Tumgik
shiunteen · 5 years
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メモ 2019年11月26日
十年以上住んでいた筈の祖父のマンションはいつまでも新築のような匂いがした。最後まで小綺麗な空間だった。流しには湯呑みが置いてあって、ジュースでも時々作っていたのかミキサーが出ていて、手拭きも台拭きも入院前に使っていたのが掛かったままだった。
私が洟をかんで捨てたゴミ箱は祖父が手作りした木製だった。老人大学で習ったという油絵も、彼の手作りの額縁に入れて壁に掛かっていた。飾りきれない絵は空いた部屋の隅に積んであった。
客間のガラス棚にはいつも正月に使う大人数用の食器と、古そうな酒が並んでいた。立て掛けたギターの横の譜面台には書き込みのある楽譜が開いてあった。物心ついた時から置いてあったが使っているのを見たことがない巨大な羽ペンと、カラオケの教本と、ペン字のテキストとバルーンアート教室の書類と無数の啓発本の横には、ハーモニカが二つ並んでいた。
毎年夏にはこの場所に集まって、墓参りに行く時間になるまで甲子園を見ていた。
全部そのままだった。
葬式で祖父に着せる服を選ぶため寝室に入った。部屋はベッド以外のもの殆どが服だった。
私なんかは最近まで気付けなかったほど、さりげなく、本当にさりげなくお洒落な人だった。色シャツを重ねたり、柄もののベストを着たり、ベルトや帽子にも拘っていた。
お義兄さん随分衣装持ちだったんだねえ、それでも処分は始めてたんだねえと、伯母と大叔母が喋りつつ箪笥を開ける。クローゼットからも積んだ衣装ケースからも、きちんと畳まれた仕立ての良い服が出てくる。いつか集まった時の記憶にあったような服も何着か見つかる。
これだけたくさんの服から、お洒落な彼に丁度良いコーディネートを考えるのは難しかった。結局は先週入院する日にも着ていたという、見慣れた紫のシャツに濃い緑を合わせて、真新しそうな靴下と一緒に纏めて葬儀屋に預けた。
手狭な寝室だけで時計が三つもあったが、そのうち二つは既に動いていなかった。
「あれさあ、昔かなり怖かった」
枕元にある黄緑の丸い置時計を見て姉は言った。言わなかったが私も当時同じことを思っていた。がちん、がちんと音を立てて震えながら静寂の中動く針が恐ろしかった。祖父が今のマンションに越す前は、広い広い家の一室の布団の脇に、必ず置いてあった時計だった。
今はひたすらに静かだ。その反対側の壁には10時で止まった掛け時計が、中身だけをかちこちと鳴らしている。
腕時計のことも書きたい。それだけは思い出が濃すぎてまだひとつも整理がつかない。装飾した創作話みたいにしてしまいそうで怖い。
あまりに突然の死で遺書はなかったのだが、大事な戸棚の鍵の場所は手書きのメモで分かりにくく残してあった。それを読みながら親族総出で探し回った。
合計4本の鍵がそれぞれ全然違う場所に隠してあって、まるで宝探しだった。『テーブル横の荷物入れのわきにある小さい茶色い鞄の中』茶色い鞄てどれだよ、どのくらいを小さいって言うんだよと皆笑いながらあちこちの鞄という鞄を漁って回った。一番わかりにくかった一文をなんとか解読して、湯たんぽの空箱から最後の鍵を発見したときが笑いのピークだった。
祖父が最晩年一緒にいた人(父は愛人と呼んでいた。伯母は怒って話題にも出さなかった。私はやっぱり何も聞かされないままだった)の家からも回収してきた鞄を開け終わると、また少し家族達は静かになった。
一見普通の人に思えるが妙に謎の多い人だった。いつも人好きのする顔で笑い、ゆっくりと話す。生き字引のような人だった。
生き字引が過ぎてほらまたいい加減な事を言っているよとも言われていた。外反母趾が輪ゴムで治るなんて聞いたこともない。いいや、治る。これをここにこうして、ちょっちょっちょ、とやると、治る。
どうせ本当に治ったことがあるんだろう。風邪の治し方にしたって、虫退治の方法にしたって、突拍子もないことを小学校の恩師のような謎の老獪性と信頼性で話すものだからいちいち耐えられなくて笑ってしまった。
