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013-Masterpieces selected from the Ukiyoyé school-Vol4- Carnegie Mellon Posner Center Library by ayacata7 on Flickr.
Via Flickr: www.odisea2008.com Cortesía de: Carnegie Mellon Posner Center Library Referencia post: www.odisea2008.com/2013/06/obras-maestras-del-ukiyoe-japo…
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“Girls in jinrikisha”
Photographies colorisées, c.1880.
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Woman Gathering Seaweed.  Ukiyo-e woodblock print, about 1810’s, Japan, by artist Katsukawa Shunka II
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Vintage Kimono - Japan
“A vintage full-body photograph of a woman in kimono. The photo is stamped “Nonomiya Kudan Tokyo” This is a scan from an old Japanese family album (likely from the 1930s) that I am currently scanning.“
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Kimono Seated - Vintage
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Hawk with sparrow | Ohara Koson (1877-1945)
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Mushrooming 1910
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Mushrooming 1910 by Blue Ruin 1
<br /><i>Via Flickr:</i> <br />A hand-coloured postcard from around 1910.
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Geisha Otomaru taking off her Haori 1910s
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Geisha Otomaru taking off her Haori 1910s by Blue Ruin 1
<br /><i>Via Flickr:</i> <br />I wasn't sure about this image, but I found a very similar photo of the same woman in a book about Geisha published in 1917. Although, the book didn’t give her name, I think that this is Otomaru a Shinbashi Geisha from Tokyo.
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Japanese Ivory Seal Early 20thC
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Maiko Kayo in a Crow and Wisteria Kimono (1876)
“Kayo was a famous Maiko (Apprentice Geisha) during the early Meiji period (1870s) in the Gion district of Kyoto. Although her exact date of birth is unknown, she is thought to have become a Minarai (Watching Apprentice) in 1869 around the age of seven.
Her reputation for beauty was such that one Kabuki actor said “a beautiful girl like this will not be seen again in a lifetime of geisha.”
In 1875 at the age of thirteen, Maiko Kayo eloped to Tokyo with Saionji Kinmochi who was twenty-six years old at the time. However, Saionji already had three common law wives and his family were violently opposed to the match, so Kayo returned to Gion a few months later.” (source)
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Outer Kimono for a Young Woman (Uchikake). Japan, 1870-1900.  Silk crepe (chirimen); freehand paste-resist dyed (yūzen) and embroidered in silk and metallic threads. 151 x 125 cm. Motif: Hawks and pine trees.  Text and image via Khalili Collection
