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人工/性の海へ
夜、緑の手前で立っていた。そこで私たちは落ち合ってアーティフィシャルな海へ向かう。
すぐに終わる虚像のような繁華街を抜けると、ガス管で阻まれた濃いグレーの群島が広がる。一つ目の島には大学がある。海を研究する大学だ。入り口には石でできた博物館が併設していて、その石はここらの海で取れたものだそうだ。この海の底に眠る石は一体どんな形でどんな疾患を持っているのだろう。私たちが石でできた博物館に目をやった瞬間、跡形もなく溶けていった。
二つ目の島には光り輝くédifice が乱立している。その一つ一つの窓には暖かなものもあれば興ざめなものもあった。私たちはその興ざめな一つの窓を冷笑していた。この二つ目の島からは三つ目の島が見える。この島は今までの島とは時間の流れが異なる。恐ろしく過去に取り残されているのか、はたまた恐ろしく未来の姿なのか、ほとんど廃墟のようだった。私たちは三つ目の島に渡るための橋を探して少し歩く。三つ目の島への橋からは楽園のようなカラフルな島が見える。あの島へはどうやったら行けるのだろうか。
三つ目の島の先端からは何を見ることができるのか、それが私たちの目的だった。路肩に牛が��を潜めて寝ている。私たちは彼らを起こさないように静かに目的地へ向かう。先端に近づいた頃、後ろから車が私たちを追いかけてきた。彼らもまた私たちであった。私たちは見つからないようにセメント工場の下で車の彼らを見つめていた。彼らは島の先端にたどり着き、何を見たのだろう。しばらくすると彼らは車に戻り宴の続きを始めるのであった。私たちはついに島の先端にたどり着いた。牢獄のような金網越しには旋回する光条が遠近法を飛び越えて眼球に突き刺さってくる。その奥には輪郭のしっかりした電波を発するビルがその腰を据えていた。その荘厳な光景に言葉を失いたかったのだが、沈黙を埋めるように彼は言葉を紡ぐ。その鬱陶しさに嫌気がさした頃、駅に向かうバスが乗客を乗せずに来るのであった。私たちはそのバスにはあえて乗らずに、この夜を延長しようとした。
少し歩くと風葬される牛たちの墓場があった。その墓地に足を踏み入れるには手形が必要らしい。私たちはついにその手形の入手方法が分からず、島を引き返すのであった。
この港のショップには淀んだ澱のような煙草の煙と黒服がたゆたう。鶏肉を買った私たちは潮風のように、それを店先で食べた。それが美しい光景だとも知らずに。安い蛍光灯が出会ったことの無い人々を引き寄せてくる。そして彼らも私たちも別々の海へ向かう。
私たちは次の海、セクシュアリティの海へ向かうのであった。
大きな幹線道路は上空に巨大な棒を三本抱えている。その下を、知らない言語を聞かされながら歩く。果てしなく続く蛇に生えた足は建物の区画を関係なく歩く。給油所の前の領海侵犯的な道路を右に曲がるとLISが閉まっていた。この壊れかけた建物の間から見える海は見たことがあった。
そのまま進むと中空から出現する触手が常に円環運動をなす小さな駐車場にでる。その円環運動を支える鈍重な怪物の背中を登ると触手に取り込まれるということだった。その背中は一定の間隔で上下に伸縮するのであった。私たちはその伸縮を利用して円環運動に身を任せようかと考えたが、ここからは遥か遠くである。私たちはいつだって夢想することしかできない。遠くの景色は美しく、近くの景色は固い。その光景を目に焼き付けようと座る場所を探すけど、どこにも見当たらず、私たちは座ることを諦める。堅牢な壁の淵に女が2人佇んでいる。その女たちに話しかけてはいけない。彼女らもまたそのシンプルな光景を目に焼き付けている。写真機のようだと���った。
その海の隣の海、それがセクシュアリティの海である。それはどの海よりもつまらなくありふれた海である。黒々とした波が回る腕を冗長にするし、岸に建っている食堂は幽閉されている。どこまでもつまらない黒曜石のポールは先端がおられていた。そこに腰掛け私たちは海ではなく輸送機を見つめていた。黒曜石を這っていくパンは柔らかくなっていく。このシーンを何度繰り返しただろう。息ができなくなっていくことをそれはそれとした。行き交う人並みは奈落へ消えていく。どこかで見た光が私を照らす。
足の裏が顔貌のように疲弊していた私たちは、仕事術に関する話をしながら、帰路につく。新設された建造物にたどり着くには、この変わり果てた道路を行かなくてはならない。昔のRPGみたいに。あらゆる縮尺を変更させる地下道を通ると頭が擦り切れていった。その地下道を抜ければ眼に映るすべてのものはツヤツヤし出した。
