の光沢は、目に涙を浮かべているようにも見える。
「血抜きはしてあります。スーパーで売っているギヅヅギは基本的にあらかじめ血抜きされていますね。包丁の先は、かすかに当てるだけで大丈夫です。内臓を傷つけないように気をつけて。それでは実際に捌いてみましょう」
「いやだわ、何だかまだ生暖かい気がする」 マダム1が祈り手を組みながら身をくねらせる。 「わたし触れない」
マダム1は比較的まだ若く、わたしと同じくらいの年齢だ。でも既に子どもが二人いて、お腹の中にもう一人潜んでいる。三人目を身ごもった時点で思い切って仕事を辞めて、この料理教室に通っているらしい。 「ほんとに、ご飯を作るのがいーちばん大変よね」 仕事を辞めて、外食や手軽な冷凍食品に頼らなくなってからの方がよっぽど忙しく感じるわ。でも後々の子どもや夫の身体のことを考えたらねえ。ちゃんと身体に良いものを食べてもらった方が良いでしょう?
「わたしがやるわ」 マダム3が自分の包丁を握った。
マダム3はマダム1~3の中で一番年を取っている。どうしてこの教室に通っているのか、理由はよくわからない。みんな包丁捌きが怪しい中にあって、マダム3の手つきには迷いがないからだ。丸々と太った指で、器用に食材を捌いていく。また、こういう生ものみたいなものを触るのにも抵抗がないようで、いつもむしろ生き生きとした表情ではらわたを除いている。
マダム3が包丁を当てると、あらかじめマジックカットされていたみたいにギヅヅギの背中が裂けていく。やがてギヅヅギの身体は真っ二つになった。 「この口のところのコリコリしてるのが、変わった味で美味しいのよね」と、マダム2が赤く塗った爪で口吻を拾い上げながら言った。興奮は細長く鋭く尖り、まだ生きていた頃のしなやかさを残している。
マダム2は新婚で、かなり年上の夫がいる。 時々冗談めかしながら、「うちの旦那はもう半分死んでるようなものだから」と言うことがあった。しわがれた老父がマダム2の妖艶な指先で給餌されている姿を、わたしは時々想像する。 「わたしは料理で彼の胃袋を掴んで結婚したの」 その赤い爪が、枯れて縮んだ胃袋の入口を掴んでいるところをイメージする。 「あの年代の人は家庭的な女が好きなのよ。美味しいだけじゃなくて、身体を気遣った料理にするのがこつね」 マダム2の作った料理を食べれば食べるほど、何故かますます老父は痩せていく。 隣のテーブルで声が上がる。 「わあ、すごい血」 テーブルの端からしたたるほどの血が、となりのギヅヅギからはあふれ出している。 「ああ、すみません。うまく血抜きができていなかったみたいですね」 テーブルを回っていた先生が、ゆっくり落ち着いた口調で言った。 ギヅヅギの血管構成は複雑で、固体によって動脈と静脈の位置や絡まりがかなり異なるらしい。喉を切ってぶら下げておくだけでは血抜きが不十分なことがあって、こうして血が溢れてしまうことがあるのだと言う。 マダムたちは案外平然としている。さっきギヅヅギを触れないと言ったマダム1も、やっぱり新鮮だとあんまり匂いがないわねと呟いていた。 マダム1とマダム2がおしゃべりしている間も、マダム3はプロジェクターで再生され続けている手さばきをちらちら見ながら包丁を振るっていく。鉤鼻の頭に汗をかいていた。 こちらのテーブルのギヅヅギは、少しも血が流れなかった。意識して初めて気が付くくらいの、ほんの少し鼻につく匂いがするだけ。 「あら、サトウさん。そこ、血が付いてるわよ」 「え」 いつの間にかわたしの服の袖に血がついている。 こすっても、それが指に付いたりかすれたりすることはなかった。もともとからそこに浮かび上がっていたみたいに。
わたしは家に帰って今日作ったギヅヅギのキッシュをゴミ箱に捨てたあと、血のついたシャツを丁寧に畳んで箪笥にしまった。
■ あなたたちはわたしたちが作ったものを食べる。それをエネルギーに換えて駆動する。 気づいてなかったですか?あなたもわたしによって駆動しているんです。わたしの作った料理によって呼吸し、心臓に血液を送り、生きている。 だから、言うことを聞かなくなったらそれまで。 どうして気づかなかったの? わたしがどうして料理を習っていたのか、もっと早く気付くべきでしたね。
◆肉 「先生はどうして先生なんですか」 わたしがそう訊ねると、先生は細長いワインのグラスを持ったまま笑う。わたしの乳首を摘むのと同じ指の形だ、とわたしは思う。 「なんですか、その質問。どうして先生になったかってことですか?」 「はい」 先生はラム肉をナイフで切る。ほんのわずかに、かちゃかちゃと皿にナイフが当たる音が聞こえた。やがて肉は小さく千切れる。 「こう見えて僕は昔、すごくワルだったんですよ」 先生はラム肉をくちゃくちゃと噛みながら話し続ける。 「触るものみな傷つける、なんて。ははは。喧嘩ばっかりしていたんですよね。僕を恨んでいたやつに後ろからバットで殴られて、入院したこともあるくらい」 先生の腕は精悍としている。料理には必要ないくらい。この人の逞しい身体は、喧嘩と自分の作った料理でできているのだ。 「家族との折り合いが悪くて、小さな頃からずっと夜遊びばっかりしていたんですよ。まともな食事なんて給食くらいしか食べたことがなかった。それも中学生までの話です。高校くらいからはまともに家に帰っていませんでした」 わたしはテーブルの上にひじをついて、時々ワインで唇を濡らしながら先生の話を聞いていた。料理はどれも味が濃い。メインディッシュのラム肉は、獣臭さを消すためのにんにくの臭いがきつく、食べれそうもなかった。
マダム2は、こんなもの食べて喜んでいたのだろうか?
「それでふらふらしていたんですが、街である洋食屋さんに出会いまして。あまりにも良い匂いがしたんで、お金もないのに入ったわけです。そこで食べたハンバーグがあまりにも美味しくて。一口食べるたびに自然と涙が流れたんです。ああ、何かを食べるというのはこういうことだな、と。食べたものがエネルギーになって自分を駆動させていくというのはこういうことか、と。そこからはよくある話ですよ。無理を言ってその洋食屋で修行をして、ちゃんとした調理学校に行って、今に至ります」 先生はグラスに残っているワインを飲み干した。顔がワインと同じ色に変色している。まるで飲んだワインがそのまま先生の表皮と肉の間を満たしていくようだ。 「実は自分で店を持ったこともあるんですが、あんまり上手くいかなくて。それで、こうして雇われ料理教室の先生をやっているってわけです。やってみたら、これが案外性に合っていたみたいで。作り方を教えるということは、やっぱり心の込め方を教えることですよね。こういう家庭料理レベルの料理教室だと、単純に美味しいものをたくさん知っているよりも、かつてのあの洋食屋のように、心のこもった料理の味を知っている方が役に立つんですよ」 「そうだったんですか」
そんな話、全部知っている。みんな知っている。
先生は顎ひげをこする。それが自分の男性をアピールする仕草だと知っているからだ。 「口に合いませんでしたか?」 「いえ、なんというか、胸がいっぱいで」 「そうでしたか。次はこういうのじゃなくて、お蕎麦とかにしましょう。目黒川沿いに、良い蕎麦屋があるんですよ」 はい、ぜひ、とわたしは答える。この声は何のエネルギーで出来ているのだろう?
先生の息は獣臭かった。不思議とにんにくの香りはしなかった。ということは、この獣臭さは先生自体のものだろうか? 「サトウさん」 この人はさっき食べたラム肉のエネルギーで腰のモーターを駆動させているのだ。わたしは足を開いているだけで良いので楽だった。 「サトウさん」 先生が耳元で息を吐くたび、ベッドごと深く沈んでいくような感覚があった。 「サトウさん、何か言って」 わたしが先生の耳元に呼気を吹きかけると、先生はわずかに震える。これはエネルギーを使った動作ではなく、ただの反応だ。 わたしが吐く生温かい息も、さっきわずかに口にしたラム肉で出来ているのだろうか。 「先生、わたしたち」
今、ひとつですね。
「サトウ、さん」 先生はやがてわたしの中で果てる。エネルギーの塊をわたしの中に放ち、小さくしぼんでいく。わたしはマダム2の夫である、しわくちゃの老父がますます乾いていくところを想像していた。
■ もうすぐ完成です。 先生が教えてくれたのは、真心の込め方でしたね。 それって本当に料理に宿るのだろうか。わたしは正直、当為は先生が言っていた真心というのがどういうものなのかよくわからずにいました。 でも、今ならなんとなくわかります。ああ、心を込めるというのはこういうことなんだなと。一本ずつあなたの指を開いていくと、そこにまだ温もりが残っているのを感じました。この温もりは命の灯火によるものではなくて、わたしの作った料理を食べて蓄えたエネルギーが尽きるまで燃焼しているだけなのでしょう。とても神秘的ですね。 ずいぶん食べましたね。若いときに比べてよく肥えたお腹を見ていると、感慨深い気持ちになってしまいます。これはわたしが悪いのでしょうか?わたしが、美味しいものを作りすぎたからでしょうか?
