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pomme-de-aki · 5 years ago
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もう10ヶ月もプロレスを観に行ってないらしい。
歌舞伎や野球はちょこちょこと観に行っているけれど、プロレスに関してはなんか後ろ向きになってしまう。
もちろんプロレスを観るのは楽しいし、ありがたいことに、Abemaやサブスクで、観に行かずともいくらでも楽しむことができる。だからこの10ヶ月もなんとかなってきたというのはある。
そんななかで会場に足を運ぶのがためらわれたのは、横に恋人がいないからなのだろう。
歌舞伎も野球もどうせ一人だからいいのだ。でもプロレスに関しては、その楽しみを誰よりも共有できる恋人がそこにいないのが本当に悲しいのだ。
最後に会ったのは、まだ寒さの残る3月だった。あれから季節がぐるりと一周しようとしている。お互い、いろいろな意味でしんどい一年だったように思う。私はすっかり鬱と睡眠障害がぶり返してしまった。
年の最後ぐらい、プロレスから力をもらいたいと思って、チケットを買ってみた。
楽しめるかな。楽しめたらいいな。
恋人とまた、なんの気兼ねもなく一緒にプロレスを観に行けるようになってほしいな。
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pomme-de-aki · 6 years ago
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高校生や大学生に、政党名を伏せてマニフェストを見せ、どれがどの政党だと思うか尋ねると、自民と民主系を逆にして答えるという。また、「保守/革新」という対立軸でどの政党がどちらだと思うか問うと、多くは自民党や維新の会を「革新」政党だと答えるらしい。
後者は半分合っている気がするけれど、兎にも角にも、自民党のイメージ戦略(悪く言えば印象操作)が極めてクレバーである(スマートではない)ということなのだろう。
こういう記事を読むと、投票率が上がらないことで喜ぶのが誰なのかもよくわかる。
そんななかでも選挙に関心を持たせ、自らの政党に入れてもらうよう活動するにあたって手っ取り早いのは、その是非をさて置いても、「政治的無関心」層、ないし「政治的非常識」層に働きかけることなのだろう。
批判するためには頭を使わなければならないが、盲信することに頭を使う必要はない。
要は、「考えない有権者」が多い方が助かるのだ。
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pomme-de-aki · 6 years ago
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おこちゃま
私はやっぱりお子ちゃまだ。
そして、軽薄だ。
そんな私の一面がしばしば、恋人を苛立たせてしまう。
付き合って二年、遠距離とはいえ、そろそろお互いの良いところだけではなく悪いところも見えてくる頃合い。
カップルというのは、価値観の違う者どうし、お互いの悪いところをどれだけ受容し合えるかが大事だと、どこかで耳にしたことがある。
その意味で、恋人は私の悪いところを受容しきれなくなっているのだと思う。
私は、恋人と付き合うとき、距離が離れていてもいつも隣どうしにいるつもりで付き合いたいと言った。確かにそう言った。
でも、時が経ち、当の私がそれを忘れてしまっていたように思う。い��ぶんの甘えや慢心があったのかもしれない。
私は、自分で約束したことを自分で守れていない。省みれば省みるほどにつくづく軽薄で、コドモだ。
そのことに、今日この日まで気づかなかった自分に腹が立つ。
今思うことはひとつ。
大好きな恋人と、隣どうしで、大好きなプロレスの話がしたい。
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pomme-de-aki · 6 years ago
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一般的な心理学研究とは違い、語りの研究には区切りがない。“常に未完を余儀なくされる”と言われている。
果たして、自己否定で締め括った約10万字の長文を書き上げた私は見事に燃え尽き、毎日あれほど向き合い続けたiPadをろくに充電もせず放ったらかしにしたまま一ヶ月が過ぎてしまった。
あれ以来、あらゆる活字が頭に入ってこない。漫画ならいけるかと思ったけれど全然ダメだった。
区切りがないとはいうものの、これほどまでにスッキリしない経験を、今までしたことはなかった。
そんなものと言われればその通りかもしれない。けれど、こんなものを書いて学位を貰おうだなんて、烏滸がましいにもほどがある。
少し時間を置けばこの気持ちも落ち着いてくるかなと思っていたけれど、全然そんなことはなかった。
悔しい。こんな仕上がりで審査会に臨むなんて。
