トロールに関する書籍のLondon Review of Booksによる書評の和訳:"Schadenfreude with bite"
(お願い)改善中です。あきらかな誤訳、不正確な点、アドバイス等がありましたら遠慮なくご指摘ください。よろしくお願いします。英語できる人は原文にあたるのがてっとり早いです
London Review of Books, 15 Dec.2016
Whitney Philips, Why We Can’t Have Nice Things:Mapping the Relationship between Online Trolling and Mainstream Culture
Karla Mantilla, Gendertrolling:How Misogyny Went Viral
Benjamin Radford, Bad Clowns
John Lindow, Trolls:An Unnatural History
原文リンク
http://www.lrb.co.uk/v38/n24/richard-seymour/schadenfreude-with-bite
(訳文)
トロールはネットにおける「いたずらっ子」を自称し、スキのある獲物を挑発することに関しては機会を逃さない。そして奴らは引き起こされた憤激をみて歓喜するのである。ミネソタ州出身の12歳の少年ミッチャル・ヘンダーソン君が2006年に自殺した際、トロール達は、少年の友人や親類らの悼辞が並ぶMy Spaceのページに襲撃をかけた。トロールらは特に、自死の数日前に少年がiPodを紛失していた事実に着目し、彼の死を軽薄で消費者的な欲求不満と示唆するような投稿をおこなった。彼の死は「裕福な資本主義的な問題群(first-world probles)」というわけだ。ある書き込みは少年の墓石の横にiPodが配置されたコラージュを含むものだった。
トロール行為(trolling)の何がそんなに面白いのか。「すべてのジョークはそれ自体の公衆を作り出す。同じジョークに笑うということは、精神的な一体性の広がりの証左である」とフロイトは語った。あるジョークを理解することは文化を共有することである。より正確には、それは任意の敵対関係において同じサイドに属することを意味する。トロールの行動の目的は、launghing out loudを意味すLOLが転化した「lulz」に置かれている。lulz=嘲笑とは、他人の不幸から派生するような楽しみのひとつの形である。複数年に及ぶ、トロールの参与観察を経たWhitney Phillipsの研究によると、嘲笑(lulz)とは 他人の不幸を楽しむ感覚に攻撃性が加味されたもの(shadenfreud with more bite)である。ミッチェル少年の家族が憤怒すればするほど、トロールはそれを面白いと感じるのである。
2011年、そのような「RIPトロール」〔訳者注:RIPとは、「安らかに眠れ」を意味するRest in Peaceの略語〕の一人であるレディング出身のSean Duffy(25歳)は、亡くなった10代の少女らに関する複数の投稿によって刑務所送りとなった。彼は、15歳で自殺したNatash MacBrydeを「売春婦」と呼んだ。また、14歳で癲癇症で亡くなったLauren Drewの追悼サイトに「ママ助けて!地獄はとても暑いわ!」と母の日に書き込んだ。しばしば、トロール達はターゲットに群がる。著者のPhillipは、レイプ殺人の被害者であるカリフォルニアの10代女性Chelsea Kingの事例を取り上げ、彼女の親戚らがトロールの格好の獲物になったこと、また義憤を感じて介入してきた協力的な人々らもそれぞれ身元を「特定」され、「狩られた」様子を詳細に記述した。
RIPトロールは悲哀を搾取可能な状態と見なす。トロールは死んだ人を何らかの形で気にかけているわけではない。むしろ、彼らは何らかの対象を気にかけすぎること自体を、罰されるべき失敗(a fault deserving punishment)と考えているのである。この点に関する証拠は、トロール行為のサブカルチャー(trolling subculture)の全域を通して、――より他愛もないケースにおいても――見出すことができる。ある事例では、トロール行為の参加者らは複数のゲーム販売店に電話をかけ、とある時代遅れのゲームのありもしない続編の在庫の有無を問い合わせた。彼らがあまりにもしつこく電話をかけるので、店員らはそのゲームの名前を聞いただけて怒り出すようになる。トロールらはその様子を楽しむのである。トロール行為の至高の通貨は搾取可能性であり、最大の悪徳はものごとをシリアスに考え過ぎることである。悲哀にくれる親、というのはもっとも容易に搾取できる対象である。彼らの悲しみや怒りは極めて明白である。とはいえ、弱みのない人間などいない。
計算ずくの冷酷な嫌がらせ、というものは別にトロールが発明したものではない。とはいえ、インターネット以前の時代においてはそれらは少しは無邪気に見えたかもしれない。Jeremy Beadleは『Candid Camera』で不運な人々をだました。不注意な被害者の抑えきれない怒りは、ある種の人にとっては常に滑稽であり、そういった楽しみの中には、サディスティックで冷笑的な態度(sadistic detachment)がどうしても存在する。トロールが新しいのは、計算された非論理性、意図的なスペルミス、文化的な憧憬の再利用、幾重にも積み重なった隠微な参照や内輪ネタといったナンセンスでどうしようもない事柄に、歓喜の感覚delightを付け加えたことである。Phillipsによれば、トロール行為とは、ポピュラーカルチャーの「ラトリナリア」(latrinalia)すなわち便所の落書きなのである。
トロールはまた、限度を知らないように見受けられる点において、彼らの先人とは異なる。嘲笑にはある種の反社会的な力がある。馬鹿にされると人はたいてい黙り込む。なので、会話やコミュニティを継続させるためには、ジョークにもある一定の限度というものが存在する。ジョークはどこかで終了せねばならなず、そこで被害者は笑いの種を明かされる。一方で、トロールは、オフラインの人格の境界を超えた逸脱的なサディズム(transgressive sadism)のまさにその延長上にコミュニティを形成する。このことは、そうしたコミュニティがほぼ完全に匿名の個人(anons)によって構成されている事実からも部分的に了解される。あたかもトロールにとって、個々のトロールの笑いは副次的であり、もっとも重要な目的はその匿名の集団(anounumous collective)の享楽を維持することにあるかのようだ。
*
大半のよく組織化されたトロールにとって、はっきりとした政治な関与や道徳的な理想を持つことは、嘲笑(the lulz)以外の対象に向けての傾倒を胡散臭いものとする彼らの基幹的な原則と矛盾する。しかしである。Karla Mantilaの造語である「ジェンダートロール」は反フェミストであることを明確に標榜している。彼らの目的は、群衆的な嫌がらせや女性差別的な侮辱(たとえば「まんこ」や「あばずれ」などの罵倒語)、晒し行為、殺人やレイプの脅迫などによって、公然と主張を行う女性を黙らせることである。Mantilaが考察するように、そうした行為に一切の独創性はない。これは「インターネット」とは無関係であり、「男が、潜在的な競合相手である女を周辺化するべく、嫌がらせや侮辱を行うという長い歴史」の延長に位置付けられるべき事象である。それは、「それまで男性優位的であ���た領域に女性が進出してきたことに対する、「ひとまとまりの文化的な反応」なのである。
