夏鴉(ナツガラス)が運営する作品置き場。 長編(仇夢・蒸気)とシリーズ物(月と夜鷹/BL)、短編をつらつら。エログロ同性異性愛その他諸々ございます。無断転載、無断利用はご遠慮ください。 Please do not reprint without my permission.
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酩酊夜
酷く酔った日のことである。
日毎積もる鬱憤を晴らさんと外した箍が思った以上に理性を守っていたのだと知ったのは、脳がアルコールにすっかり浸されて、どろりと溶けた頃だった。縺れる足で勘定を終えた居酒屋から出ると、冬の始まり��肌寒い風が、ほんの少しだけ酔いを拭っていった。
これ以上は、帰れなくなる。
ほんやりと、一抹の理性がそう言った。ふらふらと、頼りない足取りで飲み屋街を出る為に歩を進めていく。小さな裏通りにひしめくスナックや居酒屋には色とりどりの照明が灯され、酒精にぼやけた視界には幻想的にさえ見える。響く喧噪も何処か遠く、自身が如何に酔っているかを否応なしに自覚させられた。
ふらつく足で、裏通りを歩く。吐き出す呼気も酒臭い。明日は二日酔いだろう。苦く思う。自業自得なのだから、仕方がないが。
そんな時にふ、と。
視界の端に白が閃いて、思わず足を止めた。
何故だか酷く惹かれて振り返る。
色の混じり合った帳の中真っ白なスカートをひらりと揺らして、一人の女が歩いていた。アルコールに滲む視界では細かな姿形は捉えられない。ただ、何にも染まらない白だけが、目を止めていた。
誰だろう。何とはなしに考える。分かる筈もない。記憶の中に、思い当たる女性はいない。その筈なのに、鈍った脳は無意味に回転する。そうすれば、過去の切れ端くらいにはあの白がいた気がして、却って分からなくなった。
呆けたように佇む。
灯りの中、躍る白。
清廉な、潔癖な色。
こんな世俗に満ちた場所には似つかわしくないと思う。
また、冷えた風が吹いた。
思わず目を閉じ、開く。
白は消えていた。
先程まで、何処の店に入る素振りもなく道の真ん中を悠々と歩んでいた筈なのに。それなのに名残もなく、掻き消えていた。
酒精の見せた、幻覚だったのだろうか。
びゅう、と吹く風は裏通りの出口から吹き込んでいた。
もう帰ろう。
醒めつつある脳が呟く。タクシーを捕まえる為に裏通りに背を向け、歩き出す。
酷く酔った日のことであった。
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白光に消ゆ
酷く暑い日であった。
灼けつくような日差しは地面に陽炎を浮かばせて、空は抜けるように青く、透き通っている。道端に生う青草は目の覚める緑に輝き、葉の陰には早朝降った雨露が忘れ去られたように乗っていた。
噎せるような熱気の中、目に映る風景だけは爽やかで、いかにもな夏の有様である。だから、そんな風景に釣られて散歩へ繰り出し、余りの暑さに眉を顰める私のような人間は決して少なくない――と思いたい。気まぐれに外に出て、じっとりと纏わりつく湿気と熱気に閉口しながらも私は結局、近くのコンビニまで足を運ぶことにした。うだるような暑さは、冷えた炭酸と相性が良い。
距離にしておおよそ十分。見慣れた道程は白い日差しに晒されてさながら蜃気楼のようにぼやけている。耳に突き刺さる蝉の声にうんざりしつつ、歩く。じっ、と。何処かで蝉の事切れる声がした。
生命の夏である。
死の夏でもある。
目を潰すような白い日差しは生を謳歌するものも、死へと向かうものも皆等しく晒し出す。鮮やかな色彩は何もかもを灼きつける。
だから、彼女は夏を選んだのだろう。
見慣れた道程を歩く。
夏は苛烈で、しかし慈悲深く平等に照らし出す。
じりじりと日差しに項が痛む。
蝉時雨がさんざと降り注ぐ。
視界の先に慣れ親しんだコンビニが映る。傍らの道路を行き交う車のせいか、つんとした排気ガスの臭いが鼻を刺した。
じぃじぃと、蝉は尚もけたたましい。
熱気は肌に纏わりつき、陽光は目を灼く。
また一匹、事切れた蝉の声がした。
生命の夏である。
死の夏である。
目眩のするような夏の中、私は歩を進めるだけの生き物になって、あの夏に消えた彼女を垣間見る。
酷く暑い夏の日。
ただ、その一幕のことである。
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おめかし
お化粧は魔法なの。
それが口癖の近所のお姉さんは、幼い私が見てもとても綺麗な人だった。長い睫に華やかな目元、薄く上気したような頬。いつもにこにこしていて、歳のずっと離れた私にも優しい、素敵な人だった。近所で、面倒見の良い彼女を両親も信頼していて、しばしば私はお姉さんの家にお邪魔することもあった。
ほら、これが魔法の道具。
そういう時には、お姉さんは沢山の化粧品を見せてくれた。パッケージの凝った、きらきらした道具たちは確かに、幼い私には奇跡を起こす何かに見えた。思えばそれは、歳の離れた私を喜ばせる為の玩具代わりだったのだろう。
お姉さんは私の前で化粧を実践してみせることがあった。化粧がしたいとだだを捏ねる私を宥める為だった。お姉さんの素顔は手入れがしっかりされていて、そのままでも十分綺麗だったけど、それでも魔法が掛かった後は比べ物にならないくらいの絶世の美人に変貌していて、それを見た私はこれまでだだを捏ねていたこともすっかり忘れて凄い凄いとお姉さんを褒めそやした。
魔法はね、順番が大事なの。
その言葉の通り、お姉さんの化粧の順番はいつも同じだった。
順番を間違えると、ちゃんと綺麗になれないからね。
笑いながら、正しい手順で綺麗になっていくお姉さんは、私の憧れだった。
それから十何年か経って、私は大人になった。
お姉さんは、数年で転勤か何かで何処かに引っ越して行ってしまった。
それでも、私はお姉さんの言葉を信じて、いつも同じ順番で化粧をするようになっている。
魔法がきちんと掛かるように。
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自我宿る処
――私は、何処までも物だった。
ずっとずっと昔に編まれた魔法使いの本。それが私。色んな不可思議と奇跡の記された、古の稀少本が私であり、稀少本だからこそ、私は私だった。
ずっと昔に記述されて、ずっと時代の流れを色んな人々の手の中で眺めてきた私が、私と言う自我を得た瞬間を、私は覚えていない。気付けば、私は私として人の手の中にいた。
長い時を経た物には魂が宿るという。
なら、私は、そういう魂なのだろう。
不可思議が記されたことで、時代を経たことで意志を持った稀少本の魂なのだろう。
歩けないことに、自由でないことに疑問を感じているのは、人間と異なることに違和を感じているのは、きっと、何かの勘違いなのだろう。
だって、私は稀少本の――物の中身なのだから。
本なら、本として振る舞うのが務めなのだろうから。
・・・・・
「立って」
私は足に力を込める。つるりとした表皮の下で、無数に張り巡らされた糸がぴん、と張ったり、逆にたわんだりしながら膝の関節を稼働させているのが分かった。軋みはない。中では忙しなく仕込まれた機構が蠢いているのに、表面はあくまで流動的で、滑らかな動きだった。
椅子に座った状態からの起立。曲げた膝を伸ばして、背を伸ばし、一本、身体の真ん中に芯があるように、姿勢を床に対して垂直に保持する。大きさの割に重量のある頭部が少しふらついたけど、足の裏にぐっと力を入れてみれば、すぐに安定した。
「そのまま」
言葉の通りに、私は静止する。静止、している筈なのに、内部の機構が少しずつ、微動しているのが分かる。姿勢の保持の為に。それと生理的な――人間ならば起こり得る不随意の運動。を、演じているのだろう。そうした細やかな仕掛けが、この身体をより生々しく、人であるかのように見せているのだと、この身体の「作者」は言う。
「作者」――私の目の前で私の身体に触れているその人は、真摯な眼差しと慎重な手付きで私の身体を検分していた。表皮の質感、触れたときの、肉の詰まっている感触、身体を身体として運営するのに必要な様々な運動。及びそれに伴う身体の蠢き。
「手を出して、両方」
従う。両手を差し出す。関節の部分に必要な切れ込みの入った手指をその人はそっと摘まんで、私の意志なんてお構いなしに曲げたり伸ばしたりする。
「どう?」
不意の問い。
「……?」
余りにも突然で、どうやって答えるべきか分からないでいると、その人はああ、と少しだけ口元を綻ばせて先の問いに言葉を接いでくれた。
「新しい器は、気に入った?」
・・・・・
私の魂が稀少本のものなら、私の身体は稀少本そのものである。
だから私の自我は、意志は、何もかも無視されて私は世界中を回った。
人の手から手へ。時に美術館へ。何処まで行っても、私は魔法の稀少本だったから、人に求められた。奪い合われることさえあった。
どうやら昔より魔法使いは減っていたから、私をちゃんと扱える人もいなくなっているようだった。
だから、私はただ観測するだけの魂になっていった。
時代の流れを、人の有様を、ただ観測するだけのあってないような自我。
その私を、幾らかの時代の果てに手に入れたのは、風変わりな、そして現代となっては貴重な魔法使いだった。
・・・・・
その人は、一応女性の姿をしていた。ただ、気分で男性になったことも、子供になったこともあったから恐らく、あんまりその事実��重要性を持ってはいないのだろう。少なくとも、一番女性の姿をしていることが多い、というだけで。
ともかく、その人――姿にこだわりがないせいで私は未だにその人の形容の仕方が分からないけれど、今後は仮に彼女としようと思う――は偶然に見かけた稀少本の中身に、魂に気付いたのだという。彼女は一も二もなく稀少本を己の手の内に収めて、そして私にこう言った。
「君に器をあげようか?」
それは、私には、余りにも甘い誘いだった。
彼女は、魔法使いであり、人形師でもあった。尋常ならざる工法で、尋常ならざる人形を生む稀代の存在。彼女にしてみれば、ただ、一つの挑戦、試みでしかなかったのだろう。既存の、肉体を持たない魂に器を与えたらどうなるか。純粋なる好奇心に突き動かされたに過ぎないのだろう。
私にとっては、都合が良かった。
無意味に等しい自我を持て余し、物であることを疎み、人間を、自由な身体を羨んだ存在への、それは天啓。
私は、初めて己の魂で肯定を叫んだ。
・・・・・
魔法で作られた糸で編まれた人工の筋肉を詰めた肉体は、不思議なくらいに私の意志に従順だった。私の望むままに動いた。
「新しい器は、気に入った?」
問いかけ。無意味に、動くことを確かめるように眼球を横方向へ動かす。磨き上げられた美しい硝子玉を思い出す。この身体にはめ込まれたのは、何色だったろうか。視線の先にあった窓。写り込んだ姿で思い出す。鮮やかなビリジアンの光彩。眼球を元のポジションに。彼女は、この器を作り上げた人形師は先の表情を崩さないままに、私の動向をつぶさに見守っている。
「――、」
口を開いて、言葉が喉の奥で凝っていることに気付く。発声の機能は、まだ馴染んでいないらしい。気付いたことが、愉快で堪らない。
代わりに首を縦に振ってみせれば、それで彼女には伝わったのか、彼女は満足そうに口の端を笑みの形に引き上げた。
「そう。じゃあ、慣れていかないとね、これからの人生の為に」
差し出したままほったらかされていた両手を取られて、私の身体は彼女に引きずられるように歩き出す。
「今日から、君は人なのだから」
私は、ふと、眼球をまた動かす。窓ではなく、この部屋に設えた机の上に。
ずたずたにされた、紙屑と化した本が、転がっている。
��私の魂はもう、稀少本の魂ではない。
何処までも物だった私は、それの破壊でもって、漸う新たな定義を手にする権利を得たのだ。
だからこそ。
私は。
私は、一刻も早く、人にならなくてはならない。
私の意義を見出さなくてはならない。
私は。
私は。
わたしは?
