Tumgik
mathcalhiro · 9 years
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微分って、なんだろうか?
微分の授業をしながら思うのは「微分とはなにか」という話。
これに対する簡単な答えは
1.解析的視点(関数の変化を調べる)では、「局所的な関数の変化」を表す。もっというと、解析関数という関数のクラスは、局所的な関数の変化について調べるだけで大域的な関数の変化を理解できる。
関数の変化が定められたときに、それを満たす関数はどんなものがあるのかというのが「微分方程式」である。
2.幾何的視点(図形を調べる)では、「図形を局所的に「平面」で近似する」ということになる。たとえば、微分係数を用いてグラフの各点の接線が求められるが、接線はグラフのある部分を真っ直ぐにしたものと見れる。実際、関数を近似することもできる。→多変数関数ではこういう形で微分について考える。
3.では、代数的視点では微分はどう扱われるのだろうか?
まず、代数における微分の基本は(x^n)'=nx^{n-1}である。実は多項式関数だけでなくある程度広い関数なら、これを用いて微分をすることができる。詳しくは「一様収束する級数関数」だった気がする…。
代数で微分を用いる重要な例は「代数方程式の解による体の拡大」である。これが分離拡大となるかどうかは導関数が0であるか否かで決まる。ちなみに、非分離拡大となるのは有限体や標数0の体を含む「完全体」以外の時のみ。
共通して言えるのは「局所的」、「真っ直ぐにする」というところ。後者は「線形化」とも言える。では、それを踏まえて…
微分とは、なんだろうか?
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mathcalhiro · 9 years
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スキームの分離射と「対応」について
スキームの分離射を理解する前にファイバー積がどんなものなのか、についてはだいたい理解した。
ファイバー積は各スキームを「底空間となるスキーム」上の図形として、その直積を取ったものとして理解するのが一番良さそう。
で、代数多様体上の「対応」という概念がある。これは何かというと、要するに「二つの代数多様体の(整数環スキームによる)ファイバー積」の閉部分スキームのこと。たとえば、「代数多様体上の射」によって定まる部分集合、つまり「グラフ」が閉ならば射は「対応」になる。要するに「対応」とは代数多様体の射の一般形である。以前これをとある学生に教えてもらったのだが、そこでは「分岐しててもよい」と話していた。これは「モチーフ」の定義に使われるものである。
以上を踏まえて、分離射とは「スキームXからXへの恒等写像によって定まるグラフが閉となる」ということである。言い換えると「恒等写像が「対応」になっているかどうか」という話である。
たとえば、kを体として X=Speck[x], X'=Speck[y]のSpecという二つのアフィン直線を考える。このkによるファイバー積はSpeck[x,y]となる。ちなみに、X=X'である。で、この恒等写像X→Xのグラフはy-x=0の解全体である。よって、Xは分離射である。
反例がとっさに浮かばない…。
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mathcalhiro · 9 years
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スキームの理解がだいぶ進んできた…ようだ。
環を「整数係数多項式全体」と捉え、イデアルを「方程式を定める多項式」の集まり、剰余環で「イデアルの元=0の方程式」することにより「方程式の定める図形全体」として捉えるのがスキーム的視点。
と私は理解したが、今日『現代数学』8月号を読んだところ、黒川教授の「絶対数学原論」でスキームを「整数係数多項式による方程式の解」としてよい、と書いてあったことからこの理解は的外れではなかった、ということがわかった。スキームに対する考察が熟し始めた、ということか。
「スキームの底空間」の元pは「空間内の方程式が定める図形」に対応する。そして、{p}という一元集合の閉包は「pの零点集合」V(p)であるが、これが{p}と一致するのはpが極大イデアルとなるとき。零イデアル(0)の閉包はV((0))が「空間全体」となるので、(0)は稠密である。これが「生成点」である。
スキームのファイバー積について。まずY上のスキームXとは射f:X→Yのことだが、X,Yをアフィンとして、構造環を考えると、O_XはO_Y代数となる。つまり「O_Y係数多項式」である。
Y上の、という言葉が「O_Y係数多項式」と対応する、ということはわかったけど、この図形的なイメージは…??まだ���まく掴めない。
さて、Z上のスキームXとYに対して、ファイバー積X(×_Z)Yとは「局所的にはO_X,O_Yを変数としたO_Z係数多項式」のこととなるようだ。
ハーツホーンの本のファイバー積の例を見ると、どうやらYの各ファイバーごとにXを付けることで「スキームXのパラメータ変形」が出来る様子。これはちょっとおもしろい。あとでもっと理解しよう。
