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わたくしごとですが、先日結婚しました。
そして続けてですが、お父さんになれるみたいです。
ここしばらくは人生が目まぐるしく変化していて、なんだかついひと月前の出来事が、ずいぶん昔のように感じます。おっかなびっくり、二人で生きていきます。
妊娠を産婦人科で確認するつい一日前に言った、「これからの人生を、わたしと一緒に生きてください」に嬉しそうに応えてくれた顔を思い出すと、これまでの人生がすこし報われたような気がしました。
お互いの両親への報告はなるべく早めに行いましたが、ことがことなので軽くしばかれるくらいは当然と思っていたところ、なんだか普通に祝福してもらえて拍子抜けです。付き合っているうちにお互い実家に顔出しておいてよかった…。
授かり物とはよく言ったもので、無責任なことはしていなくて、ただアクシデントはあり、事実として親になることのスタートラインに思いがけず立たされたわけです。���んな中わたしたちは特段迷うこともなく、親になることを選べて、いま幸せでいられることもきっと当たり前ではなくて。いろいろに恵まれて育ったことをひしひしと感じる日々です。
さて、そんな日々ですが奥さまは絶賛つわりの最中です。食事も思うように摂れず戻すことしばしば、普段はひかない風邪をこじらせ咳をしている姿を見ると、どうにも居た堪れないです。こればっかりは自分ではどうすることもできず男女平等ではなくて、辛そうな姿にやきもきしていると、なぜ今まで人類が絶滅しなかったのか不思議で仕方がない。オスに負い目を感じさせて一夫一妻制を維持するために有利だからなどエグめの理由で進化できない部分なのか、それとも繁殖後のイベントで、わりとみんな頑張って耐えちゃうから残ってるのか。謎です。
そして、どう見ても辛そうなのに不満の一つも言わない奥さまに頭が上がりません。なんとか楽にしてあげたい。日記書いてる場合じゃない。そんな日々でもあります。わたしは四半世紀以上を生きた個体ですが、日々のあれそれにいちいち困惑しています。
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20230705

車を買い替えたいと、ここ一年くらいずっと考えていたがついに新しい車を契約してきた。思えば今の車は気分転換のための手段としての側面が強くて、実用性や先のことを考えての選択ではなかった。この先もきっと3.5Lなんてばかでかい排気量の車には乗らない気がする。
おまけに今の車は2人しか乗れない。実際それで不便したことが何度あったかというと、どうせデートに行く時に助手席に乗ってもらうくらいのものだから不足はなかったのだけれど。いろんなところに行ったな、こっちに来てからのドライブはみんなあの子と一緒だったから。車幅が1.8m強あって、でかいでかいと散々文句を言っていたけれど、今の乗用車ラインナップを見ているとそれほど大きくもないみたい。なんだかんだいい練習にはなった気がする。ステアリングは重たいけれど、素直で操作しやすい素性のいい車だった。2年弱で2.2万キロ、今までありがとうフェアレディZ。また誰かにかわいがってもらえるといいね。
そして迎える次の車、今どき知り合いでも乗ってる人の少ないセダンタイプ。自分の車の好みはどんなだろう?って、車を買ってから考えていたのだけれど「幼稚園児が描くような形をした車」に落ち着きそう。重心位置が低いと車が安定するので、扱いやすく感じる。荷物はSUVなんかと比較して乗らないけれど必要十分で、まあそれもよいでしょう。Zでもあんまり困らなかったし。積載だと今度のはなんと後席がある!友達'sと出かけられるね、いいね。何回人を乗せるかはわからないけど。
そして、買い替えの最大の理由。運転支援と安全装備が今どきなみの水準になること。隣に人を乗せておでかけすることが最近は多く、300kmくらい走ると流石に夕方ごろは疲れが目立ってくる。道路脇に鹿とか猿とかいることもそこまで珍しくなくて、ヒヤッとすることも何回かあった。そう考えるとドライバーとしての責任という観点からも欲しい装備だった。車に求める性格が楽しさから安全性に変わった自分の心境の変化を、すこしうれしく思う。もちろんないよりは遥かにマシというだけであって過信はしていないし、改めて同乗者の安全を担保できる運転を心がけていくことに変わりはない。けど、何かの意思決定をする時に、大切に思える誰かがいてくれることを本当にありがたく思う。
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10代くらいから20代前半くらいまで、どういう訳か精神的にあまり安定しているとは言い難い状況が続いていた。けれど、最近はそうでもなく並の人のフリができているように思う。フリなのか、本当に落ち着いているのかは自分でもよくわからない。でも、すごく楽に生活できている。先のことにあまり不安はなくて、ある程度の余裕を持った状態を維持できているので、他人と関係を結ぶ上でも楽をできているように思う。というか、端的に言うと今のパートナーがすごくできた人で、なんか知らんけどめっちゃ楽…となっている。ありがたいことだと思う。
だからこそこの人は今までどんな風に生きてきて、何を選んできた人なのだろうかというところに思いを馳せることがままある。楽しいことばかりでなかったことは断片的に聞いたことがあるけれど、それでもどのように受け止めるか次第でこういう人格も作れるもんなんだな、と感慨深くて、しみじみうれしい。あなたを苛む過去をなんとかして和らげてあげたい、と思えるような人に出会うことは時たまあるけれど、あなたがあなたでよかった、と手放しで思える人は本当に少ない。そんな彼女にとっても自分は良き人間であろうと思えるので、なんだか間違えなさそうな気がするから安定していられるのかも。好循環、って感じ。わたしたちには何ができるのか、これからちょっとずつ確かめていきたい。
なーんてことを、彼女がお休みをもらって友達とどこかへ遊びに行っちゃったので、暇だから書いてみたのでした。今、とってもしあわせです。
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20230218

王様の耳はロバの耳!