この新しい大門は穏やかな光を構造的に織り込むことで完成された。その大門は裏口からしかはいれない。内部はかつての国の飛行場のようだった。とても小綺麗だが、何一つ動作していない。私たちはこの穏やかな光に包まれながらそれぞれの終着駅に向かって安堵していくのであった。
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メッセージボトルを海に投げるみたいに誰かと会話したい。適切な反応なんてしなくていいから。思いついてしまった言葉をまた海に投げ返してほしい。それが自分のところに届かなくてもいい。また別の誰かが行方の知らない言葉たちを抱くだろう。所在のはっきりしない言葉を聴きたい。私から出たような面をしている言葉たちを、どこにも帰属させないようにしたい。無名称な言葉たちが知らない誰かに届くことが今、最高に心地良い。
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修了した日は…
たまにはちゃんと日記っぽいことでも書こう。
今日は卒業式でした。修士だから修了か。卒業式あんま出る気なかったから、起きれたら行こうぐらいに思ってたのですが、そういう日に限って普通に起きれちゃうんですよね。普通に間に合う時間に起きて、でも、なんだか別に式には出たくなかったから、スッキリでも見ながら、いつもよりゆっくり朝食を食べました。スッキリでは街角の女性に男をオトすテクニックを聞いていました。おじさん好きの女性の「少し意地悪をする」というテクニック、もっと上手いやり方あるだろうに、自分の方がうまく立ち回れる気がする、、、なんて、あたかも卒業式の日じゃないみたいな、どうでもいいこと思いながら。いつだって自分はあまのじゃくだから、その日っぽくないことをしたくなっちゃう。卒業式の日に、このくだらないインタビュー、真剣に観てる人なんて自分ぐらいだろうな、って密かに楽しみながら。そういえば小学校のとき、クラスの音楽係で、毎朝、クラスのみんなで歌う曲の選曲してたけど、あえて冬に『こいのぼり』とか歌わせて、先生に注意されたな。あまのじゃくなの、勝手に密かに楽しむ分にはいいけど、人を巻き込んじゃいけないね。でもあまのじゃくなのは楽しくてやめられない。
今日は案外、何を着ようか迷いました。学部の時もだけど、卒業式にカッチリとしたスーツ着る気になれなくて、とはいえ、そこまで自己主張する気にもなれなくて。最初、ジャケットの下にグレーのニットを着ようかと思ったけど、なんだかだらしがなかったので、結局、ノーネクタイにカジュアルなマオカラー風のシャツを着ました。黄色のリュックと合わせると、少しポップで可愛いくて、割と気に入った合わせ方だったのですが、「今日の服装、案外普通だね」って言われちゃいました。いかにも卒業式っぽい格好はしたくないけど、みんなが期待するような少し風変わりな格好もしたくない。でも普通だねとも言われたくないし…。やっぱりあまのじゃくだ。
学校に着いた頃には、式��最後でした。途中から式になんて入れないだろうな〜と思ってたけど、普通に案内してくれました。「演奏が終わったら入って大丈夫ですよ」と、まるでコンサートに来たことがない人みたいに案内されたのがおかしくて、そういうとき、まるでコンサートに来たことがない人を演じ切っちゃう。「あ、そうなんですね…!」とか言って。
ひと通り、写真を撮り終えて、旧友と横浜へ。撮り忘れた構図の写真があったので、それを撮りに。やっぱり横浜は落ち着く。上野は少し、気を張ってないとやってられないところがあるからかな。多摩川越えて、ようやく心がほぐれて、東神奈川のイオンが見えるあたりで、安らぐ。おなじみの商業施設。その屋上で写真を撮った。そこの屋上、初めて行った。何度も通って、行きなれた場所に、実は知らないエリアがあったことを知ったときのあの感覚。マサラタウンの南、海から先も世界が広がってたことを知ったときの感覚を、いつも思い出す。あの感覚、すごく瑞々しいなと思う。
去り際、「私、こっちで用事あるから、じゃあね」っていう風に別れました。この別れ方、最高だ。そのぐらいの距離感が一番心地いい。ベッタリされるといつだって逃げ出したくなるから。理想的な去り際でした。帰りの電車、図書館によって借りたい本があったことを思い出しました。でももう横浜出ちゃったし、これから桜木町に行くのもめんどくさい。足には革靴に馴染めなかったことによる疲労感が広がってた。これでいい。このまま帰ればいい。