協力してくれた人や支えてくれた人にも申し訳が立たない。
そんなことを考えている場合じゃないことはわかっている。わかっているけど、自分の惨めさにただ呆然とするばかりなのだ。
もう何も考えたくない。
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pomme-de-aki · 6 years ago
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これでようやくおばあちゃんに顔向けできるな。
ありがとう。
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pomme-de-aki · 7 years ago
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いとおしさ
今年の誕生日は、とても疲れていたけれど、恋人と一緒にだらだらと過ごすことができた。
私は、誕生日プレゼントと同じくらい、恋人からの手紙をいつも楽しみにしている。今の時代だからこそ、自分の手で書く手紙に、いろいろな気持ちをこめて贈り合える。
手紙をもらって読むたびに、この人と付き合ってよかったと思えるのだ。
今年もそんな手紙をもらった。どんな内容だったのかはあえて書かないけれど、その気持ちにいとおしさを覚えたことだけは記しておこうと思う。
ありがとう。
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pomme-de-aki · 7 years ago
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素朴な疑問
年輩の女装子にホモソなミソジニストが多いのはどういうわけなんだろうかと考える深夜3時半。思想的にもどこか他者に対する想像力を欠いていて、安倍ちゃん的なアレに親和的。
あの人たちにとって「女を装う」ことはどういう意味を持つんだろうな。ぜひ触れてみたいところだ。
そんなことを考えている場合ではないっつーか来年以降の宿題ね。
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pomme-de-aki · 7 years ago
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自責
ここ三年ほどのツケが一気に回ってきた気がする。
すべては自分の責任。
そういうことを思うたびに、自己嫌悪に陥る。
でも……。
ダメなりに懸命に生きてきたんだって、少しは自分を労ってやらないと、本当につぶれてしまいそうだ。
せめて自分は自分の味方でありたい。
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pomme-de-aki · 7 years ago
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どうしても直視できないもの
Twitterで「新日本やDDT、大日本は観に行かないんですか?」と聞かれた。
私はプロレスマスコミではないので、その質問に対して「優先順位としては低いですね」ぐらいの回答はできるわけだけど、私自身、DDTという団体に関して、どうしても直視できないものがある。
それは、 「只今より入場いたします○○選手は、ホモでございます!!」 という場内アナウンスと、それに爆笑する観客との、無自覚な共犯関係。
「ゲイレスラー」というギミックが、現実のゲイを知ることにクソほどの役にも立っていないという証左であると思う。あまつさえ、「ホモ」という侮蔑語すら、当然のごとく用いられている。
私自身はゲイではないけれど、見る人によっては「オカマ」と揶揄されるようなセクシュアリティをもっていて。
そんな私はかつて、「オカマ」と揶揄されることも、自分の住む街の���長にLGBTQについて「どこか欠けてるところがある」と発言されることも、さらりとかわせるのがスマートであり、「正しい当事者」であると信じていた。そして、「ゲイギミック」をもつプロレスラーがセクハラ攻撃を武器としている事実に対しても。
それは、LGBTQとしての私と、プロレスファンとしての自分とが引き裂かれないようにするための方便だったのかもしれないけれど、一方で、自己肯定感の低さゆえの私自身の承認欲求の裏返しでもあったように思う。「分別のある当事者」像を身に纏っていたいだけだったのだと、今になって振り返る。
まるで、いじめを受けていたところから一転していじめる側に転ずる子どものような、もしくは、女性蔑視の発言を繰り返すことで男性議員に取り入ろうとする女性議員のような。
目が覚めたのは、ある日、先に挙げたシーンをテレビで目撃した瞬間だった。
「只今より入場いたします○○選手は、ホモでございます!!入場の際は大変な興奮状態にあるため、男性のお客様に対してセクシュアルハラスメントを加える場合がございます!皆様くれぐれも、ご自分の身はご自分でお守りください!!」
