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あのこのせかい
桐嶋兄弟/尚
夏也が自室から一階へと続く階段を降りたのと同時に、玄関の扉が開いた。郁弥が滑り込んでくる。途端、隙間からぶわりと冬の夜風が吹き込む。どこか水の匂いを含んだつめたい風だ。 「郁弥」 思わず身を震わせながら声をかける。弟がウィンドブレーカーの裾をぱたぱたさせながら帰ってきたのだ。何かから逃げるように、慌てた仕草で扉を閉める。 「あったかい!」 どうやら冷たい空気を押し出してくれたらしい。 「走ってきたのか」 「……雪っぽいのがちらちらしてた」 「もう十二月だもんな」 返事のかわりに郁弥が凍えたような息をつく。そのまましゃがんで靴を脱ぐ、弟の髪につく雫が、目を留めるのと同時にふっと消え失せた。さっきまでは雪だったのかもしれない。 「俺も走りてえ」 「兄貴も走ってくれば。頭冷えていいと思う」 「かわいくねー……」 「勉強進んだ? 手応えある? 受験生」 「うるせえ。休憩だ、休憩」 そのままキッチンと繋がっているダイニングに向かう。後ろから一緒に郁弥が一緒についてくる。振り返ると目が合って、それからぱっと顔を逸らされた。だけど、ついてくる。 夕飯を終えてから……すこし寝てたからたぶん、二、三時間。母親は寝室にいるのか、風呂でも入っているのか、誰もいなかった。仕方なく夏也は台所に立ち、小鍋を手に取る。そこに水を入れていると、ウィンドブレーカーを脱いだ郁弥が後ろでうろちょろしていた。郁弥からは冷たい雨の匂いがした。 「あ、またラーメン食べようとしてる」 「お前も食うだろ?」 「……すこし」 片手鍋を火にかける。引き出しから一つインスタントラーメンの袋を掴んで、力任せにばりっと引き開ける。期末テストは終わったばかり。これから終業式、クリスマス、大晦日、新年あけましておめでとうございますを越えると、おそらくあっという間に入試がやってくる。尚と同じ高校に行こうとすると推薦というわけにもいかず、それなりの点数を取らなければならない。頭が痛い。内申は悪くはないと思うのだけど。 今のところ、国語と数学がちょっと、結構、ものすごく足りてない。 ふつふつと鍋肌に沸き上がりはじめた小さな水泡を眺めながら、夏也は「あ」と声を上げた。 「明日、尚が来るぞ」 名前と一緒に思い出した。明日は土曜日だし、夏也の家で勉強しようと話してたのだ。いや、むしろ、教えてほしくて強引に誘った。 郁弥にも言っておこうと口にする。今、水泳部の陸トレは週に一、二回、それ以外は時折SCに行っているようだが、郁弥も家にいるかもしれないから。 「本当に?!」 思いのほか明るい声が聞こえて、思わず半分だけ振り返ってしまった。 だったら外に行く、と言いだすほど避けているとは思ってないが、喜ばれるとも思っていなかったからだ。 「尚先輩来るなら、陸トレのメニュー相談しよう」 郁弥が嬉しそうにそう言った。 「あのな、尚は勉強しにくるんだからな」 べつにそれくらいはいいのだが、なんとなく諌めてしまった。だって、なあ。陸トレのメニューなら兄貴も相談に乗りますが。 「他にも相談したいこと、あるし……」 ふっと口元に笑みがこぼれる。思い出し笑いのようなそれに目を留めた。 少し前までは尚が家に来るたび、人見知りの激しい猫みたいに、家から存在の気配すら消していたのにえらい変わりようだ。弟の反抗期は本当に終わったらしい。どこか複雑な気分だが、いいことなんだろう。たぶん。 夏也はぐらぐらと煮え立つお湯の中に、乾いた四角い麺の固まりを滑らせた。
*
「――で、どうしておれは夏也の買い物につき合わされているわけ?」 「こんなところ、一人じゃ来れない」 「答えになってないけど……」 尚が呆れたように声を上げた。尚はコートの両方のポケットに手を入れ、マフラーに顔を埋めたままのやる気のない姿だ。 店の天井の隅にあるスピーカーから聞こえるのは、オルゴール音のクリスマスソング。目の前の棚には文房具、それもかわいらしいノートや単語帳、離れたところには年賀状、クリスマスカード。背後にはなぜか大量に並んだ小さなクマのぬいぐるみや、ふわふわのスリッパ、もこもこの毛布なんかも置いてある。もちろん、小さなツリーなんかも。 狭い通路に立っているのは、同年代かすこし年上の女子ばかりだ。制服姿の男子中学生二人は目立つのか、通りすがりにくすくすと笑われた。にこりと笑い返してやると、そのまま笑い声が大きくなった。うん、もうやらない。 夏也と尚の二人は学校帰りに近くの大きな駅まで出、そのまま歩いていける小さなショッピングモールに向かった。 日が短くなったから、あちこちイルミネーションが光っているし、モールの一階の吹き抜けにはクリスマスツリーが聳えていて、どこもかしこも人を追い立てるような冬の気配に満ちている。 「お前が郁弥にクリスマスプレゼントを買ってやれって言ったんだ」 「言ってない。『仲直りして初めてのクリスマスだけど、プレゼントとかあげなくていいの?』って訊いただけだよ」 「それがもう、『しろ』って聞こえる」 「よくわからないけど……」 正直な話、尚に言われて「それもいいな」と思ったのだ。健全に兄離れはしてくれたものの、何でも話してくれるほどの仲に戻ったかというと、そうでもない。そうなりたいのかも自分でもわからないが、……単にプレゼントをあげれば、喜んでくれると思ったのだ。 だが、端から端まで見たものの、どれがいいのかまったくわからない。思わず睨みつけてしまった。夏也は文房具の棚に見切りをつけ、別の棚に横移動した。ピンク、青、緑、紫、色とりどりの小さなコップは何に使うものなのだろう……一緒にろうそくが売っているが、入れて灯すだけなのだろうか。 さらに移動する。 細長いピンク色の枕の豚と目が合った。 「だけど、なんでこんなかわいらしい雑貨屋……」 「弟がいるクラスの女子に聞いたら、郁弥くんならかわいいものがいいんじゃない? 似合いそう! って」 「似合いそうと郁弥がほしいものは違うと思うんだけど」 それなら買い物のつきあいも、その女子に頼めばよかったじゃないか、と尚が言う。まあ、言ったら誰かはつき合いで来てくれたとは思うけど、やや面倒くさい。 「あ、これはどうだ」 目の前にあったのはアイマスクだった。 動物柄の。シロクマのような気がするが、違うかもしれない。八〇〇円。ちょうどいい値段だし。 マイクロバスを借りて移動するときなど、みんなが寝ている中で郁弥は一人起きているし、よく眠れないと言っていた。子どものころは隣にいてやると一瞬で寝ていたが、これがあれば一人でも熟睡できるかもしれない。もともと、寝るときに明るいのがだめなやつだった。 今も、朝、ぬぼーっとした顔で朝日が眩しくて六時に起きたとか、だから走ってきたとかよく言っているから。さすがにカーテンは買ってやれる値段ではない。 夏也はそのままそのアイマスクをレジに持っていった。店員に「プレゼント用ですか」と聞かれてから、恥ずかしくなって「そのままでいいです」と告げた。 かえって自分用だと思われたかもしれない。 袋を持って通路に出ると、妙にほっとした。 「……買えた?」 店の前で待っていた尚に頷き返し、狭い店内にいたせいか、やたらと広く感じる通路を歩く。 だが、どこもかしこもクリスマス一色だ。たくさんの電飾のついたツリーの立ち並ぶ電気屋のテナントを眺めた。 ライトで煙るように明るいツリーの先に、カメラや携帯のアクセサリ、奥にテレビやオーディオが並ぶ黒っぽい店内が見える。 何かが頭をよぎる。思わず夏也は声を上げた。 「あ!」 思い出した。 思い出した思い出した。思い出した! クラスメイトにアドバイスしてもらってプレゼントを選んで買ってる場合じゃなかった。 もう、自分はすでに郁弥がほしいものを知っていた。ぽつりと悲しそうに零したそれを、ちゃんと聞いてたじゃないか。 「どうした?」 「悪い。買い忘れ」 去年、一昨年なら、知らなかっただろうことを今は知ってる。ちゃんと覚えてる。喧嘩は本当に終わったから。それを不思議に思いながら、夏也は電気屋の店内へと走った。 イヤホン、だ。 郁弥がほしがってたのはイヤホンだった。 イヤホンの右耳が突然壊れて音が聞こえないと言っていた。そして手持ち無沙汰そうに、ダイニングで勉強をする夏也の隣にいたり、テレビを見る母親の前でぼんやりしたりしていたのだ。 家族団欒をする気があるのかないのかよくわからない。だけど、声と音を遮断するそれは、郁弥には必要なものなのだろう。 壁際一面に設けられた、イヤホンとヘッドホン売り場を見まわした。 値段もピンきりだ。 うーん、申し訳ないが弟には一五〇〇円まで。 夏也はフックにひっかけられたイヤホンのクリアケースを手に取った。 結局、前に郁弥が持っていたのとあまり変わらない黒っぽいイヤホンにした。予想外の出費だが、まあ、反省料だろう。 こちらもプレゼント包装はなしだ。単純に尚を待たせすぎだと思ったし、包む時間がもったいない。 店を出ると、尚は電気屋の店頭にある、ライトの宣伝、とばかりにやたらとぴかぴか光るクリスマスツリーをぼんやり見ていた。 近づくと再び「買えた?」と尋ねられ、小さなビニール袋を覗き込まれた。 詮索されるのが面倒で、開き直って答える。 「郁弥へのプレゼント」 「二つも?」 「あいつがほしがってたもの思い出したから。……お前、アイマスク使う?」 ためしに聞いてみたら、笑顔で首を振られた。 「二つともあげなよ。せっかくだし」 まあ、それが筋だ。いきなりプレゼントを横流しされても尚も困るだろう。 「そうする。悪い」 「どっちも喜ぶよ、きっと、郁弥」 にこっと笑われた。 違和感。尚の言葉の内容に……というよりも、郁弥のことを気にかける尚自身に。 「……最近、お前、郁弥の肩を持つよな」 そう言えば、先日尚が家にきたときもそうだった。 一時ごろから夏也の部屋で勉強していたのだが、コンコンと扉をノックされ、尚だけが呼び出されていった。 後ろから郁弥に「俺も混ぜろよ」と文句を言ったのだが、「兄貴はいいの!」と、あの低く拗ねた子どものような声で目の前でバタンと扉が閉じられた。 少し前までは「兄ちゃん」「兄ちゃん」と騒がしかったのに。いや、まあ、それはもう結構前のことだけど。そうされないのも夏也の計画通り、「身から出た錆」てやつなんだけど。 「肩は持ってないけど、まあ、かわいいよね。郁弥。ひねくれてるけど素直でさ」 「……俺の弟だからな!」 「夏也は夏也で、素直だけどひねくれてるもんね」 「うるせえ」 わかったような口をききやがる。 こないだ、隣の部屋でしばし郁弥と話していた尚は、夏也が数学の答え合わせを終えてもまだ、帰って来なかった。しかも「何の話だった?」と訊いても笑うだけで答えてくれなかったのだ。「郁弥とおれの秘密だから」などと言って。 「素直に生きるってなかなか難しいなあって、羨ましく思うよ。……って、夏也。買い物につき合ってあげた親友には、別途、改めてクリスマスプレゼントはないの?」 にこりと笑われた。こいつは確かにひねくれてる上にひねくれてる。素直だったとしても、それは夏也には理解できない高度なレベルでだ。 「……ジュースおごってやる」 「はいはい。べつに期待してないよ。ところで電気屋では何買ったの?」 隠すようなものでもない。 「イヤホン。壊れたって言っていたの、忘れてた」 「アイマスクとイヤホンかあ」 何か思うところがあったらしい。 ぼそりと呟いた尚を夏也が横目で睨むと、それ以上の言葉を封じるように、いつもの笑顔でにこりと笑い返された。
家に帰ると郁弥がリビングでテレビを見ていた。 今は、イヤホンはしていない。 「……おかえり」 顔を上げて、そう、言われるといまだにすこし戸惑う。 郁弥自身はもう無意識なのだろう。夏也のことは忘れたように視線は再びテレビの画面へと戻った。 いつもならイヤホンをしたまま音楽を聴いていただろうに、そうしていないのはそれが壊れたせいか。ふと、夏也は鞄の中のプレゼントを確かめた。 クリスマスは十日も先だけど、十日間このプレゼントを持っていることを考えると何だか落ち着かない。兄弟なんだし、家族でクリスマス会をする習慣もない。さっさと渡してしまおうと、夏也は鞄から紙袋とビニール袋を二つ、取り出した。 「やる」 「へ?」 目の前に置くと、郁弥がぽかんとした顔を浮かべた。鳩が豆鉄砲を食らった顔、というのは、きっとこういう顔を言うのだろう。 「ちょっと早いけど、クリスマスプレゼント」 もっとぽかんとした顔になった。 「尚がお前にやれって言うから……」 つい言い訳してしまった。 思わず自分で自分に舌打ちする。かっこわりい。 だが、郁弥の顔が、みるみる明るくなった。 ついぞ見たことがなかったような、夏のリレーのあとで見たような喜色満面の顔をされて、すこし、いや、かなり、びっくりして、咄嗟に繕ったことを反省した。兄貴として堂々とプレゼントをやればよかったんだ。 「あの、ぼくも! ぼくもプレゼント、兄貴にプレゼントある!」 そのままプレゼントを開けもせず、立ち上がった郁弥がリビングを出、廊下を走っていった。 ばたばたと階段を上がる音が響く。 その勢いのまま、階段を下りてくる音がした。 「……はい!!」 突き出されたのは封筒だった。しかもただの茶封筒。これは確か、母親が町内会の集金とかに使っているやつだ。まさか現金が入っているわけではあるまい。 郁弥は夏也に渡して気が済んだのか、自分のプレゼントのことは忘れてしまったように、「開けていい?」と夏也のプレゼントを引き開けた。 「おー……!」 郁弥はよくわからない歓声を上げながら、イヤホンを見、それからアイマスクを不思議そうに眺めてている。 早速箱を潰してイヤホンを取り出している。 嬉しそうに、恥ずかしそうに、郁弥が早口になった。 「壊れてたからすげー嬉しい」「お年玉まで我慢しようと思ってた」と紐をぷらぷらさせながら、郁弥がそれを耳に嵌めた。 顔を真っ赤にしてにこにこしている。 やっぱりアイマスクは失敗だったか。イヤホンを思い出してよかった。 「……アイマスクは遠征のときとか、つけて寝ろよ。お前、バスとか酔うだろ」 「あ、このクマ、目にするやつか。……うん、そうする」 さて、この郁弥から手渡された封筒が問題だ。 夏也は封筒を開けた。 上から覗き込むと小さいカード紙がたくさん入っていた。 まさか、金券とかカードでもないだろうし、なんだこれは。取り出しにくくて、ダイニングテーブルの上に逆さにして広げようとすると、郁弥が慌てた。 「あっ、兄貴! 広げんのはなし! 部屋で見て!」 「何だよ、俺にくれたんだろ?」 「だって、兄貴のプレゼントよりずっとどうしようもない……」 「いいって、いいって。べつに期待してねえよ」 今更だ。手を伸ばしてくる郁弥を制して、封筒を逆さにして振った。 ぱらぱらとカードが落ちてくる。 「あっ、ちょっと!! やめ……!!」 怒らせた。荒げた声を久しぶりに聞いた。笑ってしまう。 「兄貴ひでえ……」 しょぼんと眉を寄せている。その顔も久しぶりに見る。 一枚拾ってみた。 手書きで何か書いてある。少しは色のペンとか使えばいいのに黒の油性ペン一色だ。そういえばこういう弟だった。見た目を裏切って実質的。シツジツゴウケン。 取り返そうとぴょんぴょん跳ねる弟の手を避けて、天井のライトに文字を透かす。 やがて諦めたように、郁弥が拗ねた声を上げた。 「この前、家に来た尚先輩に、兄貴にプレゼントをあげたいって相談したら、お前の兄ちゃん、物はべつにいらないんじゃないかな? って言ってたから、一生懸命考えたんだけど……。これだけじゃしょぼいから、やっぱり、一緒に何かあげようって、思ってた。これからあげるもの考えるから。クリスマスまで待ってて。まだこんなに早く渡す予定じゃなかったから」 しどろもどろに説明をする郁弥の声を聞きながら文字を読む。 それから夏也はもう一枚拾った。それも読む。 なるほど。郁弥がプレゼントを用意しているのを知っていたから、それで尚は夏也に「プレゼントあげないの?」と聞いてきたのだ。 もう一枚拾う。 咄嗟に笑ってしまった。 「これで十分だろ」
*
「俺だって物、いるぞ。ほしいもの、いっぱいあるね。プレゼントは常時募集中です」 その週末、夏也が家に来た尚に藪から棒に言うと、一度不思議そうな顔をした親友は、それから得心いったように、芝居がかった仕草でぽんっとこぶしで手のひらを打った。 それからおもむろに眼鏡を外した。桐嶋家のダイニングテーブルの椅子でぐっと伸びをしてから、泳ぐ前の準備運動のようにぐるりと首を回した。 「休憩? まだ数学始めてから三十分くらいしか経ってないけど」 「嫌味かそりゃ」 にこりと「嫌味だよ」と言われて何も返せなくなる。夏也も、思いついたことをすぐに言わなきゃ気が済まない自分の性格はいつか治さねば、とは、思ってはいる。時折伝わらないからだ。 この性格にタイムラグなくついてくる尚はすごいと思うし、そもそもの頭の回転が速いのだろう。 「郁弥がお前にプレゼントがあげたいって言うからね。おれは郁弥に、物よりも気持ちだよって言ったんだよ。それにさあ、小遣いの相場もわかってる弟からプレゼントをもらうの、どうかと思わない?」 「まあな」 うちの小遣いは少なくもないが、多くもない。一般的だ。たぶん。 「それで何だったの? 郁弥のプレゼント。っていうかもうもらっちゃったの? 夏也がクリスマスまで待ってられなくて、もしかして先にあげた?」 いいこと言っておきながら、下世話……もとい好奇心旺盛なのは尚のいいところだと思う。これも、たぶん。 今日も土曜日……母親も仕事に出ているし、勉強しに来た尚と広いところで……とダイニングテーブルで勉強していた。 協力してもらった手前、黙っているわけにもいかない。夏也は口を開いた。 ――クリスマスプレゼント、確かに持ったままでいるのが面倒くさくなってあげちまった。そうしたらそのままお返しが戻ってきた。お前の入れ知恵だってのは聞いてる。 告げれば尚が含みを滲ませた笑みを浮かべた。 ちなみに話題の弟は、朝からSCのほうに顔を出している。弁当を持っていったが、そろそろ帰ってくるかもしれない。 「中身は小学生みたいなプレゼントだったよ。俺も、ああいうプレゼント、母親にあげたことある。肩たたき券、おつかい券、洗濯物を取り込む券。まあ、書いてあった内容は、それよりも進化した感じだったけど」 「なんて書いてあったの?」 結構突っ込んでくるな。相変わらず、この男は。 思い出すだけで笑ってしまいそうなそれを、夏也は言うのを躊躇った。自分だけのものにしておきたいような、そんな気持ちがあったのだ。だけど、ネタにしたくもあって。 「……『夜食券』とか書いてある食券とか、『寝てたら起こす券』とか、『コンビニまでお使いにいく券』とか『高校に受かったあとに見るテレビ番組を録画しとく券』とか。まあ、あいつなりに受験応援してくれてるみたいだけどな。郁弥、料理の練習をしてて結構美味いんだよな……」 言うと、尚が吹き出した。 「かわいいねえ」と言って。 うん。どうだ。かわいいだろう。俺の弟は。 ……だけど本当にびっくりした。 ひらひらと、このダイニングテーブルに、そして床に、舞って広がったそんな神経衰弱みたいなカードを、一枚一枚見たほうの気持ちにもなってみろと思う。 心臓に悪かった。夏也はそれを読みながら、途中から笑っていいのか泣いていいのか怒っていいのかもわからなくなったのだ。 ときどきふざけたのも混じっていて、『勉強しなかったら母親に言いつける券』とか『部員全員呼んで励ましてもらう券』とか『旭に応援してもらう券』とかその真琴バージョンとか、『ハルにため息をついてもらう券』とか『もしも高校に落ちたらぼくが毎日部屋に居座る券』とか、『もしも高校に落ちたら毎日SCに連れていく券』とか。いらないものがほとんどだったが、でも、これを一枚一枚郁弥に提出して覚悟を決めろということだろう。 「兄貴には、高校受かって、尚先輩と水泳続けてもらわなくちゃ、さ。困るから」郁弥はそう言った。 そうだ。志望校に落ちたら岩鳶高校に進むことになるかもしれず、あそこだと水泳部がないのだ。それは困る。尚も困るだろう。 だけどカードは、部屋に戻って並べ替えてみたら受かったときのご褒美よりも圧倒的に罰ゲームのほうが多かった。ご褒美も作ってもらわないと割に合わない。 まあ、どちらにしても、使い切れないほどの量だったのだけど。 夏也が、その束を思い出しながら一枚一枚の詳細は尚には告げずに心にしまっていると、目の前の親友が質問を重ねてきた。 「それ、使ったの?」 「……昨日一枚使った。俺が『寝ないように監視する券』……郁弥のほうが先に寝てた」 「ま、そんなもんだよね」 それでも、ふっと気づいたときに壁に凭れて寝ている郁弥の姿はくすぐったく、嬉しかったのだけど。 昔だったら苦い気持ちになっただろう郁弥の姿が、今はただ嬉しかった。結局揺らして起こして隣の部屋に押し込んだ。恐縮しきりだったので「次は頼むぞ」と言った。 そんな昨日の様子を思い出していると、玄関が開く音がした。 「ただいま」の小さな声。 それから足音。 扉が開いた。 「あ、尚先輩」 「よ」 「おかえり、郁弥。泳いできたの?」 郁弥はこくりと頷いて、ばたばたと部屋に行き、それからすぐに降りてきた。 正味二分。コートと靴下を脱いで降りてきたらしい。 郁弥は冷蔵庫からお茶を取り出して注ぎ、それを飲みながらそっとダイニングテーブルの椅子に座った。そのまま居座るつもりらしい。 「邪魔するなよ」と言う間もなかった。耳に夏也があげたイヤホンをして、じっとしているのだ。 二人の邪魔はしない。だけど、そこにいたい、という感じだ。時折、そっと夏也と尚の問題集を興味深そうに眺めている。 だけど、郁弥が見ていると思うと、尚と話をしながらサボろうと思えなくなった。効果はある。自然と問題集と向き合った。尚も郁弥のイヤホンに「それ、夏也のプレゼント?」などと軽口を叩くこともなく、自分の手元に視線を落としている。 夏也は郁弥のまんまるの頭を見、それから問題を解く尚の眼鏡のフレームを見つめた。それから自分の手元のページを眺めた。 ――【次のそれぞれの図で相似な三角形を見つけて、記号を使って表せ。】 シャープペンシルの先で線を引きながら���夏也は妙な既視感に囚われていた。それから、どうしようもなく子どものころのことを思い出していた。 幼いころ、どこに遊びにいくのにも郁弥はついてきた。もちろんそれが嫌だったわけもないのだけど、郁弥が後ろからついてきてると思うと全力では走れなかった。無茶もできなかった。小さな弟を置いて遠くにいけなかったのだ。それが、ときどき、面倒だったのを覚えてる。友達だけと遊びたかった。 郁弥は夏也がテレビでゲームをしているときも、背後で画面を見ていた。きらきらした目で。木登りするときも、海で泳ぐときも、幼い郁弥は見ているだけだった。無茶はしない。無理そうな遊びをしているときは遠くから楽しそうに自分を、自分たちを見ているだけなのだ。尋ねたこともある。「見ているだけで楽しいのか」と。 「たのしいよ」 「どこか」 「わかんないけど、たのしいよ」 底抜けに透き通った郁弥の瞳に、それ以上何も言えなくなった。純粋に楽しいのだということは、わかったから。そのときの自分の気持ちの細かいところは、もう覚えてはいない。 ――【また、そのときの相似条件を書き記せ。】 夏也は空欄を埋めた。 ゆっくりとページを繰り、ふっと顔を上げた。 郁弥がイヤホンをしたまま、狭いダイニングテーブルの椅子で体育座りで、うとうとしていた。 頭がこくり、こくりと揺れている。 薄く唇を開けた寝顔は子どものころから何も変わっていなかった。 起こして部屋に連れていこうか。嫌がるかな。ぼんやり郁弥を見ていると、隣から声がした。 「……面白いよね」 尚がいつのまにか、自分を見ていた。 「え?」 郁弥のことだろうか。 だが、続いた言葉は違った。すこしだけ予想外のことだった。 「郁弥と夏也のプレゼント、正反対だと思ってさ」 夏也は不思議な顔をしたのだろう。 尚がふっと笑顔で息を吐いた。 目線の先で、郁弥は目を閉じている。 「こうして、こんなに近くで郁弥の噂をしてても聞こえないようなプレゼントをあげるお兄ちゃん」 シャープペンシルの消しゴムがついているほうで、鼻の頭を指された。 「アイマスクもそうだよね?」 耳を塞がせ、視界を遮る。 「一方の、周りをがんばって見つめて、広がった彼の世界いっぱいで、お兄ちゃんに何かしてあげようとする郁弥のプレゼント」 「……そんなつもりはねえよ」 「わかってる。偶然だよね」 中学入ったときに、最初に夏也がしたことは正反対だし、と。 だが、そう、今は、もしかしたらそうだったのかもしれない。郁弥は申し訳なさそうにしていたけど、弟のプレゼントのほうがずっといい。 お金で買えるものなんて、いらない。いるけど、いらない。郁弥からはほしくない。 夏也はもう一度、机の上で広がったカードを思い出す。嬉しくて驚いてなんとなく切なかった。集めて詰まった郁弥の気持ちがそこにあった。使い切れないほどたくさんのそれが、すでにもったいなくなっているのだ。 「そうだな。郁弥のプレゼントのほうがずっといい」 悩んで、相談して、思い出して、二つも買ったのに敵わないのは悔しいけど。 今度は自分が高校が受かったら、頭からお返しにばらばらと紙を振りかけてやりたい。 お礼だと。 そして、尋ねたい。 郁弥は何がほしい?
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東京、パンケーキ、来訪者たち
「凛も食べるか?」
遙の声とともに目の前に積まれたふわふわのパンケーキ。大きなバターが乗っている。メイプルシロップを掛ける瞬間にストップをかけたので、それは免れたが、それでも凛が躊躇っているとすぐ隣から可愛らしい声が聞こえてくる。
「おとうふが入ってるから、太らないよ?」
にこにこ嬉しそうにお箸で切った生クリームが山盛りのパンケーキを口に運ぶのは橘真琴の妹の橘蘭だ。凛は太る太らないよりも、甘い甘くないを気にしていたのだが……しかし、蘭もそういうの、気にするような年頃になったんだなとぼんやり思いながら、パンケーキに箸を入れた。遙の家にはフォークとナイフがないのだ。それを口に運ぶと、バターがじゅわりと広がりそのまま口の中で溶けた。それにもちもちだ。
「おいしい! ハルちゃんありがとう」
嬉しそうに蘭がそれを頬張る。蘭の目の周りは泣いた痕がよくわかる。赤くなって腫れぼったい。だが、確かに味は美味い。凛は遙に頷いてみせてから、それを飲み込んだ。
咀嚼しながら凛は窓の外を見やる。閉め切った窓の外はどこか埃っぽい空気で満ちている。遠くに高層ビルが見える。波の音はしない。時折、子どもたちの歓声と、バイクのエンジン音が聞こえる。東京って、意外と静かなんだな、と思い、だけどそれは遙の家だからかもしれないと思ったりした。
……ここは東京の遙の家である。どうしてこんなことになってるんだろうな、と凛は改めて事態を振り返る。
大会のためにオーストラリアから一時帰国した凛が、その足で遙の東京の家を訪ねると、家主は優雅にパンケーキを焼いていた。その隣で真琴の妹の蘭が部屋で泣きじゃくっており、最初はどんな修羅場だと、そのまま回れ右しそうになったくらいだ。だが、聞けば話は簡単。五月の連休を利用して真琴に家に遊びにきた蘭と蓮が、大喧嘩をして、蘭だけが家を飛び出してきたらしい。どうやら行きたい場所が噛み合わず、じゃんけんで決めたものの、蘭は納得しなかったようだ。パンケーキが食べたかった、というのが当人の証言である。そして「いいもん! ハルちゃんに連れてってもらうもん!」と飛び出してはみたが、満員電車に複雑な乗り換え、人ごみに疲れ果て、遙の家に到着した瞬間には「もう出かけたくない」「東京嫌だ」と再びべそべそしはじめたらしい。これは遙の証言。
そして遙はそのままスーパーに行き、パンケーキの材料を一通り買い込んできたというわけだ。フォークを買うのは忘れたわけだが。
――何より蘭が無事でよかったな、と思うし、彼女の気持ちもわかる。
「東京、怖いよなあ」
凛が苦笑いしながら蘭の顔を覗き込むと、いちごを美味しそうに食べた少女がこくりと頷く。神妙な顔だ。凛もあまり得意ではない。人が多いし、みんな笑ってないし、案内表示はわかりにくいし、駅なんて通路を歩いているだけで、まったくわからない場所に着いてしまうこともあるし。少なくとも絶対に宗介には無理だ。凛が蘭と向き合っていると、片付けまで終えた遙がローテーブルの前に座り、自分たちと同じように箸を手に取った。それにしても可愛い妹(のようなもの)なのかもしれないが買い込み過ぎだ。机の上には生クリーム、チョコレートソース、あんこにジャムに果物まで乗っている。
「そうか?」
遙の遅れてきた相槌は、「東京、怖いよなあ」への返事らしい。
「なんだ、なんだ。余裕だな、ハルは。本当にすっかり東京慣れたんだな」
思わずからかいたくなった。まあ、実際に遙は東京に馴染んでいるのかもしれない。凛は乗り換えでつい手間取ってしまうが、実際に、遙となら平気だったのを思い出す。
「じゃあ、かっこいい『ハルちゃん』に、東京っぽいこと言ってもらおうかなあ」
「かっこいい、ハルちゃん!」
返事する前にすぐに続いた蘭の声に、凛の雑な振りに何かを文句を言おうとした遙が渋々、というように息を吸う。小さく溜息をついた男が、それから声を出す。
「……11時過ぎても明るい。遠くのビルが見えれば道に迷わない。星が見えない。ベランダの手摺、拭くたびによくわからない埃がついてる」
あと、電車を一本乗り過ごしても着く時間が大して変わらない。バスが一律料金。コンビニが近所にある。隣近所の人の顔をあんまり知らない。諦めたように、遙が指折り数える。
淡々と紡ぐ遙の声を聞きながら、凛はだんだん不思議な気分になってきた。これは全部凛の知らない遙の言葉なんだなと思った。本当はもっと楽しい東京話が聞きたかったのだが、これはこれでハルらしい、気もした。
淡々と紡がれる、「凛の知らないこと」。
「……もう少し」
「芸能人とかもよく会うらしいが、俺は顔がわからないからそれは真琴に聞け。そう言えば、少し向こうの古い商店街のところで、ドラマの撮影していたのも見た。あと、近所でひったくり事件が起きているらしくて、テレビで近くの露地を見た」
「あぶねーじゃねえか」
「凛は気をつけろ。……蘭。蘭にはもうすぐ二人が迎えにくるそうだ。……帰れるな?」
遙が机上のスマホのメッセージ通知を、指でなぞりながら言う。その自然な仕草はなるほど東京みたいだな、と思った。
***
パンケーキを食べ終え、片付けをして、三人で外に出た。腹ごなしついでに散歩に出て、真琴たちを近くの公園で待とうという話になったのだ。
世間はゴールデンウィーク。埃っぽいが晴天で、少し動くと汗ばむくらいの陽気だ。確かにこの天気では部屋の中でこもりっきりでいるのも勿体ない。空はよく晴れていて、少し煙ったような青色に白い雲が点々と浮かんでいた。思いの外空は広い。オーストラリアと岩鳶とは比べ物にならないけれど。
三人で公園まで歩いている途中で、ふと、自転車の少年が通りかかった。
「あ!」という声が続く。
凛は初めて見る少年だったが、遙とは顔見知りらしく、少し話したあと、少女が橘真琴の妹だとわかると、少年は真琴が来るまで一緒に待つ、と言った。遙は「みさき」と呼んでいた。真琴とも顔見知りらしい。凛も名乗ると、思いの外、礼儀正しく挨拶してくれた。
最初は少し怖がっていた蘭も、澄ました顔で今は「みさき」と公園で遊んでいる。あちこちと岬が指をさしているから案内でもしてもらっているのかもしれない。みさきは「岬」と書くらしい。
遙と凛はベンチに座りながらその様子を眺めた。
楽しそうだ。蘭からはすっかり涙の痕は消えていた。
その光景に、凛は無意識に声を出していた。
「……なんだか恋でも始まりそうな気配だな」
「下世話だぞ、凛」
横目でちらりと睨まれる。
「いや、若い者同士が楽しそうでいい���って」
「……確かに、勝手に紹介したことは、真琴に怒られるかもな」
「ほら、お前こそ、余計な気を回してるんじゃねえか。……真琴なあ。過保護なんだろうけど、嫁に行かせたくないとか言って泣きじゃくるイメージはないな。お前のところの怜とかは泣きそうだけど」
「俺がお前のほうが心配だぞ、凛」
「泣かねえ! 江がどんな男つれてきても、泣かねえよ!」
心外だ。泣かないと思う。たぶん。おそらく。わからないけど。いや、相手による。よるのか? それともうっかり泣く? やっぱり泣くのか?