このハーツホーンの本にはアフィンでないスキームとして「二つの直線を貼り合わせるのだけど、原点のところでは二つの直線の点を区別し、それ以外では同一視する」という例が挙がっていた。最初、これがスキームなのかわからなかったが、「原点の位置にある二点のうちの一つ」が閉であるということを理解して、やっとわかった。
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mathcalhiro · 9 years
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今日のTAにて。
色々話が盛り上がったので、メモ。
簡単に言うと「コンピュータがどこまで発展するか、人間はコンピュータに取って変わられるか?」という話である。
人間は有限な存在である。思考にも、計算能力も限界がある。たとえば、いつまでも考え続けることはできない。肉体があるから疲れもするし、寝なければ頭がまわらない。この辺りはコンピュータとは無縁の話である。
しかし、それゆえに人間は「様々な発見と発想によって新たな概念を生み出した」と思う。いつまでも簡単に、それも速く計算できるなら今の最先端の数学は必要なかった気もする。こういう「長大な計算をする代わりに新たな理論を作り出す」というのは人間にしかできない能力だと思う。簡単に言うと「無から有を生み出すことは人間にしかできないこと」である。
一方、コンピュータは膨大なデータの処理ができる。人間よりも速く、大量に、正確に、疲れることなく行なうことができる。その差はコンピュータ将棋での戦績に出ている。「たくさんの計算はコンピュータが得意なこと」である。
ただ、数学は「形式的な計算だけではできない」と思う。TAの時間で聞いたのはコンピュータに東大の問題を解かせたところ「証明は別紙で」と答案を書いたそうな。その別紙には…800ページにも及ぶ長大な数式が。だいたいの受験生が「図形を書いて、共有点の関係を見るだけで解ける」問題なのだが。
「数学は人間の精神的活動である」
とヘルマン・ワイルは話した。上の話を聞きながら、私はその言葉を思い出した。
コンピュータの発展を憂えるより、コンピュータにできることとできないことをはっきりさせるのが、一番健全なように感じる。ただ、それは「人間にしかできないと思ったこと」を覆す可能性があるけれど。
これを書きながら、もう一つ思い出したのだが…。
コンピュータvs人間の将棋大会「電王戦」で、コンピュータが今までの定石にない一手を打ち、それによって勝利したという話があった。見ていたプロの棋士が
「コンピュータが今までの定石に一石を投じる」
という話があったのだ。これは、「無から有を生み出した」のだろうか?
私はそうでないと思う。コンピュータに蓄積された膨大なデータと様々な計算から「今までにない一手」を打ったのだろう…。
少なくとも今、コンピュータが数学の証明を作り出すことは難しいと感じる。数学の証明には「無から有を生む」発想が必要だと思うから。
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mathcalhiro · 9 years
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これまででわかったスキームの単語について
Iは素でないイデアルとする。このとき、ある2つのIの元でないa,bでその積a・bがIの元となるものが存在する。たとえば、整数環では(6)(6の倍数全体)2,3は(6)の元でないが、2・3=6である。
Iによる剰余環R/Iをとると、a,bはIの元でなかったので、R/I上では0でない。しかし、その積は0となる。こういうものを零因子という。零因子があるということは、図形的にいうと「二つの図形に分解される」ということである。
一方、可換環Rが冪零元を持っているとすると、冪零元を集めた集合はイデアルとなる。これを冪零イデアルという。冪零イデアルはm乗すると零イデアルとなる。これは冪零イデアルとなる図形がm重に重なっていることを意味する。
前者でないときを「既約」、後者でないときを「被約」という。図形的に言うと「二つの連結成分に分解されなくて、重なっていない」ことをいう。
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mathcalhiro · 9 years
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イデアルと部分環について
この間書いた「可換環のイデアルを「方程式」と対応させたが、これを部分環にしてはいけないのだろうか?」という問題に対する答え。
この問題の答えのポイントは「部分空間で割った商空間が環の構造を持つか」である。ここでは「文字式の集合」を環としているので、環構造を持つ否かは重要である。
そう考えると次のようになる。
まず、部分環は1を含まないものとする。(定義に1を含まなくてもいい場合があったはず)1が入っていると、商空間に単位元が存在せず(単位元と0が一致する)、環にならないからである。
次に、部分代数Iで商空間を作る。この時、イデアルの定義を満たさないと「0にRの元をかけると0でなくなる」場合があるのだ。
たとえば、可換環をR[x]、その部分代数Iを「Z[x]のイデアル」(x)とする。このとき、R[x]/Iで√2×xとすると、xは0と等しいので、√2×0=0となるはずである。ところが、√2xはIの元でない(Iの元は整数係数であるから)。つまり、√2xは0と等しくならないのだ!