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仇夢に生きる拾遺 狩人たち
爆ぜるように踏み込み、跳び上がる。そのすぐ下を細長い顎が地面を抉っていった。動揺はない。そうなるように誘導し、物の見事に正しく動いてくれただけ。半身を翻し、正対する。
随分と機嫌が悪そうだ。と言って、その顔は殆どが黒く塗りつぶされているかのようだからあくまで予想でしかないが。
禍者(まがもの)。
人を、人のみを襲い、仇成す黒き化け物共。永くこの島国、葦宮(あしみや)を脅かし人に恐れ疎まれる存在。
そして、我々にとっての金のなる木。
頭を振る禍者は、今回は山犬の姿をしている。連中は決まった形を持たない。だが、人の理解が及ぶ生き物の形を必ずとって現れる。たまに下手くそな――脚や頭の数を間違えるような――奴もいるが、今回のに限って言えば、外側はそれなりに上手く取り繕っている。少なくともその輪郭は山犬そのものである。地面を抉った際に口に入ったのであろう土塊を吐き出し、体勢を低くする。来るか。刀を握る右手に力が籠もる。視線は禍者に向けたまま、頭は忙しなく思考する。身体に染み込ませた数多の剣の型。今の状況の最適解は何れか。眼前の化け物の蠢きを見ながら選択して、備える。こちらからは動かない。動いたところを、斬り捨てる。
果たして、その瞬間は程なくして訪れた。
跳ねるように此方へ突進してくる禍者。大きく開かれた顎から唾液が溢れ、いやに大きな牙がぎらりと月光に煌めく。両の足で地面を踏み締める。受け止めるのだ。生半可な体勢では撥ね飛ばされるのは此方である。無論、ただでは受け止めない。間合い。彼我の距離。己の切っ先の届く瞬間を、見極める。
刹那。
下げていた切っ先を跳ね上げ、真横へ振るう。開かれた禍者の口腔が切っ先に裂かれる。掛かる突進の圧を逃がしながら真一文字に刀を振り切れば、身体の横を禍者の残骸が転げていった。最後か。否。手の中で刀をくるりと回し、そのまま背後へ深く刺し込む。温い手応え。痙攣と、生温かい液体の感触を味わいながら抜けば、どさりと禍者が倒れる音がした。一体ではなかったらしい。背後にちらりと目をやりながら、血振るいして納刀。
何とはなしに予感がして、一歩、横にずれる。
「ちっ」
舌打ち。当然、自分の物ではない。同時にずたぼろになった禍者の死骸が足下に転がってきたが、驚きはなかった。それくらいはやるだろう。奴なら。
「何で避けちまうかなあ」
至極残念だ、と言わんばかりの非難がましい声色。
「避けなきゃ怒るんだろ?」
「あんなもん避けれねえ奴と手を組む価値はねえよ、くそったれ」
流れるような罵倒と共に奴は――帯鉄菱(おびがねひし)は目を眇めて凶悪に笑った。
・・・・・
滑稽な程に大仰な村長の礼を聞きながら努めてにこやかに禍者退治の報酬を受け取る。感謝の念も、言葉も所詮は報奨金の添え物でしかなく、とどのつまり、相応の金さえ貰えればそれ以外はどうだって構わないのが正直な所である。流石にそんなことを顔に出しはしないが。
だから隣で至極退屈だという表情をしている菱の脇腹を小突く。残念ながらそうした機微を理解するつもりのない菱については、都度一瞬の取り繕いに期待するしかない。
折角なのでと村への滞在を勧めてくる村長の言葉をこれまた努めてやんわりと断り、村を後にする。金さえ貰えれば長居は無用だった。
「しけてんな」
「妥当だろう」
早速ケチを付ける菱にため息。この男はなにかしら文句を吐かないと気が済まないらしい。
「わざわざあんなド田舎までこっちは行ってやってんだ。手間賃くらい色付けろってんだよ」
「わざわざド田舎まで行かないと仕事がない、の間違いだろう。相応の報酬が貰えるだけで十分だ」
「世知辛いねえ……」
ふん、と鼻を鳴らす菱。
まあ、菱の嘆く気持ちも正直分からなくはない。
禍者という化け物蔓延るこの島国においては、逆に人間同士の争いは少ない。あって小競り合い程度。そうなれば俺たちのようなただ腕っ節に自信のあるだけの連中の仕事は、化け物退治くらいしかないのだ。同業者は星の数ほどいる。徒党も組まずに腐れ縁で繋がっているだけの無名の剣士に頼むような人間は、潤沢に退治屋のいる現状では悲しいかな、こちらから見付けてやらなければならないのだ。
「ま、結局は足で探すしかないな」
だから菱も、嫌な顔はするが明確に否定はしない。なんだかんだでもう、つるみ始めてそれなりの期間になる。現状も、互いのやり方も承知はしているつもりだった。
・・・・・
「ああ、駄目じゃねえか」
大仰な菱の悪態に足を止める。
依頼人捜しに山へ分け入っている最中のことだ。この近くに村がある筈だ、と言う菱の言葉を信じてのことだったが、当の本人がくそったれ、と苦々しげに頭を掻いていた。
「見ろよ、一将(かずまさ)」
顎がしゃくられる。その先へ視線を向けて、ああ、と思わず嘆息が漏れた。
「この村、守手(もりて)持ちか」
「こんな田舎くんだりにな」
恐らくは村へと続いているのだろう、森の中に作られた細い道。その両脇に立ち並ぶ木々には幾枚もの札が貼られていた。秘伝の技法によって梳かれた、雨風にも強い特殊な紙の上には複雑な図柄と文字。間違いなく、超常の業を使う呪術師の物だった。
「禍者除けの札に間違いないだろうな。ここまでご苦労なこったなあ」
「呑気言うんじゃねえよ。折角ここまで来たってのに……」
この小さな島国、葦宮には古くから呪術と呼称される業がある。時に雨を呼び、時に病を退ける、尋常を生きる者には決して成し得ぬ不可思議を成すその業は、呪術師から呪術師へ脈々と受け継がれているという。ただ、そんな謂われに反して存外に呪術師は見かけることは少なくない。剣の流派のように、分派やら何やらで数は増えているらしい――知人の呪術師から聞いた程度だが。
ともかく、そんな現状だからか、呪術師も禍者狩りに手を出している者が多いのだ。特に、特定の村や町に拠点を置き、用心棒となる者が。守手と呼ばれる彼らは兎角、流れの禍者の狩人にとっては厄介者だ。あらかじめ呪術によって禍者の入らぬように結界を仕込み、有事とあらばお得意の呪術でもって鮮やかに禍者や時にはならず者をも退ける。守手のいる所、流れの狩人などお払い箱も良いところなのだ。
「しかしまあ、流石に食料の調達はいるしなあ。立ち寄るだけ立ち寄ろう」
「げ」
見るからに嫌そうな顔を作る菱に同じく渋面を作ってみせる。
「てめえは呪術師のいる村に助けて貰って構わねえってのかよ」
「構わんよ、別に」
癪だと言うだけだろうと言えば、舌打ちをして余所を向いた。図星なのだろう。苛立ちの捌け口程度だ。食料やらが尽きかけているのは事実であるし、それをどうにかするには如何に苦手に思っていようが呪術師のいるであろう村を頼る他ないのだ。禍者除けの札が所狭しと張られた道を進んでいく。
しかし。
歩みを進める内。
違和を、その道に覚えた。
「菱」
「……んだよ」
「気付いているか」
「札が古いってんならとっくに気付いているよ」
不貞腐れたような色は既に菱の表情にない。素早く周囲を見回し、目を眇める。
「どうにも、呪術師の仕業にしちゃあ、お粗末だ」
初めは気付かなかった。
しかし、こうして道を進み、じっくりと貼られた札を見ていけば分かる。特殊な技術で梳かれた筈の紙は黄色く変色し、物によっては裂けたり破れたりもしている。生憎と呪術に詳しくはないが、こんなに薄汚れていては効果なぞ期待出来ないのではなかろうか。菱も同じようなことを思ったのだろう。何があってもいいように、その手は腰の刀に添えられていた。
その危惧が現実のものとなるのに、時間はそう必要なかった。
どちらともなく刀を抜き、振るう。
どちゃり、と足元に禍者の亡骸が転がった。
「おいおい……本当に機能してねえじゃねえかよ」
「守手の手落ち、ではなさそうだな」
互いに顔を見合わせ、村への道を走る。
この地に守手の結界は、既にない。
・・・・・
守手のいる筈の村は、惨憺たる有様だった。
村の家屋はどれもが大なり小なり損傷を受けていて、畑の作物は食い荒らされはしていなかったが、無意味に掘り返された跡が幾つもある。禍者は人間以外を喰らわない。ただ、暴れただけの痕跡。夥しく残る獣の足跡の合間に見付けた紙切れを摘み上げる。村を守っていた筈の札の切れっ端だった。
当然、そこに住まう村人たちが無傷の筈もない。
比較的まともな家に一所に集められた人々の多数――大人の男たちが筆頭だ――は何処かに傷を負い、酷い者は俺たちが訪った時点で顔色を白くしていた。血を流し過ぎているのだ。
「で、何事だ、この有様は」
絶望や怯え、恐れに口を噤んでしまった者には目もくれず、恐らくはこの村の長であろう一等歳上の男の前に菱は座った。下手に遠慮をしない質なのはこういう時に有用だ。
「結界はない、守手もいないじゃそりゃあ禍者の良い餌だ。その癖半端に守手の残骸ばかりがありやがる。一体何があった」
「儂らが聞きたいくらいじゃ」
疲弊のありありと滲んだ顔を隠しもせずに村長は大きな息を吐いた。
「主らの言うように、元々は守手様が此処にはおった。じゃが、何日か前から、姿が見えなくなってしもうた。何もかも置いたままでな」
「喰われたのか?」
「あの方は禍者には滅法強かった。一度たりとも圧倒されたことはなかった。そんなことはあり得ぬ……と思う」
「なら……成る程ねえ……」
幾つかのやり取りを終えた後、菱は唐突に立ち上がり、こちらへ向かって目配せした。差し詰め着いて来い、だろうか。菱に従って一旦家を出る。疲れ果てた人々は追いすがりもせず、ただ黙ってこちらに視線を投げるだけだった。
「また妙なことになった村だな」
家を出て早々素直な感想を放ってみる。守手が元々いたことで、不在の今、却って大きな混乱に繋がっているのだろう。信じていた守りが崩れる恐怖は如何ほどだろうか。そんなことを考えていると、菱はけっ、と顔を顰めてみせた。
「妙なんてもんかよ、糞が」
視線をそれとなく巡らせて、菱は人々の集まる家から離れる。他人には聞かれたくないらしい。結局、少し距離を置いた木立の中、背を木に預けて菱は気怠げにこちらに視線を寄越した。
「面倒な場所だぜ、此処」
「面倒と来たか」
「呪術師狩りって奴だぜ、ありゃあ」
やだやだと菱が頭を振る。
「噂にゃ聞いたことあんだろ」
「ああ、某かが全国の呪術師を消して回っているって話だったか」
知り合いに聞いたことがある。ある日突然、力ある筈の呪術師が忽然と姿を消してしまう。争いの痕跡もなく、ただ姿だけが見えなくなる。同胞もそうやって何人か消えたと、知り合いは語っていたか。あれは禍者の仕業ではない、とも。
「おう。それでな、良いことを教えてやろう」
木に凭れ、天を仰いで菱は大きなため息を吐く。
「あれはな、お偉いさんがやってんのよ」
「ほう」
「呑気な返事しやがって」
「とは言え、現実味がなくてなあ」
「……まあ、呪術師じゃなけりゃそうなるか」
苦笑。菱にしては珍しい、微妙な表情だった。
「お前とも長いし、こういうのに直面するのは今後もあるだろうしゲロっちまうけどさ、俺ん家、それなりにやんごとなき家柄って奴でよ。そん中のほんの一握り、まあ俺みたく腕の良い奴よ、そういう奴に話が来る訳」
その刀の腕でもって、世の呪術師を狩り尽くせ。
「まるで禍者と同じ扱いだな、その言い草は」
「おうよ。理由は知らねえがお偉いさんにとっちゃ一緒らしいぜ。連中は人々を禍者から守ってんのに、ひっでえ話だよなあ」
「お前が家を出た理由か?」
「あ? んなのなくっても出てってたよ。あんな辛気くせえ家、俺の肌にゃあわねえっての。ま、その話にいよいよ阿呆らしくなったってのはあるかもな」
大欠伸。それから大きく伸びをして、菱は少し姿勢を正す。
「そんでだ。面倒ってのは、お偉いさんは呪術師も、呪術師をありがたがる連中も嫌ってるらしいことだな。そんで、此処の呪術師は狩られたてほやっほやだ」
「……この村が今まさに目を付けられているっていうことか」
「話が早くて良いねえ」
にんまり、と口の端を吊り上げて菱が嗤う。
「お偉いさんってのは怖えぞ。何でもしちまうんだ。くそったれな手前勝手な理由で、他のもんを滅茶苦茶に出来ちまう。でかい街ならともかく、こんな小っせえ村、どうされたって誰にもばれやしねえ。そんでもって、お誂え向きにこういう、都合の悪い話を知っている跳ねっ返りもいると来た」
どうすると思う?
問われるまでもないだろう。菱の話が本当とするのなら、如何な理由とは言え、人の命を狩ることを躊躇わない連中が、この村の近くにいるとすれば。
思わず、ため息が漏れた。そのくらい、許してくれても良いだろう。
「……このまま山に消えるかなあ」
「次善だな」
「最善は?」
「俺を切り捨ててお前だけとんずら」
「それをさせる玉か? お前が?」
腐れ縁なのだ、最早。この手練れの問題児と相対することと、幾許かの秘密の共有。どちらが己に有益かなど、火を見るより明らかだというのに。呆れて呟けば、菱はげらげらと笑った。
「そうしたら一生お前に付き纏ってやるよ」
「その方が��程が面倒だな。お前の言う次善が俺には最善だ。そういう判断が出来なきゃ怒るだろう、お前さんは」
「当たり前だ、くそったれ」
心底愉快そうに笑う菱に肩を竦めて、村とは逆方向の鬱蒼と茂る森の中に足を向ける。
当面は、まともな寝食は期待出来ないだろう。
それでもまあ、生き抜くことくらいは出来る筈だ。
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老狼
その老いた狼に名前はない。
その老いた狼に仲間はない。
その老いた狼に力はもうない。
草臥れた身体を湿った大地に横たえ、死を待つのみ。
大きく、かつては力を持った狼に近付く獣はない。
狼は独り、否応なしに宛がわれた一所で微睡む。
獣たちは恐れた。
しかし、人間は、驕った。
眠るばかりの狼を侮り、戯れに少しの肉を放った。
老いた狼は少し目覚め、目の前に投げられた肉を囓った。
人間たちは嗤った。
今や何の脅威もないのだと、指を指した。
老いた狼は眠るばかりだった。
人間たちは戯れに幾度となく肉を放った。
時に石を放りすらした。
老いた狼は、肉ならば喰らい、石にはただ低く呻くばかりだった。
人間たちは増長した。
力なき狼を恐れる人間はもういなかった。
見世物にすればいい。
ある人間が言った。
悪��に手を染めた人間だった。
ある日、微睡む狼の前にまた何かが投げ込まれる。
老いた狼は目を開く。
目の前には、酷く傷付いた人間の子供が転がっていた。
人間たちは囃し立てた。
人間たちは罵声を上げた。
喰え、喰らえと。
子供だけが、小さく啜り泣いていた。
老いた狼は。
狼は。
弾かれたように起き上がり、囃し立てる人間たちを喰い荒らした。
悲鳴。
怒号。
全てを掻き消す咆吼。
狼がまた身体を横たえた時、立っていたのは子供だけだった。
その老いた狼に残されていたのは、僅かな矜持だけ。
老いた狼は、残りの命で矜持を示し、そして死んだ。
この地に狼を崇める民が根付くのは、少し先の話である。
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幻視
これは眼鏡を掛けている人なら分かってくれると思うんだが、冬の夜って言うのは眼鏡を掛ける人間には至極危ないのさ。
何しろレンズが曇って碌に周りが見えない。かろうじで見えるのは自分のほんの少し前くらい。街頭やら車のヘッドライトに照らされたら尚更視界は狭まっちまう。本当、困ったもんだよな。
俺がコンビニに行こうってあの日思い立ったのは、そういう、冬の夜だったのさ。
正直、そういう不便はよくよく承知していたから迷いはしたけれど、まあ、普段から行き慣れている道ではあったからいいかって思い直して家を出た訳。気分はそんなに乗っていなかったから、耳にはイヤホンをしてそれなりの音量で音楽を流していた。結構遅い時間だから人通りも車通りもなくて、周りの音なんて聞こえなくてもいいかって思ったんだよ。
案の定、コンビニまでの道で眼鏡は盛大に曇ったよ。予想通りだったから、まあ、煩わしいなって思うくらい。さっさとコンビニに行っちまおうって歩くスピードは上げたかな。
そうやって、急いでる時にさ。
俺の真横に、真っ黒な影が立っていた。
心臓が止まるかと思ったね。
でも、すぐ気を取り直したよ。ああ、曇ってて見えてなかったかって。だからすぐ、すみません、って謝ったよ。
「いえ、お気になさらず」
そうやって返されて、普通にすれ違った。こんな時間に何やってんだろって、自分のことを棚に上げて思いながらさ。
それからはコンビニに何事もなく着いた。んで、耳元でじゃかじゃか鳴ってるイヤホンを外した。
そうしなきゃ、周りの音なんて碌に聞こえないからさ。
で、気付いたんだよな。
なんで、さっきすれ違った奴の声、ちゃんと聞こえてたんだろうって。
思ったら、急に背筋が寒くなった。
よくよく考えたらさ、おかしいんだよ。声もだけど、いきなり真横に立ってたってことも。だって、いくら眼鏡が曇ってたって、全く前が見えない訳がない。真横になるまで人に気付かないなんて、あるわけがないんだよ。
俺、本当に人とすれ違っただけなのか?
そんな風に思ってしまえば、もう怖くて仕方なかった。
さっさと買い物を済まして家に帰ったよ。当然、回り道して行きに使った道は避けてさ。
その間も、ずっと考えてしまっているのさ。
俺は何に声を掛けちまったのか。
あれは俺の二倍は背があったんじゃないか。
あれの声に生気なんて微塵もなかったんじゃないか。
あれの。
あれは。
出会ってはならない、どうしようもない化け物だったんじゃないか。
あんたは、こう思ってるだろ。
本当は大したもんじゃない。
暗がりで、よく分からないままだから勝手に、余計に恐ろしく考えてしまっているだけだって。
俺だってそう思いたいさ。とどのつまり、あれはただ単に夜中に出歩いていた人で、勝手に俺が変な肉付けをしているだけだってな。
でも。
そうやって気のせいだ、考えすぎだって言い聞かせているのに、頭の中にこびりついているのさ。
あの真っ黒な影が。
そして恐ろしい考えを巡らせずにはいられない。
それを、そうに違いないと、嫌な確信を得られずにはいられない。
今、俺の中であの影がどんな有様か教えてやろうか?
……冗談だよ。そんな悪趣味な真似はしないさ。
ああでも。
まともに見てなくて良かったとは、それだけは幸運だったと思っているんだよ。
ほら、言うだろ? 相手を「そういうもの」だと認識しちまったら、向こうが本性を見せるって。聞いたことないか?
