kurihara-yumeko
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ホルマリン漬け図書室A
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kurihara-yumeko · 8 months ago
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【小説】非・登校 (下)
※『非・登校』(上)はこちら (https://kurihara-yumeko.tumblr.com/post/766014791068319744/)
※『非・登校』(中)はこちら (https://kurihara-yumeko.tumblr.com/post/766015430742736896/)
 と、いうのはすべて、僕の妄想だ。
 現実の僕は、ベッドの上に横になったまま、目覚まし時計のアラーム音を聞いている。アラームが鳴る前から目は覚めていたものの、身体を起こす気にはなかなかならなかった。結局、布団から出るのはいつもと同じ時間になってしまう。僕はアラームを止めて、起き上がった。
 部屋を出て、階段を降りる。一階のダイニングは静まり返っていた。昔、朝起きて来ると、僕の父親がここでコーヒーを飲みながら新聞を読んでいたっけ。母親はトーストとハムエッグを朝食に作ってくれていた。そんな記憶が一瞬、目の前の景色に重なるように思い出される。でも今は、この家には僕以外誰もいない。
 棚のコーンフレークの袋を手に取ったところで、昨日の朝で牛乳を切らしたままになっていることを思い出し、そのまま袋を棚に戻す。僕は引き出しを開けて栄養調整カプセルのケースを取り出した。ケースの後ろに記載されている長ったらしい説明書きに目を通さなくても、一日の活動に必要なカプセルの種類と数量の組み合わせをもう完璧に覚えている。台所の水道からコップに水を注いで、識別のためにカラフルに着色されているカプセルたちを飲み込んだ。
 洗面所で顔を洗う。昨夜就寝前に歯を磨いて以降、何も咀嚼していないが歯も磨く。今日着るべき制服は昨日のうちに脱衣所に用意しておいた。それに着替え、今まで着ていたTシャツとスウェットは洗濯機へと放り込む。
 シャツの襟が折れていないかを確かめるため、鏡へ顔を近付けた時、髪がずいぶん伸びているな、と改めて気付いた。そろそろ散髪した方が良いかもしれないな、と思う。特に、この目にかかりそうな前髪は。
 ふと、僕は思い出して、洗面所の棚を探る。使い残りの整髪料を見つけ出し、まだ使用できることを祈りながら、容器から指ですくい、前髪へと塗りたくった。今まで前髪をセットしたことなんてない。やり方もよくわかっていない、見様見真似だ。前髪をオールバックにするのは、僕の父親が今日という日に特別の気合いを入れていることの表れだった。鏡の中の僕の前髪は、父親に比べると稚拙でしかない出来栄えだったが、僕の気合いは十分だった。
 玄関で念入りに靴紐を締めて靴を履く。幼い頃、出掛ける僕をハグしてキスしてくれた母親のことを思い出す。もう見送ってくれる家族はいない。それでも、誰もいない家に向かって���行ってきます、と小さく口にして家を出た。
 指定場所で待機していると、指定された時間に一台の大型トラックが走行してきた。荷台に背の高い幌屋根が付いた、兵員を乗せて運ぶためのトラックだ。目の前で停車したトラックの荷台に、僕はよじ登るようにして乗り込んだ。
 トラックの中にはすでに十一人、兵員たちが座っていた。
「おはよう、ケイタ」
 僕にそう挨拶をしてきたのはボーロだった。狭い荷台の上で、彼は大きな身体を狭めるようにして腰を降ろしている。僕のふたりいる幼馴染みの片割れが彼だ。もうひとりの幼馴染みであるキョウイチロウ博士は、今は本部の作戦会議室にいる。ふたりとも、僕にとってはかけがえのない友人だ。
「おはよう、ボーロ」
 ボーロの隣に座っていた兵員がわざわざ立ち上がり、僕が座るための空間を空けてくれたので、名前も知らない彼に会釈をしてボーロの隣へと腰を降ろした。
 僕以外の十一人の兵員の中で、知っているのはボーロだけだった。あとの十人は顔も名前もわからない連中だ。今回の「任務」では他地域から応援を募ると聞いてはいたので、恐らくは他支部から派遣されてきたのだろう。
 僕が腰を降ろしてすぐ、トラックは再び走り出した。座席もクッションもないトラックの荷台では、振動で尻が痛くなりそうだったが、目的地はここからそう遠くない。短い間の辛抱だった。幌屋根に遮られて外の様子はよく見えないが、僕たち十二人の兵員を乗せたトラックは、葉桜となった桜並木を北上しているはずだ。
「おい」
 チームのリーダーであることを示す、赤い腕章を付けた兵員の男が僕に端末を手渡した。僕は端末を受け取ったのとは反対側の手を軽く上げて、礼を示したつもりだが、リーダーの男は眉ひとつ動かすことなく、じっと前を見つめるだけだった。兵員たちの間には妙な緊張感が漂っていた。ほとんどの兵員は自らの膝を抱えるように座り、目線は下を向いていた。お互いに目を合わせることも、言葉を交わすこともしない。
 命の危険が伴う「任務」の前には、こういう光景は決して珍しいことではない。僕も無理に他の兵員とコミュニケーションを取ろうとは思わなかった。黙ってリーダーの男が渡してきた端末を操作する。
 端末の画面には今日の「任務」の要項が表示されている。どうということはない、事前に知らされていた内容と相違なかった。最後までスクロールすると、武器を選択する画面が現れた。十二種類の武器が用意され、兵員は自由に種類を選ぶことができる。
「ボーロは何を選んだんだ?」
 僕は小声でボーロに訊いた。彼の左腕に装着されている腕時計型の端末は、青い光を発している。それは選択された武器の用意がすでに整っていることを示している。幼馴染みはどこか得意気に笑って答えた。
「俺はいつものあれだよ」
「そうか、あれか」
 ボーロは昔から、使用する武器をほとんど変更していない。今日もガトリング砲か、モーニングスター――今回、ボーロが選んだのは後者だろう、と僕は思った――だろう。
「ケイタは? 何にするんだ?」
「僕も、いつもと同じだ」
 そう答えた僕を見るボーロの表情が、少しばかり曇った。そこには微かな軽蔑の色が混ざっていた。しかし、幼馴染みのそんな表情にももう慣れっこだった。
「ケイタはいつも、そればっかりだな」
 目元に嫌悪の色を滲ませたまま、幼馴染みの口元がいびつな笑みを作る。僕は笑い返さなかった。
 使用武器を固定化する兵員は決して珍しい訳ではない。十二種類すべての武器をまんべんなく使いこなす兵員の方がよっぽど稀有だ。これは他のことに関しても当てはまるかもしれないが、多くのことに手を出すよりも、どれかひとつに絞って鍛錬した方が、より習熟した技術を得ることができる。だからたいていの兵員は、使用武器種はひとつかふたつ、多くても三つというところだ。
 僕は端末の画面に表示された十二種類の中から、愛用している唯一の武器種を選択する。表示された確認のメッセージをタップすると、すぐに僕の左腕に装着してある端末が同期する。青い光が灯った。
 改めて荷台を見回すと、兵員は全員、左腕に青い光を灯している。準備は整っているようだ。
「そろそろ、目的地に到着するぞ」
 リーダーの男が低くそう告げる。途端に、兵員たちの間に漂う空気がより重たくなったように感じる。「任務」が始まろうとしていた。
 僕たちはこれから、トチコロガラドンを倒さなくてはいけない。
 停車したトラックの荷台から降りると、そこは校庭だった。目の前には小学校の校舎と、隣接する体育館があった。通常ならば、児童が登校してくる時間帯のはずだが、校庭にも校舎にも、どこにも人の姿は見当たらない。どの窓を見ても灯りはない。この学校は半月前から無人になっている。避難指示が出されているからだ。この都市に暮らす住民はすべて、近隣の都市へ避難するように指示が出されている。残っているのは僕のような「任務」に就く兵員だけだ。
 無人の学校はどこか不気味だった。あまりにも静かすぎる、そう感じた。誰もいないのだから、それは当然なのかもしれなかった。否、誰もいない訳ではない。トチコロガラドンがいるはずなのに、なんの音もしなかった。そのことを不自然に感じているのかもしれなかった。
 リーダーの男が指示を出した。事前に知らされていた内容通り、まずは校舎の中を探索する。十二人の兵員は三つのグループに分けられ、それぞれ校舎の一階、二階、三階を探索することになった。僕とボーロは違うグループに分けられた。僕は三階、ボーロは一階を探索することになる。僕はボーロと無言で目配せをした。
 違うグループになったことは、特別残念なことでもなければ、嬉しいことでもない。各兵員が選択した武器種が近接攻撃に特化した武器なのか、それとも援護が可能な遠距離攻撃の武器なのか、あるいは、兵員がベテランなのか新人なのか、そういったバランスによって各グループに分けられただけだ。誰も異を唱える者はいなかった。
 僕たちは昇降口から校舎へと足を踏み入れた。主に遠距離武器を選択した兵員たちの手には、すでに武器が握られていた。左腕に装着した端末を通して、兵員は任意のタイミングで本部の武器庫から自らの武器を異空間移動で呼び出すことができる。基本的に、大型の武器は持って歩くだけで体力の消耗や機動力の低下に関わるので、戦闘が始まるその瞬間まで装備しない兵員が多い。ひときわ身体の大きな男が、ハンマーソードを肩に担いだまま二階への階段を登って行ったが、彼は体力に自信があるのだろう。僕は丸腰のまま、土足で下駄箱の前を通り過ぎる。
 ふと、下駄箱に一足の靴が残されているのが目に入った。黒いエナメルのスニーカーだ。デザインからして、女児の物だろう。忘れ物だろうか。下駄箱にスニーカーを忘れて帰るなんて、上履きのまま下校したのだろうか?
 ボーロたちのグループとは階段の前で別れた。階段を登って行く。土足のまま校舎の中を歩き回るというのは奇妙な感覚だった。避難訓練の時、上履きのまま校庭へと走り出したことを思い出す。あの時と、今は状況が真逆な訳だが。
 二階を探索するグループと別れてさらに階段を登る。校舎の中は静まり返っていた。本当にここにトチコロガラドンがいるのだろうか。この都市を壊滅状態にまで追い込むかもしれないと噂されている、宇宙からの侵略者が、ここに。
「手分けして探そう」と、同じグループに配属された金剛鈴使いの男がそう提案した。僕たちはそれぞれ、三階の教室を探索することになる。僕が宛がわれたのは五年二組の教室だった。灯りの消えている室内は薄暗く、廊下からでは中の様子はよくわからない。僕は慎重に、教室のドアを開けた。
 教室には誰もいなかった。五年二組に所属している児童、三十二名分の机と椅子が並べられているだけだ。一歩、二歩と教室の中へと踏み込む。これといって異常はない。ごく普通の教室だ。五年二組、異常なし。左腕に装着している端末からそう連絡し、廊下へと引き返そうとした、その時だった。
 目の前で、音ひとつ立てずに教室のドアが閉ざされた。まるで、僕をこの教室から逃がさないようにしたかのように。
「おはよう、ケイタくん」
 声がした。凛とした声だった。教室には誰もいないはずだった。しかし、振り向くとそこにいた。教卓の陰にでも隠れていたのだろうか。誰もいなかったはずの教室に、まるで遥か昔からずっとそこに存在していたかのように、あるいは、たった今魔法でその場に現れたかのように、「彼女」が降臨していた。
「ケイタくん、どうしたの。もしかして、日直の当番の日、間違えちゃったの?」
 透き通るような白い肌。艶やかな長い黒髪。髪と同じか、それよりももっと深い闇��湛えたような、大きな瞳。「彼女」――トチコロガラドンだった。トチコロガラドンが、そこにいた。
 僕は瞬時に左腕の端末から自らの武器を異空間移動させて召喚し、彼女に襲い掛かる――はずだった。しかし、現実の僕は咄嗟に動くことなどできず、ただその場に立ち尽くしているだけだった。否、立っていることくらいしかできなかった。僕はトチコロガラドンを見つめていた。見つめるしかなかった。彼女から目を離すことができなくなった。
 それは鱗と羽毛に覆われているはずだった。手には鉤爪が生えているはずだった。だが、目の前のトチコロガラドンには、二対の翼も、八本の手足も、五つの目玉もなかった。彼女は美しかった。眼差しは優しげで、口元は柔らかな曲線を描いていた。彼女は微笑んでいた���僕に微笑みかけていた。僕たち十二人の兵員を全員抹殺し、この第八都市を滅亡させるはずの破壊者は、それでも美しい笑みを僕に向けていた。
 僕が咄嗟に動けなかったのは、突然目の前に敵が現れた恐怖心からだったのか、それとも彼女の美しさに呆気に取られてしまったからなのか、もしくはそのどちらともだったのかもしれない。
 その場の空気を切り裂くような鋭い金属音が鳴り響いたのと、トチコロガラドンが僕に向かって手を伸ばしてきたのはほぼ同時だった。その金属音は金剛鈴の音色だった。廊下で別れたはずの金剛鈴使いの男が、いつの間にか僕がいる五年二組の教室の前に立っていて、その音色で閉ざされたドアを開け放ってくれていた。
「大丈夫か!?」
 僕に向かってそう叫んだ金剛鈴使いの男を、トチコロガラドンは変わることのない優しい瞳で見つめる。彼女はその声までも、優しい響きをしていた。
「――ケイタくん、いつも置き勉してるんだ、いけない子だね」
 逃げろ。そう言う暇さえなかった。次の瞬間、金剛鈴使いの男は真っ赤な飛沫となって廊下に飛び散った。彼が立っていたはずの場所に、もう人間の姿はなく、骨も肉も装備品も武器も何もかもなく、ただ赤い飛沫だけが廊下に残されただけだった。
 殺される。
 情けない僕の足はそこでようやく走り出した。教室を飛び出し、廊下を駆ける。端末で通信するなんて余裕はなかった。トチコロガラドンが追って来る気配がしたが、後ろを確認する勇気もなかった。
 廊下に面した教室にいた兵員たちが僕を追うトチコロガラドンの存在に気付き、悲鳴を上げる。武器を向けた兵員が赤い飛沫となった。本部で通信しようとした兵員も赤い飛沫となった。振り向かなくてもそれがわかった。誰かが飛沫となる前に緊急事態を知らせる左胸のボタンを押したようだ、僕の左腕の端末が赤い光を放ち始めた。一階と二階を探索している兵員たちにも、この異常事態が伝わるだろう。
 これで、三階にいる兵員は僕ひとりになった。
 僕は廊下を一度も振り返ることなく走り、迷わず屋上へと階段を駆け上がることを選んだ。トチコロガラドンは僕を追って来ているはずだ。下階へ行けばより多くの犠牲を出すことになる。
 事前の「任務」内容の確認や日頃の訓練の効果も、今は空しいだけだった。僕は今、誰のことも救えずにただ逃げ出しているだけだ。それでも屋上へと迷わず走ることができたのは、一階を幼馴染みのボーロが探索しているとわかっているからかもしれない。
『ケイタくん、思い出して』何か、階段の壁にそんな内容の文章が書かれていた。誰かがスプレーで書き殴ったかのような文字だった。でも僕は階段を登ることに必死だったから、何かの見間違いかもしれない。
「ケイタくんは、強い?」
 後ろからトチコロガラドンの声がした。僕を追って来ているのは間違いない。ある程度の距離を保っていることはかろうじてわかるが、背後にどのくらい迫って来ているのか、正確な距離は測れない。
 屋上へと続く扉は鍵が閉まっていて開かなかった。それでも錆び付いて古ぼけた扉に一縷の望みを託して、僕は扉を蹴破ろうとする。
 何度も何度も扉を蹴った。狂ったように扉を蹴った。もう足が折れているかもしれなかった。それでも僕は扉を蹴り続けた。
 開け。開け、開け、開け、開け。『戦って。ケイタくん』扉にはそんな言葉が書いてあった。スプレー缶で落書きされたような文字。校舎にこんな落書きをするのは一体誰なんだろう。僕はその扉を蹴って蹴って蹴って蹴って、蹴り続けていた。しかし、扉は頑として開かなかった。
「ねぇ、ケイタくんは強いの?」
 声がした距離が近かった。僕は振り返った。階段の踊り場に、こちらへと登って来るトチコロガラドンの影が見える。もうすぐそこまで、彼女は迫って来ていた。もう逃げられない。どうやら、ここまでのようだ。
 僕は扉を蹴ることをやめた。階段を登って来る、トチコロガラドンの頭が見え始める。一段一段、踏みしめるように彼女は近付いて来る。
『ケイタくん、お願い』階段にはそんな文字が書いてあった。誰か落書きした人がいるのだろう。壁や扉のみならず、階段にまで書くなんて。さっき駆け登って来た時には、まったく気付かなかった。そんなメッセージを残す人を、僕は知っているような気がした。でもそれは、妄想なのかもしれなかった。
 死にたくない。
 僕は左腕の端末を操作した。僕の武器を異空間移動で呼び出す。
 青い光の輪が広がった。僕の武器が突如として足下から出現する。冥府より蘇りし六角形をした金属製の箱。コフィンは、兵員たちの中で最も忌み嫌われている武器だ。僕がこの武器を選ぶ度にボーロが嫌な顔をするのには理由がある。それはこの棺桶(コフィン)の中に納められている存在が、時として敵よりも邪悪な存在であるからだ。
 階段を登って来たトチコロガラドンは、突如として出現したコフィンを目の前にしても、驚きの表情ひとつ浮かべない。変わらず優しい笑みだった。
「リスコ、起きてくれ」
 僕の声に応えるように、棺桶の蓋が突然開く。途端、辺りをひどい悪臭が立ち込めた。獣のような呻き声。汚れきった頭髪が棺桶の中から覗いている。あの世から蘇ってくる。この世へと腕を伸ばし、足を降ろし、その姿を現す。それは邪悪な死者。寝起きがあまり良くなくて、永遠の眠りから自分を呼び起こしたすべての者を噛み殺そうとする、気性が激しい怪物。
 リスコ。それは僕の妹。死してもなお、幾度となく眠りを妨げられる、僕のたったひとりの不憫なきょうだい。
 棺桶から出て来たリスコは、しばらく目の前のトチコロガラドンを見つめていた。否、本当に彼女を見ていたのかはわからない。妹は、もう僕が知る生前の姿とは異なっている。黄色く濁った瞳では、対峙している相手が見えているのかは不明だった。
 対するトチコロガラドンも、リスコをじっと見つめていた。リスコは低い呻き声をときおり上げはするものの、微動だに動こうとしない。そんなリスコを見つめる彼女の姿は、教室の中で大人びた女子児童がクラスメイトたちの他愛のない雑談に耳を傾けている時のような、そんな様子に見えるかもしれなかった。
 ただ、ここはもう逃げ場がない階段の踊り場で、トチコロガラドンはこの都市を壊滅させる侵略者で、僕は彼女を討伐する「任務」を課せられた兵員で、リスコはその死によって武器として利用されている可哀想な死者だ。
「リスコ、食い尽くせ」
 ふいにトチコロガラドンの右腕が動いたように見え、僕は咄嗟にそう命じていた。今までぴくりとも動かなかったリスコは突然、トチコロガラドンに飛び掛かる。
 一瞬、何が起きたのか理解が追いつかなかったが、僕の左頬を何かが掠めた。背後にあった扉に激突して僕の足元に転がったそれは、妹の左腕だった。肩の辺りから捩じ切られたように切断されている。恐らくは、トチコロガラドンの攻撃が被弾したのだろう。他の兵員たちのように赤い飛沫にならずに済んだのは、上手く躱せたからなのか、もしくはリスコがもう人間ではないからかもしれない。腕の切断面は妙に白茶けていて、血も流れ出なかった。マネキンの腕みたいだった。
 腕を一本吹き飛ばされたにも関わらず、リスコの勢いは止まらなかった。未だに痛覚が備わっているとは思えない。僕の不憫な妹は、かつて僕の妹であった哀れな死者は、自分の片腕が失われたことに気付いてさえいないのかもしれない。リスコはトチコロガラドンに飛びついた。そして頭からバリバリと、彼女を食べ始めた。
 僕はもう、自分が見ている光景が現実だとは思えなくなっていた。トチコロガラドンはなんの抵抗をすることもなく、リスコにバリバリと食べられていた。それは何かのテレビ番組で見た、クマに食される魚の映像に似ていた。まだ残されていた彼女の右目が、僕のことを見ていた。最後まで、その瞳は微笑んでいた。トチコロガラドンは、顔の表情を変えることができないだけなのかもしれない。そうでなければ、こんな瞬間まで、笑っていられないだろう。やがて頭部をすべて食べられその表情が完全にわからなくなるまで、トチコロガラドンは顔色ひとつ変わらなかった。
 リスコは僕の命令通り、トチコロガラドンを食べ続けた。頭から、胴体、腕、足、すべてを食べ終えるまでにどのくらいの時間が経ったのか、よく覚えていない。僕はどこか夢でも見ているかのように呆然と、妹の裁断機のような歯が口の中で幾重にも連なり、それらが機械的に開いたり閉じたりするのを見ていただけだった。
 やがてリスコはトチコロガラドンを完食した。何を言っているのかわからないほど低く唸りながら、あたかも自分の成すべきことはすべて終わったのだとでも言うように、自ら棺桶の中へと帰って行く。
「……リスコ、ありがとう。助かったよ」
 僕は夢見心地のまま、かつて妹だった者に、なんとか言葉を絞り出してそう声をかけた。ひときわ大きな唸り声が返ってくる。とっくの昔に人語を理解できなくなったはずだから、僕の言葉に返事をしたように聞こえただけで、偶然に過ぎないだろう。コフィンの金属製の扉は音を立てて閉ざされる。召喚した時と同じように、冥府から運ばれ��棺桶は僕の足下で回転する青い光の中へたちまちに消えた。
 左腕の端末からは、敵の信号が完全に途絶えたこと、すなわち、トチコロガラドンの討伐に成功したことを伝える通信が入っていた。僕はそれを、やはり夢を見ているような気分のまま聞いていた。トチコロガラドンがこんなにもあっさりと、討伐されてしまって良いのだろうか。否、すでに兵員は三名の死者を出している。決して少ない犠牲ではない。だが、そうではなくて、僕が召喚したリスコを前に、彼女はあまりにも無抵抗ではなかったか? 彼女はこの都市を壊滅させるはずではなかったのか? それだけの脅威だったはずだ。何かがおかしい、何かが……。これではまるで、ゲームのバグのような……。
 気が付くと、屋上へと続く扉が開いていた。僕があんなに蹴り飛ばしても開かなかった扉が、今は開いている。僕は誘われるように、扉の向こうへと踏み出した。
 屋上には湿気た風が吹いていた。曇天からか細い陽が射している。屋上のアスファルトは濡れていた。そこにスプレーで書いたような文章があった。
『ありがとう、ケイタくん。トチコロガラドンを倒したんだね。君はついに見つけたんだ、誰も見つけることができなかった、第八都市を壊滅させずにトチコロガラドンを倒す方法を。君によって世界は救われたんだ』このメッセージを書いたのは、一体誰なんだろう。でも僕は、そんな落書きにも、それを書いた人物にも、もうたいして興味を持てなかった。
 屋上にできたひときわ大きな水溜まりに、何か落ちている。僕は近付いた。それはヘアピンだった。水色の水玉模様が付いている。指先で摘まみ上げてみる。僕はそのヘアピンをしばらく見つめ――、しかし、何も思い出せなかった。
 それは、僕にとって大切な記憶だったような気がした。でも気のせいかもしれなかった。妄想なのかもしれなかった。今までずっと僕の妄想が繰り返されてきたように、今こうして見ている景色も、現実ではないのかもしれない。この記憶も妄想ということで片付けられ、また違う世界の、僕の物語が始まるのかもしれなかった。そしてそれもまた、僕の妄想なのかもしれない。
 僕はずいぶん長い間、そうやって妄想の中で生きているような気がする。まるでテレビゲームの中のような世界を、映画の中のような世界を、どこかで見たような誰かから聞いたような何かで読んだような世界を、ありふれた、当たり前のようにありきたりな、決まりきった世界を眺めているだけのような気もする。
 本当は、こんなはずじゃなかった。こうなる予定じゃなかった。トチコロガラドンは倒せないはずだった。第八都市は壊滅するはずだった。この都市を犠牲にして、あの怪物を倒す。それが僕たちの任務のはずだった。そう、あれは怪物でなければならなかった。僕が倒した「あれ」は、怪物なんかじゃなかった。優しく微笑み続ける「あれ」は、「彼女」は、倒すべき敵なんかではないはずだ。
 僕は探しているはずだった。怪物を倒す方法を。第八都市を滅ぼすことなく、宇宙から飛来した侵略者を倒す手段を。「彼女」は探していたはずだ。僕たちが助かる方法を。僕たちが現実の世界で、生き延びるための手段を。
 僕たちはそれをずっと探していた。僕たちは、こんなバグみたいな、偶然の産物みたいな、百万回に一度だけ起こる奇跡のような、そんな確率論の成れの果てを求めて、挑戦していた訳ではなかった。僕たちは――「僕たち」って、一体、誰のことなんだろう?
 僕はこのヘアピンを、誰に返さなくちゃいけないんだっけ。
 突然、青い光の輪が、僕の足下に広がった。咄嗟に手を伸ばしたが、光の出どころは僕の左腕の端末ではなかった。僕が武器を異空間移動させようとした訳ではない。当たり前だ、そんな操作をしていない。では、この光は。一体、何が召喚されようとしているのか。
 光の輪が幾重にも広がる。ひとしずくの水滴が波紋を起こしていくように、光の波がアスファルトの上を伝わっていく。『ケイタくん、思い出して』いつの間にかそんな落書きで屋上のアスファルトは埋め尽くされていた。光の輪はその文字の上も走り続け、たった今スプレーで噴射されたような落書きたちはみるみるうちに霞んでかき消されていった。
 気が付くと、青い光の波の中に僕は立っていた。光は風にそよぐ夏草のようにゆらゆらと揺れていた。一面の波だった。もうそこには屋上も、学校も、この都市も存在していなかった。何もかもが消えていた。ただ、光の海が広がっていた。海の外側は深い闇だった。
 膝の辺りまで波は来ていた。波ではあるが、水ではないから濡れないことが不思議だった。ふいに、水面が盛り上がった。何かが下から、この光の大海原の奥底から、姿を現そうとしている。それは人のようだった。人の姿をしているように、僕には思えた。それが誰なのか、知っている気がした。けれど、どうしても思い出すことができない。僕にとって、とても大切な人だったような気がするのに、名前すらわからない。
 ばしゃんと、光の波が跳ねて飛沫が飛んだ。その人は水面から顔を出し、振り返って僕を見る。そして立ち上がる。僕の方へと、光の波の中をかき分けるように歩み寄って来る。
「ケイタくん」
 その人は、僕の名を呼んだ。優しい声だった。もう何度も聞いた声だった。もうずっと、耳にすることを待ち望んでいた声だった。
「ケイタくん、泣いているの?」
 僕は泣いているんだろうか。
「泣かなくていいんだよ」
 僕は泣いていたんだろうか。
「私がケイタくんを守ってあげる。だから大丈夫。何も心配いらないよ」
 その人がそう最初に言ったのは、僕の妹が死んだ時だった。
 寝起きは特別機嫌の悪い僕の妹は、ある日、父に殴打されて二度と目を覚まさなくなった。もう目を開けることはないとわかっていても、横たわる妹に触れるのは怖かった。いつか起き上がって、毎朝お決まりの癇癪が始まるような気がした。妹が棺桶に詰め込まれて火に焼かれ、地中に埋められるまで、僕はひそかに怯え続けていた。そうして妹が死んでから、眠ることが怖くなった。可哀想な妹と同じように、僕も眠ったっきり、二度と目を覚まさなくなってしまうような気がした。
「私がケイタくんを守ってあげる。だから大丈夫。何も心配いらないよ」
 僕の母親が失踪した時も、その人は僕にそう言った。
 日に日に酒の量が増えていった母親は、次第に料理を作ることをやめ、洗濯機を回すことをやめ、掃除機をかけることをやめた。冷蔵庫が空になり清潔な衣服が何ひとつなくなり、家じゅうにゴミが散らかるようになった頃、ビールを買いに出て行ったっきり、母は帰って来なくなった。それから三ヶ月経った頃、海に浮いているのが見つかった。一緒に漂っていた鞄の中に仕舞われていた財布には、所持金が二円だけ入っていた。
「私がケイタくんを守ってあげる。だから大丈夫。何も心配いらないよ」
 僕の父親を殺した時も、その人はそう言った。
 台所の薄暗がりの中、こちらに右手を伸ばしたまま、目を見開いたまま死んだ父親。背中から突き抜けていた包丁の切っ先が、鈍い光を反射していた。床に広がっていく血溜まり。父の瞳から命の灯が消えていく。まるで助けを求めるかのようにその右手が伸ばされた時、薄情な僕は後ずさったのだ。助けるどころか、叫ぶことさえしなかった。その人が父を殺すのを、僕はただじっと見ていた。見ていることしか、できなかった。
 それらは、僕にとって大切な記憶なのかもしれなかった。でも、すべて僕の妄想のような気もした。テレビゲームをしている間は楽しかった。どこかで見たような、誰かから聞いたような、何かで読んだような、そんな世界に浸っていられる間は、現実のことを忘れていられた。
 だから僕は妄想をした。妄想し続けた。トチコロガラドンが宇宙からやって来てこの都市を破壊していく姿を思い描いた。トチコロガラドンが宇宙からやって来て、僕の家族を破壊していく姿を想像した。たとえ本当にこの都市が壊滅しても、僕の家族が崩壊しても、それは妄想なのだと思えば、その苦しさを忘れることができる。
 いや、それは嘘だ。忘れることなんてできなかった。僕はずっと苦しかった。苦しくて苦しくて、それでもどうすることもできなかった。僕は見つけられなかったのだ。怪物を倒す方法も、僕たちが助かる方法も。
 光の波が僕の頬を撫でた。ずいぶんと高い波だった。水じゃないから濡れなかった。
 その人は光の海の中を歩いて来て、僕の前で足を止めた。少し困ったような表情で僕を見ていた。やっぱり、微笑んでいた。
「ついに、ケイタくんに倒されちゃった」
 その声は、どこか嬉しそうに聞こえた。でもそれは、そうであってほしいと僕が思い込んでいるだけかもしれない。
「すごいね、ケイタくん。やっぱり、ケイタくんは強いんだね」
 ――トチコロガラドンが倒せないの。
 いつだったか、その人は僕にそう言った。そのトチコロガラドンは、今はもういない。僕の可哀想な妹が、すべて食い尽くしてしまったから。
「私が守ってあげなくても、ケイタくんはもう大丈夫だね」
 これも僕の妄想なんだろうか。僕はこの人に、こんな風に言葉をかけてもらいたいと、思っていたのかもしれない。ずっと僕の側で微笑んでいてほしいと、そう願っていた頃があったように。
 僕はこの人の笑顔をいつまでも見つめていたかった。それが許される存在でありたかった。ずっと見つめていたいのに、見つめ返されると胸が苦しくなった。自分が許された存在ではないということを、突き付けられているような気がした。自分なんかが憧れてはいけない相手のように思っていた。
 僕は許されたかった。
 この人に許してもらいたかった。
 この人を許してあげたかった。
 この人が許されてほしかった。
「もう、大丈夫だね」
 それが、僕が聞いた最後の声だった。その人は光の波に飲まれて、光の渦の中へ吸い込まれていって、光の海の中の、光に満ちた奥底へと沈んでいった。海底は眩しかった。どんなに目を凝らしても、もうその人の影も形も見つけられなかった。
 僕はいつまでも、光の波の中に立っていた。ゆらゆらと揺れる光を見ていた。
 光の波が僕の頬を撫でる。水じゃないから濡れないはずだった。僕は泣いていたのだろうか、水じゃないのに頬は濡れていた。
 と、いうのはすべて、僕の   。
 僕は、目覚まし時計のアラームを止めて起き上がった。
 朝の支度。棚のコーンフレークの袋を手に取り、皿に出して牛乳を注ぐ。洗面所で顔を洗う。歯を磨く。服を着替える。寝間着代わりにしていたTシャツとスウェットを洗濯機へと放り込む。
 リュックサックは玄関先に置いてある。新調したスニーカーも出してある。ひとりで暮らしているから、見送ってくれる家族はいない。それでも、行ってきます、と口にする。
 葉桜となった桜並木を歩いて行く。登校途中なのであろう、小学生たちとすれ違う。ひときわ身体の大きな男の子と、ひょろっとした眼鏡の男の子が仲良さそうにおしゃべりしながら歩いていて、僕は昔いた友達のことを思い出す。僕も彼らみたいに、友達とスニーカーの話やテレビゲームの話をしながら、学校へ向かうのが好きだった。
 懐かしい記憶を思い出しているうちに職場に着く。店長のヨモギダさんは、僕��面接で出会った人間たちの中で、やたらと空白ばかりでなんの資格も免許もない僕の履歴書を見ても、唯一顔をしかめなかった。断られた回数を数えることを諦めてからもしばらく無為に数を重ねることしかできなかった僕のしがない就職活動の中で、唯一採用してくれたのもヨモギダさん��った。採用してくれた理由が、二十四時間営業の居酒屋のアルバイトというのはそれだけ人気がない仕事なのか、「俺も昔、三年くらい引きこもってたよ」と休憩中に煙草を吸いながら言った彼の琴線に僕の経歴が触れたからなのかは、未だにわからない。
「おはようございます」
「おー、おはよ」
 店の裏に回ると、副店長のミシマさんとバイトリーダーのサキハラさんが従業員専用出入口の側で煙草を吸っているところだった。
「あ、ケイタくん、良いところに」
「今ちょうどミシマさんとスタストの話してたとこなんだよ」
「ケイタくん知ってた? 来月発売の新型ゲーム機、あれにスタストの新作が出るんだって」
「八年ぶりの続編なんて、テンション上がるなぁ、おれ絶対買うよ」
「ケイタくんも買う? そしたら三人で遊ぼうよ」
 ふたりの会話の勢いに僕はちょっと面食らって、「金、貯めておきます」とだけ答えて店の中へと入った。
「スタストと言えば、なんだっけ、なんとかドラゴンがさぁ……」
「あー、ありましたね、都市を壊滅させる代わりに倒せるやつ……」
「あれ、地味にトラウマになったよなー」
 ふたりの会話が続いているのが聞こえてきたが、僕は構わず更衣室に入り、制服に着替える。
 更衣室を出た時、店長のヨモギダさんとすれ違った。
「店長、おはようございます」
「おー。今日もよろしくな」
 今日も目の下の隈がひどいヨモギダさんは僕の挨拶に覇気のない声で返事をしてから、裏口の扉を少しだけ開けて、「おーい、いつまで煙草吸ってんだー、仕事しろー」と、外に向かって怒鳴った。
 ミシマさんとサキハラさんは、ふたり揃って「すんませーん」と頭をぺこぺこ下げながら裏口から入って来て、それでもヨモギダさんが店の奥の事務室へと消えると、スタストでどの武器を愛用していたか、まだ話していた。
 僕が小学生の時に友人たちとハマっていたテレビゲーム、スタストこと、スターストレイザーの新作の発売が発表されたというニュースを、僕はすでに知っていた。先週、ヒナカワから送られてきたメールにそう書かれていたからだ。
 ヒナカワは僕の小学校の同級生で、彼女はその頃からすでに、筋金入りのオタクだった。女子よりも男子に人気があったスタストを、クラスの誰よりも、いや恐らくは学校じゅうの誰よりも、熱心にプレイしていた。もともと、僕とヒナカワは特別仲が良いという訳ではなかったが、同じゲームに夢中になっている者同士、何度か一緒に敵の攻略方法を模索したことをきっかけに、ときどきメールでやり取りをするようになった。
 僕は小学五年生の時に諸事情から学校に行くことをやめてしまい、それから六年間ほど、半ば引きこもりのような生活を送っていたので、実際に顔を合わせる機会はほとんどなかった。それでも定期的にヒナカワからは「お願い、一緒に戦って」というメールが届き、インターネットを介したマルチプレイで一緒にゲームをしていた。彼女も彼女で、中学生に進学した頃には不登校になり、一日じゅう部屋にこもってオンラインゲームばかりしていたようだが、僕がそのことを知ったのはずいぶん後になってからだ。
 中学校の門をくぐったことが一度もなく、高校卒業資格も持たない僕が、今こうして二十四時間営業の居酒屋で働いているように、どうやらヒナカワもアルバイトをしているようだが、自身のことを語る内容をメールに一切記載してこない彼女が、今どこに住んでいて何をしているのか、本当のところはよく知らない。知りたいとも、会いたいとも特別思わない。
 ただ、僕が引きこもっていた六年間、毎日毎日、現実から目を背け、妄想の世界に閉じこもっていたあの時期に、ヒナカワが、彼女だけが、僕に現実と向き合うよう、何度も訴え続けてくれた。そのことだけは、僕は一生、彼女に感謝し続けるだろう。
 月日が経って、スタストもずいぶん古いゲームになってしまい、僕もヒナカワもいつの間にか一緒にゲームをすることはなくなったが、それでも今でもときどき、彼女からは簡素なメッセージが届く。
『スタスト新作、買う?』とだけ記されていたそのメールに、僕はまだ、返信をしていなかった。
 スターストレイザーの続編を購入するかどうか、決めかねていた。新型のゲーム機と新作ソフト、インターネット環境や周辺機器を整えることを考えると、決して安い出費では済まされない。それに、僕はもう何年も、テレビゲームをしていなかった。電器屋のゲームコーナーで「新作」のタグが付けられたゲームソフトを眺めても、遊びたいという気持ちになることさえなかった。欲しいゲームソフトを何本も買ってもらえる訳でもなかった子供の頃は、店頭に並んでいるパッケージを眺めるだけで心が弾んだのに、今はなんの感情も湧き上がってこない。もう今さら、テレビゲームを楽しむことなどできないのかもしれない。
 それでもヒナカワからのメッセージに『買わない』と即答しなかったのは、夢中になって敵を倒そうと奮闘していたあの頃を思い出して、懐かしい気持ちになったからだった。もう一度あの頃の楽しさを体験できるのであれば、プレイしてみたいと思ったからだ。そして恐らく、それは多くのスタストファンが抱いている感情だろう。ミシマさんも、サキハラさんも、そして、たぶんヒナカワも。
 しかし、そんな僕の前に立ちはだかる、金銭問題という壁は巨大だった。両親を亡くした僕を引き取って面倒を見てくれていた祖母が亡くなり、ひとりで生活するようになってもうすぐ二年が経つ。しかし今の僕には、テレビゲームを遊ぶ余裕はなかった。
 あと何回、客のテーブルまで生ビールの大ジョッキを運び、あと何枚、汚れた皿を洗い場の片隅で洗い続けたら、スタストの続編が買えるようになるんだろう。そんなことを考えながら、客がはけたタイミングを見計らってフロアにモップ掛けをしていると、八時間の今日の労働が終わった。
 更衣室でリュックサックをロッカーから取り出し、制服から着替える。まだ残っているスタッフとこれからシフトに入るバイト仲間たちに「お疲れ様でした」と声をかけ、来た時と同じ、裏口から店を出る。
「おー。お疲れさん」
 帰ろうとする僕に声をかけてきたのはヨモギダさんだった。彼は従業員専用出入口の横で、ひとり煙草を吸っていた。一体、何時から出勤していて、何時まで店にいる予定なんだろう。ときどき、この人は本当に寝ている暇があるのか、心配になる。
 お疲れ様でした、と挨拶をして通り過ぎようとする僕を、ヨモギダさんは煙草を持っていない方の手で引き留めた。
「ちょっと、これは皆には内緒の話なんだけど」
 そう言って、ヨモギダさんは手招きをする。僕が煙草臭い彼の顔に、内心嫌々、耳を近付けると、彼は相変わらず疲れ果てた口調のまま、囁くように言った。
「ケイタくんは真面目に頑張ってるよ。給料、前貸ししてほしい時はそう言いな」
 その言葉に、驚いて彼の顔を見ると、ヨモギダさんは少しだけ笑って、「皆には内緒な」と、もう一度念を押すように言った。ミシマさんとサキハラさんと、スタストの話をしていたのが聞こえていたのだろうか。それとも、僕の顔にはそれほどまでにはっきりと、「金が欲しい」とでも書いてあるのだろうか。目の前に希望の光が見えたような気がするのと同時に、自分の懐事情を把握されているような恥ずかしさに、思わず何も言葉を返せないでいたが、ヨモギダさんはそんな僕にはお構いなしで、もう用は済んだとでも言うように、煙草を吸い終えてさっさと店の中へと消えてしまった。
 来た時と同じ道のりを歩いて家まで帰る。下校中の中学生たちが、自転車で僕を追い越してみるみる小さくなっていく。夕暮れの街には、ひとつ、またひとつと灯りがともり始め、どこかの家からは今夜の夕飯なのであろう、良い匂いが漂ってくる。
 そう言えば、冷蔵庫にもう何もないんだった、と思い出し、夕飯もコーンフレークで良いかな、と考える。居酒屋で働いて最も良かったことは、客の注文と間違って調理された料理を食べさせてもらえることだ。それがなければ、僕は今よりもっとひもじい思いをしていたかもしれない。
 アパートの郵便受けには、珍しくチラシが挟まっていた。それを引き抜き、鍵を開けて自分の部屋へと帰宅する。リュックサックを玄関先へと降ろし、たいして読む気力も起きないチラシを四畳半の中心に鎮座しているミニテーブルの上に放った、その時、僕はチラシだけだと思っていた郵便物の中に、一通の封筒が紛れていることに気付く。
 切手が貼られ、消印が押されたその封筒には、見覚えのあるボールペンの字で宛先のところに僕の名が記されていた。封筒を裏返すと、差出人のところには、やはり見覚えのある字で――。
 ああ。
 やっぱりそうだ。
 彼女だった。
 それは彼女が、僕に宛てた手紙だった。
 今までも何度か、こういう風に、彼女は僕に手紙をくれた。
 力強くも整った、この字で。
 それは、ナルミヤからの手紙だった。
 ナルミヤ。
 僕は彼女のことを、なんて説明すれば良いのかわからない。
 彼女はヒナカワと同じく、僕の小学校の同級生だ。そして彼女は十歳の時、僕の父親を殺した。それから十六歳までの六年間――僕が不登校になり、ほとんど家に引きこもって生活していた六年間を――、ナルミヤは少年院で過ごしたはずだ。
 少年院を出てからの彼女がどこでどういう生活をしている���か、僕は知らない。ときどき送られてきた手紙には、差出人であるナルミヤの住所は記されていなかった。だから彼女が少年院を出てから、手紙に返事を出せたことはない。恐らくは、どこか遠い土地で暮らしているのだろう。
 人を殺した罪を、償い続ける人生。
 僕にはそんなナルミヤの生活のことが、まるで想像できない。
 彼女は僕の父親を殺した。しかし、そのことでナルミヤを恨んだことは一度もない。父は日常的に僕や母に暴力を振るう人間であったし、可哀想な妹は父に殴り殺されていた。ナルミヤが僕の父を殺さなければ、いずれは僕が死んでいただろう。だから、彼女は命の恩人のような存在と言えるのかもしれない。
 でも、誰もそんな風には、ナルミヤのことを捉えない。
 小学五年生の女の子が同級生の父親を刺殺した、というニュースは、世間に大きな衝撃を与えた。ナルミヤの実名も顔写真もあっという間にインターネット上に出回った。彼女の生まれながらにして持っていた美しさがまた、人々をさらに騒がせた。さらには、彼女が援助交際をしていただとか、万引きの常習犯であっただとか、そんな噂も広まった。
 ナルミヤの家族や親戚たちの情報も流出して、彼らはずいぶん肩身の狭い思いをしたはずだ。彼女の両親は離婚して、父親はその後亡くなった。自殺だった、と噂で聞いた。旧姓に戻ったナルミヤの母親は、過去を詮索されずに済む場所へ移り住んだらしいが、少年院を出所して来る娘と一緒に生活することは拒んだらしい。
 だからナルミヤは――彼女の名字も母親の旧姓に戻ったはずなので、もうナルミヤではない訳だが――、どこかでひとり、生活しているのだろう。彼女が少年院を出て、もう二年になる。
 僕はナルミヤのことを、どう考えればいいのかわからない。彼女はきっと、僕を助けたかった。そのために罪を犯した。一生、消えることのない罪を。そうしてまで、彼女は僕を救いたかったのだろうか。それが正しい選択だと、そう思っていたのだろうか。
 そんな選択をした彼女に、僕は何をしてあげられるのだろう。僕はずっと無力だ。子供の頃からずっと、無力のまま。
 手紙の封を開ける。便箋には見慣れたナルミヤの端正な字が、最近の彼女の生活の様子をすらすらと語る。肝心なところには触れられていないが、文章からはなんとなく、ナルミヤが田舎の方に暮らしているのだということがわかる。仕事帰りに見た星空が綺麗だったこと、部屋の窓から見える山が四季の移り変わりに伴って変化していくこと、職場の裏庭で育てている野菜が変な形ばかりに育ったのに食べたら美味しかったこと。他愛のない内容だ。でもきっと、今の彼女にと��て、それは大切な日常なのだ。
 手紙の最後に差し掛かった時、僕は思わず、目も見張った。そこには、『スターストレイザーの続編が、今度発売になると聞きました。ケイタくんは買いますか? もし良かったら、また一緒にプレイしない?』と、書かれていた。
 そう、僕たちが小学生の頃、ナルミヤもスタストをプレイしていた。クラスの女子の中ではかなり珍しいことだった。僕とナルミヤは同じゲームをプレイしているのを知ったことで仲良くなり、強敵を攻略するために僕の家に招いた。
 それがきっかけだった。ナルミヤは僕の家の、壁に残された拳の跡や、ひしゃげた家具、割れたままになっている窓、そして、僕と妹の、学校では見えない位置に残された痣を見て、知ったのだ。僕の父親がどんな人間で、僕がどんな仕打ちを受けているのかを。そして後々、そのことが、彼女を殺人者へと変えることになった。ナルミヤの口から聞いたことはないが、僕はずっとそう思っている。あの時、家に招いたりしなければ、ナルミヤの未来は違っていたかもしれない。
 だけれど、ナルミヤと一緒にゲームをしたことは忘れられない大切な思い出だ。あの頃のナルミヤは、強敵を倒すための方法を模索していた。第八都市を壊滅させることなく、トチコロガラドンを討伐する方法を。当時、まだ世界の誰も、その方法を発見できていなかった。よくふたりで、何時間も費やして、その方法を探したものだ。けれど、結局いくら検証しても、それは見つからなかった。そして恐らく今も、その方法は見つかっていない。
 それでも、ふたりで探し続けた時間のことを無駄だったと思わないのは、それはゲームをしている時のナルミヤが、学校で見せる姿とは違って、少し子供っぽい様子で、無邪気で、本当に楽しそうに笑っていたからだった。本当は、僕はトチコロガラドンも第八都市もどうでも良くて、ただ、そんな風に笑っているナルミヤを隣で見ていたかっただけなのかもしれない。
 そんなことを、取り留めもなく思い出す。
 もし、ナルミヤとまた一緒にゲームをプレイすることができたら、何か変わるのだろうか。僕にとって大切な思い出になっているように、彼女にとってもあの頃一緒に戦ったことは楽しい思い出になっているのだろうか。もうその笑顔をこの目で見ることはできないのかもしれないけれど、楽しい時間を共有することができたら。あの頃の楽しさをもう一度、ふたりで思い出すことができたら。今度こそ、僕とナルミヤふたりだけの、攻略方法を見つけ出すことができるかもしれない。
 僕は便箋を元通りに折りたたんで封筒の中へと仕舞う。ヨモギダさんになんて言って給料の前貸しの相談をするべきかを考えながら、僕は携帯電話を開く。まだ返信していなかったヒナカワからのメールに返事を出した。
 もう一度、戦おう。
 それはゲームの話かもしれない。でも決して、僕の妄想なんかじゃなくて、現実の話だ。
 僕はもう一度、この現実で戦う。
 何度でも、方法を探して、もがきながら、あがきながら、生きていく。 どうか今度は何も犠牲にせず、僕たちが救われるために。
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kurihara-yumeko · 8 months ago
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【小説】非・登校 (中)
※『非・登校』(上)はこちら (https://kurihara-yumeko.tumblr.com/post/766014791068319744/)
 静まり返っているアパートの駐車場に砂利の音を響かせながら、ママが運転する車は細い路地へと出て、遠慮がちな速度でそろそろと、僕が普段なら歩いている通学路を走り始める。
 桜並木に繋がる道の角、いつもならそこにクラスメイトのハカセとボーロ、そのふたりが立っているはずだが、今日は誰もいなかった。家を出る前、ママが携帯電話でふたりの母親それぞれと話していたことを思い出す。ハカセもボーロも、きっと両親のどちらかが、車で学校まで送ることになったのだろう。
 学区内にある、あるアパートの一室で、変死体がふたつ見つかったというニュースがテレビで放送されたのは、昨日の昼のことだった。死体のひとつは、そのアパートに暮らしている中年の男。そしてもうひとつは、小学生の女の子。彼女は僕と同じ小学五年生で、同じ学校に通う、同じ五年二組の、ナルミヤだった。男も、ナルミヤも、どうやら殺されて死んだらしい。そして殺した犯人は、まだ捕まっていない。
 昨日、給食を食べた後、僕たちは午後の授業がなくなり、全校児童が集団下校となった。そして翌日の今日、登校する際は保護者が学校まで児童を送迎するように、と学校から連絡が回った。だからこうして僕は、学校までの道のりをママの車に揺られている。
 ナルミヤは昨日、学校を休んでいた。おとといの月曜日もそうだった。いつも朝早く登校して来る彼女の席が八時になっても空っぽなのを見て、「あ、ナルミヤは今日休みなのか」と思っていた。朝の会で行われた健康観察で彼女の名前が呼ばれた時、担任の先生は「今日は、ナルミヤさんはお休みです」と言っていた。昨日の火曜日もそうだった。学校を休む時は、朝八時までに学校に保護者が連絡しなければいけないことになっている。だから、先生がそう言うということは、彼女の両親から学校に連絡があったのだと思っていた。
 だけどナルミヤは死んでいた。殺されていたのだ。いつ殺されたのかは、知らされていない。もしかしたら、月曜日にはもう死んでいたのかもしれないし、火曜日の朝までは生きていたのかもしれない。
 昨日の昼、給食を終えて昼休みを楽しもうとしていた僕たちに、ナルミヤが亡くなったこと、彼女が事故や病気ではなく、殺されて亡くなったらしいこと、その犯人が未だ捕まっていないこと、そんなショッキングなニュースを伝え、僕たちに下校の準備をするように伝えた担任の先生は、ひどく青ざめた顔をしていた。
 だから僕は、そのニュースの内容よりも、先生の様子に驚いてしまった。いつも明るく朗らかで、僕たち五年二組を導いてくれていた先生も、今回のことばかりは、どうしたら良いのかわからないようだった。しかしそれを表に出さないようにしようと努めていることさえもわかってしまうほどの困惑ぶりで、そんな先生を見ているクラスメイトたちも動揺していた。
 友達のハカセはさっき食べ終えたばかりの給食を机に吐いていたし、校庭でドッチボールをしたがっていたボーロは、昼休みのチャイムが鳴るよりも早くロッカーから取り出していたボールを手から落としていた。ボールは床で何度かバウンドしたのち、教室の後方へ片付けられていた机たちの下へと転がっていったけれど、誰もそれを拾いに行くことはなかった。教室の中は凍り付いたかのように静かだった。やがて誰かが小さな声で、「嘘でしょ……」と言ったのが聞こえた。先生は少しだけ首を横に動かして、今伝えたことが何ひとつ嘘ではないということを、かろうじて僕たちに伝えた。
「ケイちゃん」
 僕が窓の外、いつもと何ひとつ変わらない朝の通学路の風景を眺めながら、昨日のことを思い返してい���と、ママが唐突に声をかけてきた。
「大丈夫? 学校に行きたくなかったら、今日はお休みしてもいいわよ。ママが学校に電話しておいてあげる。リスコはあの様子じゃ、今日は学校に行くの難しいと思うし……。ケイちゃんも休んだっていいのよ」
 車のルームミラーに映っているママは、両手でハンドルを握ったまま、真剣な眼差しで前だけを見つめていた。後部座席の方を見ている様子がなかったので、僕はただ首を横に振るのではなく、「ううん」と声に出してママに答えた。
「学校に行くよ」
「大丈夫?」
「うん、大丈夫」
「そう……」
 そう言いながらも、ママはまだ悩んでいるようだった。
 昨日、集団下校で妹と一緒に家に帰ると、出迎えたママは両目に涙を溜めていた。ナルミヤが殺されたというニュースに、彼女とクラスメイトである僕よりも、ママは動揺しているようだった。
 そんなママを見たリスコは、たちまち表情を曇らせ、自室に閉じこもったまま、ダイニングに夕飯を食べに来ることもお風呂に入ることもなかった。気難しい僕の妹は、ヒステリックになっているママを見ることを何よりも嫌っている。僕はそんな妹の判断が正しいと思う反面、そんな僕たちの姿がママを悲しませているとも思う。
 パパと離婚してからママは少しずつおかしくなっていって、夜にひとりリビングでお酒を飲んで、ワインの瓶を抱いたまま朝までソファーで寝ていたり、手料理をまったく作らなくなって、定期的に届く冷凍食品を順番に食卓に並べるようになったり、洗濯物がいつまでも畳まれることなく部屋の隅に山になっていて、僕たちはそこから衣類を取って着るようになったりしていた。使われることがなくなった掃除機は、僕と妹が交代でかけるようにした。
 ママの変化に対して、僕よりもリスコの方が過敏に反応した。妹はママの言うことをほとんど聞かなくなり、ママが家にいる時間は自室にこもることが多くなった。学校に行くのは二日に一度、それも遅刻することなく登校できるのは三回に一回程度。ママが仕事へ向かうために家を出た後、やっと自室から出て来るからだ。
 ママは、娘が閉じこもるようになった原因が自分にあるということを気付いている。そして妹も、実の母親のことを心から拒絶している訳ではない。だからリスコは自室の扉の鍵を常に開けておくし、ママはそんなリスコの部屋の扉を開けることはあっても、その中に踏み込むことは決してしない。それでも、ママは昔のようには戻らないままだし、リスコもママの前に姿を見せようとしないままだ。ふたりとも、解決策など見つからない袋小路に迷い込んだまま。そしてそれは、僕も同じだ。
 ママに「しっかりして」と言うべきなのか、妹に「ちゃんとしよう」と言うべきなのか、ふたりともに言うべきなのか、僕は家族のために何をするべきなのか、何ができるのか、一体どうすれば、この状況を変えることができるのか、考えれば考えるほど、わからなくなってしまう。わからないからといって、何もしなくて良いということにはならないと、頭ではわかっているけれど、僕はまだ、何もできていない。もしもパパがいてくれたなら、どう行動しただろう。でも僕は、自分の父親がどんな人だったのか、もはや思い出せなくなっていた。
 曲がり角でもないのに、車のウィンカーの音がして、うつむいていた僕は窓の外へと目線を向けた。ママが運転する車は、コンビニエンスストアの駐車場へと曲がって行くところだった。何か買い物をするのか、それとも、急にトイレに行きたくなったのだろうか。ルームミラー越しにママの表情を窺ってはみたものの、そのどちらでもなさそうだった。
「ケイちゃん、ちょっと、コンビニ寄って行こうか。何か欲しい物あったら、買ってあげるからね」
 ママはそう言って、駐車場に車を停めると、さっさとエンジンを切ってしまった。「別にいいよ」と言おうか悩んだけれど、ママはあっという間に車から降りて行ってしまったので、僕も急いで車から降りることにした。
 ママの後ろについてコンビニに入ろうとした時、ちょうど中から、買い物を終えた人が扉を押して出て来るところだった。僕は偶然にも、その人物を知っていた。同じクラスのヒナカワだった。
「ヒナカワ……」
「ケイタくん」
 ヒナカワも僕に気が付いた。コンビニの入り口の前で見つめ合ったまま、黙ってしまった僕らを、ママは少しの間待っていたけれど、結局、僕たちをそこに残してひとりコンビニの中へと入って行った。
「ここ入り口の真ん前だから、ちょっと、そっち寄って」
 ヒナカワが口を開いたのは、ママが雑誌コーナーの角を曲がって、その姿が外から見えなくなってからだった。僕たちはコンビニの正面から少し離れたところで向かい合って立った。
 ヒナカワはTシャツとデニム姿で、僕のように学校の制服を着ている訳でもなければ、ランドセルを背負っている訳でもない。首から下げているタコのキーホルダーが付いた鍵だけが、普段教室で見ている彼女の姿と同じだった。
「ヒナカワ、今日、学校は?」
「行かないよ」
「どうして?」
「どうしてって……」
 彼女は眉をひそめて僕を見た。そこで、僕は初めて、今目の前にいるヒナカワは、眼鏡を掛けていないのだということに気が付いた。
「だって、クラスメイトが死んだんだよ」
「うん……」
「殺されたの」
「うん……」
「だから、学校、行かなくてもいいでしょ」
「うん……」
 返事をしてはいたが、僕はヒナカワの言葉の意味を今ひとつ理解できていなかった。でも恐らく、学校を休む理由に匹敵するには十分すぎるくらいの出来事に見舞われている、ということが言いたいのだろうな、と推測した。
「ヒナカワの……親は?」
「親?」
 ヒナカワは右手に財布、左手にコンビニの袋を持っていて、袋の中には弁当が入っているようだった。周りに彼女の保護者らしき存在は見当たらず、どうやら、ひとりで買い物していたようだ。
「パパは夜勤から帰って来て、今から寝るとこ」
 ヒナカワの右手に握られている、成人男性の所有物だろうなという印象の、黒くてごわついている重たそうな長財布に目をやりながら、僕はヒナカワの家には母親がいないのだということを思い出していた。そんな僕の目線を読み取ったのか、彼女は左手の弁当の袋を少し掲げて、「これ、私の今日のお昼」と言った。
「今、お昼ご飯買ったの?」
「だって、今から家に帰ったら部屋にこもってゲームするし。ゲームの途中でご飯買いに行くの面倒じゃん」
「ゲーム?」
「スタストだよ、スタスト。知らない? スターストレイザーってゲーム。ケイタくん、ゲームとかやらないんだっけ?」
「うちはゲーム禁止なんだ」
 禁止、という言葉に、彼女は「オエッ」という顔をした。ヒナカワは筋金入りのゲーマーなんだって、ハカセが言っていたような気がする。
 そういえば、ハカセもスタストというゲームを遊んでいると、以前、話していた。僕もボーロもテレビゲームであまり遊ばないから、詳しく教えてくれた訳ではなかったけれど、ハカセの口ぶりから、彼がそのゲームに夢中なのだということはよくわかった。
「スタストって、あれだよね、第八都市とか、なんとかドラゴンとか……」
 ハカセが言っていたことを思い出しながら僕がそう言うと、ヒナカワは再び眉をひそめるようにして僕を見た。
「トチコロガラドンでしょ」
 そう訂正されても、それが正しい名前なのかどうか、僕には判断ができない。
「そう……そのドラゴンがどうしても倒せないんだって、ハカセが言ってたんだ」
「キョウイチロウくんも探してるんだ、トチコロガラドンを倒す方法」
 その時。そう言った時、ヒナカワはほんの少しだけ笑った。
「ケイちゃん、お待たせ」
 コンビニの扉が開き、ビニール袋を手にしたママが出て来た。ママの顔を見た途端、ヒナカワは黙ってくるりと踵を返し、「じゃあね」とだけ言って歩き出してしまう。僕はそんな彼女の背中に何か言わなきゃいけないと思ったものの、上手く言葉にすることもできず、ただ見送ってしまった。僕はいつもそうだ。何をすれば良いかわからなくて、考えているうちに、時間だけが過ぎてしまう。
「やっぱり、今日は学校お休みしない? ママが学校に電話しておいてあげる。おうちに帰って、アイスクリームでも食べようよ」
 ママはそう言って、コンビニの袋を左右に揺らして、かしゃかしゃと鳴らした。袋の中にはママがよく買ってくれる、いつものチョコレートアイスクリームが入っていた。
 学校を休みたいとも、学校に行きたいとも、どちらも特別思っていなかった僕は、ママの提案に黙って頷いた。アイスクリームが食べたいとも思わなかったし、ママが思っているほど、僕はそのアイスクリームを好きじゃないけれど、それを伝えようとも思わなかった。
 再び車に乗り込んで、ママの運転で来た道を引き返して行く。窓から、ヒナカワの姿を探したけれど、もう彼女の姿はどこにも見つからなかった。家に帰ったのだろう。家に帰って、今日は一日中、ゲームをするに違いなかった。
「ねぇ、ママ」
「なあに?」
「僕のパパって、どんな人だったんだっけ」
 僕がそう尋ねた途端、ママの表情が凍り付いたのが、わざわざルームミラーに映るママの顔を確認するまでもなく、わかった。まるでこの車内だけが重力が強くなったかのように、空気が重苦しく感じる。
 ママが僕の質問に答えることはなかった。こちらを見ることも、何か声をかけてくることもなかった。車のエンジン音、エアコンの音、ウィンカーの音、ブレーキの音、アクセルを踏む音。ママが運転をしている音だけが、僕の耳に届き続けた。
 このまま家に帰っても、妹はさらに不機嫌になるだけだろうな、と思った。こんなママの姿を見て、部屋から出て来る妹ではないだろう。でもママが今こうなっているのは、僕の発した言葉のせいなのは間違いないから、リスコに申し訳なく思った。気難しい僕の妹は、謝ったところで許してはくれないだろう。
 どうして僕は、いつもわからないのだろう。どうしたら良いのか、どうしたら良かったのか、わからないままだ。
 ドアの内側にもたれるように、窓ガラスに頭を預けながらうなだれていると、視界の隅にさっき出て来たばかりの、僕たちのアパートが見えてきた。
 と、いうのはすべて、僕の妄想だ。
 現実の僕は、電車に揺られながら、窓から射し込む朝陽に照らされたナルミヤの影が床の上を滑るように移動しているのを見つめている。
 彼女が乗って来る駅は、僕らの町と隣の町を分ける大きな川、その川を越えるための橋梁に差し掛かる手前にある。停車していた電車が駅を発ち、橋の前にある緩やかで大きなカーブを曲がる時、車両内の影たちが一斉に同じ方向へと動いていく。
 車両に乗り込んでから、電車がその大きなカーブを曲がり切るまで、ナルミヤはいつも、入り口近くのバーを掴んだまま、突っ立っている。彼女が座席に腰を降ろすのは、いつも電車が橋梁に差し掛かってからだ。小学一年生の時、走り出した車両内を移動しようとして、よろけて盛大に尻もちをついてしまった記憶が、五年生になった今も、彼女の手をきつくバーを握ってやり過ごすように仕向けているらしい。
 やっと歩き出した彼女は、他に空いている席もあるのに、なんのためらう様子も見せずに僕が座る座席の前にやって来て、今日も僕に尋ねる。
「おはよう、ケイタくん。隣、座ってもいいかな?」
「どうぞ」
 どうぞご勝手に。膝の上に抱えているランドセルに顎を乗せたまま、いつものように僕はそう答える。
 僕の座席は右隣も左隣も空席で、ナルミヤは僕の左側の座席を選んだ。僕と同じように、背負っていたランドセルを一度降ろし、膝に乗せて彼女は座った。
 太陽に背を向けて座っている僕とナルミヤの影が、床にあった。その影の形から、今日はナルミヤの長い髪が左右に分けられ、それぞれ耳の上で結ばれているのだとわかった。僕は、その髪型をしている彼女があまり好きではなかった。
 髪を結ばずにおろしている方が、僕は好きだ。透き通るような白い頬に、彼女の艶やかな黒髪が淡い影を作っているのを見つめるのが好きだ。だけどナルミヤは、最近髪を結ってばかりだ。だから僕は、最近彼女を見ると落胆してばかりいる。
「ケイタくん、今日の一時間目の国語は、漢字のテストだよ。勉強してきた?」
「してない」
「勉強しなくても、もう、ばっちり?」
「漢字ドリル、教室に置きっぱなしで、持って帰ってないから」
 下を向いたままそう答えると、ナルミヤが僕の隣で小さく笑ったのが聞こえた。
「ケイタくん、いつも置き勉してるんだ、いけない子だね」
 がたん、と。
 電車が少し大きく揺れた。橋梁を渡り終わった時だった。窓の外へと目の向けると、川の水面が遠ざかっていくところだった。川岸に生える葦が堤防まで延々と続いている。毎日のように、登校の時に見る風景。
 だけど、なぜだろう。僕はその時、これを見たことがある、と思ったのだ。この風景を、見たことがある。いや、当たり前だ。昨日だって僕は、今日と同じように電車で登校していた。先週だってそうだ。なのに、この既視感は一体なんだろう。まるで、夢の中で見たことが、そのまま現実世界に起こったかのような感覚だった。
 目に映る風景に、大差はないはず。そうだ、目じゃない。視覚じゃないんだ。僕が既視感を覚えたのは。僕は聞いたことがある。ナルミヤのさっきの言葉を。
 そのことに気付いた僕は思わず、隣に座っているナルミヤの顔を見ようとした。そのために左側を向いた。すると彼女は、僕を見ていた。まるで今、僕が向くのを待っていたみたいに、真正面から、その大きな瞳でじっと僕を見つめていた。目と目が合った、そう思った瞬間、僕は全身に電流が駆け巡ったような衝撃を受けた。
「なっ……」
 思いがけず叫んでしまった。同じ車両にいる周囲の数人が不思議そうに僕の方を見て、何事もなかったとわかると、すぐに視線を逸らした。その間も、ナルミヤは僕を見つめたままだった。僕の目だけが、彼女に視線を合わせたり逸らしたり忙しくうろたえていて、そんな僕を見てもなお、ナルミヤの目線はちっとも動じない。
 目を合わせていることがつらかった。耐えられない。いや、実際は耐えられないほどの苦痛など微塵も感じていないのに、それでも目線を合わせ続ける勇気がない。そう、勇気がなかった。ナルミヤと見つめ合うだけの勇気が僕にはない。そうやって見つめ合っているだけで、身体じゅうが燃えるように熱くなって、焼け死んでしまうような気がするのだ。別に、ナルミヤの瞳からレーザー光線が出ている訳でもないのに。
「な、なんだよ……」
 僕はそう言いながら、���の上のランドセルを抱え直すようにして前を向き、今までのようにうつむくしかなかった。そうすることで、僕の視界は元通り床だけになり、ナルミヤの目線から顔を背けることになる。それだけで、一気に跳ね上がった体温が、静かに下降していくように感じる。自分の顔が熱くなっていることを自覚した。耳まで赤くなっているかもしれない。ナルミヤはそんな僕を見て、どう思うだろう。変な人だと思うかもしれない。
 ナルミヤはまだ僕を見つめているようだった。床に伸びている彼女の影は、横顔のまま動いていない。先程の、正面から僕を見つめるナルミヤの顔。白い肌、長い睫毛、ぱっちりとした瞳、ほんのり赤い頬と唇。左耳の上には、水色の水玉模様のパッチンヘアピンが留まっていた。彼女は小学一年生の時から、そのヘアピンを愛用している。視界には影が投影された床しかなくても、僕はナルミヤの顔を細かく思い出すことができる。眉毛の形、鼻の形、顎の形。彼女が目の前にいなくても、正確にその顔を思い出せるようになるほど、僕は彼女を見つめてきた。
「一緒に見る?」
 ナルミヤは、唐突にそう言った。
「え?」
 思わず、僕は訊き返す。
「漢字ドリル、学校に置きっぱなしなんでしょ? 私、今持ってるから、一緒に見る?」
 横目でちらりと窺ったナルミヤは、まだこちらをじっと見つめているままだった。その表情は真剣そのものだ。
「…………いや、いいよ」
 僕は再び電車内の床へと目線を落としながら、そう答えた。
「いいの?」
「うん」
「……そっか」
 ナルミヤはそう言って、やっと正面へ向き直った。膝の上のランドセルを開けて漢字ドリルを取り出している。降りる駅に着くまでの間、ドリルを見返して漢字の復習をするつもりらしかった。
 僕は隣のナルミヤにわからないように、本当に小さく、肩をすくめた。急に馬鹿馬鹿しく思えて、なんとも言えない空しさが込み上げてきた。僕は見つめ合うだけで、今にも爆発してしまいそうな気持ちになるのに、彼女は一時間目の漢字テストのことに、意識が向いているようだった。
 漢字のテストが、なんだと言うのだ。テストと言っても、成績の評価に直接的に影響するようなテストではなく、今まで習った漢字の復習を皆にしてもらうのが目的ですと、先週、担任の先生は言っていた。テストの出題範囲に指定されたページは、あらかじめ見ておいたけれど、復習が必要なほど難しい漢字も特に見当たらなかった。たいしたテストではないのだ。なのに、ナルミヤは漢字テストの心配をしている。どうしてなのだろう、僕はそのことに、無性に腹が立っていた。
 僕は、ナルミヤにも同じように、苦しくなってもらいたかった。人の不幸を願うなんて、褒められたことではないとわかってはいるけれど、それが僕の本心だった。ナルミヤに僕と同じ思いをしてほしかった。僕にとって彼女が特別であるように、彼女に僕を特別と思ってほしかった。でもナルミヤは、そんな僕の感情なんて知るはずもなく、隣で漢字ドリルを見つめている。
 電車が止まった。いつの間にか、駅に着いたみたいだ。でもこの駅は、僕たちが降りるべき駅ではない。車両の扉が開いて、数人の乗客が降りて行く。代わりに乗り込んで来たのは、見慣れたクラスメイトだった。ヒナカワだ。
 赤いランドセルを背負っているヒナカワは、こちらへと真っ直ぐ歩み寄って来て、僕の右隣の席へ何も言わずに腰を降ろした。
「おはよう、ヒナカワ」
「……ん」
 ヒナカワは小さな声でそう答えた。漢字ドリルへ視線を落としていたナルミヤは、僕がヒナカワに声をかけるまで、彼女が電車に乗り込んで来たことに気付いていなかったようだ。顔を上げると、きょとんとした表情で、「あれ? おはよう、ヒナカワさん」と言った。ヒナカワは、それには返事をしなかった。
 ヒナカワはランドセルを背負ったまま、座席に腰掛けていた。背中と座席の背もたれの間にランドセルがつっかえて、尻が半分くらいしか座席の上に乗っかっていないはずだが、彼女がそれを気にしている様子はなかった。
 ヒナカワはどこかぼんやりした表情で、足元の方を見つめていた。毛先がいつもあちらこちらに跳ねている彼女の髪は、今日は一段と好き勝手に暴れているようだったし、掛けている眼鏡のレンズには指紋の跡がくっきりと付いたままになっていた。そばかすが散った顔をくしゃくしゃにするように、大きな欠伸をしている。寝不足なのか、目の下にはうっすら隈ができていた。
「ヒナカワ、眠いの?」
「んー……」
 僕の質問に、ヒナカワは緩慢そうな動作で目元を擦りながら、そう小さくうなっただけだった。どうやら、相当眠たいらしい。
 電車は再び走り出している。電車の揺れに合わせて、ヒナカワの頭が規則的に揺れている。彼女の瞳が開いていなければ、眠っているのだと思っただろう。薄暗い光を灯したその目が、ちらりと僕の方を見やった。
「あれ……?」
 ヒナカワの細く開いた唇から、転げ落ちるように言葉が出て来た。
「生きてるの……?」
「え?」
 僕は思わず、訊き返した。ヒナカワの瞳を見つめ返して気付く。彼女は、僕を見ていた訳ではなかった。僕の左隣に座る、ナルミヤを見ていた。
「死んじゃったんじゃなかった?」
「え……?」
「ああ、そうか……」
 ヒナカワは眠たそうに目をこすった。
「それは、ケイタくんの妄想だったんだっけ」
 ヒナカワが何を言ったのか、わからなかった。僕は彼女の言葉の意味を理解することができなかった。
 ナルミヤは漢字ドリルを眺めることに夢中になっていたらしい、そこでようやく顔を上げたようだ。電車の床に落ちている影から、彼女がヒナカワの方に顔を向けたのがわかった。
「うん? ヒナカワさん、なんの話してるの?」
「なんでもない」
 ヒナカワはそう言うと、ナルミヤから目線を外した。先程までと同じように、自分の足元を見つめ続ける。電車の揺れに合わせて、また頭が揺れている。
 ナルミヤは不思議そうに首を傾げているようだったが、それ以上何も話そうとしないヒナカワの様子を見て、再び漢字ドリルへと向き直った。そういう風に、床の影が動いていた。
 僕はただ、床を見つめていた。
 僕の妄想だと、ヒナカワは言った。まるで、僕の妄想の中でナルミヤが死んでいることを、知っているかのような口ぶりだった。
 ナルミヤは、もう何度も死んでいる。彼女は数え切れないほどの死を迎えている。
 たとえば、水泳の授業中にプールで溺れて死んでしまう彼女。学校の屋上から落下して死んでしまう彼女。横断歩道を渡る途中でダンプカーに撥ねられて死んでしまう彼女。校庭で遊んでいたら野良犬に襲われ噛まれて死んでしまう彼女……。
 それらはすべて、僕の妄想の中における出来事だ。僕は彼女が死ぬところを、今まで幾度となく妄想してきた。
 しかし、そのことを誰かに打ち明けたことはない。誰に話したとしても、僕は相手から異常者だという目で見られてしまうに違いない。僕はナルミヤと見つめ合う勇気もないくせに、彼女が死ぬところばかりを妄想してしまうのだ。どうしてなのかは、自分でもわからない。ナルミヤを見ていると胸が苦しくなってしまうから、彼女なんていっそ死んでしまえば良いと、心のどこかでそう思っているのかもしれない。
 ヒナカワは、僕がしている妄想のことを知っているのだろうか。いや、知っているはずはない。そのことを誰にも漏らしたことなどないのだから。それは僕だけの秘密なのだ。だが、だとすれば先程の彼女の言葉は、一体なんだと言うのだろう。ヒナカワは、僕の秘密を知っているとしか思えない。ただでたらめを言って、それがたまたま合致したなんて、そんな偶然はありえない。
「ヒトシくんと、キョウイチロウくんは?」
「え?」
 考え込んでいた僕は、突然のヒナカワの言葉に再び驚いた。彼女は相変わらず、うつむいたまま、自分の足元を見つめていた。
「ケイタくんが、ボーロとハカセって呼んでるふたりだよ。あのふたりは、一緒じゃないの?」
「一緒じゃないの、って、どういうこと……?」
「どういうことって…………」
 訊き返した僕に、ヒナカワは不審そうな顔をした。眉間に皺が寄っている。
「ケイタくん、いつもそのふたりと一緒だったじゃない」
 ヒナカワの声は、そう言いながらもだんだん音量が小さくなっていった。
 ボーロとハカセ。それは僕の友達のあだ名で、僕たち三人は、学校ではよく一緒につるんでいる。昼休みに遊ぶのも、いつもこのふたりだ。だけど、「一緒じゃないの?」というのは、一体、どういう意味なのだろう。確かに、僕たち三人は、学校ではいつも一緒にいるけれど――。
「ヒトシくんは徒歩通学で、キョウイチロウくんはバス通学だよ」
 そう答えたのは僕ではなく、漢字ドリルのページに目を凝らしているはずのナルミヤだった。
「私たちみたいに電車通学じゃないから、今は一緒にいない。そうでしょ、ケイタくん」
 ナルミヤは凛とした声でそう言った。僕は振り向けなかった。僕は自分の右側に座る、ヒナカワを見つめたままだった。
「ヒナカワさん、なんでそんなこと訊くの?」
「……じゃあ、リスコちゃんは?」
「え?」
「ヒトシくんとキョウイチロウくんは電車通学じゃないからここにいない、それはわかったよ。じゃあリスコちゃんは? リスコちゃんはケイタくんの妹なんだから、同じ電車通学のはずでしょ? 見たところ、この車両にはいないみたいだけど。違う車両に乗っているの?」
「……ヒナカワさん、一体どうしたの?」
 ナルミヤの声が、小さく震えていた。まるで怯えているみたいだった。
「ケイタくんに、妹なんていないよ?」
 その言葉に、ヒナカワの瞳が見開かれる。
「ケイタくんは、ひとりっ子だよ? ねぇ、ケイタくん?」
 僕はナルミヤの言葉に、頷こうとして――。
 空をふたつに引き裂くような、咆哮が聞こえたのはその時だった。
 電車が盛大なブレーキ音を立てながら大きく揺れる。緊急停止したその衝撃で、ヒナカワは座席から床へと転がり落ちていった。ナルミヤの身体もバランスを崩す。僕が咄嗟に受け止めなかったら、ナルミヤも座席から転がり落ちていただろう。
「大丈夫?」
 僕の問いに、ナルミヤは小さく頷く。周囲の乗客たちも、予期せぬ衝撃にバランスを崩す人がほとんどだった。停止した車両のあちらこちらから、気遣う言葉や謝る声が聞こえる。
「ケイタくん……あれ、見て…………」
 ナルミヤが、窓の外を指さしていた。僕はそちらを見る。同じように窓から空を仰いだのは、僕たちだけではなかった。同じ車両に乗り合わせている他の乗客たちも同様だった。そして全員が、「それ」を目撃した。
「それ」は破壊者だった。僕は一目見てそう思った。「破壊神」と呼ぶこともできるのかもしれないが、「それ」が神であるとは到底思わなかった。
 巨大な身体は鱗と羽毛に覆われていた。顔には目玉が五つあった。八本の手足にはそれぞれ大きな鉤爪があるのが見えた。二対の翼で羽ばたき、「それ」は空に浮かんでいた。どのくらいの大きさなのかはわからなかった。しかし「それ」は、今まで見たことのある、宙に浮かぶ生き物たちの何よりも巨大だった。旅客機くらいの大きさがあるかもしれない。
「それ」がなんていう生き物なのかは見当もつかなかった。ただ、僕たちに友好的な生き物とは思えなかった。「それ」は破壊者だった。僕はそう思った。
「ケイタくん……あれ、何……?」
 乗客の誰もが言葉を失っていた。窓から見える「それ」が現実だとは思えなかった。だからそう尋ねたナルミヤの言葉に、車両の誰もが答えられなかった。その、はずだった。
「トチコロガラドンだよ」
 ヒナカワだった。彼女は立ち上がりながらそう言った。背負ったままだったランドセルが緩衝材となり、背中から床に落ちても無事だったようだ。見たところ無傷のようだったし、身体のどこかが痛そうな素振りもなかった。
 ヒナカワが口にした耳慣れない言葉が、ナルミヤの問いへの答えなのだということに、僕は遅れて気が付いた。
「トチ……? 今、なんて……?」
「トチコロガラドン。わからないの? それも、ケイタくんの妄想のはずでしょ?」
 吐き捨てるようにヒナカワはそう答える。
「あれはスターストレイザーってテレビゲームに登場する、敵モンスター。名前はトチコロガラドン。第八都市を見捨てることが、あのモンスターを倒すための唯一の方法だった。多くのプレイヤーが挑戦していたけれど、他の方法はまだ誰も見つけていない。少なくとも、ケイタくんの妄想ではそうだった」
 僕の妄想?