これが何を意味するか、というと「掛け算がwell-defined」を満たさない、ということである。
結局、商空���が環の構造を持つためには「イデアルの定義」が必要となる。これで必要十分なのかは…わからない。
つまり、イデアルとは「商空間が構造を保つ」ような部分集合である、というわけだ。
その一方で、「可換環の構造を保つような部分集合」をイデアルとして、そこから定まる図形だけを見たのでは、見つからないような性質があるのかもしれない。そういう意味で「モノイド上のスキーム」や「トロピカル代数上のスキーム」を考える、という方針は自然な気がする。
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mathcalhiro · 9 years
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結び目と素数の関連性について
考えていたら、スキームXのS値点について理解できていなかったことがわかった。
結び目の数学的定義は「円周S^1から3次元ユークリッド空間R^3への埋め込み射」である。これって、よくよく見ると「スキームのR^3値点」に似てない?という話を考えていた。
実際、円周はR[x,y]/(x^2+y^2-1)の底空間、三次元ユークリッド空間はR[x,y,z]の底空間(実空間で考えるから、係数は実数体にしている)だから、埋め込み射が…とまで考えて、しかし、よくよく考えたら「S^1もR^3も底空間だから、代数多様体と向きは逆になるし…」と思って、「S^1のR^3値点」か「R^3のS^1値点」かで迷った。しばらく考えて、「R^3のS^1値点」であることがわかった。
やっぱり、自分で考えないとこういうときに混乱するのだな…。
問題は結び目を定義する射が「代数多様体の射」なのかどうか、である。おそらくそうじゃないのだろう。そうだったら面白く無い。
��かし、素数は「整数環スキームの点」と対応しているので、この辺りの類似性は気になる。やはり、ここにも共通の概念があるのだろうか?
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mathcalhiro · 9 years
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最近考えたこと:ネーター環とExcellent環
最後に、可換環論について。
可換環は「幾何学的」に見ることができる、つまり「図形の情報が入っている」ということを念頭にグロタンディークが「スキーム」の概念を導入しました。これによると、可換環のイデアルは「何かしらの図形」と対応しているのである。現に、多項式環のイデアルは「イデアルの元の零点集合」という図形と対応している。多項式環の元は「文字式」で、その零点集合は「文字式=0という方程式の解」なのです。
さきほど「”方程式”」と書いたが、これは多項式環での話を一般の可換環に当てはめると、可換環の元は文字式に対応して、イデアルが方程式に対応する…となるからです。(イデアルが方程式に対応する、というのは可換環のイデアルによる剰余環がちょうど「イデアルの元=0」となるから)
(先程は”方程式”の集合と書きましたが、正しくは「文字式」の集合ですね。”方程式”はイデアルと対応しています)
さて、このようして可換環と幾何学を結びつけたのですが、実際に与えられた可換環が「どれくらい幾何学的か」ということが考えられます。
そもそも、イデアルの元は有限とは限りません(可換環の元が有限でなければ、有限ではありません)。しかし、方程式のときがそうなのですが、イデアルが「有限個の元の線形結合」で表されることがあります。 このことを「イデアルが有限生成である」と言います。  このとき 「イデアルの元の零点集合」は「有限個の元の零点集合」と同じになります。
全てのイデアルが有限生成である、という条件を満たす可換環を「ネーター環」といいます。図形を定める方程式が有限個、ということで少しは幾何学的といえます。しかしながら、ネーター環がすべて「幾何学的描写ができる」とは限りません。たとえば、ネーター環が「無限次元の図形を表す」ということもあり得ます。
こういうところを色々調べようとして、日本人数学者が頑張っていたみたいです。鎖状環とかExcellent環はその中でできたものです。
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mathcalhiro · 9 years
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最近考えたこと:スキーム理論の拡張