わりと情緒がめちゃくちゃになったところで今日の幕が降りようとしている。幾分治安のいいマッチングアプリに引っ越したら、それなりに合いそうな、期待したくなるような人がわりといた。テキストメッセージからにはなるけれど、そこで交わされるやり取りは今までに身につけたお互いの社会性の決算でもあり、今までに各々過ごしてきた時間の成果でもあり、人と人が出会うことそれそのものが既に暴力的なほどに魅力的だと思う。ありがたいことにアプリでも箸にも棒にもかからん、なんてことはなくて、仲良くしてくれる人もいないことはなくて。されど自称猜疑心の強い男ことわたくし、アプリ内でやり取りは基本的に完結して、よっぽど興味がなければ連絡先を渡さないことにしている。
それがどういう訳か、今は同時並行であくまでも現実にいる自分としてやり取りしている人が複数いて、大変こんがらがる。あくまで独断と偏見で、それぞれ好意的に受け取れる人格形成の過程をたどったのだろうなということは確認しているし、それなりに好意を向けてくれていることも感じている。現れてくれた時間軸が別々なら一緒にいてみたいくらいの感じがする。これの中から一人選ぶというのはなかなかどうして、何を基準にしたらいいのかよく分からない。今までのパートナー選びの基準がそれほど緩かったわけでもないと思うし、選り好みはかなりする方だと思う。容姿に関してはあんまり関心がないというか、ザルだけど。
なので、一人目の人と会って過ごしてみて、わりとしっくりきてしまったので、そのあとは誰かと会うのが正直億劫だった。だって、たぶん後で会ったその人も今までのやり取りからすると、きっと気にいるだろうし。
そして案の定だった。年齢も性格も違うけれど、あといくつか擦り合わせれば、それなりにはうまく行きそうな感じがするのが今はとても苦い。誰か一人をひ��きできたらいいのだけれど、そういう気持ちにもならないので単純にパフォーマンスが等分で落ちた自分で応対しなければいけない気がして申し訳なくなる。
これ、どーやって選べばいいんだろう。みんなそんなこと考えてないのかなあ。たぶん相手も状況的には同じようなことになっているだろうし、「腹を割って話そう」ってしてみようかな。…めちゃくちゃ失礼だし、ゲームだとしたらルール違反な気がする。
今日は誰かに会いに行き、帰ってきてから別の人と電話をしたりちぐはぐな日になった。どちらもとても素敵な人。でも、願わくば持てる全てのリソースを一人に注ぎ込みたい。十全の自分で向き合いたい。だらしないのは大嫌い。良い顔ばかりしていられないのはわかっているので、きちんと一人を選びたい。
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20220322

冬が終わって春の足音がする今日この頃。今年の冬は休みになると狂ったように出かけていた。

昨今の流行り病の情勢というわけではなく好みの問題で、ぱっとしない街の隅っこをぱっとしない顔で歩いた。そういうのにお誂え向きのツラ構え。

楽しいとかそういう感情が原動力というわけでもなくて、家にいると息が詰まりそうになる時があって。特に何か不満があるわけでもないのに。

それでも、どういうわけか写真にはまだしがみついている。
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20211114

生きてます、の「い」
社会人になって半年以上が経った。ざっくり、物の作り方をよりよく変えていくお仕事なので、一つの仕事を終えると何かが変わるというのがうれしい。ほぼ間違いなく弊社製品であることは認知されなくても、それが世の中に広く使われるであろうものだからなおさら。
きっと、いろいろな人の思い出の裏側にいられる製品になってくれることを祈って、明日からもせっせと働く。いいもの作れるといいな。
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20210921

車を買った。はじめての車はフェアレディZになった。
公共交通機関を使った移動というのが躊躇われる昨今、車を買おうと思った。あまり車に興味がなく運転が得意ではないので、中古の小さい車を買おうと思った。ぱっと思いついたのが2シーターで、コペンとかそのへんを見ていた。もうその時点で何か間違えているような気がしないでもないけど、車種もよく知らないし、とりあえず小さそうだからという理由で2シーターの車を調べていた。
きれいな車が一台あった。フェアレディZ(5代目)。名前は聞いたことあったけど高そうだったので選択肢にはなかったが、なにやら相場は安め。めぼしい子が近場にあったのでさっそくお店に見に行き、実物はもっときれいだったので「これください!」と言い、はんこをペンペンペン!とついてしまった。
そしてしばらくして、実車がやってきた。契約だけしていた自分の駐車場に、自分の車があるのは不思議な感じがした。玄関を出ると駐車場が見下ろせて、出かけるたびにぴかぴかした彼女と目が合い気分が高揚する。そしてZのもとへ向かい、ドアを解錠し、シートに身体を預ける。
…でかいのだ。
Zは車幅が1.8mある。軽自動車はざっくり1.5mなので、20%増しである。いざぁ…!と公道に出ると、2車線ないくらいの道路では脇の電柱が嫌がらせの装置として存在しているかのように思える。車に乗ってみて初めてわかったが、住んでいるあたりの道はだいたいかなり細い。(旧東海道の街道筋だからか、あっちこっちの区画が古いのかも、と推測)Google先生にナビを頼むと、どこから見つけてきたんだこんな道というような最適ルートを選択してきて困った。困っている。一刻も早く運転へたくそモードがついてほしい。