 ヒナカワは、一体何を言っている? あの巨大な怪物が、僕の妄想だと言うのだろうか。
 違う、あんな怪物、妄想なんかしていない。
 僕が妄想していたのは。
 思い描いていたのは、ナルミヤが死ぬところだ。ナルミヤが、溺れて、あるいは落下して、もしくは撥ねられて、そうでなければ噛まれて、刺されて、潰されて、刻まれて、吊られて、焼かれて、埋められて、死ぬところ。ひどい目に遭って、可哀想な姿になり果てて死ぬ。そういう妄想だ。テレビゲームのことも、あの怪物のことも、都市のことも、怪物の倒し方も、僕は知らない。そんなこと、妄想をしたこともない。
「キョウイチロウくんは?」
 ヒナカワがもう一度、そう訊いた。
「本当に、キョウイチロウくんはここにいないの? 彼は、トチコロガラドンを倒す方法を探していたはずだよ」
「キョウイチロウくんは、バス通学なんだってば……」
 そう答えたナルミヤの声は、もはや涙ぐんでいた。
 ヒナカワの瞳は、僕を見ていた。ナルミヤのことは一切見ていなかった。窓の外で二対の翼で羽ばたき、八本の手足を垂らし、五つの目玉をギョロギョロと動かしている怪物にも、見向きもしなかった。僕だけを見ていた。まるで彼女の世界には、今や僕しか存在していないかのようだった。
「リスコちゃんはどこへ行ったの?」
 ヒナカワが僕を食い入るように見つめたまま、そう言う。
 リスコ。誰だそれは。僕の妹。違う、妹なんかいない。いつも寝起きがあまり良くない、僕の妹。僕はひとりっ子だ。起こそうとすると噛みついてくる、気性が激しい妹。僕にきょうだいはいない。気難しく、繊細で、環境の変化に敏感なリスコ。そんな人、僕は知らない。
「ケイタくん、思い出して」
 僕は、何かを忘れているのだろうか。
 何か思い出さなければいけないことが、あるのだろうか。
 僕は。
 目が覚めたのは目覚ましが鳴る前だった。朝食はトースト、ハムエッグ、オレンジジュース。赤、青、白の歯磨き粉。エプロンをしているママ。背広を着ているパパ。時計が止まった部屋。ガスも止まった部屋。黄ばんだタオル。ベランダで吸った煙草。葉桜の桜並木。途中で寄ったコンビニ。ママがよく買ってくれるチョコレートアイスクリーム。
 僕は。
 床にできた血溜まりでヘアピンを拾った。水色の水玉模様のヘアピンには見覚えがあった。アパートの一室には死体がふたつあった。パパのくたびれた革靴は玄関にあった。ママはワインの瓶を抱いて眠っていた。ナルミヤは美人で、ヒナカワはブス。
 僕は。
 十二人の操作キャラクターと十二種類の使用武器。宇宙から飛来する巨大で不可思議な敵の倒し方は数十通り存在し、その選択によって物語は細かく分岐していく。しかし、どんな経緯を辿ったとしても、第八都市は必ず壊滅してしまう。第八都市を犠牲にしなければ、トチコロガラドンを倒すことはできない。
 僕は。
 一体、何を犠牲にしたのだろうか?
 と、いうのはすべて、僕の妄想だ。
 現実の僕は、プラコマティクス溶液が満ちた培養ポッドの中をぷかぷかと漂いながら、短い夢から覚めた時のような感覚を味わっていた。授業中、眠ってはいけないと思っていながらも、眠気に抗えず一瞬、かくんと身体が震えるようなその感覚に、学校に通っていた日々のことを懐かしく思う。
 ほんの一瞬に過ぎなかった僕のその感覚は、ポッドに接続されている測定器にすぐさま検知され、実験室にはアラーム音が流される。それは、まるで居眠りしていたことを教師に告げ口されたかのような、そんな居心地の悪さだった。
「被験者番号百零七、ケイタが覚醒しました」
 モニターの前でそう告げたのは、ナルミヤだった。僕のポッドと接続されている唯一の視覚デバイスは、彼女の後ろ姿を捉えていた。今日の彼女は、腰まである艶やかな黒髪をポニーテールにしていた。
「ケイタが起きたか」
 そう答えたのは、ナルミヤの隣に佇む男だった。ナルミヤと同様に白衣を着ているようだが、僕の視覚デバイスである小型カメラでは、その男の細かい風貌まではわからない。しかしその背格好から、恐らくは、ナルミヤが「博士」と呼ぶ男に違いない。
 この実験室にいるのは、ナルミヤとその男、ふたりだけだった。たくさんの培養ポッドが並べられ、機器に接続されていた。ふたりはモニターに映し出される各ポッドの数値を見ているようだった。
「ケイタはずいぶん奇妙な夢を見ていたようだな。現れた波形も妙だ」
 男はモニターを覗き込み、何やら感慨深そうに頷いている。ナルミヤはバインダーを手に、用紙に何か記録しているようだった。ペンを持っている右手が小刻みに動いている。
「覚醒には至らないが、半覚醒状態を何度も経験している……。わかるかねナルミヤくん、波形の、ここ、この部分だ。ここも、ああ、ここもそうだ。この波形の動きは、覚醒時に見られる形と全く同じだと思わないか。しかしこの程度の数値の変動では、覚醒とは呼べない。疑似的な覚醒状態を睡眠中に何度も体験しているということだ。夢の中で夢を見ている、とでも言えばいいのか……」
「ええ、博士。これは番号百零七にのみ現れる、彼特有の波形です」
「ふむ……。君が先週の報告書に記載していたのは、まさしくこの件だった訳だ」
 男はモニターから目を離さないまま、腕組みをした。また、ひとりで何度も頷いている。
「ナルミヤくん、君は一体いつ、この波形に気が付いたのかね?」
「最初に疑念を抱いたのは三週間前のことですが、記録を確かめたところ、およそ八週間前から兆候はありました」
 ナルミヤの凛とした声は聞いていて心地が良かった。僕のポッドに接続されている聴覚デバイスは、彼女の音声を捉えること、それ自体を喜びだと認識しているのではないかとさえ思う。もちろん、デバイスはただ機械的に音を捉えているだけに過ぎない。
「過去のデータは?」
「こちらです」
 ナルミヤが端末を操作すると、モニターの表示が切り替わった。
「八週間前からのデータがこれか?」
「そうです」
「ずいぶん滑らかに数値が動いているな……いや、新しい記録になればなるほど、乱れが出てきている」
「乱れ、ですか?」
「そうだ。先程のデータで言うと、この、覚醒直前のところに最も顕著に出ている。ほら、数値が突然、跳ね上がっている箇所があるだろう」
「確かに、一度は上昇していますが、またすぐ元の数値に戻っていますし、その程度の振れ幅は誤差の範囲内のはずですが……」
 そう言うナルミヤの横顔。多少、眉間に皺が寄ってはいるが、そんなことがまったく気にならないほど美しい、整った造形。
「確かにこれは誤差の範囲だ。しかし見なさい、八週間前のデータには、そんな誤差さえもない。数値の上昇と下降は常に一定の波を描いている」
 男はモニターばかりを見つめている。ナルミヤの美しさになど、少しも気に留めている様子がない。
「この誤差とも言える『乱れ』は、徐々に増えてきている。これは一体、何を表しているのか、それが問題なんだ……」
 男は、それからしばらくの間、黙ったままだった。ナルミヤはそんな男を見つめていた。まるで、男が何かの答えを口にするのをじっと待っているかのように見えた。
 もしも、あんな風に見つめられたら。そう想像するだけで、震えそうだった。きっと僕はナルミヤに見つめられたら、何か答えに辿り着いたとしても、それを彼女に伝える勇気など持たないだろう。彼女を前にして、伝えられる言葉など、いずれもたいした価値を持たない。何を発しようとも、彼女の前では敵わない。僕の存在など、あまりにも無力だ。彼女の瞳には、それぐらいの力がある。
 だから僕は、「博士」と呼ばれる男がナルミヤを前にして平然としていることが不思議でならなかった。彼女の声を直に聞き、その瞳に見つめられ、すぐ隣に彼女の存在があっても、動じないのはなぜなのだろう。あの男はよほどの異常者に違いなかった。人として必要な感覚器官が欠けているとしか思えない。彼女の魅力を感じることができないとしたら、それは五感があったとしてもなんの意味もない。目も、耳も失っている僕が、接続されたデバイスを通じてのみでさえ、ナルミヤの存在にこれほど感銘を受けているというのに。
「博士、八週間前は、新しい被験者がここに運ばれて来た時期とちょうど合致します」
 沈黙を破ることをどこかためらうように、ナルミヤは囁くようにそう言った。
「新しい被験者……?」
「被験者番号百十三、ヒナカワです」
 男が振り返った。並べられている培養ポッドを見ているのだ。僕が漂っている培養ポッドの六つ隣、ヒナカワの脳味噌が浮かんでいるはずのポッドを。僕に接続されている視覚デバイスが男の顔を捉える。男は眼鏡を掛けていた。そのレンズが照明を反射していて、表情はよくわからない。
「ヒナカワ……この被験者がここに来てから、ケイタの波形に変化が現れ、疑似的な覚醒を繰り返すようになった……と、いうことなのかね」
 ナルミヤは頷く。
「因果関係はわかりません……ただ、番号百十三が来た時期と、番号百零七の波形に変化が生じた時期が合致する、というだけです」
「他の被験者の波形は? 変化は見られないのかね」
「二十週間前から遡ってデータを確認してみましたが、特には……」
「ふむ……。このふたりの被験者たちだけが特別、という訳か……」
 男の顔の角度が少しばかり変わった。照明を反射していた眼鏡のレンズの向こうに、男の瞳が見えた。その瞳は暗い闇を湛えたように虚ろで、しかし、目線は鋭かった。
「このふたりの共通点はあるのかね?」
「あります。出身地です」
「出身地か……。どこの出身なんだ? ケイタとヒナカワは……」
「第八都市です」
 ナルミヤは手元のバインダーに挟められている用紙を二、三枚めくりながら答えた。男は一瞬、それを聞いて言葉に詰まった。
「第八都市……そうか、このふたりは……あの壊滅した街の、生き残りという訳か……」
「被験者の中で、第八都市の出身者はこのふたりだけです」
「生き残った者同士が……被験者同士が、なんらかの影響を及ぼしているということかもしれないな……」
 男はひとり、小さく何度も頷きながら、再びモニターへと向き直る。
「ナルミヤくん、君はもうしばらく、観測を続けてくれ。私は検証してみたいことがある」
「わかりました」
「何か異常が出たら、すぐに知らせてくれ」
「ええ、すぐにご連絡します」
 男は実験室を出て行った。ひとりとなったナル��ヤは、モニターと手元のバインダーの書類を見比べながら、端末の操作を始める。
 ヒナカワが僕に話しかけてきたのは、その時だった。
――ケイタくん、聞こえる?
 それは突然、背筋を指でなぞられた時のような不快感だった。僕に肉体があったら、大きく震わせて驚いていたことだろう。しかし、今の僕には身体がない。触覚と呼べる物もない。あるのは、プラコマティクス溶液に浮かぶ脳味噌だけだ。接続されている視覚デバイスと聴覚デバイスから、外部から映像と音声を取り込んで感知することがかろうじてできているけれど、それは僕の肉体を通してではなく、カメラとマイクが検知したデータが電子刺激となって脳で感じているだけに過ぎない。
 しかし僕は、ヒナカワの声を感じるのだ。デバイスを通じてではなく、自分の肉体で、つまりは脳で直接、ヒナカワが僕に語りかけてきているのを感じている。
 ――ケイタくん、思い出した? 私たちはトチコロガラドンに襲われて、でもかろうじて生き残ったの。家族も、友達も、先生も、皆死んじゃった。街は壊滅状態になってしまった。私たちだけがこうして助かったの。
 直接感じさせられている、ヒナカワの声は不快だった。聞いているだけで、身体じゅうを虫が這い回っているかのようだった。そんな経験をしたことは一度もないけれど、そうだとしか言いようがなかった。それは、ヒナカワを嫌悪しているという訳ではなく、恐らくは、他人が僕自身に直接入り込んでいる、そのこと自体の気味の悪さだった。
 ――ケイタくんが今までしてきた妄想はすべて、現実から目を逸らすためのものだったの。ケイタくんはトチコロガラドンのことも、第八都市が滅ぶことも、全部ゲームの中のことだと思うことにして、自分は普通に、普段通りに学校へ行って、生活しているんだと思い込もうとしていたの。それは卑怯なことなんかじゃないよ、ケイタくんの心を守るためには、必要なことだったの。
 耳を塞ぐことでその声が聞こえなくなるのであれば、どんなに良かったのだろう。しかし僕には耳もなければ、声を遮るための両手もない。聴覚で感じている訳ではないその声を、聞こえないようにする手段はない。衣服をすべて剥ぎ取られ、陰部を撫で回されている。そんな不快感で僕は死にたくなっていた。
 ――でもケイタくん、そろそろ目を覚まして。私たちに起こったことを思い出して。現実と向き合って。私たちは身体を取り戻さなくちゃいけないの。そのためには、トチコロガラドンを倒さないといけない。
 もはや僕の五感はすべて、ヒナカワに支配されていた。全身でヒナカワを感じていた。僕には耳も目も鼻も舌も皮膚さえもないというのに、そのすべてで彼女の存在を感じていた。彼女以外に何ひとつ、感じられる物がないと言ってもいい。この世界にはヒナカワしか存在していないのかと思うほど、すべてが彼女だった。
 僕は彼女の白い肌を見た。鼻先にまで迫って来た彼女は、良いにおいがした。口の中にねじ込まれた「それ」は温かくて柔らかく、舌は微かな甘さを感じた。肌と肌が触れ合った。彼女の身体は僕よりも体温が少しばかり低かった。
 彼女が僕の中に侵入して来たのを感じた。それを受け入れたつもりはなかった。しかし、抵抗する術もなかった。
 ――わかるでしょ、ケイタくん。私と力を合わせるの。一緒にトチコロガラドンを倒す。そのためには、こうするしかない。私たちは、ひとつになるの。
 僕の中から、彼女の声が聞こえた。彼女は僕の中に侵入し続けていた。脳で感じられるところよりもずっと奥深いところまで、彼女が注がれて、満ちていくのがわかった。もはや彼女は液体で、僕はただそれを受け入れる容器だった。
 ――私と一緒に戦って。ケイタくん、お願い。
 彼女の声は、どこか涙で潤んでいるように聞こえた。
 その時だった。
 彼女は短い悲鳴を上げて、僕の中から一瞬で消え失せた。
 何が起こったのか。正常を取り戻した聴覚デバイスが実験室に鳴り響くアラームを捉えたが、それがなんの警告音なのか、すぐにはわからなかった。僕のすべてを支配していたヒナカワは、今はもう影も形もない。僕の視覚デバイスはモニターの前のナルミヤを捉えた。ナルミヤの右手は何かのボタンを押したままになっている。それが「緊急停止」のボタンであると、かろうじてわかった。どうやらナルミヤが、ヒナカワの侵入を阻止してくれたことは間違いなさそうだ。
 ナルミヤは振り返った。僕を見ていた。僕の脳味噌が浮かんでいる、プラコマティクス溶液で満たされた培養ポッドを見つめていた。僕の視覚デバイスはナルミヤの視線の先にはない。だから、彼女がいくら僕の脳味噌を見つめても、目線が合うことはない。しかし、それで良かったのかもしれない。僕はナルミヤと見つめ合ったりしたら、正気を保っていられる自信がなかった。
「ヒナカワさんの培養ポッドを停止させたよ、ケイタくん」
 ナルミヤはそう言った。それは凛とした声だった。
「再起動の処置をしなければ、ヒナカワさんの脳は機能停止に陥るよ。もって、あと五分ってところかな。そしたら、ヒナカワさんは死ぬの。もう二度と、ケイタくんの邪魔をすることもない」
 ナルミヤは僕を見つめていた。目も耳も鼻も口も舌もない、手も足も何もない、ただ脳味噌でしかない僕を見ていた。
 僕は視覚デバイスを通して、そんなナルミヤをただ眺めているしかなかった。僕はずっとそうだった。ナルミヤと同じ教室で過ごしていた、あの頃。当時から、僕は彼女を見つめていた。その横顔を、あるいは後ろ姿を。僕の目線はいつだって彼女のことを探していた。近くから、もしくは遠くから、彼女を見つめていた。今と同じだ。五体満足だった頃から、脳味噌だけになった今と変わらない。
 あの時と同じだ。薄暗い台所の入り口に立ち尽くしていた、あの時。床に広がっていく赤い水溜まりの前で、僕は手を貸すことも叫ぶこともしなかった。何もせず、ただナルミヤを見ていた。汚れた鈍い銀色。水玉模様のヘアピンが落ちて、乱れた黒髪が横顔を隠していた。あの時、泣いていたのだろうか、それとも。今となってはわからない。あの時と、同じ。
 実験室には警告音が鳴り続けていた。ヒナカワの気配はもうどこにも感じられなかった。ナルミヤがポッドを再起動させる様子はない。やがて、ヒナカワの脳は停止するだろう。
「私がケイタくんを守ってあげる。だから大丈夫。何も心配いらないよ」
 ナルミヤの言葉はどこか厳かに響いた。彼女は微笑んでいた。それはどこか、神聖さを感じさせる笑みだった。彼女は天使みたいだった。女神なのかもしれなかった。
 僕は夢の中にいる時のように、不思議な気持ちでナルミヤの言葉を聞いていた。
 彼女は一体、何から守ろうとしてくれているのだろう? 誰かが、あるいは何かが僕を脅かそうとしているのだろうか。実際のところ、僕は何ひとつ、心配などしていなかった。たとえ僕の身がどんな不幸に見舞われるとしても、僕以外のすべてのものがどんな事態に陥るとしても、遠い国で戦争が始まったというニュースをテレビで見た時のような、ただ「そんな感じ」でしかなかった。 培養液にぷかぷかと浮かぶ脳味噌だけの僕にできることなんて、何もないのだから。
※『非・登校』(下) (https://kurihara-yumeko.tumblr.com/post/766016265929310208/) へと続く
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kurihara-yumeko · 8 months ago
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【小説】非・登校 (上)
 目覚まし時計が鳴る前に起きることができた朝の、清々しさったらない。
 階段を降りて行くと、ママが僕を見てにっこりと微笑んだ。
「あら、今日は早いのね。朝ご飯、すぐに用意するわね」
 自分でできるから大丈夫だよ、と返事をしたが、ママは忙しそうに白いエプロンを揺らして奥のキッチンへと消えてしまう。僕の頭上では、三階の天井から吊り下げられたシャンデリアが、東向きの窓から射し込む日光にきらきらと輝いている。完璧な一日が始まる予感がした。そんな朝だった。
 ダイニングではパパがコーヒーを飲みながら朝刊を読んでいた。
「おはよう。今日は早いんだな」
 そう言うパパも、いつものようにパジャマ姿ではない。背広を着て、もうネクタイまで締めている。
「パパも早いね」
「うん。今日は、大事な商談があるんだ」
 ショウダンというのがなんなのか、僕にはよくわからないけれど、それがある日はパパが気合いを入れていることはわかる。パパの気合いというのはその前髪の形に表れているのだと、いつだったか、ママがこっそり教えてくれた。今日のパパは前髪をオールバックにしていたから、これは気合いマックスってことだ。初めてママに出会った日も、パパはこの髪型をしていたと聞いた。
「そう言うケイタは? 今日は何か大事な予定があるのか?」
「まぁね」
 僕はそう言いながらコーンフレークの袋を手に取ろうとしたが、そこにママが颯爽と現れて、「ほらほらケイちゃん、用意できたわよ」と言いながら、トーストと、ハムエッグの皿をテーブルに並べた。
「自分で用意できるって言ったのに」と、僕は肩をすくめてコーンフレークを棚に戻し、それから「もう、ケイちゃんって呼ぶの、やめてよ」と言うべきか、一瞬悩んだ。しかし、そうしている間にも、ママは「オレンジジュース持って来るわね」と、再びキッチンへと消えてしまった。
 トーストにバターを塗り、ハムエッグを頬張っている間にオレンジジュースが運ばれてきて、最後に残り物のポテトサラダがちょこんと皿に盛られて置かれた。それらを順番に咀嚼して、「ごちそうさまでした」と手を合わせた僕は、歯を磨くために洗面所へと向かう。
 歯ブラシに赤と青と白の三色歯磨き粉を捻り出していると、階段を降りて来る緩慢な足音が聞こえた。
「リスコ、起きたのか? おはよう」
 階段に向かってそう声をかけると、僕の妹はまだ眠たそうな声で返事をする。
「ケイタにいちゃ���、おはよー」
 リスコは寝起きがあまり良くないが、この時間に一階へ降りて来たということは、今日はまぁまぁ、上出来な方だった。僕は歯ブラシを小刻みに動かしながら、廊下の柱時計を見やる。今日は僕も、良いペースだ。口をゆすぎ、洗面所を出る。
 ランドセルは昨日のうちに、玄関先に用意してあった。お気に入りのマッドシューターのスニーカーもばっちりだ。ランドセルを背負い、靴を履いて爪先をとんとんしていると、ママが出て来て僕を見送ってくれた。
「気を付けて行ってらっしゃい」
 僕がもっと小さかった頃は、出掛ける前にいつもハグしてキスしてくれたママだけど、さすがに最近はするのをやめてくれるようになった。僕はそれが、自分がたくましくなったような気がして、少し誇らしい。
 行ってきます、と手を振って家を出た。
 今日はいつもより時間が早いから、まだハカセもボーロも通学路に出て来ていない。いつもならそのふたりと一緒に登校しているが、今日は僕ひとりで学校へ向かうつもりだ。ふたりを早い時間に付き合わせるのは申し訳ないような気がしていたし、そしてそれ以上に、他の誰にも知られたくない、僕だけの秘密でもあったからだ。
 どんなに仲の良い友達にだって、秘密にしておきたいことがあるのは、別におかしなことではないはずだ。
 今はすっかり葉桜となった桜並木を黙々と歩く。ひとりで歩く通学路は退屈なはずだったが、今の僕はこの後に待つ出来事が楽しみで仕方なかった。ハカセやボーロと昨日観たテレビの話をしたり、僕たちが異様なほどに熱中しているテレビゲーム、スターストレイザーの進捗を確認したりすることができなくても、胸の奥がわくわくして、羽でも生えたかのように足取りは軽い。
 小学校の校門をくぐると、登校してきた児童の姿はまだまばらだった。僕は早足で広い校庭を横切り、昇降口で靴を脱いだ。上履きに履き替えながら、もう完璧に位置を把握している、ナルミヤの下駄箱を横目で確認するのも忘れない。
 僕の予想通り、ナルミヤの黒いエナメルのスニーカー、ブラックキュートの最新モデル(らしい。妹のリスコがそう言っていた)は、すでに下駄箱に納まっていた。やはり、もう登校しているのだ。五年二組の靴箱をざっと見渡してみたが、他に登校してきたクラスメイトはまだいないようだった。僕は心の中でガッツポーズをする。
 三階の教室まで向かう。急いで来たようには感じさせず、眠たそうにも見せず、クールに、自然に。シャツの襟が折れていないか、袖口が汚れていないか確認しながら、階段を一段一段、登って行く。
 三階の廊下にずらりと並ぶ教室は、灯かりが点いているクラスが半分くらいだった。まだ登校してきた児童が少ないのだ。僕が目指す五年二組の教室は、廊下から電気が点いているのが見えた。閉まっているドアを引く。大きな音を立てないように、かと言って、あまりにもそろそろと開けるのでは不自然だ。
「あれ? おはよう、ケイタくん」
 僕の予想通り、ナルミヤはすでに教室にいて、水を交換してきたばかりらしい、ロッカーの後ろに花瓶を置いているところだった。
「おはよう。日直の時、ナルミヤはいつも早いね」
「そう言うケイタくんこそ、どうしたの。もしかして、日直の当番の日、間違えちゃったの?」
「あはは、そうじゃないよ。一時間目の国語、今日は漢字のテストでしょ? でも、うっかり漢字ドリルを持って帰るの忘れちゃってさ」
 自分の机にランドセルを置きながら僕がそう言うと、ナルミヤは目を丸くして、それから小さく、ふふっと笑った。
「ケイタくん、いつも置き勉してるんだ、いけない子だね」
 そう言う彼女の口調には、僕を蔑むでもなく咎めるでもなく、不思議とどこか楽しそうな、嬉しそうな、そんな響きがあった。僕にはきょうだいが妹しかいないが、もしも姉がいたらこんな感じだったのかもしれない、なんて思う。同級生のナルミヤを姉のように思うのは、少しおかしいのかもしれないが。
 しかしナルミヤは、このクラスで一番、大人びている。透き通るような白い肌も、まっすぐに伸びた毛先の揃った長い髪も、誰かの冗談に口元を緩めるようにして笑う様も、その時の見守るような優しい眼差しも、とても僕らと同じ年に生まれたのだとは思えない。
 彼女の細い指先は、教室のオルガンを優美に奏で、花の絵に繊細な色を塗り、習字の時間には力強くも整った字を書き、授業の板書を美しくノートに写していく。僕はナルミヤと同じクラスになって、すぐに彼女の魅力に気が付いた。そしてこのことは、僕だけの秘密にしておこうと決めた。
 僕は自分の席で漢字ドリルを取り出し、漢字を覚えようとしている振りをしつつ、ナルミヤのことを眺めた。彼女は僕に背を向けて、黒板に新しいチョークを並べていた。今日もいつものように、水色の水玉模様のパッチンヘアピンが、彼女の左耳の上、艶やかな黒い髪に留まっている。
 日直になると、朝と帰りに当番の仕事をこなさなくてはいけない。朝は教室の花瓶の水を取り替えたり、植木鉢に水をやったり、生き物を飼っているクラスでは餌をあげたりする。それから、黒板に新しいチョークを並べて、黒板消しを綺麗にする。どれも時間のかかる仕事ではないから、普通に登校してきてからでも十分に間に合う。でもナルミヤは、日直の当番が回って来た日、いつもより早く登校して来て、その仕事をする。
 そのことに気付いたのは、ナルミヤが前回、日直の当番になった時だった。学校に宿題を忘れて帰ってしまった僕は、翌日に早く登校して、そうして偶然にも、その事実を知った。だから今回は、僕も早く登校して、彼女が日直の仕事をこなすところを、こうして眺めることにしたのだ。
 教室にいるのは、僕とナルミヤ、ただふたりだけ。
 少しすれば、クラスメイトたちが登校してきて、教室はいつも通りのにぎやかな空間になる。ふたりだけでいられるのも、ほんの短い時間だ。何か今のうちに言っておくべき言葉を、僕は探そうとしたけれど、でもこの静けさを大切にしたいような気もする。
 僕はパパの今日の前髪を思い出しながら、僕も気合いを入れた前髪にすべきだっただろうか、と思った。猛烈なアタックをしてママと結婚したパパは、ナルミヤとふたりきりでいるこの状況で何も話しかけない僕を見たら、「そんなんじゃ駄目だぞ」と怒るだろうか。でもママなら、僕の気持ちをわかってくれるかもしれない。おしゃべりが必要な訳じゃない。ただそこに居てくれるなら、それを見つめることが許されるなら、それだけで僕は満足した気持ちになる。それは、やるべきことがすべて終わって、家族におやすみを言って布団の中に潜り込む時のような、そんな気持ちに似ていると思う。
 黒板消しを手に取ったナルミヤがこちらを振り向きそうな気がしたので、僕は目線を彼女から外して、手元の漢字ドリルへと向けた。
「ねぇケイタくん、こないだ聞いちゃったんだけど」
 ナルミヤは黒板消しクリーナーのスイッチを入れながら、そう話しかけてきた。ナルミヤから話しかけてくるとは思っていなかった僕はびっくりして、思わず彼女の顔を見る。彼女は黒板消しにこびり付いているチョークの粉をクリーナーに吸い込ませている最中だった。ぶいいいいいいんという間抜けな音が、教室に響いている。
「ヒトシくんとキョウイチロウくんと、スタストの話、してたよね」
 僕はその言葉に、再度びっくりさせられた。まさかナルミヤの口から、ヒトシやキョウイチロウやスタストの名前が出て来るとは、まったく思っていなかった。ヒトシというのはボーロの本名で、キョウイチロウはハカセの本名だ。スタスト��僕たちがハマっているテレビゲーム、スターストレイザーの略称。
「う、うん。そうだけど……」
 僕たちは教室でも廊下でも、スターストレイザーの話をよくしているから、どこかで会話を聞かれたのかもしれない。彼女が僕たちの話している内容を覚えていたということが、なぜか少し嬉しかった。
「ケイタくんもやってるの? スタスト」
「やってるけど……」
「ケイタくんは、強い?」
 ナルミヤが黒板消しクリーナーを止めた。教室は再び静かになる。
 ナルミヤが僕を見ていた。彼女の大きな瞳。ふたつのそれが僕を見ていた。その目に、もっと見つめてほしいと思う気持ちと、お願いだからこれ以上見つめないでほしいと思う気持ち、その両方が湧き上がった。
「ねぇ、ケイタくんは強いの?」
「えっと……弱くはないと思うけど、僕よりもキョウイチロウの方が強いよ。キョウイチロウが考えてきた攻略方法を、僕たち三人で検証してるんだ」
「トチコロガラドンが倒せないの」
 トチコロガラドンは、スターストレイザーに出て来る敵モンスターの名前だ。その名前を知っているということは、「倒せない」ってことは、まさか。
「もしかして、ナルミヤもスタストやってるの?」
 僕の問いかけに、彼女は小さく頷いた。意外だった。ナルミヤがテレビゲームをしているところを、僕はまるで想像できていなかった。彼女がクラスメイトとテレビゲームの話をしているところを、少なくとも僕は聞いたことがない。
「……私がゲームするなんて、変かな?」
 僕は慌てて首を横に振った。
「変じゃないよ。ただ、少しびっくりしたものだから」
 スターストレイザーは、いかにも女子が好きそうな、洋服を集めて着せ替えするゲームでも、畑で作物を育てて収穫するゲームでも、家を建てて家具を並べるゲームでもなく、宇宙から飛来する巨大で不可思議な敵を殺していくゲームだ。このクラスでスタストを遊んでいるという話を聞いたことがある女子はいないし、男子だって、全員がプレイしている訳じゃない。いや、女子だとヒナカワがプレイしているらしいけれど、あいつは筋金入りのオタクだから、特殊なケースだろう。
 僕とボーロだって、ハカセから、「このゲーム面白いよ、皆でやろうよ」と言われるまで、そんなゲームが発売になったことすら知らなかった。テレビでコマーシャルが流れることもなかったし、電器屋さんにソフトを買いに行った時も、ゲームコーナーの新発売の棚の隅っこに、ぽつんと置いてあっただけだ。そんなマニアックなゲームを、ナルミヤが遊んでいただなんて。
 スターストレイザーは、発売から半年以上経った今も、攻略本という物が発売されていない。十二人の操作キャラクターと十二種類の使用武器をプレイするたびに自由に選択することができ、どれを選択するかによって戦略が変わってくる。ひとりでもプレイすることができるが、インターネットを介したマルチプレイにすれば、戦略の幅が大きく広がり、同じ敵でも倒し方は数十通りあり、どのように倒したかによってストーリーが細かく分岐していく。だから僕とハカセとボーロは、いつも「どの敵をどう倒したらストーリーがどうなったのか」を報告し合って検証し、ゲームクリアに向けて最適解の近道を模索している。
「トチコロガラドンが、いつも第八都市を壊滅させちゃって、そこでゲームオーバーになっちゃうんだよ」
「第八都市は、壊滅させるしかないんだ」
「え……?」
 僕の答えに、ナルミヤは大きな瞳を真ん丸にした。
「あれって、都市を壊滅させるのが正解なの?」
「そう。僕と、ハカセ……キョウイチロウとヒトシと、三人で何度も調べたけれど、どう隊列を組んで戦略を練っても、最終的に第八都市は壊滅する。だから、トチコロガラドンを倒すための本拠地を第八都市ではなくて隣の第七都市に置いて、そこから出撃するしかない。第八都市は、見捨てるしかないんだ」
 これは僕たち三人だけで辿り着いた結論ではなく、ハカセの家のパソコンでインターネットの掲示板を見た時も、同じ結論が導き出されていた。世界じゅうの、顔も知らないプレイヤーたちもまた、同じように見つけ出した答えなのだ。「絶対に何か他の戦略があるはずだ」と検証しているプレイヤーは今もいるが、第八都市を陥落させずにトチコロガラドンを倒したという声は、確認した限り、まだない。
「そうだったんだ……。私、てっきり都市を守り抜くのがあのゲームのルールなのかと思ってた……。そうなんだ、見捨てるしかないんだね」
 驚きつつも、小さく頷きながらナルミヤはそう言って、それから微笑んだ。
「全然知らなかった、すごいね、ケイタくん。教えてもらって良かった。今日家に帰ったら、早速やってみるね」
 そう言うナルミヤの笑顔があまりにも嬉しそうで、僕もなんだかとても嬉しくなって、そして同じくらい、胸が苦しい感じがした。でもその苦しさが、本当はちっとも嫌じゃなくて、むしろ心地良くて、僕はそんな風に、嬉しくなるような苦しさを感じたことが初めてで、一体どうしたら良いのか、ナルミヤになんて言えば良いのか、わからなくなった。
 そこで教室のドアががらりと開いて、クラスメイトたちが数人、教室にぞろぞろと入って来た。登校してきたクラスメイトと「おはよー」の挨拶を交わしたところで、ナルミヤはくるりと僕に背を向けて、綺麗になった黒板消しを置き、新しいチョークをてきぱきと並べてから、廊下に出て行った。日直の仕事を終えて、廊下の水道に手を洗いに行ったのだろう。
 その後も続々とクラスメイトたちが登校して来て、教室の中はいつも通りのにぎやかさになった。ハンカチで手を拭きながら帰って来たナルミヤは、僕の席の方に来ることはなく、自分の席に戻ってしまった。僕は彼女との会話が終わってしまったことを名残惜しく思った。
 でも今日の短い会話で、ナルミヤと共通の話題ができたことは大きな収穫だった。今度一緒にスタストをやろうよ、と声をかけてみようか。僕がナルミヤの家を訪ねるのと、彼女にうちへ来てもらうの、どっちの方が良いんだろう。
 本当は、トチコロガラドンの攻略方法だって、あんなあっさり教えるのではなく、「今度、僕が一緒に倒してあげる」とでも言えば良かったのかもしれない。僕のパパだったら、きっとそうしただろう。僕たちが何度も挑戦して掴み取った倒し方を、簡単に教えてしまうのではなくて、ナルミヤと一緒に検証しても良かったはずだ。僕はそのことを少し、今になって後悔した。
「あ、ケイタ! やっぱり、先に学校に来てたんだな!」
 そう言いながら教室に飛び込んで来たのはボーロで、その後ろから、
「ひどいよケイタくん、ひとりで先に行っちゃうなんて!」
 と、文句を言ってきたのはハカセだった。
「ごめんごめん、漢字ドリル、学校に置いてきちゃってさ」
 僕はそう謝ってみたけれど、ボーロの目は吊り上がっているし、ハカセの顔は泣き出しそうだった。親友ふたりの僕への非難は、先生が教室に入って来て、「さぁ皆、自分の席に着いて」と言うまで続いた。僕はふたりの話を聞いているふりをしながら、途中何度か、ナルミヤを見つめていたのだけれど、彼女は僕には気付いていないようで、一度もこちらを見ることはなかった。
「朝の会を始めましょう。今日の日直はナルミヤさんね、お願いします」
 先生にそう促され、ナルミヤの凛とした声が、朝の教室に響き渡る。
「起立」
 椅子をがたがたと鳴らしてクラスメイトたちは起立する。僕も立ち上がりながら、「今度、一緒にゲームをしよう」と、放課後にナルミヤを誘ってみよう、と決めた。
 ナルミヤとふたりで秘密の攻略方法を発見することができたら、どんなに幸せだろうか。もしかし��ら誰も発見することができなかった、第八都市を壊滅させないでトチコロガラドンを倒す方法が、ナルミヤとだったら見つかるかもしれない。彼女を見ているとそんな風に、僕はなんでもできるような気分になってしまうのだ。
 と、いうのはすべて、僕の妄想だ。
 現実の僕は、廊下の床に片頬をつけたまま、中途半端に閉められたカーテンの隙間から射し込んで来る、冷たい光を見ていた。光を見てそれを冷たいと感じるのは、光がカーテンの青色を透過して部屋じゅうが青っぽく見えるからなのかもしれないし、もしくは僕が布団どころかカーペットさえ敷かれていない、冷え切った廊下に横になっているからかもしれない。
 眩しさに目を細めながら、寝ぼけたままの僕はその光が朝陽だと理解して、室内の壁にかかっている時計へと目を向けた。時計の示す時刻と部屋の中の明るさは、午前中だとしたらあまりにも暗く、午後だとしたらあまりにも明るく、それを妙に思うよりも早く、秒針が動いていないことに気が付いた。昨日の夜に止まったままになっているのであろう時計から目線を逸らし、「電池を交換しなきゃ」と思ったものの、電池がどこにあるのかわからない。そこで、この家に時計は壁のそれひとつだけだと思い出す。運良く新品の電池を見つけたところで、時計がそれしかないのだから、正しい時刻に合わせることもできない。
 今は何時なんだろう。
 せめて母親の携帯電話があれば、時刻を知ることができる。部屋の中をもう一度見渡してみたが、母親の姿もなければ、部屋の隅のローテーブルの上にいつも置かれている携帯電話も見当たらない。母親も携帯電話も、外出したまま、戻って来ていないようだ。
 母親が不在であることに安堵と落胆が入り混じったような気持ちになりながら、僕は床から起き上がり、まずはトイレへ、それから洗面所へ向かった。トイレにも洗面所にも、その隣の脱衣所にも、浴室にも、家族は誰もいなかった。用を足して手を洗ってから顔を洗う。
 洗面所の鏡には、皮脂にまみれた髪が額にべったりと貼り付いている僕の顔が映って、顔を洗うついでに蛇口の下にまで頭を突き出し、髪を濡らしてごしごし擦ってみたけれど、物事が好転したようにはまったく思えなかった。どこかにあるらしい傷に、水がしみて痛かった。
 何日も着替えていない服からは饐えたような臭いがしていたし、手も足も少し擦るだけですぐに垢が剥がれ落ちた。もう何日間、風呂に入っていないんだろう。この部屋のガスが止められてからどれくらい経ったのか、思い出せない。今はこうしてトイレも使えるし顔も洗えているけれど、水道が止められる日も近いのかもしれない。
 いつ洗濯したのかもわからない、黄ばんだタオルで濡れた髪を拭きながら洗面所を出た。さっきまで横になっていた廊下を踏みしめて部屋に入り、ローテーブルの下に転がっていた煙草の箱とライターを拾って、ベランダへ続く窓を開ける。
 窓の鍵は開いたままになっていた。素足のままベランダに出て窓を閉めてから、箱から煙草を一本引き抜いて、口に咥えて火を点ける。息を大きく吸って鼻から煙を細く吐きながら、外が思っていたよりもずっと明るいことに気が付いて、もしかしたら、もうとっくに学校へ向かわなくてはいけない時刻になっているのかもしれない、と思った。
 室外機の上に置かれた灰皿に灰を落としていると、アパートの下の通りをふたりの小学生男子がおしゃべりしながら歩いて来るのが見えたので、僕は咄嗟に、ベランダに置かれた目隠しパネ��の陰に隠れるようにしゃがみ込んだ。そうすることで彼らから僕の姿は見えなくなり、僕からも彼らの姿が見えなくなったのだけれど、わざわざ顔を確認しなくても、僕はそのふたりが誰なのかを知っていた。同じクラスのハカセとボーロだ。
 ハカセというのもボーロというのも、本名ではなく、あだ名だ。ハカセと呼ばれている、分厚いレンズの眼鏡を掛けた背が小さい男の子は、確かキョウイチロウというのが本名で、もうひとりの、ボーロと呼ばれている体格の良い坊主頭の男の子は、ヒトシというのが本名だ。ヒトシというよりフトシという感じだけれど、そう呼ぶと泣くまで殴られるので、誰も間違ってもそうは呼ばない。クラスメイトのほぼ全員が、ふたりのことをハカセ、ボーロを呼ぶので、僕はそのふたりの名字を思い出すことはもうできなかった。
 ふたりは近所に住んでいるのか、仲が良いのか、登校の時間になるといつも決まって、おしゃべりしながらこのアパートの前の通りを南から北へと歩いて行く。朝から元気が良いことに、ふたりの会話はベランダにいる僕にまでよく聞こえてくる。
 話の内容は、昨日観たテレビのことか、スタストとかいうゲームのことがほとんどで、ときどき、マッドシューターの最新モデルがかっこいいだなんて、スニーカーの話をしていたりする。今日はなんの話をしているのだろうと思いながら、目隠しパネルの陰で煙草を吸っていると、僕がそこにいることなんて知りもしない彼らが、いつも通りおしゃべりをしながら歩いて行く。
「なぁ、聞いたか? 昨日皆がしてた噂話」
「ナルミヤさんの話でしょ? あんなの信じられないよ。何か証拠があるのかなぁ」
「でもほら、火のないところにナントカって言葉もあるだろ。何にもないのに、ナルミヤがエンジョコーサイしてるなんて噂、出回る訳ない」
「あれって、ヒナカワが言い出した話だよね。ヒナカワってほら、ナルミヤさんと仲良くないじゃない。なんでヒナカワが、仲良くもないクラスメイトの秘密を知ってるのか、不思議に思わない?」
「なんだ? ハカセはナルミヤの噂が嘘だって疑ってるのか? 信じたくないって? なんだハカセ、お前、もしかしてナルミヤが好きなのか?」
「ち、違うよ! ただ僕は、ヒナカワがナルミヤさんを嫌いだから、あんな噂を広めたんじゃないかって思ってるだけで……」
「なんでヒナカワがナルミヤを嫌ってるってわかるんだよ?」
「だってほら……ナルミヤさんは美人だけど、ヒナカワはブスじゃん……」
 僕は短くなった煙草を灰皿に押し付けて、火を消してから立ち上がる。部屋に戻る頃には、ハカセとボーロの会話は聞き取れないくらい、ふたりはもう遠くへ行ってしまっていた。
 一本抜き取ったことが判明しないことを願いながら、煙草とライターを元通りローテーブルの下に置き、それが不自然に見えないよう、あたかもずっとそこに転がっていたことを装うようにその角度を微調整してから、台所の方へと目を向けた。
 電気を点けないといつも薄暗い台所は、窓の近くからでは中の様子がよく見えない。僕は意を決して、台所へと近付いた。食べられる物がほとんどなくなってしまって久しい台所は冷え切っていて、とても静かだ。冷蔵庫のコンセントはとっくの昔に引き抜かれているし、蛇口も長いこと捻られていない。
 時計の秒針さえも止まってしまった今、家の中は恐ろしいほどに静かだった。ただじっとしているだけでは、この空気に取り込まれて、僕まで透明になってしまいそうな、そんな錯覚に陥りそうになる。僕は台所の入り口に立って、その薄暗がりの中を覗き込んでみた。
 台所の床の上にはどす黒い色をした水溜まりが広がっていて、その中心には、僕の父親が倒れている。
 たいした深さもないはずの水溜まりの真ん中で、溺れてもがいているかのように、こちらへ右手を伸ばしたまま、どこか遠くをじっと見つめたまま動かない父親は、もうかれこれ二日はこのままの状態で、脈を確かめるまでもなく、完全に絶命していた。心臓を刺し抜いているのであろう包丁の切っ先が、父親の背中から突き出していて、その汚れた銀色だけが、暗闇の中で妙にはっきりと見える。それはひどく恐ろしい光景だった。
 怖いからなるべく見ないようにと過ごしてきたけれど、一度目を向けてしまうと、まるで縛り付けられたかのように身体が固まり、目線すら動かせなくなってしまう。ずっと見つめ続けたところで何も変化など起きないのに、僕は間違い探しでもしているかのように、目の前の光景を食い入るように見つめている。
 ふと、父親の身体の下に広がっている水溜まりの中に、何かが転がっているのを見つけた。今まで何度か台所を覗き込んでいたけれど、それに気が付いたのは初めてだった。
 あれはなんだろう。恐る恐る、水溜まりへと近付いた。その時、突然父親の右手が動いて僕の足首を掴んでくるところを想像してしまい、思わず悲鳴を上げそうになった。けれどそれは僕のただの妄想で、実物の父親はやはりぴくりとも動かない。明らかにこちらを見ている様子のない両目が、それでも僕を見つめている気がして、何度も父の顔を見てしまう。家にいる時はいつも父の機嫌を窺って過ごしていたけれど、死んでからも顔色を窺わなくちゃいけないことが急に馬鹿馬鹿しく思えてきた。それでも、一度想像してしまった恐怖から逃れることはできない。僕は怯えながら水溜まりに落ちている小さなそれを拾い上げる。
 ねちょ、という感触がして、指に赤と黒の中間色のような色が付着する。「それ」も僕の指を汚したのと同じ液体がべったりとこびり付いていて、摘まみ上げた「それ」がなんなのか、最初はわからなかった。「それ」は小さくて、金属でできていて、何かを挟むような形状をしていた。
 しばらく見つめているうちに、僕の目は「それ」にまだ汚れが付いていない部分があることを発見し、そしてそこに描かれているのが水色の水玉模様だと認識した時、僕はナルミヤのことを思い出した。
 透き通るような白い肌、まっすぐ伸びた長い髪、大きな黒い瞳。ナルミヤは僕のクラスの一番美人な女の子で、いや、きっと、学校で一番の美人だ。けれど誰も、彼女が笑ったところを見たことがない。というのが、もっぱらの噂だった。
 ナルミヤは笑わない。そして、人前で口を開くことはほとんどなく、開いたところでつっけんどんな、素っ気ない言葉が棘にまみれたような声音で吐き捨てられるだけなのだった。彼女がクラスメイトを見つめる時、それは眉をひそめるように細められた冷ややかな眼差しで、ぱっちりとした瞳が台無しに思える。ナルミヤの美しさは、男女問わず誰でも彼女と仲良くなりたくなるような、ずば抜けた輝きがあったけれど、当の本人がそういう具合でしか他人と関わろうとしないから、誰も彼女には近付かない。しかし誰ともつるもうとしないその姿勢が、彼女の美しさをより一層引き立てているように見えなくもない。
 ナルミヤは孤高だ。クラスメイトの誰にも似ていない魅力が、彼女にはある。
 僕は指先で摘まんだ金属片を見つめたまま、どうして今、彼女のことを思い出しているのか不思議であったが、やがてその水色の水玉模様が、ナルミヤの左耳の上、髪に留められているパッチンヘアピンの模様だと気付き、そしてこの金属片が、彼女のヘアピンなのだとわかった。
 これはナルミヤの物だ。だから、彼女に返さなくてはいけない。
 そう思った僕は洗面所に引き返し、ヘアピンを洗った。赤黒い粘着質な汚れは、執念深く擦り続けているうちに流れ落ち、それから、自分の手もよく洗った。もう何日も風呂に入っていない僕の頭を拭いたタオルでナルミヤの私物を拭くことをなんとなく躊躇して、軽く水を切ってから、僕はそれをズボンのポケットへと入れる。
 学校へ行ってみよう。ナルミヤはきっと、登校しているだろう。
 汚れがマシな靴下があったら履こうかと思ったが、そんな物はどこにも見つけられず、僕は裸足のまま玄関へ向かった。
 玄関の土間には、僕のスニーカーと父親のくたびれた革靴と、妹のリスコが落ちていた。リスコは手足を縮めるようにして土間にうずくまり、まるで芋虫のようだった。うつ伏せの姿勢のまま、そこにじっとしているので、顔は見えない。ぐっすり眠っているのか、僕がすぐ側でスニーカーを履いても、ぴくりとも動かなかった。
 僕と同じようにずっと入浴していないリスコの髪には、ところどころ綿埃が付着している。その髪は明るい茶色をしていて、これはリスコが母親にねだって市販の薬剤で染めてもらったからだった。茶髪になったことが嬉しくて、はしゃいでいた妹の様子をまるで昨日のように思い出す。でも今は、その髪も汚れきっている。
 妹はいつから、ここで寝ているんだっけ。
 リスコは昔から寝起きの機嫌が良くない。起こそうとして噛みつかれたことも一度や二度ではないし、あの父親でさえ、眠っているリスコを起こそうとはしない。だから僕は、妹には触れることなくスニーカーを履き、その横を黙ってすり抜けた。
 玄関のドアを開けて、外へと出る。家の鍵は持っていないので、ドアを閉めても鍵は閉められない。僕が不在の間に誰かが訪ねて来て、うっかり妹を起こしてしまうなんてことが、なければいいのだけれど。
 家から一歩外に出ると、不思議と気持ちが楽になった。僕が家の中にいるとどことなく居心地が悪い理由は、そこに両親がいるからだと今まで思っていたけれど、母親が帰って来なくなり父親が呼吸をしなくなっても、やっぱり家の中にはいたくないというのが、僕の本心らしかった。比較的軽い足取りでアパートの階段を降り、学校へ向かうための通学路を歩き出す。スニーカーの中に溜まった砂が、たちまち足の裏にまとわり付くのが気持ち悪かった。
 どうやら小学生が登校する時間はとっくに過ぎているようで、もうどこにも黄色い帽子やランドセルを身に着けた子供の姿を見つけることはできなかった。ひとりでとぼとぼと学校へ続く道を歩きながら、そういえば僕のランドセルはどうしたんだっけ、と考えた。
 学校へ行くのであれば、ランドセルくらいは持って行っても良かったかもしれない。でもどうせ、教科書もノートもないし、鉛筆は皆折れているし、ランドセルだけあってもどうしようもない。
 葉桜になった桜並木を歩いて行くと、途中、一本の桜の木の陰に、思わぬ人物の姿を見つけた。ナルミヤだった。
 彼女は桜の木にもたれかかるようにして立っていた。しかし、登校の時に被るように言われている黄色い帽子も、真っ赤なランドセルもない。足元はいつもと同じ、エナメルの黒いスニーカーだったが、黒と白のワンピースは、学校の制服ではなかった。ナルミヤは僕に気が付くと、まるで汚物でも見るような目をして、顔をしかめた。
「……ケイタくん」
「おはよう、ナルミヤ」
「……おはよ」
「ここで、何してるの?」
「別に」
「学校、行かなきゃいけない時間じゃないの?」
 ナルミヤは僕から顔を背けるように真横を向きながら、それでいてその目は、突き刺すように僕を見ていた。
「そう言うあんただって、学校は?」
「今、行くところ」
「……その格好で?」
「うん」
「あっそ」
 僕はポケットの中からパッチンヘアピンを取り出して、ナルミヤへ差し出す。
「これ」
「……何それ」
「これ、ナルミヤのでしょ」
「なんであんたがそれを持ってるの?」
「僕の家に、落ちてた」
「…………」
「これをナルミヤに返そうと思って、それで学校へ行くところだったんだ」
「…………」
 ナルミヤはまるで引ったくるように、僕の手からヘアピンを取ると、すぐさまそれをワンピースのポケットへと仕舞った。横を向いたまま目だけで僕を睨んでいるのは、変わらなかった。
「そのために、来たの?」
「うん」
 学校に辿り着くずっと手前で、ナルミヤに会えたことは予想外だったけれど。
「それだけ?」
「うん」
「…………」
 彼女は僕を睨みつけていたが、やがて、その目線さえもそっぽを向いた。
「ケイタくんさ、わかってんの?」
「何を?」
「あんたのお父さん殺したの、私なんだよ」
「うん」
 僕は頷いた。
「私のヘアピン、証拠じゃん。私が殺したっていう証拠」
「そうかな」
「だって殺人現場に落ちてるんだよ。犯人が落としたんだって、思うでしょフツー」
「そうかも」
「ケーサツ呼んでないの?」
「呼んでない」
「なんで呼ばない訳?」
「うち、電話ないし」
 ナルミヤの目がさらに細くなる。細くなればなるほど、僕を貫くように視線が研ぎ澄まされていくように感じる。しかし今、彼女の目は僕の方をまったく見ようとしていなかった。
「はぁ? 電話なんかなくたって、ケーサツくらい呼べるでしょ。近所の人とか、お店の人とか」
 周囲の大人に助けを求めれば良い、と言いたいのだろうか。しかしナルミヤは、それより先の言葉を口にはしなかった。
「あんたのお父さん、どうなってんの?」
「どうもなってないよ」
「どうもなってないって?」
「そのまま」
「あれから、ずっと?」
「そう」
「…………」
 ナルミヤは最大級に嫌そうな顔をした。
「…………きもちわる」
 ぺっ、とナルミヤは僕に向かって唾を吐いた。彼女の唾液は、放物線を描いて僕の足下へと落ちる。僕がその唾液の、白いあぶくを見つめていると、ナルミヤは心底不機嫌そうな声で、怒鳴るように言う。
「用が済んだらさっさと失せろ。二度とその面を見せるな」
 それはまるで、僕の母親が言いそうな言葉だった。けれど彼女が僕の母親に似ているとは、ちっとも思わなかった。ナルミヤの方がずっと綺麗だ、と思った。
 学校へ向かおうと思ったけれど、目的はすでに達成してしまったし、もう何もすることはないので、僕は家に戻ることにした。さっき出て来たばかりなのに、もう引き返すのかと思うと、それだけで足が重くなる。結局、僕はあの家から逃れられないのだろうか。のろのろと歩きながら、一度だけ後ろを振り返ってみたけれど、もうナルミヤの姿はなかった。
 ナルミヤはどこへ行ったのだろう。あの格好だと、学校へ向かった訳ではないような気がする。彼女も家へ帰ったのだろうか。それとも、僕の予想もつかないような場所へ向かったのだろうか。
 帰っている途中、どこからかサイレンの音が聞こえてきた。パトカーのサイレンだ。家が近付くにつれて、その音はどんどん大きくなっているような気がした。
 寝ていたリスコは、この音で起きてしまうかもしれない。寝起きの妹の相手をするのは、考えるだけで嫌な気持ちになる。妹なんて、一生あのまま、目覚めなければ良いのに。もしくは、リスコはもうとっくに、死んでいるんじゃないだろうか。起こしたくないから触りたくなくて、ずっと土間に転がしたままにしていたけれど、本当は、もう二度と目覚めないのかもしれない。
 アパートの前まで来ると、そこには三台のパトカーが停まっていた。近所迷惑を考えてか、さすがにサイレンは鳴らしていなかったけれど、赤色灯がくるくるくるくる、風車みたいに回っている。目の前の光景に呆然としていると、二部屋隣に住んでいるおばさんが駆け寄って来る。僕の家のドアは開いていて、中から出て来た警察官が階段下にいる僕を黙って見下ろした。
 やっぱり、家の鍵をもらっておけば良かったな、と僕は少なからず後悔して、今度母親に会ったら、ちゃんとそれを伝えようと思った。でもそれと同時に僕は、もうこの家に二度と母親が戻って来ないような気もした。
 と、いうのはすべて、僕の妄想だ。
 現実の僕は、きちんと制服を着て、黄色い通学帽を被り、ランドセルを背負って、玄関で靴を履こうとしている。ママは僕の後方、廊下の奥の部屋の入口で、中にいる妹のリスコに熱心に声をかけている。
「リスちゃん、もう出掛ける時間よ。いつまでもぐずぐずしているなら、ママは先にケイちゃんを学校へ送りに行くけど。ねぇ、本当にいいの?」
 リスコは部屋の中から何か返事をしたらしかったが、なんて言ったのかまでは聞き取れなかった。
「そう、じゃあ先に行くからね。ケイちゃんを送って帰って来たら、ママと一緒に学校へ行きましょうね」
 ママはそう言うと、廊下を早足で歩いて来た。
「ケイちゃん、先に行こう。リスコは後で送るから」
 僕は黙って頷いた。ママは仕事に行く時の洋服を着ているのに、靴はいつもの黒いヒールではなく、コンビニに行く時のピンク色のサンダルを履いた。僕を小学校へ送ってからそのまま会社へ向かうのではなく、どうやら本当に、また家へと戻って来るつもりらしかった。でも、ときどきママは間違って、そのサンダルで会社へ行ってしまうことがあって、だから僕は、ママがサンダルを履いたことを指摘するかどうか悩んだ。
 けれどママの言葉の端々が、妙に尖っているように聞こえることに気が付いたので、そのことを口にするのはやめた。決して表情に出さないように努めているようだったけれど、��マが今までになく緊張しているのがなんとなくわかった。  僕はアパートの階段を先に降りて駐車場の車のドアの前に立ちながら、玄関を施錠したママが後から階段を降りて来るのを待った。車の鍵を操作したのか、唐突にピッと車の鍵が開いたので、僕は後部座席に乗り込んで、さっき背負ったばかりのランドセルを隣の座席へと置く。運転席に乗り込んだママが何も言わないままシートベルトを締めて車のエンジンをかける。ルームミラーで後部座席の僕をちらりと見て、いつもだったらそこで、「ほら、シートベルトしなさい」と言うはずだったけれど、今日のママは「じゃ、行くわよ」と言っただけだった。
※『非・登校』(中) (https://kurihara-yumeko.tumblr.com/post/766015430742736896/) へと続く
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kurihara-yumeko · 1 year ago
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【短歌】腐らない死
地獄の熱夜風に乗って自殺するきみに春の訪れ告げる
水を止め忘れた蛇口しめるようなあなたの右手を待ちわびている
救うことも寄り添うこともできなくてぬいぐるみばかり増えていく部屋
腐らない死のようなもの二度と会うことのない人を月下に想う
棺には触れずにサヨナラだけ告げたきみは寝起きがとても悪いから
王子不在のままで呪いを解いた数あの子の腕の白い傷跡
「腐らない死」信頼できる人を失くした。死別した訳ではない。相手は今日も元気に暮らしている。変わったのは私の方だった。彼に対して以前のように信頼を寄せることができなくなった。理由はわかっている。原因が彼にある訳ではない。私個人の問題だった。彼への信頼を失ったことは、彼と死別したこととたいして違いはないように思えた。彼は生きていて、微笑み、手を差し伸べてくれるが、私の目にはゾンビのようにしか映らない。私にとって、彼はもう死んだ人間なのだ。生きる屍。否、生者である彼の肉体が腐る訳はなく、ゾンビと言うより生きる墓標とでも呼ぶべきか。彼の瞳の中に、在りし日の私自身の姿を見る。どうしてこうなってしまったのか。腐らない死を迎えた彼は、今日も変わらぬ姿で私に手を振る。
次の朝読むはずだった新聞を棺の祖父に抱かせてやる
保存料入った弁当ばかり食べ僕は土に還れますか神様
仲直りするはずだった しわくちゃの花束、墓前、初雪が染む
今はもう使われていない電話番号はおまじないきみに幸あれ
朝焼けを見つめるきみも燃えるようでもう少し生きてみようと思う
真夏でも長袖着てるきみだけが最後まで夜の海を見ていた
「私の友達」ずいぶん長いこと、一緒にいてくれた友達がいた。死にたい夜はいつもその友達を頼った。夜中まで電話で話し続けたこともあれば、明け方まで隣にいてくれたこともあった。まるで引き留めるかのように、私の手を握ってくれた夜もあれば、私は一睡もできないまま、眠る彼の月光に照らされた鼻筋を見つめて過ごした夜もあった。ひとりきりでは到底、乗り越えられなかった夜を、ずいぶん一緒に過ごしてくれた。彼がいてくれなかったら、私はとっくに死んでいただろう。もちろん、いつも隣にいてくれた訳ではない。私が望んでも応えてはくれない夜だって多かった。それでも、何度も一緒に朝焼けを見たこと、何時間でも他愛のない話に付き合ってくれたこと、私の友達であり続けてくれたこと、そのすべてが、私を今日まで生かし続けてくれていると思う。
たいそれた不幸はなくて自殺する勇気もなくて歩いて帰る
砂浜に書かれた遺書が波に消えどうせ歴史に残らぬ僕ら
あの夜に握ってくれた左手が死にたい夜にほのかに光る
信号が点滅してる「死のうとした、死ねなかった」に息も詰まって
ただそこにいるだけでいい小雨に陽が射して光の粒のように降る
天国に雨降らないなら今この世で傘差し出したきみと生きたい
「死ぬことばかり」死にたくない��に、死ぬことばかり考えるようになった。自身の愚かさについては、自分でも付き合い切れないと思うことがある。本気で死のうとしている訳ではないのに、毎日死ぬことばかり考えていた。これまで家で飲酒することはなかったが、週に3日以上は酒を飲むようになった。酔っているとすべての境界が曖昧になって楽だった。二十代前半で終わったはずの自傷行為も再開した。私は子供の頃から、精神が参っているはずなのに肉体になんの不調も現れないことが、心身の調和が取れていなくて苦手だった。何をしても気が晴れなくて、ある日ふと、「こんなに死にたいんだから、それを短歌にでもしよう」と思った。
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kurihara-yumeko · 1 year ago
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【欠けている思い出】
140字小説『ブリザード』
 ソフトクリームが奥歯に挟まって取れなくなった。吐息はブリザードとなってまたたく。「今日の天気は大雪です」と、この半世紀変わらない文句をテレビが言う。犬のジョンはここ3ヶ月、暖炉前で動かない。毛並みはまだ温かいだろうか。窓の外では、高層ビルの隙間を埋めるマンモスの行軍。
140字小説『お盆』
「休みだからっていつまで寝てるの」と起こされると、茶の間に、黒い影がふたつ立っていた。ぎょっとしていると、玄関の方から姉の声が聞こえ、母が「帰って来たら、ただいまくらい言いなさい」と言うのが聞こえた。ふたつの影が、「ただいま」と言った。そうか、お盆だもんな。お帰り。
『地獄で踊ろう』
 極楽から救いの糸を垂らしてくれるひとよりも、ここまで堕ちてきてくれる人間が現れるのを、ずっとずっと待っている。高みの見物なんかしてないでさ、一緒に地獄で踊ろう。音楽がないなら歌ってあげる、手足が欲しいならいくらでも生やしてあげる。
『人間に見えるから』
 人間に見えるから本を読むだけ、人間に見えるから音楽を聴くだけ、人間に見えるから美術館に行くだけ、人間に見えるから、人間に見えるから、人間に見えるから。人間に擬態して命を貪り無為に過ごして糞だけ残して灰となり消える、そういう変温動物なので、私は。
『だけ』
 運がよかったから生まれてこれただけで、運が悪かったからまだ自殺してないだけ。
『祈れ』
 歯をくいしばって祈れ、砂利でも食ってねむれ、血を流しても笑え。
『嫌い』
「私は人間嫌いなのではなくて、きみたち全員が嫌いなだけです」
【短歌】
ほんとうにあなたのことが好きだから砂糖の瓶に塩を詰め替える
あなたがよく振らずに飲んだ綾鷹の底から苦い媚薬を作る
夕暮れの改札前はインベーダーゲーム��えるな家に着くまで
前髪の方向性も決められず進路指導室そっとノックする
ペーストみたいになるまでゴキブリをなぶる元彼の国語辞典で
ちいかわが好きなんだったら絆創膏あげる手首の傷より似合うよ
無名のまま死んでいくなら教室の机に名前彫ればよかった
欠けている思い出ばかりが流れ着く砂浜でまるい月を見ている
夕暮れの伸びる影から逃げるように五時のチャイムで駆けていく子ら
さみしさを分け合いたくて真夜中の公園ポッケのビスケットを割る
すべて夢でそこは夕暮れの教室で肩揺するのがきみならいいのに
痛みなど忘れてしまう他人ならなおさらそれでもふたり月を見る
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kurihara-yumeko · 1 year ago
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【小説】コーヒーとふたり (下)
 ※『コーヒーとふたり』(上) はこちら(https://kurihara-yumeko.tumblr.com/post/746474172588425216/)
 零果が会社に行けなくなったのは、三年前、三十歳の時だった。
 最初は、朝起きられないことから始まった。いつもと同じ時間に目は覚める。アラームを設定した時間よりも早く目が覚めることの方が多かった。しかし、目は覚めても、身体を起こすことができない。羽毛布団を跳ね除けることさえできないのだ。全身の筋力が突然失われてしまったのかと思った。それでも、重い身体をなんとか起こしていた。
 ベッドから起き上がってからも、身体が思うように動かない。毎日さっと済ませることができた朝の用意も、時間をかけないとこなせなくなった。それでも、通勤電車の時間に間に合わせないといけない。当初は、起床時間を早め、朝の支度を可能な限り簡略化していくことでなんとか始業時間に間に合うように出社していたが、次第にそれも難しくなり、ベッドで横になったまま、「一時間遅刻します」、「二時間遅れて行きます」と会社に電話を入れるようになった。
 それでも出勤できてはいたものの、だんだんと、身体を起こした後に頭痛や吐き気に襲われるようになった。会社に近付けば近付くほど、それは強くなっていき、出勤前に会社の目の前、道の反対側にあるコンビニのトイレで嘔吐する日々が続いた。コンビニまで辿り着けていたのはまだ良い方で、やがて駅のトイレで吐くようになり、ついには電車に乗ることもできなくなった。
 ある朝、何度も鳴り響くアラームをやっと止め、なんとか力を振り絞って身体を起こしたその途端、「どうせ吐いてしまうのだから」と、しばらく何も食べていなかったにも関わらず、喉をせり上がってくる胃液を堪え切れずに床にぶちまけて、零果はそこで初めて、「もう仕事に行くのはやめよう」と思って、泣いた。
 病院へ行ったらうつ病だと診断された。事情を聞いた上司からは休職を勧められ、驚くほど簡単に手続きが進み、会社に行かなくて済むことになった。
 最初は、休めることにほっとした。休職したことによって初めて、零果は自分が仕事を休みたいと思っていたことに気が付いた。そのくらい、当時は激務だったのだ。
 毎日のように遅くまで残業し、それでも仕事が終わらないことが不思議だった。休日を返上して、やっと一週間分の業務がすべて片付いたと思ったその翌日には、また月曜日がやって来て、新しい一週間が始まる。ただそれの繰り返しだった。終わりの見えない日々。どうしてこんなに仕事があるのか。一体、どこから仕事がやって来るのか。デスクに積まれた書類がちっとも減っていかない。こなしてもこなしても、また新しい書類が重ねられていく。
 当時は、部署の垣根を越え、商品管理部と協力して新しい管理システム、物流システムを構築する作業に明け暮れていた。自分の本来の職種がなんだったのかを忘れそうになるほど、毎日違う部署へ顔を出し、社内を走り回り、自分のデスクに戻って来るともう夜になっていた。書類を捌く時間などなかった。
 毎日、缶コーヒーを何本も飲んだ。頭痛薬を飲むのももはや習慣になっていた。それでも働き続けていた。苦労はあった。つらいと思う時もあった。しかし、達成感や充足感もあった。新しく、ゼロから何かを作り上げていくというのは面白かった。そう、零果にとって仕事は、ただ苦痛な作業という訳ではなかった。日々の業務に自分の生き甲斐を見出していたのは確かだ。だからこそ、彼女は働き続けることができたのだ。しかし、心が折れるよりも先に、音を上げたのは身体の方だった。
 会社を休んでいる間、なんの気力も湧かなかった。ベッドから起き上がれないほどの倦怠感や吐き気は少しずつ改善されていき、日常生活が難なく送れるようになっても、毎日毎日、有り余る時間をどう過ごしていいのか、わからないままだった。もともと零果は、友人が多い訳でも、熱中している趣味がある訳でもなかった。休日って、何をして過ごしていたんだっけ。手持ち無沙汰から始めた家の掃除も、二週間もすれば家じゅうピカピカになり、磨くところがなくなった。やりたいことが何ひとつ思い浮かばなかった。これなら仕事をした方がマシだと、何度も思った。
 有武朋洋から連絡が来るようになったのは、そんな時期だった。
 零果は彼の営業アシスタントを務めていた。すべての業務は桃山に引き継いだはずだったが、それでも有武はときどき、過去の書類やデータについて、休職中の零果に質問をよこした。
 そして、零果が毎日時間を持て余していると知ると、遠慮なく頻繁に連絡して来るようになった。内容は、半分は業務に関する話題で、残り半分は職場での愚痴か、他愛のない雑談だった。どう考えても今は勤務中だろうという時間帯に電話がかかってきて、課長への文句を一方的に延々と聞かされたこともあれば、休日の夜に、どうしたら業務が改善できるか、解決策をふたりで二時間も話し続けたこともあった。
「電話でずっとしゃべるくらいなら、いっそ会おうか」という話になり、カフェで会ってお茶をしたこともあった。どういう訳か、実際に顔を合わせると、お互いなんとなく口数が少なくなり、たいした話はできなかった。しかし、その時の沈黙が、決して居心地の悪いものではなく、零果と有武はその後、ときどき一緒に食事をするようになった。
 営業アシスタントをしていた頃は、有武とプライベートで会うなんて一度もなかった。零果は休日もほとんど返上して働き詰めだったので、そもそもプライベートがないようなものだったし、それは有武も同じだった。ふたりはほぼ毎日顔を合わせる羽目になっていた。
 しかし、仕事の話を抜きにして有武と向き合う時間は、それまでとはまた違う空気が流れていた。
 零果が休日にコーヒーを飲むようになったのも、彼に喫茶店に連れられて行ったのがきっかけだった。
「誰も知らないような店で美味いコーヒーをひとりで飲む時間って、贅沢なんだよな」
 そう言う有武は、いつにも増してハイペースに煙草を吸っていた。最近は飲食店でも全面禁煙の店が増えたが、昔ながらのその喫茶店は、全席喫煙可能だった。零果からすれば、彼はコーヒーを飲みに来たというよりも、煙草を吸うためにこの店に来たとしか思えなかった。
「……良かったんですか、私を連れて来て」
「何が?」
「誰も知らないような店を私に教えて、美味いコーヒーをひとりではなく、ふたりで飲むことになっていますが」
 零果がそう指摘すると、いつものように有武は小さく鼻で笑った。
「加治木さんはいいんだよ。俺にとって特別な人だから」
 そう言われて、自分はなんて返事をしたのか。零果はもう思い出すことができない。
 しかし、それから彼女の脳内には喫茶店リストが作られ、休日にコーヒーを飲むための店を選ぶようになった。あの日に有武が言ったように、誰も知らない店でコーヒーをひとりで飲む時間が、彼女にとって何よりも特別な時間となった。
 半年間の休職ののち、零果は復職した。だがしかし、元のデスクに戻ることは叶わなかった。
 営業アシスタントとしてではなく、事務職としての復帰。
 総務や人事を含め、それが零果に関わるすべての上司や上層部が下した決断だった。休職前より残業時間が少ない部署に異動することに主治医も賛成していたし、彼女自身も最終的にはその異動に同意した。一度、心身のバランスを崩した人間が以前と同じように働くことができるとは思っていなかったし、休職したまま二度と職場に顔を出すことなく辞めていくことになった同僚がいることも知っていた。復職できただけ、自分は幸運な方だと思った。
「どんな形であれ、加治木さんがこの会社に帰って来てくれて、本当に良かったよ」
 すでにふたりの営業マンのアシスタントを務め、さらに有武の業務も担当することになったにも関わらず、桃山美澄は本心から出た言葉のような、穏やかな口調でそう言った。
 零果の復職後、昼の休憩時間に廊下の端の自動販売機の前で偶然出会い、ふたり揃って同じ缶コーヒーを飲んでいる時だった。
「ご迷惑をおかけしてすみません」
「迷惑だなんて思ってないよ。それに、迷惑をかけてるのはむしろこっちだよね」
 桃山は困ったような表情をして、少しだけ微笑んだ。その仕草はどこか、少女のようだ。
「有武くん、変わらず加治木さんに仕事を頼んでるでしょ。ごめんね」
 そう言われて、今度は零果が困った顔をする番となった。
 納得して受け入れた部署異動だったが、どうしても納得してくれないのが有武だった。彼は事務職として復職したはずの零果に、営業アシスタントとしての仕事を振ってきた。最初は、自分はもうアシスタントではないと抗議していたが、もともと、彼は零果の言葉を聞くような人間ではない。何度説明しても有武が納得することはなく、やがて零果も諦めた。
 まだ慣れない事務職としての業務に加えて、有武からの無茶���りとも思える依頼は、部署異動した意味を台無しにしているような気もしたが、しかし、彼が回してくる雑務の量や求められている質に、零果への気遣いを感じたのも確かだった。
「加治木さんは俺のアシスタントだよ」
 いつだったか、有武は煙草を吸いながらそう言った。その日も、彼は外階段にいて、零果は煙草を吸う訳でもないのに隣にいた。もう何度も、その言葉を聞いた。もうあなたのアシスタントじゃない、あなたの仕事は手伝えない。そう訴える度、彼は必ず、その言葉を返した。
「そもそも、俺を営業部に異動させたのは加治木さんでしょ」
 そんなことない、自分はそんなことをしていない。零果はいつだって真剣に反論したが、有武はいつも、小さく鼻で笑うだけだった。それは彼の癖だ。零果は知っている、彼が鼻で笑うのは、上機嫌な時だけだ。
「俺が営業部にいる限り、俺のアシスタントは加治木さんだよ」
 地獄にまで道連れにされそうな、そんな言葉に零果は肩を落とすしかなかった。でもこの言葉に、ずっと励まされてきたのも事実だ。
 もしも有武がいなかったら、自分の担当が彼ではなかったら、休職中に連絡をくれなければ、零果は仕事に復帰することができずに、そのまま退職していたかもしれない。復帰できていたとしても、事務職としての仕事だけをこなす日々では、いずれこの会社を辞めていたのではないか、と思う。どんな形であれ、自分を必要としてくれる存在がいるということが、現在の零果を繋ぎ留めていた。それがなければ、自分はもうとっくに千切れてバラバラになっているだろう。
 有武は――鋭い眼光を放つ、あの澄んだ瞳で――、そのことを見透かしているように、零果は思う。彼は零果の性質を理解していて、その上で、彼女のために手を伸ばしてくれている。一緒にいるとそう感じる。それが彼なりの優しさなのだとわかる。だから、零果はその期待に応えたいと思うのだ。そして、それが難しいという現実に、いつも少なからず絶望する。彼の優しさに報いることができない自分を見つめては、無能感に苛まれる。
 どんなに頑張っても、私はもうこの人のアシスタントではない。
 それだけの事実に、打ちのめされてしまう時がある。
 身体を壊さなければ良かった。うつ病になんかならなければ良かった。ずっと頑張ってきたのに。思い出すこともできないほど、忙しい日々を送っていたのに。頑張れなかった。最後の最後まで、頑張ることができなかった。あんなに苦労して作り上げた新しいシステムも、完成まで携わることが叶わなかった。あれは、まだ有武が商品管理部にいた時に考案したものだ。そのシステム実現のため、彼は営業部に異動した。零果はその当初から、最も近くで彼を見てきた。慣れない営業職の仕事に苦悩する彼を知っていたのに。本来ならば、もっともっと、一緒に仕事ができたはずなのに。
 零果のそういう自責の念を、恐らく有武は見抜いている。だから彼は、今でも零果に依頼するのだ。寄り添うように、励ますように。彼女の心が折れないように。彼女との繋がりが、断たれることがないように。
 ピッ、という短い電子音の後、缶が落ちた音がした。自動販売機から見慣れた黒一色のパッケージの缶コーヒーを取り出し、プルタブに指をかけた時だった。
「お疲れ様」
 そう声をかけられ、零果は振り返る。戸瀬健吾だった。
 彼の腕には上着と鞄がある。外回りから帰社したところなのか、それともこれから退社するところなのか、零果には判別がつかない。今の時刻は十九時四十分で、定時である十七時はとっくに過ぎてはいるが、営業部はこの時間帯に外出先から戻って来ることも珍しくはない。
 零果が「お疲れ様です」と挨拶を返すと、戸瀬はいつもの穏やかな笑みで「いやー、疲れちゃったなぁ」と言った。その声には本当に疲労の色が滲んでいる。どうやら今、会社に戻って来たところのようだ。
 戸瀬がポケットに手を入れた動作を見て、零果は自動販売機の前から場所を譲る。案の定、取り出したのは小銭入れで、彼は移動した零果に礼を言いながら自販機へと硬貨を投入した。
「加治木さんって、いつも遅くまで仕事頑張ってるよね」
「そんなことはありません」
「そう? 頑張ってると思うけどな」
 ピッ、と電子音が鳴る。戸瀬の指先が選んだのは、今日の昼にもらったのと同じカフェラテだった。このカフェラテが好物だと言っていたっけ。そう言えば、あの時の詫びを、まだ伝えていなかった。零果は心に貼り付けたまま忘れそうになっていた、黄色い付箋を思い出す。
「今日は、すみませんでした」
「え?」
 突然の謝罪の言葉に、戸瀬は目を丸くした。
「お昼に、私のことを気遣ってくださったのに、仕事の手も止めず……それが申し訳なくて……」
「あ、ああ、なんだ。そんな、気にしなくていいのに」
 戸瀬は再び笑顔に戻り、穏やかな口調で言う。
「俺の方こそ、ごめんね。忙しいタイミングで声かけちゃったみたいで」
「いえ、戸瀬さんは悪くないです」
 零果は首を横に振る。それから、彼の手の中にある缶を見やり、あの時もらったカフェラテのお礼を、どう伝えるべきか悩んで口をつぐんだ。まさか有武にあげてしまったと言う訳にはいかないが、あたかも自分が飲んだかのように話すのも憚られる。零果は、コーヒーは無糖のブラックしか口にしない。カフェラテも決して飲めない訳ではないが、元来、甘いコーヒーは好きではない。しかし、そんな好き嫌いを伝える訳にもいかない。
 どうしたものかと思案する零果を、戸瀬は変わらず人当たりの良い笑顔のまま、どこか不思議そうに見つめている。微かに口元から覗く歯の白さ。どうしてそんなに歯が白いんだろう。ホワイトニングでもしているのだろうか。テレビのアナウンサー顔負けの歯の白さだ。
 零果は無意識のうちに、有武の黄ばんだ歯を思い出していた。あれはきっと、ヘビースモーカー特有の歯だ。
 戸瀬と有武は、まったく違う。戸瀬は、髪型が整っていて、髭もなく、見た目に清潔感がある。近付くと、ほのかに柔軟剤のような良い香りがする。零果は戸瀬が事務員の中で「王子」というあだ名で呼ばれているのを知っているが、そう呼ばれるのも納得できる。外見だけではなく、人当たりも良いし、穏やかで、丁寧だ。営業部での成績も良い。
 それに比べて、有武は、不潔で、臭くて、がさつだ。思い付くアイディアは革新的だが、発想が常人離れしていて、たいていの人間はその思考の飛躍について行けない。彼の提案には、それを裏付けるための膨大な資料や説明する時間が必要となる。彼が考案した新システムも、社内で導入されるまでかなりの時間と労力が費やされた。普段の突飛な言動も相まって、商談の成功率はまちまちだ。営業先では彼を気に入っていると言う顧客もいるらしいが、社内での評判はあまり良くない。戸瀬を見ていると、同じ営業部二課所属でも、有武はこうも違うものかと、そんな余計なことをつい考えてしまう。
「加治木さんって、俺のことすごく真っ直ぐ見つめてくれるよね」
 そう言われて、零果はあまりにも戸瀬をまじまじと見つめていたことに気付く。慌てて謝った。
「すみません……」
「謝ることないよ。でも、あんまり見つめられると、ちょっと恥ずかしいかな」
 戸瀬はいたって穏やかに笑っている。あまりにも爽やかで、嫌味など微塵も感じさせない笑顔。この笑顔に惚れ惚れする女もさぞ多いことだろうな、と零果は思った。ファンクラブができるのも頷ける。
「加治木さん、もし良かったらなんだけど、今度の土日――」
 戸瀬が言いかけた、その時。
 スマートフォンの着信を知らせるバイブレーションが、人気のない廊下に静かに響き渡る。それは零果のスマホだった。制服のポケットに入れていたそれを取り出し、画面に表示されている発信者の名前を一目見て、彼女は頭を抱えたくなる。
 今日は会議があって、その後は会食だと言っていた。時間帯から考えれば、今頃は先方と食事をしているはずだが、それでも電話をかけてくるというのは、何か緊急事態なのか、忘れていた仕事を思い出したか、そのどちらかではないか。そして、そのどちらだとしても、何か今から厄介ごとを頼まれる予感しかない。今日はそろそろ仕事を終えて帰れると思っていたのに。否、会社を出てから仕事を頼まれるよりは、まだマシかもしれない。
「出なくていいんじゃない?」
 戸瀬はそう言った。その声音の固さに、零果は驚いた。彼の表情からはいつの間にか、笑顔が消えていた。
「電話、有武さんからでしょ? また何か、仕事を押し付けようとしているんじゃない? 加治木さんはもう、アシスタントじゃないんだよ?」
 戸瀬は真剣だった。零果にはそれがわかった。彼が言っていることが何ひとつ間違ってなどいないということも、わかっていた。それでも、と思うこの気持ちを、どう説明したらいいのだろう。間違っているのは自分だ。それもわかっている。だけど、構わない。零果は画面に表示されている「応答」の文字に指を滑らせた。
「すみません、戸瀬さん。失礼します」
 そう小声で告げて、零果は踵を返した。「加治木さん!」と、戸瀬が呼んだのが聞こえたが、振り返ることはしなかった。スマートフォンを耳に当てながら、自分のデスクがある事務部フロアへ続く廊下を小走りに駆ける。
「お疲れ様です。加治木です」
 覚悟はできている。たとえこの後、どんな無茶苦茶な依頼をされようとも、必ずそれを成し遂げてみせる。
 今まで、そうやって仕事をしてきた。これからも、そうやって仕事をするのだ。ふたりで、一緒に。
 休日に喫茶店へ行くことは、加治木零果にとって唯一、趣味と呼べる行動だ。喫茶店で一杯のコーヒーを飲む。ただそれだけの時間を楽しむ。
 喫茶店へ誰かと連れ立って行くようなことは、普段は決してないのだが、ときどき、それは本当にときどき、誰かと向かい合ってコーヒーを飲むことがある。
 その喫茶店は開店直後だった。営業時間は、午前六時四十五分から。零果がその店に入ったのは、朝七時を回ったところだった。オープン直後である。土曜の朝、客として店にいるのは、ウォーキングの後とおぼしき中年の夫婦が一組。それ以外の客は、昨日から徹夜して働き続けて疲れ果てている零果と、彼女と同じかそれ以上にくたびれた様子の有武朋洋だけだ。
「……こんなに朝早くから営業してる喫茶店なんて、よく知ってましたね」
 零果は目の前に置かれたコーヒーカップを見下ろしたままそう言ったが、向かい合って座っている有武は、まだ火の点いていない煙草を咥えたまま、返事もしなかった。椅子の背にもたれかかって、ただ天井を仰いでいる。
 カップへと手を伸ばす。零果が注文したのはグアテマラだった。有武のカップに注がれているのはキリマンジャロだったはずだ。喫茶店に足を運ぶようになった当初、零果は豆の違いなどまったくわからなかった。いろんな店で飲み比べた結果、なんとなく味の違いがわかるようになってきた。
「……もう、徹夜はしんどいなぁ」
 零果がコーヒーを飲みながらひと心地ついていると、ぴくりとも動かなかった有武が唐突にそう言って、やっと、右手に握っていたライターで咥えていた煙草に火を点けた。目の下の隈がひどいな、と零果は彼の顔を見て思ったが、今の自分も同じくらいひどい顔をしているのだろうと思って、口には出さなかった。
「何も、徹夜してまで資料作らなくても、良かったんじゃ……」
「でも俺、来週は出張でいないからさ」
 今のうちに作業しておかないと。煙を吐きながら、有武はそう言った。
「だからって……無理に今日作らなくても……」
 そう言いながらも、零果はさっきまでふたりで行った作業のことを思い出していた。徹夜したとはいえ、ふたりだったから、この時間で終わったとも言える。もしも来週、出張先の有武からひとりでこの資料を作るようを��じられていたら、零果も途方に暮れていただろう。
 否、彼女がひとりではできないと踏み、彼はそんな指示を出さないかもしれない。有武がひとりきりで資料を作る……というのもまた、不可能だろうから、アシスタントである桃山に依頼することになるのだろう。彼女であれば、零果よりも短時間で資料作りを完遂させそうだ。
 だったら最初から、桃山さんに依頼すればいいのに。なんて言ったら、有武はなんて返事をするだろう。
 昨夜、有武から零果にあった着信。会食の後、そのまま帰宅するはずだった彼は、会社へ戻って来た。新しい商品のアイディアを、突然思い付いたのだと言う。そのプレゼンテーションのための資料を今から作るから、手伝ってくれ。有武はそう言った。時刻は夜の八時に近かった。金曜の夜だった。一週間働いて、疲れ果てていた。けれど零果は、彼の言葉に頷いた。そうして、ふたりで作業をしているうちに、夜は明け、朝になった。
 何も今やらなくても。零果は何度か、そう言った。しかし、有武が考え付いたことをすぐに形にしたがる性格だということは、もう長い付き合いでわかっていた。今まで何度も、こういう夜があった。休日に突然、呼び出されることもあった。今からですか、今じゃなきゃいけませんか、私じゃないと駄目なんですか。何度も、そう尋ねた。答えはいつだって同じだった。
「どうしても今日、やりたかったんだよねー。加治木さんと、一緒にね」
 ずっと天井を仰いでいた有武が、ゾンビのように身体を起こす。澄んだ瞳が零果を見る。目が合いそうになって、思わず零果は目線を逸らした。相変わらずその瞳は、まっすぐ見つめるのも躊躇するような輝きを感じさせる。しかし、これって自分だけなんだろうか。一体、いつから、自分は有武の目を見ることが苦手になったのだろう。
「今日、加治木さん、元気なかったでしょ」
 そう言われて、そうだっけ、と零果は記憶を辿る。今日、ではなく、正確には昨日だが、眠らないでいるといつまでも「今日」という日が終わらない感覚は、零果も有武も同じようだ。
 そうだった、外階段で煙草を吸っていた有武と話した時、確かに落ち込んでいた。同僚たちの陰口を聞いてしまい、食欲もなかった。零果自身は、もうそんなことは忘れていた。けれど彼は、それを心配してくれていたのか。
「加治木さん、仕事頼んだら元気になってくれるかなって思ってさ」
 有武は、そこでやっと自分のコーヒーカップへと手を伸ばした。もうとっくに冷めてしまっているはずだが、キリマンジャロを美味そうに飲む。
「……は?」
 対する零果は、有武の発言に呆然とするしかない。励ますために、仕事を頼んだとでも言うつもりなのだろうか。そのために、今さっきまで仕事をしていたのか? 徹夜してまで? 朝の六時まで?
