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ガールズバンドとわたし
ふとしたきっかけで、中高時代バンドをやってた時のことをいろいろ、たくさん思い出した。書きたくなったので書いてみる。
あの時わたしは実のところガールズバンドのコピーをするのがかなり嫌で、というのもその括りが本当に憎たらしかった。ボーイズバンドとは言わないのに、リケジョとかと同じ、女がやるだけで十把一絡げにされる謎カテゴライズ。ガールズ���からガールズのコピーをするみたいなの、つまんねーしダサ!かわいいねーって舐められたくない。
世のメジャーな“ガールズバンド”当事者たちも同じ葛藤の中でそれぞれ出来ることをやりたいことをやっていたのだろうと、今なら想像できるけど。
コピーすることもそうだけど、再生産される同世代のガールズバンドはもっともっと嫌悪していた。
コンテストで音源審査を通って本大会(?)に行けることになったけど結局ひとりの親が駄目だと言って出られなくなった大会で確か優勝したどこかの同世代バンド。メジャーデビューの曲を聴いてクソダサ!!!と思った(それは個人の好み)。ゲェ、制服で教室でみたいなMVも最悪、予算かけて作るのがそれかよ。
同い年くらいの県内他校のガールズバンドがオリジナル曲出した時、メンバーによるジャケイラストにバーンと描かれたセーラー服に寒気がした。現役JKを売りにするみたいな姿勢、風俗かよ。だったら違法だけど。そこしかフックになるとこがないならとりあえず卒業まで解散してろ!と思った。
わたしが捻くれてるからそう思うだけかもしれないが、これは現役JKだから大人が手を貸しているだけで、全員女子じゃなければ、そして大学生になっていれば、この中身で形にしようと誰も思わないだろうがよと思っていた(というか今思えば、前述のコンテストはそもそも、パッケージありきで現役JC・JKのバンドを集めてちょうどいいの選んでぶち上げたい大人が企画したんだろうなと思う)。パッケージの話題性みたいな打算が必要な音楽をありがたがるのが気持ち悪い。誰のための何なんだ?
そしてもし自分たちがその場に収まっていたって同じ扱いを受けるんだろうなと思うとげんなりした。というかただのコピバンですら色々思うところがあった。とにかく、ふつうに仲良い人たち同士でバンドやって「ガールズ」とか言われることが、見られることが無理だった。自分のことガールとか女子高生だと思ってないもん。一人の青年として生きていた。
この頃はSCANDALもだしAKB系のアイドルグループも制服風衣装が全盛期で、それは心の底から嫌だった(細かいことを言うとSCANDALのことは最初からそう思ってなかった。かっこいい路線だったし。でも、とにかく「制服」推しな風潮がどんどん気になるようになった)。
特にお洒落が好きなわけではないわたしは、私服でいると裸でいるみたいで耐えられなくて、制服は鎧だとずっと感じていた。スカートは履かなくていいなら履きたくなかったけど、それでも武装だった。みんなと同じ服を着ていれば、自己表現を強いられないからジャッジされたくない面でされずに済むし、同化するのも目立とうとするのもコントロールできる。つまり要らぬ傷を受けずに暮らせる(後で知ったことだけど、真逆に制服が大嫌いで私服の方が自分を守れるという人も当然いる。結果が逆でも根源は近い感情な気がする)。
それを消費対象として(性的だったりそうでなかったりするけどそれだけが問題じゃない)他人に差し出すためのラッピングの形式として扱われているのが心底オエー!!!だった。セーラー服なんて最悪、脱がす脱がさないの歌になってる時点で終わり。
今より幼かったから、自分の感じているこれはみんなもそうだと思っている節があり、そうじゃないことに直面すると驚いて憤慨したり軽蔑したりしやすかった。同世代なのに、こんな制服・青春・女子高生推しみたいな飾り付けされて気持ち悪くないの?そういうのを受け入れる・自らやるやつらがいるからその形式が余計のさばってくじゃん。しかも今更「制服」「現役JK」なんて陳腐なのに堂々と押し出してさ。最悪!!!みたいな。何重にも嫌気がさして、より「女」という括りが憎くなる。こういうふうに、色んなことで烈火の如くキレ続けているハイティーンだった。
振り返ると全然制服とかじゃないフラットな女性グループもそこそこ忌避していたし、あまり冷静ではなかったけど、それでもやっぱり「ガールズバンド」という見せ方に対して敏感だったが故の忌避感はあったと思う。敏感すぎて、そのパッケージが女性らしさなのかその人たちらしさなのかきちんと見極められていない部分もあった気がする。あとは単にわたしがかなり自分から女性性を遠ざけたがっていたこともある。
でも、記憶はあやふやだけど、リンダリンダリンダは嫌じゃなかったな。映画館で観るの楽しみにしてる。
わたしは自分の感情については何年経っても手に取って感触を確かめられるので、ちょっと思い出すとどんどん出てきてしまい、勢い余って書き殴ってみた。なんだろうこの文章…。
最近のことは全くわからないけど、おそらく当時みたいな気持ち悪さは減ってるのだろうな。ええこっちゃ。今からどハマりするような女性バンドができたらアツいな。結婚妊娠出産も含めてずっと続く最高のバンド見たい。
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ZINEが朝のニュースで取り上げられて、それに「同人誌じゃん」とか「かっこつけやがって」みたいに噛みついてる人がうじゃうじゃいるの見てしんどい!!
