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読書日記「三島由紀夫レター教室」三島由紀夫
2022年は本を買う季節だった。お金の有意義な使い方を考えた結果がこれなので、私の知能の程度の浅さがまあ分かるだろう。
その日は歯の定期検診に行った。歯医者というものは診療、治療にどれだけの金額がかかるのか分かりにくいところがあり、検診だけで済めば運賃合わせて三千円ほど持っていけば済む話だが、これに軽い治療が加わると足りるかどうか不安になるくらいにはお金がかかってしまう。私は財布の中身をできるだけ減らし、その日をギリギリ乗り切るのを楽しみにする性質なので、たまに計算を違えてツケてもらうことが多々ある。逆に、その日用意した額の半分も使わない日もあり、その健診の日がまさにそうだった。建物から出たあと財布を覗くと七百円ほど残っている。運賃は交通系カードにチャージした後なので、ということはその額が丸々自由に使えるわけだ。ここで話は冒頭に戻る。
七百円の有意義な使い方。その額を当日中に消費するという前提で、大抵の人はコンビニで菓子類や飲料を購入するのではないかというのが、あまり外出をせず人間観察も適当に済ませる私の持論である。論説の当否はどうでもいい。ただ、私はそういった消え物にお金を使うのは勿体無い気がしているのだ。とにかく何でもいいので形として残り続けるものを購入したい。
というわけで、歯医者近くの本屋を適当に散策し始めた。まずは漫画のコーナーに向かう。背表紙をざーっと眺めながら、その内容と情報量を類推する。次に文庫のコーナーに移動して、またもやざーっと眺め、考える。漫画本と小説本、仮に一冊の値段が等価だとして、含まれる情報の量、密度はどちらが多いだろう(この娯楽品に対する価値の測り方はやはり私の程度の浅さを示す概念的証拠の一つではあるが、今は大目に見ていただきたい)。そう比較したときに私は支払う対価に比べて、文字量が多い小説の方が満足度は高いと判断して、小説を選び始めた。
この時点で家にある小説は「人間失格」と「伊豆の踊り子」、「火花」に「楽しい川べ」だけで、全部私の嗜好的な直感に引っかかったものばかり収蔵されいる。個人的な感覚で蔵書は二段組のカラーボックス一つに収まる程度にしたいと考えてる私にとっては、七百円の書籍を買うのにも結構な気を遣わなければならない。文庫コーナーの端から端まで目を通し、気になったタイトルを記憶して、また端から端まで目を通す。記憶したワードの中で順位づけを行い、今本当に欲しいものだけを残していく。そうして書籍購入選考会を勝ち残ったのは「告白」と「三島由紀夫のレター教室」だった。どちらも三島由紀夫に関連した本である理由は、やはり以前に読んだ「けものの戯れ」の、覗き見的、また退廃的な面白さとその堅実な文体に惹かれたからだろう。そして、残った二つを比べ、その執筆形式(?)の奇抜さから、「レター教室」の方に軍配が上がったのだった。
果たしてその中身である。大まかに書くと、若者の恋模様である。というのが、私の解釈だが。もちろん、結末に至るまでには様々な事件が起こっている(と類推される)が、結局のところはラブロマンスなのだ。私は、いわゆる恋愛ものとされる作品に見られる純粋な感情の発露や、それに至るまでのドラマ的駆け引きといった部分が苦手なのだが、そこは文豪三島といったところで、苦手なジャンルを苦手なまま、最後まで読了させてしまうその力量には感服である。いや、今更こんな古典を褒めたところで、意味なんてないが。それでも、その筆力に圧倒され身動きが取れなくなってしまったというのが真実なのだから仕方がない。文通の形式でドラマを展開していく手法が、この本が初出かどうかは定かではないが、これが後の「電車男」や「まおゆう」などのスレッド形式の小説の枝元にあると考え、感傷の念を抱くのは私だけだろうか。とにかく、私はこの小説を読み、また収蔵できた事実に満足している。
最後に、この本、前書きに手紙の参考になる旨が記されているのだが、現代となってはこの畏まった文章、ある程度のまとまった形の文章というものは相手に威圧感を与えるだけなので、参考にはしない方がいいと思われる。