 しかし、有武の口調は大真面目だった。
「俺が加治木さんにしてあげられることなんて、仕事を依頼することぐらいだから」
 あとは、たまにこうして、一緒にコーヒーを飲むことくらいか。そう付け加えるように言った声音に、零果を案ずる感情が含まれていることに気付いて、文句を言うために開きかけた口を、静かに閉じる。徹夜作業に付き合わせた言い訳に、「励ましたかったから」と言っている訳ではない、ということはわかっていた。
 どうして自分は、この人から離れられないのだろう。
 仕事なんて断ればいいのに。上司にも、同僚にも、ずっとそう言われてきた。自分だってそう思う。定時を過ぎての残業も、休日出勤も、徹夜作業も、全部断ればいい。それだけのことだ。
 それでも、一緒に仕事をしたいと思う。
 彼の助けになれたら、と思う。
 それが無茶苦茶な依頼であっても、一緒に働くことが楽しいと思える。
 身体を壊す前も、そうだった。楽しかったからこそ、身体を壊したのかもしれない。きっと苦痛であったのであれば、もっと早くに音を上げていて、休職するほどにまで自分を追い込まなかっただろう。そう、心身を病んだ時、零果はただの一度も、有武を恨まなかった。彼の仕事の振り方が問題なのだとは思わなかった。一緒に仕事ができたことに感謝したいくらいだった。そのくらい、刺激的な日々だった。もっとも、有武に感謝の気持ちを伝えたことなどないが。
「……今度、焼き肉に行きませんか」
 零果は喫茶店の窓の外を見つめ、そう言った。窓の外には静かな土曜日の朝の光景が広がっている。通りはまだ人もまばらだ。老人に連れられたマルチーズが毛足の長い綿毛みたいに、もしゃもしゃと道路を歩いて行く。
「有武さんに焼き肉を奢ってもらったら、元気が出るかもしれません」
 零果の言葉に、有武は鼻で笑った。機嫌が良いのだ。わざわざ顔を見なくてもわかる、彼は今、楽しそうに笑っている。
「焼き肉でも寿司でもいいよ。今度一緒に、飯でも行こう」
 加治木さんは少食だから、俺の方が食っちゃって、割り勘だと割に合わないから、結局俺が奢ることになりそうだなぁ。ぼやくようにそう言いながら、有武の目線もいつの間にか、窓の外のマルチーズに向けられていた。
 ふたりはしばらく、陽の当たる道を綿毛の化身のような犬が遠ざかっていくのを見つめていたが、やがて老人と犬が曲がり角の向こうに見えなくなると、お互い、目線を室内へ戻し、顔を見合わせた。
 今度こそ、目が合う。
 咄嗟に目を逸らそうとする零果よりも先に、有武が座席から身を乗り出した。目の前にまで迫って来た彼から、零果は飛び上がるように大きく身を引いて逃げる。その様子に、有武はぷっ、と吹き出した。零果は完全に顔を背けたまま、しかめっ面をして無言で怒っていた。
 有武は「ごめん、ごめん」と笑いながら、煙草を持っていない方の手を横に振った。
「加治木さんは本当にさぁ、俺と目を合わせてくれないよねぇ。昔からそうだよね」
「……恥ずかしいんです」
「まぁ、俺はそんな加治木さんが好きだけどね」
 煙を吐きながらそう言って、有武は短くなった煙草を灰皿に押し付けた。自分のコーヒーカップを持ち上げながら、零果のカップをちらりと見やる。その中身がほとんどなくなっているのを見て、「じゃあ、それ飲んだら出ようか」と、有武は言う。
「……あの、」
「ん?」
「コーヒー、もう一杯飲んでもいいですか」
 そう言う零果は、テーブルの上のメニューへ目線を向けている。でも実際に、メニューの文字を読んでいる訳ではない。次に頼むコーヒーをどれにするか、思案している訳でもない。
 有武はしばし、そんな零果の横顔を見つめていた。一見、表情の読めない彼女の顔を、じっと見つめた後、彼は口元まで運んでいたコーヒーカップを、そのままソーサーの上へと戻した。そうして、作業服の胸ポケットから煙草を一本取り出して咥えた。
「じゃ、もう少し、ここにいようか」
 零果が小さく頷いたのを見届けてから、煙草に火を点ける。
 有武は零果の思考を、果たして読み取ったのだろうか。何も言わなくても感じ取ったかもしれない。そのくらいは聡い男だ。微かに緩んだように見えるその表情は、この時間が決して苦痛ではないという証拠だろう。徹夜明けで疲れ切っていても、早く帰りたいと言わないのは、お互い同じ感情だからだと、そう思うのは傲慢だろうか。
「すみません」と、零果が店員を呼んだ。追加のコーヒーを注文するためだ。店の奥から、店員の「少々お待ちください」という声が返って来る。
 喫茶店では一杯のコーヒーを飲んだら、すぐに店を出る。それが彼女のルールだった。どんなに美味でも、二杯目を頼むことはない。だが時には例外があっても良いだろう。コーヒーを二杯、飲んだっていい。特別な相手と一緒にいる時だけは。
 ふたりで喫茶店へ行くのも、良いかもしれないな。
 零果は疲れ果てた頭の片隅で、そんなことを考える。
 休日はふたりで喫茶店へ行く。新しい趣味にどうだろう。「それは趣味なのか?」と、有武はきっと、笑うだろう。いつものように、鼻で笑うのだ。でも決して、悪くはない。
 頭の中の喫茶店リストを開き、もしも一緒に行くとしたら、どの店にしようか、なんて考える。美味しいキリマンジャロを出す店を、それまでに見つけなくちゃ。心の中の水色の付箋にそれを書く。その水色は、窓の向こうに見える空の色だ。ふたりで徹夜して、迎えた朝の空の色。それはとても澄んでいて、もう一度見たいと思える色。
 またこうして、一緒に働けて良かった。
 いつかそのことを、本人に伝えよう。
 そう思いながら、零果はその水色の付箋を、自身の心にそっと貼り付けた。
 了
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kurihara-yumeko · 1 year ago
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【小説】コーヒーとふたり (上)
 休日に喫茶店へ行くことは、加治木零果にとって唯一、趣味と呼べる行動である。
 喫茶店へ行き、コーヒーを飲む。時刻はだいたい午後二時から三時。誰かと連れ立って行くことはない。常にひとりだ。行き先も、決まった店という訳ではない。その時の気分、もしくはその日の予定によって変える。
 頼むのは、コーヒーを一杯。豆の銘柄やどのブレンドにするかは店によってだが、基本的にブラック。砂糖もミルクも好まない。軽食やスイーツを注文するということも滅多にない。ただ一杯のコーヒーを飲む、それだけ。
 彼女は喫茶店では本を読まないし、パソコンも開かない。スマートフォンにさえ触れないこともある。コーヒーを飲み終えたら、すぐに店を出て行く。たとえその一杯がどんなに美味でも、二杯目を頼むことはない。時間にすればほんの数十分間。一時間もいない。それでも彼女は休日になると、喫茶店へ行き、コーヒーを飲む。
 零果がその店を訪れたのは二回目だった。最初に訪れたのは���かれこれ半年近く前のことだ。
 たまたま通りかかった時にその店を見つけた。「こんなところに喫茶店があったのか」と思った。喫茶店があるのは二階で、一階は不動産屋。賃貸マンションの間取り図がびっしりと貼り付けられているガラス窓の隣に、申し訳なさ程度に喫茶店の看板が出ていた。
 細く狭い階段を上った先にその店はあり、店内は狭いながらも落ち着きのある雰囲気だった。歴史のある店なのか、年老いたマスター同様に古びた趣があるのが気に入った。コーヒーも決して不味くはなかった。出されたカップもアンティーク調で素敵だと思った。
 しかしその後、零果の喫茶店リストの中で、その店はなかなか選ばれなかった。その店の立地が、彼女のアパートの最寄り駅から微妙に離れた駅の近くだったからだ。「わざわざあの駅で降りるのはちょっとな……」と思っていた。けれど、最近同じ店に行ってばかりだ。今週末は、普段あまり行かない店に行こう。それでその日、その店を選んだ。
 けれど、その選択は失敗だった。
「あれ? 加治木さん?」
 そう声をかけられた時、零果は運ばれて来たばかりのコーヒーをひと口飲もうとしているところだった。カップの縁に唇を付けたまま、彼女はそちらへと目を向ける。
 その人物はちょうど、この店に入って来たところだった。そして偶然にも、零果は店の入り口に最も近い席に案内されていた。入店して真っ先に目につく席に知人が座っているのだから、彼が声をかけてきたのは当然と言えば当然だった。しかし、零果は彼――営業部二課の戸瀬健吾に声をかけられたことが衝撃だった。
「こんなところで会うなんて、奇遇だね」
 戸瀬はいつもの人当たりの良い笑みを浮かべてそう言ったが、零果は反応できなかった。驚きのあまり、何も言葉が出て来ない。しかし彼女の無言に気を悪くした様子はなかった。
「俺はよくこの店にコーヒーを飲みに来るんだけど、加治木さんもよく来るの?」
 笑顔で尋ねてくる戸瀬に、零果はカップを口元から離してソーサーの上へと戻しながら、「いえ、その……たまに……」と、かろうじて答える。この店に来たのは二度目だったが、そう答えるのはなんとなく抵抗があった。あまり自分のことを他人に明かしたくない、という彼女の無意識が、曖昧な表現を選んでいた。
「そうなんだ。ここのコーヒー、美味いよね。あ、じゃあ、また」
 やっと店の奥から店員が現れ、戸瀬は空いている席へと案内されて行った。幸いなことに、彼の席は零果から離れているようだ。大きな古めかしい本棚の向こう側である。
 戸瀬の姿が見えなくなってから、零果はほっと息をついた。休日に同僚と顔を合わせることになるとは、なんて不運なのだろう。その上、場所が喫茶店だというところがツイていない。
 改めてコーヒーを口元へ運んだが、未だ動揺が収まらない。半年前に来店した時は悪くなかったはずのブルーマウンテンブレンドだが、戸瀬の顔を見た後の今となっては、味の良し悪しなどわからなかった。香りも風味も台無しだ。コーヒーカップのブルーストライプ柄でさえ、「さっき彼が似たような柄のシャツを着ていなかったか?」と思うと途端にダサく思えてくる。
 それに加えて、戸瀬は先程、こう言った、「俺はよくこの店にコーヒーを飲みに来るんだけど、加治木さんもよく来るの?」。
 その言葉で、彼女の喫茶店リストから、この店が二重線を引かれ消されていく。
 同僚が常連客となっている喫茶店に足を運ぶなんて御免だ。二度目の来店でその事実を確認できたことは、不幸中の幸いだったと思うしかない。数回通い、この店で嗜むコーヒーの魅力に気付いてしまってからでは、店をリストから削除することが心苦しかったはずだ。ある意味、今日は幸運だった。この店は最初からハズレだったのだ。
 零果は自分にそう言い聞かせながらコーヒーを飲む。味わうのではなく、ただ飲む。液体を口に含み、喉奥へと流す。せっかく、いい店を見つけたと思ったのに。うちの最寄りから、五駅離れているのに。飲み込んだ端から、落胆とも悔しさとも区別できない感情がふつふつと沸き上がってくる。その感情ごと、コーヒーを流し込む。
 早くこの店を出よう。零果は、一刻も早くコーヒーを飲み干してこの店を出ること、そのことに意識を集中させていた。
 コーヒーを残して店を出ればいいのだが、出されたコーヒーを残すという選択肢はなかった。彼女は今まで、たとえどんなに不味い店に当たってしまっても、必ずコーヒーを飲み干してきた。零果にとってそれはルールであり、そのルールを順守しようとするのが彼女の性格の表れだった。
 先程入店したばかりの客が熱々のコーヒーを急いで飲み干してカウンターの前に現れても、店の主人は特に驚いた様子を見せなかった。慣れた手つきで零果にお釣りを渡す。
「ごちそうさまでした」
 財布をショルダーバッグに仕舞いながら、零果は店を出て行く。「またのお越しを」という声を背中で受け止め、もう二度とこの店に足を運ぶことはないだろうな、と思い、そのことを残念に思った。深い溜め息をついて階段を降り、駅までの道を歩き出す。
 店の雰囲気は悪くなかった。コーヒーだって悪くない。ただ、戸瀬の行きつけの店だった。
 否、それは戸瀬個人に問題があるという意味ではない。彼の物腰柔らかで人当たりの良い態度や、その温厚な性格は職場内でも定評があるし、営業職としての優秀さについても、零果はよくわかっている。
 そうではなく、零果はただ、同僚に会いたくないだけなのだ。休日に喫茶店でコーヒーを飲んでいる時だけは。唯一、彼女にとって趣味と呼べるであろう、その時間だけは。知り合いには誰とも会うことなく、ひとりでいたい。平日の書類とメールの山に抹殺されそうな多忙さを忘れ、心も身体も落ち着かせたい。そのためには極力、同僚の顔は見ないで過ごしたい。
 駅に着くと、ちょうど零果のアパートの最寄り駅方面へ向かう電車が、ホームに入って来たところだった。このまま家に帰るだけというのも味気ない、と思いかけていた零果であったが、目の前に停車した電車を目にし、「これはもう、家に帰れということかもしれない」と思い直した。もうこの後は、家で大人しく過ごすとしよう。
 そう思って、電車に乗り込む。車両の中にはすでに数人の乗客が座っており、発車までの数分を待っている様子であった。零果は空いていた座席に腰を降ろそうとし、そこで、自分の腰の辺りで振動を感じた。バッグに入れてあるスマートフォンだ、と気付いた。その一瞬、彼女はスマホを手に取ることを躊躇った。
 バイブレーションの長さから、それがメールやアプリの通知ではなく着信を知らせるものだということはわかっていた。休日の零果に電話をかけてくる相手というのは限られている。候補になりそうな数人の顔を思い浮かべてみたが、誰からの着信であっても嬉しいニュースであるとは思えない。
 座席に腰を降ろし、スマートフォンを取り出す。そこで、バイブレーションは止まった。零果が呼び出しに応じなかったので、相手が電話を切ったのだ。不在着信を示すアイコンをタップすると、発信者の名前が表示された。
 有武朋洋という、その名前を見た途端、めまいを覚えた。ちょうど、午後四時になろうとしているところだった。判断に迷う時間帯ではあったが、この電話は恐らく、今夜食事に誘おうとしている内容ではないだろうと、零果は確信していた。
 膝の上でショルダーバッグを抱き締めたまま、メッセージアプリを開き、有武に「すみません、今、電車なんです」とだけ入力して恐る恐る送信する。瞬時に、零果が見ている目の前で、画面に「既読」の文字が現れた。恐らくは今、彼もどこかでこのアプリを開いて同じ文面を見つめているに違いなかった。案の定、間髪入れずに返信が表示される。
「突然悪いんだけどさ、ちょっと会社来れる?」
 零果が思った通りだった。有武の、「悪いんだけどさ」と言いながら、ちっとも悪びれている様子がない、いつものあの口調を思い出す。
「今からですか?」
 今からなんだろうな、と思いながら、零果はそう返信する。
「そう、今から」
「今日って休日ですよね?」
 休日でも構わず職場に来いってことなんだろうな、と思いながら、それでもそう返信をせずにはいられない。
「そう、休日」
 何を当たり前のこと言ってんだよ、って顔してるんだろうな、有武さん。少しの間も空けることなく送られて来る返信を見ながら、零果は休日の人気がないオフィスでひとり舌打ちをしている彼の様子を思い浮かべる。
「それって、私が行かないと駄目ですか?」
 駄目なんだろうな、と思いながらそう返信して、座席から立ち上がる。
 駅のホームには発車のベルが鳴り響いている。零果が車両からホームに戻ったのは、ドアが閉まりますご注意下さい、というアナウンスが流れ始めた時だった。背後で車両のドアが閉まり、彼女を乗せなかった電車は走り出していく。
 家に帰るつもりだったのにな。零果は諦めと絶望が入り混じった瞳でその電車を見送った。握ったままのスマートフォンの画面には、「加治木さんじゃなきゃ駄目だから言ってるんでしょーよ」という、有武からの返信が表示されている。
「…………ですよね」
 思わずひとり言が漏れた。ホームの階段を上りながら、「今から向かいます」と入力し、文末にドクロマークの絵文字を付けて送信してみたものの、有武からは「了解」という簡素な返信が来ただけだ。あの男には絵文字に込められた零果の感情なんて届くはずもない。
 再び溜め息を盛大についてから、重くなった足取りで反対側のホームに向かう。なんて言うか、今日は最大級にツイてない。休日に、一度ではなく二度までも、同僚と顔を合わせることになるとは。しかも突然の呼び出しの上、休日出勤。
 ただひとりで、好きなコーヒーを飲んで時間を過ごしたいだけなのに。たったそれだけのことなのに。
 心穏やかな休日には程遠い現状に、零果はただ、肩を落とした。
「加治木さん、お疲れ様」
 そう声をかけられた時、思わず椅子から飛び上がりそうになった。咄嗟にデスクに置いてあるデジタル時計を見る。金曜日、午前十一時十五分。まだ約束した時間まで四十五分あるぞ、と思いながら零果は自分のデスクの横に立つ「彼」を見上げ、そこでようやく、声をかけてきたのが「彼」ではなく、営業部の戸瀬だったと気が付いた。
「あ……お疲れ様です」
 作成中の資料のことで頭がいっぱいで、零果は戸瀬に穏やかな笑顔を見つめられても、上手い言葉が出て来ない。五四二六三、五万四千二百六十三、と、零果の頭の中は次に入力するはずだった数値がぐるぐると回転している。キーボードに置かれたままになっている右手の人差し指が、五のキーの辺りを右往左往する。
 当然、戸瀬には彼女の脳内など見える訳もなく、いつもの優しげな口調で話しかけてきた。
「この間の土曜日は、びっくりしたね。まさかあんなところで加治木さんに会うなんて」
 土曜日、と言われても、零果はなんのことか一瞬わからなかった。それから、「ああ、そう言えば、喫茶店で戸瀬さんに会ったんだった」と思い出す。
「でも、聞いたよ。あの後、有武さんに呼び出されて休日出勤になっちゃったんだって? 加治木さん、いつの間にかお店から消えてるから、おかしいなって思ってたんだけど、呼び出されて急いで出てったんでしょ?」
 零果は思わず、返事に困った。急いで店を出たのは戸瀬に会って気まずかったからだが、まさか目の前にいる本人にそう伝える訳にもいかない。有武の呼び出しのせいにするというのも、なんだか違うような気もするが、しかし、戸瀬がそう思い込んでいるのだから、そういうことにしておいた方が得策かもしれない。
「えっと、まぁ、あの、そうですね」などと、よくわからない返事をしながら、零果の右手は五のキーをそっと押した。正直、今は戸瀬と会話している場合ではない。
「有武さんもひどいよね、休日に会社に呼び出すなんて。そも���も、加治木さんは有武さんのアシスタントじゃないんだから、仕事を手伝う必要なんてないんだよ?」
 戸瀬の表情が珍しく曇った。いつも穏やかな彼の眉間に、小さく皺が寄っている。本気で心配している、というのが伝わる表情だった。けれど今の零果は、「はぁ、まぁ、そうですよね」と曖昧に頷くことしかできない。四のキーを指先で押しつつ、彼女の視線は戸瀬とパソコンの画面との間を行ったり来たりしている。休日出勤させられたことを心配してくれるのはありがたいが、正午までにこの資料を完成させなければいけない現状を憂いてほしい。零果にはもう猶予がない。
「なんかごめんね、加治木さん、忙しいタイミングだったみたいだね」
 戸瀬は彼女の切羽詰まった様子に勘付いたようだ。
 こつん、と小さな音を立てて、机に何かが置かれた。それはカフェラテの缶だった。見覚えのあるパッケージから、社内の自動販売機に並んでいる缶飲料だとわかる。零果が見やると、彼は同じカフェラテをもうひとつ、右手に握っていた。
「仕事がひと段落したら、それ飲んで休憩して。俺、このカフェラテが好きなんだ」
 そう言って微笑む戸瀬の、口元から覗く歯の白さがまぶしい。「あ、あの、ありがとうございます」と零果は慌ててお礼を言ったが、彼は「全然いいよー」とはにかむように左手を振って、「それじゃ、また」と離れて行った。
 気を遣われてしまった。なんだか申し訳ない気持ちになる。恐らく戸瀬は、休日に呼び出され仕事に駆り出された零果のことを心から労わってくれているに違いなかった。そんな彼に対して、自身の態度は不適切ではなかったか。いくら切羽詰まっているとはいえ、もう少し仕事の手を止めて向き合うべきだったのではないか。
 そこで零果は、周りの女子社員たちの妙に冷たい目線に気が付いた。「営業部の戸瀬さんが心配して話しかけてくれているのに、その態度はなんなのよ」という、彼女たちの心の声が聞こえてきそうなその目に、身がすくむような気持ちになる。
 しょうがないではないか。自分は今、それどころではないのだから……。
 パソコンに向き直る。目の前の画面の数字に意識を集中する。しかし、視界の隅に見える、カフェラテの缶。それがどこか、零果の心にちくちくと、後悔の棘を刺してくる。あとで、戸瀬にはお詫びをしよう。零果はカフェラテを見つめながら、心に黄色い付箋を貼り付ける。それにしても、カフェラテというのが、また……。
「資料できたー?」
 唐突にそう声をかけられ、彼女は今度こそ椅子から飛び上がった。気付けば、側には「彼」が――日焼けした浅黒い肌。伸びすぎて後ろで結わえられている髪は艶もなくパサついていて、社内でも不評な無精髭は今日も整えられている様子がない。スーツを着用する営業職の中では珍しく、背広でもジャケットでもなく、作業服をワイシャツの上に羽織っているが、その上着がいつ見ても薄汚れているのがまた、彼が不潔だと言われる理由である。ただ、零果がいつも思うのは、彼は瞳が異様に澄んでいて、まるで少年のようであり、それでいて目線は鋭く、獲物を探す猛禽類のようでもある、ということだ――、有武朋洋が立っていて、零果の肩越しにパソコンのディスプレイを覗き込んでいた。
「あれ? 何、まだ出来てないの?」
 咄嗟に時刻を確認する。戸瀬に声をかけられてから、もう十分近くも経過している。なんてことだ。しかし、約束の時間まではあと三十五分残されている。今の時点で資料が完成していないことを責められる理由はない。それでも零果が「すみません」と口にした途端、有武は「あー、いいよいいよ」と片手を横に振った。
「謝らなくていいよ。謝ったところで、仕事が早く進む訳じゃないから」
 斬って捨てるような口調であったが、これが彼の平常だ。嫌味のように聞こえる言葉も、彼にとっては気遣って口にしたに過ぎない。
「時間には間に合いそう?」
「それは、必ず」
「そう、必ずね」
 零果は画面に向き直り、資料作りを再開する。ふと、煙草の臭いがした。有武はヘビースモーカーだ。羽織っている作業着の胸ポケットには、必ず煙草とライターが入っている。煙草臭いのも、社内外問わず不評だ。しかし有武本人は、それを変える気はないようである。
「うん……大丈夫そうだ。本当に、正午までには出来上がりそうだね。さすがだなぁ、加治木さんは」
 零果が返事もせずにキーボードを叩いていると、彼の右手が横からすっと伸びてきて、机の上のカフェラテの缶を取った。零果が「あ、それは……」と言った時、缶のプルタブが開けられた音が響く。
「これ、飲んでもいい?」
「…………はぁ」
 どうして、缶を開けてから訊くのか。順序がおかしいとは思わないのだろうか。
「飲んでいいの?」
「……どうぞ」
「ありがと」
 有武は遠慮する様子をまったく見せず、戸瀬が置いて行ったカフェラテをごくごくと飲んだ。本当に、喉がごくごくと鳴っていた。それから、「うわ、何これ、ゲロ甘い」と文句を言い、缶に記載されている原材料名をしげしげと眺めている。人がもらった飲み物を勝手に飲んで文句を言うな。零果はそう思いながらも、目の前の資料作成に集中しようとする。どうしてこんな人のために、せっせと資料を作らねばならないのだろうか。
「じゃ、加治木さん。それ出来たらメールで送って。よろしくね」
 そう言い残し、カフェラテの缶を片手に有武は去って行く。鼻歌でも歌い出しそうなほど軽い彼の足取りに、思わず怒りが込み上げる。階段で足を踏み外してしまえばいい。呪詛の言葉を心の中で吐いておく。
 有武がいなくなったのを見計らったように、後輩の岡本沙希が気まずそうに無言のまま、書類の束を抱えて近付いて来た。零果がチェックしなければならない書類だ。
「ごめんね、後でよく見るから、とりあえずそこに置いてもらえるかな」
 後輩の顔を見上げ、微笑んでみたつもりではあったが、上手く笑顔が作れたかどうかは疑問だった。岡本は何か悪いことをした訳でもないだろうに、「すみません、すみません」と書類を置いて逃げるように立ち去る。そんなに怖い顔をしているのだろうか。零果は右のこめかみ辺りを親指で揉む。忙しくなると必ず痛み出すのだ。
 時計を見つめる。約束の時間まで、あと三十分。どうやら、ここが今日の正念場のようだ。
「メールを送信しました」という表示が出た時、時計は確かに、午前十一時五十九分だった。受信する側は何時何分にメールが届いたことになるのだろう、という考えが一瞬過ぎったが、そんなことを考えてももう手遅れである。
 なんとか終わった。間に合った。厳密には一分くらい超過していたかもしれないが、有武がそこまで時刻に厳密な人間ではないことも、この資料の完成が一分遅れたところで、今日の午後三時から始まる会議になんの影響もないこともわかっていた。
 零果はパソコンの前、椅子に腰かけたまま、天を仰いでいた。彼女が所属する事務部は五階建ての社屋の二階にあるため、見上げたところで青空が見える訳はない。ただ天井を見上げる形になるだけだ。
 正午を告げるチャイムが館内放送で流れていた。周りの女子社員たちがそれを合図にぞろぞろと席を立って行く。呆然と天井を見つめるだけの零果を、彼女たちが気に留める様子はない。それはある意味、日常茶飯事の、毎日のように見る光景だからである。魂が抜けたように動かないでいた零果であったが、パソコンからメールの着信を知らせる電子音が鳴り、目線を画面へと戻した。
 メールの送信者は有武だった。本文には、零果の苦労を労う言葉も感謝の言葉もなく、ただ、「確認オッケー。午後二時半までに五十部印刷しておいて」とだけ書かれていた。やっぱりなぁ。そうくると思ったんだよなぁ。当たらないでほしい予想というのは、なぜかつくづく当たるものだ。嫌な予感だけは的中する。
 十四時半までには、まだ時間がある。とりあえず今は、休憩に入ろう。
 零果は立ち上がり、同じフロア内にある女子トイレへと向かった。四つ並んだうちの一番奥の個室に入る。用を足していると、扉が閉まっていたはずの手前の個室から人が出て行く気配がした。その後すぐ、水を流す音と、扉がもうひとつ開かれた音が続く。
「ねぇ、さっきのあれさぁ……」
「あー、さっきの、加治木さんでしょ?」
 手洗い場の前から会話が聞こえてくる。
 零果は思わず動きを止めた。声のする方へと目線を向ける。扉の向こうが透視できる訳ではないが、声から人物を特定することはできる。ふたりとも、同じフロアに席を置いている事務員だ。正直、零果と親しい間柄ではない。
「戸瀬さんがせっかく話しかけてくれてるのに、あの態度はないよね」
「そう、なんなの、あの態度。見てて腹立っちゃったよ」
 蛇口が捻られ、手を洗う音。零果は音を立てずにじっとしていた。戸瀬ファンクラブ所属のふたりか。恐らく、ここに零果本人がいるということを、ふたりは知らないに違いない。
「戸瀬さんもさ、なんで加治木さんなんか気にかけるんだろうね?」
「仕事が大変そうな女子社員を放っておけないんじゃない? 戸瀬さんって、誰にでも優しいから」
「加治木さんが大変な目に遭ってるのは、有武のせいでしょ?」
 きゅっ、と蛇口が閉められた音が、妙に大きく響いた。その時、零果は自分の胸元も締め付けられたような気がした。
「そうそう、有武が仕事を頼むから」
「加治木さんも断ればいいのにね。なんで受けちゃうんだろう。もう有武のアシスタントじゃないのにさ」
「さぁ……。営業アシスタントだった過去にプライドでもあるんじゃない?」
 ふたりのうちのどちらかが、笑ったのが聞こえた。
「うつ病になってアシスタント辞めたくせに、事務員になってもプライド高いとか、ちょっとねぇ……。自分で仕事引き受けて、それで忙しくって大変なんですって顔で働かれてもさぁ……」
 足音と共に、ふたりの会話も遠ざかっていく。どうやら、女子トイレから出て行ったようだ。
 ふたりの声が完全に聞こえなくなるのを待ってから、零果は大きく息を吐いた。「……有武さんのことだけは、呼び捨てなんだ」と、思わずひとり言が漏れた。そんなことはどうでもいい。どうでもいいけれど、言葉にできる感想はそれくらいしか思い付かなかった。
 他の事務員から陰で言われているであろうことは、薄々わかってはいた。同じ内容を、言葉を選んで、もっともらしい言い方で、面と向かって言う上司もいる。同僚たちに特別好かれているとは思っていなかった。しかし、本人には届かないだろうと思って発せられる言葉というのは、こんなものなのか。
 水を流し、個室から出た。鏡に映る自分の顔の疲弊具合に気分はますます陰鬱になる。腹の底まで冷え切っているように感じる。
 同じ階にある休憩室へ向かおうと思っていたが、先程のふたりもそこにいるのだろうと思うと、足を向ける気にはならなかった。さっきの会話の続きを、今もしているかもしれない。
 自分の席に戻って仕事を再開するというのも考えたが、こんな疲れた顔で休憩も取らず仕事をしているところを、誰かに見られるのも嫌だった。
 結局、零果は四階に向かうことにした。階段で四階まで上ると、営業部が机を並べているフロアと、会議室が両側に並ぶ廊下を足早に通り過ぎる。外出していることが多い営業部だが、昼の休憩時間に突入しているこの時間は、いつにも増して人の姿がない。零果は何も躊躇することなく、通路の突き当り、外階段へと続く重い鉄の扉を開けた。
 非常時の利用を目的に作られた外階段を、普段利用する社員はほぼいない。喫煙室以外の場所で煙草を吸おうとする不届き者ぐらいだ。外階段だけあって、雨風が吹き荒れ、もしくは日射しが照り付け、夏は暑く冬は寒いその場所に、わざわざ足を運ぶ理由。それは「彼」に会いたいからだ。
「おー、お疲れ」
 鉄製の手すりにもたれるように���て、「彼」――有武朋洋がそこにいた。いつも通り、その右手には煙草がある。有武は、この外階段でよく煙草を吸っている。社内に喫煙室が設けられてはいるが、外がよほどの嵐でない限り、彼はここで煙草をふかしている。
「……お疲れ様です」
 挨拶を返しながら、鉄の扉を閉め、有武の吐く煙を避けるため風上に移動する。向かい合うように立ちながらも、零果の目線は決して彼の顔を見ようとはしない。それもいつものことだ。有武も、そのこと自体を問うことはしない。ましてや、喫煙者でもない彼女が何をしにここまで来たのかなんて、尋ねたりもしない。
「何、どうしたの。元気ないじゃん。なんか嫌なことでもあった?」
 口から大量の煙を吐きながら、有武はそう尋ねた。零果は「まぁ……」と言葉を濁しただけだったが、彼は妙に納得したような顔で頷く。
「まー、嫌なこともあるよな」
「……そうです、嫌なこともあります」
「だよな」
「せっかくの休日に呼び出されて仕事させられたり」
「…………」
「今日だって、あと二時間で会議の資料を作ってくれって言われたり」
「…………」
「その資料がやっとできたと思ったら、それを五十部印刷しろって言われたり」
「何、こないだの土曜日のこと、まだ怒ってんの?」
 有武が小さく鼻で笑った。これは、この男の癖だ。この男は、上司でも取引先でも、誰の前でも平気で鼻で笑うのだ。
「土曜日は呼び出して悪かったって。でもあの時にテンプレート作って用意しておいたから、今日の資料作りがたった二時間でできたってことだろ?」
「……なんとかギリギリ、二時間でできたんです」
「でも、ちゃんと時間までに完成しただろ」
 有武は、今度は鼻だけでなく、声に出して笑った。
「加治木さんはできるんだよ。俺は、できると思ったことしか頼まない。で、本当にちゃんとできるんだ、俺が見込んだ通りに」
「…………」
 零果は下を向いたままだ。そんな彼女を見つめる有武の瞳は、からかうように笑っている。
「別に気にすることないだろ。周りからなんて言われたのかは知らないが、加治木さんは他の人ではできないことを――」
「私はもう、あなたの営業アシスタントじゃありません」
 遮るように言った彼女の言葉に、有武が吐く煙の流れも一度途切れた。
「もう、私に……」
 仕事を頼まないでください。そう言えばいい。零果が苦労ばかりしているのは、この男の仕事を引き受けるからだ。それを断ってしまえばいい。幸いなことに今の彼女は、それを咎められることのない職に就いている。もうアシスタントではない。ただの事務員だ。同僚たちが言う通りだ。
 わかっている。頭ではわかっているのに、零果はどうしても、その続きを口にすることができない。うつむいたまま、口をつぐむ。
 ふたりの間には沈黙が流れる。有武は煙草を咥えたまま、零果が言葉を発するのを待っているようだった。しかし、いつまでも話そうとしない彼女を見かねてか、短くなった煙草を携帯灰皿へと捨ててから、一歩、歩み寄って来た。
「加治木さんは、俺のアシスタントだよ。今も昔も、ずっと」
 彼の身体に染み付いた煙草の臭いが、零果の鼻にまで届く。もう何年になるのだろう、この臭いをずっと、側で嗅いできた。いくつもの案件を、汗だくになったり、走り回ったりしながらこなしてきた。無理難題ばかりに直面し、関係部署に頭を下げ、時には上司に激昂され、取引先に土下座までして、それでも零果は、この男と仕事をしてきた。いくつもの記憶が一瞬で脳裏によみがえる。
「仕事を頼まないでください」なんて、言えるはずがなかった。どうして彼が自分に仕事を依頼するのか、本当は誰よりもわかっていた。
 大きく息を吐く。肩に入っていた力を抜いた。
「有武さん」
「何」
「……コーヒー、奢ってください」
「は?」
「それで許してあげます」
 零果の言葉に、ぷっ、と彼は吹き出した。
「コーヒーでいいの? どうせなら、焼き肉とか寿司とか言いなって」
 まぁ言われたところで奢らないけどね。そう言いながら、有武はげらげらと笑う。零果は下を向いたまま、むっとした顔をしていたが、内心、少しほっとしていた。零果が多少、感情的な言い方をしてもこの男は動じないのだ。
「あ、ちょっと待ってて」
 有武は唐突にそう言うと、外階段から廊下へと繋がる扉を開け、四階のフロアへと戻って行った。ひとり残された零果が呆然としていると、有武はあっという間に戻って来た。
「ほい、これ」
 差し出されたその手には、缶コーヒーが握られている。社内の自動販売機に並んでいるものだ。どうやら、有武はこれを買いに行っていたらしい。零果は受け取ってから、その黒一色のパッケージの缶が、好きな無糖のブラックコーヒーだと気が付いた。
「それはコーヒーを奢ったって訳じゃないよ。さっき、デスクにあったカフェオレもらったから、そのお礼ね」
「もらったって言うか、有武さんが勝手に飲んだんじゃないですか……。あと、カフェオレではなく、カフェラテです」
「オレでもラテでも、どっちでもいいよ。飲んでやったんだろー。加治木さんがコーヒーはブラックの無糖しか飲まないの、知ってるんだから」
 その言葉に、ずっと下を向いたままだった零果が一瞬、顔を上げて有武を見た。戸瀬から缶飲料をもらった時、「よりにもよってカフェラテか……」と思ったことが、バレているのではないかとさえ思う。そのくらい、目が合った途端、得意げに笑う有武の顔。憎たらしいことこの上ない。零果はすぐに目を逸らした。
「……やっぱ、許さないかも」
「は?」
「なんでもないです」
 有武は肩をすくめた。作業服の胸ポケットから煙草の箱を取り出し、一本咥えて火を点ける。吐き出された煙は吹く風に流され、あっと言う間に目では追えなくなった。
 いただきます、と小さく声に出してから、零果は缶コーヒーのプルタブを開けた。冷たいコーヒーをひと口流し込んでから、喉が渇いていたことに気が付いた。
 疲れたな。改めてそう思う。百円で買える缶コーヒーの味わいにさえ、癒されていくように感じる。
 今日は良い天気だ。この外階段に吹く風も、日射しも心地良い。ここから見下ろせる、なんてことのない街並みも。この男との何気ない会話も。ここにあるものすべてが、冷え切っていた零果の心を解きほぐしていくような気がする。
「加治木さん、昼飯はもう食ったの?」
 煙を吐きながら、有武がそう訊いた。
「いえ……」
「何、また食ってないの? ちゃんと食わないと、身体に良くないよ」
「……有武さんは?」
「俺は今日、三時から会議で、終わったらその後に会食だから。昼飯は食わなくてもいいかなーって」
「会食までに、お腹空いちゃうんじゃないですか?」
「何か軽くは食べるけどね。会議中に腹が鳴っても締まらないし。ただ、四十歳過ぎるとね、やっぱ食った分は太るんだわ」
 そう言う有武は、今年で四十一歳のはずだが、まったく太っていない。零果は七年前から彼を知っているが、出会った頃から体型が変化したとは思えない。ただ、それは本人が体型を維持する努力をしているからだろう。
 そして、そういう努力ができるのであれば、もう少しこまめに髪を切ったり髭を整えたりしてもいいのではないか、とも思う。特に最近の有武は、髪にも髭にも白髪が混じるようになった。もう少し身なりを整えれば、印象もまた変わると思うのだが。
「あ、そういえば、もらったアンパンがあるんだった。アンパン、半分食う?」
「いえ……あの、今本当に、食欲がなくて……」
 零果はそう言いながら、無意識のうちにみぞおちの辺りをさすっていた。トイレで聞いてしまった、同僚たちの会話。無遠慮に吐き出された彼女たちの言葉、その声音の棘が、零果の胃の辺りに突き刺さっている。とてもじゃないが今は、何か固形物を口にしようという気にはならなかった。
「ふうん、あ、そう」
 と、有武は煙草をふかしながら返事をした。零果の様子を特に気に留めている様子も、提案を断られて落ち込むような様子もない。そうやって、無関心を装う節がこの男にはある。
「じゃ、今度は喫茶店にでも行こうか」
 有武が煙草を吸い終わった頃、零果も缶コーヒーを飲み終えたところだった。
「コーヒー奢るよ。どこか行きたい店ある? 俺の好きな店でもいい?」
「どこでもいいですよ」
「了解。また連絡するわ」
 有武が外階段とフロアを繋ぐ、重たい扉を開ける。開けたまま待ってくれている彼に、小さく会釈をしながら零果が先に通る。触れそうなほどすぐ近くに寄ると、煙草の臭いをはっきりと感じる。今は吸った直後なので、臭いはなおさら強烈だ。
「くっさ……」
「あ?」
 零果の口から思わず零れた言葉に、彼は即座に睨んでくる。
「すみません、つい、本音が……」
「悪かったな、煙草臭くて」
 有武は舌打ちをしながら零果に続いてフロアへ戻り、外階段への扉を閉めた。
「有武さんは禁煙しようとは思わないですか?」
「思わないねー。だから俺が臭いのはこれからも我慢してねー」
「…………」
 臭いと口走ってしまったことを根に持っているのか、有武は不機嫌そうな顔だ。
「あ、有武くん!」
 並んで廊下を歩いていると、突然、背後から声をかけられた。振り向くと、通り過ぎた会議室から、ひとりの女性が廊下へ顔を覗かせている。
 肩につかない長さで切り揃えられた黒髪。前髪がセンターで分けられているので、その丸さがはっきりとわかる額。染みも皺もない白い肌には弾力がある。彼女が今年で四十歳になるのだと聞いても、信じる人はまずいないだろう。零果より頭ひとつ分、小柄なことも相まって、彼女――桃山美澄は、二十代に間違えられることも少なくない。
 実年齢よりも若く見られる桃山は、実際は経験豊富な中堅社員である。そして何より、ずば抜けて優秀な社員として、社内外で有名だ。営業アシスタントとして三人の営業マンの補佐についているが、「桃山本人が営業職になったら、売上額が過去最高になるのではないか」という憶測は、かれこれ十五年前から上層部で囁かれている、らしい。有武の営業アシスタントを務めているのも彼女である。零果は仕事を手伝わされているに過ぎず、本業は事務職であり、有武の本来のアシスタントは桃山なのだ。
 桃山の顔を一目見るなり、有武は露骨に嫌そうな顔をした。しかし、それを気にする様子もなく、彼女は近付いて来る。
「有武くん、探したんだよ。午後の会議の資料の進捗はどう? 間に合いそう?」
「あー、それなら大丈夫。加治木さんに頼んでるから」
 桃山は有武の隣に並ぶ零果を見やり、申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「ごめんね加治木さん、また面倒な仕事、有武くんに頼まれちゃったね」
「いえ、あの、大丈夫です」
 零果はいつも、桃山を前にすると困惑してしまう。謝る彼女に対して、なんて言葉を返せばいいのか、わからない。
「資料は? どのくらい出来てるの? 続きは私が代わろうか」
「あの、もう、完成はしていて、あとは印刷するだけなんですが……」
「本当に? もう出来てるの? すごいね加治木さん、やっぱり優秀だね」
「いえ、そんなことは……」
 桃山はにこにこと、朗らかな笑顔だ。嫌味なところは感じさせない。実際、嫌味など微塵も込めていないということは、零果もわかっている��返す言葉に悩んでしまうのは、そうやって本心から褒めてくれる存在がそれだけ稀少だからだ。
「じゃあ、資料の印刷はこっちでやるよ。月末も近いし、加治木さん、自分の仕事も忙しいでしょう?」
「そんなことは……」
 そんなことはありません、と言おうとして、後輩の女子社員から書類の束を受け取っていたことを思い出す。そうだ、あの書類をチェックしなくてはいけないのだ。思わず言葉に詰まってしまう。桃山はそれを見逃さなかった。
「うん、資料の印刷は私がするね。もう有武くんにメールで送ってくれてるんだよね? 有武くん、私のアドレスに転送してもらっていいかな?」
「はいはい、わかりましたよ」
 有武は窓の外に目線を向けたまま、そう返事をした。彼のそんな態度にも、桃山は顔色ひとつ変えることはない。柔和な笑みのまま、零果に向き直った。
「加治木さん、忙しいのにいつもありがとうね。本当は私がやらなくちゃいけないことだから、こんな風に言うのはおかしいんだけど、有武くんは加治木さんと仕事をするのが本当に楽しいみたいで」
「い、いえ、あの……」
 桃山は続けて言う。
「でも、加治木さんには事務職としての仕事もあるんだから、しんどかったり、難しかったりする時は、いつでも私に言ってね。有武くんだって、それで加治木さんのことを悪く思ったりはしないからね。私も、有武くんも、いつだって加治木さんの味方だから。無理はしないでね」
 その言葉に、零果は頷くことしかできない。気を抜くと、泣いてしまうかもしれない、とさえ思った。桃山が自分の上司だったら良かったのに。零果は今の上司である、事務長の顔を思い出しながらそんなことを思う。桃山が上司だったら、毎日、もっと楽しく働けるかもしれないのに。
 けれど、と思い直す。
 桃山はかつて、零果の先輩だった。同じ営業アシスタントだった。三年前までそうだった。零果は彼女の下に就き、多くのことを学んだ。彼女の元から離れたのは、自分なのだ。そのことを、零果は今も悔やんでいる。
「それとね、」
 桃山は一歩、零果に近付くと、声を潜めて言った。
「加治木さんが有武くんから直接仕事を任されていることは、事務長も、営業アシスタント長も、営業部長も合意している事柄だよ。それなのに、加治木さんのことを悪く言う人が事務員の中にいるみたいだね?」
 脳裏を過ぎったのは、女子トイレで聞いた会話の内容だった。同僚の言葉が、耳元でよみがえる。
 零果は思わず、桃山の顔を見た。先程まで朗らかに笑っていたはずの彼女は、もう笑ってはいない。口元は笑みを浮かべたままだったが、その瞳には鋭い光があった。それはぞっとするほど、冷たい目だった。
「うちの営業アシスタント長は、そっちの事務長と仲が良いからね。私が事務長に言っておいてあげようか? 『部下をよく指導しておいてもらえませんか』って。加治木さんは有武くんの仕事をサポートしてくれているのに、それを邪魔されたら困っちゃうんだよ」
 桃山には、こういうところがある。普段は温厚なのに、時折、何かの弾みでとてつもなく冷酷な表情を見せる。
 零果は慌てて、首を横に振った。
「そんな、大丈夫です」
「そうかな? 私はそうは思わないけどな。加治木さんのことを悪く言う社員が同じ事務の中にいるなんて、とてもじゃないけど――」
「桃山、もういいって」
 ずっと上の空でいるように見えた有武が、突然、会話に割って入った。
「加治木さんが大丈夫って言ってるんだから、とりあえずは大丈夫なんだろ。もし何かあったら、桃山に相談するよ」
「…………」
 桃山はしばらく無言で有武を見上げていたが、やがて再びにっこりと笑った。それから、零果へと向き直る。
「うん、加治木さん、何かあったら遠慮なく相談してね。いつでも聞くからね」
「いえ、あの、お気遣い、ありがとうございます」
 何度も頭を下げる零果に、桃山はにこにこと微笑む。
「ううん。逆に、気を悪くしていたらごめんね」
「いいえ、気を悪くするなんて、そんな……」
「私はこれでも、営業アシスタントだから。有武くんが気持ち良く仕事をするために、私にできることは全部したいんだ」
 そう、桃山の目的は、あくまでも「それ」だ。営業アシスタントとしての職務を全うしたいだけなのだ。零果のことを気遣っているかのように聞こえる言葉も、すべては有武の仕事を円滑に進ませるため。反対に、彼の仕事ぶりを邪魔するものを、すべて排除したいだけ。
 有武から仕事を頼まれた零果がその意欲を削がれることがないように、彼女のことを悪く言う同僚を排除しようと考えているのだ。その点、桃山は零果のことを「有武の仕事にとって有益にはたらくもの」と認識しているようだ。そうでなければ、零果に仕事を依頼していることを許したりはしないだろう。
「何かあったら言ってね」と言い、「それじゃあ」と手を振って、桃山は営業部のフロアへと向かって行った。
 桃山の姿が見えなくなると、その途端、有武は大きく息を吐く。
「はーあ、おっかない女……」
「桃山さんのことを、そんな風に言わなくても……」
 普段は飄々としている有武も、桃山を前にするとどこか緊張しているように見えるから不思議だ。そう思いながら、零果は有武の顔を見上げ、
「あ……」
「あ?」
「いえ、なんでもありません……」
 反射的に目を逸らした零果を、彼が気にする様子はなかった。ただ、「加治木さん、俺の正式な営業アシスタントに早く戻ってくれよ」と、どこか冗談めかした口調で言った。
 その言葉に、零果は何も答えなかった。うつむいたままの彼女の左肩をぽんぽんと、軽く二回叩いて、「じゃ、また」と、有武も営業フロアへと消えて行った。
「…………無理ですよ」
 有武の背中も見えなくなってから、ひとり残された零果はそうつぶやく。
 事務部に異動して二年。今となっては、営業アシスタントとして働いていた過去が、すべて夢だったのではないかとすら思える。あの頃は、毎日必死だった。ただがむしゃらに仕事をこなしていた。どうしてあんなに夢中だったのだろう。零果はもう、当時の感情を思い出すことができない。 二階の事務部フロアに向かって歩き出す。所属も業務内容も変わったが、今も零果には戦場が与えられている。運動不足解消のためにエレベーターを使うのではなく階段を降りながら、頭の中では午後の仕事について、すでに思考が回り始めていた。今の自分には、やるべき業務がたくさんある。戦うべき雑務がある。そのことが、何よりも救いだった。
 ※『コーヒーとふたり』(下) (https://kurihara-yumeko.tumblr.com/post/746474804830519296/)へと続く
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kurihara-yumeko · 3 years ago
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【小説】ぶさいくぶすこの逆襲(2012)
 その男は、人懐っこさそうな顔をしていた。
「新垣康平。年は二十五歳です。えっと、職業はアパレル関係で、ま、ショップ店員ってやつですね。小学校の頃の話っすか。あー、あんま覚えてないっすよ。でも、そうっすね、確か、小四くらいの時に、同じクラスにいたと思うんすよ、『ぶさいくぶすこ』。本名は……なんだったかな、ヤマ……ヤマモトとかヤマベ……とか、そんな感じの名前だったんじゃないですかね。俺あんま親しくなかったし、なんつーかこう、印象の薄い子だったんで、はっきり覚えてないんですよね。でも、確か遠足で山登りに行った年だったから、小四の時の話だと思うんすけど、初めて同じクラスになったんですよ。それまで何の接点とかもなくて。『ぶさいくぶすこ』ってあだ名をいつ誰がつけたのかは知らないっすね。俺のダチがそいつのこと『ぶさいくぶすこ』って呼んでたんで、俺もそう呼んでました。そのあだ名は、以前そいつと同じクラスだった奴らには浸透してましたね。つっても、本人に対して直にその名前で呼んだことは無いっす。っていうか、たぶんその子と喋ったことも無いっすね。仲間内で、そいつのことを呼ぶ時に本名じゃなくて『ぶすこ』って呼んでたぐらいっす。『ぶすこ』についてっすか? ブス、ブスって言ってた割には、どんな顔だったかよく覚えてないっすね。でも、そういうあだ名がついてたってことは、やっぱりブサイクだったんじゃないですか? あんまし記憶に残ってないんすよね。教室にいるのかいないのかよくわかんない感じの子でしたし。なんか、小四の終わりの頃に不登校になって、それ以来、学校に来てなかったみたいな話は聞いたことあるんですけど、俺、それ全然気づかなかったんすよね。『そういえば前にぶすこって呼んでた奴いたよな』みたいな感じで。『あれ、あいつ今いねぇの?』的な? だから、たぶんクラスの中では地味な感じで大人しい子だったんじゃないかと思います」
    その女は、緊張した面持ちで目を泳がせていた。
「森田めぐみ、二十五歳です。職業はネイリストです。私が小学校三年生の時に、『ぶさいくぶすこ』って呼ばれてる女の子がクラスにいました。私はあんまり親しい仲ではありませんでした。彼女と親しい子なんて、いなかったような気がします。クラス内の活発な四、五人の男子たちが、彼女のことをからかったり、悪口を言ったりしていました。彼女が給食を配ると、それを受け取らなかったり、『菌が入っているから全員食べるな』とクラスメイトに言ったりしていました。殴る蹴るといった暴力は無かったように思いますけど、言葉での暴力のようなものは、ほぼ毎日のようにあったと思います。クラスメイト全員が彼女のことを無視していたと思います。私もそうでした。彼女自身に何か問題があった訳ではありませんでしたが、彼女とはクラス全体が関わらないようにしていたと思います。彼女は何を言われても何をされても、何も言いませんでした。彼女はいつも下を向いていて、前髪が長かったので表情は隠��て見えませんでした。一度だけ、私が体育の時間に膝を擦り剥いて保健室へ行った時、養護教諭に背中をさすられて泣いている彼女を見たことがあります。彼女が泣いているのを見たのは、その時だけです」
    その男は、意地の悪い表情をしていた。
「竹宮ノボル、二十五歳、職業は美容師です。『ぶさいくぶすこ』? 覚えてますよ。俺ほんと、そいつのこと嫌いだったんで。そいつとは小学校三、四年生ぐらいの時に同じクラスになって知り合ったんですけど、とにかくそいつ根暗なんですよ。全然しゃべらないし、笑わないし、暗ーい感じで。髪真っ黒で長くて、幽霊みたいな感じだったんで、軽く冗談のつもりで『お前井戸の中にでも住んでんの?』って言ったの、先生にチクられちゃって。後で担任にめっちゃ怒られたんですよね。それから、なんか腹立っちゃって。冗談通じなさすぎじゃないですか、そんぐらいでチクるとか。嫌なら嫌で、その場で俺に直接言えばいいだけの話じゃないですか。頭にきたから、『ぶすこに近づくと呪われる』とか『あいつに触ると三日後に死ぬ』とか、適当な噂流したりしましたね。でもそんなのすぐ飽きましたから、やめましたよ。元々ぶすこはクラス全体から嫌われてる感じで、顔はブサイクだしデブで足は遅いし、クラスのお荷物的な感じでした。運動会とか、紅組と白組に分かれて競い合うんですけど、ぶすこと同じ組になったメンツはいっつも嫌そうでした。『俺らの組、ぶすこがいるから勝てねーや』みたいなことは毎年言ってたと思います。そういえば、小四の冬休みの前ぐらいですかね。俺の一番仲良かったダチが、掃除の時間にからかって、ぶすこに雑巾を投げつけてたんですよ。同じ掃除当番だった女子とかは、『可哀想だからやめなよ』とか言ってたんですけど、女子のああいうのって口だけですよね。女子たちも笑ってたし、内心、面白がってたんじゃないかと思うんですよ。イジメ? ああ、イジメって言えばイジメだったのかもしんないっすね。子供って残酷じゃないですか。俺も別に止めもせず、友達のしてること見てました。ぶすこって前からそういう風にクラス内で扱われてたんですけど、別に担任も何も言いませんでしたし。体育の先生なんかは『もっとキビキビ走れ、このノロマが』とかぶすこに対して言ってましたもん。それで、いつもからかってるときの調子で、俺の友達が雑巾をぶすこにぶつけてた時ですよ。ぶすこが突然、ブチ切れたんです。雑巾を洗ってたバケツの中の汚い水を、俺の友達にぶっかけたんですよ。今までぶすこって、何されてもただ黙って下向いてるだけだったんで、あれにはびっくりしましたね。俺の友達もびっくりして動けなくなっちゃって。周りの人もびっくりして、人が集まってきちゃってね。すぐに担任が騒ぎを聞きつけてやってきて、ぶすこをどっか連れてったんです。ぶすこは、それっきりでしたね。それっきり、一度も教室に来ないまま、不登校になって、卒業式も来ませんでした。え? ぶすこが今何してるか、ですか? 知りません。興味も無いですから」
        その男は、飄々としていた。
「柿本雅志。二十五歳です。……職業? ホストクラブの経営やってます。去年までは俺自身もホストだったんですけど、今年独立して自分の店を持ったんです。まぁダチと共同経営なんですけどね……。俺、経営とかそういう難しいことはよくわかんないし、まだ一人では運営出来ないですから……。襲われた夜ですか? あの夜はキャバ行った帰りで、家に帰る途中でした。え? ああ、結構ホストもキャバ行くんです。完全に客として行くっていうよりは、なんつーんですかね、同業者の集い、みたいな感じですかね。酒飲んで愚痴言うために行くんです。仕事で女の子の機嫌取りばっかしてると、プライベートで女の子に気とか遣うの疲れるんですよ。その点、キャバの女はそういう俺らの心理、ちゃんとわかってくれるんで、楽なんですよね。親身になって話聞いてくれるっていうか、向こうもこっちも、指名をいくつ獲れるか、顧客を何人抱え込めるかってところで争ってる訳じゃないですか。苦労話を共感して聞いてくれるところがいいんですよ。これが普通の昼職の女だと、『客の女には営業メールするくせに、どうしてアタシには連絡くれないの』とかうっせーですから。あ、すいません、事件の話ですよね。家まで五百メートルぐらいのとこで、女に声かけられたんですよ。背は百六十くらいですかね。女の足元、ヒールだったんで、実際の身長はもう少し小柄だったかもしれません。赤い派手なミニドレスに、白いファーのコート着てました。髪が黒くて長くて……あれはエクステだったんですかね。エクステだとしたら七十本くらいついてたんじゃないですか? キャバの女が何人か友達にいて、そいつらエクステつけてるんで、大体見ればエク何本つけてるのかはわかります。まぁ俺の憶測ですけどね。俺その時だいぶ酔ってたんで、正直あんまり自信ないですね。それで女が、『椿坂小学校にいた、柿本くん?』って聞いてきたんですよ。それで俺、『そうですけど、誰ですか?』って聞いたんです。したらその女、『アタシのこと忘れたの? ぶさいくぶすこよ』って言ったんですよ。俺、ぶすこのことなんかすっかり忘れてて。後でユウから話聞いてやっと思い出したんですよ。小学生の時、ブスな女の子がいて、よく仲間内でからかって遊んでたんですよね。でもまさか、あのブサイクな子があの女の人だとは思えないですね。えっと、それで女が、『どう? アタシ、少しは綺麗に見える?』って訊いてきたんですよ。俺、もうべろんべろんに酔ってましたから、『綺麗だよ』って言って、キスしようとしたんです。そんな白い眼で見ないで下さいよ。まぁ酔ってたら、そういうことしちゃう時だってあるじゃないですか。そうしたらその女が、『アタシ、別に整形した訳じゃないのよ。少しばかりダイエットして、少しばかり濃い化粧してるだけ。あの頃あなたがぶさいくぶすこと呼んでいた、デブでブスなアタシと、本質は何も変わっちゃいないのよ。どうしてアタシを綺麗だって言う訳? あの頃はアタシのこと、ブス、ブスって言ってたじゃない』って言ったんですよ。俺、そんときはぶさいくぶすこのことなんか、すっかり忘れてましたから、正直、女が何を言っているのかよくわからなかったんですよね。でも、『アタシは何も変わっちゃいないわ。アタシはまだデブでブスのみじめなぶさいくぶすこなの。アタシが綺麗に見えるんだったら、あなたの目玉が狂ってるんだわ』とか女が言って、何か、先の尖ったもの……ドライバーだったのか、鋏だったのか、ボールペンだったのか、よくわからないんですけど、何かで俺の右目を刺してきたんです。俺は咄嗟に避けて、もう無我夢中で走って逃げたんで、眉のちょっと下を切っただけで済んだんですけど、小学生の時よく一緒に遊んでたユウは、同じ目に遭って片目失明しかけて、ケンは完全に失明したって聞いたんで、俺は運が良かったんだなって思いました」
    その男は、ふてくされながら悪態をついた。
「中村健太郎、二十五歳。職業? フリーター。ヴィジュアル系バンドのベースもやってる。もう事件のことなら何度も警察に話したよ。もう話すことなんか無いから。俺は被害者なんだよ、わかる? こっちの目、失明したんだよ。訳わかんない女に訳わかんないこと言われてさぁ。いきなり刺されたんだよ。え? 『ぶさいくぶすこ』? あー、いたよ、そんな風に呼ばれてる奴。でもそれ、小学校の頃の話だよ。もう十年以上前のことだから。そんな昔のこと根にもたれても、こっちは覚えてないから。え? 俺がぶすこのことをイジメていた? 誰に訊いたんだよそんな話。ノボル? なんでノボルがそんなこと言うんだよ。は? 俺がぶすこに雑巾をぶつけた? あいつよくそんなこと覚えてるな。それが事実かって? さっきも言ったろ。そんな昔のこと覚えてないよ。ノボルが言うなら俺が本当にそういうことをしたのかもしれないけど、そんなの子供の時にやった話だろ。ガキの頃の因縁つけられて、こんな目に遭わされても、今更なんだって感じだろ。しかもこれ犯罪だろ? 俺の右目は失明したんだぞ? もう二度とこっちの目は見えないんだよ。立派な傷害罪だろ。俺が昔そいつのことイジメてたのかもしんないけど、だからって俺の右目失明させることはないだろ? ほんとなんなんだよあの女。警察の奴らはいつになったらあいつのこと捕まえるんだよ。あいつ犯人だろ? は? 女の顔? 女が綺麗だったかって? ああ、あの女、綺麗だったよ。少なくとも、俺が今まで出会ったどの女よりも美人だった。それだけは言える。俺の右目の眼球を抉り出すような女じゃなけりゃ、交際を申し込みたかったよ。少なくとも、『ぶすこ』なんかじゃなかったね」
    その女は、戸惑っているようだった。
「佐原美樹です。年齢は二十五歳。月刊ファッション誌『Miracle GIRLS』の編集員をやっています。『ぶさいくぶすこ』さんについてですか? ええ、彼女はうちの雑誌の読者モデルでした。渋谷で行ったストリートスナップのページに彼女を大きく掲載したら、読者からの反響が大きくて、その次の号から読モとして編集部に呼んで誌面の撮影をするようになりました。今から二年ぐらい前のことです。読者アンケートでもいつも上位にランクインする人気ぶりで、彼女のことを取り上げた単独特集ページも何回かやりました。読モになるきっかけとなったストリートスナップを掲載する時に、本名は出したくないということで、彼女が考えた名前が『ぶさいくぶすこ』でした。どうしてそういう名前なのかという読者からの質問も多くて、彼女のそれに対する答えは、『私はもっとキレイになれる、という自己暗示のため』とのことでした。現状の自分に満足することなく、常により上を目指すという彼女の姿勢は、読者からも絶大な支持を受けていました。実際、彼女は自身に対してとてもストイックだったと思います。でもどうしてもすっぴん企画にだけは参加したくなかったみたいです。『化粧をして、髪を巻いて、可愛い服を着た自分が完成形』であって、中途半端なみっともない姿を読者には見せられないというのが彼女の言い分でした。うちの雑誌は、すっぴんが可愛い子よりも、『メイクやヘアアレンジやファッションで女の子は可愛くなれるんだ』っていうテーマを前面に押し出しているので、読者モデルの子たちも、必ずしもすっぴんが可愛い子という訳ではないんです。そもそもうちの雑誌はギャル雑誌で、モデルの子も皆、化粧が濃いんです。すっぴんを誌面に出すのを嫌がる子も多いですし、特別おかしなことだとは思いませんでした。彼女がうちの雑誌の読モでいたのは、たぶん一年ぐらいの間だったと思います。『読モだという安心感が私をより高みに持っていくことを阻んでいる』ということで、読モを降りたんです。それから彼女がどこへ行ったのかはわかりません。渋谷でも見かけなくなりましたし、読者からの目撃情報も全くありません。連絡がつかなくなってしまって、もうほんとうにわからないんです。え? 彼女の本名? 山岸瑞歩さんです。え? 彼女と私が同じ小学校出身? はぁ、そうなんですか? 全く知らなかったです。彼女はあまり自分のことを話す人じゃなかったので。小学校の頃イジメられていた? その時のあだ名が『ぶさいくぶすこ』? はぁ、そうだったんですか。すみません、私は��くわからないです。たぶん同じクラスになったこともないと思います。……でもそれ、本当ですか? 彼女はうちの雑誌でも一位、二位を争うくらい、人気のある読者モデルだったんですよ?」
    その女は、楽しそうに手を叩いた。
「山野綾です。二十五歳。歌舞伎町でキャバ嬢やってます。ぶすこちゃんの話? 何、おにーさん、ぶすこちゃんの客かなんかだったんですか? いいですよ、あたしが覚えてる限りで良ければ、ぶすこちゃんのこと、話しますよ。あたしも二十五で、お店の中ではもう若くないし、同期はどんどんキャバ辞めちゃって、同期の子の話ができるだけでも嬉しいですから。ぶすこちゃんは五年前にいきなりうちの店にやってきて、一緒に働くようになったんです。二年前に辞めて行きました。来たばっかりの頃は、まだ少し田舎臭い感じが抜けない、純朴そうな子だったんですけど、綺麗なドレス着て毎日毎日出勤していくうちに、自分磨きに手間暇かけるようになったんですかね、どんどん綺麗になっていったんですよ。あ、元がブスだったって意味じゃないですよ。あたしが思うに、あの子は素が綺麗な顔なんだと思うんですよね。化粧も凄く上手かったけど、あれは元々の素材が良いんだろうなって。指名も多く取る子で、当時のうちの店ではナンバーワンだったんですよ。でも、ちょっと名前が良くなかったんですよね。あ、名前っていうか、源氏名のことですけどね。あの子、『一条ぶすこ』って源氏名で働いてたんですよ。『ぶすこ』って、キャバ嬢としてどうなの? って感じしません? せっかく綺麗な子なのに、名前も綺麗な名前にすれば���かったのに。でもそのギャップが良かったんですかね、お客さんたちにとても良く愛されてる子でした。普段はあまり笑ったり、しゃべったりはしない子でしたけど、ときどき面白いことも言うし、実は明るい子だったんだろうなって思います。あ、ぶすこちゃん、あたしと同じ小学校出身らしいんですよ。あたし、小学五年生の時に引っ越して、ぶすこちゃんと同じ小学校に転校したんです。ぶすこちゃんは、不登校だったみたいで全然学校行ってなくて、学校であたしと会ったことは無いみたいなんですけど。小学校で出会ってたら、絶対あたしあの子と友達になってたと思うんです。だって、あんなに綺麗な子なんだから、きっと子供の時も美人だったんじゃないかなって。あんな美人な友達がいたら良かったなーって思うんですよね。でもそういうあたしも、小六の時にちょっと不良な先輩と知り合って、学校サボって遊んでばっかりいたんで、どっちにしろ、ぶすこちゃんに学校では出会えなかったんですけどねー」
                     その女は、
「草壁未来。二十五歳。職業は女優です。今、収録しているドラマの話? ええ、自分の容姿に自信が持てなかった女性が、少しずつお洒落に目覚めて、周りの男性と恋愛を繰り広げながら、中身も外見も素敵な女性になっていくというお話です。この主人公の『川本千晶』の役を私が演じているんです。凄くやりがいのある役ですね。最初に監督の滝本さんからお話を伺った時から、『絶対に私が千晶をやるんだ』って思っていたんです。実は私自身も、この千晶みたいに自分の容姿のせいでイジメに遭っていたことがあって……。小さい頃の私は太っていましたし、顔に吹き出物ができやすくて、いつも長い前髪で顔を隠していたんです。それで、クラスの男の子から、『ブス』、『デブ』、『お化け』なんてからかわれていたりしていて、本当は千晶って私なんじゃないだろうかって思うくらい、私とそっくりで……自分が変わったきっかけって、やっぱり化粧だったんですよね。千晶とおんなじです。中学生になった頃、内気な私は母に連れられていったデパートの化粧品売り場で、美容部員の方に初めてフルメイクしてもらったんです。その時鏡に映った自分の顔が、いつもの私の顔と全く違っていて。私もこんな風になれるんだ、可愛くなれるんだって思ったんです。それからお小遣いを全部化粧品に費やすようになって……。化粧品の次は洋服、洋服の次はヘアーケア商品、といった具合で、美容グッズも集めるようになって……。バランスの良い食事、適度な有酸素運動を続けていくうちに体重は減って、面倒臭がらずに毎日きちんと洗顔とケアをしているうちに肌の調子もずっと良くなって……。私はそれまで内向的で消極的な性格だったんですけど、自分の容姿に少しずつ自信が持てるようになっていったら、性格も明るい方に変わっていったんです。見た目が良くなったっていうのもあるけれど、『自分も変わることが出来たんだ』っていうのが大きかったのかもしれません。芸能事務所のオーディションを受けたのは本当に軽い気持ちで、まさか自分が合格するだなんて思ってなくて。それからは本当に人生が変わりました。まるで違う人間にでもなったみたいでした。今は、女の子が簡単に変わることが出来る時代だと思うんですよ。髪の毛だって好きな色に染めればいいし、眉毛だって自分の好きに描ける。つけまつげだって何種類もあるから選べるし、カラーコンタクトを使えば目の色も変えられるじゃないですか。目の下のクマも顔の毛穴だって隠せるし、チークもリップも好きな色、自分に本当に似合う色にできますよね。一重のまぶたを二重にするためのグッズだってたくさん出ている。今って『なりたい顔になれる、なりたい自分になれる』、そういう時代だと思うんです。もう生まれつきの姿をずっと引きずって生きる必要はなくなったんです。極端な話、整形手術だってその手段の一つですよね。生まれつき美しくないと愛されないなんて、馬鹿げた話だと思いません? この業界は、整形って言うと皆、嫌そうな顔をしますけど、一生ブスって言われ続けるよりはずっといいって思うんです。それに今は、整形手術をしなくても、化粧だけで十分変身できるようになったと思います。このドラマを観て、『私も変われるかもしれない』って女の子たちに思って欲しいです。特に、小さい頃の私みたいな思いを今している子たちには、希望を持って欲しいんです。―――え? 『ぶさいくぶすこ』? ああ、確かに小学生の頃、そういう風にクラスメイトたちから呼ばれていたこともあるかもしれません。あの頃は毎日悪口ばかり言われてましたから、そういう風に呼ばれていてもおかしくはありませんね。私は今でも、自分が綺麗になったとは思わないんです。痩せて、化粧をするようになった、私が変わったのはそれだけです。今でもときどき、鏡に映った自分のすっぴんを見て、容姿のせいでイジメられていた小さい頃を思い出すんです。デブでブスだった私を。私にとっての最大の敵は、あの頃の私自身の姿です。今でも私の目は、今の私の姿より、昔の醜い私の姿を覚えているんです。体重が減って化粧をしたぐらいでは、綺麗な女になることはできません。少なくとも今の私は、綺麗ではないんです。もし、私のことを『美しい』と感じる人がいるとしたら、私はその人の認識を改めてあげたいと思いますね。まだまだ私は醜いままなんだと教えなければいけないと思います。私が美しくなるのはこれからなんですから。同時にそれは、自分へのプレッシャーでもあります。美を追求しなくてはいけないというプレッシャーです。私はもっともっと、綺麗になりたいです。早く『醜い私』というイメージを、自分の中から綺麗さっぱり払拭したいんです。もちろん綺麗になるのは、私のためだけではありません。自己満足と言われればそれまでですけど、私が美しくなっていくこと、それが私なりの、私をイジメていた人たちへの逆襲ですから」
 そう言って、にっこりと笑った。
        了
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kurihara-yumeko · 4 years ago
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【小説】翡翠色のアルド (4/4)
 (3/4)はこちらから→(https://kurihara-yumeko.tumblr.com/post/660771135006392320/)
 少年がコンディノを発つ日、リリンは朝から複雑そうな表情をしていた。
「本当に行ってしまうのかい、アリィ」
「はい、マスーラ・リリン。今までお世話になりました」
 少年が礼儀正しく腰を折ると、リリンは片手を大きく横に振った。
「よしておくれよ。故郷は確かに大事かもしれないけれど、何もあんたの命を捨ててまで、取り戻すものじゃないだろう。肝心のあんたが死んでしまうんじゃ、なんのために故郷を再興させるのか、わからないじゃないか」
 リリンの言葉に、少年は口元を少しだけ緩めて微笑んだ。
 この街は、故郷を失った者たちの巣窟だ。流れ者たちが集まる街、コンディノ。自ら故郷を捨てた者もいれば、故郷を追われた者もいる。理由はさまざまだが、誰もが皆、故郷を失う悲しみと痛みを知っている。リリンの店に集ってる常連客たちも皆、口には出さないものの神妙な顔をして、リリンと少年のやり取りを聞いていた。
「いいえ、そんなことはありません。僕には必要なんです」
 そんな少年の言葉に、リリンはただ顔をしかめるだけだった。自らの恋をまっとうするために祖国を飛び出して来たリリンにとって、故郷というものに執着する少年の感情を理解することはできないのかもしれなかった。
 しかし、彼女は少し考え込んだ後、「そうかい」と言った。
「あんたは、言ったって聞かないね。初めて会った時から、強い目をしている子だと思ったよ。あんたのその顔はね、帰るべき場所がある男の顔だよ。この街にいる連中には、誰もできっこない顔だ」
 リリンはそう言って、苦笑した。
「どうしても、故郷に帰るのかい」
「はい」
「この街は、あんたの故郷にはなれないのかい。あたしやベッチェじゃ、あんたの家族には不服だったのかい?」
 あんまりにも切なそうにリリンがそう言ったので、少年は答えることをためらった。彼は首をゆっくり横に振りながら、言葉を選ぶようにして言った。
「ここでの生活は、かけがえのないものでした」
 リリンはしばらく黙って少年のことを見つめていたが、やがて、気を取り直したように笑った。
「道中、気を付けるんだよ。あんたはあたしの、大切な息子だからね、アリィ」
 リリンは少年の額にくちづけをひとつ落とし、それから少年を抱き締めた。華奢な少年の身体は、彼女の豊満な肉体に埋もれてしまうようだった。彼はそれに、「ありがとう」と、素直に返す。
 ふと、自分の母親のことを思い出す。幼い頃、養母に抱き締めてもらった記憶。目尻に小皺のあるリリンの顔を見つめ、自分の母親も生きていたら今頃これぐらいの年齢だったのだろうか、と考えてしまう。
 リリンとの最後の抱擁を終え、店を出ようとした時だった。店の奥から金髪の少女が駆け寄って来た。ベッチェだった。
 彼女は少年の元まで来ると、さっと両手を差し出した。彼女の青白い痩せた両手の上には、首飾りがひとつあった。銀色の鎖の先に小さな翠玉が、見事な装飾が施された台に嵌め込まれている。質素な作りではあるが、決して安物ではないことがわかる品である。
「これは……?」
「それは、その子の母親の形見だよ」
 少年の問いに、口が利けないベッチェの代わりに答えたのはリリンだった。
「ベッチェがずっと大事に持っていたもんだ。あんたに持っていてほしいんだってさ」
 少年はベッチェに向き直る。
「そんな大事な物を、本当に?」
 その問いに、ベッチェは大きく頷いた。
 彼女は少年の手に首飾りを握らせると、その手に自らの手を重ね、ぎゅっと握った。ベッチェの手は、少年が思っているよりも遥かに熱かった。
 それからベッチェは、少年から手を離すと、自分の胸の前で両手を組み、その手を顔の前まで持ち上げると、額に合わせて一礼をした。
「あんたの旅の無事と、成功を願っているってさ」
 ベ��チェの出身地と近い地方の生まれなのであろう常連客のひとりが、彼女の動作を見てそう教えてくれた。祈りを捧げるようなその動作は、山奥で暮らす自分たちの集落に旅人が立ち寄った時、無事に山を越えて次の街まで行けることを願うものなのだという。
 少年がベッチェに礼を言うと、彼女は少年の手を取り、手のひらに指で文字を書いた。それは大陸語であった。
 文章を書き上げた後、ベッチェは恐る恐る、少年の顔を見上げた。それが正しい綴りをもって記せたのか、不安げな表情である。けれどそんな彼女の瞳に映ったのは、自分をしっかりと見つめて頷く、少年の顔だった。その口元は、微笑んでいた。
