Tumgik
hisashi-meisou · 1 year
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瞑想会inマルシェのご案内
2023年5月21日(日)「ハッピーマルシェあいち」が福昌寺で行われます。
会場内の部屋をお借りして、瞑想会を行います。
お寺で、心を落ち着かせませんか、、、秋葉殿で行います。
お誘い合わせてのご参加お待ちしております。
時間:
①10:00〜10:30 
②11:00〜11:30 
③12:00〜12:30 
④13:00〜13:30
10時〜13時の毎時00分から瞑想会を4回行います。
初めての方は瞑想を体感していただいて、その方法を覚えていってください。
わかりやすく説明を加えながら行います。
ベテランの方も、どうぞ一緒に瞑想しませんか?
新しい瞑想法を体感してみてください。
およそ30分瞑想タイムとします。
その後は続けて瞑想していただいてもOK!ですし、気軽に質問してくださればと思います。
参加費:
1回 500円
どうぞ瞑想を体験していってください。
お子さまの同伴OK、高校生以下無料!です。
続けて瞑想することもできます。その場合は参加回ごとに500円申し受けます。
場所:
福昌寺マルシェ会場内
〒452-0803 愛知県名古屋市西区大野木2丁目138
お申込み:
参加予約お待ちしております。
zennyuukai⭐️gmail.com
⭐️を@に変えてメールしてください。
当日参加も歓迎します。
頭の中も断捨離しませんか、、、
身の回りを綺麗さっぱりするのと同じように、『頭の中』も綺麗さっぱりしませんか?
瞑想することで『頭の中』を断捨離することができます。
その方法は簡単!瞑想を始めて28年のHisashiがご指導させていただきます。
瞑想会でお待ちしております。
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hisashi-meisou · 1 year
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瞑想会
一緒に瞑想しませんか?
もう長い間瞑想会を行っています。
毎日欠かさず歯磨きをして、入浴をすることで身体の衛生は保たれます。
それと同じように『心』の衛生状態も保ちたいものです。
『心』も綺麗に洗い流して、温まることを必要としているのではありませんか?
そうするためには、瞑想することがとても良い手段となります。
瞑想をご希望の方は、お申し付けください。
時間は30分間から2時間程度まで可能です。
座りやすい服装でご参加ください。
参加者の状況に合わせて理解を深めながら行います。
お問合せ&ご参加申込み:
zennyuukai⭐️gmail.com
⭐️を@に変えて送信してください。
instagram:https://www.instagram.com/hisashi_meisou/
URL:https://hisashi-meisou.tumblr.com/
場所:地下鉄東山公園駅から徒歩8分(名古屋市千種区)ほか
参加費:檀那(ダーナ)
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hisashi-meisou · 1 year
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ヴィパッサナー瞑想のヒント
心をヴィパッサナー=観照する瞑想についてです。
心をヴィパッサナー=観照する瞑想はとても大切な瞑想法なので、上手く行うためのヒントとなればと思い書いていきます。
心の本性を理解して行えば、もぐらたたきゲームのように楽しめると思います。
上手くヴィパッサナー=観照す��ための三つのポイント
心には実体はない、心は観照すると消えていく対象であると知ること
心が対象であるなら、心以外に主体があるはずだという視点を持つこと
本来の主体を発見すれば、仕事も日常も集中して効率よく捗るようになる
ヴィパッサナー=観照するとは、、、
ヴィパッサナー=観照の意味は次のようです。
平静な心で
主観を交えないで
本質を
客観的に冷静に
よく見極める
平静な心
平静な心とは、どういうことでしょう、、、
平静な心とは、働いていない心のことです。
働いていない心とは、心=考えですから、考えていないことです。
主観を交えない
主観を交えないとは、、、
主観とは、自我=考えを持つ人のことです。
考えを持つ人を間に挟まないということです。
本質を
本質とは、、、
そのものの持っている本来の性質のこと=本性のことです。
この場合、心の本性のことです。
想念を自分のものとして、それを思考パターンで膨らませるプロセスのことです。
客観的に
客観的とは、、、
主観を離れて、特定の立場にとらわれないということです。
冷静に
冷静にとは、、、
落ち着いていて、その場の感情に走らないように、という意味です。
よく見極める
よく見極めるとは、、、
よく見て本質を見抜く、真相を明らかにすることです。
心をヴィパッサナー=観照するとは
心とは考えのことです。
考えがあるなぁ、ということです。
考えに実体はない
人がこれは物だと認識しても、認識は心の働きで実体がある訳ではありません。
心の働き=考えがあるに過ぎません。
心を観察すると言っても、考えを観察するだけで実体を観察するわけではありません。
何かを触って五感を通して得た情報を、過去の記憶と思考パターンを組み合わせて、ここに物があるとしている考えがあるだけで、実体はありません。
考えは、ヴィパッサナー=観照すると消えていきます。
ヴィパッサナー=観照する対象は、実体のない考えです。
心はヴィパッサナー=観照される側
心=考えはヴィパッサナー=観照される側です。
これはヴィパッサナー=観照に取り組んでおられる方にとってはとても重要です。
とは言っても、私がこのことに気づいたのは試行錯誤の末、瞑想を始めて20年経ったころです。
読者の方には、早くこのことを腹に落として欲しいのです。
このことに気づけば、考えを自分自身とすることはありません。
これまで、考えを自分自身としてきたのは私だけでしょうか、、、
コペルニクス的転回
考えはヴィパッサナー=観照される心=考え=自分は、対象ですので客体です。
ならば、心=考え=自分をヴィパッサナー=観照する主体が他にあるといえます。
心=考え=自分は主体ではありません。
ヴィパッサナー=観照をするとこのようなコペルニクス的転回があります。
ヴィパッサナー=観照が上手くいくと、見えてくる世界です。
だからと言って、世界がひっくり返るわけではありません。
今まで通りにご飯を食べて、仕事をして、眠ります。
ただ、ものの見方が180度変わります。
考えはヴィパッサナー=観照すると消えていく対象と理解すれば、考えを自己とすることは無くなるはずです。
主体は主体として、客体は客体として、主客転倒しない
ヴィパッサナー=観照する瞑想に取り組んでおられる方は、心=考え=自分は客体であることを理解してくださったと思います。
心=考え=自分はヴィパッサナー=観照される対象で、主体ではありません。
主客転倒しないように、主体は主体として、客体は客体として腹に落としておくことは大切だと思います。
ついついこれを怠ると、心=考え=自分が主体となって、巻き込まれてしまいます。
それでもその時、ヴィパッサナー=観照すれば心=考え=自分は静かに消えていきます。
静かになったら、その静けさの中に留まることです。
その後にまた考えが始まっても、それに気づいて、ヴィパッサナー=観照します。
そしてまた静けさに留まります。
何度でも繰り返します。
次第に気づくのが早くなり、心をヴィパッサナー=観照する瞑想が上手くできるようになることでしょう。
心をヴィパッサナー=観照する瞑想ができると何が変わるの、、、
これができるようになると何が変るでしょう、、、
慣れてくると、仕事中や日常の中でも頭の中の無駄なおしゃべりに心を奪われてしまったときに気づきます。
とりとめのない頭の中の無駄なおしゃべりは、早く終了させたほうがいいとわかります。
もぐらたたきゲームをする時のように、仕事中や日常であっても、頭の中の無駄なおしゃべりが現れてきたら、ヴィパッサナー=観照します。
それだけで、頭の中の無駄なおしゃべりは消えていきます。
その結果、仕事も日常も集中して効率よく捗るようになりました。
仕事をする時や日常をこなす時は、頭の中の無駄なおしゃべりは観照して終わらせます。
仕事や役割を機能させる時は、自分のものとしないで、しっかりと思考を働かせれば良いのだと分かります。
その結果、物ごとを広い立場から見れるようになると思うのです。
自分の考えに固執せずに、他の人の意見を素直に聞けるようになるかもしれません。
これは本当に大きな変化で、心の豊かさが増したと感じるかもしれません。
心をヴィパッサナー=観照する瞑想法
心地よくかけます
目は閉じても開けてもやりやすい方で構いませんが、落ち着いたら閉じます
呼吸を観察します
落ち着いてきたら心を観照します
心が現れてくる度にヴィパッサナー=観照します
静かになったらその静けさにとどまります
瞑想時間の目安は一回合計5〜20分前後、一日2回程度
心をヴィパッサナー=観照する瞑想を上手く行うヒントのまとめ
ヴィパッサナー=観照するとは、考えがあるなぁと気づくこと
心をヴィパッサナー=観照すると、心は対象であると気づくので、心を自分自身とすることはなくなる
ヴィパッサナー=観照が上手くいくと心は主体ではないと気づき、コペルニクス的転回がある
主体は主体として、客体は客体として主客転倒することなく見極めます
結果、仕事も日常も集中して効率よく捗るようになり、心の豊かさが増したように感じる
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hisashi-meisou · 1 year
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この自分は何者か?と、私は誰か?は、どう違うの?どう使うの?
瞑想を続けていると、ある段階で「この自分は何者か?」と「私は誰か?」はどう違うの?どう使うの?
という疑問を持つ時がやってきます。
この自分は何者か?の意味
私は誰か?の意味
これらのキーワード=公案を使ってできること
これらのキーワード=公案を瞑想に使えばとても大きな良い効果を発揮します。
活動している時、仕事や日常において行えば、気持ちが切り替わって集中を取り戻すことができます。
キーワード=公案とは
キーワード=公案は、思考の渦に巻き込まれている人にそのことを知らせるきっかけになります。
他の瞑想法を行っていて、先に進みたいけど進めないという方には、これらのキーワード=公案を使う瞑想法は、ステップアップするための良い対処法となります。
仕事や日常においても、とても高い効果を発揮してくれます。
初めてそれらを知った時
「この自分は何者か?」を初めて知った時は「自分は自分でしょ」っていう感じとなるかもしれません。
しかし「この自分の正体は?」と考えてみてください。
普段使っているこの「自分」とは本当のところ何者なのでしょうか?