前略
三島由紀夫レター教室、拝読いたしました。実に興味深く、楽しかったです。
取り急ぎ報告をば。
草草
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読書日記「たのしい川べ」作・ケネスグレアム 訳・石井桃子
別にこの本を昨日今日読んだってわけではないですが、それでも久々に読書日記を書きたくなったので、今、当時の記憶を探り探り、キーボードを叩いています。
「たのしい川べ」は好きですね。モグラと、川ネズミと、穴グマみたいな生活をしたい。それは、田舎暮らしをしたいってわけではなく、都会暮らしじゃないと嫌だと思っているわけでもなく。ただ、友達の近くで暮らしたい。
最近は、友達の近況などは、SNSを見ればすぐにわかる。なんだったらLINEで頻繁にやり取りもしているけど、そういうことじゃないんだよな。友達と直に遭って話すことでしか摂取できない栄養もあるのです。ただ、それだけのために電車代往復千円払うのは癪だってだけで。
昔、何かのイベントの帰り道、友達と定期的にYouTube録ろうよ、という話をしたことがあります。まあ、試しの一回で話題にも出さないようになりましたが。そうなった故は、大体上記の通りです。食事に誘う度に吉祥寺駅待ち合わせにするのも、またその通り。申し訳ないことだとは思ってます。立ち消えになったコミックマーケットの代金の半分は支払うつもりでいるので、安心してください。
こうは考えているものの、お互いの棲家に、一駅分くらいの距離はあって欲しい。あんまり近いところに暮らしていると、コンビニにマネーカードを買いに行くときにばったりと遭ってしまうのが恥ずかしい。スーパーで顔を合わせて、ああ、こいつ、今日はアレを作るのか、と思われるのも嫌だ。生活圏は、分けようよ。予定もなく、急に家に来られるのもご免ですね。こちらにも仕事と生活がありますから。そういうところのマナーというか、尊重の精神はあって然るべきでしょう。
ヒキガエルのような人間は、物語で読むと随分関わり合いになりたくない人種のように思えますけど、実際に友達付き合いをする分には、どうでしょうね。周囲には嫌われているけど、自分は好きだ、という人かもしれません。あまり勘違いしてほしくないのは、別に同情で付き合っているのではなく、純粋にその人が好きだから友達をやっているんですよ。僕は、同情で人付き合いは、できない。
劇中のヒキガエルのような、周囲に大迷惑をかけたり、とんでもない悲劇にあったのを知ったとき、僕はモグラ達のように、友達に優しくすることができるだろうか。そんなのは実際にことが起こらないと判らないですけど。今はそう在れるように願うばかりです。
久々にこういうものを書きましたが、文章を書くのがずいぶん下手になったと思います。お目汚し失礼しました。
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読書日記「シュレティンガーの猫を追って」フォレスト・フィリップ 澤田直・小黒昌文訳

ときどき、全ての他人が自分のペルソナの様に感じられる。全ての、と書いたが、これは大げさにいっているのではなく、……、言葉が浮かばない。何て言うんだろうな、この、肉と霊が合致している、というか、そのままデッサンしているというか、そんな言葉。とにかく、けして大げさではなく、全ての他人は自分の一側面だと考えるときがある。もちろん彼は私ではないし、私は彼ではない。何一つ自分と合致する部分がなくとも、もしかしたら、彼は自分なのだと察せられる。だからだろうか、他人のことを簡単に許せてしまう。というより、大抵のことは忘れてしまう。そして、大抵以上のことには、遭遇しない。嫌いにも好きにもならないし、憎みも……。
