Tumgik
solomon13703597 · 2 months
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モーツァルトとヴィヴァルディ
クラシックだと私はヴィヴァルディが好きで、ほんとに偶にだが聞いたりもする。モーツァルトも嫌いじゃないが、矢張りヴィヴァルディの方がより好みだ。そのモーツァルトだが、通常の作曲家が8つの音を使って曲を組み立てているのに対し、彼は9つの音を使って作曲している。8つの音とは言わずと知れた8音階だが、9つ目の音とは無音だ。だから、モーツァルトの曲では音符の無い部分も演奏の内に入っている。それに気づいた時、確かにこの人は天才的な作曲家だったのだと思った。他のどの作曲家にも見られない、モーツァルトだけの特徴だ。斯様に、モーツァルトの曲は発想も素晴らしく嫌いじゃないが、それでも私はヴィヴァルディの方が好きなのだから、私の音楽の好みは作曲の秀逸さにある訳では無いのだろう。個人の感性も謎が多い。そして、その理由をつらつらと考えてみるに、多分、私にとってモーツァルトの曲は難しすぎる。音を追う事に精一杯になってしまい、心から曲を楽しめない。その点、ヴィヴァルディの曲は音楽と言う言葉通りに、曲を楽しむ事だけに専念できる。無論これは私の所感であって、他の人は違う場合もあるだろう。いずれにせよ、彼等が心血注いで良いものを作ってくれたおかげで、後代の我々もその余慶に与れる。だからこそ創作と言う行為には価値が有る。
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solomon13703597 · 3 months
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胡桃四方山話
過日、某所で偶々胡桃の事が話題に上がったので、ちょっと興味を持った私は胡桃について調べてみた。私は歴史、特に中国の歴史を専門に学んでいて、胡と付くからには中国に関係があるだろうと思ったからだ。胡桃はクルミの木の実で、日本では縄文時代から食用に用いられていたらしい。固い殻があり、これを割って中の種子を食べる。中国では満州地方と台湾地方に自生しており、中原では採れなかった様だ。詰り、胡の桃(に形が似ている)だ。中国が台湾の開発に着手するのは大分後代になってからだから、昔は主に満州地方からの貢納品か交易品だったのだろう。日本でも昔は貢納品であり、古くは呉桃とも書いたらしいので、中国の南方からの交易品か貢納品でもあったのだろうと思う。クルミに胡桃の字を当てたのはそういった経緯からだと思うが、クルミの語源が何かという事については諸説あってはっきりしないらしい。私としては、(殻に)包まれた(実)が転訛して包む実→クルミになったのではないかと考えている。これらをネットで調べてちょっとした考察をするのに要した時間は30分くらいで、こればかりは技術の進歩の有難さを感じる。ネットの整備されていなかった昔は、こんな些細な事を調べるのにも、図書館に行って書籍にあたるか、知っていそうな誰かに聞くしかなかった。誰か師について学ぶ事は、私は勉学では無い様に思う。自ら学び努める事が勉学であり、学問本来の姿だと思う。だから、半人前である学生の内は師について学び、学府を卒業してから学問を深める事は理に適っているとも思う。何であれ、自主性が大事なのだろう。
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solomon13703597 · 3 months
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初期宇宙のインフレーションモデルについての若干の考察
冒頭に題した通り、私は初期宇宙のインフレーションモデルは若干の手直しをしなければならないと考えている。初期宇宙は膨張して一瞬に広がったのでは恐らくない。丁度太陽光が放射層を抜けるのに17万年(wiki調べ)かかる様にビッグバンにより放出された光も宇宙の晴れ上がりが起こるまで遅滞を余儀なくされた。真空中における光速度は不変であるが、媒質の異なる空間においてはそうではない。宇宙が急激に膨張したのではなく、放出されるまでの光の速度が遅かったのだ。だから逆に言えば、この差を計算する事で初期宇宙のおおよその密度が分る。密度が分れば広がりも分る。おおよそとしたのは量子重力理論が未完成だからで、これが整備される事でより正確な値が出るだろう。ビッグバンモデルも発表された当時は荒唐無稽と思われていたが、今日ではおよそ常識となっている。物理に限らず、科学の発展とは常にこうしたものだ。大昔は天動説がまかり通っていた教訓を忘れてはならない。ユーリイ・ガガーリンがその目で確かめるまで、地球が丸い事すら我々には確実ではなかった。理論の構築とその実証により科学は進歩してゆく。その様を南部陽一郎先生は車の両輪に例えられた。���ちらが欠けても進歩しない。科学の探究に携わる者は常にこの現実を心せねばならない。