 少年は黙ったままベッチェの手を取り、そこにゆっくりと文字を描くように指を滑らせる。ベッチェは少年が書いた言葉を繰り返し反芻しているのか、しばらく考えているような顔をしていたが、突然、何か思い至ったのか、驚いたような表情になり、いつも病弱そうな青白いその頬を真っ赤に染めた。
 そんなふたりのやり取りに、言葉の内容はわからないはずのリリンや、店にいた常連客たちが笑う。
 これまで奴隷としての生き方しか知らなかった少年にとって、この街での暮らしはかつてないほど穏やかなものであった。そこには強制も命令もなく、彼は物ではなく、ひとりの人間だった。そうして生きたことなどなかった。命じられた訳でもなく、日々の行動を自分で決めたのも、初めてのことであった。
 だからこそ少年は、自らの意志でこの街を発つ。
 少ない荷物を携え、リリンとベッチェ、そして大勢の常連客たちに見送られ、少年は店を出た。
 コンディノに入った時と同じ、南南西の門まで向かうと、そこでは三人が少年を待っていた。植物男、老師、そして門番見習いのシシである。「準備はできたか」という植物男の言葉に少年が頷くと、シシが今にも泣き出しそうな顔をして言った。
「嫌だよアリィ、この街を出て行くなんて言うなよ」
 シシは少年の腰にしがみつくと、嫌だ嫌だと頭を横に振る。少年が困ったような顔でそれを見下ろしていると、男が苦笑して言う。
「シシ、アルデルフィアが困ってるぞ」
「フォル! フォルも止めてくれよ! 俺はアリィが死ぬなんて嫌なんだよ!」
 植物男を振り返り、吠えるようにそう言うシシに、少年は小さく笑って話しかけた。
「シシ、ありがとう。きみのおかげだよ」
「……俺の、おかげ?」
「そうだよ。シシもいつか、自分の故郷を取り戻すんだろう?」
「うん……」
 海と同じ色の瞳をしている、まだ幼い彼の頭を、少年は優しく撫でた。
「僕も同じだよ。自分の故郷を取り戻す。ただ、それだけだ。死にに行くとか、そういうことじゃないんだ」
「アリィ……」
 シシの瞳から、ついに大粒の涙がひとつ、またひとつと溢れ出す。
「シシ、僕とひとつ約束しよう」
「やぐぞく?」
 涙でぐしゃぐしゃになった声で、シシが訊き返す。
「そう、約束だ。僕は必ず、僕の故郷を取り戻す。だから、シシも必ず、故郷を取り戻すんだ」
「うん……」
 この子供が、いつか国をひとつ取り戻す。そんなことが現実になるのかは、誰にもわからない。しかし、この天涯孤独の男児は、少年の言葉にしっかりと頷いた。少年はそれを頼もしそうに見つめて、さらに言う。
「そうして故郷を取り戻したら、僕の故郷を訪ねにおいで」
「アリィの故郷を……?」
「ああ」
「約束?」
「うん。約束だ」
「わかった、約束する」
 シシがしっかり頷きながらそう言って、少年の身体から離れた。
「シャムナ、」
 次に少年に声をかけたのは、老師であった。
「ご武運を」
 そう言って、老師は古ぼけた小さな壺をひとつ、少年に差し出す。少年はそれを受け取り、しっかりと胸に抱いた。
「ありがとうございました。……ひとつ、訊いてもいいですか」
「それが、私に答えられることならば」
「僕のことを恨みますか、ジェクトル」
 少年のその問いに、老師はしばらく何も言わなかった。少年は唇を噛んだまま、その答えを待った。老師は険しい顔つきになり、生身の左手で義肢の右手を撫でながら言った。
「私がこの右手と、右脚、そして右眼の視力を失ったのは、もう四十年も昔のことです」
 自らの義肢を見下ろす彼は、眉間に皺を寄せながらも、その口元を緩めていた。
「でも私はこの四十年、森を恨んだことは一度もありません。たとえ、私からこれ以上、何かを奪おうと言うのだとしても」
 それは、静かな声音だった。老師は少年と目を合わせ、そして、どこか困ったような顔で微笑んだ。
「アマゾネスの若きシャムナ。どうかあなたに、エマヌールのご加護がありますように」
 老師の言葉は厳かに響いた。少年は深く、こうべを垂れる。老師は少年から目線を外し、背後にいる植物男を一瞥し、なんとも言えない表情をした。
 ただひとり、飄々としているのは植物男だけだった。彼は荷を背負い、コンディノを囲む生け垣に背を預けるようにして、そこに立っていた。少年は男と目が合うと、そちらへ歩み寄りながら尋ねた。
「ご同行頂いて、本当によろしいのですか」
「お前ひとりでは、アマゾネスの地まではとても行けないだろう」
 男は、そう言って悪戯っぽく笑った。少年はそれに苦笑する。
「それに、俺は……」
 男は何かを言いかけ、口をつぐむ。急に真面目な表情になると、生け垣から背を離し、少年に正面から対峙して言った。
「自己紹介がまだだったな」
 その言葉に少年は首を傾げそうになったが、植物男が次に発した言葉に目を見開いた。
「俺の名前はフォレスタ。ドゥ・ラ・ガイ・フォレスティーノ。森に棲む人だ。お前は?」
 それを聞いた少年は少しだけ笑った。そう名乗られたのであれば、こちらも名乗らなくてはいけない。そう呼んでほしいと思う者だけに、呼ばせる名を。
 男の顔をしっかりと見据え、答える。
「僕はアルド。ジンニアス・シエルノ・ブットーリア・エマヌール・ヘンデリック・ジャン・コンボイット・スティツアーノ・ズッキンガーの、アルデルフィア・シャムネード」
 風が吹く。少年の髪が揺れた。前髪の隙間からは額の刺青が見え隠れする。
 彼は名乗る。
 その名を。その命の意味を。
「森を統べる者です」
    それは半月に及ぶ、長い旅路の果てであった。
 銀色に輝く砂漠を、二本の樹木が並ぶように走る。
 一本は背が高く、幹も太く成長した木。もう一本はまだ若い木である。二本の樹木は根を振り上げ、振り下ろし、地を抉るように、蹴り上げるようにして走っている。根に撒き散らされた砂が太陽に照らされ、いくつかの粒が乱反射する。巻き上げられてはきらりと光るが、その軌跡は目で追うよりも早く消えていく。
 若い木の枝の上に、ふたりの人間が乗っていた。
 ひとりは、奇妙な容姿の男である。白い肌に緑色の頭髪、翡翠色の右眼。頭に巻かれたターバンからは頭髪に混じって植物の蔓が伸び、皮膚はあちこちに藻が生えている。失くしたとおぼしき左眼の眼孔からも、緑色した葉が覗いて見える。なんとも不気味な姿であった。ターバンは黒と青の糸で編み込まれており、金色の糸で鳥の刺繍が施されている。どこの部族の物なのかは、それだけではわからない。
 もうひとりは、痩せた少年であった。褐色の肌、黒い頭髪、額には刺青が施され、そして男と同じ、翡翠色の瞳。大陸製の安価な衣服を身に纏っているが、その容姿は彼が大陸出身ではないということを示している。彼はその腕に、小さな壺をひとつ、大事そうに抱いていた。火葬した人間の骨を入れるための壺である。首から提げている銀の首飾りが時折、日光を反射して光っている。
 少年はふいに、その首飾りを手に取り、その緑色の輝きを見つめながら口を開いた。
「知っていますか、翠玉の石言葉」
 話しかけられた男は前を見据えたまま、少年の方を見もしないで答える。
「いいや。知らないな」
「『幸運と幸福』です」
 少年がそう言うと、男は「へぇ」と言った。
「ベッチェがそれをお前に託したのには、そういう意図があったのかもしれないな」
「そうかもしれません。ベッチェの故郷では、また違う意味を持つ石だったのかもしれませんが」
「……なら、翡翠の石言葉を知ってるか?」
「『繁栄』、でしょう?」
「なんだ、知ってたのか」
「アマゾネスの言葉で、翡翠のことをコンボイと言うんです。意味は、『繁栄』」
「なるほどな」
 そんな他愛のない会話が、そこで止んだ。男が言った。
「見えてきたぜ」
 ふたりの目線の先、地平線の向こうに、何やら黒いものが見える。
 それは、黒い大地であった。
 最初こそは小さく見えたその地は、近付いていくにつれ、広大な面積を有していることがわかった。街ひとつ分、もしかしたら小国ひとつ分はあるだろうか。
 無言のふたりを乗せた樹木はその地へと歩を進めて行き、ついには黒い大地の目の前まで到達するとその歩みを止めた。
 黒く焼け焦げた大地に、立ち並んでいるものは炭の塊ばかりであった。それは木々や建物が焼け落ちた跡のようである。かつてここに森があり、人々が生活を営んでいたということが、かろうじてわかる痕跡だ。
 だが今は、かつてこの地がどれほど豊かな土地であったのか、示す物は何も残っていない。人間の姿おろか、動植物のひとつでさえ、いくら見渡しても見つけられそうにない。
 すべてが焼き払われてから、十年以上の月日が経過しているはずであるが、草一本芽吹いてはいない。
「ここでいいです」
 少年がそう言うと、若い木は彼を乗せた枝をゆっくりと地に向けて下ろした。少年は壺を抱いたまま、枝からひらりと舞い降りる。着地した時、足下で舞い上がった砂の粒子がまた一瞬だけ光った。
 少年は振り返り、まだ樹上にいるままの男を見上げた。
「ここからは、ひとりで行きます」
「ああ」
「本当に、ありがとうございました」
 少年が頭を下げてそう言うと、男はまた、「ああ」とだけ答える。その表情にはなんの感情も浮かんではいなかったが、彼の左眼から生えている葉が、風もないのにゆらゆらと揺れた。
「アルド、」
 少年が黒い大地を歩き出そうとした時、男はそう呼び止めた。
「お前は言ったな、自分の命の意味を知りたくはないか、と」
 少年は立ち止まり振り返る。翡翠色の瞳と瞳が交差する。男は続けて言った。
「俺はそんなもの、知りたいとは思わない。俺は、俺ができることをする。ただそれだけだ」
 森に棲む人と、森を統べる者。そっくり同じ翡翠色が、お互いを見つめ合う。
「俺は願ってる。お前の幸福と幸運、そして、お前の故郷の繁栄をな」
 少年は男の言葉を聞いて、黙ったまま立ち尽くしていたが、やがて小さく微笑んだ。
「フォレスタ、あなたがいなかったら、僕はこんなことはとてもできなかった。あなたのおかげです。僕が、自分の命の意味を果たすことができるのは」
 覚悟を決めた少年の顔を見て、男は微かにその口元を緩める。それを見届けてから、少年は今度こそ、男と樹木に背を向けて歩き出す。
 それが、ふたりの別れであった。
 少年はただひとり、焦土と化した自らの故郷を踏み締めて行く。
��   少年の背中がだいぶ小さく見えるようになった頃、男は樹木の枝に括り付けていた荷を降ろし、自らも樹上から降りた。
「ガイーダ、シンバ、今まで本当にありがとうな」
 二本の愛樹の幹を軽く叩きながらそう言うと、木々は枝を揺らし、ざわざわと葉が擦れる音を立ててそれに応える。
 男は頭に巻いていたターバンをほどき、投げ捨てるように地へと放った。吹いてきた風に持ち上げられた砂がターバンにまとわりつくようにかかり、金色の鳥の刺繍は、やがて埋もれて見えなくなった。
「俺も、これでいいんだ」
 ざわざわと木々の葉が揺れる。男の口元には、静かな笑みがあった。
 赤子だった自分を拾ってくれたあの人は、なんて良い名前を付けてくれたのだろう。
 ドゥ・ラ・ガイ・フォレスティーノ。
 森に棲む人。
 植物に寄生され、その毒に侵されながらも生き長らえてきた男には、あまりにもぴったりな名前であった。もしも植物がいなければ、とうの昔に失われていたはずの、自分の命。
 広々とした砂漠に一陣の風が吹く。男の髪が、衣服が、蔓が、葉が、揺れる。
「森が元に戻るのなら、俺の命はそれまでだ」
 翡翠色の瞳が、揺れる。
    少年は黒い大地をただひたすら進み続け、ついにその場所へと辿り着いた。
 黒く焼け焦げた地の中央部付近、そこにはひと際大きな炭が立っている。
 かつてのアマゾネスの中心地、樹木の神エマヌールの化身と言われていた、エマの菩提樹の成れの果てであった。炭となり、かつての身体の半分以上を失っても、残された黒く変色した幹は、かつての巨大さを感じさせるには充分な大きさである。
 少年はその変わり果てた菩提樹の元に、抱えていた壺を置く。それは彼の妹の骨壺である。老師の屋敷の裏手、ひっそりと墓が建ててあったところから、掘り出してきてもらったものだ。
「シェラ、わかる? 帰って来たんだよ、僕たちの故郷に」
 少年はそんな言葉を、今や灰となっただけの妹へ向けて口にする。
 故郷へ帰る。
 そんな日がやって来るなんて思いもしなかった。またこの地に戻って来るなんて。
「父さんと母さんの遺骨がどうなったのかはわからないけれど、良かった、お前だけはこの地で眠ることができる」
 少年はそう骨壺に話しかけた後、巨大な炭の塊と化したエマの菩提樹に片手を突き、その文言を口にする。いにしえより伝わる、アマゾネスの言葉を。
「――アマゾネスの偉大なるエマよ、聞こえますか」
 途端、少年の翡翠色の瞳がまるで宝石のようにきらめき出す。彼は手のひらの内側、触れているエマの菩提樹の何かが、応えたのがわかった。
 樹木の神エマヌールは生きている。炎に焼かれ炭となり、草木も芽吹かない汚れた大地で、しかし、森の魂は死んでなどいなかった。
「僕の名前は、ジンニアス・シエルノ・ブットーリア・エマヌール・ヘンデリック・ジャン・コンボイット・スティツアーノ・ズッキンガーの、アルデルフィア・シャムネード。森を統べる者です」
 風もないのに彼の髪は揺れ、衣服ははためく。まるで彼の周りにおいてのみ、大気が揺らいでいるかのようである。
「僕の名において命じる。森をここへ。森をあるべき姿へ。そして――」
 彼の立つところだけ、円を描くようにして土が吹き飛ばされていく。まるで土がひとりでに少年から逃れようとしているかのようだ。黒い大地が次々とめくれ上がり、吹き飛んでいく。
 少年の額の刺青が、不思議な緑色の光を帯びて輝き出す。奇妙な文様と文字とが組み合わされたその刺青が、左から右へと順に光を灯していく。森を統べる者としての証を示すそれが、瞳と同じ翡翠色の灯に燃える。
 森を統べる者だけが、森を意のままに動かすことができる。
 それは過去に滅んだ言い伝えのはずだった。過ぎ去った伝説となるはずだったのだ。
 失ったものを取り戻す。
 そうは言っても、実際は何ひとつ取り戻すことなどできない。死んだ家族は戻っては来ない。世界のどこかで奴隷として生きているはずのアマゾネスの生き残りたちも解放される訳ではない。この地に再び緑が芽吹いたとして、森が焼き払われる以前の生活に戻れる訳ではない。一度失われたものは、永久に失われたままだ。
 リリンの言う通りなのかもしれなかった。故郷を取り戻しても、それはもはや故郷ではない。
 でもそれでも、少年はこの地へやって来た。
 黒々と汚れた大地からは、森の怒りを感じた。命の誕生さえも拒むような怒気が、この地には満ちてしまっている。
 幼い妹は、たった六歳で命を落とした。
 飛行艇から落ちた彼女の死は、ひとつの森を生み、そしてひとつの街を生んだ。故郷を失った者たちが根を下ろせる街、人間が植物と共存できる街を。
 自分の死は、ここにどんな街を生むだろう。
 この地にはどんな森は生まれるのだろう。どんな街が築かれるのだろう。それを見届けることができないとしても。でもいつか、この地に再び、人間が暮らす日が来るのだろう。人間と森が、共に暮らす未来が。
 少年は懐から短刀を取り出した。
 恐れはなかった。それは己が成すべきことだ。この世界で己のみが、成し得ることができることだ。
 もし本当に、自分が世界じゅうの森を統べる力を持っているのだというのであれば。
 すべての森を、自然の姿に、あるがままの姿に返そう。
 この世界に何かを残せるならば。
 搾取され、強奪されることしかなかった、弱者であった自分が、もしも何かを残せるのならば。
 少年は思い出していた。
 実の両親を殺され、故郷を追われ、育ての親を目の前で亡くした。十年以上、自分の主人として君臨していた、あの雇い主の男に初めて出会った日。他の奴隷たちと共に、足を運んだ大陸じゅうの街。そこで暮らす人々。ある日やって来た、森の行進。過ぎ去った後の荒れ地と、澄み切った青空。そうして出会ったのは、木に乗った奇妙な男。
 森に棲む人。
 彼はそう名乗った。そして、彼は知っていた。少年のことを。その出自を。その瞳に、額の刺青に、心の奥底に隠し持っていたその名に、秘められていた命の意味を。
 男と樹木に連れられて行った街。森と共存できる、人類最後の楽園。「森」と名付けられたその街は、故郷を失い、大切な人を失った者たちが、流れ着く最後の街。
 故郷を取り戻すんだと、幼き門番はそう言った。もう何も、失わなくていいように。
 旅立つ前、少年に翠玉を託した少女の、最後の言葉を思い出す。幸運と幸福と、旅の無事を願ってくれた彼女の、少年にだけ告げられた秘密の言葉。
 ――あなたのいるところは、皆のいるところになる――。
 もしも取り戻せたならば、ここは誰かの故郷となるだろう。今は、少年ただひとりの故郷だとしても。
 彼は、短刀を改めて握り直す。
 そして続きを言う。世界を変えることとなる、その言葉の続きを。
「エマの菩提樹よ、森と、森に棲む者を、永遠に守り給え」
 その声は、まるで祈りのようだった。
 短刀を逆手に握ると、彼はそれを――。
 刃が少年の心臓を貫いた時、彼の双眸は一瞬、鋭く光り、そして、
  その瞬間、世界が静止した。
    それは世界の終わりのようだった。
 世界じゅうに散らばった、走る森たちが一斉に、大陸上のある一点、かつてアマゾネスと呼ばれる地があった場所へと走り出した。
 途中、いくつかの街は森たちがこちらへ向かって来るのを観た。街の人々はパレィドの襲来に怯えたが、それは逃げようのない終末だった。
 走り出したのは、植物男の傍らにいた、ガイーダとシンバも同じであった。もう自分になど脇目も振らず、少年が向かって行った先を追うように遠ざかっていく二本の樹木を、男は静かに見送った。そして彼の身体に長年根を張っていた植物たちも、駆け出そうとしていた。
 頭から生えていた蔓植物は男の頭皮をぶち破って外に這い出し、そのまま二本の樹木を追うように駆けて行った。皮膚に生えていた藻や苔たちも、自然と剥がれ落ちるように彼の身体を離れて行く。左眼の眼孔から生えていた単子葉類たちも、勢いよく飛び出して行く。
 男は獣じみた咆哮を上げていた。身体じゅう、あちこちから血が滲み、白いガーラの衣服はみるみる赤く、そして黒く染まっていった。時折、赤い血液ではなく白い液体が噴き出すのは、今まで身体の中にいた植物たちの体液であった。
 痛みのあまり自力で立つこともままならなくなり、砂の上に転がるが、それでも痛みは治まらない。身体じゅうから次々と植物たちが這い出し、男を置いて去って行く。
 今まで植物男が生き延びることができたのは、植物たちが自分の肉体に寄生していたおかげであった。木々と心を通わせることができたのも、森の出す毒が効かないのも、すべてそのおかげだった。自らの命が植物を通して維持されていたものであるというならば、それらを失った自分がもう生きていけないということはわかっていた。
 でも彼はそれでも良かった。寄生していた植物たちを、自分の肉体から解放する。それが植物たちにできる、最期のことだと思った。
「森が…………戻って来る、のか……」
 倒れて地に付いた耳は、いくつもの森が群れとなってこちらへ向かってくる地響きを、遠のいていく意識の中、かろうじて捉えていた。
 今まで森は、男を襲うことは決してなかった。人間を狙って襲ってくる森にとって、半分植物に侵された自分の姿は、人間だと認識されないのだろうと思っていた。しかし今の彼は、その植物を失った。そのままここで倒れていては、やがて迫り来る森たちに踏み潰されるのだろう。
 否、と、男は自分の血に塗れた両手を見つめて思う。そうでなくても、自分はもう長くはない。
 男は霞む視界の中、満足そうに笑った。
 あの少年は、本当にやり遂げるのだろう。故郷の森を取り戻し、森たちに根を下ろさせるのだ。世界じゅうで、植物たちが暴走することがなくなる。人間と森はまたいつか、共存することができるようになる。
 思い出す。瓦礫の中から助け出した少年が、初めて目を覚ました時のこと。自分と同じ、あの翡翠色の瞳を見て、男は心のどこかで思っていた。この少年は、自分の仲間なのかもしれない、と。翡翠色の瞳は、森と心を通わせられる存在であるという、その証。
 自分だけではなかった。世界にひとりぼっちではなかったのだ。どういう経緯で産まれ、植物に寄生されたのかはわからない。どの街にいても気味悪がられたこの存在は、しかしひとりではなかった。ただそれだけのことが、男の胸の内側をゆっくりと潤していく。
 もう息をするのも苦しかった。まぶたを下ろす。その翡翠色の瞳を闇の中へと誘う。
 森の足音が轟音となって迫り来る。その震動がはっきりと肉体に伝わってくるようになってきた頃、男はついに意識を手放した。
    懐かしい声が聞こえたような気がして、振り返ってみれば、妹が兄の名前を呼びながら、こちらへ駆けて来るところだった。
「どうしたんだ、シェラ。またべそをかいて」
 兄は片膝を突くようにしてしゃがみ込み、妹の身体を抱き締める。くしゃくしゃした黒髪を優しく撫でて慰めてやった。妹は額の、彫ったばかりの真新しい刺青を痛がって泣いているようだった。
「おにいちゃん、おでこがいたいよ。どうしてこんなこと、しなくちゃいけないの」
「それが森を司る者の証だからだよ、シェラ」
 そう言ってたしなめようとする。
 兄の額には、「スティの文様」。
 妹の瞳には、「ミィの文様」。
 森を統べる者と、森を司る者。
 延々と受け継��れてきた、森と人とを結ぶ紋。
 兄は妹よりも二年早く、その刺青を額に記していた。否、二年早くではない。彼がそれを額に彫り込んだのは、十年以上前のことになるのだ。
 妹の姿は、昔のままだった。しゃがんだ兄の胸の高さに、やっと小さな頭が届く背の高さ。成長したのは自分だけだ。
「あれぇ? おにいちゃんも、いたいの?」
 妹は兄の胸元を触り、その赤色が自分の小さな手に付着したのを見て、そう言った。兄は妹の手を取り、血が噴き出したままになっている自身の胸の上から遠ざけた。
「いいや、僕は痛くないよ」
「でも、血がでてるよ?」
 兄が安心させようと笑顔を作ってみせても、妹はなぜだか不安げなままだ。
「わたしが、わたしがちゃんと、おでこの痛いのがまんしなかったから、おにいちゃんも痛いの?」
 さっきまでとは違う、痛みに耐えているからではなく、違うものに耐えている涙が、妹の瞳にみるみるうちに溜まっていく。その瞳は、兄と同じ、翡翠色。
「わたしが、森を司る者としての、ちゃんと果たさなかったから?」
 妹の声は、涙に濡れて聞き取りづらかった。それでも、兄はその声に耳を傾け、ゆっくりと首を横に振る。
「違うよシェラ。僕たちは、もう家に帰るんだ。その時が来ただけなんだよ」
「おうちにかえるの?」
 涙を零したまま、きょとんとした顔をする妹に、兄は優しく言う。
「そうだよ。さぁシェラ、お兄ちゃんに教えておくれ。おうちに帰ったら、まずどうするんだっけ?」
 妹は泣き止んだ。さっきまでの泣きべそが嘘のように、太陽のような明るい笑顔を見せる。
「おうちにかえったら、ただいまっていうのよ。そうしたら、おとうさまとおかあさまが、だきしめてくれるの」
 妹は突然、兄に抱きついた。小さな手が、まるで何かを労わるように、彼の頭を撫でる。
「『おかえりなさい、よく帰って来たわね』って!」
    心臓に刃が突き刺さったまま、少年の身体は崩れ落ちる。ちょうど真下にあった妹の骨壺を倒した。壺は割れ、遺骨が散らばる。遺灰はすぐに吹き荒ぶ風に流され、砂に紛れて区別がつかなくなった。
 倒れた少年はとうに絶命していた。閉じられたまぶたがもう開くことはない。胸元で、彼の瞳とよく似た色をした翠玉が、ただ静かに日光を浴びて光っていた。
 少年の身体の下にある地面が、突然地割れを起こした。少年と妹の遺骨は、砂と共に地の割れ目へと流れ落ちていく。反対に、その割れ目の中、地上に向かって急速に伸びてくるものがあった。
 それは一本の樹木であった。地中から枝が地を破るように突き出し、幹はみるみる膨張し、表面の樹皮が瞬く間に分厚くなっていく。枝からは零れ落ちるかのように新緑が芽吹き、あっという間に葉が茂っていく。
 それと同時に、炭に成り果てたエマの菩提樹が音もなく倒壊していった。今まで十年以上、雨に晒され風に吹かれながらもそこに立っていた炭の塊は、いとも容易く細かい粒子と化して崩れ去っていく。まるで、自分の役目はもう果たされたのだとでも言うように。
 代わりに、そこには、少年の命と引き換えに生まれた、新しいエマの菩提樹があった。百年近くずっとそこに生えていたのだとでも言うような顔をして、その木はアマゾネスの大地に君臨していた。
 地平線の向こうから、何かがこちらへ近付いて来る。乳白色をした巨大な物体。それらは巨大な土埃であった。
 地響きが聞こえる。大地の歓喜を代弁しているかのような、リズムを持った地響きだ。
 森がやって来る。
 草一本生えぬ、不毛の地となったこの大地に、森が帰って来る。
    そうして、大陸じゅうを駆け回っていた植物たちは、すべてがアマゾネスの地に集結し、そこで静止した。地に根を下ろし、もう動かなくなったのである。
 これにより、大陸ではパレィドという、森の行進による自然災害は起こらなくなった。
 大陸歴五九〇三年、大陸王シャンデム八十二世は、アマゾネス保護法を発令。何人たりともアマゾネスに根を下ろした植物に危害を加えてはいけないとした。
 また同時に、植物改造禁止法が出され、大陸王都は異なる種の植物をふたつ以上掛け合わせることを禁じた。
 このふたつの法が発令された背景には、デアモンドという名の年老いた学者の助言があったとされているが、王都の公式文書にはその旨に関する記述は残されていない。
 また同年、シャンデム八十二世は、パレィドの発生をとある手法により完全に抑制した者として、ひとりの少年に最高級の勲章を授けた。王都の中心にはその少年の功績を称えた銅像が建立され、その瞳部分には最高品質の翡翠が埋め込まれた。銅像の台には「コンボイノ・アルド」という名が、どこかの古い国の言葉で刻まれている。
 五九二八年、シャンデム八十二世は老衰によりその生涯を閉じた。御年九十七歳であった。彼は生前の貢献を称えられ、死後は「深緑の皇帝」という贈り名で呼ばれてい���。
 時が経ち、大陸歴七〇〇〇年代、大陸王シャンデム百十五世から百四十二世までの時代に、大陸上の森林面積は二千年前のそれとほぼ等しい大きさにまで復活する。
 大陸歴七〇二四年には、三千年近い歴史を持つ、王都の地下農場が閉鎖となった。地上における農作物生産量が、地下農場の生産量を四倍近く上回るようになったためである。
 大陸歴七〇四五年、森林解放令が発令され、人間は森林に居住を構えることが許されるようになった。しかし、これには「従来の森林面積の十分の一以上を損失させないこと」という条件が付加された。
 人間は再び、森と共に暮らすようになった。
 かつて、アマゾネスと呼ばれていた地は、コンボイという名の森林都市となり、大陸で王都に次ぐ街となった。
 大陸に住む人間は皆、今の自分たちの生活があるのは、かつてひとりの森を統べる者が、不毛の大地に森を取り戻してくれたからだということを知っている。コンボイノ・アルドというその森の統治者の名前は、後世まで伝説として語り継がれている。
  ちなみに、コンボイノ・アルドとは、「翡翠色のアルド」という意味である。
    まぶしさを感じ、男は目を開けた。
 最初に見えたのは白い光、そして、それを遮ったり遮らなかったりと、風に揺れる枝に茂った葉の、一枚一枚の影であった。
 何か身体の下に妙な感触を覚え、手をやると、そこには一面、草が生い茂っていた。まだ生えたばかりのような、若い青々とした草原が広がっていた。そこに生えていたのは草だけではない。そこは森の中であった。見渡す限りどこまでも木が生え、立ち並んでいる。ここではなぜか空気が澄み、ひんやりと感じられる。
 男は眠っている間、夢を見ていた。
 飛行艇が故障し、森の中へと墜落した夢だった。
 数本の木が飛行艇との衝突によってへし折られ、怒り狂った森は毒素を吐いた。その毒により、壊れた飛行艇の中でまだかろうじて息があった人間たちが死んでいた。
 飛行艇の中では、赤ん坊がひとり、泣いていた。奇跡的なことに怪我はないが、泣き声は弱々しい。赤ん坊の両眼はそれぞれ色が異なった。左眼は青色、右眼は翡翠の色によく似た、深い緑色をしていた。
 赤ん坊のすぐ側で、女がひとり死んでいた。赤ん坊の母親のようであった。褐色の肌に黒い髪、翡翠色の瞳をしていた。身なりからして、奴隷のようだ。飛行艇が落下した際、天井部分の鉄骨が胸に刺さって死んでいた。
 その女に手を伸ばすようにして死んでいる男がいた。白い肌に金色の頭髪、青い眼をした男だった。裕福そうな恰好をしており、それなりに社会的地位の高い人物であるということがわかる。この男は、外傷はたいしたことはないようであったが、森の吐く毒にやられたのであろう、両眼をひん剥き、泡を噴いて死んでいた。
 一本の樹木が、触手のような枝を伸ばし、ふたりの男女の間で泣くその赤子に絡み付くと、そっと持ち上げ、飛行艇の中から外へと連れ出した。
 そこで、夢は終わった。
 目を覚ました男は周囲を見回しているうちに、見ていた夢のことなど忘れてしまった。
 男は新緑の頭髪に、白い肌をしていた。身体のあちこちに傷を負ってはいたが、それらはすでに出血は収まっていた。身に着けていた衣服はあちらこちらが引き裂かれ、また黒々と汚れており、本来はどんな色の布地だったのかはもはやわからない。
 ふいに、蹄の音がして男は振り向く。
 そこには、一頭のロッシュが立っていた。前歯が剥き出しになっているその顔は、どこか愛嬌がある。ロッシュはゆっくりと男のところまで歩み寄って来ると、こうべを垂れた。
 半身を起こしたままだった男は、恐る恐る手を伸ばし、その頭を撫でてやった。するとロッシュは、まるで喜んでいるかのように目を細める。
 家畜の一種であるロッシュが、どうしてこんな森の中にいるのだろう。ロッシュには面繋が掛かってはいるものの、轡も手綱も見当たらない。誰かが放してやったのか、それとも人間の手を振り切って逃げて来たのか……。よく見れば、右耳が少し欠けている。
 男はそんなロッシュの頭を撫でてやっているうちに、自身に起こったことを思い出した。
「ここは、アマゾネスなのか……?」
 鬱蒼と茂る森の中、彼の言葉に答える者はいない。かつては言葉を投げかければ必ず応えてくれていた木々たちも、ひっそりとして大人しい。
「森が、戻って来たのか……」
 そっと左眼に触れる。そこには何もなかった。植物も、自身の眼球もない。ただぽっかりと、空虚だけが広がっていた。
「なら、どうして俺は生きている……?」
 半身であった植物を失えば、自分は生きていられるはずがないと、そう思っていた。そうでなくてもあの出血だ。生きているはずがなかったのだ。ではこれも夢か、はたまたここは死後の世界か。
 呆然とする男の頬を、ロッシュがべろべろと舐め始める。「おい、よせ、こら」と男は声を上げながら、ロッシュの頭を遠ざけ、身体じゅうの痛みに顔をしかめながらも、なんとか立ち上がる。
「ったく、よせって言うんだ」
 そう言いながら男はロッシュの首に片腕を回し、片脚を引きずるようにして歩き出す。左半身は思うように動かない。これも、植物を失ったためであろう。
 そんな男に、ロッシュは大人しく従い、寄り添っている。
 ふと、男はロッシュの顔に掛けられた面繋に、何か���字が刺繍されていることに気付く。それはかろうじて「コンタット」と読むことができた。
「お前、コンタットっていうのか? それともこれは、お前の主人の名前か?」
 男は尋ねるが、もちろんロッシュは答えない。ぶるるるる、と鼻を鳴らしただけだった。
「まぁ、どっちでもいい、コンタットと呼ばせてもらおう」
 男がそう言うと、ロッシュは長いまつげに縁どられたその黒い瞳で、男の方をちらりと見た。まるで、「じゃあお前の名前はなんだ」とでも言っているような、そんな一瞥に感じられた。
「俺か? 俺は…………」
 どこまでも続く広大な森の中を、ロッシュに支えられて歩きながら、男は逡巡する。
 かつて植物と共に生きていた自分に与えられていた、その名。
 自分はなぜ、生きているのか。
 どうして生き残ったのか。
 もしも、まだ自分に生きる機会が与えられているのだとすれば。そうであるならば、森と共に生きよう。なぜならば、己の名前は――。
 男は答える。
 前を見据えるその右眼は、まるで翡翠のような緑色。
 森と同じ、色をしていた。
       了 
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kurihara-yumeko · 4 years ago
Text
【小説】翡翠色のアルド (3/4)
 (2/4)はこちらから→(https://kurihara-yumeko.tumblr.com/post/660226170376306688/)
 コンディノで暮らし始めて三ヶ月が過ぎようとしていた頃だった。
 その日は、朝からなんだか騒がしかった。少年は、通りから聞こえてくる子供たちの声で目を覚ました。部屋の窓から路地裏を覗いてみると、数人の子供たちがはしゃぎながら駆けていくのが見えた。
 どうしたのだろう。今日は何かのお祭りなのだろうか。しかし、今までそんなことを話していた住民はいなかった気がする。
 外の水場で顔を洗おうと、寝間着のまま廊下に出た途端、少年は小さな金色とぶつかりそうになった。咄嗟に身をひねって衝突を回避したが、ぶつかってきた方はよほど慌てていたのか、突然廊下へ出て来た少年を避け切れず、その場で尻餅をついている。
「ごめん、ベッチェ。大丈夫?」
 金髪の少女、ベッチェは差し出された少年の手をしっかりと握って、立ち上がりながら頷いた。少年は彼女に怪我がないことを確認しながら、呆れたような顔で言った。
「そんなに急いでどうしたの? 靴も履かないで」
 ベッチェの足元は裸足であった。身に纏っている衣服も、急いでいたのか、ところどころ乱れている。けれど彼女の表情は、心なしか、いつもより活き活きと輝いているように見えた。
 言葉を話さない彼女は少年の手を取ると、その手のひらに指で文字を書いた。
『かえってきた』
 彼女は大陸語でそう書くと、一体「誰が」帰って来たのかを尋ねようとした少年をその場に残し、そのまま駆けて行ってしまった。
   「グーテン・モンド(こんにちは)、ドゥ・ラ・ポルフォンド・リッチェ(おぼっちゃん)。長いこと待たせて、すまなかったね」
 顔を洗ったばかりの少年を、植物男が呼びに来た。そうして連れて来られたのは、コンディノの外れ、「ミィの森」に抱かれているように建つ、大きな屋敷。その屋敷で少年を出迎えたのは、年老いたひとりの男であった。
 折れ曲がった鉤鼻に、窪んた瞳、顔じゅうに刻まれた深い皺は、その男がかなりの高齢であることを示していた。長いローブから覗く左手は骨ばっており、顔同様に皺だらけであった。老人の右手と右足は精巧に作られた義手と義足で、そのつるりとした代替品の手足は、皺だらけの肉体には不釣り合いだった。
 鼻にちょこんと装着された片眼鏡は、男の青白く濁ったその右眼が視力を失いかけていることを示している。長い白髪を束ねもせずに肩から垂らし、一瞥しただけでは老婆かと見間違う。けれども、男はすらりとした長身で、その背は少しも曲がっておらず、その立ち振る舞い、声の張りは、年齢相応のそれにはとても見えなかった。
 老人の話し方は妙な訛りを帯びていて、彼もまた、どこか異郷の地から来た人間であるということは明らかだった。
 応接間で少年を出迎えたその老人は、長椅子から立ち上がると、義手ではなく生身の肉体である左手で握手を求め、口元の皺をより一層深くして微笑んだ。旅から帰って来たばかりだと言うのに、疲れは微塵も見せない表情であった。少年は恐る恐るその手を握り返し、微笑みを返した。
「お会いできて光栄です、デアモンド・ジェクトル」
「さぁ、ダ・ポルフォッチェ、腰を掛けて。フォレスタ、お前はお茶を淹れて来てくれるかな」
 老人は少年に椅子を勧めた後、植物男へ向かってそう言った。フォレスタと呼ばれた男は当然のように「ああ」と返事をし、屋敷の奥へと姿を消す。
 フォレスタ、という呼び名に、少年は以前、植物男が口にしていた言葉を思い出す。親しい者が呼ぶ愛称というものは、そう呼んでほしいと思う者にだけ呼ばせるものだ、と。コンディノの人々にフォルと呼ばれているこの男をフォレスタと呼ぶのは、少年が出会った中ではこの老人だけだった。
 このデアモンド老師こそが、ドゥ・ラ・ガイ・フォレスティーノを拾い育てた研究者である。
 森を追跡しているうちに木々からの攻撃によって右腕と右足を失い、毒に侵された右眼がほとんど見えなくなった彼は、ミィの森に住むことを唯一許された、この街の創始者である。大陸じゅうを旅しているうちに、動くことのないこの森を発見した彼は、ここに森と人が共存できる街を造り上げたのだった。
「では、ダ・ポルフォッチェ、まずはこの老いたデアモンドに名前を聞かせて頂けるかな?」
 老師の悪戯っぽい光を宿した瞳に促され、少年はその長い名を名乗った。老師はその名を耳にしても、植物男と同様に、顔色ひとつ変えなかった。静かに頷き、
「実に良い名だ。森に寵愛されし、硬玉の双眸の、博学で、勇敢な、森のスティツアーノ(統治者)。きみはアマゾネスの王族の末裔――いや、シャムネードという名が入っていたね? それは王位継承者にしか名乗ることが許されない名だ。きみはアマゾネスの王になるべき人だったんだね、ダ・ポルフォッチェ」
 と、すべてを見抜いた声で言った。少年は驚きながらも、老師の言葉に頷く。
「さて、そんなダ・ポルフォッチェが、この老いぼれになんのご用かな?」
「森について、教えてほしいのです」
「森について。はてさて、奇妙なものだ。きみは森のスティツアーノだろう、ダ・ポルフォッチェ。スティツアーノがジェクトルに何を訊きたいのかな?」
 老師はさらに悪戯っぽくそう尋ねた。少年は淀みなく答える。
「どうしたら、森は地に根を下ろすのでしょうか」
「森が地に根を下ろす、つまり、木が走り回ることなく、ある一点に永住するということかな?」
「その通りです、ジェクトル」
「なるほど。ではこの老いぼれにもうひとつ教えておくれ、ダ・ポルフォッチェ。森に根を下ろさせて、きみはどうするつもりなのかな?」
「故郷を復興します」
 少年の答えに、老師の瞳から笑みが消え失せた。代わりに鋭い光が宿る。老師は何も言わずに両手を顎の下で組むと、瞳を閉じた。
 それは少しの沈黙だった。けれども彼と対峙する少年には、その時間がとてつもなく長く感じられた。
 やがて老師はまぶたを開けた。その瞳に灯る光は、攻撃性も威圧性もない、ただただ柔和な光だった。彼の口元が、さらに柔らかい笑みを形成する。
「シャムナ(陛下)、この老いぼれは、ずっとお待ちしておりましたよ、あなたのようなお人を」
 老師の声は厳かに響いた。
「知る限りのことをお話ししましょう。長い話になります。老いぼれの喉を潤すことが必要です。ほら、ちょうど私の息子が、お茶を淹れて来た」
 廊下の向こうから、嗅いだことのない不思議な香りがしてきたと思ったその時、茶器を載せた盆を抱えて、植物男が応接間に戻って来た。
    大昔、人間は森と共存し、自然と共に生きていた。
 山の実り、森の恵み。人間はそれらに依存しなければ生活することができなかった。食べる物、着る物、生活するのに必要な物すべてが、森に由来していた。
 森に神々が宿っていると信仰されるようになったのは、当然のことだった。豊穣の年は神々に感謝し、災いに見舞われた年は、森に跪き許しを請うた。
 その生活に変化が起きたのは、今から五百年ほど前のことになる。大陸西部にあるゴドナという小さな村で、新しい野菜が生み出されたことがすべての始まりであった。
 その地方では、人々の主食はジャガイモの一種であるファリコであった。乾燥した大地で育てるのに適した作物である。しかしゴドナという村は湿地帯にあり、ファリコの耕作には適していなかった。
 ゴドナ村には大きな湖や川がいくつもあり、村人たちはキッチェモという魚の塩漬けを出荷することで収益を得ていた。人々は街まで塩漬けを売りに行き、得た金でファリコを買って暮らしていたのである。
 ところが、ある年の秋、毎年川を上ってくるはずのキッチェモが一匹も獲れないという事態に陥った。その年の春先、降り続いた大雨によって川が氾濫し、河口付近の川の流域が変化し、キッチェモが今までと同じ経路を泳いで来なくなったのである。
 キッチェモの塩漬けが主要な収入源であったゴドナ村の人々は困り果てた。ゴドナ村は特別貧しい村ではなかったので、街へ行商に行かずとも、村で自給自足の生活をすることも可能であったのだが、しかし主食であるファリコはどうにも収穫することができない。ファリコを食べるためには金を稼ぎ、他の村まで買いに行かねばならなかった。
 村を暗い空気が重たく覆い始めた頃、他の作物と接ぎ木すればこの地でもファリコが育つのではないか、と言い出したのは、村で最も頭脳明晰なひとりの青年であった。
 青年はミミボラの茎をファリコの茎に接ぎ木することを提案した。ミミボラという植物の実は、大きさの割に中身は空洞が多くで、少ない果肉もその大半を水分が占めているので、加熱すると食べられる部分はほとんど残らない。苦味が強く、火を通さずには食べられない。しかし、湿地帯で育てるのに適した植物であり、ゴドナ村では特に世話をした訳でもないのによく穫れる作物であった。青年はそんなミミボラを、ファリコの栽培に上手く利用できないかと考えたのである。
 接ぎ木はなかなか上手くいかなかった。当時、同じ種で違う色の花が咲く株同士を掛け合わせて新しい色の花を咲かせる、といったことはなされていたが、まったく異なる植物同士を掛け合わせるなど、まだ誰もしたことがない時代である。本当に植物の茎同士をくっつけることなどできるのか、村人たちも不安げに見守るしかなかった。
 村の中でも信心深い人々は、異なる種を合わせてひとつの形とする行為を、植物に対する冒涜だと言った。樹木の神がきっと黙っていないだろう、と反対した。
 しかし、村人たちの不安や反対とは裏腹に、青年は試行錯誤を繰り返し、ついに接ぎ木は成功した。ゴドナ村で初めて、ファリコがしっかりとした実を結んだのである。たちまち、村じゅうは大騒ぎとなった。
 接ぎ木によって実を結んだものはわずか十二の苗しかなかったが、青年はその苗からファリコの実を回収し、それを種として栽培し、その苗をまたミミボラと接ぎ木して実を収穫し……そうして接ぎ木を繰り返していくことで、青年はついに、湿地帯でも充分に育つファリコの品種を生み出すことに成功した。
 ゴドナ村は喜びに包まれた。新品種は青年の名にちなんでネモデファリコと名付けられ、やがて村じゅうで栽培されるようになった。行商に行かずとも主食のファリコが村内で充分に収穫できるようになり、その噂を聞きつけた近隣の湿地帯にある村が、ネモデファリコの種を買いに来るようになった。
 この話は大陸じゅうに広まった。湿地帯に暮らすゴドナ村の人々が乾燥帯の植物であるファリコを栽培しようとしたように、乾燥帯に暮らす人々は湿地帯の植物を栽培するべく、接ぎ木の実験を始めた。より日照りや干ばつに強い品種を開発しようという試みや、寒さに強い品種を作ろうという試みが、あちこちの地域で行われるようになった。作物の品種改良は瞬く間に進み、種のない果実を結ぶようになった果樹や、冬になっても穫れる夏の作物などが誕生した。
 品種改良は作物に限らず、紙を製造するのに使われる植物や、材木となる木々、家畜に食べさせる牧草までもが改良された。こうして、大陸の各地で植物たちの大規模な改良事業が行われたのである。
 これらの動きは、ゴドナ村での品種改良が発端となったことに由来して、ゴドナ革命と呼ばれた。ゴドナ革命により、人間は自然の脅威を克服する術を手に入れた。日照りの夏も、冷夏も、作物の収穫に困ることはもはやない。雪の中でも栽培できる作物が登場したことによって、冬の蓄えに苦心することもなくなったのである。
 自然の恵みに頼らずとも生活に困らなくなった人々は、森を崇拝し、神々に感謝することはなくなっていった。自分たちの食卓を彩るものが、神の恩恵によるものではなく、人間の知恵と努力によるものとなったからである。
 事件が起こったのは、ゴドナ革命から約百年が経過した頃のことであった。革命の発祥の地であるまさにそのゴドナ村で、村人全員が死体となって発見されたのである。
 村人たちの顔は紫色に変色し、白目を剥いている者、泡を噴いている者などさまざまであったが、皆、苦しげな表情で絶命していた。千五百人ほどいた村人が全員、ほぼ同じ死に方をしているのである。生き残っている者は誰ひとりとしていない。すぐに王都から調査団が派遣され、死因について調べることとなった。
 調査の結果、死因は毒物による中毒死であることが判明した。死んだ村人の中には、亡くなる直前に食べかけのふかしたネモデファリコを口にしていた者が複数人おり、当初はファリコに毒が仕込まれたのではないかという推測がなされた。
 また、畑からはネモデファリコの苗がひとつ残らず消えていた。村じゅうをどれだけ捜索しても、発見することができたのはすでに収穫された実か、調理された実か、あるいは次の春に埋めるための種としてのファリコであり、栽培されているはずの苗がひとつもないのである。村じゅうのファリコの畑は、まるで掘り起こされたかのように、土がひっくり返されていた。
 何者かがファリコの苗に毒を仕込み、毒を吸って実ったファリコを食べた村人が全滅した後、証拠品である苗をすべて持ち去ったのではないか。調査団は残されていた収穫済みのファリコを持ち帰り、それをふかして囚人に食べさせる人体実験を行った。しかし、それで亡くなる囚人はおらず、体調にも異常は認められなかった。
 一体、何が起きたのか。謎が解けないまま月日が流れ、しかし半年ほど経った頃、ある湿地帯の村でも同じことが起きた。村人たちが不可解な中毒死を遂げて全滅し、ファリコの苗はひとつ残らず消えたのである。
 調査団がその村に駆け付けた時、村にはたったひとり、まだ息のある村人がいた。その村人が虫の息で口にした証言が、大きな衝撃を与えることとなる。
「他の種と掛け合わせて改良した作物が突然、土から自らの根を引き抜き、走り出した」
 と、いうのである。
 村人たちが呆気に取られていると、作物たちはあっと言う間に駆け回り、村の外へと走り去って行ってしまった。その直後、村じゅうには原因不明の甘い香りが漂い始め、その匂いを嗅いだ者が次々と倒れ、苦しみながら死んでいったのだ、と。最後の村人はそう証言した後、息を引き取った。
 この証言はにわかには信じられなかった。植物が動き出すなど、起こり得るはずがない。しかし、調査団はそれを信じるしかなくなった。これに類似した証言が、大陸のあちらこちらから聞こえるようになったからである。
 そして、さらに大きな事件が起きる。走り出したのは、改良された農作物だけではなかった。人の手が加えられていた新種の樹木も、自ら動き始めたのである。樹木の場合は、農作物よりも被害が甚大となった。木々は時に家々を破壊し、人間を押し潰し、街を破壊して回った。
 改良植物による文字通りの暴走、その度に空中に吐き出される毒素により、大陸の人口は一時、その四分の一を失う結果となった。
 国土は荒れ果て、生活は困窮し、人々は飢えた。人間は植物を恨むようになった。森を憎み、木々や草木を焼き払う活動が大陸全土で行われた。
 ゴドナ革命以降も、種の改良をせず、その地域、気候で育つ作物だけを栽培して生活していたごく少数の部族もあった。彼らは大陸人たちから野蛮人だと見なされ、迫害を受けていたが、森を焼き払う活動が活発となってから状況はさらに悪化した。いくつもの部族の村が森林ごと焼かれ、多くの人間が、死ぬか、生きていても囚われ、奴隷となるかのどちらかであった。
 しかし、状況は一向に好転しない。人間が森を焼き払っていくうちに、改良種ではない植物たちもまた、暴走を始めたのである。まるで人間の行動に反抗しているかのように、草木は動き出した。特に、原生林はその暴走が顕著であった。人里から遠く離れた山の木々たちが、突如として大移動を始め、麓の村を壊滅させるということは珍しくなかった。
 大陸じゅうで植物たちが移動を始め、そうして、走り去った植物たちが一体どこへ行ったのかは、誰にもわからなかった。植物はもはや、芽吹いた地に根を下ろしそこで一生を終える生き物ではなく、どこからともなく駆けて来て、人間の生活を破壊する、竜巻のような自然現象となった。
 以前から王都の地下には巨大な農場があり、人間や家畜の食物のための作物が栽培されていたが、今や動かない植物はその地下にしか存在しなかった。地下農場はその後の三年間で約八倍にまで面積を拡大した。生産された野菜や穀物を大陸じゅうに流通させるために、旅商人の役割が肥大化し、住み処や職を失った多くの人々が旅商人となり、大陸の生活を支えた。
 かつて緑が茂っていた大地は次々と荒野と化し、都市は城壁を建造して森の襲撃に備え、城壁の内側ではあらゆる植物が焼却され、人間の生活から植物たちは閉め出された。
 そうして、この地球上から、植物と共存できる大地はなくなった、と言われていた。
「――種を掛け合わせて新種を生み出したことが、植物が走り出す原因となったということですか?」
 少年の問いに、老師は目を細めた。
「さぁ、それは私にもわかりません。ただひとつ言えることは、我々人間が、何か自然の摂理を破壊してしまったということです、シャムナ」
 老師は奇妙な文様が描かれた白磁器の茶器を口元まで運び、もうすっかり冷め切った、残り半分ほどの小豆色の液体を飲み干した。それは、妙に甘い匂いのする茶であった。
 少年の前に置かれた茶器の中は、とっくに空になっている。ちょうど、植物男が新しい茶を淹れるために席を立ったところであった。
「シャムナ、この老いぼれは、植物は人間に対して恨みを抱いているのではないかと思うのです。さもなくばどうして、あやつらはパレィドなど組み、街を襲うというのでしょう。あやつらは、人間以外の動物には危害を加えません。パレィドに街が踏み潰されても、その街の家畜のほとんどは死にません。その街の人間がたとえ全滅したとしてもです。あやつらは、人間を狙って襲います。これは明らかでしょう」
「しかしジェクトル、この街では、植物が人を襲わないではないですか」
 少年がそう問いかけると、老師はその目元を緩めて微笑んだ。その微笑みは、どこか悲しげでもあった。喉を震わせるように、ゆっくりとした声で老師は答える。
「この街には、女神様がおられるのですよ、シャムナ」
「女神様?」
「リュカオン神話の中にアマゾネスにまつわる伝承があるのをご存知ですかな?」
「エマヌールの伝説のことですか?」
「いかにも」
 エマヌールとは、樹木の神である。
 創造主リュカイオスは、海の女神ネモレネが寵愛を拒んだことを怒り、大地の男神ヴァンドゥと共に下界へ追放するが、その際、ネモレネはリュカイオスに無理矢理手籠めにされ、身籠ってしまう。恋人同士であったネモレネとヴァンドゥはこのことで破局し、下界ではネモレネは海、ヴァンドゥは陸地に別れて暮らすこととなる。ネモレネがリュカイオスの子を産んだことで生命豊かとなる海とは反対に、ヴァンドゥの住む陸地は彼の鎮まらぬ怒りのために、生命が住むことを許さない汚れた大地と化す。
 リュカイオスは太陽の神、月の神、闇の神を下界に遣わし、三人の神が代わる代わるヴァンドゥを慰めようとするが、それでも恋人を奪われた彼の怒りは鎮まらない。困り果てたリュカイオスは自身の左手の薬指の骨を使ってネモレネそっくりの娘を創り上げ、それを下界へと送り込む。
 その娘の名はエマヌール。彼女はヴァンドゥの怒りを鎮め、汚れた大地を癒すが、しかしネモレネと同じ外見のエマヌールを愛したのは、創造主であるリュカイオスも同様であった。リュカイオスはヴァンドゥと愛し合うエマヌールの心臓を光の矢で射抜き、その魂を昇天させることで、天界へ呼び戻そうと企む。
 しかし、リュカイオスのその企みを知ったヴァンドゥは、エマヌールに「地上から二度と逃れられない」という呪いをかけた。矢で射抜かれたエマヌールは、その魂が天へ昇ろうとするように、両腕が空へ向かって伸び、しかし両足は呪いのために根となって地へとしがみつく。そうして、エマヌールは一本の樹木に変身してしまう。
 それをふたりの愛の深さ故だと考えた創造主リュカイオスは、そこでエマヌールを我が物にすることはやめ、樹木となった彼女に樹木の神としての称号を与える。大地の神ヴァンドゥは樹木となった彼女を生き長らえさせるために、自らの怒りを鎮め、生命溢れる大地へと環境を整えていった……。
 それが、この世に人間が誕生する、ずっと以前の物語、エマヌールの伝説である。
「リュカオン神話において、エマヌールが下界で最初に下り立った地が、アマゾネスであると言われております。それと同じです。このコンディノの街にも、エマヌールが下り立ったのですよ」
「それは、どういうことですか」
 話の最中に、植物男が新しい茶を淹れて戻って来る。老師はそれをちらりと見上げ、「ありがとう、フォレスタ」と小さく礼を言って盆から茶器を受け取った。少年も、小さく会釈をして茶器を手に取る。
「シャムナ、コンディノの街ができる前、ここはただの砂漠の果て、草木が生えぬ荒れ地にすぎませんでした。それが十年前のことです。ひとりの少女がこの地に落ちてきた。そしてそこに、森が集ったのです」
「落ちてきた……?」
「セクサヴォイノットをご存知ですか。彼女はそこから落ちてのです」
 セクサヴォイノット。別名は、「空飛ぶ娼館」。
 少年はその名を知ってはいたものの、実物を見たことはおろか、それに乗ったことがある人間の話を聞いたこともなかった。情事を楽しむためだけの飛行艇など、金持ちの中でもごく限られた人間しか興じることのできない、趣味の悪い贅沢である。
「私は幸か不幸か、偶然その場に居合わせました。飛行艇から落ちた少女は助からず、すぐに息を引き取りました。飛行艇は止まることもなく進み続け、私は残された彼女の遺体を埋葬したのです。まだ幼い少女でした。年齢��五つか六つほど、褐色の肌、黒髪、額には刺青があり、かろうじて『ミィ』という文字が読めました」
 十年前。
 娼館。エマヌール。森。少女。褐色の肌。黒髪。額の刺青。ミィ。
「異変が起きたのは、その時でした。突然、地平線の向こうからパレィドが現れた。彼女の死に引き寄せられたかのように」
 やって来た木々たちは少女の遺体を囲むように集まり、そして、その場に根を下ろし、そのまま動かなくなった。
「私は生まれて初めて、森が動かなくところを見ました。彼らが、本当の意味で森となるのを。それがこの屋敷のある、ミィの森です。この森ができてから、この地は変わり始めた。荒れ地だった大地には新緑が芽吹くようになり、植物たちは走り出さなかった。動かない植物が生えるようになったのです。そして私は、この土地に街を造った。この、コンディノの街をです」
 老師の声は、どこか悲痛な響きを持って発せられた。少年は何も言わず、ただ老師をじっと見据えていた。
「もしかしてシャムナならば、おわかりなのではないですか。その落ちて来た少女の名を」
 老師の言葉に、脇で聞いていた植物男が目を見開いた。まさか、と男が言いかけた時、少年は口にする。あまりにも幼いうちから娼婦であったのであろう、その少女の名を。
「――ヒストリア・ブットーリア・エマヌール・ヘンドリック・ジャン・コンボイット・ミードリラマ・ズッキンガーの、シェリアンナ」
 声は震えた。堪えられるはずがなかった。鼻の奥が痛くなり、見えているはずの景色が溶けるようににじんだ。
 その長い名前を、直接呼んだことなど今までなかった。彼女自身、名乗ったことすらないのではないか。少年に奴隷としての名が与えられたのと同じように、彼女にも娼婦としての名が与えられていたはずだ。まだ幼かった彼女は、自分の名の意味するところなど知ることもなく、娼婦として死んでいったに違いなかった。
「まさか、森がこの地に根を下ろしたのは……」
 少年が絞り出すかのように言ったその言葉に、老師は静かに首を横に振る。
「いいや、シャムナ。あなたはすべてご存知のはずだ。あなたは森を統べる者。森と契約を結んだアマゾネスの王族の一族は、その命と引き換えに森を生むことなど容易いはずです」
 この森を生んだのは、たった六歳で自ら命を落とすこととなる、少年の妹だったのだ。
「あなたは仰った。森に根を下ろさせるにはどうしたらいいのか、と。森が走り回り人間を襲うのは、彼らが怒り狂っているからです。もう四百年近く、彼らは怒り続けている。自らの種を汚され、多くの仲間が焼き殺されたことを恨んでいる。その怒りを鎮めることが、彼らに根を下ろさせる最大の手段でしょう。これはそう簡単にはいきますまい。彼らは人間の願いなど容易に聞き入れたりはしない。しかし、森と契約を結んだ者ならば、もしかしたらできるのかもしれません」
「……ジェクトル、僕に一体何ができると言うのですか」
 少年の言葉に、老師は静かに告げる。
「世界じゅうの森に、根を下ろさせることです」
「世界じゅうの森に……?」
「左様。あなたは森を統べる者。かつて、アマゾネスは広大な森でした。もしも、本当に故郷に森を取り戻したいというのであれば、その森を再び、統べるしかないでしょう。それができるのは、森と契約を結んだ者だけです」
 老師はその瞳にどこか冷たい光を宿したまま、正面から少年を見据えたまま、そう言った。それから、その目を伏せるようにして、茶をひと口飲む。
「もしかしてあなたは、森を呼び戻す儀式について、ご存知なのではないですか? あなたの命を代償にして森を生む、その儀式を」
   「アルデルフィア、」
 植物男が少年の部屋の扉を開け、中を覗き込んだ時、少年は普段着のまま寝台に腰を降ろし、開け放たれた窓から夜空を見上げているところであった。青白い月光が少年の頬を撫でるように照らしている。
 老師の屋敷から戻った少年は、それから部屋にこもったまま、夕食の時間になっても部屋を出なかった。彼は植物男を見やると、「フォルさん」と掠れた声で言った。
「入ってもいいか」
 植物男がそう問うと、少年は頷いた。男は部屋へ入って扉を閉めると、少年の寝台に近付いたところで、そのまま床に腰を降ろした。
 男の左眼から生えている植物が、風もないのに揺れている。男はいつものターバンを頭に巻いていなかった。日除けとしているそれは、夜間には必要がないのだ。月明かりに照らされた緑色の頭髪は、まるでひとつの茂みのように見える。
「妹だったのか」
 男が尋ねると、少年はまた頷いた。「たった五つで娼館に売り飛ばされた、可哀想な妹でした」と、どこか淡々とした口調で答える。
「きみのご両親は、どうした?」
「僕の両親は、僕が七歳の時に目の前で殺されました。でもそれは、育ての親です。本当の両親、アマゾネスの王と妃であった僕の肉親は、僕と妹がまだ物心つく前に、やはり殺されたと聞いています」
「そうか……」
 ゴドナ革命以降も植物に手を加えることなく、原種のままの森を保っていたアマゾネスは、大陸人たちに集落ごと焼かれ、植物と共存のできない「不毛の地」となった。
 少年は故郷での記憶を持たない。物心ついた時には実の両親を失い、養父と養母の手によってガンジードへ渡り、奴隷として暮らしていた。そしてその養父母もまた殺され、妹は娼館へと売られた。
 その妹の命と引き換えにできたこの街で、少年は奴隷としてではなく、ひとりの住民として暮らしている。
 両親のように殺されることもなく、パレィドに襲撃された街でも、ただひとり生き残った。偶然出会った植物男に導かれるようにこの街へ来て、住み処と仕事を得て、生きている。
「なぜ、故郷を取り戻そうと思った?」
 植物男の問いに、少年はすぐには答えなかった。しばらくその瞳を空に浮かぶ月に向けたまま、口を閉ざしていた。男はそんな少年を黙って見つめていた。それ以上、彼に問うことはなかった。
 無言の時間が流れた。コンディノの街の夜は静かだ。どこの家々も灯かりを落とし、扉を閉ざして眠りに就く。窓を開けたまま耳を澄ましてみても、何も聞こえてこない。聞こえてくるのは、自分の鼓動の音だけである。
「シシに、訊かれたんです。『故郷を取り戻したくないのか』、って……」
 静寂に小さな傷でも付けるように、少年はそう言った。その顔は空を仰いだまま、けれども、そこに見えない何かを見据えたような瞳をしていた。
「フォルさんは、自分の命の意味を知りたくはないですか。自分はなぜ、生きているのか。……自分はなぜ、生き残ったのか」
 植物男は答えない。
 老師が森と出会い、手渡された不気味な赤子。植物に寄生され、その毒に侵されながらも、生き長らえた奇跡の子。
 どんな経緯で自分が生き残ったのは何もわからないまま、人々には悪魔の子だ、異形の子だと疎まれた。
 育ての父に連れられ、森を追いかけ、その途中であちこちの街へ立ち寄った。どの街に滞在している間も、その容姿は人々に恐れられてきた。育ての父は愛情をかけて自分の面倒を見てくれたが、それでも、彼が心を開くことができる相手は植物だけだった。
 ガイーダに出会ったのは八つの時。パレィドからはぐれてしまったまだ幼木だったガイーダとはすぐに心が通い、自分を一番太い枝に乗せてくれるようになった。
 誰もいない広々とした荒野を、ガイーダに乗って走っていると気持ちが良かった。世界でたったひとりになれたような気がした。人間でもない、植物でもない自分の居場所など、この世界のどこにもなかった。
 父がコンディノという街を造ってからも、それは変わらない。
「ここを、お前の故郷だと思えばいい」
 そう言われたが、彼はそうとは思えなかった。自分のルーツがどこなのか、大陸じゅうを旅しても見つからない。赤子だった自分に巻いてあった奇妙な布地も、どこで織られたものなのかわからない。
 自分はどこから来て、なぜ生き残ったのか。何があって、こんな奇妙な姿となったのか。
 何度も自問したその問いの、答えは未だ見つからない。
 黙り込んだ男の前で、少年が再び、静かに口を開く。
「自分はなぜ生きているのか……。僕は今まで、そんなこと、考えたこともありませんでした。僕はずっと奴隷でした。強者がいれば弱者もいる、それが世界のすべてでした。食べ物も着る物もろくに与えられず、冷たくて硬い床の上で眠りました。何日も野宿させられることもありました。寝袋もホロンバもなく、砂の上に丸まって眠るんです。主人の夜の相手をしている時だけは寝台に横になれますが、仕事が終わればすぐに追い出されました」
 語る少年の声音には、憎悪も嫌悪もなかった。侮蔑も屈辱も滲んでいなかった。何も感じさせない声で、ただ淡々と彼は語った。
「僕はそれを、ずっと当然のものだと思っていた。僕が奴隷だからだ、と。僕が弱者だからだ、と。でも僕は知っていた。主人も、あの街も、何もかも、自然には勝てない。どうあがいたところで、森を止めることなどできない。パレィドがやって来たら、瓦礫の山の下敷きになるしかない。でも、それでも僕は助かる。翡翠色の瞳を持つ、僕だけは」
 月の光に照らされた少年の瞳が光る。同じ色の瞳で、男が少年を見つめている。
 男はその時、彼の瞳に力が宿ったのを見た。彼のなんの感情も浮かべていない表情に、初めて変化が現れる。それは強い意志だった。燃えるような、決意の炎が灯される。
「僕は何もかも奪われた。故郷も、家族も失った。でも僕は、もう奴隷じゃない。僕は知りたい。僕は何者なのか、何ができるのか、なんのために生き残ったのか」
 それは、ひとつの反撃であった。
 父と母は殺された。妹は命を落とした。アマゾネスに住んでいた人々は、今どこで何をしているのだろう。大陸じゅうに奴隷として売られていった人々。
 それでも少年は、奪われた名を取り戻した。
 ズッキンガーの、アルデルフィア。
 自分がもし、もうひとつ、奪われたものを取り戻せるとしたら。
「僕は故郷を取り戻す。命に替えてでも」
 翡翠色の炎が、少年の瞳の中で燃えている。しかしその灯は、植物男を見やると、唐突に揺らいだ。
「ですが、そうすることで、あなたは……」
 その表情は悲痛に変わった。しかし少年が言いかけた言葉を、男は遮るようにして言った。
「お前は、そうすることで自分が何者なのか知ろうっていうんだな、アルデルフィア。アマゾネスにもう一度、森を取り戻して。森に、根を下ろさせることで」
 男は少年の瞳をじっと見つめていたが、やがて小さく頷いた。
「いいだろう。それが、お前の望むことならば」
 男は立ち上がる。その左眼の植物が揺れる。
「俺には故郷と呼べる地などない。だが、お前は森を統べる者なんだろう? 取り戻すべきなのかもしれないな、お前自身の森を」
※(4/4)へ続く→(https://kurihara-yumeko.tumblr.com/post/661496285368598528/)
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kurihara-yumeko · 4 years ago
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【小説】翡翠色のアルド (2/4)
 (1/4)はこちらから→(https://kurihara-yumeko.tumblr.com/post/659320383660507136/)
 コンディノという街を、少年は知らなかった。
 大きな都市や、何か特徴のある街の名前が有名になるのは当然のことであったが、その地名すら、耳にした覚えはない。
 人間が植物と共存する、最後の楽園。
 そんな街が、まだあると言うのだろうか。この大陸上に。
 植物男はその言葉通り、その日から三日、瓦礫を掘り起こして貴重品の発掘に努めた。荒れ地と化した街で金品になりそうな物を見つけてそれを売る、それが彼の生業らしかった。途中、いくつもの遺体も掘り起こされ、男はそれを丘の上に墓を掘り、埋葬していった。
 ビルドは決して裕福な街ではなく、金目の物はたいして掘り起こせなかったが、それでも男は黙々と作業を進め、遺体を埋葬した。そうして三日後にはホロンバを畳み、荷をまとめてガイーダに括りつけると、シンバの枝にひらりと飛び乗った。
「さぁ行こうか、アルデルフィア」
 植物男が自ら調合したのだという怪しげな薬のおかげか、少年の足の怪我は少しずつ回復を見せ、自力で立ち上がり、なんとか歩けるようになっていた。てっきり瓦礫に押し潰されたのだと思っていた彼の両足は、瓦礫の隙間に挟まっていただけだったようだ。
 男に手を引かれ、少年が一番低い枝に腰かけると、シンバの根は土を蹴り、勢いよく走り出した。ガイーダも追うように駆けて来る。
 パレィドが向かって来る時、遠く離れたところからもその土埃が見えるほど、それは凄まじい勢いになるものだが、シンバとガイーダの速度は、それに比べるとずっと穏やかなものであった。しかし、馬車なんかよりはずっと速く、少年はこんなに速く駆ける物に乗ったのは初めてのことだった。
 シンバとガイーダは、昼間は走るだけ走り、日が沈む頃に自然と歩を緩め、地に根を下ろすと水を吸い上げた。
 植物男は枝から下りて荷を広げ、ホロンバを組み立てると火を起こして食事を作った。少年はホロンバの中で眠ったが、男はホロンバで眠る日もあれば、ガイーダの幹に背中を預け、外で眠る夜もあった。朝になるとガイーダが汲み上げた水で顔を洗い、身体を拭き、簡単に食事を済ませると、荷をまとめてまた走り出す。
 ビルドの街は遠くに過ぎ去り、とっくに見えなくなっていた。瓦礫の山と化した廃土の街に、少年はなんの寂寥も覚えなかった。それは、主人に連れ歩かれ、旅の途中にたまたま滞在していた街だったから、という訳ではない。
 少年は、かつて故郷を失った。大陸人に焼き払われ、昔は緑豊かな熱帯だったというアマゾネスの地は、水も涸れ果てた不毛の地と化していた。
 強い者は弱い者を蹂躙する。土地は、強い者によって奪われる。それが、少年にとって「自然」の姿であった。街が失くなるということも、人が死ぬということにも、彼は少しも心を痛めなかった。土地も人間も、強き者の前に崩れ去っていっただけだ。それが彼にとって、生き物としてのごく自然な死に方だった。
 走り続けて三日が経った頃、何もなかった荒野の向こうに、緑色をした巨大な城壁が見え始めた。残りの四日は、ただひたすら、その城壁に向かって走り続ける日々となった。
 それは巨大な城壁だった。当初、少年は自分の目を疑った。遠くに見えるはずの城壁が、あんなに大きく見えるだろうか、と。しかしそれは、距離が近付くほどに高くそびえ建つように見え、そして、それは「城壁」などではなかった。
 それはただただ巨大な、生け垣であった。
 街をぐるりと円形に取り囲む、巨大な樹木による囲い。数十本もの巨大な樹木が円を描くように生え、隣の木々と枝を重ね合い、絡み合うようにして立っているのだった。その木々たちに守られるように、街の様子は外からは一切見えない。
「ひとつ、言い忘れていたことがあったな」
 呆気に取られている少年を見て、植物男が笑いながら告げた。
「コンディノは、太古の言葉で『森』という意味だ。この街は地図には載っていない。この有り様だから、ただの森だと思われている。森に近付く人間はいない。ここを知っているのは、この街の住民と、それから、王都の最高機関にいる連中くらいだ。大陸王シャンデム八十二世はこの街を密かに愛し、大陸最大の秘密事項のひとつとして、保護してくれている」
 その言葉に、少年の翡翠色の双眸は大きく見開かれる。延々とシャンデムの名を継ぐ、この世界を統治する人間は代々、森林を嫌い、焼き尽くしてきた。その名を名乗る八十二人目の男が、『森』と名付けられた街を愛し、守っているだなんて。
 少年と植物男を乗せたシンバが近付いて行くと、どこにも切れ目などなかった生け垣の一部が、樹木が自然と枝を縮め、身を寄せ合うようにして空間をあけた。
 なんとかシンバが通り抜けられるほどの隙間が空いた途端、生け垣の向こうから、ひとりの子供がひょっこりと顔を覗かせた。
 それは、少年よりも七つか六つは幼いであろう男児であった。燃えるような赤毛に、そばかすが散った顔。低い鼻をひくひくと震わせている様子や、外部を睨みつけるように見回す三白眼は、まるで小動物を思わせる。背が低く痩せているその男児は、みすぼらしい服を着ていたが、瞳は美しい緑色をしていた。少年や植物男のような翡翠色ではないけれども、その青みがかった深い色は、海を連想させる色であった。
「フォル! もう帰って来たのか? お帰り!」
 侵入者を窺うような表情でこちらを見ていた男児は、樹上の植物男の姿を見ると表情をぱっと明るくした。男の異様な容姿を見ても、怯える素振りは少しもない。
 男児は木製の槍のような物を携えていた。そこに刻まれた文様が、大陸の遥か南方、海に面した地方の物であると、少年はすぐに気が付いた。
「よぉ、シシ。ただいま」
 植物男は男児にそう言葉を返し、ひらりと枝から地へ舞い降りる。少年もそれに倣って、地上へ足を下ろした。枝に提げていた荷を降ろすと、植物男はシンバとガイーダ、二本の樹木を見上げて言った。
「ここまで、ありがとな。しばらくゆっくりしてていいから」
 植物男の言葉を聞き分けた樹木は、太い枝を上下に揺すると、来た道をゆっくりと引き返して行った。またどこかに根を下ろし、水を吸い上げ休むのだろうか。
「木とはここでお別れなのですか」
 少年が尋ねると、植物男は荷を背負いながら答えた。
「街に一緒に入ることも可能だが、やつらは街の中よりも、自由に外を駆け回る方がずっと好きなんだと」
 そう言う男の口元には、笑みが浮かんでいた。樹木たちを慈しんでいる様子が窺える、そんな笑い方だった。
「そっちは?」
 シシと呼ばれた男児が、少年の方を見てそう訊いた。その表情には、余所者を見る時の怪訝そうな色が浮かんでいる。
「こっちはズッキンガーのアルデルフィア。パレィドが通った後の街で出会ったんだ。行くところがないって言うから、連れて来た」
 植物男がそう紹介すると、男児は少年をまじまじと見やり、奇妙そうな顔をした。
「こいつ、フォルの隠し子?」
「そんな訳ないだろう。失礼だぞ、シシ」
「だって、目の色がおんなじだ。フォルの右眼は、珍しい色をしているのに」
 シシは少年の翡翠のような両眼をじっと見つめてそう言う。植物男はそんな男児に苦笑して、次に少年に向き直った。
「アルデルフィア、こっちは門番見習いのシシ。この街の八つある門のうち、南南西の門を守ってる。仲良くしてやってくれ」
 少年は頷いた。シシに向き直り、「よろしく」と微笑むと、シシは驚いたような表情をして、「よ、よろしくな……」と返事をした。
それからシシは、植物男にこう言った。
「フォル、ジェクトルなら、また出掛けちゃったよ」
「そうか。しょうがねぇなぁ、あの親爺は……」
 男と少年が生け垣の穴を通り抜けると、木々はまた枝を絡め合い、穴をすっかり閉じてしまった。
「さぁ、アルデルフィア。ようこそ、コンディノへ」
 生け垣の内側は、大きな街だった。赤茶色の石畳と、同じ色の石が組み上げられて造られた建物。建築物はどれも背が高く、連なるように並び、その景色がどこまでも続いていた。合間に屋台や、背の低い建物が建っている。どれも何かの店のようだった。
 人々は大陸式の衣服を纏い、道を歩いていた。荷馬車に乗って行く人や、ロッシュを連れて歩く人もいる。奴隷として生きてきた少年には、彼らが貧困層ではないということが一目でわかった。この街は、比較的裕福な街のようだ。
 何よりも驚いたのは、街のあちこちに、植物が生えていることだった。道の両端には樹木が一本ずつ並び、店の前には人間のくるぶしほどの高さにしか満たない、背の低い植物が生え、色鮮やかな花を咲かせている。それらは人間を襲う素振りも、街を破壊する様子も見せず、ただ大人しくそこにいる。
 少年が呆然としていると、植物男は苦笑して、「行くぞ」と一声かけて歩き出した。
 男が最初に少年を案内したのは、一軒の店だった。
 それは四階建ての建物であったが、一階部分は部屋の内壁のほとんどを棚が覆い尽くしており、日用品や食料品などが所狭しと並べられている。今にも溢れ出しそうだ。雑貨店かと思いきや、奥にあるカウンターでは、客たちが軽食を口へ運んでいる。飲食店も兼ねているようだった。客たちは訪れた植物男と少年をちらりと見やったが、特別驚くような様子もなく、食事を続けている。
「おや、フォルじゃないか。お帰り」
 カウンターの向こうには、恰幅の良い中年の女がおり、店に入って来た植物男を見てそう声をかけてきた。長い髪を後ろで結い上げ、白い前掛けをした彼女は、なんとも立派な肉体をしていた。女性らしい、ふっくらとした肉感を強調したような身体と、それでいて清々しさを感じさせる、爽やかな笑顔の持ち主であった。
