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kagurakanon · 2 days
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2024/04/26 デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション(前章)
ラカン的な想像界と現実界の直結構造というセカイ系のよく知られた定義からすれば、本作は想像界の部分をゼロ年代中盤以降に前景化した日常系の物語に置き換えると同時に現実界の部分を2010年代以降のインフォデミック状況を織り込んだ情報環境論に置き換えることでセカイ系の今日的なアップデートを図っているところに秀逸さを感じた。前章の構成は序破急といったところか。セカイと日常の並走が歪な形であれ維持されていた前半の構図が折り返し点で大きく亀裂が入り、ここから物語は不穏な様相を見せ始め、急展開を迎えたところで前章は幕を閉じる。日常系を経由したセカイ系の可能性を感じる映画であった。
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kagurakanon · 4 days
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2024/04/24 メモ--行動療法の歴史
我々は主体的に行動しているつもりでも実際のところ、その「行動」は自身が置かれた「環境」に規定されている。ここでいう「環境」とは身体や住居といった物理的環境のみならず、人間関係や時代背景といった社会的環境、認知や思考といった心理的環境をも含む。こうした意味での「環境」に介入することで「行動」の変容を目指す心理療法が「行動療法」である。現代心理療法において主流を占める「行動療法」の歴史は大まかに次のような3つの世代に分けられる。
1950年代、南アフリカで戦争神経症の治療を行っていたジョゼフ・ウォルピが「系統的脱感作」を開発して以降、行動療法は科学的な心理療法として注目を集めた。この時期の行動療法で重視されたのは「パブロフの犬」や「アルバート坊や」といった実験で知られる「レスポンデント条件付け」と呼ばれる学習原理である。この「レスポンデント条件付け」を神経症治療に応用したものが「系統的脱感作」であり、これは後には「エクスポージャー」という技法へと発展していった。これが第1世代の行動療法である。
その後、行動療法はアルバート・エリスの「論理情動療法」やアーロン・ベックの「認知療法」と合流して「認知行動療法」と呼ばれるようになる。認知行動療法では「うつ」や「不安」といった症状毎の介入パッケージが開発され、これらは多くのセラピストが実践可能となるようマニュアル化された。こうして1970年代に認知行動療法は心理療法の代名詞となる。これが第2世代の行動療法である。
もっとも認知行動療法は様々な理論の寄り合い所帯として発展していった為、症例毎の介入パッケージはそれぞれ微妙に違った理論に基づいていたりする。そこで複数の診断カテゴリーに当てはまるようなクライエントや、例えば「引きこもり」といった非定型的な悩みを持つクライエントにどう対応するのかという問題が残る。こうした中で「臨床行動分析」と呼ばれる新世代の心理療法が出現した。これが第3世代の行動療法である。
こうした3世代にわたる変遷を経た現在では、行動療法には英国系の「要素的実在主義」と米国系の「機能的文脈主義」という世界観の異なる二つの系譜があることが整理されてきた。先に述べた第1世代と第2世代の行動療法は「要素的実在主義」の系譜に属する。これに対して第3世代の行動療法である「臨床行動分析」は「機能的文脈主義」という異なった系譜に属している。
この「機能的文脈主義」の起源はバラス・スキナーが立ち上げた行動分析学にある。行動分析学の対象となる「行動」は大きく分けて二つある。「レスポンデント行動」と「オペラント行動」である。レスポンデント行動とは「環境」に対する条件反射的な「行動」をいう。これに対してオペラント行動とは「環境」の変化を期待する自発的な「行動」をいう。伝統的な行動療法ではレスポンデント行動の消去が重視されてきたが、行動分析学ではオペラント行動の制御を重視する。
そして、このような行動分析学に基づく臨床実践として知られているものに応用行動分析(ABA)がある。ABAは重度の知的障害や発達障害を抱える子どもたちを対象として、周囲の人や物といった「環境」を適切なかたちで調整することで適応的行動の獲得や問題行動の解決を図る療育実践であり、現在では児童発達支援の分野において広く普及している。
