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#ライフキロク
real-sail · 9 months
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日曜日午後2時、電波越しの達郎
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山下達郎がずっと嫌いで、好きだった。山下達郎(以下、達郎)は両親が好きな歌手で、わたしの理解では、あまり好みがオーバーラップしない両親ふたりにとっては珍しく共通の趣味のひとつとして楽しめるのが達郎の歌だった。それでも片方が好きで片方が嫌いな歌も存在するので、家族でのドライブのときにかけられるナンバーはかなり限られる。ゆえにわたしは「達郎のいろいろな曲を知っている」というよりは、「いくつかの限られた曲を聴き込んでいる」という嗜み方だ。でもそうしたわけで、幼い頃から達郎の歌声には親しんでいた、もうそれは否応なく。
嫌いだった理由はふたつある。ひとつに、その継ぎ目のないシームレスな声が、幼いわたしにはサイレンを彷彿とさせて怖かったのだ。そもそも町の防災サイレンが苦手な子どもで、火災予防週間になると余分に多く鳴るサイレンに耳を塞いで布団に潜り込んでいたくらい、わたしは「ぬるっと迫り来る音」が怖かった。すなわち達郎の歌声の繋ぎ目のなさは、わたしにとって人間離れしているもののように感じられた。それはすごい声を持っているからだということはのちに理解した。
もうひとつの理由は、両親が好きなものだから、同じものを好きになるまいとするある種の生存本能だと思う。エビデンスなしに書くけれど、ほら、自分と遠いDNAの人を人間は嗅ぎ分けられる、なんて言うじゃない。あれみたいなことだと思うのだが、子供の頃のわたしには両親が好きなものをたまにあえて避けたくなる機能が働くことがあった。
でも大人になってみると、達郎の歌はあまりにもわたしの耳にこびりついていることに気づく。何より、達郎の音楽をかけたり、達郎の日曜のラジオを聞きながら家族でドライブに行く図は、のちのち楽しい思い出として脳裏で再生された。一方で、自分の周りでは達郎を同じ濃度で聞いている友人がいなかった。高校、大学、または大学院での友人の中には自分たちの親世代に人気の歌手を好んで聞く人が何人かいて、それぞれの人が別の歌手のコアなファンだった。それにやや憧れて、わたしは達郎の曲が好きで聞くよ、なんてアイデンティティのように言うこともあった。
実際アイデンティティのひとつではある。両親はわたしの名前のインスピレーションを達郎の曲から得たらしい。国際ヨットレースのために書かれた曲を聞いて、帆を張ってさわやかな風を受けて海を進むヨットの図を思い浮かべたところから真帆という単語(何を隠そうこれは名前以前に船のとある状態を示す名詞なのである)に行き着いたと聞いている。
そう知って実際の曲『Blow』をCDプレイヤーでかけてひとりで視聴したときに、わたしは曲の渋さにびっくりしてしまった。それまでも耳にしていたがタイトルと中身が一致していなかった。この曲のことだったのか。『ドーナツ・ソング』のようなポップなほうをイメージしていたら、どちらかというと湿度が高いほうの曲。メジャーではなくマイナー。クラシックで言うところのレチタティーヴォのような感じ、というのは、まるで言葉を話すように歌われる曲で、文章にちょっと抑揚を強めに付けたら結果的に音程がついた旋律に聞こえる、そういう作りの曲だ。達郎の声のシームレスっぷりが遺憾無く発揮される。
そのときすでにヴァイオリンを弾いていたわたし、すなわち器楽奏者のわたしにとっては、レチは掴みづらくて苦手だった。もっとリズムがはっきりしていてほしかった。聴音能力もまだ未熟で、あまりに言葉然としている旋律は、絶対音感がありながら音高がわからなくなるくらいだった。器楽の人間ゆえに、今もそうだが、歌詞を聞き取る能力が弱い。言葉を単語としてではなく音として捉えてしまうので、言葉の存在感が強いと、わたしの耳はバグを起こしてしまうのだ。その曲はそれ以前から何度も聞いていたにも関わらず、わたしは達郎が何を言っているのかひとつもわからないでいた。
実際には普通に4拍子だし音高も楽譜にきっちり起こせるほうの曲だが、当時のわたしは、自分の知っている拍子と音高に明瞭に当てはまらない旋律にいらいらした。でも、両親はこの曲に良い印象を抱いたからこそ、大切な曲として聞き続けているのだと思うと、その愛を受け止めたかった。そしてわたしはヴァイオリンのお稽古の中で経験していた ― 第一印象で好きになれない曲も、根気強く付き合うと好きになれることがある、という現象を。きっとこの曲の良さがわからないのはわたしがまだ幼いからだろう、この良さがわかるまで何度も咀嚼していこう、とわたしは思ったのだった。
しかし達郎の歌の歌詞が聞き取りにくいというのは、一種の共通認識らしい。達郎のラジオ『サンデーソングブック』の中で忘れ難いエピソードがある。ある日のリスナーからのお便りで、「『LOVE GOES ON(その瞳は女神)』の歌詞の一部が空耳でどうしても『あけみ』に聞こえるけれど、それだと脈絡がないので絶対に違うはず、なんと言っているのですか」というものがあった。結局本来の歌詞は「アルケミー」のはずなのに「あけみ」という名前のように聞こえて仕方ないというオチだったはずだ。ちょうど、ひとりの女性への想いを歌い上げる曲なので、その女性が「あけみ」だという想像まで伴うところに可笑しさがあった。
このお便りを読み上げた達郎は、おもしろがっている様子だったが、答えを絶対に言わなかった。しつこくらい何度も「正解は歌詞カードを見てください」を繰り返して、答えを言わない達郎を、小学生のわたしは「意地悪な人だなあ」と思った。確かに、当時は音楽を聴くと言ったら必ずCDを買っていたはずだから、歌詞カードはそこにある。よほどお便りを出すより簡単に歌詞はわかっただろう。リスナーの人はそれでもお便りを出す手間をかけたのは、達郎との交流がほしかったわけで。ただ達郎のラジオを聞いてお便りするような人なら、そうした「意地悪さ」も嬉しがったかもしれない。そもそも、お便りが取り上げられただけでクジを当てたようなものだもんな。
でもわたしは、答えをその場で発表したほうがみんな楽しめるのに、と思った。わたしはそのあと曲がかかるまで該当箇所が思い浮かばなかったので、お便りへのコメントを聞いている間、すごくフラストレーションが溜まった。でも達郎流に言うなら、それで思い浮かばない人にまで親切にする義理はないのだろう。そういう人に“僕の音楽は必要ない”のかもしれない。
ちなみにその後しばらく空耳に関するお便りがいくつか続いた記憶がある。リスナーたちは「実は聞き取れない歌詞あるよね」と共感したのだろう。達郎はやっぱり、歌詞カードを見ろとしか言わなかった。ちなみにわたしは「高気圧ガール」をいつも「高気圧ケロロン」と空耳する。
嫌いだったはずなのに、すでにここまでで2500字以上も達郎の思い出を語っている。掘ればまだ出てくる。『新・東京ラプソディー』に準えて、母からはわたしに対して、自転車は国道246号線でしか乗らないでほしい、しかもおしゃれな緑色の自転車で、というかなり限定的なリクエストがあった話とか、中学時代の担任の先生が『クリスマス・イブ』を授業中に歌い出した時に、わたしはその曲の先の展開を知っているがゆえに「oh~yeah」という素人が真似をすると事故になりそうな部分で先生がどうするのか先回りして心配になってしまう話とか(先生は達郎風をやりきって教室は静まり返った)。それだけ達郎の歌はわたしに染み付いている。
そうして音楽が染み付いていることで、音楽を作った人の思想も無意識のうちにインストールしているのではないかという気がしてきて、恐ろしくなってしまったのが、先日のあの『サンデーソングブック』の発言だった。名前にもまとった達郎の影に、わたしは恐れ慄いた。もし両親が達郎のことを擁護したら、わたしは両親に絶望してしまうとも思ったし、もし両親が達郎の発言を知らないとしたら、知らないままでいるほうが家族の幸せかもしれないとも考えた。でも ― その数日後に両親と顔を合わせたときに、両親のほうから言及があった。達郎の件の発言にものすごくがっかりして、冷めてしまったこと。これまで何十年も楽しんできた時間を、台無しにされた気分になったこと。実際のラジオを聞いて、その語り口にもがっかりさせられたこと。
わたしは考えた。確かに真帆という名前のインスピレーションは達郎の歌から得たものだった。でもその歌の歌詞には全く出てこない言葉で、それは両親が見つけてあつらえてくれたものだ。こうして一緒に達郎にがっかりしたと言える両親が選んでくれたものであり、何より、ここまでおおよそ30年は、わたし自身がこの名前に自分の生き様を刻みつけてきた。この名前が司る人格は、誰のものでもない、わたしが形作ったものだ。むしろ達郎なんかに影響されて、この大好きな名前に残念なイメージを持たせられて堪るか、とも思った。
思い出は色褪せた。そこに流れる達郎の曲を、わたしたちは今は楽しめない。でもそこにあった家族の団らんまで色褪せさせて堪るもんか。わたしはこれからも思い出を大事に抱えていく。でも、そこにあった音楽を愛せなくなる出来事があったことも、忘れない。
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real-sail · 5 years
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わたしの勇敢なともだち
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わたしには勇敢な友人がいます 小学生の頃から、わたしが誰かに傷つけられたと言って泣けば代わりに相手を怒ってくれるような子で、間違っていることは間違っていると、先生に向かっても、大勢の前でも、きちんと言える人でした
そんな彼女が先日、わたしが今住んでいるロンドンに旅行に来ていて、滞在最終日には一緒に過ごして、ロンドンの街全体を見渡せる名物観覧車・ロンドンアイに乗ってから空港へ向かいました