付記: 厳密に言えば光の速度が遅くなったのではない。私の理論に従えば、重力により光の飛距離が伸びたので光の速度が遅くなった様に観測される。が、私のこの理論は証明された訳でも無く未だ仮説に過ぎないので、従来通りの解釈により分り易く説明した。
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solomon13703597 · 4 months
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「宮本武蔵考」
宮本武蔵は後世、剣術家として剣の道のみを究めようとした人物として描かれる事が多いが、これは創作にしか過ぎない。実際の彼は、熊本藩に仕えている。彼は武士だったのだ。剣の道を志したのは、それが武士にとっての表芸だったからだろう。武蔵の為に弁護しておくが、世の常の武士の様に名利のみを求めていたので無い事は確かだ。それなら、吉岡一門を討って名を挙げた時点でどこかの大名に仕えていただろう。それをせずに晩年まで遊歴していたのは、矢張り彼自身に求める所があったからだろう。その彼が何を目指していたのかと言えば、これは「五輪書」に表れている。五輪とは五大の事で、仏教、主に密教で用いられる世界の構成要素の事だ。要するに、武蔵は剣の道に事寄せて、剣禅一如を説いたのだった。武蔵は武士として生き、武士として死のうと考えていたのだと思う。少なくとも、晩年の彼はそう考えていたのだと私は思う。だから「五輪書」を著して武士としての心構えを後世に伝えようとしたのだと思う。その武士と言うものが何かと言えば、領民から租税を徴収し、戦の時には先頭に立って戦う兵士であった。それが士分として肩で風切る様に自らを位置付けたのは、暴力が世の中の理であった戦国までの考え方に寄る。力が世の理の一つである事は現代でも変わらない。口先だけでは回らないのが人の世だ。では力ある者がイコール正しい者かと言えば、これは十分条件ではあっても必要条件では無い。日本や中国での正義は、英語のjusticeとは違う。字義を見れば明らかで、義に拠って正しいのが正義だ。では、その義と言うものが何なのかと言えば、これは人自らが定義せねばならない。丁度、近代法が人の手によって法規範として定められ、相互契約として成り立っている様に、義も人の手に拠る規範でしかない。人は自らの生き方を自らで定めなければならない。人形である生き方を望んだと言った所で、人形である事実は変わらない。人が人として生きていく上で、各種の権利をお互いに認め、それに付随する義務を規定しましょう、と言うのが社会契約論の骨子だ。人が人として、人と生きていく為のルールだ。そこに神は必要無い。「神は死んだ」のだ。
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solomon13703597 · 5 months
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火に纏わる風習
柳田国男の「祭のさまざま」という小文を青空文庫で読んだ。その中の件で、火を穢れとして忌むという一文が私の目を惹いた。日本でのこの古い風習は恐らく火之迦具土神を産んだが故に伊邪那美神が死んだ言い伝えに由来するのだと思う。消防機構の未熟だった古代において、失火による火事は大事だった。家財は燃え、悪くすれば住人は死に、更には近隣の住家にも累を及ぼす。火の取り扱いが難しかったが故に、昔は竈神も家々に祀られていた。調理に火を使うから竈は火事の火元になり易い。おだてて祭っておけば悪さもせんだろうとは古代の人々の無邪気な信仰の結露だ。私は別に懐古主義者ではないので、純粋な興味からこの一文について考察したのだった。歴史とは、こういった一文の得にもならないような事に注意を払うべき学問でもある。人が人である所以を探求する学問、と言い換える事も出来る。
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solomon13703597 · 5 months
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歴史家であると言う事