 女の名はリリン。この店の主である。
 リリンの店は、一階が雑貨店と軽食屋、二階と三階は貸し部屋であり、四階が彼女の住居となっていた。「部屋は空いているか」と尋ねた植物男に、彼女は屈託のない笑顔を見せた。
「フォル、後ろの美少年は一体誰だい? またどこからか拾って来たんだね?」
「ああ、パレィドを追いかけてたら出会ったのさ。名前は、ズッキンガーのアルデルフィア。こいつがこの街に居着けるように、いろいろ世話してやってもらえないか」
 植物男がそう言うと、リリンは何度も頷いた。
「あんたが連れて来る子に悪い子はいないからね。別に構わないよ。それにしても、たいそう立派な名前だねぇ、アルデルフィアなんてさ。あたしには恐れ多くて呼べやしないよ」
 そんなことを言いながら、リリンはその黄金の瞳で少年を見やった。
「あたしはリリン。あんたのことは、アリィと呼ばせてもらうよ。庶民のあたしには、立派な名前は呼びにくいからね。アリィ、あんた、年はいくつだい?」
「十七です」
「そうかい、年齢の割には小柄だ。栄養のあるものを食べなきゃいけないね。三階の一室をあんたに貸そう。とびきり美味しい食事付きだよ」
 リリンは部屋の鍵をカウンターの引き出しから取り出すと、少年へと手渡した。
 植物男は言う。
「リリン、飯より先に湯を沸かしてくれないか」
「わかったよ、風呂だね。――おおい、ベッチェ、お湯を沸かしておくれ!」
 リリンが声を張り上げると、店の奥から金髪の少女が顔を覗かせた。
 青白い顔の痩せているその少女は、最初にリリンの顔、それから植物男と少年を見やり、小さく頷いた。それから、ぱたぱたと軽やかな足音を立てて店の裏手へ駆けて行く。リリンはカウンターの中から身体を拭うための布と簡易な着替えをふたり分取り出し、それを男と少年へ手渡した。
「浴場は店の裏手だよ。そっちの裏口から行っとくれ」
 呆気に取られたままの少年の肩を軽く叩いて、植物男が歩き出す。少年はリリンに軽く会釈をして、男の背を追う。彼女は眩しいほどの満面の笑みで、片手を振ってふたりを見送ってくれた。
    リリンはこの街で「マスーラ・リリン」と呼ばれている。
「マスーラ」というのは、太古の北国の言葉で「母」という意味だ。
 彼女は北国から大陸へやって来た移民で、若くに夫を亡くし、単身コンディノに移住してきた。移住後は今の店を開き、ひとりで切り盛りしながら、多くの孤児たちを引き取り、親代わりとなって育ててきた。病気や紛争で親を亡くした子供、貧困や迫害から逃れて来た子供、元は奴隷であった子供……。
 リリンは子供たちを店の三階に住まわせ、自分の店で働かせたり、働き口を見つけてやったりしながら養っている。子供たちに献身的な行いをする彼女の姿を、街の人々は敬意を込めてマスーラと呼んだのだ。
「さっきのベッチェという娘も、門番の仕事に就いていたシシも、リリンがここで面倒を見ている。ベッチェも、元はよその街で奴隷として扱われていたんだ。あんたと同じようにな」
 植物男は、浴槽の縁に腰を降ろしたままでそう言った。白い皮膚のあちこちに藻を生やしているこの男は、湯に浸かることはできない。腰回りに布を一枚巻き、湯気のこもる浴室で天井を見上げている。
「俺は、あんたはリリンのところに住まわせてもらって、この街で働くのがいいと思うんだよ。あんたさえ良ければ、だが」
 少年は湯船に浸かったまま、その話を聞いていた。固い布を丸めたもので身体を拭ったり、川で水浴びをしたりという経験はあったが、今まで入浴というものをしたことがない彼は、植物男に入浴の作法を教えてもらい、やっと落ち着いて湯の中に半身を浸しているところであった。
「リリンは、自分のことを庶民だとか、恐れ多くて立派な名前は呼べないだなんて言ってたけどな、あの人は祖国では、相当裕福な家系に生まれたんだ。絶対に名乗ろうとはしないが、本当は彼女もそこそこ長い名前を持っているはずだ。親が決めた男と結婚するのが嫌で、好きだった男とふたりきり祖国を出ていろんな国を回って、このコンディノにやって来た。リリンが去った後、彼女の祖国では内戦が起きて、国はほぼ壊滅状態になった」
 植物男は続けて言う。
「門番見習いのシシは、南方にある小さな島国の生まれだが、祖国が大陸から攻め込まれてな。三つの時に戦争孤児となって、奴隷市にかけられそうになっていたところを俺が拾ったんだ。それ以来、この街で暮らしている」
 少年の脳裏に、リリンの鮮やかな笑顔と、シシの感情表現豊かな顔がよぎる。
「この街は、流れ者ばかりが住む街だ。自ら祖国を捨てた者、祖国を失った者、祖国から追放された者……そんな人間が集まって、この街はできている。街に生えている植物たちを見ただろう? 走り出しもしなければ、毒を吐いたりもしない。この街では皆、土に根を下ろして生活している。ここは、そういう場所なんだ。根を張るべき土地を失い、大地をさまよい続けた者たちが、再び根を下ろして生きていく場所。支配者はいない。階級も階層も存在しない。誰もが一本の木で、木が集まって森になる。それがコンディノ、『森』だ」
「……ドゥ・ラ・ガイ・フォレスティーノ」
 少年がつぶやくようにその名を口にすると、植物男は小さく頷いて微笑んだ。
「そうだ。俺たちは、『森に棲む人』なんだ」
    リリンの店の三階の一室をあてがわれた少年は、その晩、奴隷として生きるようになって初めて、寝台で眠ることとなった。
 今までは、冷たい床の上で寝ることも、馬小屋で藁にまみれて眠ることも厭わなかった。奴隷という身分である自分には、それがふさわしいとすら思っていた。それ以外の生活には一生、縁がないはずだった。
 満足するまで食事にありつけることや、風呂で湯に浸かること、手足を伸ばして温かい布団の中で眠ることなど、夢のまた夢で、否、夢見ることさえなかった。
 コンディノの街に辿り着くまでの日々を振り返り、とても奇妙だ、と少年は思う。
 家畜小屋の前でロッシュの毛並みを撫でていたあの時、遠くから近付いて来るパレィドを見て、決してこんな未来を想像した訳ではない。パレィドに襲撃され、たとえ自分が生き残ったとしても、人々が死に絶え壊滅した街で、途方に暮れていたはずだった。近くの街まで砂漠を渡って行くことも叶わず、瓦礫に埋もれたまま衰弱し、死を待つだけだったのではないか。遅かれ早かれ、自分は死ぬはずだったのだ。それがどうして、腹いっぱいに胃袋を満たし、柔らかな布団に包まっているのだろう。
 自分はずっと弱者であった。強き者に跪き、こうべを垂れて生きていく。それが自らの生き方だと思っていた。そうではない世界を、彼は知らなかった。
 アルデルフィア。
 それは、いつぶりに呼ばれた名であっただろう。奴隷の自分には、あまりにも長すぎた名前。
 彼はずっと「ジブ」であった。社会の中で最下層の弱者であった。強者としての自分の名が、再び呼ばれる日が来るなんて。父でも、母でも、妹でもない人間が、その名を呼んでくれる日が訪れるなんて。家族が見ていたら、一体なんて言っただろうか。
 血の繋がらない自分たち兄妹を守ろうとして殺された父。大勢の男たちに組み敷かれて殺された母。あまりにも幼いうちに娼館に売られた妹は、その後どうなったのだろうか。故郷は今、どうなっているのだろう。
 少年は慣れない寝床で眠れないまま、部屋の天井を見上げ、そんなことを考える。家族がどうなったのかなんて、故郷がどうなっているのかなんて、今まで考えたこともなかった。
 どうして自分は、生き残ったのだろう。なぜこうして、救われたのだろう。
 なんて数奇な運命だろうか。
 まぶたを閉じることもできず、少年はただ、天井を見上げ続ける。明け方が近付き、窓から見える空が白け始めるまで、そうやっていつまでも、彼はその翡翠色の瞳を瞬かせ続けた。
    植物男が口にした通り、コンディノは人間と植物が共存している、不思議な街だった。
 人々は果実や作物を栽培し、それを収穫して暮らしていた。作物は王都の地下にある大農場でしか穫れないと思っていた少年には、驚きであった。
 街の人々の中には自ら店を営む者もいたが、住民のほとんどは小さいながらも自らの農場や果樹園を持ち、植物の世話をして暮らしていた。
 雨の少ない季節になったら、畑の作物に毎日水をやらなくてはいけないのだという農夫の話に、少年は目を丸くした。植物というものは、自ら水源を探し求めて移動し、硬い土を掘って水を吸い上げるものだとばかり思っていた。水をやり、肥料を与え、病気にならないように気を遣い、時には受粉まで人間が手を貸さねば実を結ばない。動かない植物というのは、少年にとってはまるっきり未知の生き物であった。
 そして人々は、植物をまるで神のように崇め、日々その恩恵に感謝をして生活を営んでいた。コンディノの街外れにはひと際鬱蒼と茂る森があり、人々はそこを「ミィの森」と呼んでいた。その森は街の中で最も神聖な場所であるとされ、限られた人間しか足を踏み入れることが許されていないのだという。
 森の入り口には小さな祠が祀られており、人々は自らの畑で収穫があると祠へ赴き、森に対して感謝の言葉を口にして祈りを捧げる。植物に限らず、何者にも信仰心を持たない少年にとって、それも真新しい光景であった。
 コンディノの人々が植物の他に崇高しているものが、もうひとつあった。それは、この街の創始者の存在である。かつてはただの荒れ地にすぎなかったこの場所に街を造ることを考案したのは、たったひとりの男なのだという。
 その男こそ、植物男を拾い育てた養父である。街の人々は彼のことを、敬意を込めて「ジェクトル」、つまりは「老師」と呼んでいた。
 ジェクトルとは弟子が師を呼ぶ時に用いる敬称のひとつであるが、通常は、自らの師のさらに師、そのさらに上の師匠に対して使用される。社会的身分の高さは名の長さが物を言うが、元の身分が低い者が後に高い位に就くと、名ではなく敬称で呼ぶのが大陸流である。ジェクトルと呼ばれるその男も、元は大陸西部に暮らしていた、貧しい家の出自なのだという。
 どこに行ったとしても気味悪がられそうな容姿の植物男は、この街の住民たちからは奇異の目で見られていないように思われた。植物男に連れられて少年は街のあちこちを歩いたが、すれ違う人々は男の姿を目にしても顔色ひとつ変えなかった。それどころか、親しげに挨拶をする者の方が多かった。少年はそのことが少なからず衝撃的であったが、植物男本人に言わせると、それさえもジェクトルのおかげらしかった。
「コンディノの皆が俺のことを仲間の一員だと受け入れてくれるのは、俺が親爺の養子だからさ。そうじゃなかったら、誰も口なんて利いてくれないだろうな」
 どこか皮肉めいた口調で男はそう言って、肩をすくめてみせた。そんな扱いにはとっくに慣れている、とでも言いたげな表情であった。
「ジェクトルというのは、そんなに偉大なお方なのですか」
 少年の問いに答えたのは、リリンの店の常連客たちだった。
「そりゃあ、偉大さ。俺たちの日々の生活があるのは、森とジェクトルのおかげなんだからな」
 昼間は畑仕事や、街の城壁――この場合は生け垣だが――の手入れをしている屈強な男たちは、日が沈むとリリンの店にやって来て食事を摂った。そして、日焼けした浅黒い肩を揺らしながら、口を揃えてそう言うのだ。
「この街では、太陽の下に生きる者は皆、揃って平等だ。部族や身分で区別される大陸とは違う。流れ者の俺たちにとって、こんな住みやすい街を造って下さったジェクトルは、本当に立派なお方だよ」
 辛口のバッカス酒を、まるで水を煽るかのように飲み干していく男たちは、日焼けなのか酔いなのか判別できない赤ら顔をしてそう語った。
 ジェクトルの偉大さ、この街の素晴らしさ、植物への感謝。男たちの語りはいつものことなのか、店の主人であるリリンは、半ば呆れたような顔で酒を注いで回る。熱心に耳を傾け、うんうんと頷いているのは、奥から酒のつまみを運んで来るベッチェだけだった。この少女もまた、ジェクトルに拾われてこの街へやって来たひとりなのだ。
 少年はしばらくの間、コンディノの街をあちこち見て回っていたが、やがて、リリンの元で働くことを決めた。
 彼はすぐに仕事を覚え、リリンが何か命じることがなくても、自分のするべきことを見つけ、彼女を手伝った。その頃には、怪我をした足は、もうすっかり良くなっていた。
 コンディノの人々は、少年を新しい住民としてすぐに受け入れた。リリンの呼び方にならって彼は「アリィ」と呼ばれ、また彼自身もそう名乗るようになった。
 リリンの店の客たちと親しくなると、彼らの家の修繕や、農作業、荷物の運搬など、生活の手となり足となって働いた。少年は何事においても飲み込みが早く、手先の器用さもあって、どこへ行っても重宝された。
 一日じゅう誰かの作業を手伝おうとする少年に、リリンは「もう奴隷じゃないんだから、毎日毎日働くことはないんだよ」と言ったが、彼は身体を動かし、毎日何かしらの役目を担っている方が、何もしないでいるよりもずっと気が楽だった。
 しかし、どれだけ働いても、少年は心の奥底から湧いてくる違和感から逃れることができなかった。コンディノの人々の仕事をどれだけ手伝い、感謝されたとしても、かつて奴隷としてロッシュの世話をしていた時のように、それを自分の仕事なのだと思うことはなかった。
 コンディノという街を、自分の街なのだと思うこともできなかった。彼は街の中では来訪者であり、この土地に根差して暮らしている人々のようにはなれそうになかった。リリンはそれを、「まだこの街に間もないからさ。じきに慣れれば、ここがあんたの居場所になるよ」と言ってくれたが、少年は直感的に、自分がそう思える日々は未来永劫に訪れないような気がした。
 本当に自分はここにいていいのだろうか。
 本当に、自分が成すべき仕事とはなんなのか。
 コンディノで生活していくうちに、いつしか少年は、そう考えるようになっていた。
 そんな少年が唯一やりがいを見出すことができたのは、街に暮らす年下の子供たちに大陸語を教えることだった。
 リリンの店で働くベッチェも、彼に言葉を教わる生徒のひとりとなったが、彼女は一切声を発さなかった。なぜ彼女が話さないのかは、リリンでさえも知らない。口が利けないのか、大陸の言語がわからないのか、彼女自身がそれを語ることができないからである。ベッチェは、リリンや客たちが話す単語のいくつかを聞き取ることができたが、複雑な話や難しい単語になると理解できていないようだった。
 ベッチェは透き通るような金髪と、闇のような漆黒の瞳、山脈のようにくっきりとした高い鼻の持ち主で、それは大陸中央に位置する高山に暮らす部族の特徴だった。
 もし彼女がその部族の出身なのだとしたら、コンディノに流れ着いた者の中では珍しく、大陸人ということになるが、その部族は大陸語を用いず、独自の言語を話すのだという。ベッチェは大陸語の読み書きがまったくできず、筆談さえできなかった。
 少年は作業の合間を縫って、ベッチェに大陸語の読み書きを熱心に教えた。彼女は、決して聡明であるとは言えないが、少年は根気強く教え続け、ベッチェも一生懸命であった。
 少年はそんな彼女に、ビルドの街で出会った、水汲みの少女フィーデを重ねていた。ベッチェと同じように金髪であったあの娘は、大陸人とどこかの部族の混血児であった。大陸人と変わらぬ容姿であるにも関わらず、大陸語が話せなかったフィーデは、大陸人からも奴隷仲間たちからも疎まれていた。しかしベッチェは、コンディノの住民に愛されていた。
 少年とベッチェ、それから植物男は、リリンの店の三階で寝泊まりしていた。門番見習いのシシは、去年まで同じようにリリンの店に住み込んでいたそうだが、今は門番たちが寝泊まりする宿泊所に居を置いている。しかし、非番の日になるとリリンの元に顔を出し、時には朝から晩まで、店の仕事を手伝うこともあった。
 最初こそ、少年を警戒する目で見てたシシであったが、時が経つにつれ、笑う顔もよく見せるようになった。
「アリィはどこから来たんだ?」
 非番の日、シシは自前の古い槍の手入れをしながら、少年にそう尋ねた。少年は、裏庭で薪を割っているところであった。
「どこって?」
 額の汗を拭いながら少年が訊き返すと、シシは積まれた薪の上に腰を掛け、口を尖らせるようにして言った。
「どこってそりゃあ、故郷だよ。アリィもフォルに拾われてコンディノに来たんだろ? どこでフォルに拾われたんだ?」
 ああ、そういうことか。納得しつつ、少年は切り株の上に薪を置き、斧を振るう。割れた薪が軽やかな音を立てて地面に転がった。
「あの人に出会ったのは、ガンジードの外れ、ビルドという街だ。でも僕の故郷は、そこじゃない」
「どうしてアリィは、その街にいたんだ?」
「僕の主人が旅商人をしていてね。ビルドには、乾燥野菜を売るために立ち寄っていたんだ」
「旅商人ってことは、いろんなところを旅したのか?」
 シシが目を輝かせてそう訊いた。少年はまたひとつ、薪を割るために斧を振り下ろす。
「そうだね、大陸の国も、離島の国も、ずいぶんいろんな国を回ったよ」
「ということは、王都にも行ったのか?」
「ああ、何度か行ったことがあるよ。野菜や穀物の生産中心地は、王都だからね」
「くっそー! 王都にも行ったことがあるのかぁ! いいなぁ」
 シシは槍を抱いたまま、薪の山の上に仰向けに寝転ぶと、両足を宙に突き出してばたばたと動かした。
「俺もいつか、王都に行きてぇー!」
「王都に行きたいの?」
 少年が訊き返すと、シシは花緑青色の瞳で少年を見つめ返した。
「俺、いつか絶対、王都に行くんだ」
「行って、どうするの?」
「金持ちになるんだ!」
 シシの言葉には、一切のためらいがなかった。
「金持ちになって、すげー金持ちになって、それで、大陸人が買った故郷の土地を全部買い戻してやるんだ!」
「故郷の土地?」
「うん。俺の故郷は、俺が三つの時に大陸の人間どもに乗っ取られた。だから、今度は俺が大陸人から土地を奪い返すんだ!」
 そう言うシシの表情は、真剣そのものだった。わずか十一歳である彼の顔を、少年は黙って見つめていた。
「でも……俺がこの話をすると、コンディノの皆は笑うんだ。シシには無理だ、そんなことできっこないって」
「……そうなんだ」
「リリンは、俺がこの話をすると悲しむ。もうなくなった故郷のために何かしようなんてことは、馬鹿馬鹿しいからやめておくれ、って。俺にはコンディノっていう新しい故郷があって、リリンや一緒に暮らしてる仲間たちがいて、それが新しい家族なんだって。過去に縛られないで、もっと今を大切に生きてほしい、って」
 うつむくようにしてそう言ったシシの表情には、苦悩の色が浮かんでいた。
 新しい故郷。
 新しい家族。
 それはこの街に来た少年がコンディノの人々から何度もかけられた言葉だった。
 少年が何か言うべき言葉を探して口を開きかけた時、シシはぱっと顔を上げ、先に言葉を発した。
「アリィの故郷は? どこなんだ?」
「……僕の故郷は、アマゾネスだ」
「あまぞねす?」
 聞き慣れない単語なのか、シシは首を傾げる。
「今はもうない。昔は、この街のように植物と人間が共存できる土地だったというけれど、大陸の人間たちに森を焼き払われて、荒れ地になったんだ」
「……家族は?」
「父さんと母さんは殺された。妹は……どうなったのかな……」
 少年がそう答えると、シシの瞳が悲しみに曇った。
「そうか……。アリィも、大変だったんだな」
 急に同情の色を深くにじませた声を出したシシに、少年は思わず苦笑する。
「そうでもないよ。シシの方こそ、大変だ。たった三つで、家族も故郷も失ったんだから」
「……なぁ、アリィは、自分の故郷を取り戻そうとは思わないのか?」
「え?」
「悔しくないのか? 大陸人に好き勝手に滅ぼされて。取り戻したいと思わないのか?」
 弱者は、強者に搾取されても仕方がない。そんないつもの考えが、少年の脳裏をかすめる。しかしその考えを、シシの前で口にすることはためらわれた。
 シシが両親と故郷を奪われたのは、彼が弱者だったからだろうか。その時三歳であった幼いシシに、お前が弱いからいけないのだと、そう告げるべきなのだろうか。たとえそれが、この世界の道理なのだとしてもだ。
 奪われたのは、弱いからなのか。弱い者は、強い者に奪われることが当たり前なのか。
 シシは、祖国を取り戻そうとしている。少年には、それは途方もない夢に思えた。流れ着いた異国の地でみすぼらしい服を着て、決して高くない賃金で働いているこの孤児が、国ひとつ分を買い戻すほどの財力を蓄えられる日など、今はとても想像できない。そんなことは夢のまた夢だ。
 しかし、「故郷を取り戻したくないのか」というシシの問いは、少年の心にひとつの水滴を落とした。たった一滴にすぎないその水滴は、落ちた瞬間、小さな波を起こし、その波紋は彼の心の中に瞬く間に広がった。
 取り戻す?
 一体、何を?
 自分は何を失った?
 故郷を追われて奴隷となり、両親は殺された。妹の行方はわからない。弱い者は蹂躙される。強い者に支配される。それが世界だ。それがすべてだ。
 少年は思い出す。走り抜けて行くパレィドを。木々の群れ。樹木の行進。屋根を破り、壁を崩し、地を抉り、人間をひとり残らず逃がさない。森はかつて、人間と共生していたはずなのに。
 森は何を失った? 何を奪われた?
 どうして森は走り出した? どうして人間を襲いだした?
 強くなければ生きられないこの世界で、自分はどうして生き残った?
「アリィ?」
 物思いにふけりそうになった少年は、シシの怪訝そうな声ではっと我に返る。
 自分は、失ったそのひとつを取り戻したのだ。
 そう、少年はズッキンガーのアルデルフィア。
 森を統べる者、その人なのだ。
 ※(3/4)へ続く→(https://kurihara-yumeko.tumblr.com/post/660771135006392320/)
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kurihara-yumeko · 4 years ago
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【小説】翡翠色のアルド (1/4)
 それが一体なんであるのか、初めはよくわからなかった。
 日光に照らされ銀色に輝く砂漠の果て、地平線の向こうから、何かがこちらへ近付いて来る。
 それは、乳白色の巨大な物体だった。球状の物体がいくつも連なって見えるそれは、刈ったばかりのゴドーシュの毛を高く積み上げているかのようだった。風にそよいでいるように、右に左にゆらゆらと揺れている。
 しかしそれは、決して羊毛などではないのだった。生き物が成長していくかのように、球体を内から外へと排出し続け、どんどん膨張していく。否、膨張しているのではない。こちらへ向かって来ているので、肥大化していくように見えるだけだ。
「ドーロマ、何をしている。さっさとしないか」
 その光景に見入っていた奴隷の少年は、雇い主の男にそう怒鳴られて我に返る。少年は家畜小屋の前でロッシュの毛をブラシで撫でていたが、丘の下、遥か向こうから近付いて来る乳白色の塊を見つめたまま、動けなくなってしまっていた。
 黙って自らの主人を見上げ、地平線の彼方からやって来るそれを指差す。雇い主の男はその先を見やり、途端に青ざめた。
「おおい、皆、聞いてくれ! パレィドが来るぞ! パレィドが来る!」
 男は口から泡を噴く勢いで叫びながら、慌てて駆け出す。男に雇われていた年端もいかない奴隷少年たちも、その叫びを聞きつけて、手にしていた仕事道具をすべて放り出し、一目散に駆けて行く。
 しかし、ロッシュをブラッシングしていた少年だけは、その場を動こうとしなかった。ただじっと、乳白色の塊が街へと近付いて来るのを見つめていた。
 彼はそれがなんなのかを知っていた。そして恐らく、この小さなビルドの街に住む人間は誰ひとり、助かることがないだろうということも。
「コンタット、お前はお逃げ。やつらは人間以外の動物には優しい。お前はきっと、助かるから」
 ロッシュにそう話しかけながら、繋いでいた縄をほどき、その尻を軽く叩いてやった。
 ロッシュという生き物は、図体が大きく、常に前歯を剥き出している顔の割に、性格は温厚で礼儀正しく、とても賢い。コンタットと名付けられていた、右耳が少し欠けたそのロッシュは、少年の言葉を器用に聞き分けた。まるで、今まで世話をしてくれた彼に礼を述べているかのように、深々とこうべを下げた後、軽やかに駆け出して丘を下って行った。
 少年はコンタットを見送ってから、踵を返して家畜小屋の中へと戻り、残っていたロッシュを同様にすべて放してやった。ロッシュたちは一頭たりとも不安そうな素振りをすることなく、自分が放たれる時をずっと待っていたのだとでも言うように、少年に挨拶をして出て行った。
 最後の一頭を外へ送り出し、後を追うように少年が家畜小屋を出た時、近付いて来るそれは、もうただの乳白色の塊ではなくなっていた。
 羊毛が寄せ集まったように見えていたのは、ただ舞い上がる土埃にすぎず、その土埃の向こうから、迫り来るそれがついに正体を現した。
 砂煙を巻き上げ、低い地響きを立ててこちらへ向かって来るそれは、森林だった。
 青々とした葉を茂らせた、数千本、数万本という樹木が、鞭打つように根を叩きつけ、宙を泳ぐかのように枝を振るって、この街に向かって行進してきていた。
 それは行進(パレィド)と呼べるほど、可愛らしいものではない。地は叩かれ抉れ、根が絡め取った土は宙高く放り投げられ、向かう先に何があろうとお構いなしだ。街のひとつや、ふたつ、あの樹木たちはなんの障害とも思わない。
 あれが来たら、もう終わりだ。逃げ出してももう遅い。人間の足では、到底逃げ切れるような速さではない。馬に乗っても不可能だ。触手のような細く長い枝に絡み付かれて馬から振り落とされ、巨大な刺々しい根で踏み潰されて圧死する。街じゅうの土が掘り返され、今まで地上にあったものはすべて、地中深くに埋められてしまうだろう。
 少年は家畜小屋の中へと戻った。床板に取り付けられた地下室への扉を開け、そこに敷き詰めてあった、家畜の餌である乾燥したフィレーオの中に潜り込んだ。
 地響きはどんどん大きくなる。猛烈な速さで森林が接近しているのがわかる。耳を塞いでも耐え切れないほどその音が近付いた後、大きな衝撃と共に、家畜小屋が崩れた轟音が響いた。
 頭上には、地下室の屋根をぶち破った、屈強で巨大な何本もの根が見えた。その根は何かを探しているかのように宙を泳いでいる。
 樹木が探しているのは人間だ。木々は人間を襲うためにどこからかやって来る。少年の両足は倒壊した瓦礫の下敷きとなっていたが、かろうじて上半身は無事であった。彼は両眼をしっかりと開けて、辺りを見回していた。そうすることが、助かる唯一の方法であることを知っていた。
 根は地下室の中を覗き込むように伸びてきて、少年の鼻先までは勢いよく向かって来るが、彼の皮膚に触れるか触れないかのうちに、急に動きを変えて引っ込んでいく。少年の華奢な身体に絡み付いて投げ飛ばしてやろうか、あるいは首を絞めて窒息させてやろうかという勢いにも関わらず、目がないはずの樹木たちは、彼の翡翠色をした瞳に気が付くと、そそくさと通り過ぎて行く。彼はただ、瞬きするのも必死にこらえて、瓦礫の下で目を見開くことに集中していた。
 どれくらいの時間が経過したのだろうか。それはごく短い間のようでもあり、少年にとっては永遠のようにも感じられた。やがて根が向かって来なくなり、轟音のようだった地響きもいつの間にか聞こえなくなっていた。
 樹木たちは過ぎ去ったのだ。
 そう気付いて、少年はやっと一息つくことができた。
 辺りには、むせ返るほどの甘い匂いが満ちていた。森林に襲撃された後は、いつもこうだ。この甘い匂いには一種の麻薬にも似た効用がある。人間の身体を麻痺させ、思考を停止させる。少年はこの匂いへの耐性が多少あったものの、それでも突如として襲い来る眠気と全身の倦怠感には抗うことができなかった。
 なんにせよ、瓦礫に足を封じられ、動くこともままならない。先のことは、後で考えればいいじゃないか。最大の危機は去った。あの森林の襲撃から、生き延びたのだから。そう思って、少年はまぶたを閉じる。
 外の様子を見ることは叶わないが、もう街は跡形も残っていないのかもしれなかった。共に泥にまみれて過ごした奴隷仲間たちも、あの憎い主人も、皆死んでしまったに違いない。井戸で水汲みをしていたフィーデというあの金髪の少女も、もう生きてはいないだろう。それが少しばかり残念だった。少年は、その少女のことを慕っていた。
 だが仕方がない。襲撃してくる樹木たちに、抗う術などないのだ。人間の力では、かなうことなどない存在、それが自然なのだから。
 彼はまぶたを閉じたまま、深い眠りの中へと落ちて行った。
    目が覚めた時、少年がいたのは薄暗いホロンバの中であった。三本の脚と一枚の布だけの、狭く質素な簡易的住居の天井を、彼はぼんやりと見上げていた。
 身体を起こすと、めまいと頭痛が襲った。まだ、あの甘い匂いの効能が残っているようだ。
 どうして自分はこんなところで眠っているのか。あれからどれくらいの間、眠っていたのだろうか。
 外の様子を見ようと立ち上がろうとしたが、両足はひどく痛んで言うことを聞かない。家畜小屋の瓦礫の下敷きになっていた彼の足には、包帯が巻かれていた。誰かが手当てをしてくれたようだ。少年は、這うようにしてホロンバを出た。
 外はホロンバ内と同様に薄暗く、空は夕焼けも終わりかけていた。空の色から察するに、地平線の向こうに夕陽が沈んだばかりのようだ。
 ホロンバが組み立てられていたのは、大きな大理石の上だった。その石に見覚えがあった。この街の銀行の、外壁に用いられていた石材だ。
 少年は銀行というところがどんな場所なのかは知らなかったが、雇い主の男が日頃纏っている旅装束ではなく、大陸式の礼服を着てこの建物へ入って行くところを何度も見ていた。奴隷少年たちはいつもロッシュの手綱を握ったまま、門の外で数時間、主人の帰りを待たされていた。その建物の一部であった石が今、自分の身体の下にある。
 見渡せば、辺り一面の土は掘り返され、抉られ、家々や街並みの残骸が突き刺さり、折れ重なり、あるいは転がっていた。その合間に、人間の引き千切られた手足や潰された頭部、零れ落ちた内臓などが散乱している。どれが誰だか、見分けはつかない。知人の遺体を見つけるのはひどく困難だろうと少年は思った。そもそも、ここには行方不明者を捜索する人間さえ、残っていないのだ。生きている人間の姿は、どこにも見当たらない。
 だとすれば、少年を瓦礫の下から救い出し、手当をし、このホロンバを組み立てて寝かせておいてくれたのは、一体誰だというのだろう。王都からやって来る調査団の連中であれば、ホロンバの布地に王都の紋章が刺繍されているはずであったが、彼が眠っていたホロンバには、それらしきものはない。黒と青の糸で編みこまれたその���は、東の方に住む部族固有の編み方だということはかろうじてわかるものの、それ以上のことはわからなかった。
 少年は困惑したまま、しばらくその場でじっとしていると、突然、微かな甘い匂いと共に、声をかけられた。
「気が付いたか」
 振り返ると、ホロンバの後方に、一本の木が立っていた。街を襲撃した森林とは、違う種類の樹木だ。微かに香る甘い匂いは、その木から発せられていた。そして、その木の一番太い枝には、ひとりの男が悠々と腰掛けていた。
 それはなんとも言えない、ひどく気味の悪い男だった。
 白いガーラで作られたシャツとスボンを身に纏っていたが、この辺りでは風変りな衣服であった。布地には部族や出身地を示す文様や織り目、染めた跡もない。履物がより一層奇妙で、足の裏に薄い板を一枚あてがい、紐で足の甲に括りつけているだけのような、簡素なものだった。
 しかし、その男の気味悪さは、衣装の問題ではなかった。
 男の白い肌はところどころ緑色に変色し、よく見れば藻や苔が生えている。頭からは緑色をした頭髪に混じって草の蔓のようなものが見え隠れし、何よりも驚くべきは、その左眼だった。目玉はとうに失われてしまったのか、眼孔がぽっかりと暗い穴を空けており、その奥には草が茂っていた。細く長い葉が睫毛よりも長く伸び、頬まで垂れている。少年は思わずぎょっとしたが、その時、この男の残された右眼が、自分と同じ翡翠色をしていることに気が付いた。
「あなたは……」
 少年が言葉を捻り出そうとすると、植物男は笑って首を横に振った。
「ドゥ・ラ・ガイ・フォレスティーノ」
 少年は彼が何を言ったのか、最初は理解できなかった。独特な抑揚で発せられたその言葉が、この男の名前なのだと気付いたのは、彼が、
「呼ぶ時はフォルでいい。長い名前だから」
 と、続けて口にしたからだった。
 植物男が枝を軽く二、三回叩くと、木はまるで男の意思を汲み取ったかのように、枝をゆっくりと地面に向けて下ろした。男はひらりと砂地に舞い降りる。
「ガイーダを呼び戻して来てくれないか。この子に何か、食べ物をやらないと」
 植物男がそう言うと、木は根を揺らして歩き出した。今はただの荒野と化した街を悠々と進み、かつて家畜小屋があった丘へと登って行った。
「……あなたは、木と対話ができるのですか」
 少年が信じられないままそう尋ねると、男は笑ったまま頷いた。
「木は人間を襲うが、俺のことは襲わない。俺が人間に見えないのだろうな」
 植物男は少年へと歩み寄って来た。少年はろくに身動きをすることもできない。男の姿は恐ろしく見えたが、這うことしかできない今の彼では、逃げ出すこともままならない。咄嗟に、懐の短刀へと手を伸ばした。
 男は、人に恐れられることに慣れているのか、少年の表情を見ても、嫌な顔ひとつしなかった。近付きはしたものの、あるところまで来ると足を止め、それ以上は近付いて来なかった。
「褐色の肌、翡翠色の瞳、額の刺青……。きみは、アマゾネスに住む部族の出身だね」
 植物男は少年の容姿を見て、そう言った。
「アマゾネスは、樹木の神エマヌールが初めて地上に下り立った場所と言われている。翡翠色の瞳を持つその部族は、植物と心を通わせ、決して森と争うことはしない、と。もうとっくにアマゾネスの住民は滅んだんだと思っていたが、きみはその生き残りだったという訳だ」
 少年は、男が口にしたことを肯定も否定もしなかった。しかしそれは恐らく、すべて正しいことだった。
 自分が樹木たちに殺されないことを知っていた。たとえ、この街が全滅するとしても、自分だけは生き残ることをわかっていた。
「翡翠色の瞳を持つ者に、木は特別優しい。森林が人間を襲うために出す毒も、きみを死に追いやるほどには効いていないようだったし。普通は、あの匂いを嗅いだだけで精神に異常をきたすと言われているのに」
「……あなたは、一体、何者ですか。どうしてそんな姿で、どうして木と意思が通じ、なぜ、こんなところにいるのですか」
 少年はそう問いかけたが、男はまた笑っただけだった。
「質問ばかりだな。まぁいいさ、とりあえずホロンバの中へ戻ろう。何か食べられそうな物を作る。それを食べたらまた眠れ。きみはそれでも、森の毒にやられて、三日も眠っていたんだ。また目が覚めたら、その質問に答えよう」
    少年は、植物男の言葉に従った。
 ホロンバに戻ってすぐ、ガイーダと名付けられた、大きな樹木が近付いて来て、男はその洞に溜まった水を汲み、枝に絡めてあった荷物袋の中から固形食糧を取り出した。ホロンバの外で薪をくべて火を起こし、鍋で湯を沸かし、男はその固形食糧を鍋へと放り込んだ。ぐつぐつと煮え立つ鍋からは、嗅いだことのない食べ物の匂いがした。少年の身体はその匂いに、食べ物を求めて腹を鳴らした。植物男は鍋の中のできあがった汁物を椀に盛り、少年へと差し出した。
 少年はそれを平らげた。雑炊に似た食べ物であることはわかったが、料理の名を訊くことも忘れ、彼は食べ終えると再び横になり、そのまま眠ってしまった。
 再び目が覚めると、少年は昨日と同様に、這ってホロンバの外に出た。外は眩しいほどに明るかった。今は昼のようだ。
 ホロンバのすぐ近くに、また木が立っていた。植物男が腰かけていた方の木だ。確か、あの男はこの木を「シンバ」と呼んでいた。ガイーダよりもずっと小柄な、若い樹木。青々とした葉を茂らせてはいるものの、まだ未熟な木だとわかる。
 今は、その枝の上に植物男の姿はない。少年は瓦礫の上を這うようにして、その木に近付いた。
 樹木をこうして間近で見たのは、否、人間を襲ってこない植物を見たのは、生まれて初めてかもしれなかった。
 少年は、迫害の手を逃れるため、故郷の集落から父と母、そして妹と共に脱し、「大陸最後の秘境」と呼ばれた、シャン・アマネス・ガンジードへとやって来た。
 少年の両親は、血の繋がった肉親ではなかった。実の親は大陸から来た人間たちに殺され、彼とその妹は、まだ物心もつかないうちに育ての親に引き取られ、身を隠すように生活をした。しかしその育ての親もまた、大陸人に捕らえられ、奴隷として扱われていた。少年も奴隷として育った。彼が物心ついた時には、故郷はすでに、植物と人間が共存することができない「不毛の地」であった。
 ガンジードで出会った奴隷商人に騙され、家族は離散した。父は殺され、母は大勢の男たちに組み敷かれ乱暴された後、やはり殺された。いずれも、少年と妹の目の前で起こった。だけれども、彼はその時のことをよく覚えていない。七歳の時だった。幼い妹の泣き顔と、母の悲鳴だけを覚えている。両親の遺体が、その後どうなったのかもわからない。妹は五歳にして娼館へ売られ、少年は奴隷市へと出品された。
 奴隷市へと向かう大きな幌馬車の中には、同じように各地の小大陸から集められた、奴隷の子供たちが大勢乗せられていた。少年は窮屈なその馬車の中、大人しくじっとしていた。不思議と、悲しい気持ちも苦しい気持ちもなかった。彼は何も感じなかった。弱い者は、強い者に殺されていく。そのことを、幼い頃から知っていた。
 奴隷市で旅商人の男に買われた少年は、それから、その主人についていろんな国を旅して回った。大陸の国に滞在することもあれば、船で海を渡り、島国を巡ることもあった。主人が売っているのは主に野菜であった。植物と共生する道を捨てざるを得なかった人間たちは、王都の地下に巨大な工場を建設し、作物をそこで栽培するようになっていた。大陸で栽培された野菜を加工し、乾燥させ、大陸から遠く離れた小国に高値で売りつける、それが雇い主の生業であった。
 少年の主人は金持ちであった。ロッシュを十数頭連れて歩き、どの地方に滞在しても、最も高い宿に泊まった。少年の他にも雇われている奴隷少年が数人いた。そして毎晩、少年たちの中からひとりずつ、主人の夜の相手をする者が選ばれた。男色家で、十八歳に満たない少年ばかりを好む主人だった。
 大陸人の少年に手を出せば罪になると知っているからか、それともただの性癖か、主人は地方の部族出身の少年ばかりを愛で、奴隷市で見つける度に買って手元に置いた。少年の奴隷仲間は皆、肌も、目も、髪の色も違った。話す言語もさまざまで、大陸の言語が通じない仲間も珍しくなかった。幼い頃から大陸人の下で仕事をしてきた少年は、彼らの通訳係となってやることもあった。
 少年は仲間との交流を通じて、各地の独特な文化を学んだ。衣服や持ち物ひとつとっても、布の織り方や染め方、文様の入れ方まで、出身国によって異なるのだということも知った。たどたどしい大陸語でお互いの故郷の文化や習慣を教え合うのが、彼らの少ない楽しみのひとつであった。
 雇い主の趣味は一貫しており、十八歳を迎えた奴隷少年は、再び奴隷市へと戻された。少年は、まだ十七歳。あと一年、あの男の下で働くはずだった。
 それも、パレィドによって打ち砕かれた未来となった。少年はそれを、悲観してはいない。喜んでもいない。ただの事実が目の前にある。荒れ果てた街、壊された家畜小屋、死んだであろう仲間や雇い主。それだけだ。自分が生き残ったのは、ただ、この翡翠色の瞳を持って生まれたためにすぎない。
 少年は、そっと手を伸ばしてシンバの太い根に触れた。地を蹴って進むための根であり、地を砕き、水を吸い上げるための根でもあり、街を破壊し、人間を殺すための根でもある。彼が触れても、木は嫌がる素振りを見せなかった。少しも動くことなく、じっとしている。硬い樹皮に覆われた根は、何も感じさせない。冷たくもなければ、温かくもない。
「……お前たちは、どうして街を襲うんだ?」
 少年はそう問いかける。
 アマゾネスの人間は、翡翠色の瞳を持つ人間は、植物と心を通わせることができる。昨日、あの男はそう言っていた。少年は木と対話したことなどない。だけれども、もしも自分にそんな力があるのだとしたら。彼はシンバの大きく張り出した枝をまっすぐ見上げ、再度尋ねる。
「どうしてお前たちは、人間を殺す?」
 ざわ、と音がした。
 風もないのに、シンバの枝が大きく揺れた。葉と葉が合わさって、音を立てる。そのひとつひとつは微量にすぎないが、合わさり大きな音の渦となり、まるで少年に迫り来るかのように空気を震わせる。
 答えたのだ、と少年は思った。この木は、彼の問いかけに答えた。少年がそれを聞き取ることはできないが、しかし自分は今、木と対話をした。彼は思わず、唾を飲み込んだ。さっきよりも指先に力を入れて、シンバの根に触れる。もう一度、問う。
「あの人は……僕を助けてくれた人は、どこ?」
 シンバの根のうちの一本が、音もなくすっと持ち上がった。まるで人間が指を指すかのように示した根の先に、丘を下ってやって来る、植物と人間が入り混じったかのような、あの奇妙な男の姿があった。
「ありがとう」
 少年がそう言うと、シンバは黙ったまま根を下ろし、まるで数百年も前からそこに生えているのだとでも言うように、じっと動かなくなった。
   「この街は壊滅だな。何も残っていないし、生存者もいない」
 植物男はそう言ながら、火を起こし、雑炊のような料理を作っていた。今日は自身も食すつもりなのか、昨日の二倍の量が鍋の中で煮えている。
「何か金になりそうな物があったら持って行こうと思っていたんだが、あまり良い結果は望めないだろうな」
 植物男は、今日もガーラでできた奇妙な服を着ていたが、昨日にはしていなかった、ターバンを頭に巻いていた。
 そのターバンは男のホロンバと同じ、黒と青の糸で編み込まれた布地であるが、少年にはそれがなんの糸なのかも、編まれた布地の名前もわからない。金色の糸で鳥の刺繍が入っており、高価に見えるのだが、そんな布地を今まで見たことはなかった。
「あなたは、何者なんですか」
 少年が尋ねると、柄杓で鍋の中をかき回していた植物男は、失くしていない方の眼で少年を見た。その口元は笑っていた。
「人に訊く時は、まず自分からだ。きみの名前は?」
「ジブです」
 少年は答える。それは奴隷となった時に付けられた名前だった。
 名前の長さは、その人の社会的地位を表す。故郷にいた頃から、大陸人には「ジブ」と呼ばれていた。少年を買った雇い主の男は、奴隷少年たちのことを区別することなく全員「ドーロマ」、つまりは「のろま」と呼んでいたが、奴隷仲間たちの間でも、少年は「ジブ」であった。
「長い名前は?」
 だから、植物男がそう尋ねてきた時、少年は答えるのを渋った。本名を人に名乗ったことなど、今までなかったからだ。
「あるんだろう? 本当の名前が」
 まるで見透かしているかのように、翡翠色の瞳が少年を見ていた。少年は観念して答える。奴隷としての身分には場違いすぎるほど、由緒正しい、その名を。
「ジンニアス・シエルノ・ブットーリア・エマヌール・ヘンデリック・ジャン・コンボイット・スティツアーノ・ズッキンガーの、アルデルフィア・シャムネード」
 少年は知っている。この名前が、大陸王シャンデム八十二世の本名よりも長いということを。
 しかし植物男は、その名を耳にしても、顔色ひとつ変えなかった。冗談だろう、と笑うことすらしなかった。
「それは、きみの故郷の言葉でどういう意味なんだ?」
 ただそれだけを、男は尋ねた。少年は答える。
 アマゾネスの国王の息子であったはずの、ジブと呼ばれていた奴隷の少年は答える。
「『最も森に愛された、翡翠の瞳を持つ、知恵のある、勇気を持った、森を統べる者』という意味です」
「良い名前だな。どこを呼べばいい?」
 ジブでいいです、と言おうとして、少年は口をつぐむ。男が求めている答えがそうではないことは、彼の眼を見れば明らかだった。
「父と母、それから妹は、僕のことをアルドと呼びました」
 記憶の底から思い出してそう答えた。植物男は真剣に頷いた。
「アルドか。だが、俺がきみのことを家族と同じように呼ぶのは良くない。親しい者が呼んでくれる愛称というものは、親しい者にだけ呼ばせるものだ。だから俺は、きみのことをアルデルフィアと呼ぼう」
「……それは、あなたの故郷での慣習ですか?」
「いいや。俺は自分の故郷なんて知らない。俺を育ててくれた人の、その故郷での慣習だろうな」
 植物男はそう言って、鍋をかき回す手を止めた。料理が完成したらしかった。
 少年の分と男の分、二杯を盛り付け、匙と椀を差し出してきた。それを受け取りながら、少年が言葉の意味を考えていると、植物男は語り出した。
「俺の名前は、昨日名乗ったな。ドゥ・ラ・ガイ・フォレスティーノ。呼ぶ時はフォルでいい。俺は自分の生まれ故郷を知らない。どこの人間なのかもわからない。育ててくれたのは、血の繋がらない赤の他人だ。この名前も、育ての親が付けてくれた。『森に棲む人』という意味だそうだ」
「……森に棲む人?」
「そうだ。少し、俺の話をしよう。アルデルフィア、もう四百年以上昔の話だが、草木が地に深く根を下ろし、今のように移動することができなかった、という話を知っているか?」
 少年は頷いた。
 植物というものは、自らの力ではほとんど移動できず、身じろぎひとつしないものだった、という話は、昔、両親から聞いた。パレィドを見てしまった後では、想像もできない話だ。地を抉り進むあやつらが、その昔は動けない生き物だったなんて。
 しかし、大陸の地下、野菜工場で栽培されている植物たちは、今でも動かないのだという。怒りに震えて毒素を出すこともない、と。そして、それは、それが本来の姿なのだ、と。
 植物は元々、動けない生き物だった。動物に葉を食い千切られても、人間に切り倒されても、それに抵抗する術を持たなかった。それが、いつの頃からか、抵抗するようになった。地から根を引き抜いて自在に動き回り、猛毒を吐いて人間を殺す。それまでは、種が落ちて芽が出た場所が、その植物の死ぬまでの住み処であったが、今では水を求めて大陸じゅうを移動する。
 植物は、森は、走るものだ。
 森は常に走っている。木は水を求め、地を掘り起こす。水を充分に吸い上げると、他の木々を連れ立ってまた走り出す。そうやって、常に移動しながら生きている。それが木であり、木の群れが森だ。ときどき、森が人間のいる地域を通り抜ける。それがパレィドだ。人間の住み処を意図的に狙って来るのかはわからない。けれど、人間を見つけた木は凶暴だ。奴隷仲間の中には木のことを、人を殺すため、街を破壊するために存在している怪物だと思っている者も多かった。
「ツンドーラのさらに北、人間の住んでいない、雪と氷に閉ざされた奥地に、まだ動かない植物が生えている地があると言われている。俺を育ててくれた人間は、森の研究をしているんだ。まだこの世界のどこかに、動かない森があるんじゃないかと夢見てる。その研究のために、馬に乗ってもう何年も、森が通った痕跡を追い続けている」
 植物男が語るには、その人はある日、まだ新しい、森が通った痕跡を見つけた。痕跡を追って行くと、まださほど離れていない距離に森がいた。樹木たちはちょうど、地に根を下ろし、休んでいるところだった。
 木々の方が先にその人に気付いた。樹木は人間を見つければ怒り出す。毒素を吐くか、襲いかかって来るか。ところが、その時はどちらでもなかった。森の中から一本の木が、その人の元へと近付いて来た。
 その人は驚き、逃げることも忘れて動けないでいたが、木はついにその人の目の前にまで迫った。毒素はまったく出していなかった。
 その木は、枝を一本突き出した。枝には、蔓が幾重にも折り重なった、奇妙な物がぶら下がっていた。まるで籠のようなその中には、ひとりの人間の赤ん坊が入っていた。
「その赤ん坊が、俺という訳だ」
 髪の毛の一部は植物と化し、柔らかそうな肌には藻が生え、苔生していた。左眼の眼球は腐り、単子葉類の温床になっていた。その不気味な姿をした赤ん坊は、身体の約半分を、植物に寄生され、その毒に侵されながらも、植物によって生かされていた。赤ん坊をその人に託すと、森は静かに去って行った。
「その人は俺を育ててくれた。俺は赤ん坊の頃から、植物の出す毒素が効かず、植物と意思を通わせることができた。だが、自分がどうして森に抱かれていたのか、こんな姿になってまで生き延びたのか、俺はその訳を知らないんだ」
 植物男の左眼から生えている植物が、風もないのにゆらゆらと揺れている。植物自身の意思で動いているのだ。もしくは、男自身の意思で。
 話に聞き入ってしまい、椀を持ったまま動かないでいた少年に、男は「ほら、食え」と促した。少年が匙を口元へ運ぶのを見てから、男も食事を始める。
「俺はあと二、三日、この辺りの瓦礫を掘り起こしてみてから、ここを発つ。きみはどうする、アルデルフィア」
「ここを発って、どこへ行くのですか」
 少年が尋ねると、植物男は匙で西の方角を指した。匙の先をいくら見つめても、ただ荒涼とした砂地が広がるばかりだ。
「この先に、コンディノという街がある。シンバの足でも七日はかかる距離だがな。俺には故郷はないが、一番馴染みのある街だ。育ての親もそこにいる。……知らない間に旅に出てなければ、の話だが」
「僕もそこに、連れて行ってもらえませんか」
「それは構わないが、その後はどうする?」
「奴隷市に出ます」
 少年が大真面目にそう言った言葉に、植物男は左眼の植物をぴくりと動かした。
「きみは、これからも奴隷として生きていくつもりか?」
「僕は物心ついた時から、ずっと奴隷でした」
 この世界で最も長い名を持つ少年は、淡々とした口調でそう言った。決して、自分を卑下している訳でも、自嘲している訳でもなかった。自分は奴隷として育ち、奴隷として生きてきた。そのことだけが、紛れもない事実だった。
 しかし、男は首を横に振った。
「残念だが、コンディノには奴隷市がない。奴隷を雇うという文化がないんだ」
「では――」
 奴隷市がある最寄りの街を教えてくれませんか、と言いかけた少年を遮るように、男は言う。
「もし、コンディノを気に入ったら、そのまま居着くといい。奴隷としてではなく、それ以外の生き方でな。あの街は余所者にも優しいし、身分も階層も気にしない。そして何よりも――」
 男は口元を緩めて言った。
「あの街は、植物と共存できる、人類最後の楽園だ。恐らくはな」
 ※(2/4)へ続く→ https://kurihara-yumeko.tumblr.com/post/660226170376306688/
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kurihara-yumeko · 4 years ago
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【小説】The day I say good-bye(4/4) 【再録】
 (3/4)はこちらから→(https://kurihara-yumeko.tumblr.com/post/648720756262502400/)
 今思えば、ひーちゃんが僕のついた嘘の数々を、本気で信じていたとは思えない。
 何度も何度も嘘を重ねた僕を、見抜いていたに違いない。
「きゃああああああああああああーっ!」
 絶叫、された。
 耳がぶっ飛ぶかと思った。
 長い髪はくるくると幾重にもカーブしていた。レースと玩具の宝石であしらわれたカチューシャがまるでティアラのように僕の頭の上に鎮座している。桃色の膨らんだスカートの下には白いフリルが四段。半袖から剥き出しの腕が少し寒い。スカートの中もすーすーしてなんだか落ち着かない。初めて穿いた黒いタイツの感触も気持ちが悪い。よく見れば靴にまでリボンが付いている。
 鏡に映った僕は、どう見てもただの女の子だった。
「やっだー、やだやだやだやだ、どうしよー。――くんめっちゃ女装似合うね!」
 クラス委員長の長篠めいこさん(彼女がそういう名前であることはついさっき知った)は、女装させられた僕を明らかに尋常じゃない目で見つめている。彼女が僕にウィッグを被らせ、お手製のメイド服を着せた本人だというのに、僕の女装姿に瞳を爛々と輝かせている。
「準備の時に一度も来てくれないから、衣装合わせができなくてどうなるかと思っていたけど、サイズぴったりだね、良かった。――くんは華奢だし細いし顔小さいしむさくるしくないし、女装したところでノープロブレムだと思っていたけれど、これは予想以上だったよっ」
 準備の際に僕が一度も教室を訪れなかったのは、連日、保健室で帆高の課題を手伝わされていたからだ。だけれどそれは口実で、本当はクラスの準備に参加したくなかったというのが本音。こんなふざけた企画、携わりたくもない。
 僕が何を考えているかを知る由もない長篠さんは、両手を胸の前で合わせ、真ん丸な眼鏡のレンズ越しに僕を見つめている。レーザー光線のような視線だ。見つめられ続けていると焼け焦げてしまいそうになる。助けを求めて周囲をすばやく見渡したが、クラスメイトのほぼ全員がコスチュームに着替え終わっている僕の教室には、むさくるしい男のメイドか、ただのスーツといっても過言ではない燕尾服を着た女の執事しか見当たらない。
「すね毛を剃ってもらう時間はなかったので、急遽、脚を隠すために黒タイツを用意したのも正解だったね。このほっそい脚がさらに際立つというか。うんうん、いい感じだねっ!」
 長篠さん自身、黒いスーツを身に纏っている。彼女こそが、今年の文化祭でのうちのクラスの出し物、「男女逆転メイド・執事喫茶」の発案者であり、責任者だ。こんなふざけた企画をよくも通してくれたな、と怨念を込めてにらみつけてみたけれど、彼女は僕の表情に気付いていないのかにこにこと笑顔だ。
「ねぇねぇ、――くん、せっかくだし、お化粧もしちゃう? ネイルもする? 髪の毛もっと巻いてあげようか? あたし、――くんだったらもっと可愛くなれるんじゃないかなって思うんだけど」
 僕の全身を舐め回すように見つめる長篠さんはもはや正気とは思えない。だんだんこの人が恐ろしくなってきた。
「めいこ、その辺にしておきな」
 僕が何も言わないでいると、思わぬ方向から声がかかった。
 振��向くと僕の後ろには、長身の女子が立っていた。男子に負けないほど背の高い彼女は、教室の中でもよく目立つ。クラスメイトの顔と名前をろくに記憶していない僕でも、彼女の姿は覚えていた。それは背が高いという理由だけではなく、言葉では上手く説明できない、長短がはっきりしている複雑で奇抜な彼女の髪型のせいでもある。
 背が決して高いとは言えない僕よりも十五センチほど長身の彼女は、紫色を基調としたスーツを身に纏っている。すらっとしていて恰好いい。
「――くん、嫌がってるだろう」
「えー、あたしがせっかく可愛くしてあげようとしてるのにー」
「だったら向こうの野球部の連中を可愛くしてやってくれ。あんなの、気味悪がられて客を逃がすだけだよ」
「えー」
「えー、とか言わない。ほらさっさと行きな。クラス委員長」
 彼女に言われたので仕方なく、という表情で長篠さんが僕の側から離れた。と、思い出したかのように振り向いて僕に言う。
「あ、そうだ、――くん、その腕時計、外してねっ。メイド服には合わないからっ」
 この腕時計の下には、傷跡がある。
 誰にも見せたことがない、傷が。
 それを晒す訳にはいかなかった。僕がそれを無視して長篠さんに背を向けようとした時、側にいた長身の彼女が僕に向かって口を開いた。
「これを使うといいよ」
 そう言って彼女が差し出したのは、布製のリストバンドだった。僕のメイド服の素材と同じ、ピンク色の布で作られ、白いレースと赤いリボンがあしらわれている。
「気を悪くしないでくれ。めいこは悪気がある訳じゃないんだけど……」
 僕の頭の中は真っ白になっていた。突然手渡されたリストバンドに反応ができない。どうして彼女は、僕の手首の傷を隠すための物を用意してくれているんだ? 視界の隅では長篠さんがこちらに背を向けて去って行く。周りにいる珍妙な恰好のクラスメイトたちも、誰もこちらに注意を向けている様子はない。
「一体、どういう……」
 そう言う僕はきっと間抜けな顔をしていたんだろう、彼女はどこか困ったような表情で頭を掻いた。
「なんて言えばいいのかな、その、きみはその傷を負った日のことを、覚えてる?」
 この傷を負った日。
 雨の日の屋上。あーちゃんが死んだ場所。灰色の空。緑色のフェンス。あと一歩踏み出せばあーちゃんと同じところに行ける。その一歩の距離。僕はこの傷を負って、その場所に立ち尽くしていた。
 同じところに傷を負った、ミナモと初めて出会った日だ。
「その日、きみ、保健室に来たでしょ」
 そうだ。僕はその後、保健室へ向かった。ミナモは保健室を抜け出して屋上へ来ていた。そのミナモを探しに来た教師に僕とミナモは発見され、ふたり揃って保健室で傷の手当を受けた。
「その時私は、保健室で熱を測っていたんだ」
 あの時に保健室に他に誰かいたかなんて覚えていない。僕はただ精いっぱいだった。死のうとして死ねなかった。それだけで精いっぱいだったのだ。
 長身の彼女はそう言って、ほんの少しだけ笑った。それは馬鹿にしている訳でもなく、面白がっている訳でもなく、微笑みかけてくれていた。
「だから、きみの手首に傷があることは知ってる。深い傷だったから、痕も残ってるんだろうと思って、用意しておいたんだ」
 私は裁縫があまり得意ではないから、めいこの作ったものに比べるとあまり良い出来ではないけどね。彼女はそう付け足すように言う。
「使うか使わないかは、きみの自由だけど。そのまま腕時計していてもいいと思うしね。めいこは少し、完璧主義すぎるよ。こんな中学生の女装やら男装やらに、完璧さなんて求めてる人なんかいないのにね」
 僕はいつも、自分のことばかりだ。今だって、僕の傷のことを考慮してくれている人間がいるなんて、思わなかった。
 それじゃあ、とこちらに背を向けて去って行こうとする彼女の後ろ姿を、僕は呼び止める。
「うん?」
 彼女は不思議そうな顔をして振り向いた。
「きみの、名前は?」
 僕がそう尋ねると、彼女はまた笑った。
「峠茶屋桜子」
 僕は生まれて初めて、クラスメイトの顔と名前を全員覚えておかなかった自分を恥じた。
    峠茶屋さんが作ってくれたリストバンドは、せっかくなので使わせてもらうことにした。
 それを両手首に装着して保健室へ向かってみると、そこには河野ミナモと河野帆高の姿が既にあった。
「おー、やっと来たか……って、え、ええええええええええええ!?」
 椅子に腰掛け、行儀の悪いことに両足をテーブルに乗せていた帆高は、僕の来訪を視認して片手を挙げかけたところで絶叫しながら椅子から落下した。頭と床がぶつかり合う鈍い音が響く。ベッドのカーテンの隙間から様子を窺うようにこちらを見ていたミナモは、僕の姿を見てから興味なさそうに目線を逸らす。相変わらず無愛想なやつだ。
「な、何、お前のその恰好……」
 床に転がったまま帆高が言う。
「何って……メイド服だけど」
 帆高には、僕のクラスが男女逆転メイド・執事喫茶を文化祭の出し物でやると言っておいたはずだ。僕のメイド服姿が見物だなんだと馬鹿にされたような記憶もある。
「めっちゃ似合ってるじゃん、お前!」
「……」
 不本意だけれど否定できない僕がいる。
「びびる! まじでびびる! お前って実は女の子だった訳!?」
「そんな訳ないだろ」
「ちょっと、スカートの中身、見せ……」
 床に座ったまま僕のメイド服に手を伸ばす帆高の頭に鉄拳をひとつお見舞いした。
 そんな帆高も頭に耳、顔に鼻、尻に尻尾を付けており、どうやら狼男に変装しているようだ。テーブルの上には両手両足に嵌めるのであろう、爪の生えた肉球付きの手袋が置いてある。これぐらいのコスプレだったらどれだけ心穏やかでいられるだろうか。僕は女装するのは人生これで最後にしようと固く誓った。
「そんな恰好で恥ずかしくないの? 親とか友達とか、今日の文化祭に来ない訳?」
「さぁ……来ないと思うけど」
 僕の両親は今日も朝から仕事に行った。そもそも、今日が文化祭だという事実も知っているとは思えない。
 別の中学校に通っている小学校の頃の友人たちとはもう連絡も取り合っていないし、顔も合わせていないので、来るのか来ないのかは知らない。僕以外の誰かと親交があれば来るのかもしれないが、僕には関係のない話だ。
 そう、そのはずだった。だが僕の予想は覆されることになる。
 午前十時に文化祭は開始された。クラス委員長である長篠めいこさんが僕に命じた役割は、クラスの出し物である男女逆転メイド・執事喫茶の宣伝をすることだった。段ボール製のプラカードを掲げて校舎内を循環し、客を呼び込もうという魂胆だ。
 結局、ミナモとは一言も言葉を交わさずに出て来てしまった、と思う。うちの学校の文化祭は一般公開もしている。今日の校内にはいつも以上に人が溢れている。保健室登校のミナモにとっては、つらい一日になるかもしれない。
 お化け屋敷を出し物にしているクラスばかりが並んでいる、我が校の文化祭名物「お化け屋敷ロード」をすれ違う人々に異様な目で見られていることをひしひしと感じながら、プラカードを掲げ、チラシを配りながら歩いていくと、途中で厄介な人物に遭遇した。
「おー、少年じゃん」
 日褄先生だ。
 目の周りを黒く塗った化粧や黒尽くめのその服装はいつも通りだったが、しばらく会わなかった間に、曇り空より白かった頭髪は、あろうことか緑色になっていた。これでスクールカウンセラーの仕事が務まるのだろうか。あまりにも奇抜すぎる。だが咄嗟のことすぎて、驚きのあまり声が出ない。
「ふーん、めいこのやつ、裁縫上手いんじゃん。よくできてる」
 先生は僕の着用しているメイド服のスカートをめくろうとするので、僕はすばやく身をかわして後退した。「変態か!」と叫びたかったが、やはり声にならない。
 助けを求めて周囲に視線を巡らせて、僕は人混みからずば抜けて背の高い男性がこちらに近付いてくるのがわかった。
 前回、図書館の前で出会った時はオールバックであったその髪は、今日はまとめられていない。モスグリーンのワイシャツは第一ボタンが開いていて、おまけにネクタイもしていない。ズボンは腰の位置で派手なベルトで留められている。銀縁眼鏡ではなく、色の薄いサングラスをかけていた。シャツの袖をまくれば恐らくそこには、葵の御紋の刺青があるはずだ。左手の中指に日褄先生とお揃いの指輪をしている彼は、日褄先生の婚約者だ。
「葵さん……」
 僕が名前を呼ぶと、彼は僕のことを睨みつけた。しばらくして、やっと僕のことが誰なのかわかったらしい。少し驚いたように片眉を上げて、口を半分開いたところで、
「…………」
 だが、葵さんは何も言わなかった。
 僕の脇を通り抜けて、日褄先生のところに歩いて行った。すれ違いざまに、葵さんが何か妙なものを小脇に抱えているなぁと思って振り返ってみると、それは大きなピンク色のウサギのぬいぐるみだった。
「お、葵、お帰りー」
 日褄先生がそう声をかけると、葵さんは無言のままぬいぐるみを差し出した。
「なにこのうさちゃん、どうしたの?」
 先生はそれを受け取り、ウサギの頭に顎を置きながらそう訊くと、葵さんは黙って歩いてきた方向を指差した。
「ああ、お化け屋敷の景品?」
 葵さんはそれには答えなかった。そもそも僕は、彼が口を利いたところを見たことがない。それだけ寡黙な人なのだ。彼は再び僕を見ると、それから日褄先生へ目線を送った。ウサギの耳で遊ぶのに夢中になっていた先生はそれに気付いているのかいないのか、
「男女逆転メイド・執事喫茶、やってるんだって」
 と僕の服装の理由を説明した。だが葵さんは眉間の皺を深めただけだった。そしてそのまま、彼は歩き出してしまう。日褄先生はぬいぐるみの耳をぱたぱた手で動かしていて、それを追おうともしない。
「……いいんですか? 葵さん、行っちゃいましたけど……」
「あいつ、文化祭ってものを見たことがないんだよ。ろくに学校行ってなかったから。だから連れて来てみたんだけど、なんだか予想以上にはしゃいじゃってさー」
 葵さんの態度のどこがはしゃいでいるように見えるのか、僕にはわからないが、先生にはわかるのかもしれない。
「あ、そうだ、忘れるところだった、少年のこと、探しててさ」
「何か用ですか?」
「はい、チーズ」
 突然、眩しい光が瞬いた。一体いつ、どこから取り出したのか、先生の手にはインスタントカメラが握られていた。写真を撮られてしまったようだ。メイド服を着て、付け毛を付けている、僕の、女装している写真が……。
「な、ななななななな……」
 何をしているんですか! と声を荒げるつもりが、何も言えなかった。日褄先生は颯爽と踵を返し、「あっはっはっはっはー!」と笑いながら階段を駆け下りて行った。その勢いに、追いかける気も起きない。
 僕はがっくりと肩を落とし、それでもプラカードを掲げながら校内の循環を再開することにした。僕の予想に反して、賑やかな文化祭になりそうな予感がした。
 お化け屋敷ロードの一番端は、河野帆高のクラスだったが、廊下に帆高の姿はなかった。あいつはお化け役だから、教室の中にいるのだろう。
 あれから、帆高はあーちゃんが僕に残したノートについて一言も口にしていない。僕の方から語ることを待っているのだろうか。協力してもらったのだから、いずれきちんと話をするべきなんじゃないかと考えてはいるけれど、今はまだ上手く、僕も言葉にできる自信がない。
 廊下の端の階段を降りると、そこは射的ゲームをやっているクラスの前だった。何やら歓声が上がっているので中の様子を窺うと、葵さんが次々と景品を落としているところだった。大人の本気ってこわい。
 中央階段の前の教室では、自主製作映画の上映が行われているようだった。「戦え!パイナップルマン」というタイトルの、なんとも言えないシュールな映画ポスターが廊下には貼られている。地球侵略にやってきたタコ星人ヲクトパスから地球を救うために、八百屋の片隅で売れ残っていた廃棄寸前のパイナップルが立ち上がる……ポスターに記されていた映画のあらすじをそこまで読んでやめた。
 ちょうど映画の上映が終わったところらしい、教室からはわらわらと人が出てくる。僕は歩き出そうとして、そこに見知った顔を見つけてしまった。
 色素の薄い髪。切れ長の瞳と、ひょろりとした体躯。物静かな印象を与える彼は、
「あっくん……」
「うー兄じゃないですか」
 妙に大人びた声音。口元の端だけを僅かに上げた、作り笑いに限りなく似た笑顔。
 鈴木篤人くんは、僕よりひとつ年下の、あーちゃんの弟だ。
「一瞬、誰だかわかりませんでしたよ。まるで女の子だ」
「……来てたんだ、うちの文化祭」
 私立の中学校に通うあっくんが、うちの中学の文化祭に来たという話は聞いたことがない。それもそのはずだ。この学校で、彼の兄は飛び降り自殺したのだから。
「たまたま今日は部活がなかったので。ちょっと遊びに来ただけですよ」
 柔和な笑みを浮かべてそう言う。だけれどその笑みは、どこか嘘っぽく見えてしまう。
「うー兄は、どうして女装を?」
「えっと、男女逆転メイド・執事喫茶っていうの、クラスでやってて……」
 僕は掲げていたプラカードを指してそう説明すると、ふうん、とあっくんは頷いた。
「それじゃあ、最後にうー兄のクラスを見てから帰ろうかな」
「あ、もう帰るの?」
「本当は、もう少しゆっくり見て行くつもりだったんですが……」
 彼はどこか困ったような表情をして、頭を掻いた。
「どうも、そういう訳にはいかないんです」
「何か、急用?」
「まぁ、そんなもんですかね。会いたくない人が――」
 あっくんはそう言った時、その双眸を僅かに細めたのだった。
「――会いたくない人が、ここに来ているみたいなので」
「そう……なんだ」
「だからすみません、今日はそろそろ失礼します」
「ああ、うん」
「うー兄、頑張って下さい」
「ありがとう」
 浅くもなく深くもない角度で頭を下げてから、あっくんは人混みの中に消えるように歩き出して行った。
 友人も知人も少ない僕は、誰にも会わないだろうと思っていたけれど、やっぱり文化祭となるとそうは言っていられないみたいだ。こうもいろんな人に自分の女装姿を見られると、恥ずかしくて死にたくなる。穴があったら入りたいとはまさにこのことなんじゃないだろうか。
 教室で来客の応対をしたりお菓子やお茶の用意をすることに比べたらずっと楽だが、こうやって校舎を循環しているのもなかなかに飽きてきた。保健室でずる休みでもしようか。あそこには恐らく、ミナモもいるはずだから。
 そうやって僕も歩き出し、保健室へ続く廊下を歩いていると、僕は突然、頭をかち割われたような衝撃に襲われた。そう、それは突然だった。彼女は唐突に、僕の前に現れたのだ。
 嘘だろ。
 目が、耳が、口が、心臓が、身体が、脳が、精神が、凍りつく。
 耳鳴り、頭痛、動悸、震え。
 揺らぐ。視界も、思考も。
 僕はやっと気付いた。あっくんが言う、「会いたくない人」の意味を。
 あっくんは彼女がここに来ていることを知っていた。だから会いたくなかったのだ。
 でもそんなはずはない。世界が僕を置いて行ったように、きみもそこに置いて行かれたはずだ。僕のついた不器用な嘘のせいで、あの春の日に閉じ込められたはずだ。きみの時間は、止まったはずだ。
 言ったじゃないか、待つって。ずっと待つんだって。
 もう二度と帰って来ない人を。
 僕らの最愛の、あーちゃんを。
「あれー、うーくんだー」
 へらへらと、彼女は笑った。
「なにその恰好、女の子みたいだよ」
 楽しそうに、愉快そうに、面白そうに。
 あーちゃんが生きていた頃は、一度だってそんな風に笑わなかったくせに。
 色白の肌。華奢で小柄な体躯。相手を拒絶するかのように吊り上がった猫目。伸びた髪。身に着けている服は、制服ではなかった。
 でもそうだ。
 僕はわかっていたはずだ。日褄先生は僕に告げた。ひーちゃんが、学校に来るようになると。いつかこんな日が来ると。彼女が、世界に追いつく日がやって来ると。
 僕だけが、置いて行かれる日が来ることを。
「久しぶりだね、うーくん」
「……久しぶり、ひーちゃん」
 僕は、ちっとも笑えなかった。あーちゃんが生きていた頃は、ちゃんと笑えていたのに。
 市野谷比比子はそんな僕を見て、満面の笑みをその顔に浮かべた。
   「……だんじょぎゃくてん、めいど……しつじきっさ…………?」
 たどたどしい口調で、ひーちゃんは僕が持っていたプラカードの文字を読み上げる。
「えっと���、男女が逆だから、うーくんが女の子の恰好で、女の子が男の子の恰好をしてるんだね」
 そう言いながら、ひーちゃんはプラスチック製のフォークで福神漬けをぶすぶすと刺すと、はい、と僕に向かって差し出してくる。
「これ嫌い、うーくんにあげる」
「どうも」
 僕はいつから彼女の嫌いな物処理係になったのだろう、と思いながら渡されたフォークを受け取り、素直に福神漬けを咀嚼する。
「でもうーくん、女装似合うね」
「それ、あんまり嬉しくないから」
 僕とひーちゃんは向き合って座っていた。ひーちゃんに会ったのは、僕が彼女の家を訪ねた夏休み以来だ。彼女はあれから特に変わっていないように見える。着ている服は今日も黒一色だ。彼女は、最愛の弟、ろーくんが死んだあの日から、ずっと黒い服を着ている。
 僕らがいるのは新校舎二階の一年二組の教室だ。PTAの皆さまが営んでいるカレー屋である。この文化祭で調理が認められているのは、大人か、調理部の連中だけだ。午後になり、生徒も父兄も体育館で行われている軽音部やら合唱部やらのコンサートを観に行ってしまっているので、校舎に残る人は少ない。店じまいしかけているカレー屋コーナーで、僕たちは遅めの昼食を摂っていた。僕は未だに、メイド服を着たままだ。
 ひーちゃんとカレーライスを食べている。なんだか不思議な感覚だ。ひーちゃんがこの学校にいるということ自体が、不思議なのかもしれない。彼女は入学してからただの一度も、この学校の門をくぐったことがなかったのだ。
 どうしてひーちゃんは、ここにいるんだろう。ひーちゃんにとって、ここは、もう終わってしまった場所のはずなのに。ここだけじゃない。世界じゅうが、彼女の世界ではなくなってしまったはずなのに。あーちゃんのいない世界なんて、無に等しいはずなのに。なのにひーちゃんは、僕の目の前にいて、美味しそうにカレーを食べている。
 ときどき、僕の方を見て、話す。笑う。おかしい。だってひーちゃんの両目は、いつもどこか遠くを見ていたはずなのに。ここじゃないどこかを夢見ていたのに。
 いつかこうなることは、わかっていた。永遠なんて存在しない。不変なんてありえない。世界が僕を置いて行ったように、いずれはひーちゃんも動き出す。僕はずっとそうわかっていたはずだ。僕が今までについた嘘を全部否定して、ひーちゃんが再び、この世界で生きようとする日が来ることを。
 思い知らされる。
 あの日から僕がひーちゃんにつき続けた嘘は、あーちゃんは本当は生きていて、今はどこか遠くにいるだけだと言ったあの嘘は、何ひとつ価値なんてなかったということを。僕という存在がひーちゃんにとって、何ひとつ価値がなかったということを。わかっていたはずだ。ひーちゃんにとっては僕ではなくて、あーちゃんが必要なんだということを。あーちゃんとひーちゃんと僕で、三角形だったなんて大嘘だ。僕は最初から、そんな立ち位置に立てていなかった。全てはそう思いたかった僕のエゴだ。三角形であってほしいと願っていただけだ。
 そうだ。
 本当はずっと、僕はあーちゃんが妬ましかったのだ。
「カレー食べ終わったら、どうする? 少し、校内を見て行く?」
 僕がそう尋ねると、ひーちゃんは首を左右に振った。
「今日は先生たちには内緒で来ちゃったから、面倒なことになる前に帰るよ」
「あ、そうなんだ……」
「来年は『僕』も、そっち側で参加できるかなぁ」
「そっち側?」
「文化祭、やれるかなぁっていうこと」
 ひーちゃんは、楽しそうな笑顔だ。
 楽しそうな未来を、思い描いている表情。
「……そのうち、学校に来るようになるんだって?」
「なんだー、あいつ、ばらしちゃったの? せっかく驚かせようと思ったのに」
 あいつ、とは日褄先生のことだろう。ひーちゃんは日褄先生のことを語る時、いつも少し不機嫌になる。
「……大丈夫なの?」
「うん? 何が?」
 僕の問いに、ひーちゃんはきょとんとした表情をした。僕はなんでもない、と言って、カレーを食べ続ける。
 ねぇ、ひーちゃん。
 ひーちゃんは、あーちゃんがいなくても、もう大丈夫なの?
