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SOUL’dOUTって知ってますか?
約20年ほど前に一世を風靡したヒップホップグループであり、ストレートに言うと曲がめっちゃ変。今聴いても新しい。
当時のヒップホップといえばKICK THE CAN CREWとかRIP SLYMEとかのイメージが強いけど、その辺りと同じジャンルで括ってもいいのかわからないくらい変だ。ヒップホップに明るくないので詳しくはわからないけど。
しかし、曲を聴くと何故かメチャクチャかっこいい。何事も突き詰めればかっこよく見えるからなのか、はたまた何か別の魅力があるのか。
上手く説明出来ないが不思議な魅力があるヒップホップグループ、それがSOUL’dOUTだ。
そんなSOUL’dOUTの全盛期、自分は小学校高学年で思春期始まるくらい、それまで音楽なんて学校の授業かNHK教育でしか触れてこなかったところから、なんとなく興味が出てくるお年頃。
小学5年生くらいだっただろうか?姉がよく見ていたCDTVで「1,000,000 MONSTERS ATTACK」が流れ、衝撃が走った。なんだこれは。めちゃくちゃかっこいい。
静かなイントロを破るDiggy-MO'の「POW!」、意味はわからないけど歌いたくなるアッオゥアッオゥ、Diggy-MO'とBro.Hiが複雑に入り乱れながらもマシンガンのように打ち出されるリリック、見たことない世界がそこにはあった。
間も無くCDを買った。今でこそバンド系に傾倒しているが、人生で初めて買ったCDは1,000,000 MONSTERS ATTACKのシングルなのだ。
それからは狂ったようにCDを聴いた。歌詞も暗記し、ア アラララァ ア アァ!の言い方も練習した。それが世界一、宇宙一カッコいいと思ったから。
そしてそれを友達に教えた。このカッコよさを知ってもらいたかったし、こんなカッコいい音楽を知っている自分は凄いと思ってもらいたかったから。
しかし、その思いは伝わることはなかった。
それはもう痛烈にバカにされた。あまりにも異色な音楽性は純粋な小学生にとってはただただ変なモノでしかなく、普通でないモノを排除するように出来ている小学生のルールの下では受け入れられることはなかった。
大人になった今考えれば仕方ないことだと思うが、当時はあまりにもショックだった。
自分が世界一カッコいいと思っていたモノをバカにされる経験なんて無かった。当然心に傷を負った。
それからはSOUL’dOUTが好きだとあまり公言しなくなっていった。ヒッソリと楽しむようになっていった。
「誰にも理解されない」と周囲への心を閉ざして聴いていると、次第にSOUL’dOUTへの熱は下がっていき、やがてギターを手にしたことで耳馴染みが良く、誰からも否定されないフォークやロックに傾倒するようになるのだった。
自分にとってSOUL’dOUTは少しだけ苦い思い出である。
でも、よく思い返してみよう。
当時、SOUL’dOUTを馬鹿にしてきた友達が聴いていた音楽は何だったろう?
確かアジカンとかサンボマスターとか。
よく友達が歌っていた曲は、全部ナルトのオープニングテーマだったじゃないか。
アニメを見ていたついでによく耳にする曲を拾っていただけの友達と、純粋にその音楽性に感銘を受けてアーティストを選択した自分。
小学生だった自分よ、お前は周りの友達より早く音楽に何かを感じ取る感性と、自分で選択をする自主性を身に付けていた。
変だとバカにされたっていいんだよ。自分が好きだと思ったモノに自信を持て。それが自分の人格を形成していくんだから。
だから友達のことなんか気にするな。安心してSOUL’dOUTを聴け。それがお前にとっての正解だから。
…と、昔の自分に言えたら、今の自分はもっと自分の主張を貫ける人間になっていたと思う。
結局のところ同調圧力に負け、SOUL’dOUTを聴くことは恥ずかしいことだと思うようになってしまったのだ。
そこが恐らく自分の創造性の限界だったような。周囲を気にして自分を抑え込むような典型的日本人になった瞬間かも。
定かではないけど、そこで好きであることを貫き通していたら、リスクを負ってでも自分の好きなこと、やりたいことを貫き通せる人間になれていた気がする。
もし、自分に将来子供が産まれてくることがあるなら、「自分の"好き"を貫き通せ、誰にも邪魔させるな」と教えたい。
そんな大事なことを教えてくれたSOUL’dOUT。
是非一度聴いてみてくださいね。
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2011年3月11日14時46分。日本はこの時を皮切りに数え切れないほど多くの不幸が起こりました。
