Tumgik
#スエデンボルグ
gallery-f · 1 year
Text
「天界と地獄」読後感想その2
2023/05/14
p. 295 悪い者に善を為すことは善い者に悪を為すことであって、それは隣人を愛さないことである。
なるほどー。理屈ではある。屁理屈でもある。でもわからんでもない。「隣人を愛す」という概念は後でも出てくる。それも、なるほどーと思ったので後述すると思う。
p. 300 天界の凡ての者には自分の楽しさと祝福とを他に伝えることが楽しい
なんとなく、松岡修造さんを思い浮かべた。
p.302 世から他生に入る霊たちは天界に入ろうと何ものにもまさってねがい、ほとんど凡ての者は天界はただ入れられて、迎えられることにあると考えて、入ろうと求める。そうした理由からその願いに従って、彼らは最低の天界のある社会へつれてこられるが、しかし自己と世への愛にいる者らはその天界の最初の入り口へ近づくのみで、苦しみはじめ、自分自身の中に、天界よりはむしろ地獄を感じるほどにも内部を責め苛まれはじめるため、そこからまっ逆様に我と我が身を下に投げつけ、地獄の彼ら自身に似た者の間へ入るまでは休みもしない。
ここ重要。テストに出るよ!家族や地域や社会に迷惑をかけていることを棚に上げて、自分はいいことをしているのだから天国に迎えられて当然と言ってはばからないひとは、実は天界の最下層へ近づくだけでも嫌な気持ちがして、そこは自分と合わないという気持ちが胸の底から湧き上がって、自分と似たような人たちがあつまっているところを天界よりも下、現世よりも下、にある地獄のどこかへ身を落ち着けるまで自ら下降していくってこと。
この、地獄へ行く描写は後でも出てくる。
p. 314 宇宙には無数の地球があって、その凡てに人類が満ちている
すばらしい!スエデンボルグはフラットアーサーじゃないってことがこの一言でわかる。
p. 316 この太陽系の星のみでなく、その彼方にも人類の住んでいる地球があって、その数は無限である
たしか論破が好きな誰かさんが、地球の人口はどんどん増えているのだから、生まれ変わりがあるのなら魂の数が計算に合わない。だから生まれ変わりというのはぼくはないと思っています。って言っていたような記憶があるんだけど、地球だけじゃないんだね。他の惑星にも人類が満ちていて、現在進行形で同じ数だけいるわけじゃないから、他惑星に生きていた過去の魂が地球に生まれ変わることもありえるんだね。だから、魂の数が合わないという計算にはならないんだね。確か月夜見さんも宇宙人の魂を持つ人がいるって動画で言っていた。
ぼくは一人の人間に一つの魂があるとは考えない人だから、死後、如へ戻った個人の魂はそこで魂の集合体に同化して、生まれ変わる時また集合体から分離して肉体に入ると考えているから、全く同じ魂が生まれ変わっているわけじゃないって考える。だから、魂の数という概念がそもそも間違っているとぼくは思っているんだよね。
p. 319 聖言を理解しないで、そこから天界の小さな範囲を考えている者は、天界は一つの場所にあって、そこに凡てのものが共に集っているとしか考えないが、事実は天界は無数の社会からなっているのである
聖書とは書かれない。一貫して聖言と書かれている。聖言が書かれた書物が聖書なのかどうかってことはどこにも説明がない(見落としたのかも)のでわからない。
p.320 人間における天界の状態とは人間の中に善と真理とが連結することであり、地獄の状態とは人間の中に悪と誤謬とが連結することである。
現世の人間界以外の世界では、天界と地獄の状態は相入れないが、人間の中には天界の状態と地獄の状態が混沌としてあるから生きる上で苦しみが生まれるんだろうね。
p.324 展開の社会に入る門と戸とは、天界のために準備している者によらなくては見えず、またそれ以外のものによっては見つけられもしない
死んだ人は凡て仏であって、人が死んだら誰も彼もが簡単に「ご冥福を祈る」と書き込む現代の日本仏教とは異なる思想。
p. 325 天界に向かって準備しているものたちのもとでは、その合理的な心の上の領域が開かれて、悪と誤ったものの流入に対しては下の領域が閉じられているが、地獄に向かって準備しつつある者らのもとでは、その下の部分が開かれて、善と真理との流入に対してはその上の部分は閉じられている。従って後者は自分自身の下方のみしか、すなわち、地獄のみしか眺めることはできないが、前者は自分自身の上方のみしか、すなわち、天界のみしか眺めることができない。自分自身の上を眺めることは、主は天界のあらゆる物の目指している共通の中心であられるため、主を眺めることであるが、自分自身の下を眺めることは主に背を向けてその反対の中心を眺めることであって、地獄のあらゆる物はそこを眺め、またそこに向いているのである。
