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Let's go for a walk!
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My Photo Diary from Tokyo, Japan
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site3216 · 16 hours ago
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TokyoかTookyooか
ローマ字表記法が見直される。日本語のローマ字表記には学校で教える訓令式と、英語の発音に近いヘボン式があるが、どちらも日本語の音を正確に置き換えることが難しい。  訓令式は五十音図の概念で日本人が定めたものだが、タ行やザ行などは訓令式では外国人には読みにくい。アメリカ人のヘップバーン氏が考案したヘボン式は発音面は英語圏の人に読みやすいが、英語にはない長音の概念を表せない。小野も大野もOnoである。大谷さんがOhtaniと綴っているのは、後の工夫で加藤という野球選手のユニホームの背中にはKATOHとあったが、これは必ずしも海外からは読みにくいらしい。  今回の改訂ではローマ字表記の基本をヘボン式としながらも、長音はマクロンをつけるか母音を繰り返すことが推奨される。KATŌかKATOOになる。個人的には記号付きでいい気がする。なおマクロン付きの文字はiPhoneの場合は該当する文字を長押し…
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site3216 · 2 days ago
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ケイトウ
 鶏頭、鶏冠とも表記されるケイトウは秋の季語ではあるが、実は5月から10月にかけて長い花期をもつ。今は暦の上では秋であるが、連日35度以上の真夏日���続いている。にもかかえわらず近隣の花屋にはケイトウの鉢植えが並んでいる。店頭に置かれた鉢には強い日差しが当たることもあるようだが、特に問題はなさそうだ。  この植物の原産地はアジアもしくはアフリカの熱帯と考えられ、本来暑さには強いようだ。そのため夏の園芸種としても歓迎されており、しかも秋まで楽しめるのだからよい。逆に寒さには弱いので冬越しはできず、あくまで一年草の扱いである。  万葉集には「カラアイ」として登場する。「韓藍」ということだろう。すでに園芸種になっていたようで、山上憶良の歌に、  我がやどに韓藍蒔き生ほし枯れぬれど懲りずてまたも蒔かんとぞ思ふ  がある。カラアイには恋人の存在の寓意があるといわれているが、やど(邸前の庭)に…
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site3216 · 3 days ago
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AIを道具にできるのか
 私のようにAIに関しては慎重な者でも、最近は使う機会が増えている。いわゆる壁打ちと呼ばれるアイデアの醸成に使うことがその一つだ。スマホのアプリでも簡単なことはできるので、相談役になってもらうことがある。どんなに浅はかな提案でも、非難することなく持ち上げてくれるのは、プログラム上のこととは分かっていても悪い気にはならない。私にそれと同じことはできない。嫌なことは言動にすぐに出てしまう。  適当な(曖昧なという意味)プロンプトで指示すればそれなりの結果を返してくるのも人工知能の優れたことだ。ただ、いまのところ忖度のような非言語要素はできていない。言われたことをそのまま形にするのは恐ろしく得意だ。  よく言われるように人工知能の言語処理は意味をよりどころとせず、形式���元に確率が高い組み合わせを瞬時に繰り出してくることと言える。人間の使う言葉も大半はこの確率論的な語の組み合わせで生活してい…
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site3216 · 4 days ago
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自分という存在
 自分を調整することは難しい。私という存在が自分の中心にいるとは思いながら、どこか思い通りにならない。そうすると実は自分は誰かに操られているのではないかという疑問すら浮かぶ。自分の存在が社会や共同体によって規定されているという考え方は哲学の世界では長らく議論されている。実際、私という存在は社会の中である程度決められており、それを逸脱することは様々な苦難を生じる。世間の常識という言葉で納得する様々な決まりごとは、よく考えれば自分の存在をガチガチに縛り付けている。  ならば好き勝手に生きるのがよいかといえばそうでもない。好き勝手といっても何をしていいのか実はよく分からない。束縛されず自由に生きるというのは聞こえはよいが、この表現の前提には束縛されているという現実がある。そもそも束縛されていなければ自由を感じることもできないし、そもそも束縛とは何かも分からないかもしれない。  人間が社会的…