何者を自分と呼んでいるでしょうか?
自分とは、何者でしょうか、、、
一つは、身体を通して得られた情報に対してもつ考えと、もう一つはその素となる過去の記憶です。
自分とは、その人の持つ考え=心のことです。
自分は探求されると消えていく
例えば、あぁ今自分はこのように考えているなぁ、と知ることができます。
その時「この自分とは何者か?」と探求すると、この自分は考えですので「この自分」は静かに消えていきます。
この自分=考えは消えて、静けさが現れてきます。
考えで一杯の時に、このキーワード=公案を使うと静かになるという効果が期待できます。
冷静さを取り戻し、落ち着くことができます。
「私は誰か?」の三段階
「私は誰か?」は一連の三つのキーワード=公案で成り立っています。
それは誰に現れてくるのか?
「私」にである
その私は誰か?
この最初の「それ」はこの自分=考えのことです。
「この自分=考えは誰に現れてくるのか?」という意味です。
「この自分=考えは誰に現れてくるのか?」
「この自分=考えは誰に現れてくるのか?」という問いかけに対する答えは、何でしょうか?
「誰に?」と問われれば、私以外の他の誰かには現れません。
どう見ても「私」にです。
「この自分=考え」は「私」に現れてきます。
誰を私と呼んでいるのでしょうか?
この場合の「私」とは、「考え」が現れてくる場と、そこに「考え」が現れたことに気づく観点です。
静かに瞑想をしていると気付くと思いますが、知らない内に静けさの内に、考えは現れてきます。
考えはそれが現れる場があって初めて、働きます。
そして、それに気づく観点があって初めて、考えは認識されます。
「私」という場と観点は、意識と呼ぶことができます。
「この自分」と「私」の違い
「この自分」は、考えのことを言います。
「私」は、その考えが現れる意識のことを言います。
私は誰か?
「私」つまり意識とは何か?を探求するということです。
申し訳ありませんが、誰はいません。
「私」=「意識」=「場と観点」も「誰」も観念ですので、探せば消えていきます。
消えれば、���黙がやってきます。
全てリセットされます。
一旦全てをリセットしたい時に、このキーワード=公案を使うと効果を期待できます。
「この自分は何者か?」と「私は誰か?」というキーワード=公案を使う瞑想法
心地よくかける
目を閉じる
「この自分とは何者か?」と自分に問いかける
静かにする
想念が現れてきたら観察してやり過ごす
「この自分とは何者か?」再度自分に問いかける
静かになってきたら「この自分は誰に現れてくるのか?」と自分に問いかける
その答えは「私」にである、となる
その「私は何者か?」探求する
「私は何者か?」と探求した後の感覚を黙想する
5〜20分前後これらを繰り返す
瞑想効果を普段から生かしたいときにも使えます
瞑想をしている時は、リラックスして落ち着いていられるのに、それが終わると元の木阿弥と化してしまうということはよくあることです。
いざ普段の活動の場に戻ると、仕事や日常の渦に巻き込まれてしまいます。
活動の場でも瞑想効果を生かしたいと感じている時に、私はこの一連の3つキーワード=公案を使います。
それ(この自分 or 考え )は誰に現れてくるのか?
「私」にである
その「私」とは何者か?
活動の場でもその時その場で、自分で自分に問いかけます。
御破算で願いましては
瞑想をすることの目的は、瞑想の時だけ静かにいられることではありません。
誰でも活動の場があって、仕事して、会話して、掃除や食事したりします。
そういうときにも静かに豊かに過ごしたいはずです。
ところが、静けさの内に「この自分=考え」は現れてきます。
そして、何か一つの出来事を捕まえては、大きく内容を膨らませていきます。
これは、楽しいことでもあるのですが、本当に大切なことが疎かになってしまうことがあります。
そんな時、キーワード=公案を使えば、とても効果があります。
算盤で言えば、「御破算で願いましては」にあたり、リセットできます。
いつでもどこでも何度でも
いかがですか?リセットされましたか、、、
最初は、このキーワード=公案を使うことすらも忘れることがあるかもしれません。
この方法は大きな効果を期待できますので、普段から気にかけて少しずつ意図的に練習するところから始めるのは良いことと思います。
集中したい大切なことに向き合う前に行えば良いと思います。
一旦、リセットされゼロの状態になります。
慣れないうちは、またすぐに元の木阿弥と化すことがあるかもしれません。
いつでもどこでも何度でも行っていただいて大丈夫です。
あまりに続くときは、心地よくかけて、目を閉じて行うのが良いと思います。
思考は機能させるために
普段の仕事や日常の場で行ってみてください。
瞑想効果が感じられるはずです。
即座に一旦御破算で願いましてはの状態にリセットされます。
そして、しっかりと仕事や日常の役割や機能を果たしてください。
その時の思考には、個人の自分が入りにくくなるので、そのためになら思考もどんどん働かせて良いと思います。
個人の自分が静かになった状態で、思考を使うと役割や機能をしっかりと果たしてくれます。
仕事などが終わったらまた、「それは誰に現れてくるのか、、、」とリセットするために行えば、気持ちの切り替えができます。
このキーワード=公案を使った時、、、
このキーワード=公案を使った瞑想法は、私は何度も行いました。
お蔭で心と意識について、深く理解することができました。
心も意識も自己の現れではあるが、自己とは呼べないものだと分かりました。
心と意識に先立って自己はあると分かりました。
自己に「ある」と違和感なく本質的な自分らしさを感じます。
とても心地よさを感じます。
その時そこに「自己」があり、自然で自由にあることを知りました。
活動中に行えば、気持ちがリセットされて切り替わるのを感じます。
仕事中に何か気になることがあっても、重要でないことなら切り替えて仕事に集中することができます。
仕事に向かう前に行えば、御破算で願いましてはの状態から仕事に向かうことができます。
大変重宝して、愛用しています。
皆様にも、体験の結果、純粋な気持ちからオススメいたします。
この自分は何者か?と、私は誰か?は、どう違うの?どう使うの?のまとめ
「この自分は何者か?」というキーワード=公案は、思考の渦から解放してくれる
「この自分の正体は?」と考えると、「この自分」は考えのことと分かる
この自分を探求した結果、実体のない考えが消えていき、静けさが現れる
静けさが現れたら「この自分=考えは誰に現れてくるのか?」から始める
「この自分」は「私」に現れてくる
「私」とは意識のこと、つまり自分=考えは意識に現れてくる
意識には映し出す場としての働きと観察する視点という主体的な面がある
意識は観念で実体はないので探求すると消えていく
意識が消えていった時そこに「自己」があり、自然で自由にあることを知る
仕事や日常の活動している時、1.それは誰に現れてくるのか?  2.「私」にである  3.その私は誰か?は、気持ちをリセットするために行うことができ、効果抜群!
自分が静かになった状態で、思考を使うと役割や機能を果たしてくれる
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hisashi-meisou · 1 year
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自由になりたい、、、それは瞑想の原動力
自由になりたい、、、と思ったことがあると思います。
そのために日々努力しているのですから、、、
何から自由になりたいのでしょうか、、、
自由になりたいという思いはどこから現れてくるのでしょうか?
どんなとき、なぜ、誰が、、、
それらのことについて一緒に考えていければと思います。
瞑想を進める上で大切なことですので、理解の上、腹に落としてくださればと思います。
何から自由になりたいの?
人間関係から自由になりたい
このような思いは、自分が中心と考えている時に起こります。
「この自分」がこの世の中心なのだから、「この自分」をもっと尊重すべきなのに、されていない。
周りが変わるべきで、「この自分」は思いのままに自由に振る舞いたい。
次の段階では、その自我を通してはみたが、他の誰かがその犠牲になっていることに気づきます。
他の誰かを犠牲にするのは忍びない。
しかし、自分でも知らないうちに、どうしようもなくて、そのように振舞ってしまう。
この自分の気質から自由になりたい。
そう考え始めます。
そして次に、私には理性があると気づきます。
「この自分」の我がままを心の中で捕まえて、理性で抑え込まなければならない。
過去の経験を思い浮かべてみて、他に犠牲者が出そうな場合は理性で抑え込もうとします。
理性、つまり心の働き=思考で頭の中が一杯になります。
思考から自由になりたいと考えます。
行動を理性で押さえ込むわけですから、これはもう雑念で一杯になります。
この雑念を何とかして発散しなければならないと感じます。
雑念から自由になりたいと考えます。
このように、気質や思考から自由になりたいのです。
気質や思考は普段「自分」とか「自分のもの」と考えている物ごとです。
「自分」という何者かから自由になりたいと考えているのです。
誰が自由になりたいの?
「自分」から自由になりたいと言っているのは、誰でしょうか?
「自分」から自由になりたい誰かは、「自分」より前に存在していなければなりません。
「自分」を取り去ってみたときに存在するのは、静けさです。
静けさには、思考が働いていないので、誰もいません。
自由になりたい時、誰はいません。
自由は、静けさに投影された本質の姿です。
自己の姿です。
自由になりたいという思いは、どこから現れてくるの?
自己は、あるがままで自由です。
意識に「自分」が現れてくると、あるがままでない、自由でない状態となります。
その時、自由は自己から現れてきます。
そして心はそれを捉えます。
「自由になりたい」は、自己からの声です。
なぜ自由になりたいという思いが現れてくるの?
自由が自己の本性です。
最初は、「この自分」をじゃまするものから自由になりたいと考えます。
次は、「この自分」や「この自分のもの」から自由になりたいと思います。
そして、現れから自由になりたいと変化します。
現れ以前にあるのは、自己です。
自己はそもそも自由です。
どんなとき自由になりたいと思うの?