「シュレティンガーの猫を追って」を読もうと考えたのは、例によって刑事ドラマ「相棒」の「物理学者と猫」回を観たからです。あらすじとしては、ある物理学者が、恩師の死因が事故ではなく、殺人だと考え、復讐を企てる。その復讐の秘密は偶然近くに来ていた刑事2人に明らかにされてしまうが、そのとき飼い猫の眼が光り、復讐が成功しない世界へと場面が変わる。物理学者が殺人を犯すたび、それを止める様に世界が変わり、最後には恩師の死の真実が明らかになる。というもので、シュレティンガーの猫をアイディアに作られています。私はこの放送回をシリーズ屈指の名作回だと考えました。(殺人事件が主となる刑事ドラマで、人死にが出ない回は神回だと考えている)そして、こういう多重世界モノの物語をもっと味わいたいと思い、ひとまずはこの本を見つけ、読もうと考えたのです。
他人とはもう1人の自分。他人含めての自分。世界、宇宙全てを含めて、自分がある、のか。
まあこう言うことを考えているときは大抵暇なときなので、今日も平和でよろしい。
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読書日記「手巾」芥川龍之介
「はい」という言葉は、どうも便利すぎるようです。
図書館の受付にて、私は、様々な確認事項に対し、「はい」と答えてしまう癖があるようで、この前それに気づいた時、自分はなんて薄い人間なんだろうと嫌悪しました。もっと、返答にバリエーションがあると、濃い人間になれそうです。「承りました」とか言ってみたいですが、どんな場面で言えばいいのかわかりません。
大体に於いて、この読書日記というのは、日記と付くのがいけないですね。私なんかは三日坊主な性質ですから、必然的に筆不精になってしまう。まあでも、読書日記は読書日記と言うほかないですから、飽き性の方をなんとかしないといけない。ゆっくり治していきたいです。
この「手巾」を何故読もうと思ったのかその訳は、刑事ドラマ「相棒」にて言及があったからです。父が倒れた知らせを聞いた娘の態度があまりにも薄情に思えた部下に対し、杉下がこの本を例に諭してみせた、という件でした。ドラマでは、態度には出なくともその手元には悲哀が浮かんでいるものだ、というような使われ方をされていましたが、小説では、主人公が読んでいる演技指導本の中に、こういうような演技がいかにも浅いものだと書かれていて、しこりが残った、という最後になっていました。「手巾」を読んだ人間には、このドラマに対し、しこりが残るような作りになっているのかと思うと、ちょっと面白かったです。
夏になると俳句が作りたくなるのは、俳、という文字がきらめく川面に見えるからなのかもしれないと、脈絡もなく、昼。
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読書日記「サロメ」及び「サロメ」原田マハ/ワイルド���訳・平野啓一郎)

騙されました。しかし、悪い気はしてません。
クリスト伯を読んだ後、キリストに関係しているものを読もうと思い、昔コミマで友人がサロメについて語っていたことを思い出し、図書館で探した結果、同じタイトルの違う本を探し当ててしまいました。著者が明らかに日本人名なのも、訳者の名前が前面に出ているものと思い込んでいたので、深く考えることもなく受付に持っていったわけです。
「サロメ」と「サロメ」の読む順番は、「サロメ」を先に読むんで正解だったと思います。というのも、先に「サロメ」を読んでしまうと、「サロメ」に対して「サロメ」のイメージが付きすぎてしまうだろうからです。「サロメ」が「サロメ」の構成をオマージュしているため、展開の予想ができてしまうというのもあります。
「サロメ」には、霧の街を歩くような面白さがあったし、「サロメ」には古典が持つ歴史の熟成された味わいが感じられて、良かった。
いつか私もサロメを描いてみたい。サロメのような作品を作るという意味ではなく、そのまんまサロメを書く。という意味で。自分があの物語を再構成したらどうなるんだろうという考え、欲は、作家なら誰でも持っているとは思いますが、何故私は、あんなに感動したクリスト伯ではなく、サロメを書きたいと思っているのか。全ては理解できていませんが、恐らく、私が昔に絵を描いていたとき、晩杯あきらではなく、ウエダハジメの画風を目指そうと考えたことと何か関わりがあるような気がします。いや、知らないよそんなの、という話ですが。