そういう話に当てはめれば、俺は幸運だったんじゃあないかと、そう思ってるんだ。
俺はあの瞬間、碌に見えず何も分かってなかった。
だから、相手も何の手出しもしなかったんじゃないかと、そう考えている。
だから、俺はただの頭をおかしくしただけの人間でいられるんじゃないかって。
そんな訳で、俺はこの度の合わない眼鏡をずっと掛けているのさ。
万に一でも、あの化け物をまともに見ちゃ堪らないからな。
ほら、今も多分、あの陰にいるしさ。
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仇夢に生きる12話 誘う香
鐘の音が鳴り響く。
鐘。
鐘。
鐘。
「――まった現れたのかよ!!」
吼えながら圓井(つぶらい)は愛刀を引っ掴んで当直室を飛び出た。同じく夜警当番として待機していた同僚たちも一緒だ。誰もがうんざりした顔をしている。ただ一人、朱雀隊隊長たる帯鉄(おびがね)だけは常の凛とした面持ちを崩さない。
「多いな」
それでも、流石に一言零さずにはいられないようだったが。
「多くないっすか隊長ぉ」
「ああ、如何に言っても、な」
「これじゃあ仮眠もおちおち出来やしねえっすよ」
禍者(まがもの)の出現を告げる鐘の音を背に、現場へと走る。案の定沸いている禍者に舌打ちが漏れる。手だけは無意識的に二振りの愛刀をすらりと抜き放つ。申し訳程度に鎧を着込んだ人型数体と、取り巻きのような山犬の形の禍者。人型の手には刀。典型的な新型と旧型の組み合わせ。走りながら圓井は他の気配を探る。眼前の連中が囮となり、隠れた弓持ちが交戦中に矢を仕掛けてくる、なんていうのは今や良くある連中の戦法だった。そして、そうした混乱に乗じて改史会(かいしかい)の連中がこちらを掻き回してくることも悲しいかな、今では当たり前のように行われている。故にこそ、五感を圓井は研ぎ澄ます。音、匂い、空気の流れ。幸いにも、今回は目の前の集団で打ち止めらしい。
「市吾(いちご)!」
「あれだけっす!」
自慢という程ではないが、圓井の五感は人のそれより鋭い。帯鉄の問い掛けに応えを返せば、彼女は小さく頷く。隊長に信を置かれている誉れは、こうした場でもこそばゆいものだった。
「���先駆け】、撃て!」
叩くような帯鉄の声に、銃声が重なる。
朱雀隊には様々な武器を所有する者がいるが、大別すればそれは二種類に分けられる。即ち、近接か、遠距離か。青龍隊は誰もが刃を手にしている。各々が思うままに暴れ回り、切り裂き、禍者を蹂躙する。朱雀隊は違う。隊長や隊長補によって様々な武器を持つ者たちは区別され、適切に運用されていく。効率良く禍者を屠る為に。そして、多くの人間が生きて帰ることの出来るように。
駆ける圓井の前で火花が光る。【先駆け】と名付けられた銃の使い手たちが一斉に引き金を引いたのだ。禍者へ殺到する鉛玉。刀持ちの新型は流石にそれらを自らの刃で退けたようだが、獣の方はそうはいかない。山犬たちが吹き飛ぶ。全部ではないが、相当数が鉛玉に倒れていった。残りは両の手で数えられる程度。夜警の為に控えていた人数は少ないが、これならば後は残りの近接に秀でた者で十二分に処理出来る。横一列に並ぶ【先駆け】を追い抜きながら圓井は己の獲物を探す。同じ隊にいると言えどその能力には差がある。敵に対して何人で挑むべきか。どの敵に当たるべきか。
朱雀隊は集団にて禍者を屠る部隊である。
属する者は、与えられた役割に忠実たれ。
圓井は半ば直感で獲物を選定する。脅威であり、己一人で屠れるのはどれか。考えるより刀を振るう方が早い。鉛玉の雨を掻い潜って生き残った山犬の一匹へ肉薄。既存の生き物を上っ面だけを模した化け物とは言え、その弱点はそう変わらない。飛び掛かって来る山犬。大きく開かれた顎へ怯むことなく左手の刀を差し込む。山犬に己の勢いを殺す術はない。ずるりと肉の奥に刃が引き込まれる感触。ぬらりと湿った口腔へ飲み込まれる愛刀。圓井は迷うことなく左手を離す。頽れる山犬。その脳天へ右手の刀を突き刺した。頭蓋をも砕く鋭い刃が脳天から顎下へと貫通し、地面へと突き立った。両の手から刀を手放した無防備な態勢。狙われぬ筈がなく小賢しい人型が上段から圓井の脳天を砕かんと太刀を振り下ろした時には、圓井の左手は山犬の口から刃の片割れを引き抜いていた。油断なぞあろう筈もない。手入れを怠らない愛刀は抵抗一つなく圓井の左手に収まる。後は、身体を捻りながら頭上から来る手首を刎ね飛ばし、頸を断てば禍者とて骸に成り果てる。
今回は、これで十分。
圓井の周囲は既に戦闘の気配が褪せつつあった。
乱戦混戦ならともかく、明確な判断をもってめいめいに飛び掛かった朱雀隊の隊員たちが苦戦なぞ有り得ない。
たった一人で人型に挑んだ帯鉄も例外ではない。
圓井の向けた視線の先、鎧を纏った禍者が盛大に吹き飛ばされていた。帯鉄の白い足が真っ直ぐに禍者の中心を捉え、蹴り飛ばしたらしい。無様に転がる禍者が刀を握った手を動かすより早く、彼女の刀は鎧の継ぎ目、首元へと吸い込まれていた。いっそ優雅な所作で振り抜かれる右手。ずるりと断ち切られた首から吹き出る血を浴びながら、眉一つ動かさず帯鉄は戦場を見回した。足元には幾つかの禍者の骸が転がっていた。
「負傷者はいないか」
誰もが否を返す。血に塗れた顔が微かに緩められた。
「ご苦労だったな。連日連夜の戦闘、お前たちも疲れているだろう。さっさと戻って休むぞ」
応と声を上げ、それぞれに朱雀隊は踵を返す。そんな中で圓井だけが、じいっと先程までの戦場を見つめていた。
「どうした市吾」
「多分なんすけど、人死に出てますね、此処」
緩やかに帯鉄が息を詰める。
「……そうか」
恐らくは圓井だけだろう。戦場に残る、禍者のそれではない血の匂いを嗅ぎ取ったのは。
そして。
「避難は完了していたと聞いていたが……改史会か? ……いや報告しておこう。一先ず戻るぞ。……市吾?」
「あ、いえ、大丈夫っす」
淡く空気に溶けゆく奇妙な芳香を捉えたのも。
・・・・・
「隊長、朱雀隊からの報告書が上がりました」
「ありがとうねぇ。机の上にでも置いておいて」
「すみません、こちらの資料は」
「それは僕が貰おう」
「隊長、端鳴(はなり)から白虎隊の使いが」
「おや、もう来ちゃったかぁ」
玄武隊は常ならぬ騒々しさに包まれていた。あちこちに資料が山のように積み上げられ、普段は静かな玄武棟には絶えず人が出入りしている。
戦場。
そう呼ぶに相応しい状況だった。
禍者の葦宮(あしみや)の首都、桜鈴(おうりん)への侵攻は無事収束させた。だが、一息吐く間もなく禍者の対処へ追われることとなったのだ。
「隊長、白虎隊の方は私が」
「そうだねぇ。幸慧(ゆきえ)君、お願いするよ」
「はい」
両手に書物と報告書。更には周囲の机に資料を山積みにした倉科(くらしな)隊長に代わって、混迷を極める室内を後にする。
「使いの方は」
「応接室に、隊長補」
「分かりました、ありがとうございます。貴方はご自身の仕事に戻ってもらって大丈夫です」
「はっ」
慌てたように室内へ踵を返す背を見て、小さく息を吐いた。誰もがそれぞれに仕事に追われている。
反攻作戦の成功。それを待っていたかのように葦宮全土で禍者の出現頻度が劇的に増加した。禍者の出現を告げる鐘の音は時間を置かず日に何度も鳴り響き、それが収まれば戦闘に赴いた部隊からの報告書が上がる。交戦し、集められた情報を元に禍者に対する研究、理解を深めていくのが玄武隊の仕事だ。当然、それぞれの報告書は精読される。また桜鈴の祓衆は謂わば本隊。地方各地に点在する分隊からも情報は上がってくるのだ。桜鈴の玄武隊は、常に情報の処理という戦いの渦中に置かれている。これまでであればそれでも隊長の指示の下、それなりの余裕さえもって成せていたものではあるが、以前の比ではない程に禍者の情報が集約される今となっては限界近い稼働率でもってどうにか処理しているのが現状だった。
「お待たせしました。玄武隊、本隊長補の松尾(まつお)です」
「端鳴白虎隊の真藤(まふじ)です。忙しいでしょう、こちらは」
「……まあ、そうですね」
思わず苦笑。流石に、強がれはしなかった。対する真藤さんも仄かに口元を緩める。
「愚問でしたね。ここは祓衆の本部。こんな状況で忙しくない筈がない。白虎隊の本隊長に挨拶を、と思ったのですが捕まらなかったですし」
「各地を回っていますからね、隊長は」
白虎隊は何処もそうだろう。禍者に対する斥候役を担うことも多いが、同じくらいに各地の伝達役、生ける情報網としての任も帯びている。禍者が何処に現れたか、分隊たちの動向は。そんなあらゆる情報を己の足で集め、伝えていく部隊。
特に初鹿(はつしか)隊長は並外れて足腰も強いし持久力もある。他の隊員の数倍の仕事を嬉々としてこなしていることも少なくない。個人的に倉科隊長の私用も受けているようであるし、尚のこと捕まえるのは至難の業だろう。
「それで、端鳴の様子は」
「ああそうだ、話が逸れてしまいました」
幸慧個人としては他愛ない会話も悪くはないが、残念ながら時間に余裕があるわけではない。そっと本題を促せば、空気は自然と引き締まる。
「中々に酷いものです。体感としては……そうですね、三倍は出ています。端鳴だけではなく、周辺もですね。こちらは端鳴程ではないのですが、それでも忙しない。一応こちらが」
懐から取り出された紙が開かれる。しっかりと折り畳まれていたのは二枚の地図だった。
「端鳴玄武隊によって製作されたここひと月の禍者の出現分布図です。もう一枚は一年前の物ですね。うちの玄武隊より託された物です、宜しければお役立てください」
「ありがとうございます。活用させてもらいます」
受け取りながら、地図に目を走らせる。一目瞭然。一年前のそれより、出現数は何処も軒並み極端に増加していた。もっとも——それでも此処桜鈴に比べればその増加率はまだまし、なのかもしれない。
「それと」
やや渋い表情。不思議に思いながら視線で促せば、真藤さんはそっと、何かを机に置いた。
何か。そう思ったのは幸慧にはあまり見慣れない物だったからだ。重厚感のある、深い黒のそれは、恐らくは金属で出来ているのだろう。安価な物では決してない。
「開けても?」
「大丈夫です」
断って、それに付いた小さな蓋を開けてみれば、ほんの微かな甘い匂いが鼻腔を掠めた。覗けば、少しの燃え滓……ほとんどが燃え尽きた灰が底の方で溜まっていた。
「香炉、ですか。これは」
「ええ」
真藤さんは居住まいを正した。
「それは、禍者との交戦後発見された『手』と共に回収された物です」
「手」
自然、眉が寄る。
つまりは、手以外は見付からなかったのだろう。悲しいことだけれど、残念ながら珍しいことではない。
「そして、禍者に襲われかけていた改史会の人間が所有していた物でもあります」
「改史会の持ち物、と」
「恐らくは。……先の『手』も、そうでしょう。わざわざ、喰われに出ていたのだと思います」
「そう、ですか」
少しだけ。
少しだけ、安堵を覚えた自分を幸慧は自覚している。喰われたのが、改史会の人間で良かった、と思う自分がいることを。自己嫌悪はすぐに振り払い、そっと香炉を持ち上げる。見た目よりもずしりと重い。
「そこまでなら然程の意味を見出すこともなかったのですが……その襲われかけていた改史会の連中、些か妙なことを口走りまして。曰く、」
――これは神使をお招きする呪具である。
「立て続けに見付かったのもそうですが、連中の言い分も奇怪極まりない。自ら香を片手に喰われに出向くなど、悍ましいことこの上ないでしょう。ですから、本隊にお預けしたいのです」
「……神使に、呪具ですか。確かに、妙なお話ですね」
「ええ。それにこの香炉を持っていた改史会の人間ですが、それはそれは異様なまでに禍者に集られていましてね。それも気味が悪くて」
「神使を、お招き……」
まさか、と言う程ではない。改史会の言い分を噛み砕けば、容易に想像はつく。
「禍者を、呼び寄せる香、と、そういう訳ですか」
「言い分を信じれば。まあ、それにしたって禍者を神使だの何だのと良くもまあ、勝手なことを言う連中のことですからにわかには信じ難いのですが……如何せん実際に見てしまってはね」
「……調べた方が良いのは明白ですね。分かりました、これは本隊で預かり調査します。ありがとうございます」
「いえ。燃え滓ですから問題はないでしょうが、くれぐれも扱いには気を付けてください」
「勿論です。他の者にも伝えておきます」
・・・・・
「――成る程、それでこれを預かってきたんだね」
「はい。話だけではその、にわかには信じがたいのですが……」
情報の処理に追われる中、取り敢えずは此処まで、という倉科隊長の鶴の一声で玄武隊が業務を終えたのは日もすっかり沈んだ頃だった。普段なら夕方には玄武隊としての仕事は終わっているのだ。三々五々解散していく玄武隊たちが顔に色濃く疲労を滲ませていたのも無理はないだろう。
「そうだねぇ。今まで禍者は人間にしか反応しない、って思っていたのにねぇ」
祓衆の仕事場と居住空間は階が分けられている。誰もが常のそれを超過した時間業務に追われていれば、尚のこと仕事が終われば仕事場である階は静寂に包まれる。夜のこんな時間に明かりが点いている部屋なんて、恐らくはこの執務室くらいだろう。
そんな静かな空間で倉科隊長とお茶を飲みながら言葉を交わすのは、穏やかで嫌いじゃない。会話の内容が不穏なものであっても、だ。
「確かに、ちょっと匂いはあるねぇ……でもそんな、取り分け変な匂いって訳でもなさそうだけれども。これが特別に禍者を呼ぶのかなぁ?」
不思議そうに香炉を観察する倉科隊長の目は爛々と輝いている。白手袋に包まれた手は忙しなく香炉の表面をなぞり、丸眼鏡の奥の瞳は眇められたり見開かれたりと真剣な様子で検分を行っていた。幾分の興奮さえ感じさせる所作は倉科隊長にしては珍しいものだった。
「ひとまず預かりはしたのですが、どう調べたものでしょうか……」
匂いという不定型なものを調べることは流石に経験がない。おまけに幸慧は都たる桜鈴から巨大な山脈一つ隔てた寒村の出なのだ。香、なんて高尚な――というのも偏見かもしれないのだけれど――ものに触れる機会なんて今までなかった。
「そうだねぇ」
さしもの倉科隊長もううん、と少し唸る。が、少しして微かに口元を綻ばせた。
「餅は餅屋、かな」
「え?」
「土生(はぶ)隊長補にお願いしてみよう。彼女の家は貿易商だ。家で多くの品物を扱っていた筈だし、彼女自身、結構な趣味人だったと思うからねぇ」
成る程、と頷く。中々お目にかかれないような精巧な車椅子を用意出来る土生家は海向こうの国の品々にも、無論この葦宮全土の物品にも詳しいと聞いたことがある。都羽女(つばめ)さんならば、もしかしたら何か分かるかも知れない。
「明日辺り、持って行ってみましょうか」
「うん、そうしようか。じゃあ今日はこれでお開きにしよう。ごめんねぇ、こんな夜まで付き合わせちゃって」
「いえ! 私はこのくらいは全然大丈夫なんで!」
頭脳労働は性に合っているからか、本当にそこまで堪えてはいなかった。ぐっと拳を作って答えると、倉科隊長はふっと相好を崩した。
「流石だねぇ。頼りにしているよ」
そんな会話を交わした次の日、早速幸慧は倉科隊長と共に白虎隊の隊長たちの控える執務室の扉を叩いていた。少しの間を置いて返って来た応えに従い、部屋に入れば部屋の主である都羽女さんはにこやかに出迎えてくれた。
「どうしたんだい、お二人さん。揃って来てくれるなんて珍しいじゃないか」
名目上、隊長と隊長補の為の部屋ではあるけれど、もう一人の主である初鹿隊長は外に出払っている時の方が多い。その影響だろう、執務室にはどちらかと言えば都羽女さんの趣味であろう調度品があちこちに飾られている。そのいずれもが、恐らくは相応の品の筈だ。倉科隊長は調度品に囲まれた部屋を突っ切り、都羽女さんへと歩み寄る。
「今日はねえ、ちょっと、君を頼りたくてね」
言いながら、香炉を執務机にことりと置いた。
途端、普段は緩く閉ざされている目が鋭く開かれて香炉を観察する。つんと跳ね上がった眦を持つ眼差しはあくまで真摯で、香炉を扱う手もゆっくりと、慎重に香炉の上を撫でていく。