金庫漁りついでに発見された戸籍謄本を見たら、苗字の漢字が今と違うわ下の名前も聞いていたのと違うわで場は一時騒然となった(私たち全員の苗字が間違っていたことになるからだ)。俺は誕生日が二つあるんだと言っていた証拠もちゃんと見つかった。出生の届け出がひと月遅れたらしい。
長男なのに家を追い出されて継げなかったのはもらい子だったからではとも噂されていたが、これは書類上間違いなく当家の長男だった。そもそも大叔父と似過ぎているのだから親戚筋には違いないのだが、それにしたって妙なエピソードは多い。
やはり食えない人だ。可笑しな人だ。生前の発言のどこまでが冗談だったのか、今となっては知るすべは無い。
誰も知らぬ苦労もしたのかもしれない。
いつの間にか何でもやってみてしまう人だった。そうして出来てしまう人だった。私が就学するときはヒノキを切って学習机まで作ってくれた。
今のマンションに引っ越す前のあの広すぎる屋敷も昔祖父が増築していたらしい。どうりで少し歪んでいると思った。毎日のように近所の建設現場を見にいっていたと思ったら、設計図も書かずに突然「はなれ」をつくりはじめたそうだ。
決して飽き性ではない、趣味も勉強も工作も全部納得いくまで突き詰めてきたのだろう。まだ突き詰めている最中だった。
この手術が終わればまたダンス教室に通うからと言っていた。嘘ではなかった。フラグなんかじゃなかった。本当だった。誰も疑っていなかっただけではない、経過は順調だとも聞いた。
術後まだ動けない時に父に杖を取ってくれとねだり、何をするんだと訊くと、これをこうして、ほらあそこのスイッチを押せるんだなどと言っていたそうだ。まったくもって通常運転だった。
だから離れて暮らしている姉には手術のことすら伝えられていなかった。
この日の朝電話で呼ばれ、家を飛び出して地元のバスに乗る前に、母からラインで訃報が届いた。結局何一つ間に合わなかったんだなと思いながらバス停で髪も結わず化粧もしないままで私はびいびい泣いた。隣で並んでいる人がずっと私を見ていた。
霊安室の高すぎるベッドで眠る祖父の顔は記憶と少し違った。おじいちゃんに寄ってあげて、ちゃんと触ってあげてと何度か言われたのに、迷って迷って迷って最後までできなかった。
このこともいつか後悔するんだろうか。まだ忘れないように書き留めることしかできない。通夜も葬式も何も済んでいない。
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shiunteen · 6 years
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ある随筆 「リウン」③
昨年の春ぶりにU市に戻った。
T県の海沿いにある小さくも大きくもない、母の生家の地で、田舎らしくどこか閉鎖的で陰鬱、しかし田舎らしくのどかな場所である。
U市といえば青エビをはじめ海産物と蜃気楼、石だらけの浜が有名だが、祖父母宅と「あの」上小沢寺のある町は正反対に高い山で囲まれた集落だった。同じ市内でも海からはそれなりに離れており、何度か峠を越え、整備しきれていない森と365日工事中の橋を更にいくつも抜けないと辿り着かない。遥か遠く眼下に広がる潮の匂いすら届かない、湧き水を汲んで細々と暮らす湿気た奥地だ。
親に借りた古い車で、泥まみれのベニヤ板とゴムシートが重なって放置された足場悪い山道を登る。徐々に利かなくなる視界にようやくワイパーを動かすと、降り始めた雨は飛ばされた先から新しい雫をフロントガラスに弾き落とした。ばらばらと煩いほど断続的に当たる音がなんとなく懐かしい。少なくとも免許を取ってからは初めて聞く音だ。
ふうと息を吐くと自分の身体が縮んで、代わりに排気の匂いのする後部座席で背を丸め寝ている子供の頃の感覚に陥った。まだ運転席と助手席以外の人間に、シートベルト着用義務がなかった時代の話だ。いつも両親が並んで前座席に座っていた。掠れた泥が目立たないモスグリーンの小型車。篭ったJ-POPをランダムに流す横のスピーカーに耳を押し当て、大きな山のトンネルを過ぎるたび飛び過ぎるオレンジのライトと、どこか遠い雨の打つ音を窓の上に聞いて、固いシートの少しでも寝やすい位置を探って、仲の悪い姉と、飼っていた猫と、場所を取り合いながら眠っていた。