これも面白い指摘。別のトピックを立てますけど、最近読んだ別の著者の本にも似たようなことが書かれてあって、その本は全体的にぼくは面白くなかったんだけど、その記述だけは面白いと思ったんだ。それはまた、別日に書くね。
p. 328 獣の霊的なものは人間の霊的なもののようなものではない、なぜなら人間は最も内なるものを持ってはいるが、獣にはそれがなく、
昔学生だった頃、あちこちで開かれている仏教講和を聴きに行っていたことがあったけど、そのうちのひとつで講師のお坊さんが「動物は死んでも仏にはならない」と言い切った瞬間からぼくはそのお坊さんをずーっと睨んでいたことがあった(笑)。途中で睨まれていることに気がついたお坊さんがちらちらとぼくを見ていたっけ。それはともかく、人間だけが霊的に高く、動物にはその内面に霊的なものはない(もしくは人間ほどではない)というのは実に西洋的な考えと思う。傲慢だよね、ってぼくは感じるんだけどな。
というのも、動物から人間に生まれ変わる魂もあれば、人間から動物へと生まれ変わる魂もあるとぼくは思うんだよね。もちろん、後者だと人間だった魂の機能(というものがあるとすればだけど)は制限されて、ぱっと見霊的な部分が低く見えるかもしれないけどその根っことしての魂は人間も動物も同じものを持っていると思う。そうでなければ、この地球に雑多に生きていないと思うんだな。もし、この地球上で人間だけが特別な存在で、それ以外は無価値というのが真実であるとすれば、人間以外の動物はそもそもがこの地球上に生まれてこないと思うんだけどな。
p. 333 聖言では死は復活を意味している、なぜなら人間は死んでも、依然その生命は連続しているからである、
p. 333 肺臓の呼吸と心臓の鼓動であるこの二つの運動は、身体と霊とを結ぶきずなそのもの
最近の咳が出る例の病は、身体と霊を切り離そうという悪の試みだったのかもね。
p.370 人間は死後は、世にいたときのように、もはや教えられて改良されることはできない
この世は学び場であるということの真理だよね。つまり死後に学びはない。成長もなければ悟りもない。だから、自分と同じような魂のところに落ち着いていくってことなんだね。だ、か、ら、天界は一つではなく無数の社会が存在するってことにもつながっていく。
p.378 悪にいて、教会の真理に反抗した誤謬を確認した者らは、特に聖言を斥けた者らは、天界の光をさけて、入り口が非常に暗く見える隠れ家や、岩の裂け目にとびこんで、そこに身を隠すが、それは彼らが誤謬を愛して真理を憎んだからである、(中略)狡猾で陰険な謀りごとや叛逆的な陰謀を楽しんだ者らも同じようなことをして、こうした隠れ家におり、互に相手を見ることもできないほどに暗い部屋に入り、片隅でともにひそひそと話し合っている。
悪口が好きな人。陰口が楽しい人。こういうことやで!
p.414 世を捨て、霊に生きる者は、物悲しい生命を身につけて、その生命は、天界の喜びを受け入れないことを知った
いかにも私は殉教者ですみたいなポーズをしているひとは、逆に天界に入れないってことやね。天界は喜びの世界でもあるから、物悲しいポーズとは矛盾しているってことやね。
☆さてここからは地獄の章です。
p. 433 悪を求める激烈な愛から入る者は、恰も頭を下に、足を上にして、まっさかさまに投げ込まれるかのように見える。
天界の主は悪の人々を地獄に落としたりはしない。自分で落ちていくのである。
p. 434 主からは刑罰は一つとして発しておらず、それは悪そのものから発している、
ここの刑罰は翻訳合っているのかなって思う。刑罰よりいじめと読み替えたほうがわかりやすいかもしれない。
p. 442 人間から初まる隣人愛は主から初まる隣人愛とは対立しており、前の愛は人間の固有性(プロピリウム)から発しているため、悪から発しているに反し、後の愛は善そのものであられる主から発しているため、善から発していることが明らかである。
まぁ、後半はよくわからんが、前半に関しては教会もそのうちではないかと思わないでもない。信じなければ地獄に落ちますよって個別訪問してくるおばさんたちがよく言うよね?