「こりゃまた随分と良いもんを持って来てくれたねえ」
幸慧たちの持ち込んだ香炉を一瞥するや否や都羽女さんはそう一言落として、何を問うでもなく薄い手袋を着けた。流石に状況把握が早い。
「見立てを」
倉科隊長の一言と共に受け取った香炉を、都羽女さんは真剣な眼差しで検分する。
「これは、何処で?」
「禍者に喰われた改史会が持っていた物でねぇ。禍者を呼ぶという曰く付きだよ」
「そりゃまた物騒なもんだねえ」
はは、と乾いた笑いを零して都羽女さんはことりと香炉を机に置いた。
「これ自体、中々きな臭いもんだってのに」
「どう言うことかな」
「一級品さね、これは」
頬杖を突きながら都羽女さんはつい、と香炉の蓋を撫でる。
「中々どうして相当な品だよ。勿論、残り香を嗅いだ限りじゃ中身もかなり良い物を使っているんじゃないかね。禍者を呼ぶってのは分からないけれど、これを持てるのはそれなりの地位の人間だと思うよ」
「同じ物が、実は複数個見付かっているんです」
「本当かい? それは……まあ随分な金持ちの仕業だねえ。それを禍者を呼ぶのに使うなんて一体どんな気狂いなんだか。喰われたってのはお偉いさんか何か?」
「恐らくは、違うのではないかと」
「改史会ってのは景気の良い組織なんだねえ。お貴族様でもない人間には余りにも不釣り合いな物をばら撒くなんて、ねえ」
「参考までに聞きたいんだけれど、この中身がどういう物か、と言うのは調べられるかい?」
「そうさね……」
燃え尽きた屑を少し嗅いで、都羽女さんは小さく唸る。
「まあ、時間を貰えればある程度は分かるんじゃないかねえ。匂いとしては別段特殊とは思えないし」
「お願い出来るかな?」
「あんたの頼みじゃあねえ。あたしは断れないさ。何せあんたはうちの隊長のお気に入りなんだからさ」
「そう言って貰えるとありがたいねぇ」
「凌児(りょうじ)……いや、うちの隊長を使いっ走りにするのも程々にしといておくれよ?」
「善処はさせてもらうよ」
「全く……まぁ、あいつも嫌々じゃあないから仕様がないねえ」
肩を竦めて都羽女さんは笑う。きゅっと上がっている目尻が僅かに解けて、そして薄らと開かれる。
「色々と嗅ぎ回るのは構わないけれど、早死にするような真似はするもんじゃないし、させるもんでもないよ」
その瞼のあわいから漏れる、鋭い光。思わず背筋の伸びるような、強い声色。不意に向けられたそれを直視しながらも、倉科隊長は柔らかく微笑する。
「肝に銘じよう。君たちの隊長を僕の私情で死なせやしないよ」
・・・・・
「君ならやれる。そうだろう?」
事もなげにそう言い放った倉科は、真実そう考えているのだから初鹿に返す言葉はない。純粋に思考し、能力を鑑みて、見出した。それだけのことなのだ。一種冷徹と言われる倉科の采配が、結局の所彼からの全幅の信頼であるのだ。それなりに長く付き合って来た初鹿は良く心得ていたし、内密に、と優秀な男から任を任されるのは悪い気はしなかった。
侵入し、情報を得よ。
場所は、帝の御座す朝廷。
「改史会は、きっと朝廷にもいるだろう」
任を告げられた日、確信した声色で倉科は言った。
「いや、恐らく、朝廷の中にこそ、改史会の中心人物はいる。あの用意周到さも、見目美しく整えられた主義主張も、確かな権力と知識を有する人間でないと成し得ない」
「そいつを見付けろってか?」
「それもある、けれど……優先順位は低いかなあ」
「はァ」
思わず生返事が零れた。この微笑を常に浮かべている男が真実何を考えているかを理解出来たことはない。初鹿の会った人間の中で、倉科は一等頭が良く、理解の及ばない存在なのだ。故に、面白がってこうやって付き合ってやっているのだが。
「じゃァ、何を探れってんだ?」
「改史会が生まれた理由」
さらりと倉科は言う。
「正確には、朝廷に何が起きているか、なのかな。改史会を支える柱たる『誤った歴史』はどうやって生まれたのか。ついでに改史会がどれだけ朝廷内に蔓延っているか。そうしたことを、探ってきて欲しいなあ」
「また随分と曖昧なモンだなァ。俺ァ分かんねェぞ」
「ま、難しいことは考えずにきな臭そうな所を手当たり次第に見て来てくれよ。何が見えたか逐一報告してくれれば、後の分析は全部僕がするから、ね」
「質の良し悪しは保証しねェぜ」
「十分さ。朝廷内を生で見た者の言葉であれば、何だってね」
そんな言葉を受けたのはほんの数か月前。それから機会があれば初鹿は内密に朝廷の調査を行い、あちこちに足を運んでいる。
拍子抜けな程に、初鹿の潜入は容易かった。幼い頃に盗賊の手伝いをしていた分、心得はあった。
否。
それ以上に、この朝廷は穴だらけだった。
何度目かの侵入を果たし、初鹿は天井や屋根、死角を利用しながら朝廷内を気ままに動き回る。
人が少ない。
何処か呆けている。
朝廷に蔓延しているのは、停滞と諦念。
大事な何かがごっそりと抜け落ちてしまっているかのような朝廷の中を、初鹿は死角を縫うように歩く。
改史会。誤った歴史を改めるなどと宣う連中の影は確かにあった。動向を気にする者は決して少なくない。ただ、積極的に関わっている者はどうにも見つからない。そういうものだろう。幾度かの報告でも倉科がそれ以上を求めることはしなかった。むしろ、改史会よりも朝廷そのものの方に興味を持っている風であった。
だから、初鹿も改史会には拘らず朝廷を見ることにした。
故にこそ、知ることが出来たのだろう。
朝廷内は広い。しかし、如何に腑抜けていようとも侵入者である初鹿が動き回れる場所は限られている。幾度かの試みの結果、帝の御座す内裏には流石に入れはしなかった。だが、政に携わる貴族たちの部屋が立ち並ぶ大廊下は別であり、数回かの侵入を果たした今となってはいっそ面白い程に初鹿の侵入を許していた。
そんな大廊下を歩くと、微かに漏れ聞こえてくる。
――また方違えを。
――今日は忌日で。
――魔除けの札が。
――外洋の呪いは。
とうの昔に廃れた筈のしきたりが息衝く会話が。
大廊下を支える太い柱の陰に潜めば見える。
覇気のない顔をした貴族たちが何かに怯えるように紙切れなどを有り難がる姿が。
大昔に生まれて消えていった筈の、それこそあの倉科さえ否定した筈の呪術は、葦宮の最高機関では確かに在るものとして、扱われている。
それは恐らく、決して暴かれてはならないものだった。
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nとは
「勉強とは」
「人への擬態の手段だね」
彼女はどうにも、規定することが癖らしい。
正しさも整合性も、根拠も論理も何もなく、何なら以前と違っていても良い。とにかく一つ問いを投げれば、さらりと彼女は己の中で答えを導く。屁理屈だ、と、以前と違うじゃないかと水を差すようなことを言ったところで誰に迷惑をかけるものでもないのだから好きにさせてくれと飄々と笑う。
「植物とは」
「地球の骨組みと言ったところかな」
彼女とは長い付き合いになる。何時からこんな風に適当な意味付け遊びをし始めたかは覚えていないが、この遊びの間は随分と楽しそうであるし、聞いていてもある種支離滅裂な言葉の応酬は愉快なものだから何とはなしにずっと続けている。
「花とは」
「貞淑な女の腕かな」
いくら適当なのだろうとはいえ、一つ問うてからそう時間を掛けることなく答えが返ってくるのは見事なものである。
ところで。
「スマホとは」
「知恵の輪。あの煩雑さは時に愛すら覚えるね」
彼女にはもう一つ奇妙な癖がある。
「君は本当にこれが好きだねえ。愛を感じるよ」
彼女は不意に愛なんてワードを言葉に折り込む。
その法則は不明。気まぐれというのが最有力候補。こうして定義づけを繰り返していると唐突にあちこちにちりばめ始める。今回はまだ分からなくもない文脈だが、時には本当に突拍子もなく言い始めるのでこちらとしても返答に困る。
しかしながら。
「愛とは」
「……君、ねえ」
愛、だけは。
「やめてくれと言ったろう。それは決めないことにしているんだ」
その言葉だけは、彼女は答えを持たないらしい。
「それを決めてしまったら、色々と不便なんだよ、私はね」
そして、心底困ったという顔をして顔を赤らめる辺り、きっと、それなりに大事なものではあるのだろう。
「愛とは」
「規定するもんか。そんなことしたら、今みたいに使えなくなるだろう」
それを分かっていて問いを投げる自分は随分と意地が悪いと思う。
まあ、それもそれも彼女がこうと規定しないのなら、彼女にとっての愛になり得るのかもしれなかった。
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イデアの眼差し
「人の目を見て話す。昔から言われて来たものですが、近年、若者たちの中でそのマナーが急速に薄れつつあることが社会問題となっております」
いかにも社会派、というような生真面目なスーツに身を固めた記者が、すらすらと言葉を連ねる。対するこちらが草臥れた白衣と言うのは本来褒められたものではないだろうが、まあ、演出と言う奴である。彼らはおしなべて「らしさ」を欲しがる。雑誌の小さなコラムにどれ程が求められるのかは定かではないが。
「背景にはインターネット依存があると一部研究者の間では言われています。常にインターネットに接続し情報を獲得しようとする為に常時検索フォームを視界端に用意、ネット検索を絶えず行うが故に視線はほぼフォームに釘付けになり当然目の前の人間にその眼差しは向かないと、そういう因果関係なのではと」
もっともらしく頷く。まあ、全くの出鱈目ではない。
「この件について、情報脳科学の権威たるサリヴァン教授に今回はお話を伺いたいのです」
「成る程」
相槌。どう話すべきか、記者はどんな意見を欲しがっているのか――考えを巡らそうとして、止める。どうせ、そう大きくない記事と聞いている。多少好きにしたところで文句は出まい。
「まあ、概ねその通りだとは思いますよ。人の目を見るという慣例が廃れた理由としては妥当でしょう。電脳核を埋め込めば我々は端末なしで常にネットワークに接続されていますからね。情報収集のハードルは今や無に等しい。その分、人々は常に情報を欲しがるようになってしまった。人と話している時でさえ、その言葉の端々に未知があれば迷いなく視界端に設置した検索窓に入力し、その意味を詳らかにする。極めて高度な情報社会故の所作と言えるでしょう」
ふんふんと真剣な顔で話を聞く記者。概ね想定通り、と言った反応だ。だが、それでは少々味気ない。
「ただ、それが何の問題なんでしょうね?」
「はい?」
「人の目を見て話しなさい。成る程、ずっと周知されてきたマナーです。ですがね、それを何時までも正しいと捉えることを、私は敢えて問題視したいと思うのですよ」
意図的に目を覗き込む。
「貴方は先程、若者たちと言いましたね」
「え、ええ」
「それはつまり、アンケートなどを取った結果、そういう声が若者からは上がらず上の世代からは多く出てきたと、そういう認識でよろしかったですか?」
「そうですね、はい、うちの調べで」
「ありがとうございます。であれば、私の推論も全くの出鱈目と誹られることはなさそうだ。私はね、この習慣は若者の中には――電脳核を使いこな��者たちの間には最早何の意味もなくなっているのではないかと、そう推測しています」
すい、と恐らくはアンケート結果を見ているのだろう横に逸れた記者の視線を眺めながら言う。
「電脳核が普遍的なものになりつつある昨今、我々はインターネットと密接な関わりを持つようになりました。常に接続されているものに依存呼ばわりするのは、そもそもがナンセンスではないかと思う訳です。同時に外界から与えられる情報を検索し意味を明らかにするという行為は、ともすれば今の人類には呼吸にも等しい行為であると考えてもいます」
視界の隅に検索窓を展開する。インターネットに接続し、公使する為の本人にしか見えない仮想レイヤー。そこに旧来のデバイスを模した無機質なボックスが表示され、カーソルが点滅する。意味もなく記者の所属する出版社の名前を検索してみた。一瞬で検索結果が視界の外周を埋め尽くした。
「とは言え、我々の目はそこまで器用ではありません。現実世界の情報を得る為には、どうしたってネットの為の仮想レイヤーは主たる視界を妨げないように配置するしかない。まあ、人体の限界と言う奴ですね」
これでもぎりぎりまで現実の視界を切り詰めている。狭くなった視界の中で、記者が頷く。
「となれば、我々は常にネットと現実世界の視界を並べて生きていかなくてはなりません。日常的にね。何しろ電脳核が普遍的なものになったことで、我々は急速に扱う情報量が増えてしまったのですから。そうなれば、間に合わないんですよね、常に二つの視界を見ていなければ現代の溢れるような情報は捌ききれない。これを当たり前にしてしまった若者なら尚更です」
大学での講義を思い出す。誰も彼もがこちらを向かない風景。個人的には何も思うことはない。そう言えば、年配の教授などは嘆いていたなと、ふと思い出した。
「今の世の中では、そのマナーは足枷なのですよ、彼らには。そもそもそんなマナーを意識の片隅にさえ置いていない。かつての、情報のまだ疎らであった時代を生きた人間たちだけが、未だそんな慣例に囚われている。私個人としては、無駄な慣例などさっさと刷新するべきだと思いますよ」
失礼、と胸元から煙草を取り出し火を点ける。きょとんと記者は完全に固まっている。
「まあ」
流石にこんなものはまとめ難いだろう。少し可哀想になって言葉を継ぐ。
「要するに、技術の進化に伴ってそうした慣例も変わっていった方が良いのではないか、と、そういう話です。せっかく進化しているものに枷を付けるのは勿体ないですからね」
「成る程」
ほっとしたように記者は頷く。内容が変わらずとも、棘を廃せばそれなりに扱い易いだろう。対外的な印象も含めて。こちらも、何も気難しく取っ付き難い人間を過度に演じる趣味はないのだ。
「ありがとうございます。実に参考になりました」
「いえ、こちらこそ面白いお話でしたよ」
社交辞令。教授とは言え、こうした仕事も欠かすことは出来ない。真剣に話を聞く姿勢もあった。妙な記事に仕立て上げられることもあるまい。にこりと微笑んで、求められた握手に応じた。
「あ、最後に一つ、よろしいですか?」
「ええ。何でしょう」
「先程、人間の視界には限界があると仰られてましたが、人間がそれを克服することは出来るのでしょうか?」
少し、考える。
「……現行の我々では、無理かと。どうしたって視界の変容に耐えられないと、今の所は考えています」
「成る程。中々難しいものなのですね。ありがとうございます」
・・・・・
「嘘吐き、じゃあないんですか、これ」
「嘘は言ってない」
「えー」
不満だ、と口を尖らせる少女に肩を竦める。ひょんなことで研究室に迎え入れた少女——標準的には中学生だろう——は以前のインタビューが載った雑誌をぺらぺらと無意味に捲りながらこれ見よがしに見せびらかして来る。
「今世代では無理と言ったが、お前ら次世代については言及してねえだろ」
「まあ、そう、でしょうけども」
「第一」
尚も不服そうな彼女の顔を見る。雑誌に対する興味を失ったのだろう彼女の瞳は真っ直ぐこちらに向けられている。
「お前さんを基準に物を話すと色々と厄介なんだよ」
「良いじゃないですか。有望なサンプルですよ」
「そういうことを」
「『言っているんじゃなくて、下手な話をして無茶な——規定年齢に満たない電脳核処置を増やしたくないんだよ』ですよね」
一言一句、脳内にあった言葉が彼女の口から放たれる。目を逸らさないまま、彼女の目が細められた。
「教授は結構倫理的な人ですよね。嫌いじゃないです。社会的でもあり、人格者。だからこんな小さな記事にだって鷹揚に応じてあげている。ここ、かなり小さな会社じゃないですか。バックナンバー見てますけど直近のインタビュー、いかにも予算内で頑張って集めましたって感じですよ」
「気が向いたんでな」