さらに今世紀に入ると行動分析学では「関係フレーム理論」という人間の思考や言語の核となる原理を扱うようになる。こうして行動分析学は「臨床行動分析」として心理療法の分野にも進出を果たす。この点、第1世代、第2世代において専ら主眼に置かれたのは「症状の治癒」であったが、第3世代において目指されるのは「人生の質」それ自体の向上にあるということである。
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kagurakanon · 28 days
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2024/03/31 52ヘルツのクジラたち
誰にも届かない歌を歌う世界でただ一頭の52ヘルツのクジラ。すなわち、それは我々が生きるこの社会における様々なマイノリティが発する「声なき声」のメタファーともなる。このような「52ヘルツの声」に真摯に耳を傾けていくとはどういうことか。本作ではこうした社会的テーマを真正面から問われる。 
「52ヘルツの声」を聴くということ。それはすなわち「無意識の声」を聴くことであるともいえる。この点、ユングはしばしば心理療法の場面において、治療者と患者の間で「傷ついた癒し手」という元型が活性化すると考えた。それは患者が語る「心の傷」が治療者の「心の傷」と相通じる時、治療者と患者の間に無意識的な融合関係が生じ、治療者は患者の前に偉大な「傷ついた癒し手」として立ち現れるということである。確かに貴瑚はこのような「傷ついた癒し手」として52に接しているといえる。あるいはもしかして、アンさんも「傷ついた癒し手」だったのかもしれない。 
けれどもその一方で「傷ついた癒し手」とは「メサイア・コンプレックス」と紙一重でもある。メサイア・コンプレックスにおいては誰かを「救いたい」という善意の裏側に、その誰かを救う事により自身が「救われたい」という欲望が隠されている。そして、このような無自覚的な欲望に突き動かされた「救済」はしばし独善的な結果を招いてしまう。 
この日常のどこかで時として「52ヘルツの声」を聴き取るとき、もしかして自身の発する「52ヘルツの声」をあたかも他者の発する「52ヘルツの声」であるかのように聴いてしまうこともあるかもしれない。本作はこのような「52ヘルツの声」の安易な混同に警鐘を鳴らす物語でもある。 
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kagurakanon · 1 month
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2024/03/25 機動戦士Zガンダム
『宇宙戦艦ヤマト』のヒットを契機として1970年代後半以降のアニメは従来の子供番組としての立ち位置を脱して当時のユースカルチャーの一つに成長しつつあった。そしてこの流れを決定的にした作品が富野由悠季氏が手掛けた『機動戦士ガンダム』であった。同作の革新性は第一に「宇宙世紀」という架空年代記の導入にあり、第二に「モビルスーツ」というロボットの再定義にあり、第三に「ニュータイプ」という成熟観の提示にある。 同作の主人公アムロ・レイは「宇宙世紀」という仮想現実の中で「モビルスーツ」という工業製品によって身体を拡張し、少年から大人へと「成長」するのではなく少年のままで「ニュータイプ」という超越的な存在に「覚醒」する。ここでいう「ニュータイプ」とは空間を超越し、非言語的なコミュニケーションによって他者の存在を、それを無意識のレベルまで正確に認識できる能力である。これは同作において宇宙環境に人類が適応し始めた時に進化論的に発生する人類の「認識力の拡大」と定義された。 もともと「ニュータイプ」はただの少年兵であるはずのアムロが短期間でエースパイロットに急成長する展開に説得力を与えるための設定に過ぎなかったが、やがて本作が社会現象と化していく中で当時の新しい情報環境の台頭と消費社会の進行に適応した新しい感性を持つ新人類世代の比喩として理解されるようになった。こうしたことから同作は従来の「鉄人28号」や「マジンガーZ」などに代表されるロボットアニメで反復されてきた主人公の少年が機械仕掛けの身体を操り仮初めの社会的自己実現を成し遂げるという戦後日本的なアイロニズムに規定された成熟観をラディカルに更新した作品であったといえる。 ところが同作から7年後の世界を舞台とする本作『機動戦士Zガンダム』においては「ニュータイプ」がもたらす病理と絶望が描き出されることになった。本作の主人公カミーユ・ビダンは物語の当初からニュータイプの素養を見せる一方で精神的に不安定な少年として描かれる。カミーユは思春期の不安定さから衝動的に反政府運動に加わるが、戦争の中でその精神を摩耗させていき、最終回ではついに発狂してしまう。 本作の根底には人間は他者と媒介なく直接的につながりすぎると負の連鎖しか生まないという認識があり、本作の後半においては「ニュータイプ」の能力は念動力や降霊術に近いオカルト的なものとして描かれることになった。すなわち「認識力の拡大」による意識同士の時空間を超越した接続がもたらす帰結を『ガンダム』が他者同士の相互理解と調和として肯定的に描き出したとすれば『Zガンダム』は他者同士の相互不信と衝突として否定的に描き出したといえる。こうした意味で本作はまさに現代における情報環境の肥大化による「つながり過剰」の病理を先見的に描き出した作品であったように思える。