入場曲に乗って、「ゲイレスラー」が飛び込んでくる。客席を練り歩いて、男性客の唇を無理やり奪う。女性客を足蹴にする。阿鼻叫喚の会場。一様に笑う観客。「ゲイレスラー」と目が合うことは、まさしく「スリル」なのだろう。
「ホモ」をネタにする興行主も、「ホモネタ」に笑う観客も、この会場の何%かの観客(あるいは視聴者)を笑い者にしているという事実に気づいていない。
言い換えれば、この人たちにとって「ホモ」は、招かれざる客であるどころか、想定すらされない客なのだ。「ゲイレスラー」という概念を通して見る、ただのファンタジーなのだ。
この共犯関係の渦で娯楽を享受できるのは、マジョリティの特権に幸せにも気づいていないマジョリティか、マジョリティに加担することで自分の身を守りたい、今の今までの私みたいな人間だ。
私は、「そもそも男色は一方的な搾取関係の上に成立してたんだし」とか、「この人はゲイギミックにしかよりどころがないんだから」とか、「ゲイとか関係なくいちレスラーの自己表現なんだからいいじゃない」と「寛大な目」で見つめていた、それまでの自分を恥ずかしく思った。これじゃ、私も共犯者じゃないか。
かつて私は、子どもを相手にするアルバイトをしていた。カミングアウトはしていなかったが、髪の長い私は、子どもたちから「オカマ!」とからかわれるようになった。
それまで「オカマ」であることを理由にいじめられたり、からかわれた経験をもたなかった私は、少なからず傷ついた。
その傷つき体験を消化するために当時の私ができたことといえば、「オカマなのは間違いじゃないし、子どもたちなりのコミュニケーションの取り方なんだから大目に見よう」という納得だった。けれど、私の心のうちには「私はオカマなんだ、周りから見ればおかしな存在なんだ」という自己否定のことばが、べっとりと貼りついた。
あのとき私が、「オカマって言われたら傷つくから言わないでね」と子どもたちに伝えることができていたら。もしかしたら彼らがあれ以降他人に「オカマ」という言葉でからかうのを止めることができていたかもしれないし、私が私自身の心に「オカマ嫌悪」を抱えることもなかったかもしれない(いや、バイト先ではカミングアウトさせてもらえなかったのだけれど)。
「ホモでございます」というアナウンスと嘲笑は、そんな過去の苦々しく恥ずかしい自分を色鮮やかに思い起こさせる、そんな引力を今でも持ち続けている。
直視し、明確に拒絶し、あるいは批判することばを得たとき、私はそこでようやく、「オカマ」とからかわれた過去を清算することができるのだろう。
「分別のあるマイノリティであること」は、「分別のないマジョリティを射精させること」以外の役には立たないのだ。
過去の悪夢は、過去の失敗を繰り返さないための自分のアップデートに利用するしかない。
もう、黙らない。
ナイトメア。
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pomme-de-aki · 7 years ago
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思考の放棄
反知性主義というか、もっと云えば、こんな言葉を遣うのは本意ではないけれど、“馬鹿”って貫き通すとこんなに強いものなのか、と思う。
批判するより前に馬鹿馬鹿しく思えてきて、もちろん腹立たしくもあって、もうなんだかよくわからない気持ちになった。そんな、ここ二週間だった。
政治的主張は大いに結構。でも、「主張」の必要条件であるところの「根拠」はおろか、「主張」に用いられる言葉の意味や定義、知識や認識のレベルから誤ってるんだもの。そして、認識の誤りを認めようとも���ないんだもの。なぜなら、誤りを認めてしまった時点で主張の妥当性が失われるから。
彼らは「同性愛は趣味嗜好の類であって、異性愛であることが普通」「同性婚で同性愛者が増え、少子化が加速する」「待機児童なんて一人もいない」などという知識レベルでの誤りを犯しながら、同時に主張の根拠とするところの「伝統的家族観」について明確な定義付けを怠ったまま、「性の多様性を法的に保障したら日本の伝統的家族体系が崩壊する」「LGBT支援の動きはコミンテルンが日本の家族を崩壊させるために仕掛けた」「保育所は子供を家庭から引き離し、洗脳教育を施す施設である」「男女共同参画は人間の中性化を目指す危険思想だ」という、荒唐無稽な主張を繰り返している。
こうなると、批判する側にしてみれば、批判のスタートラインにも立てないのだ。前提から間違ってるのだから。怒るしかない。糾弾するしかない。でも彼らは、どれだけ怒られようとも「差別」を認識することはない。認識した時点で、自らの主張の瑕疵を認めることになってしまうから。
人間だから、間違うこともある。瑕疵はある。私だってきっと、誰かに傷つけられるのと同じように、誰かを傷つけながら生きてきた。誰かを傷つけることで強く見せようとする、それが承認されることは快感になる。
そんな「過去」の整理は、いまだつかぬまま。そうして整理できない「過去」を、底の見えないクローゼットに現在進行形で仕舞い込み続けている、そんな気がする。