誰も「お前らと一緒にされたくない」とか言ってないし「お前ら」なんて認識もなく、こういう手段がある!と知って波が広がっただけなのに。そしてその流れはずっとずっと前からあって、じわじわ大きくなっただけなのに。
それを知らなかっただけなのに、その了見の狭さでよくもこんな人に敵意を向けられるもんだな…と、ほんと見ててしんどい。
同人誌即売会で売られるものにもZINEと重なるものがあるのは知っていて、それをそこで売ろうと思ってるのは作った人で、それだけの話。どちらの名でも売ろうと思えば売れるし、どこでどんな名前で売る方が需要と合致するかとか自分が楽しいかとか、それでしかない。どっちも趣味でしかないので…。
別に同人誌です!って言われたら嫌がるわけでもないし、新しいことやってます!とかも思ってないと思う。同人誌即売会にオタクの祭典としてのイメージがつきすぎて、一次創作としての同人誌を作って売ろうと思った時にそこを選ぼうと思いつかない人もたくさんいると思う。
それくらい、色んな層に広がったからこそニュースに取り上げられるくらいの波になっているだけのことで、それならZINEという名付けやパッケージはある意味うまくいった例だというだけ。「同人誌だろ!」と“訂正”したい人たちは、それが羨ましいんだろうか…?同人誌というオタクの趣味を、明るくオシャレな(好かん)人たちに盗られたとでも思ってるのかなぁ。よくわかんない。
楽しくやってるたくさんの人に向けて、遠くからどうでもいい野次飛ばすくらいなら、同人誌でもZINEでもいいから好きなの買って楽し���だり自分で作って好きな名前で出したりすればいいのに……。
ニュースは実際今朝見てて、出版不況だからと言って書店が大々的に展開してドヤ顔してるのもなんかな…とかは思った。大手の商売人が割り入ってくるとつまんないことも多いし… それでもそういうものと無関係に楽しむことができるものだとは思うけど。
まあなんでもいいからわたしもZINEつくりたいな。同人誌でもいい。名前はどうでもいいから好きなこと書いてつくりた〜い
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雑種
価値観の話だけど
小さい頃、家で飼っている犬の種類を聞かれて「雑種」と答えるとき、そこには何の感情もなかった。むしろ、うっすら誇らしさすら感じるときもあったかも。
今大人になってネットで色々見るようになって知ったところによると、「雑種は恥ずかしくない、可哀想じゃない」とわざわざ言葉にすることがある(つまりその逆の)認識をされている例も多々あるらしい。それはもちろん「ふーん…?」でしかないけど、そういう価値観に遭遇することなくただ犬と暮らしていると雑種という概念にも言葉にも何も思うところがなかったなぁと、今更気がついた。
ちょっと誇らしかったのは、雑種という語感と漢字の画数の多さと、なんとなくたくましげで、画一的でないオリジナリティ的なイメージ、カテゴライズとしてかなり大きいことの寛容っぽさ、みたいなことが要因な気がする。