あなたは一度も、わたしが作った料理を残しませんでしたね。
◆魂 一方でわたしのお腹は、別の生き物によって膨らんでいく。
鍋に水を張り、鶏ひき肉を強火で煮込む。
ボウルに水を張り、じゃがいもをつけておく。
一合分の米を釜に入れ、水を加える。二、三回底から混ぜたら、糠の臭いが米についてしまわないうちにすぐに水を捨て、研ぐ工程に入る。米同士の摩擦によって、余計なものが剥がれていく。もう一度水を入れて、白く濁った水を流しに捨てる。それを二回繰り返す。釜に米を入れて水を線まで注ぐ。炊きムラができないように、水の中の米を優しく揺らしながら平らにする。炊飯器に釜をセットして、スイッチを押す。
ひき肉を鍋から取り上げたら、ダシスープ、コーンクリーム、ごま油、塩を入れ、よく混ぜて、強火で温める。沸騰しそうになったところで片栗粉を入れて中火にする。スープにとろみがついたら、溶き玉子をまわし入れ、ひと煮立ちさせたら缶詰のコーンを加える。
じゃがいもの表面の、柔らかくなった泥を落とす。包丁を使って、毒素のある芽を取り除いていく。皮は剥かずにおいて、輪切りにする。皮にもたくさん栄養があるからだ。
肉は大きめのフライパンで焼く。あらかじめ常温に戻しておいた肉を、ごくごく弱火で温めたサラダ油の上に置く。肉汁を外に出してしまわないように、表面を焼いてコーティングする。肉が少し白くなってきたら、中火にして焼き色をつける。この時、動かさずに表裏それぞれ1分くらい焼いて、塩胡椒を振る。 焼いたばかりの肉はすぐに切らず休ませる。アルミホイルに包んで保温し、肉汁を中に閉じ込める。その間に、肉を焼いた油でじゃがいもをソテーにして、付け合せにする。
ご飯をよそい、コーンスープをスープ皿に注ぎ、肉とじゃがいもを皿の上に横たえる。
自分の中に、二人分生きている命があるというのは、妙な気分だなと思う。 わたしは自分が作ったものを食べる。口から繋がっている細長いホースを通って、直接エネルギーがお腹の中にある命に渡っていくところを想像しながら。それは得体の知れない闇にも似ている。
あなたもさっき食べたものをちゃんと思い出した方がいい。 それがなんだったのか、そしてそのエネルギーがあなたの中の何に注がれているのか、ちゃんと考えた方が良いと思う。
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カクバリズムと今の私

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畏れず正直に言うと、角張渉という人のことを、大学のサークルのめちゃめちゃ面白い先輩――いや、とても仲のいい同級生の友達くらいに思っている節が、自分にはある。 軽んじてそう言っているわけではないのだけど。 その「社長」を初めて見とめたのは、自分がちょうど浪人していた頃に見たSAKEROCKのツアードキュメンタリー「ぐうぜんのきろく2」、ツアー車を縁石だか電柱にぶつけて警察に事情聴取を受けている姿だったと思う。 ええ、レーベルの社長ってバンドワゴンの運転もするんだ。大変だな。しかもめちゃめちゃいじられてる��。 ぼさっとした髪の毛とモッズコートのその人は、肩書きとしての「社長」ではなく、ただのあだ名として「社長」と呼ばれているように見えた。 バンドをやるんだ、毎日色んなライブハウスに行って色んなバンドを見るんだ、気の合う奴らと朝まで酒を飲みながら色んな話をするんだ――などと、浪人していた頃から夢見ていた、というよりも「決めていた」自分は――本当にいけ好かない奴だったと思う――やっぱりほとんど大学に馴染むことができず、いつもすごく浮いていた。大学にいる間まったく声を出さない日なんてざらで、今思い返してみると、やっぱりちょっと頭がヘンになってしまっていた時期もあった。二人以上の人の群れを避けて歩いた。授業が終わるとすぐにヘッドホンをつけて誰にも話しかけられないようにしていた。毎日同じ学食の席で壁に向かって蕎麦を食べ、いつか自分がつけた蕎麦つゆの形を眺めながらじっと音楽を聴いていた。 「慰安旅行」良い曲だな。ずっと聴いていられるな。 その当時流行っていた言葉に「共同体」というのがあって、「仲間」とか「友達」みたいなどこか幻想めいた関係性よりも、「個人としての営みがいつの間にか結びつき合っている」みたいなことにすごく憧れていた。 シンプルに言えば、バンドというのはみんなバラバラの楽器を演奏しているけど、それがひとつになって音楽になっているという意味でやっぱり「共同体」で、更に過剰に誰かに合わせようとしているように見えないSAKEROCKやYOUR SONG IS GOODはそれがすごくかっこよく見えた。 かっこよく見えただけではない。うらやましかった。 俺も何かやりたい。 ユアソンもカクバリズムってレーベルじゃん。ええ、二階堂和美もなんだ。あれ、イルリメも今度カクバリズムから出すの? 僕はまだ「レーベル」というものについて「似ているバンドを括るもの」ぐらいの捉え方でしかなくて、どうしてサイ上ロベ吉みたいないかつい人たち(今は全然そう思わないけど)がSAKEROCKと同じレーベルから出すんだろう、と思っていた。イルリメもやるってことはこれからヒップホップも扱う的な? 後々マタドールとかラフトレードのことを知ったし、今でこそ二階堂和美とMU–STARSがレーベルメイトなのもなんとなくわかるよねみたいになっていますが、そんなのヘンだ、どうしてこんなヘンなことが出来るんだろうと思っていたわけです。 キセルもカクバリズムに移るんだ。 角張渉という人の名前は、東京から離れた地方��市で暮らしていても、好きな音楽を追いかけているだけで自然と耳に入ってくる。僕は大学三年生くらいになっていて、当時流行っていた音楽よりも、今作られた音楽がどういう経緯を経てそこに生まれているかということに興味があった。元町の高架下や京都の市内をぐるぐる回って、古いレコードやCDそして昔の音楽情報誌などを山ほど手に入れ、化石みたいな部屋で暮らしていた。ちょっとZINEを作って売ってみたりしたら、それがそこそこ売れたりして、そういう関係の友達も少しだけ出来たりした。 あ、ここでも角張さんの名前が出てくるんだ。お、カクバリズムから新しいバンドがデビューするぞ。ああ、カクバリズムから出てるレコードは間違いないから聴いておいて損はないよ。 ceroか。今これ買ったら、今月はもうご飯食べられないな。 そこに来て、ceroが影響を受けたとしているバンドは夢中になっていたポストロックやオルタナとは全く流れを汲んだもので(ユアソンはパンクだと思い込んでいた)、またほしいレコードが倍々ゲームみたいに増えていった。大学を留年するほどバイトしていたはずなのに、一回生の頃よりもずっとひもじい暮らしをするハメになってしまった。 10周年イベント、最高だったな(昔の彼女と行った)。 いつの間にか僕は大学を卒業して、社会人として組織の中で仕事をしている。 上にも書いた通りの暮らしだったので、誰にも負けないくらい音楽が好きだと思っていたけど、あくまで僕の場合それを仕事にしなかったのは、やっぱり勇気がなかったからということになるのだと思う。かっこいい、と自分が思うものを仕事として突き通していく自信がなかったんだということに尽きる。当時仲良くなれなかった友達たちに、もっと優しく包み込むような感じで、自分の好きな音楽の話が出来なかっただけなんだと思う。楽器が上手くなっていくビジョンも、かっこいいアーティストを乗せて全国津々浦々を周る自分の姿も、想像すらする勇気がなかったのだと思う。 ここらへんのことはいくらでもだらだら書けるだろうけど、一言で言えば本当にただ勇気がなかっただけなのだ。自分が良いと思うことを、自分なりに発信していく自信。 関西から東京に出て就職活動をしていた頃、カクバリズムの事務所を調べて、その前まで行ったことがある。大きい出版社の、三次面接の帰り道だった。 もしこのスーツ姿のまま、カクバリズムのドアを叩いたら、人生が変わってしまうかもしれない。変わって、しまうかもしれない。変わる。変わるかも。変わるだろうか?本当に? もう当時自分がどこまで本気で考えていたのか思い出せないのだけど、カクバリさんはおろか、JxJxやハマケンが出てくるようなこともなく、僕は扉を叩くことも誰にも会うこともないまま、また深夜バスに乗って関西に帰った。 思い出野郎Aチームってすごいバンド名だな。七人とも全員が「このバンド名で行こうって」なったのかな。 僕は結婚して、それまでこそこそ書いていた小説を人に見せることができるようになった。別に奥さんに見てもらうわけではない。じゃあ何の関係があるのだと聞かれると上手く答えることができないのだけど、自分の中で結婚と小説は結構リンクしていることなのだ。 正確に何のライブか思い出せないのだけど(多分京都の磔磔だったと思う)、学生の頃角張さんに握手してもらったことがある。自分が何て言ったのかも覚えていないのだけど、多分SAKEROCK聴いてます、好きですとかそんなことを言ったのだろう、角張さんがにこにこしながら「いいよね」と言ったのは覚えている。ありがとうとかこれからもよろしくではなく、「いいよね」と言ったのだ。 ええ、文藝誌 園の編集長の江原茗一さんって、カクバリズムからCD出すんだ。 ロック画報「カクバリズム特集」を読んで、何だか自分が好きだったクラスの卒業文集を読んでいるような気持ちになってしまった。ビールをかなり飲んでいたせいもあるのだけど、15周年イベントの集合写真を見て何故か目頭が熱くなってしまった。 僕は身勝手で、頭のおかしいリスナーなのでしょうか。 かっこいいと思うものをただかっこいいと言うのにも、結構な勇気がいる時代だと思う。あるいは大人になっていくにつれて素直にそれを言えなくなったり、もしかすると自分の目もだんだんくすんでいってしまうのかもしれないなと思う。僕は本当に一人で音楽を聴いていたので、それを言う必要が別にないことも、でもそれがなんとなく寂しいような気がするということも、両方知っている。 週末はソウルバンド、じゃなくて小説を書くようになった僕は時々、大学生のころはこんな風に自分の心象風景みたいなものをぼやかしたりすることなく、もっとありのままミクシィに書いていた気がするなあと思い出したりする。当時と同じように、自分の気持ちと向き合っているのだと思うようにしているけど、やっぱり当時みたいに壁に投げつけるみたいな言葉は書いたり言ったりできないなと思う。 角張さんが、新作リリースの度に音源にさらりと添える文章は、昔からずっと本当にただの音楽好きがビール片手に知り合いに向かって話しかけるような素直な文章で、「聴いてみてよ~すげ~良いよ~」という声が聞こえてきそうだ。「この人のそばにいれば面白いことが起きる」というようなことを、誰かに対して簡単に言ってしまいそうになる。それは人を褒めるときに使う言葉なのだろうけど、やっぱりその「面白いこと」は勝手に起きているわけではないのだと、「ロック画報」を読んで痛感する。 カクバリズムに一生ついていきます!というようなことも簡単に言えないなと思う。当時はよくわからなかったけど、お金や勇気をしこたま振り絞って、この人たちは何かを起こしているのだとわかるからだ。結局リスナーというのは、余計なことを考えずただふと気になったレコードを買って帰って、またふとした時にそこに針を落として耳を傾けることだけしか出来ないのだと思う。好きか好きじゃないかも、大切に聴くか何となくそのままレコードボックスにしまってしまうのかどうかも、何もかも聴いてみてからしかわからないのだ。 でも「ロック画報」と一緒に自分の人生を振り返ってみたときに、ランドマークみたいに思い出と一緒に浮かんでくるあのアルバムやあの7インチ、それは多分永遠にそこにあり続けることについての御礼くらいは言ってもいいのかもしれないなと思う。 明日、カクバリズムからキセルのアルバムが出る。 特設サイトに貼られているサウンドクラウドのリンクから再生ボタンを押してから靴を履き、玄関の扉を開いて仕事に向かう。音楽が流れ出す。 ポケットの中で、手のひらに静かな汗をかいた。