わたしが空港に同行したのには理由があります 彼女は旅の途中で、復路の便が先の巨大台風の影響で欠航になったというメールを受け取っていたのです、そこで航空会社の対応窓口に電話をかけましたが、恐らく同じ状況の人で問い合わせが殺到したのでしょう、とても繋がる気配がありませんでした そのためこれは直接空港のカウンターに行くしかないと判断し、彼女は英語を話せないので、わたしは一緒に行くことにしたのです
午後4時頃、空港のカウンターに着いたときには窓口に少し列ができていて、わたしたちもそこに並ぶよう促されました 確か先頭から6番目か7番目だったと記憶しています
わたしたちの後にも続々と、同じ状況の人が並び始めました
でも気がついたら、並び始めてから1時間近く経っても、2つしかないデスクには、それぞれわたしたちが到着した時にいた人たちがずっと変わらずに立っていました、つまり列が進んでいなかったのです
漏れ聞こえてきたことには代替便の候補がかなり厳しくて、当日中に出発したいとリスエストをした場合には、2回くらい乗り換えたり、日本の別の都市の空港に着くという話も出てきました
そりゃあ、より良い条件はないのかと尋ねたくなる気持ちもわかります、交渉に時間がかかるわけです
その列にいた人はほとんどが日本への直航便を予約していた人たちなので、乗り換えは厳しいなあ、でも覚悟せねばいけないんだなあという気持ちを抱いていたと思います
列の少し脇には既に交渉を終えた若いヤンキーチームがいて、それにも関わらずマネージャーと軽い口論になっていたため、困難な状況が伺えました
そして並び始めて1時間を過ぎた頃、ひとつのデスクが対応していた3人組のサラリーマンがついにそこを離れました 列の先頭にいたお兄さんが、腰掛けていたスーツケースからよっこいしょと立ち上がり、多くの人も列が少し動くことに希望を持ったそのとき、もうひとつのデスクに詰め寄っていた旅行会社の添乗員4人組が分裂して、お兄さんの前に滑り込むようにして空いたデスクに座る航空会社の職員に交渉を始めました
なんという華麗な割り込み! お兄さんはへなへなとスーツケースに再び腰掛けました、もちろん後に続いていたわたしたちも愕然とします お兄さんの様子を見ていた人たち同士で目があったりして、わたしたちはコミュニケーションを取り始めました わたしは思わずそのお兄さんに、今自分の番だって期待しましたよね、と声をかけました
列が前後した人たち同士で話し始めたら、だんだんと、それぞれの人が小耳に挟んだ会話から得た情報が集まって、添乗員さんたちが団体の席の交渉をするのに、団体をばらさずに乗せる方法を模索していることがわかりました 当日振替はまず無理、できたとしても2回乗り換え、直航便なら2,3日待つしかないと言われているこの状況で、です!
それは交渉に時間がかかるわけだし、ただえさえ無茶な要求をしているのに、たった2つしかないデスクを占領しているなんて、かなりひどいことです はじめはその状況をなんとかイライラせずにやり過ごそうと思って、わたしと友人でユーモアを最大にいかして、さっきのヤンキーはマネージャーの様子を動画に撮っていたから、きっとこの場にいたらこれも写真に収めたよね、ヤンキーここに呼んでこようか、なんて冗談を言っていたのですが、デスクを占拠されて30分ほどたっても状況が変わらないので、だんだんに列の人たちは怒りが湧いてきました これは声を上げたほうがいいのだろうか、という迷いが生じてきます
そして立ち上がったのはわたしの勇敢な友人でした
「わたし、今すごい言いたい、もう言ってくる」
添乗員に占領をやめさせるべく颯爽とデスクに向かう彼女をわたしも追います 彼女は添乗員チームの間に割って入り「すいません」と言いました
「あの、みなさん同じ会社の方ですよね? だったら1つのデスクにまとまってもらえませんか?」
すると添乗員さんチームが口々に、これまでずっと4人で頭を寄せ合って行動していたにも関わらず、自分たちが2つのデスクを使うことがいかに正当であるか主張し始めました
自分たちは別の担当を持っているんだ、同僚の後ろで待っていたんだ、何時から並んでいる、といった言葉です
友人は、待っているのはみなさん一緒です、と言ってから、添乗員には見切りをつけて、航空会社の人に向き直ってこう言いました
「航空会社さんのほうでも、団体と個人は受付を分けて対応するとか、していただけないんですか」
するとデスクでパソコンに向かっていたお兄さんは慌てたように、自分はそういうことはほかの職員がやっていると思っていたからと口籠ります そのときお兄さんは一旦団体をひとつのデスクにまとめようとしたように見えました、自分が向かい合っていた添乗員さんに、今自分がおこなった作業を一度改めて、隣のデスクに移してもいいですか、とまで言いかけたのに、添乗員さんは睨んでそのセリフを最後まで言わせませんでした 
そこでお兄さんは、他の職員に団体と個人を分ける対応をやってくれるように伝えてきます、と立ち上がったものの、でも自分がそれをすると振替の手続きがもっと遅くなるけれどいいですか、と言い出したので、わたしは友人の後ろから「だったらこちらがほかの人に言えばいいんですか」と言いました 頷いた航空会社の人を見て、わたしは列の先頭で待つお兄さんに「荷物見ててください!」と言い残し、その足で友人を伴ってフロアを暇そうに漂っていた同じ会社の職員さんたちに声をかけに行きました
そこにいたのは現地スタッフばかりで英語が必要だったので、わたしが要望を伝えました でもその職員さんたちにできることがないのもすぐわかりました、希望を伝えたら上の人上の人に伝えていくばかり、さらにはわたしたちをただなだめようとする人に突き当たったので、その人と話しても不毛と思い適当に切り上げました
少し諦めた気持ちで列に戻ると、わたしたちの後ろに並んでいた現地在住の日本人マダムが、今ここに航空会社のマネージャーを呼んだから、と言いました 現場でこういうことが起きているのを、マネージャーは把握して整備する責任がある、とマダムは言います、マダムもわたしと同じように、ロンドンを訪れていたご友人の予約便の欠航にあって英語の補助をしようと空港にやってきた方でした
ほどなくやってきたマネージャーは、完全にクレーマーの処理をしにきたという体で、来るなり淀みのない謝罪の言葉の数々を口にし始めました、まるでそれは英会話指南本の謝罪のページのよう そのあまりに不誠実な態度にマダムは怒り心頭、マネージャーの声に被せてでも希望を伝えようとしましたが、マダムが何を言おうとしても言葉を遮って一言も聞かずにただただ大きな声で謝罪を口にするので、マダムはやがて「あんたの話なんて聞きたくない!」とそっぽを向くそぶりを見せました
その様子が見るに堪えず、わたしも思わず口を開いていました
「Excuse me, sir. わたしたちは台風の被害が大きいことなんてよくわかっているし、お宅が欠航したことを責めたいんじゃない、今ここで、お宅の職員が誰も列の進行を気に留めてないことが問題なんです、いいですか、わたしたちの要求はひとつです、団体と個人の窓口を分けてください!」
「団体だって個人の集まりです、わたしたちは個人をないがしろにしません!」
「でもあの団体はひとまとまりに座ろうとしているんですよ! そんなの個人じゃない!」
マネージャーはカウンターは長く待たせることが見込まれていたから、ホームページに「電話を推奨する」と書いているんだと言いました いやいや電話が繋がらないから来たんだよとマダムとわたしが幕したら、わたしの隣にいた現地人の女性が「だったら今ここでかけてみたら良いの?」と訊いたところ、マネージャーは「でも電話窓口は15分前に閉まりました」と返します
その女性が続けて、わたしはホームページで定刻運行という情報を見て来たんだけど、と問えば、あなたが見ているのはコードシェアをしている会社のもので、そこまでうちは管理していないし、うちは正しい情報を出した、とマネージャー 結局女性はカウンターに見切りをつけて、その場で別の航空会社の便を自腹で購入し、それは4日後のものだったそうですが、予約していた便をキャンセルすると言って列を離れました
背後の状況にさすがに恐れをなしたか、気がついたら添乗員チームは再び合体してひとつのデスクにまとまっていました しかしマネージャーはこちらがもはや聞きたくないと言っているのに延々謝罪を怒鳴るため、マダムとわたしとマネージャーの闘いはこのあとも少し続いて、その様子を添乗員チームはせせら笑いながら見ていました
マネージャーが何の利益も残さずにやっと立ち去り、わたしたちが並び始めてから2時間近くたって、ようやく添乗員チームはデスクを離れました 後ろの人たちに一言でも詫びがあれば見直したところですが、こちらをちらちらとうかがいながら、しれっと去って行きました
そのあとの経過はまあまあです、先頭のお兄さんが去り、そのあとにいたご夫婦は一旦提示された案に苦笑いで頭を抱え別の選択肢も検討している様子でした 少しずつ流れるようになった列の中で、マダムとわたしはお互いを労い、お互いのゲストの幸運を祈り合いました
マダムとそのご友人は、我が友に、あなたが初めに声を上げてくれたから、旅行会社は占領をやめて、列が動くようになったと言いました 結局わたしたちは旅行会社が無茶な要求をするのをやめさせることも、航空会社に団体と個人の窓口を分けてもらう希望を叶えたわけでもないので、心から謙遜しましたが、マダムは、こういう勇気のある若い人がいてくれるのは希望だわ、と言ってくれました
そして我が友人の番が来て、担当が英語話者のお兄さんだったのでわたしが通訳しつつ、翌日朝のフライトを得ることができて、彼女のターンはものの5分ほどで終わりました マダムのゲストと場所を入れ替えながら、マダムに彼女が得たフライトの報告をすると、マダムは英国式にグッドラックと言うので、わたしも、そちらもグッドラック、と言って別れました
彼女はのちのち、わたしの「荷物見ててください!」と「そちらもグッドラック」がおもしろかったと言いました 英国生活4年目、わたしもかなりかぶれてきたようです