明らかにインターネットに由来する新しい変化とは、オフラインの「リアル」な自己とネット上の匿名性との間に厳密な境界線をひくことによって、トロールらが道徳的な責任を否認することが可能となるような環境を創出したことである。ネット上であれば、私のしていることは私とは関係ない、というわけである。しかし、トロールらは、彼らが自称するように「誰でも平等に攻撃対象としている」わけではない。Phillipsが指摘するように、ほとんどの嘲笑は「とくにアフリカ系アメリカ人などの有色人種、女性、ゲイ、レズビアン、バイセクシャル、トランスジェンダー、クイア」に向けられており、トロール共同体は歪なほどに高い比率で英語圏や北欧の若い白人の男性によって構成されている。Phillipsは、オバマ大統領に対するレイシスト的なトロール行為や、彼らがしょっちゅう使う「おかま」といった言葉などを挙げ、トロールらが自身の白人性やある特有の男性性を行使する様子を詳しく記述している。男性優位主義はトロール文化に埋め込まれている。トロールの非-道徳性を、男性の揺るがない優位性に関する男権主義者らのお馴染みの幻想と結びつけたとしても、拡大解釈ではない。何はさておき、すべてのトロール達はジェンダートロールであるかも知れないわけである。
仮にそうであるなら、Phillipsが真剣に論じるところの「トリックスター」としてのトロールの自己像は批判的な検証に耐えることができないだろう。トリックスターとは、善と悪との境界を帳消しにしたり、価値を破壊することが唯一の価値であるような存在である。Phillipsがそのアナロジーに説得されたのは、おそらく彼女がトロールらのジョークを理解したからであろう。「私は彼らのあるタイプのトロール行為を面白いと感じる。そして場合によっては正当化可能であるとも思う」と彼女は書いている。たしかに、サイエントロジーなど、トロールの攻撃対象の中には明らかに同情できないものあり、その際のトロール行為はある種の熱意とともに実行される。しかし、Phillipsがトロールの意図を既存の道徳的秩序を「転覆させる」あるいは少なくともあれこれいじくり回すものとして描写する際、彼女は道徳的秩序を崩壊させる事と、その秩序を転覆させる事と、いじくり回す事の違いはそれほど大きくないかのように語っている。
もしトロール行為が不当な扱いに憤慨した者たちが上げる抗議の声から発生するのだとしたら、それはまったく価値の保全に依存していることになる。トロールたちは、十分に多くの人々が十分に多くの事柄について真剣に考えているという状況に依存している。そこでは、興味なさ気に肩をすぼめる仕草が失敗を意味するからだ。被害者の選択は、ほとんどの場合、多かれ少なかれ 何に対して思いやりを示すのが適切であるかについての道徳的な立ち位置を教えてくれる。(→本文:The choice of victim almost always conveys a moral position on what it is more or less appropriate to care about. )RIPトロールらは明らかに、裕福な白人層の自殺に対してもっとも強い怒りを表す。彼らはそうした死を自己陶酔的なものとし、人々による悲哀の表現をうわべだけのものとみなす。あるトロールはそうした営みを「退屈さと注目を浴びることへの病的な渇望」のため、と語った。一方で、たとえば国家安全局による大規模な盗聴が暴露された後に起きた組織的なトロール行為などは、彼らにとっての極めて重要な罪とは、情報を抑圧したり誤用することであることを示唆している。
トロールは相反する二つのことを同時に行う。トロールは、彼らが嘲笑のために侵犯するところの社会的な規範に対して見事なまでに無関心であると同時に、執念深い懲罰人でもある。その意味で、トロールはジョーカーであり、バッドマンでもある。Benjamin Redfordによるとトロールはピエロや道化師に連なる「自称文化評論家」として行動しつつ、一方では「もっともらしく、すべては楽しいジョークなので(あんまり)本気にしないように」とも主張する。John Lindowのトロールの「不自然な歴史」によると、北欧神話に出てくる本来のトロールは、不適切な行いに罰を与え、社会的規範を擁護する存在である。仮にあなたが冷笑(lulz)の行動原理を真に受けて、社会規範への一切のコミットメントを消し去ったとして、残るのはより純化した形での糾弾のロジックである。悲嘆にくれる者さえも罰しうるのだとしたら、一体誰を罰することができないというのだろう。「誰も我々ほどまでに冷酷にはなれない」、これが彼らの決めゼリフである。この原則こそがトロール共同体のアイデンティティの核となる。「われわれはアノニマスである。そして我々は決して許さない。」そして彼らが許さないのものとは、とりもなおさず「弱さ」なのである。
ネット上の逸脱性に関する社会学的分析は、そうした特徴をマキャベリズムやナルシシズム(自己愛)、病理学的な症状、サディズムなどの特性などに注目しがちである。Phillipsはこうしたすべての見解の誤りを指摘する。それらは、「逸脱」や「性格型」といったカテゴリーの意味深さを当然のことと見なすように読者に要請しつつ、特定の道徳的なアクセントでもって現象を記述しなおしたに過ぎない、とPhillipsは主張する。むしろ彼女は主流文化の影響を強調する。トロールとは「文化的な消化吸収作用の代理人」( ‘agent of cultural digestion’ )なのである。
トロール行為というサブカルチャーの分裂症的で超然としたユーモアは、おそらく9.11に関する膨大な種類のジョークやミーム(文化的遺伝子)に最もよく現れているであろう。Phillipsは、こうした事態をアメリカの極めてメディア化された文化に浸透したシニシズムの必然的な結果だと考えている。9.11とその余波に関するTV報道は、引き伸ばされた一連の「ゴミ」に挟まれた15秒間の恐怖と悲惨の断片的映像によって構成されていた。この状況はアイロニーに満ちた無関心を引き起こさずにはおれない。ブッシュ政権はこの分裂状態へと人々を誘い入れる役割を果たした。たとえば、ラムズフェルドは、占領下のイラクで起きたカオス的な混乱状態について、病的なまでの機嫌の良さで「いろんなことが起こるもんだ」と語った。ブッシュは、ゴルフ場でのインタビューでテロとの戦いの必要性に関する真面目な調子の演説を行ったのちに、スイングに戻り「では、このショットをご覧あれ」と言った。「道徳的な真剣さ」の隙間的な時間が終了するや、ブッシュ政権は肌の色によってコード化されたテロの危機を煽りつつ、人々に娯楽とショッピングへと戻ることを促した。この時期に形成された情感的な分裂はトロールらによってさらに拡張されたかも知れない。しかし、分裂を創出したのはトロールらではないのである。