そんなわけで、本末転倒なはじめての車選びとなってしまったが総評としては満足している。だってきれいだから。それと、さすがに新車で高かった車というだけあってしっかりできている安心感がある。育ちのいい子、という感じがする。育ちのいいことが愛される条件ではないと思うけれど、いろいろ楽ではあるよなあ、としみじみ思う。
自動車税とかガソリン代とか、いろいろ目をつぶり耳をふさぎたくなることはあるけれど、趣味だと思って頑張ってみることにする。これからよろしくね。
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貴方は将来、何になるんでしょうか。
こんばんは、この質問を就活のときに見ていたらたちどころに卒倒していたでしょう。金切り声を上げながら。
将来何かになる、という言葉から真っ先に職業を考えたのですが、あっていますでしょうか?私はエンジニアをしております。といってもスタバでカタカタッッターンするようなのではなく、ふつうに製造業です。そういう進路選択を行ってきたので、なるべくしてなりました。概ね満足しています。
受験する際の面接で印象深かった出来事があります。当時は東日本大震災の原発事故からそれほど時間の経っていない頃でした。面接官の先生が「仮に命の危険のある現場に職務で向かわなければならなくなった場合、君はどうするか」と尋ねられました。
深くは考えずに、仕事ならしょうがないんじゃないすかね的なことを答えたように思います。そうして合格になりました。在学中もそういうもんだと思って過ごしてきました。今もそんな風に思っています。社会の中での私の振る舞いといえば、そんなふうにして平凡なものだと思います。どこにでもいるサラリマンになりました。まあこんなもんだろう、的な姿勢は常にあるような気がします。つまんないですね。
あ、でも。これから別のなにかになるという質問ならば、おとうさんになりたいです。そんな感じでしょうか。
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20210403
草潤中学校という公立の中学校が、岐阜市に設置される。らしい。
https://forbesjapan.com/articles/detail/40608
この学校の意義は文部科学省の不登校特例校の概要によると“「セルフデザイン」を教科として新設し、音楽、美術、技術・家庭科において各自テーマを設定して発展的な学習を行い、生徒の個性を伸ばしつつ自己肯定感の育成を目指す。”ことにあるそうだ。自己肯定感の育成という文言にやや引っかかりを覚えるが、現在の学校教育にすこぶる向かない生徒たちに新しい選択肢が生まれることは良いことだと思う。この不登校特例校、自治体主導の公立校としては初であるが既に17校が設置されているとのこと。今回のニュースを見て調べるまで存在を知らなかった。標榜するものは教育者にとって理想形の一つであるように見える。しかし、実際に必要とする生徒さんたちの理想となりうるかについては、まだまだ困難は多いことと思う。ひとまずこうした取り組みが広まりつつあることが嬉しいことだし、今後にとても期待したい。
なぜあえてこの話題について触れようと思ったかと言えば、ついこないだまで家庭教師をしていた生徒さんのことを考えてしまったからだ。約4年間、家庭教師としてお宅にお邪魔したり、ここ1年はオンラインで授業をさせてもらっていた。そんな彼と自分の話をしたい。
家庭教師を始める以前は個別指導塾の講師をしており、教えるということに関しては多少のノウハウがあったが、家庭教師というのは少々勝手が違った。まず教える、というところにたどり着くまでのハードルが段違いだった。
塾講師時代に何人かの生徒さんと関わる中で、塾の利用目的というのは大きく2つのタイプに分かれていることに気づいた。学校のレベルに追いつくためのフォローが必要な生徒さんと、進学に向けて学校よりもハイレベルな問題を解きに来る生徒さん。幸いにも2年ほどの期間のうちにどちらのタイプも受け持つことができ、それなりに満足の行く成果も出してくれた。ありがたいことだった。
大学編入を機に引越しをしてから、高い時給につられて家庭教師を始めてみることにした。少し得意になっていた部分もあったので特に気負いもなかったが、派遣先が決まりいざはじめてお宅に上がったときには彼の顔すら拝めなかった。彼はその時、ほぼ引きこもりに近い不登校の中学生だった。教えるための土俵に立つことすらままならなかった。
自分の生まれ育った町はまあまあの田舎で、引きこもりになんてなろうものならご近所一帯にまたたく間に広まること請け合い、というような閉鎖的な雰囲気も若干持っていた。なので基本的には義務教育中に引きこもるようなことは許されていないような雰囲気があり、その時はじめて引きこもりの生徒というのが生活の中に現れた。それでも週3回ペースで通ううちに、徐々に打ち解けることができた。話しに来ただけだから給料いらん、とかもあった。
