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#マサチューセッツ州フェアヘーブン
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ジョン万次郎上陸之地記念碑
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2018年2月18日に糸満市の大度海岸でジョン万次郎上陸之地記念碑の式典が盛大に開かれました。
式典には、糸満市の上原昭市長をはじめ、ジョン万次郎の直系5代目となる子孫の中濱京さんなど全国から万次郎ファン約260人(新聞では220人)が建立を祝いった様です。この式典を沖縄のローカルテレビ製作会社が番組を作成し県内のニュースや新聞で放送されています。
市長は「日帰り観光地だった糸満観光を、整備、活用し滞在型、体験型を作り上げる」と観光事業の本格的な参入を目指すと宣言しています。
実際に糸満市は今年から大型リゾートホテルの開業がいくつか進行しています。
ただ、ジョン万次郎は沖縄の県民との交流や会話は一切していませんし、今回の記念碑は郷里の土佐の方向に向かって立っていると説明していますが、薩摩藩から土佐に向かったのは1852年10月5日のことなので、1851年1月2日とか3日ではありません。また、小型ボートで一人万次郎がアメリカから沖縄にたどり着くことができるはずありません。
沖縄県の報道にあるジョン万次郎の話は微妙に違うので正しくジョン万次郎の物語を簡単に紹介しておきます。
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【ジョン万次郎の軌跡】
土佐の中濱で漁師の子として生まれた「万次郎」
1841年1月、15歳になると親元を離れて先輩漁師の筆の拯、重助、五右衛門、寅右衛門4名と初めての漁に出ますが、土佐清水市の足摺岬(あしづり)の沖合で嵐に遭い船は遭難。一週間くらい漂流し無人島鳥島に漂着します。
5人はアホウドリを捕まえるなど自給自足で5ヶ月間を過ごした頃、捕鯨船「ジョン・ハウランド号」が鳥島に近づいてきました。助けを求めるとホイットフィールド船長が船に乗せてくれます。
言葉は全く通じませんが、最初に着いた島はハワイ。
3名はハワイで船を降りますが、万次郎は船長とアメリカに行くことになり、東海岸のマサチューセッツ州フェアヘーブンで船長の養子になります。
1843年までの2年間学校で勉強し、1846年にアメリカを出て、アフリカの南を経由してグアム、琉球に上陸するも全く言葉が通じなく豚と牛をもらって船で返されてしまいます。
万次郎は琉球を「マンビコシン」という島だと思ったと回想している。
しかし、万次郎はこの時、鎖国している日本で四国より琉球はゆるゆるな島だと感じたので、帰国の島は琉球にしようと決めます。
琉球を出てグアムへ向かう途中、船長が病気でマニラで船を降りることになり、船の中で新しい船長を選挙で選ぶことになります。万次郎は1位になるが先輩のエンキーに譲りハワイを経由してアメリカに戻りました。
1849年、サンフランシスコでゴールドラッシュが起こります。
万次郎は日本に帰国するための資金を得るために東海岸から西海岸まで船で8ヶ月かけてサンフランシスコへ行きました。
7ヶ月で約400万円(当時600ドル)を稼ぐと、ハワイに渡り日本人仲間を連れて日本に戻ろうと誘います。
重助は既に亡くなっていて、寅右衛門は結婚していてハワイに残ることになります。筆の拯は伝蔵と改名して五右衛門と3名で日本に帰ることになります。
金山で稼いだ金でアドベンチャー号を買い、更に中国のお茶を買い付けている巨大船「サラボイド号」にアドベンチャー号と共に乗せてもらうことができ、グアムを経由して琉球に到着。
漂流から10年、琉球に上陸した3名でしたが、日本語も忘れていて、琉球の言葉もわからなかったために7ヶ月間取り調べを受け、その後当時支配していた薩摩藩に1ヶ月間滞在。
当時は、取り調べ調書は琉球から薩摩藩に送られ、薩摩藩から江戸城に送られていたので時間がかかっていました。
1852年10月5日に解放された万次郎は土佐に戻ることができました。
帰国後の万次郎は江戸城付きの武士になり中浜万次郎と名乗ります。
1853年ペリー来航
当時、中浜万次郎は江戸城付きの武士になっていたが、スパイ容疑がかかっていてペリーと会うことは禁止されました。
1860年、日米脩好通商条約
品川から咸臨丸がアメリカのサンフランシスコに出向することになります。
艦長「勝海舟」万次郎は通訳として乗船。福沢諭吉も軍艦奉行のお付きで乗船していました。万次郎以外は全員初めてのアメリカ、船の知識も経験も万次郎が一番優れていました。