凛が自問自答を繰り返していると、遠くから声がした。
「ハル~~らん~~りん~~~~~」という若干呑気な間抜けな大声は間違いなく真琴のものだった。
すぐ後ろから蓮もついてきている。ぱっと嬉しそうに蘭が、それから岬が振り返る。岬も嬉しそうだ。真琴はたいそう懐かれてるんだなあと、人ごとのように思い、大きな男も、嬉しそうに岬の名前を呼んだ。蘭と岬が笑顔で二人に駆け寄っていく。
その後は、気まずそうにもじもじしている蘭と、少し離れた場所にいる蓮と、興味深そうにその顔を覗き込む岬と、さすがに安堵した様子の真琴の四人を、遙と二人でベンチに座りながら眺める。
一言、二言、不器用に言葉を交わして、それから蘭がぺこりと頭を下げた。ごめんなさい、をしているのだろうか。
ふと、ぽつりと隣から遙の声がした。
「恋でも始まりそうな気配だな」
「……どことどこの話だ」
脈絡がない。そもそも、人の軽口を責めておいて発言を被せてくるとはどういう了見だ。そもそも、その発言が出たのは、どこの何を見て言ったのだ。遙が何を思ってそう言ったのか、それはそれで気になる。
凛の声に、遙が小さく笑った。
「……冗談だ。もう恋はとっくに始まってるからな。凛……みんなが帰ったらな」
ベンチの上、どこからも見えないように小指を小指にぶつけられた。
……やられた。
始まっているのは「ここ」の話らしい。
咄嗟に睨みつけて声を上げたい気持ちになった。できないけど。できない代わりに、顔に血が集まってくる。赤くなっている気がする。凛は遙と反対側の頬をそっと手で擦った。
気持ちを読まれていた。遙の家の玄関を開けた時の、少しだけがっかりした気持ちもすっかりわかられていたのだろう。
それは、ちょっとだけ悔しい。
凛が会いたくて会いたくて家に来たことを遙はわかってる。いや、だが、だけど、遙にはもっと十二分にわかってもらわないと困るのだ。空港を降りてから、なりふり構わず、遙の家にまっすぐ向かってきたのだから。
遙は変わった。少し変わった気がする。これからも知らない顔もたくさんできるのだろう。さっきの、東京に慣れた大学生の仕草のように。凛にはそれを全部知ることができないのはほんの少しだけ寂しいけど。
凛は小指の先をぶつけて、指先だけで引っかけるように繋ぐ。横目を送ると目が合った。遙が俯きがちに口元だけで小さく笑う。キスがしたい。
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一
『こんなの愛だなんて、認めない』 遠くから、ふっと芝居がかった女の声が耳に飛び込んできて、触れていた凛が動きを止めた。いや、遙も。遙もだった。あまりに同時のことで、どちらが先に声に気を取られたのかすぐにわからなくなった。 声がしたのは、つけっぱなしの、テレビからだった。 教習所の帰りに二人で夕飯を食べて、岩鳶の家に帰ってきてからしばらく、壁にもたれるようにしてお互いの頬や、唇や、鼻筋や、その気配で遊んでいた凛が、遙とほとんど同時に顔を逸らし、自ら光るテレビの画面を見つめた。遙が気を取られたのはあまりに一瞬だったので、すぐに目の前の少し汗ばんだ筋張った首筋にふたたび引き寄せられる。 遙の家に、凛が来ていた。 今更ながら、どうしてこんなことになっているのだろうとは、思う。だが筋張った首筋に唇を押しつけるとすぐにどうでもよくなった。 二人で自動車教習所に通い始めたのは、少し前のこと。仮免の試験を受けられるのは十八歳の誕生日から。凛が逆算して教習所に通い始めたとき、なぜか一緒に行かないかと誘われた。 遙はそのころ、真琴もクラスメイトも皆、受験に向けて忙しく、スポッと穴に落ちたみたいな気分でいた。気が向いたら自力で出られる心地よい空白めいた場所で、しばらく一人で過ごすつもりだったのに、ふっと気がつくと隣に凛がいた。昔からそうしていたみたいに凛が隣にいた。 そして何度か教習所の帰りに、週末に、凛が家に来た。セックスをした。 今日も、一緒に遙の家に帰ってきて、風呂に入って、テレビを見ていたら、自然とそういう流れになった。遙も凛で遊びたくなった。頬を引っ張り、首筋に唇をつけた。唇を甘く噛む。水の味がする。まだ湿ったままの髪を噛んだ。 だが、凛に触れていた間にすっと他人の声が入ってきた。 苛立ちと言うよりも不思議な気持ちでそれを見つめた。 テレビの画面では、どこかで見たことがある若い女優が、母親役と思われる女にそう言い放ったところだった。いつの間にかさっきまで見ていたどうでもいい情報番組は終わり、ドラマが始まっていたらしい。 『あたしは認めない。これが愛だというのなら、あたしはいらない』 俯きがちに、泣きじゃくる女を、凛とただ眺めた。 視線は画面に据えたまま、凛が尋ねてきた。 「……ハル、このドラマ見たいのか?」 「いや。テレビ消すか」 遙は立ち上がってテレビを消し、ついでに電気も消してしまった。目が慣れないせいで一瞬、何も見えない。戻ろうとすると、思ったよりも凛は近い場所にいて、足を引っかけてしまった。 「痛っ。蹴るなよ、ハル」 「凛の足が長いのが悪い」 「……そう褒められると悪い気はしねえな」 嬉しそうな声だ。暗闇から手を引かれた。ぱちっと音がして手首を掴まれる。膝をついた先はふたたび凛のすぐそばだった。あたたかい、気配がする。目が慣れてくる。暗くなった視界の端で、消したばかりのテレビが、余韻を残すようにうすぼんやりと光って見える。 ふたたび闇雲に引き寄せられ、キスされた。唇に息がかかる。今度は凛の顔がちゃんと見えた。 自ら光を放つように明るい色をした凛の瞳が見えた。そしてそれが少し、からかうように笑う。目が細められた。 「……こんなの愛だなんて、認めない」 芝居がかった凛の声。凛が笑う。薄く開いた唇の赤は見えない。 凛が軽く言う。テレビの中の台詞を真似てみただけだ。全部が冗談だ、って言うみたいに凛が笑う。 だが、遙はその言葉でなんとなくわかってしまった。どうしてお互いに、その声が耳に飛び込んできたのか。 ——こんなの愛だなんて、認めない。 そして認めるとか、認めないとか、そんなことが、お互いに心のどこかでずっと気にかかっていたからなのだ。
二
遙はコーチと兼業で泳がせてもらっている大学を出、車で家路についた。変わらない岩鳶の家を目指す。 どこかでスーパーに寄らないと。今日の夜は何を食べようか……と考えたが、来週は大学の水泳部に帯同するから、あまり買いだめはできそうもない。まあ、だが、何をするにしても一人暮らしなので気楽なものだ。 国道をしばし走り、途中のスーパーの駐車場に車を停める。しばらく肉を食べていないな、と思ったので豚肉を買った。あと日持ちする卵と。魚は確かまだ冷凍室に入っている。白菜も近所の人から貰ったものがある、とピーマンとにんじんと片栗粉と牛乳を買った。 店を出る時に唐突に、「七瀬さん!」と子連れの妙齢の女性に声を掛けられた。「がんばってくださいね!」と言われた。これでは同級生か、ただの応援の人かわからない。だが、遙は一度深く頭を下げた。 後部座席に袋を投げ込んで助手席に座り、エンジンをかけたところで、もうすぐ食器用洗剤がなくなることを思い出したが、戻るのも面倒だ。そのまま遙はサイドブレーキを下げて車を動かした。 どこまでも、見慣れた田園風景が広がっている。空はどこまでも続く曇天だ。風は強い。遠くの山が、まだ新緑の残るまだら模様で、春の名残を残していた。桜は終わっていたが、田植えの準備か、畑には人が出ている。 海はまだ見えないが、駅を通り過ぎ、このまままっすぐ行けば海が見えるところまできた。 信号を一つ、過ぎたところだった。 パッと視界に入ってくる男の後姿があった。 大きな紙袋を持った、細身のグレイスーツの男が歩いている。後ろ姿だけなのに、雰囲気のせいなのか、歩き方のせいなのか、こんな場所で見かけるにはあまりに異質で、思わず通りすがりに見てしまった。 ——あ、と声が出た。 咄嗟の自分の目が信用できない。 こんなところにいるはずがない。 横顔で、その雰囲気で。そう思ったが、たぶん見間違いだ。そのままアクセルを踏もうと思ったが、どうしても一瞬の感覚を流すことができない。 遙は一秒、二秒、心の中で逡巡してから、車を路肩に寄せて止めた。ウィンカーを出してハンドルを握ったまま後ろを確認する。 まっすぐに、だがゆったりと歩いてくる男が見えた。 近づいてくる。車を停めた遙に気づく様子もなく、海からの風を浴びながら、男が近づいてくる。表情まではよく見えない。 だが、こんなところにいないはずの男がいる。 それはもう、間違いがない。 「凛」 声が出た。遙はもはや疑いようもない人の名前を無意識に口に出していた。 窓を開け、助手席に身を乗り出すようにして声を出す。 迷いはなかった。今は、迷ってもいい関係であるような気がするが、声を出した瞬間は、何も迷わなかった。 「凛!!」 近づいてくる凛は、物思いにふけるようにぼんやりしていた。その表情が、遙を見つけた瞬間にふっと崩れた。豆腐を千切って味噌汁に入れた気分だ。そんなことを思った。脆い、としか言えないその変化を、遙は何も言えずにずっと見守ってしまった。 凛は呼ばれた声に小さく口を開き、誰だ、という警戒心を覗かせ、遙だ、と気づいて、驚いて、おそらく気まずくて、驚いて、たぶん少し安堵して、驚いて、驚いて、ぼろぼろと何かが剥がれ落ちるようにゆっくりと崩れていった。 そして、それから、少しだけその表情を取り繕った男が車に近づいてきた。開いた車の窓からこちらを覗き込む。 「ハル」 「どこ行くんだ? 乗ってくか?」 「…………海でも、見ようかと」 「帰ってたんだな」 気まずそうに窓枠に手をかけた男に、遙もどこから何を尋ねていい��かわからなくなる。「じゃあ、乗っていけ」とロックを外すと、凛は一瞬逡巡を見せたもののやがてドアに手をかけた。 海風のせいか、他に理由があるのか、凛の鼻の頭と目の周りが赤かった。凛は助手席に収まり、大きな荷物を膝の上に抱える。 「凛、泣いてたのか?」 もう少しオブラートに包もうと思ったのに全然だめだった。二言目にそう尋ねると、凛が拗ねたように唇を尖らせた。 「泣いてねー……。いや、最中はさすがにうるっとしたけどよ。それは普通だろ? あ、いや、今日は鮫柄の後輩の結婚式だったんだ。ハル、お前、名前言って覚えてるかなあ」 そう言って口にした名前は、覚えているような覚えてないようなやつで、ただ黙っていると「その反応、ハルっぽい」と静かに言われた。怒られはしなかった。 だが、なるほど。今日は大安吉日の土曜日。凛が抱えている巨大な袋は引き出物か。 だが、それにしても終わりの時間が早い。まだ夕暮れまでも間がある時間で、遙はほんの少しだけ春の名残を残す浅い色をした木々を眺めた。 「二次会、行かなかったのか?」 「そこからかよ。いや、出席出した時は今日中に飛行機に乗るつもりだったから……。予定変わったんだけどな。二次会、飛び込み参加でもよかったんだけど、まあ、ちょっとな。先輩がでかい面してもな。実家にも顔を出したいし」 「そうか。凛は有名人だしな」 「それはお前もだろ?」 横目で笑われた。自分で言っておきながら「有名人」の定義がわからない。五輪のメダリストを有名人というのなら、確かに有名人かもしれないが。それだけで一生食えるかというと、怪しいものだ。 二度出たオリンピック。取れたメダルは三つ。それはただ、これから正しく生きなければいけないという枷にも近い。 車でゆっくりと坂を下る。傾きだした太陽が、目を刺すようだ。 「……ハル、元気だったか?」 「ああ」 ——凛と会うのは半年振りだった。 三十の坂を越え、自分の体と相談することが増えた。一年前には足首の手術もした。 その足首の怪我の経過が芳しくなく、バランスを取っていた膝にもがたがきた。春の大会には出なかったから、凛と会うのも久しぶりだ。 もともとは怪我はそこまで多くないほうだったが、最近は違う。毎朝起きてストレッチをしながら、体に尋ねる。腰はいつも通り。腕、肩甲骨、首、動く。膝、今日はまし。毎日がその確認の繰り返しだ。 それだけを繰り返しながら、東京で競泳をすることに限界を感じ、地元の大学から声を掛けられていたこともあり、去年、コーチ兼業の取り決めで地元に戻った。少し距離はあるが、岩鳶の家からも通勤圏内だ。おかげで、精神的にはだいぶ安定した。 凛も、競泳を続けているが、十年前と全く同じというわけじゃない気がする。どういうスタンスで泳いでるのか逐一話すほど近い関係ではなくなってしまったが、それくらいはわかる。華やかな容姿のせいか競泳選手としてテレビに出ることも多い凛は、忙しくオーストラリアと東京を行ったり来たりしている。五年前だったら出なかっただろう。 ……自然と、会う機会は減った。 半年振りもになるわけだ。 車はほどなく海岸線を走る道へと辿り着き、すぐに遙は海辺の駐車場に車を停めた。 迷いなくドアを開けて車を降りる凛と一緒に遙も外に出た。「じゃあな」とこのまま帰る気にもならなかったのだ。ついてくる遙に、凛は何も言わなかった。砂を踏み、砂で埋もれそうになっているコンクリートの階段を下りる。踏み込むたびに埋まる靴に、凛のきれいに磨かれた靴がどんどん白くなっていく。遙も靴の中に入り込んでくる砂だけが不快だった。だが、海と凛の姿を見ていると心が凪いでくる。 夕暮れが近づいている気配はするが、まだ昼の範疇だ。夏でも冬でもない海辺には、遠くに地元の子どもたちと家族連れがいるだけで、誰もいなかった。風だけが強い。波の音と、防砂林と背の高い草が一斉に音を立てていた。声を張らないと届きそうもない。 海はきれいだった。白波に、透明度を増す夏の気配だけがする。小さな船が港に向かって戻っていく。 凛の隣に立って、凛越しに日の光を眺めた。凛は変わったようで変わっていないな、と思う。姿勢の良い姿にぱっと視線を奪われる。どこにいても凛だけは見間違えない。歩道を歩く凛を、どうしたって見つけてしまったみたいに。
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リク:渚と凛
凛からの手紙はなぞなぞみたいだ。 渚はベッドに転がって手紙を読みながら首を傾げ過ぎて、ずずず……と頭を枕の中に突っ込むことになった。枕に頬を押しつけて、わかってるふりをして凛の手紙を読んでいるけど、意味がわからないことも多い。
最初は、遙や真琴、みんなが中学校に上がって……凛もどうしているかなと思って手紙を書いた。 SCの名簿を見て書いたから、オーストラリアまでは届かないかなと思ったけど、ちゃんと届いたみたいで返事が凛から来た。 凛の手紙を読んで、自分の心細さに気づいた。凛もきっと同じ気持ちなんだと思った。 ……思ったけど、凛の手紙はなぞなぞだから、それは凛の手紙を読んで感じる自分の気持ちであって、実際の凛の気持ちでも、自分の本当の気持ちでもないのかもしれない。わからないけど、凛に手紙を出すと手紙は返ってくる。
なぜそんなことを思ったのかというと、今回の手紙には、実際になぞなぞが書いてあったから。しかも英語の。英語の勉強に、遊びながら覚えているらしい。「渚も英語、勉強しろよ」なんて書いてあるけど。
Q:How many months have 28 days?
「英語、わかんないよ」 ぽつりと渚はつぶやいた。 いつか凛から来る手紙が、隅から隅まで英語になってしまったらどうしよう。読めないし、返事も書けなくなる。そしたら自分はもっとさびしく感じるような気がする。それを凛に言っても、「俺と話したかったらお前が英語を覚えろよ」なーんて平然と言うかもしれないけど、そんなに、がんばれる人ばっかりだと思っているのだろうか。 凛と話すためなら英語だってがんばっちゃう、そんな人がいると思っているのだろうか。 ……いるのかもしれない。例えば、遙とか。 ぼんやり色々なことを考えながら渚は手紙を読み進めた。
なぞなぞ:大好きな恋人がいるひとと、好きな人はいるけどその相手が恋人じゃないひと、どっちが肩がこっている?
日本語のなぞなぞも書いてあった。 「リンちゃん、なぞなぞ下手だな」 英語もくだらないなぞなぞなのかもしれない。読めないけど。 日本語だから、これはわかる。 「かたおもい」で、「肩重い」だ。 その答えと一緒に、凛の言葉が続いていた。
『べつにこのなぞなぞと関係ないけどさ、あんま楽しそうな様子とか聞ききたくねえなって思うよな。思うよな、って、渚はそう思わないかもしれないけど。お前の手紙読んでると、そういうこと書いてないから、安心する。でもそういうのも読んで、「なにくそ」って思いたいとも思う。わかんねえな。手紙、来ないからさ。俺がそれを読んで、どう思うかも今はわからないんだ』
「わかるよ、リンちゃん」 わかる。 わかんないけど、わかる。今は凛と自分が、同じ気持ちなんだっていうのはわかる。かたおもいで、かたおもいだ。何にかたおもいしているのかは、自分でもわからないけど、気持ちが片寄っていて、肩が重いのは間違いない。
「やっぱり、読んでもらおう」 渚は何度か手紙を眺め、そして閉じた。封筒にしまって、渚はがばっと起き上がった。 わからないところは、聞こう。仲間に聞こう。 そのまま階段を駆け下りる。 どたばたと階段を下りる音に、洗面所から姉の一人が顔を出した。 「ちょっと出かけてくる!」 靴を履く。ぎゅうっと靴ひもをしばる。 「渚?」 玄関先に居た姉に声をかけて、外に出た。 「渚!」 後ろから慌てたような姉の声がした。 だって、少なくとも、英語のなぞなぞは遙と真琴に解いてもらわなきゃ。一人じゃできないことも、みんなとだったらできるって、教えてくれたのはみんなだから。
Q: How many months have 28 days?
わかるようになったら、凛に会えるのだろうか。
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リク:怜と凛
やはり一学年違うと授業がまったくわからない。しかも鮫柄は文武両道、スポーツ特待だろうとなんだろうと、それなりのレベルの授業を受けさせられるのだ。全く理解のできない物理の教科書を開きながら頭を抱えていると、教師からの声が飛んできた。 「……この場合、初めの状態での気体の絶対��度は。ええと、松岡」 とうとう当てられてしまった。 教卓の少し皮肉そうな笑みをたたえた男の教師がこっちを見ていた。見るからに意地悪そうだ。 (恨みますよ凛さん〜〜〜!!!) どうしよう。まったくわからない。腹が痛い振りをするか。問題がまったくわからないということは「怜」にとっては今まで一度も経験のないことで、「わからない」事実からのリアクションもできなかった。それに、今は「松岡凛」。あまりひどい失敗をすると、凛の評価にも関わる。 「松岡?」 ど、どうしよう。どどどどどうしましょうか。どうしようどうしよう。とにかく立とう。言い訳しよう。 勢いよく立ち上がると、椅子がガタン、と鳴った。 「す、みません、寝てました!!」 悲痛な声に、怒られるかと思ったが、教師がふっと笑みを零した。 「すみません!」 「水泳部で忙しかったんだろ。まあ、いい。次はちゃんと訊いていろよ。ええと、じゃあ、……」 助かったの、か? ぽかんと教師の顔を見つめながら、席に着く。どうにか切り抜けたらしい事実に、ちょうどチャイムが鳴った。 自分の教室に戻るために、教科書を掻き集めていると、教師が近づいてきた。ぎくりとするが、また優しい声が続いた。ある意味、優しすぎる声が。 「授業、わからないところがあったらいつでも聞きにきてくれていいからな?」 こ、わい。正直に言う。怖い。この教師の声色の様子がおかしいことくらいはわかっている。 ここは怖い学校です。どうしたらいいのかわからず、怜は、いや、凛の中に入った怜は顔を背けながら「ありがとう、ございます」と立ち上がった。
前後は省く。理由も省く。というか、怜にも何が起きたのかわからないからだ。わからないけど、一つだけわかっていることがある。 ……今朝、ベッドの中で目が覚めたら、自分が松岡凛になっていたことだ。 飛び起きて、自分の手足を確かめて鏡を見て部屋の扉の名前を見て部屋を見回して鏡を見て手足を確かめた。 間違いなく、松岡凛だった。 誰かの寝息が聞こえてくる場所。天井も知らない。部屋も知らない。簡素なパイプベッド。もちろん動転した。動転して、枕元にあった電話を掴んで、凛に電話をかけようとして、かける方法がなくて、画面を睨んだくらいだったのだ。 だが、途方に暮れていたら手の中の着信があった。 相手は、表示名は「竜ヶ崎怜」。自分からだった。 『お、おい、俺、お前、中身は怜か?』 あまりに唐突な発言に、とにかくしがみついて、電話口に頷くことしかできなかった。実を言うと、ちょっとだけ泣いた。自分はこんな声だったんだな……とぼんやり思いながらも、凛はさすがに冷静だった。とりあえず冷静に思えた。 とりあえずしばらくこのまま学校生活を送ること。明日の朝には戻ってるかもしれねえし、女になったわけでもない。ま、どうにかなるだろ。それから「宗介に代われ」、と、宗介を無理矢理叩き起こす羽目になった。どこかぼんやりとした男に……何を言ったのかしらないが、宗介も事情は飲み込んでくれたらしい。とりあえず、味方ができたのは、よかったけど。
物理の授業を受けていた小教室を出、廊下で合流した宗介と、凛(怜)は、食堂に向かうことにした。 正直に言うと、食欲がまったくわかない。手足まで自分の物と思えないからかもしれない。だけど、食べないと、凛の体に毒だ。仕方なく、表示を見ながら食堂へと向かった。 「こんなこと、理論的にあり得ない」 「なっちまったもんは仕方ねえだろ」 辿り着いた食堂は、生徒でごった返していた。メニューがいくつかあって、カウンターで選んでトレーに乗せる。人気のメニューがある場合、比較的早くなくなってしまうという。 「出遅れたな」 席はほとんど埋まっていた。 「僕がぐずぐずしていたからですね。すみません」 「ま、凛と一緒なら大丈夫だろ」 不可思議な言葉にぼんやりしていると、声が掛かった。 「お、松岡!」 振り返ると、声の主は朝、通りすがりに挨拶してくれた生徒だった。覚えようとじっと見てたからわかってる。隣のクラスの男だ。 「ここ空いているけど、ここで食うか。……山崎も一緒に」 荷物を寄せてくれて、席も作ってくれた。 「はい! ありがとうございます」 ひどく嬉しそうな顔をされた。宗介を横目で確かめると、なぜか小さく頷かれた。いや、まったくわからないんですって。凛なら意思の疎通ができるのかもしれないが。 だけど、あれだ。なんとなく、違和感だ。それから、居心地が悪い。 「お、松岡、早くしねえと、Aセットなくなるぞ。今日は遅かったな」 通りすがりに別の男から肩を叩かれた。 「松岡先輩、おつかれさまです」 誰だ。体つきからして水泳部ではなさそうだ。合同練習でも見たことがない。 それからも、方々から声が掛かった。あと視線も感じる。 あれだ。あれだ。 ランチを取って、席につき、食べ始めようと思ったが、このままでは喉を通りそうもない。耐えきれずに顔を上げた。 「……凛さんに電話してきます」 「ああ」 すでにからあげを頬張っている宗介に言い置いて、人波を掻き分け廊下へと出た。 あれだ。 あれだ。あれだ。 コール五回で幸い電話が繋がった。 「凛さん、みんな優し過ぎて気持ち悪いんですが!!」 『へ、いきなりなんだ?』 「なんなんですかあなた!」 日頃の行いだけだとは思わない。うすぼんやりと窓に映る自分を見つめた。自分じゃない。凛の姿を。歯は怖いけど、黙っていれば、きっとひどく目立つ、のかもしれない。怜はわざと「いー」っと歯を剥いて窓に姿を映してみた。 『突然、何言ってんだ? あ、今、渚と真琴とハルと飯食ってんだけどさ、放課後、俺の中に入ったお前見たいって。いやー、結構面白いなこれ。最初はパニックってたけどな。あとなんか、公立だからかな、のんびりしてて楽だな。……あ、ハル! お前、今、俺が……』 ぶちっ。 電話を自分から切って、食堂に戻った。ガタンと席に座って、白飯を掻き込んだ。甘くて美味くて涙が出てきた。 「……う、う……」 「食いながら、泣くな」 「みんな、僕のことなんて、どうでもいいんだ」 「泣くな。お前がそういう感じだと、人が寄って来過ぎて困る」 ぽつりと、宗介がそう零した。 なんのことだと思う間もなかった。 隣に座った男から尋ねられた。 「どうした松岡?」 通りすがりに名を呼ばれる。 「山崎に泣かされるなよ〜〜」 (だから、なんなんですかここは〜〜〜〜!!) 男子校、だからか。「松岡凛」が悪いのか。怜はとにかく、途方に暮れてきた。 これ以上、こんな怖いところにいたくない。なんなんですか、凛さん! あなたは! 心で声を荒立てるがもちろん返事はない。 ひたすらに白飯を口に掻き込んで頷いていると、大きな手が伸びてきた。宗介にぐりぐりと頭を撫でられる。 「……怜。早くもとに戻る方法考えような」 優しい。つらい。優しい。つらい。 何度も何度も頷いて、怜は飯を食べた。 途中で着れたのが気になったのか、机の上の電話が「竜ヶ崎怜」からの着信を告げている。
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間に合うと良いなサンプル
一
青空が見えた。 真新しいプールを背に、凛は空を見上げた。五輪のメイン会場に新設されたプールは、有名な建築家が設計したとかしてないとか、とても不思議な形をしている。襞のように重なる壁が有機的なドームを形作り、亀の甲羅みたいだ。中にはたっぷりの水があって、それを守っているからだろうか。 この国の夏の空気は乾いていて、気温も高くないのに、緯度のせいか日差しが強く、日向にいると真夏の砂漠を歩いているような気分になる。そもそも、もう日本だったら夜の時間のはずなのにまだ明るい。日没までは三時間以上ある。いつまでも明るい空の下、たくさんの人が様々な表情で行ったり来たりしているのが見えた。 凛の目の前を、楽しそうに笑い声を上げた集団が行く。マントのようにはためかせ、きれいな水色をした旗を背負っている。どこの国旗だろう。大きな民族衣装めいた帽子も揺れている。ダフ屋にチケットを求める人の声。頭上に大きく本を掲げ、雑踏に紛れながらプログラムを売るスタッフ。道沿いに決められた点のように立つ警備員。 誰も立ち尽くす凛を気にする様子はない。国のジャージを着ていても、こんな色鮮やかな世界ではちっとも目立たない。 だけどもはや、どうでもよかった。 ああ、ただ、楽しいな、と漠然と思った。 楽しいという感情がよくわからないのに、「楽しい」という言葉だけが自分の中で一人歩きしている感じ。だけどこれは、楽しいのだ、多分。昨日終わった個人種目は上手くいかなかったのに、まだ上手く悔しいと思えてない。ふわふわしている。多分、楽しい。 凛の頭で、観客のざわめきや、会場アナウンスや音楽が頭の中のあちこちにぶつかって戻って、増幅するように頭の中で鳴り響いている。頭上の青空にはびっくりするくらいたくさんの飛行機雲が流れ、まるでストライプの模様みたいだ。単純にこの国は飛行機が多いのだろう。今はオリンピック中だしな、などと意味もないことを考えてみる。 音。声。笑い声。消えない。会場の天井にぐるりと飾られたたくさんの国旗。観客が振るたくさんの国旗。揺れていた。作られたばかりの会場の新しいタイルの匂い。壁の匂い。埋め立て地の土の匂い。塩素の匂い。町の匂い。選手村にあるキヨスクみたいな売店を切り盛りしているおばちゃんは、ここはもともとは治安がよくない場所だったの、と言っていた。だけど新しいショッピングセンターもできたのよ。すごく便利になったの。声。選手村の、宿舎のベッド。帯同したトレーナーの心配そうな声。食堂のうどんの味。ココナツで甘ったるいカレー。小籠包は美味しかった。オーストラリアの選手団に帯同している顔見知りのコーチとした立ち話。そのウィンク。たくさんの観客。その目。声。威圧感。つまんなそうな人も、必死で応援する人もいた。 代表コーチの声の指笛。はしゃぐ平泳ぎの高校生の声。なのに招集所での震えた指先。流線型の建物の不可思議な窓の一つ一つにあたる不思議な色をしたライト。キャプテンのかけ声。俺たちはチームだ。今夜は戦争だ。行ってこい。勝ってこい。勝ちに行くぞ! みんな誰よりも速く泳げ! 泳げ泳げ泳げ! 肩を組んで、みんなで声を上げた。凛も叫んだ。 そしてすぐ隣の、遙の横顔。 まっすぐ前を向いて、口を開いて、声を出して、唇を閉じた。ハルの声、動物の鳴き声みたいだな。まるで獣の彷徨だって思ったのに、今、その声を思い出すことが出来ない。だけどきっと一生覚えているんだろう。 ああ、特別なんだ。 ここは特別なんだと、思った。 特別な場所に来れたんだ。 必死で泳いだ。バタフライ二〇〇。五位入賞。 メドレーリレ���の予選は明後日だ。そして最終日。 個人のメダルも欲しかったけど、まだリレーは残ってる。 それでも、よくやったなって言われて。メダル欲しかったっす、って笑って。悔しくて。だけどなんだかその感情が染みてこない自分に気づいた。 決勝まで残った遙の二〇〇メートル自由形は六位入賞。一〇〇メートル自由形の決勝がこれから。遙は二〇〇で負けてからずっと悔しそうで、一〇〇も二〇〇も日本人が決勝まで残るだけですごいことなんだぞって言ってやったのに、遙は押し黙ったままろくに口も聞いてくれなかった。 これからもうすぐ、遙の決勝が始まる。 そろそろ戻らないと、と、ポケットに入れているお守りを……すっかり形まで覚えてしまいそうな銀色の鍵を指で撫でていると、遠くから声がした。 「————ああああ、凛さん!! いた!! 七瀬さんの一フリ決勝、始まっちゃいますよ!」 「ちょっと空気吸ってくるって遅すぎ!! 怒るよ!」 振り返ると、同じバタフライの女子の選手とフィジカルトレーナーのスタッフが大きく手を振っている。ぴょんぴょん飛んで合図してくれた。 凛は慌てて大きく息を吸った。 「すみません、今行く!!」 こんなところで感慨に浸っている場合ではないらしい。まだ終わりじゃない。 妙な心の隙を作るのはまだ早い。 鍵から指を離す。そしてこの鍵の本当の持ち主である、遙の元へと急いだ。 手のひらの中には、昨年の冬、遙の家に二週間ほど居座ったあげくに預かったままの鍵がある。返さなきゃと思っているのに、まだ言い出せてない。 去年の冬から……いや、ここ数年、遙との関係はずっと近づいたり離れたりだ。それは何を告げても、何をしても結局は変わらなかった。きっとお互いに競技を続けている間はそうなってしまうのかもしれない。 そもそも、四月半ばにオリンピックの代表選手になってからこの三ヶ月半は、ずっと合宿し通しだったし、個人競技のチームで練習している凛と、自由形リレーチームに入って練習している遙とは合宿地すらも違って、一緒のチームのはずなのにほとんど会えていなかった。 だから、いろんなことは保留になったまま、むしろ全部が夢だったような気がしてる。 走って会場内へと戻る。関係者用のエントランスを抜け、警備員の沢山立っているセキュリティをパスを見せて抜けて、重い鉄の扉から、選手団に割り振られている観客席に向かった。 「おせえぞ!」 キャプテンからほとんど怒鳴り声に近い、声がかけられる。観客席に座ると「早く、早く」と赤と白の旗を手渡された。 やがて照明が落とされていた会場のライトが七色に光り、アナウンスがかかる。 一〇〇メートル男子決勝。 ちょうどゲートを通って選手が出てくるところだった���プールサイドに立っているときは全然気づかなったことが、応援しているとよく見える。本当に、ライトがきれいだ。 光の向こうで、きらきらとすべてが光っている。水面もスタート台もコースロープも全部。自分もあそこにいたなんて信じられない。明後日、また行くだなんて信じられない。 ああ、楽しかったな。楽しかった。もう、個人種目は終わってしまったけど。もっとできることがあったんじゃないかって思うことはあるけど。今は考えられない。子供の頃からの夢だった、オリンピックには出られたのだ。 遙がゲートに現れた。 表情も変えずに、大きく息を吸って、吐いて、胸を張って歩き始める。 名前がアナウンスされる。 自分もあのプールサイドを歩いた。指先まで震えるような感覚が、全身を浸すような光の渦が、まだ身体中に残っている。そして今はそこに遙がいて。 「凛さん?」 不思議そうにバタフライの選手から尋ねられた。そんなに、声をかけられるほどぼうっとしていただろうか。よく見ると、周囲のみんな立ち上がって応援していた。 凛も慌てて立ち上がって旗を大きく振った。 「ハル」と声を上げて叫んでみたけれど、プールサイドを歩く遙にはきっと届いていないだろう。 だけど、なあ、松岡。 ふと、自分の中から声がした。この言葉は聞いちゃいけない。わかっているのに、耳を塞ぐことができない。目が、身体が、すべてが、遙を見るのに必死で。 ……なあ、これからどうするつもりだ? 松岡凛、お前はどうするつもりだ? 夢が叶った、その先は。 かつては父親の夢。自分も目指してきた五輪。それに来たあと、どうするつもりだ? まだ終わってない。その一言で、気持ちを心の奥底に押し込める。 入場した遙がスタート台の前に立つ。三レーン。ジャージを脱いだ。大きく息をする。身体を叩いたせいだろう、背中が赤くなっている。 何度あの背中に噛みついただろう。回数なら、多分手帳を辿ればわかる、気がする。多いようで多くない。きっと二十回くらい。もっとしておけばよかったなって思って、今そんなことを考える自分を恥じた。 ああ、だけど、れだけだ。今、遙は前しか見ていない。自分が見つめていることなど、たぶんちっとも気にしていない。 それにこれからどうするかなんて、考えていたらきっと何もできない。夢も、欲望も、願いも、叶えるのに必死で。時間配分とかそんなの全部忘れて本気でしなきゃ、叶うことなんてきっと一つもないから。 遙のことだってそうだ。 ハルが好きだ。 高校の時から好きだった。 自分の中から言葉があふれて止まらなかった。落ちていく遙を自分の手で引き留めたかった。遙が落ち込んでるのも、みっともないのも嫌だった。いつだって遙は自分の前を泳いでてくれなきゃ困るんだ。 確かに、エゴはあった。遙を引き留めるのは自分だ、という気持ち。誰よりも早くどうにかしなきゃ、という打算。伝えることに必死で、別の何かの可能性を捨てたのかもしれないとは思う。今、遙の姿を見る視線が純粋ではいられないように。 判断は全て正しい。 今更だ。全部正しい。 誰かに聞かれたらそう答えただろう。 いつのまにか、視界では、八コースの選手まで入場を終えている。 ふっとわずかに遙の視線がさまよった。何かを探すように、顔を動かす。見上げる。 客席を。 誰を。 見るな。見るな。見るな。 見てほしい。見つけてほしい。 隠れたい気持ちと、立ち上がって大声で「ハル」と叫びたい気持ちでいっぱいになる。こんな気持ち、きっとただのライバルじゃない。 遙に告白して、気持ちを伝えて。 そして手をいっぱいに引っ張って、遙もオリンピックに出て。ハルに手を出して。 なあ、松岡。その後、どうするつもりだった?