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2015年4月、Tiziana Cantoneと呼ばれる31歳のナポリの女性が、自身のセックス映像を少数の友人らに送信した。そのうちの誰かが動画をネットに上げ、動画は急速に拡散した。動画からは顔が見えないセックス相手に向かって彼女が発した「あなた、撮影してるの?いいね。」というフレーズは、SNS上で大人気のパンチラインとなった。そのフレーズは、Tシャツになり、携帯カバーになり、広告のスローガンにも用いられた。誰もが自分のことを知り、政治家によっても非難されるようになったCantoneは仕事を辞め、名前も変え、トスカーナに引っ越し、ネットからの件の動画の削除を求める法廷闘争を開始した。彼女はFACEBOOKから自身の明示的な写真を消す事には成功したものの、すでに何千回もコピーされ配信されていたポルノサイトの映像を消す事はできなかった。複数のサイトに合計20000ユーロを支払うことを命じられた彼女は、9月に自ら命を絶った。
冷笑的なあざけり、すぐさまビジネス化されるミーム、道徳的な装いの悪意など、Tiziana Cantoneへの対応は、まさに集団トロール行為そのものである。Jon RonsonがSo You’ve Been Publicly Shamedにおいて教えてくれているように、こうした行動パターンというのはインターネットに特有なものではない。電話盗聴スキャンダルによって倒産するまで、News of the World紙は定期的に匿名の個人の性生活を暴露する記事を掲載しており、何人かを自殺に追い込んでいる。イギリス人シェフのBen Strangeは、仮に自身の破廉恥行為が公開されてしまったら二度と子供らに顔向けできないと考え、同紙に懇願した。しかし結局、記事にされていまい、氏は自殺した。同じような目にあったウェールズ人の教師Arnold Lewisは、NoW紙のレポーターにもし暴露されるとしたら自殺すると告げた。しばらくして彼の記事が掲載されると、氏は一酸化炭素中毒で自殺した。
SNSはこうした種類の捕食行動の可能性を大きく拡大している。Justine Saccoに対する粘着的な行為は、Ronsonが伝えるもっとも有名な事例だ。南アフリカへのフライトの直前に、Saccoはツイッターで「アフリカに行きます。エイズにならないといいな。冗談よ、私は白人だからね」と投稿した。わずか170人のフォロワーいない彼女は、まさかこのツイートが注目を集めるとは思いもしなかった。しかし、彼女が現地に到着する頃には、白人の愚かさを笑うジョークとしてではなく、文字どおりにレイシストの発言として受け取り、彼女を糾弾する意見でツイッターは炎上していた。到着と同時に、心配した友人から知らせが届き、彼女は事態を把握した。新聞やテレビが報道した。Rupert Murdochが経営するNew York Postは彼女を尾行するためにジャーナリストを派遣した。彼女の過去のツイートから意図的に悪趣味なジョークの数々もBuzzFeedによって掘り起こされた。ある下手に言葉選びをした、あるいはあまりにも言葉を選んだがゆえに逆に的確に対象を攻撃してしまったツイートによって、彼女は仕事を失うことになり、数ヶ月にわたってジャーナリストにつけ回された。
Ronsonは、彼女が破滅に向かっている様子を楽しみにしながらツイッターを眺めていた人々の中のシャーデンフロイデschandenfreudeを認めている。彼自身の当初の感想は、「他愛もないちょっとした「あぁ、誰かがやらかしたな」」というほどのものであった。彼はまた、懲罰的なほくそ笑みの背景にある超然とした感覚(detachment)についても指摘している。「集団狂気だろうが何だろうが、その時の激しい喜びは圧倒的なもので、そうした楽しみには代償が付き物であるという事実と向き合う事で、その楽しみをダメにしようとする奴なんていないんだ」ということである。ネット上のシェイマー(道徳的な叱責を繰り返す人々)を偽善者とみなすことには、抗い難い魅力がある。そうすることで、人は憤りか喜びのいずれかを感じることができる。しかし、別の視点から見るなら、個々のツイッターユーザーの憤りというものは、副次的で代理的なものであり、彼らの主要な役割とは、とりもなおさず匿名集団に燃料を投下することなのである。この場合、トロールとシェイマーとの違いは、前者が自分たちは道徳的な責任を持っていないと間違って理解しており、後者は自分たちが道徳的な責任を持っていると間違って理解している点に求められることになる。
Saccoは比較的穏健な小規模のトロールとして活動を開始した。しかし、彼女がその対象となった糾弾の合唱は、いくつくかの点で、大規模なトロール作戦のように見えた。おそらく、このトロール行為と魔女狩りの間の相互作用がダイナミックであり、その光景にわれわれが大きな喜びを感じるのは、それはすでに私たちが私たち自身に向けて行使する事柄の変形であるからだろう。フロイト的なうっかり発言や失言というのものは、私たちのうちなる魔女狩り将軍の怒りを刺激し、その怒りを楽しむという意味で、まさに自分自身をトロールするひとつの方法なのではないだろうか。あるいは、別の言い方をするなら、トロールは、われわれが日頃あまりにもシリアスに捉えている諸アイデンティティや諸価値への無意識の反感によって駆動されているのではないか、ということである。一方で、ネット上のウイッチハンターは、私たちがすでにそうした反感でもって自身を罰している方法を、過剰な形で���大化させているのである。この視点からすると、トロールは単なるサディストではなく、人を惑わすマゾヒストである。「トロールに餌をやるな」とは広く流通したネットの知恵である。その論理的な帰結はおろらく「道徳家に餌をやるな」であろう。トロールと道徳家は同一の螺旋構造の部分なのだ。
新聞等による、個人に対する破滅的な嫌がらせの事例は数え切れないほどあるにも関わらず、インターネットは今や、これまでは抑制されてきた攻撃性を解放したことの責任をしきりに問われている。ネット上の底レベルの書き込みは悪意の代名詞となっており、メディアが提供してきたコンテンツの副産物ではなく、ネットの民主化のダークサイドと見なされている。新しいメディアはまた、ヨーロッパや米国での支配的なコンセンサスの崩壊の責を負わされてもいる。ドナルド・トランプの成功や彼のポストトゥルース政治(post-truth politics)は、他の何にも増して、旧来のイデオロギー的な独占が崩壊し、人々がそれぞれが抱く偏見に迎合した情報や意見を探すようになるにつれ、既存メディアの編集部が担保してきた基準が崩壊するといった事態の影響と見なされている。そうした状況下で、政治的な言説は事実ではなくて感情に訴えかけることによって形成される、という風に議論は進められることになる。とするなら、トロール行為は理性的な議論を邪魔するための方法がひとつ増えただけ、ということになる。仮にトロールやネットの性差別主義者か陰謀論者に共通点を探すとするとしたら、それは、彼らが「笑いのため」か「女を黙らせるため」あるいは「自身の妄想を押し付けるため」に会話を脱線させる点であろう。これは、トロールが必然的に「右翼」であるということを意味しないし、実際、多くの場合トロールは右翼ではない。しかし右翼がますますトロール的になっていることは確かである。租税回避が彼の賢さのアピールになるのか否かにせよ、抵当流れから利益を得ようとする計画が「なんっていうか、アメリカのためになる」のか否かにせよ、あるいは戦死者の母親を侮辱することにせよ、トランプ自身が嘲笑(the lulz)のために放った言葉から、いかにして切り抜けるのが良いかを探っているような印象を受けるのである。オルターライトのある著名な支持者らがガーディアン紙に語ったところによると、「われわれはトロールの軍団だ。われわれは勝利する!われわれは獰猛だ」ということである。