絵といえば、オーブリービアズリーが着彩画ではなく、無彩画を描いていたのかという心理については、私も持っている(と、恐らくそうだと思っている)もので、つまり自身が描きたいものは、色彩の内にある華やかさというよりも、色を抜くことで際立ってくる、物質のフォルム、画面構成の枯淡にあると感じていたのではないでしょうか。中国の水墨画とか、陶磁器の絵付けとか、好きだなあ。好きです。
もっと単純に、表現をしたい。しかし単純なものに価値をつけるには、自身の技量や、信頼を積み重ねる必要があって。それはどんな表現でも同じで。結局、上手いやり方なんてものはなくて。怠惰な自分には辛い現実。ただ、現実が辛いからこそ何かを成し遂げる意義や達成感があるのだと思うと、まあ悪くもないのかなと考える次第。
日毎にこの日記を書けるようになりたいですね。
そうすることで理想の自分に近づけるような気がします。

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読書日記「ヰタ・セクスアリス」森鴎外
中学生の時分、給食の時間。隣の席に座っていた友達、梶某に、「もしかしたら自分はこの世界の神なのかもしれない」と話したことがあった。これは何も若さからくる万能感で言っているのではなくて、この世界は自己の主観によって初めて現れるのだから、つまり自分がこの世界を作っているのではないか、ということを話していた。まあ、あたりまえに梶某は「何言ってんの」とだけ言い、そこで話は終わってしまった。
その時の献立に、ほうれん草の梅納豆和えがあった。私はこの料理の味を気に入ってパクパクと食べていたのだが、不意に前に座っている女の子佐某から「それ、おいしい?」と聞かれた。これは今でもそうなのだが、自分は、料理の味に対して気に入ったか、気に入ってないか、という判断はつくのだが、美味しいか不味いかの判定の仕方が全くわからない。だから曖昧に「まあ好きな人は好きな味かな」と答えて、「いや、おいしいの、おいしくないの?」「だから、好きな人は好きな味だって」と会話が延々とループしていた。最終的に彼女の方が折れて「面白いね」とだけ。こんなのが、当時から内気だった自分にとっては女の子との楽しい会話だった。
さて、森鴎外の「ヰタ・セクスアリス」とは、こういうような話でした。青春の記録がありありと描かれていて、もしや、これは自分の話ではないかと思われます(まあ、大体の小説はそういう占い的な側面を持っていますが)。
ここまで書いて2日経ち、もはや何を現したかったのか、分からなくなってしまいましたので、ここで筆を置きます。
忘れていた日常の送り方をだんだん思い出してきて、今、人間らしい生活を取り戻しています。しばらくは短い短編を読むことで智慧を得たい。鴎外か、檀か。この2人の文体は読んでいて耳に合っていたので。
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読書日記「モンテ・クリスト伯(五)〜(七)/他」

ようやく長い旅が終わった。1日1冊は無理やろ、と最初思っていたけど、やってみればそんなに苦じゃなくて。普段は読書するときはフラットな状態になってから読もうとしているのですが、意外と精神ガタガタでも読めることは読めるというか、読んでいるうちにだんだん平坦な精神になっていくというのか、これは発見でした。
「モンテ・クリスト伯」の途中で、一旦違う作者さんを挟みたいと思って、奈須きのこの「空の境界 未来福音」を読みました。やっぱりきのこ好きです。とはいっても、当時読んでいたほどには文体が好きじゃなくなっていて、でも好きだという気持ち自体はあるというような不思議な感覚でした。なんだろう、文自体に特殊な装飾が入っていたり、フォントを変えて雰囲気を作る行為が余計な小細工に見えてしまっているのかもしれません。「小説家なら文章一本で勝負しろよ!」ということで、でも、それは結局小説の可能性を狭めているだけっていうのはわかっていて、でもそんなに好きになれなくて、複雑です。まあ、勝手な話ですが。