二
予想外の人物と思ってもいなかった場所で遭遇すると一瞬認識できないものだ。そっくりさんの可能性が頭をよぎり、遙は足を止めて、まじまじと目の前で段ボールを持って歩いている背の高い男を見つめた。 ここは大学だ。四年生になった遙が、まあ、今は時々通っている大学だ。 男も遙の視線に気づいたのか振り返り、しばし無言のまま見つめ合ってしまった。 「……お。本物。七瀬遙」 だけど、名前を呼びかけられたから間違いない。 目の前に立ってたのは山崎宗介だった。 ゴールデンウィークも過ぎ、五月病も無事に始まったのか、新入生で浮足立っていた校内も、毎回来るごとに落ち着いてきている気がする。日もだいぶ延びた。冬だったら真っ暗な時間だが、今日は雲が多かったせいか今は吹き消したら真っ暗になってしまいそうな弱々しい灰色の光の景色だ。 遙はゼミを終えて、今日は水泳部のプールではなく、国立のトレーニングセンターに向かう途中だった。 出会った宗介の表情は読めない。嬉しそうでもなく、気鬱そうでもなく、どことなく誇らしげな表情で口を開いた。ただ知らないだけというのもあるのだが、本当に表情が読めない男だ。 「……凛から聞いてたが、本当に結構真面目に大学に来てるんだな」 「……今はほとんどゼミしか来てないけどな」 大学は週に二回。毎日大学の練習にも出ているが、フィジカルトレーニングもするために、国立のトレセンにも週二で通っているし、遠征もたくさん入れてるから、大学に来ることがほとんどない。来れるときには授業にちゃんと出ているが、一、二年の時よりも水泳漬けだ。大学の友人たちも就活が始まって、空き時間に飯を食いに行こうという感じでもないからその生活に拍車がかかっている。 「四年だもんな」 凛が宗介は一年か二年遅れで大学に入ったと言っていたから、まだ二年か三年なのだろう。表情からも余裕が感じられる。だけど。 「だけど宗介、どうしてこんなところに。同じ大学だったのか」 段ボールを抱えているせいか、宗介はただ溜息だけをついた。 「ちげえよ。前に大学名、言わなかったか? 今日はゼミの教授の手伝いだ。明日シンポジウムがこの学校であるから、資料を運ぶの手伝えって言われて。……ところで、南校舎ってどこだ」 どうやら迷子らしい。 「正門入ってすぐのところだ」 「……正門ってどこだ」 どうやら重度の迷子らしい。 「案内する」 どうせ帰り道だ。宗介が歩いてきた方に向かう、隣の男がでかい段ボール箱を抱えたままきょろきょろしている。確かに、都内の狭い敷地の中に建物を押し込んでいるせいか、どこもかしこも盛大にぎゅうぎゅうしているけれども。 「どっから入ってきたんだ」 「……車が出入りできる所。教授の後部座席で荷物の整理してたら、教室名を言い残して教授が先にいっちまってな。わかるかよ、こんなとこ」 ここまで道が苦手だったとは思わなかった。教授も予想していなかっただろう。 南校舎は来客用の駐車場の目の前だ。 ぽつりぽつりと話をしながら歩く。明日、土曜日に南校舎の大教室でシンポジウムがあるらしく、宗介はその荷物係に任命されたこと。浪人している宗介は下っ端だし、体育科のせいか運動部の多い学部だから、暇なやつがいなくて、と。だが、方向音痴の件はもっと周知しておいたほうがいいだろう。教授がここまでの方向音痴を熟知していたら、そもそも頼まなかった気がする。なにせ一緒に歩いているのに、エレベーターホールを無視してまっすぐ歩こうとしているくらいなのだ。 真新しいエレベーターに乗り、半ばガラス張りの建物を上がっていく。不思議そうに狭い土地にいくつもの校舎が立ち並ぶ光景を見つめる宗介の横顔を見つめていると、ふっと宗介が口を開いた。 「きゃーきゃー言われたりしないのか、メダリスト」 「お前の大学はそうなのか?」 聞いた大学名は水泳も強い。他の競技でもオリンピックに出る奴は居るだろう。 「ま、普通にしてる」 「俺も、通りすがりに『がんばれよ』と『おめでとう』って知らない奴から言われたくらいだ。友達からはサインさせられたけど」 「そりゃそうだよな」 棚から牡丹餅が降ってきたかのように出れた去年のオリンピック。さらに牡丹餅が振ってきたように、一〇〇メートル自由形で銀メダル……メドレーリレーで銅メダルを取った。日本競泳史に残る云々……の肩書きまでついてきてしまったそのメダルは大きくて重くて、あれから一年、家にしまって見ないふりをしている。楽しかった、五輪はもう一回行きたいという気持ちもあるけれど、毎年大会は続くのだ。日本選手権もあったし、夏には国際試合もある。去年のことばかり考えてられない。 メダルは昔と同じに、部屋の隅の段ボールに入れて、一つにまとめて置いている。大切だけど、大切じゃない。そのことを考えるのはもっとずっと後でもいい。 「だけど、ハルに偶然会えてよかった。いるかなと思いながら、会えなかったら近々連絡しようと思ってた」 ぽつりと宗介がそうつぶやいた。 わけを尋ねる前にエレベーターの扉が開いた。 再び何の確認もせずに重々しい足取りで右に歩き出す男に、教室番号を聞くと、真反対だった。今みたいな部分が迷う原因なのだろう。重厚な見た目とは裏腹な、向う見ずなところ。 廊下の突き当たりに、宗介の言う大教室があった。部屋に入ると、隅っこで四十代くらいの男が数人で話し込んでいる。そのそばに近づいた宗介が床に荷物を置いている。 「……この大学、地元の友達がいたんで、このまま帰ってもいいすか」 少し大きな声が聞こえた。地元の友達。 慣れない響きになんとも言えない気持ちになっていると、振り返った教職員と思わしき男がこっちを一瞥した。自分に気づいた様子もなく、一言二言さらに言葉を交わしてから、「山崎君、ありがとう」と言って宗介を送り出していた。 「いいのか」 「いいらしい。飲み会につき合わされるところだったから、よりいっそうよかった」 「……少し時間あるけど、飯食うか」 自分でも、不思議なことを言い出したと思った。 「この後、練習か?」 「ああ」 無表情から少しだけ表情を動かした宗介の顔をじっと見つめてみる。わからない。凛だった宗介の心の動きがわかるのだろうか。 「うどんかラーメンが食いてえな」 宗介がそう言ったので、大学を出て、駅までの通りすがりにあるセルフ式の立ち食いうどん屋に入った。宗介から「どれがお勧めだ?」と尋ねられたので、肉うどんを勧めてやる。自分は冷たい大根おろしの乗ったぶっかけうどんにした。 大学に近いがこのあたりのサラリーマンも昼に来るのか、店内は広々としている。「熱いな」と言いながら宗介がうどんを噛むように口に運んでいる。 「……練習、どうだ」 ふっと宗介が尋ねてきた。 「大学は、まあ」 「他もやってんのか」 「週の半分は国のに行ってる。NTC……ナショナルトレーニングセンター。そっちのほうがきつい」 うどんを飲み込んでから、頷く。 「ちょっと気になるなんだよな。トレセン。俺でも見学できんのか、それ」 「わからないけど、かけあってみるか」 「そのうちな」 「宗介、お前はどうだ? 泳いでるのか」 「……と、思うか?」 「思わない」 泳いでない体つきだ。長い練習を費やしてきた骨格は変わらないけど。きっと趣味でも泳いではいないのだろう。趣味で泳ぐような性格ではない。なんとなく。 「何もしてない。教職取る体育の時に泳いだくらいだ」 「でもお前、学部がスポーツ系なんだろ」 去年、凛が言っていた。 だから、なんやかんや言って戻る気があるのかもしれないって。実習の多い学部だと言っていた。少しずつ思い出してきた。もう、凛から宗介の話を聞いたのは一年以上前の話だけれど。 「経歴のせいか、入りやすかったからな。今は野外活動実習で山登ったり、磯をひたすら歩いたり、野生動物保全管理の授業とかも受けてるぜ。明日もそんな系のシンポジウムだしな」 「そうか」 濃い色の汁に、すだちの種が浮いている。遙はそれを箸先で埋めながら、喉元で引っかかっている言葉をどう尋ねようか迷っていた。 聞きたいことがある。宗介に聞きたいことなんて、一つだけだ。 宗介と話をしていたら、思い出してきてしまった。この店ではないが、髪をうっとうしそうにしながら、麺を食べてた凛のこと。 「まあ、教授についてきたのは、お前もいるかな、と思ってたけどな、ハル」 その声に、遙も箸を置いて顔を上げた。 隣を見つめると、宗介がまっすぐこっちを見ていた。重たそうなまぶたがじっと。今はその視線に敵意がないことくらいしかわからないけど。 「お前、凛が日本に帰ってくるって知ってるか」 凛。 凛の話だ。 そう、聞きたかったのは凛のこと。 だけど、凛のことを思い出そうとすると、去年のオリンピックで、そして帰国したその後に自分の部屋で見たまっすぐな目を思い出してしまう。 「知らなかった」 しばらくちゃんと話すらしていないのだ。
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リク:貴澄と凛
「ねえねえ、松岡さん、スタファイの松岡凛と七瀬遙の不仲説は本当なんですか?」 「……あ”? 貴澄、お前まで雑誌の記事を真に受けてんのかよ」 松岡凛、本日の最初の仕事は、ピンでの雑誌の撮影だ。 広いスタジオの隣にある六畳ほどの小部屋で用意してもらった衣装に着替え、鏡の前で髪の毛を弄って貰っていたのだが、凄まじくドスのきいた声を出してしまった。背後のアシスタントの小さい女子が怯えた気がする。いつもはもう少し愛想がいいのだが、今日は仕事の相手が相手なこともあって、つい油断してしまう。しかも質問が悪い。 何せこれから、昔から知っている鴫野貴澄との対談なのだ。しかも奴の連載ページの。子供の頃からモデルをしている貴澄は、女性誌ともカルチャー誌ともつかない雑誌に長いこと連載を持っていて、気になった人をランダムで召還しては対談をしているのだ。 そして今回指名されたのが自分、松岡凛だった。 本人はすでに準備万端、というか白シャツ一枚での単独のカットの撮影は終えていて、隣でギコギコと椅子を軋ませながら凛に話しかけてくる。 都内、隅田川沿いにあるこのスタジオは、古い倉庫を改造した雑居ビルにある。上の階は映像会社でさらにその上は写真のギャラリーだと言っていた。床から壁面、そして五メートルはゆうにありそうな天井まで真っ白に塗られているせいか、広い空間は遠近感どころか天地までわからなくなりそうだ。それなのに、部屋の隅にはロフトのようなスペースがあり、五人はゆうに寝られそうなソファが置いてある。貴澄はよく使うスタジオらしいが、変な造りだ。全体的に、普段自分たちが 撮影している地下のスタジオよりもずっとお金が掛かっている気がする。それもなんだか忌々しい。 まあ、それはともかく、だ。 「だってさ、ハルと凛、昔はすっごく仲良かったから。そんな記事自体出るのが変だなって」 「……別に悪くねえって」 世間で流布される「不仲説」。原因は道端で殴り合ってたとか罵倒し合ってたとか書かれた数ヶ月ほど前の雑誌のせいだが、あれは不可抗力というやつなのだ。まさかあんなところで雑誌記者が張っているとは、しかもそれを記事にされるとは思わなかったから。 「昔は凛ってハルのことよく褒めてたじゃない! 俺がハルのことよく知らない時から、あいつは足は遅いけど、歌もうまいし、雰囲気が独特で誰とも似てないし、立ってるだけで絵になるとか。ああいうのが本当に華のある人間なんだなって、べた褒めだったから。その辺、ちょっと僕としては納得できなかったんだけど」 「……忘れた」 言ったか。言ってたかもしれない。その事実自体にも頭を抱えたくなる。言ってただろうか、そんなこと。確かに言っていた気がする。 「言ってたかもしれねえけど! ……ハルみたいな奴は、今でもどこにもいねえって思ってるけど……」 凛はぐっと言葉を飲み込んだ。改めてこんなことを言わせるなんて、もしかしたら、貴澄はスタッフレベルから不仲説を払拭する機会を作ってくれているのかもしれない。ここは一つ、草の根運動だ。 「……七瀬遙と俺は、喧嘩なんてしてないですからね」 声に出して言うと、会話を半分くらい聞いていたらしいメイクさんがちょっと苦笑した気がした。 「……はいはい。松岡さん、髪の毛編み込みしますよー。痛かったら言ってくださいね」 「はい」 そういえば遙も、部屋で一緒に録画のチェックをだらだらしているときは、手持ち無沙汰なのか髪の毛を引っ張ってくる。勝手に結んで遊んだりしてたら怒るけど、触られるの自体は嫌じゃない。 「えー、じゃあ、ハルと凛、今でも仲がいいエピソードをちゃんと披露して! スタファイのみんなと遊びたくても、誘いにくいって言うか、気を遣うし。久しぶりに飲みにいきたいけど、空気悪かったら嫌だし。宗介も知らねえって言うし」 「別に、今も、悪くはねえよ」 「それだけ? 凛って昔は、ハルのこと、本当に好きなのかなーって誤解するくらいだったのに」 「な、なっ、んだよそれ……!」 過去は 確かに、貴澄にも言われたように、臆面なく遙のことを褒めまくっていた時期もあったけど。もしかしてそうしなくなったから、不仲説が消えなかったりもするのだろうか。「松岡さん七瀬遙のこと褒めなくなったよね」みたいな。それが記事に信憑性を与えてるんだとしたら。だけど。 「…………だけど、でも、よく知ると、あいつも嫌なとこいっぱいあるし! 休みの日、出かけようって言っても寝てるか一日中風呂入ってるかだし。ジム行くときは声かけろって言ってんのに、勝手に一人で泳ぎにいくし。帰ってこねえし。番組のチェックとかしてても、あんま喋ってくんねえし。俺の仕事がどうだとか、こうしたほうがいいとか、意見もないし。偏食だし。食い物の趣味も合わねえし。やたらと早寝早起きだし。一端寝入ると起きてくれないし、服の趣味変だし。テレビの趣味も合わねえ。時々、急に仕事の話ばっかりするし」 気に入らないことはいくらでもあるのだ。毎日不満に思っていることを一つ一つ口にすると、だんだんと貴澄が不可思議な表情へと変わっていった。 いつの間にか髪の毛も弄り終わったのか、「おしまいです!」「では、撮影はいりまーす」「セッティングまでちょっとだけ待っててくださいね」などと口にしながら、ぱたぱたとメイクさんを含めたスタッフが控え室から出て行った。 今、部屋には貴澄と二人きりだ。 途端、貴澄が急にきょろきょろした。それからもう一度、改めて周囲を見回し、ぬっと両の手を伸ばしてきた。そして凛は、がっと両顎を掴まれる。 髪も顔も、せっかく整えてくれたのに、崩れる! 「なんだよ!」 「あのさ、凛」 貴澄が目の奥を覗き込むようにこっちを見ていた。やたらと真剣だ。じいっと真正面から見つめられて、急にやましい気持ちが迫り上がる。遙に言わなきゃ。今すぐ電話したい。貴澄が変だって。 衣装の、きっちりボタンまでしめた喉元が苦しい。ボタン、外したい。外したら遙にも怒られるけど。 「……ねえ、違ったらごめん。もしかして、ほんとはハルとつきあいだしたの?」 「は……?」 途端、頭が真っ白になる。 貴澄につられて、売り言葉に買い言葉の遙の悪口しか言ってないのに。 ——わかる、ようなこと、言ったか? ばれるようなこと。 自分たちの関係が。 唐突に突きつけられた貴澄の言葉に動揺していると、目の前の古い友人もなぜだか慌てている。 「——あ。え、あれ。これ、本当? ……本当に??」 「ち、げえ」 「あーそっか……。……まあ、不仲じゃなくてよかったよ。……………そう思うことにする。うん」 「だから、ち、がう、けど……」 凛が否定を続けているのに、貴澄は勝手にふうっと深いため息をついた。もっと否定の言葉を重ねたいけど、それはそれで申し訳ない気がする。遙にも。友達の貴澄にも。だってそれは確かに本当のことだったから。 「別にいいよ、隠さなくても。僕言わないし。本気で仲が悪かったらどうしようって思ってたから。あーー……でも、そっか……仲が悪いというか、仲良すぎるのを隠してるせいで周りから不自然に見られてたんだね……」 確かに、遙と喧嘩していると思われるのは嫌だ。けど。 「………俺だって不仲説なんて嫌だよ。だけど、あいつが外でキスしてくるから。そんとき、カメラがいるのが見えたら、突き飛ばすだろ? そしたら喧嘩しているように思われるし、雑誌に書かれるし。だけどつき合ってるのがばれたらもっとまずいし。それに、そもそもつき合うとか予定外だったから、外でどう接していいかわかんねえし……。これはちょうどいい機会なのかもしれないって思ったりして……。だけど、みんなから腫れ物みたいに扱われるのも嫌だし……」 言い始めると、ぼろぼろと言葉がこぼれた。思いのほかストレスが溜まっていたのかもしれない。 「それで———」 次の言葉を探しかけた瞬間、不意に控え室にノックが鳴り響く。すぐにかちゃりとドアが開いた。 「凛、ストップ!」 慌てて愚痴ごと息を吸い込む。貴澄も深呼吸している。 扉の向こうから、最初に紹介されたカメラマンのアシスタントの男が顔を出した。 「準備できました! 松岡さん、鴫野さんよろしくお願いしますー!」 とりあえずこの話は一端中断だ。お互いに顔を見合わせてから「はーい」と二人で返事する。 「凛、続きは後でね。……その前に、あとでハルに電話しとこ。おめでとうって。だけど凛には苦労するねって」 呆れたように言われたけど、解せない。苦労しているのは自分も同じなのに。 真っ白いスタジオへと続く扉を潜りながらムッとしてると、貴澄が「笑顔、笑顔」と言ってきた。 その表情は、確かに100円くらいは払いたくなる笑顔だった。
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リク:遙と貴澄
遙が休みの日に部屋にこもっていると、母親からお使いを頼まれた。「卵と豚バラ肉とほうれん草とトマトケチャップをスーパーで買ってきて」。一緒に好きなものを買っていいよと五百円くれたので、お使いよりも部屋から引っぱり出すほうが目的だったのかもしれない。そう、気づいたのは外に出てからだが。 部活を辞めてから、遙は部屋か風呂に篭っていることが多い。心配しているんだろうなと思うが、自分でもどうしていいのかわからない。確固たる意志があると言うよりもどうしても身体が動かないのだ。どちらにしても今は、中学校は春休みだし。自分に言い訳して、びゅうびゅう吹き荒ぶ海からの風から逃げるようにマフラーを巻き直してひたすらに海岸線の道を進んだ。 時々車だけが通りすぎる人気のない道を歩く。 ふと、スーパーへと向かうT字路に信号の所にひょろりと背の高い見知った子供が立っていた。さらさらの髪が風を含んでさらにふわふわになっている。まっすぐ海の方を見つめていて、遙に気づいている様子はない。 遠目に見える……冷たそうにも優しそうにも見えるその顔が、ほんの少しだけ遙を不安にさせるのかもしれない。今さらそんなことに気づいた。 とにかく——目が合ったら声を掛けられる。 今は微塵も話したくない。 スーパーへと向かうT字路は一本道だが歩道は左右についている。遙は信号を先に渡る予定だったのを急遽変更して九十度の角度をつけて緩い坂を上った。信号に従って車が止まる。走り出す。それ以上の車通りはない。ごうごうと風の音だけが満ちる世界に微かに足音が聞こえてきた。他でもない。後ろからだ。誰かが遙のあとをついてきてる。おかしな話だ。この足音が信号で見かけた「誰か」ならばどうしよう。あいつはあのまままっすぐ行くのではなかったのか。遙のあとをついてきたということは、来た道を引き返しているのだろうか。足音が気になって仕方なかったが、振り返ったら負けだ。もしも後ろを歩いてきているのがあのクラスメイトで——振り返って目が合ったら、顔中で笑って、楽しそうに近づいてきて、馴れ馴れしく肩をぽんぽんっと叩いて、それから「どうしたのハル? 久しぶりだね!? どこいくの?」などと声をかけてくるに違いないのだ。 遙が確固たる意志を持って振り返らないでいると、それでも足音はついてくる。 やがてスーパーが見えてきた。 やおら、車通りのない道を横断しようとしていると「あ!!」と後ろから声がした。 思わずびくっと振り返ってしまう。 聞き覚えのある声だ。見覚えのある姿だ。思ったのは同時だった。 その後で「しまった」と思ったがもう遅い。 「ハル、車、来るから危ないよ」 笑顔でそう言ってきたのはやはり——予想した通りの人物、鴫野貴澄だった。 「なんだ」 「何が?」 「……ついてきてただろ」 「んー? あ、気づいてた? ハルが道に迷ったら困るなーって思って」 遙がもう一度右を見て左を見て道路を横断すると、貴澄も後ろからついてくる。 無視したことは咎められなかった。どう考えても意図的に避けていたことは気づいていたと思うが、貴澄はそれ以上何も言わない。言われない方が、気まずい。自分が子供みたいだ。だけど、あの信号で「よう」などと挨拶してすぐに別れる方法も遙にはわからない。ついてくる貴澄が悪い。 「一本道でどうやって迷うんだよ」 「僕の友達、一本道でもよく迷ってたから。ふらふらふらーっと……横道に入っていっちゃうんだよね。なんなんだろうあれ。ハルの背中見てたら、それを思い出した。そ……友達も、自信満々に歩いていつの間にか道に迷ってたからさ」 「俺が知るか」 スーパーの入り口を潜る。カゴを持ったが、貴澄もついてくる。スーパーの中まで。もはや何がしたいのかわからない。遙も諦めて、ついてくるに任せた。 とりあえず、ええと、ほうれん草。葉っぱの色が濃くてぴんっとしてるやつ。根元は鮮やかなピンク色のやつ。ばあちゃんが言ってた。 「おつかい?」 「……そうだ」 「ハルがさ、あまりにまっすぐ前を見て一目散にどこかに向かって歩いてるから。僕に気づいてるだろうに、まっすぐ見てるから。ちょっと考えながら歩いてたんだ。迷子の原因について」 それから、ケチャップ。いつものやつ。 「何をだ」 「迷う原因。まっすぐ前だけ見て、何も見てないのかなって。他に何も見てないから、迷うのかなって」 ぽつりと静かな声だった。そのよく迷子になるという「友達」のことだろうか。貴澄がそう思って、それが心配なのならば、直接本人に言えばいいのだ。遙の前でうっすら寂しそうな声を出されても困る。 「迷うのは、目印を覚えないのと、頭の中で空間をイメージしながら歩いてないからだってテレビでやってたぞ」 「わお、さすがハル! 物知りだね。そっかー……確かに道を覚える気はないんだろうな……」 豚バラ肉と卵もかごに入れた。頼まれたものはこれで全部だ。だけどあと五百円あるのだ。持ち帰って貯金箱に入れてもいいけど……。何に使おう。お惣菜売り場の横を通りかかる。お寿司——も別にいらない。魚も自分で焼けばいいし。冷凍庫にいっぱい入ってる。 「ハルはコロッケすき? コロッケ買わないの?」 貴澄がぽつりとそんなことを言う。 母親がパートで時々持ち帰ってくるのに、コロッケはない。 「いらない」 「コーラは?」 「どうでもいい」 さっきから貴澄の発言が変だ。迷子のことといい「誰か」を思い浮かべた上で話しかけられているみたいで気持ちが悪い。 「さっきからなんだ。それも『友達』の話か」 貴澄の友達——幾人かの顔が思い浮かぶ。一緒についうっかり、凛と山崎の顔も思い浮かべてしまって、自分の感情をどうしていいのかわからなくなる。貴澄と凛が一緒にいるところは見たことはないけど、話は聞いていた——仲が良かったころの話。 凛のことは今はあんまり考えたくない。ものすごく考えてたくない。ちっとも少しも思い出したくない。だから、余計に話したくなかったのかもしれない。貴澄と。 「……えっと、うん。ハルと似てるような気がして」 「誰と」 「友達、だけど、まあ、今色々聞いてみたら似てなかったし、いいよ。僕の気のせい! ごめんね、ハル」 「あっさり謝るな。気持ち悪い」 「ぼくは何時だって素直だよ?」 「佐野の奴はみんな謝らないし強引なのかと——」 口にすると、貴澄がまた、なんとも言えない表情をした。しまった、と思う。引きずられるように自分も思い出してしまった。山崎の顔。凛の顔。ぽたりと床に滴った、凛の涙。震えてた横顔。払われた手の先。 声。 凛。 「ごめんね、ハル」 「謝るな」 「入り口で待ってるから、途中まで一緒に帰ろ。ついてきて、ごめんね」 「一人で帰れ」 言うと、貴澄が固まった。 それから小さく笑ってみせる。 「……ハルはつれないんだから。わかったよ、帰るよ」 そう言ってあっさり引き下がった貴澄が、悲しそうな顔をした。あ、また傷つけた、と思う。違う。突き放したかったわけじゃない。そんな顔させたかったわけじゃない。だって、もう少し、食い下がってくるかと思ったのだ。 違う。違う。凛なら、きっと。 もっと食い下がってきたはず。 だけど、目の前に立っているのは誰だ。 貴澄は、貴澄だ。 凛ではない。 貴澄と誰かを重ねたのは自分も一緒なのかもしれない。 「貴澄」 遙は慌てて声を上げた。
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リク:真琴と怜
「ここはね、パンがおいしいよ! 閉店間際に行くといつもおまけしてくれるし……何かのアニメで出てきた『シベリア』ってこのお店で初めて食べたけど、おいしけど、でも、思ったよりも水っぽい食べ物なんだなって」 「それって……カステラの間にあんこが挟まっているやつですか? 僕も食べたことないです」 「そうそう! でもあんこだから当然かあって。……あ、それから、この焼き鳥屋さんは、テストが終わった後とかに、ご褒美で買ってる。この正面のとんかつ屋さんも」 真琴と二人で東京のアーケード街を歩いている。変な感じだ。「真夏だから」とある程度は覚悟してたけど、東京の八月は思ってたよりもずっとずっと暑くて、一歩踏み出すごとに汗が滲んだ。真琴があっちこっちを指差すせいで怜まであっちこっちを見る羽目になり、そのたびにずれる眼鏡も、指で何度も直さなければならない。鼻あてまで汗でぺたぺたしているのがわかる。シャツも、大きな荷���と触れるズボンも暑苦しい。暑い。時々店の前を通過するときに漂うクーラーの冷気に惹かれて、光に集まる虫のようにふわふわと近づいていってしまいそうだ。 「あ、ここのカフェでグリーンカレーも食べたけど、グリーンカレーってあんなに辛いんだね」 「それはそうでしょう……」 「家で食べるのはもっと甘くてココナツ味だったんだよ」 真琴が通りすがりの店舗を嬉しそうに一つ一つを説明してくれる。その様子だけでも、東京にすっかり馴染んでいるのがわかる。 怜が東京に来たのは、明日は怜の志望校のオープンキャンパスだからだ。親に勧められて来た。日帰りしてもよかったのだが、せっかくだから真琴と遙にも会えるかなと連絡してみたのだ。当初は渚も来る予定だったのだが家族旅行で日程が合わず、一人になったので、こうして既知の誰かに会えるとそれだけでとても安心する。ちなみに、遙は練習があるからと夜、真琴の家に来ることになっている。 だから、怜は真琴の家の最寄り駅で待ち合わせて、家へと向かっているのだが―—。 「……――真琴くん! あら、高校生のお友達?」 ふと、小さな食べ物屋さんと思わしき店先で水を撒いていたおばちゃんが声を掛けてきた。真琴に。 「はい! 高校の後輩です!」 嬉しそうに真琴が言うので、怜は隣でぺこりと頭を下げた。手を振って、通り過ぎて、小声で真琴が教えてくれる。 「今のはね、よく行く定食屋のおばちゃんだよ。ハルもおいしいって言ってたから、後で行こうか」 「はい」 普通に返事をしたつもりだった。 だけど、ふっと振り返った真琴が不思議そうにしている。それから尋ねてくる。 「……どうしたの? だんだん口数が減ってきてる気がするけど」 「……暑くて」 こめかみを汗が流れている。シャツも脱ぎたい。白いシャツなんて着てこなければよかった。 「うん、東京って暑いよね。夏になって、ビルが多くて海風がないだけでこんなに違うのかって思った。岩鳶だと、朝と夕は、風が通ると寒いくらいなのにね? いつでもむしむしむしむししてるから、俺もすごく困ってて」 懐かしそうに真琴がそう口にする。岩鳶は今でも涼しいし、朝夕に屋外プールに入るのは寒いですよ、と言いたかったけど我慢した。 「? まだ言いたいことある?」 顔を上げようと思ったのにうまくできない。 「……大学のオープンキャンパスに来たのに、なんで真琴先輩から住んでる街の説明ばかり聞いてるのかなって」 「あっ、それはごめん、でも、怜がここにいるのが面白くって。それから? ほかにもある? 俺、一人ではしゃぎすぎた?」 まだ言わずにいることがあること、真琴にはすっかり見抜かれてたらしい。自分はどれだけしょんぼりした顔をしていたのだろう。自己嫌悪に陥るけど。 「あと、真琴先輩は本当に東京の人なんだなって思ってしまったんです」 しかたなく、白状した。 ふうってため息をつく。 道なりで思ってしまったことはこれで全部だ。 「えっ、そんなことないよ。学校だと、今でもなまってるとか、『それってどういう意味?』ってすごく聞き返されるし」 「違います! そう言えること自体が馴染んでる証拠です!」 だって、怜には、真琴の言葉がなまっているのかどうかもわからない。今、真琴が、心の底で「怜はまだなまってるんだな」と思ってたら、すごく恥ずかしい。なんとなく死にたくなる。 だけど真琴は、それ以上何も言わなかった。 「……あっ、もうすぐ着くよ。俺の家。この道の向こう!」 真琴の声とともにアーケードが終わった。大きな道路を挟んで反対側を真琴が指さした。燦々と降り注ぐ日の光で、アスファルトがきらきらと反射し、真っ白くかすんで何も見えない。 「ところで怜はなんで制服だったの? 東京まで制服で着たの?」 もはやスルーされたかったのに、とうとう聞かれてしまった。 怜は自分の服装を見下ろした。ネクタイまでしめた岩鳶の制服に大きな鞄。「学校帰りに家出してきました」みたいな格好で怜は東京まで来てしまった。 だけど、制服を着ていないと少し不安だったのだ。 「……そ、そ、そのほうが、わかりやすいか、と、思っ、……て」 真琴が。 改めて口にすると恥ずかしすぎるし、今、思うとばからしい。実際、改札を抜けた瞬間、人ごみの中で真琴は真っ先に手を挙げてくれたのに。 そしてそれから怜の制服に気づき、不思議そうな顔をした。制服を着ていなくても、真琴はわかってくれた。自分のこと、忘れてなんてなかった。 「だ、だけどですねえ! 真琴先輩が悪いんですよ! 進学されてから全然連絡くれないし、真琴先輩にも遙先輩にも会いたいって言っても生返事だから、もしかしたら僕のこと、よく覚えてないのかなとか、おも……」 駅の改札の向こう、大きく手を振ってくれた真琴に心の底から安堵した。うれしそうな笑顔に泣きそうになった。そりゃそうだ。二年も一緒に過ごしたのだから。忘れられるはずなんてない。なんで不安になったのか、今は自分でもばかばかしく思うけど。 だけど覚えてくれててよかった。訪ねたこと、喜んでくれてよかった。岩鳶から何度も何度も深呼吸をして、電話をかけたあの瞬間が報われる。会ったらやっぱり少し、寂しくなってしまったけど。 大通り、横断歩道の信号が青になる。 「ん? 怜?」 また少し感極まったことを、真琴には見抜かれたらしい。しかたなく、怜は大きく息を吸った。 「全部、僕の勘違いでした! 真琴先輩は全然変わってないんですね! 杞憂でよかったです!!」 くやしい。だけど、こう言うしかない。胸を張って言うと、なぜか真琴が嬉しそうに笑った。