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ICE KEY

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いよいよアイス・キーが邪魔だ。
冷凍庫がもういっぱいなのだ。 小学校教師の仕事をやめてから、持て余した時間で料理をするようになった。カットした野菜や小分けした肉類を入れるようになったら、少し前までがらんとしていたはずの家の冷凍庫はあっという間に一杯になってしまった。 料理は当初思っていたよりもずっと楽しい。自分で作ったものを自分で食べるというのが、こんなにいいものだとは。丁寧に作ったきんぴられんこんやほうれんそうのおひたしを食べていると、自分で作ったものがそのまま自分のエネルギーになっていくのを感じる。エネルギーを割いて作ったものがエネルギーになる。そのエネルギーでまた僕は料理を作る。何だか全てが自分のコントロール下にあると錯覚してしまうことすらある。 元は仕事を辞めたことで節制しなければいけなくなり、やむを得ず始めたことだった。しかしいざやってみると、手を動かしている間、目の前にあるもの以外他に何も考えなくてよいのが心地よい。食材の切り方によって歯ごたえが変わる、火を入れる順番で舌触りや味が違う、というのもやってみて初めて気づいたことで、そういう自分の繊細な気遣いが、そのまま結果に現れるのが嬉しかった。まあこんなのも生活に余裕があればの話なのだろうが。食材を細かく刻んでいるときも、何かを煮込んでいるときも、ただただ頭の中が空になる。この年になって、初めて何かに没頭するというのはこういうことかと自覚しているところだ。 もっと早く料理を始めれば良かった。もしかするとこれは僕にとても向いていることなのかもしれない。僕は料理の、その味の隅々まで気を配りたい。その完璧に計算された味に酔いしれたい。誰もそんなことに気づかず、適当に噛み砕いて飲み下してしまうのだとしても。
アイス・キーがどこで使うものなのか、はっきりしたことがわからない。おそらく倉庫街で使うのだろう、ということくらいしか。この街で「鍵」と言えばそれくらいしか思いつかない。もっと言えば、大きさも形もバラバラなのが100か200あるので、どれが重要なものなのかがわからない。 なまじ鍵の形をしているものだから、捨てるに捨てられない。
魚の身を刻む。包丁を二本持って。刻むというより叩く塩梅だ。 「あなた」 これからどうするの、と恋人から電話がかかってくる。僕はハンズフリーでそれに応じる。肉は粘り気を増していく。 「何してるの?音、なんか怖いんだけど」 僕は包丁をまな板の上に叩きつける。 「うん」 手についてしまった肉片の粘りを布巾の端になすりつけながら答える。 「うんじゃなくて」 肉はますます粘り気を増していく。 「そんなことより、ご飯を食べに来ない?つみれを作ってるんだ」 恋人のため息が聞こえる。 「あなたはわかってるのよ。こんなタイミングで誘ったって、わたしが応じるわけないってことを」 ミンチ状になった魚の身に、ねぎや長芋やみりんを加えていく。 「あんかけにしようかな。それとも水炊きに入れようかな」 どっちが良い?と聞いたつもりで返事を待つが、恋人はいつの間にか電話を切っている。
今日は水炊きにすることにする。明日はあんかけだ。 一人では食べきれない量のつみれをジップロックに入れ、アイス・キーの入ったボックスと入れ替える。透明のボックスは冷たく光っている。 しばらく眺めていると、ボックスの白い曇りが晴れていくのがわかった。僕の触れた指先の形から、透明が広がっていく。同時にアイス・キーも、小さなきらめきをたくさん身にまといながらゆっくりと溶けていくのがわかる。 やはり僕は、つみれを取り出してアイス・キーと入れ替える。
もちろん僕だって、何度かアイス・キーに合う鍵穴を探したこともある。 一度は簡単に溶かしてしまった。保冷剤に包んでタッパーに入れて運んだのだが、いざ倉庫街についてみたら、アイス・キーは一回り小さくなっている上角張った部分も流線型に解けてしまっていた。 次は魔法瓶に入れて運んだのだが、それもダメだった。かちっと白く固まっていたはずのアイス・キーは、やはりわずかに緩んでしまっていて、美しく透明に透き通ってしまっていた。 もうひとつは夏場、恋人が炭酸水か何かを飲むときに使ってしまった。製氷機の中が空っぽだったのだ。そのアイス・キーは、気づいたときにはもう小さなただの氷になってしまっていた。恋人はグラスの中を指差して、「お洒落なもの持っているのね」と言った。 つまりそれらの鍵は永遠に失われてしまったことになる。それと同時にその鍵で開く鍵穴も。 僕はアイス・キーで開く錠前の中に何が入っているのかも知らないので、その重大さも推し量るしかない。
二食分のつみれを水炊きにして食べながら、アイス・キーなんかがあるから、と僕は思う。アイス・キーなんかがあるから、僕は目の前のこと、もっと先の未来のことをきちんと見つめられないのだ。 水炊きは我ながら会心作だった。ちゃんとこんぶで出汁を取ったからだ。こんぶから染み出した味が、しっかり身体の芯まで伝わって来るのがわかる。つみれも、ふわふわとした食感の中で長芋の歯ごたえが心地よい。 身体が温まる。 窓の外で雪が降っている。空から降ってくる途中で溶けてしまったのか、あるいは固まり切らなかったのか、分子が緩く繋がりあったみぞれが降る。雪が降っているときのように外がしんと静まり返ることはなく、車がスピードを出して行き交う音が聞こえていた。 いっそ何かの拍子に停電になって、冷蔵庫の中身が全て溶けてしまわないかなと思う。ストックしている野菜や果物たちがみんな腐ってしまってもいいから。あるいはかつて恋人がそうしたみたいに、一杯ウイスキーを飲むたびに一本アイス・キーを浮かべていって、全てをゆっくりこの世から溶かしてしまおうかなとも思う。
BU・BU・BU・BU・BU・BU
冷凍庫の扉を開けて、アイス・キーの詰まったボックスを眺めていると、また携帯電話が鳴る。正確には、机の上で細かく振動して、机とぶつかりあう音をたてる。アイス・キーの入ったボックスは、さっき僕が触れた指の形の部分だけが透明のままだ。 「僕がいけないんだ」 僕は相手が話し出す前にこちらから話す。切実な気持ちで。でも後で振り返ったらただただ幼稚でエゴイスティックだったとしか思えない声で。受話器を耳に当てず、ただ携帯電話のマイクに向かって話す。 「わかってるんだ」
冷凍庫の扉は小さく開いている。そこからどろりとした冷気と、氷たちがぱきぱきと音をたて、煌きながら溶けていく音が聞こえ続けていた。
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ENCHANTED

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「また言ってる」 「え?」 「昨日も同じこと言ってたよ」 「ほんとに?」 そうだったろうか。手の中で缶ビールが汗をかき、ぬるくなっていく。 「先のことばっかり気にしてたってしょうがないじゃん」 「まあね」
大学が夏の一斉閉館になると、僕たちはいそいそと実習棟に集まる。彫刻科の外アトリエ。何故か前期の授業期間中に全く姿を現さなかったやつまで現れる。
その一週間と少しの間、天井の高いその場所は、外とシームレスのくせにどこか聖域のようになる。普段は禁止されている校内飲酒も決められた場所以外での喫煙も勝手に解禁となり、僕たちは毎日のようにバーベキューする。でもちゃんとした肉を食べられるのは初日だけで、あとは誰かの実家から送られてきた野菜を焼いたり、業務スーパーで売っている何の肉かもわからない成形ソーセージを食べたりする。 なぜかビールだけは尽きることがない。大きなクーラーボックスが焼成窯の脇にこっそり隠してあって、僕らはそれを延々と飲み続ける。どれだけ飲んでも、次の日にはクーラーボックスがまた満杯になっている。夏が終わると、クーラーボックスは細長い雑草の陰に隠れてしまう。 ちょっとだけ製作をすることもある。プロジェクターを繋いでホラー映画を見ることもある。ただ喋っているだけのこともある。夜というのは案外短いなと思ったりする。
僕はとにかく将来が不安だ。未来が不安だ。今が楽しければ楽しいほどに。 呪われてるんじゃないかと思う。
「大丈夫大丈夫」と、帰り道を辿りながら恋人は言う。ビールの缶を持っていた冷たい手で僕の頭を撫でる。よしよし。もう空はすっかり青くなっていて、蝉が鳴いている。 こういう空気を、冬には忘れてしまう。性懲りもなく。
今日はナカタニが狂ったように踊っているのをみんなで見た。誰かがペラペラの音しか出ないブルートゥースのスピーカーにiPhoneで音楽をかけたのだ。ビールを飲みながらナカタニは踊る。身体がでかいくせに妙に小気味の良いステップを踏むものだから、僕らは笑って手を叩いた。ずっと見ていても飽きなかった。70年代終わりのの有名なソウルのアルバムを絶え間なく踊りきったあと、シャッフルで80年代終わりのエクスペリメンタルバンドのアルバムが流れ出しても、ナカタニは踊るのをやめなかった。 MPが吸い取られそうな踊りだった。ナカタニは見ているだけの僕らのMPを吸った分だけますます恍惚とした。MPを吸われた僕の身体はほどけてばらばらになり、夜の星に吸い込まれて行く。夜明け前、ソファに座ったまま少しだけ眠った。
恋人がシャワーを浴びている間、半分眠りながらテレビを見る。昨夜起きた事件が報道されている。身元不明の火事による一家三人の焼死。生活保護受給を断られた独居老人の餓死。高速道路での事故、渋滞。色々な死に方がある。 都内のおでかけスポット情報で、春に出来たプラネタリウムが紹介され始める。恋人は裸でシャワーから上がってくる。濡れた身体のままで僕にのしかかってくるが、僕はプラネタリウムから目を離さない。
冬の大三角だって見られちゃいます!