ミックスという言葉を知った時は、正直ゲェ〜…と思った。ミックスって、混ざったんじゃなくて、混ぜました!みたいだし、それを交雑種とかじゃなくポップでかわいいカタカナにしてしまうのが、ちょっと私にはグロい。「人気の品種」みたいな感じで人為的に交配されたペットも結局はそうだけど。
だめだ、人間都合で交雑・交配させることの話に及ぶと考えることが多すぎる。
とにかく、胸を張って!でも、ちょっと控えめな感じで…でもなく、単に事実として「うちの子は雑種で…」と言った時に勝手に「そんなザッシュだなんて…」みたいな取られ方をすることがあるって、価値観!!と思った。
まあ、人間でもそうか。どの民族の血だとか本家だ分家だとかよくわからない、あまりにも遠い話だと思って、むしろ認識せず生きてきたし。それを命のように尊ぶ人もいるし。
私も人間の中で雑種の箱に入ってたいな。実際箱とか関係ないけど、そのくらいざっくりで。
なんかまたよくわからんことを書き殴ってしまった。
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人生のこと思い詰めすぎたり目先のことしか考えられなくなったりで頭の中とっ散らかってしかないから何も決まらない
頭のリソースをうまく配分するためにお金を使うことや物を増やすことを一旦セーブしたいな(でも本と拾う石はいいことにする)
と言いつつ今日もネットショッピングをした イーッ
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くろしおくんのキャラクターデザインは本当に本当に大好きやけど、その着ぐるみはあまり許容できてない。
でもどうやっても人が入る実用性込みでの立体化が難しいことは理解できるから、ぐっと飲み込んで愛でてきた(初代の着ぐるみは奇妙なナリだけど2Dの造形をそのまま表現しようとする意気込みはあり、大好き)。
そんな大好きなかわいいくろしおくんを眺めつつ、1フォロワー1いいねとしてささやかながら応援するためにSNSもフォローした。
でも着ぐるみが中の人の意思でポーズを取ったり、完全にフラットではない投稿文を書いているのは、もう本格的に許容範囲外だな。
ガワはくろしおくんでも、中身はただただ苦手��タイプの高知県民。めちゃ滲み出てしまってる。
やっぱり、ポーズの取り方や書き言葉、題材のチョイス等々にはどうしても人間が出てしまうな。たとえ複数人おったとしても、あんま変わったことしてなくても、担当者(たち)のさじ加減が出ちゃう。
逆に言えば、最初から中の人ありきの着ぐるみとして認知されるゆるキャラ���かなり強いな。地方の国体由来のゆるキャラは、キャラ付けが練られたIPみたいにはいかないという悲しさ。
あと、やっぱりゆるキャラにしてもぬいぐるみにしても大きなブームがきてから後追いされるかたちで、どこかで見たよな凡庸な運用をされてるとやっぱり冷める。こういうのって、ほんと中の人の力量試されるし、力があってもわたしに合わなきゃ結局冷めた目でしか見れない!