自己の本性のままでない時、自由になりたいのです。
しかしその声は、弱く小さいか、それを覆い隠すようなもっと強い自我の声があるものです。
瞑想をして慣れてくると、心の奥底の声を聞くようになります。
顕在意識が鎮まり、潜在意識の声を聞くようになるからです。
本来の意味で、自由になりたいと感じるときがきます。
そのときは自由になりたいという、声を聞き、自由を実現させることを最優先としましょう。
私はそうしてきました。
その他の声を聞くのは、自由になった後でも決して遅くはありません。
自由になりたいと思うとき、瞑想は最高の友人として、手助けしてくれます。
自由になりたいという思いは、瞑想することで増幅します。
そしてまた、自由になりたいという思いは瞑想の原動力ともなります。
何かから自由になりたいという思いはお持ちでしょうか、、、
瞑想することで、その思いは正しく認識されることになります。
私の場合は、その気持ちを最優先としました。
自由になりたい、、、それは瞑想の原動力
「自分」という何者かから自由になりたいと思う時が来る
自由になりたい時、誰はいません
自由になりたいは潜在意識を通して現れる自己の姿
瞑想することで、自由になりたいという思いは増幅される
その思いは瞑想の原動力となる
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hisashi-meisou · 1 year
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何をやっても上手くいかない時、瞑想で対処する
仕事や日常において、「何をやっても上手くいかない」という時はありませんか?
そういう時は瞑想をすることで、自然の支援が味方について、びっくりするくらい上手くいくことがあります。
瞑想がスムースにいけば、個人の自我が取り去られて、無心となります。
無心での行為は、自然の流れに乗り、自然の支援を感じられるようになります。
武道から学ぶ無心と自然の支援
瞑想と自然の支援について
上手くいかない時の対処法として瞑想をオススメする訳
集中したい時はまず無心
私は、武道の稽古をしてきました。
他の誰かと対して、技をかけあいます。
どんなスポーツでも同じですが、その最中に頭の中が考えで一杯であったり、考えてから行動していたらすぐに勝負ありです。
相手がこう来たからこう動くとか、こっちよりあっちのほうがいいとか言っているうちに終了してしまいます。
反対に人によっては、スローモーションで見えるなどということもあります。
それは集中力が極まった時などに起こることです。
考えが取り除かれなければ、集中することはできません。
無心とは
無心とは、心を無くすことです。
心とは、イコールいろいろな考えのことですので、無心とはいろいろな考えを無くすということです。
このいろいろな考えは欲と解釈される場合が多いと思います。
例えば、武道とかスポーツの場面で、欲を出して「勝ちたい!勝ちたい!」とばかり考えていると、プレイに集中力を欠いて普段の力を出せなくなります。
仕事や日常においてはどうでしょう?
仕事や日常においても、無心であることは大切です。
いろいろな考えで頭が一杯なときは、何も手につきません。
むしろそのいろいろな考えに集中していると言えます。
まずはそのいろいろな考えを止めることから始めなければ、ことに集中することはできません。
武道から学んだこと
意識を超えていく
武道を稽古するときに実践することがあります。
例えば、技をかけるために腕を伸ばす時に、それにとどまらずにそこからその延長線上に気持ちを伸ばしていきます。
屋外で行うなら、その雲の向こうの、さらに星の向こうの、さらに銀河の向こうの、さらにその向こうの、その先です。
宇宙の果ての最果ての、意識の届く最も先まで伸ばし、意識を超えていきます。
実際には目には見えませんが、本当に見るつもりで視線を向けます。
視線の先は意識の最果てか、それを超えたところです。
そのとき無心ですし、意識をも超えた状態です。
武道から学んだことの一つは、意識を超えて無心となるということです。
意識を超えて目の前のことをなす
二つ目は、意識を超えて目の前のことをなすということです。
目の前に対する相手がいたとしてもその意識を超えた状態は変えません。
意識を超えていながら目の前の相手と対していくのです。
目の前の相手と対してはいるが、意識はそれを超えたところにあります。
それは同時に動く
お互いにそのような状態の場合、一方(A)が相手に向かって技をかけ始めると、もう一方の相手(B)は、自然にそれに同調して動き始めます。
それは同時に動きます。
(A)が動いたから(B)が動いたのか、(B)が動いたから(A)が動いたのか本人同士にも分からないくらいです。
無心の行為で、自然や無心の人が呼応して動く
無心で行為すると、それと同じ境地にあるものはそれに応じて同時に動くということです。
まず無心の人が呼応して動きます。
そして同じように自然には心はありませんので、無心での行為は自然がそれに呼応して動きます。
武道から学んだことの三つ目は、無心で行為した人から見れば、自然の支援があるように感じられるということです。
瞑想と自然の支援
これらのことを理解した上で、瞑想について見ていきたいと思います。
瞑想がスムースにいくと、いろいろな考えは静かになり、意識を超えて「ある」状態へと進みます。
それは、武道から学んだ無心で意識を超えた状態と同じです。
瞑想に慣れてくると普段活動している日常や仕事の時にも、無心の状態でいられるようになります。
思考が働いたとしても、個人の自我を通さずに行うことができるようになります。
その時、思考することにも自然の支援を感じることができます。
自然の支援を仕事や日常でも感じる
瞑想がスムースにいくと、仕事や日常などの活動している時にでも、自然の支援を受けていることが感じられるようになります。
きっと、シンクロしている感覚とか、セレンディピティを感じられると思います。
もちろん無心でいられることであれば何でも構いません。
活動的な方は、武道を選ばれるかもしれません。
ただ、瞑想は気軽にいつでもどこでもできて、簡単で安心安全です。
活動的な方にも静かに休息することは大切です。
さらに、悩み全般を解消していくことも期待できます。
集中力や切替力、さらには直観力も発揮しやすくなります。
また、人間関係も改善されていきます。
無心になって、大いなる自然の流れと一つとなって仕事や日常を送る感覚を身につけてください。
「何をやっても上手くいかないなぁ」と感じる時の対処法
「何をやっても上手くいかないなぁ」と感じる時の対処法として、瞑想をオススメします。
私の体験上の感覚ですが、物ごとには即座に結果が現れることもあれば、自分の期待とは時間的なズレがある時があります。
どうしても期待したくなりますが、期待すること自体が無心ではありませんね。
そんな時も、長い目で見られるようになります。
思い通りにならない理由を理解できるようになります。
物ごとを大きく動かすような仕事をされる方には瞑想していただきたいです。
家族の要となる方にも瞑想していただきたいです。
無心になって、大いなる自然の流れと一つとなって、仕事や日常を送る感覚を身につけて欲しいと思っています。
自然の支援を感じられるようになります。
何をやっても上手くいかない時、瞑想で対処する
仕事や日常において、「何をやっても上手くいかないなぁ」という時はありませんか?
まずは集中できるように、その前に無心となっていることが大切
無心とはいろいろな考え=欲を無くすということ
武道から学んだことの一つは、まず最初に意識を超えて無心となるということ
二つ目は、意識を超えた状態のまま、目の前のことをなすということ
三つ目は、無心での行為は結果として自然の支援が感じられるということ
瞑想が上手くいくと、武道から学んだ無心で意識を超えた状態と同じになる
瞑想で、仕事や日常時にも、自然の支援を受けていることが感じられるようになる
「何をやっても上手くいかない」という時、瞑想することで対処されることをオススメします
無心になって、大いなる自然の流れと一つとなって仕事や日常を送る感覚を身につけて欲しいです
自然の支援を感じられるようになります。
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hisashi-meisou · 1 year
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「ある」について
瞑想を始めたら「ある」という状態まで進んでください。
「ある」は「ある」なのですが、、、「ある」は言葉では上手く表現できません。
この「ある」を体感していただきたいのです。
 
熟睡している時
まずは眠っているときのことを思い出してみます。
夢を見ているときではありません。
熟睡しているときの状態を思い出していきます。
熟睡しているときは、言葉を話すことはありません。
考えることもありません。
周りや他の何かを意識することもありません。
とても安らかな状態です。
その状態を説明するとしたら、どうすれば良いでしょう。
「熟睡している状態はありました」という感じでしょうか、、、
「ある」時
それと同じように「ある」という状態を説明するとしたら、どうすれば良いでしょう。
瞑想し終わったあとに、「ある」という状態はありました。
定義付けするならそれは「ある」ということです。
瞑想をしてみます
瞑想の仕方を簡単に書いておきます。
心地よくかけて目を閉じます
客観的に冷静に観察=観照します
呼吸を観照します
身体を観照します
心を観照します
静けさに留まります
探求します
心は誰に現れてくるのか?
それが「私」にであれば、その「私」とは何者か?
私の背後にあるそれは何者か?
