Tumgik
herdofloner · 4 years
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私的かつ長い話
昨年の夏、祖父に残された時間が早くて一ヶ月だと告げられた翌日、朝六時まで呑んでそのまま見舞いに行った。 見舞いといっても、駅まで迎えにきてくれた祖母と二人で病院まで行って当たり障りのない会話をしただけだった。祖父が自分の状況を理解しているのかよく分からなかったのは、自分が寝不足と二日酔いと生理痛で朦朧としているせいかと思ったが祖母にもよく分からないらしい。
病院を後にして車に乗り込むと祖母は、十年ほど前に母と私が二人で住んでいた家まで車を走らせた。 祖父母の家から車で十分程の場所にあったその家は取り壊されて真新しい家が建っていた。車で通り過ぎると家の中に赤ん坊がいるのが見えた。
以前、そこに建っていたのは古くて暗い二階建ての家だった。小さな庭があって、玄関はガラスの引き戸。湿気がすごくてカビ臭くて、砂壁はシミだらけだった。 13歳から三年間その借家に住んでいた。近所ということもあって祖母が遊びに来たこともあったのだろうが、記憶がなかったのでわざわざ家がなくなった様子を見せられて不思議に思った。 その家で過ごした記憶で覚えている内容は暗いものばかりだった。
14歳のとき、私はその家を燃やそうとして精神科に連れて行かれ統合失調症だと診断された。誤診だと思っているが、病気の性質上そう思う患者しかいない気がする。とにかく今でもおかしいのは自分ではなくて自分以外だったと思うし、あの時の心からの殺意を今でも鮮明に思い出せる。 だから黒歴史と揶揄する気にもなれず、あのころ失敗した破壊が知らない間に行われていて、嘘みたいに明るく綺麗な家が建ち平和な光景が広がっていることにただ呆然とするしかなかった。
思い返せばあの家に住んでから家族を憎み、開き直って笑いの種にして、やっと自分の気持ちを認めて、当時の周りの大人の気持ちを想像できるようになって改めて絶望したりしていた。ずっと形容し難い仄暗い感情を抱えてきた。
昔は家族のことが大好きだった。 私は5歳までアメリカで暮らしていて、帰国してからは父親が自営業で経営がうまくいかなくなると引っ越す根無し草の暮らしだった。毎回リセットされる子供同士の人間関係より家族との絆が深まるのは自然なことだ。父親がミュージシャンとしてライブに呼ばれた時は学校を休んで三人で車でどこまででも行った。楽しかった。
10歳になって父親の不貞が原因で離婚するまでその暮らしが続いた。 今考えてみれば父親が不貞を働く前から、長い間父と母には齟齬は生じていたのだろう。私が原因不明の脳の発作を起こしてから母親は不安がちだった。その上、楽しい暮らしのツケでうちは借金まみれだった。
離婚後は母と二人で祖父母の家に移った。 母にとっては両親と妹が住む実家だったが、それから祖父母の家を出て二人暮らしするまでの数年間、祖母は母の存在を無視した。自営業すら辞め無職になった父が裁判で取り決められた養育費を払うことはなかったし、私の脳波は安定せず病気の影響か発育も遅く体力もなかった。
祖父母の家を出て二人暮らしを始める頃には母は限界を迎えていたのだろう。 酒におぼれ、話が通じない時間が増えた。学費は出せないと言いながらよくわからない石を買っていた。 そんな状況でも祖母への恐怖は強く、祖母から見た私たち家族がちゃんとしているかどうかを酷く気にしていた。 そのちぐはぐさに私は翻弄され反発した。そして余計に母は現実と向き合わなくなった。
こうやって考えてみると私と母の確執は、母と祖母の確執だ。 祖母は実の娘を無視したという点だけ見れば非道な人間に思えるが、活発でお茶目な人で私は好きだった。 ただ心の深い部分で神経質なところがあった。そして礼儀作法に厳しく私の頭を撫でたりするような祖母ではなかった。 母も祖母に子供らしく甘えたりできなかったらしい。昔はもっと怖かったとよくこぼしていた。