次はスキーム理論について。
スキーム理論を局所的な話にすると、次の流れがあります。
1.まず可換環を用意する。
2.可換環から「素イデアル」の集合を作る。
3.そこにザリスキー位相(イデアルから定まる図形を閉とする最弱の位相)を入れる。
このとき、可換環とは「図形を定める"方程式"の集合」で、そこから集めた素イデアルとは「『既約な図形』を定める部分集合」ということです。そこからザリスキー位相を入れるのはそこまで難しいことではないと思います。
さて、私が疑問に思ったのは次のところ。
「"方程式"の集合とはなんなのだろうか?」
可換環は幾何学的要素を持っていたのですが、これ以外にも幾何学的要素を持っている集合というのはありそうな気がします。実はこれ、最先端の研究でも様々なことがされていて、先程話をした「トロピカル代数」上のスキーム理論やモノイド上のスキーム理論も考えられています。
「一元体」上の幾何学もその一つ。一元体はまだ数学的定義が定まっていないのですが、これまでの数学の基礎を作るとされている理論です。私はこの研究の中でDurovの「アラケロフ幾何学の新たなアプローチ(和訳)」という論文を読んでいます。これはアラケロフ幾何学(整数環に無限素点を加えた代数幾何学)や先程のトロピカル代数、モノイド代数の幾何学を内包する「Generalized Ring」上のスキーム理論を形成する、という話です。
さて、可換環とは「整数環上のスキーム理論」ということができます。これはどうしてか、というと「全ての環は整数環上の代数とみなすこ���ができる」からです。整数環上の代数というのは「整数を係数とする多項式に積演算が定義されている集合」のことです。つまり、「整数係数方程式」ですね。
私が気になるのは「図形を定めるのがどうして「イデアル」なのだろうか」ということ。整数環上の代数なら「部分代数」でも十分なのでは?と思ったのです。言い換えると「イデアル」でなく「部分環」ではどうなるのだろう?ということですね。ちなみに、イデアルはすべて部分環です。
ところで、イデアルでない部分環の例ってありますかね?もしあれば、それも考えてみたいところなのですが…。
先ほどのDurovの論文に戻ると、Generalized Ringとは「集合から"代数"を定める関手」のこととされています。可換環が整数環上の代数と見れるなら、これは自然な拡張のように思えます。「"方程式”の集合とはなにか」の答えの一つになりそうです。さてさて、ここからどうやって「素イデアル」、そして「スキーム」を作るのでしょうか?先が楽しみです。
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mathcalhiro · 9 years
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最近考えたこと:トロピカル幾何学とグロタンディーク
最近更新できていなかった間に、様々なことを考えました。その中の一つ。
トロピカル幾何学とは、実数全体に無限大を加えた集合に「2数の大きい方を取る」演算を和、普通の足し算を積として演算を入れたものについて考える分野です。名前が「トロピカル」なのは考案者が南米にいる人だから、らしい。
こうやって、形式的に無限大を入れられる辺りが数学の自由さといいますか。
この集合は「半環」、それも特別なものになります。この上で幾何学を考えるのですが、その図形は「折れ線グラフ」のようになるみたいです。
最近、このトロピカル代数の上で代数幾何学を考えるという研究があるのですが、これは代数幾何学を組合せ論で考えることができるというモチベーションがあります。普通の代数幾何学でもトーリック多様体は組合せ論的に考えることができるのですが。ちなみに、トロピカル代数上のスキーム理論というのも考えられているみたいなのですが、これは別の記事で考えた問題とつながるのでそこに書きます。
ここで私はあることに気が付きました。
グロタンディークは生前研究すべき12のテーマを話しました。どれも深い研究なのですが、その中で12番目のテーマはあまり目立った話を聞きません。
12番目のテーマ、それは
「正多面体のスキーム論的視点からの研究」
です。グロタンディークいわく「簡単そうに見えるこの研究だが、この内容を汲み尽くすのは多くの時間がかかるだろう」とのこと。つまりこの研究が「深いテーマ」であるそうです。
正多面体は組合せ論的対象。これをスキーム視点から研究する。なんとなくですがトロピカル代数幾何学が関わっていそうな気もします。実際、上にも書いたとおりトロピカル幾何学の図形は「折れ線」ですから、正多面体も扱えそうです。ちょっと調べてみたいかも。