でもね、ほっといても人(観光客も移住者も)が来ない地方が寒かろうが遅かろうが、人を惹きつける力のありそうなものをやってるその必死さは、もうわかりにわかるから、冷めるなんて言って切り捨てられるものでもないし…。(でもこういうの多くの高知県民にあんまり向いてないとは思うよ)
…
もの言わずダイナミックに動いて色んなスポーツする、ゆるキャラブーム以前のくろしおくんが恋しい。
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漫然と生きていたいし何者かを目指したくもない
やりたいことはできるようになりたいけど、がむしゃらに過ごしたいわけではない
中途半端に色んなものを好きでいる状態で落ち着きたい
知ることは好きだしいっぱい学びたいけど深めることはどうにも向かない どんどん流れ出ていき何も残らない
かといって別に尖った感性とかもない 別になくていいと思えたらいいな
誰もが目を留めるものに私も目を留めるし平凡な感想を持ち平凡に感動して、それで大満足していたい
30歳を目前にして、そろそろ「30歳までに」とか「30歳になったら」を捨てたい そういうのは少し離れた状態で思うのがよくて強迫観念やちょっとした現実逃避に使うのは結果的に自分が苦しむから、ここからはもうただ過ごしたい
2024年末の願望
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やだな 絶望とか別に求めてない 毎日小さな絶望感くらいニュース見てれば抱え切れないほど生まれてくるのに、自分の生活に根差したちゃちで気色悪い絶望とか微塵もいらない ほんとうにちゃち 誰も食わない、食うというか、見もしない 私だけがなんか妄想してて側から見たら空に向かって怯えて泣いて暴れて一時的に気が狂っただけの人なんだろうし、どうせバカだからまた爆発する日までにちょっとずつ鎮静してまた存在を忘れてしまう 絶望とかいう仰々しい呼び方じゃなくて、もっとなんか、ただのゴミっていうか、何も言葉が見つからないや
なんでもいいけど本当にこういう時に誰か、って思っても誰も浮かばない 誰も私の絶望とか見せられても困るし「えー…」ってなるだけ じゃあどうしたらいいんよ、一人で抱えきれんのに誰もおらんかったらさ 今すぐ心臓止まるとか意外に逃げ道わからんやん
いられる場所がないのに逃げる力もなくて、泣いて、こうやって文字打つしかできなくて(誰かは誰もいないからせめてネットに打ちこむしかこの「誰か」の気持ちを抑えられなくて、実際ほんとうに誰も見ていないところに書き込むしかできない)
でもこういう種類の耐えられなさって本当に数えきれないほどたくさんの人の知ってるものなんだろうということもわかる わかっても何も救いにならないしトリガーにもなってくれない 全く少なくない人たちが発狂して鎮静して暮らして発狂してみたいな周期で暮らしてる だからなに そんなのいやすぎるから今すぐ抜けさせてほしい 寝たら目が覚めたくない、当たり前だけど でも泣いて文字書いてやり過ごしてるうちにちゃんと眠くなってきて朝起きたら普通に仕事いかんといかんで、徐々に鎮静していく 目覚めないとかできない あーーーーーーーあ
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生きていたくないが口癖になってシームレスに死にたいになって終わりかけてたところから少しずつ持ち直して、そんな時に「もう死にたいなんてさ二度と言わないで」ってポンポン振らせられながら歌われて、ひねくれ者のくせに単純な私はそう歌われちゃ、言わないことにするしかないな、と観念してそれ以来「し…」と思いとどまることを繰り返して口癖化から、何か嫌なやつに取り憑かれてるみたいな状況から逃げられたと思っていたのに、久しぶりにあんまり絶望的��気持ちになって泣き叫んで言ってしまった
一回言ったらどばどば出てきて、また得体の知れない嫌なやつに付き纏われる生活に逆戻りするかもと思う気持ち以上に、こころの中で約束したのに、わかった、言わないですって思って律儀に気をつけてたのに、もう破ってしまったことが悲しすぎて、全然違う種類の絶望感がさらにのしかかってきてどうしていいかわからなくて、今の自分の気持ちを言葉に変換していく作業しかできない
最悪 私って最低やな 死にたいも死ねも生きてる意味ない価値ない早くいなくなりたいいっぱい言っちゃった いい歳してさ…そこそこヘラヘラ生きられてるくせにわざわざこんな言葉羅列して、ほんとうにしょうもなさすぎて、しにたくなる もうこれのエンドレスや どうしたらいいんやろ
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重い生理が来て一日中お腹痛いしかぶれてケツにニキビみたいなのできた 大きいし このコンディションで職場の飲み会行かないかんし やだな
今度こそピルの飲み忘れをなくして生理無し期間を最大限にしてみせるもん