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極右が、真実の劣化から最も利益を得ることができる政治傾向であると考えらているのには理由がある。PhillipsはFOXニュースとトロールらとの共生関係について詳述している。FOXは道徳的混乱(moral panic)を煽ると同時に、トロールが繁栄する文化的な培養基を提供する。ラディカルは右派は常に、人々を行動に向かわせるようなコミュニケーションの積極的な部分に敏感であった。増殖を目的としたコミュニケーションの一形態であり、トロールをされる人々に対するトロールの権力としてのトロール行為は、そうした戦略にまさしくぴったりなのである。
そうした意味で、6月にTwitter社によって下された、人種差別的罵倒で有名なもっとも悪質なユーザーのひとりのアカウントを凍結するという決断は、そうした流れを食い止めるにあたって効果があるか否かは別として、最初の一歩であり、象徴的な意味を持つものであろう。そのユーザーとは若いオルターライトのコラムニストのMilo Yiannopoulosである。彼は彼の注意深い炎上マーケティングのためのニュース番組のレギュラー出演者であった。彼は映画『ゴースト・バスターズ』の女性チームの中の唯一の黒人メンバーを演じたLeslie Jonesに対して、人種差別的嫌がらせを率先したことを理由としてアカウントを凍結された。Twitter社の前CEOであるDick Costoloは、彼はツイッターのユーザーが減少していることや株価の下落の理由のひとつに、こうした弱者への攻撃をしっかりと撃退できなかったことを挙げ、「われわれは虐待やトロールの扱いに失敗した。長年に渡って失敗し続けたのだ。」と語った。
Yiannopoulosは自覚的にトロールであり、なおかつイデオローグであり、オルターライトの典型的な産物であり、その模範である。アカウント凍結に対する彼の反応は下手に隠された喜びを表明しつつ、「自分たちと違う意見を受け入れることのできない、感情的な左翼のガキども」に対する怒りをぶつけることであった。彼はBusiness Insiderに「私のしたことは、ちょっとジョークを言っただけだ」と語った。彼は、「女は新しいルールに同意する時に限り、男のインターネットへの入場を許される」という彼の提案に対する評判を聞くためにChannel 4ニュースのCathy Newmanを番組に招くなど、大統領選でのトランプの勝利以降、同じ決まり文句を繰り返した。表向きは「嘲笑」lulzのためにやっているという表明によってシリアスな政治的な議題をはぐらかす、という計算された両義性において、オルターライトの心理的秩序(psychic economy)にトロール行為はぴったりと適合する。ヤノプロスが定期的に見解を発表する媒体であるBreibartは、トランプ政権の効果的な前哨地となっている。Breibartニュースの��表Stephan Bannon氏は、FOXニュースの前経営者Roger Ailesがトランプのアドバイザーに就任した翌日、選挙戦をたたかうトランプ陣営と契約を結び、近々、新大統領の「主席戦略官」に就任する予定である。
Breitbartの最もよく知られている二つのスクープは、2009年のAcornというリベラルなNGOに対してのものと、2010年の農務省のアフリカ系アメリカ人従業員であるShirley Sherrodへのバッシングである。いずれの場合においても、Breibartは取材記録を不正に加工している。最初のケースに関しては、Acornの従業員らへのおとり捜査を通して、第二のケースについては、SherrodがNational Association for the Advancement of Colored Peopleでおこなった演説を操作し、あたかも黒人が白人社会の敵であるかのような印象を作り出そうとした。Acornは資金を失い、1年後に債務整理に追い込まれた。Sherrodは失職し、政府役人やNAACPから厳しく叱責されたが、実のところ彼らはダマされていた。ホワイトハウスは謝罪し、農務省は彼女に新たな職を用意した。一連のAcornの事例に責任を負う保守派の活動家は、Acornが「あらゆる手段が正当化されうるような、革命主義的で、社会主義的で、無神論的な世界にいる」とし、であるがゆえに、それに対抗するために彼ら保守派にはあらゆる手段を用いることが許されると主張した。Andrew Breitbartは、NAACPにティーパーティをレイシスト呼ばわりする権利はないと主張するためにSherrodのスピーチを「レイシスト」認定し、また、そうであるからこそ、ティーパーティに存在意義があると力説した。
この、トロールとウィチハンターの双方の役割をこなす能力――あるいは欲望――こそがトランプ主義の情感的な基盤のひとつである。そしてトランプ自身がそもそも最大のトロールである。巨大で、皮が分厚い攪拌者であり、ベルルスコーニ級に屈託がなくそして反道徳的である。多くのトロールと同様に、彼はターゲットを熟知しており、リベラルの粗悪な良心に狙いを定める。ヒラリーとの大統領候補者討論の際、トランプは――ほかの共和党候補はそうはしないであろう――オバマはこれまでのどの大統領よりも多い250万人の人を国外追放にした、と主張して自身の国外追放政策を擁護した。普段はあまり大っぴろげに言われていない事を言う、というはトランプ主義の逸脱的なスリルを形づくっている。これこそ、「ポストトゥルース政治」の批判者が見落としている点である。トランプが飛んでもない嘘をつく時でさえも、トランプはメディアの欺瞞を暴露しながら重要な真実を表明しているに違いない、とトランプの支持層は考える。その一方で、オルターライトはトランプ主義に、興隆しつつある新しい白人ナショナリズムの基盤を発見している。ここで言う白人ナショナリズム(white nationalism)とは、搾取可能な人々――つまるところ「保守的で裕福な白人男性」以外のすべての人――をニヤニヤしながら攻撃する態度を指す。彼らは権力を握ろうとしている。とはいえ、彼らこう言うだろう。「ホワイ・ソー・シリアス?」〔訳者注:"Why so serious?” は映画『ダークナイト』の悪役ジョーカーのセリフである。〕
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30th Dec. 2018, Sunday
PLPロンドン_15週目_Yuki OSA
《旅の備忘録》
12/22 05:55 LTN → 09:50 BRI
N16のバスに乗って、旧市街手前で降ろしてもらう。バスの中の譲り合いや、チケットの受け渡しに南伊の人々の暖かさを感じる。
歩いて15分ほどで大通り沿いにある宿の近くまで着いたが、Googleマップの場所に宿がなく、右往左往。近くのビルの警備員の人に聞いてみたところ、その人もわからず、一緒に探してくれる。キオスクの友人に聞いてくれたりして、地図のポイントがワンブロックずれていることが判明。御礼を言って別れる。
宿の中は旧式のエレベーター。それを取り囲むように階段が螺旋状に上がっている。エレベーターは少し乗るのが気が引けて、階段で登る。
4階の宿に着く。両開き扉が狭い。片側だけ開いていて、肩幅ぎりぎりで荷物が引っ掛かる。