アメリカの帰りにハワイを経由すると、ハワイでは万次郎が有名人で大人気だったのを見た咸臨丸の乗組員は万次郎のすごさに驚きます。
日本に戻り、明治維新後は現在の東京大学で英語の教師になり1898年72歳で永眠。雑司ヶ谷霊園に眠る。
ということで、ジョン万次郎がアメリカで勉学したのは2年間。
特に造船技術を学びクジラ漁で地球の約7週分を移動しました。
ジョン万次郎がいなければ、勝海舟も福沢諭吉も生前アメリカに渡ることはできなかったかもしれません。
特に、ペリーとの会談で両国の事情を知っているジョン万次郎が同席できていたならば、明治維新は違う形で早まったのではないかとも思います。
明治維新後のジョン万次郎は、本人の希望や能力は生かされることなく英語の教師にされてしまいます。「ABCの歌」を日本に伝えたことは有名ですね。
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【学校法人 岩谷学園 沖縄事務所】
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warehouse-fujiki · 6 years
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ジョンマンデニムメイキングストーリーNO8
「Johnmung」デニムプロジェクト
志国高知幕末維新博、土佐清水市ジョン万次郎資料館リニューアル記念
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大政奉還150周年を迎えた2017年より、高知県では「志国高知 幕末維新博」として土佐が生んだ偉人ゆかりの地など、高知県内25の歴史文化施設などで貴重な歴史資料の展示を行っています。明治維新150年を迎える2018年には「博覧会第二幕」として、様々な施設がリニューアルオープンを予定しており、ジョン万次郎ゆかりの施設では高知市にある「坂本龍馬記念館」、そして土佐清水市の「ジョン万次郎資料館」がリニューアルオープンします。
 そのリニューアルに際し、高知県、土佐清水市は郷土が生んだ偉人「ジョン万次郎」が伝えた「アメリカ」に着目、「開国」に大きな影響を与えた存在でありながら、あまり知られていない偉人が遺した功績を紐解きます。「初めてアメリカを伝えた人」として「漂流」「ゴールドラッシュ」「デニム」そして「ミシン」というキーワードをベースに、1870年代に「万次郎」がはじめて日本でジーンズを縫い上げるというフィクションストーリーを史実に基づいて編み上げます。
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このデニムプロジェクトにおいて、高知県土佐清水市が依頼した人物はヴィンテージジーンズの案内役として、雑誌、テレビ等に多く出演する「ベルベルジン・藤原裕氏」(高知県出身)そして藤原氏自らがデニム作りを依頼したのは、早くから19世紀のデニムの歴史を研究し、忠実に基づき再現することで世界的に知られるデニムメーカー「ウエアハウス」です。
これまで得た莫大なヴィンテージジーンズの知識、ウエアハウスが持つコンセプト「徹底的なディテールの追及」が融合し、「古いだけではなく現代に穿ける、それでいてクラシックな」デニムを作り上げるプロジェクトです。
 「アメリカを伝えた人」ジョン万次郎をオマージュしながら「デニムタイムトラベラー」となった藤原氏が、その史実にもとづいたフィクションストーリーをご案内します。
初めてアメリカを伝えた人
ジョン万次郎こと中浜万次郎は、文政10年(1827年)1月1日に土佐の中浜、今の高知県土佐清水市中浜で貧しい漁師の次男として生まれました。 9歳の時に父親を亡くし、万次郎は幼い頃から稼ぎに出ていました。
天保12年(1841年)、14歳だった万次郎は船頭の筆の丞(伝蔵)等、仲間4人と共に漁に出て遭難。数日間漂流した後、太平洋に浮かぶ無人島「鳥島」に漂着します。万次郎達はそこで過酷な無人島生活をおくりました。漂着から143日後、万次郎は仲間と共にアメリカの捕鯨船ジョン・ホーランド号によって助けられます。この出会いが万次郎の人生を大きく変えることとなりました。
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救助されたものの当時の日本は鎖国をしており、外国の船は容易に近づくことはできませんでした。それに、帰国できたとしても命の保証はありません。ジョン・ホーランド号の船長ホイットフィールドは、万次郎を除く4人を安全なハワイに降ろし、万次郎はそのまま船に残ることにしました。万次郎を気に入っていたホイットフィールド船長は、アメリカに渡ることを決心した万次郎を快く受け入れます。そうして万次郎は、アメリカへと渡りました。この時、船名にちなんだジョン・マンという愛称をつけられました。そして万次郎は日本人として初めてアメリカ本土へ足を踏み入れたのです。
