大英博物館のエンタシス
行きました
大英博物館
鳩がいました、上野に似てるな
やはり大きいですね
上の人たちの細工に見惚れました
エンタシスでかくれんぼしたい
中もえらい広くてですね
いきなりミュージアムショップに突っ込んじゃうあたりがわたし
広すぎるのと、入場無料なのとで、この日はエジプトとギリシャのフロアだけに絞って回りました
なんなら写真も撮り放題です
レリーフ気に入りました
エジプトの方が、ギリシャよりもムキムキな感じがします
アフリカも行っちゃいます?
こういう動物の作品が気になる1日でした
最後に目にしたこの展示の作品は、かなり刺激的でグロテスクでした
作品のモデルが生涯にお世話になった薬が、出生届から死亡診断書まで、ともに並んでいました
おみやげに、剣をよっぽど買いたかったのだけど、これでチャン��ラをしてくれそうな友達は思い浮かばなかったのでやめておきました
2階への道のりはまだ遠いな
帰るときは狭い門から
そしてこの日はイギリスのスタバで「TEAVANA」フリーデーだったので、帰るに寄っていただきました、温まりました
そう、友達と一緒にね!
実にいい天気でした
この後は奥のスーパーで食材を買って帰りましたとさ
ああ、もちろん缶バッジも買いましたよ
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わたしの勇敢なともだち
わたしには勇敢な友人がいます
小学生の頃から、わたしが誰かに傷つけられたと言って泣けば代わりに相手を怒ってくれるような子で、間違っていることは間違っていると、先生に向かっても、大勢の前でも、きちんと言える人でした
そんな彼女が先日、わたしが今住んでいるロンドンに旅行に来ていて、滞在最終日には一緒に過ごして、ロンドンの街全体を見渡せる名物観覧車・ロンドンアイに乗ってから空港へ向かいました
わたしが空港に同行したのには理由があります
彼女は旅の途中で、復路の便が先の巨大台風の影響で欠航になったというメールを受け取っていたのです、そこで航空会社の対応窓口に電話をかけましたが、恐らく同じ状況の人で問い合わせが殺到したのでしょう、とても繋がる気配がありませんでした
そのためこれは直接空港のカウンターに行くしかないと判断し、彼女は英語を話せないので、わたしは一緒に行くことにしたのです
午後4時頃、空港のカウンターに着いたときには窓口に少し列ができていて、わたしたちもそこに並ぶよう促されました
確か先頭から6番目か7番目だ��たと記憶しています
わたしたちの後にも続々と、同じ状況の人が並び始めました
でも気がついたら、並び始めてから1時間近く経っても、2つしかないデスクには、それぞれわたしたちが到着した時にいた人たちがずっと変わらずに立っていました、つまり列が進んでいなかったのです
漏れ聞こえてきたことには代替便の候補がかなり厳しくて、当日中に出発したいとリスエストをした場合には、2回くらい乗り換えたり、日本の別の都市の空港に着くという話も出てきました
そりゃあ、より良い条件はないのかと尋ねたくなる気持ちもわかります、交渉に時間がかかるわけです
その列にいた人はほとんどが日本への直航便を予約していた人たちなので、乗り換えは厳しいなあ、でも覚悟せねばいけないんだなあという気持ちを抱いていたと思います
列の少し脇には既に交渉を終えた若いヤンキーチームがいて、それにも関わらずマネージャーと軽い口論になっていたため、困難な状況が伺えました
そして並び始めて1時間を過ぎた頃、ひとつのデスクが対応していた3人組のサラリーマンがついにそこを離れました
列の先頭にいたお兄さんが、腰掛けていたスーツケースからよっこいしょと立ち上がり、多くの人も列が少し動くことに希望を持ったそのとき、もうひとつのデスクに詰め寄っていた旅行会社の添乗員4人組が分裂して、お兄さんの前に滑り込むようにして空いたデスクに座る航空会社の職員に交渉を始めました
なんという華麗な割り込み! お兄さんはへなへなとスーツケースに再び腰掛けました、もちろん後に続いていたわたしたちも愕然とします
お兄さんの様子を見ていた人たち同士で目があったりして、わたしたちはコミュニケーションを取り始めました
わたしは思わずそのお兄さんに、今自分の番だって期待しましたよね、と声をかけました
列が前後した人たち同士で話し始めたら、だんだんと、それぞれの人が小耳に挟んだ会話から得た情報が集まって、添乗員さんたちが団体の席の交渉をするのに、団体をばらさずに乗せる方法を模索していることがわかりました
当日振替はまず無理、できたとしても2回乗り換え、直航便なら2,3日待つしかないと言われているこの状況で、です!
それは交渉に時間がかかるわけだし、ただえさえ無茶な要求をしているのに、たった2つしかないデスクを占領しているなんて、かなりひどいことです
はじめはその状況をなんとかイライラせずにやり過ごそうと思って、わたしと友人でユーモアを最大にいかして、さっきのヤンキーはマネージャーの様子を動画に撮っていたから、きっとこの場にいたらこれも写真に収めたよね、ヤンキーここに呼んでこようか、なんて冗談を言っていたのですが、デスクを占拠されて30分ほどたっても状況が変わらないので、だんだんに列の人たちは怒りが湧いてきました
これは声を上げたほうがいいのだろうか、という迷いが生じてきます
そして立ち上がったのはわたしの勇敢な友人でした
「わたし、今すごい言いたい、もう言ってくる」
添乗員に占領をやめさせるべく颯爽とデスクに向かう彼女をわたしも追います
彼女は添乗員チームの間に割って入り「すいません」と言いました
「あの、みなさん同じ会社の方ですよね? だったら1つのデスクにまとまってもらえませんか?」
すると添乗員さんチームが口々に、これまでずっと4人で頭を寄せ合って行動していたにも関わらず、自分たちが2つのデスクを使うことがいかに正当であるか主張し始めました
自分たちは別の担当を持っているんだ、同僚の後ろで待っていたんだ、何時から並んでいる、といった言葉です
友人は、待っているのはみなさん一緒です、と言ってから、添乗員には見切りをつけて、航空会社の人に向き直ってこう言いました
「航空会社さんのほうでも、団体と個人は受付を分けて対応するとか、していただけないんですか」
するとデスクでパソコンに向かっていたお兄さんは慌てたように、自分はそういうことはほかの職員がやっていると思っていたからと口籠ります
そのときお兄さんは一旦団体をひとつのデスクにまとめようとしたように見えました、自分が向かい合っていた添乗員さんに、今自分がおこなった作業を一度改めて、隣のデスクに移してもいいですか、とまで言いかけたのに、添乗員さんは睨んでそのセリフを最後まで言わせませんでした
そこでお兄さんは、他の職員に団体と個人を分ける対応をやってくれるように伝えてきます、と立ち上がったものの、でも自分がそれをすると振替の手続きがもっと遅くなるけれどいいですか、と言い出したので、わたしは友人の後ろから「だったらこちらがほかの人に言えばいいんですか」と言いました
頷いた航空会社の人を見て、わたしは列の先頭で待つお兄さんに「荷物見ててください!」と言い残し、その足で友人を伴ってフロアを暇そうに漂っていた同じ会社の職員さんたちに声をかけに行きました
そこにいたのは現地スタッフばかりで英語が必要だったので、わたしが要望を伝えました