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kagurakanon · 2 months
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2024/02/28 幸腹グラフィティ
「日常系」というジャンルは一方でデータベースから出力されたシュミラークルに没入する「動物の時代(東浩紀)」の申し子であり、他方で虚構を経由することで現実を多重化する「拡張現実の時代(宇野常寛)」の申し子であるとひとまずはいえる。この点「ポスト美少女ゲーム」の圏域から出発したゼロ年代の日常系においてはどちらかといえば前者の要素が重視されていたが、一つの自律的なジャンルとして確立された2010年代の日常系においてはどちらかといえば後者の要素が前面に打ち出されるようになったようにも見受けられる。そして2015年にアニメ化された本作も後者の系譜に属する作品である。人の基本的な営みである「食べる」という日常=現実を多重化し、豊かなものとして拡張していく本作は口唇欲動の満足=享楽としての「食べる」を徹底的に映像化/言語化していく作品であったといえる。
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kagurakanon · 2 months
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2024/02/22 アラビアのロレンス
実在した英国の情報将校、トーマス・エドワード・ロレンスを中心として第一次大戦下におけるアラブ独立闘争を壮大なスケールで描き出し今日における「アラビアのロレンス」のイメージを決定づけた超大作。本作はロレンスを一貫してアラブ独立闘争のために身を賭した人物として描く一方で、ロレンスが「何を成し得たか」ではなく、むしろ「何を成し得なかったか」に焦点を当てている。本作は劇中前半でロレンスに「Nothing is written(運命はない)」という台詞を言わせているが、やがてその信念は劇中後半においてロレンス自身から湧き上がる倒錯的な欲望によって自壊していくことになる。 
「Nothing is written」。そう信じるために人は時に「外部」を必要とする。そしてロレンスはアラブの灼熱の砂漠の中に「外部」を求めた。しかしながらロレンスにとって砂漠とは「Nothing is written」という幻想を生む舞台にすぎず、結局のところ彼は砂漠の現実に触れることはできなかった。この点、本作で砂漠の現実を体現する存在が後にロレンスの盟友となるハリト族の首長アリである。当初、アリは他所者であるロレンスに懐疑的であったが、やがて「Nothing is written」というロレンスの行動力と人間性に惚れ込み、アカバ攻略からダマスカス制圧に至るまで終始彼を支えるパートナーとなる。けれどもロレンスはアリが体現する砂漠の現実から芽吹き始めた肯定的な可能性から目を逸らし続けていた。果たしてダマスカス制圧後、アラブ統一国家を目指し「ここに残って政治の勉強をする」というアリに対してロレンスは「政治などきたない」と返すのであった。 
砂漠の現実を生きるアリにとって砂漠とはいつか豊かな水と緑を回復すべき「内部」であった。しかし砂漠に幻想を求めたロレンスにとって砂漠とは徹頭徹尾「Nothing is written」という信念を実践するための「外部」でしかなかった。それゆえに彼の中で「Nothing is written」という信念が挫折した時、その幻想としての「外部」もまた、失墜することになるのであった。
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kagurakanon · 3 months
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2024/01/31 映画大好きポンポさん