せめて、畳まなきゃ、と思う。畳み方を学ばなければ、いつまでも誰かを傷つける弱い人間であり続けてしまう。私は私の誤りを認め続けなければならない。
偉い人が「人間は考える葦である」と云った。考えを深め、対話を進めれば、知識も増えていくし、ものの見方も日に日にアップデートされる。知識や認識に誤りがあれば修正される。思考する一人一人は弱い存在でも、それが集まれば知の集積となる。
でもあの人たちは違うのだろう。きっと、考えるよりも、信じたいのだ。考えることに瑕疵があったとしても、信じるものには、一点の瑕疵もないのだ。信じるものを疑ったり、瑕疵を認めることは、断じて許されないのだ。
平成が終わりを告げようとするなか、極刑に処されていったあの13名が証明している。思考を放棄した人間は、強い。そして、恐ろしい。
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pomme-de-aki · 7 years ago
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おそれるな
小5の夏。私は初めて転校を経験した。
それまで一度も訪れたことのない地。なんで私は大好きな友達と離れて知らない学校に通わなければいけないのだろうと、理不尽な気持ちでいっぱいで。
慣れぬ環境のなか、私は同級生からいじめを受けた。
もっとも、ニュースになるような激しいいじめではなかったけれど、それでも私の心は深く傷ついた。
先生は、必ずしも私を守ってくれなかった。
だから私は、「学校に行きたくない」と母に言った。
母は私に言った。
「行かなくていいよ、死にゃあしないから」
そう言ってくれたことで、私はかえって、いじめと戦う覚悟ができたように思う。
結局2、3日休んだあとまた学校へ行くようになり、少しずつ同級生とよい関係を築いていった。卒業までほんの1年半だったけど、あのときのことは忘れられない記憶として今日まで残っている。
つらいときは、我��しなくていい。逃げることを、恐れなくていい。
死にゃあしないから。
そうして私は、死ぬことなく大人になった。
私も、母のように、誰かを守れる人間でありたい。
日大アメフト部のニュースを見ていて、そんなことを考えた。
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pomme-de-aki · 7 years ago
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外注の心理屋
今年も、レインボーウィークは、劇団のお手伝いだった。
芝居という営みは不思議なものである。
生身の人間の心と心のやりとりが、虚構のなかで行われる。それを見世物として観客に提供する。観客は、役者という現実と役という虚構とを行き来しながら享楽に耽る。
こんな営みが、必ずしもカラッとしたものにならないのも、必定といえる。
そう、楽屋裏ではいろんなことが起きるのだ。
私は、受付対応や前説という現実的な実務を手伝いながら、楽屋裏の人間模様を観察し、気づいたことを心に留め、主宰とじっくり話す。
これが、劇団のなかでの私の役割。この事実を知っている人は、そう多くないし、誰にでも簡単にできることでもない。
だから、私は劇団員ではなく、あくまで「外注」。役者もやらない。
そういう一線の引き方もあるのだ。私は芝居がヘタクソだからな。
ただ、「あいさんが来てくれるだけで落ち着きます」と言われれば、なんとなくうれしいかな。
太っているからではない、と信じたい。
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pomme-de-aki · 7 years ago
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First Anniversary
4月15日、恋人と付き合って一年が経った。
これといった危機もなく、あっという間で、密度の高い一年だった。
画面越しに会話しながら、一年前のLINEのやりとりを振り返ってみた。
なんという絵文字の多さよ。あたかも、句点というものを知らぬがごとく、そこにはたくさんの絵文字が並んでいた。今となってはその数もずいぶんと減ってしまった。
きっと、カッコつけたかったんだろうし、かわいこぶりたかったんだ。そうして淡い恋を成就させるべく、相手と自分の気持ちをなんとか繋ぎ止めようとしていた。いじらしくて、恥ずかしい。
でも、そんな時期があったからこその今なんだ。絵文字の減りと反比例して、幸せが深まっていく。そうこうするうちにきっと、お互いがお互いの人生で欠かすことのできない人間になっていくのだろう。それは、今すぐに答えの出る問題ではなく、日々お互いがお互いのことを想っていれば、おのずとそういうふうに流れていくのだと思う。
じんわり、穏やかに、大事な人と毎日を歩んでいきたい。
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pomme-de-aki · 7 years ago