でもその職員さんたちにできることがないのもすぐわかりました、希望を伝えたら上の人上の人に伝えていくばかり、さらにはわたしたちをただなだめようとする人に突き当たったので、その人と話しても不毛と思い適当に切り上げました
少し諦めた気持ちで列に戻ると、わたしたちの後ろに並んでいた現地在住の日本人マダムが、今ここに航空会社のマネージャーを呼んだから、と言いました
現場でこういうことが起きているのを、マネージャーは把握して整備する責任がある、とマダムは言います、マダムもわたしと同じように、ロンドンを訪れていたご友人の予約便の欠航にあって英語の補助をしようと空港にやってきた方でした
ほどなくやってきたマネージャーは、完全にクレーマーの処理をしにきたという体で、来るなり淀みのない謝罪の言葉の数々を口にし始めました、まるでそれは英会話指南本の謝罪のページのよう
そのあまりに不誠実な態度にマダムは怒り心頭、マネージャーの声に被せてでも希望を伝えようとしましたが、マダムが何を言おうとしても言葉を遮って一言も聞かずにただただ大きな声で謝罪を口にするので、マダムはやがて「あんたの話なんて聞きたくない!」とそっぽを向くそぶりを見せました
その様子が見るに堪えず、わたしも思わず口を開いていました
「Excuse me, sir. わたしたちは台風の被害が大きいことなんてよくわかっているし、お宅が欠航したことを責めたいんじゃない、今ここで、お宅の職員が誰も列の進行を気に留めてないことが問題なんです、いいですか、わたしたちの要求はひとつです、団体と個人の窓口を分けてください!」
「団体だって個人の集まりです、わたしたちは個人をないがしろにしません!」
「でもあの団体はひとまとまりに座ろうとしているんですよ! そんなの個人じゃない!」
マネージャーはカウンターは長く待たせることが見込まれていたから、ホームページに「電話を推奨する」と書いているんだと言いました
いやいや電話が繋がらないから来たんだよとマダムとわたしが幕したら、わたしの隣にいた現地人の女性が「だったら今ここでかけてみたら良いの?」と訊いたところ、マネージャーは「でも電話窓口は15分前に閉まりました」と返します
その女性が続けて、わたしはホームページで定刻運行という情報を見て来たんだけど、と問えば、あなたが見ているのはコードシェアをしている会社のもので、そこまでうちは管理していないし、うちは正しい情報を出した、とマネージャー
結局女性はカウンターに見切りをつけて、その場で別の航空会社の便を自腹で購入し、それは4日後のものだったそうですが、予約していた便をキャンセルすると言って列を離れました
背後の状況にさすがに恐れをなしたか、気がついたら添乗員チームは再び合体してひとつのデスクにまとまっていました
しかしマネージャーはこちらがもはや聞きたくないと言っているのに延々謝罪を怒鳴るため、マダムとわたしとマネージャーの闘いはこのあとも少し続いて、その様子を添乗員チームはせせら笑いながら見ていました
マネージャーが何の利益も残さずにやっと立ち去り、わたしたちが並び始めてから2時間近くたって、ようやく添乗員チームはデスクを離れました
後ろの人たちに一言でも詫びがあれば見直したところですが、こちらをちらちらとうかがいながら、しれっと去って行きました
そのあとの経過はまあまあです、先頭のお兄さんが去り、そのあとにいたご夫婦は一旦提示された案に苦笑いで頭を抱え別の選択肢も検討している様子でした
少しずつ流れるようになった列の中で、マダムとわたしはお互いを労い、お互いのゲストの幸運を祈り合いました
マダムとそのご友人は、我が友に、あなたが初めに声を上げてくれたから、旅行会社は占領をやめて、列が動くようになったと言いました
結局わたしたちは旅行会社が無茶な要求をするのをやめさせることも、航空会社に団体と個人の窓口を分けてもらう希望を叶えたわけでもないので、心から謙遜しましたが、マダムは、こういう勇気のある若い人がいてくれるのは希望だわ、と言ってくれました
そして我が友人の番が来て、担当が英語話者のお兄さんだったのでわたしが通訳しつつ、翌日朝のフライトを得ることができて、彼女のターンはものの5分ほどで終わりました
マダムのゲストと場所を入れ替えながら、マダムに彼女が得たフライトの報告をすると、マダムは英国式にグッドラックと言うので、わたしも、そちらもグッドラック、と言って別れました
彼女はのちのち、わたしの「荷物見ててください!」と「そちらもグッドラック」がおもしろかったと言いました
英国生活4年目、わたしもかなりかぶれてきたようです
でもわたしは、添乗員に向かっていった彼女の姿を見て、あの田舎の小さな町にひとつだけある中学校の教室で、おでこにできたにきびをからかわれて泣いていたわたしに「誰がそんなこと言ったの、わたし言ってくるから!」と言い残して彼女が見せた背中を思い出し、友人の変わらなぬまっすぐな勇敢さに感銘を受けました
中学時代に何度も、彼女のそういうまっすぐさにハッとさせられて、わたしは彼女を尊敬して、見習いたいと思っていたはずでした
最近でもたまに彼女がわたしのために立ち向かってくれたシーンを思い出すことはあったけれど、不正を前にした彼女の、媚びも迷いもない真っ直ぐさにじかに触れて、どんな状況でも恐れずに守るべき正義のようなものを、わたしは忘れていたように思いました
無論今のわたしもどちらかといえば媚びないほうの人間ですが、そのルーツはここにあったんだな、ということにも気づきました
この文章はコーヒー屋さんで書いていますが、たった今、隣の女性に、トイレに行く間カバンやパソコンを見ていてください、と頼まれました
わたしはあの日空港で、お兄さんに日本語で勢いよくそのセリフを言い残したシーンを思い出しながら、もちろん!と笑顔を返しました
勇敢なともだちに、乾杯
そしてわたしもそんな友達に見合う自分であろう、大事なときに立ち上がれる人間であろうと思いながら、冷めたコーヒーをすするのでした
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セルフVRできるのもらった!
近所のキングズクロス駅を歩いていたら
何か見つけました
インサイドアビーロード?
とりあえず並んでみたところ………
アビーロードの、かのビートルズが録音していたスタジオを再現した空間で
ヘッドホンと段ボール製のVR(バーチャルリアリティ=仮想現実)のゴーグルを渡され、くるくる回る椅子に座って体験!
これはグーグルが作ったアプリのキャンペーンのようで、この段ボールの中には、VRが見られるアプリを起動したiPhoneが入っています
アビーロードのスタジオの様子を体験して、3・4種類の映像を見ましたが、中にはオーケストラの録音のシーンがありました
ヴィオラと第2ヴァイオリンの間くらいから全体を見渡せて、椅子をぐるぐる回したり、下を向いたり上を向いたりして、 仮想現実の世界を大いに楽しみました
下を向いても自分の膝は見えないのがちょっと不思議なくらい、その場に混ざっているような感じで、むしろ透明人間になってそこにいるような感覚でした
そして帰り際には
写真まで撮ってもらえました! 撮影してもらって、その場でメールしたりSNSに投稿できます
しかもおみやげに、、、
体験させてもらった段ボールのゴーグル、もらえた!
レンズが入っていて、ここにアプリをインストールしたスマホを入れれば、、、自宅でVRできるそうな!