でもわたしは、添乗員に向かっていった彼女の姿を見て、あの田舎の小さな町にひとつだけある中学校の教室で、おでこにできたにきびをからかわれて泣いていたわたしに「誰がそんなこと言ったの、わたし言ってくるから!」と言い残して彼女が見せた背中を思い出し、友人の変わらなぬまっすぐな勇敢さに感銘を受けました
中学時代に何度も、彼女のそういうまっすぐさにハッとさせられて、わたしは彼女を尊敬して、見習いたいと思っていたはずでした 最近でもたまに彼女がわたしのために立ち向かってくれたシーンを思い出すことはあったけれど、不正を前にした彼女の、媚びも迷いもない真っ直ぐさにじかに触れて、どんな状況でも恐れずに守るべき正義のようなものを、わたしは忘れていたように思いました
無論今のわたしもどちらかといえば媚びないほうの人間ですが、そのルーツはここにあったんだな、ということにも気づきました
この文章はコーヒー屋さんで書いていますが、たった今、隣の女性に、トイレに行く間カバンやパソコンを見ていてください、と頼まれました わたしはあの日空港で、お兄さんに日本語で勢いよくそのセリフを言い残したシーンを思い出しながら、もちろん!と笑顔を返しました
勇敢なともだちに、乾杯 そしてわたしもそんな友達に見合う自分であろう、大事なときに立ち上がれる人間であろうと思いながら、冷めたコーヒーをすするのでした
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real-sail · 4 years
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手のひらに残された幸を
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もう6年前のことだ。7月のある暑い日に、わたしは個人ブログを始めた。最初は Livedoor ブログで書いていて、特に開設してすぐの頃は量より数を担保したくて、ごくごく些細なことでも、オチがなくても、何でもいいから1日1本は書こうとしていた。
それを3,4年たってから読み返した時には、内容の薄さが恥ずかしくて仕方なかったけれど、今となっては当時の努力が我ながらかわいらしい。5年以上の時を経て、当時の自分は、自分であって、自分でないような感覚なのだ。客観的に眺めたときに、電車の中で1日の出来事を振り返ってはネタをこしらえて、小さなガラケーの画面に命を刻みつけた日々はもはや懐かしいと思うにも遠くて、ただただ、20歳のわたしなりにがんばっていたなあという感想だけが心に浮かびあがる。
ブログをつける頻度が減ったのは、生活スタイルの変化が一番の理由と言うに相応しい。主に投稿をこしらえていたのは大学帰りの電車の中だったから、学部を卒業して、東京栃木を往復する習慣がなくなって、しかも渡英して、主にバス通学をするようになったわたしに、ブログを更新する習慣を癖付ける良い隙間が見つからなかった。 そうこうしているうちに、2年、3年と時が過ぎ、���回ほど引っ越した。通学はバスよりも歩くことが増えて、ついに今の家からは完全に徒歩通学。40分の新幹線の中で画面を睨んでいたわたしは、今、いや、今現在は通学していないがあえて今と言おう、今では片道30分、公園の中を歩くヘルシーっぷり。もはや手放したくない習慣はブログ更新よりも日々のウォーキングのほうで、ロックダウンが起こって通学がふっとんだあとも、週に1,2回は1時間の散歩に出かけるくらいだった。 何をもって好ましいと言えるかは、そのとき置かれた状況によって変わる。やがてわたしは携帯の画面に長文を打ち込むことが苦痛に変わって、今となってはちょっとしたメールの返信にすらパソコンを開くほうを好む。でも長距離通学をしている頃は特に、日中は都内で過ごすことが大半だったから、動き回る日々の中でも隙間で省スペースに原稿執筆やメールの作成ができる便利さに依存した。 果たして、わたし自身がこれだけ暮らしの変化を遂げたこの6年間の間に、ブログを読んでくれる人にはどんな変化があったのだろうか。そもそも初期に読んでくれていた人と今読んでくれる人がずいぶん変わったろうとも思うし、もしずっと読んでくれているような稀有な人がいたとして、その人自身、特に今年は、暮らしの変化を余儀なくされたとお察しする。 わたしのブログだからわたしのことを言わせてもらえば、わたしはこの伝染病にまつわる禍いの中で、命に別条はないが、それなりに堪えることもいくつかあった。でもそれを今語るつもりはないし、誰かのせいにする気もない。 人によって置かれている状況は違うのだということを、今年はすでに強く思い知らされた。その人から見える都合不都合、それをひとつひとつ否定せずに踏み潰さずに拾い上げることはむつかしいが、それが他者理解への一歩である。それでいて、自分の事情を他者から踏みにじられないように、守りたいとただ抱え込んでしまうことは、あまりに繊細だろうか。 ブログ7年目おめでとう、と、自分のブログを祝福するつもりで立ち上げたはずの画面にしては、いくぶんシリアスなものができあがってしまったが、これもこれでいいや。 6月の終わり、ロンドンは急に30度を超すような日が2,3日続いて、暑くて暑くて仕方ないときがあった。その真ん中の日だったと思う。4時過ぎには明るい朝の中でもうふたたび目を閉じることができなくなって、服だけを着替えたら何も持たずに公園に出てしまった。それはほとんど衝動で、水も飲んでいなかったけれど、それも待てないくらいのことだった。
すでに暑いことは暑かったけれど、じっとしていれば風を感じられるくらいには耐えられた。ロンドン随一の公園の丘の中腹にたたずんで、草の上に腰掛けて、まだジョギング族しかいない朝の公園を焦点が合わない裸眼で眺めながら、ただただ泣いた。
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不安も不満も、みな一様に抱えている。それでも、ウイルスを患った人たちを目の当たりにしながら、あの人もこの人も自分も生きててよかった、と思うあたりに、そもそも自分の初期設定は「生きたい」ほうにベクトルがあることに安心を覚える。考えてもわからないことは先の自分に託して、まずは手の届く未来を、ひとまず今日を良くすることが、わたしの手の中にある幸運なのだ。
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real-sail · 1 year
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「おけいこニスト」第一世代として
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ちょっと書いておこうと思ったのですがね。
93年生まれのわたくし、ちょうど学校教育にパソコンが導入されるのをこの目で見ていた世代でして、小学校低学年のときにわたしの学校にパソコン室ができて、ときおりパソコン室で授業をするコマが設けられました。2年生のときにはふたりで1台、3年生になるとひとり1台のデスクトップを使っておりました。
家庭用パソコンというのが一般家庭に普及し始めたのも同時期かと思いまして、98年に初代iMacを迎え入れた我が家というのは、「おうちのパソコン」の導入が早いほうだったと思うのですが、何が世にパソコンを広めたって、 Windows 95, 98 あたりですよね。
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それで、今日書きたいのは、90年代生まれの音楽家にとっての、「ネットの書き込み」についてなんですけれど。このあたりの感覚は、先輩方の感覚とは少しギャップがあるような気がして、わたしたちの世代特有のものがあるかもしれないと思い、ブログに書いてみました。
そのためには少し、子ども時代のインターネットの関わりから振り返る必要があります。
インターネットがどんどん普及する中で育ったわたしたちは、小学校の中学年高学年あたりから、「掲示板」というものに注意するように、と全校集会や学級通信で言われるようになりました。インターネットで知らない人と話すのは良くないことです、なんて言葉と共にね。早い人だと4年生あたりでケータイを持っていました。時代ですから、折りたたみのアレです。
その頃になると「学校裏サイト」というものが現れて、どんな町の小さな学校でも、学校名で検索すれば見つかると言われておりました。全国的にそれは問題となっていて、裏サイトで悪口を言われていじめがエスカレートするなんていう事例も珍しくありませんでした。確か、わたしがちょうど6年生のときに放送された、小学6年生の教室が舞台になっていた連続ドラマ『女王の教室』でも、そんなシーンなかったっけ。
中学生になったのは2006年ですが、携帯を持つことが禁止されていたうちの中学のようなところですら、主に卒業生と、一部の隠れて携帯を持つ在校生が、匿名で人の悪口を書いている掲示板があるから、闇雲に触れるんじゃないと言われたものでした。当時はBBSや掲示板がいくつもあったけれども、2ちゃんねるが普及したのはこの頃ですか? 調べたら、『電車男』が2005年、なるほど全盛期だ。
ここからが本題、これらの「ネットの書き込み」が音楽家にいかなる影響を及ぼしたのか、という話です。
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00年代後半、わたしは東京藝術大学という学校の附属音楽高等学校を志してヴァイオリン練習に励む一介の中学生でしたが、練習をときおりサボっては、パソコンでネットサーフィンをするようなことがありました。ヴァイオリンのおけいこ勢がまず出会うのは「ビバ!おけいこヴァイオリン」以下「ビバおけ」というサイト。いろいろなコンクール情報やら、コンクールを聞いた感想やら、おけいこを指南する内容など、個人のブログながらものすごい情報量でした。そこでは我々のような存在が「おけいこニスト」と呼ばれていました。あのブログはいつ開設されたのだろう、でもブログという形態自体がゼロ年代にブームを迎えたことを考えると、言うなればわたしたちは「おけいこニスト」第一世代なのでしょうか。