こちらの姿勢として、適当が若干服を着て外を歩いているように、変に構えることなく接しようと心がけていたこと、自宅にいる時間が長い思春期真っ只中の中学生に、心配になって声掛けをしてしまう親御さん以外の人間が定期的に訪れてくることが彼にとっての息抜きになり結果的に功を奏したのかもしれない。学習も徐々に進められるようになっていく中で、ぽつりぽつりと自分のこれまでのことを話してくれるようになった。
ある日、誰がどう聞いてもいじめだろうというような状況を経験したこと、以来クラスというような人間関係のある集団に身を置くことが苦痛でいくつかの症状が出てしまうこと、そのとき自分に害をなした人間に対しての怨嗟が堰を切ったように溢れてきて、普段の表情の変化の薄さとの差で驚いてしまった。なだめるようになにか言葉を発してはみたが、「先生みたいなこと」を言ったと思う。失言だったと思う。「自分は先生ほど大人ではない」と言われてしまった。
学生ということもあってすっかり親御さんと彼の仲立ちをすることができる、どちらかと言えば彼に近くいられている立場だと思いこんでいたので、これがかなり堪えた。あ、おれもいわゆる大人なんだ…と、その言葉の距離を測ってみようとしたりもしたけど、よく考えなくても当たり前の話だった。今まさに彼が直面している問題に対して彼だけが当事者で、自分は何者でもなかった。傲慢であったと反省した。
それからは、「気持ちの問題は整理の手伝いはしても解決には口を挟まない」「その場しのぎができれば及第点」「とりあえず話を聞く」を標榜して接することにした。根本的なところで自分には何もできないと思うことには幾度となく遭遇したが、結局のところ解決するのは自分ではないと思い、待つことと支えることを第一義とした。
なんやかんやあって、彼は高校に進学した。自宅からほど近く、学校生活を送るためのサポートの得意な学校にした。よくがんばったと思う。環境が変わってからは出席率も今まででは考えられないほど上がり、友達と出かけるようにもなり、定期テストでは成績が張り出されるくらいだったそうだ。少し興奮したような顔の親御さんからそんな話を聞くと、本人は「ウェヒヒ」と笑っていた。
状況が変わったのは昨年度から。例の流行病の対応として自宅学習や遠隔授業など変則的な日程となり、家庭教師もオンラインで行うことになった。それから高校に入学して影を潜めていた体調不良が再び起きるのだという。児童および生徒の自殺者は長期休暇明けが最も多く、一連の対応が仇となりストレスのトリガーが増える格好となったわけだ。残念なことに実際にそういった統計が得られている。彼は今春季休暇中だが、しばらくはストレスに晒されることを思うと気がかりでならない。
学校からのサポートももちろん存在はするだろうし、教職員の方もない時間を使って努力をしてくれているとは思う。しかし、こちらも企業での勤務が始まったばかりでわたわたしてはいるが、何もできないながらも気にかけて少しの行動を起こすことは続けていきたいと思うほど、契約終了ハイおしまいという状況ではなくなっていると感じる。幸いにも自由に連絡する手段はあるので(てかLINEやってる?笑 は時として便利だ)、今はただ異様に歳の離れた友達、おおきなおともだちとして振る舞えばいいだけだから。
ここまでの話は個別の事例で、全てのケースで同じような状況ではない。場合によってはより深刻な状況ということも十分考えられる。一人の人間が一人の人間に真面目に向き合って「こんなもん」なことを考えると、単なる ものを教えるという意味での教育の枠を超えて、ケアをすることを求められる教育者の方には負担が大きいのではないかと思う。スクールカウンセラーは他の学校に比べたら潤沢に配置されるのだろうけれど、そもそもそこに行くまでのハードルがあるだろうし。さりとて一人ひとりにどこまで能動的に首突っ込んで支えられるのかを考えるとなかなか疑問が残りはする。
あんまり出来のよくない人間の実体験に基づいた推測なので、そこはプロと素人で技術に大きな隔たりがあるのかもしれない。予測が見事に覆り、大変失礼しましたと言えるような組織であり、またそこにいる生徒さん��ちが作る集団そのものが拠り所となれるような場所であってほしい。あと彼にはしあわせでいてほしい。そんな祈るような気持ちでいる。
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20210302

長い長い学生生活が終わった。
中学生くらいのころにぼんやりと将来を考えた当初の計画では、高校を出たら働き始めるものだと思っていた。けれど、うっかり高校ではないところに行ってしまって、そこからほんのすこしだけ欲が出た結果として24歳まで学生(!)を続けることになった。比較的安上がりコースを邁進したとはいえ、子育てというのはたいへんに金がかかるものだということを身をもって体験することになった。両親には頭が上がらない。
中学を出てからというもの、この9年間を「機械工学」という学問に費やした。機械というのはいいものだと思う。辞書的な意味では「有用な機能を取り出しうる装置」というところのみに留まるけれど、一方で美しさも追求しうる。そういうところが好きだった。特に皮膚感覚に訴えることが出来る仕上げとか、いい音がしたりとか。形あるものだからこそで大好き。ある程度の専門性をもって原理をよく学べたので、きっとこれからを豊かにしてくれる知識になると思う。