グーグル太っ腹やな、、、今度やってみます
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手のひらに残された幸を
もう6年前のことだ。7月のある暑い日に、わたしは個人ブログを始めた。最初は Livedoor ブログで書いていて、特に開設してすぐの頃は量より数を担保したくて、ごくごく些細なことでも、オチがなくても、何でもいいから1日1本は書こうとしていた。
それを3,4年たってから読み返した時には、内容の薄さが恥ずかしくて仕方なかったけれど、今となっては当時の努力が我ながらかわいらしい。5年以上の時を経て、当時の自分は、自分であって、自分でないような感覚なのだ。客観的に眺めたときに、電車の中で1日の出来事を振り返ってはネタをこしらえて、小さなガラケーの画面に命を刻みつけた日々はもはや懐かしいと思うにも遠くて、ただただ、20歳のわたしなりにがんばっていたなあという感想だけが心に浮かびあがる。
ブログをつける頻度が減ったのは、生活スタイルの変化が一番の理由と言うに相応しい。主に投稿をこしらえていたのは大学帰りの電車の中だったから、学部を卒業して、東京栃木を往復する習慣がなくなって、しかも渡英して、主にバス通学をするようになったわたしに、ブログを更新する習慣を癖付ける良い隙間が見つからなかった。
そうこうしているうちに、2年、3年と時が過ぎ、2回ほど引っ越した。通学はバスよりも歩くことが増えて、ついに今の家からは完全に徒歩通学。40分の新幹線の中で画面を睨んでいたわたしは、今、いや、今現在は通学していないがあえて今と言おう、今では片道30分、公園の中を歩くヘルシーっぷり。もはや手放したくない習慣はブログ更新よりも日々のウォーキングのほうで、ロックダウンが起こって通学がふっとんだあとも、週に1,2回は1時間の散歩に出かけるくらいだった。
何をもって好ましいと言えるかは、そのとき置かれた状況によって変わる。やがてわたしは携帯の画面に長文を打ち込むことが苦痛に変わって、今となってはちょっとしたメールの返信にすらパソコンを開くほうを好む。でも長距離通学をしている頃は特に、日中は都内で過ごすことが大半だったから、動き回る日々の中でも隙間で省スペースに原稿執筆やメールの作成ができる便利さに依存した。
果たして、わたし自身がこれだけ暮らしの変化を遂げたこの6年間の間に、ブログを読んでくれる人にはどんな変化があったのだろうか。そもそも初期に読んでくれていた人と今読んでくれる人がずいぶん変わったろうとも思うし、もしずっと読んでくれているような稀有な人がいたとして、その人自身、特に今年は、暮らしの変化を余儀なくされたとお察しする。
わたしのブログだからわたしのことを言わせてもらえば、わたしはこの伝染病にまつわる禍いの中で、命に別条はないが、それなりに堪えることもいくつかあった。でもそれを今語るつもりはないし、誰かのせいにする気もない。
人によって置かれている状況は違うのだということを、今年はすでに強く思い知らされた。その人から見える都合不都合、それをひとつひとつ否定せずに踏み潰さずに拾い上げることはむつかしいが、それが他者理解への一歩である。それでいて、自分の事情を他者から踏みにじられないように、守りたいとただ抱え込んでしまうことは、あまりに繊細だろうか。
ブログ7年目おめでとう、と、自分のブログを祝福するつもりで立ち上げたはずの画面にしては、いくぶんシリアスなものができあがってしまったが、これもこれでいいや。
6月の終わり、ロンドンは急に30度を超すような日が2,3日続いて、暑くて暑くて仕方ないときがあった。その真ん中の日だったと思う。4時過ぎには明るい朝の中でもうふたたび目を閉じることができなくなって、服だけを着替えたら何も持たずに公園に出てしまった。それはほとんど衝動で、水も飲んでいなかったけれど、それも待てないくらいのことだった。
すでに暑いことは暑かったけれど、じっとしていれば風を感じられるくらいには耐えられた。ロンドン随一の公園の丘の中腹にたたずんで、草の上に腰掛けて、まだジョギング族しかいない朝の公園を焦点が合わない裸眼で眺めながら、ただただ泣いた。
不安も不満も、みな一様に抱えている。それでも、ウイルスを患った人たちを目の当たりにしながら、あの人もこの人も自分も生きててよかった、と思うあたりに、そもそも自分の初期設定は「生きたい」ほうにベクトルがあることに安心を覚える。考えてもわからないことは先の自分に託して、まずは手の届く未来を、ひとまず今日を良くすることが、わたしの手の中にある幸運なのだ。
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メアリー・ポピンズになれない
なぜか忘れられない感覚のひとつに、ある冬の日の光景がある。ロンドンの閑静な住宅街の真ん中で、とっくに日が暮れてしまい、まばらな街灯と、吹き荒ぶ冬の風の中で佇んでいる記憶。その日、その前後に何があったかは覚えていない。でもその街に住っている人のお宅に、家庭教師としてヴァイオリンを教えに行っていたこと、そのお宅と契約したときにレッスン代を値切られたこと、そしてほんの数回だけ通ったあとに、より安く済むよそのグループレッスンに切り替えると宣告されたことは記憶している。
あの頃はわたしもまだ不慣れだった。そのお宅とはただただ前提がすれ違っていた気がする。経験の浅いわたしは、風邪で休まれたときの対応がわからなかった。レッスンは都度約束するものだと思っていたし、いつ治るかわからないので、レッスンを休みますとだけ言われた段階で翌週は保証しないものだと思っていた。でも相手からすれば、毎週何曜日で頼んでいるのだから、言わなくてもその曜日その時間はうちのために確保されているもんだ、と思っていたのだろう。結果として、当日になって「今日はレッスンお願いします」と言われて、すでにほかの予定を入れてしまっていたわたしは対応できずに、レッスンが1回分、宙に浮いた。
その後いろいろなケースを経験した中で、人によって前提が大きく違うことを痛いほど思い知った。雇っているのは生徒側だから、講師はリクエスト通りにサービス提供しろ、という圧を感じることもあった。ヴァイオリンの優先順位がひたすら低くて、何かあると当日でもあっさりキャンセルされたこともある。自分が育った環境では、先生の言うことが絶対で、先生の予定が最優先で、生徒側がキャンセルするのはインフルエンザくらいよほどのことがないと起こり得なかった。まさに『ベルサイユのばら』のオスカルが貧しいロザリーの家で当然のこととして食前のショコラを求めたことに似て、わたしは「先生」になれば当たり前に尊重されるもんだ、とどこかで思っていたのかもしれない。
そうした「貴族」の感覚は捨てるべきなんだろうと理解した一方、あまりに軽んじられるのは困る。当日になってまで無理な時間変更を要求されると、ほかの仕事に支障をきたす。レッスンをキャンセルされると、見込んでいた収入がまるっと飛ぶ。このあたりは、サラリー、すなわち月収で生きている人と歩合で生きている人との間に感覚の違いがありそうだ。��る程度のところで線を引いて、ここまではできる・できないを自分のなかで明確にしておかないと、自他境界が曖昧になって、消耗してしまう。
もうひとつの大きな感覚のギャップに、レッスン中のコミュニケーションがある。わたしの生徒は「言い訳」をすることに遠慮がない。英国流の日常会話を踏まえると「言い訳」は会話の潤滑油なのだが、「これをやってみて」と言ったときに、あからさまに嫌な顔をする者も、「できない」とはっきり言ってくる者もいる。わたしたちが生徒だった頃は、先生に対して「口ごたえ」をしようもんなら、親が血相を変えてすっ飛んできた。イギリスだって恐らくそうだった。でもそれは、時代背景も、またわたしたちが専門家を目指していたという背景も多分に影響する。余暇の楽しみとして、または知育のひとつとしてヴァイオリンに取り組む人に「言い訳するな」は酷である。
事実「言い訳」には指導のヒントが隠れていることが多いので、生徒のレベルを問わず、その口を封じるよりもどんどん引き出して「できない理由」探しに役立てたほうが有益だ。されども、これも講師の心身の余裕によっては受け止めきれないことがある。前の予定を何とか終えてギリギリで生徒宅にたどり着いた先で、一生懸命工夫を凝らして指導をした上で、もし「えーやりたくない」と一言言われたら、心も折れるのである。しかし、レッスン以外の場で講師の身に起こったことを、生徒が知る由もないし、考慮する筋合いもない。ただただ、こちらの都合に過ぎないのだ。