アメリカ本土��渡った万次郎はホイットフィールド船長の養子となり、マサチューセッツ州フェアヘーブンで共に暮らしました。学校で、英語・数学・測量・航海術・造船技術などを学びました。万次郎は首席になるほど熱心に勉学に励んだそうです。卒業後は捕鯨船に乗り、数年の航海を経た後日本に帰国することを決意。帰国資金を得るために万次郎が向かったのは、ゴールドラッシュの起こっていたカリフォルニアでした。金鉱で得た資金で船を購入し、ハワイの漂流仲間のもとへ向かいます。1847年、フロリダ号で日本に帰国することを試みて、八丈島や蝦夷地の近くまで達しながら、帰国することができなかった経験を経ていた伝蔵と五右衛門とともに日本に向けて出航するのでした。
 このフロリダ号で、伝蔵はアーサー・コックス船長より様々な生活用品や衣料とともに、青デニム3ヤードを75セントで購入した(宮永孝著『ジョン・マンと呼ばれた男』(集英社1994年)とあります。
嘉永4年(1851年)、薩摩藩領の琉球(現:沖縄県)に万次郎は上陸します。万次郎達は番所で尋問後に薩摩本土に送られ、薩摩藩や長崎奉行所などで長期に渡っての尋問を受けました。 そして嘉永6年(1853年)、帰国から約2年後に土佐へ帰郷します。帰国した際に日本語をほとんど忘れていた万次郎は、蘭学の素養がある絵師・河田小龍が立ち会う土佐藩の尋問を受けます。このとき河田小龍によってまとめられたのが「漂巽紀略全4冊」です。漂流から米国などでの生活を経て帰国するまでをまとめており、絵師ならではの挿絵が多くあります。土佐藩主山内容堂公にも献上され、多くの大名が写本により目にし、2年後河田小龍を尋ねた坂本龍馬や多くの幕末志士たちも目にしたといわれます。
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同年の嘉永6年(1853年)、万次郎は幕府に招聘され江戸へ。直参旗本となります。その際、故郷である中浜を姓として授かり、中浜万次郎と名乗るようになりました。この異例の出世の背景には、ペリー来航によりアメリカの情報を必要としていた幕府の事情があったと考えられます。万次郎は翻訳や通訳、造船指揮にと精力的に働き、また藩校の教授にも任命されました。しかし、やがて解任。スパイ疑惑により、ペリーの通訳からも外されてしまいます。しかしながら陰では日米和親条約の締結に向け、尽力していました。
万延元年(1860年)万次郎は、日米修好通商条約の批准書交換のために幕府が派遣した海外使節団の一人として、咸臨丸に乗り込むこととなりました。この軍艦・咸臨丸には、艦長の勝海舟や福沢諭吉ら歴史的に重要な人物らも乗っていました。
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この際滞在したサンフランシスコのホテルで、当時アメリカで発売され、大人気であった家庭用ミシンの実演販売を目の当たりにします。そこで万次郎はミシンを購入、初めて日本へ持ち帰ったのです。
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その後、捕鯨活動、教授就任、海外渡航などめまぐるしく動き続けます。 明治3年(1870年)、普仏戦争視察団としてヨーロッパへ派遣されます。ニューヨークに滞在したときに、フェアヘーブンに足を運んだ万次郎は約20年ぶりに恩人であるホイットフィールド船長に再会を果たしました。 しかし帰国後、万次郎は病に倒れます。それ以後は静かに暮らすようになりました。
時間的な余裕が出来た万次郎、その頃懐かしいアメリカの地では洋服に「ジーンズ」というものが生まれ、丈夫な作業着として人気が出ていることを知ります。
そして、ハワイからの帰国の際、伝蔵らとともに持ち帰った3ヤードのデニムを使い、一台の貴重なミシンでそのジーンズを作ることを試みたのでした。「ああ、思えばゴールドラッシュでは、人々が「黄金熱」に熱狂していたとき、作業ズボンとしてこんな丈夫なパンツがあれば、大事な3ピースを汚すこともなかったのに・・・」
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当時、ホイットフィールドとの思い出が詰まった大切な3ピースで金を採掘した万次郎は、そう回想したに違いありません・・・
そして明治31年(1898年)、71歳で万次郎はその生涯を終えました。
ジョン・マンこと、中浜万次郎が伝えたアメリカが、日本近代化の礎を築いたといっても過言ではありません。
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