物心ついた頃から父が運転していた車は、それから数年経つとやがて赤いワゴン車になり、姉が見合いで結婚し残った私が独身貴族のまま家を出る頃には、最初の車より小さな黒い中古車に変わっていた。もうあまり乗らないから、と言う。今朝父からキーを借り受けたとき、あんたが運転しやすい大きさになって良かったよねえと隣で母は首を傾げたが私は同意しなかった。たしかに今さら大型車の必要はないし、小回りはよく利く。だがシートの座り心地とワイパーの働きは今ひとつだ。そう考えているうちに視界はどんどん悪くなっていった。早いところどこかに車を停めたい。
とぐろを巻く大蛇のような悪路をひたすら登って、いくつかの小集落を過ぎると、ようやく見覚えのある広い棚田が眼前に広がった。今年はまだ稲が刈られておらず、滑らかな鬱金色の波が延々と続き、不恰好な段々をひとつなぎにして生き物のように上へ下へとゆっくりと揺れている。だが雨風に晒されて、エンジン音とガラス窓の向こうの景色はすべて重く、色は沈むように濃かった。
あと数キロも行けば祖父母の家だったが、私は最後の橋の前で諦めて車を停めてしまった。
この土砂降りの中、祖父母宅の庭の狭いスペースに駐車するのは自分にはハードルが高い。以前に傍の水路へ後輪を落として、当時喜寿を迎えたばかりだった祖父に引っ張り上げさせたことがある。あの時は中古でも小型車で良かったと心底思った。今はもう頼めない。
一度停めてしまうと車内は雨音だけが煩く、独特の匂いが篭って肌寒かった。するりと胸ポケットに伸びた自分の手に数秒固まって、我に返る。記憶違いでなく煙草はもう八年ほど吸っていない。大学二年から三年の終わりまで毎日噛み続けて、ある日飽きがきてあっさりやめた。
当時も��ぼ惰性で続けていたためニコチン依存に苦しんだ記憶もほとんどなく、今となっては吸っていた銘柄さえひとつも覚えていない。それなのに口よりも指が無意識に、今の気を紛らす形を欲しがって、変に弱々しく空を切ったのを見て私は笑った。
寝てしまおう。ひと眠りしようと目を閉じる。
程なくして随分雨足が強まったなと音に起きれば、首にタオルを巻いた土だらけの祖父がどかどかとフロントガラスを叩いていた。
「穏子ちゃん、もうとっくに着いとるかと思ったわ。ほら、お祖父ちゃんは今畑見てきた帰り道よ」
傘もささずにこんな所でどうしたのかと思えば、よく知ったぼろぼろの軽トラックが雨靄の向こうに停まっている。
この歳で運転は危ないからと、簡単に止められるような地域ではなかった。車がなければどこにも行けないのだ。
「……危ないよ、こんな天気じゃ」
それでも年々、不安になる。
「平気平気、この道は毎日使って慣れとるから。ただ穏子ちゃんは運転せん方が良いよ。お祖父ちゃんの助手席乗っていかれ」
「いや、ここに車置いてくわけにもいかんし」
ここの地元の人間が聞いたら眉を顰めるだろう、イントネーションがぐちゃぐちゃの言葉遣いがまた顔を出す。祖父母と話すときだけ時々こうだった。学生の頃変に方言に憧れて、自分も喋れている気になって、変な癖のまま定着してしまったものを未だに直すことができない。そうして聞いている彼らもいつも何も言わない。
「祖父ちゃんの後ろ走ってって良い?」
「別に、ここに車置いとっても誰も文句言う奴おらん。明日晴れたらお祖父ちゃんまたここまで乗せてきてやるから、そしたら運転してきて庭に停められ。な」
「……うん」
「で、ジアクジに行くがやろ」
「え、なに?行かんよ」
「上小沢の。寺の。今から寄るがやろ」
「いや今日は行かんよ」
「おう、折角だし連れてってやるちゃ。すぐ隣やけど、こんなえらい大雨やったら、足じゃ歩かれんし」
「歩けないから大丈夫よ、明日行ってくるよ。あそこのおじさんの話ゆっくり聞きたいし、こんな天気で客に来られたら寺も迷惑やろ」