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リク:似鳥と宗介
我輩はまんじゅうである。名前は似鳥愛一郎って名前だったはずなんだけど……。いや、違う! ええと、トンネルを抜けるとそこはまんじゅうだった、これも違う! ——ある朝、似鳥愛一郎が不安な夢から目覚めると、ベッドの中で自分の姿がほんの小さな一個のまんじゅうに変わってしまっているのに気づいた。 これこれ。言いたかったのはこれ! これです! 起きたら身体が変だった。すべてが変だった。とりあえず、自分の身体が見えないのだ。手も、足も動かない。最初は寝相が悪くて痺れてしまったのかなって思ったけど、違う。ただ、動けることは動けるのだ。力を入れると入れた方向に転がっている、感触がする。ただ感触がするのだ。下の方に力を篭めてしゃがむようにすると、ぼよよん、とジャンプできた。 何度か練習して、それを応用してびょんびょん飛んでみる。ベッドを降りる。床を転がる。自分の部屋は床にも物がいっぱいあるから、一生懸命ぴょんぴょん障害物を飛び越えた。 飛んでみて……机の上に飛び上がって、どうにかこうにか置いてある鏡を見る。 「……?!」 そこには、僕、似鳥愛一郎の姿はなかった。 ただ、小さく、こぶしくらいの何か丸いものがあった。 見たことがある……これは。 僕は次第に理解した。 これは、あの、まさか。 そこにあったのは、そう、立派なまんじゅうだったのです!! まんじゅうだったのです!!! 大事なことなので二回言いました。 もちろん僕は慌てた。夢かもしれないと思った。だけど昨日からモモくんは実家に帰ってるし、今日は部活もない。ごろごろしながら、夢から覚めるのを……治るのを待ってもいいんだけど(治るかどうか考え始めたら不安で気絶しそうなので今は考えない!)、そうも言っていられない事情がある。時計を見る。八時。朝ご飯は誤摩化せたとしても、もうすぐ山崎先輩が部屋に来てしまうのだ。こんな姿を見られるわけにはいかない。見られたくもない。 山崎先輩が部屋に来る。 ことの発端は昨日、土曜日の夜、凛先輩もいなくてモモくんもいなかったから、寮の食堂で、なんとなく残った水泳部員みんなでご飯を食べているときだった。明日はオフだから、みんなそれぞれ「買い物に行く」とか、「だらだらする」とか、「デート!」とか言ってて、一方の僕は思わず無意識にため息をついてしまった。何も発言せずにただ、ハンバーグのつけ合わせのナポリタンスパゲッティを箸でぐるぐると巻いた。 ふと、視線を感じて顔を上げる。 「どうした」と聞かれたわけではなかったけど、前に座った山崎先輩が僕を見ていた。不思議そうな顔をしてる。どうやら憂鬱そうにしていたのに気づかれたらしい。少し迷ったけど、仕方なく僕は口を開いた。 「……凛先輩に、部屋を掃除しろって言われてて……モモくんは帰っちゃうし」 「あー……」 山崎先輩はちょっと笑って「そろそろ凛が言う頃だと思ってた」なんて言う。 「だけど僕、掃除、整理整頓って言葉、よくわかんないんですよ。だってものがたくさんあるから……」 物を減らせ、と凛先輩にはいつも言われているんだけど、いつか必要になるかもしれないし、置いておくものと捨てるもの、選ぶのなんて上手くできない。あと単純に面倒くさくて。 「……手伝ってやろうか」 山崎先輩が不意にそんな意外なことを言う。 「えっ、でも、悪いですよ」 僕はぶんぶん手を振った。 「俺はどうせ暇だしな。一日寝てるよりはマシだろ」 そう言ってくれた山崎先輩は穏やかな顔をしている。その顔がじわじわ嬉しくて、思わず頷いてしまった。 「……じゃあ、お願いします」 以上、回想。 ……そして、つまり、山崎先輩はもうすぐこの部屋にやってきてしまうのだ。 頭を抱えたかったけど、現状の形では転がるだけで抱えられない。とりあえず、こんな姿を見られるわけにはいかないから、何か書き置きをして、姿を隠そう。部屋が汚くてよかった。その辺に紙もペンも転がっている。僕はごろごろと転がって、鉛筆の……上に乗った。 どうやって書こう。 途方に暮れる。すごく。 泣けるのならば泣きたい。涙が出てこない。だって僕はまんじゅうだから。 だけど、時間はどんどんなくなってしまう。泣きたい気持ちで仕方なくぎゅうっと腕の当たりに力を入れ、鉛筆を持ち上げてみる。あ、挟めそう。腕と腹の間に鉛筆を挟むようにしながらずりずりと紙の上まで移動した。 線を引っ張ってみる。 書ける! これなら書けそうだぞ! ええと、なんて書こう。「や」……ずりずり。「ま」。ずりずり。
やまざき、せんぱいへ
それだけ書くのに、永遠も通り過ぎて一通りの世界のすべての文明が滅ぶほど時間が流れたような気がした。もしも僕が今頃人形だったなら、汗びっしょりに違いない。僕の中のあんこだって今頃二度茹でされてぐちゃぐちゃになっているかもしれない。カスタードクリームの可能性も排除できないけど。 ええと、それから。 「さ」 「が」 「さ」 こんこん、とドアが叩かれたのはその瞬間だった。 やばい。やばい。やばすぎる。 返事できないまま固まっていると、ドアががちゃりと開いた。絶体絶命だ。僕が電子レンジにかけられて放置されたまんじゅうのようにカチコチになって待っていると、かちゃっと音を立てて部屋の扉が開いた。ぬっと現れた山崎先輩が見える。 「……似鳥? あれ、いねえのか?」 不思議そうに見回しながら部屋の中に入ってくる。 「ほんと、きったねえ……凛が文句を言うわけだな」 一歩、一歩、近づいてくる。今の僕にはそれが巨人の進行に思えた。ずしんずしん。でもよく見ると、右耳の後ろの毛が寝癖ついたままでちょっと可愛い。じゃなくて、やばい。ノックされた瞬間に転がって逃げておけばよかった。 「やまざきせんぱいへ? さがさ……。——なんだこれ。……って、なんだよこれ、まんじゅうか? 食いもん放置すんなよ。食い物を置いとくのが一番部屋が汚れる要因だっての」 手が伸びてきた。僕に巨大な黒い影が迫る!! あっ。 山崎先輩が僕を掴む。 むにゅっとされた。むにゅっと。山崎先輩が僕を掴んだままきょろきょろしている。まさか。視線を留める。まさか、まさか。そっちにあるのはごみ箱………。凛先輩によって設置された巨大なごみ箱がある。あんまり役に立ってないけど。だけど。 山崎先輩にもう一回むにゅっとされた。 やだ。 やだやだ。 やだやだ、捨てないで! 捨てないで山崎先輩! 僕なんですって! 僕です! 似鳥愛一郎です! 捨てないで! 捨てないで、山崎先輩!
そして、僕は大きく力を篭めた。
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これまで出したもの(メモ)
01.「ひと触れ・魔法」2013.8.25 *再録本再録 02.「君が僕の前にいるのは」2013.10.20 *再録本再録 03.「何度も、何度も」2013.10.27 *再録本再録 04.「最後の恋、最初の儀式」2013.12.29 05.「oneitis」2014.1.12 *再録本再録 06.「トーキングフィッシュ(上)」2014.2.2 *合本再録 07.「トーキングフィッシュ(下)」2014.3.16 *合本再録 08.「ひとりきりのプール」2014.5.3 09.「水と訓練生」2014.5.18 10.「ロストワールド」2014.8.15 11.「sink or swim?(再録本)」2014.8.15 12.「セルフィッシュサマー・ノーティーウィンター」2014.9.21 13.「あなたにもっと恋する訓練」2014.10.12 14.「冬のヴァカンス」2014.12.28 15.「トマト、オレンジ、その他の何か」2015.2.1 16.「かさねてふさぐ」2015.3.15(予定)
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わすれていいよ。3
その夜は夢も見なかった。 貴澄の目覚まし時計は大音量で、嫌でも目が覚めた。寝るのは好きだが、別に寝起きが悪いわけではない……たぶん。 貴澄が鳥の巣めいたぼさぼさの頭で洗面所に行くのを見送ってから、隣の部屋に行き、布団の中でまんまるになってぐずぐずしている颯斗を起こした。それから、長年の寮生活の癖で洗濯機を回した。明日、二人の親が帰ってくるのなら、する必要もなかったな……とごうんごうん音を立てる洗濯機を抑えながら少し反省した。さすがに世話を焼きすぎた。 それから三人分の朝食を作ったり、貴澄への腹いせに洗濯物を干させたりした。三人分の目玉焼きなんて初めて焼いた気がする。流れた白身が見事にくっついてしまったのでフライ返しで分断した。今日も隣で見学している颯斗から「宗介くん、時代劇に出てきそう!」と楽しそうに笑われたが、そんなにオーバーアクションだっただろうか。顔が問題なのかもしれない。 朝食後は、颯斗が貴澄にスイミングスクールに持っていく荷物を確認してもらっていた。水着とタオルとゴーグルと水と帽子と……。 横目でそれを眺めながら食器を洗っていたら、手からグラスが滑り落ちそうになった。それでも身に覚えがある光景に子供のころのことを思い出す。 ただ、単純に楽しかったなと思う。「楽しかった」以外の気持ちが剥落して、他の感情が思い浮かんではこなかった。 颯斗は今、どれくらい泳げるんだろう。少し前まで水を怖がっていたと貴澄は言っていたが、今日の練習を見学したら泳力もわかるだろうか。 食器を洗い終えたあとは今からスイミングスクールが終わるまで家で一人っきりになる颯斗に「お昼はカレーをレンジでチンするんだぞ」と、耐熱容器にカレーとご飯をよそって、冷蔵庫の中に入れた。そのまま電子レンジに突っ込めば問題ないセットを作ったが、小さい貴澄の弟はどこか不安そうだ。 宗介がしゃがんで颯斗と目を合わせながら「もう二年生だろ」と言うと、大きく二度、覚悟を決めたように頷いた。 普段、貴澄はどれほど甘やかしているのかしのばれる。 これから宗介は実家の手伝い、貴澄は大学で部の練習がある。「誰か訪ねてきても、出なくていいからね」と何度も言い含める貴澄と一緒に鴫野家を出た。 「甘いな、お兄ちゃん」 小学二年の頃なんて、自分はもっと雑に育てられていた気がする。実家が店をやっていたせいかもしれないが。 「颯斗はぼくに似て可愛いからね。用心には越したことないでしょ」 真顔だ。どうやら本気で言っているらしい。その言葉には突っ込まないことにした。 ついでに言うと「送る」なんて一言も言っていないのに、貴澄が鴫野家の駐車場の端っこに置いていた白い軽トラの助手席に勝手に乗り込んでいる。 「車、欲しいなあ」 シートベルトを締めながら貴澄が呑気な声を上げる。 「早く免許取れ。この軽トラに乗せてやる」 一速にギアを入れてアクセルを踏み込むと、貴澄がヘッドレストに頭を預けて、不満そうな顔をする。 「やだよ、この車マニュアルなんだもん。免許取るの面倒くさくない? まあ、免許はマニュアルで取っても、自分で買うならオートマだね。それにそもそも、宗介だって自分の車じゃないじゃない」 確かに親から借りている車だが。 「マニュアルのほうがかっこいいだろ」 「宗介が乗ってる分にはね」 「お前だって、マニュアルに乗ってたら、ギャップがあってかっこいいとか言われるかもしれないだろ」 「それよりリスクを排除するほうを優先するね。ぼくは。坂道発進でアクセル吹かし過ぎて、がっくん!ってなるほうが格好悪いと思わない? 半クラッチって何? それに、マニュアルかオートマか一瞬で見分ける女の子ってのもどうなの?」 へりくつだ。それに差別だ。まあ、ともかく早く教習所に通えと言いたい。大学のバスケ部の練習で忙しいのかもしれないが。 ゆっくりと車の少ない道を走る。三月に入ったせいか、まだ肌寒いのにどこか空気が春めいている。なんだか落ち着かない空気だ。貴澄が窓を開けて、半分くらい顔を出しながら髪の毛を膨らませている。ところどころで、梅や名前のわからない黄色い花が咲いているのが目に入る。 駅前で貴澄を下ろし、バックミラー越しに手を振る男を見送ってから、実家に向かった。すぐに店先で母親から発泡スチロールの箱を受け取って、病院や民宿への配達の手伝いを始めた。改めて一人で己の借りている軽トラを見返すと、若葉マークが眩しい。早く取りたい。 一通り配達を終えて店に戻ると、奥から出てきた母親が「今日も貴澄くんち?」と尋ねてきた。頷けば、「みんなで食べなさい」と鱈の切り身をくれた。 せっかくなので鍋にしようと、下ごしらえしてから昆布を巻いて、タッパーと店に余っている氷を保冷バッグに入れた。それから昨日と同じ服だったので一応、着替えた。今日でお役御免のはずなので、着替えは持たずにふたたび家を出る。 時計を見れば四時を過ぎている。宗介はそのまま直接岩鳶に向かうことにした。颯斗はちゃんとスイミングスクールに行けたのだろうか。 これからプールに向かうことを考えると、やはりどうしても少しだけ気後れするのだが、それはもう仕方ない。単なる条件反射のようなものだ。 颯斗にバレンタインのチョコレートをくれた女子の偵察をして、ホワイトデーのお返しを一緒に買う約束もしているのだ。チョコレートをくれたのは……名前はなんだっただろうか。忘れてしまったが、「子」がつく名前だった気がする。 車を走らせていると、やがて信号の向こうに何度か来たことのある建物が見えてきた。 岩鳶SCリターンズ。ふざけた名前のスクールだ。 ここを訪れるときの気持ちはいつも少しずつ違っていて、今も完全に穏やかとは言えない。 宗介は駐車場の端に車を止め、正面玄関を通って中に入る。 空気が変わった。 思わず後ずさってしまいそうなほどの湿気の混じった空気の層に覆われる。息が苦しい。日常生活で感じることのない匂いと湿度と気配だ。 ……忘れないもんだな、と思う。 一緒に蘇ってきたのは焦るような気持ちで、そのことに自分でも少しだけ驚いた。 そういえば、少し前、何気なく見ていたテレビに、廃業したお笑い芸人が出ていた。顔���映さないような、肩から下の映像。平坦な声。その男が言っていた。やめたことには未練はないし、今の生活には不満がないが、ネタが思いついてしまった瞬間が一番怖い、と。相方に言わなきゃ、書き起こさなきゃ、稽古しなきゃ。舞台に上がらなきゃ。麻薬のように湧き上がるその衝動を抑えるのが何よりも大変なのだと。 ああ、わかるな、と思った。テレビを見ながら宗介も思った。 自分も多分、何よりも突発的な飢えが一番怖い。 どうしようもなく、焦る気持ちとともに「泳ぎたい」と乞う瞬間が何よりも怖い。そしてできる気がしてしまうのだ。今でも少し練習したら誰よりも速く泳げるんじゃないかと。そして、そう思って、焦る。 「……今は、大丈夫だけどな」 大丈夫。今は何も考えてない。ただ、この空気がひどく懐かしく、重いだけだ。 足元が定まらない。地面が柔らかい気がする。ふわふわとした足取りで、二階の観覧室へと向かう。 目の前に広がった大きなガラスの窓。端が曇って結露ができている。眼下に広がるプールを覗き込めば、すぐに颯斗を見つけることができた。 無事に着いていたらしい。颯斗の姿を認めて初めて、今の状況を思い出した。大きく息をつく。 小学生が五人……六人で端のレーンを潰して泳いでいる。 女子は二人いるようだ。 チョコレートを貰ったのは彼女たちのどちらかだろう。 颯斗は思っていたよりも楽しそうだ。泳ぎ終わった後、ふうっと深呼吸する姿は、貴澄の家で見る姿よりも大人に思えた。 やがて水から上がった子供たちがプールサイドで集まって、コーチに頭を下げている。「ありがとうございました!」と言う声。笑い声。笑顔。色鮮やかなビート板。 ——楽しかった。 あの頃は、楽しかった。 泳ぎ始めた頃は、楽しかった。 凛の笑顔を思い出す。コーチの笑い声も。友達の悔しそうな声も。凛の偉そうな声も。 そう、「楽しい気持ち」は一つじゃなかった。そうだ。思い出した。 楽しいにはたくさん種類があったのだ。いくつもの気持ちがあった。飛び込んだ時の水の抵抗の心地よさ。視界が綺麗だったこと。自由に泳げる楽しさ。誰かに勝った時の快感。褒められた時のうれしさ。タイム。練習が終わった後のコーラ。アイス。冬のココア。肉まん。帰り道にみんなで話せること。友達と会えること。凛と泳げること。家に帰って布団に寝転がった瞬間のこと。お腹が空いた時に食べる母親の飯。全部、自分を生かしてくれたそれら。 一つ一つ思い描きながら、階段を下る。 楽しかった。 たくさん楽しいことがあったのだ。 ロビーの隅に立って待っていると、更衣室から颯斗が出てきた。 すぐに宗介の姿を見留めてぱあっと笑顔になる。 「宗介くん!」 満面の笑顔に思わず息が詰まった。 今、自分は颯斗の「楽しい」の一つなのだ。 「……一人で大丈夫だったか?」 「うん、大丈夫だった! ちゃんとちこくもしなかったよ」 無意識に手を伸ばし颯斗の頭をぐりぐりと撫でる。乾かし足りてないのかまだ少し湿っていた。だけどそのままぐしゃぐしゃと掻き混ぜていると、早足で廊下を女の子が二人、楽しそうに駆け抜けていく。 「はやとくんばいばい! 今日はお兄ちゃんじゃないんだね!」 「う、うん! ようこちゃんもゆなちゃんもまたね!」 あ。 昨日颯斗から聞いた名前は「ようこちゃん」だ。 「あの子たちか。チョコレート貰ったのは、どっちの子だ?」 「えっとね、右の子だよ」 気が強そうな髪が短めの子か。ちょっとだけ意外だ。まあ、女子の性格なんて、自分にはわからないけれども。 「なるほどな……。じゃあ、晩飯の買い物とバレンタインのお返しを一緒に買いに行くか」 チョコレートはお母さんが「これをみんなに配りなさい」と持たせた説に一票入れておく。 宗介の提案にこくりと颯斗が頷いた。 そのままコーチと受付のスタッフに手を振る颯斗と一緒にトラックに乗り、エンジンをかけた。颯斗は助手席の位置が高くて乗るのに苦慮していたが、シートベルトは一発でできたらしい。そのまま近くのスーパーに向かった。 鴫野家の冷蔵庫の中身を思い出す。 実家から鱈をもらってきたから、今日は鍋だ。楽だし。 ……白菜はあった。手作りらしきポン酢もあった。葱ときのこと豆腐を買おう。春菊と鶏肉もあってもいいかもしれない。 車を停めて、ぴょんっと助手席から飛び降りた颯斗と並んでスーパーの自動ドアを通過する。 カートを取ってきてくれた颯斗と中に入ると、入り口からほど近いレジの前に大きくホワイトデーコーナーが展開している。 先に選んじまうか。 「お返し、先に選ぼうぜ。どうだ?」 大きな棚をぐるりと見回してから、颯斗が小首を傾げる。 「バレンタインのお返しってチョコレートじゃないんじゃないの」 「いや、違うだろ? 貰ったのと同じもんは返さないだろ」 棚に並んでいるのも飴やクッキーや熊のぬいぐるみや、ちょっとした小物ばかりだ。 「宗介くんは今まで何をお返ししてたの?」 素朴な質問に思わずむせてしまった。バレンタインにチョコレートをもらっていたのは中学の時だけだが、確かにあのときは毎年困った。お返しは……どうしても返さなきゃいけない相手……部のマネージャー相手などには、凛の妹の江に頼んで一緒に買いにもらっていた。飴とかクッキーとかマシュマロとか、適当に選んでもらった。 そして江へのお返しとお礼は、決まってその帰り道に駅前のドーナツだった。懐かしい。 「飴とか適当だった……」 あの頃の宗介はお返しなどどうでもよかったのだが、「宗介くんのためになるから!」と江が真剣に選んでくれた。「ちゃんとしたものを返すと、きっと女の子はみんな優しくなるよ。そういうものなの!」と江は言ってたが、実際のところ効果があったのかどうかわからない。「お兄ちゃんとも小学校の時、一緒にお返し選んだよ」と江は言っていた。そう言えば、凛はあんななりでもモテていたのだ。あの頃は単なるお調子者のポジションだったのにな、と不思議に思う。あと貴澄もモテていた。いまいち面白くないが、貴澄は誰とでも分け隔てなく接するから、宗介が卒業まで一度も話したことのないような大人しい女子から、バレンタインのチョコレートをもらっていた記憶がある。 「——こっちとこっち、どっちがいい?」 くだらないことを思い出してしまった。いつの間にか颯斗が目の前に差し出していたのは水色の小さなクッキーの箱とピンクの丸い飴のボックスだ。 「ピンクのほうがいいんじゃねえの」 特に理由はない。女子が好きそうという偏見だが、それから単に、颯斗に似合うなと思ったのだ。ピンク。ついでに言うと、兄のほうにも似合うと思う。 「わかった! そうする! ……貴澄、お兄ちゃんにも買おうかな」 宗介の心を読んだわけではないだろうが、そう言いながら颯斗が小さな缶入りの飴を三つ、カゴに入れた。 すぐに「はい!」とポケットからちょうどの六百円を手渡された。足りなかったら出してやろうと思ったが、無事に小遣いで買える範囲だったようだ。颯斗のバレンタインのお返しだ。好きにすればいい。きっと本物の兄なら、今頃おごって、買ってやってるのかもしれないが。 だけど、三つ? 「三つ?」 「ようこちゃんにもらったけど、ゆなちゃんにも、あげるの」 「……お前、偉いな」 褒めると小さく颯斗が胸を張った。 むしろさすが貴澄の弟だ、と言うべきか。 思わずそのまま口にすると、颯斗が嬉しそうに笑った。褒め言葉なのかどうか、微妙なのだが。
家に帰った颯斗は、「お兄ちゃんにもホワイトデーの日にあげるんだ」と飴の缶を自分の部屋の机の引き出しの中にしまっていた。 宗介がご飯を炊いて鍋の用意をしていると、今日はちゃんと帰宅予定時刻の連絡があった。 貴澄は「もう帰り道」だという。あと十五分ほどで着くらしい。 そのメールを読んでから、こたつにちょこんと座っている颯斗の前にカセットコンロを置いた。ぱっと颯斗が顔を上げる。 不意にこの夕飯を食べたら帰らなければならない事実が少し名残惜しくなった。 二人の母親が作ったらしいポン酢と小皿を机の上に置くと、颯斗が嬉しそうな顔になった。 「おなべ?」 「凝った飯、作れなくてごめんな」 その言葉に、颯斗がぶるぶると首を大きく振る。 「おなべ大好き! ポン酢も大好き!」 カセットコンロの火をつけ、土鍋で野菜を煮ていると、玄関先から音がした。 貴澄が今日もドスンバタンと音を立てながら帰ってきた。意外と動きにスマートさに欠けるところが貴澄らしいと言えば貴澄らしい、気がする。 ジャージから普通の服に着替えた貴澄がリビングにやってきた。 「わお! 鍋! いいねいいね」 「ポン酢、勝手に使っちまっていいか? 手作りだろ、これ」 「いいよいいよ。ポン酢大好き!」 兄弟で同じことを言っている。 貴澄はご飯を勝手によそって、いただきます、と手を合わせた。 少し早い。食えなくはないが、宗介はもう少し白菜とかがくたくたになったほうが好きなのだ。 「あ、もしかしてこのお魚、宗介の家の?」 「母親がみんなで食えって」 「わお、ありがとう! お礼、言っておいてね。ほら、颯斗も。宗介の家、魚屋さんだから、持ってきてくれたんだって」 そう言って、隣の颯斗の小皿に鱈を山盛り取り分けている。 「小骨あるかもしれないから気をつけろよ」 颯斗がうん、うん、と箸で確認しながら何度も頷いた。大きく口を開けて、口に運ぶ。 そのまま笑顔をみせてくれた。 「……おいしい! ポン酢もおいしい」 「ポン酢は飲み物だからね」 「貴澄お兄ちゃん、それいつも言うよね。ポン酢は飲み物です!」 「おい、変な話するな、そこの兄弟」 ポン酢は飲み物じゃありません。 「おいしい」「おいしい」と言いながらぱくぱくと颯斗がなんでも食べている。春菊も椎茸も平気らしい。「えらいな」と声をかけると、「ぼく、貴澄お兄ちゃんとか、たちばなコーチとか、宗介くんみたいに大きくなりたいから!」と言って、ご飯を掻き込んでいる。 「…………ゆっくり食え」 野菜を足したり、鳥肉を入れてみたりしながら、三人で鍋を囲んだ。 「……ねえねえ、そういえば、宗介くんは甘い物すき?」 隣の颯斗に尋ねられた。なぜだか少しだけ申し訳なさそうだ。……もしかして、スーパーで宗介の分の「お返し」を買わなかったことを申し訳なく思っているのだろうか。まったく必要無いのだが。 「別に嫌いじゃないぜ。食えればなんでもいい」 「じゃあ、お母さん帰って来たら、シフォンケーキ焼いてもらおう? 美味しいから、食べてもらいたい! ご飯のお礼に宗介くんにあげたい」 シフォンケーキ……食べたことあっただろうか。姿がすぐに想像できない。 けれど宗介の正面では貴澄も嬉しそうに「いいね」「お願いしよう?」とにこにこしてる。目が合うと嬉しそうに微笑まれた。 「貴澄はそのぬるい顔やめろ。……お前は甘いものは?」 仕方なく、話を振ってやる。 「貰ったらなんでも食べるけど、ニキビできるからなあ」 「女子かよ」 「ぼくはそれなりに努力してんの」 イケメンは面倒臭いな、と返すと「寮で凛だって努力してたでしょ」と言われた。……どうだったろう。覚えてない。凛は服を買うのは好きみたいだし、筋トレの鬼だったが、身なりに気を遣ってたという印象はあまりない。1年前のことなのに、あの短い寮生活のことはどこか曖昧だ。 去年のことを呼び起こそうとぼんやりしていると、隣で颯斗がにこにこと笑っていた。 「どうした颯斗?」 「おいしいし、すごく楽しいなって!」 貴澄が笑う。 「そうだね」 隣で颯斗が笑った。 「宗介くんが、ずっといてくれたらいいのに」 声。 その言葉が胸に落ちてくる。 「お母さんとお父さん帰って来てもいてくれたらいいのに」 「………ああ」 返す言葉が浮かばなかった。 地元はあったかいな、なんて、唐突に思った。 夢破れてUターン就職したテンプレートな若者になったみたいだ。いや、間違っていないんだった。 だが、颯斗は言うだけ言って満足したのか、ろくな返事ができないでいる自分のことは気にしていないらしい。 宗介が、そのまま黙って鍋のいつまで食べても減らない魔法のような白菜をつついていると、隣の颯斗はいつのまにかうつらうつらしている。 