「モンテ・クリスト伯」全7巻を読み終え、私は感動の海を彷徨っていました。今までの読書体験では、せいぜいが川レベルの感動だったのが、この物語では海。あたり一面の海上に筏に独り座っていて、これからどうしよう、どうなるんだろうと呆然と考えているような気分。暑い日差しにさらされながら、櫂も飲み水も失くし、ただ飢えて命絶えるのを待っているだけ、みたいな感覚。おそらくこれが大きな感動というやつで、これを書いている今でもうまく処理できていない。正直に言えば、気になるところは何点かあって、それはダングラールやヴィンフォールのその後だったり、ユージェニーには結局才能があったのかという点だったり、メルセデスとその息子が救われないところ(と、私が勝手に考えている)だったり。しかし、そういった気になる点も感動のカオスの中に含まれているような気もする。
私は普段、大なり小なり感動をしたとき、それを人に伝えるのでは失く、そっと心の中に閉じ込めて、何かのきっかけで昇華されるのを待つ癖がある。きっとこの心の栄養を誰にも渡したくないからそうしているのだと思うが、それは果たして善いことなのか悪いことなのかわからない。読書日記を書いていて気づいたことだが、こうした癖のために、入り込んだ感想を書けないんじゃないかな、いや、作品を解体する行為の面倒さからくるただの怠慢か。しかし、作品を紐解いて、発表しようとするなら、もっと深く調べてからやりたいしな。デュマの他の作品や、書かれた年代、地域、作者の生涯、この作品がどう読まれてきたか。まぁ1日じゃ足りない。となると、私がこの日記で書けることは、この作品を通じて私がどう思ったか、どう変わったか、なんだと思う。そういった点では冒頭に書いたとおり、読書という行為に少し前向きになれた。というのが、この旅において得た私の財産だろうな。
ただ、こういった長い物語を読んでいるときは、熱中しすぎて家事の仕方を忘れてしまうのが疵だな。今は日常生活の戻れるようリハビリ中です。
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読書日記「モンテ・クリスト伯(二)〜(四)/他」

描きたい欲よりも、読みたい欲が勝っているとき、こんな日記なんて書くかよぉ、と考えてしまう。というわけで、この数日書けませんでした。これはもうずっとそうで、読書欲というのは、私の欲の中で睡眠欲以外の全ての欲に勝ってしまうのです。この日記を書いている今でさえ、さすがに3日も間を空けるのは嫌だなぁ、という後ろ向きな理由から、仕方なく書いているのです。その心情は、察してもらわなければなりません。
この3日の間に読んでいた本は、表題の通りと、「ハリーポッターと呪いの子」。「モンテ・クリスト伯」に関しては、今までの流れで読んでいるのはすでにご承知のことでしょうが、呪いの子を何故読もうかといったわけには、馴染みの図書館は一般書、児童書、少年書の3コーナーに別れていて、普段はその恥ずかしさから行かない少年書のコーナーに、気まぐれから足を運び、「いや、ライトノベルなんかは読めないね、文章が難しすぎるよ」などと目線を滑らせているうちに、「ナルニア国物語」を見つけ、「こういうのなら読んでもいいかもね」と吹いたとき、その隣にハリーポッターを見つけたのでした。まさにこのハリーポッターは私の青春そのもので、学生の時分は毎週図書館に通い、魔法使いとその周辺の世界に入り込んで、時にハリー、時にセブルス、時にダンブルドアとともに魔法の文句を唱えていたものでしたから、その最新刊が出ていると知るや否や、私がその本を手に取ってしまったわけは、もういうまでもなくわかってもらえるでしょうね。呪いの子は戯曲小説なので、舞台らしく展開重視の作品ではありますが、その行間はハリーポッターに親しい読者には正確にわかり、そのスキルを身につけていると確信できることがファンにとっては1番の喜びなんじゃないかなと思っています。
「モンテ・クリスト伯」については語りたくない。というのも、この作品についての感情は、読み終わるまでとっておきたいからです。とても大きな感動の前に、その種火を、少しでも外に漏らすまいとする心の動きについったは、どうか了承してください。きっと、読了後には、言えるようになっているはず。