あんなにあまのじゃくなことをしたがってたのに、駅から家に帰るまでの間、iPodで斉藤由貴の『卒業』を聴いてしまいました。馬鹿みたいにベタだ。「東京で変わってく、あなたの未来は縛れないのね」、iPodのなかの斉藤由貴はそう歌ってた。卒業したら離れ離れになってしまう寂しさ、大学の卒業式じゃ感じないな、なんて思いながら。狭い音楽の世界で、これからも顔を付き合わせていかなきゃいけないんだろうし。斉藤由貴がちょっぴりうらやましい。結局あまのじゃくも、帰りは和らぐみたい。
家に帰ったら誰もいなくて、テレビをつけたらニュースエブリィが流れた。スッキリを観てたんだし、当然か。テレビのチャンネルはいつだってそのままだ。少しお茶を飲みながら、ドーナツを二つぐらい頬張って。あと、しょっぱいものが欲しくなって、ハッピーターンも。テレビの中では渡辺裕太くんが、サッカーの天才キッズをレポートしてました。密かに、NEWSの小山くんの「裕太くーん」っていう呼びかけ、好きなんですよね。たまたま聞けたのでほっこりした気分になりながら。そのサッカーの上手な子、レアル・マドリードのキャンプに参加するとかなんとか。サッカーに疎��自分でも、なんだかすごそうなことは分かる。遠い世界のことみたいだ。でも案外、取材の中でうつるその子の家は、庶民的で、さぞかしご両親も息子のことが誇りなんだろうな、と、信じられないぐらい月並みなことを思いながら。そのまましばらくテレビを見てました。
それから自分の部屋に戻って、もらった写真をながめたり、少し寝たり、夕食を食べたり、お風呂に入ったり。いつものことをいつも通り。卒業式の日ということを忘れた頃。床に放りっぱなしの学位記が目に入って、改めて手にとる。うーん。やっぱりすこし嬉しいかもしれない。
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地面
突如として街に同じ紋章をつけたダウンを着た人で溢れた。無意識の集合体がその紋章を存在させているのでしょう。日本各地、new townのAEONにディスプレイされたそれらの衣服は無意識の集合体に均質に分配され、それらをきた無意識はネット上にイメージの幽霊として、各端末に浸透していく。その紋章は、誰もが、初めて見るより前に見ているのです。だから今日1日で観測された67人の紋章を着た人たちは実在しない。それは脳内に植え付けられていたイメージが彼らのダウンに投影されたに過ぎないのです。どこまでが拡張された現実なのか、境界が揺らいでいく。どこで見た紋章が原=オリジナルでどこでみた紋章がコピーなのか。というかそんな概念はすでに崩壊した世界に私たちは生きているのではないでしょうか?あの紋章が頭から離れず今日も眠るのでしょう。
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剥ぎ取る
意味を剥ぎ取りたい。略奪した先にある迷惑を誰も咎めることはないだろう。空っぽになった虚無な信号の上に、形のない戸惑いを踏みしめる。もはや私たちの足の下にはシステムの残骸しか残っていないのだから。車輪がコードに巻きついている。黄色い看板の前にはとろけた猫がいる。その猫に話しかければどこにもないオマージュが形式に与えられるだろう。すり足がこだまするこの非常階段には、今日もほのかな石鹸の匂いが漂っている。漂白されすぎたイメージは光線の中でハレーションを起こしている。金色の髪の毛を浮遊させる子供は昨日団地の中にいた。見れば見るほど皺の深いフォトブラックは綺麗に丸められている。出土したかのような器具は私の心の肉をえぐりながら突き刺さるのだけれど、それを誰も気づかない。なぜなら目に見えないからです。こんなにうるさいのに目に見えないから誰も気づかない。なぜなら目に見えないから。ティッシュを音が立たないように引き抜けば、君の死んだような目がフラッシュバックする。そのあと何事もなかったかのように手を洗えば全てがリセットされたかのような気がする。その時世界の分節について考えを巡らし、分節が全て消去されていたことに気づいて発狂しそうになるが、着ていたパーカーが守ってくれた。白が灰色に複雑な立体感を持って織り込まれている。襞のあいだの空間に釈迦がいたのだが、それはかつて見えない。あの木の下の喉を下ろせば、自動入金される。どこへ行ったって東が認知した。定期的に更新される座礼を鎌倉の下に植えこむと、そこは過去につながっている。油まみれのハムが追いかけてくる。涼しい風が迫りくる。おしゃれな木彫りが壊れかけている。馬とねずみが結婚したらアザラシが産まれる空間の中で。プラスチックのケースの思想は現代に通じるものがあるのだけど、とりあえず歩いてみる。坂に同じ夜が重なると足がすごく重くなった。知らない崖のふもとに流れていた。水たまりには緑の��スター。