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mathcalhiro · 9 years
Conversation
「なんだい、これは?」
「さあな。Tumblrの機能の一つだろう」
「ツイッターみたいなことができるのかい?」
「最初に見たときには脚本のようなものが書かれていたが…」
「じゃあ、一人でチャットするのかね?」
「…」
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mathcalhiro · 9 years
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宗教について
さっき、宗教家の基準が「道徳上許されるか否か」であるという話があったが、本当の宗教というのは、思ったより「理性的」で「現実的」である。
単なる夢物語でもなく、もっと「先の先まで見て、利益となるか否か」を考えている。
と、私が宗教に触れて思ったこと。
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mathcalhiro · 9 years
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ちなみに。
先ほどの主張、現状の私の意見としては
「対案は示せないが、安保法案を決定し自衛隊が国際紛争解決に協力する方法は結果的に国にとって大きな損害になる」
というものである。これに対する理由付けはあることにはあるが、まだ言葉にできていないのでここでは書かない。
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mathcalhiro · 9 years
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より次元を高めて、安保法案を考える。
今、引用したのはどちらかと言えば「安保法案賛成」側の意見なのだが、前に私が安保法案について考えてきた話と重なるので引用した。
今、先の札幌でのデモなどで主張されている法案反対派意見はどちらかと言えば前者の
「牧師、あるいは法律家の価値判断の基準」
に基づいた「戦争につながる法案は反対」である。
これに対して、政府や一部の法案賛成派の意見は後者の
「政治家の価値判断の基準」
に基づいた「国にとって有益となるから法案を立てる」なのである。
そもそも、価値判断の基準が異なるから平行線を辿るのは仕方のないことと言える。
「東アジアの情勢悪化」、「アメリカとの関係性の変化」。
この辺りの問題は現実として存在する。これを踏まえた上で、私は次の問題を考えたい。
『本当に、安保法案を立て、自衛隊が国際紛争解決に協力することが国にとって有益となるのだろうか?それ以外にもっと良い解決方法があるのではないか?』
つまり、 「政治家の価値判断の基準」に合わせて「より国益となる選択肢を取るべき」という話である。
たとえば、韓国や中国の関係、私にはまだ「対話する余地」があるように見える。だって、これもまた「互いの価値観の違い」から来ているものなのだから。その価値観を合わせれば(どっちが間違っていて、どっちが正しい、という話でもない。個人的には両方共足りない点があると思っている)、戦争やアメリカとの関係性なしに解決できるだろう、と思っている。
のだけど、この辺り政治に詳しくない私にはまだはっきりと見えない部分である。できれば多くの人がこの問題を考えてみてほしいと思っている。私も続けて考察したい。願わくば、野党の政治家の皆様が(決定の仕方が違憲であるとか戦争はいけないという(国民でもできる)主張だけでなく)この問題に基づいて与党と議論してほしい。
※余談※
先に私は「右にも左にも偏らない中立的情報がほしい」と話したが、今は考えを改めている。
私は「両側の情報」を見て、その上で判断しようと思う。何故なら、どちらの情報にもある程度根拠となる「事実」があり、それを通して「より中立的な情勢」を知ることが可能だからである。
「事実」と「主張」を分けた上で両側の事実を突き合わせ、(事実と異なる情報は全て捨てて)その上で判断できれば「中立的な情報」が得られる。と思う。若干楽観的な気もしないでもないが。
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mathcalhiro · 9 years