中には宿のおばさんと招き猫の人形が腕を振っている。受付前に立つイタリア人らしい長髪に少しパーマのイケメンがおばさんと話している。挨拶をするとその人もなんとフローレンスで学んだ建築家らしい。今晩エンジニアの友人とご飯を食べるけど一緒に来て語らわないかと言われたが、アルベロベッロに経つのでいけなかった。誘ってくれるだけで嬉しいと伝えた。またマテイラに行くことも伝えたら、マテイラは来年ヨーロッパのカルチャー首都に2019からなるという情報を教えてくれた。
部屋から若い女性がチェックアウトをして出て行く。
支払いを済ませると、おばさんが入浴用タオルを貸してくれた。優しい。お茶も飲まないかと言われたが、アルベロベッロ行きの電車が迫っていたので、丁寧に断った。
宿泊用の荷物を置き、手提げだけ持ちバーリの駅まで徒歩で向かう。10分ほどだが碁盤の目状の道はとても長く感じる。
駅に着いてみると掲示板に乗る予定の電車がなく焦る。駅員のおじさんに聞くと、違う駅だから地下を歩いて左に行けと言われたが、行ってみても何もない。引き返し通行人のおばさんに聞くがイタリア語でわからず。そうこうしているうちに、時間が迫りのこり3分。焦っていたところ、駅員の若い女性が地下に潜り反対側の車線のところが違う駅なのだと教えてくれる。ややこしい。
また地下に潜り反対側の車線まで走ってなんとか間に合うことができた。
12:03 Bari central→ 14:05 Alberobello
プッティガーノに着くとバス停があり、そこで待機。待つこと30分ようやくバスが来る。そこでもタバコを吸ったおばさんに助けられる。南伊の優しさに感謝。
アルベロベッロに到着。するも新市街に降ろされ場所不明。Wi-Fiもないので右往左往。ガソリンスタンドの売店のおじさんに教えてもらう。
トゥルッリの地域着。石積みのとんがり屋根状の家々が建ち並ぶ丘陵の眺めに感動。
インフォメーションセンターを探していると、美味しそうなパン屋。朝から何も食べていなかったので、プンチャをオーダー。15cmほどの温められた丸く薄べったいパンに、トマト、モッツァレラチーズ、ベーコンが挟まっている。美味。
バンダナっぽい旧式の帽子を被ったパン屋のダンディなおじさんに、インフォメーションセンターの場所を聞くと、何しに行くんだと聞かれ、地図をもらいにと答えると、うちにもあるからちょっと待ってろ、と引き出しを開けて地図を取り出すと、名所や巡った方が良いところを丁寧に教えてくれた。感謝。
プンチャを片手に食べながらトゥルッリの街並みを登る。石積みの狭い階段の両脇は、観光客向けの店で犇めいている。お土産には興味がないが、トゥルッリの内部が気になるのでいくつか入ってみる。とんがり屋根の裏側上部まで塗装されているところが多いが、石積みをそのまま見せているところも。円形の平面を長い二本の木製の梁が流れる。
観光店通りを離れ、住居群を歩くと、屋根の補修工事現場にあたる。しばらく眺めていると、その場で石を砕き、丁寧に石を積み上げていく技術はまさに職人技。1273年から続く技術の伝承。厚さ大きさの違うライムストーンを使い分け積み上げていく。分厚く大きな石は円形の壁に使われ1.3~1.8mほどよ壁を形成する。その上に木製の梁を二本流しつつ、屋根が上に乗る。屋根は三層構造で、まずはじめに屋根の構造となる20cmほどの少し厚めの石を内部空間側の斜め状の角度に合わせカットしながらとんがり状に積んでいく。この角度には緩やかさ加減を徐々に変えて、長年の構造に耐えうる知識が詰まっているらしい。次に隙間を埋めるための砕けた細かい砂礫を詰め込んで、最後に薄い石板を瓦状に積んでいく。屋根の最上部には、十字架だけではなくユニークなシンボルが、キリスト教の様々な願いや想いを込めた形豊かなかたちで表現されていると同時にキーストーン同様の役割も持ち、屋根全体のアーチ構造の重しにもなっている。外壁を白く塗装するようになったのはいつからか不明だが、1つの家が同じ素材で出来上がっていく光景は感嘆に値する。しかもその素材は、同じ地域から産まれた石なのだ。風景に対して相性が良く感ずるのはそういう事由であると感心。
17時過ぎに日が暮れて、そこからは夜のバスまでの6時間をどうするか考える。最近の色々な悩みなどを抱えつつ、思索に耽りながら直線上に歩き続けていると、大きなバシリカ様式の教会にあたる。中世の都市構成の誘導的意図を感じる。
中へ入り、お祈りなどをしつつ、座っていると、子供のためのクリスマス礼拝が始まる。賑やかな子供達が礼拝を済ませ帰っていく。
どれくらい座っていただろうか。気がつくと今度は大人たちのクリスマス礼拝が始まっていた。壮大なパイプオルガンの音や賛美歌の音、僧侶の聖書を読む声などが、幻想的に礼拝堂内に響き渡り、目を閉じて耳を澄ませる。
教会に滞在すること3時間半。とても心が落ち着いていた。
あてもなく夜の街を歩く。
夜のトゥルッリは、昼とは違った趣を見せる。月明かりと街灯に照らされた影の陰影が深いためか。
子供達が夜にもかかわらず大人も伴わず出かけていく。街角には井戸水の蛇口があり、そこへ首を傾けて口を近づけ飲んでいる。私も飲んでみようか。
20分ほど歩くと、広場にでる。広場はとても賑わっており、様々な店舗が出ている。
徐々に子供の数が減っていき夜も更ける。
23:25 Alberobello → 00:40 Bari
バスの中で寝過ごさないか心配であったが、なんとか宿に到着。
STAY@ Bari “MoViDa CaVour”
12/23
カフェでバスを待つ。本場のカプチーノは濃い。
クロワッサンも密度あり。
7:25 Bari → 8:35 Matera
マテーラに到着する。が、徒歩30分程度離れた新市街にて降ろされる。
途方に暮れていたところ、同じバスでバーリから来た、2人の若いカップルに話しかける。2人ともバーリで法律を学んでいて、来年就職らしい。今日はクリスマスイブ前日のワンデートリップにマテ��ラまで来たと言う。彼女の方は日本に二回も行ったことがあるらしく、話が弾む。旧市街広場までは道のりが同じで、一緒にローカルバスに乗り向かう。
旧市街着。カップルと別れる。
別れ際に教会になぜド���ロが彫り込まれているのかについて少し話した。
南伊では結構多いらしい。
STAY@ Matera “L'Ostello dei Sassi”
宿着。荷物を置く。荷物といってもA4サイズのリュックだが、一日中担ぐのは応える。
15分ほど待つと受付の人が出勤してきたので、荷物を置いて良いかと聞くと、チェックインもできるということなので、そうする。イタリアのユースは一泊16ユーロくらいが相場で、どこも安い。
今回泊まるところは、マテーラ特有のサッシと呼ばれる岩窟住居をホステルに改装したところ。
荷物を置き、街へ出る。
光と影のコントラストが素晴らしい。街全体がどこを切り取ってみても彫刻作品として成り立つのではないか。
階段の折り重なる迷路のような街路を歩き、散策する。
サンタルチア教会を前に、殉難をあらわす聖杯のシンボルを目にする。この土地の人々が受けてきた、耐え抜いてきた苦悩や災難を思う。私事の悩みが小事に思える。
農家の家の跡、復元などを見つつ、土地の特性に合わせて工夫された生活様式を学ぶ。雪を貯めるシステムなども面白い。
歩き続け、登り続け、大聖堂手前の高台の道の途中にあるカフェで立ち止まる。
昼もとうに過ぎていた。
喉がとても乾いていたため、カフェアメリカーノを頼むと、バシリーカ州産のクッキーを一緒に出してくれた。とても美味しい。
1時間ほど座りながら景色を眺め、考え事をする。