また当時の2ちゃんねるには、「全日本学生音楽コンクール」について語るスレッドなんかがありましてね。そのコンクールは世の「おけいこニスト」がこぞって出場するもので、ここで優勝すれば日本一うまいと言われたりします。そしてスレッドには予選通過者の名前が書き込まれたりするわけです。いつかは出場して、入賞などしてみたいコンクール。そうしたら自ずと、本選進出したら、先人たちのようにここに名前が載るんだなって思う���ゃないですか、中学生は。
わたしは中3でかのコンクールに初出場を果たし、ビギナーズラックで最初の予選を通過したのですが、自分の名前が「ビバおけ」やスレッドに載って、ちょっと嬉しくなっちゃう。スレッド上では、入賞実績が多い人の、これまでの成績とかが語られたりしていてました。わたしはポッと出だから、通過者の速報以降は話題に上らない。ここでもし来場者の人が「あの子の演奏が良かった」なんて書き込んでくれたりしないかな、なんて夢見るわけですよ。そんなことを思えば、定期的にスレッド覗きにいくじゃんね。
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めでたく晴れて志望高校に入学して「藝高生」と呼ばれる存在になったら、入学式のしおりに載っていた新入生全員の名前を翌日までに全部ググっているような親御さんが何人もいましたけれど、入賞歴とかのリソースって、そういう個人ブログや2ちゃんねるじゃんっていう。しかも今度は、2ちゃんねるに「藝高」を語るスレッドを見つけちゃうんですよ。同級生の名前が伏せ字で書き込まれたりしていました。書き手は今で言う「音大おじさん」だったんじゃないかなあ、要は在校生よりは部外者のほうが多そうな感触でしたが、結局匿名だったからよくわかりません。
そして先述の「ビバおけ」は、藝高に入ってみたら、ヴァイオリンの子はみんな知っていました。ブログ主の「イグラーユ」さんって一体何者なんだろうね、と言いつつも、みんな見てたし、在校生が言及されていたらなんかもう笑うしかないというか。笑って「載ってたね」と言えるときと、まあわざわざ言及せんでもええなってときとあったけど(というのはコンクールに落選しても名前を出されることがあるので)、あそこに書かれたことは、自分らもだけど、自分ら以上に親たちが知っていました。とにかくみんな見てた。
突然の昔語りをしたのは、わたしたちの世代では、10代の頃から、ネットで名前を晒されて、落とされたり貶されたりは当たり前の経験としてそこにあったということを書きたかったから。当たり前だったけれどそれは、どこか自分から切り離されたもののようでもありました。だって現実味がないから。なんか言われてら、的な。決して良い気分のするものではない、でも見てしまう、恐ろしいもの。だってそこで良いこと言われてることなんてほとんどなかったから。でももし自分の名前があったら、自分で確認したい、あるいは知っている人の名前も、やっぱり確認したい。そう思って見てしまうのです。
だから、ちょっとコンクールで賞を取ろうもんならネットで言及されることは当たり前だったけれど、でも「当たり前に」貶されて良いわけなんかなかった。立場変われば、それは落選した傷を抉ってくるものでもあったし、何より相手が誰だかわからないのが恐ろしかった。
それを体感で知っているから、結果や実績を乗せた自分の名前がネットで知れ渡っていくことを、ただ愉快なことだとは思えないのです。
ところでこのブログを書くためにふと、そういえば今も「ビバおけ」ってあるのかしらと思って検索してみました。すると、やはりわたしが高校生のときに目にしたことがあった、おけいこ関連情報をいち早く載せる別のブログ「文化的な日々」に、2020年11月の日付で、「ビバおけ」がリンク切れになっていると書いてありました。もう少し検索したら、別サイトの匿名のスレッドに「本心を言うと」というタイトルで「情報源としては良い面もありましたが、親をあおる感じがあったので、なくなってよかったと思います」という書き込みを見ました。ごめんわかる、わたしも思わず口角が上がってしまった。もう解放されたんだって思っちゃった。
「ビバおけ」や「文化的日々」の影響が薫る、現役「おけいこニスト」の保護者が主と思しきブログには、2016年の日付で、こんな言及がありました。学生音楽コンクール側が、コンクール会場で有料販売したパンフレットの情報を、インターネット上で公開してくれるなと「ビバおけ」に対して注意喚起したらしいこと、それはFacebookアカウントの投稿上で何かしらのやりとりが発生していたこと。そのブログにリンクされていたFacebookのポストはリンク切れで確認できませんでしたが、恐らく「ビバおけ」のポストだったのではないかと推測されます。「ビバおけ」はサイト消失と共にFacebookもTwitterも姉妹サイトも消えたので。やっぱり度が過ぎていたよ、あのブログ。
そこに書かれた情報の影響力があまりにでかいから、あそこで悪く書かれたら厄介だ、という思いが強くて、表で声を上げる人はなかなかいませんでした。相手にしないのが良いとか、何にも賞歴がなければ名前すら挙がらないから言及してもらえるのは名誉じゃんとか、まあいろいろな言葉のおかげで、ブログたちや2ちゃんねるは存在を許されてきたのです。
でもわたし、言うね。
ああいうの全部全部、ずっと、最初から、大っ嫌いだったよ。
よくも我々をコンテンツにしてくれたな。知らないだろうね、あなたたちに振り回された側の気持ちなんて。親たちが目を血眼にして「同級生の誰さんはコンクールで優勝したんだってよ、で、あなたは?」と自分の子どもたちにプレッシャーをかけていたけれど、その燃料はおたくらの書き込みだよ。コンクール公式から淡々と結果が告げられるだけなら、親御さんたちもあんなに目を血走らせることはなかったと思うよ。
自分は姿も名前も見せないで、こちらの名前や所属や結果を晒して、場合によってはもっとパーソナルな情報も流していた。日本のしがらみから逃れて海外コンクールに行っても、アルファベットの中からちゃーんと名前を見つけてきては晒し上げてさ。教育虐待への加担とも言えるのかもしれない。人のこと煽って、おもしろかったか?
もう目に入れたくないから調べないけれど、もし5ちゃんねるとかに、今もそういうスレッドがあるのだとしたら、みんな書き込んじゃダメだ。よそさまのことをネタにしてないで、ちゃんと自分を生きろ。あんなもの、平成に置いてきてくれ。
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real-sail · 1 year
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言葉を学んだら音楽を知った
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2021年の暮れから一念発起して英語のレッスンを受け始めた。28歳になって、イギリスに住んで6年目を迎えて、改めて受ける「英語のレッスン」である。大人になってから何かを学ぼうとすると、見栄や��ライド、羞恥心が邪魔をする。見え隠れする「それら」をどうにか取り除きながら、時に振り回されながら、改めて英語に向き合った。
とりわけイントネーションとリズムの矯正に注力した結果、1年前の自分とは明らかに違う。街で英語を聞き返される回数は減り、人に話しかける心理的ハードルは大幅に下がった。
そうした勉強の成果は嬉しい反面、同じ文章を話すにも、イントネーションが異なるだけでこれほどまでに相手の反応が変わるというのは、恐ろしいことでもあった。博士論文で「アンコンシャスバイアス」を扱う以上、「Languagism」について考えずにはいられない。それでいて、意識して話し方を直したところで、未だ、咄嗟に出る音は日本語的な響きを伴っている。もしこの高い言葉の壁を超えられたとき、人類はふたつめのバベルの塔を作ってしまうのだろうか。
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英語のイントネーションを完全に習得したとは言えないが、ヨーロッパ言語のそれを学んだことによって、己の本業である「西洋クラシック音楽」の理解が進んだことは嬉しい副産物であった。自分の中で、抑揚と拍子について腑に落ちるところがあり、音楽のひらめきは翻って再び英語学習に還元され、相乗効果があったと言える。
仮に音声学の知識がなくとも、人はアナウンサーの話し方などに聞かれるような淀みのない話し方を感知できるように、聞こえるイントネーションの違和感のほうも同様に検知できる。すなわちそれは、旋律の「淀み」もまた、聞き手の耳に違和感として残るのだ。己の英語を見直したところ、結果的に「より自然な音楽」を探求することにもなった。
これまでクラシック音楽ばかりを聴いて生きてきたが、今年はいわゆる J-pop や、あるいはロックなどのジャンルに触れてみることで、ジャンルを超えて「表現」に共通するものを探していた。歌詞の抑揚に合わせて声のボリュームを自在に絞る様は、音楽の種類や言葉を同じくしなくても、共有できる技のように思う。
西洋音楽を演奏するならば、西洋の言語を理解したほうが良いとは長らく言われてきた。しかしこうして「英語」が音のひとつとして相対化されてみると、「日本語」で真に「音楽的に」すなわち「自然な旋律」を表現できる人は、西洋の言語や西洋クラシック音楽の理論を知らずとも、よほど「音楽」の何たるかを体得しているように聞こえてくる。
音そのものが持つベクトルであったり、その質量と重力を感じることができれば、音が向かう方向は自ずと決まる。もしそうだとすれば、どんな言語の感覚を持っていようとも、音の本質を正確に掴むことができる人は、音の連なりを「自然」な形でアウトプットできるのではないか。そんな仮説を立てると、日本語話者は西洋の和声感を表せないという疑念は、わたしの思い込みであったかもしれないと思えてくる。
こうした考えに至ったのは英語を改めて勉強したおかげだが、しかしそれはきっかけであって、もし日本語の音に対してより解像度の高い耳を持っていたら、とっくに気づいていたことかもしれない。