もうひとつの忘れられない景色は2月の終わりのターミナル駅のバス停。夕方の5時ごろで、前の週まで真っ暗だった空が、その日はまだ紫色だった。変わらず寒くはあったが、春に向かう一筋の希望が感じられた。そのバスは電車が好きな5歳さんのもとに向かう路線だった。初めは心を開いてもらえずにコミュニケーションに苦慮したけれど、「電車が好き」というわたしとの共通項が見つかってからは、たくさん話してくれるようになった。いろいろな都合があって、レッスンに通った時間は長くなかったし、わたしが弾けるようにしてあげられた曲は多くなかった。だから自分のやり方が正解だったのかどうかはわからないが、でも「良い音が出たね」と声をかけたときに、こちらを振り向いて見せてくれた笑顔が強く記憶に残っている。
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言葉を学んだら音楽を知った
2021年の暮れから一念発起して英語のレッスンを受け始めた。28歳になって、イギリスに住んで6年目を迎えて、改めて受ける「英語のレッスン」である。大人になってから何かを学ぼうとすると、見栄やプライド、羞恥心が邪魔をする。見え隠れする「それら」をどうにか取り除きながら、時に振り回されながら、改めて英語に向き合った。
とりわけイントネーションとリズムの矯正に注力した結果、1年前の自分とは明らかに違う。街で英語を聞き返される回数は減り、人に話しかける心理的ハードルは大幅に下がった。
そうした勉強の成果は嬉しい反面、同じ文章を話すにも、イントネーションが異なるだけでこれほどまでに相手の反応が変わるというのは、恐ろしいことでもあった。博士論文で「アンコンシャスバイアス」を扱う以上、「Languagism」について考えずにはいられない。それでいて、意識して話し方を直したところで、未だ、咄嗟に出る音は日本語的な響きを伴っている。もしこの高い言葉の壁を超えられたとき、人類はふたつめのバベルの塔を作ってしまうのだろうか。
英語のイントネーションを完全に習得したとは言えないが、ヨーロッパ言語のそれを学んだことによって、己の本業である「西洋クラシック音楽」の理解が進んだことは嬉しい副産物であった。自分の中で、抑揚と拍子について腑に落ちるところがあり、音楽のひらめきは翻って再び英語学習に還元され、相乗効果があったと言える。
仮に音声学の知識がなくとも、人はアナウンサーの話し方などに聞かれるような淀みのない話し方を感知できるように、聞こえるイントネーションの違和感のほうも同様に検知できる。すなわちそれは、旋律の「淀み」もまた、聞き手の耳に違和感として残るのだ。己の英語を見直したところ、結果的に「より自然な音楽」を探求することにもなった。
これまでクラシック音楽ばかりを聴いて生きてきたが、今年はいわゆる J-pop や、あるいはロックなどのジャンルに触れてみることで、ジャンルを超えて「表現」に共通するものを探していた。歌詞の抑揚に合わせて声のボリュームを自在に絞る様は、音楽の種類や言葉を同じくしなくても、共有できる技のように思う。
西洋音楽を演奏するならば、西洋の言語を理解したほうが良いとは長らく言われてきた。しかしこうして「英語」が音のひとつとして相対化されてみると、「日本語」で真に「音楽的に」すなわち「自然な旋律」を表現できる人は、西洋の言語や西洋クラシック音楽の理論を知らずとも、よほど「音楽」の何たるかを体得しているように聞こえてくる。
音そのものが持つベクトルであったり、その質量と重力を感じることができれば、音が向かう方向は自ずと決まる。もしそうだとすれば、どんな言語の感覚を持っていようとも、音の本質を正確に掴むことができる人は、音の連なりを「自然」な形でアウトプットできるのではないか。そんな仮説を立てると、日本語話者は西洋の和声感を表せないという疑念は、わたしの思い込みであったかもしれないと思えてくる。
こうした考えに至ったのは英語を改めて勉強したおかげだが、しかしそれはきっかけであって、もし日本語の音に対してより解像度の高い耳を持っていたら、とっくに気づいていたことかもしれない。
わたしは自分の YouTube チャンネルに喋っている動画を投稿するもので、動画を編集していると、自分の話す日本語を何度も聞くことになる。すると、話し方の癖もわかってきた。聞こえるのは訛りや澱みだけではない、どこで息を継ぐか、それによって話が下手にも上手にも聞こえる。
これが、長い間ヴァイオリンのレッスンで言われてきた「フレーズを意識する」ということか、と、ようやく理解した気がする。話の主となる単語ははっきり聞きたいし、修飾語のほうが目立っていたり、本題までに息切れが多いと、話が見えてこない。わかった気になっていたが、どこか自分の納得まで落とし込めていなかった。
今度は、理解したそれを自分が描いた通りにアウトプットするために、ひとつひとつの音を形作るテクニックを磨く必要があるわけで、その技を伴って音作りを自在にできたとき、それを体得したと言えるのだと思う。その道のりはまだ長い。
こと英語に関して言えば、社会学を少し学ぶ身としては、英国のエリートの英語をあまりにしっかり身につけてしまうと、英国の社会階層も引き受けることになって、ひいては構造的差別の助長になりかねない、とも想像する。西欧中心主義への抵抗として自国語訛りの英語を誇り高く使う人たちもいる。一方で、マイノリティがものを言う時に、マジョリティーにわかる言語を用いるのは、ひとつの有効な方法になる場合もある。願わくば両方を器用に使い分けられたら便利だが、そうなるとうっかり特権性に無自覚になっても怖い。
ひとまず、4年かけている論文の締め切りが迫ってきて、英語学習にじっくり時間を割く気持ちの余裕がいよいよなくなったので、レッスンをちょうど12か月受講したところで休会とした。何かを始めるのも、止めるのも、同じくらい大切な決断なのである。
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21か月ぶりに立った舞台
ヴァイオリンを3歳で弾き始めてから、こんなに舞台に立たなかったことはありません。子どもの頃はお教室の発表会があったおかげですが、それも年に一度か、1年半に一度の開催だったので、舞台がこんなに遠のくことは、わたしにとって初めてのことでした。
最初にロックダウンになったとき、これは長くかかりそうだ、自分が人前で演奏できる日まで、どうしたら本番の感覚を忘れずに、腕を落とさずにいられるだろうかと考えた時に、かねてから解説していた、でもあまり活発ではなかった YouTube チャンネルを活用しようと思い立ちました。YouTube に投稿するためだけに、新しい曲の譜読みをし、暗譜もして、カメラの前で心を決めて曲を通すという時間を定期的に設けるようにしました。
ついでにチャンネル登録者数が増えて収益化できれば、経済的な助けにもなると考えて、結局演奏のみならず Vlog のような動画も交えて、毎週1投稿を掲げて2021年を過ごしてきました。なかなか思うように演奏機会を持てない中で、それでも腐らずにいられたのは、YouTube の動画を作るという大義名分があったからです。
11月��なって急遽、冒頭で触れた演奏会への出演依頼をいただいて、これがわたしのロックダウン後最初の本番となりました。しかもプログラムはバッハの無伴奏、ヴァイオリン一挺での演奏です。ただでさえ無伴奏は緊張感が高いのに、ましてやブランク明け。果たして自分は大丈夫だろうか、一体当日はどんな状態で迎えるのだろう、とメンタル面への不安が絶えませんでした。
もちろん自分のできうる最大限のパフォーマンスをしたいとは思いましたが、一方で、21か月もブランクがあるのだから、まずは本番に向けて曲を仕上げること、そして本番の舞台に立つこと、この2点を達成できたらよしとしよう、多少のミスがあろうとも仕方なしと受け止めよう、と思うことで、メンタルの不安を和らげようともしました。本番でどれだけ緊張するか、それは当日舞台に出てみるまで予想できません。
でもいざ時を迎えて舞台袖から踏み出してみたら、ほどよい緊張感はありながら、落ち着いた気持ちでした。それもそれで予想できなかったコンディションで、どうせものすごく緊張して足が震えてしまうだろうな、と想定してシミュレーションしていただけに、かえって驚いてしまいましたが、無理なく最初の音に踏み込めた気がします。