 
探求のそのあとすぐ
探求したらそのあとすぐの状態に「ある」ようにします。
1秒後です。
なんなら1/4秒後です。
「ある」ようにします。
1/4秒後は沈黙
探求したそのすぐあと現れるのは、沈黙です。
そこには、言葉も心も意識も働いていません。
ですので、何にもないように感じられます。
沈黙として捉えようとします。
ここでは、感じたり、捉えようとすることもしないことです。
自分が熟睡している時に、自分は今どんな状態かと考えようとすれば、目を覚まさなければなりません。
熟睡は終わります。
「ある」を説明しようとすれば、瞑想としては大成功の状態をあきらめる事になります。
探求した1/4秒後にそのまま「ある」ことです。
これが難しいところです。
私も最初、まだ理解が深まらなかった時には、何度も「ある」からスルリと抜け出てしまいました。
どう対処したら良いのでしょう、、、
上手く「ある」に留まれない時は、あっさりと上手くいっていない事を認めます。
そして静けさにとどまる瞑想法をそのまま続けて行います。
簡単に瞑想法を記しておきます。
心地よくかけ目を閉じます
しばらく心臓の脈動を観察します
脈動が全身に感じられるようになってきたら、ハミング音を出します
ハミングは最低でも10分行います
この瞑想を行ったあと静けさに留まり、その後探求をします。
静けさの背後で働く存在は何者か?と探求します
そのようにやり直せば、上手くいく婆雨が多いです。
この静けさにとどまる瞑想法が上手くいくと、深く静けさにとどまることができます。
思考が始まりにくくなります。
それでも上手くいかない場合はどう対処したら良いか、、、
それでも上手く「ある」に留まれない場合は、あっさりと上手くいっていない事をもう一度認めます。
そしてイメージを使った瞑想法を、静けさにとどまる瞑想法の後に、そのまま続けて行います。
簡単に瞑想法を記しておきます。
イメージします
頭の上でバターが溶けて、黄金色に光り輝く油が、全身にしみ込んでいきます
それに押されて、足の裏からトロリとした油が大地深く染み込みマグマで焼かれます
��身が黄金色に光り輝く
この瞑想を行ったあとその状態に留まり、その後探求をします。
静けさの背後で働く存在は何者か?と探求します
そのようにやり直せば、多くの場合上手くいきます。
このイメージをつかった瞑想法が上手くいくと、身体感覚が後退した上に言葉の感覚が後退します。
それでもなお上手くいかない場合の対処法
それでも上手くいかない場合は、一旦休憩を入れた方が良いです。
「ある」の実感はなくとも、しっかりと瞑想はできています。
何でもそうですが、長時間行いすぎたり、急激に回数を行うと反動がある場合があります。
様子を見ながら常識の範囲内で行えば良いと思います。
「ある」を目指す方にアドバイス
静けさにとどまる瞑想法とイメージを使った瞑想法が効果があるなら最初から行えば良いと思われるかもしれません。
もちろん最終的には、「ある」ことが大切なので、その通りだと思います。
観照する瞑想からステップを踏んで行う方が、自然の流れに沿った瞑想になると思います。
初期の段階では、観照する瞑想はできるだけ省かないほうが良いです。
「ある」は体験することが大切です。
瞑想をしっかりと行えば、体験しその言葉では表せない、素晴らしさを知ることができます。
そして慣れてきたら、仕事や日常のことをこなしながら「ある」ことができるようになります。
本来の自分自身と呼べる自己として、「ある」がままにあることができます。
「ある」についてのまとめ
瞑想を行ったら、「ある」という状態まで進む
「ある」は言葉では上手く表現できない
「ある」は探求したそのすぐあと現れる
「ある」からスルリと抜け出てしまったら、静けさにとどまる瞑想法をそのまま続けて行い、その後探求する
それでも上手くいかない場合は、イメージを使った瞑想法をそのまま続けて行い、その後探求し直す
観照する瞑想からステップを踏んで行う方が、自然の流れに沿った瞑想になる
慣れてきたら、仕事や日常のことをこなしながら「ある」
本来の自分自身と呼べる自己として、「ある」がままにある
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hisashi-meisou · 1 year
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物ごとを直観的に捉える瞑想法
もっと直感を働かせたいと思うことはありませんか?
自分の考えを押し通して、消化しきれない思いで一杯になることを終わらすことはできないものかと思っているころでした。
直感を働かすことができれば、スムースにいくはずだと思い模索し始めました。
その結果、最初の想念と自分の考えを結び付けなければ、自分の考えは働かなくなると分かりました。
その状態でいると、潜在意識の声を直観的に捉えやすくなることことが分かってきました。
自分の考えとはどういうことか
心をヴィパッサナー=観照すると自分の考えを止められる
潜在意識の声を直観的に受け取る方法
自分の考えを押し通しそうとすることを終わりにできないか、、、
私は、ある時期まで人に反対されても、自分の考えを押し通してしまうようなところがありました。
一旦自分の考えが正しいと思ってしまうと、ついつい排他的になったり、感情的になったりしていました。
これでは、人から疎んじられてしまうので、何とかそうでないように見せるために人の考えを受け入れようと頑張って日常を送ることになります。
そうしていると自分の中で消化しきれない思いが一杯になってしまいます。
その時、自分の考えを押し通そうとすることをやめたいなぁと強く思いました。
直観的に捉えれば対処できる!?
人の考えを取り入れる柔軟さを身につけるためには、まずは本を読むことだと思って、アットランダムに読んでみました。
人の概念を理解して、自分の考えに多様性は生まれました。
それは良いことなのですが、その新しい考えに固執してしまいます。
固執することを、何とか終わりにしたいのです。
そんな時直観に関するテキストに、糸口を見つけました。
直観を働かせるためには、自分の考えを働かせないことというのです。
潜在意識の声を、自分の考えによって加工しないで、表面化することだというのです。
そんなことできるのか、、、と最初は思いました。
確かに自分の考えには、パターンがあっていつも同じようなことばかり考えて、同じような結論になっています。
それならもう少しそのあたりのことを解明してみようと思いました。
心をヴィパッサナー=観照する瞑想を始めてみて分かったこと
理解が腹に落ちだしたのは、新しく心をヴィパッサナー=観照する瞑想を始めた頃からです。
心を客観的に冷静に観察する瞑想法です。
心を観照して分かったことは、考えることは止められるということです。
これはその頃の私にとって本当に素晴らしい大発見でした。
自分の考えが止まれば、こだわることも、押し通すことも、消化しきれない思いで一杯になることもなくなるはずです。
自分の考えが働くとこうなる
自分の考えが働くと、自分の考えと潜在意識の声との間には、ギャップがあるのにもかかわらず繋げてしまう
その後自分の過去の記憶と比較する、好きか嫌いか、判断する、願望を抱く、計画することに繋げてしまうので、自分のものとしてしまう
自分の考えが働いた時点で、潜在意識の声は加工されて別物となってしまう
自分の考えは推測或いは希望的観測
自分の考えにつなげると、自分の好き嫌いに合わせて解釈して結論を出してしまいます。
本来、事実のみを事実として解釈しなければ、現実とかけ離れてしまいます。
一つの事象が起こるには、多くの物ごとが関わりあっています。
基本的に、そのすべての要素を自分の考えに組み込むことはできません。
ですので、自分の考えを働かせると事実から離れてしまう。
自分の考えを働かせた時は、推測或いは希望的観測となります。
心をヴィパッサナー=観照する瞑想をすると効果的
心をヴィパッサナー=観照する瞑想をすると直感を働かせる効果が期待できますので、参考までに仕方をご紹介しておきます。
まずは呼吸を観察して落ち着いてきたら、自分の考えを客観的に冷静に観察します
想念が現れてくる度に客観的に冷静に観察します
上手く観察できると想念は消えて、静かになる
静かになったらその静けさにとどまります
瞑想して、自分の考えについて分かったこと
自分の考えは二義的で、必ずしも最優先にすべきことではない
自分の考えは状況に合わせて、上手に使い分ければ良い
自分の考えに巻き込まれ、とらわれないようにする
直観的に物ごとを捉える方法
瞑想は効果的ですが、ただそのままでは最初は、直観を働かせることは難しいかもしれません。瞑想を終えた後に行うと効果的に直観を働かせられる方法をご紹介します。
疑問に思うようなことがあったら自分自身に問いかけて、最初の想念を潜在意識の声として、見つけ出す
潜在意識の声は感覚的で、イメージであるとか、サウンドであるとか、体感的なものとして捉えられる
潜在意識の声を、自分の考えに結び付けない
潜在意識の声をデータとして、そのまま、ありのままに捉える
客観的に冷静に説明するように丁寧に言語に置き換えていく
そのままの言語を正しく記憶或いは記録する
それを検証、つまり本当かどうか事実確認をする
直観的に物ごとを捉えるために注意すること
瞑想した後や集中力が高まっている時に行うようにする
潜在意識の声に所有者はいません
できれば自分のものとも他の誰かのものともしないことです
捉えた潜在意識の声だけに注意を払います
捉えた潜在意識の声からイメージを膨らませるようなことはしません
検証して、皆に分かるように、現実に即した形で示すことが大切です
直観を必要としている方へのアドバイス
私は、直観的に物ごとを捉えたい時はこの方法を使っています。
ただ自分の考えが時として傲慢さとして現れてくることがあります。
謙虚さを忘れると、固執して消化しきれない思いで一杯になってしまいますので、本当に純粋に潜在意識の声なのか常に注意を払う必要があります。
最初のうちは潜在意識から得られた直観を検証した結果に、いくら自信があっても推測としておいた方がいいと思います。
瞑想をされている方なら、直観的に物ごとを捉えやすい状態までは進めると思います。
その先は、多くの人にとって新しい方法となると思いますので、コツをつかむまでは少し練習が必要かもしれません。
直観を必要としている方には、参考になると思います。
一石二鳥
このような思考法をすることで、自分の考えを押し通して、消化しきれない思いで一杯になることを終わらすことができます。
そして、直感的に事実をとらえて、謙虚なままいられます。
自分を機能させ、こころ穏やかでいられます。
瞑想することから始める、物ごとを直観的に捉える方法、、、のまとめ
自分の考えにとらわれてしまうと排他的になったり、感情的になったり、消化しきれない思いが一杯になったりする
心を観照して分かったことは、考えることは止められる、自分の考えが止まれば、とらわれることなくなります
自分の考えにつなげると、自分の好き嫌いに合わせて解釈して結論を出してしまうので、事実とは別物となる
潜在意識の声をそのまま、あるがままに捉え、客観的に冷静に説明するように言語に置き換えて、そのまま正しく記憶或いは記録する
それを検証、つまり本当かどうか事実確認をする
直観を必要としている方には、参考になるはず
その結果、自分を機能させ、こころ穏やかでいられます
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hisashi-meisou · 1 year
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瞑想の5段階チェックポイント
あるがままにある瞑想法のチェックポイントを五段階に分けての説明です。
上手くできているのか、何か足りないことがあるのかチェックしてみてください。
チェックポイント1
心地よくかけているか?チェックします。
腰や首肩に負担がかからないように行いましょう。
私の経験上、無理なかけ方では長続きしません。
瞑想でリラックスするわけですから、心身に負担のない状態で行ってください。
周りの環境を含めてのことですが、それは選びません。
今いる環境で何も問題はありませんし、いつでもどんな場所でも構いません。
瞑想の目的を果たすことだけが大切だと思います。
それは観照、静けさにとどまる、探求、あるがままです。
ただ、周りの人に迷惑をかけていないかはチェックしましょう。
大事なことだと思います。
いかにも瞑想していますというような主張は周りの人も対処に困ると思います。
心地よくかけることは経験上とても大切なことと思いますので、チェックポイントにあげました。
チェックポイント2
観照できているか?