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昨日は何も出来なくて激しく落ち込んだので今日はお茶を3種類作った。
いつもの水出し麦茶
この前かったさんぴん茶を湯で出して今冷やしてる
買ったものの飲みきれないフレーバードティーを急冷で
沖縄物産展で衝動的に買ったパックのさんぴん茶はかなりマイルドな味、おいしいし無意識に飲める。
甘いフレーバードティーはやっぱりちょっとしか飲めない。ノリで買うのをやめよう。
お茶のストックをたくさん作ると、やる気があるような気がしてくる。水分を摂ろうとするのは生きようという意気込みに等しい。
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工芸を扱うデザインチーム(?)みたいなとこの新しいプロジェクトで、江戸後期の小袖ひながたをディープラーニングの学習素材にして新しい小袖デザイン出したで!って投稿を見たけど
ひながたが出版されるほどに服飾が盛り上がったこの頃の一番素敵なところって半ば大喜利的に幅広い意匠がつくられたところで、例えば歌や物語を題材にモチーフや文字を大胆に配置したり、広大な景色を四角くてデッカい背面全体に配置したり、着た時面白い見た目になるように構成したりとか…とにかく意図が面白いわけで
それをモチーフや構図の類型を取ってぐちゃぐちゃに並べ替えたものって、一体なんなん と思った
だってそれ、なんか汚い和柄にしかなってないし… ある模様に見えるようで違う模様にも見える…みたいなところにおかしみを見出すなら、ひながたみたいなデザインカタログ使うより文様集みたいなのをひたすら食わせて新しい文様つくるとかの方が面白いアウトプットができそう(てかそんなんもうありそう)
寛文期〜の小袖、絵解きする楽しさが大きいと言っても過言ではないと私は思ってるから、見る側としては、その構図は踏襲してるくせに何も見えてこない画面ってふつうにつまらんしちょっと気持ち悪くさえある
それともこの私には気持ち悪く感じられる図を生み出すプロンプトに当時の方法論を踏襲した現代的なテーマを入れててそれが的確に出せてますみたいな話なんやろうか(それなら興味はわくけど、いずれにせよアウトプットの気持ち悪さは単に出来栄えが悪いなという感想にしかならない)
「ひながたの1ページ」としての出力なのもどうかと思う��ひながたは結局はオーダーメイドカタログなわけで、現代の私が見ても「うわぁこれ実物になったらこんなんかな」と想像が膨らむ図案ばかりやのに この出力されたひながた風の着物図案、実際どんな着物になるわけ?って想像が出来ん これ自体を���ウトプットにするくらいなら逆に実物の着物とか絵に描かれた着物をガンガン食わせて、ひながたから実物画像に落とし込んだ方が面白いんじゃないか
ここ刺繍にするのもいいとか、こういう色味かとか、コーディネートまでやってもいいし、、当時の職人はいないけど当時風の着物を仕立てるイメージが出来る、当時はなかった技術を取り入れて今仕立てるならこう!とか そんなんだったら超見たい!(そこまでのアウトプットを求めるとなると必要な学習の量も質も跳ね上がるだろうな)
まあひながたは枠が徹底的に統一されてるのと、類型化しやすい特徴がいくつかあるのと、でインプットにも使いやすくそれらしいアウトプットを出すのもそこそこやりやすいんやろなと想像はつく 著作権とかもクリアしやすいんかな、知らんけど
今の状態で使いどころが全くないとは思わんけど面白みはないし、工芸で色々逼迫してる状況を考えたら、どうせならもっと違うクリエイティビティが見たいかなと言うのが総じての感想 AI使うとしても使わないとしても
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着衣(肩〜二の腕が隠れる)状態で「細くて羨ましい」とか言うてくる人もどうせ、私ががっつりノースリーブで何も羽織ってないとこ見たり一緒に風呂入ったりしたらギョッとした顔するんだよな……と思った。頂き物の、都会で流行っていて買ってくると女性が喜ぶ(というかリクエストされるらしい)という質量のすごいチョコレート?入りの焼き菓子を一口齧って「う…」となりながら。
食べてから吐いたりするような病では無いけどそもそも口に入れられない、入れても腹が受け付けない体質、この飽食の時代においては幸福のもとが人よりも少なく、飢えが身近な環境においては真っ先に淘汰されるんだから、あなた方に牌を譲る人間��して尊んでくれてもいいんですけどね!!!!とムカつくこともある。
大丈夫、細くていいねなんて言わなけりゃあそんなこと思わないから。わざわざ要らぬことを言わないでくれ。
あと私はそういうあんまぁ〜いものが苦手なだけでこんにゃくとか野菜のおかずとかたんぱくな魚はめちゃくちゃ食べるから食が細いみたいな嫌味を言うのもやめてくれ!!!!海山育ちで美味しいものを知ってるだけだから!!!!育ってきた環境の差だから…!!!