歴史には自ずから公論がある。それは正しい。が、その公論なるものは大体が多数決で、故にその公論が間違いなく正しいとは言えない。だから、歴史上の出来事は歴史家も自己の責任において裁かなければならない。これを公論だからとそのまま認めてしまってはただの責任逃れになる。何に照らし合わせて正しいのか、何に拠って間違っているのか。それら正否を判断する事は自己の責任において行わなければならない。漫画「ベルセルク」の中でガッツは、「俺は自分が剣を振る理由を他人に預けてたのかもな」と述懐する。その上で、「俺は剣を振る理由をもう他人に預けたりはしない」と決意する。我在るが故にガッツがどういった運命を辿るかは漫画「ベルセルク」を読んで確かめて頂きたい。作者である三浦氏の急逝により、「ベルセルク」が未完で終わった事が残念だ。
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solomon13703597 · 5 months
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重力について
我々の体がなんで出来ているかと考えた時、これは元素からなる物質分子で出来ている。分子は素粒子で構成されているし、これより微小なサイズになると容易にエネルギーとの可換を起こす。光もエネルギーの一形態で、有名なE=MC^2の式はこの事実を表している。陽子や中性子はクォークという構成体から成っており、クォークを単独で取り出す事は出来ない。詰り、このエネルギーバンドの存在が粒子を粒子たらしめている理由だと思うが詳細は未だ未知数だ。重要な事は、素粒子をより微小なサイズまで分解していった場合、エネルギーとしての光子レベルで自発的な対称性の破れが常に起きているだろうと予測できる事だ。そして光は屈折し偏向する。重力という力はこの光の偏向現象だ。高重力場近傍での光は、屈折する。観測できるものでは重力レンズ効果がある。光は質量を持たないのに重力の束縛を受ける所以はここにある。詰り、高重力場とはエネルギーの勾配が真空より僅かに高いが故に自発的な対称性の破れが起こり易く、結果、光は屈折する。屈折した光が重力方向に偏向した場合、より重力場の空間エネルギー密度が高くなり、更なる偏向を惹起する。こうやって光を捕えて離さないブラックホールは誕生する。だから重力子とは恐らく力を媒介する粒子では無い。私の考えでは、力が作用した結果生じる粒子が重力子だと思われる。ここは私もまだ考えの纏まっていない部分なので更なる考察を要する。現時点での私の考えは重力のフォースキャリアは重力子ではなく光子そのものだ。これは重力波が光速で伝播する事の裏付けにもなっている。そして光子が物質粒子と反応した時、粒子内に重力子が生じる。この生じた重力子の数だけ、粒子は重力の影響を受ける。だから、重力は重力子の整数倍の値を取るし、それは即ち光子の整数倍の値を取るという事でもある。重力を含めた電弱統一理論の構築は可能だとの見通しが立つ理由でもある。重力子が何であるかは一先ず置いておいて、私がここで述べたい事は、真空は最低エネルギー状態であるけれども、恐らく有為なエネルギーバンドを持っているのではないか、という事だ。この幅の値が幾つかは分らないが、幅がある事で重力が生じ、結果光の偏向(屈折)を引き起こし、粒子や光子の軌道が変えられる。私の予想ではこの真空のエネルギー幅は光子の持つエネルギーより小さい。そして物質粒子が重力源の鉛直方向に落ち込む形になるのは光子に有限の速度Cがあり粒子には広がりがあるので、光子が素粒子内部で反応した箇所の時間差により移動速度に変化が生じる為だ。移動速度が他の部分より遅くなった方向に光が偏向する事で、物質粒子は運動エネルギーを失い位置エネルギーへと転化させる。これが重力と言う力の仕組みで、我々が地上を歩ける理由だ。これは私のオリジナルで、人類の科学史においても初の発見だろう。理論の補強はホーキング氏の最終論文から行った。今は亡き氏の功績に深く感謝する。物理学が人類にとってより良き発展を行えるよう願ってここに記す。
2024/04/18
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solomon13703597 · 6 months
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創作について
例えば、野に咲く花に感情は無い。だが、それを見た人の内には”想い”が芽生える。私が創作物に求めるものはこれに他ならない。だから私自身もそういうものを目指してものづくりを続けている。