特にその日はお客さまの雰囲気が良くて、ロックダウン中に生音を恋しく思った人が多かったせいもあるかもしれませんが、集中力高く耳を傾けてくださるのを肌で感じました。この空気だったらいける、と思って、「究極の p (ピアノ=小さい音)」に挑んだのはすばらしい瞬間でした。会場がとても美しい響きを持った教会で、しかもほかの楽器がいない無伴奏だからこそ出せる、うんと小さな音。しかも集中力の高いお客さまだからこそ出せた音。聞こえるか聞こえないかのぎりぎりを攻めましたが、それはじっと聞き取ってくれたお客さまがあってこそ成り立つ「p」です。
こういった音はリハーサルで多少試しはするものの、実際に本番で使うかどうかは舞台に立つときまで決めずに臨みます。いくつかの好条件が重ならないと、この音を「楽しむ」ことは難しいからです。しかもこれはアコースティックでないと実現できないもので、マイクは高性能が故に、小さな音も"実際より大きく"拾ってしまいますし、配信は視聴者側の環境で音量が変わってしまいます。
そうした一瞬の判断をするためには、自分の感覚を研ぎ澄ます必要があります。だから本番のブランクがあると、舞台に立つのが怖いと感じるのです。カメラ相手でのパフォーマンスは、そういったフィードバックを得られることはないけれども、本番のような緊張感の中で自分の音の聞こえ方を考えるという訓練にはなったようです。
YouTube を投稿し続けるというのもなかなか簡単ではなく、人目に触れることなので、恥ずかしさもあれば、難しいコメントがつくこともあり、チャンネル運営をし続けるのは必ずしも楽しいこととは言えません。それでも YouTube を活用していたおかげで、この本番に落ち着いて臨めたのだと思いました。腐らずにやってきてよかったと思いました。舞台に戻れてよかったと思いました。
とはいえ、またいつコロナの状況が変わるか知れず、次の本番の予定も立っていません。このあとも少しブランクができてしまう恐れもあるけれど、YouTube の活用は有効だとわかったし、次の機会まで、また腐らずに淡々と己を磨いていきたいと気持ちを新たにしました。
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演劇のはなしをしよう
たまには真面目に書こう。
ロンドンにて、野田秀樹氏の舞台『One Green Bottle』を観に行った。
ロンドンでなぜわざわざ日本人を…と言われそうだが、上演はなんと英語である。しかもキャサリン・ハンターとグリン・プリチャードというイギリスの優れた俳優と野田氏との三人舞台と聞いて興味を持った。
ちなみに言うとロンドンの人々は「ロンドンでわざわざ日本人の演劇を見るなんて…」といった類の言葉を決して言わない。おもしろいものはどこの誰のものであろうとおもしろいんだからいいじゃないか! それが全てだ。
さて、箱は100人ほどの規模の小劇場で、わたしはバルコニー席ではあったが、そこまで極端に舞台が見えないわけではなく、悪くない。加えて観劇した回は上演後にアフタートークがある当たり回であった。
物語は、とある3人家族がその夜の予定を巡って「誰が留守番をするのか」話し合いを繰り広げるのだが、それぞれ"譲れない用事"があるものの、いかんせんその用事がわりと"しょーもない"。相手の予定の切迫性のなさをお互いに攻め、留守番役を擦りつけ合う。
家族模様を描く上で、海外から見た日本的なもの=オリエンタルな要素を盛り込みつつ、ロンドンの観客が笑えるよう台本を翻訳する過程で細かいディテールがブリティッシュなギャグセンスに沿って変更されていると聞く。
確かにところどころ日本人のわたしには難しいところもあり、それは完全に英語の作品であった。
また三人家族の空気感がこれ、ひとりっ子のわたしにとってはものすごく共感できるものがある。3人という関係性は非常にフレキシブルに敵味方を変えるもので、あちらと組んでこちらを攻めたと思えば、敵の敵は味方だと言って仲間を組み替えたり、とかくひとりっ子家庭は難しい。
我が家でも"しょーもない"ことを発端に家族ぐるみのけんかに発展することは"あるある"なので、他人事には思えない。それは"おもしろおかしい"という意味でもあり、その結末を知ると"我が身にも降りかかりそうで笑えない"という意味でもあり。
さらに興味深かったのが2点。
ひとつは、今回の演出においては3人の役者が全員自分の性とは異なる性の役を演じていたこと。それでいて3人ともが巧妙に"親父くささ""おばさんくささ""若い子らしい動き"を繰り出してくるものだから、始めは"ジェンダーエクスチェンジが起こっている"という前知識を疑うほどであった。違う性別の役者が、その性別の特徴を演じることで、それは強調されるという例に深い興味を覚えた。
そしてもうひとつ興味を持ったのが、エンディングである。
この『One Green Bottle』はもともと日本語で書かれた『表に出ろいっ!』を翻訳しており、言語を変える作業の中で結末を変えるという判断に至ったのだという。
そして英語版オリジナルのラストが作られたわけだが、これがどういうわけか、わたしが留学直前に見た井上ひさしの『頭痛肩こり樋口一葉』のラストシーンを彷彿とさせた。
なぜだ。ブリティッシュの観客に共感を持たせるために変更されたエンディングなのに、なぜわたしは井上ひさしを感じている。
実は個人的に『頭痛肩こり樋口一葉』観劇後にミソジニーになりかかって、あの手の女の群像劇は自分には合わないようだと感じていたのだが、しかし今回の野田演劇は先に触れたその"ジェンダーエクスチェンジ"具合が絶妙な塩梅だったのだと思う。ただし逆に『頭痛肩こり』は好きだが『表に出ろいっ!』は好まない、というタイプもいるのだろうなと思った。
加えてあとふたつ。
着席時に昭和の日本を存分に思わせるBGMがかかっていて、日本というとどうしても昭和の産物ばかりが強いキャラクターを持つのだな、そろそろ平成の何かが生まれてもいいんじゃないか、などと生意気に思ったが、この舞台、始まってみたら両親の20世紀感と娘の21世紀感のギャップが見事だった。
この点実は翻訳者のウィル・シャープ氏が若いというのがかなり貢献したようだ。
そしてもう1点。偉そうな言い方に聞こえないことを祈るが、野田氏の英語は、とてもブリティッシュで、ネイティヴかと聞き紛うほどだった。
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今ならたのしめること
わたくしはその昔バレエをやっていました
まぁ…下手だったんですよ
本業は音楽だし、という気持ちもあって、今のわたしのキャラからは信じられないくらい、意識低い系に成り下がって毎週のレッスンに通っていました
ワガノワ式で、海外のロシア系のバレエスクールからわざわざ先生を呼んでいるような、かなり熱い指導の教室に在籍していたものの
結局5年やっても、体を動かすのは好きになれなかったんですよね
音楽に乗って体を動かすことの意味を見出せず、そもそも「体を動かせない」上に「音楽を感じていない」ままに踊っていたために、それは踊りではなかったでしょう
そこにストーリーがあれば、ようやく感情移入できるようになり、踊ることに喜びを見出すことができたため
教室全体でひとつの演目を作る発表会はとても好きでした
3回出演した発表会のうち2回は『くるみ割り人形』、もう1度は『コッペリア』
踊った曲は今でも鮮明に覚えています
しかしながら、やはり「バレエ」と聞くと、苦い思い出のほうが多く思い出されるので、ちょっとだけ避けていた節もあります
が
やはり
ロイヤルバレエの本拠地いながら見ないという手は無いだろう、と
まず劇場そのものが美しく、魅了されます
そしてバレエを習っていたときは、まだここに注目するほど知識は無かったな、オーケストラピット
木質の客席、真紅のベルベットの座席にテンションが上がります
この日の演目は『くるみ割り人形』。2度も踊ったプログラムであることも、この日劇場に向かおうと思えた理由のひとつでした。
始まってみたら意外や意外、心から楽しんでいる自分がいました
ふと冷める瞬間もなしに、2時間があっという間に過ぎ去りました
こんな風に没入できたのって、かなり久しぶりかもしれない
それが、少し嫌厭していたバレエだったことも驚きでした
なんだろう、その美しさを前にして、負の感情なんて沸きませんでした
圧倒的、という言葉ほど強制的ではなく、もっと、すっと染み入るような美しさ
嫌味なく、心に染み渡るものがありました
これはロイヤルバレエ団の持つ気品ゆえなのか…?