わたしは自分の YouTube チャンネルに喋っている動画を投稿するもので、動画を編集していると、自分の話す日本語を何度も聞くことになる。すると、話し方の癖もわかってきた。聞こえるのは訛りや澱みだけではない、どこで息を継ぐか、それによって話が下手にも上手にも聞こえる。
これが、長い間ヴァイオリンのレッスンで言われてきた「フレーズを意識する」ということか、と、ようやく理解した気がする。話の主となる単語ははっきり聞きたいし、修飾語のほうが目立っていたり、本題までに息切れが多いと、話が見えてこない。わかった気になっていたが、どこか自分の納得まで落とし込めていなかった。
今度は、理解したそれを自分が描いた通りにアウトプットするために、ひとつひとつの音を形作るテクニックを磨く必要があるわけで、その技を伴って音作りを自在にできたとき、それを体得したと言えるのだと思う。その道のりはまだ長い。
こと英語に関して言えば、社会学を少し学ぶ身としては、英国のエリートの英語をあまりにしっかり身につけてしまうと、英国の社会階層も引き受けることになって、ひいては構造的差別の助長になりかねない、とも想像する。西欧中心主義への抵抗として自国語訛りの英語を誇り高く使う人たちもいる。一方で、マイノリティがものを言う時に、マジョリティーにわかる言語を用いるのは、ひとつの有効な方法になる場合もある。願わくば両方を器用に使い分けられたら便利だが、そうなるとうっかり特権性に無自覚になっても怖い。
ひとまず、4年かけている論文の締め切りが迫ってきて、英語学習にじっくり時間を割く気持ちの余裕がいよいよなくなったので、レッスンをちょうど12か月受講したところで休会とした。何かを始めるのも、止めるのも、同じくらい大切な決断なのである。
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real-sail · 2 years
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21か月ぶりに立った舞台
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ヴァイオリンを3歳で弾き始めてから、こんなに舞台に立たなかったことはありません。子どもの頃はお教室の発表会があったおかげですが、それも年に一度か、1年半に一度の開催だったので、舞台がこんなに遠のくことは、わたしにとって初めてのことでした。
最初にロックダウンになったとき、これは長くかかりそうだ、自分が人前で演奏できる日まで、どうしたら本番の感覚を忘れずに、腕を落とさずにいられるだろうかと考えた時に、かねてから解説していた、でもあまり活発ではなかった YouTube チャンネルを活用しようと思い立ちました。YouTube に投稿するためだけに、新しい曲の譜読みをし、暗譜もして、カメラの前で心を決めて曲を通すという時間を定期的に設けるようにしました。
ついでにチャンネル登録者数が増えて収益化できれば、経済的な助けにもなると考えて、結局演奏のみならず Vlog のような動画も交えて、毎週1投稿を掲げて2021年を過ごしてきました。なかなか思うように演奏機会を持てない中で、それでも腐らずにいられたのは、YouTube の動画を作るという大義名分があったからです。
11月になって急遽、冒頭で触れた演奏会への出演依頼をいただいて、これがわたしのロックダウン後最初の本番となりました。しかもプログラムはバッハの無伴奏、ヴァイオリン一挺での演奏です。ただでさえ無伴奏は緊張感が高いのに、まして��ブランク明け。果たして自分は大丈夫だろうか、一体当日はどんな状態で迎えるのだろう、とメンタル面への不安が絶えませんでした。
もちろん自分のできうる最大限のパフォーマンスをしたいとは思いましたが、一方で、21か月もブランクがあるのだから、まずは本番に向けて曲を仕上げること、そして本番の舞台に立つこと、この2点を達成できたらよしとしよう、多少のミスがあろうとも仕方なしと受け止めよう、と思うことで、メンタルの不安を和らげようともしました。本番でどれだけ緊張するか、それは当日舞台に出てみるまで予想できません。
でもいざ時を迎えて舞台袖から踏み出してみたら、ほどよい緊張感はありながら、落ち着いた気持ちでした。それもそれで予想できなかったコンディションで、どうせものすごく緊張して足が震えてしまうだろうな、と想定してシミュレーションしていただけに、かえって驚いてしまいましたが、無理なく最初の音に踏み込めた気がします。
特にその日はお客さまの雰囲気が良くて、ロックダウン中に生音を恋しく思った人が多かったせいもあるかもしれませんが、集中力高く耳を傾けてくださるのを肌で感じました。この空気だったらいける、と思って、「究極の p (ピアノ=小さい音)」に挑んだのはすばらしい瞬間でした。会場がとても美しい響きを持った教会で、しかもほかの楽器がいない無伴奏だからこそ出せる、うんと小さな音。しかも集中力の高いお客さまだからこそ出せた音。聞こえるか聞こえないかのぎりぎりを攻めましたが、それはじっと聞き取ってくれたお客さまがあってこそ成り立つ「p」です。
こういった音はリハーサルで多少試しはするものの、実際に本番で使うかどうかは舞台に立つときまで決めずに臨みます。いくつかの好条件が重ならないと、この音を「楽しむ」ことは難しいからです。しかもこれはアコースティックでないと実現できないもので、マイクは高性能が故に、小さな音も"実際より大きく"拾ってしまいますし、配信は視聴者側の環境で音量が変わってしまいます。
そうした一瞬の判断をするためには、自分の感覚を研ぎ澄ます必要があります。だから本番のブランクがあると、舞台に立つのが怖いと感じるのです。カメラ相手でのパフォーマンスは、そういったフィードバックを得られることはないけれども、本番のような緊張感の中で自分の音の聞こえ方を考えるという訓練にはなったようです。
YouTube を投稿し続けるというのもなかなか簡単ではなく、人目に触れることなので、恥ずかしさもあれば、難しいコメントがつくこともあり、チャンネル運営をし続けるのは必ずしも楽しいこととは言えません。それでも YouTube を活用していたおかげで、この本番に落ち着いて臨めたのだと思いました。腐らずにやってきてよかったと思いました。舞台に戻れてよかったと思いました。
とはいえ、またいつコロナの状況が変わるか知れず、次の本番の予定も立っていません。このあとも少しブランクができてしまう恐れもあるけれど、YouTube の活用は有効だとわかったし、次の機会まで、また腐らずに淡々と己を磨いていきたいと気持ちを新たにしました。
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real-sail · 5 years
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引っ越さなかった夏
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突然の猫は、ホームステイ先の、ホストキャットのローラでございます
今のホームステイ先に入居してちょうど1年が経ちました
半月ほど前に日本への帰省から研鑽の地ロンドンへと戻ったものの、ホストファミリーがバカンス中につきおうちにいたメンバーは猫のみ…
まあわたしとしてはローラ独り占めも幸せですけども(実は結構彼女とうまくやってる)
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ご家族それぞれに旅仕事などもあり、先ほどやっと全員に帰倫の挨拶を済ませました
実にほとんど2か月ぶりにままさんに会って熱烈ハグを受けて胸熱なわたくし、そこにぱぱさんもいたので
「今日でちょうどここに越してから1年経ったって気づいたの」
と言ったら、ままさんがお祝いしなきゃ!と言って港町ライで拾ってきたという貝殻をふたつくれました
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ぱぱさんはいつもわたしをクレイジーなまほと呼びますが、今日もままさんに
「クレイジーなまほが住んで1年だって!」
と言うのでわたしはあははと流していたらままさん
「この家に住むにはクレイジーが必要だからね」
と続けるので
「クレイジーなら好物だよ」
と答えておきました
ブリティッシュジョーク、ちょっとわかりにくいでしょ
でも今となってはそんなブリティッシュユーモアがないと調子が出ません
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real-sail · 4 years
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帰京して、冬 2019
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この12月ははじめの半月だけ日本に戻って、まさに駆け抜けるように過ごした。
うっかり赤信号を渡りそうになった。東京を歩いていたはずなのに、どんな小さい交差点もスクランブル式の、ロンドンでの習慣が顔を出す。目の端に映った歩行者信号が青くなったのを見て渡ろうとしたら、目の前の信号は赤かった。ロンドンで暮らし始めた頃は信号の仕組みに戸惑って、横断歩道ひとつ渡るにも、真ん中の安全地帯で何度か青信号を見送ることも少なくなかった。
自分がその扉を開けたもの��から、ドアを引いたまま後ろにいた人に先を譲ったら、とても驚かれてしまった。ジェントルマンの国で、基本的にはレディーファーストが根付いていると言えど、現代のロンドンでは女性も男性も問わずに道を譲り合うことが多い。でもそんな国を知ったあとで戻った日本では、道を譲るという行為がむしろずっと珍しいことのように思った。
鼻をすする音は許されて、思い切り鼻をかむと視線を食らう日本。鼻をかむのは問題ないのに、すすっていると失礼とされるイギリス。レストランで食事が済んだら、席を立ってレジに向かう日本と、庶民的な店ですら席で会計をするイギリス。いくらでもペットボトルで緑茶を買える日本。どこでもミルク入りの紅茶を買えるイギリス。犬も歩けばコンビニに当たる東京。猫も杓子も公衆Wi-Fiに至るロンドン。