観照の意味は、大切なことなので確かめてみてください。
観照とは、平静な心で、主観を交えないで、本質を客観的に冷静によく見極めることです。
主体として、思考を働かせた人を挟まないで、本質を客観的に冷静によく見極めることです。
ちょっと難しいと感じる方は、客観的に観察する或いはただ見るということでやってみてください。
最初は、呼吸を観照します
呼吸は、自分で深くしたり浅くしたり、ゆっくりしたり早くしたりできます。
しかし、それはしません。
逆にその自分を取り除きたいのです。
呼吸は自然に任せて、観照します。
そうしていると呼吸はゆっくりしてきて、心身が落ち着いてきます。
次に、身体を観照します
頭のてっぺんから足先まで、余すところなく観照します。
全体をいっぺんに行っても良いですが、部分に分けて行うのがいいでしょう。
順番は、構いませんが、最初は上から下へと行うのがやりやすいと思います。
最後は心を観照します
心とは、いろんな言葉で置き換えられます。
頭の中のおしゃべり、マインド、思考、考え、想念、自分、、、などなどです。
放っておくと次から次へと、頭の中のおしゃべりは続きます。
心=頭の中のおしゃべりは、観照すると消えていきます。
いったん消えてもまた次のおしゃべりはすぐに始まります。
何度でも観照しましょう。
観照して上手くいくと、心は消えていき、静かになります。
チェックポイント3
静けさにとどまってるか?
心は観照されると姿を消していきます。
もぐらたたきではありませんが、頭の中のおしゃべりが出てきたら観照してやります。
そうすると、ポイントは入りませんが、瞑想が一歩前進します。
おしゃべりが姿を消すと、静かになります。
その静けさにとどまります。
心が現れたり消えたりするためには、それを表せるような何か基盤のようなものを必要としています。
それは、静けさです。
この静けさを、意識とか私とか呼んでいます。
大きく分けて、二つの働きがあります。
一つは、その心を映し出す基盤です。
もう一つは、その基盤に映し出された心を見る視点です。
それらはいずれも場です。
心は基盤という場に現れます。
その心を見る視点としての場があります。
「場」自体が働くわけではありません。
その場の背後に、働きの本質があります。
チェックポイント4
探求はできたか?
その場としての意識とは何ものかを腹に落として、意識を超えていきます。
意識の背後に確かにある本質=自己を知りたいという思いは大切だと思います。
瞑想のプロセスは背後にある自己を知りたいという思いが推進力です。
その目で見たり感じたりすることのできない何ものか、全ての源を求めます。
この段階までくると、それが何なのかという思いが現れます。
そのためには、意識を超えていかなければなりません。
そのときまずは「意識とは何ものか?」と自分自身に問いかけてみます。
意識とは私と呼ぶことができる性質があります。
ですので、「私は何ものか?」と問いかけても同じ意味です。
意識という場は消えていきます。
意識には実体はありません。
探求すると姿を現しません。
その時自己はあります。
チェックポイント5
あるがままにあるか?
意識を探求して、意識が姿を現さない時、そのあるがままにあることです。
ただあることです。
文字通り、あるがままにあることです。
意識は姿を現しません。
意識に現れる心もありません。
あるもないもありません。
言葉で表すと違うものになりますが、全ての源としてあることです。
このようなことが腹に落ちたとき、自己を知ることになります。
それを知った上で、日常を送ることはとても大切なことと思います。
日常においてもそれができているかどうかも、チェックポイントです。
見える世界は変わりませんが、新たなビジョンが見えるはずです。
私は、そのときそれに直感的に従っています。
人それぞれ感じ方は違うと思いますが、「ある」ことは本当に大切だと知ることができるはずです。
あるがままにある瞑想法の五段階チェックポイントです。
私も最初はこのチェックポイントを抑えながら、瞑想を行いました。
忘れないようにチェックしながら瞑想ライフをお楽しみください。
瞑想の5段階チェックポイント
心地よくかけているか?
観照できているか?
静けさにとどまってるか?
探求はできたか?
あるがままにあるか?
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hisashi-meisou · 1 year
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観照の次にすること
瞑想することは、観照することがとても大切です。
観照ができてきたら次の段階に進むことができます。
その段階は、探求です。
今回はその探求について書いていきます。
観照の仕方
目を閉じて心地よくかけます。
観照を開始します。
観照とは、平静な心で、主観を交えないで、本質を客観的に冷静によく見極めることです。
思考を働かせた人を挟まないで、本質を客観的に冷静によく見極めることです。
呼吸を観照する
まず最初は、呼吸を観照します。
そうしているとだんだんリラックスしてきます。
呼吸は観照されるとだんだん落ち着いてきます。
ゆっくりと静かになってきます。
最初は薄目を開ける
呼吸を眺める時は、薄眼を開けて、一点を集中するのも良い効果を発揮します。
目の動きと思考は連動しています。
一点を見つめて目の動きを止めることで、思考は落ちていてきます。
それに伴って、呼吸も落ちつてきます。
落ち着いてきたら、呼吸を眺めるのを止めます。
そしてゆっくりと目を閉じていきます。
身体を観照する
次に身体を観照します。
詳しくはこちら
頭のてっぺんから、つま先まで余すところなく観照します。
自分のペースで行います。
観照する側が主体で、観照される側が客体です。
できたら身体の観照を終了します。
想念を観照する
この時点でだいぶ心は静かになってきているはずです。
できるだけその静かな状態にとどまります。
静かにしているつもりでも、自然に想念が現れてくることがあります。
その想念を観照します。
観照すれば、想念はどこへともなく消えていきます。
観照する側が主体で、観照される側は客体です。
できたら観照を終了します。
二元性を超える
観照していると静けさが現れてきます。
その静けさに留まることで、主体としてあることの素晴らしさを体験として知ることができます。
次にすることがあります。
主体と客体という二元性を超えていきます。
二元性とは意識の世界のことです。
意識の世界には観照する視点と観照される客体を投影する基盤が見受けられます。
それらはそのような場であって、そこで働くのはその背後の存在です。
その本当の姿は垣間見ることしかできませんが、確かに存在しています。
探求する
意識を超えたところに確かにあります。
それを探求します。
それは何者か?
それは何者か探求します。
自分に向かって問いかけます。
答えはありません。
沈黙が現れます。
しかしそれは確かにあります。
確かにある
全ての源としてあります。
自分でもなく私でもなく、自己と呼ぶことができます。
何者にも影響を受けることはありません。
あるがままにある
それは、身体を自分のものとしないで、客観視出来ている状態です。
それは、想念を自分のものとしないで、客観視出来ている状態です。
それは、主体と客体という意識の世界に左右されない状態です。
それは、何者にも左右されない自然で自由な状態です。
ただあるがままにあります。
瞑想がうまく行った時はこのような状態です。
何が変わったか、、、
私は、普段からこのような状態としてありたいと願うようになりました。
それは、本当に自然で自由な状態と感じることができるからです。
ずっと前からこのことを望んでいたようにも感じます。
心の働きと結びついて、他の願望という形で現れてきてたようにも感じられます。
やっとここへ来て、あの小さな声を聞けるのだと思っています。
自分のことをあれこれ考えを巡らせなくても、自然の流れに任せておけばいいのだと感じられるようになりました。
今のままの自分で良いのだという、自信のようなものを感じられるようになりました。
こんな方にオススメ
観照する瞑想法をされている方
観照する瞑想法の次の瞑想を探されてる方
行っている瞑想法に飽き足らなくなった方
新たな瞑想法を探している方
初めて瞑想される方からベテラン瞑想家までどなたでもお試しください
観照の次にすること、、、探求
観照とは、平静な心で主観を交えないで本質を客観的に冷静によく見極めること
身体と想念を観照する
観照ができてきたら次の段階に進む
それは、主体と客体という二元性を超えていきます
それは何者か探求します
答えは見つけられず、沈黙が現れますが、それは確かにある
自分でもなく私でもなく、自己と呼ぶことができる何者かがある
それは、ただあるがままにあります
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hisashi-meisou · 1 year
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行為しているのは誰か?
日常の合間にときどき考えると心が落ち着くキーワードがあります。
それは「行為しているのは誰か?」という内容です。
朝起きて、歯を磨き、食事をして、会話をして、仕事をして、お風呂に入って、眠るという行為をしているのは誰か?というものです。
それが、腹に落ちるととても落ち着きます。
心地よくかけて、目を閉じて行えば、良い瞑想になります。
行為すると言っているのは誰か、、、
行為するということは、誰かその行為の主体となる人がいることを前提としています。
心が主体として名乗りを上げてきます。
心は、心のことを「自分」と言います。
心は「自���」が行為すると言います。
心は観念で実態はありませんので、行為する主体にはなれません。
行為しているのは「自分」ではありません。
呼び方について、普段私は心のことを「自分」、意識のことを「私」と呼んでいますので、ここではそれに合わせさせていただきます。
行為は起こる
瞑想が上手くいって、活動中も観照ができている状態の時を想像してみてください。
心は観照されて静かになり、消えていきます。
心が消えれば、「自分」も消えます。
それでも行為は起こります。
行為するという表現自体が、「自分」の創りだした思考に過ぎないということになりなす。
「自分」なしでも行為は起こることを目撃します。
行為と「自分」は関係ありません。
誰かはいない
「自分」とは心のことで、思考のことです。
思考は観照される対象で客体です。
客体ということは、他に主体があるはずですので、「自分」は常に主体ではありません。
このような観点からも、行為しているのは「自分」とは言えません。
「自分」以外の誰かを見つけることもできません。
そもそも誰か?はいません。
行為は誰に起こるのか?