「それで良いですよ。私、そう言う所が好きで此処にいる節があるので。でもまあ、幾分、慎重に過ぎるのはいかがなものかと、ちょっぴり思うわけですよ」
思わず眉を顰めてしまった。にこにことそれでも彼女は上機嫌そうだった。
「……分かってて言ってんだろ」
「分かっちゃいます?」
「そりゃな。お前さんの脳機能をお前さん以外で一等知っているのは俺だ」
「確かに。分かってますよ、教授の危惧も」
研究室のテーブルに置かれていた紙パックのドリンクを手に取り彼女は笑う。
「一足跳びの進化なんて、碌なものじゃない」
「そう言うことだ」
日常の一動作としてドリンクを飲む彼女の視界を想像しようとして、くらりと目眩。
彼女にはお見通しなのだ。ごく幼少期から電脳核を身に付け、長くインターネットに触れてきた彼女は、ありとあらゆる情報をいとも容易く手に入れる。インターネットに繋がれた人間の思考も、同等に。
「こんなの、下手な人間は発狂もの、ですもんね」
思考を読まれ、強引に共有された視界。
現実世界も仮想世界もぐちゃぐちゃに重ねられた視界の中で、進化の極値たる彼女は悪戯っぽく笑った。
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箱入りイデア
最初に覚えたのは息苦しさ。
生理的反応で息を吸えば消毒のアルコールの匂いが微かに鼻をついた。LEDに照らされた床も壁も純白。いかにも私たちは清潔です、と言った雰囲気は疎外感をあたしに沈黙のまま叩きつけて来る。小さく溜息を吐いてあたしはあたしを誘導する人間を観察する。こんな空間に適した無味無臭の人間。白衣を纏った平均値たち。研究員と括られるこの人たちがどんな権力を持っているのか、あたしは知らないし興味もない。
ただ、招かれたから来ただけで。
あたしは望んで来た訳でなく、望まれてこんな研究所に来ている。
「もう間もなくです」
不意に掛けられた声にはっとする。研究員の向こうにはいかにも堅牢なドアがあった。研究員の足が止まる。
「此処からはあなただけでお願いします。そう言われているので」
「はあ」
あたし一人がドアの前に立つと音もなく滑らかにドアは開いた。けれど、そこにはまた真白い空間。振り返る。研究員は変わらない仏頂面であたしを促す。恐る恐る足を踏み入れると、頭上からミストが降り掛かる。消毒液の匂い。見かけの通りに、この空間は清潔しか許さないらしい。目の前には病的なまでに白いドア。奥のことなんて少しも窺えない、分厚くて硬い、どうしようもない隔たり。あたしはその前に立つ。小さな電子音。きっと、あたしのことを検査しているんだ。この先に進むのに問題のない人間か。施設そのものがネットワークに接続されているんだろうからそんなことは朝飯前なんだろう。興味がなくたって、いやでもあたしたちはそう言うことを学ばされる。そうじゃなきゃ、将来社会に出た時に何にも出来ない不適合者になってしまう。
でも、こうまでした先にいる人は、一体どんな人間なのだろう。
あたしを名指しで呼んだ人。
現代社会で生きる人間なら誰もが知っている有名人。
潔癖な施設の、幾つものドアに隔たれた先にいる人。
まるで。
「意外と、そう言う訳でもないんだよ」
投げ掛けられた声。短い駆動音と共にドアが開いた瞬間だった。
「不自由に見えるかも知れないけれど、私が望めば外出も許可が下りるだろうね」
開かれたドアの先で、瑠璃色の瞳が緩やかに細められた。ぽかんと立ち竦むあたしに遠慮もない風に近付く彼女は、あたしとそう歳は変わらないように見える。ふわふわとした亜麻色の髪が陽炎みたいに彼女の輪郭を飾る。真っ白な施設の中にいて、彼女だけは驚くくらいに色彩豊かだった。
ソフィア=ヨーク。
この世で一番上手に脳を使う人。
全ての知識の行き着く果て。
魔女。
「私は、私が望むことしか知れないんだけれども、��」
苦笑。そこで初めて、あたしは彼女と対面してから一言も喋っていないことに気付いた。
「あれ、なんで」
「ネットワークに繋がっていれば、思考も情報と一緒。研究員も言ってたでしょう? 私の前で企み事は無意味……ああ、興味がないからって上の空だったんだ。ちょっとだけあいつらにも同情しちゃうな」
悪戯っぽく笑って彼女はあたしの手を何の遠慮もなく引く。
「ようこそ私の研究室へ。入り口で話すのも何だし早く来なよ」
何年も前からの友達みたいに彼女は、ソフィア博士はあたしを彼女の言うところの研究室へと案内する。施設内の他の場所同様に白く清潔な空間。
「味気ないでしょ」
「はあ、まあ、確かに」
「緊張しないで」
色んな情報に晒されて生返事しか返せないあたしに苦笑いして、彼女は無造作に壁に手を触れた。
「こんな堅っ苦しい場所も良くないよね」
風。
緑の匂いのする風があたしの頬を撫でた。
「えっ」
出した声の響き方がさっきとは全然違う。
瞬き一つの間にあたしたちは緑豊かな庭園に放り出されていた。
暖かな太陽の光に溢れた、手入れの行き届いた庭園。地面から生えた本棚ばかりがさっきまでの研究室の名残を伝えている。でもそれ以外は、肌に感じる空気も、風の匂いも、何もかもが塗り替えられていた。
拡張現実。
種は簡単。日常的に消費される娯楽の手段。でも、その規模が桁違い。
「五感まで……」
「うん。電気信号で五感なんて書き換えられるからね。——ああ安心して、この部屋でしか此処までのことって許されてないから」
「それは」
思わず声が転がり出た。
「技術的な意味ですか」
「勿論、法的な意味だよ」
にこりと、事もなげに彼女は笑う。何を当たり前のことをと。
「この施設は一種の治外法権だからね、色々と勝手が効く訳。でも法律はこうした技術には厳しくってね。流石の私でも、此処以外でこんなことしたらすぐ逮捕されちゃうと思うよ。ああいう類いのものは、兎角研究者には厳しいんだ。……ま、特例認めてもらってるからそんなに文句は言えないけどね」
それで、と彼女はあたしを庭園のテーブルへと案内する。下草が足首を擽る感触を知覚させられながらあたしは席に着く。
脳は絶えず信号を発信し、そして受信している。
そのメカニズムが暴かれて、情報処理器官として『育てられる』と究明されてもう数十年が経っている。今やあたしたちの脳は一つ、電脳核を埋め込むだけで広大なネットワークに自在にアクセスし情報を収集、処理出来るようになっていて、あたしたちは一定の年齢になればそうした脳の機能を適切に運用出来るように教育を施される。
拡張現実というのはこういう社会になってからメジャーになった娯楽なのだと聞いたことはある。脳の受信機能を利用し、そして視覚と聴覚を司る信号を解析して可能となるジャンクな遊び。ネットワークに接続すれば多種多様な『フィールド』が転がっていて、今日着る服を着るように好きな拡張現実に身を投じることが出来る。
もっとも、拡張現実に完全に没入出来るのは専用の装置を着けている場合。そうでなければ、あくまで視覚と聴覚の一部に限られる。
理由は簡単。機能の限界。
脳は優秀な情報処理能力を持ってはいるが万能ではない。一度に受信出来る信号、処理出来る情報は有限だ。危険性なく拡張現実で書き換えられるのはどうしたって限界があるし、何より現実という強烈な情報を上書き出来る程の凶暴な情報の作成は困難を極めるという。
そう、習って来たのに。
彼女は、あたしの目の前で楽しそうに紅茶を淹れているソフィア=ヨークという研究者はあたしの五感全てを一瞬にして掌握しおおせて見せた。
圧倒的な現実を叩き壊す拡張現実。
法律が必死になって規制を設けるのも頷ける。
情報脳科学と呼称されるこの分野は危険なのだ。
ともすれば、人一人殺せてしまうんじゃないかというくらいに。
「そう思ったから、君は此処に来たんだよね?」
はっと目を見開く。彼女は二つのティーカップを手に穏やかにこちらを見ていた。
思考を読まれている。それは、さっき実演されたことだった。何となくバツが悪くなって視線が下に落ちる。視界の中に湯気の立つカップが滑り込んだ。ふわりと芳香が鼻を擽る。
「これは現実」
ふふ、と笑って彼女は椅子に座る。
「一応言っとくけど、私だって四六時中誰かの思考を読んでいる訳じゃないからね。これもただテキストを眺めているってものじゃないから疲れちゃうんだよ。でも長考されたら気になっちゃって、ね」
「結構無遠慮なんですね」
「かな? でも此処は私の研究室だから、私のルールが優先される。思考は適度に声に出すことだね。私も、出来れば君自身に組まれた言葉ときちんと対話したいからさ」
それで、と彼女は目を細めた。
「私に呼ばれて、君は何を求めたのかな?」
あたしは彼女に望まれたから此処に来た。
望んで来た訳じゃない。
でも。
招かれたのなら、どうせなら、欲しいものはある。
「博士の研究は、人を殺せますか?」
「それは社会的な意味、かな」
「技術的にです。もっと直截に言いましょうか。博士は此処から、何処かにいる誰かを殺せますか?」
あたしの、きっと失礼極まりない問い掛けを彼女は穏やかな微笑で聞いて、それから表情を少しも変えることなく口を開いた。
「出来るよ」
「したことは?」
「流石にないな。理論上可能であることを知っているだけ。……成る程ね。君は、君の友人を殺した犯人が私だと思ったんだね?」
「いいえ、そこまででは。でも、少し、知っているのかなって」
あたしの親友を殺した奴のことを。
「博士って公共ニュースとか見るんですか?」
「見ないね。ノイズが多すぎる。でも私は、君の周りで何が起こったかは知ってるよ」
「だから」
「いや、それが君を呼んだ理由ではない。本当に偶然……思わぬ事態だったよ」
彼女の指がくるりと宙を踊る。板状の仮想ディスプレイが展開されてあたしたちの間で情報を展開する。
それは、あたしの親友が自宅で突然死したという、小さな小さな記事だった。
何の問題もない学生。
休み前、平日の悲劇。
自室。深夜のこと。
突発性の心不全。
仮想現実へ没入していた際の不幸な事故。
嘘だ。眉が寄るのが分かった。
そんな訳ない。
そうしたささやかな記事の下には、細やかな文字列。この事故のことを語っていることは容易に知れたけれど、ふと、一つの単語に目が留まる。
事件。
「ネットワークが絡んだ事象は大抵私に報告が上がるんだよ。再現性を確認しにね。単純に言えば、貴女が犯人ではないのですか? ということを何枚ものオブラートに包んでわざわざ私に聞きに来るんだ。それで私が首を横に振れば彼らは安堵して私に助言を求めて来る……不毛な話だけど、まあ、仕方のないことなのかも知れないね」
「犯人を、聞きに来たんですか? このことで?」
「そう」
目を伏せて、博士は紅茶を飲む。
「君が勘づいているように、これは事故じゃない。立派な殺人事件なんだよ。私たちの研究を悪用した、ね」
背筋を、氷が滑り落ちたみたいだった。
「でも、警察は」
「事故処理。そうだね。だって、そうせざるを得なかった。——君の友人が死んだ日の死者はね、平均値を大きく上回っていたんだよ。何の変哲もない病死や事故死が、偶然にも多くてね」
分かるかい?
問われた答えが分からない程あたしは馬鹿じゃない。
「無差別事件」
「そう。あの日、同時多発的に、殺人事件は発生した。誰もがいつものように脳をインターネットに接続し、思い思いに利用していた最中に」
博士の指が銃を象り彼女の米神へ据えられる。瑠璃の瞳が眇められた。
「脳を破壊されたんだよ」
「そんなの……大事件じゃない!」
思わず叫んだ。
「そんな、そんな恐ろしいことをどうしてひた隠しに」
「世界の誰もが、君のようになるから」
博士は何処までも穏やかだった。慈愛に満ちてさえ見える微笑みを浮かべて、あたしの絶叫に丁寧に回答を提示する。
「この事件のトリガーは【脳をインターネットに接続すること】。この条件さえ当て嵌まれば誰もが殺人事件の被害者になり得る。今社会で生活するのに必要な絶対条件こそが、己の生命を脅かす……そうなれば、社会は大規模な障害を発生させるだろうね。そんな事態を、招く訳にはいかないんだよ」
「だから、あたしの親友の死も偽装されたんですか」
社会の健全なる運営の為に。
そんなことの為に。
「無論、警察もただの木偶じゃない。私も、調査協力を仰がれている。おかげで、やり口はもう判明している。今は警察が水面下で犯人を追っているんじゃないかな」
「どうやって、殺されたんですか」
感情の起伏の小さい博士の声色は、対峙するあたしの精神も穏やかに宥めているようだった。如何な激情をぶつけても揺るがない声に、あたしは嘆くよりも生産性のある対話の続行を選択する。
「さっき、模様替えをしただろう?」
彼女はやはり穏やかに回答する。
「それの応用。通常処理出来ない莫大過ぎる情報をインターネットを介して被害者の脳へと流し込むんだ。現実を上塗りする暴力的なイメージ。惑乱した脳は過負��に耐え切れず、生命維持を含めた全ての機能を停止する。脳が動かなければ、人体なぞただの肉の袋に過ぎない。酸素、血液双方の循環は瞬く間に停止して人体は死に至る」
あたしは喉を撫でていた。穏やかに吹く風に言いようのない違和感を感じて思わず身震いする。仮想現実。現実を書き換える魔法のような技術。
人を殺し得る、技術だったなんて。
「ただ、それだけじゃ人は死なない。そんな暴力的な情報、きちんと処理しようとする前に、優秀な人間の頭脳はストップを掛ける。上限を理解しているからね。だからこそ、今回の事件は悪質。そのストッパーを丁寧に機能不全にした上で情報を取り込ませるなんて、明確な殺意がなきゃ出来ないよ」
「犯人の目処は」
「残念だけど、それは私の領分じゃない。警察の仕事だね。まあ……同業他社かなとは思っているけどね」
「何処かの研究者ってことですか」
それはそうだろう。あたしみたいな一般人じゃとても真似できない。それこそ、目の前の博士と同じ知見を持つ人でなきゃ。
「だろうね。うちのライバルか、それか元は此処にいた人間か。まあ出来る人間は限られている。捕まるのは時間の問題じゃないかな。そうなればきっと、全てが明るみになる」
図ったように、ブザーが部屋に鳴り響く。さっと夢から覚めるように、庭園の風景が溶けていく。現実の真白い研究室を、正しく脳が知覚する。
「ありゃ、もうこんな時間か。相変わらず短いね」
「もう終わりなんですか」
「残念ながらね。まあ気が向いたらまた呼ぶから、その時を楽しみにしておいてよ」
にこりと、やはり穏やかに笑って博士はティーセットを片付ける。
「分かっているとは思うけどさ、此処でのことは誰にも言っちゃいけないよ。君なら大丈夫だと思うけどね」
「は、はい。——いや、待ってください博士」
ふと、あたしはどうしても聞きたかったことを思い出す。退去を命じるアナウンスに負けない大きな声で問い掛けをぶつける。
「博士は、どうしてあたしを呼んだんですか。事件が理由でないのなら」
あたしは招かれたから来て、どうせだからと欲しかった情報を求めた。
でも、結局博士があたしに求めたことは何もない。
なら、あたしが此処に来た意味は、博士にとっての意味は一体。
そう問い掛けると、博士は少し俯いて、それから薄らと頬を赤らめて口を開いた。
「君の叔父さんがね、私の師匠だったからだよ」
はにかんで、彼女は続ける。
「私の師の血を引く人間の紡ぐ言葉を聞いてみたかったんだ」
穏やか、というよりは無邪気で子供っぽく弾んだ声色で。
「ありがとう。どうか君の叔父さん——サリヴァン教授にも宜しくと伝えてね。あの人になら、全部話してしまってもいいから」
そう言って、彼女は私を部屋から出した。
振り返ったあたしは、最後に、あたしを見送る博士を視界に収めた。
まるで初恋に胸ときめかせる女の子みたいな顔をした博士を。
・・・・・
博士のいる研究施設が全焼したのは、それから一週間後のことだった。
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誤謬の果て
何故。
そんな言葉が死語になってもう数年が経っている。
そういうものである。
そう人間が万物を理解してからもう数年が経っている。
「降りないの」