そんな、些細なところで、自分の中の「日本」と「イギリス」を見出していく。
きれいに髪を巻いて銀座の裏通りを歩いたら、これから同伴ですかと言われた、スカウトマンだったのだろうか。ソーホーやカムデンでナンパされることはあっても、水商売のスカウトはさすがに経験がない。東京なら安全って思っていたけれど、そんなの嘘だと思った。ロンドンに戻ってすぐのある日、夜11時の家路で、道端の車から降りてきた男の人を咄嗟に警戒した自分に気づく。日本の女性たちがどれだけ無意識に防衛本能を起動していることか、それは東京しか知らなければ、本人すら気づく術がない。
飲食店でのサービスが極めて整っている日本から見れば、ロンドンに驚かされることもたくさんある。ロンドンでは、グラスから飲み物がこぼれに溢れて外側がベタベタで渡されさても、怒ってはいけない。店員がテーブルを拭くという習慣だってちゃんとあるのだけど、日本の掃除のクオリティにはかなわない。カフェで自分が使った食器を自分で戻すのは日本だけ。空いている席に前の人の食器が残っていても、気分を悪くするほどのこともないのがヨーロッパ。
いろんな色がついた薄い酒を永遠に重ねる日本。一発きりっとエールかワインを決めるロンドン。東京の女の子はスカートにパンプスにブランドもののハンドバッグ。ロンドンの女の子はスキニーにショートブーツと革のサッチェル。デートは男の子がおごるのがステータスな日本。食事代はきっちり割り勘か交互に持つイギリス。
どっちも良くて、どっちも悪い。わたしの心の中の天秤は、揺れに揺れる。
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クリスマスの午後、わたしはプリムローズ・ヒルまで散歩に出かけた。この丘はロンドンの街を一望できる場所で、ロンドンっ子の休日の定番スポットだが、近年ではインスタグラマーや観光客のものになりつつある。朝から雲ひとつない快晴の穏やかな日で、わたしは空いたベンチに座って冬の締まった空気を楽しみながら書き物をしていた。ほどなくして、わたしの座るベンチに日本人3人組が座り合わせてきた。
同じくらいの年頃と思しき男性が「お〜ここ空いてる、水たまりで何か汚ねぇけどいいかな?」と一緒の女性2人に呼びかると、わたしに断ることもなく座って、携帯でクリスマスの音楽を爆音で流しながらお酒を飲み始めた。わたしに退いてほしいんだろうと思ったけど、先に座ったのはわたしだし、と思ってしばらく書き物を続けた。男は電話がかかってきて席を外して、女子2人の会話がしばし流れる。
10分20分たって男が電話を終えて帰ってきた頃、わたしはあらかじめ決めていた帰る時間になったので、あくまで自分のペースでPCをしまって立ち上がった瞬間、男性が秒速で「おっしゃ空いたぜ広がろうぜ!」と大きな声で言った。遠ざかりつつ、あまりの速さに辟易したところで、女性たちが「あの人、日本人じゃない?」と話すのが聞こえる。男性も「え、今の日本人だった?」と繰り返す。
3人の挙動に、ちょうどわたしが思う日本の嫌いな部分が全部詰まっていた。
あなたがたは、この公園静かでめっちゃ好きー!と言ったけれど、あなたたちがうるさいのよ。ベンチで相席になるときには、声をかけるなり、目配せするのが英国式だ。女子2人の会話は、パブでナンパしてもらって彼氏を作りたい話、日本は治安が良くて酔っ払っても大丈夫という話。はて、最近だと諸外国において、日本に旅��する人々に対して’飲み物に薬を盛られる被害に気をつけろ’と注意喚起が聞かれるくらいなのに、のんきなものだ。そして、あなたがたの見立て通りわたしは日本人だけれども、だったら何なのか。
でも日本にだって、たとえば新幹線で隣の席に座ってもよいかと声をかけてくれる人はいる。彼女たちを見て、どこにいるかじゃない、自分がどうあるかなんだな、と思った。環境が人に及ぼす影響も大きいけれど、とはいえ、東京にいる、ロンドンにいるってだけで、人は変わらない。東京で、何を見るのか。ロンドンで、何を思うのか。
ロンドン生活も4年目、と言っても、わたしは今まで定期的に一時帰国を挟んでいて、これまでだったら信号機を見誤るようなことはなく、日本に戻れば瞬時にモードを切り替えられたもので、はたまたロンドンに戻ってもすぐにはギアチェンジをできずに異邦人の感を持ったものだった。でも今回初めて、すぐには東京に適応できなくて、ロンドンには瞬時に馴染める自分が現れた。そこまで来ると今度は、ロンドンという街に嫌気がさす日だって来るだろう。
たとえどこにいようとも、自分がどうありたいか、それを大事にしようと強く思った。
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real-sail · 9 years
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ぼくらのバレエ発表会
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演奏会があって『くるみ割り人形』組曲の練習をしているのですが
その昔バレエをやっていました わたしはとことん運動神経がありませんが、意外にも体を動かす習い事をしていたもので、それは小学生の間ずっと続けていました
でもすっごく下手だったんです
小学4年生の時の発表会の演目は『くるみ割り人形』 年齢やレベルで分けられた各クラスごとに組曲の各曲を踊るのです
わたしのクラスは人数が多かったので、半分は「葦笛の踊り(SoftBankのCM)」、わたしのいるもう半分は「アラビア(コーヒー)の踊り」でした
ロシアやカザフスタンから先生を呼んでいたので、3か月ごとに先生を交代していて、
振り付けはわたしが初めてバレエを習った優しい優しいエレーナ先生(名前間違ってたらごめんなさい、仮名ってことにしといて)でしたが、
先生は発表会の2か月前に期限が来てしまったので、直前は前の年にも来てもらったビエラ先生が教えてくれました
エレーナ先生はかわいくってとっっても優しいので大好きでした、 反対にビエラ先生はほんとに美しいのですがおもっきり怖くて、できの悪いわたしはいつも怒られてばかりでした
アラビアの踊りチームが、初めてビエラ先生に見てもらった時、わたしを含め、メンバーの半数が振りを覚えていないことが発覚しました
エレーナ先生がいつもお手本を見せながらレッスンしていたので、我々はちょっと甘えていたのですよね、覚えた気でしたが、エレーナ先生がいなかったら全然踊れませんでした
ビエラ先生は激怒、わたしは泣きじゃくるし、お母さんたちも深刻な顔をしているし、末期だと思いました
いっぱい怒られたあとで、ビエラ先生は「忘れてしまったものはどうしようもないから、新しい振りを考えよう」と、新たな振り付けをして、
ちょっとおっとりしていたわたしなんかをバシバシスパルタ指導でお尻を叩き、ていうか姿勢悪すぎてリアルに背中叩かれましたが、本番まで持っていってくれました
ちなみに先生方は日本語が話せません たまにロシア語しか話せない先生もいるくらいでした
ビエラ先生は英語もできましたが、日本語を一生懸命覚えて、片言ながら指導してくれたのをよく覚えています
当日のリハーサルでは、とてもよいからがんばってとわたしたちを励まし、本番の最中はずっと袖に張って、出る時はエールをくれたし、はけた時には「今、一番ヨカッタ(日本語で)」と言ってくれ、
そして本番の後で、数十人はいる生徒ひとりひとりに声をかけてくれました
とりわけできの悪かった子(わたしとか)には、
「本番までほんとにがんばったね、いっぱい怒っていっぱい叩いてごめんね、真帆ががんばってくれてわたしは本当に嬉しい、今日はすばらしかった」 (確か英語だった、当時のわたしの貧弱なボキャブラリーでも思いがビンビン伝わってきた、たぶん簡単な英語で話してくれたんだと思う)
と涙ながらにハグをしてくれて、人前で泣くのが嫌いなわたしが、化粧を落とす勢いで泣きました
あの無償の愛のある厳しさは、バレエをやめて何年たっても忘れられません
言うて本番だって、うまい子に比べたらきっと断然下手だったんです でもビエラ先生がほめてくれたことが、何よりも嬉しかった
アラビアの踊りを耳にすると、今でもあの暑い夏が思い出されます
今のわたしは、あの頃の自分に恥じないくらい、ちゃんとがんばれているだろうか
時々あの夏を思い出しては、自分の怠惰ぶりを恥じる限りです
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real-sail · 9 years
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青春って恋ばっかりじゃないよ
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5月28日木曜日。 学生オーケストラ定期演奏会第52回(藝大定期第369回)を終えました@東京藝術大学奏楽堂。
(みんなが帰ったあとの楽屋)