 訊けなかった言葉は、ジャガイモと一緒に飲み込んだ。
「ねぇ、うーくん、」
 ひーちゃんは僕のことを呼んだ。
 うーくん。
 それは、あーちゃんとひーちゃんだけが呼ぶ、僕のあだ名。
 黒い瞳が僕を見上げている。
 彼女の唇から、いとも簡単に嘘のような言葉が零れ落ちた。
「あーちゃんは、もういないんだよ」
「…………え?」
 僕は耳を疑って、訊き返した。
「今、ひーちゃん、なんて……」
「だから早く、帰ってきてくれるといいね、あーちゃん」
 そう言ってひーちゃんは、にっこり笑った。まるで何事もなかったみたいに。
 あーちゃんの死なんて、あーちゃんの存在なんて、最初から何もなかったみたいに。
 僕はそんなひーちゃんが怖くて、何も言わずにカレーを食べた。
「あーちゃん」こと鈴木直正が死んだ後、「ひーちゃん」こと市野谷比比子は生きる気力を失くしていた。だから「うーくん」こと僕、――――は、ひーちゃんにひとつ嘘をついた。
 あーちゃんは生きている。今はどこか遠くにいるけれど、必ず彼は帰ってくる、と。
 カレーを食べ終えたひーちゃんは、帰ると言うので僕は彼女を昇降口まで見送ることにした。
 二人で廊下を歩いていると、ふと、ひーちゃんの目線は窓の外へと向けられる。目線の先を追えば、そこには旧校舎の屋上が見える。そう、あーちゃんが飛び降りた、屋上が見える。
「ねぇ、どうしてあーちゃんは、空を飛んだの?」
 ひーちゃんは虚ろな瞳で窓から空を見上げてそう言った。
「なんであーちゃんはいなくなったの? ずっと待ってたのに、どうして帰って来ないの? ずっと待ってるって約束したのに、どうして? 違うね、約束したんじゃない、『僕』が勝手に決め��んだ。あーちゃんがいなくなってから、そう決めた。あーちゃんが帰って来るのを、ずっと待つって。待っていたら、必ず帰って来てくれるって。あーちゃんは昔からそうだったもんね。『僕』がひとりで泣いていたら、必ずどこからかやって来て、『僕』のこと慰めてくれた。だから今度も待つって決めた。だってあーちゃんが、帰って来ない訳ないもん。『僕』のことひとりぼっちにするはずないもん。そんなの、許せないよ」
 僕には答える術がない。
 幼稚な嘘はもう使えない。手持ちのカードは全て使い切られた。
 ひーちゃんは、もうずっと前から気付いていたはずだ。あーちゃんはもう、この世界にいないなんだって。僕のついた嘘が、とても稚拙で下らないものだったんだって。
「嘘つきだよ、皆、嘘つきだよ。ろーくんも、あーちゃんも、嘘つき。嘘つき嘘つき嘘つき。うーくんだって、嘘つき」
 ひーちゃんの言葉が、僕の心を突き刺していく。
 でも僕は逃げられない。だってこれは、僕が招いた結果なのだから。
「皆大嫌い」
 ひーちゃんが正面から僕に向かい合った。それがまるで決別の印であるとでも言うかのように。
 ちきちきちきちきちきちきちきちき。
 耳慣れた音が聞こえる。
 僕の左手首の内側、その傷を作った原因の音がする。
 ひーちゃんの右手はポケットの中。物騒なものを持ち歩いているんだな、ひーちゃん。
「嘘つき」
 ひーちゃんの瞳。ひーちゃんの唇。ひーちゃんの眉間に刻まれた皺。
 僕は思い出す。小学校の裏にあった畑。夏休みの水やり当番。あの時話しかけてきた担任にひーちゃんが向けた、殺意に満ちたあの顔。今目の前にいる彼女の表情は、その時によく似ている。
「うーくんの嘘つき」
 殺意。
「帰って来るって言ったくせに」
 殺意。
「あーちゃんは、帰って来るって言ったくせに!」
 嘘つきなのは、どっちだよ。
「ひーちゃんだって、気付いていたくせに」
 僕の嘘に気付いていたくせに。
 あーちゃんは死んだってわかっていたくせに。
 僕の嘘を信じたようなふりをして、部屋に引きこもって、それなのにこうやって、学校へ来ようとしているくせに。世界に馴染もうとしているくせに。あーちゃんが死んだ世界がもう終わってしまった代物だとわかっているのに、それでも生きようとしているくせに。
 ひーちゃんは、もう僕の言葉にたじろいだりしなかった。
「あんたなんか、死んじゃえ」
 彼女はポケットからカッターナイフを取り出すと、それを、
      鈍い衝撃が身体じゅうに走った。
 右肩と頭に痛みが走って、無意識に呻いた。僕は昇降口の床に叩きつけられていた。思い切り横から突き飛ばされたのだ。揺れる視界のまま僕は上半身を起こし、そして事態はもう間に合わないのだと知る。
 僕はよかった。
 怪我を負ってもよかった。刺されてもよかった。切りつけられてもよかった。殺されたって構わない。
 だってそれが、僕がひーちゃんにできる最後の救いだと、本気で思っていたからだ。
 僕はひーちゃんに嘘をついた。あーちゃんは生きていると嘘をついた。ついてはいけない嘘だった。その嘘を、彼女がどれくらい本気で信じていたのか、もしくはどれくらい本気で信じたふりを演じていてくれていたのかはわからない。でも僕は、彼女を傷つけた。だからその報いを受けたってよかった。どうなってもよかったんだ。だってもう、どうなったところで、あーちゃんは生き返ったりしないのだから。
 だけど、きみはだめだ。
 どうして僕を救おうとする。どうして、僕に構おうとする。放っておいてくれとあれだけ示したのに、どうして。僕はきみをあんなに傷つけたのに。どうしてきみはここにいるんだ。どうして僕を、かばったんだ。
 ひーちゃんの握るカッターナイフの切っ先が、ためらうことなく彼女を切り裂いた。
 ピンク色の髪留めが、宙に放られるその軌跡を僕の目は追っていた。
「佐渡さん!」
 僕の叫びが、まるで僕のものじゃないみたいに響く。周りには不気味なくらい誰もいない。
 市野谷比比子に切りつけられた佐渡梓は、床に倒れ込んでいく。それがスローモーションのように僕の目にはまざまざと映る。飛び散る赤い飛沫が床に舞う。
 僕は起き上がり走った。ひーちゃんの虚ろな目。再度振り上げられた右手。それが再び佐渡梓を傷つける前に、僕は両手を広げ彼女をかばった。
「    」
 一瞬の空白。ひーちゃんの唇が僅かに動いたのを僕は見た。その小さな声が僕の耳に届くよりも速く、刃は僕の右肩に突き刺さる。
 痛み。
 背後で佐渡梓の悲鳴。けれどひーちゃんは止まらない。僕の肩に突き刺さったカッターを抜くと彼女はそれをまた振り上げて、
  そうだよな。
 痛かったよな。
 あーちゃんは、ひーちゃんの全部だったのに。
 あーちゃんが生きているなんて嘘ついて、ごめん。
 そして振り下ろされた。
  だん、と。
 地面が割れるような音がした。
  一瞬、地震が起こったのかと思った。
 不意に目の前が真っ暗になり、何かが宙を舞った。少し離れたところで、からんと金属のものが床に落ちたような高い音が聞こえる。
 僕とひーちゃんの間に割り込んできたのは、黒衣の人物だった。ひーちゃんと同じ、全身真っ黒で整えられた服装。ただしその頭髪だけが、毒々しいまでの緑色に揺れている。
「…………日褄先生」
 僕がやっとの思いで絞り出すようにそれだけ言うと、彼女は僕に背中を向けてひーちゃんと向き合ったまま、
「せんせーって呼ぶなっつってんだろ」
 といつも通りの返事をした。
「ひとりで学校に来れたなんて、たいしたもんじゃねぇか」
 日褄先生はひーちゃんに向けてそう言ったが、彼女は相変わらず無表情だった。
 がらんどうの瞳。がらんどうの表情。がらんどうの心。がらんどうのひーちゃんは、いつもは嫌がる大嫌いな日褄先生を目の前にしても微動だにしない。
「なんで人を傷つけるようなことをしたんだよ」
 先生の声は、いつになく静かだった。僕は先生が今どんな表情をしているのかはわからないけれど、それは淡々とした声音だ。
「もう誰かを失いたくないはずだろ」
 廊下の向こうから誰かがやって来る。背の高いその男性は、葵さんだった。彼はひーちゃんの少し後ろに落ちているカッターナイフを無言で拾い上げている。それはさっきまで、ひーちゃんの手の中にあったはずのものだ。どうしてそんなところに落ちているのだろう。
 少し前の記憶を巻き戻してみて、僕はようやく、日褄先生が僕とひーちゃんの間に割り込んだ時、それを鮮やかに蹴り上げてひーちゃんの手から吹っ飛ばしたことに気が付いた。日褄先生、一体何者なんだ。
 葵さんはカッターナイフの刃を仕舞うと、それをズボンのポケットの中へと仕舞い、それからひーちゃんに後ろから歩み寄ると、その両肩を掴んで、もう彼女が暴れることができないようにした。そうされてもひーちゃんは、もう何も言葉を発さず、表情も変えなかった。先程見せたあの強い殺意も、今は嘘みたいに消えている。
 それから日褄先生は僕を振り返り、その表情が僕の思っていた以上に怒りに満ちたものであることを僕の目が視認したその瞬間、頬に鉄拳が飛んできた。
 ごっ、という音が自分の顔から聞こえた。骨でも折れたんじゃないかと思った。今まで受けたどんな痛みより、それが一番痛かった。
「てめーは何ぼんやり突っ立ってんだよ」
 日褄先生は僕のメイド服の胸倉を乱暴に掴むと怒鳴るように言った。
「お前は何をしてんだよ、市野谷に殺されたがってんじゃねーよ。やべぇと思ったらさっさと逃げろ、なんでそれぐらいのこともできねーんだよ」
 先生は僕をまっすぐに見ていた。それは恐ろしいくらい、まっすぐな瞳だった。
「なんでどいつもこいつも、自分の命が大事にできねーんだよ。お前わかってんのかよ、お前が死んだら市野谷はどうなる? 自分の弟を目の前で亡くして、大事な直正が自殺して、それでお前が市野谷に殺されたら、こいつはどうなるんだよ」
「……ひーちゃんには、僕じゃ駄目なんですよ。あーちゃんじゃないと、駄目なんです」
 僕がやっとの思いでそれだけ言うと、今度は平手が反対の頬に飛んできた。
 熱い。痛いというよりも、熱い。
「直正が死んでも世界は変わらなかった。世界にとっちゃ人ひとりの死なんてたいしたことねぇ、だから自分なんて世界にとってちっぽけで取るに足らない、お前はそう思ってるのかもしれないが、でもな、それでもお前が世界の一部であることには変わりないんだよ」
 怒鳴る、怒鳴る、怒鳴る。
 先生は僕のことを怒鳴った。
 こんな風に叱られるのは初めてだ。
 こんな風に、叱ってくれる人は初めてだった。
「なんでお前は市野谷に、直正は生きてるって嘘をついた? 市野谷がわかりきっているはずの嘘をどうしてつき続けた? それはなんのためだよ? どうして最後まで、市野谷がちゃんと笑えるようになるまで、側で支えてやろうって思わないんだよ」
 そうだ。
 そうだった。日褄先生は最初からそうだった。
 優しくて、恐ろしいくらい乱暴なのだ。
「市野谷に殺されてもいい、自分なんて死んでもいいなんて思ってるんじゃねぇよ。『お前だから駄目』なんじゃねぇよ、『直正の代わりをしようとしているお前だから』駄目なんだろ?」
 日褄先生は最後に怒鳴った。
「もういい加減、鈴木直正の代わりになろうとするのはやめろよ。お前は―――だろ」
  お前は、潤崎颯だろ。
  やっと。
 やっと僕は、自分の名前が、聞き取れた。
 あーちゃんが死んで、ひーちゃんに嘘をついた。
 それ以来僕はずっと、自分の名前を認めることができなかった。
 自分の名前を口にするのも、耳にするのも嫌だった。
 僕は代わりになりたかったから。あーちゃんの代わりになりたかったから。
 あーちゃんが死んだら、ひーちゃんは僕を見てくれると、そう思っていたから。
 でも駄目だった。僕じゃ駄目だった。ひーちゃんはあーちゃんが死んでも、あーちゃんのことばかり見ていた。僕はあーちゃんになれなかった。だから僕なんかいらなかった。死んだってよかった。どうだってよかったんだ。
 嘘まみれでずたずたで、もうどうしようもないけれど、それでもそれが、「僕」だった。
 あーちゃんになれなくても、ひーちゃんを上手に救えなくても、それでも僕は、それでもそれが、潤崎颯、僕だった。
 日褄先生の手が、僕の服から離れていく。床に倒れている佐渡梓は、どこか呆然と僕たちを見つめている。ひーちゃんの表情はうつろなままで、彼女の肩を後ろから掴んでいる葵さんは、まるでひーちゃんのことを支えているように見えた。
 先生はひーちゃんの元へ行き、葵さんはひーちゃんからゆっくりと手を離す。そうして、先生はひーちゃんのことを抱き締めた。先生は何も言わなかった。ひーちゃんも、何も言わなかった。葵さんは無言で昇降口から出て行って、しばらくしてから帰ってきた。その時も、先生はひーちゃんを抱き締めたままで、僕はそこに突っ立っていたままだった。
 やがて日褄先生はひーちゃんの肩を抱くようにして、昇降口の方へと歩き出す。葵さんは昇降口前まで車を回していたようだ。いつか見た、黒い車が停まっていた。
 待��て下さい、と僕は言った。
 日褄先生は立ち止まった。ひーちゃんも、立ち止まる。
 僕はひーちゃんに駆け寄った。
 ひーちゃんは無表情だった。
 僕は、ひーちゃんに謝るつもりだった。だけど言葉は出て来なかった。喉元まで込み上げた言葉は声にならず、口から嗚咽となって溢れた。僕の目からは涙がいくつも零れて、そしてその時、ひーちゃんが小さく、ごめんね、とつぶやくように言った。僕は声にならない声をいくつもあげながら、ただただ、泣いた。
 ひーちゃんの空っぽな瞳からも、一粒の滴が転がり落ちて、あーちゃんの死から一年以上経ってやっと、僕とひーちゃんは一緒に泣くことができたのだった。
    ひーちゃんに刺された傷は、軽傷で済んだ。
 けれど僕は、二週間ほど学校を休んだ。
「災難でしたね」
 あっくん、あーちゃんの弟である鈴木篤人くんは、僕の部屋を見舞いに訪れて、そう言った。
「聞きましたよ、文化祭で、ひー姉に切りつけられたんでしょう?」
 あーちゃんそっくりの表情で、あっくんはそう言った。
「とうとうばれたんですか、うー兄のついていた嘘は」
「……最初から、ばれていたようなものだよ」
 あーちゃんとよく似ている彼は、その日、制服姿だった。部活の帰りなのだろう、大きなエナメルバッグを肩から提げていて、手にはコンビニの袋を握っている。
「それで良かったんですよ。うー兄にとっても、ひー姉にとっても」
 あっくんは僕の部屋、椅子に腰かけている。その両足をぷらぷらと揺らしていた。
「兄貴のことなんか、もう忘れていいんです。あんなやつのことなんて」
 あっくんの両目が、すっと細められる。端正な顔立ちが、僅かに歪む。
 思い出すのは、あーちゃんの葬式の時のこと。
 式の最中、あっくんは外へ斎場の外へ出て行った。外のベンチにひとりで座っていた。どこかいらいらした様子で、追いかけて行った僕のことを見た。
「あいつ、不器用なんだ」
 あっくんは不満そうな声音でそう言った。あいつとは誰だろうかと一瞬思ったけれど、すぐにそれが死んだあーちゃんのことだと思い至った。
「自殺の原因も、昔のいじめなんだって。ココロノキズがいけないんだって。せーしんかのセンセー、そう言ってた。あいつもイショに、そう書いてた」
 あーちゃんが死んだ時、あっくんは小学五年生だった。今のような話し方ではなかった。彼はごく普通の男の子だった。あっくんが変わったのは、あっくんがあーちゃんのように振る舞い始めたのは、あーちゃんが死んでからだ。
「あいつ、全然悪くないのに、傷つくから駄目なんだ。だから弱くて、いじめられるんだ。おれはあいつより強くなるよ。あいつの分まで生きる。人のこといじめたりとか、絶対にしない」
 あっくんは、一度も僕と目を合わさずにそう言った。僕はあーちゃんの弱さと、あっくんの強さを思った。不機嫌そうに、「あーちゃんの分まで生きる」と言った、彼の強さを思った。あっくんのような強さがあればいいのに、と思った。ひーちゃんにも、強く生きてほしかった。僕も、そう生きるべきだった。
 あーちゃんが死んだ後、あーちゃんの家族はいつも騒がしそうだった。たくさんの人が入れ替わり立ち替わりやって来ては帰って行った。ときどき見かけるあっくんは、いつも機嫌が悪そうだった。あっくんはいつも怒っていた。あっくんただひとりが、あーちゃんの死を、怒っていた。
「――あんなやつのことを覚えているのは、僕だけで十分です」
 あっくんはそう言って、どうしようもなさそうに、笑った。
 あっくんも、僕と同じだった。
 あーちゃんの代わりになろうとしていた。
 ただそれは、ひーちゃんのためではなく、彼の両親のためだった。
 あーちゃんが死んだ中学校には通わせられないという両親の期待に応えるために、あっくんは猛勉強をして私立の中学に合格した。
 けれど悲しいことに両親は、それを心から喜びはしなかった。今のあっくんを見ていると、死んだあーちゃんを思い出すからだ。
 あっくんはあーちゃんの分まで生きようとして、そしてそれが、不可能であると知った。自分は自分としてしか、生きていけないのだ。
「僕は忘れないよ、あーちゃんのこと」
 僕がそうぽつりと言うと、あっくんの顔はこちらへと向いた。あっくんのかけている眼鏡のレンズが蛍光灯の光を反射して、彼の表情を隠している。そうしていると、本当に、そこにあーちゃんがいるみたいだった。
「……僕は忘れない。あーちゃんのことを、ずっと」
 自分に言い聞かせるように、僕はそう続けて言った。
「僕も、あーちゃんの分まで生きるよ」
 あーちゃんが欠けた、この世界で。
「…………」
 あっくんは黙ったまま、少し顔の向きを変えた。レンズは光を反射しなくなり、眼鏡の下の彼の顔が見えた。それは、あーちゃんに似ているようで、だけど確かに、あっくんの表情だった。
「そうですか」
 それだけつぶやくように言うと、彼は少しだけ笑った。
「兄貴もきっと、その方が喜ぶでしょう」
 あっくんはそう言って、持っていたコンビニの袋に入っていたプリンを「見舞いの品です」と言って僕の机の上に置くと、帰って行った。
 その後ろ姿はもう、あーちゃんのようには見えなかった。
 その二日後、僕は部屋でひとり寝ていると玄関のチャイムが鳴ったので出てみると、そこには河野帆高が立っていた。
「よー、潤崎くん。元気?」
「……なんで、僕の家を知ってるの?」
「とりあえずお邪魔しまーす」
「…………なんで?」
 呆然としている僕の横を、帆高はすり抜けるようにして靴を脱いで上がって行く。こいつが僕の家の住所を知っているはずがない。訊かれたところで担任が教えるとも思えない。となると、住所を教えたのは、やはり、日褄先生だろうか。僕は溜め息をついた。どうしてあのカウンセラーは、生徒の個人情報を守る気がないのだろう。困ったものだ。
 勝手に僕の部屋のベッドに寝転んでくつろいでいる帆高に缶ジュースを持って行くと、やつは笑いながら、
「なんか、美少女に切りつけられたり、美女に殴られたりしたんだって?」
 と言った。
「間違っているような、いないような…………」
「すげー修羅場だなー」
 けらけらと軽薄に、帆高が笑う。あっくんが見舞いに訪れた時と同様に、帆高も制服姿だった。学校帰りに寄ってくれたのだろう。ごくごくと喉を鳴らしてジュースを飲んでいる。
「はい、これ」
 帆高は鞄の中から、紙の束を取り出して僕に差し出した。受け取って確認するまでもなかった。それは、僕が休んでいる間に学級で配布されたのであろう、プリントや手紙だった。ただ、それを他クラスに所属している帆高から受け取るというのが、いささか奇妙な気はしたけれど。
「どうも……」
「授業のノートは、学校へ行くようになってから本人にもらって。俺のノートをコピーしてもいいんだけど、やっぱクラス違うと微妙に授業の進度とか感じも違うだろうし」
「…………本人?」
 僕が首をかしげると、帆高は、ああ、と思い出したように言った。
「これ、ミナモからの預かり物なんだよ。自分で届けに行けばって言ったんだけど、やっぱりそれは恥ずかしかったのかねー」
 ミナモが、僕のプリントを届けることを帆高に依頼した……?
 一体、どういうことだろう。だってミナモは、一日じゅう保健室にいて、教室内のことには関与していないはずだ。なんだか、嫌な予感がした。
「帆高、まさか、なんだけど…………」
「そのまさかだよ、潤崎くん」
 帆高は飄々とした顔で言った。
「ミナモは、文化祭の振り替え休日が明けてからのこの二週間、ちゃんと教室に登校して、休んでるあんたの代わりに授業のノートを取ってる」
「…………は?」
「でもさー、ミナモ、ノート取る・取らない以前に、黒板に書いてある文字の内容を理解できてるのかねー? まぁノート取らないよりはマシだと思うけどさー」
「ちょ、ちょっと待って……」
 ミナモが、教室で授業を受けている?
 僕の代わりに、ノートを取っている?
 一体、何があったんだ……?
 僕は呆然とした。
「ほんと、潤崎くんはミナモに愛されてるよねー」
「…………」
 ミナモが聞いたらそうしそうな気がしたから、代わりに僕が帆高の頭に鉄拳を制裁した。それでも帆高はにやにやと笑いながら、言った。
「だからさ、怪我してんのも知ってるし、学校休みたくなる気持ちもわからなくはないけど、なるべく早く、学校出て来てくれねーかな」
 表情と不釣り合いに、その声音は真剣だったので、僕は面食らう。ミナモのことを気遣っていることが窺える声だった。入学して以来、一度も足を向けたことのない教室で、授業に出てノートを取っているのだから、無理をしていないはずがない。いきなりそんなことをするなんて、ミナモも無茶をするものだ。いや、無茶をさせているのは、僕なのだろうか。
 あ、そうだ、と帆高は何かを思い出したかのようにつぶやき、鞄の中から丸められた画用紙を取り出した。
「……それは?」
「ミナモから、預かってきた。お見舞いの品」
 ミナモから、お見舞いの品?
 首を傾げかけた僕は、画用紙を広げ、そこに描かれたものを見て、納得した。
 河野ミナモと、僕。
 死にたがり屋と死に損ない。
 自らの死を願って雨の降る屋上へ向かい、そこで出会った僕と彼女は、ずるずると、死んでいくように生き延びたのだ。
「……これから、授業に出るつもり、なのかな」
「ん? ああ、ミナモのことか? どうだろうなぁ」
 僕は思い出していた。文化祭の朝、リストバンドをくれた、峠茶屋桜子さんのこと。僕とミナモが出会った日に、保健室で僕たちに偶然出会ったことを彼女は覚えていてくれていた。彼女のような人もクラスにはいる。僕だってミナモだって、クラスの人たちと全く関わり合いがない訳ではないのだ。僕たちもまだ、世界と繋がっている。
「河野も、変わろうとしてるのかな……」
 死んだ方がいい人間だっている。
 初めて出会ったあの日、河野ミナモはそう言った。
 僕もそう思っていた。死んだ方がいい人間だっている。僕だって、きっとそうだと。
 だけど僕たちは生きている。
 ミナモが贈ってくれた絵は、やっぱり、あの屋上から見た景色だった。夏休みの宿題を頼んだ時に描いてもらった絵の構図とほとんど同じだった。屋上は無人で、僕の姿もミナモの姿もそこには描かれていない。だけど空は、澄んだ青色で塗られていた。
 僕は帆高に、なるべく早く学校へ行くよ、と約束して、それから、どうかミナモの変化が明るい未来へ繋がるように祈った。
 河野帆高が言っていた通り、僕が学校を休んでいた約二週間の間、ミナモは朝教室に登校してきて、授業を受け、ノートを取ってくれていた。けれど、僕が学校へ行くようになると、保健室登校に逆戻りだった。
 昼休みの保健室で、僕はミナモからルーズリーフの束を受け取った。筆圧の薄い字がびっしりと書いてある。
 僕は彼女が贈ってくれた絵のことを思い出した。かつてあーちゃんが飛び降りて、死のうとしていた僕と、死にたがりのミナモが出会ったあの屋上。そこから見た景色を、ミナモはのびのびとした筆使いで描いていた。綺麗な青い色の絵具を使って。
 授業ノートの字は、その絵とは正反対な、神経質そうに尖っているものだった。中学入学以来、一度も登校していなかった教室に足を運び、授業を受けたのだ。ルーズリーフのところどころは皺寄っている。緊張したのだろう。
「せっかく来るようになったのに、もう教室に行かなくていいの?」
「……潤崎くんが来るなら、もう行かない」
 ミナモは長い前髪の下から睨みつけるように僕を一瞥して、そう言った。
 それもそうだ。ミナモは人間がこわいのだ。彼女にとっては、教室の中で他人の視線に晒されるだけでも恐ろしかったに違いないのに。
 ルーズリーフを何枚かめくり、ノートの文字をよく見れば、ときどき震えていた。恐怖を抑えようとしていたのか、ルーズリーフの余白には小さな絵が描いてあることもあった。
「ありがとう、河野」
「別に」
 ミナモは保健室のベッドの上、膝に乗せたスケッチブックを開き、目線をそこへと向けていた。
「行くところがあるんじゃないの?」
 もう僕に興味がなくなってしまったかのような声で彼女はそう言って、ただ鉛筆を動かすだけの音が保健室には響き始めた。
 僕はもう一度ミナモに礼を言ってから、保健室を後にした。
    ずっと謝らなくてはいけないと思っている人がいた。
 彼女はなんだか気まずそうに僕の前でうつむいている。
 昼休みの廊下の片隅。僕と彼女の他には誰もいない。呼び出したのは僕の方だった。文化祭でのあの事件から、初めて登校した僕は、その日のうちに彼女の教室へ行き、彼女のクラスメイトに呼び出してもらった。
「あの…………」
「なに?」
「その、怪我の、具合は……?」
「僕はたいしたことないよ。もう治ったし。きみは?」
「私も、その、大丈夫です」
「そう……」
 よかった、と言おうとした言葉を、僕は言わずに飲み込んだ。これでよいはずがない。彼女は無関係だったのだ。彼女は、僕やひーちゃん、あーちゃんたちとは、なんの関係もなかったはずなのに。
「ごめん、巻き込んでしまって」
「いえ、そんな……勝手に先輩のことをかばったのは、私ですから……」
 文化祭の日。僕がひーちゃんに襲われた時、たまたま廊下を通りかかった彼女、佐渡梓は僕のことをかばい、そして傷を負った。
 怪我は幸いにも、僕と同様に軽傷で済んだようだが、でもそれだけで済む話ではない。彼女は今、カウンセリングに通い、「心の傷」を癒している。それもそうだ。同じ中学校に在籍している先輩女子生徒に、カッターナイフで切りつけられたのだから。
「きみが傷を負う、必要はなかったのに……」
 どうして僕のことを、かばったりしたのだろう。
 僕は佐渡梓の好意を、いつも踏みつけてきた。ひどい言葉もたくさんぶつけた。渡された手紙は読まずに捨てたし、彼女にとって、僕の態度は冷徹そのものだったはずだ。なのにどうして、彼女は僕を助けようとしたのだろう。
「……潤崎先輩に、一体何があって、あんなことになったのか、私にはわかりません」
 佐渡梓はそう言った。
「思えば、私、先輩のこと何も知らないんだなって、思ったんです。何が好きなのか、とか、どんな経験をしてきたのか、とか……。先輩のクラスに、不登校の人が二人いるってことは知っていました。ひとりは河野先輩で、潤崎先輩と親しいみたいだってことも。でも、もうひとりの、市野谷先輩のことは知らなくて……潤崎先輩と、幼馴染みだってことも……」
 僕とひーちゃんのことを知っているのは、同じ小学校からこの中学に進学してきた連中くらいだ。と言っても、僕もひーちゃんも小学校時代の同級生とそこまで交流がある訳じゃなかったから、そこまでは知られていないのではないだろうか。僕とひーちゃん、そして、あーちゃんのことも知っているという人間は、この学校にどれくらいいるのだろう。
 さらに言えば、僕とひーちゃんとあーちゃん、そして、ひーちゃんの最愛の弟ろーくんの事故のことまで知っている人間は、果たしているのだろうか。日褄先生くらいじゃないだろうか。
 僕たちは、あの事故から始まった。
 ひーちゃんはろーくんを目の前で失い、そして僕とあーちゃんに出会った。ひーちゃんは心にぽっかり空いた穴を、まるであーちゃんで埋めるようにして、あーちゃんを世界の全てだとでも言うようにして、生きるようになった。そんなあーちゃんは、ある日屋上から飛んで、この世界からいなくなってしまった。そうして役立たずの僕と、再び空っぽになったひーちゃんだけが残された。
 そうして僕は嘘をつき、ひーちゃんは僕を裏切った。
 僕を切りつけた刃の痛みは、きっとひーちゃんが今まで苦しんできた痛みだ。
 あーちゃんがもういないという事実を、きっとひーちゃんは知っていた。ひーちゃんは僕の嘘に騙されたふりをした。そうすればあーちゃんの死から逃れられるとでも思っていたのかもしれない。壊れたふりをしているうちに、ひーちゃんは本当に壊れていった。僕はどうしても、彼女を正しく導くことができなかった。嘘をつき続けることもできなかった。だからひーちゃんは、騙されることをやめたのだ。自分を騙すことを、やめた。
 僕はそのことを、佐渡梓に話そうとは思わなかった。彼女が理解してくれる訳がないと決めつけていた訳ではないが、わかってもらわなくてもいいと思っていた。でも僕が彼女を巻き込んでしまったことは、もはや変えようのない事実だった。
「今回のことの原因は、僕にあるんだ。詳しくは言えないけれど。だから、ひーちゃん……市野谷さんのことを責めないであげてほしい。本当は、いちばん苦しいのは市野谷さんなんだ」
 僕の言葉に、佐渡梓は決して納得したような表情をしなかった。それでも僕は、黙っていた。しばらくして、彼女は口を開いた。
「私は、市野谷先輩のことを責めようとか、訴えようとか、そんな風には思いません。どうしてこんなことになったのか、理由を知りたいとは思うけれど、潤崎先輩に無理に語ってもらおうとも思いません……でも、」
 彼女はそこまで言うと、うつむいていた顔を上げ、僕のことを見た。
 ただ真正面から、僕を見据えていた。
「私は、潤崎先輩も、苦しかったんじゃないかって思うんです。もしかしたら、今だって、先輩は苦しいんじゃないか、って……」
 僕は。
 佐渡梓にそう言われて、笑って誤魔化そうとして、泣いた。
 僕は苦しかったんだろうか。
 僕は今も、苦しんでいるのだろうか。
 ひーちゃんは、あの文化祭での事件の後、日褄先生に連れられて精神科へ行ったまま、学校には来ていない。家にも帰っていない。面会謝絶の状態で、会いに行くこともできないのだという。
 僕はどうかひーちゃんが、苦しんでいないことを願った。
 もう彼女は、十分はくらい苦しんできたと思ったから。
    ひーちゃんから電話がかかってきたのは、三月十三日のことだった。
 僕の中学校生活は何事もなかったかのように再開された。
 二週間の欠席を経て登校を始めた当初は、変なうわさと奇妙な視線が僕に向けられていたけれど、もともとクラスメイトと関わり合いのなかった僕からしてみれば、どうってことはなかった。
 文化祭で僕が着用したメイド服を作ってくれたクラス委員の長篠めいこさんと、リストバンドをくれた峠茶屋桜子さんとは、教室の中でときどき言葉を交わすようになった。それが一番大きな変化かもしれない。
 ミナモの席もひーちゃんの席も空席のままで、それもいつも通りだ。
 ミナモのはとこである帆高の方はというと、やつの方も相変わらずで、宿題の提出率は最悪みたいだ。しょっちゅう廊下で先生たちと鬼ごっこをしている。昼休みの保健室で僕とミナモがくつろいでいると、ときどき顔を出しにくる。いつもへらへら笑っていて、楽しそうだ。なんだかんだ、僕はこいつに心を開いているんだろうと思う。
 佐渡梓とは、あれからあまり会わなくなってしまった。彼女は一年後輩で、校舎の中ではもともと出会わない。委員会や部活動での共通点もない。彼女が僕のことを好きになったこと自体が、ある意味奇跡のようなものだ。僕をかばって怪我をした彼女には、感謝しなくてはいけないし謝罪しなくてはいけないと思ってはいるけれど、どうしたらいいのかわからない。最近になって少しだけ、彼女に言ったたくさんの言葉を後悔するようになった。
 日褄先生は、そう、日褄先生は、あれからスクールカウンセラーの仕事を辞めてしまった。婚約者の葵さんと結婚することになったらしい。僕の頬を殴ってまで叱咤してくれた彼女は、あっさりと僕の前からいなくなってしまった。そんなこと、許されるのだろうか。僕はまだ先生に、なんのお礼もしていないのに。
 僕のところには携帯電話の電話番号が記されたはがきが一枚届いて、僕は一度だけそこに電話をかけた。彼女はいつもと変わらない明るい声で、とんでもないことを平気でしゃべっていた。ひーちゃんのことも、僕のことも、彼女はたった一言、「もう大丈夫だよ」とだけ言った。
 そうこうしているうちに年が明け、冬休みが終わり、そうして三学期も終わった。
 三月十三日、電話が鳴った。
 あーちゃんが死んだ日だった。
 二年前のこの日、あーちゃんは死んだのだ。
「あーちゃんに会いたい」
 電話越しだけれども、久しぶりに聞くひーちゃんの声は、やけに乾いて聞こえた。
 あーちゃんにはもう会えないんだよ、そう言おうとした僕の声を遮って、彼女は言う。
「知ってる」
 乾燥しきったような、淡々とした声。鼓膜の奥にこびりついて取れない、そんな声。
「あーちゃん、死んだんでしょ。二年前の今日に」
 思えば。
 それが僕がひーちゃんの口から初めて聞いた、あーちゃんの死だった。
「『僕』ね、ごめんね、ずっとずっと知ってた、ずっとわかってた。あーちゃんは、もういないって。だけど、ずっと認めたくなくて。そんなのずるいじゃん。そんなの、卑怯で、許せなくて、許したくなくて、ずっと信じたくなくて、ごめん、でも……」
 うん、とだけ僕は答えた。
 きっとそれは、僕のせいだ。
 ひーちゃんを許した、僕のせいだ。
 あーちゃんの死から、ずっと目を背け続けたひーちゃんを許した、僕のせいだ。
 ひーちゃんにそうさせた、僕のせい。
 僕の罪。
 一度でもいい、僕が、あーちゃんの死を見ないようにするひーちゃんに、無理矢理にでも現実を打ち明けていたら、ひーちゃんはきっと、こんなに苦しまなくてよかったのだろう。ひーちゃんの強さを信じてあげられなかった、僕のせい。
 あーちゃんが死んで、自分も死のうとしていたひーちゃんを、支えてあげられるだけの力が僕にはなかった。ひーちゃんと一緒に生きるだけの強さが僕にはなかった。だから僕は黙っていた。ひーちゃんがこれ以上壊れてしまわぬように。ひーちゃんがもっと、壊れてしまうように。
 僕とひーちゃんは、二年前の今日に置き去りになった。
 僕の弱さがひーちゃんの心を殺した。壊した。狂わせた。痛めつけた。苦しめた。
「でも……もう、『僕』、あーちゃんの声、何度も何度も何度も、何度考えても、もう、思い出せないんだよ……」
 電話越しの声に、初めて感情というものを感じた。ひーちゃんの今にも泣き出しそうな声に、僕は心が潰れていくのを感じた。
「お願い、うーくん。『僕』を、あーちゃんのお墓に、連れてって」
 本当は、二年前にこうするべきだった。
「……わかった」
 僕はただ、そう言った。
 僕は弱いままだったから。
 彼女の言葉に、ただ頷いた。
『僕が死んだことで、きっとひーちゃんは傷ついただろうね』
 そう書いてあったのは、あーちゃんが僕に残したもうひとつの遺書だ。
『僕は裏切ってしまったから。あの子との約束を、破ってしまったから』
 あーちゃんとひーちゃんの間に交わされていたその約束がなんなのか、僕にはわからないけれど、ひーちゃんにはきっと、それがわかっているのだろう。
  ひーちゃんがあーちゃんのことを語る度、僕はひーちゃんがどこかへ行ってしまうような気がした。
 だってあんまりにも嬉しそうに、「あーちゃん、あーちゃん」って言うから。ひーちゃんの大好きなあーちゃんは、もういないのに。
 ひーちゃんの両目はいつも誰かを探していて、隣にいる僕なんか見てくれないから。
  ひーちゃんはバス停で待っていた。交わす言葉はなかった。すぐにバスは来て、僕たちは一番後ろの席に並んで座った。バスに乗客の姿は少なく、窓の外は雨が降っている。ひーちゃんは無表情のまま、僕の隣でただ黙って、濡れた靴の先を見つめていた。
  ひーちゃんにとって、世界とはなんだろう。
 ひーちゃんには昨日も今日も明日もない。
 楽しいことがあっても、悲しいことがあっても、彼女は笑っていた。
 あーちゃんが死んだ時、あーちゃんはひーちゃんの心を道連れにした。僕はずっと心の奥底であーちゃんのことを恨んでいた。どうして死んだんだって。ひーちゃんに心を返してくれって。僕らに世界を、返してって。
  二十分もバスに揺られていると、「船頭町三丁目」のバス停に着いた。
 ひーちゃんを促してバスを降りる。
 雨は霧雨になっていた。持っていた傘を差すかどうか、一瞬悩んでから、やめた。
 こっちだよ、とひーちゃんに声をかけて歩き始める。ひーちゃんは黙ってついてくる。
 樫岸川の大きな橋の上を歩き始める。柳の並木道、古本屋のある四つ角、細い足場の悪い道、長い坂、苔の生えた石段、郵便ポストの角を左。
 僕はもう何度、この道を通ったのだろう。でもきっと、ひーちゃんは初めてだ。
 生け垣のある家の前を左。寺の大きな屋根が、突然目の前に現れる。
 僕は、あそこだよ、と言う。ひーちゃんは少し目線を上の方に動かして、うん、と小さな声で言う。その瞳も、口元も、吐息も、横顔も、手も、足も。ひーちゃんは小さく震えていた。僕はそれに気付かないふりをして、歩き続ける。ひーちゃんもちゃんとついてくる。
  ひーちゃんはきっと、ずっとずっと気付いていたのだろう。本当のことを。あーちゃんがこの世にいないことを。あーちゃんが自ら命を絶ったことも。誰もあーちゃんの苦しみに、寂しさに、気付いてあげられなかったことを。ひーちゃんでさえも。
 ひーちゃんは、あーちゃんが死んでからよく笑うようになった。今までは、能面のように無表情な少女だったのに。ひーちゃんは笑っていたのだ。あーちゃんがもういない世界を。そんな世界でのうのうと生きていく自分を。ばればれの嘘をつく、僕を。
  あーちゃんの墓前に立ったひーちゃんの横顔は、どこにも焦点があっていないかのように、瞳が虚ろで、だが泣いてはいなかった。そっと手を伸ばし、あーちゃんの墓石に恐る恐る触れると、霧雨に濡れて冷たくなっているその石を何度も何度も指先で撫でていた。
 墓前には真っ白な百合と、やきそばパンが供えてあった。あーちゃんの両親が毎年お供えしているものだ。
 線香のにおいに混じって、妙に甘ったるい、ココナッツに似たにおいがするのを僕は感じた。それが一体なんのにおいなのか、僕にはわかった。日褄先生がここに来て、煙草を吸ったのだ。彼女がいつも吸っていた、あの黒い煙草。そのにおいだった。ついさっきまで、ここに彼女も来ていたのだろうか。
「つめたい……」
 ひーちゃんがぽつりと、指先の感触の感想を述べる。そりゃ石だもんな、と僕は思ったが、言葉にはしなかった。
「あーちゃんは、本当に死んでいるんだね」
 墓石に触れたことで、あーちゃんの死を実感したかのように、ひーちゃんは手を引っ込めて、恐れているように一歩後ろへと下がった。
「あーちゃんは、どうして死んだの?」
「……ひとりぼっちみたいな、感覚になるんだって」
 あーちゃんが僕に宛てて書いた、彼のもうひとつの遺書の内容を思い出す。
「ひとりぼっち? どうして? ……私がいたのに」
 ひーちゃんはもう、自分のことを「僕」とは呼ばなかった。
「私じゃだめだった?」
「……そんなことはないと思う」
「じゃあ、どうして……」
 ひーちゃんはそう言いかけて、口をつぐんだ。ゆっくりと首を横に振って、ひーちゃんは、そうか、とだけつぶやいた。
「もう考えてもしょうがないことなんだ……。あーちゃんは、もういない。私が今さら何かを思ったって、あーちゃんは帰ってこないんだ……」
 ひーちゃんはまっすぐに僕を見上げて、続けるように言った。
「これが、死ぬってことなんだね」
 彼女の表情は凍りついているように見えた。
「そうか……ずっと忘れていた、ろーくんも死んだんだ……」
 ひーちゃんの最愛の弟、ろーくんこと市野谷品太くんは、僕たちが小学二年生の時に交通事故で亡くな���た。ひーちゃんの目の前で、ろーくんの細くて小さい身体は、巨大なダンプに軽々と轢き飛ばされた。
 ひーちゃんは当時、過剰なくらいろーくんを溺愛していて、そうして彼を失って以来、他人との間に頑丈な壁を築くようになった。そんな彼女の前に現れたのが、僕であり、そして、あーちゃんだった。
「すっかり忘れてた。ろーくん……そうか、ずっと、あーちゃんが……」
 まるで独り言のように、ひーちゃんは言葉をぽつぽつと口にする。瞳が落ち着きなく動いている。
「そうか、そうなんだ、あーちゃんが……あーちゃんが…………」
 ひーちゃんの両手が、ひーちゃんの両耳を覆う。
 息を殺したような声で、彼女は言った。
「あーちゃんは、ずっと、ろーくんの代わりを……」
 それからひーちゃんは、僕を見上げた。
「うーくんも、そうだったの?」
「え?」
「うーくんも、代わりになろうとしてくれていたの?」
 ひーちゃんにとって、ろーくんの代わりがあーちゃんであったように。
 あーちゃんが、ろーくんの代用品になろうとしていたように。
 あっくんが、あーちゃんの分まで生きようとしていたように。
 僕は。
 僕は、あーちゃんの代わりに、なろうとしていた。
 あーちゃんの代わりに、なりたかった。
 けれどそれは叶わなかった。
 ひーちゃんが求めていたものは、僕ではなく、代用品ではなく、正真正銘、ほんものの、あーちゃんただひとりだったから。
 僕は稚拙な嘘を重ねて、ひーちゃんを現実から背けさせることしかできなかった。
 ひーちゃんの手を引いて歩くことも、ひーちゃんが泣いている間待つことも、あーちゃんにはできても、僕にはできなかった。
 あーちゃんという存在がいなくなって、ひーちゃんの隣に空いた空白に僕が座ることは許されなかった。代用品であることすら、認められなかった。ひーちゃんは、代用品を必要としなかった。
 ひーちゃんの世界には、僕は存在していなかった。
 初めから、ずっと。
 ずっとずっとずっと。
 ずーーーーーーーーーーーーーーーーーーっと、僕はここにいたのに。
 僕はずっと寂しかった。
 ひーちゃんの世界に僕がいないということが。
 だからあーちゃんを、心の奥底では恨んでいた。妬ましく思っていた。
 全部、あーちゃんが死んだせいにした。僕が嘘をついたのも、ひーちゃんが壊れたのも、あーちゃんが悪いと思うことにした。いっそのこと、死んだのが僕の方であれば、誰もこんな思いをしなかったのにと、自分が生きていることを呪った。
 自分の命を呪った。
 自分の存在を呪った。
 あーちゃんのいない世界を、あーちゃんが死んだ世界を、あーちゃんが欠けたまま、それでもぐるぐると廻り続けるこの不条理で不可思議で不甲斐ない世界を、全部、ひーちゃんもあーちゃんもあっくんもろーくんも全部全部全部全部、まるっときちっとぐるっと全部、呪った。
「ごめんね、うーくん」
 ひーちゃんの細い腕が、僕の服の袖を掴んでいた。握りしめているその小さな手を、僕は見下ろす。
「うーくんは、ずっと私の側にいてくれていたのにね。気付かなくて、ごめんね。うーくんは、ずっとあーちゃんの代わりをしてくれていたんだね……」
 ひーちゃんはそう言って、ぽろぽろと涙を零した。綺麗な涙だった。綺麗だと、僕は思った。
 僕は、ひーちゃんの手を握った。
 ひーちゃんは何も言わなかった。僕も、何も言わなかった。
 結局、僕らは。
 誰も、誰かの代わりになんてなれなかった。あーちゃんもろーくんになることはできず、あっくんもあーちゃんになることはできず、僕も、あーちゃんにはなれなかった。あーちゃんがいなくなった後も、世界は変わらず、人々は生き続け、笑い続けたというのに。僕の身長も、ひーちゃんの髪の毛も伸びていったというのに。日褄先生やミナモや帆高や佐渡梓に、出会うことができたというのに。それでも僕らは、誰の代わりにもなれなかった。
 ただ、それだけ。
 それだけの、当たり前の事実が僕らには常にまとわりついてきて、その事実を否定し続けることだけが、僕らの唯一の絆だった。
 僕はひーちゃんに、謝罪の言葉を口にした。いくつもいくつも、「ごめん」と謝った。今までついてきた嘘の数を同じだけ、そう言葉にした。
 ひーちゃんは僕を抱き締めて、「もういいよ」と言った。もう苦しむのはいいよ、と言った。
 帰り道のバスの中で、四月からちゃんと中学校に通うと、ひーちゃんが口にした。
「受験、あるし……。今から学校へ行って、間に合うかはわからないけれど……」
 四月から、僕たちは中学三年生で高校受験が控えている。教室の中は、迫りくる受験という現実に少しずつ息苦しくなってきているような気がしていた。
 僕は、「大丈夫」なんて言わなかった。口にすることはいくらでもできる。その方が、もしかしたらひーちゃんの心を慰めることができるかもしれない。でももう僕は、ひーちゃんに嘘をつきたくなかった。だから代わりに、「一緒に頑張ろう」と言った。
「頭のいいやつが僕の友達にいるから、一緒に勉強を教えてもらおう」
 僕がそう言うと、ひーちゃんは小さく頷いた。
 きっと帆高なら、ひーちゃんとも仲良くしてくれるだろう。ミナモはどうかな。時間はかかるかもしれないけれど、打ち解けてくれるような気がする。ひーちゃんはクラスに馴染めるだろうか。でも、峠茶屋さんが僕のことを気にかけてくれたように、きっと誰かが気にかけてくれるはずだ。他人なんてくそくらえだって、ずっと思っていたけれど、案外そうでもないみたいだ。僕はそのことを、あーちゃんを失ってから気付いた。
 僕は必要とされたかっただけなのかもしれない。
 ひーちゃんに必要とされたかったのかもしれないし、もしかしたら誰か他人だってよかったのかもしれない。誰か他人に、求めてほしかったのかもしれない。そうしたら僕が生きる理由も、見つけられるような気がして。ただそれだけだ。それは、あーちゃんも、ひーちゃんも同じだった。だから僕らは不器用に、お互いを傷つけ合う方法しか知らなかった。自分を必要としてほしかったから。
 いつだったか、日褄先生に尋ねたことがあったっけ。
���嘘って、何回つけばホントになるんですか」って。先生は、「嘘は何回ついたって、嘘だろ」と答えたんだった。僕のついた嘘はいくら重ねても嘘でしかなかった。あーちゃんは、帰って来なかった。やっぱり今日は雨で、墓石は冷たく濡れていた。
 けれど僕たちは、やっと、現実を生きていくことができる。
「もう大丈夫だよ」
 日褄先生が僕に言ったその声が、耳元で蘇った。
 もう大丈夫だ。
 僕は生きていく。
 あーちゃんがいないこの世界で、今度こそ、ひーちゃんの手を引いて。
 
 ふたりで初めて手を繋いで帰った日���
 僕らはやっと、あーちゃんにサヨナラができた。
  あーちゃん。
 世界は透明なんかじゃない。
 君も透明なんかじゃない。
 僕は覚えている。あーちゃんのことも、一緒に見た景色も、過ごした日々のことも。
 今でも鮮明に、その色を思い出すことができる。
 たとえ記憶が薄れる日がきたって、また何度でも思い出せばいい。
 だからサヨナラは、言わないんだ。
 了
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kurihara-yumeko · 4 years ago
Text
【小説】The day I say good-bye (3/4)【再録】
 (2/4)はこちらから→(https://kurihara-yumeko.tumblr.com/post/647000556094849024/)
「あー、もー、やんなっちゃうよなー」
 河野帆高はシャーペンをノートの上に投げ出しながらそう言って、後ろに大きく伸びをした。
「だいたいさー、宿題とか課題って意味がわからないんだよねー。勉強って自分のためにするもんじゃーん。先生に提出するためじゃないじゃーん。ちゃんと勉強してれば宿題なんて出さなくてもいいじゃーん」
「いや、よくないと思う」
「つーか何この問題集。分厚いくせにわかりにくい問題ばっか載せてさー。勉強すんのは俺らなんだから、問題集くらい選ばせてくれたっていーじゃんね」
「そんなこと言われても……」
 僕の前には一冊の問題集があった。
 夏休みの宿題として課されていたものだ。その大半は解答欄が未だ空白のまま。言うまでもないが、僕のものではない。帆高のものだ。どういう訳か僕は、やつの問題集を解いている。
 その帆高はというと、また別の問題集をさっきまでせっせと解いていた。そっちは先日のテストが終わったら提出するはずだったものだ。毎回、テスト範囲だったページの問題を全て解いて、テスト後に提出するのが決まりなのだ。帆高はかかとを踏み潰して上履きを履いている両足をばたつかせ、子供みたいに駄々をこねている。
「ちゃんと期限までにこつこつやっていればこんなことには……」
「しぬー」
「…………」
 つい三十分前のことだ。放課後、さっさと帰ろうと教室で荷物をまとめていた僕のところに、帆高は解答欄が真っ白なままの問題集を七冊も抱えてやってきた。激しく嫌な予感がしたが、僕は逃げきれずやつに捕らえられてしまった。さすが、毎日バスケに勤しんでいる人間は、同じ昼休みを昼寝で過ごす僕とは俊敏さが違う。
 帆高は夏休みの課題を何ひとつやっていなかった。テスト後に提出する課題も、だ。そのことを教師に叱責され、全ての課題を提出するまで、昼休みのバスケ禁止令と来月の文化祭参加禁止令が出されたのだという。
 それに困った帆高はようやく課題に着手しようと決意したらしいが、僕はそこに巻き込まれたという訳だ。一体どうして僕なのだろうか。そんな帆高だが、この間のテストでは学年三位の成績だというので、教師が激怒するのもわかるような気がする。
「…………どうして、保健室で勉強してるの」
 ベッドを覆うカーテンの隙間から頭の先を覗かせてそう訊いてきたのは、河野ミナモだった。帆高とは同じ屋根の下で暮らすはとこ同士だというが、先程から全くやつの方を見ようとしていない。
 そう、ここは保健室だ。養護教諭は今日も席を外している。並んだベッドで休んでいるのは保健室登校児のミナモだけだ。
「教室は文化祭の準備で忙しくて追い出されてさ。あ、ミナモ、俺にも夏休みの絵、描いてよ。なんでもいいからさ」
 帆高は鞄からひしゃげて折れ曲がった白紙の画用紙を取り出すと、ミナモへ手渡す。ミナモはしばらく黙っていたが、やがて帆高の方を見もしないまま、画用紙をひったくるように取るとカーテンの内側へと消えた。
 帆高が僕の耳元で囁く。
「こないだ、あんたと仲良くなったって話をしたら、少しは俺と向き合ってくれるようになったんだ。ミナモ、あんたのことは結構信頼してるんだな」
 へぇ、そうだったのか。僕がベッドへ目を向けた時、ミナモは既にカーテンを閉め切ってその中に閉じこもってしまっていた。耳を澄ませれば鉛筆を走らせる音が微かに聞こえてくる。
「そう言えば、あんたのクラスは文化祭で何やんのー?」
「なんだったかな……確か、男女逆転メイド・執事喫茶?」
「はー? まじでー?」
 帆高はけらけらと笑った。
「男女逆転ってことは、あんたもメイド服とか着る訳?」
「……そういうことなんじゃない?」
「うひゃー、そりゃ見物だなーっ!」
「あんたのとこは?」
「俺のとこはお化け屋敷」
 それはまた無難なところだな。こいつはお化けの恰好が似合いそうだ、と考えていると、
「そういやさ、クラスで思い出したんだけど、」
 と帆高は言った。
「あんたのとこ、クラスでいじめとかあったりする?」
「さぁ、どうだろ……。僕はよく知らないけど」
 いじめ、と聞いて思い出すのは、あーちゃんのこと、ひーちゃんのこと。
「なんか三組やばいみたいでさー。クラスメイト全員から無視されてる子がいるんだってさ」
「ふうん」
「興味なさそうだなー」
「興味ないなぁ」
 他人の心配をする余裕が、僕にはないのだから仕方ない。
 そうだ、僕はいつだって、自分のことで精いっぱいだった。
「透明人間になったこと、ある?」
 あの最後の冬、あーちゃんはそう僕に尋ねた。
 あーちゃんは部屋の窓から、遠い空を見上げていた。ここじゃないどこかを見つめていた。どこか遠くを、見つめていた。蛍光灯の光が眼鏡のレンズに反射して、その目元は見えなかったけれど、彼はあの時、泣きそうな顔をしていたのかもしれない。
 僕はその時、彼が発した言葉の意味がわからなかった。わかろうともしなかった。その言葉の本当の意味を知ったのは、あーちゃんが死んだ後のことだ。
 僕は考えなかったのだ。声を上げて笑うことも、大きな声で怒ることも、人前で泣くこともなかった、口数の少ない、いつも無表情の、僕の大事な友人が、何を考え、何を思っていたのか、考えようともしなかった。
 透明人間という、あの言葉が、あーちゃんが最後に、僕へ伸ばした手だった。
 あーちゃんの、誰にも理解されない寂しさだった。
「――くん? 鉛筆止まってますよ?」
 名前を呼ばれた気がして、はっとした。
 いけない、やつの前で物思いにふけってしまった。
「ぼーっとして、どした? その問題わかんないなら、飛ばしてもいいよ」
 いつの間にか帆高は問題集を解く作業を再開していた。流れるような筆致で数式が解き明かされていく。さすが、学年三位の優等生だ。問題を解くスピードが僕とは全然違う。
「……この問題集、あんたのなんだけどね」
 僕がそう言うと帆高はまたけらけらと笑ったので、僕は溜め息をついてみせた。
   「最近はどうだい? 少年」
 相談室の椅子にふんぞり返るように腰を降ろし、長い脚を大胆に組んで、日褄先生は僕を見ていた。
「担任の先生に聞いたよ」
 彼女はにやりと笑った。
「少年のクラス、文化祭で男がメイド服を着るんだろう?」
「…………」
 僕は担任の顔を思い浮かべ、どうして一番知られてはいけない人間にこの話をしたのだろうかと呪った。
「少年ももちろん着るんだろ? メイド服」
「…………」
「最近の中学生は面白いこと考えるなぁ。男女逆転メイド・執事喫茶って」
「…………」
「ちゃんとカメラ用意しないとなー」
「…………先生、」
「せんせーって呼ぶなっつってんだろ」
「カウンセリングして下さい」
「なに、なんか話したいことあるの?」
「いや、ないですけど」
「じゃあ、いーじゃん」
「真面目に仕事して下さい」
 そもそも、今日は日褄先生の方から、カウンセリングに来いと呼び出してきたのだ。てっきり何か僕に話したいことがあるのかと思っていたのに、ただの雑談の相手が欲しかっただけなんだろうか。
「昨日は市野谷んち行ってきた」
「そうですか」
「久しぶりに会ったよ、あの子に」
 僕は床を見つめていた目線を、日褄先生に向けた。彼女は真剣な表情をしている。
「……会ったんですか、ひーちゃんに」
 日褄先生のことを嫌い、その名を耳にすることも口にすること嫌い、会うことを拒み続けていた、あのひーちゃんに。
「なーんであの子はあたしを見ると花瓶やら皿やら投げつけてくるのかねぇ」
 不思議だ不思議だ、とちっとも不��議に思っていなそうな声で言う。
「あの子は、変わらないね」
 ありとあらゆるものが破壊され、時が止まったままの部屋で、二度と帰ってくることのない人を待ち続けているひーちゃん。
「あの子はまるで変わらない。小さい子供と同じだよ。自分の玩具を取り上げられてすねて泣いているのと同じだ」
「……ひーちゃんをそういう風に言わないで下さい」
「どうしてあの子をかばうんだい、少年」
「ひーちゃんにとって、あーちゃんは全てだったんですよ。そのあーちゃんが死んだんです。ショックを受けるのは、当然でしょう」
「違うね」
 それは即答だった。ぴしゃりとした声音。
 暖かい空気が遮断されたように。ガラス戸が閉められたように。
 世界が遮断されたかのように。
 世界が否定されたかのように。
「少年はそう思っているのかもしれないが、それは違う。あの子にとって、直正はそんなに大きな存在ではない」
「そんな訳、ないじゃないですか!」
「少年だって、本当はわかっているんだろ?」
「わかりません、そんなこと僕には――」
 僕を見る日褄先生の目は、冷たかった。
 そうだ。彼女はそうなのだ。相変わらずだ。彼女はカウンセラーには不向きだと思うほど、優しく、そして乱暴だ。
「少年はわかっているはずだ、直正がどうして死んだのか」
「…………先生、」
「せんせーって呼ぶなって」
「僕は、どうすればよかったんですか?」
「少年はよく頑張ったよ」
「そんな言葉で誤魔化さないで下さい、僕はどうすれば、ひーちゃんをあんな風にしなくても、済んだんですか」
 忘れられない。いつ会っても空っぽのひーちゃんの表情。彼女が以前のように笑ったり泣いたりするには、どうしても必要な彼はもういない。
「後悔してるの? 直正は死んでないって、嘘をついたこと」
「…………」
「でもね少年、あの子はこれから変わるつもりみたいだよ」
「え……?」
 ひーちゃんが、変わる?
「どういう、ことですか……?」
「市野谷が、学校に行くって言い出したんだよ」
「え?」
 ひーちゃんが、学校に来る?
 あーちゃんが帰って来ないのにどうして学校に通えるの、と尋ねていたひーちゃんが、あーちゃんがいない毎日に怯えていたひーちゃんが、学校に来る?
 あーちゃんが死んだこの学校に?
 あーちゃんはもう、いないのに?
「今すぐって訳じゃない。入学式さえ来なかったような不登校児がいきなり登校するって言っても、まずは受け入れる体勢を整えてやらないといけない。カウンセラーをもうひとり導入するとかね」
「でも、一体どうして……」
「それはあたしにもわからない。本当に唐突だったからね」
「そんな……」
 待つんじゃなかったのか。
 あーちゃんが帰って来るまで、ずっと。
 ずっとそこで。去年のあの日で。
「あたしは、それがどんな理由であろうとも、あの子にとって良いことになればそれでいいと思うんだよ」
 日褄先生はまっすぐ僕を見ていた。脚を組み替えながら、言う。
「少年は、どう思う?」
    僕の腕時計の針が止まったのは、半月後に文化祭が迫ってきていた、九月も終わりの頃だった。そしてそれに気付いたのは、僕ではなく、帆高だった。
「ありゃ、時計止まってるじゃん、それ」
「え?」
 帆高の課題は未だに終わっておらず、その日も保健室で問題集を広げて向き合っていた。何気なく僕の解答を覗き込んだ帆高が、そう指摘したのだ。
 言われて見てみれば、今は放課後だというのに、時計の針は昼休みの時間で止まっていた。ただいつ止まったのかはわからない。僕は普段、その時計の文字盤に注意を向けることがほとんどないのだ。
「電池切れかな」
「そーじゃん? ちょっと貸してみ」
 帆高がシャープペンシルを置いて手を差し出してきたので、僕はそっと時計のベルトを外し、その手に乗せる。時計を外した手首の内側がやつに見えないように気を付ける。
 黒い、プラスチックの四角い僕の時計。
 僕の左手首の傷を隠すための道具。
 帆高はペンケースから細いドライバーを取り出すと、文字盤の裏の小さなネジをくるくると器用に外していた。それにしてもどうして、こんな細いドライバーを持ち歩いているんだろうか、こいつは。
「あれ?」
 問題集のページの上に転がったネジを、なくさないように消しゴムとシャーペンの間に並べていると、文字盤裏のカバーを外した帆高が妙な声を上げる。
 そちらに目をやると、ちょうど何かが宙を舞っているところだった。それは小さな白いものだった。重力に逆らえるはずもなく、ひらひらと落下していく。帆高の手から逃れたそれは、机の上に落ちた。
「なんだこれ」
 それは紙切れだった。ほんとうに小さな紙切れだ。時計のカバーの内側に貼り付いていたものらしい。僕はそれを中指で摘まんだ。摘まんで、
「…………え?」
 摘まんで、ゴミかと思っていた僕はそれを捨てようと思って、そしてそれに気が付いた。その小さな紙切れには、もっと小さな文字が記されている。
  図書室 日本の野生のラン
 「……図書室?」
 どくん、と。
 突然、自分の心臓の鼓動がやけに耳に響いた。なぜか急に息苦しい気分になる。嫌な胸騒ぎがした。
 ――うーくん、
 誰かが僕の名を呼んでいる。
「どうした?」
 僕の異変に気付いた帆高が身を乗り出して、僕の指先の紙を見やる。
「……日本の野生のラン?」
 ――うーくん、
 僕のことを呼んでいる。
「なんだこれ? なんかの暗号?」
 暗号?
 違う、これは暗号じゃない。
 これは。
 ――うーくん、
 僕を呼んでいるのは、一体誰だ?
「日本の野生のラン、図書室……」
 考えろ。
 考えろ考えろ考えろ。
 これは一体、どういうことだ?
 ――うーくん、
 知っている。わかっている。これは、恐らく……。
「図書室……」
 今になって?
 今日になって?
 どうしてあの日じゃないんだ。
 どうしてあの時じゃないんだ。
 これはそう、きっと最後の……。
 ――うーくん、この時計あげるよ。
「ああ……」
 耳鳴り。世界が止まる音。夏のサイレン。蝉しぐれ。揺れる青色は空の色。記憶と思考の回路が全て繋がる。
「あーちゃんだ…………」
   「英語の課題をするのに辞書を借りたいので、図書室を利用したいんですけど、鍵を借りていってもいいですかー?」
 帆高がそう言うと、職員室にいた教師はたやすく図書室の鍵を貸してくれた。
「そういえば河野くん、まだ宿題提出してないんだって? 担任の先生怒ってたわよ」
 通りすがりの他の教師がそう帆高に声をかける。やつは笑って答えなかった。
「じゃー、失礼しましたー」
 けらけら笑いながら職員室を出てくると、入口の前で待っていた僕に、「じゃあ行こうぜ」と声をかけて歩き出す。僕はそれを追うように歩く。
「ほんとにそうな訳?」
 階段を上りながら、振り返りもせずに帆高が問いかけてくる。
「なにが?」
「ほんとにさっきのメモ、あんたの自殺した友達が書いたもんなの?」
「…………恐らくは」
 僕が頷くと、信じられないという声で帆高は言う。
「にしても、なんだよ、『野生の日本のラン』って」
「『日本の野生のラン』だよ」
「どっちも同じだろー」
 放課後の校内は文化祭の準備で忙しい。廊下にせり出した各クラスの出し物の準備物やら、ダンボールでできた看板やらを踏まないようにして図書室へと急ぐ。途中、紙とビニール袋で作られたタコの着ぐるみを着た生徒とすれ違った。帆高がそのタコに仲良さげに声をかけているところを見ると、こいつの知り合いらしい。こいつにはタコの友人もいるのか。
 この時期の廊下は毎年混沌としている。文化祭の開催時期がハロウィンに近いせいか、クラスの出し物等もハロウィンに感化されている。まるで仮装行列だ。そんな僕も文化祭当日にはクラスの女子が作ってくれたメイド服が待っている。まだタコの方がましだった。
 がちゃがちゃ、と乱暴に鍵を回して帆高は図書室の扉を開けてくれた。
 閉め切られた図書室の、生ぬるい空気が顔に触れる。埃のにおいがする。それはあーちゃんのにおいに似ていると思った。
「『日本の野生のラン』って、たぶん植物図鑑だろ? 図鑑ならこっちだぜ」
 普段あまり図書室を利用しない僕を帆高がひょいひょいと手招きをした。
 植物図鑑が並ぶ棚を見る。植物図鑑、野山の樹、雑草図鑑、遊べる草花、四季折々の庭の花、誕生花と花言葉……。
「あっ…………た」
 日本の野生のラン。
 色褪せてぼろぼろになっている、背表紙の消えかかった題字が僕の目に止まった。恐る恐る取り出す。小口の上に埃が積もっていた。色褪せていたのは日に晒されていた背表紙だけのようで、両側を園芸関係の本に挟まれていた表紙と裏表紙には、名前も知らないランの花の写真が鮮やかな色味のままだった。ぱらぱらとページをめくると、日本に自生しているランが写真付きで紹介されている本。古い本のようだ。ページの端の方が茶色くなっている。
「それがなんだっつーんだ?」
 帆高が脇から覗き込む。
「普通の本じゃん」
「うん……」
 最初から最後まで何度もページをめくってみるが、特に何かが挟まっていたり、ページに落書きされているようなこともない。本当に普通の本だ。
「なんか挟まっていたとしても、もう抜き取られている可能性もあるぜ」
「うん……」
「にしても、この本がなんなんだ?」
 腕時計。止まったままの秒針。切れた電池。小さな紙。残された言葉は、図書室 日本の野生のラン。書いたのはきっと、あーちゃんだ。
 ――うーくん、この時計あげるよ。
 この時計をくれたのはあーちゃんだった。もともとは彼の弟、あっくんのものだったが、彼が気に入らなかったというのであーちゃんが僕に譲ってくれたものだ。
 その時彼は言ったのだ、
「使いかけだから、電池はすぐなくなるかもしれない。でもそうしたら、僕が電池を交換してあげる」
 と。
 恐らくあーちゃんは、僕にこの時計をくれる前、時計の蓋を開け、紙を入れたのだ。こんなところに紙を仕込める人は、彼しかいない。
 にしてもどういうことだろう、図書室 日本の野生のラン。この本がなんだと言うのだろう。
 てっきりこの本に何か細工でもしてあるのかと思ったけれど、見たところそんな部位もなさそうだ。そもそも、本を大切にしていたあのあーちゃんが、図書室の本にそんなことをするとは思えない。でもどうして、わざわざ図書室の本のことを記したのだろう。図書室……。
「あ……」
 図書室と言えば。
「貸出カード……」
 本の一番後ろのページを開く。案の定そこには、貸出カードを仕舞うための、紙でできた小さなポケットが付いている。
 中にはいかにも古そうな貸出カードが頭を覗かせている。それをそっと手に取って見てみると、そこには貸出記録ではない文字が記してあった。
  資料準備室 右上 大学ノート
 「……今度は資料準備室ねぇ」
 ぽりぽりと頭を掻きながら、帆高は面倒そうに言う。
「一体、なんだって言うんだよ」
「……さぁ」
「行ってみる?」
「…………うん」
 僕は本を棚に戻す。元通り鍵を閉め、僕らは図書室を後にした。
 図書室の鍵は後で返せばいいだろ、という帆高の発言に僕も素直に頷いて、職員室には寄らずに、資料準備室へ向かうことにした。
 またもや廊下でタコとすれ違った。しかも今度は歩くパイナップルと一緒だ。なんなんだ一体。映画の撮影のためにその恰好をしているらしいが、どんな映画になるのだろう。「戦え! パイナップルマン」と書かれたたすきをかけて、ビデオカメラを持った人たちがタコとパイナップルを追いかけるように速足で移動していった。
「そういえばさ、」
 僕は彼らから帆高へ目線を移しながら尋ねた。
「資料準備室、鍵、いるんじゃない?」
「あー」
「借りて来なくていいの?」
「貸して下さいって言って、貸してくれるような場所じゃないだろ」
 資料準備室の中には地球儀やら巨大な世界地図やら、あとはなんだかよくわからないものがいろいろ入っている。生徒が利用することはない。教師が利用することもあまりない。半分はただの物置になっているはずだ。そんな部屋に用事があると言ったところで、怪しまれるだけで貸してはくれないだろう。いや、この時期だし、文化祭の準備だと言えば、なんとかなるかもしれないけれど。
「じゃ、どうする気?」
「あんたの友達は、どうやってその部屋に入ったと思う?」
 そう言われてみればそうだ。あーちゃんはそんな部屋に、一体何を隠したというのだ。そして、どうやって?
「良いこと教えてやるよ、――くん」
「……なに?」
 帆高は僕の名を呼んだのだと思うが、聞き取れなかった。
 やつは唇の端を吊り上げて、にやりと笑う。
「資料準備室って、窓の鍵壊れてるんだよ」
「はぁ……」
「だから窓から入れるの」
「資料準備室って、三階……」
「ベランダあんだろ、ベランダ」
 三階の廊下、帆高は非常用と書かれた扉を開けた。それは避難訓練の時に利用する、三階の全ての教室のベランダと繋がっている通路に続くドアだ。もちろん、普段は生徒の使用は禁止されている。と思う、たぶん。
「行こうぜ」
 帆高が先を行く。僕がそれを追う。
 日が傾いてきたこともあり、風が涼しかった。空気の中に、校庭の木に咲いている花のにおいがする。空は赤と青の絵具をパレットでぐちゃぐちゃにしたような色だった。あちこちの教室から、がやがやと文化祭の準備で騒がしい声が聞こえてくる。ベランダを歩いていると、なんだか僕らだけ、違う世界にいるみたいだ。
「よいっ、しょっと」
 がたんがたんと立て付きの悪い窓をやや乱暴に開けて、帆高がひょいと資料準備室の中へと入る。僕も窓から侵入する。
「窓、閉めるなよ。万が一開かなくなったらやばいからな」
「わかった」
「さて、資料準備室、右上、大学ノート、だったっけ? 右上、ねぇ……」
 資料準備室の中は、物が所せましと置かれていた。大きなスチールの棚から溢れ出した物が床に積み上げられ、壊れた机や椅子が無造作に置かれ、僕らの通り道を邪魔している。どんな物にも等しく埃が降り積もっていて、蜘蛛の巣が縦横無尽に走っている。
「右上っちゃー、なんのことだろうな」
 ズボンに埃が付かないか気にしながら、帆高が並べられた机の間を器用にすり抜けた。僕は部屋の中を見回していると、ふと、棚の中に大量のノートらしき物が並べられているのを見つけた。
 僕はその棚に苦労して近付き、手を伸ばしてノートを一冊取り出してみる。
「……昭和六十三年度生徒会活動記録」
 表紙に油性ペンで書かれた文字を僕が読み上げると、帆高が、
「生徒会の産物か」
 と言った。
「右上って、この棚の右上ってことじゃないかな」
「ああ。どうだろうな、ちょっと待ってろ」
 帆高は頷くと、一番下の段に足をかけて棚によじ登ると、最上段の右側に置いてあるノートを無造作に二十冊ほど掴んで降ろしてくれた。それを机の上に置くと、埃が空気に舞い上がる。ノートを一冊一冊見ていくと、一冊だけ、表紙に文字の記されていないノートがあった。
「それじゃね?」
 棚からぴょんと飛び降りた帆高が言う。
 僕はそのノートを手に取り、表紙をめくった。
  うーくんへ
  たったそれだけの、鉛筆で書かれた、薄い文字。
「……これだ」
 次のページをめくる。
  うーくんへ
 きみがこれを読む頃には、とっくに僕は死んでいるんだろうね。
 きみがこのノートを手に取ってくれたということは、僕がきみの時計の中に隠したあのメモを見てくれたということだろう? そして、あの図書室の本を、ちゃんと見つけてくれたということだろう?