映画評論家の蓮實重彦氏は近著『見るレッスン』において今、日本にはプロデューサーが本当にいるのかどうかという大きな問題があると述べている。そこで氏は現在主流の製作委員会方式の下では1人のプロデューサーが「こうだ」と決断することができず、変わったもの新しいものがなかなか生まれないといい、誰が本当のプロデューサーか分からない製作委員会方式というものは便利だけれども非常に問題があり、今の映画界で一番足りないのはプロデューサーだと思うと主張している。こうした意味で、もしかして本作はポンポさんというキャラクターを通じて現在の邦画日本界に必要な理想的なプロデューサー像を提示しようとした映画であったのかもしれない。また、蓮實氏は映画の本質として「驚き」と「安心」を挙げている。すなわち、人は映画を観て何より驚きたい欲望を持っているけれども、同時に映画を観て安心したいという欲望を持っているわけであるが、蓮實氏は「驚き」とは「安心」であり「安心」とは「驚き」であるような不思議な世界が映画の表象性を支えていると述べている。そうであれば、ここで氏のいう「驚き」と「安心」のバランスがちょうど取れる上映時間があるいは「90分」なのかもしれない。 
この点、本作はシナリオで「安心」を与え、映像で「驚き」を与える作品であり、オブジェクトレベルの「安心」とメタレベルの「安心」を縫合することで「驚き」を創りだした作品といえる。果たして本作のラストで本作の劇中劇の一番良かったシーンを聞かれたジーンは「90分であること」と答える。そして本作もまた「90分の映画」である。こうしたことから本作は映画は90分で何を語り得るかを追求して実験的な映画論映画だったといえる。
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kagurakanon · 3 months
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2024/01/29 16bitセンセーションANOTHER LAYER
1980年代に登場したアダルトゲームは当初、ゲームの進行と共にエロティックな画像が表示されるといった性的快楽の描写に重きが置かれていた。ところが1990年代に入るとこうした傾向に変化が生じてくる。ゲームブランドエルフから発売された『同級生』(1992)辺りから、性的快楽の描写よりも恋愛関係の描写が重視される傾向が生じ、ゲームブランドLeafより発売された『雫』(1996)以降は、シナリオとキャラクターデザインが重視される傾向が生じたと言われる。こうしてアダルトゲームは次第に美少女ゲームと呼ばれるようになっていく。こうした傾向変化の中で、プレイヤーを泣かせるような感動的なシナリオを特徴とする「泣きゲー」というジャンルが確立されていく。その起源とされているのが、ゲームブランドTacticsから発売された『ONE〜輝く季節へ〜』(1998)である。そして同作の主要スタッフによって新たに立ち上げられたゲームブランドKeyより発売された『Kanon』(1999)は「泣きゲーの金字塔」と呼ばれ、美少女ゲームの枠を超えて幅広い層の支持を獲得した。 そして2023年。本作が描き出すのはそんな美少女ゲーム黎明期である。本作原作は1990年代から美少女ゲームに関わってきたクリエイターが原案を務め当時の制作現場や業界の様子などが描かれている。そしてアニメ版では新キャラクターの秋里コノハが主人公として設定され、現代から当時にタイムトラベルするというストーリーに変更された。このストーリー自体が極めて美少女ゲーム的な展開である。つまり本作は美少女ゲームを題材とした美少女ゲーム的な物語という二重構造を持っている。そういう意味で後半の超展開もまた美少女ゲーム的な作品であったといえる。
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kagurakanon · 4 months
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2024/01/06 父性隠喩についての覚書
構造主義の代表的論客としても知られるフランスの精神分析家ジャック・ラカンはセミネール3『精神病』(1955〜1956)において精神分析の始祖ジークムント・フロイトが描き出したエディプス・コンプレックスという神話を〈父の名〉というひとつのシニフィアンの導入として捉え、この〈父の名〉のシニフィアンが欠損していることが精神病の構造的条件であると考えた。そして以後数年間にわたりラカンはエディプス・コンプレックスそれ自体の構造論的な再解釈に取り組むことになった。
まずセミネール4『対象関係』(1956〜1957)においてラカンはエディプス・コンプレックスを「フリュストラシオン(象徴的母を動作主としる現実的対象の想像的損失)」「剥奪(想像的父を動作主とする象徴的対象の現実的穴)」「去勢(現実的父を動作主とする想像的対象の象徴的負債)」という「対象欠如の三形態」として捉え直し、対象(の欠如)をめぐって人間のセクシュアリティがどのように規範化(=正常化)されるかを明らかにした。またセミネール5『無意識の形成物』(1957〜1958)においてラカンはエディプス・コンプレックスにおける象徴的父、すなわち〈父の名〉への同一化の過程を「エディプス三つの時」として捉え直し、母の現前不在という気まぐれな法が、いかにして父の法によって統御されるようになるのかを明らかにした。