わたしの言葉に彼女はくるりと此方を向いた。夕焼けが彼女の頬を灼く。
「どうして?」
形良い彼女の唇が吐いたのは、とうに使われなくなった言葉だった。
「危ないよ、其処」
わたしは答える。本当は、こうやって言語化しなくたって、分かることの出来るものを。
道理。
ことわり。
因果。
昔から編まれてきたそうしたものを人間たちが明確に形に出来たのは、人工知能の進化の故だろう。世に溢れる情報だけでなく、人の感情、思考までもがただの信号であり、デコード出来るのだと人工知能が至った故だろう。
全てが、情報に成り下がった。
人間には絶えず主観が存在する。情報が受容器官を通った途端主観というフィルターは半自動的に情報を変容させる。多くが、自身にとって都合の良いように。そして自身が理解できるように。それぞれにエゴに濾過された情報。それらを付き合わせた所で完璧な相互理解が得られる筈はない。
ならば、主観なぞ排除すれば良い。
「分かっているよ、そんなことは。分かっていて、私は此処にいる」
「どうして」
口を衝いた言葉に彼女の目が緩く細められた。
「君なら、考えられるんじゃないのかい」
人工知能は客観の情報をデコードする。人間の主観という不確定で曖昧な要素を排除して情報を出力し、人間へ提示する。真実無垢な情報が、人間へと直接手渡される。因果さえも全て包括した、完全な数式のような紋切りの情報。そこに何故はない。疑問さえも解きほぐされた結論までもがご丁寧に示されるだけ。老若男女を問わず、能力を問わず、普遍の情報を人間は摂取出来るようになった。
「わたしは、それを間違っていると、思う」
「どうしてさ」
「それは……」
「道徳を説かれるつもりはない。そんな、分かりきったものをくれてくれるなよ」
それは革命だった。
知の格差は消えた。
相互不理解なぞ起こる筈もない。
人々は一定の年齢になると端末を与えられた。リアルタイムで人工知能を接続されたそれは常に情報を人間に流し込む。摂理、道理、人の感情や思考さえ。人工知能は律儀にデコードし、客観の局地にて適切な情報へと変換し、端末の持ち主へ流し込む。
誰もが平等に、フルオープンな情報の中に放り込まれた。対人に困ることはもうない。理解力の差なぞ考慮する必要はない。他者の性格を、性質を慮ることもない。そんなものは全て人工知能に任せてしまえば良いのだから。人間たちはただ、情報を適切に摂取さえしていれば良い。疑問を抱く時間さえ不要だ。疑問の種が芽吹く前に人工知能は教えてくれる。それを得れば、全ては安泰だ。
「わたしには、分からない」
「そんな筈はないだろう。君は、疑問を口にしたのだから。つまりは、君も私の同類だろう」
だから、わたしは何か欠陥を抱えているのだろう。
きっと、目の前の彼女も。
「君だって、目眩を覚えているだろう。こんな世の中」
彼女の涼やかな目がきっと夕焼けを睨み付けた。
「人間の全てを情報に変換出来るのなら、私たちみたいな者は生まれない」
相互理解に満ちた世の中。
稀に、其処から弾かれる人間が存在する。
端末は、そこに内蔵された人工知能は優秀であり、絶対だ。それが何かを誤ることはない。それが当たり前の事実である。そう、人工知能は誤らない。その筈だ。
「私たちの思考には、デコードされた情報にはない空隙がある」
なのに、稀にいるのだ。
人工知能に全てをデコードされない人間が。
否。
「悍ましい話だよ、これは。気付かなければ良かった。気味の悪い話だ。なあ」
わたしは頷くことしか出来ない。
そうではないのだ。
「人間の知覚能力は衰えている」
「そう、なのかな」
「恐らく、そう言われやしないがな」
稀に、いるのだ。
デコードされたものが全てではない、と知覚してしまう人間が。
「何故、と問うことさえ出来ない。何故なんて、ないのだから」
誰もが人工知能を信じている。それを常識としている。人工知能が生み出した情報を見て、因果さえ理解した気でいる。
「そういうものである、としか答えてくれない」
「そうだ。今やこの世界は情報が飽和している。右を見ても左を見ても、情報ばかりだ。それをただ摂取さ��していれば、人間は幸せなのだと、人々はそれを貪っている。私は、それが恐ろしくって堪らない」
この世はそうである。
だってそうなのだから。
「人間の全てが情報になんて、出来ない」
「その筈なんだ。常に情報を垂れ流す人間がいるか? いないだろう。人間の思考には空隙が必ず存在する筈なんだ。人固有の、情報の遊び。それが、人工知能の提示するものには一切ない。客観の局地。一切の無駄のないコード。馬鹿な話だ。人間がそんな筈はない。機械に出来ないそれこそが、出力し得ないあわいこそが人を人たらしめる」
そうだろう。そうだと、わたしも考えている。考えているのだ。
考える人間は、すっかり数を減らしている。人間たちは順応しつつあるのだ。情報を適切に摂取し、運用出来るように脳は組み替えられている。それは、この機械的な情報化社会においては正当な進化なのかもしれなかった。
「いずれ、人は人でなくなる」
彼女は言い放つ。
「少なくとも、私たちの思う人という生き物ではなくなるだろう」
「それは、でも、今にとっては正しいのかも」
「だが私は許容出来ない。君は、違うのか?」
そんな筈はないだろう? と彼女の爛々と輝く瞳が声高にわたしを責め立てる。ボディランゲージ。これさえ、今の人々は読み取らない。読み取れない。その前に、人工知能に頼れば良いのだから。
わたしたちは、無駄なものを使っているのかもしれない。
時勢は、わたしたちを直に淘汰していくだろう。
「わたしは、まだ、決められない」
「……そう、か。そうなんだね」
急速に、彼女の語気が穏やかになる。まるで慈しむかのように。
「そうだね。君には君の考えがある。それは酷く正しいことだと私は信仰している。でも、私は私の考えを変えるつもりはない。だから、明確な答えのない君に、止められたくはないんだ。申し訳ないけれどね。だから、此処までだ」
そして、彼女の身体は傾いていく。
学校の屋上。コンクリートの地面へと自由落下を始める。
わたしはそれを止められない。
止めるだけの答えを、考えられないわたしには、ただ、見ることしか。
・・・・・
近年、自殺が増加している。
大多数の人たちは、ただ、そうなのかと、理解するだけである。
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仇夢に生きる11話 朱色の疑念
赤い鉢巻きが虚空を舞う。いっそ優雅にすら見える赤のはためきを目に映しながら、圓井(つぶらい)の身体は宙を舞う。いやにゆっくりと流れる風景。目をぎらつかせる巨猪が下で吼え、片河(ひらかわ)の叫びは遠くに聞こえた。
しかし身体は自動的に受け身を取る。
毎日毎日叩き込まれた戦闘の術。敵を屠り、そして己を守る術が、圓井の思考より早く身体を稼働させた。
次の瞬間には背に衝撃。肺から一気に空気が漏れる。喉が軋んだ。咳き込みそうになる反射を抑え込み立ち上がる。木に叩き付けられたらしい。両の手にはまだ刀が握られていた。僥倖である。
「市吾(いちご)!」
「……っ、あー、大丈夫だ、動ける」
骨は折れていない。感覚的には何処にも違和はない。両足で地面を踏み締めながら、先程自分を跳ね飛ばした禍者(まがもの)を睨み付ける。巨猪の姿をした禍者は鼻息荒く周囲を走り回っている。人の背の二倍はあろうかという体高も相まって下手な人間では近付くことも難しい。朱雀隊も青龍隊も巨猪には近寄らないように雑魚共を蹴散らしているのが現状らしい。
「新型新型って最近は言ってたけど、旧型も十分やべえよなあ」
「っつーか、こんなでけぇのは俺ぁ初めてなんだが。……くそ、常葉(ときわ)もどっか行っちまってんのかよ」
規格外。その言葉が似合う巨猪を前に片河は舌打ちをする。軽口を叩いてはみたが、圓井とて身体が余計に強張っているのを自覚している。
「市吾、肚ぁ括ったか」
片河が言う。いっそ愉快なくらい固い声だった。だがその手の魁龍(かいりゅう)はぎらぎらと煌めいていた。逡巡する暇はない。やばいかもしれない。不定形の危機感に珍しく圓井の思考が捉えられる。
ふと。
場違いに松尾(まつお)の顔が過った。
彼女ならば、どうするか。
「適材適所、って奴だろ」
それなりに鍛えてきた。正直、そこいらの同僚より強い自覚もある。長く自身の腕っ節だけを頼りに生きてきたのだ。隊長にお墨付きだって貰っている。
であれば、自分こそが、止めなくては。
「難しいこと言うじゃねえか」
「ゆきの受け売り」
「成る程ねぇ」
訳知り、と言わんばかりの片河の声色に緊張が解れる。指先まで血が通う。得物の二振りの刃の先にまで己の神経が通ったようだった。
「いっちょ、やってやろうじゃねえか」
図ったように巨猪は市吾と向き直り、地面を蹄で掻く。どうやら先程仕留められなかったのが腹に据えかねているようである。上等だ。頭を振り、突進の構えを取った巨猪。圓井は息を詰める。受けるか捌くか。
――受ける。
地面を踏み締め息を吐く。意識が目前の巨猪に収束する。暴れるその姿の細かな所まで圓井の目は捉えていく。何時来るか。その刹那、弾けるように巨猪の身体が躍動した。圓井めがけた突進。単純だが、その巨体は脅威以外の何物でもない。足が地面を擦る。
だから、目の前に人影が割り込んで来た時には思わず頓狂な声が漏れた。
その人影は押し寄せてくる巨猪に対して余りに華奢だった。ゆらりと圧を受けたように身体が揺れる。
しかし、決して見目の通りではない。
向かい来る巨猪。それを目前に人影――帯鉄(おびがね)はすらりと抜き放った刀を真っ直ぐ差し向けただけだった。
少なくとも圓井にはそう見えた。
だが。
切っ先に触れた巨猪の姿が掻き消えた。
否。
吹き飛ぶように横転したのだ。
帯鉄自身も弾かれるように巨猪とは反対方向に転がったが瞬き一つの間に体勢を立て直し、巨猪へと飛び掛かる。
帯鉄が刀を使い、絶妙な力加減で巨猪の力を横へ逃がしたのだ、と圓井が理解した時には彼女は巨猪の柔い腹をすっかり切り裂いていた。血脂の絡んだ刃を腰の帯で拭った帯鉄は表情一つ変えずに周囲を見渡す。圓井たちが巨猪と対峙している間に雑魚共は狩られたらしい。戦場はずいぶんと落ち着きつつあった。鋭い眼差しが戦場を映し、それから圓井へ向けられる。自然、身体が強張った。
「怪我は?」
「な、ないっす」
「そうか」
一瞬、帯鉄の眦が緩んだ。かと思えば眉根に深い皺が刻まれる。
「勇気と無謀をはき違えるな!」
「す、すみません!」
びり、と空気の震えるような声に思わず圓井の身が竦む。
「間に合ったから良かったものの……もし力負けしていたらどうなっていたか。当たり所が悪ければ」
鋭い眼差しが不意に和らいだ。
「だが、お前たちのお陰であの大型の禍者の被害が抑えられたのもまた事実。……大きな怪我がなくて良かった。戦闘も落ち着いた。少し、待機しておいてくれ」
ほう、と息を吐いて帯鉄は踵を返した。
「市吾、大丈夫か?」
「あんなの、説教には入んねえよ……隊長も流石に疲れてんのかな」
ひりつくような帯鉄の気配がゆっくり遠ざかる。彼女は朱雀隊の長である。彼女が目を向けるのは圓井たちだけではない。圓井の視線の先、先とは打って変わって慈愛と心配に満ちた眼差しを湛えて朱雀隊の面々と言葉を交わしていた。その隊員の制服に真っ赤な染みを認め、思わず眉が寄った。
「落ち着いてみりゃぁ、結構こっちもひでぇもんだな」
「……ああ」
同じものを見たであろう片河の呟きに頷く。戦闘の興奮がゆっくりと冷めつつある今となって、ようやく周囲の状況がきちんと認識出来るようになる。
周囲にあったのは、薄くはない血の匂い。禍者の生臭いそれとは違う、人間のもの。軽い負傷で済��でいる者も勿論いたが、先の隊員のように深手を負っている者も少なくはなかった。中には骨の折れている者も数人いるようだった。周りの抉れた地面、薙ぎ倒された木々。圓井は、否応なしに先程屠られていった巨猪を思い出す。一歩間違っていれば、自分だってそうなっていた。思い至り、ぞわりと鳥肌が立った。
あの瞬間を目の当たりにした帯鉄の心境たるや。
「……いや本当、隊長にぶん殴られてもおかしかなかったな、さっきの」
うう、と圓井は無意識に腕を摩りながら呟く。落ち着いた戦況に思い返せば、自分がどれだけ無茶をしていたか。ふつふつと湧き上がる罪悪感に自然と視線は下へと向いていく。
その視界の端に銀色が閃いた気がして、ふと顔を上げる。
「随分と疲れた顔してんなァ市吾よ」
「は、初鹿(はつしか)隊長」
「おう、良く働いたなァ。俺もちっと疲れた」
色々と、な。そう言ってにっと笑う初鹿の表情に僅かな翳りを認めて、瞬き。翳りは瞬き一つの間に消え失せていた。気のせいか、と思い直そうとした圓井の前で、初鹿の眼差しが常ならぬ剣呑さを帯びた。
「――少し、お前さんとこの隊長借りるなァ」
・・・・・
「随分と、手間を掛けさせてくれたねぇ」
ふふ、と穏やかな笑声を零す倉科(くらしな)隊長。その表情は雪原の如く冷ややかだ。
屯所内に大型の禍者を引き入れるという前代未聞の凶事。引き起こした祓衆(はらいしゅう)の裏切り者たちは大鹿の禍者を倉科隊長が屠った後にあっさりと全員捕縛された。恐らくは倉科隊長が幸慧(ゆきえ)の側に向かった間に、江草(えぐさ)さんが動いたのだろう。険しい顔をした江草さんは、戻って来た倉科隊長を認めると僅かに相好を崩した。
「ご苦労さんじゃのう、いきなり走ってからに」
「済まなかったねぇ。でも、助かった。後は僕たちが預かろう」
一見は朗らかな応答。しかし、そう言って内通者たちの放り込まれた部屋を閉め切った後に零れたのは先の冷ややかな一言だった。
「僕は残念で仕方がない。僕の記憶している限り、君たちは優秀な人材だったと把握している。君たちの長の――ああ、皆朱雀隊か、そう帯鉄隊長も評価をしていた。だと言うのに、君たち何故、僕たちを裏切るような真似を?」
傷塗れの内通者たちの視線が互いに交差する。やがて、一人が敵愾心もむき出しの目はそのままに口を開いた。
「我々は、ここに忠誠などくれてやってはいない」
「ふうん、そう」
微塵の温度も感じさせない声。
「つまりは、君たちは皆、改史会(かいしかい)に命を捧げているという訳だ。怖いねぇ。何時からこうしようと?」
「貴様らに言うと思うか?」
「まさか。一応……まあ礼儀みたいなものだねぇ。僕の方で大方の予想はついているし。軍学校に入る頃……思想の育成も含め、その一年くらい前から仕込まれてたのかなぁ」
黒々とした倉科隊長の目はひたりと相手に据えられ微動だにしない。僅かの変化も見落とさない、そんな目だ。
「答えなくて良いよ。こっちで判断するからねぇ」
にこり。取り繕うような笑みは恐らく故意。本当なら、もっと自然に笑えることを幸慧は知っている。この人は、徹頭徹尾己の場と自身を作り上げるのだ。
「こういうものはね、思想を植え付けやすい幼い頃から仕込むものだよ。でないと、下手に学ばれては扱いに困ってしまうからね。ただまぁ、そうして結果的にきっちり此処に潜り込めていた訳だから、君たちの元締め、見る目はそれなりにあるのかもねぇ」
「貴様があの方を評価するな」
あれ、と幸慧は倉科隊長の後ろでそっと観察する。先程までは彼らなりに冷静に努めていたというのに、途端に感情を剥き出した。余程、なのだろうか。それは崇拝? 否、ただの刷り込みなのか。
「随分と慕っているんだねぇ……仕込みは上々、君たちがもっと優秀なら元締めもさぞや喜んだろうに」
ぶつ、と音。倉科隊長と相対する内通者の唇が血を流していた。痛い所、なのだろう。分からなくはない。幸慧だって、同じような立場なら口惜しいなんてものじゃない。
「しかし何故、朱雀隊に? 動きやすい訳でもないだろう、あそこは。隊長の庇護が篤いということは、目が行き届いているということだからねぇ」
「……我々は別段、希望してはない」
不承不承に答える。
「確かに此処に入れとは言われたが、それだけだ。祓衆に入りさえすれば良いと。我々が一つ所に集められたのは、我々にも想定外だった」