幸い家族や親戚は無事だしそれ以外も大きな被害を受けることも無かったので、東北地方で被災された方なんかより何千倍何万倍も幸せな状況であることは間違いないです。
それでも、あの時個人的に体験したことは強烈で今でも鮮明に思い出せるので、書き残してみようかと思います。
当時18歳、高校3年生だった私は国立大学の前期試験を不合格になり後期試験を受けようとしていました。
試験日は3月12日、遠方の大学のため前泊をして試験に臨もうとしていました。
栃木の実家から東京は北千住駅まで到着し、日比谷線に乗り換えようとしていたところ。
今でもよく覚えているのは、駅のホームへの階段を登っている途中に電光掲示板を見上げ、少し急げば14時45分発の電車に間に合うと思い小走りで電車に駆け込んだことです。
電車は定刻に駅を出発、そこまでは予定通りでした。
しかし、ほんの少し進んだところで電車は急ブレーキで止まり、隅田川にかかる橋の上で停車。
少し車内がざわついたところで大きな揺れがきました。
電車の客室は走行中の揺れを抑制するために左右にある程度動けるようになっていますが、逆にその仕組みのせいで地震の揺れが増幅され、立っていられないほど大きく大きく揺れました。
電車はその場で停止したまま。当時��ガラケー全盛期、情報も今ほど早く入って来ないため、何が起こったのかもわからないまま車内に閉じ込められ、暫く経った頃。
偶々隣に居たスーツ姿のサラリーマンがワンセグでテレビのニュースを見せてくれて、千葉の石油コンビナートが燃えている映像を目にしました。
地震の情報も併せて入ってきて、何かとてつもなく大変なことが起きているんじゃないかという感覚が沸々と湧いてきたのを覚えています。
そのうち電車は人間が歩く程度のスピードで動き出し、南千住駅に到着。
駅に着いてからも大きな余震が何度も続き、駅の壁にある鉄の筋交いが大きな音をたてながら壁に打ち付けられていました。
そんな中、駅のアナウンスが「駅構内の安全が確保出来ないため速やかに退出してください」とのこと。
ゾロゾロと出口へ向かう人の波に流されながら改札を抜け、南千住という全く知らない街に降り立ちました。
困って駅の入り口で立ち尽くしていると、そんなことはお構い無しに駅員が駅を封鎖。宿泊予定のホテルへ進むことも栃木の実家に戻ることも出来なくなりました。いわゆる"帰宅難民"です。
その日はまだ冬の天気で寒かったのですが、寄り道せずホテルへ直行しようと考えていたのであまり厚着をしておらず、段々と冷える身体。
まずいと思い、駅の近くのファミレスやファーストフード店を回るもどこも閉店しており、いよいよ追い詰められました。
田舎の普通の高校生だった私はそんな状況にどうしようもない心細さと孤独感と絶望を感じ、焦りと不安で頭の中がいっぱいだったことを今でもよく思い出せます。
それでもなんとか冷静になり、ひとまず食べ物を確保しようとコンビニへ駆け込み、空になった棚を見て更に絶望しつつもチルドのエビグラタンが辛うじて残っていたのでそれを購入
エビグラタンを片手に再び知らない街をフラフラと歩き回ると、公民館を発見。
係員に話を聞くと、帰れなくなった人の一時待機所として開放中とのこと。
やっと落ち着いて暖を取れる場所が出来たと心の底から安堵しました。
腰を落ち着けたことでようやく情報収集と家族への連絡を開始。どうやら関東圏の電車は全てストップ。家族も心配していましたが、ひとまず無事なことを報告。
その頃にはかつてない規模の大きな地震が起きたこと、津波で東北太平洋沿いが壊滅状態になったことが情報として入ってきており、自分の身の上のことよりも世界が崩壊してしまった感覚に囚われ、不安はさらに大きくなりました。
そんな中、コンセントの近くに陣取り携帯を充電しながら操作していると、申し訳なさそうな顔で「すみません、携帯の充電器貸してくれませんか?」と言う若い男性が来ました。
快く貸そうとしましたが私とその男性で使うキャリアが異なっており、貸すことが出来ませんでした。
当時はdocomo、au、SoftBankで充電端子が異なったのです。有事の際に助け合うことが出来なかったことから、独自規格というものが今でもあまり好きではありません(Lightningケーブルとか)。
しばらくした後、日が暮れてきた頃に冷えたエビグラタンを食べながら公民館の窓から外を見るとタクシーの乗車場にはテーマパークのアトラクションのような行列が出来ていました。
今なら自分もその行列に加わることも吝かではありませんが、高校生の自分はタクシーで東京から栃木へ帰ることなんて有事であるこの状況的にも金銭的にも出来ないと変な遠慮をし、これからどうしようと考え始めました。
そんなタイミングで公民館はもうじき閉館するとアナウンスがあり再び絶望。しかし、代わりに近隣の中学校を開放するとのことで再燃した絶望が消えつつ、そちらに移動することに。