行為する誰かはいなくても、行為は起こるものです。
それを前提として、行為は誰に起こるのか?ということについて考えてみます。
誰に?と問われれば「私に」になります。
行為は他の誰かに起こることはありません。
その「私」とは何者でしょうか?
それは意識と呼べるものです。
意識には、行為が起こる基盤としての働きと、観照するための視点という主体としての働きがあります。
行為はどこから起こってくるのか?
どこからその行為は起こってくるのでしょうか、、、
意識を背後から支えている自己からです。
行為は、意識に起こってきた「自己」の投影です。
私は、「自己」から行為は起こってくるとみています。
行為しているのは誰か?という問いの結論は、、、
全ての行為は、自己から起こってきます。
それを心が自分のもとして、好きとか嫌いとかの判断をします。
冷静になって考えてみると、心と行為は何の関係もありません。
つまり、すべての行為は自己から起こってくるので、そもそも間違いをするはずはありません。
心が何を言ってきても気にすることはないので、心は観照しておけば良いと理解できます。
心=自分とすると、行為しているのは自分とは言えせん。
その行為を鑑賞しているのが「私」ですから、行為しているのは私ではありません。
つまり行為は自己からの現れであって、実態はなく、誰か人がいるわけではないはずです。
これが導き出された、行為しているのは誰か?という問いの結論です。
どうして落ち着くのか、、、
それがうまくできる様になると、活動している時でも素直に心を観照できるようになり、心が落ち着いてきます。
行為する人はいないということは、過去現在未来の全ての出来事の行為者は、自分でも私でも自己でもないし、他人でもないと理解できます。
すべての行為は自己から起こってきていることなので、物ごとを心がネガティブに捉える必要がなくなり、自信が蘇り、心は落ち着いてきます。
このキーワードで物ごとを見極める
「行為しているのは誰か?」というキーワードをお試しください。
頭の中がおしゃべりで一杯な時、静かになり、心が落ち着いてきます。
いろいろな視点から物ごとを見極めることができる、楽しめるキーワードだと思います。
よければチャレンジしてみてください。
行為しているのは誰か?のまとめ
心は「自分」が行為すると言うが、行為しているのは「自分」ではない
行為するという表現自体が、「自分」の創りだした思考
行為は、意識に起こってきた「自己」の投影
行為している誰かを見つけることはできない、行為は起こる
行為は誰に起こるのか? 私にである、その私は何者か、、、私は意識という観念
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hisashi-meisou · 1 year
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瞑想効果として集中力が高まる
瞑想を行った時の効果として、集中力が高まるということを挙げることができます。
なぜそうなるのか、私の体験をもとに解説できればと思います。
集中力を高めたいと思い、方法を探していらっしゃる方にはオススメします。
なぜそうなるのかを理解して、活用していただければと思います。
瞑想の後起こること
あるがままにある瞑想を行うと、まずは観照することで、頭の中のおしゃべりが消えていきます。
静けさに留まった後、探求することで、自己を知ります。
その結果、想念を自己同一視する必要がなくなり、徐々におしゃべりは始まらなくなります。
集中力が発揮されやすくなるための良い循環が始まります。
自然に、心の働きが静かになり、静けさに留まるようになります。
その時すでに集中力を発揮しやすい状態となっています。
心を観照する瞑想をすると
観照とは、客観的に冷静に観察するということです。
心地よくかけて、目を閉じます。
頭の中のおしゃべりを客観的に冷静に観察します。
客観的にということは、観察する側から見て想念を対象とするということです。
冷静にということは、落ち着いて心を働かせないということです。
そうしていると頭の中のおしゃべりは静かになります。
自己同一視しないために
想念を自己と同一視しないためには、自己を知ることです。
自己を知るためには、あるがままにある瞑想を行います。
心を観照する瞑想を行って、心が静かになったらそこに留まります。
次に自己を探求します。
静けさの背後の存在は何者か?と自身に問いかけます。
その次の瞬間が自己です。
沈黙が現れますが、そのままあるようにします。
自己を知れば、想念を自己同一視をすることなく、観照されて消えていきます。
心は楽しもうとするが、休んでもらいます
そもそも心は何か楽しいことを探しています。
きっかけを見つけては、頭の中でおしゃべりを楽しもうとします。
心が楽しんでいる時、集中力を発揮するのは難しい状態です。
集中力を発揮したい時には、心には休んでもらいます。
静けさとは概念が働かない状態
心が休んで静かな時は、自己同一視されておらず観照されている状態です。
頭の中のおしゃべりが始まる余地はありません。
しばらく静けさに留まります。
概念が働かないので、時間や空間の概念も働かなくなり集中力はより発揮しやすい状態です。
集中力を普段よりも高めることができます。
その時発揮されやすくなった能力は他にもある
気持ちの切り替えが早くなるような、切替力
物ごとを一瞬にして全体的に把握するというような、直観力
シンプルに物ごとの本質を見抜くというような、洞察力
論理的な思考を通さずにできるような、判断力
あれこれと頭の働きが良くなるというような、回転力
無駄のない、必要な時に必要な行動がとれるというような、行動力
その他も含めて、その人の持つ普段使われていない、潜在的な能力が発揮されやすい状態となっています。
このような状態の時に、ことに当たれば今までにない結果を残すことができると思います。
相乗効果も期待でき、さらに高い集中力を現すことができるようになっていきます。
高い集中力を発揮したい方へ
これらは全て、私の体験に基づいてお伝えしております。
感じ方はそれぞれ違うかもしれませんが、瞑想をした後に行えばこのような感覚を味わうことができると思います。
日々瞑想を励行すると、このような感覚が習い��となってきますので、何かと効率がアップしてきます。
集中力を発揮したいのに、うまく発揮できていないという方は、まずは自己同一視から始まる頭の中のおしゃべりを一旦静かにして、それが現れないような状態を保つことです。
そのためには心を観照する瞑想法が役に立ちます。
心と意識を理解して、コントロール下に置くことは、ことをなす上で大切なことだと思います。
人や物ごとを大きく動かすような、重要な仕事をされておられる方には、知っておいていただきたい内容です。
なぜ瞑想で集中力が高まるの?
観照することで、頭の中のおしゃべりが消えていく
静けさに留まった後、探求することで「自己」を知る
想念を自己同一視しなくなり、頭の中でおしゃべりは始まらなくなる
集中力が発揮されやすくなるための良い循環が始まる
その他普段使われていない、潜在的な能力が発揮されやすい状態となる
心と意識を理解して、コントロール下に置くことは、ことをなす上で大切なこと
重要な仕事をされておられる方には、知っておいていただきたい内容
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hisashi-meisou · 1 year
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瞑想とは自己を知ること
あるがままにある瞑想をしていると、自己を知ることになります。
そのことがどれくらい大切かということを、ごりかいいただければと思います。
映し出された姿は自己の本来の姿ではない
心を観照する瞑想をしていると静けさが現れてきます。
その静けさの内にはスクリーンの働きがあり、そこに自己の姿は映し出されます。
映し出された映像であるなら、本物ではありませんし、現実のものではありませんし、実態ではないはずです。
静けさの内の主体としての視点によって、客観的に見られる対象として現れてきます。
映し出された姿は客体で自己の本来の姿ではありません。
静けさに留まっていると分かること
静けさに留まっていると分かることがあります。
どこからともなく想念が現れてきます。
この想念は、静けさの内のスクリーンに映し出されて、視点によって見つけ出された対象です。
自己が映し出されたものですので、自己本来の姿ではありません。
ですので、この想念はそのまま放っておくのが良いと言えます。
想念は、放っておくと消えていきます。
消えていけば静けさに戻ります。
静けさに留まっていれば、主体としての自己の直接的な働きとしてあることができます。
ついついやってしまうこと
ついついやってしまうことがあります。
この想念を自己としてしまうことです。
想念は自己の本来の姿ではない、主体としての自己からすれば対象となる客体です。
この想念を自己とすれば、心が主体となって、心にとって都合のいいように働き始めます。
心の働きは終わりなく続きます。
心が働いている間は、静けさも、自己も覆い隠されたままです。
自己を知っていれば
自己の本来の姿を知っていれば、どうでしょう。
想念を自己とすることはありません。
心の働きに、覆い尽くされることはありません。
想念は観照されて、静けさに戻ります。
心に振り回される
心は、いろいろな願望を抱いてそれらを叶えようとします。
願望と現実は別ですので、多くの願望は叶わずに終了してしまいます。
その叶わなかった願望を叶えるために何度も何度も、試みなければなりません。
本来の姿とは言えない心に振り回されてしまいます。
自己としてあれば
自己としてあれば、まずは自己とは何者かを自覚することができます。
自己として、自然で自由なままいられます。
本来の自分自身としてあることができます。
迷いがなくなり、自信が蘇ってきます。
全ては自己のなせる技と知ることができます。
私の願望
私には、常に自己としてありたいという願望があります。
このような願望は個人を超えて心を働かせてくれます。
そうすることで自然の流れに乗った心と身体を目撃することになります。
同じような願望をお持ちの方へ
私と同じような願望をお持ちの方がいらっしゃいましたら、自己を知る瞑想法をオススメします。
そのような願望を持った時に、それまで行っていたいろいろな瞑想法が取捨選択され、自然と形つくられました。