「なん、迷惑てなこともなかろう。オラや祖母さんが行くなら文句言われるかは知らんねど。穏子ちゃんやぞ」
「ありがとう、大丈夫やから」
耳が遠くなったわけでもぼけたわけでもなく、昔からこうなのだと母は言う。
少なくとも私が吏雲に会う前、物心ついた頃には既に、祖父はこういう人だった。話をあまり最後まで聞かない、勢いと愛嬌で世を渡る、いつまでも優しい人だった。
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shiunteen · 7 years
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「リウン」人物設定メモ
高坂は穏子より何学年か上。仕事では非常に良い人だが元来性格が悪い。鈴江だけでなく穏子も薄々気がついているが彼にオフで関わることは一切ないので正直どうでも良い。 鈴江は高坂より更に何学年か上。性格はやっぱり悪いが高坂より圧倒的に裏表がない。大○絢みたいな顔をしている。 穏子の姉は高坂の一つ下。名前は誓子。たしかここ数年会っていない。
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shiunteen · 8 years
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ある随筆「リウン」②
不意に頭上に影が差したのは、単に入道雲が動いたのだと思った。
境内で熱の照り返す地面を見つめながら10歳の私はひたすらに小枝で穴を掘っていた。掘るたびに硬い砂利が出てくるのを一つひとつ指でよけて、なるべく細く深い穴が掘れるように少しずつ掻き出していく。頭がキンキンするような乾いた石の匂いと掘り進む度に湧き上がる湿った土の匂いを嗅ぎながら、ひたすらに没頭していた。
私以外に此処に来る人なんていないし、お坊さんが近づいてくるときはちゃんと草履の音がするのですぐ気付く。だから安心していた。
草履じゃないからわからなかったのだ。
ゴムサンダルの乱暴な一踏みが目の前に鋭く砂利を飛ばし、私は不意を突かれて肩を揺らした。
見上げなくともわかる、太陽を人の熱が遮っている。小学生の私にとっては随分背が高くて威圧感があった。
「お前さ、」
知らない子にお前呼ばわりされたことも、どうせ私の話を聞く気もないだろうその威圧感も、怖くて何も言えない。
男の子は私に対していつもこうした絶対的強引さをもって当たってくる。
「お前、注意されないからって調子乗んなよ」
ぴかぴかに日焼けした棒みたいな脚に擦り傷がいくつもある。爪先が脅すようにまた石を蹴った。何が、と言いたくて滑り出した言葉はきつく噛み結んだ歯に止められる。
「じいちゃんいつも、まーたヨシゾウさんとこの子来たんかー、って言ってるぞ」
何も返せないまま、私は瞬きの回数を減らす。言われたことを反芻しないようにしてひりひりするまでいっぱいに目を開ける。
それでも我慢できなくて結局表面張力より重力に負けた湯が目から落ちる。落ちたのはもうどうしようもなくて、止めることもできずバラバラと泣いた。
目の前の男の子は怖かったが、それよりいつもニコニコ笑って声��掛けてくれるじいさんが自分のことをそう思っていたことが悲しかった。そう他人に知らされたことが悲しかった。
「…………、」
人影はざく、ざく、ざくと私の周りを一周した。
「うわ。泣いてんの」
聞かれなければ出なかった嗚咽が遂に漏れて、怒っている場合ではないのにもの凄く苛立った。
「あー泣くのかよ。なんで。なんで泣くの」
しゃがんだまま号泣するのは息が苦しいし腿が痛いし、脳味噌が見えない湯気で揺れている。しゃくりあげながら、仁王立ちのゴボウ足に心の中で百の呪詛を投げかけている間に、姿は消え去っていた。
吏雲の名前を呼んだことは一度もない。
そういえば従兄弟のお兄ちゃんのことも呼んだことは一度もなかった。お兄ちゃんが直接教えてくれたわけでもないのに名前を知っていることがなんだか気まずくて、洋一、洋一と親戚や父が彼を呼ぶ横で私は聞いていないふりして本を読んでいた。