「おや、そうなのかい」
「獅子身中の虫となれれば、我らはそれだけで良かった。あの方の命令に応え、来るべき時にここを落とせれば十全だった。だが、我らは、成せなかった」
ぎり、と音の出るくらいに噛み締められる歯。
「暴かれれば意味はない。あの方に、報えぬ」
弾かれるように、倉科隊長の身体が動いた。真正面に捉えた内通者の口内へ躊躇なく手を突っ込んで、床へと捩じ伏せる。
「っ……!」
常ならぬ、倉科隊長の焦燥。
だが遅かった。
押さえ付けられた身体がびくりと跳ねる。筋肉が異様な収縮を見せ、倉科隊長の下で内通者の身体が藻掻く。それは、多分、意識的なものではないのだろう。命が損なわれようという時の、本能的な蠢き。彼だけではない。気付けば、他の二人も床に四肢を泳がせ、苦しみ藻掻いていた。
どこか冷静に、幸慧はその様を見ていた。呆然と、身体は動かないのに。命の損なわれる瞬間を。
少しして、倉科隊長が身体を起こす。ざら、と流れる黒髪のあわいから表情は見えない。倉科隊長の下には白い泡を零した人だったものが転がっていた。白目を剥いた表情は苦悶をありありと残している。幸慧の背を冷たいものが落ちる。
「幸慧くん、大丈夫かい」
「……はい」
そこまでして、死にたかったのだろうか。
それを選んでしまえるくらいに、盲信していたのだろうか。
「人が死ぬのは初めて見ました。でも、思ったよりは冷静でいられるみたいです。だから、大丈夫です」
「酷いものを見せてしまったねぇ」
「改史会は」
そんなに、命は軽いのだろうか。
「改史会は、これが常套手段なんですか」
「……幸慧くん」
「でないと、隊長でもあんなことは出来ない、ですよね」
躊躇いのない死の選択。倉科隊長がそれを察せたのは、つまりそういうことなのだろう。
「そうだねぇ」
あっさりと、倉科隊長は頷いた。
「連中は、こういうのばかりなんだよ。蜥蜴の尻尾切り。自分の信仰のためなら命だって捨てられる。そういう手合いだ。本当なら、警察に押し付けてやりたいのに、どうにも連中は祓衆《ぼくたち》を目の敵にする。それでも、君にこうした人の死体を見せるつもりはまだなかったんだけれどもねぇ」
困ったように倉科隊長は笑む。
「ままならないねぇ、このご時世」
「大丈夫ですよ、私も隊長補ですから」
改史会。
本当に得体の知れない、理解の範疇外の存在。
彼らは一体、何をしたいのだろうか。
「……でも、朱雀隊、朱雀隊かぁ。何の巡り合わせかな。それとも……謀り合わせか?」
・・・・・
「よォお前さん、随分なことになってんじゃあねぇか」
銀の髪を怒りに揺らめかせて低く唸る初鹿に、帯鉄は不思議そうに眉を顰めた。
「どうした、初鹿」
「謀ったのは手前か」
ともすれば大きくなりそうな声を抑えて詰問する。
「謀る……?」
「屯所に禍者をけしかけた馬鹿がいる」
はっ、と驚愕に見開かれる瞳を睨め付けて目を眇める。
「まだこっちにゃ伏せてるがなァ。その馬鹿はどこにいたと思う?」
「――内部にいた、と」
「朱雀隊にいたんだよ、隊長さん」
息を詰める帯鉄に、初鹿は一歩歩み寄る。と、眼前に紺色が広がる。疎ましいとばかりに視線を上げれば、甘やかな顔立ちに不穏な色を乗せた常葉(ときわ)とかち合う。
「退きなァ」
「大事にしたくない、という風なのに随分と吼えるね? 場を弁えた方がいいんじゃないのかな」
にこりと、温度のない笑みを崩さない常葉。燃えるような翠で睨み上げて、暫し。小さく舌を打ち、ふいと初鹿は顔を背けた。
「……あァ、あァそうだなァ常葉よ。俺としたことがついかッとしちまったみてェだなァ。俺が騒いだって困っちまうよなァ……まァどうにせよ、倉科が招集を掛けた。色々、話さねェとならねェなァ
「初鹿」
その横っ面を叩くような声に初鹿はすいと視線を滑らせ、一つ瞬いた。
これまで沈黙していた帯鉄が、静かな激昂を携えて初鹿を見ていた。真一文字に結ばれた口の端が僅かに震えている。紛うことなき怒り。それは初鹿には向けられていない。彼女は冷え冷えとした瞳を一度伏せ、恥じるように息を吐いた。
「いや……詳しくはその場で聞こう」
・・・・・
会議室はかつてない程の緊張感に張り詰めていた。常のそれとは異なる、いつ切れてもおかしくない、ぴんと張り詰めた糸のようなそれに幸慧は思わず唾を呑んだ。
「青龍隊隊長常葉、隊長補甘利(あまり)」
無言のまま名前を呼ばれた二人が手を軽く挙げる。
朱雀隊隊長帯鉄、隊長補早川(はやかわ)。
白虎隊隊長初鹿、隊長補土生(はぶ)。
呼ばれる度に、各々が反応する。
「……そして、玄武隊隊長ことこの倉科と隊長補松尾をもって祓衆四部隊指揮官の集合を確認。会合を始める」
厳かに告げた倉科隊長は、けれどその表情はいつもとそう変わらない。
「皆もう知っていると思うけれど、屯所が禍者に襲撃された」
声色も常の通り。意図的なものだろうけれど、緊張に身体の強張る幸慧にはそれがありがたかった。
「無論、事態はすぐに収束。幸いにして重傷者も出なかったよ……禍者を呼び込んだ大馬鹿者以外は、ねえ」
口角ばかりは常の通りなのに、倉科隊長の目がぎらりと輝いた。
「……尋問を、と思ったのだが奴ら、思い切りばかり無駄に良くてねぇ。全員が、歯に仕込んだ毒で自害した。その点に関しては止められなかった僕にも責任がある。申し訳ない」
しかし、と少し、身を乗り出す。丸眼鏡越しの倉科隊長の視線が居合わせる全員を見回した。
「多少、聞けたこともあってねぇ。そう、例えば……彼らは望んだ訳でもないのに朱雀隊に集められた、であるとか」
帯鉄隊長の表情が、目に見えて強張った。
「正直、彼らの言葉への信頼なぞ一切ない。だけれど、ねぇ……連中の想定外とは言え、出来すぎてはいる、よねぇ」
歯切れ悪く。これだって、倉科隊長はわざとだ。丸眼鏡の奥の瞳は穏やかそうで冷徹に、居並ぶ面々を観察する。
「だから、話が聞きたいと、そういう次第なんだよねぇ」
「まどろっこしいなァ倉科よ」
吐き捨てるように、初鹿隊長が声を上げた。この会議が始まってからずっと、その眉間には深い皺が刻まれ、翠の瞳は爛々と帯鉄に注がれている。憤怒。抑え切れぬ激情が初鹿隊長の周囲に漂っていた。
「お前さんはつまり、こう聞きたいんじゃァねェのかい? ――朱雀隊の隊長様は腹に一物��えちゃいねェか、とな」
目を眇め、初鹿隊長は吐き捨てた。
「悪ィがな、戦いにゃァ向いてねェうちの身内も危ない目に遭っちまってんのさ。とっとと核心を話そうや」
「まぁ……そうだねぇ。その辺を是非、聞いてみたい」
全員の目が帯鉄隊長に向けられる。傍らの穂香(ほのか)さんだけが気遣わしげだ。常葉隊長は、意外にも笑んでいたけれど。
帯鉄隊長は、そんな思い思いの眼差しを浴びて尚、毅然と真正面を向いていた。
「その疑いは杞憂だ」
紡ぐ言葉もまた、芯の通ったそれ。かと思えばふっと視線が伏せられる。
「証拠はないがな。だが、私はただ私の意志のみで、禍者共に対抗する為に、部隊を強くするただその一念のみで皆選んでいる。そこに別の思惑が差し込まれる余地はない。私は祓衆という組織にのみ属し、祓衆という組織の為にだけ動いている」
「なら何で、都合良く裏切り者が固まっちまったってェんだ?」
「正直に言う。申し訳ないが、私には分からない。だが……今のこの状況を見るに私の目は節穴だったのだろうな。その意味では私は途轍もない失態を犯してしまった。不甲斐ないばかりだ。本当に申し訳ない」
机にぶつかるんじゃないかという程に深く、帯鉄隊長は頭を下げる。長い黒髪に隠されその表情は窺えないが、ぎり、と歯を食いしばる音は僅かに漏れ聞こえた。
「罰があるのなら、甘んじて受けよう。でなければ私も私を許せない」
如何なる言葉をも受け止めんとばかりに背筋を伸ばして、静かな眼差しで帯鉄隊長は口を閉ざした。
「……そもそもの話なんだけれど」
不意に常葉隊長は口を開く。
「改史会というのはそんな馬鹿な組織なのかい?」
口元に笑みを乗せて、いっそ上品な所作で首を傾げた。
「もしも……本当に億に一程の確立で彼女が裏切り者としたら、余りにも杜撰なやり方だと思うんだけれど」
「そうだねえ」
都羽女(つばめ)さんが同調した。
「裏切り者ってのは何時だって暴かれる危険性があるもんだろう? 特にこんな真似しちゃあねえ。だのに、芋蔓式でばれちまうようなってのは、確かに詰めが甘いね」
「……成る程、ねぇ」
うんうんと頷く倉科隊長。その視線が不意に幸慧に向けられる。
「私も、同意見です」
その意味が分からない幸慧ではない。
「確か、あの連中を尋問した時隊長は言いましたよね。それなりに早い内から仕込まなければならない、と。年単位の準備が要るものとおっしゃりました。そうやって手を回せる者が、安易に同調した者を炙り出せるような仕掛けをするでしょうか。私は疑問を感じざるを得ません」
「そうだねぇ。僕もそう思うよ」
「……ちょっと良いかしら?」
と、声を上げたのはこれまでを静観していた深弦(みつる)さんだった。
「あぁ、どうぞ」
「部隊の振り分けって、ずっと隊長たちが選定を担当していたわよね」
「そうだねぇ。多少、能力の基準のようなものはあるけれど、最終的には隊長判断だよ」
「我々は基準を提示したが聞き入れやしない、と黄龍所は嘆いたものよ」
ふっ、と深弦さんは肩を竦める。
ああ、と思い出す。何年か前まで、深弦さんは黄龍所にいたんだった。祓衆を管理、統括する上位組織。そこから何故下ってきたのかを聞いたことはないが、相当に優秀な人なのだ。
「でもね、人の主観というものは面白いもので、どうやって偏りが生じてしまう。例えば青龍隊《うち》なんかは人格に多少問題があれど戦闘能力にさえ秀でていれば最優先で引き抜いたりね」
うちの隊長自身戦闘狂だもの、と愉快そうに笑って深弦さんは続ける。
「翻って朱雀隊。ここは最も複雑。戦闘能力は勿論それなりに求められるけれど、同じくらいに各々の性質も選定要因となり得る。個々の戦力だけでなく、協力し合える素質も求められる。協調性や、従順さ。隊長さんも真面目だもの、隊そのものの質の向上に心を砕いている」
「随分と詳しいのね。ともすれば私たちよりも」
驚いたような穂香さん。深弦さんは悪戯っぽく片目を瞑る。
「昔は黄龍所でここの人事の管理もしていたもの。ま、選定結果を見るくらいだけれどね。……まあとにかく、そういう傾向をそれぞれの隊が持っている訳」
「結局何を言いてェんだ、青龍の隊長補さん」
「ちょっと長くなっちゃったわね。つまりは、今回の連中は朱雀隊の隊長さんが如何にも選びそうな性質の持ち主だったって話。でも、それってある意味じゃ当たり前なのよ。改史会だって一つの組織。そこでそれなりの大役を任される複数人が集団行動に適していない訳はないわよねえ? ……それにしたって随分と隊長さん好みの人材って印象受けたけどね、連中の経歴書見た時は」
疲れちゃった、と息を吐いた深弦さんはおもむろに懐から煙草を取り出す。慣れた手付きで火を点け、吸う。
「あたしは今回の件、隊長さんもまんまと引かされちゃったって印象を受けたわ。向こうの思惑は知らないけど。だからこんな会議おしまいにしましょうよ。此処にいる人間は今回に関しては潔白なんじゃない?」
「……まァ、そうだなァ」
意外にも、いち早く同調したのは初鹿隊長だった。
「報せを聞いた時ァ頭にカッと血が上っちまったが、冷静に考えりゃお粗末な話だなァ。いや、見苦しい真似をした」
「うちのがすまなかったね、帯鉄」
続けて都羽女さんが軽く頭を下げれば帯鉄隊長は戸惑ったように目を逸らした。
「いや……しかし、うちの隊から不届き者が出たのは事実だ。何かあればすぐ言って欲しい」
「そういうのは性に合わねェ。まあ頭脳担当に任せるとすっかなァ。俺ァもう行くぜ。堅ッ苦しいのは疲れるから嫌だぜ」
吹っ切れたように初鹿隊長は笑って、都羽女さんを連れてさっさと出て行ってしまった。風のような人だ。でも、何時も通りの振る舞いに戻っていて幸慧の胸に安堵が満ちた。
「帯鉄隊長、居心地の悪い思いをさせてしまったねぇ。正直、僕は君をそこまでは疑ってはいなかった」
「初めからそうだろうとは思っていた。だが、後々を考えれば今こうしてはっきりさせるべきだろう。失態は事実だしな」
「……その点は単に君は災難だっただけだとも思うけれど、まぁ、君が良いのなら今度一つ頼み事でもしようかな」
「私に出来ることなら喜んで受けよう。では、我々はこれで」
会議中とは打って変わった穏やかな笑みを浮かべて、帯鉄隊長は穂香さんを連れて颯爽と立ち去る。
倉科隊長の思惑はお見通しだったらしい。余計なわだかまりは残すべきではない。招集一つ、会議一つで疑念を潰せるなら安いものだと開いた会議は、概ね倉科隊長の想定通りに進んだと言える。
「僕の中でちょっと想定外だったのは、君が存外に冷静に振る舞ってくれたことかな、常葉隊長」
彼女絡みだと、君は随分とらしくない振る舞いをしがちなのに。
そう問いを投げられた常葉隊長は、にこりと常の笑みで答えを返した。
「梓は古馴染みだからね。彼女は無罪なのは明白だし、彼女がそれを清廉さでもって否定することも俺は知っていた。うちの連中だって暴力に訴える馬鹿はいないんだ。僕が何かする必要なんて、一切ないだろう」
「あぁ、そういうことね。納得だ」
「大丈夫とは思うけれどね、梓に何か不利益のあるような真似は止めておくれよ。流石に、それは目に余る」
「肝に銘じておこう。何、彼女に無茶をしいたりはしないよ。君の目もあることだし、ねぇ」
「そうしてもらえると嬉しいな。じゃあ、俺も通常業務に戻るとするよ」
最後に一度、鋭い眼差しを倉科隊長に向けた常葉隊長は、ひらりと手を振り会議室を後にした。深弦さんもそれに続く、かと思えばくるりと振り返り、立てた人差し指を自身の口元に当てた。
「色々言っちゃったけど、余計な詮索はなしでお願いね」
「勿論」
長身の偉丈夫でありながら、驚く程にそうした所作が似合う深弦さんは倉科隊長の言葉に満足そうに目を細めて出て行った。
「……ふぅ」
そうしてようやっと、会議室の緊張感はすっかりなくなった。
「いやぁ、中々大変だったねぇ。幸慧くんも、お疲れ様」
「隊長こそ、お疲れ様でした」
ぐっと伸びをする倉科隊長。流石に疲れたみたいだった。それはそうだろう。それでも全員がいなくなるまで平然と振る舞っていたのは本当に尊敬する。
「嫌だねぇ、こういうのは。まぁ、何事もなくて良かった」
ふう、と眉間を揉みながら、倉科隊長は呟く。
「今後に繋がるものも得られたし、重畳としよう」
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出立
私は殺した。
呆気ないものだった。
私は立ち上がる。さらりとシーツが肩から落ちていった。
歯を磨き、顔を洗う。疲れ果てた顔が鏡に映っていた。吐いた息で鏡が白く曇り、そして晴れた。使った歯ブラシはごみ袋に放り込んだ。
ほとんど何もないタンスからワンピースを取り出して、着る。とっておきの晴れ着のつもりで買った物だった。くしゃくしゃに収められていたせいで、いくつも皺があった。手で伸ばしても、無意味。すぐに諦める。
ねじのばかになった鏡で化粧する。
化粧水。
乳液。
化粧下地。
ファンデーション。
生白い肌が隠される。
チーク。
薄く上気しているよう。
アイシャドウ。
アイライン。
マスカラ。
かわいい、と言われたものは捨ててしまった。強く、強く私を彩る物。鮮やかな色が私の目を縁取る。誰に寄りかからなくても良く見えるような、鋭い眦を、私は私にあてがう。
アイブロウ。
気なんて強く見えれば見える程良かった。簡単な女じゃないと、一目で分かるくらいに。
少し傾いた鏡の中には、すっかり彩られた私がいた。ばきん。限界だった鏡のねじが外れる。ごみ袋に放り込んだ。一緒に買いに行ったのは、いつだったろうか。
髪を梳り、結い上げる。気付けば、随分と長くなっていた。長い方が良いなんて、言うものだから。
美容院に予約をとらないといけない。予定は次々に生まれた。
スマホを見る。通知はない。当たり前のこと。そのままサイトから美容院の予約をとった。