プログラムはラヴェルの「左手のための協奏曲」と、ブルックナーの交響曲第5番。 ずっと弾きたいと願い続けたブルックナー、そしてコンマスとしては初めてのピアノ協奏曲でした。 そもそも、わたしが初めてコンサートマスターをしたのは高校3年、入学式での奏楽。ビゼー唯一の交響曲とモーツァルトの交響曲第40番です。 毎年学年から4人のコンマスを募り、その年はしばらく毎週の授業ごとに日替わりで務めるのを審査代わりに、定期演奏会で務める2名と、卒業式・入学式の奏楽の2名が先生方によって決められました。 高校1年生の時の定期演奏会でのコンマスがあまりにかっこよくて憧れを持ったわたしは、絶対に定演でコンマスをやりたいと心に誓います。とはいえ、地元の門下での弦楽合奏ではトップをしたことがあっても、オケの経験は皆無に等しいものでした。 高校時代は中学時代よりもキャラ立ちできずに過ごしていましたが、コンマス募集の声がかかった途端わたしは勇んで立候補。しかしわたしはビゼーをきちんと弾きこなすことができぬまま審査期間を終え、あえなく夢破れたわけです。 最後の定期演奏会では、コンマスのすぐ後ろの席で弾いていました。半年間練習する中、あぁこの人のこういう合図がいいんだ、この手首の返しがきれいだ、とわたしは多くを学びます。このふたりにはそりゃ自分敵わないわ、と素直に思い、そして一生懸命真似をしました。なぜならわたしの座高が高すぎて、後ろから「コンマスが見えない」という声があったからです。 あの時彼女たちの後ろに座れたのはわたしにとって幸運でした。呼吸から奏法から、本当に勉強になったのです。よいアインザッツはその時に学んだと言っても過言ではありません。 さて、そんなわたくし、もともとシンフォニーが好きでした。母の影響ではありますが、長い通学時間のBGMにはシンフォニーがぴったりでしばしば聞いています。時々でブームはありますが、幼少期から変わらず聞き続けたのはブラームスとチャイコフスキー、そしてブルックナー。 昔から将来はどういう形態の演奏家になりたいと問われると即答できません。というのは、弾きたい曲を制覇していく人生にしたいというのが一番の願いで、弾きたい曲というのがコンチェルトもあればソナタもあり、シンフォニーもありで1ジャンルに絞れないからです。ずっと聞いていた好きな曲をいつか弾きたいと思うのは、演奏家なら当然の心理ではないでしようか。 大学2年生から必修のオーケストラ。本番を踏むごとに、いつかブルックナーが弾けたらいいな、いつかコンマスができたらいいなという思いは募りました。 まさか、こんなにきれいにふたつ重なって叶うとは。 年間に弾く曲は4月の最初のガイダンスで知ります。4年生の春。まだ4年生という呼び方にそわそわしていたその手に回ってきた紙には、しっかり「ブルックナー」と刻まれていました。 定期演奏会のコンマスがわたしでよいのだろうかという思いと、わたしがやらなくて誰がやる、という思い。天秤にかけたら、やっぱりブルックナーは譲れませんでした。莫大な譜読みも苦ではなく、ただ初めて弾くので、指やら弓やら慣れるのにかなり戸惑いました。 そんな指やら弓やらを決めるのに、指揮の高関先生がスコアを見せてくださって、それにどれだけ救われたことでしょう。すがるように読みました。でも100ページを超えるスコアはめくるだけで必死、なかなか全体把握には至ることができません。 あぁ、スコアを読んで頭の中でオケが鳴らせるようになりたいものだなぁ、と自分の能力にがっかりしつつ、練習時に、出るべきところを落としたりしてまた自分にがっかりしつつ、わたしは段々慣れていきました。めげているどころではありません。わたしのザッツにはパート全員、そしてオケ全体がかかっているわけです。自分だけの話ではありませんでした。 特にコンチェルトはソリストに合わせられなければ意味がありません。快活なメロディ、あの時代らしく混沌としていてめまぐるしく変わる音色。先生のすてきなソロを絶対に邪魔してはならない、引き立てられるようでなくては。コンチェルトはソリストから遠くで弾く人には合わせるのが難しく、トップ奏者がいかにソロにつけるかがとても重要です。 はて、わたしがどれだけ務めを果たせたのかはもはやよくわかりませんが、高校時代からかけて学んだことを生かしながら、自分としては健闘したつもりです。 演奏会のあとはひとりでひっそり余韻に浸るのが好きですが、この晩ばかりはめずらしく飲み会の席にも行きました。向かう途中、携帯電話に緑色の通知が。師匠からのLINEです。熱い感想と労いの言葉に目頭温暖化です。 本番楽しかったね、ありがとうございました、など、みんなと盃を交わしながら言われた言葉に再びわたし温暖化。管楽器とは距離が遠いけれど、多くの人が声をかけてくれて、ああこんなにもコンマスというのは頼りにされる役職なのかと今さらながらしみじみ思った次第です。 そして飲み会の最中の緑色の通知に報われました。めったにほめない母から、よくがんばりました、と。人知れず涙を飲みました。熱い体に流し込んだグラスの中身が染みました。ちなみにそれはオレンジジュースでしたが。 諸手を挙げての褒めではありませんでしたがね。わたくし、カーテンコールの手順を間違えてひとり立ってしまうという、とてもボケた一幕がありましたから。人生三大恥ずかしいシーンの栄光の1位に躍り出る出来事でしたね、はい。母曰くご愛嬌だそうです、はい。 でもコンマス冥利に尽きるのは、オケメンバーに愛されること、そして何より、指揮者に信頼されることでしょう。 高関先生の本番後のツイートの中に、こんな一節が。 「物心がついた時からABrを聴いて育った、という稀有なKzm-inの存在は大変に心強かった。」* 高校時代からブルックナーの交響曲5番のスコアを見ていたという先生からのこのお言葉。目頭温暖化レベルじゃ済みません、堤防決壊です、普通に泣きましたよね、はい。 1番嬉しかったのは、このツイート。 「今回オケ諸君と是非にも共有したかったのは、普段勉強しているソロ作品にはない、ABr独特の構築と形式感、書法とそれに基づく正確な表現(と実現)、そして純粋な響き。オケで弾くことで獲得できる和声感とアンサンブルの楽しさを理解してもらえれば、この交響曲を取り上げた意義はあったと考える。」* *=2件とも高関先生のTwitterより引用。 みんな、楽しかったって言っていたなぁ。実りある学びになったのかなぁ。だとしたら、嬉しいな。 そしてその学びに、わたしという、ヴァイオリン女子なのにブルックナー好きという変わった存在が、少しでも貢献できたのなら、本当に嬉しい。 長い文章ってのは、言ってしまえば時間をかければ誰でも書けるものです。これを読みやすく簡潔にまとめるのこそライターに求められる資質であり、この冗長な���事は一端のライターとしてどうなんだという話ですが、まぁ、これは、わたしの音楽家としての本心ということで。めずらしく本心をかなりオープンにしたので、どうかお見逃しください。 以上わたしのブルックナーデビューのお話でした。デビューですもの、これは間違いなく青春の思い出、一生の宝物と言えるでしょうね。
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real-sail · 10 years
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夏の思い出 - 小学6年生篇 -
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わたしが地元時代に習っていた先生のところでは、毎春休みと毎夏休みに合宿をしていました。
合宿というと怖そうなイメージがあると思いますが、うちの合宿はまったくもってそんなことはなく、ソロの練習はほとんどしないで合奏をしていました。
だいたい事前に楽譜をもらっておいてわくわく譜読みするのですが、たまに先生が初見力を試そうとして
あ、まほちゃんにはこの譜面は渡さないでおこう と突然ひらめいたり
行ってみたら初見アンサンブルが待っていたり
夜になってみんなが休憩している時にカルテットを初見で遊ぶ先生たちに混ざるよう指名が来たり
(2ndいないのね…うーん、まほちゃんやってみよっか、的なノリ)
楽しいから怖いことはないもない…のですが、それでもやはり無茶ぶりはいつも覚悟していました笑
6年生の春にその門下に入ったわたしは、その夏が合宿初参戦。新入りのお披露目の意味もあり、弦楽合奏をバックにヴィヴァルディのト長調の協奏曲を弾かせてもらいました。
あの爽やかな出だし。いつも夏になると思い出します。
弦楽合奏をいろいろする合宿なので、毎回誰かしらがソリストを務めるのもまた勉強でした。それに歳は関係なく、バラバラに、先生が今この子に必要と思ったら指名。
各学年ひとりいるかいないかのこじんまり所帯でしたので、ゆるゆると楽しかったなぁ。
近年は様々な事情が重なって開催できていません。われわれも大学生になったことだし、今度は事務的な面で先生の手を煩わせずに、われわれ主体でできたらいいんですけどね。。
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real-sail · 3 years
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二度目のロックダウン
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目覚ましの音に気づいて瞼を開けると、窓からの光が視界をつんざく。ロンドンは秋の雨季にあって、その日はすっきりとした快晴だった。二度目のロックダウンの前日の話だ。
昨晩はメールの返信を打ちながらキーボードに頭を突っ込むようにして寝ていた。夜中の1時過ぎになって意識を取り戻して、そこから寝支度をしたことを思い出す。半端なうたた寝を挟んだあとで迎える朝の目覚めは正直良くないが、時間にしては充分に寝ている。マグカップに牛乳を汲んで、沸かしたお湯を茶葉にくぐらせる。おととい焼いて積んでおいたスコーンを手にとってラズベリージャムを乗せ、寝ぼけ眼のまま口に詰め込む。傍らに残る紅茶をだらだらとすすりながら、朝のメールチェックをし、着替えて、10時からのオンラインのミーティングをこなす。1時間半弱で通話を終えると、遅ればせながらシャワーを浴びて出かける支度をする。何を思ったかせっかくだからと、この秋に新しく買ったジンジャー色のツイードの古着のジャケットを羽織った。
論文を書くために借りていた本の1冊に、返却期限の知らせが来ていたのはきのうの話、昨今は本を借りるにもあらかじめすべての書物をオンラインで予約し、受け取りも返却も日時を指定してスロットを確保してからでないと行かれない。学校の図書館に着くと、水曜日と書かれた大きな荷物カゴに本を入れるよう指示を受けた。この箱で3日過ごすのが、借りられた本たちの"自主隔離"である。去り際に見た校舎の前面に注ぐ日差しが、いかにも秋晴れらしい、静かな美しさを湛えていた。