 きみがメモを見つけた時、どこか遠いところに引っ越していたり、中学校を既に卒業していたらどうしようかと、これを書きながら考えているけれど、それはそれで良いと思う。図書室の本がなくなっていたり、このノートが捨てられてしまったりしていたらどうしようかとも思う。たとえ、今これを読んでいるきみがうーくんではなかったとしても、僕はかまわない。
 これでも考えたんだ。他の誰でもなく、きみだけが、このノートを手に取る方法を。
 これは僕が生きていたことを確かに証明するノートであり、これから綴るのは僕が残す最後の物語なのだから。
 これは、僕のもうひとつの遺書だ。
 「もうひとつの、遺書……」
 声が震えた。
 知らなかった。
 あーちゃんがこんなものを残しているなんて知らなかった。
 あーちゃんがこんなものを書いているなんて知らなかった。
 彼が死んだ時、僕はまだ小学校を卒業したばかりだった。
 あーちゃんは僕にメモを仕込んだ腕時計をくれ、それを使い続け、電池が切れたら交換すると信じていた。僕が自分と同じこの中学校に通って、メモを見て図書室を訪れると信じていた。あの古い本が破棄されることなく残っていて、貸出カードの文字がそのままであると信じていた。この部屋が片付けられることなく、窓が壊れたままで、ノートが残っていることを信じていた。
 なによりも、僕がまだ、この世界に存在していることを信じていた。
 たくさんの未来を信じていたのだ。自分はもう、いない未来を。
「目的の物は、それでいーんだろ?」
 帆高の目は、笑っていなかった。
「じゃ、ひとまず帰ろうぜ。俺の英語の課題、まだ終わってない」
 それに図書室の鍵も、返さなくちゃいけないし。そう付け加えるように言う。
「それは後でゆっくり読めよ。な?」
「……そうだね」
 僕は頷いて、ノートを閉じた。
    うーくんへ
 きみがこれを読む頃には、とっくに僕は死んでいるんだろうね。
 そんな出だしで始まったあーちゃんの遺書は、僕の机の上でその役目を終えている。
 僕は自分の部屋のベッドに仰向けに寝転がって、天井ばかりを眺めていた。ついさっきまで、ノートのページをめくり、あーちゃんが残した言葉を読んでいたというのに、今は眠気に支配されている。
 ついさっきまで、僕はその言葉を読んで泣いていたというのに。ページをめくる度、心が八つ裂きにされたかのような痛みを、繰り返し繰り返し、感じていたというのに。
 ノートを閉じてしまえばなんてことはない、それはただの大学ノートで、そこに並ぶのはただの筆圧の弱い文字だった。それだけだ。そう、それだけ。それ以上でもそれ以下でもなく、ただ「それだけ」であるという事実だけが、淡々と横たわっている。
 事実。現実。本当のこと。本当に起こったこと。もう昔のこと。以前のこと。過去のこと。思い出の中のこと。
 あーちゃんはもういない。
 どこにもいない。これを書いたあーちゃんはもういない。歴史の教科書に出てくる人たちと同じだ。全部全部、昔のことだ。彼はここにいない。どこにもいない。過去のこと。過去のひと。過去のもの。過去。過去そのもの。もはやただの虚像。幻。夢。嘘。僕がついた、嘘。僕がひーちゃんについた、嘘。あーちゃんは、いない。いない。いないいないいない。
 ただそれだけの、事実。
 あーちゃんのノートには、生まれ育った故郷の話から始まっていた。
 彼が生まれたのは、冬は雪に閉ざされる、北国の田舎。そこに東京から越してきた夫婦の元に生まれた彼は、生まれつき身体が弱かったこともあり、近所の子供たちとは馴染めなかった。
 虫捕りも魚釣りもできない生活。外を楽しそうに駆け回るクラスメイトを羨望の眼差しで部屋から見送る毎日。本屋も図書館もない田舎で、外出できないあーちゃんの唯一の救いは、小学校の図書室と父親が買ってくれた図鑑一式。
 あーちゃんは昔、ぼろぼろの、表紙が取れかけた図鑑をいつも膝の上に乗せて熱心に眺めていた。破けたページに丁寧に貼られていたテープを思い出す。
 学校で友達はできなかった。あーちゃんはいつもひとりで本を読んで過ごした。小学校に上がる以前、入退院を繰り返していた彼は、同年代との付き合い方がわかっていなかった。
 きっかけは小さなことだった。
 ひとりの活発なクラスメイトの男の子が、ある日あーちゃんに声をかけてきた。
 サッカーをする人数が足りず、教室で読書をしていた彼に一緒に遊ばないかと声をかけてきたのだ。
 クラスメイトに声をかけられたのは、その時が初めてだった。あーちゃんはなんて言えばいいのかわからず黙っていた。その子は黙り込んでしまったあーちゃんを半ば強引に、外に連れ出そうとした。意地悪をした訳ではない。その子は純粋に、彼と遊びたかっただけだ。
 手を引かれ、引きずられるようにして教室から連れ出される。廊下ですれ違った担任の先生は、「あら、今日は鈴木くんもお外で遊ぶの?」なんて声をかける。あーちゃんは抵抗しようと首を横に振る。なんとかして、自分は嫌なことをされているのだと伝えようとする。だけれどあーちゃんの手を引くそのクラスメイトは、にっこり笑って言った。
「きょうはおれたちといっしょにサッカーするんだ!」
 ただ楽しそうに。悪意のない笑顔。害意のない笑顔。敵意のない笑顔。純粋で、率直で、自然で、だから、だからこそ、最も忌むべき笑顔で。
 あーちゃんの頭の中に言葉が溢れる。
 ぼくはそとであそびたくありません。むりやりやらされようとしているんです。やめてっていいたいんです。たすけてください。
 しかしその言葉が声になるよりも早く、先生はにっこり笑う。
「そう。良かったわ。休み時間はお外で遊んだ方がいいのよ。本は、おうちでも読めるでしょう?」
 そうして背を向けて、先生は行ってしまう。あーちゃんの腕を引く力は同い年とは思えないほどずっと力強く、彼の身体は廊下を引きずられていく。
 子供たちの笑い声。休み時間の喧騒。掻き消されていく。届かな��。口にできない言葉。消えていく。途絶えていく。まるで、死んでいくように。
 あーちゃんは、自分の気持ちをどうやって他者に伝えればいいのか、わかっていなかった。彼に今まで接してきた大人たちは、皆、幼いあーちゃんの声に耳を傾けてくれる人たちばかりだった。両親、病院の医師や看護師。小さい声でぼそぼそと喋るあーちゃんの言葉を、辛抱強く聞いてくれた。
 自分で言わなければ他人に伝わらないということも、幼いあーちゃんは理解していなかった。どうすれば他人に伝えればいいのか、その方法を知らなかった。彼は他人との関わり方がわからなかった。
 だからあーちゃんは、持っていた本で、さっきまで自分が机で読んでいた本で、ずっと手に持ったままだったその分厚い本で、父親に買ってもらった恐竜の図鑑で、その子の頭を殴りつけた。
 一緒に遊ぼう、と誘ってくれた、初めて自分に話しかけてくれたクラスメイトを。
 まるで自然に、そうなることが最初から決まっていたかのように、力いっぱい腕を振り上げ、渾身の力で、その子を殴った。
 あーちゃんを引っ張っていた手が力を失って離れていく。まるで糸が切れた人形のように、その子が倒れていく。形相を変えて駆け寄って来る先生。目撃した児童が悲鳴を上げる。何をやっているの、そう先生が怒鳴る。誰かに怒鳴られたのは、初めてだった。
 倒れたその子は動かなかった。
 たった一撃だった。そんなつもりではなかった。あーちゃんはただ伝えたいだけだった。言葉にできなかった自分の気持ちを、知ってほしいだけだった。
 その一撃で、あーちゃんの世界は木っ端微塵に破壊された。
 彼の想いは、誰にも届くことはなかった。
 その子の怪我はたいしたことはなく、少しの間意識を失っていたけれど、すぐに起き上がれるようになった。病院の検査でも異常は見つからなかった。
 あーちゃんの両親は学校に呼び出され、その子の親にも頭を下げて謝った。
 あーちゃんはもう、口を開こうとはしなかった。届かなかった想いをもう口にしようとはしなかった。彼はこの時に諦めてしまったのだ。誰かにわかってもらうということも、そのために自分が努力をするということも。
 そうしてこの時から、彼は透明人間になった。
「ママがね、『すずきくんとはあそんじゃだめよ』って言うの」
「うちのママも言ってた」
「あいつ暗いよなー、いっつも本読んでてさ」
「しゃべってもぼそぼそしてて聞きとれないし」
「『ヨソモノにろくなやつはいない』ってじーちゃん言ってた」
「ヨソモノって?」
「なかまじゃないってことでしょ」
 あーちゃんが人の輪から外れたのか、それとも人が離れていったのか。
 あーちゃんはクラスの中で浮くようになり、そうしてそれは嫌がらせへと変わっていった。
 眼鏡。根暗。ガイジン。国に帰れよ。ばーか。
 投げつけられる言葉をあーちゃんは無視した。まるで聞こえていないかのように。
 あーちゃんは何も言わなかった。嫌だと口にすることはしなかった。けれど、彼の足は確実に学校から遠ざかっていった。小学二年生に進級した春がまだ終わり切らないうちに、あーちゃんは学校へ行けなくなった。
 そしてその一年後に、あーちゃんは僕の住む団地へとやって来た。
 笑うことも、泣くことも、怒ることもなく。ただ何よりも深い絶望だけを、その瞳に映して。ハサミで乱暴に傷つけられた、ぼろぼろのランドセルを背負って。
 彼のことを、僕が「あーちゃん」と呼んでいるのはどうしてなんだろう。
 彼の名前は、鈴木直正。「あーちゃん」となるべき要素はひとつもない。
 あーちゃんの弟のあっくんの名前は、鈴木篤人。「あつひと」だから、「あっくん」。
「あっくん」のお兄さんだから、「あーちゃん」。
 自分でそう呼び始めたのに、僕はそんなことまでも忘れていた。
 思い出させてくれたのは、あーちゃんのノート。彼が残した、もうひとつの遺書。
 あーちゃんたち一家がこの団地に引っ越して来た時、僕と最初に親しくなったのはあーちゃんではなく、弟のあっくんの方だった。
 あっくんはあーちゃんの三つ年下の弟で、小柄ながらも活発で、虫捕り網を片手に外を駆け回っているような子だった。あーちゃんとはまるで正反対だ。だけれど、あっくんはひとりで遊ぶのが好きだった。僕が一緒に遊ぼうとついて行ってもまるで相手にされないか、置いて行かれることばかりだった。ひとりきりが好きなところは、兄弟の共通点だったのかもしれない。
 あっくんと遊ぼうと思って家を訪ねると、彼はとっくに出掛けてしまっていて、大人しく部屋で本を読んでいるあーちゃんのところに辿り着くのだ。
「いらっしゃい」
 あーちゃんはいつも、クッションの上に膝を丸めるようにして座り、壁にもたれかかるようにして分厚い本を読んでいた。僕が訪れる時は大抵そこから始まって、僕の来訪を確認するためにちらりとこちらを見るのだ。開け放たれた窓からの逆光で、あーちゃんの表情はよく見えない。かけている銀縁眼鏡がぎらりと光を反射して、それからやっと、少し笑った彼の瞳が覗く。今思えば、それはいつだって作り笑いみたいな笑顔だった。
 最初のうちはそれで終わりだった。
 あーちゃんは僕がいないかのようにそのまま本を読み続けていた。僕が何か言うと、迷惑そうに、うざったそうに、返事だけはしてくれた。それもそうだ。僕はあーちゃんからしてみれば、弟の友達であったのだから。
 だけれどだんだんあーちゃんは、渋々、僕を受け入れてくれるようになった。本や玩具を貸してくれたり、プラモデルを触らせてくれたり。折り紙も教えてもらった。ペーパークラフトも。彼は器用だった。細くて白い彼の指が作り出すものは、ある種の美しさを持っていた。不器用で丸々とした、子供じみた手をしていた僕は、いつもそれが羨ましかった。
 ぽつりぽつりと会話も交わした。
 あーちゃんの言葉は、簡単な単語の組み合わせだというのに、まるで詩のように抽象的で、現実味がなく、掴みどころがなかった。それがあーちゃんの存在そのものを表しているかのように。
 僕はいつの頃からか彼を「あーちゃん」と呼んで、彼は僕を「うーくん」と呼ぶようになった。
  うーくんと仲良くできたことは、僕の人生において最も喜ばしいことだった。
 それはとても幸福なことだった。
 うーくんはいつも僕の声に、耳を傾けようとして��れたね。僕はそれが懐かしくて、嬉しかった。僕の気持ちをなんとか汲み取ろうとしてくれて、本当に嬉しかった。
 僕の言葉はいつも拙くて、恐らくほとんど意味は通じなかったんじゃないかと思う。けれど、それでも聞いてくれてありがとう。耳を塞がないでいてくれて、ありがとう。
  ノートに記された「ありがとう」の文字が、痛いほど僕の胸を打つ。せめてその言葉を一度でも、生きている時に言ってくれれば、どれだけ良かったことだろう。
 そうして、僕とあーちゃんは親しくなり、そこにあの夏がやって来て、ひーちゃんが加わった。ひーちゃんにとってあーちゃんが特別な存在であったように、あーちゃんからしてもひーちゃんは、特別な存在だった。
 僕とあーちゃんとひーちゃん。僕らはいつも三人でいたけれど、三角形なんて初めから存在しなかった。僕がそう信じていたかっただけで、そこに最初から、僕の居場所なんかなかった。僕は「にかっけい」なんかじゃなくて、ただの点にしか過ぎなかった。
  僕が死んだことで、きっとひーちゃんは傷ついただろうね。
 傷ついてほしい、とすら感じる僕を、うーくんは許してくれるかな。きっときみも、傷ついただろう? もしかしたら、うーくんがこのノートを見つけた時、きみは既に僕の死の痛みから立ち直っているかもしれない。そもそも僕の死に心を痛めなかったかもしれないけれどね。
 こんな形できみにメッセージを残したことで、きみは再び僕の死に向き合わなくてはいけなくなったかもしれない。どうか僕を許してほしい。このノートのことを誰かに知られることは避けたかった。このノートはきみだけに読んでほしかった。
 きみが今どうしているのか、僕には当然わからないけれど、どうか、きみには生きてほしい。できるなら笑っていてほしい。ひーちゃんのそばにいてほしい。僕は裏切ってしまったから。あの子との約束を、破ってしまったから。
 「約束」という文字が、僅かに震えていた。
 約束?
 あーちゃんとひーちゃんは、何か約束していたのだろうか。あのふたりだから、約束のひとつやふたつ、していたっておかしくはない。僕の知らないところで。
  うーくん。
 今まできみが僕と仲良くしてくれたことは本当に嬉しかった。きみが僕にもたらしてくれたものは大きい。きみと出会ってからの数年間は、僕が思っていたよりもずっと楽しかった。うーくんがどう思っているのかはわからないけれどね。
 ひーちゃんも、よくやってくれたと思ってる。僕が今まで生きてこられたのは、ふたりのおかげでもあると思ってるんだ。
 けれど僕は、どうしようもないくらい弱い人間だ。弱くて弱くて、きみやひーちゃんがそばにいてくれたというのに、僕は些細な出来事がきっかけで、きみたちと過ごした時間を全てなかったことにしてしまうんだ。
 気が付くと、自分がたったひとりになっているような気分になる。うーくんもひーちゃんも、本当は嫌々僕と一緒にいるのであって、僕のことなんか本当はどうでもいい存在だと思っている、なんて考えてしまう。きみは、「そうじゃない」と言ってくれるかもしれないが、僕の心の中に生まれた水溜まりは、どんどん大きくなっていくんだ。
 どうせ僕は交換可能な人間で、僕がいなくなってもまた次の代用品がやってきて、僕の代わりをする。僕の居た場所には他人が平気な顔をして居座る。そして僕が次に座る場所も、誰か他人が出て行った後の場所であって、僕もまた誰かの代用品なんだ、と考えてしまう。
 よく考えるんだ。あの時どうすれば良かったんだろうって。僕はどこで間違えてしまったんだろうって。
 カウンセラーの日褄先生は、僕に「いくらでもやり直しはできるんだ」って言う。でもそんなことはない。やり直すことなんかできない。だって、僕は生きてしまった。もう十四年間も生きてしまったんだ。積み上げてきてしまったものを、最初からまた崩すなんてことはできない。間違って積んでしまった積み木は、その年月は、組み直すことなんかできない。僕は僕でしかない。鈴木直正でしかない。過去を清算することも、変更することもできない。僕は、僕であるしかないんだ。そして僕は、こんな自分が大嫌いなんだ。
 こんなにも弱く、こんなにも卑怯で、こんなにも卑屈な、ひねまがった僕が大嫌いだ。
 でもどうしようもない。ひねまがってしまった僕は、ひねまがったまま、また積み上げていくしかない。ひねまがったままの土台に、ひねまがったまま、また積み上げていくしか。どんなに新しく積み上げても、それはやっぱりひねまがっているんだ。
 僕はもう嫌なんだ。間違いを修正したい。修正することができないのなら、いっそなかったことにしたい。僕の今までの人生なんてなかったことにしたい。僕にはもう何もできない。何もかもがなくなればいい。そう思ってしまう。そう思ってしまった。泣きたくなるぐらい、死にたくなるぐらい、そう思ったんだ。
 うーくん。
 やっぱり僕は、間違っているんだろうと思う。
 もう最後にするよ。うーくん、どうもありがとう。このノートはいらなくなったら捨ててほしい。間違っても僕の両親や、篤人、それからひーちゃんの目に晒さないでほしい。きみだけに、知ってほしかった。
 きみだけには、僕のようになってほしくなかったから。
 誰かの代わりになんて、なる必要ないんだ。
 世界が僕のことを笑っているように、僕も世界を笑っているんだ。
  そこで、あーちゃんの文字は止まっていた。
 最後に「サヨナラ」の文字が、一度書いて消した痕が残っていた。
 あーちゃんが僕に残したノートの裏表紙には、油性ペンで日付が書いてあった。
 あーちゃんが空を飛んだ日の日付。恐らく死ぬ前に、これを書いたのだろう。そして屋上に登る前にこのノートを資料室の棚の中へと隠した。その前に図書室の本に細工し、それ以前にメモを忍ばせた時計を僕に譲ってくれた。一体いつから、あーちゃんは死のうとしていたんだろう。僕が思っているよりも、きっとずっと以前からなんだろう。
 涙が。
 涙が出そうだ。
 どうして僕は、気付かなかったんだろう。
 どうして僕は、気付いてあげられなかったんだろう。
 一番側にいたのに。
 一番一緒にいたのに。
 一番僕が、彼のことをわかったつもりになっていて、それでいて、あーちゃんが何を思っていたのか、肝心なことは何もわかっていなかった。
 僕は何を見ていたんだろう。何を聞いていたんだろう。何を考えていたのだろう。何を感じていたのだろう。
 僕は何を、していたのだろう。
 何をして生きていたんだろう。
 あーちゃん。
 あーちゃんあーちゃんあーちゃん。
 僕は彼のたったひとりの友達だったというのに。
 言えばよかった。言ってあげればよかった。言いたかった。
 あーちゃんはひねまがってなんかないって。 
 あーちゃんはひとりなんかじゃないって。
 あーちゃんは、透明人間なんかじゃ、ないんだって。
 今さらだ。ほんとうに今さらだ。
 僕は知らなかった。わからなかった。気付いてあげられなかった。最後まで。本当に最後まで。何もかも。
 わかっていなかった。何ひとつ。
 ずっと一緒にいたのに。
 僕があーちゃんをちゃんと見ていなかったから、僕があーちゃんを透明にして、彼の見る世界を透明にしたのだ。
 僕が彼の心に触れることができていたならば、あーちゃんはこんなもの書かなくても済んだのだ。わざわざ人目につかないところに隠して、こんなものを、こんなものを僕に読ませなくても済んだのだ。
 僕は、こんなものを読まなくても済んだのに!
 あーちゃんがたとえ、ひねまがっていても、ひとりぼっちだったとしても、透明だったとしても、それがあーちゃんだったのに。あーちゃんはあーちゃんだったのに。あーちゃんの代わりなんて、どこにもいないというのに。
 ひーちゃんは今も、あーちゃんのことを待っているというのに。
 あーちゃんはもういないのに。全部嘘なのに。僕がついた嘘なのに。あんなに笑って、でも少しも楽しそうじゃない。空っぽのひーちゃん。世界は暗くて、壊れていて、終了していて、破綻していて、もうどうしようもないぐらい完璧に、歪んでしまっているというのに。それでも僕の嘘を信じて、あーちゃんは生きていると信じて、生きているというのに。
 僕はずっと勘違いをしていた。
 あーちゃんが遺書に書き残した、「僕の分まで生きて」という言葉。
 僕はあーちゃんの分まで生きたら、僕があーちゃんの代わりに生きたら、幸せになるような気がしていたんだ。あーちゃんの言葉を守っていれば、ご褒美がもらえるような、そんな風に思っていたんだ。
 あーちゃんはもういない。
 だから、誰も褒美なんかくれない。誰も褒めてなんてくれない。褒めてくれるはずのあーちゃんは、もういないのだから。
 本当の意味で、あーちゃんの死を理解していなかったのはひーちゃんではなく、僕だ。
 ひーちゃんはあーちゃんの死後、生きることを拒んだのだから。彼女はわかっていたのだ。生きていたって、褒美なんかないってことを。
 それでも僕が選ばせた。選ばせてしまった。彼女に生きていくことを。
 あーちゃんの分まで生きることを。
 褒美もなければ褒めてくれる人ももういない。
 それでも。
 でもそれでも、生きていこうと。生きようと。この世界で。
 あーちゃんのいない、この世界で。
 いつだってそうだ。
 ひーちゃんが正しくて、僕が間違っている。
 ひーちゃんが本当で、僕は嘘なんだ。
「最低だな……僕は」
 あーちゃんにもひーちゃんにも、何もしてあげられなかった。
   「あーーーーーーーーーーーーーーーっ!」
 廊下どころか学校じゅうにまで聞こえそうな大絶叫を上げて、帆高が大きく伸びをした。
 物思いにふけっていた僕は、その声にぎょっとしてしまった。
「終わったあああああああああああああああーっ!」
「うるさいよ……」
 僕が一応注意しておいたけれど、帆高に聞こえているかは謎だ。
「終わった終わった終わったーっ!」
 ひゃっほぉ! なんて言いながら、やつは思い切り保健室のベッドにダイブしている。舞い上がった埃が電灯に照らされている。
「帆高、気持ちはわかるけど……」
「終わったー! 俺は自由だああああああああーっ!」
「…………」
 全く聞いている様子がない。あまりにうるさいので、このままでは教師に怒られてしまうかもしれない。そう、ここはいつもの通り、保健室だ。帆高のこの様子を見るに、夏休みの課題がやっと終わったところなのだろう。確かにやつの手元の問題集へ目をやると、最後の問題を解き終わったようだ。
 喜ぶ気持ちはわかるが、はしゃぎすぎだ。どうしようかと思っていると、思わぬ人物が動いた。
 すぱーんという小気味良い音がして、帆高は頭を抱えてベッドの上にうずくまった。やつの背後には愛用のスケッチブックを抱えた河野ミナモが立っている。隣のベッドから出てきたのだ。長い前髪でその表情はほとんど隠れてしまっているが、それでも彼女が怒っているということが伝わる剣幕だった。
「静かに、して」
 僕が知る限り、ミナモはまだ帆高とろくに会話を交わしたことがない。これが僕の知る限り初めてふたりが言葉を交わしたのを見た瞬間だった。それにしてはあまりにもひどい。
 ミナモはそれだけ言うとまたベッドへと戻り、カーテンを閉ざしてしまう。
「……にてしても、良かったね。夏休みの宿題が終わって」
「おー…………」
 ミナモの一撃がそんなに痛かったのだろうか、帆高は未だにうずくまっているままだ。僕はそんなやつを見て、そっと苦笑した。
 僕は選んだのだ。
 あーちゃんのいないこの世界で、それでも、生きることを。
 ※(4/4)へ続く→https://kurihara-yumeko.tumblr.com/post/649989835014258688/
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kurihara-yumeko · 4 years ago
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【小説】The day I say good-bye (2/4) 【再録】
 (1/4) はこちらから→(https://kurihara-yumeko.tumblr.com/post/646094198472409089/)
 昼休みの時間は、嫌いだ。
 窓の外を見てみると、名前も知らない生徒たちが炎天下の日射しの中、グラウンドでサッカーなどに興じている。その賑やかな声が教室まで聞こえてきていた。
 いつの間にか、僕は人の輪から逸脱してしまった。
 あーちゃんが死んでからか、それ以前からそうだったのかはもうよく覚えていない。もう少し幼かった頃、小学生だった頃は、クラスメイトたちとドッヂボールをしたり、放課後に誰かの家に集まって漫画を読んだりゲームをしたりしていた。そうしなくなったのは、いつからだったのだろう。
 教室にいると周囲のクラスメイトたちがうるさい。グラウンドに出てもすることがない。図書室へ行くと根暗ガリ勉ばかりがいるから気が引ける。今日は日褄先生が学校に来ている日だから相談室へ顔を出してみるのもいいけれど、どうせどこかのクラスの女子たちが雑談しに来ているのだろうから、却下。
 どうしてあっちにもこっちにも人がいるんだろう。学校の中だから、当たり前なんだけど。
「――先輩、」
 居場所がないので廊下をふらふらと歩いて校舎内を徘徊していたら、声をかけられた。名前を呼ばれたような気がしたけれど、よく聞き取れない。僕のことかな、と思って振り向くと、顔も名前も知らない女子がそこに立っていた。僕を「先輩」と呼んだということは、一年生だろうか。
「あの、私、一年三組の佐渡梓っていいます」
 サワタリがハワタリに聞こえて、「刃渡り何センチなの?」なんて一瞬訊きそうになる。ぼーっとしていた証拠だ。
 三つ編みの髪に、ピンク色のヘアピンがひとつ留まっている。女子の髪留めは黒か茶色じゃなきゃ駄目だと校則で決められていなかったか。自分に関係のない女子の服装や髪型に関する規則なんて、おぼろげにしか覚えていないけれど。
「あの、これ、読んで頂けませんか」
 差し出されたのは、ピンク色の小さな封筒だった。
「今?」
「いえ、その、今じゃなくて、お時間がある時に……」
「そう」
 後から考えれば、それは受け取るべきじゃなかった。断るべきだった。なのに受け取ってしまったのは、やっぱり僕がそれだけぼんやりしていたってことなのだろう。
 僕が受け取ると、彼女は顔を真っ赤にしてぺこぺこ頭を下げて、廊下を小走りに走り去って行った。一体、なんだったのだろう。受け取った封筒を改めてよく見てみると、
「あ、」
 丸みを帯びた文字で書かれた僕の名前の漢字が間違っている。少し変わった名前なので、珍しいことではない。
 差出人の欄に書かれた「佐渡梓」の文字を見ながら、一年三組の者だと彼女が言っていたことを思い出す。部活にも委員会にも所属していない僕に、後輩の知り合いはいない。小学校が同じだった後輩に何人か顔と名前をぼんやり記憶している人はいるけれど、それさえも曖昧だ。一体彼女はどういう経緯で僕のことを知り、この手紙を渡してきたんだろう。
 こういう手紙を女子からもらうことは、初めてではなかった。手紙を渡された理由は悪戯だったり本気だったり諸々あったけれど、もらった手紙の内容はどれも似たり寄ったりで、目を通したところでこれといって面白いことは書いてない。
 何かの機会に僕のことを知り、「一目惚れ」というやつを体験し、そうして会話をしたこともない僕となんとか近付きたくてこの手紙を書く。
 よくわからない。こんなものは、よくわからない。誰かを好きだという、そんなものは、僕にはよくわからない。
 受け取るのを断れば良かったな。僕はそう思った。この手紙が読まれないと知ったら、彼女は悲しいだろうか。
 僕はひとりで廊下を歩き続け、階段を降り、誰もいない西日の射し込む昇降口のゴミ箱に封も切らずに手紙を捨てた。宛名や差出人を誰かに見られては困るので、ゴミ箱の奥の方へと押し込んだ。
 昼休みももうすぐ終わる。掃除の時間になれば、誰かがこのゴミ箱の中身を袋にまとめてゴミ捨て場まで運んでくれるんだろう。誰の目に触れることもなく、誰にも秘めた想いを届けることができないまま、ただのゴミになる。
 それでいい。こんなものは、ゴミだ。
 読まなくてもわかる。僕は誰かが期待するような人間じゃない。きみが思うような僕じゃない。
 保健室に行こうかな。僕はそんなことを考える。
 保健室登校児の河野ミナモは、今日もひとりでベッドの上、スケッチブックに絵を描いているだろう。僕が顔を出したら、「また邪魔者が来た」という表情をするに違いない。でもそれでもいい。保健室へ行こう。他にもう行く場所もないし、あと少しの時間潰しだ。
 それに、僕なんて、どうせこの世界には邪魔なんだから。
    夏休みは特に何事もなく時間だけが過ぎ、気だるい二学期が始まった。
 始業式の後、下校しようと下駄箱へ向かうと僕の靴の中に小さな紙切れが入れられており、それには佐渡梓からの呼び出しを示す内容が記されていた。
 誰もいない体育館裏、日陰のひんやりとしたコンクリートの上に腰を降ろして待っていると、ホームルームが長引いたのだという彼女が慌てたようにやって来た。
「すみません、遅れてしまって……」
「いや」
「あの、夏休み前にお渡しした手紙、読んで下さいましたか?」
「いや」
「……え?」
 恥ずかしそうな彼女の笑顔が凍りつく。
「読んで、ない?」
「読んでないよ」
「……あの、先輩、今、お付き合いされている方がいらっしゃるんですか?」
「いない」
「なら、好きな人がいらっしゃる?」
「いないよ」
「じゃ、じゃあ、どうして……」
 どうして読んで下さらなかったのですか、とでも言いたかったのだろうか。半開きの彼女の口からはそれ以上何も聞こえてこなかった。
 ということはやはり、あの手紙は「そういう」内容だったんだろう。実は手紙を捨てた後、全く見当違いの内容の手紙だったらどうしようと、捨てたことを少しだけ後悔していたのだ。
「悪いけど、好きだとかそういうの、下らないからやめてくれる?」
 僕がそう言うと、彼女はきょとんとした顔をした。
 きょとんとした顔。表情から恥ずかしそうな笑顔が完全に消える。全部消える。消失する。消滅する。警告。点滅する。僕の頭の中の危険信号が瞬いている。駄目だ。僕は彼女を傷つける。でも止められない。湧き起こる破壊衝動にも似たこの感情は。真っ黒なこの感情は。僕にも止めることができない。
「興味ないんだ、恋愛に」
 僕はこういう人間なんだ。
「あときみにも興味がない。この先一生、きみを好きになることなんてないし、友達になる気もない」
 僕はきみが好きになるような人間じゃないんだ。
「僕に一体どんな幻想を抱いているのか知らないけど、」
 僕は他人が好いてくれるような人間じゃないんだ。
「僕のこと好きだとか、そういうの、耳障りなんだよ。何を勝手なことを言ってるのって感じがして」
 僕は。
 僕は僕は僕は僕は僕は。
 僕は透明人間なんです。
「僕のことだって、何も、」
 知らないくせに。
「やめて……」
 消え入りそうな小さい声に、僕は我に返った。
「もう、やめて下さい……」
 彼女は泣いていた。そりゃそうだ。泣くだろう。一瞬でも、たとえ嘘でも、好きになった相手に、面と向かってこんな風に言われたのだから。
「すみませんでした……」
 涙を零したまま深く頭を下げて、彼女は体育館裏から走り去っていった。僕はただその背中を見送る。それから不意に、全身の力が抜けた。
 コンクリートの上に背中から倒れ込む。軽く後頭部を打ち付けたが気にしない。
 どうしてだろう。どうして僕は……。こんなにも、どうして。どうして。どうして、どうして、どうして、どうして、どうして。
「は、はは……」
 自分でも驚くくらい乾いた笑い声が口から漏れた。
 どうして、僕は嘘をつかないと、こんなにもひどいことを言ってしまうんだろう。
 嫌になる。まるで嘘をつかないと僕が嘘みたいだ。本当の気持ちの方が嘘みたいだ。作り物みたいだ。偽物みたいだ。僕なんかいない方がいい、嘘をつかない僕なんて、死んだ方がいいんだ。
 自己嫌悪の沼に落ちかけた時、よく知っている、ココナッツの甘いにおいが漂ってきて、僕は思わず目を見張った。
「よぉ、少年」
 こちらを見下ろすように、いつもの黒い煙草を咥えた日褄先生が立っていた。
「……見てたんですか、さっきの」
「隠れて煙草吸おうと思ってたら誰かが来るもんだから、慌てて隠れたのよ。そしたらなんだか見覚えのある少年で」
「学校の敷地内は禁煙ですよ」
「ここの空気は涼しくて美味しいよ」
「先生が咥えてるそれから出ているのはニコチンです」
「せんせーって呼ぶなって何度言わせる気だよ」
 先生は僕の隣に腰を降ろした。今日も彼女は黒尽くめだ。
「ちょうど良かった、少年に渡そうと思ってさ」
 差し出されたのは、見覚えのあるピンク色の封筒。僕は反射的に起き上がった。
「なんで、それを――」
 咄嗟に伸ばした僕の手をひらりとかわして、先生は封筒をひらひらと振る。
「宛名と差出人が一目瞭然なもの、ゴミ箱に捨てるなよなー」
「ゴミ箱に捨てたものを拾ってこないで下さい。ゴミを漁るなんて、いい大人のすることじゃないでしょう」
「もらったラブレターを読まずに捨てるなんて、いい男がすることじゃないよ」
 頭を抱えた。信じられない。一ヶ月以上前に捨てたものが、どうして平然と僕の目の前にあるんだ。
「拾ってほしくなかったら、学校内で捨てることは諦めるんだな」
 再度差し出されたそれを、今度は受け取る。僕の名前が間違って書かれた宛名。間違いない、あの時彼女が僕に手渡し、読まずに捨てたあの手紙だ。僕が深い溜め息をつくと、先生は煙を吐き出してから言う。
「他人からの好意を、そんな斜に構えることはないだろう。礼のひとつくらい言っておけば、相手も報われるもんだよ」
「……僕にそんなこと期待されても困るんですよ」
「今からでも、読んでやれば?」
 先生はそんなことを言って、その後煙草を二本も吸った。
    夏が終わると、なんだか安心してしまう。
 夏は儚い。そして、醜い。道路に転がる蝉の抜け殻を見る度にそう思う。
 その死骸も、ほんの数日経たないうちに、もっと小さい生き物たちの餌食となる。死骸を食べるなんて、と思いかけて、僕が今朝食べたものも皆死骸なんだと気付く。死を食べて僕は生きている。
 もしかしたらあーちゃんも、もう何かに食べられてしまったのかもしれない。
 あーちゃんの死が、誰かを生かしているのかもしれない。
「……これはなんの絵?」
「エレファントノーズ」
「えれふぁんと? 象のこと?」
 僕がそう訊き返すと、河野ミナモは面倒臭そうに言った。
「魚の名前」
「へぇ……。知らなかった」
 不細工な顔をした魚だな、と思い、「国語の定男先生に似ているね」と言おうとして、ミナモが一度も教室で彼を見たことがないということを思い出した。言葉を飲み込む。
「この、鼻っぽいのは鼻なの?」
「魚に鼻なんてある訳ないじゃん」
「じゃあ、これ何?」
「知らない」
 ミナモはいつも通りぶっきらぼうで無愛想だ。
 ベッドの脇の机に広げた真っ白なままの画用紙に目を向けることもなく、自分のスケッチブックに不気味な姿をした生き物の姿を描き続けている。
「河野、説明したと思うけど、」
 机を挟んだ向かいに座って僕は言う。
「悪いんだけど、夏休みの課題を手伝ってくれないかな」
「いいけど、絵画の課題だけね」
「下書きからやってもらってもいいかな」
「その方が私も楽。誰かさんの描いた汚い絵に色塗るなんて、苦痛」
 そう言いながらも彼女は定男先生によく似た魚の絵を描くその手を休めない。と、彼女の三白眼が僕の方を見た。
「で? なんの絵?」
「テーマは、夏休みの思い出」
「どんな思い出?」
「特にない」
 前髪の下に隠されたミナモの双眸が鋭く尖ったような気がした。
「なんの絵を描けっていう訳?」
「なんでもいいよ、適当に、僕の過去を捏造して下さい」
「…………」
 ミナモはしばらく黙って僕を睨んでいたけれど、僕が前言を撤回しないでいるとやがてスケッチブックを傍らに置き、小さな溜め息をひとつついて白い画用紙と向き合い始めた。
 僕はミナモと違って、絵を描くのが苦手だ。夏休み中にやってくるように、と出された絵画の課題は、後回しにしているうちに二学期が始まってしまった。それでもまだやる気が目を覚ますことはなく、にも関わらず教師には早く提出するようにと迫られてたまったものではないので、仕方なくミナモに助けを請うことにした。彼女が快く引き受けてくれたのが嘘みたいだ。
 ミナモが画用紙に何やら線を引き始めたので、僕はすることがなくなった。いつもはなんてことのない雑談をするけれど、話しかけることもできない。自分から課題を手伝ってくれと頼んだので、邪魔をする訳にもいかないからだ。
 夏休みを明けてもミナモは相変わらずで、日に焼けていなければ髪も伸びていない。痩せた身体と土気色の顔は、食事をろくに摂っていないことが窺える。まだ暑い時期だというのに、夏服の制服の上には灰色のカーディガンを羽織っていた。彼女が人前で素肌を晒すことはほとんどない。長く伸ばされた前髪も、最初は目元を隠すためかと思っていたが、どうやら真相は違うようだ。
「ラブレター」
 僕が黙っていると、唐突にミナモはそう言った。
「ラブレター、もらったんでしょ」
「え?」
「後輩の女の子に、ラブレターもらったんでしょ」
「……なんで、知ってるの?」
「日褄先生が言ってた」
 あのモク中め、守秘義務という言葉も知らないのか。
「――くんはさ、」
 画用紙に目線を落としたまま、こちらを見向きもしないミナモが呼んだ僕の名前は、どういう訳か聞き取れない。
「他人を好きにならないの?」
「好きにならない、訳じゃないけど……」
「そう」
 今までは慎重に線を引いていたミナモの鉛筆が、勢いよく紙の上で滑り始める。本格的に下書きに入ってくれたようで僕は安堵する。
「河野はどうなの」
 ラブレターのことを知られていた仕返しに、僕は彼女にそう尋ねてみた。
「私? 私は人を好きにはならないよ」
 ミナモは迷うことなくそう答えた。
「人間は皆、大嫌い。皆、死んじゃえばいいんだよ」
 ぺきん、と軽い音がした。
 鉛筆の芯が折れたようだ。ミナモはベッドの枕元を振り返り、筆箱の中から次の鉛筆を取り出した。
「皆、死んじゃえばいい」、か……。彼女は以前も、同じようなことを言っていたような気がする。僕とミナモが初めて出会った、あの生温い雨の日にも。
 それにしても、日褄先生も困ったものだ。僕が読まずに捨てたラブレターを拾ってくるだけではなく、ミナモに余計なことまで教えやがって。今度、学校の敷地内で喫煙していることを教師たちにばらしてしまおうか。
「あ、」
 新しい鉛筆を手に、ミナモが机に向き直った時、その反動でベッドの上にあったスケッチブックが床へと落ちた。中に挟まっていたらしい紙切れや破られたスケッチがばらばらと床に散らばる。
「いいよ、僕が拾うから」
 屈んで拾おうかと腰を浮かしかけたミナモにそう言って、僕は椅子から立ち上がってそれらを拾い始めた。
 紙には絵がいくつも描かれていた。春の桜、夏の向日葵、秋の紅葉、冬の雪景色。鳥、魚、空、海。丁寧に描き込まれた風景の数々は、恐らく、全てミナモが描いたものだろう。保健室で一日じゅう白い紙と向き合って、彼女はこんな風景を描いていたのか。彼女がいるベッドからは決して見ることができない世界。不思議なことに、どの絵の中にも人間の姿は描かれていない。
 ふと、僕は一枚の絵に目を止めた。紙いっぱいに広がる、灰色の世界。この風景は、見たことがある。他の絵とは異なり、これは想像して描いたものではないことがわかる。
 ぱっと横から手が出てきて、僕の手からその絵を奪い去った。見れば、ミナモが慌てた様子でその絵を僕に見せまいと胸に抱いていた。
「これは、ただの落書き」
 他の絵とたいして変わらない筆致で描かれたその絵も、やはり丁寧に描き込まれているように見えたけれど。僕はそれには何も言わず、全て拾い集めてからミナモに絵の束を渡した。彼女はそれを半ばひったくるように受け取ると、礼を言うこともなくスケッチブックに挟めて仕舞う。
 僕はあの絵を知っている。あの風景を知っている。日褄先生も、あーちゃんも、あの景色を見たことがあるはずだ。
 あーちゃんが飛び降りた、うちの中学の屋上から見た風景。
 僕とミナモが出会った屋上から見える景色。
 灰色に塗り潰されたその絵は、あの日の空と同じ色だった。
    河野ミナモは、小学校を卒業する頃、親の虐待から逃れるためにこの街へ引っ越してきた。
 今は親戚の元で暮らしながら学校に通っている。彼女にとっては、たとえ教室まで行くことができなくとも、毎日保健室に来ていること自体が大変なことのはずだ。
「――くんは、」
 放課後の保健室。
 ミナモが描き始めた僕の絵画の課題は、まだ下絵も終わりそうにない。
 彼女は僕に言う。
「やっぱり、市野谷さんのことが好きなの?」
「……え?」
 本気でミナモに訊き返してしまった。彼女は何も言わず、画用紙に向かっている。
 市野谷さん?
 市野谷さんって、ひーちゃん?
 僕が、ひーちゃんのことを好き?
「……なんで、そう思うの」
「――くんは、市野谷さんのために生きてるんだと思ってたから」
 僕の分まで生きて。僕は透明人間なんです。
 あーちゃんの遺書の言葉が、脳裏をよぎる。
 なんのために生きているのか。自問の繰り返し。答えは見つからないから、自問、自問、自問。この世界で、あーちゃんが死んでひーちゃんが壊れたこの世界で、どうして僕は生きているんだろう。
 嘘ばかりついて。嘘に染まって。嘘に汚れて。そのうち自分の存在までもが、嘘のような気がしてしまう。僕なんか嘘だ。
 ひーちゃんを助けるつもりの嘘で、余計に苦しめて。
 それでも僕が、ひーちゃんのために生きている?
 ひーちゃんのため? 「ため」って、なんだよ。
 僕がひーちゃんに何をしてあげられたって言うんだ。
 僕がひーちゃんに何をしてあげられるって言うんだ。
 嘘をつくしかできなかった僕が、どうしたらひーちゃんを救えるって言うんだ。
 僕じゃない。僕じゃ駄目だ。必要なのは僕じゃない。それはいつだって、あーちゃんだった。ひーちゃんの全部はあーちゃんが持っている。僕じゃないんだ。
 あーちゃんは、透明人間なんかじゃない。本当に透明人間なのは、ひーちゃんにとって必要じゃないのは、僕の方だ。
 僕は。
 僕は僕は僕は僕は僕は。
 僕は必要になんかされていない。
「河野、」
「なに」
「あの時、僕は、」
「うん」
「河野にいてほしくなかったよ」
「そう」
「河野に、屋上に来てほしくなかった」
「でしょうね」
 ああ、また僕は、上手に嘘がつけない。
 そんな僕をまるで見透かしているかのように、ミナモは言う。
「だってあなたは、死のうとしていたんだものね」
 死にたがり屋と死に損ない。
 去年の春、あの雨の日。
 ミナモが描いていたのとそっくり同じ、灰色の景色。
 いつもの自傷癖で左手首に深い傷を作ったミナモが保健室を抜け出し辿り着いた屋上で出会ったのは、誰かと同じようにそこから飛び降りようとしていたひとりの男子生徒。
 それが、僕。
 雨が髪を濡らし、頬を伝い、襟から染み込んでいった。僕らをかばってくれるものなんてなかった。
 僕らはただ黙ってお互いと向かい合っていた。お互い何をしようとしているのか、目を見ただけでわかった。
「死ぬの?」
 先に口を開いたのは、ミナモだった。長い前髪も雨に濡れて顔に貼り付いていて、その隙間から三白眼が僕を睨んでいた。
「落ちたら、死ぬよ」
 言葉ではそう言いながらも、どこか投げやりなその口調を今も覚えている。僕の生死なんて微塵も気にかけていない声音だった。
「きみこそ、それ、痛くないの」
 彼女の手首を一瞥してからそう返した僕の声は震えていた。ミナモが呆れたように言った。
「あなただって、その手首の傷、痛くないの?」
 そう、僕もその時、ちょうどミナモと同じところから血を流していたのだ。
「それよりも、そこから落ちた方が痛いと思うけど」
 彼女にそう言われて、そうか、と僕は思う。きっとあーちゃんも痛かっただろうと思いを巡らせる。
「それは、止めてるの?」
「止める? どうして? あなたが死んで私に何かあるの?」
 ミナモはその日も無愛想だった。
「死んだ方がいい人間だって、いるもの」
 交わした言葉はそれだけだった。それきり、ミナモは僕に何も言わなかった。ただそこに立っていただけだ。彼女にしてみれば、僕がそこから飛び降りようが降りまいが、どうでも良かったに違いない。実際彼女は、僕には心底興味もなさそうに屋上から見える景色に目を凝らしていた。
 飛ぼうと思えばいつだって飛べたはずなのに、その日、僕は自殺することを諦めた。
 そしてそれ以来、屋上のフェンスの外側へは一度も立っていない。
 ミナモのスケッチブックに挟まっていたあの絵は、あの日彼女が見た風景だった。そうして、今、ミナモが画用紙に描いているのも、やっぱり――。
「なに泣いてるの。馬鹿みたい」
 涙でぐちゃぐちゃに歪んだ視界の中、白い画用紙に描かれていたのは、やはりあの屋上の風景だった。空を横切る線は、飛行機雲だろうか。
 僕はあーちゃんと飛ばした紙飛行機のことを思い出して、込み上げてきた涙を堪え切れずに零してしまう。
 ミナモは心底呆れたように、「泣き虫」と僕を罵った。
   「えーっと……」
 僕が提出した画用紙を前に、担任は不思議そうな顔をしていた。
「これは、なんの絵なんだ?」
 ミナモが描いてくれた僕の夏休みの課題の絵は、提出期限を二週間も過ぎてから完成した。ミナモが下書きしてくれた時点では素晴らしい絵画だったのだけれど、僕が絵具で着色したら、これが新しい芸術なのだと言わんばかりの常識はずれな絵になってしまった。もはや、ミナモの下書きの影もない。
「まぁいいか。二学期は美術の授業を頑張った方が良さそうだな」
 担任はそう言い残して職員室へと去って行く。
 これで、僕の夏休みの課題は全て提出されたことになる。少なからずほっとした。
 夏休みが明けても、教室の中は相変わらずだ。ミナモも、ひーちゃんも、教室に来ていない。二人の席は今日も空席で、いつものように違う誰かが周辺の席の生徒とお喋りする時の雑談場所にされている。そんなクラスメイトたちを見やり、やっぱり僕は、あいつらと友達になれそうにない、と思う。
 僕は教室を出て、体育館の裏へと向かった。
 今朝、僕の下駄箱に紙が入れてあった。
「今日の昼休み、体育館裏に来てくれませんか」という文字が記してある。差出人の名前はない。書き忘れたのだろうか、それとも伏せたのだろうか。しかし、名前がなくても字でわかる。見たことのある字だ。
 そう、僕は読んだのだ。一度は捨てたあの手紙を。どうってことのない内容だった。手紙を書いて、それでも僕にまだ、話したいことがあるんだろうか。
 ざくざくと砂利を踏みながら向かうと、既に彼女は僕を待っていた。やっぱり佐渡梓だった。こんなところに僕を呼び出す人なんて、学校じゅうで彼女しかいない。
「……どうも」
 なんて声をかけるか悩んで、僕は結局そう言った。「こんにちは」とどこか強張った表情で彼女が返事をする。
「何か僕に用事?」
「あの……」
 彼女は今日もピンク色のピンを髪に挿している。
「先輩は、保健室の河野先輩とお付き合いされているのですか?」
「……は?」
「あ、いえ、その……一緒にいらっしゃるところをよく見かけると、友人が言っていたので、気になってしまって……」
 僕の表情を見て、彼女は慌てたように両手を顔の前で振った。
 僕がミナモと付き合っている、だって?
 僕が? ミナモと?
 ――やっぱり、市野谷さんのことが好きなの?
 当のミナモには最近、そう尋ねられたばかりだと���うのに。全く、笑ってしまいそうになる。それにしても、「保健室の河野先輩」なんて、ひどい呼び方だ。
「付き合って、ないけど」
 意地悪するつもりはなかった。不必要に人を傷つける趣味がある訳じゃない。でもその時、僕が尖った言い方をしようと決めたのは、そう言った時に彼女がどこか嬉しそうな顔をしたからだった。
「付き合ってなかったら、なんなの」
 そう口にした途端、彼女の表情が暗くなる。それでも僕はやめなかった。
「先に言っておく。きみとは付き合わないから。それと、こういうことでいちいち呼び出されるのは迷惑。やめてくれないかな」
 傷ついた顔。責めたいなら、責めればいいだろ。罵ればいいだろ。嫌いになればいいだろ。けれど彼女は、何も言わなかった。泣きはしなかったものの、「すみませんでした」と頭を下げ、うつむいたまま足早に去っていった。
 本当に、これだけのことのために、僕を呼び出したのだろうか。
 彼女は一体、なんなのだろう。僕のことが好きなのだろうか。好きだなんて、笑わせる。僕の何がわかるっていうんだ。僕の何を見て好きだっていうんだ。何も知らないくせに。僕がどんな人間なのかも知らないくせに。僕が今、一体どんな気持ちできみと向き合っているのか、そんなことさえ、わからないくせに。
「あーあ、かわいそー」
 ぎょっとした。
 頭上、ずいぶん高いところから声が降ってきた。
 思わず見上げると、体育館の二階の窓からひとり、こちらへ顔を出している男子がいる。見覚えのない顔だった。僕はクラスメイトの顔さえ覚えていないけれど、そいつの顔は本当に見た記憶がない。視線を絡ませたまま、どうしようかと思っていると、そいつがにやりと笑った。
「ひでぇ振り方」
 ピンで留められた茶色っぽい前髪、だらしなく第二ボタンまで開けられたワイシャツ。そいつは見た目同様に、軽そうな笑い声をけらけらと上げている。
「あんな言い方はねぇんじゃねーの、あれじゃ立ち直れないじゃん」
 彼女を気遣うような言葉だったが、その声音に同情の色は全く滲んでいなかった。口にしてはいるものの、興味も関心もなさそうだ。
「……盗み見なんて、趣味が悪いんじゃない?」
 僕が二階からこちらを見ているそいつの耳にも聞こえるように、少し声を張り上げてそう言うと、そいつはぱっちりとした目をさらにまん丸くして僕を見た。
「あー、わりぃ。ここで涼んでたら、お前らが来たもんだから」
 悪気があるようには見えない言い訳をされた。なんだこいつ。
 僕が立ち去ろうと歩き出すと、そいつはまた声をかけてきた。
「なーなー、あんた、――くんだろ?」
 僕の名前を呼んだような気がしたが、遠いからか聞き取れない。
「ちょっとそこで待っててよ、今そっち行くからさ。うちの、ミナモの話もしたいし」
「…………え?」
 今、一体何を。
 再び顔を上げると、そいつはもう体育館の中へと頭を引っ込めていて、もう見えなかった。
 うちの、ミナモ?
 ミナモって、あの、河野ミナモ?
 あいつ、もしかして……。
「河野の、身内なのか……?」
 体育館裏の砂利の上、僕は立ち尽くしていた。
 ついさっき、二階の窓から顔を覗かせていた男子は「うちの、ミナモ」と確かに言った。あいつは河野ミナモと何か関係があるんだろう。
 やつは僕の名前を知っていた。だが僕はやつの名前を知らない。知らないはずだ。記憶を探る。あんなやつ、うちのクラスにはいなかった。廊下や校庭ですれ違っていたとしても、口を利いたのは初めてのはずだ。
「おー、わりーな、呼び止めて」
 やつは体育館の正面玄関から出てきたのか、体育館用のシューズのまま砂利の上を小走りで駆けてきた。
 何か運動でもしていたのだろうか、制服の白いシャツはボタンが留められておらず、裾はズボンから飛び出している。白と黒の派手なTシャツが覗いていた。昼休みに運動部が練習をする場合は体操着に着替えることが決められているから、恐らく運動部ではないか、もしくは部活中という訳ではなかったようだ。腰までずり下げられたズボンは、鋲の付いた派手な赤色のベルトでかろうじて身体に巻きつけられている。生徒指導部に見つかったら厳重注意にされそうな恰好だ。僕はこういう人間が、正直あまり好きではない。
「あんた、二組の――くんだろ?」
「そうだけど……」
「俺は二年四組の河野帆高。よろしくな、――くん」
 二年四組。やはり、こいつは僕のクラスメイトではなかった。同じ学年だが、その名前も知らない。いや、知らないけれど、どこかで聞いたことがあるような気もする。一体いつ耳にした名前なのかはすぐには思い出せそうにない。
 それよりも、河野。ミナモと同じ姓だ。
「河野ミナモと、親戚?」
「そ。ミナモは俺のはとこ。今は一緒に俺の家で暮らしてる」
 やつはあっさりとそう明かす。
 ミナモのはとこ。
 彼女が今、親戚の家で暮らしていることは知っていた。だがミナモの口から、身を寄せた親戚宅で一緒に暮らしているはとこが同じ学年にいることは聞いたことがなかった。
「……本当なんだよな?」
 僕がそう疑うと、やつは笑みを浮かべた。それは苦い笑みだった。
「やっぱり、話してないんだな。俺たち家族のことは」
「……河野はあまり、自分のことは話さないよ」
 保健室のベッドで一日じゅう、絵を描いて過ごしているミナモ。こちらがいくら声をかけても、返す言葉はいつも少ない。僕は何度も保健室を訪れ、言葉を交わしているからまだ会話をしてもらえるというだけだ。彼女に口を利いてもらえる人は、学校の中でも少数だろう。
 そうだ、日褄先生。彼女も先生とは、多少言葉を交わしていたような気がする。
「――くんにすら話してないってことは、他の誰にも話してないんだろうな。そりゃ、俺との関係が知られてなくて当然か」
「……僕以外の人には話しているかもしれないけどね」
 僕はミナモの人間関係まで把握はしていない。僕が知らないところで誰か親しくしている人がいたっておかしくはないはずだ。だけどやつは首を横に振った。
「そんなことはないと思うな。あんたが一番、ミナモと仲良さそうだもん」
 ――先輩は、保健室の河野先輩とお付き合いされているのですか?
 佐渡梓の言葉が耳の中で蘇る。そう疑われるほど、僕とミナモは親しげに見えるのだろうか。
 僕が黙っていると、やつは続けて言う。
「あいつ全然喋らないんだよ。俺が話しかけても無視されるばっかりでさ。もう一年も一緒に暮らしてるのに、一言も口利いたことないよ、俺」
 ミナモは家でも口を利かないのだろうか。
 彼女の口数が少なく無愛想なのは、決して彼女が性悪だからではない。ミナモは人と関わるのが怖いのだ。対人恐怖症、とまではいかないが、なかなか他人と打ち解けることができない。なんだかんだ一年の付き合いになる僕とでさえ、彼女は目を合わせて会話することを嫌っている。
「なぁ、俺と友達になってよ」
「……は?」
 唐突な言葉に、思わずそう訊き返してしまった。さっきまで苦笑いしていたはずのやつは、いつの間にかにやにやとした顔で僕を見ていた。
「ミナモと話せるあんたに興味があってさ」
「……僕はあんたに、興味ないけど」
「ははは、さっきもあんたが女の子振るとこ見てたけど、やっぱり手厳しいねー」
 軽薄な笑い声。こいつの笑い方はあんまり好きになれそうにない。
「まぁそう言わずにさー、俺と仲良くしてくんねーかなー? どうやったらミナモと打ち解けられるのかとか、知りたいし」
 なんだか厄介なやつに捕まってしまったかもしれない。いつもならこんな軽そうなやつは適当にあしらっているのだけれど、今回ばかりはそうもいかない。ミナモが関係しているとなると、僕もそう簡単に無下に扱うことはできないのだ。
「……��ぁ、いいけど」
 僕が渋々そう頷くと、やつはその顔ににっこりとした笑みを浮かべる。裏があるのではないか、と疑ってしまうような、あまりにも軽々と浮かべられた笑顔だった。
「あ、今、もしかしてミナモが関わってるから、仕方なくオッケーしてくれた感じ?」
 にっこりした笑顔のまま、やつは鋭いことを言った。鈍いやつではないらしい。見た目は軽薄そうなやつだけれど、頭が悪い訳ではないようだ。
「言っておくけど俺、ミナモのこと抜きにしても、――くんに興味あるよ」
 やつはさっきから何度も僕の名前を呼んでいるようだけれど、何故だか僕の耳にはそれが上手く聞き取れない。
「僕に、興味がある?」
「そ。あんたさ、知ってるんだろ? 一年前にこの学校で自殺したやつのこと」
 どくん、と。
 僕の胸の奥で嫌な予感がした。
 一年前にこの学校で自殺したやつとは、あーちゃんのことだ。
 今まで、あーちゃんの死のことをここまであからさまに誰かに言われたことはなかった。
 僕らがこの中学に入学する一ヶ月前に亡くなったあーちゃんについて、学校側も僕らに対しては詳しい説明をしていない。
 いや、たとえどこかであーちゃんの死についてきちんとした説明がされていたとしても、どうしてこいつは僕のことを知っている? どうして僕とあーちゃんのことを知っているんだ?
 やつは変わらず笑みを浮かべている。
 体育館裏に吹く風は涼しい。まだ暑さの残るこの時期に、日陰で受ける風の心地よさはなおさらだ。だけれど僕はその風を浴び、思わず歯を食い縛った。
 厄介なやつに関わってしまったと、確信しなくてはいけなかった。
    図書館へ行って、去年の新聞が綴じられているファイルを手に取った。
 空いていた席に腰掛け、テーブルの上に分厚いそのファイルを広げる。
 あーちゃんの命日の新聞を探し、そこから注意深く記事に目をやりながら紙をめくっていく。
 新聞なんて普段読まないから、どこをどう見ればいいのかわからない。見出しだけを拾うようにして読んでばさばさとめくる。どうせ、載っているとしたら地域のニュースの欄だ。そう当たりをつけて探す。
 そして見つけた。
『またも自殺 十二歳女子 先日の自殺の影響か』
 そんな見出しで始まるその記事は、あーちゃんの命日から八日経った新聞に載っていた。
 その記事は、僕の通った小学校の隣の学区で、一週間前にその小学校を卒業した十二歳の女子児童が飛び降り自殺をした、という内容だった。生きていれば、僕と同じ中学に進学していたはずの児童だ。もしかしたら、同じクラスだったかもしれない。
 女子児童は卒業後、教室に忘れ物をしているのを担任に発見され、春休み中に取りに来るように言われていた。その日はそれを取りに来たという名目で小学校を訪れ、屋上に忍び込み、学校裏の駐車場めがけて身を投げた。屋上の鍵は以前から壊れており、児童は立ち入り禁止とされていた。
 彼女は飛び降りる前、自分が六年生の時の教室にも足を運んでいた。教卓の上には担任宛て、後ろのロッカーの上には両親宛て、そして机ひとつひとつにその席に座っていたクラスメイトひとりひとりに宛てた、遺書を残していた。
 そうして、黒板には、
『私も透明人間です』
 という文字が残されていた。
 女子児童の担任がクラス内からいじめの報告を受けたことはなく、彼女は真面目で大人しい児童だった、と記事には書かれているが、そんなものはあてにならないので僕は信じない��僕だって、死んだら「真面目で大人しい生徒」と書かれるに決まっている。
 記事はその後、女子児童が自殺する一週間前、近隣の中学校で男子生徒がひとり自殺していることを挙げ、つまりは、あーちゃんの自殺が影響しているのではないかとしていた。自分が春から在籍することになる中学校で起きた自殺の話だ、この女子児童だってあーちゃんの死を耳にしていたはずだ。
 僕は透明人間なんです。 
 あーちゃんの言葉を思い出す。「私も透明人間です」と書き残した、女子児童のことを思う。「私も」ということは、やっぱりあーちゃんの言葉に呼応した行動なんだろう。
 あーちゃんの自殺のニュースを聞いて、同じような言葉を残し、自殺した女の子。
 もしかしたら、と僕は思う。
 もしかしたら、ひーちゃんの記事が、ここに載っていたかもしれない。
 いや、ひーちゃんだけじゃない。この新聞には、僕の記事が載るかもしれなかった。
 僕が、死んだという記事が。
 たまたま、この子だった。この女子児童の記事だった。死んだのはひーちゃんでも僕でもなく、この子だった。
 そんなものだ。僕たちの存在なんて。たまたま、僕がここにいるだけなんだ。代わりなんて、いくらでもいる。
 新聞のファイルを元通り棚に戻し、僕は図書館を出た。
 出たところで、ぎょっとした。
 図書館の前には、黒尽くめの大人が立っていた。黒尽くめの恰好をよくしているのは日褄先生だ。けれど、日褄先生ではない。その人は男性だった。
 オールバックの長髪に、吊り上がった細い眉。鷲鼻、薄い唇、銀縁眼鏡。袖がまくられて剥き出しになった左腕には、葵の御紋の刺青。そうしてその左手には、薬指がない。途中からぽっきり折れてしまったかのように、欠けている。
 そんな彼と目が合った。切れ長の双眸に見つめられても、咄嗟に名前が出て来ない。この男性を僕は知っている。日褄先生とよく一緒にいる、名前は確か……。
「葵、さん?」
 日褄先生が彼を呼んでいた名前を思い出してそう呼ぶと、彼は目を丸くした。どうやら、僕は彼のことを認識しているが、彼は僕のことがわからないらしい。「どうしてこの子供は俺の名前を知っているんだろうか」と言いたげな表情を、ほんの一瞬した。
「えっと、僕は、日褄先生にお世話になっている……」
「あれ? 少年じゃん」
 僕が自分の身分を説明しようとした時、後ろからそう声をかけられて振り向いたら、そこには日褄先生が数冊の本を抱えて立っていた。やはり今日も、黒尽くめだ。
「図書館で会うの初めてじゃん。何してるの? 勉強?」
「いえ、ちょっと調べたいことがあって……」
 僕の脳裏を過る、新聞記事の見出し。
 日褄先生は、知っているんだろうか。
 あーちゃんの死を受けて、同じように自殺した女の子がいたことを。
 尋ねてみようと思ったが、やめた。どうしてやめたのかは、自分でもわからない。
「へー、調べものか。お前アナログだなー、イマドキの中学生は皆ネットで調べるだろうにさ」
「先生は、本を借りたんですか」
「せんせーって呼ぶなってば。市野谷んち行ってきた帰りでさ、近くまで来たからこの図書館にも来てみたんだけど、結構蔵書が充実してんのね」
「ひーちゃんの家に、行ってきたんですか」
「そ。まぁ、いつも通り、本人には会わせてもらえなかったけどね」
 日褄先生は葵さんと僕とを見比べた。
「葵と何しゃべってたの?」
「いや、しゃべってたっていうか……」
 たった今会ったばかりで、と言うと、日褄先生は抱えていた本を葵さんに押し付けながら、
「葵はあんま喋らないし、顔が怖いから、あたしの受け持ってる生徒にはよく怖がられるんだよねー。根はいいやつなんだけどさ」
 嫌そうな顔で本を受け取っている葵さんは、さっきから一言も発していない。僕は彼の声を聞いたことがなかった。
 薬指が一本欠けた、強面の彼が一体何者なのか、僕は知らない。けれど、ない薬指の隣、中指にある黒い指輪は、日褄先生が左手の中指にいつもしている指輪と同じデザインだ。
 この二人は、強い絆で結ばれている関係なのだろう。
 お互いを必要としている関係。
 僕はほんの少し、先生が羨ましい。
「少年は、もう帰るの? 今日は葵の運転で来てるから、家まで送ってあげようか?」
 僕はそれを丁重にお断りさせて頂いて、日褄先生と葵さんと別れた。
 頭の中では声が幾重にもこだましていた。聞いたはずはないのに、それはあーちゃんの声だった。
「僕は透明人間なんです」
「私も透明人間です」
   「あー、そうだよ、そいつそいつ」
 河野帆高は軽い口調でそう肯定した。
「屋上から飛び降りて、教室にクラス全員分の遺書残したやつ。ありゃ、正直やり過ぎだと思ったねー」
 初めて会ったのと同じ、昼休みの体育館裏。
 やつは昼休みに友人とバスケットボールをするのが日課らしい。僕がやつの姿を探して体育館を訪れると、やつの方が僕に気付いて抜け出してきた。
 ――あんたさ、知ってるんだろ? 一年前にこの学校で自殺したやつのこと。
 僕と初めて会った時、やつは僕にそう言った。
 そして続けて言ったのだ。
「俺の友達も死んだんだよね。自殺でさ。あんたの友達の死に方を真似したんだよ」
 だから僕は図書館で調べた。
 あーちゃんの自殺の後に死んだ、女子児童のことを。
 両親と担任、そしてクラスメイト全員に宛ててそれぞれ遺書を残し、卒業したばかりの小学校の屋上から飛び降りた彼女のことを。
「その子と、本当に仲良かったの?」
 僕が思わずやつにそう尋ねたのは、彼女の死を語るその口調があまりにも軽薄に聞こえたからだ。やつは少しばかり、難しそうな顔をした。
「仲良かったっていうか、一方的に俺が話しかけてただけなんだけど」
「一方的に、話しかけてた?」
「そいつ、その自殺したやつ、梅本っていうんだけどさ、なーんか暗いやつで。クラスでひとりだけ浮いてたんだよね」
 クラスで浮いている女の子にしつこく話しかけるこいつの姿が、あっさりと思い浮かんだ。人を勝手に哀れんで、「友達になってやろう」と善人顔で手を差し伸べる。僕が嫌いなタイプの人間だ。
「まぁ俺も、クラスで浮いてた方なんだけどね」
 やつは、ははは、と軽い笑い声を立ててそう言った。そうだろうな、と思ったので僕は返事をしなかった。
「梅本も最初は俺のことフルシカトだったけど、だんだん少しは喋ってくれるようになったり、俺といると笑うようになったりしてさ。表情も少しずつ明るくなってったんだよ。だから、良かったなぁって思ってたんだけど」
 だが彼女は死んだ。
「私も透明人間です」と書き残して。
「梅本は俺のこと、ずっと嫌いだったみたいでさ。あいつが俺に宛てた遺書、たった一言だけ『あんたなんて大嫌い、死んじゃえ』って書いてあってさ」
 あんたなんて大嫌い、死んじゃえ。
「それ見た時は、まじでどうしようかと思ったよ」
 やつは笑う。軽々しく笑う。
「なんつーの? 心の中にぽっかり空洞ができちゃった感じ? しばらく飯も食えなかったし夜も眠れねーし、俺も死のうかなーとか思ったりした訳よ」
 まるで他人事のように、やつは笑う。
「ちょうどミナモがうちに来た頃で、親はミナモの対応にあたふたしてたし、俺のことまで心配されたくないしさ。近所のデパートの屋上に行ってはぼーっと一日じゅう、空ばっかり眺めてた。梅本はどんな気持ちだったのかなーって。俺を恨んだまま死んだのかなーって。俺にはなんにもわかんねーなーって」
 僕は透明人間なんです。
 そう書き残して死んだあーちゃんは、一体どんな気持ちだったのだろう。
「中学入学してさ、俺もまぁそこそこ元気にはなったけど、なーんか変な感じなんだよなー。人がひとり死んだのにさ、なーんにも変わんねーのな。梅本なんてやつ、最初からいなかったんじゃねぇのくらいの感じでさ。特にあいつは友達が少なかったみたいだから、俺と同じ小学校からうちの中学きたやつらもたいして気にしてねーって感じだったし。『あいつって自殺とかしそうな感じだったよな』とか言ってさー」
 私も透明人間です。
 そう書き残して死んだ彼女は、あーちゃんの気持ちが少しは理解できたのだろうか。
「おれもそのうち、『梅本? あー、そんなやついたなー』ぐらいに思うようになんのかなーって思ってさ。逆に、『もし俺が死んでも、そんな風になるんじゃねー?』とかさー」
 世界は止まらない。
 常に動き続けている。
 誰がいようと、誰がいまいと。あーちゃんが欠けようと、ひーちゃんが歪んでいようと。ひとりの女子児童が自殺しようと。それを誰かが忘れようと。それを誰かが覚えていようと。
「でもそう考えたらさ、あの『大嫌い、死んじゃえ』って言葉にも、もしかしたらなんか意味があるんじゃねーかとか思ってさ。自分のこと忘れてほしくなくて、わざとあんなひでーこと書いたのかなとか。まぁ、俺の勘違いっつーか、そう思いたいだけなんだけど。そもそも遺書なんて、一通あれば十分じゃね? それをわざわざクラスメイト全員に書くってさ、どう考えてもやり過ぎだろ。しかもほとんど喋ったこともない相手ばっかりなのにさ。それってやっぱ、『私のことを忘れないでほしい』っていうメッセージなのかなーって思ってみたりしてさ」
 僕は透明人間なんです。
 私も透明人間です。
 私のこと、忘れないでね。
「そう考えたらさ、いや、俺の思い込みかもしんないけど、そう考えたら、ちゃんと覚えててやりてぇなーって思ってさ。あいつがそこまでして、残したかった物ってなんだろうなーって」
「……どうしてそんな話を、僕にするんだ?」
「あんたなら、この気持ちわかってくれんじゃねーかなっていう期待、かなー」
「知らないよ、お前の気持ちなんて」
 僕がそう言うと、やつは少し驚いた顔をして、僕を見た。
 他人の気持ちなんて、僕にはわからない。自分の気持ちすらわからないのに、そんな余裕はない。
 だいたい、こいつは人の気持ちを自分で決めつけているだけじゃないか。梅本って女子児童が、こいつに気にかけてもらって嬉しかったのかもわからないし、どんな気持ちで遺書に「あんたなんて大嫌い、死んじゃえ」と書いたのかもわからない。
 こんな話をされて、僕が同情的な言葉をかけるとでも思っているのだろうか。そんなことを期待されても困る。
 でも。
 でも、こいつは。
「あーちゃんの自殺のこと、どこまで知ってる?」
 僕がそう尋ねると、やつは小さく首を横に振った。
「一年前、この学校の二年生が屋上から飛び降り自殺をした、遺書には『僕は透明人間です』って書いてあった。それくらいかな」
「遺書には、その前にこう書いてあったんだ。『僕の分まで生きて』」
 やつは、しばらくの間、黙っていた。何も言わずに座っていたコンクリートから立ち上がり、肩の力を抜いたような様子で、空を見上げていた。
「嫌な言葉だなー。自分は死んでおいてなんて言い草だ」
 そう言って、やつは笑った。こいつは笑うのだ。軽々と笑う。
 人の命を笑う。自分の命も笑う。この世界を笑っている。
 だから僕はこいつを許そうと思った。こいつはたぶんわかっているのだ。人間は皆、透明人間なんだって。
 あーちゃんも、ひーちゃんも、お母さんもお父さんも兄弟も姉妹も友達もクラスメイトも教師もお隣さんもお向かいさんも、僕も、皆みんな、透明人間なんだ。あーちゃんだけじゃない。だからあーちゃんは、死ななくても良かったのに。
「あんたの気持ち、わかるよ」
 僕がそう言った時、河野帆高はそれが本来のものであるとでも言うような、自然な笑みを初めて見せた。
※(3/4) へ続く→(https://kurihara-yumeko.tumblr.com/post/648720756262502400/)
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kurihara-yumeko · 4 years ago
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【小説】The day I say good-bye (1/4) 【再録】
 今日は朝から雨だった。
 確か去年も雨だったよな、と僕は窓ガラスに反射している自分の顔を見つめて思った。僕を乗せたバスは、小雨の降る日曜の午後を北へ向かって走る。乗客は少ない。
 予定より五分遅れて、予定通りバス停「船頭町三丁目」で降りた。灰色に濁った水が流れる大きな樫岸川を横切る橋を渡り、広げた傘に雨音が当たる雑音を聞きながら、柳の並木道を歩く。
 小さな古本屋の角を右へ、古い木造家屋の住宅ばかりが建ち並ぶ細い路地を抜けたら左へ。途中、不機嫌そうな面構えの三毛猫が行く手を横切った。長い長い緩やかな坂を上り、苔生した石段を踏み締めて、赤い郵便ポストがあるところを左へ。突然広くなった道を行き、椿だか山茶花だかの生け垣のある家の角をまた左へ。
 そうすると、大きなお寺の屋根が見えてくる。囲われた塀の中、門の向こうには、静かな墓地が広がっている。
 そこの一角に、あーちゃんは眠っている。
 砂利道を歩きながら、結構な数の墓の中から、あーちゃんの墓へ辿り着く。もう既に誰かが来たのだろう。墓には真っ白な百合と、あーちゃんの好物であった焼きそばパンが供えてあった。あーちゃんのご両親だろうか。
 手ぶらで来てしまった僕は、ただ墓石を見上げる。周りの墓石に比べてまだ新しいその石は、手入れが行き届いていることもあって、朝から雨の今日であっても穏やかに光を反射している。
 そっと墓石に触れてみた。無機質な冷たさと硬さだけが僕の指先に応えてくれる。
 あーちゃんは墓石になった。僕にはそんな感覚がある。
 あーちゃんは死んだ。死んで、燃やされて、灰になり、この石の下に閉じ込められている。埋められているのは、ただの灰だ。あーちゃんの灰。
 ああ。あーちゃんは、どこに行ってしまったんだろう。
 目を閉じた。指先は墓石に触れたまま。このままじっとしていたら、僕まで石になれそうだ。深く息をした。深く、深く。息を吐く時、わずかに震えた。まだ石じゃない。まだ僕は、石になれない。
 ここに来ると、僕はいつも泣きたくなる。
 ここに来ると、僕はいつも死にたくなる。
 一体どれくらい、そうしていたのだろう。やがて後ろから、砂利を踏んで歩いてくる音が聞こえてきたので、僕は目を開き、手を引っ込めて振り向いた。
「よぉ、少年」
 その人は僕の顔を見て、にっこり笑っていた。
 総白髪かと疑うような灰色の頭髪。自己主張の激しい目元。頭の上の帽子から足元の厚底ブーツまで塗り潰したように真っ黒な恰好の人。
「やっほー」
 蝙蝠傘を差す左手と、僕に向けてひらひらと振るその右手の手袋さえも黒く、ちらりと見えた中指の指輪の石の色さえも黒い。
「……どうも」
 僕はそんな彼女に対し、顔の筋肉が引きつっているのを無理矢理に動かして、なんとか笑顔で応えて見せたりする。
 彼女はすぐ側までやってきて、馴れ馴れしくも僕の頭を二、三度柔らかく叩く。
「こんなところで奇遇だねぇ。少年も墓参りに来たのかい」
「先生も、墓参りですか」
「せんせーって呼ぶなしぃ。あたしゃ、あんたにせんせー呼ばわりされるようなもんじゃございませんって」
 彼女――日褄小雨先生はそう言って、だけど笑った。それから日褄先生は僕が先程までそうしていたのと同じように、あーちゃんの墓石を見上げた。彼女も手ぶらだった。
「直正が死んで、一年か」
 先生は上着のポケットから煙草の箱とライターを取り出す。黒いその箱から取り出された煙草も、同じように黒い。
「あたしゃ、ここに来ると後悔ばかりするね」
 ライターのかちっという音、吐き出される白い煙、どこか甘ったるい、ココナッツに似たにおいが漂う。
「あいつは、厄介なガキだったよ。つらいなら、『つらい』って言えばいい、それだけのことなんだ。あいつだって、つらいなら『つらい』って言ったんだろうさ。だけどあいつは、可哀想なことに、最後の最後まで自分がつらいってことに気付かなかったんだな」
 煙草の煙を揺らしながら、そう言う先生の表情には、苦痛と後悔が入り混じった色が見える。口に煙草を咥えたまま、墓前で手を合わせ、彼女はただ目を閉じていた。瞼にしつこいほど塗られた濃い黒い化粧に、雨の滴が垂れる。
 先生はしばらくして瞼を開き、煙草を一度口元から離すと、ヤニ臭いような甘ったるいような煙を吐き出して、それから僕を見て、優しく笑いかけた。それから先生は背を向け、歩き出してしまう。僕は黙ってそれを追った。
 何も言わなくてもわかっていた。ここに立っていたって、悲しみとも虚しさとも呼ぶことのできない、吐き気がするような、叫び出したくなるような、暴れ出したくなるような、そんな感情が繰り返し繰り返し、波のようにやってきては僕の心の中を掻き回していくだけだ。先生は僕に、帰ろう、と言ったのだ。唇の端で、瞳の奥で。
 先生の、まるで影法師が歩いているかのような黒い後ろ姿を見つめて、僕はかつてたった一度だけ見た、あーちゃんの黒いランドセルを思い出す。
 彼がこっちに引っ越してきてからの三年間、一度も使われることのなかった傷だらけのランドセル。物置きの中で埃を被っていたそれには、あーちゃんの苦しみがどれだけ詰まっていたのだろう。
 道の途中で振り返る。先程までと同じように、墓石はただそこにあった。墓前でかけるべき言葉も、抱くべき感情も、するべき行為も、何ひとつ僕は持ち合わせていない。
 あーちゃんはもう死んだ。
 わかりきっていたことだ。死んでから何かしてあげても無駄だ。生きているうちにしてあげないと、意味がない。だから、僕がこうしてここに立っている意味も、僕は見出すことができない。僕がここで、こうして呼吸をしていて、もうとっくに死んでしまったあーちゃんのお墓の前で、墓石を見つめている、その意味すら。
 もう一度、あーちゃんの墓に背中を向けて、僕は今度こそ歩き始めた。
「最近調子はどう?」
 墓地を出て、長い長い坂を下りながら、先生は僕にそう尋ねた。
「一ヶ月間、全くカウンセリング来なかったけど、何か変化があったりした?」
 黙っていると先生はさらにそう訊いてきたので、僕は仕方なく口を開く。
「別に、何も」
「ちゃんと飯食ってる? また少し痩せたんじゃない?」
「食べてますよ」
「飯食わないから、いつまでも身長伸びないんだよ」
 先生は僕の頭を、目覚まし時計を止める時のような動作で乱雑に叩く。
「ちょ……やめて下さいよ」
「あーっはっはっはっはー」
 嫌がって身をよじろうとするが、先生はそれでもなお、僕に攻撃してくる。
「ちゃんと食わないと。摂食障害になるとつらいよ」
「食べますよ、ちゃんと……」
「あと、ちゃんと寝た方がいい。夜九時に寝ろ。身長伸びねぇぞ」
「九時に寝られる訳ないでしょう、小学生じゃあるまいし……」
「勉強なんかしてるから、身長伸びねぇんだよ」
「そんな訳ないでしょう」
 あはは、と朗らかに彼女は笑う。そして最後に優しく、僕の頭を撫でた。
「負けるな、少年」
 負けるなと言われても、一体何に――そう問いかけようとして、僕は口をつぐむ。僕が何と戦っているのか、先生はわかっているのだ。
「最近、市野谷はどうしてる?」
 先生は何気ない声で、表情で、タイミングで、あっさりとその名前を口にした。
「さぁ……。最近会ってないし、電話もないし、わからないですね」
「ふうん。あ、そう」
 先生はそれ以上、追及してくることはなかった。ただ独り言のように、「やっぱり、まだ駄目か」と言っただけだった。
 郵便ポストのところまで歩いてきた時、先生は、「あたしはあっちだから」と僕の帰り道とは違う方向を指差した。
「駐車場で、葵が待ってるからさ」
「ああ、葵さん。一緒だったんですか」
「そ。少年は、バスで来たんだろ? 家まで車で送ろうか?」
 運転するのは葵だけど、と彼女は付け足して言ったが、僕は首を横に振った。
「ひとりで帰りたいんです」
「あっそ。気を付けて帰れよ」
 先生はそう言って、出会った時と同じように、ひらひらと手を振って別れた。
 路地を右に曲がった時、僕は片手をパーカーのポケットに入れて初めて、とっくに音楽が止まったままになっているイヤホンを、両耳に突っ込んだままだということに気が付いた。
 僕が小学校を卒業した、一年前の今日。
 あーちゃんは人生を中退した。
 自殺したのだ。十四歳だった。
 遺書の最後にはこう書かれていた。
「僕は透明人間なんです」
    あーちゃんは僕と同じ団地に住んでいて、僕よ���二つお兄さんだった。
 僕が小学一年生の夏に、あーちゃんは家族四人で引っ越してきた。冬は雪に閉ざされる、北の方からやって来たのだという話を聞いたことがあった。
 僕はあーちゃんの、団地で唯一の友達だった。学年の違う彼と、どんなきっかけで親しくなったのか正確には覚えていない。
 あーちゃんは物静かな人だった。小学生の時から、年齢と不釣り合いなほど彼は大人びていた。
 彼は人付き合いがあまり得意ではなく、友達がいなかった。口数は少なく、話す時もぼそぼそとした、抑揚のない平坦な喋り方で、どこか他人と距離を取りたがっていた。
 部屋にこもりがちだった彼の肌は雪みたいに白くて、青い静脈が皮膚にうっすら透けて見えた。髪が少し長くて、色も薄かった。彼の父方の祖母が外国人だったと知ったのは、ずっと後のことだ。銀縁の眼鏡をかけていて、何か困ったことがあるとそれをかけ直す癖があった。
 あーちゃんは器用だった。今まで何度も彼の部屋へ遊びに行ったことがあるけれど、そこには彼が組み立てたプラモデルがいくつも置かれていた。
 僕が加減を知らないままにそれを乱暴に扱い、壊してしまったこともあった。とんでもないことをしてしまったと、僕はひどく後悔してうつむいていた。ごめんなさい、と謝った。年上の友人の大切な物を壊してしまって、どうしたらよいのかわからなかった。鼻の奥がつんとした。泣きたいのは壊されたあーちゃんの方だっただろうに、僕は泣き出しそうだった。
 あーちゃんは、何も言わなかった。彼は立ち尽くす僕の前でしゃがみ込んだかと思うと、足下に散らばったいびつに欠けたパーツを拾い、引き出しの中からピンセットやら接着剤やらを取り出して、僕が壊した部分をあっという間に直してしまった。
 それらの作業がすっかり終わってから彼は僕を呼んで、「ほら見てごらん」と言った。
 恐る恐る近付くと、彼は直ったばかりの戦車のキャタピラ部分を指差して、
「ほら、もう大丈夫だよ。ちゃんと元通りになった。心配しなくてもいい。でもあと1時間は触っては駄目だ。まだ接着剤が乾かないからね」
 と静かに言った。あーちゃんは僕を叱ったりしなかった。
 僕は最後まで、あーちゃんが大声を出すところを一度も見なかった。彼が泣いている姿も、声を出して笑っているのも。
 一度だけ、あーちゃんの満面の笑みを見たことがある。
 夏のある日、僕とあーちゃんは団地の屋上に忍び込んだ。
 僕らは子供向けの雑誌に載っていた、よく飛ぶ紙飛行機の作り方を見て、それぞれ違うモデルの紙飛行機を作り、どちらがより遠くへ飛ぶのかを競走していた。
 屋上から飛ばしてみよう、と提案したのは僕だった。普段から悪戯などしない大人しいあーちゃんが、その提案に首を縦に振ったのは今思い返せば珍しいことだった。そんなことはそれ以前も以降も二度となかった。
 よく晴れた日だった。屋上から僕が飛ばした紙飛行機は、青い空を横切って、団地の駐車場の上を飛び、道路を挟んだ向かいの棟の四階、空き部屋のベランダへ不時着した。それは今まで飛ばしたどんな紙飛行機にも負けない、驚くべき距離だった。僕はすっかり嬉しくなって、得意げに叫んだ。
「僕が一番だ!」
 興奮した僕を見て、あーちゃんは肩をすくめるような動作をした。そして言った。
「まだわからないよ」
 あーちゃんの細い指が、紙飛行機を宙に放つ。丁寧に折られた白い紙飛行機は、ちょうどその時吹いてきた風に背中を押されるように屋上のフェンスを飛び越え、僕の紙飛行機と同じように駐車場の上を通り、向かいの棟の屋根を越え、それでもまだまだ飛び続け、青い空の中、最後は粒のようになって、ついには見えなくなってしまった。
 僕は自分の紙飛行機が負けた悔しさと、魔法のような素晴らしい出来事を目にした嬉しさとが半分ずつ混じった目であーちゃんを見た。その時、僕は見たのだ。
 あーちゃんは声を立てることはなかったが、満足そうな笑顔だった。
「僕は透明人間なんです」
 それがあーちゃんの残した最後の言葉だ。
 あーちゃんは、僕のことを怒ればよかったのだ。地団太を踏んで泣いてもよかったのだ。大声で笑ってもよかったのだ。彼との思い出を振り返ると、いつもそんなことばかり思う。彼はもう永遠に泣いたり笑ったりすることはない。彼は死んだのだから。
 ねぇ、あーちゃん。今のきみに、僕はどんな風に見えているんだろう。
 僕の横で静かに笑っていたきみは、決して透明なんかじゃなかったのに。
 またいつものように春が来て、僕は中学二年生になった。
 張り出されていたクラス替えの表を見て、そこに馴染みのある名前を二つ見つけた。今年は、二人とも僕と同じクラスのようだ。
 教室へ向かってみたけれど、始業の時間になっても、その二つの名前が用意された席には、誰も座ることはなかった。
「やっぱり、まだ駄目か」
 誰かと同じ言葉を口にしてみる。
 本当は少しだけ、期待していた。何かが良くなったんじゃないかと。
 だけど教室の中は新しいクラスメイトたちの喧騒でいっぱいで、新年度一発目、始業式の今日、二つの席が空白になっていることに誰も触れやしない。何も変わってなんかない。
 何も変わらないまま、僕は中学二年生になった。
 あーちゃんが死んだ時の学年と同じ、中学二年生になった。
 あの日、あーちゃんの背中を押したのであろう風を、僕はずっと探してる。
 青い空の果てに、小さく消えて行ってしまったあーちゃんを、僕と「ひーちゃん」に返してほしくて。
    鉛筆を紙の上に走らせる音が、止むことなく続いていた。
「何を描いてるの?」
「絵」
「なんの絵?」
「なんでもいいでしょ」
「今年は、同じクラスみたいだね」
「そう」
「その、よろしく」
 表情を覆い隠すほど長い前髪の下、三白眼が一瞬僕を見た。
「よろしくって、何を?」
「クラスメイトとして、いろいろ……」
「意味ない。クラスなんて、関係ない」
 抑揚のない声でそう言って、双眸は再び紙の上へと向けられてしまった。
「あ、そう……」
 昼休みの保健室。
 そこにいるのは二人の人間。
 ひとりはカーテンの開かれたベッドに腰掛け、胸にはスケッチブック、右手には鉛筆を握り締めている。
 もうひとりはベッドの脇のパイプ椅子に座り、特にすることもなく片膝を抱えている。こっちが僕だ。
 この部屋の主であるはずの鬼怒田先生は、何か用があると言って席を外している。一体なんの仕事があるのかは知らないが、この学校の養護教諭はいつも忙しそうだ。
 僕はすることもないので、ベッドに座っているそいつを少しばかり観察する。忙しそうに鉛筆を動かしている様子を見ると、今はこちらに注意を払ってはいなそうだから、好都合だ。
 伸びてきて邪魔になったから切った、と言わんばかりのショートカットの髪。正反対に長く伸ばされた前髪は、栄養状態の悪そうな青白い顔を半分近く隠している。中学二年生としては小柄で華奢な体躯。制服のスカートから伸びる足の細さが痛々しく見える。
 彼女の名前は、河野ミナモ。僕と同じクラス、出席番号は七番。
 一言で表現するならば、彼女は保健室登校児だ。
 鉛筆の音が、止んだ。
「なに?」
 ミナモの瞬きに合わせて、彼女の前髪が微かに動く。少しばかり長く見つめ続けてしまったみたいだ。「いや、なんでもない」と言って、僕は天井を仰ぐ。
 ミナモは少しの間、何も言わずに僕の方を見ていたようだが、また鉛筆を動かす作業を再開した。
 鉛筆を走らせる音だけが聞こえる保健室。廊下の向こうからは、楽しそうに駆ける生徒たちの声が聞こえてくるが、それもどこか遠くの世界の出来事のようだ。この空間は、世界から切り離されている。
「何をしに来たの」
「何をって?」
「用が済んだなら、帰れば」
 新年度が始まったばかりだからだろうか、ミナモは機嫌が悪いみたいだ。否、機嫌が悪いのではなく、具合が悪いのかもしれない。今日の彼女はいつもより顔色が悪いように見える。
「いない方がいいなら、出て行くよ」
「ここにいてほしい人なんて、いない」
 平坦な声。他人を拒絶する声。憎しみも悲しみも全て隠された無機質な声。
「出て行きたいなら、出て行けば?」
 そう言うミナモの目が、何かを試すように僕を一瞥した。僕はまだ、椅子から立ち上がらない。彼女は「あっそ」とつぶやくように言った。
「市野谷さんは、来たの?」
 ミナモの三白眼がまだ僕を見ている。
「市野谷さんも同じクラスなんでしょ」
「なんだ、河野も知ってたのか」
「質問に答えて」
「……来てないよ」
「そう」
 ミナモの前髪が揺れる。瞬きが一回。
「不登校児二人を同じクラスにするなんて、学校側の考えてることってわからない」
 彼女の言葉通り、僕のクラスには二人の不登校児がいる。
 ひとりはこの河野ミナモ。
 そしてもうひとりは、市野谷比比子。僕は彼女のことを昔から、「ひーちゃん」と呼んでいた。
 二人とも、中学に入学してきてから一度も教室へ登校してきていない。二人の机と椅子は、一度も本人に使われることなく、今日も僕の教室にある。
 といっても、保健室登校児であるミナモはまだましな方で、彼女は一年生の頃から保健室には登校してきている。その点ひーちゃんは、中学校の門をくぐったこともなければ、制服に袖を通したことさえない。
 そんな二人が今年から僕と同じクラスに所属になったことには、正直驚いた。二人とも僕と接点があるから、なおさらだ。
「――くんも、」
 ミナモが僕の名を呼んだような気がしたが、上手く聞き取れなかった。
「大変ね、不登校児二人の面倒を見させられて」
「そんな自嘲的にならなくても……」
「だって、本当のことでしょ」
 スケッチブックを抱えるミナモの左腕、ぶかぶかのセーラー服の袖口から、包帯の巻かれた手首が見える。僕は自分の左手首を見やる。腕時計をしているその下に、隠した傷のことを思う。
「市野谷さんはともかく、教室へ行く気なんかない私の面倒まで、見なくてもいいのに」
「面倒なんて、見てるつもりないけど」
「私を訪ねに保健室に来るの、――くんくらいだよ」
 僕の名前が耳障りに響く。ミナモが僕の顔を見た。僕は妙な表情をしていないだろうか。平然を装っているつもりなのだけれど。
「まだ、気にしているの?」
「気にしてるって、何を?」
「あの日のこと」
 あの日。
 あの春の日。雨の降る屋上で、僕とミナモは初めて出会った。
「死にたがり屋と死に損ない」
 日褄先生は僕たちのことをそう呼んだ。どっちがどっちのことを指すのかは、未だに訊けていないままだ。
「……気にしてないよ」
「そう」
 あっさりとした声だった。ミナモは壁の時計をちらりと見上げ、「昼休み終わるよ、帰れば」と言った。
 今度は、僕も立ち上がった。「それじゃあ」と口にしたけれど、ミナモは既に僕への興味を失ったのか、スケッチブックに目線を落とし、返事のひとつもしなかった。
 休みなく動き続ける鉛筆。
 立ち上がった時にちらりと見えたスケッチブックは、��だただ黒く塗り潰されているだけで、何も描かれてなどいなかった。
    ふと気付くと、僕は自分自身が誰なのかわからなくなっている。
 自分が何者なのか、わからない。
 目の前で展開されていく風景が虚構なのか、それとも現実なのか、そんなことさえわからなくなる。
 だがそれはほんの一瞬のことで、本当はわかっている。
 けれど感じるのだ。自分の身体が透けていくような感覚を。「自分」という存在だけが、ぽっかりと穴を空けて突っ立っているような。常に自分だけが透明な膜で覆われて、周囲から隔離されているかのような疎外感と、なんの手応えも得られない虚無感と。
 あーちゃんがいなくなってから、僕は頻繁にこの感覚に襲われるようになった。
 最初は、授業が終わった後の短い休み時間。次は登校中と下校中。その次は授業中にも、というように、僕が僕をわからなくなる感覚は、学校にいる間じゅうずっと続くようになった。しまいには、家にいても、外にいても、どこにいてもずっとそうだ。
 周りに人がいればいるほど、その感覚は強かった。たくさんの人の中、埋もれて、紛れて、見失う。自分がさっきまで立っていた場所は、今はもう他の人が踏み荒らしていて。僕の居場所はそれぐらい危ういところにあって。人混みの中ぼうっとしていると、僕なんて消えてしまいそうで。
 頭の奥がいつも痛かった。手足は冷え切ったみたいに血の気がなくて。酸素が薄い訳でもないのにちゃんと息ができなくて。周りの人の声がやたら大きく聞こえてきて。耳の中で何度もこだまする、誰かの声。ああ、どうして。こんなにも人が溢れているのに、ここにあーちゃんはいないんだろう。
 僕はどうして、ここにいるんだろう。
「よぉ、少年」
 旧校舎、屋上へ続く扉を開けると、そこには先客がいた。
 ペンキがところどころ剥げた緑色のフェンスにもたれるようにして、床に足を投げ出しているのは日褄先生だった。今日も真っ黒な恰好で、ココナッツのにおいがする不思議な煙草を咥えている。
「田島先生が、先生のことを昼休みに探してましたよ」
「へへっ。そりゃ参ったね」
 煙をゆらゆらと立ち昇らせて、先生は笑う。それからいつものように、「せんせーって呼ぶなよ」と付け加えた。彼女はさらに続けて言う。
「それで? 少年は何をし、こんなところに来たのかな?」
「ちょっと外の空気を吸いに」
「おお、奇遇だねぇ。あたしも外の空気を吸いに……」
「吸いにきたのはニコチンでしょう」
 僕がそう言うと、先生は、「あっはっはっはー」と高らかに笑った。よく笑う人だ。
「残念だが少年、もう午後の授業は始まっている時間だし、ここは立ち入り禁止だよ」
「お言葉ですが先生、学校の敷地内は禁煙ですよ」
「しょうがない、今からカウンセリングするってことにしておいてあげるから、あたしの喫煙を見逃しておくれ。その代わり、あたしもきみの授業放棄を許してあげよう」
 先生は右手でぽんぽんと、自分の隣、雨上がりでまだ湿気っているであろう床を叩いた。座れと言っているようだ。僕はそれに従わなかった。
 先客がいたことは予想外だったが、僕は本当に、ただ、外の空気を吸いたくなってここに来ただけだ。授業を途中で抜けてきたこともあって、長居をするつもりはない。
 ふと、視界の隅に「それ」が目に入った。
 フェンスの一角に穴が空いている。ビニールテープでぐるぐる巻きになっているそこは、テープさえなければ屋上の崖っぷちに立つことを許している。そう。一年前、あそこから、あーちゃんは――。
(ねぇ、どうしてあーちゃんは、そらをとんだの?)