全く知らない中学校の会議室に通され、防災用の毛布1枚と乾パンを渡されました。会議室の壁際に椅子を出し、そこで一夜を明かす覚悟を決めました。
夜になり、会議室はお互い顔も知らない人が沢山いて、皆暗い顔で俯きながら黙って時が経つのを待っていました。
居ても立っても居られなくなった私は、会議室を出て地元の友人と電話しました。長電話に付き合ってもらい、かなり気持ちが楽になりました。その友人には今でも感謝をしています。
その後、電話を終えた後は慣れない状況ではなかなか寝付けず、ほぼ徹夜で夜を明かしました。
朝、電車の運行状況を見ると辛うじて動くものがあるとの情報。
自然と入試に行くことを諦め、浪人する覚悟が出来たため、家に帰ろうとしました。
最寄駅発の電車は確か6:30頃だったと記憶しています。
それに合わせて駅に向かうと、ホームは人の山。その日も相変わらず気温は低く、窮屈で寒い思いをしながら待っていました。
しかし、予定の時刻を過ぎても電車は来ず、睡眠不足による体力の低下と寒さで身体が限界に近づいた頃、30分ほど遅れて電車が来ました。やっと帰れる、と肩の力が抜けました。
そして、この頃に後期試験が中止になると発表されました。
その後は動いてる電車を乗り継いで埼玉の東武動物公園駅まで来ました。
しかし、電車はそこから先は動いておらず、また足止め。父親に電話で状況を説明すると、車で迎えに来てくれるとのこと。
それまでの待ち時間、駅の近くにあったDOUTORが開いていたのでそこに入り、ホットの紅茶を注文。
それまで寒くて凍えていても何も対処ができない状況でしたが、久しぶりに温かい物を口にし、生き返るような心地だったのは今でも忘れません。それから今に至るまで、全国チェーンのカフェで1番好きなのはDOUTORになりました。
1時間ほどして父親が到着。これまでの話をしながら家路につき、1日ぶりに家に帰れたのでした。
翌日には風邪をひいて少し寝込み、体調が回復した頃にセンター試験の結果のみで判定される手筈となった大学から不合格の通知が届き、浪人が正式に決定したのでした。
これが、私が体験した3.11です。
重ねて言いますが、自分より大変なことが起こった人が沢山居ることは重々理解していて、自分が特別に不幸だったとは思っていません。
それでも、当時の世間知らずな普通の高校生だった自分からしてみれば十分に辛かった体験ですし、結果浪人することになって人生初とも言える大きな挫折を味わうことにもなりました。
後期試験を受けたところで大学に合格出来たかは正直怪しいところではありますが、試験が無くなり巻き返すチャンスを失ったことで現役合格という可能性が消えてしまったこともまた事実です。
もし、地震が起こらずに試験を受けられ、合格していれば、今頃全く違う人生を歩んでいたことは想像に難くないです。
今の人生を後悔しているわけではありませんが、"もし"を考えると確実に自分の中に傷として残っていますし、自分の人生を大きく変えてしまった地震というものの恐ろしさを改めて実感します。
日本は災害の多い国です。常にその脅威は背後に潜んでいて、不意をついて人々を不幸に陥れようとしています。そして、その力の前に人間は全くの無力です。人生なんか簡単に変えてしまうし、命すらあっという間に奪ってしまいます。
あれから10年経ち、自分の中でも記憶が薄れ、これを書くまではそんな認識も忘れかけていました。
いつ起こるかわからないからこそ、常にそれに備え、少しでも傷を浅くする努力が必要なんだと思います。
それは明日、もしかしたらこの後すぐに起こるかもしれないです。だから、その時に後悔しないように生きていけるようにしたいと思います。
最後に、地震によって奪われた命にご冥福をお祈りします。
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靴下に穴が空いたとき、すぐに捨てずに縫って穴を塞ぐ。学生時代から続けている習慣です。
大学生の時は常に金欠でした。家庭の事情により親からは金銭的な援助は無く、奨学金とバイト代が財源でした。
そのくせお金に対して相当だらしなく、後輩にはすぐ奢ったり、やりたい事には惜しげもなくお金を注ぎ込んだり。友達にお金を借りてはそれを返す為にまた金欠になったり。だから月々の収支は赤字ばかりだったと記憶しています。
それはもうめちゃくちゃに頭の悪い学生時代でしたが、自分なりの節約の工夫として壊れた機械の修理や道具のメンテナンス、簡単な裁縫を覚えました。当時の自分は"モノ"を大切にする事が節約だと考えたようです。
時は過ぎて社会人になりもうじき3年、普通に暮らしても少し贅沢が出来るくらいに稼げるようになり、昔のようにボロボロの靴下を騙し騙し履き続けなくても生活になんの支障もないないくらいになりました。
それでも、現状は身体に染み付いた"モノ"を大切にする考えは変わらないみたいです。