大丈夫大丈夫大丈夫、と言って恋人は僕の頭を撫でまわす。
夜になって目が覚めると、その日は小雨が降っている。 「誰もいないかな」と僕は言う。 「いるでしょ」 「いるかな」 「いるでしょ」 僕たちは黙ったまま、大学へ向かう道を歩いていく。 「どの家も暗いね」 大学の周りはニュータウンで、新しくて大きな家ばかりだ。 「みんな里帰りしてるんだろうね」 わたしたち吸血鬼みたいだね、と恋人が言う。静かな通りを街灯に沿って歩いていく。空は曇っているが、じめじめとして背中が汗ばむのがわかる。 「あ」 携帯忘れた、と言って青白い横顔の恋人が家に帰る。 先に行ってて良いよ。 わかった。
実習棟は暗かった。 ナカタニが置いていったスピーカーの、青いインジケーターだけが光っている。そのうっすらとした光線の先に、ビールやスナック菓子のゴミが散らばっているのがわかる。 僕はしばらくその暗闇の中でじっと座っている。冬のことを思い、実家のことを思い、それから未来のことを考える。未来未来未来。その場所では、癌細胞を殺すワクチンが出来ていて、人間はみんなチューブの中を泳ぐようにして街を行き来する。 暗闇の中でも、着実に時間が過ぎていくのがわかる。坂道の下に、さっき歩いてきたばかりの街灯の連なりがうっすらと見切れていた。 これから僕はどうなるのだろう。呪いのことを考える。いつか自分が自分じゃなくなる呪い。持てるものは限られていて、今持っているものは指の間か��どんどんこぼれ落ちていく。この手が間違ったものを選んでしまったら、取り返しはつくのだろうか。 暗闇の中にナカタニの残像が見える。でたらめなステップ。踊る。踊る。ナカタニの線画がほどけて、闇の中に溶けていく。盥の水に絵の具を落としたみたいだ。 立ち上がってステップを踏もうとすると、足元に転がっていたビールの缶を蹴飛ばして、大きな音が出る。外からがさがさと何かがざわめく音がする。え、あれ、という恋人の声が聞こえた。
え、あれ、どこにいるの? え?何何何何? ええ? ねえ!何!? サトウくんだよね!サトウくん! 怖いよ! 何で返事しないの!サトウくん!ねえ! サトウくん!
外アトリエのポーチライトが点く。 目が合ったかと思うと、恋人が更に大きな悲鳴をあげた。
恋人の視線の先、僕の頭の向こうに、大きな鳥が佇んでいた。 鳥は身じろぎしたあと、翼をいちどはためかせて、大きくて不気味な声で鳴いた。耳を突き刺すような、遠くまで聞こえる音だった。そして僕の横を通りすぎ、曇り空に向かって飛んでいった。 羽のはためく音がしばらく聞こえていた。
「怖かったね」 「びっくりしたね」 「どこから来たんだろう、気持ち悪い。なんか赤茶けて汚かったね」と恋人が言った。 「ほんとに?青白くて綺麗じゃなかった?」 「ええ、うそでしょ。汚かったよ。触ってないよね?」 「触ってないよ」
その日は結局誰も来なくて、ビールを二本ずつ飲んで帰った。もう夏になるまでまで飲んでいた発泡酒の味が思い出せない。誰も来ないのをいいことに、夜明け前にアトリエ棟で少しだけ恋人の身体を触った。雨の音しか聞こえなかった。暗闇の中ですぐに返事しなかったことについて追求されるかなと思ったけど、追求されなかった。身体と身体の間にある隙間のことを、僕が頭の中で考えただけだった。 帰り道を辿りながら、目を凝らして鳥を探す。まだ暗かったけど、あの青白い鳥なら見えるかもしれないと思った。 「暗闇の中で何してたの?」と彼女が聞いた。 「次何作ろうかなって考えてた」 思いつきでごまかした後、でかい鳥にしよう、と僕は思う。マジでただただすげえでかいやつ。
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OUR ONE WEEK/月曜日

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月曜日
■アツミ 月曜日だけは、夜が二回あるような感じがしませんか? 休みが終わるのがどうにも惜しくて、日曜日は大体いつも夜更かししてしまいます。ああ、もう月曜日なんだな、と思いながら。 そして仕事が終わってまた夜がきます。はあ、まだ月曜日なんだ、一週間って長いなあ、と思いながら。 なんか馬鹿みたいですよね。
あれ、これはどっちの月曜日だっけ。
遠目にコンビニを見ると、その光の強さに目がくらむような気がしました。でも、いざ光の中に入ってしまうと、そのまばゆさにもすぐ慣れてしまいます。 「フランクフルトならあるじゃん」 「フランクフルトとアメリカンドッグは全然違うじゃん」 「そう?でも、アメリカンドッグって結局ソーセージが核でしょ?」 この人は何もわかっていないな、とわたしは思いました。 「あの皮、甘くない?」 心底、この人は何もわかっていないのだと思いました。 「雪見だいふくだって、皮がなかったらただのアイスじゃん」 「ああ確かに。そういうことか」 「アメリカンドッグ、作りますよ」 顔を上げると、無表情の店員がこちらに向かってそう言っていました。 「いや、でも悪いんで、こんな深夜に」 無表情の店員は、冷凍庫からアメリカンドッグがたくさん入った袋を出して、奥のフライヤーに油を注ぎました。 「そんな毎日来られたら」 小さくそういう声が聞こえた気がしましたが、気のせいかもしれません。
「靴下とかバスタオルとか、こういうのって昔から売ってたっけ?」 「売ってたんじゃない?」 そうかな? 「こんなに何でもあったっけ?」 わたしはネクタイピンを眺めながら言いました。 「あったよ。コンビニってそういうもんじゃん」 そうだったかな。 「大変だね、コンビニは」 「そうだね。まあでもコンビニでも買えないものだってあるんじゃない?」 「例えば?」 「それは、愛とかでしょ。やっぱり」
わたしはいつまでこの人と一緒にいるのだろう、とわたしは思いました。 明日には、今のわたしはもういないかもしれません。 彼のことを好きなわたしがいないこともあるだろうし、わたしのことが好きな彼がいないこともあるでしょう。 人間というのは、そんなに連続したものではありません。今日思っていたことをすぐに忘れてしまいます。今日感じていたことをすぐにどこかに追いやってしまいます。 何故かわたしは目だけで避妊具を探していました。生理用品は目立つところにありましたが、避妊具はなかなか見つかりませんでした。見つかりにくい場所に置かれているのはどういう理由があるのだろう、と考えましたが、よくわかりませんでした。 「アメリカンドッグ、結構時間かかるね。雪見だいふく溶けちゃいそう」 「一旦戻してくればいいじゃん」 「そうだね」 彼はわたしのパーカーのポケットに入れていた手を出して離れていきました。 雑誌のコーナーを見やり、ふと見上げると、空に完璧な月が浮かんでいました。 「なんかここのところ、毎日月が丸くない?」と彼に聞きかけて、彼が今は横にいないことに気がつきました。 アメリカンドッグ出来ましたよ、という低くて小さな声が聞こえました。
「わざわざすみません」という声も、「ありがとうございました」という声も、彼に届いたかどうかわかりませんでした。レジ横のモニターに表示される数字を見て、わたしたちはお金を払いました。店員の男の子は、どこかで見覚えがある顔でした。仕事柄、大学生くらいの年齢の子はみんな見覚えがあるように思えるんです。 コンビニから出て歩き出すと、駐車場に伸びた二人分の影が、ゆっくりと縮まって離れていきました。 児童公園は静かでした。月の光と蛍光灯が、公園を青く白く照らしていました。 「もうすぐ冬だね」と私が言うと、彼は「もう冬じゃん」と言いました。 「今日、アツミちゃんが寝てる間、雪降ったんだよ」 また、永遠みたいに長い冬が来ます。
「なんだよ」 「どうしたの?」 「あの店員、アメリカンドッグと雪見だいふく同じ袋に入れやがった!」 白いトレーの中に、餅の裂け目から白いバニラアイスが溶け出していました。
明日から始まる新しい日のこと。だけではなくて、今日のことを話しながら、わたしたちは抱き合って眠りにつきました。ムカイくんはやはりもう一度仕事に就こうと思っているということ、わたしは今日観た映画の淡々とした世界の日々のこと。 わたしたちは流れていきます。逸脱と合流を繰り返しながら。わたしたちは逸脱を愛します。合流を愛します。何もかもが絶え間無く動き続ける中で、わたしたちは浮かんだり沈んだりするだけです。深く息を吸い込んで。 わたしたちがいなくても、わたしたちの完璧な日々は完璧に続いていきます。わたしたちがいても、そのサイクルはぐるぐると回り続けます。
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OUR ONE WEEK/(RE)日曜日
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日曜日
■シンジ 時計の針が重なって、日付が変わりました。一日の始まりが夜中にあるのは何故なんだろうなと、いつも思います。 七時とか八時とか、まあ僕はもう高校卒業して以来そんな時間に起きたことないんですけど、一般的にみんなが起きる時間に日付が変わる方が、なんていうか合理的っていうか、気分良く一日が始められるんじゃないかなと思うんです。 毎日こうしてレジカウンターの中から、ペットボトルのフリーザーの上にある時計を眺めて、日付が変わる瞬間を見ています。 とにかく僕の新しい一日は、こうしてぬるりと始まります。
そして明日、誰でも良いから適当に人を殺そうと思いました。車で横断歩道に突っ込むか、駅でナイフを振り回すか、どこかに爆弾をしかけるか。その後自分も死んでしまえばいいか、とも。 カップルが、セックスの臭いをさせてコンビニにやってきて、長いこと店の中をうろついた後、雪見だいふくを買って行ったんです。雪見だいふく1パックだけ。 今日の場合は、それを見ていて思いつきました。僕はいつもこうやって、どんな風に自分の身の周りにある世界をめちゃくちゃにするか想像して、深夜の何もすることのないシフト時間を潰しているんです。 元々は店長を殺そうと思ったところから始まりました。店長の家に火をつけて、店長と同じように意地の悪い妻も一緒に殺してしまおうかなとか。店長の大切にしている死ぬほどダサい改造車を、店長の目の前でボコボコにしてからじっくり殺そうかなとか。 でも、それじゃつまらないというか、なんていうか、わかりやすすぎるなと思って。例えば今日も僕が怒鳴られているのを同じシフトの子に見られています。店長が僕にだけ小言を言ってくるとか、そういうのは日常茶飯事なんです。 頭の中で店長を殺してみたら、他の奴らも簡単に殺せるようになりました。 一人殺すのも二人殺すのも同じです。もちろん頭の中でですけど。
僕は多分、もっと僕のことを想像してほしいのだと思います。ちゃんと僕の心を推し量って、イメージ��てほしい。誰か一人でもいいから、僕がどんなことを考えていて、僕の頭の中でどんなことが起こっていて、どうしてこんなに残酷なことをしたのか、想像してほしい。 それだけで随分報われるような気がしました。ただ単純に、このまま誰にも知られずに朽ち果てていくのだとしたら、それはその辺の道端で死に行く虫と同じです。 そう思いませんか?