それと同じ気持ちだったろう。吏雲にまでそんな気を遣う必要などなかったのに、けれど名前を知っていると思われたくなくて、話すほど仲良しだとも思いたくなくて、いつも私は黙っていた。
ろくに会話したこともないのだ、当然ながら互いに名乗った覚えもない。吏雲もどうせ祖父か父から聞いたのだろう、私と同じように。
数年後石遊びをしているとまた仁王立ちの足が目の前にあった。昨年も一昨年も見た、見慣れた赤のゴムサンダルだ。よく見るとベルトが取れかけて白っぽく側面が剥げていた。
ずっと履いていると汚いとか壊れそうとかもわからないんだろうなあ、とぼんやり思った。私だって前に見て元の色を知っているから、赤サンダルと認識しているだけだ。
「お前、俺の名前わかる」
顔を上げようか下げたままにしようか一瞬迷って、中途半端に失敗する。不自然な動きをなかったことにして、私は知らんぷりをしていた。
「なあ、」
低いのに高い声は言う。「お前さ、俺の名前知ってる」
私は無視して石を弄り続けた。
「……なんだ。知らねえの」
吏雲は一転、馬鹿にしたように言った。
「俺、お前の名前知ってるよ」
偉そうに。
唇の皮を軋むほど噛む。そこだけ痛みと共に思考が通うようになった気がする。急に足元の石ころが大きく見えた。泣くな。泣くな。またこんな事で泣くなんて。
馬鹿にした声は少し潰れ、
「……。ああ、腹減った」
と呟いて踵を返した。干し柿かラムネ食おう、と手に持ったビニール袋をガサガサやって言う。わざわざ聞かせているのはよくわかった、俺のじいちゃんはお前の分なんか用意してないぞと言いたいのだ。子供っぽいし、私は干し柿は好きではないので全然羨ましくはなかったが、やはり無性に悔しかったのを覚えている。
ああそう、と一言言ってやれば良かったのだ。そう思うのはいつも、彼が砂利玉を踏んで堂々と去っていった後である。
顔を上げれば吏雲はもういなかった。ちっとも成長しない私はこの年もまた声を上げて泣いた。
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shiunteen · 8 years
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ある随筆「リウン」①
世界に良い音がする。 視界が明滅する。風と草と木々が絶え間なく鳴り、轟音に鼓膜を震わせる。 キーを抜き、エンジンの振動を止め、車を降りれば空に緑があった。ざあざあと鳴り止まぬ濃い緑。私の思い出の中で桜は葉桜、花のない桜、熱に蒸せ返る夏の樹だった。
耳を劈く蝉の音。乾いた紫陽花が錆色に枯れかけ、干からびた蚯蚓や土を逃れ狂ったように走る蟻が躓く百日紅を堂々と見下ろして、立派な葉を広げ生い茂る桜は昔からただひとり澄んで輝きに溢れ、傲慢で美しかった。カブトムシの甲羅のように屈強な、くろぐろと硬い皮を纏う幹も枝も、あちこちを侵す斑らな虫食いすら、射す陽光を浴びて夏そのものを凝縮していた。 二十年前の上小沢寺には、そんなふうにでっぷりと構える巨大な桜が何十も乱立していた。 今は随分と切られ少なくなったような気はするが、それでも見上げればあの頃のことを思い出す。
そして彼に関する最初の記憶は10歳。
物心ついた頃から私は、夏休み祖母の家に行くことを殊の外喜ぶ子どもだった。学期末、生乾きのくしゃくしゃの髪をほどいて、カルキ臭いプールバッグをぶら下げて学校から帰る。歩いていると何故かいつも砂が入ってしまうオレンジの運動靴を脱ぐ、靴下を脱ぐ。水着を洗濯カゴに出し、手を洗い足を洗い、既に帰っている姉の横に座ってグラスにほうじ茶を入れて飲む。洗濯機を回して母が言う。「明日からおばあちゃんち行くよ」 私と姉は飛び跳ねて叫ぶ。決まりきった遣り取り。 毎年夏と正月には家族で車で往復していた、二十年近くも前の話である。その後、随分と無駄に年月を生きてしまったように感じる。 祖母の家の二軒隣が上小沢寺だった。上小沢はそこの住人の苗字なので、本当はジアクジだかジヤクジだかという。ジは寺だ。大人が口にする音は幼い頃曖昧に覚えるとのちのち何十年でもそのままになってしまう。 