そして、このような「セクシュアリティの規範化」と「象徴界の統御」というエディプス・コンプレックスが持つ二つの機能をラカンは「父性隠喩」と呼ばれる一つの論理に圧縮する。そのアルゴリズムは以下のようなものである。
まず原初的な母子関係においては「母の現前と不在」という気まぐれなリズムが繰り返されることによって「+」と「−」が連続する象徴的なセリーが形成される(fort-da)。これが前駆的な象徴機能(原-象徴界)であり、ラカンはこれを「母の欲望」と呼んでいる。そこで子どもはラカンのいう「母の欲望(原-象徴界)」というシニフィアンに対応するシニフィエを問うことになる(DM/x)。そして〈父の名〉、すなわち象徴的父が「母の欲望」を統御することで象徴界はひとつの体系として安定化することになる(NP/DM)。
すなわち、ここでは〈父の名〉が「母の欲望」を置き換える「隠喩」として介入している。この点、ラカンにとって隠喩は換喩と対を成す概念である。そして隠喩と換喩の違いは新しい意味作用を生み出すかどうかという点にある。そして父性隠喩においては母の欲望が〈父の名〉のシニフィアンによって置き換えられた結果、象徴界が統御されると同時にその全体に隠喩によって生成されるファリックな意味作用が波及するようになる。換言すれば父性隠喩の導入により、象徴界に属するあらゆるシニフィアンの意味が究極的にはすべてがファルスへ還元されることになる(A/ファルス)。
このように〈父の名〉は象徴界の秩序を安定させるシニフィアンであるとすれば、ファルスは象徴界におけるすべてのシニフィアンがファリックな意味作用を持つことを保証するシニフィアンである。これがラカンが1956年から1958年にかけて行ったエディプス・コンプレックスの構造論化の到達点である。
このようにエディプス・コンプレックスは〈父の名〉の導入による父性隠喩によって完成し、神経症構造はこの父性隠喩によって規定され、逆に精神病構造は〈父の名〉が排除され父性隠喩が失敗していることによって規定される。こうした観点から古典的な精神病に見られる独特の病理は次のように理解されることになる。
まず精神病においては〈父の名〉が排除された結果⑴シニフィアンがバラバラに解体され、ひとつきりのシニフィアンが主体を襲う言語性幻覚ないし精神自動症が生じ⑵母の現前不在とちょうど同じように妄想的大他者(症例シュレーバーにおける無秩序な神)が現前不在を気まぐれに繰り返すようになる。また精神病においては父性隠喩が失敗した結果⑴隠喩的な意味を持つ症状を作ることができず⑵ファルスを軸とするセクシュアリティの規範化がなされなかった代償(症例シュレーバーにおける女性化現象)が生じることになるのである。
このように50年代のラカンは精神病の側からエディプス・コンプレックスというフロイトの神話を構造として読み直し、ひらたくいえばひとつの定型発達(=象徴界への参入)のモデルを提示したといえる。もっとも、ここから60年代のラカンはこのようなモデルに収まらない揺らぎ(=現実界の侵入)を捉える方向に向かうことになった。そして70年代のラカンはモデルとその揺らぎという二項対立そのものを脱構築してしまうのであった。
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kagurakanon · 4 months
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2023/12/31 君は、ほんとうは、いい子なんだよ--映画『窓ぎわのトットちゃん』
黒柳徹子氏がその少女時代を綴った自伝的物語『窓ぎわのトットちゃん』は1981年に講談社から公刊されると同時に大きな反響を呼んだ。同書は発売後の1年間で発行部数150万部を超え、現在では累計発行部数800万部を超える戦後最大のベストセラーのひとつに数えられてる。さらに同書は世界35ヵ国以上で翻訳出版されており、全世界累計発行部数は2500万部を突破している。  『窓ぎわのトットちゃん』とはその自由奔放さ(世間はしばしそれを「障害」と呼んで切り捨てます)ゆえに「窓ぎわ」に追いやられたトットちゃんがトモエ学園に初めて家庭以外の「居場所」を見つけていく物語である。そんなトットちゃんにとってかけがえのない「居場所」であったトモエ学園のイメージをこの度の『映画窓ぎわのトットちゃん』は「小林先生」と「泰明ちゃん」という2人のキャラクターに託すことで原作が持つ核心的なテーマを「言葉」によって「説明する」のではなく「映像」によって「物語る」ことに見事に成功している。こうした意味で本作は日本アニメーション史上におけるひとつの恐るべき達成を成し遂げた稀有な作品であると言ってしまっても決して大袈裟ではないように思える。  トモエ学園の校長であった小林宗作氏の教育理念は「どんな子も、生まれたときにはいい性質を持っている。それが大きくなる間に、いろいろな、まわりの環境とか、大人たちの影響で、スポイルされてしまう。だから、早く、この『いい性質』を見つけて、それをのばしていき、個性のある人間にしていこう」というものであったと原作あとがきで黒柳氏は書いている。「トットちゃんの一生を決定したのかも知れない」という「君は、ほんとうは、いい子なんだよ」というシンプルで力強い言葉の奥には、こうした小林氏の教育者としての揺るぎない信念があったのだろう。