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site3216 · 6 days ago
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パークに通う理由
 テーマパークに行くと楽しいのはなぜか。それは好きなキャラクターなり、それらが織りなす架空の世界が実現されているかのように思わせるからなのだろう。明らかに実質より高価なイベントなりグッズなりを遠慮なく買いあさるのは、その世界への没入がなせる業だ。  見方を変えれば現実社会はそうではないということである。自分の好きなもの、好ましいと思うものばかりがある訳ではなく、むしろその反対のものの方が多く、取り囲まれていると感じることが多い。その中で不本意に毎日を送り、わずかに許せるものを第2、第3の代替品として使っている。人間関係も現実社会のそれは決して心地よいものばかりではない。善意に囲まれた(ように見える)テーマパークの中の人々とはかなり異なる。  日常生活に活気を取り戻すためにはどうすればいいのか。まずはこの世界をテーマパークのように考え直すというやり方がある。「人生」というテーマを実現し…
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site3216 · 6 days ago
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落語の思い出
 落語は昔から好きだった。高校生の頃は寄席に行くことはできないので、NHKやTBSのラジオで放送されていた落語の番組をよく聞いた。それが始めであったせいか、いまでも音声のみで落語を味わうことが多い。  大学生になって時間ができた私は、TBSの公開録音の応募にはがきを出して赤坂の放送局によく聞きに行った。その後は国立劇場の寄席に行き、新宿末広亭にも行った。その当時はほとんどが年配の客ばかりであったが、私のような学生風情も時折混じっていた。  私が好きだったのがいわゆる古典落語だったこともあり、同じものを何度も聞くことが多かった。結末を知っていてもそこに至るまで展開が噺家によって違いがあり、その差異を楽しむのが面白かった。寄席の雰囲気も話の内容にかなり影響することも感じられた。  落語は単純な所作がついても、ほとんどは話芸である。噺家が繰り出す話をじっくりと聞き、心の中で味わうというこ…
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site3216 · 7 days ago
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送り火
 盆の送り火の日である。京都の五山の送り火は有名だが、先祖を死者の国に送り返すための行事は全国にある。新暦月遅れの場合は今日だが、旧暦の場合7月16日は新暦の9月8日にあたり、まだ先だ。先祖を送る行事はとても大切だったらしく、いろいろな形がある。  日本の祖霊は歓待すべき対象と考えられる一方で祭りの終わりとともに帰還してもらわなくてはならない存在でもあった。祖霊がいる間は日常の生活はできないのだから、帰っていただかなくては困るのである。そこで盛大な見送り行事が行わる。送り火の巨大化もそうだが、あるいは祭りの際に使った祭器等を片付けることや、場合によっては破壊することを強調した儀礼もあるという。盂蘭盆会のみならず、神や祖先神を招来したときはその終わりにはっきりとした終了のための行動をする事例を見たことがある。  ハレの日が終わり、再びケの日に戻るためにはそれなりのけじめが必要なのだろう…
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site3216 · 8 days ago
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価値観は変わり果てる
 終戦の日のことを考えると、社会的な価値観は実に移ろいやすいということを考えさせられる。戦争をしていたころの日本の上層部はなんと愚かなのかと思い、庶民はそれに躍らせれて悲惨な毎日を過ごしていたというのが単純化した社会観であるが、本当はそんなに単純なものではない。日本が戦争をしなくてはならないと真剣に考えていた人たちにはそれが間違っていたとしてもそれなりの正義があり、それを支える世論というものがあったことを考えなくてはならない。  戦前の日本が現在からみて異常であるのと同じように、おそらく80年後の日本に住む人々にとって21世紀前半の日本の社会は極めて奇妙に映るかもしれない。多くの人々を犠牲にした戦前の日本指導者を批判するのと同様に、現代社会の様々な問題を指摘して、自分たちの世代になぜこんなにも厄介なものを残したのかと不満に思うのかもしれない。  毎日の生活にあくせくしているうちに、そ…
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site3216 · 10 days ago