最近どうも眠れない日が続いていますが、そんなときは本を読んでいれば、夜の怖さ、寂しさを紛らわすことができるので、やはり読書というものは、この世の中でもっとも偉大な行為であるように思えます。いやあ、毎日、楽しいね。楽しいね。楽しいね。
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読書日記「モンテ・クリスト伯(一)」作:アレクサンドル・デュマ 訳:山内義雄

恐らく「太宰と安吾」に巌窟王に対する言及があったので、私は本を返却したその足で児童文学コーナーに向かい、しかしその棚にないことを確かめると、図書検索機を使い、外国書籍のコーナーに在荷を発見するにあたりました。近くにいた女の子が、子供の場所に何故大人が1人でいるのか、不思議そうにしていたのがなんとなく記憶にあります。
今、こうして敬体で文章を書いていると、どうしても岩井志麻子の「嘘と人形」が頭から離れません。気をぬくと、身体の後ろに、死神のような黒白が浮かんでいるのを察知して、気が散って仕方がない。読んだ直後に、よくわからない話だと捨て置いた気持ちが、だんだんと肥って座高よりも高い場所から私を見下ろしている。ひと月もすれば、私も「ガオちゃん」を書いているかもしれません。過去のテクストが未来に恐怖として育っていくというのは、あの「嘘と人形」は、思ったよりもとんでもない本だったのではないかと考える夜です。
「モンテ・クリスト伯」は、昔学生だった頃に中頃まで読んだ記憶があり、また、その結末については、風の噂に聞いているため、今回は純粋に読書できたとは言い難いです。しかし、日常の影が厚みを増していくのを眺めながら、自分はどうしてこうも辛い思いをしながら本を読まなければいけないのかと闇に身を浸し、何度も本を放り投げそうになりつつ、何故かその沼から抜け出せない自分がいることに気づいたとき初めて、自分が「モンテ・クリスト伯」に夢中であることを理解しました。その感情を知った後はもうこの物語に身を委ねるだけでした。小石一つほどの悪意が波紋を呼び、大きな川の流れになっていくのに憂いを覚え、歴史の流れから切り離された純粋なダンテスが、智慧を授かり変化していくさまには微かな希望を感じる。まさに物語。素晴らしい体験でした。
今こうしてこの書籍に対する感想を書いて、何故檀一雄が、ああも故人との逸話を書いていたのか、少しわかったような気がします。本を知ってもらうなら、当人に読んでもらわなければならず、その案内の一助として、その文脈の人となりをエピソードという形で示す。そうすることが、彼なりの彼らに対する敬意というか、供養というか。そんなものだったんじゃないでしょうか。
とにかく、明日1で「モンテ・クリスト伯(二)」を借りてこよう。続きが早く読みたい。
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読書日記「太宰と安吾」檀一雄 下

これを読み終わったら、文フリの振り込みに行こうと考えていると、気が気じゃなくなって、目が紙の上を滑るばかりでした。予定なんて立てるもんじゃないね。君。まぁ、金は払い終わったから、あとは書いて出るだけです。
今、飲みながらこれを書いているんですが。フフ、シラフじゃあ、日記なんて書けないね。ヨッパライでいなくては、1日を振り返ることなんてとてもとても……。ワインのアテとして、チーズをつまんでいますが、1ピースを取るときの自分の指の形が、麻雀牌を自摸るときの形とまるっきり同じで、大爆笑しました。おかしいね。明日のために残すチーズを落としたときの冷静さったら、ないね。
テレビでは、ダウンタウンがかぐや消しで笑いを取っていました。大体、なんでかぐや消しと言うのは、あんなに笑えるんでしょうね。思うに、言ってはいけないことを言った背徳感、もしくは、消された言葉を勝手に想像して、一番面白いワードを自分自身で創造しているんじゃないかと。その芸人への信頼、自分の歴史の総体制……。あやふやな雲のようなその面白に、笑っている。そりゃ、どんな言葉も勝てない訳だ。結局、一番面白い何かというのは、自分自身の、読者自身の内にしかないというのは、作る側からしてみれば、なんだかやるせない話だな。と言った具合で。でも、それでも、読者の2番目、いや、謙虚に3番目程には、納まっていたいと思うこの頃です。
