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それは、原始スープになりえるか?
5 posts
思考という名の栄養たっぷりな海から、先カンブリア代並みのアイデアという生き物を出産すべく。
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momonouta-blog · 6 years ago
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栄養005:自分の将来の夢には自分で名前をつけましょう。
最近、わたしは何になりたいのかわからなくて どう頑張ればいいかわからなくて 立ち止まってしまっていた。 でも、わかったことは だれもお手本がいないものになろうとしてるってこと。 広告でハードウェアにおいてを成功させた人は 正直うちの会社で見たことない。 プロダクトならあるけど。 だからかわからないけど 将来どうなりたいのって言われた時 みんなが知っているのような指し示せる言葉を 選べなかった。
ということに、 本当に今日気づいた。 だから悶々としてたんだね。 そういうことがわかったから 簡単に「夢を叶える」なんて言えない 理由が明確になりました。 ”夢”じゃなくて、なりたいものを作ってます。 強いて言えば”夢”を作って 知らない間に叶え終わっているのが 私です。 ってなりたいんだろうな。 とにかく脱するためには もがくことしかできません。 タイムリミットは543日。 目に蒼い炎を貯めれる人間になりますよに。
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momonouta-blog · 6 years ago
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栄養004:情報量の制約を活かす
この前いったイベント「Arigato SAKURAGAOKA」
https://www.artphototokyo.com/
これがめちゃくちゃよかったんですけれど、その中でも篠山紀信さんの写真「DOLL」にすごく惹かれました。
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これの何に惹かれたかっていうと、 写真って今の時代「動画」が主流になっては情報量が少ないわけで。 でも、むしろその情報量が少ないことを活かして、人間の美しさを語っているところにです。
人間と人形。 二つは写真というフィルターを通して見ると とても似ている。
でも、よく見ると人間の方が 体の艶とか眼差しが「生きている」。
一つ情報量を減らすからこそ、 人間の美しさを際立たせていると感じました。
こういう、情報量の制約を活かした作品を見るといつも感動してしまいます。
例えば、アニメ「パプリカ」。 これも実写ではなくアニメだからこそ 視聴者を欺き、今アニメの中は、夢なのか、それとも現実世界なのかを 曖昧にすることができます。 だからこそこのアニメに引き込まれてずっとみ続けてしまうのですが。
これはアニメと実写を比較した時の情報量の少なさを活かしているといえるでしょう。
最後に、私が尊敬してやまない上田先生。
先生のパンティーというコラムも視覚に訴えない文字情報だけだからこそ 読者はどこから嘘で、どこからが本当なのか騙されてしまいます。
前編がやけにリアルだから後半から架空の世界に入っているその境界線もわからず知らない間に架空の世界で頭をひねっている状態です。
https://www.tcc.gr.jp/relay_column/id/3195/
いいな、わたしもそんな嘘と本当の境目を情報量の少なさを活かして 魅せることができる作品つくりたい。
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momonouta-blog · 7 years ago
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栄養003:NG集
そういえば、栄養002でも言っていたNG集を最近見てはどうしてこんなに面白いのか考えていた。
それは簡単にいって、予測がつかないことが 起こるからなんだけどね。 それまでは、 全てが緻密に設計されているお芝居の中で演じているのに 突然、その世界から逸脱してしまうハプニング。 それが、おそらく落語でも言われている「緊張の緩和」。 その緩和が起こると、 さっきまで自分もいた綿密に練られていた世界から 視点がずれた場所に自分が動き、 客観的に綿密に練られている世界が滑稽に見える。 真の世界はこんな風になってないし、 こんな大層なせりふ吐いてるけど 別に緊急な手術は起きてないし、 それでお腹なっちゃうし。 みたいな感じかな。 いまは、綿密に練られた芝居の世界と 現実が大きく乖離してしまうから起きてしまう面白さだけど、 これが絶妙にお互いが歩み寄ると もしかすると、見ている側すらも騙せる これは?ほんと?それとも、嘘? という芝居と現実の間を作り出せるスープを作り出せるのかしら。 まるで、今敏監督のパプリカみたい。 これは、夢の世界?それとも本当のこと?みたいに。 いかに偶然を扱うか、その面白さに見出されたというお話。 栄養のスープの一つになりました。
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momonouta-blog · 7 years ago
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栄養002:おっさんずラブ
おっさんずラブを4月の地上波放送時から見ていた人にとっては、
は?今更どうした?