就職のための転居に伴い、原付を処分した。後ろ髪引かれつつの処分だった。たぶんまたそのうち買う。バイクというジャンルは今までそれほど興味がなかったけれど、乗ってみたらめちゃくちゃ楽しかった。バイクもいい機械だった。理由もなく深夜徘徊したくなるとき、なんとなく人がいないところで時間を過ごしたいときのお供に最適である。事故はこわいけれど、したいこと特にない人とか、あてどなくぶらぶらするのにいいと思う。ここにいる人たちには向いてそう、知らんけど。おすすめ。
あと一月もしないうちに勤務が始まるらしい。「なんかカッケェ」という理由半分くらいで外資にしてみたものの、入社ひとつとっても諸般の手続きがまあめんどくさいこと。途中で投げ出すのはきらいなので、なんとか慣れていきたい。楽しいといいなあ。
そんなこんなで愉快にすてきな大人を目指して、ぼちぼちやっていく所存。
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20210104

年が明けてしまった。
昨年は流行り病に翻弄されるような一年であった、という人が非常に多いであろう中であまりやることも変わらず、大学のロックアウトの期間以外はげんきに登校し、むにゃむにゃ言いながら手を動かしていた。遊びに行くというようなことは極端に減ったが、タスクの消化で疲れていたので我慢をしているという感はほとんどなかったように思う。はじめて学会発表もしたし。
おかげで世の中の動向にはちょっぴり疎くなり、日々ハイスコアレコード更新のようにして膨れる数字と、余裕が少なくなってしまった人が劇的に増えていくソーシャルメディアサービスのタイムラインに、あまり共感できないなあという意味で首を傾げていた。個別の事象については想像もつかないけれど、みんなたぶん大変なのだと思う。今までご苦労さまでした、と言いたいところだけれど当分この状況は変わりそうにないみたい。
あの時自分はこんな事を考えていた、という定点観測としてこうして何やら書いているわけだけれども、そんな徒然なるままに書いているときにも気をつけていることはあって。 あえて言葉にするものは選ばなければ、自己暗示みたいに働くような気がするので、あまりネガティブなこと、激しい言葉遣いで言わないほうがよいのではないかということ。
ひとが使う言葉はそのひとを表出しているということ以上に、きっとより強く,そのひとの言葉にした気持ちを強化する作用が強いと思う。悩みや怒りを吐露することですっきりする部分はあるのかもしれないけれど、誰かにきちんと聞いてもらうなどの慰めがなければ、 宙ぶらりんになった言葉がネガティブな感情だけを伝播させることになって、誰も幸せにならないと思う。「王様の耳はロバの耳!」と叫ぶような井戸とはちょっと違うのだし。
他人事としてぼーっと見ているからこそだんだん悪くなっていく雰囲気に対する危惧みたいなのは非常に大きく、さりとて出来ることもないなあとも思いつつ、せめてもうちょいマイルドなコミュニケーションが維持されるといいな。
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こんな文章をTumblrで読みたいので書いている方おしえてください。
皆様にお願いがございます。 Tumblrで以下の条件に当てはまる文章を読むことを欲しています。
しかしなかなかその条件を満たしているかたがおらず、検索で調べるのもむつかしいので、みなさまのおすすめ(自薦他薦問わず)に頼りたいと思います。
「やあやあ我こそは以下に当てはまる書き手であるぞ」という方、ハートボタンを押していただくか、メッセージをいただけませんでしょうか。こちらから拝見しに伺います。ちょっと違ってもあんまり気にしないでください。大体で結構です。適当で結構です。
拝見して、確かにあてはまっていそうだなと思った方はフォローいたします。なんか違うなあと思うこともあるかもしれませんので、フォローの確約は致しません。
反対にもちろんTumblrってものはですよ、皆様がその時その時でお書きになりたいことを自由に書かれることこそが魅力なわけですから、こういう人間にフォローされたことは即座に忘���ていただいてもちろん結構です。
違う感じになってきましたら、そのときはこちらも「今までありがとうございました」という気持ちとともにフォローをそっと外すだけです。
【募集】こんな文章を書く方をTumblrで読みたいのでさがしています。※自薦他薦問いません。
日記を主に書かれる方(詩や創作と半々くらいでもOKです)
「その日に何が起きたか」という客観的事実が、書き手ご本人の人となりを知らない読み手にも伝わるように、本人なりの工夫で書いてくださっている方
文章の技術や更新頻度は問いません
以下の話題を書かない方(必須条件)
配偶者、恋人、セフレに関する愚痴、悲しみの吐露、悩み
客観的事実の補足が伴わない主観的感情の吐露
以下の話題をあんまり書かない方(できれば希望条件)
配偶者、恋人、セフレに関するのろけ話
真剣に探しております。探しても探しても見つかりません。
我こそはという方の自薦、この人はどうでしょうという他薦、心よりお待ちしております。お手数おかけいたします。よろしくお願いいたします。 (細かい事情はメッセージ欄に追記しました。事前他薦に関して、メッセージ欄は読まなくても大丈夫です。)
※リブログ歓迎いたします。ご協力感謝いたします。
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20200713