祖母に厳しく育てられた結果、母は社会に出てすぐに20歳上で離婚歴のあるバーテンダーと結婚した。銀行員の祖母と役所職員の祖父に囲まれて育った母の人生に登場することのなかった人間だったのかもしれない。祖母は猛反対したが、母は半ば逃げるように渡米してしまった。 関係が全く途絶えることはなかったけれど祖母はずっと思うところがあったのだろう。でもやっと母の気持ちが少しわかるようになった私にまだ祖母の気持ちまでは想像できない。
そういえば祖母は祖父のこともよく無視していた。 孫や娘を抱きしめたりしないように、祖父とも体の一部がどこか触れるようなことはなかった。そもそも仲良く話しているのも見たことがなく、恋愛結婚だというのが信じられなかった。どうして離婚しないんだろうと思っていた。
唯一、叔母が祖母と比較的うまい距離感でやっているように見えた。 叔母は男性が苦手らしく未婚で実家から出たことがなく、ずっと働かずに家事手伝いをしていた。祖母は叔母にだけは多少甘いように見えた。母が受けた冷遇を見た後ではそれも不思議だった。
そんなことまで頭の回らなかった私は二十歳になるまでは自分の家にあまり帰らなかった。 就職して自分で家を借りてやっと自力で生活できるようになったと思ったところで父親の生活に困窮しているさまを見たり母親から仕送りを要求されたりした上に、毎日の過酷な労働環境で疲れきった私は自殺を試みて普通に失敗した。 そのあと両親のLINEをブロックして引っ越した。 心底もう関わりたくないと思ったが結局家を燃やせなかったと同じように完全に連絡を断つことはできなかった。
家族を拒絶するのに並並ならぬ決断力がいることを思い知って、呼ばれると誕生日や正月、入院時には家族の元へ出向いていた。会えて嬉しいとか顔を見ると安心するとかそういう気持ちはなかった。逃れられない果たすべき義務のひとつ、そう思っていた。 祖父の死を前にこの気持ちをどうすればいいのかわからなかった。
それでも残された時間は少ない。 今までにないくらい高い頻度でなんども昔住んでいた地に出向き、祖父のお見舞いに行った。 女四人で葬儀屋や墓に行ったりもした。集まった時に泣いたり弱音を吐く人はいなかった。
祖父は末期癌だったので治療はせず、痛みを緩和するだけの処置を受けていた。奇跡が起きる可能性はなく、ただその時が来るのを待つだけだった。少しずつ自分の状況を把握した祖父は弱っていった。 お見舞いに行って帰ろうとすると子供のようにシクシク泣いた。痛みはマシにはなっているのかもしれないけれど、何の思い入れもない清潔な病室で毎日を過ごす祖父を想うと悲しかった。 そしてそんな祖父を子供をあやすように慰める母や叔母をみるのも辛かった。 私はだれにも何の言葉もかけることができずに一人で帰りの駅のホームで泣いた。
そして宣告されてから2か月後に祖父は逝去した。 病院に着いた頃には亡くなっていたので、誰も看取れなかった。安らかだったのか、泣いていたのかも分からない。
余命宣告されてからずっと祖父が死んだとき自分がどんな気持ちになるか想像できなかった。家族の中で祖父のことが一番よくわからなかった。祖父は悪い意味で空気のような存在だった。どれだけ私たちの仲が掻き乱れていようと祖父には関係なかったし、そのことを疑問に思ったことすらなかった。認知症というわけではなく、昔からあまり話が通じたことがなかった。 そして私の父親のよう不貞を働くこともなく、淡々と働き続けていた。テレビを見るか、クラシックを聴いているか。外に出かけるのは病院に行く時だけだった。 だからずっとどんな気持ちでいればいいか分からなかった。でも当たり前に悲しかった。悲しい以外の感情が何もなかった。ただ安らかに逝けたことを願うばかりだった。
家族の全員がやっと何も気にせず涙を流して悲しむことができた。ずっと弱音を吐かなかった祖母も。火葬場で窯に入り見えなくなった遺体の方向を何度も振り返る祖母の姿を見て、私は初めて祖母が祖父を愛していたことを知った。祖母の愛情表現は言葉や態度ではなく”離れず一緒に生活すること”なのかもしれない。 なんて分かりづらいんだろう。祖父は分かっていたんだろうか?