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戦争体験を語れない
 あすは終戦記念日である。戦後80年ということは、高齢者の中にも戦争を知らない世代がたくさんいらっしゃるということである。亡父は終戦時小学6年であったので、戦争の記憶は残っていたようだが、かろうじて記憶が残るのはやはり5~6歳になってからであろう。だから直接戦争の体験を語れる世代は90代に近いことになる。  ニュースによると最新のVR技術を使って、戦争の一場面を疑似体験できる施設があるそう���ある。戦場の中や、爆弾の投下された町の悲惨な様子を映像や音声とともに体験できるそうだ。それを直接見たわけではないので評することはできないが、やはり生死の際に直面している場面と、仮想現実とでは全く異なるのだろう。それでも疑似的に戦闘するゲームよりははるかに有益であろう。  私自身も戦争は資料の向こうの世界であり、本当のことは何も分かっていない。多くの戦争を扱った文学や映画などに接するとそのたびにその…
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site3216 · 11 days ago
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駅の伝言板
 電車の車内の動画で伝言板を話の中心に置く話が毎日映写されている。男女のすれ違いを描く純愛ドラマの風で、音声がないのにもかかわらずひきつけられてしまう。ふと気づいたのだが、駅の改札付近にあった伝言板は最近はほとんど見かけない。どこに行ってしまったのだろうか。  「シティーハンター」ではこの伝言板が話の発端として利用されていた。新宿駅にあったことになっている。いまは個々人の連絡は携帯電話などで連絡できるし、公共の看板ならいたずらや、プライバシーの問題も出てくる。だから、シティーハンターを呼び出すことも現在ではそう簡単にはできない。ソーシャルメディアに書いたならば、発信者の特定は黒板以上に正確にできてしまう。  私自身が駅の伝言板を使ったのは一度だけだ。待ち合わせの相手が遅刻してきたときに、「先に行く」といった内容を書いたことある。たいてい私の方が遅刻していたので、伝言板を使う必要がなか…
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site3216 · 12 days ago
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銭湯の牛乳
北千住駅にて  乗り換えで使う北千住駅にこのようなディスプレイがあった。銭湯の組合が利用促進のためにおいたもののようである。  幼少期にこの街で暮らしていたのだが、小学校に上がる前のことなので記憶はかなり曖昧だ。限られた記憶の中に銭湯の記憶がある。父に連れられた時は男湯に、母の時は女湯に入ったはずだが、風呂そのものの記憶はまったくない。覚えているのは入浴後の牛乳である。瓶詰めで紙の蓋であった。いつも飲めるのではなく、何回かに1回の楽しみであった。それとのぼせそうになった脱衣所の湿気を何となく記憶している。  その頃は風呂に入ること自体があまり好きではなかった。髪を無理やり掻きむしられ、湯を掛けられる間、息を止めているのも苦しかった。いま思えば何とももったいないことだ。そういう記憶があるということはこの当時、住んでいた家には風呂がなかったのかもしれない。それも記憶が朧げだ。  当時…
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site3216 · 13 days ago
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極端な雨
 極端な雨が降り出した。猛暑の数日の副産物のように激しい雨が降ったのだ。関東はまだそれでも久しぶりのまとまった雨というくらいの感想でいられるが、西日本や北陸でいわゆる線状降水帯が発生して被害が出ている。  夏の通り雨は昔からあった。スコールのような豪雨もここ十数年では当たり前になった。加えてこの長時間の豪雨はなんなんだろう。  世界各地で極端な天候が発生しているようだ。何かできることはないのだろうか。少なくとも利権争いのために自然を傷つけることは避けなくはなるまい。
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site3216 · 15 days ago
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長崎のために
 何度も書いているが、今年も繰り返すことにする。1945年8月9日、私の父は現在の北九州市にある八幡で暮らしていた。この地がテニアン島から発進したB29爆撃機がプルトニウム型原子爆弾の第一投下目標であつた。目標地点上空まで来たところ、煙霧で目視ができず、長崎に移動したという。霞や煙は米軍の空襲によるものとも、八幡の市民が意図的に煙を焚いていたとも言われている。  長崎でも雲が多く、投下目標が定まらなかったが、わずかな雲の切れ間から投下された。当初目標としていた地点からは外れたものの7万4千人を超える人命を奪うことになる。広島型よりも威力が大きいプルトニウム原爆をどうしても実戦で使っておきたかったのだろう。実戦で使用された原子爆弾はこれが今のところ最後である。 第一目標に原子爆弾が投下されていたら、恐らく私は存在しないはずであり、運命の苛酷さを痛感する。長崎には公私を含めて何度も訪れて…