でも一方で、「誰かに自分のことを知ってほしい、想像してほしい」なんて考えている自分を、浅はかで情けない奴だとも思います。 そんなのがお前の望みなの?って。ダサいですよね。
十二時を十五分くらい過ぎましたが、立ち読みをしている身なりの汚い男がいるので、事務所に戻れませんでした。毎日のように夜中立ち読みに来る男です。悪びれる様子もなく、何なら最近は、店内に入る時に僕と目が合うと、にやりと笑っているようにも見えます。どうせ今日も何も買わないし、万引きする勇気もないような男だろうとも思っていましたが、規則なので、ここに突っ立っているしかありません。 無為に時間が過ぎていきます。背中で、冷凍されたホットスナックの入った冷蔵庫のモーターが唸っている音が聞こえます。 死んだ後、もしも冷凍庫に生まれ変わったら最悪だなと思いました。休みなく、延々と物を冷やし続けるなんて最悪です。冷凍庫に休息はありません。 でも、その低いモーターの音を聞いているうちに、一日くらいだったらいいかもなと思い直しました。眠るように目を瞑りながら、ただお腹の中の冷凍ホットスナックたちを冷やすことだけに専念するのです。暗闇の中で、ひやりとした自分の体温だけを感じるのです。
冷凍庫のモーターの唸る音だけが聞こえます。 目を瞑るとその細やかな音が間延びして、泡がはじけていくみたいな音に聞こえました。 まるでどこか別の場所にいるみたいに感じます。 息をするのも忘れてしまうくらい。
声をかけられたのはその時でした。 ふと目を開くと、いつの間にかレジの前に若い女の人が立っていて、ものすごくびっくりしました。灰色のパーカーを着た、地味な人でした。 「あの、アメリカンドッグって」 女の人はホットスナックのケースの中を指差して、小さな声でそう言ったんです。 深夜シフトでは、フライヤーの清掃をするんです。昼間何回か使いまわした油を捨てて、消毒する。 だから深夜はやってません、って言ったんです。 たぶん、ごめんなさい、とも言いました。
女の人は逃げるように自動ドアから出て行きました。僕の声が聞こえたかどうかもわかりません。 立ち読みをしていたあの男も、いつの間にか消えていました。 店内には、自分しかいませんでした。
アメリカンドッグって。そんなもんでそんな切羽詰まった顔しなくても。
今日、きっと今日こそは、人を殺して何もかもめちゃくちゃにしてしまおう。 今日もそう思いながら、レジ対応をしたり、商品を入れ替えたりしました。 でもいつもみたいにグロテスクな想像をすることが、何故かうまくできなかったんです。 それで、さっきの女がどんな人生を送っているのか、どうしてこんな夜中にこのコンビニに来たのか、想像をめぐらせながら過ごしました。なんとなく見覚えのある女性だった気がするのですが、どこで会ったのか思い出せません。多分前にも対応したことのある客だったのでしょう。 そんな風に色々考えていると、いつもよりほんの少し早く朝が来ました。白んできた空に、ゆっくりと下から透明になって消えていきそうな月が浮かんでいました。
アメリカンドッグか。確かにコンビニでしか買えないもんな。
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OUR ONE WEEK/土曜日
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土曜日
■ 休息の日です。唯一呪いの届かない日。 この日の自分だけが、唯一まともです。止め処ない流れの中で唯一、自分の在り方を考えられる日です。昨日という過去から解放され、明日という呪いから離れている。一週間の中でただ一日だけ、頭の中を空っぽにして、与えられた何者でもない自分を生きられる日です。
しかしその自由は、錯覚に過ぎません。わたしたちは流れの中にいるのです。 わたしたちは目を開きます。それと同時に目を瞑ります。 どちらにせよ、再び夜が来て、再び夜が明けます。おはよう。おやすみ。
ただしそこに境界はありません。それだって、わたしたちが勝手に決めたものにすぎません。 ただ、果てしなくまっすぐ伸びていく長い線があるだけです。 わたしたちは、それを、わたしたちの都合で区切っただけ。 流れの中でどうもがいても、どうあがいても、そこには自分の姿が浮かび上がるだけです。身体にまとわりつく暗い水の冷たさに、自分の身体の輪郭を知らされるだけです。 そう、結局わたしたちにだってわかっているんです。 どうしたって逃れられないということを。
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OUR ONE WEEK/金曜日

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金曜日
■ムカイ 僕には双子の妹がいたんです。生まれたときから心臓だけしか動いておらず、たった一週間で亡くなってしまった妹が。 自分でもおかしな話だと理解しています。だから基本的にはあまりこういうことは人には話さないんですが。
僕はその妹と話をしたことがあるんです。母親の子宮の中で。 もちろん今こうやって喋っているのとはまた別のやり方での対話です。そこには二つの感覚があります。まとわりつく暖かい空気?水?も含めて自分だという感覚があり、そしてそれが同時に妹のものであるという感覚があります。管や線みたいなものとは違う、もっと流動的な何かで僕たちは繋がっていました。レイヤーとレイヤーの重なり合うところで、感情のやりとりをしていました。 妹はいつも苦しんでいました。その苦しみが、水を通じて僕にも伝わってくるんです。頭を抱えて、その痛みにじっと耐えている。もしかすると妹は、僕の苦しみや痛みみたいなものを、一挙に請け負ってくれていたのかもしれません。あんなにひしひしといろんな感情が伝わってくるのですから、痛みみたいなものだって分け合えたかもしれないじゃないですか。 でも妹はそれをしなかった。
変な話ですよね。実際に面と向かって言われたことはありませんが、皆さんが言いたいことはわかります。「そういうのって思い込みなんじゃないの?」とか「記憶を自分で捏造しちゃってるんじゃないの?」とか。そういうことですよね。 まあ正直に言えば、僕自身だってその記憶が事実だという確証はありません。妹のことを思い出したのも徐々にだったというか、両親にあなたには双子の妹がいてねということを言い聞かされ続けてのことでしたから。 いずれにせよ、「ムカイくんはやさしいね」とか「わたしのことをちゃんと理解してくれるね」と言ってもらうたびに、そんな妹との対話というか、繋がっているときの感覚みたいなものが蘇るんです。 幻肢痛ってありますよね。あれと同じと言ってしまっていいのかわからないんですけど、とても似ていると思います。目の前で苦しんでいる人がいると、それが自分のものみたいに思えてくる。 そういう不思議な感覚を覚えるたび、妹のことを思い出します。
やっぱり妹は、僕のネガティブな感覚を、全て背負っていなくなったとしか思えないんです。 そして同時に、もう今この世に存在しない、心臓しか動いていなかった妹が、僕が母親から生まれてから今までの間に経験した喜びや、これから感じる幸せを感じてくれていたならいいなと思うわけです。 そういうわけで、別に偉ぶってるわけでもなく、僕がそういう風に他人の痛みみたいなことに敏感なのは、自分と他者の境界が、他の人に比べると曖昧なだけなんだと思うんです。僕はただ、自分が痛いところを押さえるのと同じように、他人の傷を撫でているのだと思います。少しでも気が紛れるように、痛みが早く引くように、と。そんな大それたものではありません。
あなたにも大切な人がいるのならば、きっとなんとなくわかってくれますよね。
妹が死んだのはどうしてだろうと思います。どうして僕だけが生き残ったのだろうと。 生まれたときから心臓しか動いていなかったそうですから、きっと両親は産声を聞くことすらなかったのでしょう。妹と関わりを持てたのは、僕だけなんです。 妹が死んだ理由はわかりませんが、彼女が死んでしまったことによって、僕がきちんと生きなければいけない理由はできたように思います。彼女の分も、僕が生きなければならない。ふたりぶんの、たくさんの幸せと喜びを得なければいけない。
そんな風に思っているから、アツミちゃんの感じていた不安や痛みに気づいてあげられなかったのは、痛恨の極みです。
最近やっとちゃんとアツミちゃんと同じ時間に起きられるようになったんです。仕事を辞めてから、どうも朝寝坊する癖がついてしまって。でも最近はアツミちゃんに申し訳なくて、せめて僕もアツミちゃんと同じ時間に起きて、洗濯物や洗い物をしようって。 でもその日は二度寝しちゃったんですよ。アツミちゃんって、時々朝めちゃくちゃ早く起きて制作することがあったんです。まだ空が白んでもない時間に、オオカミみたいにぱっと目を覚まして、突然制作し出す。うっすら目が覚めた時、隣にアツミちゃんがいないことに気づいたんですが「ああまた制作やってるんだ、ということは色々思いつめて煮詰まってる時期なんだなあ」なんてぼんやり思って、そのまままた眠ってしまいました。 その日、目が覚めたらアツミちゃんはもういませんでした。アツミちゃんがアトリエに使っている部屋も覗きましたが、描きかけの絵が何枚も並んでいるだけで。みんな同じような絵なんで、新しい絵を描きかけているのかどうかも判断できませんでした。 その青い絵を見ながら、そういえばゆうべアツミちゃんは昨夜、コンビニに何を買いに行ったんだろうな、と思ったんです。 僕がシャワーから上がった後も、別に何か食べたり飲んだりした様子はなくて、もうベッドに入っていましたから。てっきり自分だけ、深夜においしいもの暴食してんのかなって思ってたんですけど。
と、まあ、とにかく彼女は、雪見だいふくを買ってきてくれると約束していたわけです。そのことばかり考えてしまいます。 あの約束ちゃんと守ってよ、アツミちゃん、って言いたい気分です。どうして守ってくれないの。帰ってきてよ。 逆に、どうしてあんな約束したんだろうとも思います。変な話ですけど、あんな約束をしたせいでこんなことになってしまったんじゃないかって思ったりするわけです。ほら、あの、ブラジルで蝶が羽ばたいたら、アメリカでハリケーンが起きるみたいなやつ、あるじゃないですか。 あんな下らない約束さえしなければ、アツミちゃんはあの日も普通に帰ってきたんじゃないか。 毎日当たり前のようにアツミちゃんが帰ってくると思っていた自分が間違っていたんだ。 そんな風に思うんです。