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ダイエット向きのスタバメニューみたいな情報が(頼んでもないのに)流れてきて、衝撃を受けた。
私はダイエットのことはひとつもわからんけど、ダイエットとスタバが対極なことはわかる。水とかお茶じゃダメなん?とまず思ったけど、むしろ大豆とかを摂取することによって全体としての食事のバランスや量を調節するのか?とかも考えた。どうなのか。
何かの材料を何かに代替してでも飲むことを選ぶほど、スタバの何かを飲むのが習慣化している人が一定数いるのかな。そうだとしたら、その余裕が心底羨ましい。
まず私はスタバの飲み物は4回くらいしか飲んだことがない。コーヒーはお腹壊すし(タイミングによっては気持ち悪くなって寝込む)氷いっぱいクリームいっぱいみたいな飲み物もお腹を壊す(あと寒くなる)。温かいほうじ茶ラテは美味しかったけど、わざわざ飲みに行くこともなく…(お茶は家で飲めるし…)。期間限定の果物のやつとかは美味しそうだなと思う時もあるけど、スタバに不慣れすぎてチャレンジ出来たことがない。どうせお腹壊すし…多くて飲みきれんし…縁のないものだわね…と思う。
あと出先で買う飲料は高い。人との時間を作るためには安い方だけど、単に飲料としてデザートとして度々飲むにはハードルが高い。まあこれは食の中でのカテゴリや食自体の優先順位の問題だけど。
上手くいえないけど、「ダイエット」という何か制限をする状況においてもそんなスタバの飲み物(特にフラペチーノ)を選べる強さがあまりに羨ましい。主に腸の強さが。
要するに私はお腹を壊しやすい体質や、それを未然に防ぎたい気持ちによって、この望んでもない不健康痩身体型になっているだけで、ダイエットをするような人には度々「いいな」と言われるけれど、こんなの良い訳があるか。お腹を壊すのはしんどいし、体が栄養を吸収する力が弱いのは情けない。ダイエットもしてないのにお腹壊す危機管理によって結果的に節制してる形になるのも情けないし人生楽しくねえなって悲しい。
ダイエット中だから〜…って言いながら何々を何々に変更で…って呪文みたいな注文して甘々ドリンクちゅーちゅー飲むの、なんだかんだ良い人生感あるじゃん。飲み物として安くはないけど幸せの値段としてはめちゃお手頃なスタバを日々飲んで体重減らね〜って言ってみたかった。
私もすぐ低血糖でハンガーノックなる〜とか貧血〜とか、健康体型なりたい〜とか言いながら面倒くさがって色々栄養も絶対量も少ないご飯をしゃーなしに食べて生きてるので、ダイエットと言いつつ実が伴わない人には共感するけど、美味しいもの食べて不本意に太る方が幸せそうで心底羨ましい。
せめて空腹時には食べたいものが浮かぶようになりたいし、焼肉食べてもスイーツ食べても食べ放題行ってもお腹壊さない腸にしたい。
すげーどうでもいい妬みだな…。ダイエット×スタバという全く自分に関係のない情報にカッとなっちゃって、愚か!!!
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この前職場の敷地内を歩いていて、雀の嘴みたいなものが落ちていると思って通り過ぎてやっぱり気になってもう一度近寄って見たら実際に雀の嘴らしかった。少しの羽毛と肉的なものがついていた。初めて雀の死骸をまじまじと見た。確かに私が捕食者なら嘴は食べないか、などと考えた。
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空腹で、食べられそうなものが全然なくて、やっとのことでじゃがいも蒸してバターとハーブソルトかけてがっついたらめちゃくちゃソラニンを感じた。悲しい。
溶けたバターごと食パンの袋に入れて捨てた。次は食品を無駄にせず食べられますように。
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地元の知人が子につけた名前の由来が「混じり気のない優れた人に」という思いだと書いてあって怖かった
私なら、私は子を産むつもりは今のところないが、もしそうなったなら、子には混じり気たっぷりに育ってほしいと思った 優れてなくていいから、沢山混ざって混ざって何かわからないぐちゃぐちゃの幸せを知ってほしい そんな子は存在しません
存在しない子への思いより、存在する子への親の思いの方が価値があるに決まっている
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