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kagurakanon · 4 months
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2023/12/30 世界を拡張する道具としてのスーパーカブ--スーパーカブ
トネ・コーケン氏のライトノベルを原作とする本作はとある地方都市に暮らす「親もない友達もいない趣味もない」女子高校生小熊が通学用に原チャリ「スーパーカブ」を手に入れたことで成長していく物語である。カブを得ることで行動範囲が広がった小熊の生活はそれまでとは比べものにならないくらい色鮮やかで豊かなものになっていく。このような「モノ(事物)」とのちょっとした出会いで世界がみるみる拡張されていく体験を詳細に描いているところが本作の特徴といえる。かつて20世紀のサブカルチャーにおいて車やバイクといった「乗り物」はもっぱら男子の身体を拡張し、その男性的ナルシシズムを記述するための道具として用いられてきた。けれども本作で小熊がカブという「乗り物」で拡張しようとしたのはその身体ではなくむしろ世界の方である。ここでは20世紀の男子たちが見落としていた「乗り物」の本来的な可能性が見直されているようにも思える。すなわち、カブという「乗り物」は身体ではなく世界を拡張し、遠くでも近くでもない「中距離の豊かさ」を深めていくための「モノ(事物)」ともなり得るということである。そして、おそらくここには2020年代という時代を席巻する相互評価の��ームから離脱するための「事物を通じたコミュニケーション」の一つの可能性を見出すことができるのではないか。
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kagurakanon · 5 months
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2023/11/30 ゴジラ映画の脱構築--ゴジラ-1.0
ゴジラ生誕70周年記念作品。歴代ゴジラシリーズ初の「過去」を舞台にした本作は一方ではこれまで山崎貴監督が手掛けてきた『ALWAYS 三丁目の夕日』をはじめとする昭和ノスタルジーの系譜にひとまずは属するといえる。しかし他方で本作には新型コロナウィルスが席巻する現代の空気感がリアルタイムで取り入れられている。本作の舞台は1947年の敗戦直後の日本。特攻隊の生き残りである主人公は戦後の混乱の中、成り行きで知り合ったヒロインと戦災孤児の少女の3人でささやかな共同生活を始めていた。そんな折、突如ゴジラが東京に襲来し、ヒロインはゴジラの犠牲になり、主人公はゴジラへの復讐を誓う。本作は良い意味で前作『シン・ゴジラ』の対極をなす映画であるといえる。『シン・ゴジラ』はまさしく「理想的なプロジェクトX」であったが、本作では『シン・ゴジラ』で排除された人間ドラマが全面に押し出され、特撮映画としては異例ともいえるウェルメイドな出来栄えとなっている。また本作はこれまでのシリーズであまり描かれてこなかったゴジラとの海上戦闘が大きくクローズアップされているのも見どころである。こうしたドラマと特撮の両面において本作は従来のゴジラ映画のイメージを脱構築して清新なゴジラ像を打ち出した快作であったと思う。
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kagurakanon · 5 months
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2023/11/28 所有から関係性へ--少女革命ウテナ
『新世紀エヴァンゲリオン』の社会現象化に伴い発生した第三次アニメブームからは同作への返歌的な多くの作品が生み出された。それは同時に戦後日本的な「大きな物語」の失墜に伴う社会の「引きこもり/心理主義化」といういわゆる「95年問題」に対するサブカルチャーの一つの回答でもあった。そのうちの一つに数えられる『機動戦艦ナデシコ』は「95年問題」に対する回答としてTV版エヴァが提示した母性的承認(おめでとう)をより一層強化した形で提示した。これに対して本作は「95年問題」に対して良いr直接的な形で対峙する。同作の主題は「大きな物語」を基準としない別の仕方での「成熟」は可能かという問いである。そして同作は同性愛的な感情でつながる2人の少女に象徴される二者間関係を成熟のかたちとして提示する。これはいわば「所有」の対幻想から「関係」の対幻想への転換である。こうした意味で本作は「小さな物語」同士の「関係」を記述していくゼロ年代的な想像力の先駆けともいえる作品であった。