坂口安吾の部にて、檀一雄は「安吾の家は、その先先代の時代まで、阿賀野川の水は涸れても坂口家の財は涸れぬといわれたほどの……」など、同じ話を何度も擦る。様々なメディアで、坂口の紹介をする時、恐らく壇は、自分の文を読むよりも、安吾の作品を通した方が早く、正確にその人となりがわかるのだと言いたいのでしょう。全く同意です。
しかし僕は今まで坂口安吾の作品を読んだことがないので、安吾のことは、巨漢で、大酒飲みで、鬱気味で、誠実な男だ、というくらいしか掴めませんでした。ちゃんちゃん。
この「太宰と安吾」は、太宰と安吾を知らない人にとっては、それほど意味を持たないだろうし、また、既に知っている人にとっても、私生活に陰あり、くらいの意味しか持たないんじゃないでしょうか。結局、集められた文章の数々は、2人の作家についてというよりは、あの時代に、こういう2人がいたのだ、という思い出のヨスガを、壇自身の慰めとして記しているのが、真相だと。
壇は、この文を書いたとき、果たしてヨッパライだっただろうか、それとも、フツカヨイであったか。シラフじゃ、書けない。泣いて仕方がなかっただろうな。吐きそうだ。
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読書「太宰と安吾」檀一雄 上

馴染みの図書館で、西加奈子の「サラバ!」と、岩井志麻子の「嘘と人形」を一ヶ月ほど延滞しました。返却後、即日で他の本を借りたらどうなるかと思い、借りたのが「太宰と安吾」です。職員さんは特に反応を見せることなく貸し出してくれて、少しばかりの肩透かしと、無事に本を借りることのできた安堵を覚えつつ帰宅しました。
この本は檀一雄の、太宰治と坂口安吾との関わりを書いたエッセイ……かどうかはわかりませんが、そういう本です。長編小説を読んだ直後だったので精神が疲弊していて、ちょっとした箸休めとして、小説ではない本を読もうと、この本を選びました。まだ太宰の部までしか読めていませんが、安吾の部については後日書きます。
これを読むちょっと前、youtubeで西さんのインタビューか何かを見ていて、彼女は「太宰は優しい人だ」と言っていました。その時は僕も「そうなのか、太宰は優しい人なんだな。有名な作家さんが言うのならば、きっとそうなんだろう」と思っていましたが、檀一雄の描く太宰治像を見るに、そうでもないのかなと思います。本当に優しかったのなら、壇を熱海に一人残して、のらくらとなんかしやしないだろう。檀一雄の太宰像は、「気弱で屑でピエロだが、憎めない誠実な作家」なんじゃないかな。あくまでも僕がこの本を通して感じた印象に過ぎませんが。
じゃあ檀一雄はどう言う人物なのか、それはわかりません。なぜなら、この本を読んでいる時、僕は檀一雄であり、自己客観視を苦手としている僕には、僕自身、つまり檀の人となりを観察することは叶わないからです。
この本に記されている太宰の言葉の中で、僕が一番気に入ったのを紹介します。
「洗えよ君。処女にも黴菌はついてるからね」
偉大な、偉大だとされている人間の、こういう意地悪な部分に惹かれます。最高だな、太宰。こんなことを言っている人間が、自らの芸術の完遂するために、あの結末を用意したのだと考えると、おかしくて、夜中一人で笑い転げてしまいました。
2021/06/30。注目している作家さんを真似てこの読書日記を始めたはいいものの、いかにこの日記を書こうかということと、左の顎関節の違和感に気が向いて、なかなか読書に集中できません。しかし気が散ったおかげで、外から聴こえる夜の雨音に浸ることができて、そこだけはよかった。安吾の部を読んだら、下を投稿します。
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