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solomon13703597 · 7 months
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物理学とは
仏教においてこの世は空であると説かれる。実相を持たず、自己の観相によってのみ認識されるからと言うのがその理屈だ。故に仏教では正覚を得てこの世の理を正しく理解したものが覚者と呼ばれ尊ばれる。梵我一如の境地に達したと思われているからだ。仏教が発祥して2~3000年このかた、仏教を信じる者にとっての世界とはこの様なものだった。人類も進歩する。人の認識如何に関わらず、この世には枉げる事の出来ない法則が存在すると理解し、定義したのが物理学だ。我々が物理法則として知る諸法則は、例え人がいなくてもその理を変えたりはしない。この宇宙が存続する限り、厳として在り続ける。何故その様な法則性が在るのか、これは分らない。だがその究極の何故を棚上げにしてしまえば、後の事は理解できる。分らないと言う道理が理解できてしまえば、その他の事を理解するのは前者に比べて容易い。これを物理学に比すれば、ビッグバンのその瞬間は分らない。計算不能であり、これを求める事は不確定性原理により不可能だ。だが、それ以降の事であればこれは計算できるし求める事も可能だ。やはり不確定性原理により精度の問題は残るが、おおよその事は把握できる。詰りこのおおよその幅がプランク定数だ。ソクラテスの考えた無知の知は人間世界が存続する限り真理で在り続けるだろうし、知の探究を志す者にとってこれは無門関で在り続けるだろう。
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solomon13703597 · 7 months
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漱石の日
2月21日は夏目漱石の日なのだそうだ。1911年のこの日に、文部省から文学博士号を贈られた漱石はこれを断った。この時の辞退の手紙は下書きがweb上で公開されているので私も読んだ。漱石の字は達筆すぎて些か読みづらいものだったが、内容は漱石そのもので実に彼らしい言い草だと思った。権力に阿らない、と言うのは理由の一つでしかない様に思う。漱石は国家とそれに付随する権力に否定的であった事は一度も無い。必要悪だと考えていたのだろう。では何故断ったのかと考えるに、恐らく、国家が自らを権威づける為の飾りの様な扱いをされる事が嫌だったのだと思う。漱石は生涯、そういった欺瞞を憎んだ人だった。国家や権力機構に自己肥大の必要を認めなかったのだと思う。これについては私も全く同意見で、無用の権威付けなど犬に食わせてしまえと思っている。世の中、中々に漱石の様な人物はいない。それが当たり前なのであって、別におかしな事でも無い。漱石の様な考え方の出来る人の方が一般的では無いだけだ。言ってもしょうがない事は言わぬに限る。ただ、同好の士と徒然に語り合うのみだ。
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solomon13703597 · 8 months
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種と種死
種のフレイ・アルスターにとって自分が利用できない人間には用が無い。別に彼女自身はそれを当たり前だと思っている。彼女が死に際に改心したかのように演出されたのは制作側の都合でしかない。最後まで身勝手な女だった。それだけの事だ。だから、それと対比させる形でラクス・クラインと言うヒロインが出てくる。ラクスは自身の願いを叶える為に父も国も裏切る人間だが、別にその事で彼女の中に矛盾は生じない。自らが正しい行いをしているとの思いが彼女の中にあるからだ。作劇上、フレイはラクスの引き立て役でしかなく、その点、彼女は最初から貧乏くじを引かされた可哀想なキャラと言えなくもない。私はこの様に、自らの意思を強弁する為にキャラクターを駒の様に配置するやり方を好まない。はっきり言って二流三流のやり方だと唾棄している。詰り福田監督が何を叫ぼうが私の耳には届かず、彼のやり方は富野アホ悠季の亜流でしかない。手法が正しくないのだから何をやろうとしても失敗するのは当たり前の事で、何度同じ事をやっても無駄でしかない。一方、種死の主人公であるシンは家族を殺された復讐心を権力者に利用されて連邦との戦いに邁進する。