続きの坂道を登ると、大聖堂があり、その眼下のもう1つの集落が見渡せる高台に着く。
日も上りきり15時くらいにはなっていたかと思うが、高台広場にあるベンチで、鞄を枕に横になる。
とても心地よい。
太陽と、風と、温湿度が最高のバランスでミックスされた感じ。
その後は当てもなく歩き続け、日も傾き、そろそろ帰ろうかという気持ちがよぎった時に、ダリの作品である彫刻が見えた。
どうやら、サルバドール・ダリの美術館が岩窟住居の跡地に整備されているようだ。
ダリの天邪鬼というべきか、すべてに対する反骨主義の徹底した作品コンセプトに感銘を受ける。
時間の速度は個人の感情や心の景色、触感、聴感、嗅感、立場であったり、周りの環境であったり、すべてに触発されて、まったくもって安定したものではない。不合理、不条理という言葉を久しぶりに目にした気がする。合理的なものと非合理的なものの狭間。不条理は時に災難もあれば、圧倒的な美を生み出す時もある。それを取り持つ合理的な知性といったところであろうか。
また、女性の秘める美しさに対する彫刻表現にも驚嘆した。シュールレアリズムの作家についてはほかにあまり知らないが、コンセプトはとても強い不条理に対するメッセージやイデオロギーを持ち合わせているが、その反面コンセプトと作品自体の一貫性はとても強く感じると思う。これほど説明を聞いて、なるほど、と感じる芸術作品はあまりないと思った。
だいぶ遠くに来ていたのか、帰路がかなり長く感じる。
旧市街を出ると、新市街との境界沿いの細長い広場に出る。そこを東の端にある宿まで、歩いていく。
途中で突然名前を呼ばれ、誰かと思い振り向いたら、今朝のバーリから来た法律を学ぶ学生カップルであった。どうやら彼らは30分後のバスでバーリへ帰るらしい。一日中誰とも話していなかったからか、珍しくとても話したい気分ではあったが、彼らのバスの時間もあるため、惜しみつつお別れをした。
宿に荷物を置き、寒さに耐えられる服を着込み、夜の街へ再び出かける。
ラビオリを食べる。
量は少ないが、黒トリュフの香りがとてもよい。
旧市街へ再び行き、今朝とは違うルートで歩く。
満月である。
ふと、隙間風を感じる。
崖沿いの厚さのある石積みの手摺に腰をかけ、崖に足を投げる。
12/24
08:35 Matera → 12:20 Naples
朝起きて、30分程度歩く。
バスを待つ。
ナポリへ向かう。
マテーラは高木と呼べる木々がとても少なく、そのために岩窟住居が発展していったのかもしれないが、西へ向かうにつれて、風景が変化し、木々が増えていく。
太陽の照らす芝に寝そべる牛を見る。
ナポリに昼に到着する。
いつものようにインフォメーションセンターで地図を貰うべく、探すが一向に見つからない。
昼も食べてから宿に行こうかと思っていたが、仕方なく、歩き始める。
街が汚い。
パリ北駅などの治安の悪さと同質の雰囲気を感じる。
足早に歩き続ける。
いつのまにか道幅がとても狭い旧市街へ。
歩いていると、上の方から名前を呼ぶ声が聞こえる。ユースホステルを利用して、こんなことは今までなかったから正直驚いた。
むしろ、呼んでもらえなかったら入口を見つけられなかった、と後から思う。
STAY@ Naples “Giovanni's Home”
3階に上がり、ジョバンニの家に入る。
70過ぎの小太りな優しいお爺さんといった印象だ。
奥の方で、1人の青年が手作りパスタを、丁寧にトレイの上に並べている。
ジョバンニ曰く、今からこのパスタを茹でて、宿泊している皆んなとランチを食べるという。
もちろんお前も食べるよなと言われ、驚く。
状況が読めない。
奥の青年は誰なのか。
ジョバンニは荷物をとにかくロビーにおいて、キッチンに来いと言う。
バシリーカ州特有の、とてもシンプルなパスタを作ると言う。Stracinati con i peperoni cruchi e mollica と言うパスタのようだ。ドライチリペッパーと乾燥したパン屑を使うガーリックとオリーブオイルの効いた素材の味がわかるパスタ。
その後、シンガポール人の2人が宿に帰ってきて、さっきパスタを並べていた青年(ブラジル人のジョアオと言うらしい。彼も私の2時間ほど前に到着し、突然パスタ作りを手伝わされたと言う)と、ジョバンニと私のその日宿にいたメンバー全員で出来上がったパスタを頂く。
とても美味しい。
話が弾み、全員の距離がぐっと縮まる。
今日がクリスマスイブであることを忘れていた。
その後、ジョアオとともに、ジョバンニからのナポリレクチャー(とても歴史に対しても話が深く、地理学的な観点から、火山の種類、彫刻芸術、現代建築家の作ったメトロの駅まで話が及ぶが、とにかく話が長い。)を聞く。
16時前になっていた。
ジョアオとともに街に出る。
ジョバンニお勧めの教会や円形競技場が住宅に変化したところ、地下通路などを探してみるが、どこもクリスマスイブのため閉まっていた。
途中雨が降ってきた。
やたらとジョアオはセルフィを撮っている。
彼からすれば私はやたらと路地を撮っている、と思っただろうか。
旧市街はどこも開いていないから、海でも見に行こうと言うことになり、海岸沿いの城や広場などを眺めつつ歩く。
彼とビールを片手に海沿いで飲む。
In to the wildの映画の話で盛り上がる。
さておき、彼はなんと19歳。私より10歳も若い。political science の中のstates sienceという、地方行政のマネジメント、デモクラシー、それらの歴史を学んでいるという。特に中世が好きらしい。シンガポール人にあとでブラジルの政治は酷いよねとからかわれていたが、そんな事はない、夢のある学問だと思う。
12/25
8:30 Naples → 10:00 Amalfi
アマルフィ着。
クリスマスなのでナポリにいても仕方がないと思いアマルフィに来たが、ここもほぼ閉まっている。
一件だけ海岸沿いに開店しているカフェを見つける。
とりあえずエスプレッソ。
海と崖と集落の奏でる光景が素晴らしい。
1時間ほど座りながら景色を眺める。
ガラガラだった周りの席も、客で賑わいを見せる。そろそろかと思い、立ち上がる。
クリスマスで唯一開いているのは教会。アラブシシリア様式の縞模様の入った列柱廊のある大聖堂に繋がる大階段を登る。
天気が良い。
太陽がクリスマスを祝福している。
教会に入るとミサの最中であった。
アルベロベッロの経験でクリスマスミサの流れや、お祈りの仕方なども分かっていたので、参加する事にした。
特に隣の人々と握手をして、隣人を愛し助け合うことを確認することがとても良い。
太陽の差し込む礼拝堂と、とても美しい歌声に、本当に自分でも驚いたが、涙が止まらなかった。
ハンカチで顔をふく姿が周りの人々には不思議だったかも知れないが、感動したのだから仕方がない。
ミサの後、街に出た。
観光客の姿が朝よりも増えている。朝閉まっていた店もぽつぽつと開いていた。2割弱の開店率といったところか。
中央通りを登っていくと紙に関する美術館があるとの情報を得たので登っていくが、見当たらず。当然のように閉まっていて見つけられなかっただけなのか。
その代わり、その道を登り続け、途中から獣道に変わる。
渓谷が深くなってゆく。
地元の人がBBQをした跡などがあったが、基本山道で枝を避けながら進んでいく。
渓谷の反対側は陽があたり、レモン畑が傾斜地に並んでいる。
どうにか反対側へ行く事はできないかと思い、渡れる橋を探すが見当たらない。
まっすぐ行くと、唯一昔の水道橋のような廃墟が現る。入口手前まで歩いて行ったが、昼にも関わらず、先が見えない暗闇。