今だったらいろいろなこと、たのしめるのかもしれないな
いつか我がルーツ、ワガノワバレエも見たいなと思った夜でした
会場を出ると、満月が煌々と輝いていました
見るからに寒さが伝わる冬の空ながら、手袋を忘れて冷える帰り道すら愛おしいと感じるほどには、満たされておりました
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お気に入りのお店
イギリスだって晴れるんだよっていう
わりと晴れてたりします
ふらふらと紅茶を買いに「Whittard」へ
もっと「中央通り」とか「表参道」みたいなきれいな街にある店舗もあるんですけど
この雑踏の中にぽっと、まさか感満載できれいなお店がある隠れ家的雰囲気が好きでこの店舗に来ます
今はアリスキャンペーンみたいですね
中に入り、さてどのフレーバーを買おうかと棚を見上げて悩んでいたら
「May I help you?」
と声をかけられ、いえいえひとりで見ます大丈夫ですと返して1分後
また店員のお姉さんが落ち着きなくやってきたので、そんなに心配されてるのかなと思ったら
「試飲いる?」
今お店でイチオシのインスタントのホットチョコレート(まぁココア的な)の新フレーバー
ラズベリーの試飲をくれました
ありがとうお姉さん
これが結構などピンクで
大丈夫かいなって感じでしたが、たいへんおいしくてですね
でも紅茶がほしくて来たので、心を惑わされずに、紅茶の棚と向き合います
すると今度はレジにいたお兄さんに
「もっとラズベリーホットチョコレートいる?」
と声をかけられました
かまってくれるお気持ちはめちゃめちゃ嬉しいし、ほっこりするけど
あの、このお店
そんなに過保護にしてくれるんですか笑
なごみすぎる
紅茶のフレーバーを決心してレジに持っていくと
「これだけで大丈夫?」
と言われたので
「大丈夫っす」
と返したら
「これティーバッグじゃん、リーフとかーホットチョコレートとかー、大丈夫?いらないの?」
とダメ押しされ、ちょっとホットチョコレートじゃなくてインスタントティーの柑橘フレーバーの棚を思わず振り返りましたけど
いやいやいや、浪費はアカン
と心を鬼にして再び
「大丈夫。」
と返しました
メルマガ登録をすれば、学割もしてくれる、親切なお店です
学生証を出したら
「なにー、楽器やってんのー?」
と絡んでくる軽いお兄さん
「はい、レシートと商品ねー、Have a good day〜」
と紙袋もなしにむき出しでラフに渡され
ノリもラフだったな
まぁイギリスは紙袋なしが基本だからいいんだけど
前にこのお店来た時はもらえたなーと思いつつ
お兄さん楽しかったから別にどうでもいいや、今度フレーバーティー買いに来よ、と思いお店をあとにしたのでした
はは、スパイスインペリアルですって
どんな香りかな、はははは
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住んでみなきゃわからなかった
新しいサンダルを手に入れて春気分50UPです
なんかいい天気だったから、公園に呼ばれた気がして、ランチを持ち出しました
正直「なにがサマータイムだ」「なにが Day Light の有効活用だ」って思っていたのですが
なるほど、ヨーロッパに住んでみればこそ冬の日の短さもわかるし、今年は例年より暖かったとはいえ、春のありがたみの質量を実感しています
わたしは関東平野生まれ関東平野育ちなので、冬といってもこれまで太平洋型気候しか知りませんでした
西高東低冬型の気圧配置ですね
春よりも冬のほうがよっぽど晴れているんだから、そりゃあ春の日の光のありがたみも変わるってもんよ
シロツメクサも咲く公園で、ほっと午後のひととき
気分だけは高まって「エマストーンも顔負けの黄色だぜ」って思いながらカーディガン羽織った、それは嘘です
公園には多くの人が寝そべっていて、実に自由でした
食べたあと少し原稿書いてから帰りましたとさ
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青春の混沌のなかで
来月頭に修了試験を控えている。
わたしのプログラムはこうだ。
イザイ:無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ第4番
コリリアーノ:ヴァイオリン・ソナタ
+ クライスラーの小品をいくつか
一応自分のなかではテーマとして「Music by Violinist in 20 Century」を掲げている。
このコリリアーノという作曲家はまだ生きている人で、この作品は1964年のものだ。
ところで、わたしは学部の3年生のときに三善晃のヴァイオリン・ソナタに取り組んだのだが、なぜかコリリアーノを聴いていると緩徐楽章にて三善作品が連想される。
片やアメリカ、片やフランス留学をした日本人、作風が似るわけもなく、果て、同じ年代に書かれたのだろうか、と探れば、コリリアーノが64年であるのに対して、三善は54年と10年ほど先である。
三善晃のソナタは、本人が留学で渡仏する直前に書かれた、初期の作品だ。
と思考したところで、聴いているコリリアーノ自身の音源のタイトルが「Corigliano: Early Works」ということで、おや、と思いつくことがある。
三善晃は20歳のとき、コリリアーノは26歳のときにヴァイオリン・ソナタを書いている。
うむ、20歳と26歳とでは、共通項で括るにはやや幅があるかもしれない。
だがしかし、24歳の今のわたしには、未だ青春の荒波に揉まれ混沌とした社会の中に道を見出そうともがく26歳の自分を想像することは容易だ。
そして20歳の頃というのは、その混沌の入り口に立ったような気分であった。
中学生時代、Z会の通信教育に学んでいたが、会報誌の「読者からのお悩み相談コーナー」が好きだった。カウボーイの格好をしたジョーという謎のお兄さんが読者のお便りに返事をしてくれる。
そのジョーの言葉で未だに覚えているものがひとつある。
「青春というのは、たくさんのものを失うが、終わって振り返ってみると、手にひとつだけ大事なものが残っている、そういうものさ」
それを読んだ13歳のわたしは、今はこの言葉の真の意味はわからないけれど、覚えていればきっといつかわかる日が来るのではないかと思った。
あれから10年。今も時折ふとこの言葉を反芻する。
「いろいろなものを失う」というフレーズに恐れを覚えるが、事実そうなのだろう。何が自分の核心か、それを探るなかで、ありとあらゆるものに手を出し、傷つき、また自己を探す。
その混沌。これは20代特有のものではなかろうか———
なんて、ヨーロッパの明るい夜空に思想を浮かべる。
ちなみに学部の卒業試験では1984年の作品を弾いた。
あのときもピアノと思いっきり不協和音、しかも短2度をぶつけて終わったが、この度のコリリアーノも似たようなぶつけかたで終わる。
学部も修士も短2度で締めようなんて、わたしはなんと天邪鬼なんだ!と思ったが、
いろいろな都合により、プログラムの最後はクライスラーになったので、ちょっとはまろやかに終えることができそうだ。
にしても、イザイからのコリリアーノで左手が死にそうである。なぜこんなに負荷の高いプログラムを組んだのか。