初めて一緒に生活をしたことのある人の死を迎えて、家族がただ横にいるだけで心が楽になることもあるんだと本当に驚いた。 全員不器用で思ったことをそのまま伝えられないし、ここからすごく仲良くなったりはできないと思う。 でも漠然とあった、敢えて言葉にするとすれば、"この家族は間違っている"という気持ちは消えた。理解し合えない人間でも、一緒に生きていくのが当たり前である関係が尊いことをやっと自分の中で認めることができた。
今でも家族に会うと暗い気持ちにはなる。できれば一生別々に暮らしていたい。 それに自分はこうやってぐだぐだと考えて文章にすることで溜飲を下げていっても母は祖母との確執を抱えたままだ。生まれてきた順番に死ぬという自然な流れを汲めば次に別れが来るのは祖母だろう。 祖母がいなくなったら母はどうなってしまうんだろう。
血の繋がった家族でも痛みや死を代わってあげることはできない。そして絶対的な存在だと思っていた親も一人の人間で弱さや恐怖を抱えている。運が良ければ大人になるまで気づかないで済むけど、殆どの人が遅かれ早かれ思い知らされる。 その中で肉体の死ではなく家庭という機能の崩壊によって知る人も少なくないだろう。私はそうだったし、それを知ってからずっと寂しくてその事実���認められなかった。 でも今は、どれだけばらばらの家族でもそれはそんなに寂しいことじゃないと思えるようになった。微妙な距離感で、抱えている確執があって、暗い想いがあっても静かに毎日の暮らしを続けていきたい。
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herdofloner · 6 years
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2018年6月 毎日の記録
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herdofloner · 7 years
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日常にある死
なぜか自分はずっと子供のままだと思っていたのに気づけば周りの人間が親になっていたりする。そしてその反面死を見送る機会も増える。人だけじゃなくて物や事がまいにち些細に生まれて死んでいくことに気づく。
毎冬落ち込んで読書をしたり映画を見る気力すらもなくなるけど、それに比べて今回の冬はゆるやかだった。ただ植物を枯らしまくっている。一人暮らしを始めた時に買った小さな木だけが生き残っている。根のない植物を哀れに思うのに生花を買ってきて愛でて、枯れたら捨てる。(ドライフラワーは綺麗だけどミイラみたいなものなのかなと思うと怖い)ゆるやかなだけで集中力はないしまともでもないので、植物の死を頻繁に目にして、実はすごく悲しんでいる気もするけどよくわからない。
ただ、これからきっと飼っている猫も好きな家族も嫌いな家族も無関係にたぶん私より先に死んでいくんだなと思う。その時にも似たようにやり過ごすのか?悲しみから逃げてもはや自分で制御できなくなった感情の希薄さに対する危機感がどこかにある。
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herdofloner · 7 years
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2017年は色んなとこに行けて楽しかった。冬の東京、夏の東京、大分、大阪、長野、沖縄、長崎、韓国。その中でも夏の東京で泊まるところを探して急に行った高円寺のゲストハウスマヌケでの風景が今でも鮮明に頭に残ってる。建物古くてトイレも和式で部屋もドミトリーの二段ベッドだったけど、窓がいっぱいあってベランダから電車が見えて風が通り抜けてすごく気持ちよかった。1泊して明日の宿はどうしようと思って友達と2人でチェックアウトしてる時にスタッフのお兄さんから「泊まるところないならベッド1つしかないけど二人で泊まってもいいよ!」って言ってもらってめちゃくちゃ嬉しかった。毎日どれだけ楽しくてもどっかの瞬間で消えたいなって思ってしまう癖があるけど旅行に行ってる間は消えたいって思わない1日があるって気づいてびっくりした。
中学生のころ家庭環境が最低で逃げたくてその時に謎の理論でWEBデザイナーになって家を出ようって決めてそのまま進んできたけど結局逃げたかったものから逃げきれてなくて人に迷惑ばっかりかけてる。冬は毎年調子が悪くなるので多分それもあるんだけどいい加減おんなじことの繰り返しはやめたい。やめたいって思うから苦しいのか?とにかくもう私は自分にウンザリしてる。好きに生きていいのに自分の気持ちを捻じ曲げすぎてどれが本当の気持ちなのか全然わからなくて、すごくみじめだ。
ウェブの仕事も個人でコーディングとかデザインしてる時は楽しいし、マヌケに行ってからゲストハウスで働いてみたいって思うようになった。1年半ほど週6で働いたけどそれは多分もうできない気がする。それを考えると落ち込んでしまう、のがおかしいのかな。やっぱりよくわからない。とりあえず早く冬が終わって欲しい。
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herdofloner · 7 years