p. 444 自己愛にいる者らにぞくしている悪は全般的には他の者に対する軽べつであり、羨望であり、自分を支持しない者凡てに対する憎悪であり、そこから発する敵意であり、色々な種類の憎悪、復しう、狡猾詐欺、無慈悲、残酷であり、
スエデンボルグさんが生きていた時代、スエデンボルグさんの身の回りでもいろんなことがあったんだね(しみじみ)。
p. 454 例が自分からすすんで、またはその者自身の自由から、自分の地獄の方へ足を向けて、そこへ入ると、最初は親しげに迎えられるため、友達の間に来たと信じる。しかしこれはただ二、三時間しかつづかず、その間彼はそのずるさとか才能などをしらべあげられる。しらべられると、彼らは彼を悩ませはじめるが、それも色々な方々でなされ、絶えず苛酷さと強烈さとが増し加えられて行くが、そうしたことは地獄のさらに奥深い所へ入れられることにより行われている、なぜなら地獄がさらに奥深くなるにつれて、霊も益々邪悪になるからである。
地獄の霊に魅入られて受け入れてしまうと���地獄の最も深い所へ自ら落ちて行くよ。現世でも社会が狂うとどんどん狂った方向へ世界全体が落ちて行くよってことにも通じているよね。と、思う。
おしまい
2 notes · View notes
gallery-f · 1 year
Photo
Tumblr media
「天界と地獄」読了
2023/05/10
イマヌエル・スエデンボルグ「天界と地獄(天界とその驚異及び地獄)」静思社
去年の秋、古本市で買ったうちの1冊。
なかなか面白かった。今まで全く聞いたこともなければ考えたこともないことがたくさん書かれていた。500ページ近くあり、読むのに半年以上かかった(他にも同時に読むからね)。なんせ読み始めたのが去年の11月である。最初の方どんな内容だったっけ?て感じだが、例によってマーカーで印を付けてあるのでページをたぐってマーカー部分を読み返せば楽勝である。ただ、あれこれなんでマークしてあるんだっけ?と思う箇所がないでもない。
知らなかったこと
p.44 天界は一つの全体として一人の人間を表象(レプリゼント)している
天界は人間の形をしているというのである。びっくりだよ。表現を変えて同じ趣旨の文章が繰り返される。
p.46 天界が全体として人間の形をとっている
p.50 一つの天使社会の全体は、主が御自身を明らかにされて顕在されるときは、人間の形をもった一つの身体として現れる
たとえば人間界に神様的なものが具体的に現れたとして、それを目にしたひとはひとりの人間の形としてみるだろうが、実はひとりの人間ではなくて頭は主、胸の辺りは天使界、腰の辺りは霊界、足は地獄界という天界全体が人間の形をしているってこと。ああ、表現難しい。そしてその説明をマークしてない(T ^ T)
西欧的優生思想が元になっていると感じたところ
p.79 温和で、有益な動物は善い情愛に、猛くて、無益な動物は悪い情愛に相応している。(中略)もし優しいならば、羊または小羊と呼ばれ、猛々しいならば、熊、または狼と呼ばれ、狡猾であるなら、狐、または蛇というふうに呼ばれている。
p.80 穀粒からできたパンは、全般的に、凡ゆる善に対する情愛に相応しているが、それはそのパンは他の凡ゆるものにまさって生命を維持するからである。また凡ゆる食物を代表するからである。
スエデンボルグは、ぼくはこの文章を読むまでは霊界を見てきた人という知識だったが、この文章を読んでからは「あれ?」と思うようになった。霊界に行って天使と話してきた割に言っていることが西洋文明の範疇な気がする。
言霊の概念がない文化の論理と思った箇所
p.100 考え、または言葉の中には、それを他の者が服従から行わないかぎり、それ自身では何の力もないのである。
まさか自分の死後250年も経って言霊の国で自分の著書が翻訳されるとは思いもしなかっただろう。
世俗的理解と感じたところ
p.102 先づ、世では太陽が地球から最大の高さに在るところが南と呼ばれ、太陽が地球の下のその反対の位置に在る所が北と呼ばれ、太陽が分点(イークイノックス)から昇る所が東と呼ばれ、次にその沈む所が西と呼ばれている。
天界にも東西南北があるそうな。なのに、天界の天使たちは常に東を向いているそうだ。複数の天使たちがてんでばらばらに立っていても、常に東に目を向けている。つまり、世俗的に東が固定されているのではなく、天使が向いた方向が東というところ。東は固定されていない。ここはよくわからない。
新しい理解が得られた所
p.166 天使たちは人間の言葉を一語も発することはできず