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site3216 · 16 days ago
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枯れても負けない
 植木が枯れてしまう現象が続いている。残念だが、ベランダ園芸がうまくいない。おそらく熱心な人ならばこの猛暑でもなんとか乗り越えられておられるはずだ。私のようないい加減な園芸家は水やりや施肥を後回しにするために冒頭で述べた始末になる訳である。  小さな鉢植えしかない我が花壇にとっては管理の技能がそのまま形になってしまう。園芸は小さな配慮がすべてに関わる。残念ながら無骨を越えて無配慮の私は全滅の失敗を何度も繰り返している。  植物を育てることはもしかしたらとても大切なことかもしれない。小さな配慮を継続することは処世術の基本ではないか。皆さんにも植物を育てることをお勧めしたい。これだけで幾つかの社会問題が解決する気がする。枯れても負けない。次は枯らさないというマインドが必要だ。  
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site3216 · 18 days ago
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甲子園も二部制に
 今日から始まった全国高校野球大会は史上初の午後開会式となり、その後一試合が行われた。明日からは8時プレイボールで午前に2試合、午後4時過ぎから2試合という二部制で行うという。今日も各地で40℃越えとなった酷暑にあって、当然の処置である。  このままの傾向が続けば8月の開催自体が無理になる。甲子園という聖地を離れるのは抵抗があるだろうが、ドーム球場や標高の高い地域や北部地域での開催も考える必要がある。もっとも今年の北海道の気温のニュースを聞くとそんなに単純な問題ではなさそうだ。  かつては根性で解決できていたが、人間の身体的な制約に抵触するいまの事態にはもうそれは当てはまらない。今回は二部制で切り抜けようとしているが、その後には未明、早朝開催が来るのだろうか。いずれにしても人間の生活のリズムに反するものであり、スポーツの精神にそぐわないことは避けられない。  自分の人生のスケールの…
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site3216 · 20 days ago
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メモリーは有限
 使っているスマートフォンの容量が底をついたとの警告が出たので、消せるアプリや一次ファイルなどをかなり削った。結果として何とか復活したものの、これからはこの繰り返しになるのだろう。エントリーモデルの機種なので過度な期待はできない。  機械の場合はメモリーが数値で表されるので分かりやすいが、人間の場合はかなり複雑だ。いわゆる作業用記憶が加齢とともに逓減していくのは実感している。長期記憶に関してはそれよりは保たれやすいようだが、私の場合はかなり選択的で単に時間だけの問題ではない。大切なことを忘れてしまう代わりに、どうでもよいつまらないことを時々思い出す。  何を記憶し、何を忘れるのかについて選ぶことはできるのだろうか。意志に基づいて取捨選択するのは、スマホのデーターを消すのとはかなり異なるようだ。忘れてはならないことはやはり脳以外の場所にも記録し、それに定期的に接することで保たなくてはな…
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site3216 · 21 days ago
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誰もが二刀流
 二刀流というと宮本武蔵の剣術のことだったが、今は大谷翔平選手のことを想起させる言葉になっている。プロ野球において投手と打者の両方で一流であることは難しく、大谷選手がそれをアメリカで実現していることが賞賛されている。  二芸ある人を二刀流と呼ぶこともある。職業を掛け持ちしている人といえば、かつては兼業と呼ばれた。地方に行けば会社員でありながら農繁期は米作をするいわゆる兼業農家は普通にいる。農業が専業ではやっていけないことから生まれたスタイルだと思うが、今考えてみればまさに二刀流であり、理想的な生活スタイルだ。  農業ではなくても、二つの仕事をこなしている人はたくさんいる。会社員でありながら、土日はスポーツ少年団などのコーチであったり、塾の講師であったりするのはこれも二刀流だ。私も前の仕事では、学生に授業をすることと、自分の研究をして論文を書くこと、社会人のための講座の講師をやることな…
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