 僕の脳裏を、いつかのひーちゃんの言葉がよぎる。
(あーちゃん、かえってくるよね? また、あえるよね?)
 ひーちゃんの言葉がいくつもいくつも、風に飛ばされていく桜の花びらと同じように、僕の目の前を通り過ぎていく。
「こんなところで、何をしていたんですか」
 そう質問したのは僕の方だった。「んー?」と先生は煙草の煙を吐きながら言う。
「言っただろ、外の空気を吸いに来たんだよ」
「あーちゃんが死んだ、この場所の空気を、ですか」
 先生の目が、僕を見た。その鋭さに、一瞬ひるみそうになる。彼女は強い。彼女の意思は、強い。
「同じ景色を見たいと思っただけだよ」
 先生はそう言って、また煙草をふかす。
「先生、」
「せんせーって呼ぶな」
「質問があるんですけど」
「なにかね」
「嘘って、何回つけばホントになるんですか」
「……んー?」
 淡い桜色の小さな断片が、いくつもいくつも風に流されていく。僕は黙って、それを見ている。手を伸ばすこともしないで。
「嘘は何回ついたって、嘘だろ」
「ですよね」
「嘘つきは怪人二十面相の始まりだ」
「言っている意味がわかりません」
「少年、」
「はい」
「市野谷に嘘つくの、しんどいのか?」
 先生の煙草の煙も、みるみるうちに風に流されていく。手を伸ばしたところで、掴むことなどできないまま。
「市野谷に、直正は死んでないって、嘘をつき続けるの、しんどいか?」
 ひーちゃんは知らない。あーちゃんが去年ここから死んだことを知らない。いや、知らない訳じゃない。認めていないのだ。あーちゃんの死を認めていない。彼がこの世界に僕らを置き去りにしたことを、許していない。
 ひーちゃんはずっと信じている。あーちゃんは生きていると。いつか帰ってくると。今は遠くにいるけれど、きっとまた会える日が来ると。
 だからひーちゃんは知らない。彼の墓石の冷たさも、彼が飛び降りたこの屋上の景色が、僕の目にどう映っているのかも。
 屋上。フェンス。穴。空。桜。あーちゃん。自殺。墓石。遺書。透明人間。無。なんにもない。ない。空っぽ。いない。いないいないいないいない。ここにもいない。どこにもいない。探したっていない。消えた。消えちゃった。消滅。消失。消去。消しゴム。弾んで。飛んで。落ちて。転がって。その先に拾ってくれるきみがいて。笑顔。笑って。笑ってくれて。だけどそれも消えて。全部消えて。消えて消えて消えて。ただ昨日を越えて今日が過ぎ明日が来る。それを繰り返して。きみがいない世界で。ただ繰り返して。ひーちゃん。ひーちゃんが笑わなくなって。泣いてばかりで。だけどもうきみがいない。だから僕が。僕がひーちゃんを慰めて。嘘を。嘘をついて。ついてはいけない嘘を。ついてはいけない嘘ばかりを。それでもひーちゃんはまた笑うようになって。笑顔がたくさん戻って。だけどどうしてあんなにも、ひーちゃんの笑顔は空っぽなんだろう。
「しんどくなんか、ないですよ」
 僕はそう答えた。
 先生は何も言わなかった。
 僕は明日にでも、怪人二十面相になっているかもしれなかった。
    いつの間にか梅雨が終わり、実力テストも期末テストもクリアして、夏休みまであと一週間を切っていた。
 ひと夏の解放までカウントダウンをしている今、僕のクラスの連中は完璧な気だるさに支配されていた。自主性や積極性などという言葉とは無縁の、慣性で流されているような脱力感。
 先週に教室の天井四ヶ所に取り付けられている扇風機が全て故障したこともあいまって、クラスメイトたちの授業に対する意欲はほぼゼロだ。授業がひとつ終わる度に、皆溶け出すように机に上半身を投げ出しており、次の授業が始まったところで、その姿勢から僅かに起き上がる程度の差しかない。
 そう��う僕も、怠惰な中学二年生のひとりに過ぎない。さっきの英語の授業でノートに書き記したことと言えば、英語教師の松田が何回額の汗を脱ぐったのかを表す「正」の字だけだ。
 休み時間に突入し、がやがやと騒がしい教室で、ひとりだけ仲間外れのように沈黙を守っていると、肘辺りから空気中に溶け出して、透明になっていくようなそんな気分になる。保健室には来るものの、自分の教室へは絶対に足を運ばないミナモの気持ちがわかるような気がする。
 一学期がもうすぐ終わるこの時期になっても、相変わらず僕のクラスには常に二つの空席があった。ミナモも、ひーちゃんも、一度だって教室に登校してきていない。
「――くん、」
 なんだか控えめに名前を呼ばれた気はしたが、クラスの喧騒に紛れて聞き取れなかった。
 ふと机から顔を上げると、ひとりの女子が僕の机の脇に立っていた。見たことがあるような顔。もしかして、クラスメイトのひとりだろうか。彼女は廊下を指差して、「先生、呼んでる」とだけ言って立ち去った。
 あまりにも唐突な出来事でその女子にお礼を言うのも忘れたが、廊下には担任の姿が見える。僕のクラス担任の担当科目は数学だが、次の授業は国語だ。なんの用かはわからないが、呼んでいるのなら行かなくてはならない。
「おー、悪いな、呼び出して」
 去年大学を卒業したばかりの、どう見ても体育会系な容姿をしている担任は、僕を見てそう言った。
「ほい、これ」
 突然差し出されたのはプリントの束だった。三十枚くらいありそうなプリントが穴を空けられ紐を通して結んである。
「悪いがこれを、市野谷さんに届けてくれないか」
 担任がひーちゃんの名を口にしたのを聞いたのは、久しぶりのような気がした。もう朝の出欠確認の時でさえ、彼女の名前は呼ばれない。ミナモの名前だってそうだ。このクラスでは、ひーちゃんも、ミナモも、いないことが自然なのだ。
「……先生が、届けなくていいんですか」
「そうしたいのは山々なんだが、なかなか時間が取れなくてな。夏休みに入ったら家庭訪問に行こうとは思ってるんだ。このプリントは、それまでにやっておいてほしい宿題。中学に入ってから二年の一学期までに習う数学の問題を簡単にまとめたものなんだ」
「わかりました、届けます」
 受け取ったプリントの束は、思っていたよりもずっとずっしりと重かった。
「すまんな。市野谷さんと小学生の頃一番仲が良かったのは、きみだと聞いたものだから」
「いえ……」
 一年生の時から、ひーちゃんにプリントを届けてほしいと教師に頼まれることはよくあった。去年は彼女と僕は違うクラスだったけれど、同じ小学校出身の誰かに僕らが幼馴染みであると聞いたのだろう。
 僕は学校に来なくなったひーちゃんのことを毛嫌いしている訳ではない。だから、何か届け物を頼まれてもそんなに嫌な気持ちにはならない。でも、と僕は思った。
 でも僕は、ひーちゃんと一番仲が良かった訳じゃないんだ。
「じゃあ、よろしく頼むな」
 次の授業の始業のチャイムが鳴り響く。
 教室に戻り、出したままだった英語の教科書と「正」の字だけ記したノートと一緒に、ひーちゃんへのプリントの束を鞄に仕舞いながら、なんだか僕は泣きたくなった。
  三角形が壊れるのは簡単だった。
 三角形というのは、三辺と三つの角でできていて、当然のことだけれど一辺とひとつの角が消失したら、それはもう三角形ではない。
 まだ小学校に上がったばかりの頃、僕はどうして「さんかっけい」や「しかっけい」があるのに「にかっけい」がないのか、と考えていたけれど、どうやら僕の脳味噌は、その頃から数学的思考というものが不得手だったようだ。
「にかっけい」なんてあるはずがない。
 僕と、あーちゃんと、ひーちゃん。
 僕ら三人は、三角形だった。バランスの取りやすい形。
 始まりは悲劇だった。
 あの悪夢のような交通事故。ひーちゃんの弟の死。
 真っ白なワン���ースが汚れることにも気付かないまま、真っ赤になった弟の身体を抱いて泣き叫ぶひーちゃんに手を伸ばしたのは、僕と一緒に下校する途中のあーちゃんだった。
 お互いの家が近かったこともあって、それから僕らは一緒にいるようになった。
 溺愛していた最愛の弟を、目の前で信号無視したダンプカーに撥ねられて亡くしたひーちゃんは、三人で一緒にいてもときどき何かを思い出したかのように暴れては泣いていたけれど、あーちゃんはいつもそれをなだめ、泣き止むまでずっと待っていた。
 口下手な彼は、ひーちゃんに上手く言葉をかけることがいつもできずにいたけれど、僕が彼の言葉を補って彼女に伝えてあげていた。
 優しくて思いやりのあるひーちゃんは、感情を表すことが苦手なあーちゃんのことをよく気遣ってくれていた。
 僕らは嘘みたいにバランスの取れた三角形だった。
 あーちゃんが、この世界からいなくなるまでは。
   「夏は嫌い」
 昔、あーちゃんはそんなことを口にしていたような気がする。
「どうして?」
 僕はそう訊いた。
 夏休み、花火、虫捕り、お祭り、向日葵、朝顔、風鈴、西瓜、プール、海。
 水の中の金魚の世界と、バニラアイスの木べらの湿り気。
 その頃の僕は今よりもずっと幼くて、四季の中で夏が一番好きだった。
 あーちゃんは部屋の窓を網戸にしていて、小さな扇風機を回していた。
 彼は夏休みも相変わらず外に出ないで、部屋の中で静かに過ごしていた。彼の傍らにはいつも、星座の本と分厚い昆虫図鑑が置いてあった。
「夏、暑いから嫌いなの?」
 僕が尋ねるとあーちゃんは抱えていた分厚い本からちょっとだけ顔を上げて、小さく首を横に振った。それから困ったように笑って、
「夏は、皆死んでいるから」
 とだけ、つぶやくように言った。あーちゃんは、時々魔法の呪文のような、不思議なことを言って僕を困惑させることがあった。この時もそうだった。
「どういう意味?」
 僕は理解できずに、ただ訊き返した。
 あーちゃんはさっきよりも大きく首を横に振ると、何を思ったのか、唐突に、
「ああ、でも、海に行ってみたいな」
 なんて言った。
「海?」
「そう、海」
「どうして、海?」
「海は、色褪せてないかもしれない。死んでないかもしれない」
 その言葉の意味がわからず、僕が首を傾げていると、あーちゃんはぱたんと本を閉じて机に置いた。
「台所へ行こうか。確か、母さんが西瓜を切ってくれていたから。一緒に食べよう」
「うん!」
 僕は西瓜に釣られて、わからなかった言葉のことも、すっかり忘れてしまった。
 でも今の僕にはわかる。
 夏の日射しは、世界を色褪せさせて僕の目に映す。
 あーちゃんはそのことを、「死んでいる」と言ったのだ。今はもう確かめられないけれど。
 結局、僕とあーちゃんが海へ行くことはなかった。彼から海へ出掛けた話を聞いたこともないから、恐らく、海へ行くことなく死んだのだろう。
 あーちゃんが見ることのなかった海。
 海は日射しを浴びても青々としたまま、「生きて」いるんだろうか。
 彼が死んでから、僕も海へ足を運んでいない。たぶん、死んでしまいたくなるだろうから。
 あーちゃん。
 彼のことを「あーちゃん」と名付けたのは僕だった。
 そういえば、どうして僕は「あーちゃん」と呼び始めたんだっけか。
 彼の名前は、鈴木直正。
 どこにも「あーちゃん」になる要素はないのに。
    うなじを焼くようなじりじりとした太陽光を浴びながら、ペダルを漕いだ。
 鼻の頭からぷつぷつと汗が噴き出すのを感じ、手の甲で汗を拭おうとしたら手は既に汗で湿っていた。雑音のように蝉の声が響いている。道路の脇には背の高い向日葵は、大きな花を咲かせているのに風がないので微動だにしない。
 赤信号に止められて、僕は自転車のブレーキをかける。
 夏がくる度、思い出す。
 僕とあーちゃんが初めてひーちゃんに出会い、そして彼女の最愛の弟「ろーくん」が死んだ、あの事故のことを。
 あの日も、世界が真っ白に焼き切れそうな、暑い日だった。
 ひーちゃんは白い木綿のワンピースを着ていて、それがとても涼しげに見えた。ろーくんの血で汚れてしまったあのワンピースを、彼女はもうとっくに捨ててしまったのだろうけれど。
 そういえば、ひーちゃんはあの事故の後、しばらくの間、弟の形見の黒いランドセルを使っていたっけ。黒い服ばかり着るようになって。周りの子はそんな彼女を気味悪がったんだ。
 でもあーちゃんは、そんなひーちゃんを気味悪がったりしなかった。
 信号が赤から青に変わる。再び漕ぎ出そうとペダルに足を乗せた時、僕の両目は横断歩道の向こうから歩いて来るその人を捉えて凍りついてしまった。
 胸の奥の方が疼く。急に、聞こえてくる蝉の声が大きくなったような気がした。喉が渇いた。頬を撫でるように滴る汗が気持ち悪い。
 信号は青になったというのに、僕は動き出すことができない。向こうから歩いて来る彼は、横断歩道を半分まで渡ったところで僕に気付いたようだった。片眉を持ち上げ、ほんの少し唇の端を歪める。それが笑みだとわかったのは、それとよく似た笑顔をずいぶん昔から知っているからだ。
「うー兄じゃないですか」
 うー兄。彼は僕をそう呼んだ。
 声変わりの途中みたいな声なのに、妙に大人びた口調。ぼそぼそとした喋り方。
 色素の薄い頭髪。切れ長の一重瞼。ひょろりと伸びた背。かけているのは銀縁眼鏡。
 何もかもが似ているけれど、日に焼けた真っ黒な肌と筋肉のついた足や腕だけは、記憶の中のあーちゃんとは違う。
 道路を渡り終えてすぐ側まで来た彼は、親しげに僕に言う。
「久しぶりですね」
「……久しぶり」
 僕がやっとの思いでそう声を絞り出すと、彼は「ははっ」と笑った。きっとあーちゃんも、声を上げて笑うならそういう風に笑ったんだろうなぁ、と思う。
「どうしたんですか。驚きすぎですよ」
 困ったような笑顔で、眼鏡をかけ直す。その手つきすらも、そっくり同じ。
「嫌だなぁ。うー兄は僕のことを見る度、まるで幽霊でも見たような顔するんだから」
「ごめんごめん」
「ははは、まぁいいですよ」
 僕が謝ると、「あっくん」はまた笑った。
 彼、「あっくん」こと鈴木篤人くんは、僕の一個下、中学一年生。私立の学校に通っているので僕とは学校が違う。野球部のエースで、勉強の成績もクラストップ。僕の団地でその中学に進学できた子供は彼だけだから、団地の中で知らない人はいない優等生だ。
 年下とは思えないほど大人びた少年で、あーちゃんにそっくりな、あーちゃんの弟。
「中学は、どう? もう慣れた?」
「慣れましたね。今は部活が忙しくて」
「運動部は大変そうだもんね」
「うー兄は、帰宅部でしたっけ」
「そう。なんにもしてないよ」
「今から、どこへ行くんですか?」
「ああ、えっと、ひーちゃんに届け物」
「ひー姉のところですか」
 あっくんはほんの一瞬、愛想笑いみたいな顔をした。
「ひー姉、まだ学校に行けてないんですか?」
「うん」
「行けるようになるといいですね」
「そうだね」
「うー兄は、元気にしてましたか?」
「僕? 元気だけど……」
「そうですか。いえ、なんだかうー兄、兄貴に似てきたなぁって思ったものですから」
「僕が?」
 僕があーちゃんに似てきている?
「顔のつくりとかは、もちろん違いますけど、なんていうか、表情とか雰囲気が、兄貴に似てるなぁって」
「そうかな……」
 僕にそんな自覚はないのだけれど。
「うー兄も死んじゃいそうで、心配です」
 あっくんは柔らかい笑みを浮かべたままそう言った。
「……そう」
 僕はそう返すので精いっぱいだった。
「それじゃ、ひー姉によろしくお伝え下さい」
「じゃあ、また……」
 あーちゃんと同じ声で話し、あーちゃんと同じように笑う彼は、夏の日射しの中を歩いて行く。
(兄貴は、弱いから駄目なんだ)
 いつか彼が、あーちゃんに向けて言った言葉。
 あーちゃんは自分の弟にそう言われた時でさえ、怒ったりしなかった。ただ「そうだね」とだけ返して、少しだけ困ったような顔をしてみせた。
 あっくんは、強い。
 姿や雰囲気は似ているけれど、性格というか、芯の強さは全く違う。
 あーちゃんの死を自分なりに受け止めて、乗り越えて。部活も勉強も努力して。あっくんを見ているといつも思う。兄弟でもこんなに違うものなのだろうか、と。ひとりっ子の僕にはわからないのだけれど。
 僕は、どうだろうか。
 あーちゃんの死を受け入れて、乗り越えていけているだろうか。
「……死相でも出てるのかな」
 僕があーちゃんに似てきている、なんて。
 笑えない冗談だった。
 ふと見れば、信号はとっくに赤になっていた。青になるまで待つ間、僕の心から言い表せない不安が拭えなかった。
    遺書を思い出した。
 あーちゃんの書いた遺書。
「僕の分まで生きて。僕は透明人間なんです」
 日褄先生はそれを、「ばっかじゃねーの」って笑った。
「透明人間は見えねぇから、透明人間なんだっつーの」
 そんな風に言って、たぶん、泣いてた。
「僕の分まで生きて」
 僕は自分の鼓動を聞く度に、その言葉を繰り返し、頭の奥で聞いていたような気がする。
 その度に自分に問う。
 どうして生きているのだろうか、と。
  部屋に一歩踏み入れると、足下でガラスの破片が砕ける音がした。この部屋でスリッパを脱ぐことは自傷行為に等しい。
「あー、うーくんだー」
 閉められたカーテン。閉ざされたままの雨戸。
 散乱した物。叩き壊された物。落下したままの物。破り捨てられた物。物の残骸。
 その中心に、彼女はいる。
「久しぶりだね、ひーちゃん」
「そうだねぇ、久しぶりだねぇ」
 壁から落下して割れた時計は止まったまま。かろうじて壁にかかっているカレンダーはあの日のまま。
「あれれー、うーくん、背伸びた?」
「かもね」
「昔はこーんな小さかったのにねー」
「ひーちゃんに初めて会った時だって、そんなに小さくなかったと思うよ」
「あははははー」
 空っぽの笑い声。聞いているこっちが空しくなる。
「はい、これ」
「なに? これ」
「滝澤先生に頼まれたプリント」
「たきざわって?」
「今度のクラスの担任だよ」
「ふーん」
「あ、そうだ、今度は僕の同じクラスに……」
 彼女の手から投げ捨てられたプリントの束が、ろくに掃除されていない床に落ちて埃を巻き上げた。
「そういえば、あいつは?」
「あいつって?」
「黒尽くめの」
「黒尽くめって……日褄先生のこと?」
「まだいる?」
「日褄先生なら、今年度も学校にいるよ」
「なら、学校には行かなーい」
「どうして?」
「だってあいつ、怖いことばっかり言うんだもん」
「怖いこと?」
「あーちゃんはもう、死んだんだって」
「…………」
「ねぇ、うーくん」
「……なに?」
「うーくんはどうして、学校に行けるの? まだあーちゃんが帰って来ないのに」
 どうして僕は、生きているんだろう。
「『僕』はね、怖いんだよ、うーくん。あーちゃんがいない毎日が。『僕』の毎日の中に、あーちゃんがいないんだよ。『僕』は怖い。毎日が怖い。あーちゃんのこと、忘れそうで怖い。あーちゃんが『僕』のこと、忘れそうで怖い……」
 どうしてひーちゃんは、生きているんだろう。
「あーちゃんは今、誰の毎日の中にいるの?」
 ひーちゃんの言葉はいつだって真っ直ぐだ。僕の心を突き刺すぐらい鋭利だ。僕の心を掻き回すぐらい乱暴だ。僕の心をこてんぱんに叩きのめすぐらい凶暴だ。
「ねぇ、うーくん」
 いつだって思い知らされる。僕が駄目だってこと。
「うーくんは、どこにも行かないよね?」
 いつだって思い知らせてくれる。僕じゃ駄目だってこと。
「どこにも、行かないよ」
 僕はどこにも行けない。きみもどこにも行けない。この部屋のように時が止まったまま。あーちゃんが死んでから、何もかもが停止したまま。
「ふーん」
 どこか興味なさそうな、ひーちゃんの声。
「よかった」
 その後、他愛のない話を少しだけして、僕はひーちゃんの家を後にした。
 死にたくなるほどの夏の熱気に包まれて、一気に現実に引き戻された気分になる。
 こんな現実は嫌なんだ。あーちゃんが欠けて、ひーちゃんが壊れて、僕は嘘つきになって、こんな世界は、大嫌いだ。
 僕は自分に問う。
 どうして僕は、生きているんだろう。
 もうあーちゃんは死んだのに。
   「ひーちゃん」こと市野谷比比子は、小学生の頃からいつも奇異の目で見られていた。
「市野谷さんは、まるで死体みたいね」
 そんなことを彼女に言ったのは、僕とひーちゃんが小学四年生の時の担任だった。
 校舎の裏庭にはクラスごとの畑があって、そこで育てている作物の世話を、毎日クラスの誰かが当番制でしなくてはいけなかった。それは夏休み期間中も同じだった。
 僕とひーちゃんが当番だった夏休みのある日、黙々と草を抜いていると、担任が様子を見にやって来た。
「頑張ってるわね」とかなんとか、最初はそんな風に声をかけてきた気がする。僕はそれに、「はい」とかなんとか、適当に返事をしていた。ひーちゃんは何も言わず、手元の草を引っこ抜くことに没頭していた。
 担任は何度かひーちゃんにも声をかけたが、彼女は一度もそれに答えなかった。
 ひーちゃんはいつもそうだった。彼女が学校で口を利くのは、同じクラスの僕と、二つ上の学年のあーちゃんにだけ。他は、クラスメイトだろうと教師だろうと、一言も言葉を発さなかった。
 この当番を決める時も、そのことで揉めた。
 くじ引きでひーちゃんと同じ当番に割り当てられた意地の悪い女子が、「せんせー、市野谷さんは喋らないから、当番の仕事が一緒にやりにくいでーす」と皆の前で言ったのだ。
 それと同時に、僕と一緒の当番に割り当てられた出っ歯の野郎が、「市野谷さんと仲の良い――くんが市野谷さんと一緒にやればいいと思いまーす」と、僕の名前を指名した。
 担任は困ったような笑顔で、
「でも、その二人だけを仲の良い者同士にしたら、不公平じゃないかな? 皆だって、仲の良い人同士で一緒の当番になりたいでしょう? 先生は普段あまり仲が良くない人とも仲良くなってもらうために、当番の割り振りをくじ引きにしたのよ。市野谷さんが皆ともっと仲良くなったら、皆も嬉しいでしょう?」
 と言った。意地悪ガールは間髪入れずに、
「喋らない人とどうやって仲良くなればいいんですかー?」
 と返した。
 ためらいのない発言だった。それはただただ純粋で、悪意を含んだ発言だった。
「市野谷さんは私たちが仲良くしようとしてもいっつも無視してきまーす。それって、市野谷さんが私たちと仲良くしたくないからだと思いまーす。それなのに、無理やり仲良くさせるのは良くないと思いまーす」
「うーん、そんなことはないわよね、市野谷さん」
 ひーちゃんは何も言わなかった。まるで教室内での出来事が何も耳に入っていないかのような表情で、窓の外を眺めていた。
「市野谷さん? 聞いているの?」
「なんか言えよ市野谷」
 男子がひーちゃんの机を蹴る。その振動でひーちゃんの筆箱が机から滑り落ち、がちゃんと音を立てて中身をぶちまけたが、それでもひーちゃんには変化は訪れない。
 クラスじゅうにざわざわとした小さな悪意が満ちる。
「あの子ちょっとおかしいんじゃない?」
 そんな囁きが満ちる。担任の困惑した顔。意地悪いクラスメイトたちの汚らわしい視線。
 僕は知っている。まるでここにいないかのような顔をして、窓の外を見ているひーちゃんの、その視線の先を。窓から見える新校舎には、彼女の弟、ろーくんがいた一年生の教室と、六年生のあーちゃんがいる教室がある。
 ひーちゃんはいつも、ぼんやりとそっちばかりを見ている。教室の中を見渡すことはほとんどない。彼女がここにいないのではない。彼女にとって、こっちの世界が意味を成していないのだ。
「市野谷さんは、死体みたいね」
 夏休み、校舎裏の畑。
 その担任の一言に、僕は思わずぎょっとした。担任はしゃがみ込み、ひーちゃんに目線を合わせようとしながら、言う。
「市野谷さんは、どうしてなんにも言わないの? なんにも思わないの? あんな風に言われて、反論したいなって思わないの?」
 ひーちゃんは黙って草を抜き続けている。
「市野谷さんは、皆と仲良くなりたいって思わない? 皆は、市野谷さんと仲良くなりたいって思ってるわよ」
 ひーちゃんは黙っている。
「市野谷さんは、ずっとこのままでいるつもりなの? このままでいいの? お友達がいないままでいいの?」
 ひーちゃんは。
「市野谷さん?」
「うるさい」
 どこかで蝉が鳴き止んだ。
 彼女が僕とあーちゃん以外の人間に言葉を発したところを、僕は初めて見た。彼女は担任を睨み付けるように見つめていた。真っ黒な瞳が、鋭い眼光を放っている。
「黙れ。うるさい。耳障り」
 ひーちゃんが、僕の知らない表情をした。それはクラスメイトたちがひーちゃんに向けたような、玩具のような悪意ではなかった。それは本当の、なんの混じり気もない、殺意に満ちた顔だった。
「あんたなんか、死んじゃえ」
 振り上げたひーちゃんの右手には、草抜きのために職員室から貸し出された鎌があって――。
「ひーちゃん!」
 間一髪だった。担任は真っ青な顔で、息も絶え絶えで、しかし、その鎌の一撃をかろうじてかわした。担任は震えながら、何かを叫びながら校舎の方へと逃げるように走り去って行く。
「ひーちゃん、大丈夫?」
 僕は地面に突き刺した鎌を固く握りしめたまま、動かなくなっている彼女に声をかけた。
「友達なら、いるもん」
 うつむいたままの彼女が、そうぽつりと言う。
「あーちゃんと、うーくんがいるもん」
 僕はただ、「そうだね」と言って、そっと彼女の頭を撫でた。
    小学生の頃からどこか危うかったひーちゃんは、あーちゃんの自殺によって完全に壊れてしまった。
 彼女にとってあーちゃんがどれだけ大切な存在だったかは、説明するのが難しい。あーちゃんは彼女にとって絶対唯一の存在だった。失ってはならない存在だった。彼女にとっては、あーちゃん以外のものは全てどうでもいいと思えるくらい、それくらい、あーちゃんは特別だった。
 ひーちゃんが溺愛していた最愛の弟、ろーくんを失ったあの日。
 あの日から、ひーちゃんの心にぽっかりと空いた穴を、あーちゃんの存在が埋めてきたからだ。
 あーちゃんはひーちゃんの支えだった。
 あーちゃんはひーちゃんの全部だった。
 あーちゃんはひーちゃんの世界だった。
 そして、彼女はあーちゃんを失った。
 彼女は入学することになっていた中学校にいつまで経っても来なかった。来るはずがなかった。来れるはずがなかった。そこはあーちゃんが通っていたのと同じ学校であり、あーちゃんが死んだ場所でもある。
 ひーちゃんは、まるで死んだみたいだった。
 一日中部屋に閉じこもって、食事を摂ることも眠ることも彼女は拒否した。
 誰とも口を利かなかった。実の親でさえも彼女は無視した。教室で誰とも言葉を交わさなかった時のように。まるで彼女の前からありとあらゆるものが消滅してしまったかのように。泣くことも笑うこともしなかった。ただ虚空を見つめているだけだった。
 そんな生活が一週間もしないうちに彼女は強制的に入院させられた。
 僕が中学に入学して、桜が全部散ってしまった頃、僕は彼女の病室を初めて訪れた。
「ひーちゃん」
 彼女は身体に管を付けられ、生かされていた。
 屍のように寝台に横たわる、変わり果てた彼女の姿。
(市野谷さんは死体みたいね)
 そんなことを言った、担任の言葉が脳裏をよぎった。
「ひーちゃんっ」
 僕はひーちゃんの手を取って、そう呼びかけた。彼女は何も言わなかった。
「そっち」へ行ってほしくなかった。置いていかれたくなかった。僕だって、あーちゃんの突然の死を受け止めきれていなかった。その上、ひーちゃんまで失うことになったら。そう考えるだけで嫌だった。
 僕はここにいたかった。
「ひーちゃん、返事してよ。いなくならないでよ。いなくなるのは、あーちゃんだけで十分なんだよっ!」
 僕が大声でそう言うと、初めてひーちゃんの瞳が、生き返った。
「……え?」
 僕を見つめる彼女の瞳は、さっきまでのがらんどうではなかった。あの時のひーちゃんの瞳を、僕は一生忘れることができないだろう。
「あーちゃん、いなくなったの?」
 ひーちゃんの声は僕の耳にこびりついた。
 何言ってるんだよ、あーちゃんは死んだだろ。そう言おうとした。言おうとしたけれど、何かが僕を引き留めた。何かが僕の口を塞いだ。頭がおかしくなりそうだった。狂っている。僕はそう思った。壊れている。破綻している。もう何もかもが終わってしまっている。
 それを言ってしまったら、ひーちゃんは死んでしまう。僕がひーちゃんを殺してしまう。ひーちゃんもあーちゃんみたいに、空を飛んでしまうのだ。
 僕はそう直感していた。だから声が出なかった。
「それで、あーちゃん、いつかえってくるの?」
 そして、僕は嘘をついた。ついてはいけない嘘だった。
 あーちゃんは生きている。今は遠くにいるけれど、そのうち必ず帰ってくる、と。
 その一週間後、ひーちゃんは無事に病院を退院した。人が変わったように元気になってい��。
 僕の嘘を信じて、ひーちゃんは生きる道を選んだ。
 それが、ひーちゃんの身体をいじくり回して管を繋いで病室で寝かせておくことよりもずっと残酷なことだということを僕は後で知った。彼女のこの上ない不幸と苦しみの中に永遠に留めておくことになってしまった。彼女にとってはもうとっくに終わってしまったこの世界で、彼女は二度と始まることのない始まりをずっと待っている。
 もう二度と帰ってこない人を、ひーちゃんは待ち続けなければいけなくなった。
 全ては僕のついた幼稚な嘘のせいで。
「学校は行かないよ」
「どうして?」
「だって、あーちゃん、いないんでしょ?」
 学校にはいつから来るの? と問いかけた僕にひーちゃんは笑顔でそう答えた。まるで、さも当たり前かのように言った。
「『僕』は、あーちゃんが帰って来るのを待つよ」
「あれ、ひーちゃん、自分のこと『僕』って呼んでたっけ?」
「ふふふ」
 ひーちゃんは笑った。幸せそうに笑った。恥ずかしそうに笑った。まるで恋をしているみたいだった。本当に何も知らないみたいに。本当に、僕の嘘を信じているみたいに。
「あーちゃんの真似、してるの。こうしてると自分のことを言う度、あーちゃんのことを思い出せるから」
 僕は笑わなかった。
 僕は、笑えなかった。
 笑おうとしたら、顔が歪んだ。
 醜い嘘に、歪んだ。
 それからひーちゃんは、部屋に閉じこもって、あーちゃんの帰りをずっと待っているのだ。
 今日も明日も明後日も、もう二度と帰ってこない人を。
※(2/4) へ続く→ https://kurihara-yumeko.tumblr.com/post/647000556094849024/
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kurihara-yumeko · 4 years ago
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【小説】フラミンゴガール
 ミンゴスの右脚は太腿の途中から金属製で、そのメタリックなピンク色の輝きは、無機質な冷たさを宿しながらも生肉のようにグロテスクだった。
 彼女は生まれつき片脚がないんだとか、子供の頃に交通事故で失くしたのだとか、ハンバーガーショップでバイト中にチキンナゲット製造機に巻き込まれたのだとか、酒を飲んでは暴力を振るう父親が、ある晩ついに肉切り包丁を振り上げたからなのだとか、その右脚についてはさまざまな噂や憶測があったけれど、真実を知る者は誰もいなかった。
 ただひとつ確かなことは、この街に巣くう誰もが、彼女に初めて出会った時、彼女はすでに彼女であった――ミンゴスは最初から金属の右脚をまとって、我々の前に現れたということだ。
 生身である左脚が描く曲線とはまるで違う、ただの棒きれのようなその右脚は、しかし決して貧相には見えず、夜明け前の路地裏を闊歩する足取りは力強かった。
 脚の代わりでありながら、脚に擬態することをまったく放棄しているその義足は、白昼の大通りでは悪目立ちしてばかりいた。すれ違う人々は避けるように大きく迂回をするか、性質が悪い連中はわざとぶつかって来るかであったが、ミンゴスがそれにひるんだところを、少なくとも俺は見たことがない。
 彼女は往来でどんな目に遭おうが、いつだって澄ました表情をしていた。道の反対側から小石を投げてきた小学生には、にっこりと笑って涼しげに手を振っていた。
 彼女は強かった。義足同様に、心までも半分は金属でできているんじゃないかと、誰かが笑った。
 夏でも冬でも甚平を着ている坊主崩れのフジマサは、ミンゴスはその芯の強さゆえに、神様がバランスをとる目的で脚を一本取り上げたのだ、というのが自論だった。
「ただ、神様というのはどうも手ぬるいことをなさる。どうせしてしまうのならば、両脚とももいでしまえばよかったものを」
 そう言いながら赤提灯の下、チェ・レッドを吸うフジマサの隣で、ミンゴスはケラケラと笑い声を零しながら、「なにそれ、チョーウケる」と言って、片膝を立てたまま、すっかりぬるくなったビールをあおった。
 彼女は座る時、生身である左脚の片膝を立てるのが癖だった。まるで抱かれているように、彼女の両腕の中に収まっている左脚を見ていると、奇抜な義足の右脚よりも、彼女にとって大切なのはその左脚のような気がした。それも当然のことなのかもしれなかった。
 彼女も、彼女を取り巻いていた我々も、彼女が片脚しかないということを気にしていなかった。最初こそは誰しもが驚くものの、時が経てばそれは、サビの舌の先端がふたつに裂けていることや、ヤクザ上がりのキクスイの左手の指が足りていないこと、リリコの前歯がシンナーに溶けて半分もないこと、レンゲが真夏であっても長袖を着ていることなんかと同じように、ありふれた日常として受け入れられ、受け流されていくのだった。
「確かにさぁ、よく考えたら、ミンゴスってショーガイシャな訳じゃん?」
 トリカワが、今日も焼き鳥の皮ばかりを注文したのを頬張ってそう言った。発音はほとんど「超外車」に近かった。
「ショーガイシャ?」
 訊き返したミンゴスの発音は、限りなく「SHOW会社」だ。
「あたし障害者なの?」
「身体障害者とか、あるじゃん。電車で優先席座れるやつ」
「あー」
「えー、ミンゴスは障害者じゃないよ。だって、いっつも電車でおばあちゃんに席譲るじゃん」
 キュウリの漬物を咥えたまま、リリコが言った。
「確かに」
「ミンゴスはババアには必ず席譲るよな、ジジイはシカトするのに」
「あたし、おばあちゃんっ子だったからさー」
「年寄りを男女差別すんのやめろよ」
「愚か者ども、少しはご老人を敬いなさいよ」
 フジマサが呆れたように口を挟んで、大きな欠伸をひとつした。
「おばあちゃん、元気にしてんのかなー」
 まるで独り言のように、ミンゴスはそう小さくつぶやいて、つられたように欠伸をする。
 思えばそれが、彼女が家族について口にしたのを耳にした、最初で最後だった。
 俺たちは、誰もろくに自分の家族について語ろうとしなかった。自分自身についてでさえ、訊かれなければ口にすることもなく、訊かれたところで、曖昧に笑って誤魔化してばかりいた。
 それでも毎日のように顔を突き合わせ、特に理由もなく集まって酒を飲み、共に飯を食い、意味のない会話を繰り返した。
 俺たちは何者でもなかった。何かを共に成し遂げる仲間でもなく、徒党を組んでいたというにはあまりにも希薄な関係で、友人同士だと言うにはただ他人行儀だった。
 振り返ってみれば、俺がミンゴスや周りの連中と共に過ごした期間はほんの短い間に過ぎず、だから彼女のこと誰かに尋ねられる度、どう口にすればいいのかいつも悩んで、彼女との些細な思い出ばかりを想起してしまう。
    ミンゴスは砂糖で水増ししたような甘くて怪しい錠剤を、イチゴ柄のタブレットケースに入れて持ち歩いていた。
 彼女に初めて出会った夜のことは、今でも忘れられない。
 俺は掃き溜めのようなこの街の、一日じゅう光が射さない裏路地で、吐瀉物まみれになって倒れていた。一体いつからうつ伏せになっているのか、重たい頭はひどく痛んで、思い出すのも困難だった。何度か、通りすがりの酔っ払いが俺の身体に躓いて転んだ。そのうちのひとりが悪態をつき、唾をかけ、脇腹を蹴り上げてきたので、もう何も嘔吐できるものなどないのに、胃がひっくり返りそうになった。
 路地裏には俺のえづいている声だけが響き、それさえもやっと収まって静寂が戻った時、数人の楽しげな話し声が近付いて来るのに気が付いた。
 今思えば、あの時先頭を切ってはしゃぎながら駆けて来たのはリリコで、その妙なハイテンションは間違いなく、なんらかの化学作用が及ぼした結果に違いなかった。
「こらこら、走ると転ぶぞ」
 と、忠告するフジマサも足元がおぼつかない様子で、普段は一言も発しないレンゲでさえも、右に左にふらふらと身体を揺らしながら、何かぶつぶつとつぶやいていた。サビはにやにやと笑いながら、ラムネ菓子を噛み砕いているかのような音を口から立てて歩いていて、その後ろを、煙管を咥えて行くのがトリカワだった。そんな連中をまるで保護者のように見守りながら行くのがキクスイであったが、彼はどういう訳か額からたらたらと鮮血を流している有り様だった。
 奇妙な連中は路地裏に転がる俺のことなど気にも留めず、よろけたフジマサが俺の左手を踏みつけたがまるで気付いた様子もなく、ただ、トリカワが煙管の灰を俺の頭の上めがけて振るい落としたことだけが、作為的に感じられた。
 さっきの酔っ払いに蹴り飛ばされてすっかり戦意喪失していた俺は、文句を言う気もなければ連中を睨み返してやる気力もなく、ただ道に横たわっていた。このまま小石にでもなれればいいのに、とさえ思った。
「ねーえ、そこで何してんの?」
 そんな俺に声をかけたのが、最後尾を歩いていたミンゴスだった。すぐ側にしゃがみ込んできて、その長い髪が俺の頬にまで垂れてくすぐったかった。
 ネコ科の動物を思わせるような大きな吊り目が俺を見ていた。俺も彼女を見ていた。彼女は美しかった。今まで嗅いだことのない、不可思議な香水のにおいがした。その香りは、どこの店の女たちとも違った。俺は突然のことに圧倒された。
 彼女は何も答えない俺に小首を傾げ、それからおもむろにコートのポケットに手を突っ込むと、そこから何かを取り出した。
「これ舐める? チョー美味しいよ」
 彼女の爪は長方形でピンク色に塗られており、そこに金色の薔薇の飾りがいくつもくっついていた。小さな花が無数に咲いた指先が摘まんでいたのはタブレットケースで、それはコンビニで売られている清涼菓子のパッケージだった。彼女はイチゴ柄のケースから自分の手のひらに錠剤を三つほど転がすと、その手を俺の口元へと差し出した。
「おいミンゴス、そんな陰気臭いやつにやるのか?」
 先を歩いていたサビが振り返って、怪訝そうな声でそう言った。
「それ、結構高いんだぜ」
「いーじゃん別に。あたしの分をどうしようと勝手じゃん」
 彼女が振り向きもせずにそう言うと、サビは肩をすくめて踵を返した。連中はふらふらと歩き続け、どんどん遠ざかって行くが、彼女がそれを気にしている様子はなかった。
「ほら、舐めなよ」
 差し出された彼女の手のひらに、俺は舌を突き出した。舌先ですくめとり、錠剤を口に含む。それは清涼菓子ではなかった。これはなんだ。
「ウケる、動物みたいじゃん」
 からになった手を引っ込めながら、彼女は檻の中の猛獣に餌をあげた子供みたいに笑っていた。
 口の中の錠剤は、溶けるとぬるい甘みがある。粉っぽい味は子供の頃に飲まされた薬を思わせ、しかし隠し切れないその苦味には覚えがあった。ああ、やはりそうか。落胆と安堵が入り混じったような感情が胃袋を絞め上げ、吐き出すか悩んで、しかし飲み込む。
「ほんとに食べてんだけど」
 と、彼女はケラケラ笑った。その笑い声に、冗談だったのか、口にふくまないという選択肢が最良だったのだと思い知らされる。
 それでも、目の前で楽しそうに笑っている彼女を見ていると、そんなことはどうでもよくなってくる。こんな風に誰かが喜んでいる様子を見るのは、いつ以来だろうか。笑われてもいい、蔑まれても構わない。それは確かに俺の存在証明で、みじめさばかりが増長される、しがない自己愛でしかなかった。
 からかわれたのだと気付いた時には彼女は立ち上がっていて、俺を路地裏に残したまま、小さく手を振った。
「あたしミンゴス。またどっかで会お。バイバーイ」
 そう言って歩き始めた彼女の、だんだん小さく、霞んでいく後ろ姿を見つめて、俺はようやく、彼女の右脚が金属製であることに気が付いたのだった。
 人体の一部の代用としては不自然なまでに直線的で、機械的なシルエットをしたその奇妙な脚に興味が湧いたが、泥のように重たい俺の四肢は起き上がることを頑なに拒み、声を発する勇気の欠片も砕けきった後であった。飲み込んだ錠剤がその効用をみるみる発揮してきて、俺はその夜、虹色をした海に飲み込まれ、波の槍で身体を何度も何度も貫かれる幻覚にうなされながら眠りに落ちた。
 その後、ミンゴスと名乗った彼女がこの街では有名人なのだと知るまでに、そんなに時間はかからなかった。
「片脚が義足の、全身ピンク色した娘だろ。あいつなら、よく高架下で飲んでるよ」
 そう教えてくれたのは、ジャバラだった。ピアス屋を営んでいる彼は、身体のあちこちにピアスをあけていて、顔さえもピアスの見本市みたいだ。薄暗い路地裏では彼のスキンヘッドの白さはぼんやりと浮かび上がり、そこに彫り込まれた大蛇の刺青が俺を睨んでいた。
「高架下?」
「あそこ、焼き鳥屋の屋台が来るんだよ。簡単なつまみと、酒も出してる」
「へぇ、知らなかった」
 そんな場所で商売をして儲かるんだろうか。そんなこと思いながら、ポケットを探る。ひしゃげた箱から煙草が一本出てくる。最後の一本だった。
「それにしても……お前、ひどい顔だな、その痣」
 煙草に火を点けていると、ジャバラは俺の顔をしみじみと見て言った。
「……ジャバラさんみたいに顔にピアスあけてたら、大怪我になってたかもね」
「間違いないぞ」
 彼はおかしそうに笑っている。
 顔の痣は触れるとまだ鈍く痛む。最悪だ。子供の頃から暴力には慣れっこだったが、痛みに強くなることはなかった。無抵抗のまま、相手の感情が萎えるのを待つ方が早いだとか、倒れる時の上手な受け身の取り方だとか、暴力を受けることばかりが得意になった。痛い思いをしないで済むなら、それが最良に決まっている。しかしどうも、そうはいかない。
「もう、ヤクの売人からは足を洗ったんじゃないのか?」
「……その仕事はもう辞めた」
「なのに、まだそんなツラ晒してんのか。堅気への道のりは険しいな」
 掠れて聞き取りづらいジャバラの声は、からかっているような口調だった。思わず俺も、自嘲気味に笑う。
 学んだのは、手を汚すのをやめたところで、手についた汚れまで綺麗さっぱりなくなる訳ではない、ということだった。踏み込んでしまったら二度と戻れない底なし沼に、片脚を突っ込んでしまった、そんな気分だ。今ならまだ引き返せると踏んだが、それでも失った代償は大きく、今でもこうしてその制裁を受けている現状を鑑みれば、見通しが甘かったと言う他ない。
「手足があるだけ、まだマシかな……」
 俺がそう言うと、ジャバラはただ黙って肩をすくめただけだった。それが少なからず同意を表していることを知っていた。
 五体満足でいられるだけ、まだマシだ。特に、薄汚れた灰色で塗り潰された、部屋の隅に沈殿した埃みたいなこの街では。人間をゴミ屑のようにしか思えない、ゴミ屑みたいな人間ばかりのこの街では、ゴミ屑みたいに人が死ぬ。なんの力も後ろ盾も、寄る辺さえないままにこの街で生活を始めて、こうしてなんとか煙を吸ったり吐いたりできているうちは、まだ上出来の部類だ。
「せいぜい、生き延びられるように頑張るんだな」
 半笑いのような声でそう言い残して、ジャバラは大通りへと出て行った。その後ろ姿を見送りながら、身体じゅうにニコチンが浸透していくのを脳味噌で感じる。
 俺はミンゴスのことを考えていた。
 右脚が義足の、ピンク色した天使みたいな彼女は、何者だったのだろう。これまでどんな人生を送り、その片脚をどんな経緯で失くしたのだろう。一体、その脚でなんの代償を支払ったのか。
 もう一度、彼女に会ってみたい。吸い終えた煙草の火を靴底に擦りつけている時には、そう考えていた。それは彼女の片脚が義足であることとは関係なく、ただあの夜に、道端の石ころ同然の存在として路地裏に転がっているしかなかったあの夜に、わざわざ声をかけてくれた彼女をまた一目見たかった、それだけの理由だった。
 教えてもらった高架下へ向かうと、そこには焼き鳥屋の移動式屋台が赤提灯をぶ���下げていて、そして本当に、そこで彼女は飲んでいた。周りには数人が同じように腰を降ろして酒を飲んでいて、それはあの夜に彼女と同じように闊歩していたあの奇妙な連中だった。
 最初に俺に気付いたのは、あの時、煙管の灰をわざと振り落としてきたトリカワで、彼はモヒカンヘアーが乱れるのも気にもせず、頭を掻きながら露骨に嫌そうな顔をした。
「あんた、あの時の…………」
 トリカワはそう言って、決まり悪そうに焼き鳥の皮を頬張ったが、他の連中はきょとんとした表情をするだけだった。他は誰も、俺のことなど覚えていなかった。それどころか、あの夜、路地裏に人間が倒れていたことさえ、気付いていないのだった。それもそのはずで、あの晩は皆揃って錠剤の化学作用にすっかりやられてしまっていて、どこを通ってどうやってねぐらまで帰ったのかさえ定かではないのだと、あの夜俺の手を踏んづけたフジマサが飄々としてそう言った。
 ミンゴスも、俺のことなど覚えていなかった。
「なにそれ、チョーウケる」
 と、笑いながら俺の話を聞いていた。
「そうだ、思い出した。あんた、ヤクをそいつにあげてたんだよ」
 サビにそう指摘されても、ミンゴスは大きな瞳をさらに真ん丸にするだけだった。
「え、マジ?」
「マジマジ。野良猫に餌やってるみたいに、ヤクあげてたよ」
「ミンゴス、猫好きだもんねー」
 どこか的外れな調子でそう言ったリリコは、またしても妙なハイテンションで、すでに酔っているのか、何か回っているとしか思えない目付きをしている。
「ってか、ふたりともよく覚えてるよね」
「トリカワは、ほら、あんまヤクやんないじゃん。ビビリだから」
「チキンだからね」
「おい、チキンって言うな」
「サビは、ほら、やりすぎて、あんま効かない的な」
「この中でいちばんのジャンキーだもんね」
「ジャンキーっつうか、ジャンク?」
「サビだけに?」
「お、上手い」
 終始無言のレンゲが軽い拍手をした。
「え、どういうこと?」
「それで、お前、」
 大きな音を立てて、キクスイがビールのジョッキをテーブルに置いた。ジョッキを持っていた左手は、薬指と小指が欠損していた。
「ここに何しに来た?」
 その声には敵意が含まれていた。その一言で、他の連中も一瞬で目の色を変える。巣穴に自ら飛び込んできた獲物を見るような目で、射抜かれるように見つめられる。
 トリカワはさりげなく焼き鳥の串を持ち変え、サビはカップ酒を置いて右手を空ける。フジマサは、そこに拳銃でも隠しているのか、片手を甚平の懐へと忍ばせている。ミンゴスはその脚ゆえか、誰よりも早く椅子から腰を半分浮かし、反対に、レンゲはテーブルに頬杖を突いて半身を低くする。ただリリコだけは能天気に、半分溶けてなくなった前歯を見せて、豪快に笑う。
「ねぇ皆、違うよ、この子はミンゴスに会いに来たんだよ」
 再びきょとんとした顔をして、ミンゴスが訊き返す。
「あたしに?」
「そうだよ」
 大きく頷いてから、リリコは俺に向き直り、どこか焦点の定まらない虚ろな瞳で、しかし幸福そうににっこりと笑って、
「ね? そうなんだよね? ミンゴスに、会いたかったんでしょ」
 と、言った。
「あー、またあのヤクが欲しいってこと? でもあたし、今持ち合わせがないんだよね」
「もー、ミンゴスの馬鹿!」
 突然、リリコがミンゴスを平手打ちにした。その威力で、ミンゴスは座っていた椅子ごと倒れる。金属製の義足が派手な音を立て、トリカワが慌てて立ち上がって椅子から落ちた彼女を抱えて起こした。
「そーゆーことじゃなくて!」
 そう言うリリコは悪びれた様子もなく、まるでミンゴスが倒れたことなど気付いてもいないようだったが、ミンゴスも何もなかったかのようにけろりとして椅子に座り直した。
「この子はミンゴスラブなんだよ。ラブ。愛だよ、愛」
「あー、そーゆー」
「そうそう、そーゆー」
 一同はそれで納得したのか、警戒態勢を解いた。キクスイだけは用心深く、「……本当に、そうなのか?」と尋ねてきたが、ここで「違う」と答えるほど、俺も間抜けではない。また会いたいと思ってここまで来たのも真実だ。俺が小さく頷いてみせると、サビが再びカップ酒を手に取り、
「じゃー、そーゆーことで、こいつのミンゴスへのラブに、」
「ラブに」
「愛に」
「乾杯!」
 がちゃんと連中の手元にあったジョッキやらグラスやらがぶつかって、
「おいおい愚か者ども、当の本人が何も飲んでないだろうよ」
 フジマサがやれやれと首を横に振りながら、空いていたお猪口にすっかりぬるくなっていた熱燗を注いで俺に差し出し、
「歓迎しよう、見知らぬ愚か者よ。貴殿に、神のご加護があらんことを」
「おめーは仏にすがれ、この坊主崩れが」
 トリカワがそう毒づきながら、焼き鳥の皮をひと串、俺に手渡して、
「マジでウケるね」
 ミンゴスが笑って、そうして俺は、彼らの末席に加わったのだ。
    ミンゴスはピンク色のウェーブがかった髪を腰まで伸ばしていて、そして背中一面に、同じ色をした翼の刺青が彫られていた。
 本当に羽毛が生えているんじゃないかと思うほど精緻に彫り込まれたその刺青に、俺は幾度となく手を伸ばし、そして指先が撫でた皮膚が吸いつくように滑らかであることに、いつも少なからず驚かされた。
 腰の辺りが性感帯なのか、俺がそうする度に彼女は息を詰めたような声を出して身体を震わせ、それが俺のちっぽけな嗜虐心を刺激する��は充分だった。彼女が快楽の海で溺れるように喘ぐ姿はただただ扇情的で、そしていつも、彼女を抱いた後、子供のような寝顔で眠るその横顔を見ては後悔した。
 安いだけが取り柄のホテルの狭い一室で、シャワーを浴びる前に外されたミンゴスの右脚は、脱ぎ捨てられたブーツのように絨毯の上に転がっていた。義足を身に着けていない時のミンゴスは、人目を気にも留めず街を闊歩している姿とは違って、弱々しく薄汚い、惨めな女のように見えた。
 太腿の途中から失われている彼女の右脚は、傷跡も目立たず、奇妙な丸みを帯びていて、手のひらで撫で回している時になんとも不可思議な感情になった。義足姿は見慣れていて、改めて気に留めることもないのだが、義足をしていないありのままのその右脚は、直視していいものか悩み、しかし、いつの間にか目で追ってしまう。
 ベッドの上に膝立ちしようにも、できずにぷらんと浮いているしかないその右脚は、ただ非力で無様に見えた。ミンゴスが義足を外したところは、彼女を抱いた男しか見ることができないというのが当時囁かれていた噂であったが、俺は初めて彼女を抱いた夜、何かが粉々に砕け散ったような、「なんだ、こんなもんか」という喪失感だけを得た。
 ミンゴスは誰とでも寝る女だった。フジマサも、キクスイも、サビもトリカワも、連中は皆、一度は彼女を抱いたことがあり、それは彼らの口から言わせるならば、一度どころか、もう飽き飽きするほど抱いていて、だから近頃はご無沙汰なのだそうだった。
 彼らが彼女の義足を外した姿を見て、一体どんな感情を抱いたのかが気になった。その奇妙な脚を見て、背中の翼の刺青を見て、ピアスのあいた乳首を見て、彼らは欲情したのだろうか。強くしたたかに生きているように見えた彼女が、こんなにもひ弱そうなただの女に成り下がった姿を見て、落胆しなかったのだろうか。しかし、連中の間では、ミンゴスを抱いた話や、お互いの性癖については口にしないというのが暗黙の了解なのだった。
「あんたは、アレに惚れてんのかい」
 いつだったか、偶然ふたりきりになった時、フジマサがチェ・レッドに火を点けながら、俺にそう尋ねてきたことがあった。
「アレは、空っぽな女だ。あんた、あいつの義足を覗いたかい。ぽっかり穴が空いてたろう。あれと同じだ。つまらん、下種の女だよ」
 フジマサは煙をふかしながら、吐き捨てるようにそう言った。俺はその時、彼に何も言い返さなかった。まったくもって、この坊主崩れの言うことが真であるように思えた。
 ミンゴスは決して無口ではなかったが、自分から口を開くことはあまりなく、他の連中と同様に、自身のことを語ることはなかった。話題が面白かろうが面白くなかろうが、相槌はたいてい「チョーウケる」でしかなく、話し上手でも聞き上手でもなかった。
 風俗店で働いている日があるというリリコとは違って、ミンゴスが何をして生計を立てているのかはよくわからず、そのくせ、身に着けているものや持ちものはブランドもののまっピンクなものばかりだった。連中はときおり、ヤクの転売めいた仕事に片脚を突っ込んで日銭を稼いでいたが、そういった時もミンゴスは別段やる気も見せず、それでも生活に困らないのは、貢いでくれる男が数人いるからだろう、という噂だけがあった。
 もともと田舎の大金持ちの娘なんだとか、事故で片脚を失って以来毎月、多額の慰謝料をもらい続けているんだとか、彼女にはそんな具合で嘘か真実かわからない噂ばかりで、そもそもその片脚を失くした理由さえ、本当のところは誰も知らない。訊いたところではぐらかされるか、訊く度に答えが変わっていて、連中も今さら改まって尋ねることはなく、彼女もまた、自分から真実を語ろうとは決してしない。
 しかし、自身の過去について触れようとしないのは彼女に限った話ではなく、それは坊主崩れのフジマサも、ヤクザ上りのキクスイも、自殺未遂を繰り返し続けているレンゲも、義務教育すら受けていたのか怪しいリリコも、皆同じようなもので、つまりは彼らが、己の過去を詮索されない環境を求めて流れ着いたのが、この面子という具合だった。
 連中はいつだって互いに妙な距離を取り、必要以上に相手に踏み込まない。見えないがそこに明確な線が引かれているのを誰しもが理解し、その線に触れることを極端に避けた。一見、頭のネジが外れているんだとしか思えないリリコでさえも、いつも器用にその線を見極めていた。だから彼らは妙に冷めていて、親切ではあるが薄情でもあった。
「昨日、キクスイが死んだそうだ」
 赤提灯の下、そうフジマサが告げた時、トリカワはいつものように焼き鳥の皮を頬張ったまま、「へぇ」と返事をしただけだった。
「ドブに遺体が捨てられてるのが見つかったそうだよ。額に、銃痕がひとつ」
「ヤクの転売なんかしてるから、元の組から目ぇ付けられたのか?」
 サビが半笑いでそう言って、レンゲは昨日も睡眠薬を飲み過ぎたのか、テーブルに突っ伏したまま顔を上げようともしない。
「いいひとだったのにねー」
 ケラケラと笑い出しそうな妙なテンションのままでリリコがそう言って、ミンゴスはいつものように、椅子に立てた片膝を抱くような姿勢のまま、
「チョーウケるね」
 と、言った。
 俺はいつだったか、路地裏で制裁を食らった日のことを思い出していた。初めてミンゴスと出会った日。あの日、俺が命までをも奪われずに済んだのは、奇跡だったのかもしれない。この街では、そんな風に人が死ぬのが普通なのだ。あんなに用心深かったキクスイでさえも、抗えずに死んでしまう。
 キクスイが死んでから、連中の日々は変化していった。それを顔に出すことはなく、飄々とした表情を取り繕っていたが、まるで見えない何かに追われているかのように彼らは怯え、逃げ惑った。
 最初にこの街を出て行ったのはサビだった。彼は転売したヤクの金が手元に来たところで、一夜のうちに姿をくらました。行方がわからなくなって二週間くらい経った頃、キクスイが捨てられていたドブに、舌先がふたつに裂けたベロだけが捨てられていたという話をフジマサが教えてくれた。しかしそれがサビの舌なのか、サビの命がどうなったのかは、誰もわからなかった。
 次に出て行ったのはトリカワだった。彼は付き合っていた女が妊娠したのを機に、故郷に帰って家業を継いで漁師になるのだと告げて去って行った。きっとサビがここにいたならば、「お前の船の網に、お前の死体が引っ掛かるんじゃねぇの?」くらいは言っただろうが、とうとう最後まで、フジマサがそんな情報を俺たちに伝えることはなかった。
 その後、レンゲが姿を見せなくなり、彼女の人生における数十回目の自殺に成功したのか、はたまたそれ以外の理由で姿をくらましたのかはわからないが、俺は今でも、その後の彼女に一度も会っていない。
 そして、その次はミンゴスだった。彼女は唐突に、俺の前から姿を消した。
「なんかぁ、田舎に戻って、おばあちゃんの介護するんだって」
 リリコがつまらなそうに唇を尖らせてそう言った。
「ミンゴスの故郷って、どこなの?」
「んー、秋田」
「秋田。へぇ、そうなんだ」
「そ、秋田。これはマジだよ。ミンゴスが教えてくれたんだもん」
 得意げにそう言うリリコは、まるで幼稚園児のようだった。
 フジマサは、誰にも何も告げずに煙のように姿を消した。
 リリコは最後までこの街に残ったが、ある日、手癖の悪い風俗の客に殴られて死んだ。
「お前、鍵屋で働く気ない? 知り合いが、店番がひとり欲しいんだってさ」
 俺は変わらず、この灰色の街でゴミの残滓のような生活を送っていたが、ジャバラにそう声をかけられ、錠前屋でアルバイトをするようになった。店の奥の物置きになっていたひと部屋も貸してもらい、久しぶりに壁と屋根と布団がある住み家を得た。
 錠前屋の主人はひどく無口な無骨な男で、あまり熱心には仕事を教えてはくれなかったが、客もほとんど来ない店番中に点けっぱなしの小型テレビを眺めていることを、俺に許した。
 ただ単調な日々を繰り返し、そうして一年が過ぎた頃、埃っぽいテレビ画面に「秋田県で殺人 介護に疲れた孫の犯行か」という字幕が出た時、俺の目は何故かそちらに釘付けになった。
 田舎の街で、ひとりの老婆が殴られて死んだ。足腰が悪く、認知症も患っていた老婆は、孫娘の介護を受けながら生活していたが、その孫に殺された。孫娘は自ら通報し、駆けつけた警察に逮捕された。彼女は容疑を認めており、「祖母の介護に疲れたので殺した」のだという旨の供述をしているのだという。
 なんてことのない、ただのニュースだった。明日には忘れてしまいそうな、この世界の日常の、ありふれたひとコマだ。しかし俺は、それでも画面から目を逸らすことができない。
 テレビ画面に、犯人である孫娘が警察の車両に乗り込もうとする映像が流れた。長い髪は黒く、表情は硬い。化粧っ気のない、地味な顔。うつむきがちのまま車に乗り込む彼女はロングスカートを穿いていて、どんなに画面を食い入るように見つめても、その脚がどんな脚かなんてわかりはしない。そこにあるのは、人間の、生身の二本の脚なのか、それとも。
 彼女の名前と年齢も画面には表示されていたが、それは当然、俺の知りもしない人間のプロフィールに過ぎなかった。
 彼女に限らない。俺は連中の本名を、本当の年齢を、誰ひとりとして知らない。連絡先も、住所も、今までの職業も、家族構成も、出身地も、肝心なことは何ひとつ。
 考えてもしょうがない事柄だった。調べればいずれわかるのかもしれないが、調べる気にもならなかった。もしも本当にそうだったとして、だからなんだ。
 だから、その事件の犯人はミンゴスだったのかもしれないし、まったくなんの関係もない、赤の他人なのかもしれない。
 その答えを、俺は今も知らない。
   ミンゴスの右脚は太腿の途中から金属製で、そのメタリックなピンク色の輝きは、無機質な冷たさを宿しながらも生肉のようにグロテスクだった。
「そう言えば、サビってなんでサビってあだ名になったんだっけ」
「ほら、あれじゃん、頭が錆びついてるから……」
「誰が錆びついてるじゃボケ。そう言うトリカワは、皮ばっか食ってるからだろ」
「焼き鳥は皮が一番美味ぇんだよ」
「一番美味しいのは、ぼんじりだよね?」
「えー、あたしはせせりが好き」
「鶏の話はいいわ、愚か者ども」
「サビはあれだよ、前にカラオケでさ、どの歌でもサビになるとマイク奪って乱入してきたじゃん、それで」
「なにそれ、チョーウケる。そんなことあったっけ?」
「あったよ、ミンゴスは酔っ払いすぎて覚えてないだけでしょ」
「え、俺って、それでサビになったの?」
「本人も覚えてないのかよ」
「リリコがリリコなのはぁ、芸能人のリリコに似てるからだよ」
「似てない、似てない」
「ミンゴスは?」
「え?」
「ミンゴスはなんでミンゴスなの?」
「そう言えば、そうだな。お前は初対面の時から、自分でそう名乗っていたもんな」
「あたしは、フラミンゴだから」
「フラミンゴ?」
「そう。ピンクだし、片脚じゃん。ね?」
「あー、フラミンゴで、ミンゴス?」
「ミンゴはともかく、スはどっからきたんだよ」
「あれじゃん? バルサミコ酢的な」
「フラミンゴ酢?」
「えー、なにそれ、まずそ��」
「それやばいね、チョーウケる」
 赤提灯が揺れる下で、彼女は笑っていた。
 ピンク色の髪を腰まで伸ばし、背中にピンク色の翼の刺青を彫り、これでもかというくらい全身をピンクで包んで、金属製の片脚で、街角で、裏路地で、高架下で、彼女は笑っていた。
 それが、俺の知る彼女のすべてだ。
 俺はここ一年ほど、彼女の話を耳にしていない。
 色褪せ、埃を被っては、そうやって少しずつ忘れ去られていくのだろう。
 この灰色の街ではあまりにも鮮やかだった、あのフラミンゴ娘は。
     了 
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