やっぱりこれと対比する形で種の主人公であるキラが登場すると、シンはキラに敗れる。キラに主人公の座を奪われ復讐を果たす事も出来なくなったシンは、失意の内に手近にいたルナマリアに縋り彼女もそれを受け入れる。似た者同士の敗者の傷の舐め合いと言う奴で、要するに製作者の描きたかった事はそれに他ならない。こんな結末になりたくなかったら考えろと言いたかったのだろうが、視聴者から不評だったのは当たり前の事で、それまでのガンダムファンはガンダムにそんなものを求めてはいなかったからだ。種でも種死でも共通する事は、制作者の思惑を強弁する為に作品作りが為されていると言う点で、これらは俗にお説教アニメと呼ばれる。賞善罰悪を推奨する事で視聴者が品行方正になってくれる事を期待したもので、要するに宗教と遣り口が同じだ。大体戦争ものと言うジャンルに視聴者が期待する事は派手なドンパチと大きな流れに翻弄される人々の葛藤で、それにお涙頂戴の浪花節が加われば大抵の人間は満足する。紋切り型の量産品という奴で、メタルギアソリッドの小島家電量販店なんかがこれに類する。私は別にそれらを好む人々には何の感慨も無い。蓼食う虫も好き好きだと思っている。ただ私はそんなありきたりなものを娯楽作品に求めていないだけの事で、これは漱石が草枕と言う小説に述べている事とおおよそ同じだ。エンタメにおいてはこれ一つで十分などという事態そのものが異常で、選択肢が多い方が正常だ。視聴者はその中から好きなものを選べる。この選べると言う点が重要なのであって、他の事は些末事でしかない。だから、近代国家において言論統制や情報操作は悪だ。政府がそれを自ら行うなど論外で、これはナチスドイツや大日本帝国の悪しき先例を見ても明らかだ。歴史上の敗者の轍を踏みたくなければ、それこそ良く考えた方がよろしかろうと思う。
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solomon13703597 · 8 months
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「キリスト考」
「十字架上のキリストの最後の7つの言葉」と言うものをwikiで見た。大体イエスと言う人物は宗教者で、「ただ神を愛し神のみに仕えよ。」と言う言葉からも分る様に、徹底的に人との関りを拒否した人間だった。彼は神しか見ていないし、他の人間もそうあるべきだと思っていた。第四の言葉で、イエスはどうして神は私を見捨てるのかと神に問いかける。どうやらイエスは、この時まで神が何らかの奇跡を起こして彼を救い出してくれるものと信じていた様だ。が、そんな奇跡は起きそうにもない。なので、そう神に問いかけたのだろう。神から返答があったのかどうかは私には判らない。イエスにしか判らぬ事で、彼はそれについては何も言い残していない。そして第七の言葉で「父よ、私の霊を御手に委ねます」と言う。神が助けてくれないと言うのであれば、普通の人間なら神を呪い、神を恨むだろう。だが、生粋の宗教者である彼の場合、神へ恨みを向けるなど思いもよらぬ事だった。そして彼が考え辿り着いた結論は、恐らく、その時その場で彼が死ぬ事が神の御意思なのだ、と言うものだったのだろう。だから第七の言葉は彼の観念を表している。神の意思に従い私はここで死にます、と言う観念の言葉だ。最後まで宗教者であったイエスは、自己の信念と信仰の内に死んだのだとは言える。私からすれば馬鹿もここに極まれりと言った感じだが、イエスが生きていた時代には神もまた生きていた。ニーチェが神は死んだと叫ぶ事になるのはそれから1800年も後の事だ。何をどう考え様が当人が納得して生き、死んだのであれば、それは当人にとっては幸福な人生だったのだと思う。そういう意味では、イエスの人生も鴉が焼け死んだくらいな意味はあると思う。
付記:
私のこのイエスの言葉についての考察は、イエスの言葉に嘘が無いと仮定してのものだ。イエスが他人を欺く為に最後まで嘘をつき続けたのだとすれば、それは私には判らない。いずれにせよ、イエスの言葉が嘘だろうと真実だろうと無神論者の私には関係無い。どうでもいい話だ。
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solomon13703597 · 9 months