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kagurakanon · 6 months
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2023/11/07 蒲団とライトノベル
明治期において日本に導入された言文一致体は「私」という内面を赤裸々に記述する「日本版自然主義文学=私小説」という特異的なジャンルを産み出した。田山花袋の『蒲団』という作品は一般的にこうした「私小説」の始祖として位置付けられる。しかしその一方で本作は「私」なるものが畢竟、言文一致体によって仮構された「キャラクターとしての私」でしかないことを図らずも暴露してしまう側面を持っていた。こうした意味で本作は近代における「私小説」の起源であると同時に現代における「ライトノベル(キャラクター小説)」の起源としても読めてしまうところがあるといえる。
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kagurakanon · 6 months
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2023/10/31 ゴジラ襲来--ALWAYS 続・三丁目の夕日
前作から4ヶ月後の夕日町三丁目。鮮烈な印象を残す冒頭のゴジラ襲来のシーン。茶川が淳之介と一緒に暮らすため再び芥川賞を目指すという中盤以降のシナリオは本当に神がかっていた。ゼロ年代に一世を風靡した本作を含む昭和ノスタルジーを規定したあの頃は物も金もないけれど居場所と未来があったという幻想は今日でいう異世界系のコンセプトに通じるものがあるように思えた。
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kagurakanon · 6 months
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2023/10/30 異世界系ラブライブ!--幻日のヨハネ
ラブライブ!サンシャインの舞台である沼津市とよく似た「ヌマヅ」を舞台にした異世界ファンタジー。ラブライブ!のタイトルを投げ捨てることでラブライブ!の新境地を切り開いた怪作。まさかの主人公に引き抜かれたヨハネをはじめ、ある意味でサンシャインの本編以上に各キャラのポテンシャルを引き出している感があった。 
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kagurakanon · 6 months
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2023/10/25 幻想としての昭和30年代--ALWAYS 三丁目の夕日
ゼロ年代における「昭和ノスタルジーブーム」を牽引した本作の舞台である昭和30年代前半は日本社会で曲がりなりにも「大きな物語」が機能していた時代である。例えば社会学者の見田宗介氏は昭和20年から昭和35年頃までを「理想の時代」と規定した。理想の時代。それは人々がそれぞれの立場で「理想」を求めて生きた時代といえる。この時代の日本の「理想主義」を支配していた二つの大文字の「理想」として「アメリカン・デモクラシー」と「ソビエト・コミュニズム」があった。その一方で「理想主義」に対置される「現実主義」にしてみても、東京タワーや三種の神器に象徴されるような「今日よりも明日は、明日よりあさっては、きっともっと豊かになる」という「理想」を追っていた。いずれにしても当時はこうした「理想」へ向かう「大きな物語」に同一化したり、あるいは反発することで人は「生きる意味」を見出していた。この点、本作において「自動車はこれからどんどん伸びる産業だ、俺はうちがちゃんとした自動車会社になるのだって夢じゃないと思っている」と語る鈴木は前者を体現する存在であり「あえて言わせてもらうんですけどね、最近の慎太郎だの健三郎だのっていうのは、てんでなっていません」と嘯く茶川は後者を体現する存在といえる。そして今、こうした「大きな物語」は現実において失墜したことで虚構においてひとつの幻想を構成することになった。皆が貧しかったけれど皆が居場所と未来を見出せた時代。本作が描くのはそんな幻想としての昭和30年代なのである。
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