恐らく、若気の至り、とはこのことである。
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夏のロンドンの青空
誰だロンドンは雨ばかりと言ったのは
わからなくはない、たしかに通り雨にはしばしば遭遇する
しかし6月7月はこれでもかと言うほど青い空が毎朝わたしを迎えてくれる
湿度がない分日陰は大層涼しいが
ひとたび外へ出ればじりじりと肌を焼く暑さだ
2年前の今頃と言ったら
わたしは日本で留学の準備をしていて
まだ見ぬ暮らしに不安すら抱けないほど
ロンドンでの生活は未知のものだった
覚えている
初めて今の学校に登校してオリエンテーションを受けたとき
ありとあらゆる説明を聞いたはずだが何が何やらさっぱりわからず
眠気に襲われるがままに、寝た
今日はいや日付変わって昨日は
卒業式のリハーサルに出たのだが
教務の人のジョークの混じった解説に
ごく自然に吹き出していた自分に
かすかな成長を感じた
だって大真面目に言うのだ…
式典中は暑さを感じるはずだから水分を準備しておくように…だけどそれは多すぎず…もし式典の途中にトイレに行きたくなってしまったら会場の端の方通って静かに行くことができるがしかしそれはかなり目立ってしまうので避けたいものでしょう…
明日はいや日付変わって今日は
2年前に学部の卒業の謝恩会でも着たお気に入りのドレスを着て
式典より2時間早く会場入りし
アカデミックガウンと角帽を身につけ
記念写真を撮影し
会場で金管バンドの高貴な演奏を聞き
いよいよ卒業式が執り行われる
卑弥呼、行ってきます、卒業式
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ティールーム卑弥呼の宴
散々ふりまわされた物件から、ついに引っ越すことにいたしました
ちょうど同じタイミングで家を引っ越す友人がいて、お互いに「食材を使い切りたい」という事案が発生したので
思い切って(無法地帯な)うちのキッチンで日本のカレーを作ってパーティをすることに
当初は3人くらいの女子会を予定してたのですが、当日いろんなことが起こって、結局最後には5人もゲストが来てくれる華々しい展開になりました
ところがカレーパーティには裏番組がありました
なんとその日に限って、夏休み中いなかったフラットメイトのひとり(一番問題児である)通称「パーリー野郎」が帰ってきたのです
*
うちのフラットには、一番若くてやんちゃなパーリー野郎と、1週間に一度チキンを丸々焼いては少しずつ食べるチキン野郎と、自炊もするけどよく出前を頼むピザ野郎がいました
パーリー野郎のあだ名の由来は、ある日わたしが帰宅したらディスコミュージックがかかっていてホームパーティが開催されていて、パーティ自体はさほど遅くならずに解散されたものの、翌日大量の酒の瓶や缶が放置されていた出来事にあります
そのときのものを含め、とにかく改装したてのはずのキッチンのサイドテーブルは酒の瓶で埋まっていて、わたしとしては触れたくもない状況なので毎日嫌だなあと思いながら見ないふりをしてきました
もちろん本気を出せば片付けられなくはないものだったけれど、その手間と労力をわたしがかけるのは違うと思ったのです
パーリー野郎も今月いっぱいは契約があるはずなのに先月早々に家財道具を全て引き揚げてさっさと引っ越していったので、もう二度と会うことはないだろうなと思っていた矢先、よりによってわたしがパーリーをしようとしたその日に帰ってきたので、とても気が滅入りました
しかもカレーを仕込んで鍋をコンロにかけておいて、わたしたちが部屋に戻った隙にパーリー野郎がキッチンに赴き、何やらバタンバタンと音をさせています
いくばくかの恐怖を抱えながら恐る恐るカレーの様子を見に行くと、なんとパーリー野郎、放置に放置を続けた酒瓶ほかゴミ類を、ゴム手袋をする本気ぶりですべて片付けていました
しかも我々がカレーの下ごしらえをしている間に、トイレ掃除と洗面台掃除まで行う徹底ぶり
チキン野郎とピザ野郎が放置した歯ブラシ類もすべて処分されていました
またわたしが家を旅で離れた間に大量投下されていたわたし以外の人々へのたまりにたまった郵便物が、気がついたら一掃されていました
一番嫌いだったパーリー野郎が、最後にまさかの展開を見せて、
あいつ、いいやつだったのかな
と思ってしまうわたしは、お人好しでしょうか
ただまあ、彼の彼女が作った彼のバースデーケーキの食べかけが冷蔵庫の中に2か月は放置されているのですが、それは手付かずのまま、彼はまた去っていきました
*
一方昨晩の‘パーリー野郎’は確実にわたしです
とはいえカレーを作ってお米を炊いて食べて談笑するだけ、酒を飲みに飲みまくって踊るよりよっぽどおしとやかなパーリーですよね?笑
たしかに不具合の多い家ではあったけれど、わたしが愛をかけて居心地よく作ったお部屋は、昨年寮に住んでいたわたしにとって、いわば初めての完全なひとり暮らしのお部屋でした
きのう来てくれた友人たちは、これまでにもわたしの部屋でわたしが催したお茶会に遊びに来てくれた人たちで、でもお茶会はそれぞれの人とこじんまりと開催していたので、そのみんなが一堂に会するというのはとても不思議で
わたしの大好きな人たちがみんな同時にわたしの部屋に集っていることは夢のようで、でもとても幸せだな、と思いました
すでに引っ越しのためにかなり荷物をまとめてしまっていたので、いつも友達をもてなしていた得意の紅茶セレクションは4種類しかなかったけれど(充分だろ)
急遽来ることになった人たちが飲み物やお菓子を持ってきてくれて、急ごしらえなのにも関わらずにわかにかわらしいホームパーティが出来上がりました
わたしのお部屋に来た人はみな、ついつい長居をしてしまう傾向にあり、まあそれはわたしもべらべらしているせいではありますが、それを「居心地いいからつい長居しちゃった」と言ってもらえることが嬉しくて
きのうもひとりがそろそろ電車が終わるから帰らなきゃと言ったとき、みんなが「もうこんな時間だったんだ!」と言い、時を忘れるほどみんなが心地よく過ごしてくれていたなら、迎える側としては本望だなと思いました
*
わたしがイギリスに来てから仲良くしていた人の多くは、この夏一緒に卒業した人たちで、国籍問わずすでに帰国してしまった人たちもいるくらいです
きのう来てくれた人たちもこれから旅立つ人が多く、ここに残ってみんなを送り出す立場になってしまったことは寂しくもあるけれど
みんなとロンドンで出会えたことが何よりの恵みだし、みんな必ずどこかでまた会えるからその日を楽しみに、みんなの未来も、わたし自身の未来も、明るいものであることを祈っています
余韻もそこそこに、もう来週には新年度が始まってしまいます
新年度を始めるための準備段階ですでにアクシデントがあり、ちょっと頭が痛いのですが、それはそれ、ちょうど2年前にイギリスに来たときの何にもわかっていなかったけれどがんばっていたあの頃の新鮮な気持ちを思い出しながら、新しい環境に向かっていきます
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引っ越さなかった夏
突然の猫は、ホームステイ先の、ホストキャットのローラでございます