ふっと手を伸ばし、颯斗の肩に、閉じそうな瞼に触れると、「ん……そうすけく……」と言いながら箸を置き、ぐらぐらと揺れたあと、そのままゆっくりと自分の方に崩れてきた。 「颯斗」 ぽんぽんと背中を軽く叩くと、そのまま丸くなるように、コタツの布団の上に縮こまった。シマリスみたいだ。 「……寝たぞ、こいつ」 「うちの颯斗、かわいいでしょう?」 正面で、黙って見ていた貴澄がニヤニヤしている。 「……まあ、懐かれると、悪い気しないな」 それに動物みたいだ。 このまま寝入ってしまいそうな颯斗の頬を見下ろした。己を思い起こせば、幼い子供が純朴で純粋で汚れのない存在だなんていうのは嘘だと思うけど、そう信じたくなる大人の気持ちもわかる。颯斗の顔を見ているとそう思う。 「……だけどさ、『宗介くんが、ずっといてくれたらいいのに』か。……宗介もよく短期間で懐かせたと思うよ? 颯斗、結構人見知りするからさ。兄弟って似るのかもね」 そう言いながら立ち上がった貴澄が、颯斗の腕の下に手をかけて、小さな弟をこたつから引っ張り出した。 「んん……」と唸ったまま颯斗は起きない。 「寝かすのか?」 「寝かさないよ。せめて歯、磨かせなきゃ!」 そのまま抱っこして、肩のあたりに颯斗を持ち上げた。 「ほら、颯斗起きて。歯だけでも、磨いて」 そう言いながら二人は洗面所のほうに消えていった。 誰もいなくなった湯気ばかりの篭るリビングで、ぼんやり鍋の残りを浚っていると、「歯だけはなんとか磨かせたけど、寝ちゃった」と言いながら、貴澄が戻ってきた。 「泳ぐとてきめんに眠くなるからな」 自分も、よく子供の頃は飯を食いながら寝ていて怒られていた。 「……体力使いそうだもんね」 「まあ、俺は今もいつでも眠いんだが」 すっかり、土鍋は空だ。 貴澄はこたつには座らずに、颯斗の食器をまとめている。 「ねえ、宗介。……ぼくも、颯斗も、宗介がここにいてよかったって思ってる。感謝してる」 なんだよ、突然。 不審そうな顔をしたのがばれたのか、貴澄がふっと笑顔になった。 「だけど、……宗介はここにいていいの?」 ここ。 ここって、どこだ。 ここ。 生まれ育った町。 家。 貴澄のそば。 「いいだろ。……だめなのか?」 いいも悪いも、それ以外のどこに行けばいいというのだ。「ここ」も追い出されたら行き場所がない。 行く先。最初に浮かんだのは凛のいる場所だった。だけど、オーストラリア? ばかな。東京? 大阪? 何しに行くんだ。何もできない自分が。もう行く必要がない。 だけど、そのことを考えれば考えるほど、今の自分のが何の価値もない存在に思えた。 「いて、いいだろ」 だから、そう、颯斗の言葉が嬉しかったのかもしれない。ずっといてくれたらいいのに、という言葉に。 「……皿洗いは僕がするから」 言い置いた貴澄が土鍋を持ち上げて、キッチンへと向かっていった。 あたりに水音が響く。 しぶきの音。懐かしい水の音だ。 胸のあたりがざわざわしていた。もっといろんなこと、ちゃんと考えておけばよかった。だけど、考える暇などなかった。気持ちの余裕もなかった。必要を感じていなかった。これからどうするかなんて、すぐに決められない。 別にこのままでもよかった。 ささやかな夢を叶えて。自分と折り合いをつけて。今は、不満なことなど何一つないのに。それなのに、颯斗に言われた一言が、とても嬉しいのだ、自分は。 宗介はほとんど無意識に立ち上がっていた。 「……今日は、帰るな」 「今日は泊まらないの?」 「元から帰るつもりで着替えも持ってきてねえしな。明日の朝、親帰ってくるんだろ。朝飯くらいはどうにかしろ」 「だけど、朝起きて宗介がいないと颯斗が寂しがるよ」 痛いところをついてくる。颯斗が寂しそうな顔をするのは嫌だ。 思わず黙り込むと、貴澄がふうっと息を吐いた。 「まさか颯斗の名前が1日で効果あるようになるとは思わなかったんだけど。……ちょっと羨ましい」 「何言ってんだ。颯斗には明日、謝っておいてくれ。すぐにまた来るって。まあ、最初は面倒くせえと思ったけど、今は弟っていいなって思ってるくらいのことは認めてやる」 部屋の隅っこに置いていた小さな荷物を引っ張り上げて、一緒に置いていたジャージを羽織った。それから、貴澄が一緒に洗ってくれたタッパーをジップロックの中に入れてしまった。 ポケットから車の鍵を取り出して玄関に向かった。靴を履いていると、隣で貴澄が一緒に庭歩き用のサンダルを引っ掛けている。 どうやら車の見送りをしてくれるらしい。 朝夕はまだ冷える。鍋を食べていたせいか、未だ吐く息が白くて少しびっくりした。今日は雲が少なくて、夜空の薄雲の向こうに星がちゃんと見えた。 宗介は軽トラックの扉を開け、運転席に乗り込む。エンジンをかけてからサイドブレーキを下げ、車のそばに立ったままの貴澄に合図するために窓を開けると、うつむいていた男が顔を上げた。 なぜか満面の笑顔だった。 「ねえ、宗介」 「……なんだ」 ろくなことを考えてなさそうな胡散臭い顔だ。 何を言い出す気だ。 「ねえ、宗介、例えばなんだけどさ」 「……だから、なんだ」 「——ぼくがもしも宗介が好きだったらって想像してみてよ。もしもでいいよ、もしもの話。本当の話じゃ、なくて」 「……はあ?」 「想像してみて。想像してみるだけでいいから! じゃあね!」 そう言って、貴澄は手を挙げ、踵を返した。 しばらく見送っていると一度も振り返らないまま幼なじみは家の中へと消えてしまった。 廊下の電気がついて、消えたのが外からでもわかった。 目の前に、鴫野家は静かに佇んでいる。あの家が動かないのと同じくらい頭が働かない。 だけどこのままここでぼんやりしていても仕方ない。宗介はギアをバックに入れてアクセルを軽く踏み込んだ。 ——もしも貴澄が自分を好きだったら? そのことを、想像してみろ? だけど……それは、どういう意味だ?
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春サンプル
「あなたが三年間の部活動を通じて学んだことはなんですか。800字から1200字以内でまとめなさい」 遙の部屋の机の上にそうタイプされた文字で書かれたプリントが乗っていた。凛は起き抜けにカーテンを開けようとして気づいた。 昨晩は電気をつけないままだったから全然見なかった。下半分、白い紙が重なっているし。凛は指先でそっとそれを引き抜いてみる。 問題文の下にはびっしり遙の字がちゃんと書き込まれている。赤字も入っている。小論文。採点。試験対策。そんな単語が凛の頭の中を過って消えていく。やわらかな波線と一緒に並んだ「『〜と思う』という表現は多用しないこと!」という可愛らしい文字は、あの水泳部顧問の教師のものだろうか。それとも、クラスの勉強のできる女子が遙の文章を添削していたりするのだろうか。そう言えば、鮫柄と違って岩鳶は共学なのだ。眼鏡をかけたふわふわした黒髪の女子を勝手に想像してみる。安直すぎる妄想にも、左の鎖骨の三センチ下あたりがちくりと痛んだ。誰かにデレデレする遙なんて上手く想像できないけど、きっと誰に対してもそれなりに優しいんだと思う。その、柔らかくて平坦な声のトーンは思い描ける。 遙のいない起き抜けの部屋は肌寒くて思わず身を震わせた。隙間から入り込む光だけでは足りなくて、凛は手を伸ばしてカーテンを少しだけ開けた。数日前に降った初雪はもう跡形もないが、まだ光に慣れなくて、視界全てが灰色に凍っているように思えた。 「――私が三年間の水泳部の活動で学んだものは、夢や目標を持つ大切さです」 読んでやろうと思ったのに、その最初の一文を目にした瞬間、ぶわっと何かの感情が膨らんで、風船みたいに膨れたそれの大きさに息が詰まって呼吸できなくなった。それはすぐにばちんと胸のあたりで弾けた。今弾けて消えた感情がなんだったのか凛は自分でも確かめたくなくて、文字の先を追った。 「部活動を始めたのは高校二年の時でした。なぜなら高校のプールが……」 読めない。視界が滲んでいく。目が痛い。眉間も痛い。どうしよう。どうしよう。 「――凛、朝飯、」 不意に、後ろから遙の声がした。 夢中になっていて足音に気づかなかったらしい。 慌ててごしごしと目の辺りを拭ったのに、見つかってしまった。 「凛?」 なんだろう。どうしよう。この気持ち。寂しい。嬉しい。寂しい。嬉しいはずだ。違う、何かが落ちた。上手く言えない。単にふわふわしていたところに、現実が突きつけられたのかもしれない。映画を見た後の映画館で、スクリーンが暗くなって、ぱっと電気がついたときのような気持ち。そうだ、帰らなきゃ。先に進まなきゃ。いろいろもっと、考えないと。 「……なんでもねえ。飯、食う」 紙をなるべくそっと置いたのに、一歩、近づいてきた遙に気づかれてしまった。ほんの少しだけ、眉を寄せたのがわかった。仕方なく、凛も口を開いた。 「これって、小論文?」 「勝手に読むな」 「受験のやつ?」 「……そうだ」 「推薦なんじゃねえの?」 「声かけてもらった所、二次が小論文と面接だって言うから」 「……そう言えば、受験のこと全然聞いてなかったな。……いつなんだ」 「一校、声をかけてもらったところに書類の一次は、もう通ってる。再来週、東京に面接と小論文のテストがあるから受けに行く」 「そっか」 また、足元に穴がぽかっと開いたような気がした。どこかに落ちていく。いつのまにどれほどの高さまで浮かれて心が飛んでいたのだろう。そうだ。そんな時期だ。受験だ。鮫柄だってスポーツ推薦の奴は続々進路が決まっている。自分だって、オーストラリアに書類を送ってる。そんな時期。ハルだって決まってもおかしくない時期なのに、どうして言ってくれなかったんだろう。言ったら、ふっと我に返る気がしたのだろうか。今の自分みたいに。 「なあなあ、鮫柄、スポーツ推薦のための面接対策のプリントとか、小論文の例題とかもたくさんその辺で配ってるから、もらってきてやろうか。まあ採点までは無理だけどさ。お前のところ、公立だしそういうのあんまりないだろ?」 言うと、遙が不思議な顔をした。いや……不思議そうというよりも、少しだけ不機嫌になったような気がしたのだ。遙の不満そうな顔に不安になる。変なことを言っただろうか。本当は凛だって「なんで早く俺に言ってくれなかったんだ」って文句を言いたいくらいなのに。もっと早く、受験の話をしてくれていたら、こんなに動揺しなかった。 「……飯、できてる」 遙はただそう言った。凛は机の上にプリントを置き、踵を返した遙の後ろに続く。 傾斜が急な遙の家の階段を下りながら、味噌汁のいい匂いをいっぱいに吸い込んだ。美味そうだ。たきたてのごはんの匂い。香ばしい何かが焼けた匂い。おいしそうな、遙の家の匂い。 階段を下り切った遙の肩に両方の手のひらを乗せ、力をかけるようにしながら凛は飛ぶように地面に足をつけた。 「なあ、ハル、お前、もうちょっと背筋つけたらどうだ? 今は触ってるから、わかるけどさ。練習のメニューも作ってやろうか。大学に受かったとしても、部内でスタートダッシュできるように、それまで肉体改造しとくってのはどうだ?」 遙が振り返った。顔はよく見れなかった。 「そうだ。来週はこの家に来るんじゃなくて、岩鳶SCに行くな。毎週末、泳いでるんだろ?」 もしかしたら、もしかしたらこれはいい機会なのかもしれない。 元に、戻るのに。
はじめはキスだった。 寒くなってくると人はくっつきたくなるのだろうか。それとも遙も自分もシーズンオフになって暇なのだろうか。最初、凛は、「去年みたいだ」と思った。何度か遊んで、泊りに行って、くだらない話をしながら遙の部屋で寝た。その日は、ベッドの隣に布団を並べて横になったものの、魔が差した。まだ眠くなかったのだ。 「もう寝るのかよ……もうちょっと遊ぼうぜ」 半分身を起こして、遙のベッドに腕をかけた。自分でも犬が待ってるみたいだなと思ったが、ベッドの遙がごろりと寝返りを打って、自分の肘を枕にしながらじっとこっちを見ていた。「待て」と遙は言わなかった。顔が近い気がしたけど、そうでもない。オーストラリアのほうが近かった。「あの時の方が近かったな」って思ったら、妙に悔しくなった。 今思うと、あの時、遙の部屋で何を考えていたのか自分でも思い出せない。魔が差したとしか言えない。 気がついたときには身を起こして、遙の唇にキスしていた。 多分、オーストラリアでもしなかったことをしてみたかったのだ。それだけ。あと、謎の対抗心。オーストラリアに遙を連れ出した自分に勝って、目の前の遙もびっくりさせてみたかったのかもしれない。 冷たい唇だった。 そして同時に咄嗟に思い出したのは小学校、最初に泳いだ後、どっちが先に目を逸らしたんだろうということだった。 泳ぎ終わって、負けて、プールサイドに転がった凛はじっと遙を見上げた。あんな風に泳げるやつの顔を目に焼き付けようと思ったのだ。見上げると……遙は感情の読めない顔でこっちを見ていた。 あの時の遙の表情は思い出せるのに、視線を逸らした瞬間のことを思い出せない。多分、遙からだったと思う。あのレースは凛が負けたし、遙のことをもっと観察したくて、意地でも目を逸らさなかった気がする。 そんなことを思いながら、凛は今はただ瞼を閉じていた。 やがて、遙の唇が動いた。 逃げるのではなく、押し付けられた。 「待て」が「よし」の合図に思えた。凛は腕の力でベッドに上がった。遙の布団、冷たい。遙はあったかい。どこもかしこも遙の匂いがする。遙が着ているスウェットの袖口があったかくて、さらさらしてて、もっと触りたくて、のしかかるようにしながら頬を寄せた。 長い息が凛の唇から勝手に漏れた。 キスをした。緩んだ唇に舌を押しつけた。 身体の奥がぶるりと震えて、痺れた。覚えのある感覚に、身体がかたちを変えて反応しているのがわかった。勝手に盛り上がっている身体が恥ずかしくて、逃げようと思ったのに遙の足に当たってしまった。 気づかれた。 「あ」 だけど、無言で押し付けられてわかった。遙も勃ってた。びっくりした。 ――その先は、正直あんまり覚えてない。ただ、夢中で触った。夢中になるほどに戸惑いはどんどん大きくなっていって、頭の中が逆に真っ白になった。ジャージの上から触られた。ぎゅうっと目を閉じていたので、次第に現実感が失われていった。頭は何も理解してないのに、身体だけがが先走っていた。身体が、気持ちいいと言っていた。 声を出したら終わってしまいそうな気がして、ただ遙の肩口に顔をうずめていた。なんだこれ、なんだこれ、なんだこれ、と戸惑いで頭はいっぱいだったけど、遙の息の生々しさも、遙のにおいも、ティッシュを抜き取る音も、布団が足のあたりでもたつく感じも、全部が現実すぎて、それなのに現実味がなかった。歯磨き粉の味と、シャンプーの匂いと、覚えのある遙の匂い。はんぱなく戸惑っていたけど、とんでもなく気持ちよかった。 声が出ない。息が漏れた。何か言いたかったのに、何も言えなかった。 ありえないほど気持ちよくて、ただ、荒い息を押しつけていると、不意に遙の声が耳元でした。 「……また、ちゃんと来るか?」 遙の顔なんて見れなくて、ただ頷くことしかできなかった。薄暗かったけど、遙は見えたのだろうか。 ――その後も、そんなことが三回あった。毎週末、遙に「行く」とメールした。行くごとに寒くなって、初雪も降った。昼は岩鳶SCにいるから夜に来いという遙に、家に直接訪ねた。したことと言えば夜に、抜き合いをしただけなのだけど。 何か言葉にしようとするたびに「気持ちいい」だけで思考が止まってしまう。遙は、もしかしたら、泊まりにきた友達とはみんなしている可能性もある。いや、キスをしたのは自分からだった。そのことも、遙がどう思ってるのか知りたいのに、尋ねることもできなかった。 朝ごはんの用意された食卓につき、三週連続、遙の作った朝飯を食べる。今日も鯖の塩焼きがある。 目の前では、遙は涼しい顔をして、味噌汁をすすっていた。じっと見つめていると、遙がぽつりと口を開いた。 「土日の昼間はいつも岩鳶SCにいる」 知ってる。三週間前は「だから夜に来い」と言ったのに。次からはそっちに来い、ということだろう。自分で言い出しておきながら、ふっとまた、心が落ちた。 「じゃあ、来週は俺、実家帰って……日曜日の昼過ぎに顔を出すから。またメールする」 食卓にはソーセージも焼いて乗っていた。少し焦げた切り目のつけられたそれを噛み切る。遙もそれを食べている。油で濡れて光る遙の唇を見つめながら、もしかしたら自分は今、落ち込んでいるのかもしれないと思った。 自分は遙に、本当は何を言って欲しかったのだろう。
***
岩鳶駅が見えてきた。凛は荷物を握り締めて立ち上がっていた。 電車の窓から見える山並みはうっすらと雪化粧をしている。初雪が降って、雪が降る光景に見慣れてくると、いつも小学校六年の頃を思い出す。佐野から祖母の家に引っ越しをして、岩鳶SCに入ったあの頃の事。 やがてゆっくりと速度を落としながら、電車がガタンと停まる。大きく足を踏み込み、降りる人の誰もいないホームに降り立った。 岩鳶駅の改札を抜け、実家から取ってきた大きな紙袋をガサガサさせながら、岩鳶SCリターンズなるふざけた名前のスイミングクラブに向かう。子供達は大会に出るとき、登録名をどうしているのだろうか。自分が所属していて、「松岡凛、岩鳶SCリターンズ」なんてアナウンスをされたら、多分文句を言ってる、と思う。だけどわからない。「リターンズ」が案外クールに響いていた可能性もある。小学生の考えなんて意外ともうわからないものだ。 一昨日降った雪は道にはもう残ってはいないが、地面はどこかしっとりと濡れていた。水たまりを踏まないようにしながら道を歩く。 駅からほど近く、目指すスイミングクラブはすぐに着いた。ぐるりと外から眺めるのも変なので、正面玄関を潜る。暖かい空気にほっと息をついた。観覧席に向かうか、スタッフに声をかけるか迷っていると、ちょうど笹部が通りかかった。 「お、よう、凛じゃねえか。珍しいな。遙と待ち合わせか?」 やましいことなど何一つないのに、心臓が十センチくらい跳ねた。ぺこりと頭を下げる。 「えっと、はい」 「? お前も泳いでくか?」 「いや、今日は。水着も持ってねえし、観覧室に行きます」 「おう、じゃあ、遙には声かけといてやる」 プールを臨む観覧席に向かいながら、真新しいままの長椅子に腰を下ろす。 ガラスの向こう、斜め下。端っこのレーンでハルが泳いでいた。もう、練習を上がるところなのか、ただのんびりと泳いでいるようにしか見えない。 ――ああ、でもハルだ。 久しぶりに見る気がする。おかしいな。ここ一ヶ月、毎週会っていたのに。遙の家で会う「ハル」と外で会う「ハル」は別人だったのかもしれない。そんな気さえしてしまう。先週は小論文の文句を見て落ち込んだのに、今はただ浮かれた。笹部に声をかけられたのと別の意味で、心が数センチ浮き上がるのを感じた。遙が泳いでいるのを見るのは単純に好きだ。 遙の家に行った他は、夏の大会が終わって、合同練習が一回。岩鳶高校のプール納めを見学したのが一回。 待ち合わせて、岩鳶SCで一緒に泳いだのが二回。一緒に泳いだ。やっぱり遙の泳いでいる姿を見ると安心する。わくわくする。 しばらく遙の練習を眺めてから、観覧室の端にある自動販売機で水を買う。 戻って水を飲んでいると遙の姿がなくなっていた。いつの間にか上がったのだろうか。 プールの端っこでは、小学校低学年と思わしき子供たちの練習が始まっていた。バタフライの練習なのか、ブイをつけながらドルフィンキックの練習をしている子供達の姿を見ながら懐かしく思う。バタフライ、「とにかくかっこいいよな」って宗介とたくさん練習したのだ。ぼんやりそれを見ていると、背後から、足音がした。 多分、遙が来たのだろう。足音でわかった。 「――凛、来たのか。でかい荷物だな」 振り返ると遙がジャージ姿で立っていた。髪の毛は水が床に滴り落ちそうなほどまだ濡れている。 「……別にお前にじゃねーよ。昨日は実家に泊まって、真冬用のコート、取ってきた。でも、お前にはちゃんとメニューも作ってきてやったし、プリントももらってきてやったけどな!」 「どこで見るんだ? これから家に来るのか」 「えっ、あ、いいだろ、ここで。日曜だし、お前んち行ったら寮に戻るの、遅くなっちまうし……駅の周りも、あんま何もないし……」 なんだか言い訳みたいな気がしたが、間違ってない。これから遙の家に行って課題をするのでは夜になってしまうから。 言い淀んだ言葉には遙は異を唱えなかった。 「わかった」 観覧室でも良かったのだが「荷物を取ってくる」と言う遙と一緒に階段を降り、休憩室で見ることにした。凛は誰もいない小部屋のソファの上にプリントを広げた。 「見る前に荷物持ってくる」 「髪、もう少し乾かしてこい」 頷いた遙が更衣室の方へと消えていった。 小論文の例題をたくさん入れておいた。回答のポイントも。面接の心得が書き記されたプリントの束を。遙はちゃんと読んでくれるだろうか。それから、ごく普通の大学ノート。これは凛が最初のページに遙の強化ポイントを書き出して、筋トレのメニューをいくつか組んでみた。泳ぎのトレーニング計画はもうちょっと遙の今の泳ぎを見ないとわからないけど、身体のほうはわかる。 触って、たから。 「凛」 「うわっ」 思わず声を上げてしまった。やましいことを考える前でよかった。危ないところだった。 ちょこんとプリントの海を避けて遙が座ったのを見計らって、紙を差し出した。 「ええと、これが、小論文の例題。こっちが、面接の対処法。ちゃんと読むんだぞ? それからこれが俺特製のトレーニングノート」 遙がじっとそれらを見下ろしている。最初にノートを一冊手につかんで、ぺらぺらとめくっている。 「白いぞ」 「最初のページは書いてあるだろ! 最初にいくつか筋トレのメニュー書いたけど、泳いでる毎日のメニューとか、毎日食べたものとか、お前がちゃんと書けよ。俺、あとで定期的にチェックしてやるから。どうせ鯖中心に偏ったもの食ってんだろ。溜まったら、そのうち練習メニューも見てやる。最初は肉体改造! あと、小論文も俺が見てやる。面接の練習もするか? 真琴も受験で忙しそうだし、俺がやってやるよ」 「凛は暇なのか?」 「暇じゃねえよ! 応援してんの!」 失礼な。暇じゃない。毎週遊びに行ってたら「暇か?」と言いたくなるのもわかるけど、暇じゃない。確かにこっそり自主練をする以外は、部活にも毎日顔を出さないようにしてるから、空き時間は増えたけど。 遙は凛の言葉を意に介さず、手元のプリントやノートを、一つ一つ確認しながらまとめている。 ――だけど、遙は全然平気なんだな、と不意に言葉が頭を過ぎった。 どこで会っても、二人きりじゃなくても、特別なことしなくても、平気なんだな。 安堵してもいいはずなのに、ただ、寂しくなる。 目の前で、遙の乾かしたばかりのふわふわさらさらした髪の毛を見ていられなくて、凛は視線を外した。 休憩室には扉がない。廊下をコーチや保護者が時々通り過ぎていくのが見える。ふと、休憩室の前の廊下を通り過ぎた男が、とととと……とそのまま後戻りしてきた。驚いたような声を上げる。 「――――あれ? ハル? と、凛? うっわ、珍しい!」 丈の短いダウンコートを着た、背の高い男が立っていた。遙よりもずっとふわふわした髪に、きゅっと目尻の上がった狐に似た顔の……。 「貴澄、か?! なんでいるんだ?!」 そこにいたのは貴澄だった。鴫野貴澄。 貴澄と会うのは久しぶりだ。凛は、全国大会で立ち話をして以来だった。 そもそもあのときも「会った」とカウントできるのか。それも合わせてめちゃくちゃ久しぶりという気もする。「遊ぼう」とか「久しぶりにみんなで会おう」などと口約束をして連絡先を交換したものの、そのままになっていたのだ。 あの時は意識しなかったが、自分と遙と三人になるとデカい、と思う。なんとなく腹立たしい。 「あれ、言わなかったっけ? 弟が今、ここに通ってるんだよー。もうすぐ終わる頃かなって迎えに来た。ハルはときどきここで会うけど、凛とも会えるなんて……」 もしかして、上から見たバタフライを泳いでいた子供たちの中に貴澄の弟がいたのだろうか。 「それで、ここでハルと凛は何やってるの?」 不思議そうな顔をして近づいてくる。ノートはもうカバンの中にしまわれていたが、小論文対策のプリントは遙の手の中だ。 「受験対策用に凛が持ってきてくれた。俺、再来週、東京の大学を受けに行くから」 「わーお、この時期だと、水泳の推薦で? いいなあ。がんばってね! だけど学校違うよね? 凛は他の学校の生徒にそういうの教えていいの?」 痛いところをいきなり突いてきた。それを言われると苦しいけど。 「俺が個人的にもらってきたのを、ハルにちょっと見せるくらいはいいだろ。……だって、それに、俺はハルに受かってもらわないと困るから。応援してんの」 「俺は頼んでないけどな」 「なんだよその言い方……。別にこのまま持って帰ってもいいんだぜ……って、いや、だめだ! ちゃんと読むんだからな! 勉強するんだぞ! ……俺、ハルが受からないと、困る」 「…………わかった」 「ふーん」 貴澄の声が混じる。なんだその目は。貴澄が何か言いたそうにしてる。遙も自分と貴澄を交互に見ている視線を感じる。変な感じだ。 「なんか新鮮! 僕、ハルと凛が一緒にいるところ、初めて見たけど、なんだか不思議な感じだね」 「……どう不思議なんだよ」 聞くのは怖いが、聞かないともっと怖いような気がする。尋ねると、貴澄が小首をかしげた。 「んー。なんだろう。わりと二人とも他人に興味がない感じじゃない? 悪いけど、簡単に言ったら。それなのに、一緒にいるのが不思議なのかな。仲いいんだねって。だけど、なんて言ったらいいかわかんないから考えておく」 その言葉を、遙がため息一つでいなした。自分も何か反論したくなったが、当たっている気もした。貴澄に夏以降もまったく連絡しなかったことへの文句も含まれているなら、その通りだ。 やがて、背後からわっと子供の声が聞こえた。「ありがとうございました!」の大声も。どうやらもうすぐこのあたりも子供まみれになるようだ。 「あ、終わったかな? じゃあ僕はそろそろ行かないと。じゃあね、ハル、凛! 連絡するね!」 去っていった貴澄に、思わず遙と顔を見合わせてしまった。 プリントをカバンにしまい、そのままもう一度ため息をついた遙が、荷物を持って立ち上がった。もう少し話したいことがあるような気がするが、凛はふわふわしている感情を上手く言葉にすることができない。 「俺たちも行くか」 仕方なく、ただ、荷物を抱えた。 「……来週も様子を見にきてやるよ。採点は俺がしてやる。何かあったらメールくれ」
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まんじゅうサンプル