目線が同じだけど速度が異なる人々は互いにとても無関心である。はさまれた。スーパーの上に広がる神殿。一緒には帰りたくない。入りかけた中華屋さんで鏡をみる。田園都市線に住む環状線。森が離陸していく。なにを欲していたんだっけ?赤い。でも本物は大して赤くなかったね。そもそも見えなかったね。でもスクリーンが見えなかったことはない。トイレばっか行くから倉木麻衣。ドーナツの味は池袋。その4階に入る勇気はなかった。なぜなら知らないから。ただ同じカードをもらって人混みに靴の紐を解かされた。顔の大きさ。京急線に映り込んだ。眠そうな「じゃ」を罵りながら、金港を遡行した。着いた頃、なにも覚えていない。振られた手が下の席から投げられた。仕事が終わったら一緒に帰ること。朝陽が阻害してきた。ズボンにこびりついた糊。ただ、剥ぎ取られた床はすごくキレイだった。
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指と海
そういえば、数日前に��至高の夜がありました。その日は誰といたわけでもなく、何か飲食店にいたわけでもなく、お酒が入っていたわけでもなく、ひたすら夜の幹線道路や港を歩いていただけだったのですが。いや、誰とあってるわけでもなく、どこに行ったわけでもな��からこそ、最高な気分になったのかもしれません。名付けられたり形を与えられるわけでもなく、ひたすら逃走すること。自分自身に降りかかる、指し示したり拘束したりする種々の柔らかい暴力は、塵のように気管支を詰まらせ、身体をキュシュキュシュと凝固させます。身体が早い水みたいになればいいと思う。誰も自分に関心なければいいのにとさえ、思う。名前も固体も失ったときはじめて、あの海に反射する工場の灯りを永遠に見続けることができるのでしょう。その日は一瞬、それになったのですが、あまりに寒くて30分ほどしか見続けられなかった。月並みにいえば「我に帰った」とでもいうのか。でも自分にとってはむしろ、その時間こそが「帰る」時間で、「我」は「行く」ところだと思いました。帰る「我」なんて、誰も、どこにも、ない。駅近くの大量に束ねられた線路の上を飛んでいる高速道路の腹がとても輝いていました。名付けられないそれらのコンクリートの余剰にとても惹かれるのは、そうなりたいと願っているから。(でも同時にみんなに知って欲しいし孤独は孤独で嫌だなと思うんだけど。強欲ですね)だってほら、現にこうしてその日のことを文章に残している。文章に残して公開して誰かの目に触れた、その時点でこの夜のことはなかったことになるだろう。でも、救いとしては、まだこんな夜が本当にあったのか、定めることが誰にもできないこと。だから、その日撮った一番よく撮れた写真を誰にも見せない。この夜がなかったことにすれば、この夜があったことになる。何もかも誰も知らなければいいのに。自分も何もかも知りたくないし。焦らすのはいつだって自分の名前と誰かの指だ。その指を噛みちぎった先にはどこだって連れてってくれそうなブリッジがかかっている。そのなだらかな曲線の端っこの夜の空と今にも溶け合いそうなところで呼吸をしている、未だ見ぬ器官が手招きしている。そこまで鈍色の車を飛ばして迎えに行くよと耳の尾っぽの真ん中で囁いているから、今日も寝ることができない。緑色のオイラックスをつければコーヒーに撹拌されると。その指でかき混ぜれば、今日も水の夢を見ることができる。
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生活2
池袋は息が苦しくなる。 作品を作って、誰かに見てもらうのは純粋に楽しいと感じるし���上の喜びだ。創作の快楽に取り憑かれてしまっているのだろう。 でもそれを生業にするまでが辛くて大変で回りくどくて面倒で、嫌で嫌で仕方がないのである。大学の体制も、界隈の人間も大嫌いだし、関わりたくない。 だとしたら幸せに暮らせそうな健康な道を味わいたいと、巷に溢れるあり得たかもしれない人生の断片を、夜な夜な自らに投影し、心を平穏に保つ。上野や新宿を離れ、横浜に。そして実を言うと少し足を突っ込んでみたりしているのだ。 ここ最近の自分はその遊戯のおかげでとても健康的で幸せなのである。 これはやっぱり逃避なんだろう。 何かを創作することに取り憑かれてしまった人間は不幸である。こんな人間が幸せになれないのは確かに社会の仕組みの問題なのかもしれない。 創作に取り憑かれている人の多くは、努力して忍耐する情熱を持ち合わせている。そんな人はすごいと思う。自分にはそんな情熱がなかった。きっと京浜東北線のどこかに落としてきた。それだけ。 深夜のパーキングエリアに行きたい。高速道路の上を走る昆虫はあらゆる断片を乗せて、結束点としてのPAに呼び寄せられる。神経症的に要請される情熱を誰か持ってきて欲しい。 でももう少し、夜の湾岸線を逃避していたい。そして海ほたるを渡ったら、もう戻ってこれない。東京。