アツミちゃんはずっと悩んでいました。いや、悩んでいるというか、漠然とした不安に包まれながら生活していたというか。それが彼女の普通の状態になってしまっていたんです。その痛痒い感じに僕も慣れてしまっていた。だから気づいてあげられなかった。 ほら、絵にもそういうのが現れていると思いませんか?いつもこういう、変な海の風景ばっかり描いてたんですよ。アツミちゃんは、ここは本来自分がいるべき場所ではないと思っていた気がするんです。もっと言えば、人間に生まれてくるべきじゃなかったとすら思っていた気がします。あの人は本当に海ばかり描いていたんです。ほら見てください、どのパレットも全部青いでしょう?青、青、青。黒まで青に見えて来るっていうか。ほんとに青ばっかりだねと僕は言って笑ってたんですけど、きっとアツミちゃんからすると全部微妙に違う青なんですよね。 だから、ふと何もかも嫌になって、その辺の小さな用水路に流されて海に向かっちゃったんじゃないか、とも思ったりします。 そういう気持ち、ひしひしとよくわかるんです。僕も、どうにも馴染めなくて仕事を辞めてしまったわけですから。
今日の夜になって、ようやくアツミちゃんがもう帰ってこないのだということを受け入れられた気がします。 アツミちゃんの借りたDVDのレンタル期限が、明日までだったんです。 明日まで。 明日までだったんです。 その明日の日付を見ていて、ああ、もうあの人帰ってくるつもりないんだなって。ちゃんとした人でしたから。延滞料金なんて、払ったことないんです。 それでパーカーを羽織ったんです。
空を見上げると、月が綺麗でした。空に正円の穴が空いて、黄色い別の世界に繋がっているみたいでした。 もうアツミちゃんが、あの日何のためにコンビニに行ったのか、知る術がありません。こうして何度もアツミちゃんがコンビニまで行った道を歩いて、アツミちゃんの気持ちを探りました。公園の脇に小さな用水路がひとつだけありましたが、そこはめだかだって泳げないような、干上がった用水路でした。 こうしてぐるぐる考えていると、アツミちゃんはもう自分の中でいろいろ決めていたのかもしれないなと思います。どうしてアツミちゃんが失踪するほど追い詰められているということに気づけなかったんだろうって、ものすごく後悔しています。 僕は馬鹿です。大馬鹿です。やっぱりやさしくもなければ、人の痛みに敏感なわけでもないんです。きっと。
アツミちゃんがいなくなって完全にひとりになると、何だか妹の声がまた聞こえてくるような気がするんです。どうしてまた、人が苦しんでいることに気づいてあげられなかったんだろう。僕は妹の時と同じ過ちを、何度でも繰り返すんです。
その妹のか細くて小さな呻き声が、過去から聞こえてくる声なのか、それとも現在から聞こえてくる声なのか。僕を呼んでいる声なのか、ひとりでただ泣いている声なのか。 今はそれがちょっと怖くて不安なんです。
——だから僕はただ、誰か耳を塞いでくれないかなと思っただけです。 寂しさを埋めようとする僕の行動を非難する権利が、あなたにあるでしょうか? 仮にこれが全部思い込みだとしても、それ自体が病んでると思いませんか。
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OUR ONE WEEK/木曜日

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木曜日
■サオリ 朝からとてもイライラしていました。 わたしは時々、ただすれ違った人や隣り合って座っただけの人から、イライラを吸い取っているんじゃないかと思うことがあります。街中のイライラを全部請け負っているのだと。それくらい理由もなくイライラしてしまう日があるんです。
出勤前、人通りの多い駅の喫煙所の前に、赤ちゃんの乗ったベビーカーがぽつんと置かれていて、とてもびっくりしました。多分、母親が喫煙所で煙草を吸っていたのでしょう。赤ちゃんは笑っていました。わたしと目が合うと、手足をばたばた振って喜びました。 無責任な母親に対して、ということだけなら理解してくれる人がいると思うんですけど、わたしはその無自覚で不細工な赤ちゃんにも、むしょうに腹が立ちました。何だか、まだ本来ならお腹の中にいるべきである小さな胚が、間違って外に出てきてしまっているみたいに思えたんです。 それで、その赤ちゃんに向かって舌打ちしました。 もちろん、普段はそんなことありませんよ。多分生理前だからです。 赤ちゃんはわたしが舌打ちしてもまだ笑っていました。何が面白かったんだろう?あんな赤ん坊に、面白いか面白くないか判断できるとは思いません。ただ笑っていただけでしょう。 それでもあの無自覚な笑顔を思い出すと、今でもまたイライラしてきます。
と、こんな風にわたしは生理がものすごく重いんです。 自分の生理が他人よりも重いとのだということに気づいたのは大学生になってからで、初めての恋人ができた頃でした。
「PMSっていうのがあるらしいよ」と、やさしいその恋人は教えてくれました。 PMSというのは「月経前症候群」の略称です。Premenstrual Syndrome、というやつですね。生理が始まる前になると、肌が荒れたり、お腹の調子が悪くなったり、理由もなくイライラしたり悲しくなったりする。 わたしはそのやさしい恋人の前で、何度も何度もみっともない姿を見せていました。 人生で初めてできたどうしようもなく大好きな恋人だったから、というのも大きな理由の一つだと思います。でも、例えば彼が電車の中で他の女の人を目で追っているだけでものすごく傷ついた気持ちになったり、わたしの失敗した料理を苦笑いしながら食べる彼に「嘘つかないで」と理不尽に怒鳴ったり、シネコンで映画を観ている途中なのに座っていられないくらい気分が悪くなってトイレに籠ったり、とにかく自分自身でもとうてい理解できないような、意味不明な理由で彼を困らせてきました。 彼は本当にやさしい人だったんです。だから、根気強くそういうわたしに付き合ってくれました。そして、男の人だから生理になる女の気持ちなんてわかるはずないのに、そうやってわたし自身でも気付かなかったわたしの病気を突き止めてくれたんです。
これってすごくないですか?ものすごいことじゃないですか? 未だにそう思うんです。あの人は、どうしてわたしよりもわたしのことがわかったのだろう。
わたしは彼にそう言われてから、時々PMSを理由に大学の授業やバイトを休むようになりました。 いや、そんな派手には休まないですよ?わたしは真面目なので、男の先生や店長にも「わたしはPMSで」ってきちんと説明をしました。「PMSっていうのは、いわゆる女の子の日の症状が重かったりその直前にも体調不良が続いたりするやつで」って。 みんなすぐに、「ああそうなんだ、それは大変だね、無理しなくていいよ」って言ってくれました。
一方で、同じ女である同僚や先輩たちからの目線は冷ややかでした。 わたしが「PMSなんです」と説明すると、 「わたしは全然、血が出るだけだからなー」 「多少お腹痛くなったりするけど、立っていられないほどじゃないな」と、みんな遠回しにわたしが甘えているとでも言いたげなことを言うのです。
どうして彼女たちは、わたしと同じ女で多少はその辛さをわかるはずなのに、こんな風に言わなければならなかったのでしょうか。 どうして男たちは、わたしの痛みを想像して、わたしに同情してくれるのでしょうか。 わたし自身も時々、「これはわたし自身が弱いだけなのかな」と思ったりします。他の人が耐えられている痛みに、わたしが耐えられていないだけなんじゃないか。わたしのPMSや生理なんかよりも、ずっと激しい頭痛や鬱の症状にやられているのに、気丈に振舞っている人がいるのではないか。 だって、わたしだっていざ生理が始まって二、三日経ってしまえば、わたしはそのお腹の張る感じとか、タバコの臭いがする人が横に座っただけで舌打ちしてしまう気持ちとか、そういうのを全部忘れてしまうのです。
わたしが見ている青と、他人が見ている青が同じ青なのかっていうことを、わたしは強く疑っています。そんなの、誰にも証明できないじゃないですか。みんなの見ている青が、みんな同じ青だなんて。 こうして喋っているわたしの声だって、みんな聞こえ方が違うかもしれない。そして受け止め方なんてなおさらです。絶対同じはずない。そうですよね?わたしを「甘えている」と遠回しに揶揄したあの人たちと、同じように思っている人もいるやもしれません。 例えばパソコンみたいに、わたしたちが有線ケーブルとかで感情や記憶のファイルみたいなものを交換できれば話は別ですよ。わたしは、わたしの自分の辛さを知ってほしいというよりも、逆に他の人たちの生理がどれくらい重いのか軽いのかを知りたいです。 でもそんなことできないわけじゃないですか。 でもでも、ムカイくんは、きっとわたしが時々おかしくなるのには理由があるんだ、サオリ自身の心がそういう風にできているのとは、まったく違うまた別の理由があるんだ、って思ってくれたわけです。
PMSのことは、今は本当に信頼できる恋人か、伝える必要のある男の上司にしか話しません。そうしようと思ったわけではないのですが、気づいたらそうなっていました。そうやって、痛みがわかるはずない人たちにしか話さないということに嫌悪感を覚える人もいるでしょう。まあ仕方ないですね。 でも、今日は何とか耐えたんです。デスクから立ち上がるたびにめまいがしましたが、なんとか一日乗り切りました。
昼休み、ムカイくんから「日曜日会わない?」とメールが着ていたからです。 わたしは心が浮き立ちました。今でもムカイくんのことが好きでした。いい感じになる人ができるたび、いつもムカイくんと比べてしまうのです。 「ミサイルとかテロとか無差別殺人とか、そういうニュースばっかりじゃん。俺たちみんな突然死ぬのかもしれないって思ったら、なんかどうしてもサオリに会いたくなったんだよね」とムカイくんは言いました。そんなことあるわけない、ただムカイくんがわたしに連絡をを取るための口実にしたとわかりきっていても、とにかくわたしは嬉しかったんです。
不思議だな、と思います。楽しみなことがあると、辛いことも乗り切れる。立ちくらみで目の前に火花が散っても、何とか立っていられる。仕事がはかどらなくても、うまくいかなくても怒られてもなんとか頑張ろう、と思える。 単純だな、と思いますか?わたしはむしろ、人間ってすごく複雑に出来ているんだなと思います。何もなくてもイライラすることもあれば、ちょっとした寂しさみたいなものを分け合えるだけで、すべてのことに耐えられる。 ムカイくんとのメールのやりとりが昨日からずっと続いています。ムカイくんと一緒に楽しく過ごしていた、頭の中が空っぽな時代の自分が戻ってきた感じがしました。だらだらとした、終わりのない不毛なやりとり。 「サオリちゃん、空」 仕事が終わって携帯電話を見てみると、ムカイくんからそんなメールが入っていました。 オフィスのエレベーターを降りて、いそいそと外に出た後空を見上げると、煌々と輝く丸い月が浮かんでいました。 ムカイくんが、わたしが月を見上げた瞬間を見ているかのようなメッセージを送ってきます。 「綺麗だね」 同じ月を見ている。