今のホームステイ先に入居してちょうど1年が経ちました
半月ほど前に日本への帰省から研鑽の地ロンドンへと戻ったものの、ホストファミリーがバカンス中につきおうちにいたメンバーは猫のみ…
まあわたしとしてはローラ独り占めも幸せですけども(実は結構彼女とうまくやってる)
ご家族それぞれに旅仕事などもあり、先ほどやっと全員に帰倫の挨拶を済ませました
実にほとんど2か月ぶりにままさんに会って熱烈ハグを受けて胸熱なわたくし、そこにぱぱさんもいたので
「今日でちょうどここに越してから1年経ったって気づいたの」
と言ったら、ままさんがお祝いしなきゃ!と言って港町ライで拾ってきたという貝殻をふたつくれました
ぱぱさんはいつもわたしをクレイジーなまほと呼びますが、今日もままさんに
「クレイジーなまほが住んで1年だって!」
と言うのでわたしはあははと流していたらままさん
「この家に住むにはクレイジーが必要だからね」
と続けるので
「クレイジーなら好物だよ」
と答えておきました
ブリティッシュジョーク、ちょっとわかりにくいでしょ
でも今となってはそんなブリティッシュユーモアがないと調子が出ません
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帰京して、冬 2019
この12月ははじめの半月だけ日本に戻って、まさに駆け抜けるように過ごした。
うっかり赤信号を渡りそうになった。東京を歩いていたはずなのに、どんな小さい交差点もスクランブル式の、ロンドンでの習慣が顔を出す。目の端に映った歩行者信号が青くなったのを見て渡ろうとしたら、目の前の信号は赤かった。ロンドンで暮らし始めた頃は信号の仕組みに戸惑って、横断歩道ひとつ渡るにも、真ん中の安全地帯で何度か青信号を見送ることも少なくなかった。
自分がその扉を開けたものだから、ドアを引いたまま後ろにいた人に先を譲ったら、とても驚かれてしまった。ジェントルマンの国で、基本的にはレディーファーストが根付いていると言えど、現代のロンドンでは女性も男性も問わずに道を譲り合うことが多い。でもそんな国を知ったあとで戻った日本では、道を譲るという行為がむしろずっと珍しいことのように思った。
鼻をすする音は許されて、思い切り鼻をかむと視線を食らう日本。鼻をかむのは問題ないのに、すすっていると失礼とされるイギリス。レストランで食事が済んだら、席を立ってレジに向かう日本と、庶民的な店ですら席で会計をするイギリス。いくらでもペットボトルで緑茶を買える日本。どこでもミルク入りの紅茶を買えるイギリス。犬も歩けばコンビニに当たる東京。猫も杓子も公衆Wi-Fiに至るロンドン。
そんな、些細なところで、自分の中の「日本」と「イギリス」を見出していく。
きれいに髪を巻いて銀座の裏通りを歩いたら、これから同伴ですかと言われた、スカウトマンだったのだろうか。ソーホーやカムデンでナンパされることはあっても、水商売のスカウトはさすがに経験がない。東京なら安全って思っていたけれど、そんなの嘘だと思った。ロンドンに戻ってすぐのある日、夜11時の家路で、道端の車から降りてきた男の人を咄嗟に警戒した自分に気づく。日本の女性たちがどれだけ無意識に防衛本能を起動していることか、それは東京しか知らなければ、本人すら気づく術がない。
飲食店でのサービスが極めて整っている日本から見れば、ロンドンに驚かされることもたくさんある。ロンドンでは、グラスから飲み物がこぼれに溢れて外側がベタベタで渡されさても、怒ってはいけない。店員がテーブルを拭くという習慣だってちゃんとあるのだけど、日本の掃除のクオリティにはかなわない。カフェで自分が使った食器を自分で戻すのは日本だけ。空いている席に前の人の食器が残っていても、気分を悪くするほどのこともないのがヨーロッパ。
いろんな色がついた薄い酒を永遠に重ねる日本。一発きりっとエールかワインを決めるロンドン。東京の女の子はスカートにパンプスにブランドもののハンドバッグ。ロンドンの女の子はスキニーにショートブーツと革のサッチェル。デートは男の子がおごるのがステータスな日本。食事代はきっちり割り勘か交互に持つイギリス。
どっちも良くて、どっちも悪い。わたしの心の中の天秤は、揺れに揺れる。
クリスマスの午後、わたしはプリムローズ・ヒルまで散歩に出かけた。この丘はロンドンの街を一望できる場所で、ロンドンっ子の休日の定番スポットだが、近年ではインスタグラマーや観光客のものになりつつある。朝から雲ひとつない快晴の穏やかな日で、わたしは空いたベンチに座って冬の締まった空気を楽しみながら書き物をしていた。ほどなくして、わたしの座るベンチに日本人3人組が座り合わせてきた。
同じくらいの年頃と思しき男性が「お〜ここ空いてる、水たまりで何か汚ねぇけどいいかな?」と一緒の女性2人に呼びかると、わたしに断ることもなく座って、携帯でクリスマスの音楽を爆音で流しながらお酒を飲み始めた。わたしに退いてほしいんだろうと思ったけど、先に座ったのはわたしだし、と思ってしばらく書き物を続けた。男は電話がかかってきて席を外して、女子2人の会話がしばし流れる。
10分20分たって男が電話を終えて帰ってきた頃、わたしはあらかじめ決めていた帰る時間になったので、あくまで自分のペースでPCをしまって立ち上がった瞬間、男性が秒速で「おっしゃ空いたぜ広がろうぜ!」と大きな声で言った。遠ざかりつつ、あまりの速さに辟易したところで、女性たちが「あの人、日本人じゃない?」と話すのが聞こえる。男性も「え、今の日本人だった?」と繰り返す。
3人の挙動に、ちょうどわたしが思う日本の嫌いな部分が全部詰まっていた。
あなたがたは、この公園静かでめっちゃ好きー!と言ったけれど、あなたたちがうるさいのよ。ベンチで相席になるときには、声をかけるなり、目配せするのが英国式だ。女子2人の会話は、パブでナンパしてもらって彼氏を作りたい話、日本は治安が良くて酔っ払っても大丈夫という話。はて、最近だと諸外国において、日本に旅行する人々に対して’飲み物に薬を盛られる被害に気をつけろ’と注意喚起が聞かれるくらいなのに、のんきなものだ。そして、あなたがたの見立て通りわたしは日本人だけれども、だったら何なのか。
でも日本にだって、たとえば新幹線で隣の席に座ってもよいかと声をかけてくれる人はいる。彼女たちを見て、どこにいるかじゃない、自分がどうあるかなんだな、と思った。環境が人に及ぼす影響も大きいけれど、とはいえ、東京にいる、ロンドンにいるってだけで、人は変わらない。東京で、何を見るのか。ロンドンで、何を思うのか。
ロンドン生活も4年目、と言っても、わたしは今まで定期的に一時帰国を挟んでいて、これまでだったら信号機を見誤るようなことはなく、日本に戻れば瞬時にモードを切り替えられたもので、はたまたロンドンに戻ってもすぐにはギアチェンジをできずに異邦人の感を持ったものだった。でも今回初めて、すぐには東京に適応できなくて、ロンドンには瞬時に馴染める自分が現れた。そこまで来ると今度は、ロンドンという街に嫌気がさす日だって来るだろう。
たとえどこにいようとも、自分がどうありたいか、それを大事にしようと強く思った。
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