一 「生魚、うまい」の言葉。そしてハルのものとも思えないF×××の文字。とんでもなくうまいと言いたいらしい。F×××。その文字列を見てからメールをスクロールすると、箸で寿司を挟んだままこっちを見ているハルの写真がついていた。写真なのに目がきらきらしているのが分かる。無表情なのに花が飛んでるのだ。そもそもハルの顔写真が届いたのは初めてだから、よっぽどうまかったのだろう。 その顔を見ていたら思わず吹き出してしまって、宗介にも見せていいか、とぽちぽち返信を打ち込んだ。すぐに「だめだ」と返ってきた。けち。だけど重ねられた「俺が送ったのは凛だから」の言葉に腹が立つわけじゃない。サード・ウォッチの夜勤明けでさっきまで食欲よりも眠気が勝っていたのに、写真を見ていたらぐうっとお腹が鳴った。刺身はうまそうに見えないが、焼き鳥もフライもうまそうだ。日本ってどんな国なんだろう。今の所の食べ物の印象しかない。 ハルからはよくメールで写真が届く。 旅行中は毎日だ。大抵、食べたものとか、建物とか、花とか、読めない文字の看板とか交通標識とか、他愛もないものばかり。ハルの写真は、ほぼ、ない。ハルが普段何を見ているのかわかって面白いけど、見ているとおかげで段々俺まで旅行に行きたくなってうずうずしてくる。あと、街で見かける観光客がごみ箱とかの写真を撮っていて「何やってんだ?」と首を傾げることがあったが、つまりあれはこういうことなのだ。ハルのメールを見て、わかった。なんだかよくわかんねえけど、単に面白いのだろう。知ってるものでも面白い。知らないものでも面白い。世界って広いなと思って、その広さをハルのメールから感じている。変な感じだ。 ハルは生まれた街から出ずに一生を終えるタイプだと思ってたのに、高校を出て調理師免許を取ってコックになってから、一年に一度か二度、まとめて休みを取って海外旅行をしている。色々なものを見たいし、食べてみたいと言って。 ハルは今、日本にいる。 二週間、東京と京都に行くと言っていただろうか。知り合いを頼って、フィッシュマーケットの中にあるレストランも見学させて貰うと言っていた。 まあ、そんなこんなでメールすることは増えたけど、俺が警察官になってからはお互い仕事が不定期すぎて、ちゃんと遊んだ記憶はあまりない。いや、まあ、まったく遊んでないとは言わないけど、少なくとも予定を組んで待ち合わせて会ったことなど、高校以来一度もなかった。店にはよく行くんだけど。 夜勤明け、一晩パトロールに付き合ってくれた車も磨き終えてレポートも提出した朝の八時、私服に着替えて携帯電話を見たら、ハルからメールが二通来ていた。いつもは風景だけなのに、寿司と一緒に記念写真を撮っていたので思わずその場で返信した。「楽しそうだな」と。警官バッヂと非番用の小さな銃だけ携行してロッカールームを出た。 明日は休みだが、このまま家に帰ってすぐに寝ると次のシフトがきつい気がする。ハルとメールのやりとりをしながら、警察署の古びた煉瓦造りの建物を出て、近くのコーヒーショップに駆け込んだ。一週間、夜の二十二時から六時半まで勤務するサード・ウォッチのシフトを終えて、明日は公休だ。だが次のシフトは朝の六時からなので、少なくとも今日は頑張って夕方まで起きていたい。 そのままコーヒーを買って窓辺の席につき、ちょっと迷ってからハルに電話をかけた。しばらく待っていると、スカイプ経由の電話が繋がった。時差は二時間、だった気がする。サマータイムってどうだったっけ。北半球で季節が反対だから分かりにくい。時間はわからないけど、日本は春のはずだ。 『凛』 鈴が鳴ったみたいなピンっとした声がした。ハルの声だ。その声を聞いてから妙に緊張した。思わず椅子も座り直してしまう。そう言えば、俺とハルはこんなに気軽に電話をかけていい間柄だったんだったんだっけ。毎日メールが届くから、つい忘れていた。旅行前は、違った気がする。 「今、仕事終わったとこ。日本、楽しそうだな」 『ところどころ空気は悪いけど、飯がうまい。あと、花がきれいだ。桜がたくさん咲いている。そっちの桜よりももっとたくさん……うまく説明できないけど、煙みたいに、ぽこぽこ建物の間を埋めるように咲いているんだ。後で写真送る』 「うん」 『あと、生魚うまい』 もう聞いたし読んだ。何回言えば気がすむんだ。 「メールでも見たし、何回うまいって言うんだよ」 だけど、ハルの声が弾んでいる。よかったなと思う反面、少しだけ面白くないのはどうしてなのだろう。自分でもよくわからない。呑気に旅行してるなよ……は、俺が言える立場じゃない。 「お前の店が寿司と刺身ばっかりになったら、もう行かないからな」 『すぐ習得できる技術じゃなさそうだから、大丈夫だ』 それは店に出されるまでには時間がかかるということなのか。まさかこのまま日本で修行して帰るとか言い出さないよな。まあ、たとえ寿司と刺身だらけになったとしても、いつも十パーセントの警察官割引を使った上に、試作品の味見やら残り物処理やらで色々食べさせてもらっているので、文句を言える立場ではないのだが。 『凛、あと二日で帰るから、店に来いよ。お土産買って帰る』 「……ん。いつ行けるかわかんないから生ものはやめてくれな」 休み明けからは昼間のシフトだから店には行きやすいが、つい、「うん」と言えなかった。 『……またメール送る』 あっさり通話が切れた。ぷつっと切れてしまったのが名残惜しくて、俺はその静かになった画面をぼんやりと眺めた。別にいいんだけど、な。でも、他に何かないのか、こう。もうちょっと話したかった。俺が、「まっすぐ家に帰って寝たくないから、時間潰すのつき合ってくれ」と素直に言ったら、ハルはもう少しつき合ってくれたのか。いや、旅行先の時間を奪うわけにもいかないけど。 ――俺が忙しくない職業だったら、一緒に旅行したのかな。夜勤明けの頭は支離滅裂で、唐突にぼんやりそんなことも考えてみる。いや、難しいんだった。職業的に国外に出るのは申請が面倒くさいのだ。今後も、ハルと一緒に旅行に出られる日は来ないかもしれない。でも、ハルと飛行機に乗るのは楽しそうだ。極端に乾燥が苦手だったから、飛行機はしんどいだろうに。俺が一緒なら、寝ているハルの顔に霧吹きで水でもなんでもかけてやるのに。冷たく乾いた飛行機の隅で一人縮こまって、カラカラに乾いているハルを想像した。だけど、日本は湿度も高いし雨も多いって聞くから、ハルの身体にも合うのかもしれない。俺は、行ったこと、ないけど。 ぐるぐると詮ないことを考えながら、酸っぱいばっかりのコーヒーを飲んでいると、再びメールが届いた。ハルからだった。なんとなくもう一度姿勢を正して、メールを開ける。写真だけが送られてきていた。 花、か? 白い。いや、ピンクの。薄い、白と、ピンクと、どこか青みがかっても見える、白。 雲みたいだ。 真白の中にうっすらピンクが入り混じったふわふわとした雲。メレンゲみたいな雲。こっちで見る桜と全然違う。むしろ春、十月ごろに見かける、紫色の花で木の全部が覆われる豆科のジャカランダに似ている気がする。日本の桜がこんな風に木が埋もれるほどの花だとは知らなかった。 しばらく嘘みたいなそれを見つめた。少し経ってから、「きれいだな」と、返事をしたが、ハルはもうどこかに移動中している最中なのかもしれない。返事はなかった。ぼんやりその写真を眺めながらコーヒーをすする。腹が減ったけど、何か注文する気になれない。パサパサしたサンドウィッチとか食べたくない。ハルが作った飯が食べたいな、と、無茶なことを思った。 そのままの姿勢で、ここ数日送られてきたハルからの写真を見返してみると、窓のほう、右耳にコツコツという音が届いた。ふっと窓の向こうに視線を投げる。 そこに立って、窓を叩いていたのは俺がさっき着ていたのと同じ、警察官の制服を着た宗介だった。片手で合図すると、宗介は入り口のドアから入ってきて、サンドウィッチとコーラを買い、それを食べながらこちらに歩いてきた。ごくん、と嚥下してから口を開いた。 「凛、何やってんだ? こんな所で」 「見ての通り、退勤したからぼんやりしている」 宗介とは小学校が一緒で、しばらく連絡を取ってなかったが、警察学校でたまたま再会した幼なじみだ。部門は違うが、今も同じ警察署なのでほとんどつるんでいると言ってもいい。今や中学高校と一緒だったハルや真琴よりも頻繁に飲みに行っている。 宗介は椅子には座らずに、隣に立ったままもしゃもしゃサンドウィッチを食べて��る。朝食、なのだろうか。 「宗介、今日何時までだ?」 「俺も朝までだったんだが、イレギュラーであと三時間くらい伸ばされたから、飯買いに来た。早く戻らねえと」 「大変だな、青少年相手の部門は。てか、ちゃんと昼に終わるなら、飲もうぜ! 俺、次が朝シフトだから、まだ寝たくない」 言うと、憎々しげに舌打ちされた。 「ガキのお守りはお前のが向いてる。俺も早く交通警察に行きてえよ。……いいけど、多分昼すぎるぞ?」 「いいぜ。電話くれ、適当に買い物してるから。うちに来いよ」 宗介は頷いて、サンドウィッチの残りを口に突っ込んだ。それからコーラを一気飲みし、「じゃあ、また後でな」と言い残しそのまま店を出て行った。よし、ちょっと虚しいが、これで今日の予定はできた。今日はこれでいいとして、明日の休みは何しよう。ずっと呑んだくれているわけにもいかないだろう。いつもならハルの店に行くのだが、本人がいないのでは仕方ない。それに今は――。 何にせよ、まだキビキビと動く元気はなく、俺は窓の外をしばし見つめてぼんやりした。秋の空はすっきりと晴れていた。数日前に珍しく雨がまとめて降ったが、すっかりどこもかしこも乾いていた。強い風に常緑樹が揺れている。 朝の街は、会社へと向かう急ぎ足の人間でいっぱいだった。職業柄、道なりに無意味に立っている胡乱な目をした男達のことはじっと注視してしまうが、こんな健康的な時間から何かをしでかしそうではない。 「朝だな……」 俺たちが住む街は州都だが、今勤務している警察署は、西郊の住宅地や学校の多い比較的穏やかな地区にある。俺は交通警察部門に配属されて二年、主な業務はパトロールだ。ハイウェイもあるのでそれなりに事件事故は起きるが、毎日のブリーフィングの主な話題は州道の工事現場の周知と渋滞予測だ。 まあ、そう、そこそこ平和で平凡な街である。ずうっとずうっとまっすぐ行けばターミナル駅のある街の中心部に辿り着く目抜通りには駅が二つあり、それを結ぶ線路に沿うようにある今目の前の大通りがこの地区一番の繁華街だ。街は馬の背のように長く続く。警察署も、ハルの店も、もっと言うと同じく友人の真琴が勤めている消防署もほぼほぼこの通り沿いにある。 俺は最後の一口のコーヒーを啜って、携帯電話をポケットにしまった。ハルからは返事がない。きっと東京だか京都の最後の日を楽しんでいるのだろう。あんなきれいな桜も咲いているのなら、俺みたいな地元の友達にメールしてるより、少しでも目に焼きつけたほうが有意義ってものだ。 俺は店を出て、帰りがてら思いつくままにティッシュや洗剤、ビールや卵や牛乳やら、買い物をしてから自宅へ戻った。警察署からは徒歩五分だが、どちらの駅にも徒歩二十分かかる不便な物件だ。四階建のアパートメントで、パーテーションで区切られた寝室があるワンルーム。 簡単に掃除をして、洗濯機を回しながらうとうとしていると、宗介から電話がかかってきた。 宗介が買ってきたローストチキンとビールを飲みながら、録画しておいたチャンピオンズリーグのラウンド16の試合を見て……優勝クラブを予想するのはまだ難しいので、決勝に残るチームを宗介と賭けた。勝ったほうがビール一ダースで。俺がレアル・マドリードで、宗介がバイエルン。宗介は手堅くてつまんねえ。試合を見ながら、酒を飲んでたらとにかく笑えてきて、ずっと笑ってた気がする。本当にろくでもない休日だ。いちおう仕事の話もしたが、シフトの希望はキャリア順なので、お互いにしばらく夜勤が続く、などという、まあ、愚痴だ。 そんな話をしながら、飲んで潰れて起きて飲んでまた寝て、途中で「帰るぞ」「腹出して寝るな」と言う宗介の声がしたが、無視してそのまま寝た。とんだ駄目警官だ。ついこないだ酒で失敗したのに、また飲んでしまった。まあいい。ハルはいないのだし。 そのままどれくらいソファに転がっていたのだろう、腹の上の携帯のバイブレーションの刺激にびくっとして目が覚めた。ずいぶん寝た気がする。夜だったはずなのに、あたりはすっかり明るくなっている。 酔っ払いの指には重い携帯電話を二本指で持ち上げて、顔の前で開いて見る。 メールが届いていた。再び、ハルからだった。 『これから帰る』という文字と一緒にまた写真がついていた。 昨日は伝統的な日本の菓子屋さんに行ったという。その写真らしい。まん丸い何か二つ、箱に並べられていた。ピンクと白……だというが、写真だと青みがかって見える。 『なんだこれ』 今度の返事はすぐにあった。ハルはもう空港にいて、搭乗一時間前だと言う。 『食べ物だ』 それは、なんとなくわかるけど。いや、食い物なのか? ファンシーな色だし、拳くらいの大きさはありそうだ。聞けば「まんじゅう」と言う名前の食べ物らしい。中には豆を甘く煮たものが入っているという。ミートパイの中に入っている塩気の強いマッシュビーンズは好きだけど、それが甘いのか。想像できない。 『うまかったし面白いから、土産に持って帰る』 『食い物はやめろって言ったろ』 『凛が早く来ればいい』 まあ、そうなのだけど。すぐには会いにくいんだってば。 二 ハル曰く、日本では神様が何にでも宿るという。長く生きたものや古くから使われているものは、それだけで神様が住んでいるものらしい。茶碗や、タンス、そして建物にも。台所を守る竈の神様はすごくポピュラーだそうだ。それが本当に一般的なのかどうかは俺にはわからないけど、だから、まんじゅうに生命が宿っていても、おかしくはないのだと、ハルが言った。 もう一度言う。まんじゅうに生命が宿っていても、おかしくはないのだと、ハルが言った。 にわかには信じられなくて、オウム返ししてしまった。 「まんじゅうが生きている?」 ハルが言ったのだ。「まんじゅうは生きている」と。 「お前、頭、大丈夫か?」
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冬のヴァカンス サンプル
一 太陽が海に沈まない。東京に来てから一年半経つが、ふとした瞬間、そのことに違和感を覚える。 遙は海なのか川なのか判然としない目の前の黒い水のかたまりを見つめた。レインボーブリッジが光で輪郭を描き始め、対岸の大きな倉庫やマンション、貯水塔の航空障害灯が呼吸するように点滅し始める。姿が見えない船から大きな汽笛の音がした。水面を渡って届いた風からかすかに泥と潮の匂いがする。 まだ秋と呼んでも差し支えない季節のはずだが、さすがに夕暮れの水辺にジャージ一枚でいると肌寒く感じる。 振り返ると、日が沈んだばかりの地平線近くの空はまだ明るく、複雑な色をしたオレンジに、ビルと雲の不定形だけが黒い影を落とし、たくさんの灯りが星のように見えた。 そう言えば、今年の正月、大学の先輩から「初日の出を見にいくぞ」と海に連れ出されたときも変な感じがした。遙は、「初日の出」を海に見にいくことがあるなんて考えたこともなかったから。それから、冬になると毎日やたらと晴れているのもびっくりする。地元の冬は、雨と曇り空と時々雪がほとんどなのに。 遙は天頂を見上げ、晴れた夜に浮かぶ数個しかない星を数えた。街の灯りがあるからと、星はサボっているのだろう。 「もしかしてこれがホームシックなのか」と考え、すぐに心の中で否定した。こんなものは、ただの固定観念の揺らぎだ。単に、自分がどれだけ一つの土地に住んでいたのかという証明だ。 東京の大学に進学してから、毎日を飲み込むので必死で、遙は一度もホームシックを感じたことはなかった。もしも、今、それに似た感情を覚えているとするならば、単に自分が弱っているからだろう。 星よりずっと手前に、視界の端を所々がピカピカと光る黒い何かが飛んでいく。羽田空港に向かう飛行機だろう。しばしそれを見送ってから人気のない川沿いの道を歩いていると、ポケットの中の携帯電話が震えた。表示を見てどうしようか迷ったが、とりあえず通話ボタンを押した。 真琴だった。 『ハルー? 今、暇?』 「暇じゃない」 大学の授業を終え、今日は夜錬がなかったのでなんとなく水が見える所まで散歩をしてしまったが、これから夕飯の買い出しをしながら家に帰る所だ。暇と言えば暇だったけど、心はあんまり暇じゃない。 『凛と飲みにいくところだけど、ハルも来れないかなって』 「あいつ……未成年だろ」 昨日まで開催されていた競泳ワールドカップのスタートリストで見た「松岡凛(19)」の文字が脳裏に浮かんでは消えた。一つ違うだけでやたらと若いなと感じて、もう二十歳になってしまった自分を思った。 真琴は「大会ごとに来るな」と口すっぱく言っているのに、昨日も性懲りもなく観戦にきていたから、凛と今日食事をする約束でもしていたのだろう。 遙は昨日、凛とはサブプールの割り当ても待機場所も観客席も遠く、一言二言の立ち話しかしなかったのだが。 『あっ、凛が「飲みじゃない、焼き肉!」って叫んでる』 すぐ近くにいるらしい。ちょっとだけ聞こえた。凛の声。 「余計行かない」 電話口で真琴が「ハル、来ないって」とかなんとかごちゃごちゃ言っている。 『——ハル?』 前振りなく急に声の主が代わったので、少しびっくりした。耳元で凛の声がする。やわらかい真琴の声と違い、甘ったるいのにどこか鼓膜を叩くような声だ。 『落ちこんでんのか?』 いきなり、直球すぎる。 「凛には関係ない」 『……お前、短水路苦手だろ。ちゃんと練習を続けてれば、そのうち結果もついてくるさ』 何の根拠もないぺらぺらの言葉。返事が出来ないで黙っていると、凛が言葉を継いだ。 『焼き肉に来なくてもいいからさ、俺、あとでお前の家、行っちゃだめか?』 「だめだ」 『俺、明日オーストラリア帰るのに』 「すぐまた会えるだろ」 多分、どこかの大会で。自分が出られれば。 『そうだけどよ……』 「切るぞ」 『まだ! あのさ、ハル、』 今回会うのは諦めたようだが、凛がそのまま話を続けるから、電話を切ることができない。遙は仕方なく、凛の話を聞きながら、家に向かって歩き続けた。 『……やっぱ、さっきのなし。適当な言葉で慰めたいわけじゃねえし。俺、それに、ちゃんとハルと話したい。最近、話せてねえから』 「……最近、代表合宿行ってなくて悪かったな。……そもそも、お前はこんなにほいほい帰国してくるな」 卑屈なのに嫌味が混じった最低な言葉だと自分でも思った。だけど、凛は気にした様子もなく、耳元で笑う。 『ワールドカップは賞金がでるからつい、な。ここで来年の合宿費くらい稼いでおきたいだろ』 凛は五種目に出場していた。二種目で優勝していたから……まあ、来年の大会参加費くらいは自分で払えるだろう。そう思いながら、一緒に自分のタイムをも思い出して暗くなってしまった。自由形一〇〇mと二〇〇mは予選十一位と十位でB決勝、五〇mは予選で落ちた。 ��確かに、最近のタイムからすると予想通りの結果ではあったのだが。 今年は本当に、調子が上がらない。日本選手権には出られたが、国際大会の派遣標準を切れなかったのでそれらの大会には出られなかったし、連盟の合宿には呼ばれたり呼ばれなかったり。大学で毎日ちゃんと練習はしている。時々、練習では目標タイムは出る。だが、大会でのタイムが上がってこない。 何をしても上手くいかない。それが、半年以上続いている。 凛は一人でもちゃんと泳いでいるのに。 昨日プールサイドで見た、凛の一〇〇mバタフライの決勝レースを思い出した。悠然と泳いでいるようで、速い。伸びやかな泳ぎをしていた。凛のように理論的なことをちゃんと理解しているわけじゃないが、多分いっそう筋力がついたのだろう。ターンをしてからの、最初のキックが格段に強くなっているのがわかった。そこで伸びるのだ。ターン後に失速しないので、速いのだろう。 ターンした瞬間、凛の身体がぐっと前に出る。遙はそれを見ながら、無意識に歯を食いしばっていた。ぎゅっと手のひらを握りしめる。見たくない。見てられない。だけどもう、高校のときと違う。自分はこれを見なきゃいけない。 凛があっという間に目の前を通り過ぎていった。胸が焼けそうに痛い。足先から伝わってくるような冷たい感情は、多分、嫉妬という名前のものなのだろう。凛を、羨ましいと思う気持ち。妬ましいと思う感情。自分も、ああいう風に泳ぎたいのに。伸びやかに、速く。誰よりも速く。きれいにターンして、足で水を打って、絶妙のタイミングでラスト、タッチ勝負をして、勝ちたい。笑いたい。 電光掲示板を振り返った凛がガッツポーズとともに笑顔を見せた。 目の前の光景に「よかったな」と安堵もしているのに、何かが染み出すように、心が苦々しい黒いもので塗りたくられていく。 『——おい! ハル? 生きてるか?』 自分の名を呼ぶ、凛の声に我に返った。そうだ、今は家に帰る途中で、まだ電話をしていたのだ。 『聞いてたか? ハァル?』 聞いてなかった。凛の言葉を一つも聞いてなかった。黙っていると、吐息とともに凛が笑ったようだった。 『——お前、本当、プライド高いよな』 何も言ってないのに。今の会話のどこに、プライドの高い要素などあったのか。だけど、それは、何度かコーチからも言われた言葉だった。誉められてないのはわかる。 「大学でも言われる」 『でもそれ、いいところだろ。アスリートってエゴイスティックな部分も必要だろ』 「うるさい。切るぞ」 『……ああ、また来る。ちゃんと、飯食えよ』 思うより早く凛が引き下がった。言葉を残して電話が切れる。真琴から後日、「凛に冷たくしちゃだめだよ」とかなんとか、小言を言われるかもしれないが、知ったもんかと思う。 遙は携帯電話と一緒に、冷えきった手のひらをポケットに突っ込んだ。まだ十一月で、本格的な冬を迎えるまでは少し時間がある。そもそも東京の冬は地元ほど厳しくもない。けれど、冬は遠いのに、心の辺りを中心に指先まで冷え冷えと澄み切っている。 顔を上げると、遠くにライトアップされた東京タワーのてっぺんだけが現れたり消えたりする。 ——冷えきっているのに、何かが燃えてもいて。 この感情を言い表す言葉を最近まで知らなかった。いや、知っていたのかもしれないけど、すっかり忘れていた。 悔しいのだ。 凛の言葉、一つ一つが悔しい。 悔しくて、悔しくて、だけどどうすれば振り払えるのかわからない。そしてそんな感情を消し去る権利すら自分にはないような気がする。 ——悔しい、という感情はどこから来るのだろう。 悔しい。負けて悔しい。タイムが出なくて悔しい。先輩���他の代表選手に哀れまれて悔しい。電光掲示板に自分の名前すらなくて悔しい。コーチに慰められて悔しい。記者にがっかりされて悔しい。真琴の顔を見るのも悔しい。凛に気を遣われて悔しい。悔しい、悔しい悔しい。悔しい。 悔しいのはわかる。だけど、どうして、そう、感じるのだろう。どこから来るのだろう。どうして諦められないのだろう。 居ても立っても居られなくなって、指先が冷たくなるような感情は、それなのにふつふつと湧き出てくるような感情は、どこからくるのか。 ——水の中じゃてめぇが一番だと思ってるんだろ。 かつて、凛に言われた言葉を思い出す。 今はあまりに現実味のない言葉だけど。 こんなにも悔しく思うわけは、正直今でもそう思っているからかもしれない。誰かが自分の前を泳いでいるなんて最低だ。指先まで、悔しさに浸されていく。だけどその言葉を意識するたびに、世界から切り離されて一人きりになっていくような気がするのだ。誰もいない深い深い湖に、一人沈んでいくような感情。 こんなのは、自分じゃない。そう思うが、毎日荒れた海みたいに揺れる感情は凪いではくれなかった。 多分、今日は上手く眠れないのだろう。 * 大学一年の秋のインカレで、一〇〇m自由形で日本新記録を出した。なんでそんな記録が出たのかわからなかった。六月くらいから調子がよく、代表合宿にも呼ばれていたが、自己ベストよりも二秒近く速かった。 「なんで出たのかわからなかった」。それが毒なのだと気づいたのはもう少し後になってからだ。 だけど、記録なんかに、プレッシャーは覚えないはずだった。だってすでに覚悟を決めていたことだ。一気に変わった周囲の視線、忙しくなったスケジュール、それも普通にこなしていた。たくさん練習して、国際大会にも出て、メダルは取れなかったけど入賞した。まぐれではないということを証明したつもりだった。だが、今年の日本選手権前後から調子を崩した。オリンピックの選考には関係ない年だから、目立ちはしなかったが、親しい人には、気づかれた。 きっかけは風邪をひいたことだった。身体を痛めたわけじゃなかった。だがもともと風邪をひきやすかった身体が、一気におかしくなった。高熱が下がったあとも体調不良が続き、微熱が治まらない。咳とゆるい頭痛が消えない。何カ所か病院に行って、喉の薬とか、頭痛薬とか、たくさん飲みながら、これじゃドーピング検査に引っかかるかもな、なんてぼんやり思いながら、次第にこの症状は違うんじゃないかと思い始めた。多分、自律神経がおかしくなっていたのだ。 そのことに気づいてからは、体調だけは上向いた。だけど、それから、何をしてもタイムが伸びない。 合宿には呼ばれる。国内大会には出れる。だが国際大会に出られる派遣標準には届かない。 上がっていかない。 何度かただ、凛の泳ぎを眺めた。 その度に、悔しくて眠れなくなった。昔なら、見て見ぬ振りをすることなど簡単だったのに。 ここのところ、感情の揺らぎがひどくなっている気がする。部内での腫れ物を扱うような扱いも、焦りに拍車をかけたのかもしれない。からかってきたり侮ってきたりするような先輩も後輩もいなかった。単純な話、インカレの標準記録を突破するかしないか一喜一憂している他の部員からすれば、自分は変わらず速かったからだ。 だけど、日本選手権に出れることを、代表合宿に呼ばれることを、喜んでくれる部の仲間にはどうしても賛同できない。目指しているのはそこではないはずだったから。 自分でもよくわからなくなりながら、毎日泳いだ。泳げば泳ぐほど、あの記録はまぐれだったんじゃないかと自分でも思えてきた。 ぼろぼろだった日本選手権、そしてジャパンオープンのあと、さすがに何人かに相談した。あまり近くなく、だけど縁がある人……と思うと相談相手はあまり選択肢がなかった。 一人、御子柴清十郎に相談した。 大学は違うが、種目も被っているし、時々代表合宿で一緒になっていたので連絡先を知っていたのだ。構う後輩の一人がオーストラリアに行ってしまったせいなのか、生来の性格なのか、いつも気にかけてくれていた。少し、うるさいけれども。 メールで連絡を取り、御子柴の大学の最寄り駅まで向かった。やってきた御子柴は目が合った瞬間、遙が一言も発さないうちに「ラーメン食うか!」と言い放ち、大きな手のひらは力いっぱい背中を押した。拒否権はないらしい。 御子柴に連れていかれたラーメン屋は駅から五分ほど、幹線道路沿いにあった。店の前には十人ほどの列が出来ていたが、「今日は少ないほうだな!」と言うので二人で並んだ。 初夏の東京の夜の空気は日が沈んでもどこかまとわりつくようで、遙は何となく肩を竦めた。 「まあ、お前の悩みもわからんでなし、メールとか電話でもよかったんだけどな、話したほうがいいだろうと思って。ちょっとした気分転換だな。あとメールは打つのが面倒くさいからよくない」 「気分転換……」 メールで、最近の不調のことを相談していた。そうしたら、暇な日に「こっちに来い」と言われたのだ。まさかラーメン屋の前で並びながら、相談をすることになるとは思わなかったけど。 「とは言え、練習しつづければ、そのうち結果はついてくるだろ! そう思ってないとやってられん」 竹の割ったような御子柴の言葉に、内心、自分には参考になりそうもないと思う。だけど確かに、「まぐれ」で結果が出たのなら、本当の実力がそれに追いつくまで努力しなければならないのだ。それもわかってる。 「だけど、こういう話は俺より松岡にしたほうがいいんじゃないか? あいつのほうが繊細だし」 「凛には、聞きたくない」 「男のプライドってやつか!」 小声で言うと、笑われた。確かに、凛に訊いて現状が打開できるなら尋ねるかもしれない。だけど、御子柴と同じように「努力し続けてればどうにかなる」と根性論で来るか、「お前が頑張ってくれないと俺が困る」みたいな罪悪感を煽る言葉を告げられるのを勝手に想像して、面倒になった。それに、意外と繊細だから、下手に相談すると自分の低迷に巻き込んでしまう可能性だってある。そんなのは、絶対に嫌だ。だけど、わからない。凛が考えていることなんてわからないのだから、自分の想定も無意味だ。多分、御子柴に言った通り、単純に相談したくないのだ。 「——じゃあ、環境を変えるのはどうだ?」 「環境?」 「そうだな。毎日、同じ面子で水泳漬けだと煮詰まるだろ? 学部に友達はいるか? バイトはできないまでも、大学の友達と交流するとか、どこか別のプールに通うのもよし、小さな趣味を作るのもよし、引っ越すのもよし、あとはそうだな……恋人でも作るんだな! お前いないだろ、彼女」 「いませんけど……」 遙の返答に御子柴が呵々と笑う。恋人の有無なんて話したことなかったのに、「いない」と確信していた御子柴にちょっとだけ腹が立つ。確かにいない。作りたいとも思ったことがない。必要性を感じない。面倒くさい。自分のことだけで手一杯なのに、他人のことなんて抱えられない。 黙り込むと、ぽんぽんと頭を叩かれた。小さい子供にするみたいに。 「がんばれよ! 期待してるからな!」 全開の笑顔で微笑まれた。確かにこの性格ならば、スランプになったとしても、すぐに抜け出せるだろう。だけど彼を見習うことも難しい。 だけど——「環境を変える」。それは一理あるのかもしれない。 ちょうど、お店の前の行列は捌けていた。お客が帰ったと同時の、店員の「いらっしゃいませ!」という威勢のいい声と一緒に、御子柴がのれんを潜る。ラーメン屋でしかついぞ嗅がないような、獣の匂いがした。 * それからの春学期、秋学期、遙はがんばって大学での過ごし方を変えた。「体育会水泳部」に属している気持ちでいたけど、講義はちゃんと出ている大学生でもある。学部は文学部だったので、そこでも話をするようにした。話をするのはちっとも得意じゃないけど、二年から専攻に進んだこともあり、必修の語学のクラスメイトと専門教育科目の面子が被っているので、顔見知りが格段に増えたのだ。