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非凡さへの確信こそが、まさしく凡庸さの叙事詩をかたちづくる。(蓮實重彦)
俗物根性は単にありふれた思想の寄せ集めというだけではなくて、いわゆるクリシェ、すなわち決まり文句、色褪せた言葉による凡庸な表現を用いることも特徴の一つである。真の俗物はそのような瑣末な通念以外の何ものも所有しない。通念が彼の全体の構成要素そのものなのである。(ナボコフ)
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時とともに若い時にも戦争の過酷さを経験していない人が指導層を占めるようになる。長期的には指導層の戦争への心理的抵抗が低下する。その彼らは戦争を発動する権限だけは手にしているが、戦争がどういうものか、そうして、どのようにして終結させるか、その得失は何であるかは考える能力も経験もなく、この欠落を自覚さえしなくなる。
戦争に対する民衆の心理的バリヤーもまた低下する。国家社会の永続と安全に関係しない末梢的な摩擦に際しても容易に煽動されるようになる。たとえば国境線についての些細な対立がいかに重大な不正、侮辱、軽視とされ、「ばかにするな」「なめるな」の大合唱となってきたことか。歴史上その例に事欠かない。
そしてある日、人は戦争に直面する。
(中井久夫/戦争と平和 ある観察)
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すべて良書を読むことは、著者である過去の世紀の一流の人びとと親しく語り合うようなもので、しかもその会話は、かれらの思想の最上のものだけを見せてくれる、入念な準備のなされたものだ。(デカルト)
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ドイツ敗戦直後の1945年春、米軍第101空挺師団が、バイエルン州ベルヒテスガーデンの町に程近い塩鉱山の坑道から、ヒトラーの個人蔵書を発見した。(……)後年、米国の歴史家ティモシー・W・ライバックの研究で興味深い事実が判明した。ヒトラーは無類の読書家であると同時に、古書にこだわる書物蒐集家でもあった。『ロビンソン・クルーソー』『ガリバー旅行記』『ドン・キホーテ』を高く評価し、『アンクル・トムの小屋』を愛読。聖書に精通し、ゲーテやシラーよりもシェイクスピアを好み、ショーペンハウアーやニーチェのみならず、米国の(反ユダヤ主義者)ヘンリー・フォード『国際ユダヤ人』やマディソン・グラント『偉大な人種の消滅』からも影響を受けていた。オカルトに入れ込み、エルンスト・シュルテルの『魔術──その歴史および理論と実践』に傾倒していたこともわかっている。その本に彼自らが下線を引いた箇所がある。〈自分のなかに悪魔的な種を宿さぬ者に、けっして新たな世界を生み出すことはできない〉。
(フェルナンド・バエス/書物の破壊の世界史)
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人間が創り出したさまざまな道具のなかでも、最も驚異的なのは紛れもなく書物である。それ以外の道具は身体の延長にすぎない。たとえば望遠鏡や顕微鏡は目の延長でしかないし、電話は声の、鋤や剣は腕の延長でしかない。しかしながら書物はそれらとは違う。書物は記憶と創造力の延長なのである。(ホルヘ・ルイス・ボルヘス)
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世の人に倣ふなかれ。
(ローマ人の信徒への手紙12章2節)
何ゆゑ兄弟の目にある塵を見て、おのが目にある梁木(うつばり)を認めぬか。
(マタイによる福音書7章3節)
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芸術とは何か。①芸は藝の略字、藝の原字は埶。埶とは木と土と丮、すなわち人が木を土に植えるの意。術とは方法の意。つまり芸術とは人が木を土に植える方法の意である。② 芸術とは明治の啓蒙思想家・西周による art(英仏)乃至 ars(羅)の翻訳語。ars(羅)とは technē(古希)の翻訳語。technē は technic(英)の語源でもあり、その言語化は technologia(古希 technē+logos)と呼ばれ technology(英)乃至 technologie(仏)の語源。つまり芸術と技術はそもそも同一のもの。また、technē は physis の対義語。physis(古希)とは natura(羅)転じて nature (英仏)の語源。自然、生成、流転の意。ゆえにその対義語である technē は physis への抵抗を原義とする。つまりこうなる。芸術とは自然に抗して生き延びる術の意である。だからそれは詩や絵画や音楽や演劇や建築や映画や料理や服飾だけにとどまらない。iPhone もプログラミング言語も原子力発電所も芸術であり、キリスト教もローマ法大全も日本銀行券も芸術であり、それ以外ではない。──言っておく。芸術は終らない。われわれは芸術を続けるしかない。なぜなら、もし芸術が終る瞬間が訪れるとすれば、それは人類が滅亡する瞬間に他ならないのだから。
続けよう。
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もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを知るべきなのだ。
(V・E・フランクル/夜と霧)
うん。結局これに尽きるんですよね。
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私見。言語とイメージを画然と区別し言語の外部にイメージがあると断ずるのは誤りである。何故か。文字は目に見えるからである。絵がそうであるように。ゆえに言語は文字を介してイメージを有する。証明終わり。だが詳論しよう。①象形文字は言語でありイメージである。ゆえにその実在それ自体が言語とイメージの区別を無化する。ヒエログリフを見よ。あるいは甲骨文字を。その生成過程は絵から言語が生じる魔術的過程である。なお、すべての文字は表音文字ではなく象形文字であるとする脳科学者マーク・チャンギージーの研究も参照のこと。②書道及びカリグラフィーはイメージとしての言語を創造する。つまりそこには言語とイメージの区別がない。ありえない。書体(=フォント)の美醜を論じるとき、人は常にすでに言語をイメージ化している。あるいは書物の構成、目次や索引の作成、ページレイアウト一般に関しても同様である。③キャラクターは言語としてのイメージそれ自体である。ゆえにそれは言語とイメージの区別を超える。キャラクターは何度くり返し描かれてもその同一性を保つが、それはキャラクターが反復可能性を有しているからであり、つまり何らかの仕方で言��化・符号化・記号化されているからである。言語化を完全に免れ得るイメージ(すなわち純粋視覚)は存在しない。抽象表現主義の陥穽はこれである。なお、キャラクターの原義は、特徴、性質、記号、目印、刻まれた徴である。念のため例示しよう。イエスの磔刑を題材とした絵画は枚挙に暇がない。だが何故その絵に描かれたその者があのイエスだとわかるのかその根拠は何なのか。それは青白く痩せ細っているからであり荊を冠せられているからでありその両隣に盗人がいるからであり、つまりイエスがキャラクターだからである。例示終り。──言っておく。純粋なイメージは存在しない。純粋な言語が存在しないように。われわれは言語とイメージの間を生きているのであり、自我それ自体が言語とイメージを材料として構成されている以上、その外部は存在しない。
続けよう。
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恥ずかしくないのですか。金銭ができるだけ多くなるようにと配慮し、評判や名誉に配慮しながら、思惟や真理や、魂というものができるだけ良くなるように配慮せず、考慮もしないとは。(ソクラテス=プラトン)
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私はこの人よりは知恵がある。それは、たぶん私たちのどちらも立派で善いことを何一つ知ってはいないのだが、この人は知らないのに知っていると思っているのに対して、私のほうは、知らないので、ちょうどそのとおり、知らないと思っているのだから。どうやら、なにかそのほんの小さな点で、私はこの人よりも知恵があるようだ。つまり、私は、知らないことを、知らないと思っているという点で。(ソクラテス=プラトン)
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「それについてわたしは何も知らない」と言い切るのは実に気分がいい。(ドゥルーズ)
またはニーチェの口癖。「そんなことは知ったことではない!」
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