仕方なく引き返す事にする。
アマルフィの街は、渓谷の中央に車が一台通れるくらいの幅の一本の道が海岸まで貫通していて、基本的にその道沿いに商店や薬局、クリニック、教会、ホテルなど小さいながらに隣りあいながら並んでいる印象だ。その道から一つ脇に入ると渓谷の両側に登るような感じで入り組んだ階段状の通路が張り巡らされている。通路の幅は人1人が歩ける程度なので80センチくらいだろうか、すれ違うのは肩を傾けなければいけない。とにかくこの通路が面白い。階段を登っては等高線に並行に歩き、また登る、を繰り返す。陽が当たるところもあれば、洞窟状に家々の下をくぐり抜けるものもある。
どのくらい登っただろうか、階段の両脇は家や高い壁で囲われているので、自分のいる場所を把握するのが難しい。
谷側の廃墟の壁の柵状の開口部から、明るく漏れる光があった。
覗くと廃墟の中には陽が溢れんばかりに入り込み、青々と茂る草の上に寝そべる一匹の猫がいた。最初警戒していたが、やがて堂々と再び寝そべりこちらを眺める。こちらも優しく見つめ返す。
猫を側に、頭をあげて目の前を見ると、廃墟の谷側の壁は崩れほぼ在らず、アマルフィ全体の街並みが見渡せた。
先程のクリスマスミサを受けた教会やその塔も見える。渓谷の反対側の家々もよく見渡せる。
足元にはレモン畑も広がっている。
そこからは素晴らしい景色が続いていて、等高線状に歩みを進める。
テラスがあり、そこの手摺に腰掛ける。
誰も来ない。
洗濯物を干しているおばさんが家の中の誰かと話をしている。
犬が吠える。
猫が足元のレモン畑をこっそりと通り抜ける。
波の音がざわざわと耳に届く。
すべての音が陽の光と調和しているように感じる。
傾斜地の家々が開けている狭い通路をそれらの音が風に乗って通り抜けてくるかのような感触。
もちろん陽で暖められた風の音だから、気温は寒いが暖かく感じる。
夕日が沈み、中央広場に行く。
16:45 Amalfi → 18:15 Naples
待ち合わせ時間の15分前に運���手が来ていた。
礼をいい、ナポリまで乗せてもらう。
途中アマルフィ側では沈んでいたように見えた太陽が山を越えると、まだそこにいて、ナポリの街を紅く照らしていた。
ヴェスーヴィオ火山の稜線が綺麗に浮かび上がっていた。
尾根と谷側をぐるぐると回りながら降りていくので、同じ景色を微妙な高さの違いと、刻一刻と太陽が下がっていく時の変化を感じながら降りるのが面白い。
STAY@ Naples “Giovanni's Home”
ナポリの中央駅で降ろしてもらい、宿まで30分ほど歩いて帰ると、パスタ(ペンネアラビアータ)を全員分の量をまとめて料理している最中だった。
宿泊する人が昨日の3人から6人に増えている。
全員男。
バーリで農業を学ぶイラン人、アメリカ人、耳の聞こえないフィンランド人だった。
夕食は筆談で盛り上がり、さすがアメリカ人はデリカシーないこともずばすば聞くんだなと、思いながらも夜は更けた。
普段はお酒が禁止なホステルだが、今日はクリスマスだからと、解禁してみんなで瓶ビールを開けた。
即席の旅のチームを結成し、明日のポンペイ日帰り計画の予定を立てている。どうやらみんなは明日7:30の列車に乗るらしい。早起きなのにこの時間まで起きていて大丈夫か。
私はすでに別行程で予約を取っていたので、フィンランド人と筆談を続ける。
12/26
朝10:20のバスだったので、8時頃には宿を出て、ナポリの街を散策することにした。
朝起きた時には即席チームメンバーの姿はなかったので、無事起きれたのであろう。
8時半からカペラ・サンセベッロがオープンするということなので、行ってみた。
噂には聞いていたが、とても地味な路地裏にチケット売り場と入口がある。
フリーメイソンの集会所としての教会でもあったらしい。
路地裏に着くとまだ10分くらい時間があったので、周辺をふらついていると、お馴染みのペペロンキーホルダーを大量に持ったおじいさんがいたので、五つお土産用に購入することにした。
ペペロン=チリペッパーはナポリの特産品であることを、ここに来て初めて知った。
カペラ・サンセベッロに入ると、教会としてはかなり小振りな側廊もなく、長方形の中廊のみがある小さな空間であったが、中は至極の彫刻であふれていた。時間を忘れて作品の前に立ち尽くす。
他にナポリでは古代地下通路なども見てみたかったが、時間が無いため諦める。
Half day Pompeii tour from 10:20
ポンペイ着。
ギリシャ人達がクリスチャンニズム以前に神達を祀っていた神殿がバシリカといい、それがローマ人によって教会として使われるようになったという話を聞く。
他にも2度のヴェスーヴィオ火山の噴火の話、2万人いた都市の4千人しか遺体が見つかっていない話、都市の1/3は未だ地中に眠っていること、ローマ人の円形劇場の一日の使い方、パン窯がシェルター兼保存食置場になっていたこと、ローマ人は朝7時から13時までの6時間しか働かず、その中に1時間の昼食時間が含まれており、ロバの馬車で渋滞を作りながら、商店のカウンターに並んだ話、商店の昼食のテイクアウト皿はパンで出来ていて、それを奴隷達に食べ終わった後に与えていてそれがピザになったのでは説の話、仕事が終わるとスパに並び、風呂に入り家に帰っていた話、風呂場のトイレのお尻を拭くスポンジは一つしかなく、遅くいくと他の人が使ったやつで尻を拭かなければいけないことからsomeone’s spongeということわざができた話、下水処理設備が無かったため、道路の車道を垂れ流しで、膝高さ程度の歩道が整備されて道を渡るときは飛び石が使われていた話、その飛び石はロバ二匹に馬車を引かせていて120センチの車輪幅でそれが今でもヨーロッパの鉄道規格として使われている話、娼婦館のレッドライトの起源の話など、いろいろ驚くべき話を英語フランス語スペイン語を使い分けるガイドから聞き、ポンペイで半日過ごす。
フロリダに家族を置いて一人旅をしているお爺ちゃんのジョンと仲良くなる。
ジョンが奥さんにハート型のお土産を買っている。
ナポリに到着。
PLPで同僚のマリアと15時に海岸沿いのピザ屋で待ち合わせ。
時間通りに着くが、一向に現れず。
30分ほど待ち、仕方がないので道行く子供連れのピンク色のダウンジャケットを着たお母さんに、iPhoneのネットワークをシェアしてもらい、WhatsAppでマリアに連絡する。
どうやら車で来ており、駐車場が激混みで見つからないとのこと。
マリア到着。
まだ駐車場が見つからないらしい。
車に移動。
マリアの妹のリザが助手席に座っている。
リザめちゃくちゃ美人。
2人ともナポリ生まれで、クリスマスに合わせ実家に帰省しているとのこと。
リザはマドリードでエクスペディアでイタリア担当の企画マネジメントをしているらしい。
ファッションも好きで、将来は自主ブランドを立ち上げたいらしい。確かにオシャレ。
車を止めて、ピザ屋を探す。
当初の行こうとしていた店はすでにいっぱい。
ウェイティングリストも一杯で名前をかけないほどの人気店。
仕方なく、3人で海沿いを歩く。
雲ひとつない快晴の天気だ。
時間は4時を回り、太陽はすでに夕日と呼べるほど空を紅く染めている。
リザが足を止め、店のウェイターに声をかける。
他にも列を作り並んでいる客がいるにも関わらず、即座にテラスの座席に案内してくれる。
これが美人の力か。
男一人旅にはありえない光景を目の当たりにする。
マリアが赤ワイン大好きなので、MOIO57(モイオ チンクエットセッタ)という赤をボトルで頼む。