マニキュアを塗る。可愛らしい色はもう要らない。私が、私のために選んだ色を爪に乗せた。
どこで誤ってしまったのだろう。
考えは堂々巡り。答えはどこにもない。爪は色付く。
喜びも、悲しみも共に積み上げた。スマホのアルバムは容量の限界を告げていた。偽りはない。
だから、どうにもならなかったのだろう。
爪の色はとうに乾いた。
私は立ち上がる。
部屋の隅に置いたかばんを肩に掛ける。
共に選んだサンダルが玄関にぽつん、と置いてあった。
履きながら、私は振り返る。
今は誰もいない、空っぽの部屋。
いつかは満たされていた、空虚な部屋。
向き直り、私はドアを押し開ける。
さようなら愛しき人。
殺した恋心がもう二度と、埋めた土から掘り起こされぬよう。
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イデアの少女
あらゆる所作は、情報に対するノイズだ。
かつて人は、スマートフォンやパソコンと呼ばれるデバイスを介さねば情報にアクセス出来なかったという。デバイスを起動し、フォームに任意のワードを打ち込み、検索。一つの情報に至るまでに実に煩雑な手順を踏んでいたのだという。
しかしそれは昔の話。
己の身一つで、今人は情報にアクセス出来る。
だのに未だ、人はかつてのノイズを排除しきれない。
「聞いておられますか、教授」
「あ、――ああ、聞いてるよ」
やれやれと言わんばかりの女の声に生返事を返しながら渡された資料に目を通す。同時に脳を【走らせる】。
ソフィア・ヨーク。
資料内の文字情報を脳内で仮想音声情報へ変換。脳内に音声を落とせば無限に広がるインターネットから目当ての情報が引っかかる。
何て、無駄。
思わずため息が零れた。
人間は今や脳を直接インターネットに接続している。だと言うのに、かつての方法をなぞるのをやめられない。脳内に仮想のOSやフォームを構築し、デバイスを操作するが如くインターネットへアクセスする。ここ数年は視界上に自動でOSを展開するコンタクトレンズなんていうのも出回っているという。全くの無駄だ。科学への冒涜ですらある。理論上、本来はそんな煩雑な手続きなど不要な筈なのだ。脳はそれだけのスペックを誇る。だが、肝心の人間自身がその性能を使いこなすだけのスキルをまだ持てていない。どれだけ最適化しようとしても、シームレスな情報へのアクセスなど夢のまた夢だ。
「天下の大企業様のご令嬢ねぇ……」
「あ、また教授勝手に調べてますね」
「クセだよ、クセ」
事実だ。情報取得の最適化の為に常に脳を走らせてきた。どんな些細なことでも練習がてらに調べ上げるのが習性になってしまっている。
「成る程、コネ使って随分早くから情報器官を育ててた訳か……随分と思い切ったことを……」
脳には情報取得に特化した器官がある。何もしなければ顧みられることのない小さな部位。それが情報取得に対して有用であると発見されたことで、大きな革命が起きたのだ。情報革命。一定の年齢になれば薬物投与によって情報器官を育て、そして小さな電脳核と呼ばれる装置を体内に埋め込むことでデバイスレスでの情報アクセスを可能にする。それが法律で決められ、常識となっているのだ。
大方コネと大金、それから幾許かの大義名分――情報革命に追い風を、などロマンシチズム溢れた言い分は何時の世でも有用だ――を駆使して今回のケースでは法律での基準を下回る幼さで処置が敢行されたのだろう。情報器官、電脳核に関する処置は安全性が確保されているとは言え、随分と思い切ったものである。
「いや、だがそうか、幼ければ既存概念に囚われない」
「みたいですね、だからこそ、こうして成果を持ち込まれたのでしょうし」
「だろうな。まあ。興味はそそられる」
「その言葉だけで、先方としては満足かもしれませんね」
「まあこれ以上は実際に見てみて、だな。今彼女は?」
「会議室で待機してらっしゃいます」
・・・・・
あらゆる五感は脳の処理によって制御されている。
であるならば、脳を走らせ視界に現実にはないものを描き出すのも不可能ではない。
懐からスクエアフレームの眼鏡を取り出し掛ける。とたんに視界に層が作られる。脳機能の観測が出来る視界レイヤーだ。専門的かつ慎重な運用の為流石に補助具は必要だが、かつては大きな機材が不可欠だったものだ、随分と便利な世の中になったものである。
会議室のドアをノック。
「――はい」
声色に驚く。想定はしていたが、それ以上に幼い声だ。僅かな動揺を飲み込んで、会議室に足を踏み入れる。そこで。
今度こそ、言葉を失った。
広い室内。大きな机と並んだ椅子。その内の一つに彼女は――ソフィア・ヨークはちょこんと座っていた。細い足は床に届いておらず、ぷらぷらと退屈そうに揺れている。職員に出されたのであろうジュースの入ったコップを両手で抱えたまま、じい、とこちらに視線を向けていた。
凍り付いたように停止した思考が再起動するのに、暫時。
「――あー、話は聞いているかな? サリヴァンだ、教授の」
ようよう、喉の奥から声を絞り出す。口元には笑み。なるべく、相手を威圧しないように。口調も適宜修正していく。相手は、稚い子供だ。
「はい、グレン・サリヴァン教授。情報脳科学の権威。お父様の憧れの人。情報革命の風雲児。若くして教授に上り詰めた天才」
だというのに、そんな気遣いなどどこ吹く風で彼女は言葉を連ねる。
「私はどうですか? 教授」
そうして、にっこりと、あどけなく笑うのだ。
その笑顔に重なるように、脳機能の観測結果が無数の数値として羅列される。
脳稼働率だけが平均値の、それ以外は測定不能を意味する限界値という形で。
「……想定以上だ」
「良かった。お父様も喜んでくれる」
「そんなものじゃない。君の脳は、情報器官運用における最適解だ」
にこにこと笑顔を絶やさない少女。しかし、彼女の脳は今も尚常人には理解しがたい効率で運用されている。
人間の脳には眠っている箇所がある。
常にフル稼働させていれば負荷がかかり、ともすれば命すら脅かしうるからだ。
研究者によってはその眠れる箇所をも働かせて情報処理能力を引き上げようとしているが、そんなものを実用化するなど世界の倫理が許さない。故に、現在の主流は、いかにこれまで働いていた脳機能部の働きを効率化させ、生まれた余力を情報処理能力へと回すか。数多の研究者たちがその解を求めていたのだ。
眼前の彼女は、その解だった。
「『無駄が、一切ない』」
「――は?」
混乱のままに奔放に走っていた思考が止まる。
彼女が口にしたのは。今のは。
「『俺の思考じゃないのか?』」
「っ!?」
「びっくりしました?」
ふふ、と笑う少女はあくまでも楽しそうだった。
「情報って枠が広いんです。言ってしまえば、何だって情報になる。感情も、思考も、脳が働いて生み出しているものですから、情報の一つです。だから、やり方が分かれば掬い上げられる」
「――待ってくれ、それは、つまり、君の情報取得は、何にも囚われていないのか」
「初めから、誰だって何にも囚われてはいません。勝手に、檻を生み出さなければ」
根本から、違うのだ。
あどけない笑みを浮かべる少女。しかしその笑みは無垢なものではない。
彼女は知っているのだ。
脳の動かし方が、そもそも違うのだ。
彼女の中に調べる、という概念がそもそも存在していない。彼女はノータイムで情報を取得している。世間一般で言う情報から、彼女自身が定義した情報まで、その全てを常に吸い上げ観測している。
彼女は、全てを知っているのだ。
「それは違います。私は、ここにある情報を得ているだけ。全知全能なんかじゃない」
何も言わぬこちらに返答して、少女は笑う。
「私は世間知らず。だから、お父様は私を教授に会わせたんです」
「だから……?」
「お父様は学んできなさい、と」
「は?」
唐突に投げられた言葉に間抜けな声が漏れる。待て、と取り繕うのも忘れて無意味な言葉を連ねる。
「あれ? ……ああ、書いてなかったんですね、お父様ったら」
困ったような微笑。
「私は生き方を学びに来たんです、サリヴァン教授」
小さな少女はそう言って、あどけなく笑った。
0 notes
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曖昧なる自由主義
珈琲の湯気の向こうで立派そうな顔をした政治家が難しく見える語彙と言い回しでありきたりな理想論を語っていた。
曖昧な議論。
朧気な正義感。
鋭利な利権闘争。
彼らの闘争は常に利益の臭いを立ち上らせている。
成れる頭もない癖に私はそう嘲笑い、珈琲を啜る。朝の他愛もないルーティン。お気に入りの音楽を流しながら小難しそうな言葉を聞き流す。
最近の流行りは規制らしい。
しかめ面の爺共がこぞって声高に言葉を放り投げる。
健康に悪影響。
周囲の人間への危険性。
タチの悪い依存性。
ロクな資料も出さずに彼らは議論——少なくとも彼らはそう呼称している——を進める。別段、それが全くの嘘っぱちとは思わないが論文の一つでも出してくれれば面白いのだが。鼻を鳴らしてお茶請けの琥珀糖に手を伸ばす。
張りぼてのような議論をタネにテレビのコメンテータたちはやはりそれらしいコメントを垂れ流す。当たり障りのない、分厚いオブラートに包まれた無味乾燥のテンプレート。きっとまた、インターネットではつまらないと叩かれるだろう。最近のインターネットは保守的なものを淘汰するのが流行りなのだから。私の右手は画面も見ずにテレビで流れるワードをスマホのSNSでミュートにした。触らぬ神に何とやら、である。
そのスマホも机に投げ出して、隣に置いてあったアークロイヤルの箱から一本取り出し、咥える。そのまま暫時政治家のまともに見える顔を眺めて、それからライターで火を点けた。煙と芳しい匂いが部屋に満ちる。
その音に釣られて、ではないだろうが、かちゃりとドアが開く。視線を投げればぼんやりとした顔の同居人が立っていた。どうやら些かに寝ぼけているらしい。
「おはよう」
言葉を投げればしばし瞬きをし、頷く。そのままゆらりと身体を揺らしながらキッチンに歩いて行く。朝食を準備するのだろう。
かちゃかちゃと生活音が音楽と混ざり合う。ニュースの音声が解けていく。私の意識はニュースから逸れて生活音にフォーカスされる。慌てた風のない穏やかな音色。耳朶をそれに震わされながら、アークロイヤルを一口喫む。左手は勝手に適当なリズムを指で刻んでいた。
「君は議論は好きだったかい」
適当に問いを投げ掛ければ、同居人は小首を傾げる。
「さあ」
成程、と私は訳知り顔で頷いて、また一口煙草を喫む。所詮は確かに、彼岸の火事である。
口元には気に入りの煙草、手元には愛飲する珈琲。
いずれにせよ、此処には表現自由の楽園がある。
そうである限り、彼岸の議論など私にはただの演劇だった。
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至聖
「神はいつも見ておられます。天上より私たちの行いを見守っておられるのです」
その教会のシスターは模範的な聖女だった。
弱きに手を差し伸べ、強きに屈さない。清貧を重んじ、差別も区別もなく教会を訪れる者たちを清廉なる笑みで受け入れる。
治安は最悪。警察など機能していない地域でありながら、シスターの性質の故か、教会でだけは誰もが平等で、平穏だった。
「あなた方の苦しみも神は知っておられます。だからこそ、あなた方は此処に導かれた」
「おお……聖女様……」
「どうか涙を流さないで。此処に苦しみはないのです。さあ、このパンを」
かさついた老人の手に固いパンを握らせてシスターは微笑む。その足には無垢な子供たち。舌足らずにシスターを呼び、丸い瞳を細める。彼女がそれを退ける筈もなく、白い手が子供の頭を撫でる。
「神は慈悲深くいらっしゃいます。誰もが此処では救われねばならないのです」
「なんとお美しい」
「こんな所にいて良い方ではない」
「この方こそ神に愛された御子に違いない」
口々に誰もがシスターを褒めそやした。しかしシスターは微笑するばかり。
「誰もが神に愛されているのです。私だけではなく、誰もが」
子供たちを柔らかく外へと促し、貧富を問わず集った信者たちに向き直る。彼女の背後で教会の戸は閉ざされた。
「神は祝福を与えてくださいます。誰もが、それを受け取る資格があるのです」
シスターのウィンプルがふわりと揺れる。人々の集う真中をゆったりと歩みながら、彼女は穏やかに話し続ける。
「私は神より啓示を受けました。苦しむ人々に祝福を分け与えよと命じられたのです。苦しみより解き放ち、楽園への道標を与えよと」
教会に備えられた大きな十字架。うっとりと見つめてシスターは笑む。人々には見えていない。
「ああ、神に感謝します。私に人々を救うという使命をくださった」
彼女は向き直った。シスターの目の前には講壇。その上には並々と水の注がれた水差し。おもむろにシスターは懐から小さな包みを取り出し、かさりと開いた。
白く、きらきらとした粉。
清廉な笑みはそのままに、シスターは粉を注ぎ入れた。瞬く間に粉を溶かし、元の透明を取り戻す水。ずらりと並べられたカップに水を注ぎ分けながら、歌うようにシスターは言う。
「享受せよ、さらば楽園は目前に」
・・・・・
そのシスターは敬虔なる信者であった。
誰もを分け隔てなく扱った。彼女が恐れるのは神の啓示に背くこと。神の怒りのみであった。
だから、シスターはいつも微笑を崩さない。剣呑な男たちに四方を囲まれていたとしても。
「シスターさん、ほら、今回の分だよ」
「ああ、ありがとうございます」
寧ろ男たちの方が気味悪そうに眉根を寄せながら、彼女に包みを手渡す。それでもシスターは変わらない。心の底から安堵したように笑みを零す。
「アンタたちはお得意様だからなあ、ま、今後ともよろしくな」
「はい、もちろん」
人一人を容易く殺せる程の、それどころではない大量の薬の包みを抱えながら、シスターは頷く。
「だが、今度から値段は上げるぞ」
「何故ですか?」
「俺たちも人々を“救って”やりたいんだがなあ、財政難って奴でね」
「まあ!」
目を丸くしてシスターは驚く。
「そうだったのですね……」
そして心から憐れむように目を伏せる。
「あー、ま、そういう訳でね、次からは――」
「ではその腕の飾り物は?」
ぴしりと、場の空気が固まった。
「見た所とてもお高そう……そのお召し物も。売ればきっと、まとまったお金になります」
「あ、ああ、まあ」
「それに」
彼女の首が傾げられる。
「大司祭様に聞きました。そちらにも、仰られていると」
「当たり前だろ! 金がなきゃアンタらにヤクを卸せねえんだからよ」
「ああ神よ。哀れなこの者をお救いください」
男たちは鼻白んだ。シスターと会話が出来ていない。噛み合わないまま、シスターばかりが言葉を継いでいく。
「富は人を狂わせます。権力は人を堕落させます。私たちは分け与えて生きていかねばならないのです。だって、神は見ておられるのですから」
「何だコイツ……!」
「大司祭様も嘆いておられました。お前たちの罪を告発するなどと、惑乱して叫ぶあなた方に悲しんでおられました。富を独占せんとするその心、神に背くその言動」
「頭がおかしいんじゃねえのか!」
「ああ、あなた方は――悪魔に魂を売ってしまったのですね!」
シスターは、叫んだ。彼女の、彼女だけの理論と結論。周りの誰もを置き去りにして、シスターは懐に手を差し入れた。
「であるならば、神に許しを請わねばなりません!」
「殺せ! このイカレ女を――」
無数の銃声が、暗い路地に木霊した。
・・・・・
「享受せよ、さらば救われん」
教会に集った人々は我先にとシスターに与えられた水を飲み干していく。血走った眼を隠しもせず、しかし静かに。
やがて、教会の中に笑い声が弾ける。
芯のない、意思の篭らぬ虚ろな笑声。からんからんと人々の手からカップが落ちる。
「ああ神よ」
意思の攪拌された廃人たちを前に、シスターはうっとりと微笑む。
「祝福に感謝します」
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