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理不尽な慣習に、無能で傲慢な上司、無神経な家族、うまく噛み合わない恋人、ありとあらゆる些細な災厄が、自分に降りかかる場合は他愛のない憂鬱だと蓋をしてしまえるのに、好きな人たちを苦しめている場合にだけ酷くままならない気持ちになってしまう。誰がそれを当たり前だとかしょうがないとか言って我慢を強いるんだろう。大人になれば痛みに鈍感になるから安心しなさいと言われたことがあるけど未だに真夜中に裸足で飛び出した中学生みたいな気持ちになるし、実はみんなそうなんじゃないかと睨んでいる。大人だからとか普通だからとか言って怒りや悲しみを我慢したり受け容れたり飲み込んだりして、疲れ果てた時の、あの、あてのないホームシックのような気持ち。あんまり頻繁にあの気持ちにはなりたくない。
そういうことを考えていて、自分を厳しく裁くだけじゃなくただ省みることが出来るようになったとき、周りの人たちも楽しく過ごせるようになるんじゃないかと思った。根拠は無い。本人が状況を変えたいと思わない限り周りができることは何もないし、ただやっていくしかない中で生まれる愚痴を聞くことだって別に構わないんだけど。毎日楽しく暮らすためなら後ろ指をさされたってかまわないという気持ちと、頑張らないと生きてる価値がないという思い込みを、まず、わたしから捨てれたら、どっかの誰かをいつの間にか助けられる気がする。
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herdofloner · 7 years
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a.k.a.ハクション大魔王
人間は辛いことにもすぐ慣れる。私は年がら年中鼻炎だけどよくそれを忘れ、そして定期的に後鼻漏で熱を出して鼻炎は悪だと思い出す。勤め先がとっても良い会社なので午前休だけ取ろうとしたらちゃんと休んでと言われて、結局二日も会社を休んでしまった。人の優しさに安心する反面で、自分の席なんて誰にでも座れる席で万が一私が居なくなっても何の差し支えもないんだという事実で胸が苦しくなってしまった、我ながらめんどくさい。 しかし本当に自我が弱いんだなと思うけれど、ちょっと熱が出ただけで服を着るのもトイレまで行くのも一苦労だった。「一生一人でも楽しく生きていけるようになりたい」とか甘っちょろいことを思っているけど、体調不良を治そうと思って買った栄養ドリンクの蓋も開けられない体たらく。ショックだ…。それ以上にとてつもなく心細くてびっくりしたし、いやだった。いやだと思うってことは自分が弱いことを認められていないらしいな。
常日頃から人の悪意や負の感情が汲めない人間を嫌う気持ちがある。自分の素質にそういう他人の気持ちに鈍感な部分があるから同族嫌悪かもしれない。「そんなことで怒る?」というような種類の傲慢。でも、そんなことで怒る?私なら怒らないけど…というようなことで怒る人が沢山いるのが現実だってことも知っているので、できない思考を取り入れようとして極端になってしまって、こんなことされたら嫌だろうなあという想定のハードルが恐ろしく低い。親しい相手や好ましく思っている相手に頼られたら嬉しいけど、反対に自分が頼るとなると申し訳ないし相手は迷惑だろうなと思ってしまう。でも逆の立場で考えたらそれはひどく寂しいことだ。最近そのことに気づいて、信頼している人には思っていることを話したり苦しいときに頼ったりするようにしていた。だから、今回も珍しく母に助けを求めたんだと思う。来てくれるとは思わなかったけど。熱で朦朧としながらアイスを食べたら心細さは少し和らいだ。案外みんな優しい。そこで調子に乗らないようにしないと。前にツイッターに書いたかもしれないけど本当に忘れないように"調子に乗らない"ってタトゥー彫りたいくらいだよ。寝すぎてねれないけど、もう寝なきゃ。明日から仕事頑張るよ、おやすみ。
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herdofloner · 7 years
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father complex
父のライブを見に行こうと思ってバーに行った日、入り口で知らない綺麗な女の人に話しかけられて、誰だか分からないままニコッとしたらそれが父の新しい奥さんだった。父が出会って3か月で3度目の結婚を決めた相手のその人はニコニコしてて可愛いかった。
これまで父とは色んなことがあった。普段からどうしようもない事があると自分の感情から逃げてしまう私は、父に対しては特に顕著に自分がどんな気持ちで、それをどう持て余しているのか分からなかった。とにかく、ゼロではなかった色んな感情がその日を境に、ふっと消えた。それはもしかしたら自分に都合のいい勘違いかもしれないけど、不自然な歪曲ではなくてごく自然なことに感じた。なぜだか父が幸せそうでよかったと思ったし、あんなに色んな事やらかしておきながら幸せそうなのはもはや頼もしいとも思った。幼い自分の不幸な状況を作った憎い相手だというのに、私は結局ずっと父の事が心配だったのかもしれない。
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herdofloner · 8 years
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moved.