運転大丈夫?と聞きつつ、イタリアはいいのよ、と自慢気。
ダメだろ、と思いつつ聞き流す。
ここまでパスタしか食べておらず(ラビオリ、ストラッシナーティ、パスタグリル、タッリアテッレ、ペンネアラビアータ、トルティーニといった感じ)、ようやくピザを食べることができた。
1人ひとつづつ注文し、みんなで分ける。
3時に遅い昼飯をブランチ的に食べようと言っていたのが、もはや夜飯も兼ねることに。
定番のマルゲリータは最高。
シシリアーナピザは旧シチリア王国の南イタリアならではのピザで、マルゲリータと同じトマトベースだが、茄子や諸々地域の野菜が使われていて美味。
そしてホワイトベースのサルシッチャ&フリィアリエーリ パンナ プロスキュート エ マイスは、リザの好物らしく、スパイシーなソーセージと青物の葉とチーズが相まってとても美味しい。
そのあと店を変えて、リモンチェッロを3つ食後酒としてみんなで飲んで、お別れ。
バスの出発時刻に遅れそうで走ることになったが、なんとか間に合いローマ行きのバスに乗る。
21:00 Naples → 23:30 Rome
ローマ23:30着。
バスターミナルなのでタクシーなども見当たらず、ローカルバスもこの時間だけに止まっている。宿までの地図も分からず、仕方なしにターミナルの誘導員の黄色いジャケットを着たおじさんに、タクシー乗り場知らないかと聞いてみると、まってろといい、バスターミナル外の柵側の暗闇にひたすら誰かの名前を呼び続ける。
そういうシステムか、と思いつつ、暗闇から現れたタクシーもどき運ちゃんらしき人を紹介される。
まぁ他に手段がないから仕方ないと思い、値段と行き先を交渉する。一応値切り交渉は成功。
英語があまり喋れないらしく、なぜかフランス語で道中会話。ローマの治安情報や、ローカルバスの乗り方や、オススメのレストランなどを聞く。
宿に到着。
STAY@ Rome “The Yellow”
イエローホステルは受付ロビーと宿泊部屋、バー、などが普通の二車線道路を向かい側に挟んで、道路やテラス席などを取り囲むように構成されている。
先程まで暗く治安が悪そうに感じたローマの街がこの道の中央の一画だけ明るくかつWi-fiも飛び、人で溢れ、とても安全に感じた。
6人部屋の二段ベットの下に荷物を置き、バーで1人IPAを飲みながら、明日の飛行機までの時間とルートを考える。
プライベートな悩みも相まってすこし孤独モード。
周りはパーティらしく、おそらく知らない人同士が出会い話し盛り上がっているが、混ざる気になれず、地図を眺める。
1時半に就寝。
12/27
8時前にチェックアウトをし、荷物を預け街に出る。
道端の地元民が行きそうなカフェでエスプレッソを飲む。
パンテオンに向かう。
30分程度の道のりを50分程度かけて歩く。
途中トレビの泉をたまたま通り過ぎたが、朝にもかかわらず、観光客が中央でセルフィーを撮らんと押し合いしている。
昔は泉の水の循環システムってどうしていたんだろうか、などぶつぶつ考えながら通り過ぎる。
パンテオン着。
9時開館と書いてあったが、すでに開いている。
人少なめ。
1時間以上滞在する。
太陽の動きを見る。
想像していたよりスケールがとても大きく感じた。
重機ない時代にどうやって施工したんだろうか。
そして幾何学の床モチーフ含め、厳格な構成美を体感する。
あとで帰り道にもまた来よう、陽の光がどう動いているのか確かめようと思い、パンテオンを出る。
人通りの少ない裏路地やノヴァ広場、駐車場などを抜けて、エンジェル橋を渡りながらバチカンに到着。
サン・ピエトロ広場は確かに大きいが思っていたよりもヒューマンスケールよりかな、と感じつつ列に並ぶ。
途中のインド人らしき自称ガイドが、列に並ぶと数時間入れないけど、ガイドツアーチケット(75€)買えば並ばずに入れるよ、と言っていて胡散臭いなと思っていたが、案の定、何のことない30分ほど並べばセキュリティゲートに着き、無料で入れるではないか。
並んでいる途中、そのチケットを買ったであろう人が列を抜かして行ったが、セキュリティゲートの手前で止められて結局並ばされていた。詐欺なのか。騙されなくて良かった&よく教皇のいるバチカンの目の前で詐欺ができるもんだ、と感心しながら並ぶ。
広場と反対に教会の建物自体は若干のオーバースケール感を感じた。ただ中の光の取り入れ方は計算され尽くしているように感じ、来場者が神秘性を感じるように光の移動と芸術品の配置や側廊のリズムなどが決められているように感じた。
ただアマルフィで感じたような涙は出なかった。権力的な威圧感も同時に感じたからだろうか。
建築が言葉なくも語りかける空間の性格みたいなものに、この旅の中で敏感になっているように感じた。
クーポラに登る。
ひたすら螺旋階段をあがり、最上部に到着。サン・ピエトロ広場だけでなく、ローマ全体が見渡せる。素晴らしい都市軸。
すべての道はローマに通ずという言葉があるけど、正確にはローマのどこを目指しているのだろう、バチカンか、でもそうも見えなかったなぁ、などとぶつぶつ言いながら螺旋階段を降りる。
帰り道パンテオンに立ち寄る。
正午過ぎの光。
奥まで入り込んでいたが、不��議なことに、朝よりも全体が暗く感じた。
なぜだろうか。
コントラス���を強く表現して、神秘性を高める効果を狙っているのだろうか。
ちなみに中央の屋根のガラスはもともとガラスだったのだろうか、勉強不足だからあとで調べよう、などと思いつつ宿へ荷物を取りに帰る。
昼食をとりつつ、空港までのバスを待つ。ローマはFCO空港まで1時間ほどかかる。
遠いいが、国際線なので早めに到着。
18:00 Rome FCO → 20:40 Croatia ZAG
STAY@ Zagreb “Hotel Central”
クロアチアの首都ザグレブに着く。
22時前にホテルに着き、MJS同期2人と待ち合わせ。
3人で夜の広場を巡る。
三ヶ月振りの再会で、近況を話し合う。
やはり楽しい。
12/28 Zagreb
朝からマーケットや旧市街を巡る。チェッダーチーズというヨーグルトを固めたようなチーズが有名らしく、同じ商品を10人くらいのお爺さんお婆さんがそれぞれ違う屋台を出して、売っている。買う人はどこを選べばいいのやら。
クロアチアの伝統料理を食す。サルマという名のロールキャベツうまし。
チーズと薄肉ポークのハムカツにチェッダーチーズをすこし付けて食べる料理もうまし。まさにハムカツだよね、といって盛り上がる。
午後4時のバスでプリトヴィッツェ国立公園へ向かう。
12/29 Plitvice Lake, Dubrovnik
朝8時15分に宿の主人に車で国立公園第二入口まで送ってもらう。
5時間歩く。
虹鱒の唐揚げが有名らしいが、食べることができなかった。
ザグレブ経由で、ドブロブニクへ向かう。
ドブロブニクの宿23時着。
夜の城壁で囲われた街を散策。
12/30
朝、日の出を海岸沿いから眺める。
カフェで朝食を食べ、城壁を巡る。
一周するのに約2時間。天然の要塞と人工の石積みと自然の美しさを兼ね備える素晴らしい都市である。
その後ロープウェイで山頂まで登り全体を見渡す。
クロアチアの国旗が快晴の空をはためいている。
旅もここまで。
ドブロブニク特有の海鮮料理をみんなで食し、お別れ。
次会うのは9ヶ月後になるか。
後ろ髪引かれる思いの中、空港へ向かう。
ロンドンへ向かう。
16:30 DBV → 20:45 LHR
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