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学術的態度
私が大学に入学した年、必修科目として「日本語学」を履修した。
卒論は江戸文学で書いたけれど、ことばの法則性を見出す文法の世界が、中学の頃から大好きだった。法則さえ見つけてしまえば、テストなんて簡単だった。だから、日本語学の講義も毎回楽しみに受講していたことを覚えている。
そのなかでテーマのひとつとして登場したのが、いわゆる「ら抜き言葉」だった。
一般的に「ら抜き言葉」は、「正しくない」日本語であると言われている。その根拠は、以下のように説明される。
〈受身〉〈可能〉〈尊敬〉〈自発〉の意味を持つ助動詞としての「れる」「られる」は、「れる」が五段またはサ行変格活用動詞の未然形に接続し、「られる」が上一段または下一段、カ行変格活用動詞の未然形に接続する。したがって、下一段動詞の「食べる」の未然形「食べ」に「れる」を接続して「食べれる」としたり、カ変動詞の「来る」の未然形「来(こ)」に「れる」を接続して「来れる」とするのは文法上誤りである。
この説明は、高校以前に口語文法の授業を受けていれば、一度はなされるはずである。しかし、なぜ「来れる」「食べれる」といった用法が起こったのかという点については、一切教わってこなかったし、私自身そこを疑問に思ったことはなかった。ただただ、間違いだから使っちゃいけませんと教わった。10代の私は素直に受け入れて、ら抜き言葉を使わなかった。
物腰が柔らかく、研究室を綺麗に整理整頓するタイプのその先生は、「なぜ」から入った。
なぜ、ら抜き言葉が生まれたのでしょう。
まず、ら抜き言葉が用いられる際の用法をいくつか考えてみましょう。
「明日、先輩は学校に来れますか?」・・・(1)
「この肉は食べれる肉です」・・・(2)
次に、このら抜き言葉を「正しい」日本語に直してみましょう。
「明日、先輩は学校に来られますか?」・・・(3)
「この肉は食べられる肉です」・・・(4)
上と下を比較してみましょう。(1)(2)の用法では、助動詞「れる」「られる」の四つの意味のうち、〈可能〉の意味を持つことがわかります。他方、(3)では、〈可能〉と〈尊敬〉いずれとも捉えることができるし、(4)では、〈可能〉と〈受身〉いずれにも読むことができます。
つまり、ら抜き言葉は、助動詞「れる」「られる」の四つの意味のうち、〈可能〉の意味でしか用いられることがありません。言い方を変えれば、ら抜き言葉は、話者が聞き手に対し、正確に〈可能〉の意味を伝えるために、合理的に生み出されたものであると考えられるのです。
この説明を受け、私は目から鱗が落ちる思いだった。それと同時に、大学に入学して間もない私は、先生から、学術的態度とはなんたるかを、ひとつの事例を通して教えられた気がした。
世の中の事象や言説をただ受け容れたり、良し悪しを決めるよりも先に、まず疑問を持つこと。問いを立てること。
私のなかで、自我が芽生えた瞬間だったと、今振り返るとそう思う。
あれから14年の歳月が流れた。
このところ、「反知性主義」ということばを耳にする。それは、わが国の宰相へ向けて用いられたりもする。それが本当だとすれば彼は、大学の講義を熱心に受けていなかったのかもしれない。なのに、「社会で役立つ人材を育てる」という名目で「大学改革」に妙に躍起になっている。大学、楽しくなかったのかな。
そういえば、うちの修士課程は、ある種の専門職育成機関になっていたのだけど、ことさら考えることを忌避する学生が多かったように思う。教員に頼らず自分で考えるよりも、教員に筋道を整えてもらうことを望む学生が大半だった。曲がりなりにも「大学院」なのに。けれど、他人の言うことを従順に聞く人間ほど「社会で役立つ人材」になれるものだ。いちいち疑問を投げてくる人間よりもよっぽど扱いやすいから。「大学改革」は皮肉にも、内側から進んでいるような気がする。
翻って私は、教免を取り、心理士を取ったにもかかわらず、そんな「社会で役立つ」スキルを不良債権にして、いまだに大学という組織で学生をやっている。14年前には想像もできなかったことだ。しんどいことも山ほどあるけれど、楽しいか楽しくないかと言われれば、楽しいから学問を続けているのだろう。
たまに忘れそうになる、学術的態度。
いいか悪いかを判断するより前に、丁寧に物事を見つめていこう。近道だと思って向こう見ずに走り抜けていたら、本当に大事なものを道端に落としてしまいそうだ。
どう考えたって、何事にも疑問を持たないあり方が、人間世界に貢献するとは思えないのです。
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pomme-de-aki · 7 years ago
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倍速で走る人
学科の先生の訃報に接した。
寝耳に水だった。まだ50代だったはずだ。
去年の年末に亡くなっていたことも、一年あまり闘病されていたことも、今日初めて聞かされた。