その向こうには、これも今はこざっぱりしてしまったが、杉に竹にシダ植物と雑木林が続いている。湿った緑に苔むした石階段の寺で、あまり立派でもなく小さな茅葺きだったが子どもの頃はお屋敷探検のような気持ちで覗きにいったものだ。境内は今見てもそれなりに広い。昔と比べて更に何もなくなってしまったからだろうか。 杉林に取り残された空間にはぐるりと桜が取り巻いていた。 寺はいつも無骨な桜に見下ろされ隔離され、葉を散らされながら守られていた。 ・ ・ ・ ・ ・ 「清瀬さん、休みの日何してるの」 顔を上げると食べ終えたらしきサンドイッチの包みが耳の横を掠めた。ごめんと呟いて高坂は手を上に持ち上げる。 「今当たったね」 「大丈夫、当たってないですよ」 「嘘つかなくて良いよ」 「髪にマヨネーズでも付いてますか。なんでしたっけ、お休みの日?」 「んー。お休みの日」ビニールの包みを丸めてゴミ箱に放りながら、高坂はもう一度ごめんね、と言って欠伸する。 昼休憩のオフィスにはたとえ雨でも真昼間炎天でも基本、穏子と彼しかいない。皆よくまあ毎度外食するお金があるものだと思う、がそれは理由の一つにすぎない。 連れ立って毎日飯を食いにいって疲れないほど気のおけない同僚が、自分には一人もいないというだけの話。 穏子と違い目の前のこの人にはちゃんといるはずなのだが、たまにこうして一人コンビニの袋をぶら下げて出社してくることがある。
欠伸する白い喉仏が緩やかに上下し、眠そうな鳶色の目が半開いて私に視線を向けた。 「清瀬さん普段どんなことしてるんだろうって」 「……ううん特に何も、」 一瞬、考えるために彼と目を合わせる。「本読んだり、天井の模様を眺めてたり、あとは学生時代の友人とご飯を食べにいったり。前も言いませんでしたっけ」 「外出るんだ、偉いじゃん」 鳶色はぱちりと瞬きして、口元の笑みよりも微かに笑んだ。眠そうなのに水のようにクリアだ、この人の目は。凪いだこの目なら、自分でも見て良いと言われている気がする。 「……偉いですか?ありがとうございます」 彼がまた笑うので合わせて口をふやけさせると、シロップでも舐めたかのような甘さが一瞬だけ舌の奥に入り込んで溶ける。喉よりも下、胸よりも上のあたりに、呼吸に蓋をする靄のようにふっと溜まるそれは、多分彼の香水の所為もある。 「あれ、」 篭った賑やかな声が向こうに聞こえて、扉が開いた。 早いカフェ帰りの女性陣が賑やかに帰ってきた。笑いさざめきながらそれぞれの部署へ散る足音の中、聞き慣れたハイヒールが一つだけ近付いてくる。 「うわ。二人ともまた弁当なの?」 紅茶色のシニョンにピンを挿し直しながら、コーヒー片手に鈴江は豪快に笑う。美しい靴には傷一つ汚れ一つない。 「シけてんねー、高坂さんなんかコンビニ飯じゃん、学生かよ。まともな栄養摂れよ」 「うわぁ通りしなにうるせえな、なんだこいつ」 淡々としていた高坂の声が大きく揺れて笑う。柔らかいだけだった瞳の鳶色が一瞬で三日月の形に笑み崩れる。 「うるせえなじゃねえよ、飯食えよ。だからいつまで経っても白いんだよお前は」 「白いってなに。あのね、サンドイッチはちゃんと栄養あるから、野菜も肉も入ってますから。ていうか毎食ミスドな鈴江さんには言われたくねえなー」 「は?毎食ドーナッツ食ってるわけじゃないですから、私こそ栄養摂ってますから。しかも結構安いしセールあるしなかなか良いんだよ」 「そういう三文庶民アピールはガチ庶民の俺の前じゃバレバレなんすよ、あーやだやだ。鼻つまみてえ」 「あっそ。今度連れてってあげようかと思ったのに。高坂さんなんてミスドの豪華メニューに吃驚して玉ヒュンすれば良いんだよ」 「は?えーっと鈴江さんと一緒はちょっとだいぶキツイんでいいです」 「吃驚するほど失礼すぎて鼻から今コーヒー出たんだけど。ねえ清瀬さーん、こういう男どう思う?」 「全然許せるよね清瀬さん。たとえば下品な人と飯行くのって苦しいじゃん。あ、ちなみに五年連続で俺が下品だと思う人No. 1が鈴江さんなんすけど」 「本人目の前にして何言ってるのお前」 「あ、すいません!