新しく買った物は定期的に手入れをする。壊れた物は直して長く使う。捨てる前に活用出来る持ち主が現れないか探す。
これから社会的に更に成長して今以上にお金にも"モノ"にも困らなくなったとしても、かつて貧しい中で自分なりに編み出した工夫は、悪い頭を頑張って働かせた昔の自分を肯定するためにも、あるいはお金のことで友達に迷惑を掛けた昔の自分を戒めるためにも、忘れちゃいけないことなのかなと思います。
側から見たら意地汚いようにも見えるだろうけど、自分という人格を形成する大事なピースの一つなんだろうなあ。
そんなことを考えながら、また穴の空いた靴下を縫っているのでした。
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前回に引き続き見てくれている人はありがとうございます。今回だけ見てる人も、見てくれてありがとうございます。
「田沼って今何してんの?」というテーマで前回は仕事について触れたので、今回はプライベートについて話をさせて頂きます。
前回一言だけ触れましたが、最近の趣味は釣りに集中していますね。
何故釣りにハマったかというところ。実は小さい頃から生き物が好きだったのが非常に大きいです。小学生の頃の将来の夢は生物学者でしたし、当時は飼育委員を率先してやり、クラスで管理する生き物の世話をしていました。
生き物でも特に昆虫や魚が好きで、誕生日プレゼントにこれらの図鑑をねだり、図鑑を題材とした読書感想文を書いて金賞を貰ったりする程でした(ストーリーの無い図鑑を題材としてどうやって感想文書いたのかは今となっては謎です笑)。小学校高学年の時はオオクワガタのブリーディングをしたり近所のため池で鯉釣りをしていましたし、中学生の時はアクアリウムなんかもやっていました。
それくらい昔から生き物が好きで、歳を重ねて昆虫が苦手になってしまった今、釣りにハマるのは自然な流れだったのかな、と思います。
更に、釣りには様々な魅力があります。
一つは自然が相手だということです。
釣りはのんびりとしたイメージがありすが、実は天気、気温、季節はもちろん、風、水温、その時の潮の満ち引き、流れ、波、etc…様々な要因が複雑に絡み合って瞬間瞬間で状況が目まぐるしく変化していきます。
その瞬間に合わせて仕掛けを変えたり、狙う場所、方向、深さを探りながら最適な解を導き出していきます。
様々な要因を考慮しながら手段を変えていく行為がさながら自然と対話しているような気持ちにさせてくれて、かつ、自然が相手が故になかなか思うようにいかないゲーム性の高さが魅力だと思っています。
もう一つは魚種毎に釣り方が異なってくる奥深さです。
"釣り"と一言でくくると竿に糸と針をつけて魚を釣る行為であり、それ以上でもそれ以下でもないのですが、実は狙う魚毎に仕掛けは全く異なる物になります。
魚も種類毎に生態が異なり当然食性も違ってくるので差異が出るのは当然ですが、それ故に狙う魚を変えれば竿から変える必要があったりするので、それだけで新しい挑戦になり得ちゃったりします(故に金がかかる趣味でもあります)。
例えるなら釣り=バンド、狙う魚種=パートであり、狙う魚を変えることはギターからドラムになるようなもので、応用が利かないこともあったりします(当然ギターから��ースみたいに応用がかなり効くものもあります)。
しかも、魚は楽器と違いとてつもない種類が居ますので、その数だけ釣り方があり、楽しみ方もあるということになります。
なので、ある種の魚に飽きてもちょっと魚種を変えればそこには新しい世界が広がっており、釣りという行為は常に新鮮なままで、だからこそ飽きずに続けるのが簡単だと自分は感じています。
そういった奥深さも魅力の一つであると思います。
そしてなんと言っても"おいしい"のが最大の魅力だと思います。
通常、スーパーに並ぶ魚は卸売業者を挟むのでどんなに新鮮でも獲れてから最低1日は経っているそうです。
その点、釣りはその気になれば釣った瞬間に捌いて食べる事も出来ます。
やはり、ついさっきまで海を泳いでいた魚は格別に美味いです。当然鮮度はどこの魚屋よりもいいですし、通常流通しないような珍しいけどとても美味しい魚も釣れたりします(アオリイカとかマハゼとか)。
気持ちの面でも自分で釣った魚は特別美味しいように感じます。先述のように、自然を相手に思考を凝らし、創意工夫した上で釣り上げた魚の味を格別に感じてしまうのは人間の性でしょうか。
また、季節毎に釣れる魚も異なり、四季折々の味覚を味わうこともできます。特に秋は釣れる魚が多く、これからのシーズンは釣りで忙しくなりそうです。
そんな感じで、どうして釣りにハマっているかを紹介してみました。
いやー、仕事の話をした時もそうでしたが専門用語を使わずに紹介をするのは非常に難しいですね!