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漱石のやり方を思い出す時、私は常に「幸福な王子」と言う童話を思い出す。漱石は現世利益だが、オスカー・ワイルドの手による後者は来世利益であり宗教的だ。何処まで行っても利得尽くめで、私は別にそれが嫌いでは無いが、漱石は我慢ならなかった様だ。だから漱石は、半分でもそこに情を通わせたかった。世間はどうあろうと自分だけはそのやり方で通そうと決めた。だから漱石は友人に恵まれたし彼の生涯に寂寥感は感じられないが、私に言わせればそれも処世の術で、漱石もそれを恐らくは理解していた。ただ、漱石はそっちの方がよりマシだと思ったに過ぎない。幸福の形については中島敦が更に一歩進んだ考察を述べてくれている。そこで得た結論が、自分の人生に後悔しない様に生きると言う生き方だ。相克と調和の内に人生があるのだとすれば自己の生き方に責任を持ち後悔しない様に務める事しか我々には出来ない。他人に迷惑をかければ避けられる。その度合いが甚だしければ罰せられる事もある。嵐の時もあれば凪ぐ事もある。嵐の時に海に出れば溺れるだろう。べた凪で船を出せば船は一歩も進むまい。何を目的にどうするか、人の生き方はこれに終始する。であれば、目的を達成する為により良い方法を模索するのは自然な流れだ。無いものを求める愚を犯したくないのであれば、どこかで線引きをせざるを得ない。ではその線を引くのは誰か?これは自分以外には有り得ず、その為に自己の練磨を怠ってはまともな成果が出せない。人並み優れた業績を挙げたければ努力するしかなく、努力とその成果が認められないのでは社会として成り立たずいずれ崩壊する。全て、人が人と関わり合って社会を営む上で必要な事だ。目的は手段を正規化する。そうでなければ目的が達成されないからで、不味いやり方では不味い結果しか生まない。何をするにしても自己の能力と責任はついて回る。これを放棄しては良い結果にならない。自業自得であり、その意味において人生は必然的だとは言える。
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solomon13703597 · 9 months
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アニメ鉄血のオルフェンズのエピソードの一つに、ガラン・モッサが、マクギリスが戦場に直接出てきたと知って迎え撃つ場面がある。この時、マクギリスは自らが囮になるつもりでい、ガランもそれを知った上で勝負に出ている。詰り、ここが彼等が二流である所以だ。マクギリスは自身優れた戦士であり、これを戦場で討ち取る事は容易ではない。戦場の雄でも政争においてそうであるとは限らない。戦場で討ち取らずともマクギリスを追い込む事は出来る。即ち、この場合、マクギリス不在の敵根拠地を叩いて敵陣営の内紛を誘う方がより有効で成功率が高い。根拠地を不在にしてそこを攻められたとあってはマクギリスの管理責任を問われる事は必定で、マクギリスと相対して戦力をすり減らす博打を行う必要は無い。しかしこれは、脚本を書いた人間にも長井監督にも能力を超えた事なので、これを以て彼等を責める事は出来ない。彼等は脚本家でありアニメ監督だが軍人ではない。相手の能力を超える事を要求する様な愚は私は犯さない。それは味方であろうと敵であろうと変わらない。これを孫武は
「敵を知り己を知れば百戦して危うからず。」
と述べた。
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solomon13703597 · 10 months
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土地の所有権と言う物について古今の事例を検討してみようと思う。古の中国では、地は皇帝の所有物だった。”天子”と言う名称が如実にそれを表している。皇帝は天の子であるので地の所有権は天子に帰属する。この事情は中国に多大な影響を受けた日本でも変わらない。伊邪那岐と伊邪那美が国を造り産んだので、その子孫である天皇に地の支配権がある。昔の日本は言わば天皇の私有地であった訳だ。建前はそれでそれとして、実際問題として家臣や国民の個人的財産を保護してやらねば国家として立ち行かない。なので、皇帝や天皇などの君主から家臣に下賜するという形式で土地の個人的所有が認められる。これは法制化されていようとされていまいと大して変わらない。何故なら、専制君主制にあっては法の拠って立つ所は君主に在る。なので、君主がこれを容認し保証するからこそ法が成立する。土地問題で言えば、君主がこれを家臣に下げ渡しその所有権を保証するからこそ私有出来る。これを裏返して言えば、君主の一存で土地は没収出来る。無論理由も無くこれを行えば暴君の所業として軋轢が生じ、悪くすれば反乱や騒乱の種となる。日本的に言えば御恩と奉公の関係な訳だ。近代法治国家では土地の所有権の解釈は異なる。