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一方、政治家にとっての価値判断の基準は「それが必要か必要でないか」である。政治家の採るべき態度は、「道徳上、不実であろうと、あるいは法律上、怪しかろうと、それが国家、国民の利益のために必要であるかどうか」である。筆者を含む政治学徒には、そうしたニコロ・マキアヴェッリの言葉にある「必要性」(Necessita`)の評価の他に、「それが賢明であるか愚劣であるか」という価値判断の基準が加わる。
安保法制論議に揺らぎはないか 宗教家や法律家の発想を持ち込むな
『産経新聞』 2015/06/30
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mathcalhiro · 9 years
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牧師、即(すなわ)ち宗教家にとって物事の価値判断の基準は、「道徳上、それが正しいか正しくないか」である。「汝、殺すなかれ」や「不殺生」の戒律を第一に尊重する宗教家の倫理は本来、国防や治安維持に際して「暴力の行使」を当然のように織り込む政治の営みには相いれない。そして、法律家にとっての価値判断の基準は、「法律上、それが正しいか正しくないか」である。故に、小林、長谷部、笹田の3教授のような憲法学者を招いて、彼らに「法律家」の発想に拠(よ)る安保法制についての見解を求めれば、憲法学上の多数学説に拠った「違憲」見解が示されるのは、寧(むし)ろ当然であろう。彼らの「違憲」見解は「憲法学者の大勢は、そのように語るであろう」という話でしかない。その後に報じられた歴代内閣法制局長官の「違憲」見解もまた、彼らが法務官僚として「法律家」の発想に拠る評価を示したものに過ぎない。
安保法制論議に揺らぎはないか 宗教家や法律家の発想を持ち込むな
『産経新聞』 2015/06/30
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mathcalhiro · 9 years
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続・昨日のTAの話。
オフィスアワーが終わり、食堂でご飯を食べていると一人の学生が会釈した。実はこの学生Tさんも(さっきの女学生とは別の意味で)「素質があるなぁ」と思っている一人である。
Tさんと会ったのは、教授が出張のため私一人でオフィスアワーをしていたときのこと。私が「今日は思いっきりゆったりやろう!授業とは関係ないところもやりながら、自由にやってみよう」と思って部屋に入ると、Tさんが友達と数学の問題を解いていた。
「自由にやろう」と思っていた私は(授業内容とは関係ない問題だったけど)止めずに「面白そうな問題をやってるね」と話した。すると、友達が「Tさんは問題をたくさん作るんです」と話してくれた。
で、その後私もTさんの出す問題を解くことに。これが難しい。高校生の知識があれば解ける問題もあるけど、中にはそれ以上の問題もある。
幸か不幸か、この日は彼ら以外の学生が来なかったので、オフィスアワー中ずっとTさんの問題を考えていた。
それから、教育実習もありしばらく会っていなかったのだが、なんとなく彼のことが思い浮かんだまさにそのとき、食堂で出会ったのである。こういうのを「引き寄せる」と言うのだ、と話を聞いたことがある。
Tさんのところに行って話をすると、彼は再び問題を色々出してきた。私はどちらかと言えば「答えが思いつくのに時間が掛かる」タイプだから、即答はできない。が、どれも面白い。
彼は「大学の試験問題に出すのが夢」と話していた。実際、大学の試験問題に出てもおかしくないレベルの良問がちらほらとあった。
こういう「問題を思いつく」というのは、さっきの女学生AさんやNさんとは違った意味で才能がある、と思う。実際、 私が研究する中で気づいたのが、研究で重要なのは「問題を思いつく」プロセスである、ということ。(もっというと「問題を数式にする」というのが数学研究の要だ、というのはつい最近気づいたこと)
なので、Tさんのように問題をたくさん思いつく、というのは実際すごいと思う。エルデシュもそんな感じだし。こういうタイプのキャラって『数学ガール』にはあまり出てこなかったような…ミルカさん、あるいは村木先生がそれかな。
この学生に限らず、他の学生もそれぞれ「才能」があるのだと思う。
言われたことを素直にし、それをずっと実践する人。
情熱を持って何かに取り組む人。
様々な情報に聡く、独自のイベントを生み出す人。
数学的思考を身につけ、描き方がわかっている人
私がこれまでにTAをしながら、そんな人と出会っている。
それぞれの「才能」を見つけられたら、TAをやってて一番楽しいな、と「教育者」の私は思う。
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