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ロックダウン前にせめて食べておきたいと心を決めて近くのサンドイッチ店に向かうと、今回のロックダウンでは持ち帰りのみで営業を続けるという看板を見つけて安堵する。アクリルのバリア越しに注文すると、受けてくれた女性に「Take away, isn’t it?(持ち帰りだよね?)」と言われて、いい加減に顔を覚えられたことを知る。いつも同じものを頼むアジア人だから覚えやすかったかもしれない。コロネーションチキンのサンドイッチとアールグレイを頼み、お茶係のお兄さんに「ティーバッグは入れておく?出す?」と聞かれたり、「手持ちだとちょっと熱いかも、まあ大丈夫かな」と言われたりした。
ふらふらとベンチを探して歩いた。お昼時で近くの公園はたくさんの学生が集っていて落ち着かなかったので、結局学校の近くまで戻ってリージェンツパークのベンチに腰掛ける。ふいに鳩がベンチにやってきて、わたしの膝頭に乗って首を傾げる。野生動物に餌を与えてはいけない。知っていながら、でも明日からロックダウンだし、という関係のない理由を持ち出して、具の色が付いていないパンの耳を、膝から降りた鳩にめがけて放った。すると想像だにしない速さで何十羽もの鳩が駆けつけてきて恐怖を覚えた。7年間通学時に歩いた上野公園で毎朝聞いていたはずの「公園内の、ハトにエサを与えないでください」というアナウンスが、何ら学習効果を生まないことを知る。すると今度はその群れが一斉に飛び立つので、二度恐怖を覚えた。安心して続きを食べ始めたらじわじわと鳩が戻ってきて、ベンチの周りを包囲する。中には背もたれやわたしの膝に寄ってくるものもいた。じっと正面から見つめるとやがて去っていくけれど、しばらくびくびくとしながら、でも動くのも面倒だと思って食べ続けていたら、鳩たちは諦めてまた群れで飛んでいった。
日差しを浴びながら紅茶をすすり、ぼんやりとメールやSNSを見た。もう何通目かわからないライブ配信のスカウトのメールを開いて、一旦目を通すも、特に目新しいことはなく、消すでもなく、返信するでもなく画面を戻す。SNSには、今日も誰かの旅先の写真と、誰かの食事と、誰かの演奏の動画が並んでいた。自分はしばし投稿をこしらえていなかったが、それだって10日くらいのことだ。米国大統領選の開票の経過も、ちょうど届き始めていた。まだどちらとも言えなかった。ベンチから立ち上がって紅茶を飲み干して、スーパーマーケットに向かう。この数日を過ごすための買い置きは月曜日に済んでいたけれど、家の近くのスーパーでは売っていないものをちょこっと買い足したくて、 Waitrose に入った。前回のロックダウンの時と違って、極端に品薄なものはない。パスタも小麦粉もあった。店内も落ち着いている。でも会計を済ませて店を出た時には入店制限がかかっていて、待機の列ができていた。
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朝からやや貧血気味で、立ったり座ったりするたびにクラクラとしていたせいで、スーパーを出て歩く道すがらも、ちょっと地に足がついていない感じがした。最近はまっている『勝手にしやがれ』の歌詞「お前がフラフラ行くのが見える」を思い出す。平日の午後にしてはなぜか人が多かった。もしかしたら、ロックダウン前の最後の邂逅を楽しむ人たちだったのだろうか。屋外でなら誰とでも会うことを許されていた世界が、明日からはより絞られて、屋外でも決まったひとりにしか会えないらしい。それがどういうケースに対応するためのひとりなのか未だによくわかっていないけれど、そのルールがあることで救われる人がいるのだろう。一旦家に荷物を置きに戻ると、部屋に飾った小さなラッパスイセンと目があった。本当の春はまだ遠い。
結局いまいち貧血気味のままで移動が辛かったので、そのままUberを呼んで家庭教師をしている生徒宅に向かう。まだ16時台だからラッシュ前かと思いきや恐ろしく道路が混んでいて、運転手がややいらいらしていた。わたしに詫びながらUターンや細い裏道を駆使してくれて有り難い反面、運転中にいらいらする人を見るのはあまり心地よくないとも思った。でもその努力には感謝したいので降車時に1ポンドのチップを上乗せした。最後に交わした「Have a nice evening.」「Thanks, you, too.」というあいさつが、儀礼的なものであるのは知りながら、この期に及んで nice evening って何だろうという疑問は頭を掠める。ロックダウン下でもタクシーは人を運ぶだろうが、運転手にとって明日からはどんな日々なのだろうか。
とはいえ、電車のほうが早く着いただろうな、裏目に出たな、と思いながら、遅刻を詫びつつ今日の宿題を確認する。子供の口からも出てくる、明日からロックダウンという言葉。でも子供たちは明日からも学校に変わらず通う。政府のガイドラインだと大学はオンラインの割合を増やすことを推奨しているので、わたしは家にいる時間が増えるだろう。ロックダウンは結局何かと言えば、緊急性の低い物を取り扱う商店は閉めなければいけないわけで、そうなるとさすがに何かが恋しくなるかもしれないと思ったが、お昼ご飯を買うときにブティック街を通過したにも関わらず、何も買わなかった。ヤケ買いするほどの気力もなければ、買って気分を高揚させようと思うほどのモチベーションも特にない。強いて言えば Dyptique の前で蝋燭を買おうか悩んだが、そういえばマッチを持っていないことを思い出して、やめた。どこのブティックも、暇そうに店番をする人たちが目に入った。いつもより通りで物乞いをするホームレスも多い。キャッシュレス生活でなけなしの小銭しかなかったが、ブランケットに包まるやや若い男性の前を一度通り過ぎてから、思い直して紙コップにいくらか入れた。その道の先で別のホームレスに、わたしとまったく同じ行動を取った女性を見かけた。
あるいは飲食店が持ち帰りしかできなくなることもあって、道々のレストランでは最後の外食を楽しむ人がかなり多く見受けられ、わたしも本当はちょっとだけ、自分では作れないこってりラーメンを食べて帰りたい気持ちが芽生えたけれど、いかんせん直近に大陸側で起こったことも考慮してきのうからテロ警戒レベルが引き上げられていたので、用事を終えたらまっすぐ帰るが吉と見て、すっかり日暮れが早くなった街で、一路に家を目指した。特に何ほどのことはない、何でもない1日ではあった。それでもどこかずっとのしかかってくるものがあって、上の空とも違うけれど、半ば目の前に意識がなかったような気がする。明日からどうやって過ごそう、いや、別に自分の生活はそもそも通常営業ではなかったから何を今さら、と思いつつ、やっぱり、メンタルのケアをしていく必要は高そうだと思わずにはいられない。やっとやっと、コンサートなんかもできるようになりつつあった10月だった。そこから悪夢の Second Lockdown までの急降下はあっけなかった。前回だって、まずは2週間くらいを目処に始めたロックダウンだったし、結果3か月強続いた。少なく見積もったところで今回も同じだけの時間はかかるだろう。
たまには、たとえ不急でも、お気に入りのサンドイッチを買いに行っても良いだろうか。お店が潰れるところは見たくない。そんな文字を打つ間、わたしの耳は街角で上げられている花火の音を捉える。ハロウィンの名残か、あるいは本来だったら明日は Bon Fire Night ガイフォークス・デーだから、どさくさに紛れてふざけた市民が上げていることは想像に難くない。褒めはしないけれど、どうにか発散したい気持ちはわからないわけではない。どうか、そんなあなたも、ホームレスの人も、タクシーの運転手さんも、サンドイッチ屋さんも、図書館の司書さんも、ブティックで暇そうにしていた皆さんも、どうかどうか、みんな無事でいてほしい。
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real-sail · 3 years
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長い冬眠のような年の終わりに
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ウイルスとの闘いはあっという間に世界中を巻き込んで、わたしたちは社会的距離というものを取ることが日常になった。意思の疎通は五感のうち視覚と聴覚に頼るものが増えて、意思の表明は空気の振動よりも電気信号に寄るところが多くなった。しかし、触覚が、嗅覚が、味覚が担った間(あわい)を失い、骨と皮をまとって外界と接することを許されなくなった魂は、かえって電脳社会に剥き出しのままで晒されている。
それが1と0の数列で作られた、ただの薄っぺらい情報の表れであったにしても、誰かの温度を感じることを広く遠くまで可能にしたインターネットには感謝せざるをえない。手のひらの端末から出てわたしの鼓膜を揺らす周波数は確かにあの人のものだし、目に刺さるようなブルーライトの中に浮かぶ文字の羅列は、確かにあの人とわたしの化学反応だ。
自分の手の内にあるカードを効果的に切っていくことだけが心身を助く。自分の持ち札を誇示するでもなく、持たない札を憂うでもなく、今手にあるものを愛でる。足るを知るの意味を、今までの自分は熟考する必要すらなかった。蟄居は内省を促す。いくら手狭な部屋と言えども、果たして持ち物それ全てを最大限に生かしているかといえば否、先ず隗より始めよとはこのことである。
何かを成したいと思い立ったときに、人は得てして「足す」ことに努めるのだが、まずは今ある手札に目を向けたほうが良い。自分の浅学を嘆く暇があるなら、書棚にある未読の本をひとつでも片付けるべきなのだ。そうして初めて、本当に「足す」べきものが何であるか、わかるように思う。
もちろん一刻も早くもとのように暮らしたいと願って止まないし、もとい「いつかはもとのように暮らせる」という希望的観測を捨てられないわけであるが、そもそもいざ平時の暮らしから逸脱してみれば、その日を安全運転で凌ぐことが何より最優先で、それ以上の意識を持つのはとても難しい。この時間を停滞にしてはいけないという焦燥感の反面、衰退していないことを寿ぎたいくらいだ。この長い冬眠から覚めるまでに、どんな夢を見られるだろう。
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