とにかくあと明日の仕事さえ乗り切れば、週末にはムカイくんに会える。 そして、ほんの少しでいいから生理が遅れないかな。 それだけ考えながら、家に帰りました。
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OUR ONE WEEK/水曜日

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水曜日
■エリコ 朝から電話が鳴り止みませんでした。 「もう少し早く告知出さないと全然意味ないと思うんですけど。今さら授業あるって言われたって、完全に遅刻じゃないですか」 すみませんとわたしが謝ると、彼女はいやそこは申し訳ございませんでしょ、と。 「キャリア指導部からダメ出しくらいますよ、そんなんだと」 わたしは言われた通りちゃんと、申し訳ございません、欠席の扱い等は後日こちらから一斉周知致します、と言ってから電話を切りました。
それは学生からの電話でした。学生は名前を名乗りませんでしたが、ディスプレイに携帯の番号が表示されていたので、簡単に誰なのか調べられるな、と思いました。教学事務の人間は、顔写真付きの学生プロフィール一覧へのアクセス権がありますから。 まあ、そんなの調べれば余計気持ちが沈むので、調べませんけど。
爆弾騒ぎのせいで、その日はずっとこういう電話が鳴り止みませんでした。授業はあるんですか?欠席の扱いはどうなるんですか?補講期間はいつになりますか? その日はいつも以上にどの声も、偏平で同じに聞こえました。
昨日来た警察の方も、犯人がどんな学生だったか聞いてきましたが、そんなのわたしたちにわかるわけないじゃないですか。あの人たちが捕まえる犯人の数よりも遥かに、わたしたちが扱っている学生たちの数は多くて、いずれも犯罪者ほどの特徴はないんですから。こっちが犯人がどんな子なのか聞きたいくらいでしたよ。 本当に警察って何も考えていないんだなと、その淀んだ目をした警察官の目を見て思いました。学生と同じ、異様に丸くて黒い、わたしたち職員を舐めている目に見えました。あの目は、全然対話相手のことを想像しようとしていない目です。わたしは知っています。
午後になってようやく落ち着いたかなと思った頃、日本画の女子学生が泣きながら電話をかけてきました。 「オオヤマくんが犯人なんですよね?オオヤマくん、いつかこんな場所めちゃくちゃにしてやるって言ってたんです。ずっと前のことですけど」 知らねえよ。 「申し訳ないですが、お答えできかねます。今回の騒動に関しては、今は各種報道と学生に配信されているメール及びインターネット上での発表をご覧ください」 「でも、オオヤマくんは本気だったと思うんです。少なくともあの時は、本当に誰でも良いから殺してやるって思ってたと思います。だから、きっと本当に爆弾がどこかにあるんじゃないかって思って、それで大学に行けなくて」 「爆弾は、警察の方々が存在しないと断言しています」 ヒッヒッと、女子学生はわざとらしい声を上げて泣きました。 「欠席の扱い等は、後日こちらから一斉周知致します」と伝えると、彼女は素直に電話を切りました。
噂によると、犯人である学生は、まだ爆弾がどこかにあると嘘をついているそうです。でも、警察のプロフェッショナルたちがちゃんと大学を隅から隅まで探して、安全を確認したということでした。 当然、一向に爆弾は爆発せず、わたしの机の上の大量の資料は山積みにされたままでした。その日は晴れていて、窓から入る光がちりちりとわたしのデスクを焦がしていたのを覚えています。火柱が上がってわたしの資料や学生生活ガイドブックが舞い上がるイメージは、やはり夢だったんです。 わたしのデスクの引き出しには、古くなったアトリエ棟の改修計画のための見積もりが置かれています。解体工事だけでも信じられないくらいのお金がかかりました。わたしが数年かかってようやく稼げるお金で、やっとアトリエ棟を壊すことが出来るのです。 どうせなら、爆破してもらった方がいろいろと話が早くてよかったのではないかと思っていました。
向かいのアツミちゃんのデスクは、椅子に薄手のカーディガンがかけられたまま空っぽでした。昨日から無断欠勤しているんです。正確には、月曜日からいなくなって、恋人も連絡が取れないのだと聞きました。 デスクの上は、わたしと違ってとてもすっきりしています。資料の束は一つしか置かれていないファイリングボックスにまとまっていて、パソコンのケーブルもちゃんと束ねられています。 逆さまになった透明のグラスが、籐のコースターの上に逆さまになって置かれていました。その横に、半分くらい残ったミネラルウォーターのボトルが置かれていて、わたしがキーボードを打つたび、その中の水がわずかにたゆたいました。 そんなものを置くスペースは、わたしの机には全くありません。同じ仕事をしているのになんで?とよく笑ったものです。 わたしがぼんやりとアツミちゃんのデスクを眺めていると、近くを通った上司が「いろんなことが重なって困るよね」と言いました。
芸術大学というのは、わたしが通っていた一般大学とは、ちょっと違う感じの人たちが集まっています。いや、すみません、かなり違う人たちが。 彼らは自分の意思で、自分のやりたいことを選んでいる。わたしみたいに、「潰しが利きそうだから」みたいな理由で教育学部を選んだりする人はいません。どうやって生きたら、高校生の時から「ずっと絵を描いて暮らしていこう」と思えるのだろう、とわたしは思います。 それが、やたらと眩しく感じます。羨ましく感じます。疎ましく感じます。わたしとは違うのだ、と強く思います。 抜け目のない学生が、にやにやしながら「先週忌引きだったんで」と言って欠席届を提出しに来ても、わたしは「たくましいなあ」とか「生きるのが上手だなあ」と思ってしまいます。 こんな卑小なわたしなんかが、彼らの輝かしい未来やこの日々をくすませてしまってはいけないのだ。懸命に自分なりの生き方を選び、サバイバルを続けている彼らを邪魔してはいけないのだ。 そう思いませんか?すごいな、と思いませんか? クレームの電話を切ってからも、自分が驚くほどあっさりと日々のルーチンワークに戻れるのは、そういう眩しさに堂々と目を瞑ってしまえるが故だと思います。 わたしは、彼らに食われる草食動物でもありません。ただの環境の一部でしかないのです。ただ背景に徹して、息を殺すべきなのだと思っています。
アツミちゃんとは、素直にそういう話ができる友達同士だったと思っています。同僚というよりは。 なんかなんでも喋っちゃうんですよね。薄い皮一枚向こうからこっちを見てる感じがするんで、どうも正直に喋れちゃうというか。
まあなんていうか、虚しい仕事ですよね。はっきり言って。卑屈な人間はやるべきではないと思います。 大学の仕事って、繰り返しなんですよ。基本的には、毎年同じことを同じように回していく。年によって教育の質や内容が極端に変わってしまうのはまずいというのもありますし、きちんと計画を立てて、それを遂行していく必要がある。カリキュラムというのは入学時に決まっているので、最低でも四年間は簡単に変えることができません。 学生の顔だけが激しく挿げ変わっていくんです。輝かしい未来へと、彼らは飛び立っていきます。建物と仕事の中身、そしてわたしたちのような職員たちだけが緩やかな時間の中に取り残されたままです。
「わかるわかる、エリちゃんの気持ち」 アツミちゃんはそう言っていました。 「わたしなんてもうこの大学に八年もいるから、いつまでここにいるんだよって思うんだよね」 もしかするとそういうサイクルから抜け出すことにしたのかもしれませんね。アツミちゃんは。
アツミちゃんの机の端に置かれたグラスから、光が反射していました。更に、斜めに差した光が、ボトルの水がたゆたう光を、アツミちゃんの何もないデスクの上に映し出していました。 わたしは、やっぱりなと思ったんです。 アツミちゃんはわたしとは違う。あの人は、結局ちゃんと自分でこの大学を選んで卒業した人なんです。一時的にここで働いていただけで。ここで働くと決めたのも、きっとわたしなんかよりもずっと強い意志です。 その日は、そんなモヤモヤした気持ちがまとわりついて、仕事に集中できませんでした。
それで図書館に行って、こっそりアツミちゃんが卒業した年の卒業制作展の図録を見てみたんです。ずっと気になっていたけど、怖くて見ないようにしていたんです。 アツミちゃんの作品は、巨大な水色の絵でした。 安寧の海、と名付けられているその作品は、優秀賞を取っていました。
何が安寧の海だよ。バカじゃねえの。ただ水色に塗っただけの絵じゃねえか。
わたしの安寧は、このサイクルをひたすら回しながら生きて行くことなんです。こんな画面の中に安寧を作られてしまったら、わたしはずっとたどり着けないままだと思いました。 わたしと同じように平然とした顔をして働いているあの顔の裏に、アツミちゃんがこんなに広い海を隠していただなんて、と思いました。 アツミちゃんはこの海で泳ぐのでしょう。自分で作り出した海に出て、自由に泳ぎまわるのだと思います。 勝手にやってろよ、バーカ。
夕方アツミちゃんのデスクの脇を通った時、わざと三〇パーセント、わざとじゃない七〇パーセント、つまりほんの少しの祈りを込めてわざと手をグラスにぶつけました。 グラスは、ごとりという音を立てて、広いデスクの上を転がっただけでした。 再び席に戻ると、グラスの位置が変わったのか太陽が傾いたのか、机の上にたゆたっていた丸い光の海はなくなり、事務机の鈍い色があるだけでした。
ふと日本画の女子学生の電話を思い出して、日本画の学生リストにアクセスして、「オオヤマ」という名前で検索してみました。「オオヤマ」という名前の日本画の学生は、一人しかいませんでした。オオヤマシンジ。 見たこともない学生でした。色が白く、線の細い明らかに暗い感じの学生でした。 確かに、爆弾作って誰にも見つからない場所に隠すような根性はなさそうだな。つまんねえガキだな。 そう思ってまた、ルーチンワークに戻りました。 アツミちゃんがいなくても、日々は続いていきます。
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OUR ONE WEEK/火曜日

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火曜日
■オハラ 何考えてるのかさっぱりわからんと、タイラ警部がこぼしているらしいというのを、話には聞いていました。 「美大生っつーのはどうも。俺は昔から芸術がわからん」 質問にはお答えします。ただし、心理カウンセラーを入れるなら黙秘します、と彼は言ったそうです。深層心理を描いた絵で探るなんて。本当に馬鹿げてますよ。俺、目とか鼻とか口が正常じゃない場所にあるお父さんの顔を描きますから。電車に轢かれて四肢がばらばらに飛び散ったお母さんの絵を描きますから。