試してみるととても良い流れで、自己に立ち返ることができます。
これを習い性にしていくと、活動中でも自己としてあることができます。
自己を知る瞑想法
心地よくかけ目を閉じます
呼吸を観察します
身体を客観的に観察します
想念を客観的に冷静に観察します
静けさに留まる
静けさのうちに観照する視点の働きを見つける
その対象を投影するスクリーンの働きを見つける
静けさの背後で働くその存在とは何者か?探す
沈黙に出会う
沈黙が自己であると知る
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hisashi-meisou · 1 year
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初心者の方にオススメの瞑想法
効果が高い瞑想法をご紹介します。
もちろん自由に使っていただいて大丈夫です。
これから瞑想を行おうかどうか悩んでおられる方は最後まで読んでみて、よければお試しください。
心が静かになる瞑想法
今回ご紹介する瞑想法の基本は、「音」です。
音は静かと反対の極にありますが、その音を使って、心に静かになってもらいます。
心が静かになるということは、思考が沈静化するということです。
大脳新皮質の働きが沈静化し、次に大脳辺縁系の働きも沈静化するようになります。
心地よくかける
瞑想をするときは、瞑想をしていない人が近くにいる場所は避けた方が良いでしょう。
常識としてあらゆる個人的な行為は、もちろん瞑想も他人に迷惑をかけないことが大切です。
周りからすると、いかにも私は瞑想をしている人だと誇示されても、対応に困ります。
ただ、瞑想の理解者であって迷惑にならなければよいとは思います。
瞑想をする人が、一緒に行うのであれば相乗効果が期待できます。
場所が決まったら、座布団でも椅子でもどちらでも構いません。
心地よくかけます。
横になっても、立ったままでも構いません。
適度にリラックスすることは大切です。
そのためには準備として、服装を調整したり、エアコンなどで空調を整えたりしておきましょう。
目は閉じても閉じなくてもどちらでも構いません
目は閉じても閉じなくてもどちらでも構いませんが、目を閉じれば視覚から入る情報をカットすることができます。
目の動きは、心の働き=思考と同調します。
思考している時には、目が動きます。
目の動きが止まれば思考も静まりやすくなります。
一点を見つめて動かさないでおけば、思考も一点に集中しやすくなります。
どちらでも構いませんが、最初は目を閉じた方がやりやすいでしょう。
呼吸を観察します
いきなり「音」の瞑想をしても良いですが、心を落ち着けておけばより効果は高まるでしょう。
呼吸は、心身の働きと同調します。
心身の働きが活発になったり、興奮してくると呼吸も活発になったり、荒くなったりします。
呼吸を活発にすると、心身が働きたくなります。
この場合は、落ち着きたいところですので、呼吸には落ち着いてもらいます。
呼吸を観察します。
呼吸を落ち着かせる方法として、敢えて自分で呼吸を静かにすることはできるかもしれません。
ただ、呼吸は眺めていると自然に鎮まっていきますので、その自然な流れに任せてみましょう。
呼吸は客観的に冷静に観察します。
呼吸をある程度眺めていると、次第に心が落ち着いてきます。
落ち着いてきたら、呼吸を眺めるのをやめます。
心の働きを眺める
次は、心の働きを眺めることに気持ちを切り替えます。
静かな中から想念=思考=心の働きが始まります。
まずはそれに気づきましょう。
慣れないうちは、注意深く集中していないと思考に巻き込まれていきます。
思考に気づくと、気づかれた思考はそれ以上は次に進まなくなります。
やがて思考は消えていきます。
消えていかない場合は、客観的に冷静に観察することを心がければ消えていきます。
消えていったのを確認した後にすることがあります。
ハミングします
しばらくの間、ハミングします。
瞑想をしていない人が近くにいる場合は、音は出さなくてもただそれを思うだけでも大丈夫です。
自分の心身に響かせます。
船の汽笛の音を真似るような感じです。
ホーミーを真似るような感じでも構いません。
このハミングはメロディーを奏でても良いです。
ゆっくりできるだけ長く行います。
1回10〜20秒くらいで、続けて3回くらい、だいたい合計30秒〜1分くらいでよいです。
「音」に集中します。
音を出し終わったら、静けさに戻ります。
その後は敢えて何もせずに、その静けさにとどまります。
やがて静けさからまた思考が現れてくるかもしれません。
その思考を眺めます。
正しく眺めていると思考はやがて消えていきます。
消えていったらハミングします。
終わったら静かにします。
これを繰り返します。
慣れていたら、ハミングはしなくても大丈夫です。
もっと慣れてきたら呼吸の観察もしなくていいです。
瞑想の合計時間は5〜20分前後で良いと思います。
できる場合は毎日2回程度行います。
これを続けていくと、最終到達点を「自己の本性のままにあること」とした基礎練習となります。
なぜ自己の本性のままにあることを最終到達点とするのでしょうか、、、
そこが本来の自分自身だからです。
自分自身を知らなければ、何をやっても上手く行くはずがありません。
己を知った時に百戦して危うからずです。
身体も心も客観視される客体で、主体ではありません。
瞑想は続けていくといずれ、最終到達点は「自己の本性のままにあること」になります。
この世の現れは、何かその基盤となるような何かがないと辻褄が合わないからです。
最初は分からなくても、直感的にそういうものだと割り切ってしまうことができれば、話は早いです。
全く難しくありませんので、お試しくださればと思います。
身体は、歯を磨いたりお風呂に入ったりして衛生状態を保ちます。
同じように心の衛生状態を保つことも大切とは思いませんか、、、
瞑想はその手段として相応しいものと思います。
初心者の方にオススメの瞑想法のまとめ
心が静かになる瞑想がある
まずは心地よくかける
目の動きは、心の働き=思考と同調する
呼吸は眺めていると自然に鎮まる
想念を眺めて、消えていったらハミングする
「音」に集中し、終わったら静かにします
「自己の本性のままにあること」を見据えた基礎練習となる瞑想法です
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hisashi-meisou · 1 year
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自己同一視とは
なぜ瞑想をすると頭の中のおしゃべりが止まるのでしょうか?
これから瞑想を行おうかどうか悩んでおられる方は参考にしてみて下さい。
もうお分かりの方には確認となります。
なぜ瞑想は頭の中のおしゃべりを止めるのに効果があるのか?
瞑想をするときには、一体何をするのでしょうか?
いろんな思いが浮かんで駆け巡ると思いますが、その思いを対象物として観照します。
観照とは、客観的に冷静に観察することです。
ではなぜ観照するのでしょうか?
自分を客観視するためです。
ではなぜ、自分を客観視するのでしょうか?
それは普段自分と呼んでいる何者かは、主体ではなく、客体だからです。
普段自分と呼んでいる何者かは、心の働き=思考のことです。
心の働き=思考は客観視することができます。
「ああ自分は今このように考えているなぁ」と気づくことができます。
つまり思考は客観的に観察することができる客体です。
それが普段自分と呼んでいる何者かを客体として客観視する理由です。
瞑想のキーポイント
故に瞑想をするときにはいつも、自分を客観的にそして冷静に観察します。
お分かりいただけたでしょうか?
これが瞑想のキーポイントの全てです。
自己同一視とは
逆に、普段自分と呼んでいる何者か=思考を、本当に自分だと思い込むことを、自己同一視と呼びます。
普段自分と呼んでいる思考を、本当に自分と思い込むことは、本来そうでないものを自分としてしまうと言うことです。
本来自分ではないものを自分とすることは、とても大変です。
街路樹を自己同一視すると
例えば、外に植えてある街路樹を自己同一視してみましょう。
雨が降ったらもう大変です。
傘をさしたりカッパを着たりすることができません。
もうどう対処して良いのか、悩んでしまいます。
冬には葉っぱが落ちてしまい、変化に動揺します。
鳥に突かれると傷ついて肌荒れを起こしてしまうと焦るかもしれません、、、
それはそれは大変です、、、
コップを自己同一視すると
或いは、身近にあるコップを自己同一視してみましょう。
冷たい氷を入れられたり、熱湯を注がれたりしますので、大変に驚きます。
落とされたらすごいショックです。
もし割れてしまったらなどど考えると夜も眠れません、、、
それはそれは大変です、、、
自分を自己同一視すると
それと同じように、この自分(心の働き=思考)を自己同一視していたとしたらそれはそれは大変なことです。
人にどのように思われるか常に気になってしまいます。
名前を呼ばれたら、返事をしないと変人と思われてしまいます。
何か言われたらそれに正しく反応しなければ、仲間外れにされるかもしれません。
いつ病にかかるかわからない、日に日に歳をとり、いつ召されてしまうんだろうと、、、
めまいがします。
愚痴も言いたくなるのも分かります。
それはそれは大変です、、、
普段普通は、それをしているのです。
ここで言えることは、思考を自分とすると、本当に大変だと言うことです。
本来思考=自分は客体ですので、客観的に見ることができれば、どうでしょうか、、、
思考はどのように働くか?
では思考がどのように働くかをみていきましょう。
ただ静かに座ってみると、身体の外からの音は入ってきますが、内側で思考は止まります。
慣れないうちは、それは一瞬ですぐに心の中のおしゃべりが始まります。
おしゃべり=思考のことです。
思考が始まったことに気がつきます。
つまり思考は客観的に観察できることがわかります。
静かにしていたいという思いとは関係なく思考は始まります。
思考をコントロールできるか、、、
残念ながら思考はコントロールできません。
思考に、思考を止めようという思考を重ねると、さらにその思考は長くなり、取り留めのないものになります。
その人の気質に従って、おしゃべりは続きます。
思考を止めたければ、巻き込まれないように客観視することです。
気質は選べるか?