自分としてはかなり厳しい制限の中で文を書くことになるので、国語力を試されているような気分になります。
でも、色々な人に読んでもらって少しでも面白いと思ってくれたら、と思うと意外と頑張れるものです。
これからはどんなことを書いていこうかな。逆に専門的なことをとことん専門的に書くのもいいかも?
とりあえず、以上が最近の田沼です。やってることは変わりましたが基本的な凝り性である性質は変わってないような気がします。
もし車やバイクで困ってたり、釣りをしてみたかったりする方はお気軽にご連絡ください。まあまあ専門的なことまでアドバイス出来ますので。
それでは、またいつかお会いしましょう。
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見てくれてありがとうございます。そして大体の方はご無沙汰してます。田沼です。
たまーに「田沼って今何してんの?」と聞かれることがあるのですが、そこらへんを少し詳しく書き留めておきます。
大学院を卒業してからはかつてあんなに傾倒していた音楽をあっさり捨てて、仕事を結構頑張ってます。そして休日は釣りをして過ごしてます。とりあえず今回は何の仕事をしているかについて話させて下さい。
仕事は"テストライダー"をしています。
テストライダーとは、世に出る前の試作のバイクに乗って走行テストを行い、安全面で世に出しても問題が無いか、商品としてお客さんが楽しめるものになっているかを主にフィーリング主体で判定していく職業になります。
また、テストライダーにも様々な部門があり、田沼はその中でも操縦性・安定性といったものを取り扱っています。これはバイクが真っ直ぐ走るか、思ったように曲がるかをテストする部門になります(一般に操安性能と呼ばれるものです)。
操安のテストは場合によっては非常に危険で、一番危険なテストはバイクが出せる最高速(今の担当機種だと180キロくらい)で走りながらわざと車体に外乱を入れて(ハンドルをぶん殴る)挙動を乱し、転ばないかをみなければならず、一歩間違えれば派手に転倒して文字通り死ぬようなこともあります。
更に、ただバイクに乗るだけではなく、部品を組み替えたり自分で作ったりもします。なのでちょっとミスると指が飛ぶような工作機械も扱いますし、溶接なんかもよくやるので、乗っていない間も危険と隣り合わせの仕事です。
正直な話、この会社に入った段階ではまさか自分がこんな仕事をするなんて夢にも思っていませんでした。
もともと設計希望で入ったので、命を張って仕事をする気なんて更々ありませんでしたし、テストライダーはめちゃくちゃバイクに乗るのが上手い人がなるもので、自分みたいなツーリングライダーには縁がないものだと思っていました(今まではその通りで、上の世代の人は元国際A級ライダーばかりだったりする)。
ところが、所の施策で「工学的なアプローチのできるテストライダーを育成したい」といった思惑により、乗車スキルよりも工学的なアプローチといった点で白羽の矢が立ったらしいです。
まあそこまではわかるんですが、自分としては「何の気なしに入った会社から有無を言わさず命を張って仕事をするよう強要されている」とも取れるわけで、何とも複雑な気持ちでいたりもします…笑
なので今後この仕事を続けていくかどうかは正直まだ決めかねている段階です。転職した人の話とか聞きたいかも?
そんな感じで、ざっくりとですが自分がどんな仕事しているか話してみました。ここまで飽きずに読んでくれた方、どうもありがとうございます。
最近、少しずつですが確実に人間関係が希薄になっていっていることを実感しています。
田沼のことを忘れかけている人の頭の片隅に、これを書くことでまた現れることが出来たらなと思います。
では、またいつか。
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