私は彼女のゼミ生ではなかったから、直接の絡みが多かったわけではないけれど、それにしても悲しい報せだった。
「精力的」ということばはこの人のためにあるのだと思うほどに、あらゆる分野に見聞をもち、頭脳明晰で、研究て実践でも男勝りにテキパキと仕事をされていた。
その仕事ぶりはときに、なにかに追われているようにすら感じさせられた。
たとえば、ある心理検査について、大きく二つの解釈パターンがあったとして、通常いずれかができればいいところを、彼女はその両方を用いて被検者をアセスメントするような人だった。いずれの解釈法にもそれぞれ長短があるから、両方やることでより深く被検者のパーソナリティを把握できる、ということだったらしい。
要は、通常の倍働く人だったのだ。
だからといって倍の見返りを求めるようでもなかった。研究者として名を成そうという態度でもなく、ひたすら役に立つことのみ考えているようだった。
学生には少し厳しかったけれど、学生が嫌な気持ちになるようなことを言うタイプではなかったし、指導はすべて的確で理にかなっていた。
今からちょうど8年前、まだ心理の「し」の字も理解できてない私が修士課程に入ったとき、確か初めてお話させてもらった先生が彼女だった。そのなかで、「よくわからないけど私はたぶんこの人と同じようには生きられない」と思い知らされたものだ。
うちの学科(というか大学全体)は、研究と実践とが両立されることが求められる分野で、研究は実践に活かされてこそ意味をもつという意識が研究者の間で共有されている。社会への還元という視点が、ほかの分野よりも強くあった(少なくとも私がそれまでいた国文畑よりは)。彼女はその代表格のような存在だった。
けれど私は、研究というのは一にも二にも私自身の思考のための道具であって、社会へ還元されるかどうかは、研究者の意思にかかわらず二次的に産出される問題だと思っている。私は、第一に私自身のために研究に取り組んでいる。だから、私は今日まで、彼女とはまるで違うスタンスに立っている。
それに、他人の倍働いても他人と見返りが一緒なら、いくら援助職だとしても、いや援助職だからこそ私は倍働けない。そんな冒険は、私にはできない。ちょっとぐらい名誉もほしい。
もちろん、私が逆立ちしてもできないようなことをやっていた先生を、とても尊敬しているけれど。
そんな精力的な研究者であり実践者であったがゆえに、彼女が常に携帯する杖には、いくぶんミスマッチなものを感じていた。
特に足腰が弱っているようでもなければ、なにか目に見える病気に冒されているようでもない。もちろん、視力が不自由なわけでもない。それでも彼女は、杖をついて歩いていた。
杖をついている理由を、私はおろか、ゼミ生も知らなかった。というか、聞けなかった。容易に聞けない雰囲気をまとっていた。
杖のことだけではない。普通、ゼミ生であれば、指導教官のプライベートな情報についてある程度把握できるものなのに、彼女はゼミ生に、住所や家族構成すら知らせることがなかったという。だから、年賀状を送ろうにも送れなかったらしい。
心理士らしいといえばそれまでだけど、それにしてもミステリアスだった。
遺骨は、生前の希望によって神戸の海に散骨されるという。それもまた、いかにも彼女らしい気がしたし、私にはきっとできないことだ。
他人の倍のスピードで走り抜けた人生だったのだろうか。だとすれば、あの杖にはどんな意味があったのだろうか。自分自身にブレーキをかけていたのかな。
これからも私は、事あるごとに先生のことを思い出すだろう。あの杖とともに。
安らかにお眠りください。
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pomme-de-aki · 7 years ago
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見果てぬ夢
恋人の袴姿を見て、本当によかったなぁという安堵感を覚える。
同時に、私も袴を着たいという気持ちにもなる。
それは、私が23歳の春に置いてきた、見果てぬ夢。
夢を現実に変えるなら、今年頑張るしかない。
今年ダメなら一生無理。
一生に一度ぐらい、死ぬ気になった方がいいと思うの。
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pomme-de-aki · 7 years ago
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ほほえみ
珍しく恋人が素直だった夜。
愛犬とのツーショット、微笑む恋人。
うん、かわいい。本当にかわいい。
満面の笑みを浮かべるときの無垢なえくぼがチャームポイントの彼女だけれど、微笑んだときの大人びた美しい表情もまた魅力なのです。
つい先週べたべたしたばかりなのに、もう恋人のあたたかな肌が恋しい。
寒いなー。早くあったかくならないかな。恋人と手を繋いで、春の街を歩きたい。
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