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Birds on a Branch, by Watanabe Shōtei, 1916
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昭和天皇 佐賀県への御巡幸のお話。
ぜひ読んでみてください。僕は号泣しました。
佐賀県に因通寺というお寺があります。
この寺には、戦争罹災児救護教養の、洗心寮が設置されていました。
洗心寮には、44名の引き揚げ孤児と、戦災孤児がいました。
この寺の住職:調寛雅(しらべかんが)氏と昭和天皇はあるご縁がありました。そのご縁もあって、九州行幸には「行くなら、調の寺に行きたい」との昭和天皇のご意向から、因通寺のご訪問が決定しました。
この地域は、共産主義者がたくさんいる地域で、特に敗戦後ですので暴動が起きる可能性がかなりありました。因通寺のある町では陛下の行幸を歓迎する人と反対する人で対立が起きました。
歓迎するのにも命がけの雰囲気です、反対派から何をされるか分からない。
お迎えするのは町長や知事などもである。
ある町長は知事にこう言います。
「知事さん、あなたも、おわかりだろうけど、このたび一天万乗の大君でいらっしゃる天皇陛下がここに来られるんですよ。私も息子を今度の戦争で亡くしましたけれど、おそらく息子は天皇陛下万歳といって死んだにちがいありません。その息子のことを思ってみても、天皇陛下がおいでになるとき、父親である私がどうしてじっとしていることが出来ましょう。
せめて陛下がお出で頂くとき、気持ちよくして下さるよう、みんなでこうして掃除をしているんですよ。
知事さん、心配しなさられでもいいですよ。至誠天に通ずですよ。」
5月24日、いよいよ因通寺に昭和天皇の御料車が向かわれます。
いろんな想いの群集から、「天皇陛下万歳、天皇陛下万歳」の声が自然と上がります。
それは、地響きのようでした。陛下は、群集に帽子を振って応えられます。
そして陛下は門前から洗心寮に入られます。子ども達は、それぞれの部屋でお待ちしていました。陛下はそれぞれの部屋を丁寧に足を止められます。
「どこから」
「満州から帰りました」「北朝鮮から帰りました」
「ああ、そう」「おいくつ」
「七つです」「五つです」
「立派にね。元気にね」
一人一人にお声をかけられます。
ひと部屋、ひと部屋と。
そして一番最後の部屋の「禅定の間」に進まれます。
陛下は、その時突然、ある一点を見詰めて佇まれます。
侍従長以下は「何事があったのか」と足を留めます。
しばらくして、陛下は一人の女の子へお顔を近づけられます。
「お父さん。お母さん」と、お尋ねになる。
女の子は、二つの位牌を胸に抱きしめていたのである。
女の子が「はい。これは父と母の位牌です」と、返事します。
「どこで」「はい。父はソ満国境で名誉の戦死をしました。母は、引き揚げの途中で、病気で亡くなりました。」
「お淋しい」
「いいえ。淋しいことはありません。私は仏の子どもです。仏の子どもは亡くなったお父さんとも、お母さんとも、お浄土にまいったら、きっともう一度会うことが出来るのです。お父さんに会いたいと思うとき、お母さんに会いたいと思うとき、私は御仏さまの前に座ります。そして、そっとお父さんの名前を呼びます。そっと、お母さんの名前を呼びます。するとお父さんも、お母さんも、私のそばにやってきて、私をそっと抱いてくれるのです。私は淋しいことはありません。私は仏の子どもです。」と答えました。
陛下と女の子は、じっと見つめ合います。
さらに陛下は部屋の中に入られ、右の手に持っていた、帽子を左に持ち替えられ、右手を女の子の頭において、撫でられたのです。 
 陛下は「仏の子どもはお幸せね。これからも立派に育っておくれよ」と申され大粒の涙をハラハラと流されました。
すると、女の子は「お父さん」と呼ぶのです。
多くの人たちは、言葉無く佇みます。
新聞記者までが、言葉を無くし一緒に涙を流したのです。
孤児院から出られるとき、子ども達が陛下の袖を持ち、「またきてね、お父さん」と言います。
陛下は、流れる涙を隠そうともせず「うん、うん」とうなずかれお別れになられます。
そして後に、一首の歌が届けられました。「みほとけの教へまもりてすくすくと生い育つべき子らに幸あれ」
調住職はこの昭和天皇陛下のお言葉をみなに響き聞かせようと、この御製を寺の梵鐘に鋳込ませました。
今でも因通寺に行くとこの梵鐘の響きが当たり一帯に響き渡るそうです。
洗心寮を出られたあと、長い坂の下でたくさんの人々が陛下を出迎えます。
陛下は遺族などと一人一人お話になり、進まれます。
その中に若い青年と思われる数十人が一団となり陛下をお待ちしていました。
シベリア抑留の時に徹底的に洗脳され、共産主義国家樹立の為に共産党に入党した者達でありました。
すごい形相でむしろ旗を立てて待ち構えていたのです。
恐れていた事が起こる気配です。
周りの者が陛下をお守りしなければと駆けつける前に陛下は、その者達とお話になられます。
陛下はその者達に深々と頭を下げられます。
「長い間、遠い外国でいろいろ苦労して深く苦しんで大変であっただろうと思うとき私の胸は痛むだけではなくこのような戦争があったことに対し、深く苦しみを共にするものであります。」 
「皆さんは、外国においていろいろと築き上げたものを全部失ってしまったことであるが、日本という国がある限り、再び戦争のない平和な国として、新しい方向に進むことを、希望しています。皆さんと共に手を携えて、新しい道を築き上げたいと思います���」
非常に長いお言葉を述べられます。
陛下の、表情は自愛に溢れるものでした。陛下は、彼らの企みをご存知ない。
陛下の前に、一人の引き揚げ者が、にじり寄ります。