愛用しているEvernoteに、「しあわせのゆくえ」とだけ書かれたメモが残されていた。
いま、自分のしあわせのゆくえをつぶさに見つめている。
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20200618

久しぶりにこの時間に外をふらついている。夜風が心地よい。思えばこの数ヶ月、様々なことがあった。穏やかな波の音や車の走行音に囲まれて、こうして一人でいるのが今は正しいことのように思える。
原付を譲ってもらった。と言ってもスクーターのようなやつではなくて、6速MTの2ストのスポーツバイク。いよいよ名実ともにブンブン丸である。興味がない人からするとでかくてやかましくて、なによりくさいそいつは、二輪の免許がないにも関わらず乗れてしまう割に理不尽なくらいに速い乗り物で。未だに操作がおぼつかないところもあるけれど、今まで知らなかった速度感に心躍った。なにより勢いで買ったライダースジャケットを着るのに都合がよく、順番的には逆なのかもしれないけれどそれっぽさが出てとても良い。
就活が終わった。以前「人生で第一志望しか受けたことがない」と書いたが、ついに途絶えた。最初にお祈りのメールが届いたとき、3割の落胆と7割の(これが世にいう…)という ほほ〜感、だった。結局そんなには手こずらなかったし、わがままも言えたし、たぶん今でも運のいいほうなのだと思う。行きたくもないところに書くESはねえ、と硬派な姿勢を貫いた結果周囲に心配されもしたけど、数少ない面接を受けた中でいちばん出来が悪かったところにお声掛け頂いた。人生とはかくも…と思った。なお、「御社が第一志望です」と言う機会は無かった。
それと時をほぼ同じくして、親しくしていたりしてなかったりした人から、これから一緒に住みたいという謎の提案をもらった。たちの悪い冗談かと思って内心いらっときつつも、なんやかんやあってそういう方向で調整をしている。まぢ人生わからん…とステレオタイプ的ギャルを想像しながら、頑張っておどけている。漠然とした不安を紛らすためにはまず調査、と思いネットの海を彷徨って、果ては「同棲ってどうやってするの?調べてみました!」的なサイトにまで手を出してみたものの気分はすぐれず。楽しくもあるんだけれどもんどり打つような日々を過ごし、考えるのを一旦やめた。
そんなわけで、海をぼーっと見ているわけで。海越しに少し離れたところから見る東京の街は、高層建築物の赤いライトがつくる曖昧な線のように見える。反対側の工業地帯は煙突から煙を吐いてみたり、火を噴いてみたりしている。東京湾上にも灯りは点在していて、どこもかしこもがちゃがちゃと光っている。どうもまた目が悪くなったのか、光が点に見えない。外海に面したところで育ったからか未だに景色に違和感を覚えるものの、あと一年もしないうちに見納めになるのだと思うとなんだか惜しい。特に意味のない感傷に浸れるのもゆとりのあるうちだけなので、今はそれを大事にしていたいと思う。
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20200309

かなりどうでもいいんですけど、久しぶりにボウリングをしたらどうも投げるたびに右脚で左脚のくるぶしを蹴っていたらしく(不器用!)、かなり真っ青な痣ができています。ビジュアル的にこれを人様に見せるわけにはいかんかな、と長めの靴を履いてるわけですけど触れるたびにまあまあ痛むので鬱陶しくて仕方がないです。
最近あったかいですね、春がもうすぐそこという感じです。何をもって春とするかは個人差あると思いますけれど、風に花の匂いが混じりはじめたのでもう春でもいいのかもしれません。ぼくは花粉症ではないので、気楽なものです。ただすこしだけ、いつもより目がしぱしぱしていつもよりくしゃみが出るような気がしますけど、ぼくは花粉症ではないので原因はわかりません。
相変わらず昼間動くときはブラックコーヒーが手放せません。身体を冷やすからお茶にしなさいとよく言われたものですけど、こればかりはどうしても。それでもたまにジャスミンティーに替える日もあって、机で飲んでいると「お前が黒くない液体を飲んでいるのは変だ」と言われたりします。いよいよお腹の中身がすべて真っ黒になっていても不思議はないと思います。これで上手な嘘つきにでもなれたら、名実ともに腹黒、ということになるんでしょうか。
このあいだ酔いを覚ますために外を歩いていたら流れ星を見て、そこそこ特別な気分になりこそしたものの、こういう瞬間の体験って共有するの難しいよなあと思ったりしました。ねらって見つけたものでないからうれしいのに、ねらってないから残せないもどかしさでもにょもにょします。すこし、欲のようなものを自分の中に感じます。どうしたらいいんでしょうね。
たまにはなにか書いてないと落ち着かないので、またなにか書きたくなったらここへ書きます。
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言葉の脈
話をしていた相手が突然「くさ」といったから、正面きってスメハラを指弾されたのかと思い、こいつを殺して自分も死のうかな、と思った。殺害の具体的な方法を考える前に念のため自分の勘違いである可能性を検討した結果、果たしてそれが笑いを表すネットスラングであることに気がついた。草。お前を殺して自分も死のうかなと思ったよ、と相手に伝えようとした時には、既に話題が別のところへ流れてしまっていた。時間にして数秒の出来事であった。