まあ、僕もなんとなくその気持ちはわかります。 「警察というか、大人を舐めてんだろう。今の若い奴らはみんなそうだ。ちまちまちまちまSNSやアニメに逃げるから、現実を見つめられないんだよ。そうやってはぐらかしたり避けたりするの、お前も得意だもんな」 いちいち仮想現実に逃げ込むから、現実を見つめられない。まあもっともかもしれませんね。 とにかくそんなわけで、私に白羽の矢が立ったわけです。「そもそも、芸術と美大生は別のものだとも思うので、それぞれ別個に理解する必要があると思いますが」。そう言いたい気持ちをぐっと飲み込んで、タイラ警部とバトンタッチしました。 まあしょうがないですよね。警察というのは、やはり未だに根強いマッチョイズムが支配する世界ですから。私みたいに昼休憩の間もこそこそ外に出て、パンをかじりながら本を読んでいるような人間は少ないんです。そもそも、お互いのことを理解し合おうみたいな気持ちが欠けているのでしょう。もっともそうやって多少無神経でなければ、犯罪を犯すような人間と渡り合っていくこともできないですし、しょうがないですよね。
私の方も昨日ニュースを見てから、その男子学生のことが気にはなっていました。署内では既にその稚拙な犯罪について、当初の全く意図がわからなくて不気味だという見方から、ちょっとやりすぎちゃった若気の至りくらいなものでしょうという見解に変わり始めていました。 私は、何ていうか、正直に言えば彼にシンパシーを感じていました。許されるのであれば、「まあわかるよ」なんて言って、ひとつ彼の肩を叩いてやりたいというか。取り調べ上相手から事情を聞き出す最中に、一言くらいそんなことを言ってやれるかもしれない。そう思ったんです。 やめておけばよかったです。それって誰目線?って話ですから。
「ばくだんをしかけた。かんしゃしろ」
それが彼の犯した罪の全てです。たったそれだけ——こんなこと警察の人間が言うのもおかしな話ですが——です。誰一人殺しちゃいません。もちろん爆破予告された彼の大学は一斉休講になりましたし、周辺住民も一時的に避難しましたから、とんでもない迷惑ではあるのですが。 ただし、彼自身はそれをまだ認めていない様子です。いや、そういう脅迫文を書いたことではなくて、「爆弾を仕掛けていない」ということについてです。
タイラ警部の取り調べ時、彼は何度か「爆弾は見つかりましたか?」と聞いたそうです。 「頭の上をミサイルが飛んでいても休講にしないのに」と言って、彼は笑っていたそうです。
彼と話をする前に、僕も現場に伺いました。 今は大学にも監視カメラが付いている世の中なんですね。私だって、世知辛いななんて思ってしまいます。 彼が深夜、彼自身が通う大学の入り口の扉にその手紙を貼り付ける姿が、映像に残っていました。まっすぐドアをくぐり抜けて来て迷いのない動作で手紙を貼り付け、またするりと帰っていく映像を、私も見ました。彼はカメラの存在を知らなかったようですが、犯行に及ぶ前に少し周りを見渡せばすぐにわかるものです。警察に連絡が来た時には、既に大学側が犯人を突き止めていました。 念のためその日は大学を立ち入り禁止にして、爆弾処理班もちゃんと呼びましたが。当然爆弾なんてどこにも見つかりませんでした。
大学で働く人々はみな口を揃えて、彼を「大人しい」「そんなことするとは思えない」と。まあ要は彼がどういう人間か、大学の側では把握できていないということでしょうね。大学生は大人ですし、一校にいる学生数も多いでしょうから、ひとりひとりのことまで気を配れないのは仕方ありません。 作品についても、暴力性が垣間見えるようなものはなかったということでした。動物や植物を、綿密に描いている作品が多い。やや偏執的な傾向や、自然に対する強烈な憧憬はあるだろうけれど、それらの作品と今回の犯行の間に結びつきがあるようには思えない。 「馬鹿なことしたもんだよ」 指導をしていた先生はそう嘆いていました。結構上手かったのにね。その先生から見せてもらった写真には、小さな細胞のようなものが寄り集まって形になった、魚を描いた作品が写っていました。写真の裏面には、「apoptosis」と書かれていました。 もう一度よく見てみると、黒くて禍々しい模様の細胞たちが、ところどころ魚の形に縁取られた線の外に漏れ出ている。そんな絵でした。
彼の目は、始終ぼんやりと暗かったです。 でも、誰だってこれくらいの時分はそうじゃないですか?僕は彼の小さく縮こまった瞳の中に、自分を見ているような気がしました。 ただ、彼はそのぼんやりとした眼差しで、まっすぐに私を見つめていました。目が合いすぎて気味が悪いくらいでした。 「作品、見せてもらいましたよ」 「精神分析のためですか?」 「いや、そういうつもりはなかったけど。まあでも資料の一つにはなります」 それにしても上手いですね。僕が学生だった頃は、こんなに上手い人周りにいなかったです。本当に。 「絵、描いてたんですか?」 「随分昔のことです。私は大学を辞めてしまったのですが」 こんなに上手なのにどうして?あなたがやったことは、何と言うか、その代償に見合わないような気がするんですよ。 そう言ったのはもちろん、少しでも彼の本当の心理に近づくためです。 彼は「刑務所入っても、絵は描けるんで」と言いました。 「というか、その方が集中できるし上手くなるかもしれないと思いませんか?」 ほんとに馬鹿ばっかりなんですよ、大学って。あなたもかつてそう思いませんでしたか?さっきどうしてあんなことしたのか聞きましたけど、あなたにはわかるでしょ、あんな場所ない方がいいって。
ええ、わかりますよ。
私が入った大学は、滑り止めで受けた私立でした。もうそれ以上浪人し続けるお金も根性もなかったんです。 「学ぶことももちろん大切だけど、もっと大切なのは描くこと。描き続けることだよ」と、アトリエの先生が言ったんです。今の時代は国立大学のネームバリューも幻想めいたところがあるし、君は意志が強い。描かざるを得ない厳しい環境の中に身を置くということも大切だとは思うけど、結局一番大切なのは自分の意志だよ。 時々、自分はその言葉を盾に使ったのではないか、と自問することがあります。 カンバスではなく、こうして犯罪に手を染めた人間と話をしたり、事件の資料と向き合っている時です。絵を辞めようと思ったのは、結局大学で制作をしている間に自分に失望したからです。上手く描けない自分にも、上手く描けない自分を環境のせいにする自分にも、見切りをつけたからです。
「なんのために、こんなことしたんですか?」 彼はしばらく黙っていました。 「意図がよくわからないんですよ。すぐに捕まってしまうことを、君自身も理解していたんでしょう」 「みんなの望みを叶えただけです」と彼は言いました。 「望み?」 「あんな場所ない方がいいって」 「周りの学生がそういう風に言っていたということですか?」 「はい」 「でも、それはけしかけられたのとは違いますよね。君ひとりでやったことでしょう?」 「そうですね。ひとりでやりました。でもやらされたともいえるんじゃないですか?たまたま僕がやることになっただけで」 そういえば、敬語で話をしてくれるのはあなたが初めてです、と彼は言いました。
彼と話をしながら私は、学生時代に繰り返し見た夢を思い出していました。 大学に向かう満員のバスの中で、大学が燃えている夢です。 大学に近づくのが、坂道の傾斜でわかる。近づくにつれて、車内のざわめきが大きくなっていく。目を開けると、窓の外で煙が立ち上がっているんです。火柱とともに、紙の束と灰が舞い上がる。 そんな夢、随分長い間忘れていたのに。もしかしたら、彼の思い描いた夢が、僕の頭にも流れ込んできたのかもしれませんね。 大学がなくなって嬉しいと衒いもなく喜んでいる人たちを見て、ここにいたら僕の心はダメになってしまうと思ったんです。夢なのに。 馬鹿ですよね。 僕は時々思うんです。あの頃の僕はどこに行ってしまったんだろうと。 あるいはあの頃の僕が今の僕を見て、お前は誰だと言っている声が聞こえることがあるんです。 怖いとかじゃなくて、すごく不思議なんです。晴れれば気分が良いし、曇り空なら何だかどんよりした気持ちになります。たったそれだけのことで、自分の人格が変化してしまうことが、すごく変な感じがするんです。人間という生き物の欠陥のように感じます。そしてその小さな変化を繰り返しているうちに、いつの間にか過去の自分が他者みたいに感じるくらい大きな変化を経てしまっていることに気づくわけです。 目の前にいる若い犯罪者の方が、過去の自分に似ているんです。自分の中に深く根を張っている過去の自分が、ここにいる自分を蚊帳の外に出して、目の前の相手と対話し始めるんです。
僕は、みんなが望んでいたことをやっただけですよ。 ほら、爆弾、見つかりましたか?
果たして彼は本当に、ただ我々大人を翻弄して楽しんでいるだけなのでしょうか? そんなくだらない自己満足のために、爆弾を探させるように仕向けているのでしょうか?
結局私は何の役にも立ちませんでした。 タイラ警部は「まあしょうがないさ」と言ってフォローしてくれました。 「時々あるんけどな。パズルのピースとピースがお互いに呼び合ってはまり込むみたいに、容疑者との相性がぴたりと合って、誰にも言わないことが聞けたりするようなことが」 パズルのピース。 「もう一回、ちゃんと爆弾について調べた方がいいんじゃないですかね」 意を決してタイラ警部にそう言いましたが、一蹴されてしまいました。 「お前までそんなこというのか」
病理の側にいた方が、もっと様々な表現ができるかも���れない。それもこういう仕事を選んだ理由の一つでした。 社会を少しでもより良いものにしたい、自分のような人間がこういう仕事に就くことが、社会的病理をより深く理解するための一助になるかもしれない。そんなことを言って、この仕事をするにあたっての採用面接を切り抜けました。 でも、もう気づいてるんです。そうやって犯罪者と自分を同化してしまうような在り方では、何か新しい表現が出来るかもしれないとしても、この仕事を続けることは出来ないって。 そもそも絵だって、忙しさにかまけて描けていませんし。
昨日、私はたまたま非番だったんです。 一日中眠っていました。寝不足でした。だから仕方なかったんです。無為な日になってしまったのは、自分のせいじゃないんです。日々のせいなんです。誰かのせいなんです。犯罪を起こすやつらが後を絶たないせいなんです。だからそんなに責めないでください。 夢の中で、私はカンバスに向かっていました。 何も描けない夢でした。 彼の、完全な真円となっている黒い眼差しを思い出すと、その夢のことが妙に思い出されるのです。
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