「天皇陛下さま、ありがとうございました。今頂いたお言葉で、私の胸の中は、晴れました。引き揚げてきたときは、着の身着のままでした。外地で、相当の財をなし、相当の生活をしておったのに、戦争に負けて帰ってみれば、まるで丸裸。最低の生活に落ち込んだのです。ああ、戦争さえなかったら、こんなことにはならなかったと、思ったことも何度かありました。そして、天皇陛下さまを、恨みました。しかし、苦しんでいるのは、私だけではなかったのです。天皇陛下さまも、苦しんでいらっしゃることが、今、わかりました。今日から、決して、世の中を呪いません。人を恨みません。天皇陛下さまと一緒に、私も頑張ります。」と言ます。
その時、むしろ旗を持ってすごい形相の男が不意に地面に手をつき泣き伏しました。「こんなはずじゃなかった。こんなはずじゃなかった。 俺が間違っておった。俺が誤っておった。」と号泣するのです。
その男の懐には短剣が忍ばせていたのです。泣きじゃくる男に、他の者達も号泣します。
じっと、皆を見詰めて動こうとされない陛下。陛下の、まなざしは深い慈愛に溢れ、お優しい目で見つめられます。三谷侍従長が、ようやく陛下のおそばに来て促されようやく陛下は歩を進められたのです。
陛下が涙を流された時、人々は知りました。陛下も苦しまれ、悲しまれ、お一人ですべてお抱え込んでいらっしゃる事を。
陛下は、危険を顧みず全国を御巡幸され続けます。そのお姿に、国民は「一丸となって、共に頑張ろう」と思うのでした。
戦後のめざましい復興のエネルギーはここから生まれたのです。
晩年、昭和天皇は病床で「もう、駄目か」と言われます。医師たちは、ご自分の命の事かと思いましたが、実は「沖縄訪問はもうだめか」と問われたのである。
最後の最後まで、国民を御思いになられる陛下でした。
その昭和天皇の御心は、平成5年に今上陛下(今の上皇陛下)によって果たされます。
今上陛下は、歴代天皇初の沖縄ご訪問をなさいました。その時、原稿なしで遺族を前に5分間にわたって、御心のこもったお言葉で語りかけられました。
そのお言葉に、険しい表情であった遺族も「長い間ご苦労様でした、というお言葉をもらったので満足しています。お言葉には戦没者へのいたわりが感じられました。陛下のお言葉でまた一生懸命やろうという気持ちが湧いてきました。」「なぜか泣けて言葉にならなかった。沖縄のことを愛しているのだろうという気持ちがこみ上げてきた」
こうして昭和天皇が昭和21年2月から始められた御巡幸は45年もの月日を経て一区切りがついたのです。
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“124 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[sage] 投稿日:2011/03/07(月) 22:23:42.31 ID:93UYlHBy0 欧米が驚愕した天皇陛下と日本人 『ヒロヒトのおかげで父親や夫が殺されたんだからね 旅先で石のひとつでも投げられりゃあいい��だ。    ヒロヒトが40歳を過ぎた猫背の小男ということを日本人に知らしめてやる必要がある。 神さまじゃなくて人間だ、ということをね。    それが生きた民主主義の教育というものだよ。』    昭和21年2月、昭和天皇が全国御巡幸を始められた時 占領軍総司令部の高官たちの間では、こんな会話が交わされた。 しかし、その結果は高官達の”期待”を裏切るものだった。 昭和天皇は沖縄以外の全国を約8年半かけて回られた。 行程は3万3千キロ、総日数165日。 各地で数万の群衆にもみくちゃにされたが、石一つ投げられたことはなかった。 イギリスの新聞は次のように驚きを率直に述べた。 日本は敗戦し、外国軍隊に占領されているが、天皇の声望はほとんど衰えていない。 各地の巡幸で、群衆は天皇に対し超人的な存在に対するように敬礼した。 何もかも破壊された日本の社会では、天皇が唯一の安定点をなしている。 イタリアのエマヌエレ国王は国外に追放され、長男が即位したが、わずか1ヶ月で廃位に追い込まれた。 それに対して、日本の国民は、まだ現人神という神話を信じているのだろうか? 欧米人の常識では理解できないことが起こっていた。 128 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[sage] 投稿日:2011/03/07(月) 22:34:34.67 ID:93UYlHBy0 欧米が驚愕した天皇陛下と日本人 その2 「ローマ大帝国も、ナポレオンの国でさえも、一度戦いに負ければ亡びている。 私の国のカイゼル陛下にしても、また生前中は神の如く慕われていたヒットラーも、 イタリアのムッソリーニも、戦いに負けたらすべてそのまま残ることはできない。 殺されるか、外国に逃げて淋しく死んでいる。 だから日本の天皇も外国に亡命すると思っていた。しかし、そんなことは聞かない。 だからすでにこの世におられないと思っていた。 ところが最近、日本から来た記録映画を見て驚いた。 天皇が敗戦で大混乱の焼け跡を巡っておいでになる姿である。 しかも、二年もの長い間、北の端から、南の端まで、焼き払われた廃墟を巡って、 国民を慰めておられる。陸軍も海軍もすでに解体されているのに、一兵の守りもないのに、 無防備のままで巡っておられる。 平穏無事なときでも、一国の主権者が、自分の国を廻られるその時には、 厳重な守りがなされている。それでも暗殺される王様や大統領がある。 それなのに一切の守りもなく、権力、兵力の守りもない天皇が日本の北から南まで、 焼き払われた廃墟を巡る。国民を慰める。何という命知らずの大胆なやり方であろうか。 いつどこで殺されるか。こう思って映画を見ていた。                 しかし驚いたことに、国民は日の丸の小旗を打ち振って天皇を慰めている。 こんなに美しい国の元首と国民の心からの親しみ、心と心の結び、 これはどこにも見られないことである。 われわれは改めて、日本を見直し、日本人を尊敬しなければならないと思っている。」”
— VIPPERな俺 : 天皇陛下すげえええってなる話教えて (via irregular-expression)
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Hiroshi Yoshida: In a Temple Yard, 1935
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Birds on a Branch, by Watanabe Shōtei, 1916
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