鈴江さんいたんですね」 ふざけんなと拳を振る鈴江からは高坂よりもっと強く甘い、大人の女の化粧の匂いがする。彼の子どもみたいに正しくて淡い匂いは喉の奥が締められるようで、彼女のとろりとした匂いは少し心が緊張して、それぞれに好きだった。 今穏子がいるのは、穏子がずっと経験してきた人生から180度離れた世界だ。東京のはずれの湿気た低い団地の景色、祖母の家の土の匂い山の匂い雨の匂い、そんなものたちから想像もつかない別世界が、この白いオフィスには広がっている。真新しいカーペットと壁の消毒液のような匂いも、上品に過ぎるコーヒーの匂いも、誰もが知っているというブランドの香水の匂いも。
また、吏雲を忘れそうになる。
ここに居て、日々に忙しく必要なものに溢れている人たちを見るのが、裂けるほど辛いときと、泣くほど心地良いときがある。
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shiunteen · 8 years
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私が友人たちとオタク話に花を咲かせる機会を滅多に作らないのは、たとえば仕事場で上司に家庭の愚���を滅多に話さなかったり、趣味のツイッターアカウントで恋愛相談を滅多にしないのと同じであって、 その線引きはたしかにまあ、若気の至りでごく稀に失くなってしまうこともありますがやはり重要なことなのです。 特に一つ目に関しては、実際彼らと何かについて深すぎる話したとしても問題ないでしょう。私だけでなく多くの人がきっと、色々話せる友人を一人ふたり持っています。どんな話もグループによっては、相手によっては大丈夫。かもしれません ただ、 そういった相手だからと安心しきって調子に乗って話していくうちに、自分の中で無意識に必要なものが、たとえば無意識で長く伸ばしていた爪のようなものがどんどん失くなっていく感覚に陥り、話し終えた時には胸に閊えるような虚しさと胃もたれのような後悔が必ず襲います。いわゆる深爪です。心に深爪を負うのです。 深手を負うのです。 更に妄想を膨らませます。私は分霊箱を持つヴォルデモート卿なのです。 たとえば仕事場の私、ネットの私、友人といる私がいます。ありがちな話、ありがちな分類。だからと言ってそれぞれで「キャラ分け」できているなんて考えたこともありませんし、というかそんな芸当を意識して行えるのは漫画の登場人物か器用な人かどちらかだと思っています。 分霊は分類ではあっても、それに全て違うキャラクターシートをつけることはできません。 ですから一例として、もしも上司がツイッターのフォロワーとオフ会している私を見かけたところで、何がしかの違和感を覚えつつも「ああ休日のお前か」としか感じないに違いありません。 考えたくない事例ですが。 でもこうやって自分の呼吸場所を複数持つことで、自意識に毎時間ぶちのめされ一つに収まりきらないほど腫れ上がっている巨大な魂(少々言いたいこととズレますし、字面がいかついので云と書きます)の初期微動が収まるような、地に足ついた心地を味わったことがあるのは私だけではないと思うのです。思い込みでしょうか。 はたから見れば子どものお遊び、自意識過剰でも、云をそれなりに明確に分けるこうした分霊箱によって、繊細で思い込みがちな云気取りの私・およびヴォルデモート卿が求める「気持ちのよすが」(?)が生まれます。 それは、「この場所で云が死んだとしてもまだ私本体は消えない」という臆病な保険ともなり得ます。 本当はほんの一部でも死にたくはありません。線引きを誤って、または調子に乗って線自体を消してしまって、分霊箱の後から後から溢れる水を飲み込みすぎたような胃もたれを起こしてダウンするのは他でもない自分ですから。 さて馬鹿なことを考えました。毎日一時間はこんなことばかり考えています。 明日の妄想はまた違うものだろうと思います。
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