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herdofloner · 8 years
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まちがいさがしです。
CCになってレタッチもしやすくなったよね。
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herdofloner · 8 years
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ハートを書きまくって自分の誕生日が迫っていることを知るあたりでやっとあけましておめでとうの挨拶ができそうです。おめでとう。今年の目標は受動的積極性を身につけることと、カバンを持たずに出かけるようになりたいということです。要は身軽になりたい!でも目標を掲げるより習慣を変えることのほうが重要だよね。そんな感じで今年もよろしくお願いします。
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herdofloner · 8 years
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herdofloner · 8 years
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herdofloner · 8 years
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親知らずが痛くて目in BEPPU行けませんでした めちゃくちゃショック その代わりにいった病院でもらった薬が全然効かないので本当にいけばよかった 状況の配列は誰と行ったんだっけ 別府いきたかったなあ 大分には5歳から6歳まで住んでたんですが、なんとなくある記憶の、雨の日の湯煙なのか霧なのか寒さなのか分からないけど、もうもうと白んでいる景色が好きです 異世界っぽい あと 汚いのかもしれないけど 雨の日の露天風呂も好き 静かで
みなさんの大好きな12月ですね、おめでとうございます
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herdofloner · 8 years
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性別とデザイン
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毎月の逃げられない予定、生理。かなり行動が制限されるし、最中だけじゃなくて、救いようのないほどイライラしてよく考えたら生理前だったとかもしょっちゅう。なので生理日予測アプリは切り捨てられない。でもなかなか使いやすいアプリがなかった。そういうフラストレーションが前置き。
最近使っているClueというアプリが見やすいし、UIも小気味よくて、何よりピンクが使われていないのが最高。女性向けでこういうアプリはあんまりない。調べてみたら、ピンクを使わないことにこだわって作られたらしいです。
スマートフォンアプリ市場には、女性向けというジャンルが確かに存在する。生理の日付や体調・気分を記録して排卵期を予測するアプリも、そのひとつだろう。
「かわいらしさ」を追究しているのか、その手のアプリの多くは、パステルカラーやピンクを基調にした「女性が好きそうな色」を多用するものだ。だが、ドイツ発の排卵期予測アプリ「Clue」は、あえてデザインにピンクを用いないことにこだわった。その理由は、簡単だ。女性はそうしたデザインを望んでいないから、である。
http://wired.jp/2014/05/25/app-design-on-clue/
男らしいデザイン、女らしいデザインを求められる事ってよくあるけど、そんなもん本当は殆ど無いと思う マジョリティに見せかけたマイノリティの死を待ち望みます。
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herdofloner · 8 years
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転職しました。二度目です。新しい会社はめちゃくちゃ働きやすいです。
夢のない話ですが、中学生ぐらいのころに自分の長所と短所を客観視しすぎて、「まともに人と関われないかも」とか「同じ仕事続けられないかも」とか思って、WEBデザイナーなら私の頭でも楽しくできるんじゃないかなと思ってから今の仕事を目指しはじめたわけですが。何やかんやで学生の頃からインターン行ったりしてたので働き始めて3年になりました。
最初の会社では働きすぎてウワーっとなったし、次の会社では上司がゆるすぎて仕事にならないのでウワーっとなりました。電通の件とかもあっていろいろ考えてたらバッタリ最初の会社の人に連続で会ったりして。あーあのときどうすればよかったのかな、とか考えても足しにならない事を考えちゃうけど、今の会社が働きやすいのであんまり考えなくなりました。
昔からの知り合いが声をかけてくれて、とんとん拍子で採用が決まったので、本当に有難いです。まだ入って一か月だしこれから何が起きるか、どうなっていくのかは分からないけど、頑張るぞ。おわり。
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herdofloner · 8 years
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herdofloner · 8 years
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グリッチノイズ好きです。果物に指突っ込んでる画像も下品で好きです。
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