言葉がうまく伝わらずに相互不理解が起こる原因には、単純に聞こえなかったとか、語彙にない言葉だったとか、まぁ色々あるけれど、前後左右の文脈(コンテクスト)もかなり大きく関わっているのだなと、つくづくこの殺人未遂を通して思ったものである。どういうことかというと、我々は人と会話をするとき、意識するしないに関わらず「話の筋道」を辿りながら次に出てくる言葉を予想しており、そこから逸脱する言葉が飛び出すと咄嗟には反応できず、何度も聞き返してしまったり、勘違いをしてしまったりするということである。
だから別に「草」が口語に向いていないとは思わない。よくいわれることだが、言葉は恣意で変化していく。かつ消えかつ結ぶ言葉のうたかたに順応できなければ、畢竟溺れてしまうものである。若者言葉でもネットスラングでも、生まれて間もない言葉を拒絶してその存在を認めようとしない人間がよくいるけれど、あれははっきりいって言葉の本質を全く理解していない馬鹿である。むしろそんなことに頓着せずに、新しい言葉をどんどん使いこなしていく方が先進的な態度であるといえよう。
しかしながら、自分が使う言葉は自分で選びたい、と俺はまた強く思っている。新しいものが良いものとも限らない。言葉が変化していくのは大きな全体の恣意だが、俺が言葉を選ぶのは俺個人の恣意である。それは言うに事欠いて、相手が差し出してくるどんな言葉でも受け入れてやることでもある。
*
角田源氏の完結を以って、河出の日本文学全集がすべて出揃う。新刊で買っていくと、ただでさえ心許ない身銭が払底するので、古本屋で見かけるたびにこつこつと集めている。古事記から順に並べた書棚を見ると、やおよろずの神々がそこらにましましていた時代から今この現在に至るまで、誰も喋らず誰も書かなかった瞬間って1秒たりともないんだなぁ、となんだか超然とした気持ちになる。1000年前の言葉が古典なら、1000年後に今書いているこの言葉も古典になるのだ。当たり前だけど、すごい。草生える。まじ繁茂。まじ鬱蒼。まじ草いきれ。
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記号とことば
こんにちは。最近人文科学に対する興味が本業のそれよりも、もしかしたら強いのではないかと思いはじめた理系の学生です。こんな体たらくですがなまじ本だけは読むので、折角なら趣味の一環としてアウトプットしてみよう。できることなら何か役に立ちそうなトピックスを集めて。そう思い立ち、つらつらとしたためています。どうぞよしなに。
今回のお話は「ことばとイメージ -記号学への旅立ち-」 川本茂雄著 岩波新書 からです。岩波新書のきいろいやつは面白いですねえ。岩波文庫なら青が好きです。どれも出来が良いので濫読にはもってこいです、おすすめです。
…話が逸れましたが、本書は「ことばとはなにか、を記号としての観点から考える」がテーマです。論理の展開のみならず、詩作や絵画、音楽にまで応用していますので読み応えバッチリです。ここではその序論、と言っても本の半分辺りまでについてお話をしたあとにまとめることにします。今日のお題は「記号学に見る、ことばを伝えるテクニック」です。
(長くなるので折りたたんでみます)
ことばを記号学から捉える
さて、本題です。サブタイトルの記号学という言葉に聞き覚えがない方が多いのではないでしょうか。文中から軽く紹介しますと、記号学は哲学者パースと言語学者ソシュールによって19世紀ごろ作られた学問です。両者は面識がなかったとされていますが、記号学という同一の概念に辿り着きました。記号学はsemioticsと書かれ、これはロックの著作の中でσημειωτικ‘η(セーメイオーティケー)として用いられました。
ロックは記号学を自然学(現在の物理学よりも広範な学問領域を有するようなもの、という解釈でよいようです)および倫理学に次ぐ第三の学問として位置づけました。また、記号として最も通常用いるものが言語(=λογος )であるため、ロジックと呼ぶのもふさわしいだろうともしています。こちらは論理学にあたりますね。記号学の位置づけをよく表していると思われる文章を引用しますので、解説はそれに任せることとしましょう。
”その仕事は物ごとを理解したり、物ごとの知識を他の人たちへ伝えたりするために、心が使う記号の本性を考察することである。 というのは、心が熟考する物ごとは、心自身を別としてどれも知性へ顕現しないから、知性の考察する物ごとの記号ないし表象として、他のあるものが知性へ顕現する必要がある。 また、一人の人間の思想を作る観念の場面は、他人が直接あらわに眺めることができないし、記憶するというすこぶる確かでない倉庫のほうに蓄えておくことができないから、私たちの思想を自分自身の用のために記録するだけでなく、互いに伝達しあうためにも、観念の記号は同じように必要である。人々が最も便利だと見いだしてきて、それゆえ一般に使う記号は文節音である。 そこで、知識の大きな道具としての観念と言葉の考察は、人知をその全範囲にわたって眺めようとする者の熟考の、軽視できない部分になる。”
単にコミュニケーションの道具としてではなく、事物に解釈を与え共有できる能力はすべての学問の基礎になる。故に重要である。そういう主張になっていますね。では続きです。生活の中にありふれるこの記号というやつ、一体何者なのでしょうか?