公有地は国家と言う法人格の共同体の所有物であるし、個人の土地は無論その個人に所有権は帰属する。これを保証するのは国民一人一人が相互に交わした法契約であり、公的機関がこの行政事務を国民に代わり行う。国家に保障する権利があるのではなく、各国民の総意の下に個人の権利が尊重される。注意しなければならないのは、個人の土地は無論個人のものだが公的な土地は個人のものでは無いと言う事実だ。だから公的な土地を勝手にどうこうする事は法的に許可されていないし、法を無視してこれを行おうとすれば犯罪として取り締まられる事もある。日本が公海に汚染水を放出して各国から非難を被っている理由は日本政府が公的と言うものを理解していない事に背景がある。公海はどこの国家の所有物でも無いのだから好き勝手に扱ってはならないのが近代法の解釈なのだが、日本政府はそれを誰の物でも無いのだから自分勝手にして良いと解釈した。これが軋轢の元で、この件について中国が日本を非難する事は近代法的解釈に基づいて正しい。土地の所有権に話を戻そう。日本でも戦前までは、具体的に言うと大日本帝国憲法下にあっての日本では、土地は全て天皇の私物であった。大日本帝国憲法の第一条に「大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とあるのがそれだ。建前として天皇に日本の統治権があり、実際的に政を行うのは別組織と言う形態は、古くは藤原家の摂関政治に遡り、武家による征夷大将軍を頂点とする幕府政治に至るまで長らく日本の統治形態として機能してきた。これは中国で言えば周室が衰えて権威のみの存在となり、覇者による実際の政が行われてきた例に似る。故に、戦国時代と言う名称は中国でも日本でも歴史区分の一つとして用いられている。土地に対する専制君主制の基本的考え方は家父長権と呼ばれている。家族が政治構成単位の基本で、家族の長である父に権利が帰属すると言う考え方だ。だから、父の所有物は新たな家父長である子供に継がれる。中国には天命思想と革命思想が古くからあり、天の子である皇帝は天命により革まると言う考え方が一般的だった。現実により即した考え方と言うべきで、皇帝の専横に対する抑止力としても働いた。日本では万世一系の天皇にしか統治権が無く、これは皇室が神々の子孫であると言う理由に基づく。故に皇室は錦の御旗として時の権力者に利用されてきたのだった。皇室もまたその片棒を担ぐ事で利益を共有してきた事は忘れてはならない。持ちつ持たれつの関係だったからこそ、日本でのこのやり方は持続できた。この考え方は、実は米国の信奉する近代民主国家にとっては非常に不味い。何故なら彼等のアイデンティティの拠り所である独立精神とその成果である独立国家の樹立と言う行為が全否定されるからだ。日中に見られた様な家父長権を基にした考え方では、米国は英国から独立できない。ただの反乱者として処罰されるしかない。実際問題として英国にその実力があるかどうかと言う事が問題なのではなく、自らの正当性を公に主張できない所に米国としての問題がある訳だ。この考え方を中国では”造反有理”と言う。謀反を起こす側にも理由が有る、と言う意味だ。かつて米国はネイティブアメリカンを駆逐して自らの国を樹立した。英国資本の搾取から逃れる為だった。現在米国は、米国資本の元、同盟国と言う名の搾取対象から資源を搾取する事で繁栄を維持している。かつてのローマ帝国がこのやり方を行っており、米国もまたこのやり方を踏襲した。そのローマは滅び今はすでに無い。米国もまた歴史の摂理からは逃れられない。私のこれまで開陳してきた土地の所有権に関する考え方はルソーの「社会契約論」にその多くを依っている。興味のある方は御一読される事をお勧めする。近代法の何たるかがより理解できるだろう。権利を主張するには義務を遂行せねばならず、この権利を保持する為には犯罪者を実力で排除せねばならない。口で権利だ何だと言った所で犯罪者には屁ほども感じられまい。安全も平和も口先では成らない。実力による当事者の尽力が必要で、人の社会である以上、この現実は過去も未来も変わらない。
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solomon13703597 · 11 months
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機動戦士ガンダム鉄血のオルフェンズGウルズハント 第12話「紫電のソラ」後編を視聴。話の展開としてはそんなものだろう。アニメとして作っていれば色々と演出も出来ただろうが、ゲームのおまけムービーとしては自ずから限界がある。ここで終わってもおかしくないけど、続くのかね?