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生活
近頃、漠然と「生活したい」と考えるようになった。 「生活したい」とはどういうことか。 今だってなんだって生きてる限り生活していることになるのに。 自分の言う「生活する」とは経済的に自立して実家を離れ親の扶養から抜けた状態のことなんだと思う。 つまり「生活している」実感のわかない今は生きてることと言わない。自分の中で。自分の周りの人たちがみんな自立した「生活している」人間になっていくなかで、自分だけはまだ子供の世界に取り残されたまま。子供って生きているとは言わない。自分の中で。 ただ勉強を続けることや親の扶養に入っていることは別に恥ずかしいことでも駄目なことでもないし、早く働くことが偉いわけでもない。そんなことは知っている。 ただ自分は生きてみたい。 子供の死の世界に飽きたんだと思う。 午後1時東雲のイオンにいる裕福そうな家族、午前0時狩場のドンキにいる妙に髪の色の明るい同棲しているカップル、午後6時池袋のまいばすけっとで買い物をする独身サラリーマン。 都市をうごめくあらゆる生活。 街を泳ぐ中でそれらあらゆる生活の断面が衝突し続ける。 その衝突してくる生活をありえ��かもしれない別の生活として想像してみる。 それらはどれも楽しそうで同時に退屈そうで。 最近物件情報を見るのが楽しい。特に今引越しする予定はないけど。例えば誰かと一緒に暮らすことを想像する。想像する瞬間はこの上もなく楽しいけれど、それがずっと続いていくことを考えると急に退屈になる。スマホをスクロールすることで物件情報は切断的に自分に衝突してくる。 断面が衝突してくること。そのあとの持続の想像力を欠くこと。目まぐるしいその遊戯はただの子供のごっこ遊びにすぎないんだろうけど、今の自分には必要不可欠な遊戯である。 断面から断面へ軽やかに移動する自分の想像力は「生活」への憧れを加速させる。 その魅力的な断面に遭遇するため、今日も子供は街を飛び回る。
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ドライブ
とりあえず何かを書きたい欲望にかられることがある。 それは何か書きたいトピックがあってはじめてその欲望みたいなものは成立するんだろうけど、「何か」はどこにもない。ただ「書きたい」という欲望が宙づりになる。 これはどういうことか。 そういうときは必ず心がうわうわしている。 何も手がつかなくて、ただひたすらに宙づりにされる。 それは書き終わった爽快感や書いている時のドライブ感を味わいたいだけなのかな。その快楽は誰もが認めるだろう。 自分は常に快楽だけを求めているのかな。 トピックはなんでもいい。 むしろ書くという快楽を味わうためにトピックが存在している。 「書くこと」が主体。 常に結果の快楽を求めるので、書くことに必要不可欠なトピックを探す行為すら億劫になる。 その快楽がそのプロセスの前で宙づりになっているのだ。 書いていると落ち着く。 ずっとドライブしてたくなる。 ドライブが好きだ。 車の免許は持ってないけど、誰かの車に乗せてもらってドライブするのがすごく好き。 街の建物や高速道路の無骨さを鑑賞するのもすごく楽しいけど、それ以上にドライブそのものの移動する快楽がある。 それは電車やバスではやっぱり味わえない。何が違うんだろう。 都市に潜入してる感じがする。何かの内部を、普段見られない断面を、不法侵入している。右往左往に動ける感じ、自由で悪な感じがする。悪とは自由なんだと思う。秘密の大潜入。どこにだっていける速度と自由。そんなドライブ感は電車やバスにはない。徒歩は自由だけど、やっぱり速度が足りない。あと徒歩じゃ首都高は移動できないし、入れないところがたくさんある。(もちろん車にだって入れないとこたくさんあるけど) それに車のカプセル感。プライベートで親密な空間で公共の街に繰り出すハラハラ感。 そんなプライベートで自由な速度は快楽だ。 どことなく文章を書くことに似てるのだろう。 自分のプライベートか��発される言葉が速度をもって結晶化していく。そしてネットの海の公共へ密かに放流されていく。プライベートな言葉は秘密の大潜入をするのだ。 すごくハラハラすることではないか。
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