p.167 人間と話す天使または霊の言葉は人間と話す人間の言葉のように明瞭に聞こえるが、しかしそれはその人間の近くにいる者たちに聞こえるのではなく、ただその人間自身にのみ聞こえるので在る。その理由は、天使または霊の言葉は先づ人間の思考の中に流れ入り、内なる道からその聴覚器官へ流れ入り、かくてそれに内部から働きかける
ファティマで出現した聖母の言葉が、子供たちの耳にだけ聞こえ、その場にいたという2万人の群衆には聞こえなかったという理由がここにあるような気がする。ファティマに現れたのが天界の何かと仮定して、だが。
現代の問題にも通じる何かを感じた所
p.168 狂信的な霊は、自分自身を聖霊で在ると信じ、自分の言うことは神のお告げであると信じていると言うことにより他の霊から区別されている。
現代はそのプログラムが狂っているのではと感じたところ
p.194 人間は老令に近づくに応じて、小さな子供のようになり、かくて無垢が知恵に宿り、その状態でその人間は天界へ入って、天使になるように創造されている。
陰謀論を賑わしているあの人もあの人もぼくからみたらおじいさんだけど、死んだら天界へ入って天使になるのか?そうは見えないけどって思うんだけどな。
古代西洋の範疇から一歩も出ていないと感じたところ
p. 217 新しいエルサレムは黙示録の以下の語に記されている。「わたしは新しい天と新しい地を見た。なぜなら最初の天と最初の地は過ぎ去ったからである。そしてわたしは聖い都エルサレムが神から天界を経て降ってくるのを見た。都は正方形で、長さは幅と等しかった。天使はその都をあし(リード)で測ったところ、一万二千ファロングであった。長さ、幅、高さは等しかった。かれは、その城壁を
長い引用だが、ここで注目したいのは「城壁」というワードである。日本の縄文時代とそれ以外の古代文明の違いはなにかというと縄文時代には城壁がなかったって誰かの動画で聞いたことがある。(誰だっけな)城壁は、外敵からの侵略という概念もしくは歴史的事実がなければ生じ得ないシールドである。聖なる都に外壁があるのは聖ではない外敵があるという前提がある。天界に対する地獄と同じ構造。
(閑話休題)イザベラ・バードが江戸を巨大なる村と表現したように、ひょっとして縄文時代も巨大な村の連なりだったのではないかとぼくは思うんだな。
スエデンボルグの「視た」天界という現象は、当時西洋社会しか知らなかったひとの知識の範囲内でつくりあげた想像の世界じゃないかと思う。それにしては緻密すぎて膨大すぎるが。
布教の歴史は矛盾しているのではないかと思ったところ
p.219 聖言が存在していない教会外の者とも天界は聖言により連結しておりー��ぜなら主の教会は普遍的なものであるからー
じゃあ、なぜ布教に来たんだよ?
世の教会は天界の真実を知らないから。違う知識を真実と思い込んでいるから。
p.259 心で神的なもの[神]を否定した者らは、いかほど口では神を告白しても、非常に愚劣なものとなって、社会的な真理をほとんど何一つ理解できず、まして霊的な真理は何一つ理解できなかったのである。
この記述は興味深い
p.269 彼らは世に生きている間、世を放棄して、ほとんど孤独の生活にふけったが、それは世のことに思いわずらわせられないで、敬虔な瞑想に充分にふけるためであり、そのことによって自分たちは天界の道へ入るのだと信じていたのである。しかしこうした者は他生では憂うつな性質を持っていて、自分のような者ではない者をさげすみ、自分は他の者の幸福以上の幸福に値していると信(以下p.270)じているため、その幸福を得ないと言って激しく怒り、他をかえりみず、展開と連結する手段となるに慈悲の業にも面をそむけている。彼らは他の者以上に天界にあこがれるが、天使たちの間に迎えられると、不安をもちこみ、そのため天使たちの幸福は乱される。そのため、彼らは遠ざけられる
人間に対する考察が深いね。
p.273 貧しいこともまた富と同じく人間を誘惑して、天界から引きはなすのである。(中略)彼らもまた富んだ者の善い物をねたみ、機会があると同じく彼らを欺き、また同じように汚れた快楽の中に生きている。
暗くねじ曲がったところまで考察している。
富んだものが天界に入るのが困難と信じられているのは、世の人々は「富んだもの」と聞いた時に「金銭的に恵まれているもの」と曲解して信じているから。聖言で「富んだもの」というのは、天界に対する「善と真理との知識に富んだ者(p.274)」という意味。
長くなった。ようやく半分だよ。膨大なスエデンボルグを読むくらいならぼくの感想文を読んだ方がよほど短いけどね。なのでここで一旦切ります。
0 notes