学食やお茶に誘われたら、それまでは断っていたけど、とりあえずついていってみることにした。 そうやって春学期の残りと秋学期を過ごすうちに、休日に遊ぶような仲ではないが、少しずつ「友達」が出来た気がする。登校して教室に向かう道すがら、専攻の友人が手を振って近づいてくれるようになった。 真琴と凛からの焼き肉の誘いを断ったとしても、話し相手くらいいるのだ。 水泳部の朝練は週六日、六時から。基本的に日曜日以外は毎日ある。大学のプールと遙の通う校舎は電車で二十分ほど離れているので、二時間ほどの朝練を終えてから大学に向かうと急いでも結構ギリギリだ。 一限の英語の原典講読の授業に滑り込む。 ドアの近くの席を、友達が取っていてくれた。 今後必要になるだろうし……と、英語の勉強は真面目にしているが、正直言って苦手だ。専門書となると更にお手上げである。凛なら簡単に読めるのだろうか。それとも、会話と文語は違うと言うのか、そんな他愛ない話もしたことがなかった。 眠そうに座ったまま話をする教授の、中世ヨーロッパのフランドル地方の図像学について記した本を解説する声を聞きながら、遙はついついぼんやり外に視線を流した。 一階の大きな窓の向こうに、桜とイチョウの木が見える。すっかり秋だ。どちらも色づき、時折はらはらと舞い落ちる。木の下���行けば生き物の気配のように落葉する音が聞こえるだろう。木の下に並んだベンチには、思い思いに過ごす学生の姿があった。騒いで笑う姿を見ながら、だが、彼らと自分は同じではないと思う。 窓から視線を引き離し、ホワイトボードを見つめる瞬間、ふと、塩素の匂いに意識を引き戻される。 環境を変えようと思っても、遙が何故ここにいるのかと言えば、やはり泳ぐためなのだ。 一限、二限と必修を終え、誘われるまま数人で学食に向かった。 友達を作ったところで記録が上向く訳でもなく、劇的に変わったりもしないけど、気は紛れる。確かに御子柴の言う通り、こういうことを続けていれば、いつかふっと楽になる日が来るような気がする。 学食に一緒に向かったのは四人。春学期の中途半端な時期から話すようになったメンバーだったが、自然と仲間に入れてくれた。大学生とはそういうものなのかもしれない。一年以上、気づかなかったけれど。遙以外は女三人、男一人の組み合わせだが、「文学部って男少ないから!」とむしろ男の奴に積極的に引き入れられた気がする。心細かったらしい。磯貝という名前なのは覚えた。女子はいまいち覚えていない。 校内の奥まった所にある学食は二階建てになっている。それぞれ経営母体が違うとかで、一階と二階ではメニューも量も違った。部のメンバーと行く時はいつも二階だが、学部の友人たちは必ず一階を選ぶ。二階は量が多く、一階は種類がたくさんあった。 来るようになってから、遙は一階のほうが好きだと思った。トレーを持ってセルフサービスでおかずを選んでからレジで会計する一階の食堂には、いつも鯖の塩焼きがあるのだ。少しぱさぱさだけど美味しい。自分で買うより安いしもっと早く来ればよかった。 食べる前にお会計をしてコップに水を汲み、みんなで奥まった白い丸テーブルに腰かけた。 味噌汁を啜って、ほうれん草のごま和えもよく噛んで食べた。それから鯖の塩焼きと。 一緒に学食に来る時、毎回頼んでいるからか、面白がったクラスメイトたちが「七瀬は鯖でしょ」と勝手に白いトレーの上に乗せてくれる。 ふっと、磯貝が顔を上げてこっちを見た。 「——そうそう、七瀬に今日会ったら、訊こうと思ってたことがあってさ。お前先週、試合? レースだったよな。『ワールドカップ』って名前だっけ。なんだよそれ、サッカーかよ? って、言ってただろ。で、俺、今度七瀬の試合行ってみたい。次、いつあるんだ?」 「あ、私も! 行ってみたい!」 体育会じゃない学生と話すようになってわかったことはみんな、「体育会運動部」に興味津々だということだ。体育会運動部の人間は、普通の生徒と関わらないことが多いようで、どういうスケジュールで生活しているのか根掘り葉掘り尋ねられた。レアキャラだと言う。入試のことや、寮に入っているのかどうかとか、普段の練習量まで。朝練が週六日、夜練が週四日あると告げたら、それだけで閉口していたが。 「……しばらくない。十二月にウィンターカップって言う、関東大学なんとか……がある、けど。水泳の試合は正直見ても面白いかどうかは……」 「でも七瀬泳ぐんだろ。それだけで面白えよ」 「行ってみたい! 詳しくは、ネットとかで探して見ればわかる?」 多分、書いてあったと思う。 真琴と違って、面と向かって「来るな」とは言いにくい。どうしていいのかわからず、無理矢理話を変えた。 「——でも、もう、あっという間に十二月なんだな」 自分でも、無理矢理過ぎる話題転換と思う。こういうのは本当に向いてない。 「あー、クリスマスかあ。お金かかるよねえ。そろそろバイト増やさなきゃ」 「彼氏にプレゼント?」 「それもあるしさー。サークルのクリスマス会と忘年会が……。そういえばさ、七瀬は部活で、クリスマスは? 部とかでクリスマス会やるの?」 やらない。水泳部は休みだ。去年、日曜日でもないのに二十四日が一日オフでびっくりした。二十五日も午後練しかなかった。部の伝統だと、先輩は言っていた。 去年は気にせず、掃除と溜まっていた洗濯物を片付けて……そういえば凛から電話がかかってきたので、少し話した。「オーストラリアだとみんな家族と過ごすから、暇なんだ」と言っていた。 休みだ、という話をするとみんな「へえええ」と感心している。 「なんだよそれ。気遣い? 過ごす相手がいればいいかもしれねえけど、ぼっちは逆に辛いよなあ。そういえばさ、七瀬って彼女いるの? いねえの?」 「あ! それ! いきなり突っ込んでる! 実はずっと気になってた! でもなんかストイックっぽいから訊きずらいし……」 「地元にいそう! 遠距離っぽい」 皆、方々に勝手なことを言っている。「いない」というのは簡単なのに、あることないこと発言しているから、口を挟む暇がなかった。いっそ今、言えばいいのだろうか。「いない」「けど、興味がないわけじゃない」「作ってみたい」「それでスランプから抜け出せるかもしれないから」……なんて言うのも変な話で。迷っていると、クラスメイトが勝手に話を進めている。 「……あっ、そういえば、七瀬って地元、遠いんだっけ。よく地元の友達とは会ったりするの?」 迷っている間に会話が変わっていた。 「……時々」 今度は間があったので、返事が出来た。 「七瀬の友達ってめっちゃ興味あるわ。写真とかねえの?」 一瞬迷ったが、減るものでもない。そのまま話が展開せずみんなが待っているので、遙は鞄から携帯電話を取り出した。カメラロールを開きながら、今年の夏に東京で会った岩鳶水泳部のメンバーの写真を見つけ、それをくるりとひっくり返してみんなに見せる。 「おおおー」とよくわからない歓声が上がった。 「あれ、共学だったんだ? なんか意外。あっ、眼鏡二人ともかっこいい!」 「すげー可愛い子いるじゃん! 水泳部のエース的には彼女だったりしないの?」 「ほんとだ、めっちゃ美人!」 江を差しているらしい。江が一般的に「かわいい」のはわかる。だが、正直あまりピンとこなかった。 「江か?」 遙も横から一緒に見つめてみる。正直、美醜のことはよくわからないが、こうして冷静に見ると、凛と造りがよく似ているなと思った。髪質とか、鼻とか、眉の感じとか。目もなんだろう、似ていないかと言われると、似ている気がする。似ているのは睫毛、だろうか。 「いや、江は、江の兄弟と似過ぎてるから、それはない……そっちは同級生だし」 「美人姉妹ってやつ? じゃあ、姉が彼女なわけ?」 「きょうだい」と言ったのに、友人たちは先入観が強過ぎたようだ。「美人姉妹」。聞き慣れない言葉だ。 「いや、凛は……」 男だし、と言う言葉が続かなかった。確かに生まれてこのかたコミュニケーションが得意だと思ったことは一度もないが、四対一で展開される会話にはまったくついていけない。それに東京の人は話す速度自体も速い気がする。 「えっ、『リン』って言うんだ?」 「お姉ちゃんのほう?」 「今どこにいるの? 地元? 東京?」 「……いや、オーストラリアで、」 「オーストラリア?」 「うわ、遠距離か……がんばれー。普通に留学?」 「水泳……」 「もしかして、そっち的にすごい子なの? うわー、七瀬もがんばんないとだね」 言われなくてもわかってる。何か誤解された気がするが、自分ががんばらなきゃいけないというのは間違ってない。 「いいなー。でも、そうかー。七瀬のこといいなーと思ってる子がいても、デートには誘えないんだね。気になってる子に言っておかないと」 誤解を訂正するのは面倒くさいが、それは困る。環境を変えてみたいのに。 「彼女は作ってみたい」 「えっ、いくら彼女が遠距離だって、大事にしなきゃだよ」 なぜか諌められてしまった。 「だから凛はそんなんじゃない」 「大事にしなよ! 写真ないの?」 写真を見せれば一発だと思ったが、一生懸命探しても、機種変したばかりの携帯電話のカメラロールには凛の写真が一枚もなかった。 * 「えっ、ハル、それでそのまま引き下がったの? はっきり『彼女欲しい!』って言えば、デートしてくれるんじゃないの? その子たちの誰か」 真琴が、心配性の幼なじみの顔をしてこっちを見ている。 調子の上がらない遙を心配しているらしく、ここ半年ほど、真琴とも頻繁にご飯を食べている気がする。それだけ、合宿や遠征が減って時間がある証明だが。 だけど、誘ってくれるのには感謝している。ちょっと遠いのが難点なのだけど。自分の家から真琴の家までは山手線を半周、更に乗り換えて、乗車時間だけで一時間近くある。あと真琴にお願いしたいことは、食事だけで十分なので、大会をいちいち見にくるのを止めてほしい。だが、それは言っても聞き入れてくれない。 今日は真琴から「実家からきた野菜どうしよう!」と電話がかかってきた。ちょうど遙は夜練が休みで、明日は日曜日で練習も元々ない。結局、二人で鍋にすることにした。 真琴の実家から送られてきた丸のままの白菜や大根、ごぼう、あとは遙が持参したツナ缶がメインの鍋だが、とりあえずお腹は膨れる。ついでにビールまで飲んでしまったので満腹だ。 鍋の湯気が窓ガラスをふんわり曇らせていた。遙の古いアパートと違って、真琴の部屋はすきま風もなく暖かい。少しエアコンをつけただけで、鍋の湯気と相俟って汗ばむくらいだ。 「もう友達だから……そういう言い方は失礼だろ」 遙の言葉に、なぜか真琴が嬉しそうな顔をした。 「でもよかった。ハルにも友達できて」 「もともと友達くらい、いる」 多分。真琴とか、渚とか、怜とか。部活だって別に仲が悪いわけじゃない。学生コーチとは最近よく話す。あと、御子柴。凛。 「でも、ハルの彼女かあ。ハルの口から『彼女欲しい』っていう単語が出ること自体がちょっと衝撃なんだけど」 「……環境を変えろって言われたから」 実際出来たら面倒くさくなって、すぐ放置してしまうかもしれないが、それで何か変わるなら、ほしい。 「成果ある? 少し、調子良くなってきた?」 「……少し、諦めはついてきた」 半年かけて、現状を理解したと言えばいいのか。 味が染みてくたくたになった白菜を飲み込んでいると、真琴が「お腹いっぱいだ」と言いながら箸を置いた。 「環境変えろって言ったの、御子柴さんだっけ」 頷くと、真琴がビールを片手で飲みながらテーブルの上に頬杖をつき、何やら考え込んでいる。 「ハルがあとできることって何かなあ。今の生活だと、どこかのクラブ通うのも無理だもんねえ」 「大学やめるしかないな」 もちろん、そこまでは考えてない。 鍋であったまってきたせいか、鼻がぐずぐずする。ティッシュで鼻をかむと真琴がまた少し心配そうな顔をした。 「ハル、最近、風邪ひいてなかった?」 「先週、ちょっと熱があった」 「……体脂肪質が低いからかな。ハル、風邪引きやすいよね。なんか最近、思い出すよ。中学校二年の時、ずっと熱出して学校休んでたの」 確かに中学二年のときはすこぶる体調が悪かった。それで水泳部を辞められたようなところがある。 思えば、半年前はまったく同じ症状だった。 中学時代も漫然とずっと頭が痛かったし、なんとなく微熱が下がらなかった。病院に行ってもよくわからない。街の大きな病院にも行った。アレルギーとか風邪とか色々言われたけど、ふっと言われた言葉が今でも引っかかっている。「それだ」と直感的に思った。 ——自律神経や……何か精神的なものなのかもしれませんね。 気持ちの問題だったのだ。単純に。泳ぎたくない、やめたい、俺もやめなくちゃ、という気持ちの問題。凛を傷つけるくらいならやめたい。凛が泳がないならやめたい。 「あのときは単に学校も行きたくないし、水泳部もやめたかった。その気持ちが、身体に出たんだ」 「……ちょっと前もそうだったの?」 「半年前はそうだったのかもな」 「今も、やめたいと思ってる?」 「思ってない。……ただ……俺もわからない」 やめたいとまでは思ってない。ただ、結果が出ないことはつらい。自分はこの程度なんだと思うことがつらい。 「そっか」 それ以上、真琴は何も言わなかった。 食事を終え、じゃんけんで負けた遙が狭いシンクで食器を洗っていると、真琴はベッドに寄りかかったまま携帯を弄っていた。高校時代はあまり見なかった光景だと思う。あの頃はメールをしていたとしても、相手が誰か見当がついた。今は全く想像もできない。尋ねたら教えてくれはするだろうが、そもそもその必要性も感じないのだ。真琴に興味があるとかないとか、関係なく。 ただ、真琴には真琴の毎日がある。遙には関わりのない毎日が。 土鍋や皿を洗い終わり、手を拭いていると、真琴がふっと顔を上げた。 「ハル、あのね、友達が終電なくなって帰れないから、うちに泊まれないかって」 「……まだ十一時前だぞ」 思わず壁の時計を眺めてしまった。まあ、自分も、朝練がある日にはとっくに寝ている時間なのだが。それを意識すると、眠くなってきた。 「相模湖のほうだから、終電が早いんだよ……」 「好きに呼べばいい。俺は帰るから。元から、泊まるか迷ってたしな」 終電の遅い山手線に乗って、頑張れば歩けるところに住んでいる遙は、まだだいぶ時間があるのだし���次の大会まであんまり日もないので、体調は整えておきたい。 「えっ、さびしい!」 直裁な真琴の言葉にちょっと笑ってしまった。こういう真琴だから、友達がたくさんいるのだろう。幼なじみの長所が改めて最近わかってきた。そばにいるときは当たり前過ぎたことが、他の誰にもない真琴だけのものなんだって気づいた。お人好しすぎて利用されてないといいが、と思ってすぐに否定する。その人のためになることならば、突き放すときはちゃんと突き放す。 遙は壁にかけていたハンガーから薄手のブルゾンを取って羽織った。 「またすぐ会えるだろ」 そのまま帰るつもりだったのに、玄関で靴を履いていると、鍵をちゃりちゃりさせながら、ジャケットを着た真琴がついてくる。 「えっとコンビニに行く!」 それに返事をしないでいると、勝手に言葉を足してきた。異存があったわけでもないのだが。 「駅まで送りたい」 「いい」 「だって結局あんまり話せてないし」 「取り立てて話すことなんてないだろ。お前のほうで報告があるなら聞くけど」 真琴のマンションを出、駅を目指す。細い露地の住宅地を進むと、唐突に商店街のアーケードが見えてくる。この道をまっすぐ行けば、駅だ。 「えっと、次の大会、いつ?」 次は十二月の関東学生冬季公認記録会、通称ウィンターカップ。真琴は、来なくていいけど。 「……記録会があるけど来なくていい。凛はいないぞ」 「ハルを見にいってるんだよ。そりゃ、凛がいたほうがいいけど……。ま、いいよ。勝手に調べるから」 真琴が拗ねたように顎を上げ、少し大股になる。もしも遙がはっきり、「自分の不甲斐ないレースを見られたくないんだ」と告げたら、真琴はどうするのだろう。尋ねてみたいが、勇気が出なかった。「じゃあ、行かないよ」と寂しそうに言うのか、「でも、行くよ」と言うのか。どちらの答えでもきっと悲しくなる。 十一時過ぎたせいかあらかたの照明が落ち、軒並みシャッターの閉まったアーケード街には、騒ぐ酔っ払いのサラリーマンの声がひどく反響している、店先の暗いガラスを鏡代わりにして、踊っている制服姿のグループの横を通る。焼鳥屋の軒先からはみ出た椅子と甘辛い匂いに、電車の音と、どこからか甘ったるいギターと歌声が混じる。 「踊ってたの、高校生、かな」 「だろうな」 制服着てたし。 「なんか、東京での高校生活って想像できないなあ。俺たちとは全然違うだろうね。あっ、山崎くんは途中までそうだったんだっけ……」 しばらく見かけていない男の顔は、遙の中ではどこか曖昧だった。ふっと自分を責める瞳の色だけを、ぼんやりと思い出す。「悪かったな」と今更吐き捨てる。今再会したら、同じような責められる気がした。自分が山崎だったらきっとそうする。 「山崎はきっと普通の高校生じゃなかっただろ。俺の今みたいなもんじゃないのか。俺からすると、『普通の大学生活』もそもそもよくわからない」 最近、やっと少しだけ垣間見られるようになった程度だ。 「したいの? 普通の大学生活。ハルが?」 「したら、楽なのかな、とは少し考える。何か変わるのかなとも」 「ハルはきっと変わらないよ」 「わかんないだろ」 「わかんないけど……俺が、変わらないといいなと思ってるのかも」 やがて、蛍光灯が煌々と光る駅の南口まで辿り着いた。眩しくて視界が白くちかちかと光っている。たくさんの人が改札の中へと吸い込まれていく。遙も定期を取り出して、自動改札機を通過した。真琴がその向こう側で「またね!」と声を上げた。 「記録会、がんばってね!」 それに軽く手を挙げて、エスカレーターでホームまで上がる。 少し高台に駅のホームがある。 夜なのに、薄明るい。地元の暗さを忘れてしまいそうだ。遠くまで見通せるまっすぐの道には建物がどこまでも続いていた。途切れない歓声を耳に入れながら、遙は空を見上げた。 目を凝らさないと星が見えない。 どういう誓いを立てて、自分はここに来たのだろうか。忘れてしまえればいいのに。覚えている。見たい世界があった。だけど今は、自分自身のことすら、嘘つきに思えた。 二 眠れない。 遙はまんじりともせず、カーテンの隙間から部屋に入り込む夜の明かりを見つめていた。畳の目だけが浮き上がって見えた。 明日は大会当日だ。大会と言っても、関東学生冬季公認記録会。その名の通り、関東の大学生だけの記録会だ。そんな重要なレースじゃない。それでも、数日前からどう泳ごうか、ああでもない、こうでもないとついシミュレーションしてしまっていた。もともとは、そんなこと考えずに感覚で泳いでいたのに、最近、レースで上手くいってないせいなのか、どうしても余計なことを考えてしまう。 やれることはすべてやった。シミュレーションも終わっている。 今日は学校での調整のあと、コーチと明日のレースの入り方についてちゃんと綿密に話し合った。コーチは最近、大会での泳ぎが固いから、前半からできる限り積極的に行けと言っていた。一旦は納得した。だけど、それは本当に自分の泳ぎなのか。調子が悪い中、全力で泳いで、最後までスタミナは持つのか。いつものように後半に差すだけの力を残しておいたほうがいいのではないのか。 明日は自由形の一〇〇mと二〇〇mとメドレーリレーにエントリーしている。 隣のレーンを泳ぐだろう選手の顔を思い浮かべたら、もっと眠れなくなった。一人は凛と同じ脚力のあるタイプだから、きっとターンした瞬間に伸びてくる。もっとターンの練習をするんだった。脚力、陸トレ……これから増やしたいと言ったら、コーチは嫌な顔をするだろうか。だけど冬の間はもっと泳ぎ込みもしたい。来年はオリンピックの選考会もある。日本記録を出したときならいざ知らず、今はちっとも現実的じゃないけど。どちらにせよ時間が足りない。あと丸四か月。 集まっては広がっていく思考の切れ端を追っていたら、すっかり目が冴えた。 暗闇を見つめ続けたせいか、遮光カーテンの隙間から差し込む街灯で、うっすらと部屋中見通せるくらいだ。自分の呼吸音と時計の針の音が少しずつずれていて、それも気になってしまう。枕元の目覚まし時計に手を伸ばし、蛍光塗料を光らせて、時間を確認する。二時を回っていた。 寝ないと。 五時には起きないといけない。 少しでも寝ないと明日に支障をきたす。試合なのに。レースがあるのに。 眠れない。ひたすらに荒涼とした景色が頭の中に広がっていて、今なら何か悟れそうな気がした。だけど同時に焦りが募り、何度も何度も布団の中で寝返りを打つ。いっそ走りにいくか。長風呂をするか。でも、そんなことで体力は使えない。寝たほうがいい。 だけど、眠れない。 眠くならない。 今まで一番心地よく眠れた時のことを思い出そうとした。それなのに、急に、高校三年の地方大会前日の夢を思い出したりした。みんなが人形になる夢。制服を着ている。振り払ったはずのものは、消えたのではなく、ずっと自分の中に潜んでいる。ただ、じっと、他の力が弱まるのを待っている。 荒果てた地平線に、凛が立っている。遠く、凛がいる。明るい場所に。かつての夢と同じだ。逸る足を、「行かなくていい」と叩く。ちゃんと決めたじゃないか。今は凛を、追いかけたいわけじゃない。ただ、自分がここにいたいからここにいる。このまっすぐ続く道の先に、何があるのか知りたくてここにいる。 だけど、そう決めたって、すべての気持ちが穏やかになるわけじゃない。 脈略のない自分の思考に、振り返った凛が「そうか」とつぶやいた。もはやこれは夢の中だ。自分が浅い眠りについていることに安堵して遙は大きく息を吸った。 凛の顔は見えなかった。 * 翌日のレースは散々だった。 次に気がついた瞬間は目覚まし時計が力一杯鳴り響いており、身体を布団から引き離したものの、びっくりするくらい重かった。頭の芯もぼんやりと熱を持っているのがわかる。 あまりにわかりやすく、コンディション調整に失敗した。 わかりやすすぎて、笑う元気すらなかったほどだ。 前半はそこそこのタイムで入ったものの、後半にまったく伸びなかった。決勝にも残れず、ただ、プールサイドの荷物を纏めた。二〇〇mに関しては完全にばてた。寝る前に危惧していたこと全部がまとめて起きてしまった感じだった。 「……七瀬、ちょっと来い」 ふっと声がして、振り返ると監督とコーチが二人揃って立っていた。呼び出しだった。 ため息一つで立ち上がる。 なんとなく、言われることは察しがついた。 「……七瀬、お前を午後のリレーメンバーから外すが、腐るなよ」 「俺、出られないんですね」 「理由はわかってるだろ」 「はい」 「お前の才能は買っている。うちではタイムも速い。お前が泳いだほうが順位はよくなるかもしれない。それでも、今のお前は外す。……わかるよな。もっと、真剣に向き合え」 俺は真剣です。 だけど今は、何を言ってもいいわけにしかならず、コーチの言葉を聞きながら、「はい」と頷くことしかできなかった。 サブプールでダウンをしている間に午前のレースは終わり、マネージャーから弁当が手渡された。 誰かの輪に入る気にもならず、持ったまま出場校ごとに割り当てられている観客席へと向かった。プールサイドをぐるりと回ると、ぽつりぽつりとジャージを着ていない一般客の姿も目ある。 「七瀬!」 自分を呼ぶ声が聞こえた。 聞き覚えのある声にはっと顔を上げると、クラスメイトが二人、立っていた。磯貝ともう一人の女子だ。 めまいがするほど情けない気持ちになったが、挨拶しないのも変だ。近づくと、「今、来た」と言う。詳しい日程を教えていなかったのに、調べてきてくれたらしい。「遠かったよ」と笑っていた。 「……俺、午後、泳がないんだ」 「えっ、そうなのか? あー……。もっと早く来ればよかった。遠いからついな。まあ、でも水泳の試合って興味あるから見ていくよ。次は朝から応援に来るな」 「温水プールって久しぶりに来たけど暑いね! 面白い! もっと薄着してくればよかったー」 競技用プールなので一般の温水プールよりは低めに設定されているが、確かにコートとブーツ姿では暑いだろう。先に言ってくれれば、「暑いぞ」くらい言えたのに。いや、事前に尋ねられたら、「来なくていい」と言ってしまっていたかもしれない。 「二十度くらいあるしな……。悪かったな、出てなくて」 「もしかして顔が暗い? 七瀬、あんまり調子よくなかったの?」 何も言ってないのに、心配そうな顔をされてしまった。 「……大丈夫だ。実は最近、ずっとだから」 そう言って心配そうな二人を置いて、とりあえずその場を辞する。数歩進んだところで、更に声をかけられた。視界に大きな幼なじみの姿が見える。わかっているから顔を上げたくない。でも、近づいてくる足音が見える。 「ハル!」 真琴だった。 「……リレーメンバーから外された」 愚痴を言いたかったわけじゃない。慰めてほしいわけでもない。ただ、勝手に言葉が溢れた。 「うん、朝から見てたから……」 「もう、午後は泳がないから、帰っていいぞ。悪かったな」 「ハル!」 「大丈夫だ」 それ以上話すことができなくて、真琴に背を向けた。選手用に割り当てられた観客席の階段を一段抜かしで上がる。振り返れなかった。 窓から入る太陽の光で暖まった青いプラスティックの椅子に座ると急に、惨めな気持ちになった。震えるほど、惨めだった。 弁当に、手をつける気になれない。だけど、食べなきゃいけないのもわかってる。乾いて固くなった米の塊を口の中に押し込んで、何度かえづきそうになった。でも我慢して食べた。弁当の中身をぶちまけたい気持ちをそのまま、自分の体にぶつけた。そのままゴミをまとめ、動けないままぼんやりしていると、午後のレースが始まった。 戻ってプールサイドで応援しなきゃいけないのはわかっていたが、泳がない水泳部メンバーの端っこで、その様子を眺めた。 「あれ、七瀬さん?」 「外された。ここで応援するから」 一年と一緒に、学生コーチが声をかけてくれた。 「……七瀬さんちゃんと練習してるから、いつか結果がついてきますよ。正直、腐らないからすごいなって思ってるんです」 いい後輩だと思う。日本記録など過去の栄光、まぐれだったんだろ、と面と向かって言われた方が楽なのに。ひねくれた気持ちで、そうも思ってしまうけど。 「……泳ぐのは、好きだ」 結局、それだ。だから、ただ泳いでいる間はなんだって耐えられる。だが泳いでいたら自動的にどこにでも行けるわけじゃないのだ。自由に泳げる環境作りをするのは、楽じゃない。わかっていたようで、ちっともわかっていなかった。見たい場所には届かない。 ぼんやりと、終わっては始まるいくつものレースを見送った。慰める言葉が表面を撫でていく。 自分の心が、上手く言い表せない。 悔しかった。惨めだった。いつのまにか手のひらをまた強く握り締めていた。無意識に力いっぱい噛み締めていて、意識して顎の力を抜いた。 だけど、リレーを泳がなくていいと言われて。 ——安堵している自分もいるのだ。 そのことが、また悔しい。 どうしてこんなに悔しいのだろう。悔し��という感情はどこから来るのだろう。 リレー予選が始まって、そしてあっと言う間に終わっていく。遙の大学は決勝に残れなかったが、遙はすべてのレースをそのままスタンドで見届けた。 大きなマイクロバスで大学のプールまで戻り、その場で解散して、遙は一人、家路に就いた。 自分の気持ちすら推し量れない。時化のようなうねりが、波が、あらゆる感情を増幅させて、自分でもじ何を考えているのかわからない。 ただ、どこからともなく迫り上がってきた逸る気持ちで、あと一時間ほどで閉まってしまう近所の区民プールに駆け込んだ。二百円で入場券を買う。銭湯の入り口にいるようなおばちゃんが「もうすぐしまるよ」と言いながらも送り出してくれた。水着は着たままだったので、そのままシャワーを浴びて中に入る。 ウィンターカップが催されていたプールよりもどことなく外気の伝わってくる小さい二十五mプールには、仕事終わりと思わしき、何人かの人が泳いでいた。水温はさっきのプールより二度程高いだろうか。プールサイドにいる監視員は、どこかの大学の水泳部のアルバイトかもしれないが、こっちを気にしている様子もなかった。遙は岩鳶SCよりも狭く感じるプールを見回した。「二十五m立たずに泳げる人のみ泳いでください」注意書きされたレーンでは、追いついてしまいそうだったので、誰もいないフリーレーンにゆっくりと浸かった。 水が緩くて温くて甘ったるい。今の岩鳶SCというよりも、かつての岩鳶SCを思い出す。匂い、だろうか。温度だろうか。気配だろうか。タイルの硬さかもしれない。懐かしい気持になる。泳いで、泳いで対岸に手をつける。 深く潜って水中を進んだ。