記号の定義:‘Aliquid stat pro aliquo’
(あるものが、他のあるものの代わりになる)
これは記号を語る上でよく用いられる定義(らしい、ラテン語わからない)なのですが、Something stands for something ってことらしいです。stands forが特に厄介で、「表象する」と訳されます。聞いたことくらいはあるのではないでしょうか、「意志と表象としての世界」。あれです。(未読ですがこのいかめしいタイトルにその一端があるような気がします 今度読みます) たらい回しのようになっていますが、この表象というものはある「刺激」に対して主体がその内に「認知」をすること、および記憶の中から再びその内に現れる「認識」を指します。心のなかにめばえるもの、とでも言えばよいのですかね。つまり、記号というものはこの表象の仲立ちをする役割があります。
ことばの他にも人間は様々な記号を用いますが、ここでは感覚的に用いている記号へのイメージに関してもう少しだけ補足を加えていきます。 ヒポクラテスというお医者様が、その昔のギリシャにおりました。彼の実践的な医学で特に重要な事柄は「ディアグノーシス」と「プログノーシス」になります。それぞれ「今起きていることから病気の原因を探る試み」と「病気の種類からこれからの経過を予測しようとする試み」にあたるわけですが、彼が判断に用いたものは身体に現れる「しるし」でした。例えば「ばち指」と呼ばれる特定の疾患が起こったときに、指の末端が腫れ上がる状態をヒポクラテス指なんて言ったりするそうですけど、両者には関連があるということを見とめました。しかしながら、これは記号とは呼ばず、徴候と呼びます。人為的にデザインされたものであることを、記号の定義上要求しています。あまり本筋ではないですが、まめちしきコーナーです。
ことばをうまく使うために
さて話を戻しますと、記号の機能としての表象には段階があることを述べました。外的な要因に関して話を進めたほうが楽なのでそちらを採用すると、「刺激」から「認知」に至るまでには細かく見るとタイムラグがあり、それらを区別することにします。すると、いくつかのケース分けをすることができるかと思います。
まず、刺激を感知しても対象が何であるのかを判断できない記号。わからないというのは怖いものですから、肝試しをしているときになにか異変に気づいてしまったような状況を想像してください。これは先ほどの徴候にあたるものですが、言うなれば「刺激に対する本質的な感覚」とでもしましょうか。西田幾多郎の「善の研究」でいうところの純粋経験です。このような関係にあるとき、第一次性の関係にあると表現します。またその刺激を個体記号もしくはイコン的記号といいます。以後この表現を用いることとします。
次に刺激を感知し、対象を知覚することのできる記号。きっとおばけというものを知らなかったのでしょう。正体がなんだかはわからないけれど、異変の原因はあいつらだ!ということを知覚します。これを第二次性の関係とし、性質記号もしくはインデックス的記号といいます。
最後に刺激の感知、対象の知覚、その区別までできる記号。いわゆる「知っている」という状態です。一つ目小僧に提灯お化けに、あとはおばけのステレオタイプみたいな皆さんがぞろぞろと…とそんな具合に。これを第三次性の関係とし、法則記号もしくはシンボル的記号といいます。
こんな具合に。
もう少しだけ、別の例を使って説明します。イコン的記号の本質は写像性であり、例えば黙って柑橘類の写った写真を見せたとしましょう。相手にはそれがみかんなのか何なのか判断がつかないまでも、そういう果実であることがとりあえずわかります。
インデックス的記号の本質は隣接性です。もし相手が買い物に行くことを事前にこちらに伝えていて、その支度でもしている時に柑橘類の写った写真を見せたなら「ついでにこれ買ってきて」そういうメッセージとしてとることができるかと思います。
シンボル的記号の本質は象徴性です。相手はカレンダーをちらと見ました。そうです、今日は冬至でした。日本では冬至の日にゆず湯に入る慣習があるため、それのことを言っているのだろうということが伝わりました。めでたし。 本書ではこのあたりの説明がかなりシンプルな図で表現されていたため、しつこめに補足しておきました。これでイコン、インデックス、シンボルすべてが分かっていただけたかと思います。
さらにうまくことばを使う 退行と逸脱
通常ことばが記号として用いられる場合は、この第三次性までの機能を全て備えている必要があります。ですが、退行(degenerate)という手法を用いることも時に効果的です。あまりよい単語とは思っていただけないかもしれませんが、ようは「第三次性の記号を第二次性に落とす」ことがとられます。
これによりことばのみで伝えられる情報量は減ったとしても、その上位となる第三次性の関係を相手の中で表象させることができます。直接的でないが本質を捉えた表現が文学的であるとして胸を打つのは、この退行が用いられているためです。ものごとの輪郭をことばでなぞるような、そんなふうにするといいんじゃないでしょうか。
もう一つは言語における「正常」と「逸脱」になります。表象をあらわすものとして「心のなかにめばえるもの」と表現しましたが、これは正しい文章でしょうか。比較的どこかで聞いたことがあるようなフレーズであるためあまり違和感は覚え���いかもしれませんが、心に空間があって、そこに植物がにょきっと出てくるところを見たことはありませんし、聞いたこともないですね。このように正しい(通常の語の結びつきとして一般に了解がされているとみなせるもの)表現から逸脱することも、ことばにはゆるされています。
逸脱表現の名手だと思っているのが川端康成で、雪国を読んだ時なども「おっ」と思わされました。つららがかわいいのです。
「軒端の小さい氷柱が可愛く光っていた」
小さく美しいものを形容するのに可愛いという表現を使うのは誤用ではないためこれは逸脱とはやや異なりますが、そこでかわいいを使うのかぁと思いました。場面は陽が上った気持ちの良い朝。雪国の厳しい夜の寒さが和らいで、こどもらがその辺を遊び回るのどかな風景。当然氷柱などは当たり前のようにそこらじゅうの屋根からぶら下がっているわけですが、それがゆっくりと融かされて、徐々に小さくなっていく。ひとときの平穏を表すにはこれ以上の表現が見つからないです。
(ただ、逸脱には事前に取り決めがあるわけではないので、意図を相手が汲んでくれるかどうかは書き手と受け手の技量に委ねられることを申し添えておきます。)
今回のまとめ
1. ことばを記号としての側面から捉えることで イコン的記号 インデックス的記号 シンボル的記号 のようにケース分けができる。
2. そうした性質を見とめつつも、応用として退行、逸脱を用いることでより効果的な表現を目指すことができる。
としたいと思います。また面白い本が見つかったら書いてみようと思います。それでは。
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