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solomon13703597 · 1 year
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私は以前、鉄血のオルフェンズGウルズハントの物語展開に対して、監督である長井監督の力量がまだまだ不足している旨の発言をした事がある。鉄オルGの物語も佳境に入って、物語の方向性も粗方定まった様なので、この場で、何故私が長井監督のストーリーテラーとしての能力が未熟なのかについての、私の意見を披歴しようと思う。
 鉄オルGの世界は階級制社会で、セブンスターズを筆頭に、貴族の緩やかな合議制と言う統治体制で社会が運営されている。この場合、家の継承権は=利権の相続権でもある。カチュアの属するイシュー家を例に取れば、地球外縁軌道統制統合艦隊と言う地球軌道上の治安維持を一手に引き受ける武力と、それに付随する諸々の設備や資産、果ては様々な利権に至るまでをイシュー家が管理している。これがイシュー家の権利であるので、イシュー家の血筋の者に相続権がある。イシュー家としては、この既得権を他家に取られては大問題なので、当主であるカルタを失ったイシュー家としては、継承権が一番高いカチュアに白羽の矢を立てた訳だ。通常、この手の社会体制の場合、特に上流階級ではその傾向が顕著だが、相続者が一人であるという事態はほぼ起こらない。血族である事が継承権を主張出来る理由の一つであるから、当事者達は努めて血縁の人間を増やす事で相続権を失うリスクを回避しようとする。詰り、鉄オルGの有り得たかもしれない物語展開の一つとして、ウィスタリオとカチュアは、イシュー家における継承権の順位の低い人物で、イシュー家を継ぐ意思のある人間とコンタクトを取って、その人物に正式に継承権を譲渡する旨、内外に向けて発表する事も出来た訳だ。この場合、家老であるオキナが他の継承者の誰かを担ぎ出して実力行使に出る可能性もあるのだが、その時にはウィスタリオの持つ軍事力が有用になる事もあるだろう。交渉事とはこういった具合に行うもので、鉄オルGの物語展開もそういった風に行う事も出来たはずだった。実際の本編ではそうなっていない。だから、私は脚本を書いた人間、及びそれでゴーサインを出した長井監督の力量不足だと断じたのだった。ウィスタリオの目的は、現体制であるセブンスターズを筆頭とした貴族政の打倒にあるのではない。カチュアという個人を必要としたが故であり、カチュアもまたウィスタリオと共にある事を選んだ。その為にはカチュアのイシュー家の筆頭継承権者と言う立場が邪魔になっただけの事だ。相続権は諸々の事情から、他の誰かに移譲出来る様になっている。そうなっていないと様々な問題を引き起こすからで、現実の法律でもそうなっている。詰り、鉄オルGの物語展開をそういった形に持っていけば、ウィスタリオやカチュアは現セブンスターズと軋轢を起こす事も無く、波風立てずに物事を収める事も出来たのだった。ウィスタリオは若年であるので、物語に整合性を持たせる上でこういった考えが出てこないと設定づける事も出来る。そういった場合、年長者の誰か、例えばデムナーやコウゾウ辺りから意見の提出と言った形で上記の様に物語を展開させる事も出来る。これら諸々の理由を考慮した上で、私は、長井監督のストーリーテラーの能力がまだまだ未熟であると述べたのだった。これに関して、私自身もまだ十分な能力の持ち主であるとは言い難いが、それでもこの様な物語展開を思いつくくらいの能力は有している。詰り、ストーリーテラーとしての能力において、私は長井監督より優っていると言える。
 これで納得できるかどうかはこの文を読んだ人の判断力次第だろう。私としては自己の所見を述べる以外にこの件について出来る事は無い。そして私は、自己の発言についての説明責任は果たした。所見の不備について意見の有無はあるかもしれないが、私が自己の責任を果たさなかったとは、何人であろうと言わせはしない。
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