ちなみに気質は残念ながら選ぶことが叶いません。
気質は生まれつきのものと、私には見えます。
気質=思考パターン
その思考パターンが頭の中のおしゃべりのプロセスを決めます。
ただ結論は必ず苦しむ方向に進んでいきます。
悲しいかな、それが心の持つ習性です。
そうでもないぞとおっしゃる方は、よく観察してみてください。
普段自分と呼んでいる何者かは客観視できる客体なのに、その自分を本当に自分として自己同一視すると、それはそれは大変です。
苦しんでいる思考を自分としてしまっているからです。
苦しんでいるのは誰か?
本来苦しんでいるのは客体ですから、それを自分とする必要は何もありません。
この事実をしっかり押さえておきましょう。
そして思考を客観視してみましょう。
思考は自然に終了していきます。
それは体験することで理解できます。
なぜ瞑想をすると頭の中のおしゃべりが止まるのか
瞑想のキーポイントは思考を客観視すること
思考を自己同一視すると苦しむ
思考はコントロールできない
思考は客観視されると止まる
思考が止まれば頭の中のおしゃべりも止まる
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hisashi-meisou · 1 year
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頭の中のおしゃべりは止められる?
頭の中のおしゃべりは止められる? 〜頭の中のおしゃべりの仕組み10段階〜
頭の中のおしゃべりを止める手段として、瞑想を実践するということは、とても良い解決策になります。
瞑想をして、思考が観照されるとフェードアウトしていくからです。
頭の中のおしゃべりは思考のプロセスです。
頭の中のおしゃべりが現れてくる仕組みをお伝えします。
頭の中のおしゃべりが現れてくる仕組み10段階
ただ心を静かにしていると、その静寂から突然過去の記憶が現れてきます。
その過去の記憶を自分のものとしないで、客観視しているとやがてその過去の記憶は、消え去り静けさに包まれます。
自己同一視
ただその過去の記憶を客観視しないで、自分のものとする、つまり過去の記憶を自己同一視すると思考は始まります。
比較
その自分のものとした過去の記憶は、即座に���意識に他の記憶或いは現在と比較されます。
判断
比較して何をするかというと、その過去の記憶はその比較対象と比べて、好きor 嫌いに、これも同じように即座に無意識に分けます。
その基準は持って生まれた気質=思考パターンによります。
この気質は選べませんし、コントロールできません。
欲望
もし好きと判断した場合は、喜びを感じます。
そしてそれを現実に自分の手にしたいという欲望を抱きます。
もし嫌いと判断した場合は、憂いや悲しみを感じます。
そしてそれは自分から排除したいという欲望を抱きます。
立案
その欲望はどうしたら叶えられるか策を巡らせます。
計画
未来に対して計画を立てます。
正直言って未来のことは未だ何も起こっていません。
期待
計画通りいって欲しいと、多大な期待をします。
一方で、未だ何も起こっていない未来について心配します。
再度書きますが、未だ来ていないから、未来です。
気質によっては、頭の中が謎のおしゃべりに包まれます。
マスト
その計画を遂行しなければならないというマストに駆られます。
頭の中は、お喋りや独り言で、一杯になります。
気質によっては夜も眠れません。
結果
計画と現実を比較して計画通りであれば喜びます。
ただその喜びは束の間です。
いつまでもその喜びに浸っていたいのですが、次の瞬間からその余韻は少しずつ遠ざかっていきます。
頭の中のおしゃべりが現れてきます。
また次の計画に向かって心は、自転車操業的に働き始めます。
上手くいかなければ、頭の中のおしゃべりは始まります。
再度上手くいくための計画をたて、心は疲れきるまで働きます。
結末
その結果は常に頭の中はおしゃべりで一杯です。
結果が計画通りでもそうでなくてもどちらでも頭の中はおしゃべりで一杯になります。
心の働き=思考を使って、気づかずにそのままにしておくと必ず頭の中はおしゃべりで一杯です。
それが心の習性です。
では、どうすれば良いのでしょうか?
頭の中のおしゃべり=心の働き=思考を止めるには、、、
どうでしょうか、もう察しはついていると思います。
最初の自己同一視を、心にさせなければ、頭の中がおしゃべりで一杯のなることもありません。
その方法は、冷静に客観視することです。
過去の記憶が現れてきたら、自己同一視しないで、観照=客観的に冷静に観察します。
そうすることで、謎の頭の中のおしゃべりは終了します。
瞑想するときは、このポイントを押さえていれば、頭の中のおしゃべりは消えていきます。
慣れないうちは、またすぐに次の頭の中のおしゃべりがやってくることがありますので、そのときにはまた同じように、観照します。
最初の過去の記憶のところで、観照することを逃してしまっても、次の比較している段階で、観照してやればその時点で思考=頭の中のおしゃべりは消えていきます。
それは、次の判断の段階でも、欲望の段階でも、立案、計画、期待、マスト、結果、結末の段階でも、どこの段階でも観照はできますし、その結果思考=頭の中のおしゃべりは消えていきます。
頭の中のおしゃべりは何者か?
頭の中のおしゃべりは、ちゃんと見張っていれば、消えていきます。
ただ、少しでも話に乗ると頭の中はおしゃべりで一杯になります。
頭の中のおしゃべりは、過去の記憶を気質=思考パターンで膨らませた心の働きのプロセスのことです。
生活の中で役立てる、、、
この頭の中のおしゃべりを止めるための、あなたにとって新しい方法が身についてくると、普段の生活の中でも役立ちます。
頭の中で、余計な頭の中のおしゃべりが始まったら観照してやるだけで、それは止まります。
ただ、自分の役割や機能を果たす仕事のときは、ちゃんと思考は使ってください。
頭の中のおしゃべりに発展したら、観照すれば消えていきます。
頭の中のおしゃべりは止められる、、、
過去の記憶から頭の中のおしゃべりは始まる
思考=頭の中のおしゃべりの結末は苦しみとなる
頭の中のおしゃべりを思考して止めることはできない
頭の中のおしゃべりは観照すると消えていく
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hisashi-meisou · 1 year
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瞑想をする時の心がけること
瞑想するときには、どのようなことに注意すればいいの?ということです。
瞑想は初心者にとって頭の中がおしゃべりで一杯になることばかり、頭の中がおしゃべりを止めるために始めたのに、頭の中のおしゃべりが増えてしまっては逆効果です。
瞑想の注意点
姿勢、ポーズ、手印にこだわらない、、、
瞑想をするということと、姿勢やポーズとは本来関係ありません。
まずは、心身を客観的に眺めることができれば良いので、姿勢やポーズのことは忘れてしまって構いません。
背筋を伸ばすことは必要ありません。
瞑想を始める前は、心地よくあることを優先してください。
背筋を伸ばすことが心地よければ、それで大丈夫です。
前にも書きましたが、横になっても、立ったままでも構いません。
足を正しく組む必要もありません。
足への血流を調節したり、気の流れを調整したり、グラウンディングのためなどではあるでしょうが、瞑想をするということと、足を組むということを結びつける必要はありません。
手印を結ぶことと瞑想はなんら関係ありません。
手印を結ぶことは、神仏との一体感を求めるものや気の流れの調整を求めるもので、瞑想の本来の道筋からは外れます。
瞑想が好きで、いろいろな方法を学んで楽しみたいという方には良いですが、遠回りをすることになります。
過酷な環境に身を置く必要はありません、、、
瞑想をするということは、心身を客観的に眺めることができれば良いのです。
エアコンの効いた環境で構いません。
瞑想と過酷な環境に身を置くこととは、何ら関係ありません。
過酷な環境に身を置くことが楽しい方や達成感を求めたい方などは止めませんが、遠回りになる場合があります。
瞑想するということと修行は関係ありません、、、
修行が精神鍛錬が目的であるなら、瞑想と修行とは何ら関係ありません。
修行をすることで、尊敬される人を目指したり、達人を目指すということはあるかもしれません。
心を強くしたいという目的には良いでしょう。
良い瞑想をすることと修行は関係ありません。
服装にはこだわらない、、、
着物や他の民族衣装や専用ウエアに着替える必要はありません。
瞑想と服装は結びつける必要はありません。
今着ている服装で瞑想はできます。
こだわりを望む場合は、構いません。
そこから始めていけば良いのです。
こだわりと良い瞑想とは関係ありません。
頭の中におしゃべりが現れてきたら冷静に客観的にそれを眺めてみる、、、
瞑想するということは、心身を眺めることから始めます。
心身とは、心と身体のことです。
心とは、心の働き=思考=想念=マインドなどの言葉で置き換えることができます。
身体とは、肉体とその働きと五感のことです。
呼吸を眺めるとは、身体を眺めるということです。
呼吸や身体を客体とすることです。
この宇宙や自然と呼べる何者かの部分となって運行している身体を、自分のものとしないことです。
それを呼吸を眺めるという糸口で始めます。
身体を客体として、心を客体とします。
心は際限なく働きますので、心=頭の中のおしゃべりは、観照=冷静に客観的に観察します。
そうすれば頭の中のおしゃべりは消えていくはずです。
消えなければ、うまく観照できていないか、また次の心の働きが始まったということです。
何度でも観照しましょう。
静けさにとどまる
心身を客体化していくと、心身が落ち着いてきます。
呼吸は静かになり、思考は静まります。
静かになったそのとき、あるがままでありましょう。
マントラは必要か、、、
思考を眺めたあと、音を発信します。
音に意識は集中します。
音が止まると、意識は静けさの中に放り込まれます。
その静けさのまま、あるということが瞑想状態ということです。
音はとても高い効果を発揮します。
ただ音は手段にすぎませんので、慣れてきたら音は必要ありません。
手段やプロセスを目的化しないことです。
最終到達点を「自己の本性のままにあること」とするのはそのためでもあります。
そのようにあることで、結果的に絶妙のタイミングでものごとは自然にあらわれてきます。
瞑想をする時の注意点のまとめ
姿勢、ポーズ、手印、足組にこだわらない
エアコンの効いた心地よい環境で構いません
服装にはこだわらない
心身を眺めることから始め、心身を客体とします
静けさにとどまり、あるがままに
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