と思うはずでありますが、 Amazon Primeにやってきた今どハマりしてしまいました。 そしてTwitterでエゴサすればするほど二次創作やら妄想など いろんな人がしているじゃありませんか。 だいたい、公式インスタ裏アカウントを41万人以上がフォローしているって、アイルランドの人口より多い人がおっさんずラブのことを好きでいるって すごいことですよ。
おっさんずラブの世界を 自分個人というパーソナルなところでも見たいと思う、 その世界から生まれるものに浸りたいと思う人がいるということはそれは、
おっさんずラブは原始スープになっているということです。
ではおっさんずラブの原始スープ足らしめてるのは なんといってもアドリブ。
まず作品を見てとにかく思うのは、 どこからが台本なのかどこからがアドリブなのかがわからない、 つまり役者さんが裏表なく、生きている演じ方をされているというころ。 これ、栄養001で話したまさしくの偶発性ですよね。
実際におっさんずラブのプロデューサーの貴島彩理さんの言葉も胸にささります。
――春田と牧のシーンはかなりアドリブも多いと聞きました。
そうですね。むしろSNSでバズっているシーンの多くが、台本にはない部分な気もします。 https://woman-type.jp/wt/feature/9973
そういう台本にはない、設計を超えた範疇にある偶然に 視聴者は心を動かされているのでしょうね。 だって演じてるのか、はたまた本人が心からそういう行動をしているのか そこの境目がわからないから。 だからその境目を覗きたくなりますわ。
しかしそんなアドリブという偶発性を産むことができたのは、 綿密に練られた設計を遂行したからこそ。脚本も美術さんもカメラマンさんももちろん役者さんも。原始スープを生み出す時の人の熱量は連鎖すると思います。
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↑小道具にここまでつくりこむのかと、感動。 作り込むことが原始スープを産むに繋がると確信。
とにかく細かく細かく作り込む世界も原始スープの栄養の一つであるという 学びを得ました。
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momonouta-blog · 7 years ago
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栄養001:なぜ原始スープ?
このブログは「それは、原始スープになりえるか?」です。
そもそも原始スープとはなんぞやと思うしょ?
原始スープはかの有名な生命の起源の由来となっている 「有機物のスープ」のことです。
この有機物のスープと太陽の光が合わさって カンブリア代から古生代、新生代と たくさんの生き物が生まれていくのですが、 このとき世界で初めて生まれた生き物たち(有名なのはオパビニアとかハルキゲニアとかアノマノカリスとかですが、、、)はとても面白くて斬新な見た目をしているものばかりでした。
人生考え直したときに、私はこれから何したいの?と 自分に問いかけてみました。 最初に出てきた言葉は「ビックなことしたい」とか「世界を動かすことしたい」とか正直自分でも「はあ?」と思うぐらい抽象的で現実的じゃないことが多く出てきてしまったのです。
これではいかんいかんと思い直し、 わたしが感動してやまない考え方をしている人を 観察してみることにしました。
最近ずっとみてしまった、バンドおとぎばなしの「Cosmos」のMV。 銀座の目抜き通りのなか ダンサーの趣里ちゃんが、ゲリラ的に通りを踊り抜けていくその姿、カメラワーク、一般人が訝しそうに覗き込む顔と対照的なダンサーの晴れやかな表情。この対比がものすごくて感動していました。
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あまりに感動してしまったので、この監督山戸結希さんのインタビュー記事を読ませていただきました。
それまで哲学を勉強してきて、一人の人間から生まれる言葉の持つ限界性みたいなものを感じ���ようになっていたのですが、映画だと、例えば、通行人として映っちゃったおじいさんがこちらを見てるみたいな、そういう自分ではコントロールできない偶然性、他者性、外部性が入ってくるじゃないですか。それがすごく新鮮で。 https://www.houyhnhnm.jp/feature/15359/
ここの偶然性という言葉がものすごく私にインパクトを与えました。 山戸監督の偶然性という言葉から 以前「生き-モノ」という作品を作った時に ある教授から言われたことが頭を駆け巡りました。
これは単純の中にカオティックさを生み出すことができていると思うのだけれど、君はそれについてどう思う?
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「ああ、わたしはこうやって誰かが参加することで発生する偶然性、カオスさが好きなんだ。そうやって何が生まれるかわからないものを作ることが好きなんだ。」と気づきました。
というか、人間ってやっぱり「自分という器の中でしか生まれない想像」を超えたものを面白いと思い、知りたいと熱狂するのではないかと思いました。
だけど、自分の器を超える体験って設計し尽くされた場があるからこそ 生まれてくるランダム性カオス性セレンディピティ性だと思うのです。
で、たくさんたくさん寄り道しましたが戻りまして このランダム性カオス性セレンディピティ性を産むための場が
原始スープ
だと思うのです。
ここで戻ります。
もう一度、私はこれから何したいの?と自分に問いかけてみました。
わたしはこれからも原始スープをたくさん作れる人間になる。 だから、私の作るものは「それは、原始スープになりえるか?」と 常に問いていこう。
これで、将来について少し展望がひらけた気がします。
これからは毎日日々の発見し、覚えておくためにここに書き記していきます。
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