ゴーグルの中で目を凝らす。 青色の世界が広がっていた。 今はこんなに自由に泳げるのに。 凛の声がした。 ——水の中じゃ、てめぇが一番だと思ってるんだろ。 何度も耳元で蘇るその言葉。ふとした瞬間にそのフレーズを思い出すと胃の奥が燃えるように熱くなる。 悔しい。腹立たしい。勝手なことを言うなと思う。だけどどうしてか、プールサイドでコーチから、観客席で後輩から、言われたどんな慰めの言葉よりも、心を奮わせる。 言われてからもう、二年半経っているのに。 プールに時報が鳴り響く。笛の音と監視員の声がした。三十分ごとに休憩させられるプールらしい。懐かしい感じだ。遙の泳ぎ方に何か気づいたのか、監視員がこちらをちらちらと見ている気配がした。どうにか、遙の気は済んだ。水には戻らずに、ストレッチして水から上がることにする。 ——水の中じゃてめえが一番だと思ってるんだろ。 耳元で再び、凛の声がした。 更衣室に向かう道すがら、シャワーを浴びる。 「……思ってる」 ふざけるなと思う。思ってる。思ってるに決まってる。今だって思ってる。俺が一番だ。誰にも負けるはずなんてない。思ってる。心の底から思ってる。 思ってるから、悔しいのだ。思い通りに動かない身体が、気持ちが。もどかしいのだ。憎いのだ。 「思ってる」 だけど今は同じ言葉を告げられても、凛に「思ってる」なんてとても言えない。 三 十二月の関東学生冬季公認記録会で、遙が出られる今年の大会はすべて終了した。気がつけばありとあらゆる場所がクリスマス一色になっていた。 日が短くなっているとはいえ、三限を終えて大学を出ても、さすがにまだ暗くない。今日は夜錬がないので、家に帰るほかない。ドアの開いたコンビニから、浮かれたクリスマスの歌が聞こえた。 クリスマスなんて、地元ではイルミネーションとスーパーとコンビニの飾りつけでしか思い出さなかった気がするのに、東京は派手なものだ。だけど、去年の記憶があまりない。ケーキも何も買わなかったなと思い、すぐに、あの頃は年始の短水路の国際大会に向けて、泳ぎ込みをしていて忙しかったんだと思い出した。 今年は幸か不幸か余裕があるが、年末年始に帰るかどうかも決めてない。飛行機の切符はこの時期高すぎる。電車もバスも億劫だった。真琴は去年、バスで帰っていたのだったか。 大学も、年明けからほどなくしてテスト期間に突入するので、年末年始はさほど課題も多くなさそうだ。 結局、遙は同じ環境で練習を続けていた。どうしていいのかわからなくても、結局は泳ぐしかなくて。大会には出たくないが、練習は好きだ。だからむしろ、今日みたいに夜練が休みの日は正直持て余す。 「暇だな」と思ったが、こういうときに限って、真琴からも連絡がないし、クラスメイトと授業が被っていなかった。 遠くに、小さく東京タワーが見える。昼間だから光ってはないけれど、家の近所だとあそこが一番クリスマスっぽいかもしれない。 遙は雲一つなく晴れた空と東京タワーを見つめながら歩いた。洗濯をしたいが、今から干すのではやはり湿気てしまうだろうか。すでに薄暗く、夕暮れは駆け足で忍び寄っている。 ふと、ポケットの電話が震えた。 ぼんやりしていたせいで、そのまま取ってしまった。どうせ、掛かってくるのなんて水泳部関係の連絡網か真琴だと思って。それか、頻度は低いがクラスの友達か、親か。 『——ハル』 自分の名を呼んで、耳元でぱちっと弾けた予想外の声に、無意識に身体が震えた。 「凛?」 凛、だ。 電話は凛からだった。 なんだか久しぶりのような気がする。 『な、唐突なんだけどさ。これからお前んち、行っていいか? ダメか?』 凛の声はどこか、いつもと違う固い声で、咄嗟に何かあったのだろうかと心配になった。 「今、日本にいるのか? 何かあったのか?」 かつて凛は一度だけ東京の遙の家に来たことがある。まだ、大学一年の頃だ。あの頃は自分も調子がよかったこともあって、凛と顔を合わせるのにも構えなくてよかった。あれから、引っ越してはいない。駅からは遠いが平坦な道だ。道が得意な奴ならば、迷わず来られるだろう。 『えっ、なんもねえけどさ。ただ、「行きたい」って言っても、十一月の時みたいに拒否られたら凹むなって、思って。ただ、緊張してんだよ! 悪かったな。うん、今日着いた。もう、夏休み……いや、クリスマス休暇に入ったから。オーストラリアは』 そんな下手に出られたら断りにくい。 「悪かったな……。わかった。来ればいい。今、どこにいるんだ? 今、俺は家に帰ってる途中……」 十一月の時よりは、凛に会える気がする。自分が以前より少し元気なのか、寂しいのか、単にすごく落ち込んでいるのか遙にもわからないけど。もしかし��らこういうのを、「魔が差した」と言うのかもしれない。 告げると、妙な間があった。 「悪ぃな」 一方的に、電話が切れた。電波の状態だろうか。折り返すのも面倒で、必要ならまた電話が来るだろうとそのままゆっくり家へと向う。 駅から十分ほどひたすら歩き、右に曲がってから首都高の高架下の幹線道路沿いを進む。雨も降っていないのにぽたぽた垂れてくる高架からの水滴を避け、大通りの信号を渡って、細い橋を渡ってから、右に逸れる。しばらく歩くと、ビルの谷間に忘れられたように残された小さな商店街がある。寂れた住商一体の店舗の連なる通りを抜けて、更に細い路地を進む。 品川駅からも他の駅からも徒歩二十分近くかかる場所に遙の家がある。 一年半住んでいる古いアパートが見えてきた。玄関は、道路と垂直に奥まった位置にある。鞄から鍵を取り出し、一歩、踏み込む。 玄関先に、誰かがいるのが見えた。 近所の人。いや、違う。 露地から二つ目のドアの前でしゃがんでいた黒っぽい影が、遙の足音に反応して、ぴくりと猫のように顔を上げた。 そして立ち上がる。 黒いコートが、不思議ととても温かそうに見えた。 唐突に祖母が冬に使っていた火鉢を思い出した。そこでぱちぱちと音を立てていた、焼ける炭を思い出した。赤い部分が見たくて、銀色の火箸で突いて割って、きらきらと黒の中で燃える炎をずっと見ていた。祖母は後ろからぽかりと遙の頭を叩いて、「火遊びするとおねしょするよ」と言った。その言葉を、急に、思い出した。 目の前の熾火みたいな男が、何度か口を開き、閉じ、困ったように視線を逸らせてから、首を掻く。 「……わり、実はもう来てた」 そう申し訳なさそうな顔で言い放った凛は、一転、開き直ったように快活に笑った。
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わすれていいよ。2
無意識に大きく息を吸っていた。 だけど颯斗は気づくはずもなく、目の前で笑う。 水泳の話をこうして口にしていること自体に、妙な感慨があった。無意識に避けていたのかもしれない。だけど心の揺らぎは僅かなもので、安堵から深く息を吸って吐いた。 「泳ぐの、楽しいよ」 颯斗の何の不純物もない真っ直ぐな言葉に、自分も自然に笑っていた。あまりに「楽しい」という顔をしているのだ。こんな顔を見たら、つい笑ってしまう。 颯斗は兄から自分のことをどれくらい聞いているのだろうか。こんな小さな友達の弟にすらそれを尋ねられない自分を歯がゆく思いながらも、目の前のふわふわ頭をぐりぐりと撫でる。頭はやたらとあったかくて、少し汗をかいていて、まだ春先なのに太陽を含んだ子供の匂いがした。 高校三年の全国大会の日、向こうで会ったから、自分のことはわかってると思うのだが、颯斗はやたらと橘真琴に懐いている様子だった。あれを思い出すと、「お兄ちゃんの友達の一人」と認識されていれば正直御の字だろう。 ——高校を卒業してから一年が経った。 地元の大学になんとなく通い、残りの時間で実家の手伝いをし、同じ大学でバスケをしている貴澄と時々遊ぶ。このまま漫然と時間が過ぎていくことを考えたりするけど、「もう一年か」と「まだ一年だ」の思いの間を心がずっと行ったり来たりしている。 「……背泳ぎ、だめ?」 ぼんやりしている自分に気づいたらしい。「背泳ぎ」自体に文句があるのかと思ったのか、途端に宗介の身体の上で、颯斗が不安そうにする。 「背泳ぎか……」 いや、別に、ダメではない。けど確かに、背泳ぎは少し特別な競技だった。飛込みをせず、唯一水の中からスタートするので、SCで「よわっちい」と言われてたのをふっと思い出した。自分もバタフライを一番何よりもかっこいいと思っていた。 「そうだな、俺はバタフライ、かっこいいと思うぞ」 「かっこいいけど、上手く泳げない……」 しょんぼり困ったように颯斗が呟く。 「全部花丸貰ったんじゃないのか?」 「もらったけど……」 どうやら痛いところをついてしまったらしい。小さな友達の弟の見栄が面白くて、もっとつつきたかったけど、これ以上弄ったら泣かれそうだ。 「まあ、これから上手くなるんだもんな。……よし、そろそろカレーの様子を見るか」 耳を澄ますと、ガスレンジのほうからくつくつという音が聞こえる。 自分の上から小さな温かい重石を退けて立ち上がると、軽い足取りとともにその石が一緒についてくる。 蓋を開���て視界いっぱいに鍋の湯気を浴びてから台所の大きな鍋の前に立って、箸の先を人参に突き刺すと、だいぶ柔らかくなってたので、ルーを割り入れた。 「宗介くん、牛乳、いれないの?」 颯斗がぺたりと後ろにくっつきながら、そう問いかけてくる。 「お前んちの母ちゃん、牛乳いれんのか」 「うん、いつもいれてる!」 隠し味ってやつか。チーズ入れたりソース入れたりケチャップ入れたり醤油入れたりする話も聞いたことがある。なるべく同じ味の方がいいのかと思って、宗 介は冷蔵庫から牛乳を取り出して、足してみた。味見もしてみる。まだ馴染んでないせいもあるのか、学食のカレーを甘くしたスープみたいだ。さらに弱火にして、おたまでしばらくかき混ぜてみる。 「もう食べれる? 食べる?」 ジャージを引っ張りまくられる。 「兄ちゃん待つか、食うか、どっちにする」 尋ねると、この世の命運を賭けた選択を強いられたような、深刻な表情をされた。 「……おなかすいてきたけど、貴澄お兄ちゃん待つ……」 「わかった」 よくできた弟だ。だが言った途端、すぐに食べられないどこか落ち込んだ颯斗に笑ってしまって、水切りかごにあった小皿にカレーを多めによそった。 「味見するか」 少し神妙な顔のまま颯斗が皿を受け取る。「熱いぞ」と付け足すと、頬をいっぱいに膨らませて、ふーふーと中身が吹き飛びそうなほど吹いている。 ずっと一緒にいるとなると大変なことも多いだろうが、「弟っていいな」と唐突に思った。だけどこの思考はよくない気がする。このままではペットとか飼いだしかねない。なんだろう、毎日に何かが物足りないのだろうか。 おそるおそる小さな舌で颯斗が猫みたいにカレーを舐めている。 「熱くないか」 颯斗が舐めながら頷く。 「どうだ?」 「……おいしい! いつもと同じ!」 顔が上げられた。ぱあっとした顔に思った以上に安堵した。それはよかった。 「よし、改めて兄ちゃん待つか」 「……もうちょっと食べたい」 「兄ちゃん待つってお前が先に言ったんだぞ」 宗介は正直どっちでもよかったのだが、からかうように言えば颯斗は眉毛を力いっぱい八の字にして、こくりと頷いた。丁寧にシンクの中に小皿を置いてからリビングにぱたぱたと戻っていった。 宗介はその小皿を洗ってから、同じこたつに入った。ちょっと落ち込んだようにも見える颯斗がこたつにちょこんと入っている。 ……メールするか。 あの馬鹿兄貴がいつ帰ってくるのかだけでもわかれば、早めに食べるか待つか決められるだろう。「貴澄に連絡する」とメールを送る。 だが、しばらく待っても返事はない。テレビをつけてこたつに入っていると、颯斗もご飯のことは忘れ始めたらしく、あれこれ話をしてくれた。学校のこと、友達のこと、スイミングクラブのこと、先生のこと、コーチのこと、兄のこと、母親のこと。 引っ込み思案で無口なのかと思ったが、人見知りなだけで、話し好きらしい。そこは、兄と似ているのかもしれない。話しながら下がった眉毛がたくさん動くところもそっくりだ。 黙って宗介が話を聞いていると、やがて颯斗がしばらく黙り込み、大きく息を吸って、「あのね」と口を開いた。 「ねえねえ、宗介くん、宗介って告白されたことある?」 「…………まだ早いだろ」 妙な返答になってしまった。質問に答えてない。颯斗はいくつだったか。まだ小学二年のはずだ。 だが、颯斗は宗介に尋ねるのはおまけだったらしく、焦ったように言葉を重ねる。 「あのね、告白っていうかね、バレンタインにね、ようこちゃんからチョコもらったんだけど、ホワイトデーに、お返ししなきゃって。宗介くん、どうすればいい?」 「……お前の兄貴に訊け」 多分得意分野だ。しかもものすごく。 「…………でも」 困ったように眉を寄せられた。再び大きくハの字になって、今にも泣き出しそうだ。そんな顔をしてたら、俺みたいに人相悪くなっちまうぞと言いながら、指で眉間の皺を開きたくなった。 だけど、弟の困りようもなんとなく理解できる。 「貴澄に言ったら大事になるよな……」 颯斗が真剣な顔で大きく一回、こくりと頷く。まあ、なんとなく貴澄のリアクションは想像できる。どの順番から来るのかはわからないが、弟の成長を喜んで、 いつか来る未来を勝手に妄想して悲しんで、盛大に颯斗よりお返しに頭を悩ませ、ついでに様々なことを無駄に心配したりしそうだ。想像しただけですさまじく 面倒くさい。ここは自分が相談に乗ったほうがほんの少し、マシかもしれない。 「学校の子か?」 仕方なく尋ねると、颯斗がふるふると首を振った。 「スイミングクラブの……」 そうか、岩鳶SCの子か。なかなかやる。もしかしたら単に「これ、明日スイミングクラブで配ってきなさい」と母親が娘に手渡したバレンタインチョコの可能性もあると思ったが、言わないでおいた。颯斗が真剣だからだ。 「……明日、偵察に行ってやろうか」 無意識に、そう告げていた。何にせよ、敵の姿を見定めないと、作戦も立てようがない。 宗介の言葉に、颯斗が顔を上げてぱあっと明るい顔をする。「カレーでいいか」と言ったときと同じ、花が咲いたように嬉しそうな顔だ。その顔を見たら、発言を撤回できそうもない。 「お願いします!」 ぺこりと、頭まで下げられた。 「ああ……。それでさっさとお返し買っちまおう」 本当に告白されたのかどうかはそのあとでもいい。 「そうする! おこづかい、明日もってくね。宗介くんに選んでもらう」 「わかった」 だけど自分から「スイミングクラブに行く」なんて言い出すなんて。宗介が自分でも内心驚いていると、玄関のドアががちゃがちゃと忙しなく弄られている音がした。 そう言えば、鍵、どうしたんだっけな。 思っている間もなく、力いっぱい扉がバタンと音を立てた。 「——あれっ、鍵が開いてる!」 でかい独り言だ。靴の蹴られる音。雑だ。廊下を走る音とそして扉が開く。 「ただいま!!」 なぜか息せき切って、貴澄が帰ってきた。 大学のジャージを着ている。開いた扉と一緒に、落ち着かない春の風がふわっと吹き込んだようだ。 差し込むように、違和感を覚えた。 だけど、貴澄のジャージ自体は大学でも着てるから見慣れている。自分だって普通のジャージだ。宗介はしばし考え……貴澄の表情が納得いかないのだと気づいた。貴澄はなんだか変な顔をしている。自分で呼んだくせに、宗介の顔を見て驚いたように目を見開いたのだ。 「ただいま」 貴澄はもう一度ゆっくりと噛み締めるように言い、肩で息をしながら、ふにゃりと笑う。 「貴澄お兄ちゃん!!」 颯斗が嬉しそうに声を上げる。 「ただいま! 宗介もただいま。もしかして、カレー作ってくれた?」 「……ああ」 切って炒めて煮込んでルーを入れた他はだらだらしていただけなので、そんな目をなくして嬉しそうな顔をされても困るのだが。 「カレーの匂いってすぐわかるね。幸せの匂いだね」 「……飯にするから手伝え。あとメール返信しろ」 「え? メール? 本当?」 メールは気づいてなかったらしい。慌てたように大きな鞄を床に置いて、そのまま貴澄は携帯をがさごそと漁っている。
***
「颯斗は寝たのか?」 夕飯を食べ、まただらだらしてから順繰りに風呂に入り、宗介が最後に上がると、貴澄が髪の毛を乾かさないまま、ぼんやりテレビをみていた。昼間の髪の毛 はあんなにふわふわしているのに、さほど手入れはしてないのか。もしかして寝癖でああなっているのかもしれない。いや、まさか。宗介は台所でコップに水を 汲み、一気に飲み干した。 「寝たよ。宗介どうする? ってすでに、ぼくの部屋に布団持ってってるけど」 「そのこたつでもいいぞ」 「風邪ひくよ?」 呆れたように言われたが、まあ、今は風邪をひくくらいの余裕はある。実家の両親には怒られるだろうが。 考えを言葉にはせず、宗介はただ、こたつに入った。確かにここで寝たら乾燥して喉が一発でやられるような気がするけど。 「貴澄、お前、明日の予定は?」 頭をこたつの天板に頭を乗せて、今にも眠そうにしている貴澄を見やる。一日中走り回って練習してきたのなら、もう眠くて当然だ。もう十時過ぎている。 「明日も練習に出るけど……九時には出るね。明後日の朝に親、帰ってくるらしいから、どうぞ明日の夜までお願いします」 「あとでなんか奢れよ。マジで。俺も、——明日は実家の手伝いに行く。昼間は、颯斗一人で大丈夫か?」 「明日はスイミングクラブだから大丈夫じゃないかな? 何時からだっけ……冷蔵庫のとこに確か時間が……」 貴澄が億劫そうに遠くの冷蔵庫を見やり、目を細めた。弟を溺愛しているのは間違いないが、そこまで時間は把握していないようだ。そういうところが余計に家族らしいなと、ふっと思う。把握してなくても信頼している。無条件の何かだ。 だが、そんな風に貴澄が無理矢理冷蔵庫を透視しようとしなくても、颯斗の予定は夕飯前に聞いていた。 「明日は、夕方の四時からって言ってたぞ。行くまでくらいは一人で大丈夫だろ? 俺も、迎えに行ける時間には帰ってくる。岩鳶SC、行けばわかるよな」 何の気なしに言えば、貴澄がまじまじとこっちを見た。意図せず宗介の顔を注視してしまったというような曖昧な表情だ。「なんだよ、その顔」 顔に何かついてる……わけではないのだろう。 「……随分仲良くなったんだなって、思って」 他の言葉を飲み込んだのだろうが、気づかない振りをした。 しばらくこたつに沈黙が落ちた。 宗介が「もう眠いだろうし、大人しく寝ようぜ」と言い出すくらいの空白のあとで、ぽつりと貴澄が口を開く。 「……宗介は、凛と連絡取ってる?」 まさか、それを、言い淀んでいたのだろうか。そんな、普通のことを。 「正月に取った。忙しそうだな、あいつ。四月の日本選手権には出れそうだから、その時は帰ってくるって言ってたが……。……なんだよ、その顔」 こたつの天板に頭を預けたまま、貴澄がぼんやりこっちを見ていた。何か言いたそうで、言う気はなさそうで、嬉しそうで、だけどどこか困ったような顔。表情の種類もわからないのだから、何を考えているかなんてもっとわからない。 「んーん? ……何も言ってないよ。ただ、連絡取っててよかったなと思って。そういうの、宗介はしなくなっちゃいそうだから。……なんとなく。だけど、便りがないのは元気な証拠、っていうのは、嘘だと思うから。……少なくとも、宗介に関しては」 「意味わかんねえ。……あいつから連絡くるんだよ」 「うん、でも、次は連絡しようと思って。ちゃんと見てなかった、責任だから……」 意味の掴めない言葉と一緒に、にっこり微笑まれる。颯斗とは違い、ふにゃふにゃしてるのは同じなのにどこか胡散臭い顔だと思う。颯斗もあと何年かしたらこんな風になってしまうのだろうか。それは困るな………と思いながら、宗介は再び立ち上がった。 貴澄と颯斗、だけど、話ながら動く眉毛はやはりそっくりだ。 「もう寝る?」 「……違う、明日の朝飯の準備する。米だけ。炊飯器セットしとくからな」 「じゃあ、それ、終わるまで待ってる」 「いいからさっさと寝ろ」 「待つ」 言っても聞かないらしい。ため息をつきながら、宗介は銀色のボウルを取り出した。もはや、キッチンの配置は貴澄よりわかっている気がする。しゃがみ込ん で、流しの下を開けた。米びつというよりライスストッカーとでも呼ばなきゃいけないような真っ白い機械のボタンを押した。四合。
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わすれていいよ。1
「夜、カレーでいいか」 宗介の言葉に、颯斗は言葉を何も発さないまま、ぱあっと明るい顔をした。花が咲いたような、と言えばいいのか、嬉しそうなのはわかった。笑うと兄と雰囲気がとてもよく似てると思う。まあ、あっちのほうが狐顔のくせに締まりがないのだが。 「あのね、ルー、こっち!」 時計を見上げて発した宗介の言葉は、「カレーにするから、買い物に行くか」の意味だったのだが、勢いよく立ち上がってキッチンのほうに駆けていった颯斗が、キッチンの引き出しを勢いよく開けている。音がする。 流し台の向こうから、ちらちらと期待する顔でこっちを見られた。 仕方なく、宗介もリビングのこたつから抜け出し、隣り合っている台所を覗いた。颯斗が指差す引き出しを見れば、ストックしてあると思わしき、ルーやパスタ、乾麺や缶詰、高そうなオリーブオイルのストックが並んでいた。どうやら弟のほうが、兄よりもキッチンの配置を理解しているらしい。朝に説明を受けたときは、冷蔵庫の中身と、醤油と塩こしょうの場所しかわからなかった。あとで開けて回ればいいかと探索をしていなかったが、なんでもありそうだ。そう言えば、鴫野家が佐野にあった頃、貴澄に連れられてよくわからない横文字の料理を食べた気がする。鶏肉の、何かだった。ぼんやり記憶を辿りながら、宗介は食べたことのない甘口のカレールーを手に取った。カレーだというのに、ソーダアイスみたいなパッケージだ。 「じゃがいもも、たまねぎもあるよ!」 とんとん、と颯斗が足踏みをする。キッチンの真ん中には床下収納があった。颯斗の指示に従ってしゃがんで、ぱちん、と金具を起こし、宗介は床下を開けてみる。なるほど、うすぐらいひんやりとした空間に、新聞紙に包まれたじゃがいもとタマネギ、それからサツマイモと白菜が丸のままあった。さっき冷蔵庫には人参も入っていたし、冷凍のひき肉が大量にあったのを思い出す。 「……買い物行かなくて済むな」 「すぐ食べられる?」 「あいつ、何時に帰ってくるんだ?」 「貴澄おにいちゃん? ……わかんない、七時くらい?」 出て行く時、自分はまだ不機嫌だったこともあって、帰宅時間を聞かなかったのだ。 「まあ、遅かったら先に食っちまおうな」 時計は四時。 どんなにちんたら作っても、五時半には食べられる。 床下からジャガイモとタマネギ、それから白菜を取り出して、キッチンに置いた。米も見つけたので、シンクにボールを出して、洗って炊飯器もセットした。こんな、いわゆる一般家庭の新しい「システムキッチン」で料理するのは初めてだから、蛇口一つとっても新鮮だった。とりあえず、新聞紙から取り出して白菜を剥いてみる。どこかの農家から直接買ったか貰ったか、身はみっちり重いが、外側は虫食いだらけだ。一番外側の葉っぱをむしって颯斗に渡すと、嫌がるかと思いきや、大きく空いた穴を目に見立て、お面にして遊んでいる。 包丁を取り出しながら、宗介は「危ないから、離れてろ」と言うと、颯斗から返事があった。 「宗介くんが来てくれてよかったあ」 言いつけ通り一歩下がった颯斗が、遠くで背伸びをして宗介の手元を見ている。両手で白菜のお面を持ったままだから、虫食いの穴からきらきらした大きな瞳が見えた。 宗介は今、鴫野家にいる。なぜかは一言で済む。貴澄に頼まれたからだ。貴澄の両親は遠方の親戚の葬式で数日家を空けるといい、貴澄は「颯斗の面倒は僕が見る」と安請け合いしたものの、本人の家事が壊滅的な上に、大学の体育会運動部は休めず、春休み中の弟を完全放置になってしまうからだった。だからまあ、宗介に声が掛かった。 朝に強引に呼び出されしぶしぶ出向くと、貴澄は出かける準備をしており、その後ろで心細そうに颯斗がもじもじしていた。そのまま回れ右できる強心臓になりたかったのだが、できなかった。仕方ねえなあと家に上がり込んで五時間ほどが経つ。今日は休市日で実家の手伝いもちょうどなかったのだ。その間、ごろごろする宗介の傍ら、颯斗はテレビを見たり、宿題をしたり、兄に似ず、大人しいよくできた弟だと思う。 ちなみに昼は朝貴澄が買ってきたというコンビニ弁当だった。あの男はいいにしろ、颯斗に三日三晩それを食わせるわけにもいかない。自分には、得意なことなんてほとんどなかったけど、幸い料理は一通り、できたから。 ジャガイモの皮を剥き、面取りしたそれを水にさらしていると、「宗介くんじょうずだね」という声がした。離れてろと行ったのに、いつの間にかシンクに手を置いて、颯斗が自分の手元を覗き込んでいた。宗介は一歩、颯斗から離れた。 「じいさんが板前だったな」 「おじいちゃん?」 「今は、死んじまったけど、昔は店があったから」 実家は魚の卸しと、魚屋と、今はそれしかやってないが、昔は市場の中にある食堂をやっていた。祖父が生きてたころの話だ。毎日、祖父は夜中の十二時に起きて、一時には市場に着く。その時間からご飯を炊き、仕込みをして、競りが終わるほんの短い時間、じじい連中と将棋を打っていた。幼い頃、うつらうつらしながらもせがんで遊びに行ったことを思い出す。 飯が、とにかく美味かった。 今、好きな食べ物を聞かれたら「肉」と何の躊躇いもなく答えるだろうが、それは味噌汁かおひたし感覚で魚が食卓に上がっていたせいもあるだろう。魚を意識したことなんてなかった。スイミングクラブから帰ってくると、夜が早い祖父はもう夕飯の時間で、毎日五時。せっかちなのか、それとも孫を思ってか、宗介が食卓に着く頃には祖父は夕飯を食べ始めていて、焼き魚の血合いはきれいに取り除かれ、身だけが皿に乗っていた。祖父は、皆から貰った血合いや皮を美味そうに食う。時々骨や皮をお椀に入れて、日本酒とお湯を注し、醤油を垂らして嬉しそうに飲んでいた。 祖父が亡くなり、血合いを食べて、魚があまり好きじゃなくなった。魚の皮の汁も飲んでみたけども、決して美味いものではなかった。気づいたのは、魚は美味くても不味くても、全部一人で食べなきゃいけないということだった。 「ひきにくの、カレーにするの?」 颯斗の声に、意識を引き戻された。玉ねぎとひき肉を炒めて、切ったじゃがいもと人参を足す。 「……ひき肉いっぱいあったからな」 「食べたことない!」 水を差し、しばらく煮込むぞ、と颯斗に告げる。その間、ついでに白菜を切って、生で食っても美味そうだったのでサラダにする。マヨネーズと冷蔵庫にあった塩昆布を取り出して和えた。 一生懸命お皿を取り出したり、スプーンを出してくれている颯斗を見ながら、「まだ少し早いんだけどな」と思ったが、何も言わなかった。ここに貴澄がいれば、「颯斗はえらいねえ」と猫撫で声を出して、ぐりぐりぐしゃぐしゃと、目尻が下がり切った顔で、弟をもみくちゃにしているのだろう。 あと十分くらい煮込もう。弱火にし、颯斗の背中を押して、二人でこたつまで戻った。一旦座ると立ち上がりたくなくなる気がするが、颯斗が一生懸命手伝おうとするから、ちょっと落ち着いていてもらいたい。こたつの中に手を入れると、思っていたよりも手のひらが冷えきっていることに気づいた。三月の初めだが、まだかなり冷え込む。 隣の辺に座った颯斗がごそごそしたと思うと、ぼふん、とこたつ布団の中に潜ってきた。しばらくこたつの中に吹き込む外気を感じていると、ぺたり、と何かが手のひらに触れた。 「つめたい」 くぐもった颯斗の声がする。 手のひらが、小さな何かで包まれた。包まれたけど、それ自体はぺたぺたしているだけで別にあったかくもない。だけどそばにある子供の体温は暖かく、こたつの中と同じ温度をしたかたまりが、そこにあった。 「お前、のぼせちまうぞ」 左手で、ずるずると引っ張り上げる。宗介の身体の上に乗り上げた颯斗が、水から上がったときのように「ぷふぁ」と息を吐いた。どうやら、もう、人見知りはされていないらしい。 「今日は、ひまだったけど、宗介くんいてよかった」 何も、遊んでやってはいないのだけど。 「あのね、明日はスイミングクラブがあるよ」 颯斗が嬉しそうに笑う。岩鳶SCに行っていると、貴澄から聞いたことがある。知っていたから、驚くようなことでもなかった。 「楽しいか?」 「うん! 今もう、進級テストでハナマルもらって、全部泳げるんだよ!」 「何が好きなんだ?」 「一番は、背泳ぎ!」
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